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橋爪の「津島神社」から犬山城方面に向け稲置街道を北へ。街道を横切る名鉄犬山線の踏切、踏切右の駅が「犬山口駅」。次の目的地は踏切を超え、街道と交わる県道64号線「出来町」交差点の左手前に鎮座する「秋葉三尺坊大権現」「出来町」交差点の少し手前、街道の名残を感じさせる家並みの中に西に伸びる細い参道があります。街道からだと「秋葉山」と書かれた黒い常夜灯と黒ずんだ「秋葉三尺坊大士堂」の石標しか目に留まらないかもしれない。よく見れば細い参道の奥には石の鳥居と赤い鳥居が見えている。車だと一瞬で通り過ぎてしまい見つけにくいかもしれない。石標は即位式記念とあり、大正天皇即位を祝い大正4年に建之のもの。一ノ鳥居から社殿の眺め。両脇には民家が迫り、奥に広まりを感じさせる。鳥居にも即位記念とある。参道左に大正末期に奉納された鬼瓦。本堂は令和元年に改修を受けたようで、その際保存されたもの。ニノ鳥居。手前に手水舎と一対の常夜灯がある。ニノ鳥居から本堂の眺め、左には赤い幟が見て取れる。参道から想像もしなかったけれど、奥は南北に広く境内には複数の車が止められていた。本堂右に県道と接する間口があり、そこから出入りできる様だ。境内全景。二つ目の常夜灯、こちらの常夜灯も外周は倒壊防止の鉄製の枠で囲まれている。本堂は入母屋瓦葺で、向拝が付き唐破風も施される。狛犬は比較的新しく綺麗に彩色されたもの。参道に置かれていた大正時代の鬼瓦の意匠と比較すると、現在のものは似ているようで随分と違いがある。向拝瓦をよく見ると隅には天狗も飾られている。向拝下の龍の飾りや、さり気なく羽団扇の紋が彫られていたりと、作り手の拘りが伝わってくる。犬山市寺社一覧によればこちらの由緒について以下のように紹介されています。「真言宗豊山派 秋葉教会明和元年(1764)薬師寺の秋葉宮を移築し明治14年大士堂と公称、昭和27年改称す本尊 秋葉三尺坊」秋葉三尺坊、約1300年前に長野県戸隠で生まれ、蔵王権現堂十二坊の一つ三尺坊で修行を極め、自由自在に火を司る奥義を会得、火防や人々の迷いや苦しみから救ってくれる。秋葉三尺坊大士堂の石標、法人名が秋葉教会、以降は「秋葉教会」としよう。秋葉教会本堂左は玉光稲荷大明神。詳細は不明。小さな社ですが手が込んでいて、入母屋に千鳥破風、唐破風向拝が付き、向拝下や廻縁の下などにも彫が施されている。本殿域。手前と奥に狛狐が守護していますが、奥の狐は古びた色合いで首が長く痩せ寂寥感が漂うもの。秋葉教会本堂から鳥居方向の眺め。御神木は楠木、まだまだ大きくなり、やがてこの町のシンボルとなるだろう。2021/3/9秋葉教会創建 / 明和元年(1764)本尊 / 秋葉三尺坊所在地 / 犬山市犬山南古券155-1玉光稲荷大明神創建 / 不明本尊 / 不明関連記事 / 稲置街道 橋爪『津島神社』
2021.04.29
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富山県砺波市の越中國一之宮高瀬神社を後にして、射水市内のラーメン屋を目指す。土地勘もなく当然のように道に迷う、今回はその時に出逢った「黒河神社」を掲載します。西に古矢部川と庄川が流れ、東に神通川と石川や岐阜を源にする大きな河川が作り出した平野には水田が広がる、「黒河神社」は庄川と神通川の中間にあたる射水平野に鎮座します。20~30分も走れば富山湾も間近。神社南側の丘陵地は宅地化され、北側に水田が多くみられる。ニノ鳥居から境内の眺め。帰り際に気付いた事だけどこの手前には一ノ鳥居と社号標がありました。南向きに鳥居を構える社地は広大そのもの、外周は綺麗な玉垣で囲われ、社殿を杉(?)の杜が取り囲む。近くに保育園があるようで境内は彼らのお散歩コース、境内ではちびっこ達が走り回り先生も大変だ。そんな中お邪魔する格好になった。ニノ鳥居は石の明神鳥居で額は「黒河神社」とある。この辺りの地名は射水市黒河、この神社から来た地名なのか、地名から来た社名なのかは分からないけれど、この一帯で崇敬されてきた神社。境内は桜も多々あり、時期になると境内が桜で彩られる事だろう。訪れたのが3月23日、流石に桜の花には早いけれど、蕾はしっかり膨らんでいた。鳥居手前の狛犬。やけに大きな球に乗りかかる様は座っている姿よりも躍動感があっていいかもしれない。肉付きも良く逞しさが現れている。子供達が走り回る合間を縫って拝殿の全景。入母屋妻入りで向拝を持つ拝殿は堂々としたもので、過度な飾りはない。境内左から眺める社殿。正面からは見えなかったけれど、左右に千鳥破風が付く凝った造り。軒下は全て透明のパネルで覆われ、ガラス張りのように見える。手水舎、手水鉢があるも張られていなかった。高床式の拝殿。パネルが輝き、まるでサンルームのようだ。拝殿甍覆と千木、男神?、女神?あまり見た事のない削ぎ、何と云うのだろう。外観同様、木の質感を生かしたシンプルな拝殿額。参拝。境内には由緒書きが見当たらず、詳細は不明。主祭神は天照皇大神,豊受大神,加茂建角身神(下神神社の祭神)黒河神社は古くからこの地に鎮座していた「神明社」が改称したもののようです。明治から大正にかけて近隣に鎮座した加茂社や神明社を合祀して昭和に入ってから現在の「黒河神社」に改称されたようです。拝殿右から本殿方向の眺め。拝殿と幣殿が一体になった複合社殿のように見えます、本殿は流造のようです。本殿。こちらも陽光を反射し光り輝くパネルで覆われています。本殿前を小ぶりな狛犬が守護しています。小ぶりながら後ろ足を延ばし、前足は両手で大きな球を抑え込み、尾は真っすぐ上に立っています。なかなかこの姿勢、格好いいかもしれない。本殿から拝殿方向の眺め。参拝を終え、車に戻る際に前方に一ノ鳥居がある事に気づく。鳥居の右には古い社号標があり「村社神明社」とあった。こちらの神社で8月第4土曜日に行われる「黒河夜高祭り」は射水市の指定文化財に指定されているようで、黒河神社の一帯の道路を歩行者専用にして、多くのぼんぼりや提灯を掲げ練り歩き、他にも様々な行事が執り行われ賑わうそうだ。江戸時代から伝わるとされ、お囃子のなか、子ども達は行灯を持ち、無病息災・豊作を祈願し町内を練り歩くものだそうだ。そうした伝統もあり、境内を走り回っている園児達は「黒河神社」を身近に感じていくのかもしれない。私たちが参拝を終え立ち去る時、彼らも園に戻る時間だったのだろう、先生と園児がそろって拝殿に向かいお辞儀をして帰る光景を見た、この子達が伝統を受け継いでいってくれるのだろう。子供の姿がない神社は妙に寂しいものがある。2021/3/23「黒河神社」創建 / 不明主祭神 / 天照皇大神,豊受大神,加茂建角身神所在地 / 富山県射水市黒河3861関連記事 / 越中一宮「高瀬神社」高瀬神社からアクセス / 北陸自動車道砺波ICから小杉IC⇒県道367号線⇒県道31号線経由約40分程
2021.04.28
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ついに1万人の尊い命が失われた この事は忘れてはいけない1万の命より重いものとは一体何ですか あとどれだけの命がほしいのか
2021.04.27
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道の駅 たいじ車中泊で熊野三山を巡った際に利用させて頂いた「道の駅 たいじ」今回はこちらを取り上げます。まずは所在地が和歌山県東牟婁郡太地町大字森浦143番地。以前掲載した「補陀洛山寺」、そこの近くの「エーコープなち」で晩御飯と地酒を買い求め、国道42号線を20分程南下する。太地方向に向かう県道240号線と分岐する「森浦」という三叉路があります。「道の駅 たいじ」はこの三叉路にあります。「エーコープなち」では普段買えないような価格で新鮮な魚介類や総菜が手に入り、買いすぎとも思えるくらい調達、車中泊の楽しみの一つでもある。太地町は和歌山県南部に位置し県内では一番小さな町だそうだ。その町の玄関先に位置するのがこの「道の駅たいじ」買い出しを終え到着した頃は既に日没間際、空が赤く染まり始めていた。道の駅に掲げられたマップ。サイクリング押しのようで、以前高野山を訪れた際に利用した道の駅でもこうしたマップを見た。遠くから車に自転車を積み、早朝ツーリングを楽しむ光景が見られた。道の駅「たいじ」2017年にでき、外観も設備も新しい綺麗な道の駅。当初予定していた道の駅「なち」と比較すると周辺には食事処も銭湯やコンビニなど何もない。食事は買い求めておく必要がありそうです。それさえ準備しておけば山と海が望める静かなロケーションです。ここの売りは喫茶店が朝7:00からモーニングをやっている事、朝の事を考えなくても済む。直売所は9:00からですが毎朝、地元で採れた海産物や農産物、惣菜が集まってきます。太地と云えばクジラやイルカで知られるが、「くじら」なども売られている。日没迫るパーキング、宿泊態勢も整い車中で宴会するだけだ。私らが停めた場所は赤丸部分。以前の経験で夜中に横付けしたトラックのエンジンが一晩中回りっぱなしで、寝れなかった事もあり、トラックが停めにくい場所にしたつもり。本州最南端の酒蔵「尾崎酒造」の「太平洋」。ここに来る途中に酒蔵がありますが、日曜はお休みという事で諦めた。太平洋 「生貯蔵酒」はすっきりとした喉越しで寿司にあう。もう一本の「山廃仕込特別純米酒」こちらは少し濃厚な風味で香りも主張してくる。こちらは肉系の摘みにあいそうだ。(写真は自宅用に改めて買い求めたもの)施設が新しく、女性には快適な道の駅だと思います。ベビーシートやベビーチェアもあり子供と一緒でも安心で出来る。写真は男子トイレ、covid19の影響でエアドライヤは使用できませんが道の駅とは思えない程綺麗だ。施設はFree Wi-Fiも完備されている。ただ車の中でTVを見ようとすると意外につかまらない立地のようです。綺麗な星空を堪能するいいチャンスかも知れない。翌朝の光景、昨晩は騒音で悩まされることはなく、電気毛布のおかげで寒くもなく快適に寝られました。写真は道の駅から右が県道240号線、正面が昨日走ってきた国道42号線。こちらから朝陽が上がるはずでしょうが、半島の影となりそうだ。朝が早いのは年のせい、その代わり朝焼けのご褒美や周辺を散策する余裕が生まれる。どこにいってもこんな感じで、楽しみな時間でもある。正面に見える湾は森浦湾。太地町はこの半島の裏側、県道240号線が伸びていく、右側に太地のシンボルともいえるクジラのモニュメントが見える。道の駅は国道と森浦湾に注ぐ与根子川の左岸に位置し、三方を山で囲まれている。日が差し込むのは結構遅い。駐車場では未だ皆さん熟睡の様です。「道の駅 たいじ」車中泊で利用される方のマナーも良く施設も新しい。次に利用できなくなる行為だけは避けたいものです。与根子川。 見えるだろうか、これボラではなく全てキビレ、この時間彼らは群れをなし悠々と回遊している。見える魚は釣れないと云う、それは分かっていても、釣りがしたくなるものだ。ルアーかワーム、フライでも良いかもしれない。朝のひと時、魚と知恵比べができそうな環境です。車に竿は積んでおきたいアイテムだ。かみさんはまだ起きていないようだ。昨日、道の駅に入る少し手前で小さな神社を見かけました、そこまで行ってみるか。2021/2/21「道の駅 たいじ」所在地 / 和歌山県東牟婁郡太地町大字森浦143番地の1車アクセス / 名古屋 ➡ 東名阪道・伊勢道 ➡勢和多気IC➡熊野大泊IC ➡国道42号 ➡ 太地関連記事 / 補陀洛(ふだらく)山寺と熊野三所大神社補陀洛山寺から車アクセス / 国道42号線南下15分程
2021.04.27
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今日は市長選挙だ棄権はしない今回の対抗馬の選挙カーから聞こえて来た「みなさあ~ん、商品券欲しいですよねぇ~、お金はあるんですぅ」なんじゃこの候補者こんな候補者には絶対当選してもらいたくない当選させたい人がいない者から見れば、棄権しかなかろうが棄権はしない当選させたい人を投票する投票もいいけれどなってもらいたくない人の投票もさせてほしいものだ次期選挙も棄権はしない選挙は行こう!
2021.04.25
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車中泊で富山県の神社を巡った際、道の駅氷見から5分程の氷見魚市場の二階にあるお店。「魚市場食堂」を記載しよう。昔から肉より魚を好む者として、ここはなかなか印象に残るお店でした。所在地は富山県氷見市比美町435、氷見漁港の魚市場にあるという事は、間違いなく富山で一番獲れたての魚を提供しているといっていいでしょう。漁協関係者の方も利用するので早朝は6:30から営業しています。氷見魚市場の南側に店の入口があります。「魚市場食堂」の幟とこの看板が目印。お店は中に入り階段を上った二階、卸売市場の見学通路にあります。既に今朝の卸は終わったようです。氷見と云うと「氷見の寒鰤」ですが、氷見の寒鰤は大きさや重さ等の要件を満たしたものだけが「氷見の寒鰤」として呼ばれるそうで、訪れた3月末は既にピークを過ぎています。とはいっても、ここはその時々で一番おいしい魚が真っ先に水揚げされます。「魚市場食堂」はここで水揚げされた素材を仕入れているので鮮度は折り紙付き。見学通路の先に店舗入り口。観光客も訪れる事もあり、タイミングによっては待ちがあるようです。市場併設という事で入店前の正直なイメージは飾り気のない店内かと思い込んでいたが、店内は至って明るく綺麗なお店の印象を受けた。また、厨房もしっかり見せているので安心感がある。店内奥の様子、壁にはサイン色紙もあり結構知られているようです。焼き肉屋をイメージさせるカセットコンロが各テーブルに置かれていて、後にその理由を知る事になる。メニューは色々ありますが、テーブルのメニューで決め打ちしました。鰤を引きずっていたかみさんは鰤狙い、自分は左の「いわし」で決まり。いわし定食とやわやわ盛りをそれぞれ注文。いわし定食。流通事情もよくなり身近でも見かける様になりましたが、釣ったばかりのいわしの味を知っているとスーパーで並ぶものは何か少しが違う。もともと体調が低下している時、鮮度の落ちた靑魚を食べるとその瞬間に全身蕁麻疹が出てしまう体質なので、自分で買うものは品定めも出来ますが、お店で出されるものはそれも出来ない。なので滅多に知らないお店で靑魚の刺身は頼まないけれど、「漁港の食堂で提供するもの」は信頼できる。綺麗に撮ってやりたいが、実物は食欲を誘うもの。さんま、さば、いわし等の刺身、自分の体質を知っていてもやめられない。大振りのいわしを使い、程よく脂がのった大きな切身。絶品だ。蕁麻疹センサーが反応するわけがない。かみさんの「やわやわ盛り」鰤とその日揚がったお勧めの魚を使った刺身がてんこ盛り店員さんは「これは〇△のお刺身で・・・・」と教えてくれるのだが食べる時には覚えているわけもなく、かみさんの感想ではこちらも絶品だったという。因みに肉派のかみさんは魚も食べるが靑魚が苦手な人だ、我が家の食卓に靑魚は滅多に出ない。この量たるや、朝御飯です。「お待たせしました」と運ばれて来た土鍋。待たされてはいないが・・・と思っていたが、店内のメニューをよく見ると「もれなく漁師汁が付きます」とある。テーブルのコンロはこの漁師汁を温めるための必需品。この量たるや、ボリューム満点で食べきれない、これ朝御飯です。鰤のあらからでた旨味は、つくねや野菜に浸み込み結構食べきれてしまった。温かくなった3月とはいえ、氷見での車中泊の朝は肌寒い、この温もりはありがたい。お腹も満たされ、外の景色を眺める。水揚げも終わり閑散とした漁港、空にはおこぼれを求めて鳶や烏が空中戦を繰り広げていた。水揚げ時は彼らにとっても朝飯時だ。前日に地元スーパーで晩御飯を買いに寄ったが、駐車場に大きく「とんびに注意」の看板があった。店から車まで食材を運ぶ際に鳶が持ちさるようだ。あの看板撮っていないか探してみるも見当たらない、地元の方にとっては面白いでは済まないだろうが、土地柄ならではの面白い看板だったと思う。2021/03/24「魚市場食堂」所在地 / 富山県氷見市比美町435 (地方卸売市場氷見魚市場2F)営業時間 / 朝6:30から定休日 / 年中無休℡ / 0766-72-2018道の駅氷見から車アクセス / 道の駅から5分程南下関連記事 / 0323.24 越中國、能登國、加賀國一之宮巡り最近再燃している流行のキャンプ、海辺の設営は彼らの存在を思い出す必要がありそうだ。山は猿・熊・蛇・猪、彼らのテリトリーにお邪魔しているのがキャンパーです。でも一番怖いのは人かもしれないね、機会があれば体験談を書いて見よう。
2021.04.25
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御国の対応が見える形でやってきた。一瞬で予約はいっぱいの様で、夕刻にネット見ると6月末(夏)まで予約済み。自分より買い物などで密と出会う機会の多いかみさんに打たせてやりたいところ。6月末だと一般接種も始まるのか、一緒かぁ。その頃は相手が変わっていそうだな。既にワクチン接種済みの親方様の会見を聞いた。随分と軽々と頭を下げる方だ。「責任」とか「人の命」だとか「施策」などの心にもない綺麗ごとは聞き飽きた。大本営の取り巻き含め、腹も切らないようだ。このままでは資源や食料もワクチンも水源すら(国土)握られそうな。リーダー不在の持たぬ国、戦略なき国は某国のシナリヲ通りとなりそうだ。自立できる「大きな国」は永遠に訪れないような気がしてきた。若い者はいないのか?
2021.04.24
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楽田駅から犬山城を目指し稲置街道を歩いていますが、橋爪付近を歩いていると東の県道27号線との間に神明鳥居と大きな石灯籠が見えてきます。犬山市橋爪の津島神社です。ここまで訪れた個所をルートに落としてみました。ゴールの犬山城や木曽川も近づいて来ました。住宅地に鎮座する津島神社、間口が広く通りから境内は一望できます。参拝者駐車場はなく、通りは路上駐車する幅員はありません。車で訪れるには不向き。通りから見る境内全景。玉砂利が敷かれた参道、神明鳥居の先は茶色の屋根の蕃塀が配され、奥に入母屋妻入りの拝殿が見通せます。白い鳥居と茶と緑青の緑とコントラストが鮮やか、靑い空がないのは残念。鳥居は1911年(明治44)建之。境内右の手水舎は二脚で控え柱を持つもの。舟形の自然石を用いた手水鉢、ここには龍はいない、そしてやはり清水がはられていません。木造の蕃塀は手水舎同様控え柱がっしりと支えています。後方には大きく立派な石燈籠が2対あるようです。後方に第二の蕃塀とでも言うかフェンスがある、容易に察しがつくけれど、子供たちの遊び場になっているのかも知れない。銅葺屋根で入母屋妻入りの四方吹き抜け拝殿で、拝殿前には古びた狛犬。正面から見る屋根の反りが美しい、過度な装飾を避けた落ち着いた佇まい。拝殿から本殿は長い渡廊で繋がり、本殿の三方は杜が取り囲んでいます。古びて風格すら感じさせる狛犬、台座には1915年(大正9)と刻まれていた。大きく口を開けた「あっ」形、災害か戦災分かりませんが、体の一部は罅が入り補修の跡が痛々しい。拝殿から本殿方向の眺め、左右に境内社もあるようです。参拝させてもらいます。この神社の由緒書きはなく、創建等の詳細は不明です、地誌に目を通し何か出てくればここに追記する事にします。祭神は須佐之男命。拝殿右の境内社、こちらも詳細は分かりません。拝殿から幣殿、本殿は渡廊が繋き、左には石標がある。左側から見る本殿は銅葺の流れ造りの様ですが、本殿域は見通せません。大きな岩が組まれ如何にもという雰囲気。ここには御嶽大神、御嶽大権現、氏神、山神等の石標があり、其々に紙垂が下げられた注連縄がかけらています。『津島神社』は町内や氏子の方々により綺麗に手入れされ、参拝者を気持ちよく迎えてくれます。稲置街道 橋爪『津島神社』創建 / 不明祭神 / 須佐之男命所在地 / 愛知県犬山市橋爪西浦29徒歩アクセス / 山の子社から稲置街道を北上、5分程関連記事 / 稲置街道「山の子社」上は津島社から稲置街道を2~3分程北上した橋爪清水下付近で見かけた「水神様」
2021.04.24
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2020/04/18壁紙画材を探しに地下鉄桜通線「車道」からJR中央線沿いを大曽根方向に歩い見た。この日は「狐の嫁入り」、晴れたいのか、降りたいのかはっきりしない天気。そんな天気も大松町あたりで強い降りに変り、写真の地蔵堂で雨宿りさせてもらった。直進すれば県道215号線(出来町通)、JR中央線に架かる橋梁を渡れば環状線(都通)。グーグル先生によればここは東区大松町5。以前から存在は知っていたけれど、詳細は知らないままだった。こうして訪れるのは初めて、これも何かの縁だろう。鉛色の空の下、歩道に植えられた花もしっとりとした色合いを見せている。正面に見えているのは「法恩寺」、真宗のお寺の様です。この御堂の事はこちらに尋ねると分かるのかもしれない。堂全景。左手に小さな社があり、右手には手水鉢もある。堂の入口左に狐の絵馬が吊るされていました。手水鉢の傍らに馬頭観音。地蔵さんらしき姿と行者像も安置されているようですが、地蔵堂なのか呼び名はよく分からない。ここに狐はいないようです。左の小社も社名札はなく詳細不明。何だろう、あの絵馬は、ここから少し北に鎮座する大松の稲荷神社のものかな。この社が稲荷社なのかも分からない。立派なひげを蓄えている様に見え、左手に宝球、右手に杖を持つ石像、どなたでしょうか。この地蔵堂(仮称)について誰かに聞ければいいのだが、こんな天気なので人通りもない。分からない事ばかりですっきりしない。雨宿りさせてもらえただけでもありがたいと思うか。橋梁のフェンスの上で雨が通り過ぎるのをじつと待つ者がここにもいた。しばらく経ち雨も小降りになってきた、このまま先に進むのは諦め、潔く家に戻ろう。東区大松町5 地蔵堂(仮称)建立 / 不明所在地 / 名古屋市東区大松町5公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」から中央線西側沿いを徒歩15分関連記事 / 『須佐之男神社』千種公園周辺を歩いてみた
2021.04.22
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白美龍神社を後に国道302号線を南下、国道153号線と交わる「梅が丘」交差点を左折、しばらく153号線を走り「梅森西」交差点で左折、県道221号線へ。左折して進行方向右側にこんもりと杜が見えています、目的地の梅森「八幡社」です。「米田珈琲」の北側を右折すれば社頭の駐車場が左にあります。それにしてもこの辺りの環境の様変わりの凄まじいこと。上は明治頃の牧野ヶ池と八幡社の地図。少し前は山と水田、造成地が広がり、オフロードバイクで走り回っていた道などさっぱり分からなくなった。外食に困る事もなく、名古屋市内に比べても充実し羨ましいくらいだ。車さえあれば住みやすそうな街が広がっている。交通量の多い県道沿いに面していながら、八幡社の杜はその喧噪を随分と打ち消してくれている。社地外周を新し目の玉垣が取り囲んでいます。社頭で最初に目につくのが木造の笠木の曲線が綺麗な両部鳥居。そこから先は僅かな石段が境内へ続いています。石段の左に社号標があり、鳥居の先には拝殿千鳥破風が見えています。石段付近の玉垣竣工碑、1980年に奉納されたものの様です。八幡社の由緒書きは見当たりませんでしたが、尾張志(1844年)、寛文村々覚書(寛文年間)に記録が残り創建となるとさらに遡りそうです。明治の地図からも分るように、山と水田が広がり、そこに集落が点在し村の氏神さまとして古くから崇敬されてきた。社殿は1945年戦災で焼失、後に1947年(昭和22)、1980年(昭和55年)、2003年(平成15)と氏子の支援もあり復旧・改修が行われ現在に至っているようです。境内全景。社頭から拝殿まで真っすぐに石段が続き、表通りの喧騒は嘘のよう、静かで明るく広い境内を持っています。境内は周辺の子供達の遊び場でもあるようで、多くの子供たちが鬼ごっこでもやっているのだろう、木々や狛犬の影から突然現れる、彼らの縄張りに挨拶もなく怪しいおやじが訪れれば無理もないだろう。お邪魔させていただきますよ。境内左に手水舎、ここが彼らの基地のようだ。八幡社拝殿全景。瓦葺の入母屋造りで千鳥破風が施され、拝殿と幣殿が繋がり、その先に流造の本殿。拝殿は左の社務所と廊下で繋がっている、子供の気配はいっぱいあるが大人の気配を感じられない。拝殿に掲げられた八幡社の額、鈴紐は外されています。八幡社ということ、祭神は品陀和気命(応神天皇)で間違いないだろう。拝殿から本殿方向の眺め、木の色合いと漆喰の白の色合いは気持ちが洗われるような清々しさがある。まずは参拝しよう、僅かな賽銭大きな願い・・・・・。拝殿右から幣殿と本殿、落ち着いた趣のある佇まい。右に小さな社があります。御伊勢様所謂、神明社だろう、石垣が高く積まれた台座の上に板宮造りの小さな社鎮座しています。そのまま、本殿域後方に回り込めるのでひと回りしてみます。西側から本殿、幣殿、拝殿を眺める。こうして見ると拝殿だけは瓦葺。境内右に入母屋瓦葺の拝殿。右に神馬像。妻入りの拝殿は四方が格子扉で囲われ、その先に狛犬が守護する流造の本殿。山神社、富士社、御鍬社、金比羅社を祀る相殿で、中に社が祀られているようです。これは拝殿というより覆殿、四方格子扉の外観は瓦屋根が重たそうだ。格子から外光が差し込み浮かび上がる社。本殿は五本の鰹木と外削ぎの千木が付く。こちらの社殿も人目を引く飾りを廃したシンプルなもの。八幡社拝殿から鳥居方向の眺め。ここは静かで落ち着ける空間です。・・・・・あんなにいた子供らはどこにいった? 石畳の上におもちゃが置いたままだ、再び隠れたか?手水舎の奥に造営記念碑と旧社号標、子供らを見守るように忠霊社祀られている。鳥居から望む田畑の向うに天白川が流れ、その遥か先にはビルの立ち並ぶ街が広がる。まだまだ田園風景と小魚が泳ぐ川が残っている。遊びのお邪魔をしてしまった、怪しいおやじは退散しよう。梅森台「八幡社」創建 / 不明、尾張志(1844年)、寛文村々覚書(寛文年間)に記録が残る祭神 / 品陀和気命(応神天皇)境内社 / 御伊勢様(神明社)、山神社、富士社、御鍬社、金比羅社、忠霊社所在地 / 愛知県日進市梅森台1-177 白美龍神社から車アクセス / 国道302号線⇒国道153号線⇒県道221号線 所要時間10分程関連記事 / 白美龍神社
2021.04.21
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神倉神社ゴトビキ岩から無事に戻り、帰りに参道脇の出雲大社新宮教会へ参拝させてもらいました。写真は神倉神社新橋です、出雲大社(いづもおおやしろ)新宮教会はこの手前左側に鎮座しています。神橋の袂にある下馬標石の右に白い花が咲き誇っていました。2月21日、名古屋では開花もしていな時期、一足早く春を感じさせてもらいました。やけに雄しべが長いけれど花弁の先端に窪みがあるようなので、恐らく桜だろうか?出雲大社(いづもおおやしろ)新宮教会の社頭全景。神橋の手前25㍍程の参道沿いに写真の出雲大社(いづもおおやしろ)新宮教会が鎮座します。参道沿いに鳥居を構ていますが訪れる参拝客は少ないようです。白い明神鳥居と左に社標、その奥が手水舎の様で、正面に稲荷社があるようですが、ここから出雲大社新宮教会の社殿を望むことは出来ません。出雲大社教会、あまり身近では見かけない神社なので少し調べて見ました。神社庁に属す出雲大社(おおやしろ)の境内に本部を置く、出雲大社教は神道一三派の一つ。神社庁に属さない単立宗教法人で、起こりは1882年(明治15)、当時の出雲大社大宮司の千家尊福が創設した教団なのだそうだ。千家尊福は「出雲大社敬神講」を立ち上げ布教活動を行っていたが、明治15年、明治政府は神官の布教活動を禁じたため、千家尊福は宮司の職を降り「神道大社派」を結成し初代管長として布教活動に専念する事となる、その後名称を「神道大社教」へ改称し、昭和21年「出雲大社教」に改称、昭和26年に出雲大社を宗祠とする姿で「出雲大社教」と呼び現在に至っているようです、こうした教会施設を「おしえのにわ」と呼ぶのだそうだ。主祭神は大国主大神(だいこくさま)。境内に入ると左側に手水舎、龍口から注がれるはずの清水は止められていました。いい顔つきをしているのだが、このコロナ禍では多くの龍はこうして休業状態なのだろう。境内右に掲げられた案内板。「出雲大社新宮教会 例大祭 11月23日 主祭神は大国主大神で「だいこくさま」と申し、多くの御神名を持ち古くから国造りの神、福徳の神、護国豊穣の神、縁結びの神、医療の神、医療の祖神、生産の守り神、幽冥大神とたたえ御神徳の高く広きにより深い信仰をお受けになっている。三柱稲荷神社 例大祭 3月初午祭神は倉稲魂大神、天御柱大神、国御柱大神で十津川村玉置の峰に鎮座する霊験高き玉置稲荷の分祠である。祖霊社 例大祭 春分の日、秋分の日」参道を進む、境内は奥で左に広がっていて、そこに参道に対して左を向いた社標が建っています。社標前は駐車場兼参道のようで、そこからだと拝殿が正面となり社標の向きに違和感はない。正参道はやはり鳥居側で間違いないのでしょう。拝殿は瓦葺入母屋造りの妻入りで唐破風向拝が付く。左の赤い社殿が三柱稲荷神社の覆殿。後方左手に見える山が先程上った神倉山です。出雲大社と云えば大注連縄、こちらの注連縄も社殿に対し随分立派なもの。鬼瓦や賽銭箱には「二重亀甲に大の文字」の神紋が入っています。三柱稲荷神社全景。こちらも鳥居をくぐり左に折れる配置。鳥居右に石像がある、このフォルムは・・・縁結びの神さま大黒様、和歌山県知事の揮毫のようです。鳥居をくぐり参道の突き当りに、縄の架けられた石が安置されていましたが詳細は分からなかった。三柱稲荷神社覆殿全景。いつ頃こちらに分祠されたかなど案内に書かれた内容以外詳細は分かりません。覆殿や本殿自体は比較的新しいように見られます。参道を進む参拝客は神倉神社を目指しますが、参拝帰りに訪れてみても良いかもしれない。人の気配を感じられないし、参拝しても御朱印が頂けるかもよく分かりませんが、綺麗に手入れされた境内と社殿でした。出雲大社(いづもおおやしろ)新宮教会創建 / 不明祭神 / 大国主大神境内社 / 三柱稲荷神社祭神 / 倉稲魂大神、天御柱大神、国御柱大神所在地 / 和歌山県新宮市神倉1-12関連記事 / 「神倉神社」熊野権現降臨地ゴトビキ岩は神秘的
2021.04.20
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朝は気持ちよく晴れ、多少風はあるものの これは歩くにはいい天気とばかり、地下鉄桜通線「車道」駅から中央線沿いを歩いて見た目的地を決めていなかったけれど・・・・・壁紙の写真くらい撮れればいいかなくらい あれだけ晴れていたのに地上に出る何さ、空は鉛色で霧雨の様な雨が降る、すぐ先には陽もさしていると云うのに 傘もなく、これくらいなら大丈夫! 中央線沿いを北に向かって歩きだすもっていない日のようだ、霧雨はやがて粒がはっきりし風も強くなる なんという天気中央線沿いの大松町の小さなお堂、随分前に訪れた事があるけれど、今も残っていてくれた 軒を借りて雨宿りさせてもらう雨は小降りとなるも一向に風は収まらない 進むか帰るか迷うところ結局ここから中央線を越え、素戔嗚神社経由で都通からバスで家に帰る 家の近くに戻れば陽はさし、雨も上がる・・・壁紙となる写真も結局撮れなかった なんという天気だ、狐でも嫁入りに行ったのか?
2021.04.18
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「史蹟五郎丸初生地」から県道27号線(稲置街道)を北上、国道41号線を超えてしばらく歩いていきます。やがて「万願寺」という信号のある三叉路が見えてきたらそこで左に入ります。稲置街道はここで県道から別れます。(写真は国道41号線の南側からもの)曲がってすぐ前方右側に赤い鳥居が見えてくると思います。ここが今回の経由地「山の子社」。ここまでの県道に比べ随分道幅も狭く、整備された歩道もなくなります。この道がまた結構交通量が多いので歩きスマホは危ない通り。史蹟五郎丸初生地では五郎丸の地名の由来などが分るものと期待していましたが、結局大した気づきもなく後にしました。ここ「万願寺」も同じになりそう。住所で言うとこの辺りは五郎丸字万願寺となるようです。交差点名が地名とは言い切れませんが「万願寺」とあれば、当然ながら寺があるかと思いますが、現在ここに「万願寺」は存在しません。グーグルマップによれば、寺はないけれど「万願寺碑」と云うものが出て来た。どうやら、この曲がり角あたりにその昔「万願寺」という寺があったようです。現在は写真の「山の子社」があるのみで寺の名残は残っていません。万願寺を調べていくと安土桃山時代のキリシタン寺だったようです。キリスト教自体がカトリックのポルトガルやスペイン、プロテスタントのオランダなど布教する側の思惑や、その時代の天下人の思惑もあって広がりを見せながらも時代により信者は翻弄されます。それは1612年(慶長17)征夷大将軍となった家康が出した禁教令によりキリシタンは表から消える事になると共に弾圧に拍車がかかります。隠れキリシタンやキリシタン弾圧と聞くと、島原の乱など少し離れた所の出来事として捉えがちですが、隠れキリシタンは全国的な広がりを持っていたようで、よもや身近な地域にもそうした歴史が刻まれているとは初めて知ることになります。当時のこの辺りは五郎丸村として二百名ほどの村人が生活し、一部にキリストが崇められていたようです。万願寺はそうした信者の拠り所として存在していたようですが、禁教令により寺は取り壊され、多くの信者が亡くなったそうです。寺の跡地に鎮座する山の子社、その境内の一画に五郎丸や近隣の亡くなった殉教者たちを弔う「諸神諸佛諸菩薩(しょしん しょぶつ しょぼさつ)」と刻まれた卒塔婆が建っています。街道沿いの小さな社地、境内は奥行きもなく、鳥居をくぐると直ぐに本殿域。角の取れた丸い石が積まれた本殿域には、板宮造りの二社と左右に石標が建てられています。鳥居の額には山の子社とありますが馴染みがなく、社には社名札もないので詳細は不明。稲荷とするにはそれらしい根拠もなく、本殿域左の石の祠から思うに山の神などの自然崇拝から起きている神社なのかもしれない。卒塔婆は向かって右端のもので、正徳壬辰二年(1712)と刻まれています。キリシタン弾圧の歴史を持つ五郎丸の地に鎮座する山の子社、見た目は小さいけれど伝えたいことは多くありそうです。それを繋いで行く物があってもいいのかもしれない、その際には「五郎丸」の由来も教えてもらいたいものです。山の子社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 犬山市五郎丸字万願寺徒歩アクセス / 史蹟五郎丸出生地から北に進に万願寺交差点を左へ、所要時間15分程関連記事 / 名鉄小牧線沿線 春を探しに25,000歩 史蹟五郎丸初生地と不明社
2021.04.17
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名古屋から名神、東海北陸自動車道を乗り継ぎ福光ICから一般道へ、のんびり休憩を含めて4時間程で富山県南砺市高瀬の越中國一宮「高瀬神社」に到着。高瀬神社が鎮座する一帯は、東に庄川、西に古矢部川に挟まれた広大な扇状地で、古くは東大寺の荘園でもあり、残雪が残る山々を背景に一面に田園が広がる風景は昔懐かしいものがある。そこに水が張られるた時の眺めはきっと一面が水面の様に見え、そうした風景の中に集落や鎮守の杜が点々と浮かぶ様は島の様に見える事だろう。都市化され、消えてしまった光景がここには残っています。こうした環境に身を置くと、何かから解放され、妙に開放的で素直な自分がいる。田畑の続く先に「高瀬神社」の杜が浮かぶ。訪れたのは2021/3/23、桜には早く、田植えの準備に余念がない時期。田園の中を杜を目指す、間近に見えてくると正面に鳥居と手前に朱塗りの一宮橋が見えてくる。一宮橋から眺める大門川、堤には桜並木が続き、満開の時期に訪れると間違いなく「綺麗だ」と思うはずだ。この時期はつくしがいっぱい生えていました。高瀬神社社頭全景。石の明神鳥居と左の大きな石灯籠が一際目を引く。石灯籠。大きさは写真からは伝わらないでしょうが、人の背丈を遥かに超えるもの。左に神社由緒書き。由緒書き「主祭神 大己貴命配神 天活玉命、五十猛命当神社の鎮座は遠く、農耕文化の芽生える弥生時代の頃とされています。延喜5年(905)の神名帳にも登載された砺波七座の筆頭にあり、御神徳の顕著な神社として皇室の崇敬も厚く、奉幣使の派遣もあり越中一宮と称されております。宝亀11年(780)従五位下の神階を奉られ、歳を歴ると共に昇敘敘を重ねました。治承4年(1180)には正一位に列せられて、大いに宸襟を賑わしました。時代の推移と共に社頭衰頽衰頽に及ぶこともありましたが、明治6年(1873)県社に、大正12年(1922)には崇敬者が念願する国幣小社に昇格されました。昭和23年(1948)社殿の造営成りて神苑は面目を一新するに至りました。境内の功霊殿は昭和24年(1949)旧本殿を移築したもので、砺波地方の先賢文化功労者並びに戦没者勇姿の英霊を祀ってあります。相殿 神明宮 天照コ皇大神相殿 風宮 級長戸辺命相殿 学神 大宰府天満宮大神末社 稲荷社 伏見稲荷大神」鳥居右の社号標と史跡高瀬神社解説。史跡高瀬神社解説。「高瀬神社は延喜式内社として砺波地区を中心に、古くから人々に崇敬されている。日本海沿岸と関連が深い大己貴命(大国主命)が祭神で能登や伏木の気多社も同じ祭神である。奈良時代の宝亀11年(780)に「従五位下」と越中最高の位となった高瀬神社は、平安初期には正三位と昇進していった。古くから「越中一の宮」と称され、鎌倉時代の「類聚既験抄」にも「越中一宮」とある。明治以降は県社や国幣小社にも指定された。室町時代には、神社周辺に東大寺荘園の高瀬庄があった。この高瀬庄から多くの年貢が神社に納められた事が、東大寺の記録に残されている。・・・・・例祭は9月13日、6月には古式による火縄授けの神事も行われる。」長々と引用したけれど、この二枚の解説が概要を伝えてくれている。砺波七座とはここ高瀬神社と長岡神社(小矢部市七社)、林神社(砺波市林)、荊波神社、比賣神社、雄神神社(砺波市庄川町庄)、浅井神社を指すようで、何れも参拝に至ってはいませんが、いつか七座全て回ってみたいもの。鎮座が弥生時代に遡るように古くから人が居住し、社頭南側に10分も歩けば高瀬遺跡があり、平安時代に荘園を管理した建物の跡や周辺には遺跡も点在します。現在はその史跡を中心に公園に整備され、多くの菖蒲が花を咲かせる頃には賑わうそうだ。鳥居から境内へ。白い玉砂利が敷かれた境内の左に銅像と斬新な社務所がある。銅像の主は平成14年(享年97歳)で亡くなった藤井秀直名誉宮司で、その長寿と功績を称えて安置されたようです。境内中央から右の眺め。中央にニノ鳥居、右に手水舎がある。手水鉢。1970年(昭和45)、伊勢神宮外宮から移築されたもので、写真の鉢は新潟県只見川上流から運ばれた自然石でつくられた「洗心」の禊場で石の裏には「水神」の文字が刻まれています。この光景は時代を映しているものです。彼らが以前のように注いでくれるのはいつになるやら、我慢しきれず空に戻らなければいいが。後方に見えている建物は宝物殿。宝物殿。手水舎左から続く小道の先にある建物で屋根には火除けの鴟尾が施されています。昭和天皇御在位60年を祝い1984年(昭和59)に竣功し、古来より伝わる御神宝・装束類が収蔵されています。拝殿に向かいます。手前で狛犬が守護しています。肉付きが良く凛々しい姿の狛犬です。鳥居手前から参道は右にも続き、その先に赤い鳥居が見えます。後で向かいます。ニノ鳥居の先に朱の欄干の神橋と拝殿。注連縄の先の拝殿。千鳥破風と唐破風が施された落ち着いた佇まいで、唐破風は昭和に入り後付けされたものだという。「御社殿は国費をもって昭和17より数ヶ年の計画で建てなおしされる予定で工事が始まりましたが、基礎工事が終了した昭和20年8月終戦を迎え、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令によって国費による建立が中止となりました。往古の面影は消滅し、参拝する人の数は皆無といった状況でしたが、地方の崇敬者有志の方々が多額の浄財や樹齢数百年の銘木を寄進され、多くの方々の社殿建立の情熱にささえられて、昭和22年に御本殿(流造)、翌年に拝殿(入母屋造)、更に昭和62年に唐破風の向拝殿が完成し、鎮座2,000年の歴史を偲ぶ御社殿の完全な竣功を見るにいたりました。」神社HPより。新橋から拝殿全景。過去の社殿は知る由もないけれど、昭和に入り再建されながらも伝統的な作りの社殿はそれを感じさせない佇まいをしています。神橋から右手の眺め。この池については何も案内はないけれど、中央に小さな太鼓橋がかけられています。拝殿唐破風向拝。兎毛通(唐破風懸魚)や欄干など至る所に細かな彫飾りが施されています。この地域には彫刻の技術を誇る伝統的工芸品「井波彫刻」で知られ、荒彫りから仕上げ彫りに至るまでに200本以上のノミや彫刻刀を駆使する高度な技術が伝承されています。ここにはその職人の技から生まれた鶴や龍、干支などが施されています。向拝下に吊るされた黄色と黒色の「がま」の穂 。これは祭神の大国主命と繋がりもあり、「因幡の白うさぎ」に「真水で体を洗い、それから「がま」の花を摘み、その上に寝転ぶ」と傷が癒えると伝えた事から、大黒様とうさぎ、がまは縁の深いもの。吊るされたがまの穂の下をくぐると傷が癒されるとの事。なでうさぎ鰐に皮を剥がれて痛んでいたうさぎ、通りかかった神々に塩水で体を洗い、潮風で乾かせとからかわれて痛んでいたうさぎを助けたのが大黒様。傷を癒してくれた「がまの穂」の下で恩人の大国様の傍らに寄り添うように佇む姿は、自らの犯した過ちを悔い改めて、今は参拝者が癒したい部位と同じ所を撫でさせて傷を癒す役割を果たしている。コロナ禍にあってアクリルカバーで囲われることもあるようですが、なでられない代わりに、吊るされた「がまの穂」はうさぎと紐で繋がっているので、下をくぐるだけでも利益があるのだそうだ。(訪れた際はまだ殺菌の上で直接触れる事が出来ました)奥に見えるのは土俵。拝殿から左、大きな杉の巨木の脇にさざれ石が置かれています。産地は不明。 奥に見えているのは功霊殿、そちらに向かいます。功霊殿の鳥居と木造入母屋造の拝殿。本殿左に隣接する功霊殿は日清・日露戦争から大東亜戦争までの砺波地区から出征された護国の英霊と、当地開拓の功労者など6,400余柱がお祀りされています。本殿は当神社の旧本殿で、天保7年に建立された井波彫刻の粋を尽したもので、文化財の指定を受けています。神社後方から眺める功霊殿本殿。土台が高く流造の社殿の側面を覆う様にカバーがされています。降雪も考慮したうえでの対策なのでしょう。神社後方には、終わりを迎えた椿が殺風景な地面に彩りを添えていた。拝殿右から全景。入母屋平入からこの形に変っていったようですが、この角度から見る拝殿が一番優雅に見える気がする。ここから右手方向に進むと本殿後方に回り込めます。本殿千木と鬼、角の先端の紋が神紋だろうか、拝殿でもそれらしい紋は見られなかった。後方から本殿の全景。功霊殿の本殿と同様に側面は囲われているようです。ニノ鳥居の右の社「高瀬稲荷社」高瀬神社の末社で祭神は宇迦之御魂大神。切妻平入の社に切妻の破風が一体となった社で、上から眺めるとT字型なのではないかな。「高瀬稲荷社は、古来より人々の信仰厚い伏見稲荷大社の御分霊を奉戴したお社で、五穀豊穣・商売繁盛の神様として崇敬されるお稲荷さんです。」高瀬神社の杜は鬱蒼(本殿後方は除外)とした印象のものではなく、適度に間引かれて風も通り、日差しが差し込む明るい境内、上を見上げれば空も大きく見えます。拝殿から一ノ鳥居方向の眺め。ここで神社HPから神社の歴史を掲載しておこう。「御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇11年の御代とも云われています。社伝に御祭神が北国御開拓の折、この地に守り神を祀り、国成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うたとも伝えられ、のちに延喜式内社、越中一宮として崇められてきました。越中国の人々は勿論、朝廷の崇敬も厚く、天武天皇の御代に勅使を派遣され、光仁天皇の宝亀11年に従五位、文徳天皇の斉衝元年に従三位、また同年、祢宜、祝等に把笏を許さる。貞観元年に正三位、その後も順次累進、治承4年に正一位を授かりました。また社頭荘園多く又皇室の御領に宛てられたこともあり、神子屋鋪・鎌倉屋鋪・大宮司田・神子畑等、近傍に残る地名によって、往時の盛大さを偲ぶことが出来ます。戦国時代には社頭荒廃し、見るに忍びない状態となりましたが、前田藩主の崇敬厚く漸次神威昂揚せられて、明治6年に県社、大正12年に国幣小社に昇格されました。大正13年には摂政の宮の御使が参向され、大正14年には皇后陛下より「神ながらの道」を奉献され、昭和3年の御大典、昭和16年の宣戦また昭和20年の終戦には勅使の参向がありました。」高瀬神社は越中一宮に相応しい歴史を持つ古い神社であると共に、個人的には歴史や社殿よりもこの風景に鎮座する姿そのものが越中そのものを表しているような思いがする。四季の移り変わりを自然から感じ取り、そこに住む人々により営まれる広大な水田は、季節と共に表情を変える。その中心にあるのが高瀬神社で、こうした光景がいつまでも残ってほしいものだ。再訪したいと思わせる神社で、好きな神社の一つに加わりました。神社西側の駐車場から神社東側の県道284号線を北上し次の訪問地に向かう。集落の北外れに大鳥居と大きな社号標が聳えていました。昭和60年、昭和天皇御在位60年を記念し寄進により建立されたものという。大鳥居の中には奉写された大祓詞が収められていて、鳥居をくぐる人々の罪・穢を祓い清めてくれるという。越中一宮「高瀬神社」 創建 / (伝)景行天皇年間(71年~130年)主祭神 / 大国主命(大己貴命)、福の神・縁結びの神 国土開拓・農耕の神・医薬医療の神 配祀 / 天活玉命、無病息災・延命長寿の神配祀 / 五十猛命、農林殖産・交通安全 厄除・病気平癒の神末社 / 神明宮(天照皇大神)、風宮(級長戸辺命)、稲荷社(宇迦之御魂大神)、天満宮(菅原道真公)、功霊殿所在地 / 富山県南砺市高瀬291車アクセス / 東海北陸自動車道福光ICより約15分一宮JCTより約2時間30分関連記事 / 0323.24 越中國、能登國、加賀國一之宮巡り
2021.04.16
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JR中央線千種駅から掘割の西側を桜通り方向に向かい歩道を歩いて行きます。やがて左右を横切る桜通りが見えて来る。その手前の歩道沿いに小さな堂が佇んでいます。近くに寺院もなく尋ねることも出来なかった、正式な名称や詳細は不明。東は中央本線の掘割、これ以上脇に寄せるにも限界だ。堂はコンクリートブロックで三方に壁を作り、簡素な屋根が付けられ、南側が拝所になっている。車では良く通るけれど今まで気づかなかった、歩いてこその気付きかもしれない。歩道を向いて一体の観音像が安置され、鶴がデザインされた背後の幕からもここを拠り所とする人の思いが伝わってきます。日々お世話をされる方が見える様で花も手向けられています。左の板に文字が書かれているけれど文字が褪色して良く読み取れない。延命十句観音経と書かれているように見えます。にっちもさっちもいかなくなった時、僅か42文字の短い経典を何回も〃も唱える事で道筋が開けるという。きっとこの板には「かんぜおん なむぶつ よーぶつういん よーぶつうえん ぶっぽうそうえん じょうらくがじょう ちょうねんかんぜおん ぼーねんかんぜおん ねんねんじゅうしんき ねんねんふりしん」と書かれているのではないだろうか。堂の拝所から堂内の全景。右に木魚、中央にりんが置かれ、ビルばかりしかないよう立地の中でこうした空間があるのがとても不思議に思える。ここから更に北の大松町にもこうした堂はある、それはここより遥かに立派なもの。こちらはと云えば外観は何これ? と思う方が大半だと思います。そうした拠り所の対象は映えの問題ではなく何が得られるかだと思う。ここを訪れ、拠り所とされている方がいる事は事実。堂の入口左にも黒い像があったがよく分からなかった。しかし帽子や前垂れで飾られこの像が崇敬されている事がよく分かる。堂内。正面に弘法大師像と手前に二体の可愛い石像が安置されています。通りかかったのは2/25、祭壇には鏡餅が供えられていました。心ばかりの賽銭(賽銭箱が見当たらない)を置かせてもらい後にした。何をお願いしたか? そりゃあ、今の災いからの救済しかないでしょう。こうした自分を振り返ると、婆さんに手を引かれ歩いていた時に彼女はやたらと立ち止まりいろんなところで拝んでいた事を思い出す。そこには何かそうさせるものがあったのだろうが、その理由を今更知ろうとしても、もはや知る術もなく、その対象としていたものは既にない。自分だけかも知れないけれど、そうした対象がなくなり、再開発と称して無機質な街に変っていく事に喪失感を感じる。2021/2/25弘法堂所在地 / 名古屋市千種区内山3丁目公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「千種」駅下車徒歩で北に10分程
2021.04.14
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稲置街道を歩き犬山城でビールを飲む、我が家のイベント前回の「羽黒八幡宮」から犬山城で待つビールを目指す名鉄小牧線「羽黒」駅前の小社から街道を進む。県道27号線から東の眺め。田園風景の中を走る小牧線、その先にポツンと杜が見えますこうした風景は好きな風景だ。丁度電車がやってきた。線路の向こうの杜は恩田社の杜、立ち寄りたいがここは次の機会にして先に進みます。県道27号線を横切る合瀬川に架かる小さな橋を渡った左側に常夜灯と「史蹟五郎丸初生地」と刻まれた石標が建ち、複数の社が祀られた一画があります。この時は後で調べがつくだろう、なんて安易に捉え境内に入らず外から写真に収め先を急いだ。これが調べる段になってスッキリする情報が見つからなかった。それは書いている今も変わらない、そもそも「史蹟五郎丸初生地」の由来からして分からない。ゴロゴロ石が沢山あったとか、かつての海辺で、四郎丸・五郎丸という大船から転じた、有力者の屋敷があったとか諸説あるようだ。地名由来でもスッキリしない、ラグビーのあの方の生誕地ではなさそうだ。ではいつからここにあるのか。上は明治の地図、そこからこの場所の存在も見つけられない。境内には板宮造りの社が三社祀られ、それ以外に注連縄らしきものが巻かれた石碑があるようです。正面の社は「稲荷社」で社名札と小さな狐が祀られている。右の社は外観からは分からない、地図から見ると岩橋村五郎丸の集落の外れの郷瀬川右岸の村はずれ。集落を守護する火の神や禍除けの社が祀られた?立ち止まっていてもビールには辿り着けない、不明社として先に進もう。歩いて来た県道27号線(稲置街道)の羽黒方向の眺め、歩道右側の常夜灯が「史蹟五郎丸初生地」。2021/03/09史蹟五郎丸初生地と不明社境内社 / 稲荷社、その他に不明社二社所在地 / 犬山市五郎丸八龍徒歩アクセス / 名鉄小牧線「羽黒」駅から徒歩20分程 関連記事 / 「羽黒八幡宮」
2021.04.13
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陽気もよくなり 手入れの悪い庭をいじりを始めたかみさん鉢を移し替え、草むしりしていたら「カエルがいる」との事 見に行けば緑も鮮やかなアマガエル?初めて見かける住人だ かみさんが起こしたか?いろんなものが動き出す時期になった・・・・・長いものもそうだ そういえば古くからの住民ヤモリを2年程見ていない コンクリートとアスファルトの周囲の環境にあって手入れの悪い小さな庭も彼らの住処としてそれなりに役に立っているようだ こうした住人はウエルカムだが、長いのは・・・・・嫌いだ藪漕ぎして釣りやら山やら駆け回っていた頃は何だったんだろう?
2021.04.11
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早いものです 桜から五月、そしてフジへ季節の移り変わりのバトンは着実に繋がり花を咲かせる にもかかわらずこの流行病への対応はあまりに学びがない他人事のようにしかとらえていないのだろう 予算のボリュームのみがエビデンスの様に花咲くがこの季節の花のように結果となって花を咲かせるとは思えない フジ同様に高嶺の花で終わりそうだ花の密に群がる虫はたくさんいそうだが 受粉させる気はなさそうだ、彼らの跡には落ちた花弁の片づけのみしか残るまいこの付けは大きな負担となり花を結ぶだろう、過去の幻はあくまで幻 花が咲かなきゃ選定でしょう
2021.04.11
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補陀洛(ふだらく)山寺と熊野三所大神社「神蔵神社」から補陀洛(ふだらく)山寺へは、国道42号線(那智勝浦新宮線)を南下します。那智勝浦ICで降りて県道46号線、43号線を経て補陀洛山寺に至ります、移動時間は20分程。駐車場は県道43号線沿いの左側にあります。正面の交差点を左右に横切るのは国道42号線。補陀洛山寺県道43号線沿いに寺務所と右手に本堂と熊野三所大神社が鎮座します。訪れたのが2月21日、この時期には県道沿いの河津桜が見頃、この桜の樹のところから駐車場に入れます。駐車場からは補陀洛(ふだらく)山寺と隣接する熊野三所大神社へ参拝が可能です。駐車場から高床で大きな向拝が付く宝形造の本堂まではすぐ目の前。補陀洛山寺は仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹。1808年(文化5)の台風により諸堂塔が被災、その後、仮本堂を経て1990年(平成2)に室町時代の高床式四方流宝型の様式で再建されたのが現在の姿。この寺は平安時代から江戸時代にかけ、小船で観音浄土である補陀洛山を目指した補陀洛渡海で知られ、境内にはその際に使われた小舟「渡海船」が復元・展示されています。本堂左側の建屋に朱の鳥居が付けられた小さな小舟「渡海船」が見えます。こんな小さな小舟で遥か南方海上にあるとされた補陀洛浄土を目指す。捨身行、それは自らの死を覚悟して旅立つ究極の修行のことで、9世紀から18世紀までの間にそうした補陀洛浄土を目指す修業が各地で行われたそうです。ここ補陀洛山寺だけでも20数回も帰らぬ旅へと船出を試みたとされる。「那智山宮曼荼羅」に描かれた「渡海船」を基に復元されたこの船は全長は6㍍程、入母屋造の帆船で四方に発心門、修行門、菩提門、涅槃門の殯の鳥居がある。この小さな空間に30日分の水と食料を積み乗り込む、船室は外部から閉じられるため外に出て自ら漕ぐことすら出来ない、沖まで曳航されそこで引き紐を解かれ、二度と戻れぬ補陀洛浄土へ潮任せの旅に出る。補陀洛浄土を目指して船出した25名の上人の名とその年が刻まれた碑。住職が還暦前後になると、周囲から捨身行を行わざるをえない雰囲気が作られていった様でもある。本殿前の観音像の先にその碑は建っています。後にこうした捨身行は僧侶の遺骸を乗せ極楽浄土に送る形態に姿を変えていったようですが、凡人からみるとこれはもはや修行ではない。寺号の補陀洛とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」が語源とされる。創建は仁徳天皇時代(313年~399年)とされる天台宗の寺で本尊は千手千眼観世音菩薩。補陀洛山寺は那智の七本願(御前庵主、大禅院、瀧庵主、那智阿弥、妙法山阿弥陀寺、理性院、補陀洛山寺)の一寺。本願とよばれる寺院があり、本宮庵主・新宮庵主の各1ヶ寺と那智山の7ヶ寺の9ヶ寺で社殿の修復・勧進を行ない浄財を募り隆盛を極めるが、明治政府の神仏分離により廃寺となった寺院も多いらしい。本堂右から参道は熊野三所大神社へ続きます。熊野三所大神社杮葺きの三間社流造で4本の鰹木と内削ぎの千木が施された素木の相殿。古くから熊野那智大社の末社として補陀洛(ふだらく)山寺と共に神仏習合の形態で濱ノ宮村の産土神として崇敬されていた。社殿の創立は明細帳に「上古祭場の遺跡につき、欽明天皇ノ御宇に社殿創立せしものなりと伝ふ」、『熊野年鑑』では「欽明天皇二十四(563)癸未年熊野浜ノ宮成」とあり、又、『熊野年代記』では「欽明天皇二十四(563)癸未年浜ノ宮宮殿出現」とある。本社古伝に依ると「往古は唯祭壇のみ在り、社殿造立は前記時代を創始とす」と記され、社殿造営は棟札によると慶安元年(1648)の再建と伝えられる。熊野詣が盛んな頃は浜の宮王子や渚宮王子とも呼ばれ、熊野九十九王子のひとつで、中辺路・大辺路・伊勢路の分岐点として那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って身を清めたといわれています。隣接する補陀洛山寺は浜の宮王子の守護寺としての位置付けだったようです。明治政府の神仏分離により1873年村社となり熊野三所大神社と改めたのは明治末年の話らしい。創建は欽明天皇治世(540年~571年)の頃とされ、祭神は夫須美大神、家津美御子大神、速玉大神 を祀る。本殿左右に石の社が祀られています。本殿左の社は摂社の三狐神食物の神を祀る。社殿正面から全景。三つの鈴紐は全て巻き上げられ、こうした絵も時代を象徴しているのかもしれない。紐がおろされるのはいつのことやら。静かに参拝。熊野三所大神社由緒夕陽が差し込む本殿と右の摂社。左の三狐神と同様の石の社だ。こちらは丹敷戸畔命地主の神を祀る。ここから本殿後方に回り込む事が出来ます。ちらちらと見えていたこの切妻の建物はよく分からない、宝物殿なのかもしれません。後方から本殿の眺め。本殿の先の神門から鳥居方向の境内へ、そこには複数の石標があり、上は摩利支天王の石碑と左が庚申塔。境内右に公園も併設され、子供達には憩いの場になっているようで、神門から境内にかけて多くの子供たちが元気にサッカーを楽しんていたので写真に納められなかった。渚の森の解説板渚の森と呼ばれ古来和歌にもよく読まれた名勝の森で昔の面影は今はない。解説板の左の木々に包まれた一画に「神武天皇頓宮跡」神武天皇祭の興隆と共に大正期に建てられたものという、熊野と神武天皇と縁の深さがここにも表れている。鳥居脇の大楠樹齢は800年を超えると云われ、根元から二手に別れていることから「夫婦楠」とも。とにかく見事な幹回り、枝の張りです、渚の森の名残を伝えるシンボルだろう。楠はなァ、間違っても庭に植えてはいかん、いつ見てもそう思う。熊野三所大神社鳥居から神門、本殿方向の境内の眺め。広々とした明るい印象の境内は子供達も集まるはずだ。鳥居右側に「浜の宮王子跡」の解説板と石碑。解説内容は以下『藤原宗忠の日記、『中右記』天仁二年(1109)十月二十七日条に、「浜宮王子」とみえ、白砂の補陀落浜からこの王子に参拝した宗忠は、南の海に向かう地形がたいへんすばらしいと記しています。『平家物語』には、平維盛がここから入水したと記されていますように、補陀落浄土(観音の浄土)に渡海する場所でした。那智参詣曼荼羅には、浜の宮王子の景観とともに、この補陀落渡海の様子が描かれています。また浜の宮王子では、岩代王子(みなべ町)と同様に、「連書」の風習がありました。連書とは、熊野御幸に随行した人々が、官位・姓名と参詣の回数を板に書いて社殿に打ち付けることです。応永三十四年(1427)の足利義満の側室・北野殿の参詣では、十月一日に「はまの宮」に奉幣し、神楽を奉納したのち、帯や本結(紐)を投げると、神子女(巫女)たちが、争って拾った様子を、先達をつとめた僧実意が記しています。三所権現あるいは渚宮と呼ばれていましたが、現在は熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)と称しています。なお、隣の補陀落山寺は、千手堂あるいは補陀落寺と呼ばれ、本来はこの王子社と一体のものでした。』鳥居から国道42号線方向に向かい大楠と境内を眺めた一枚。これでも楠の全景は入らないか。そのまま今夜の車中泊予定の「道の駅 なち」を偵察。平成22年にオープンした事もあり設備も綺麗で入浴施設や周囲に食事処も多く絶好のロケーション。しかし待てヨ、あまりに国道に近すぎる、過去に夜中に長距離トラック近くに停車、一晩中エンジンがかけていて寝れなかった事を思い出す。ここは湯もあり自分としては捨てがたい・・・・・もう一つの候補地に変更とした。補陀洛(ふだらく)山寺宗派 / 天台宗創建 / 仁徳天皇時代(313年~399年)本尊 / 千手千眼観世音菩薩開山 / 裸形上人所在地 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348熊野三所大神社創建 / 欽明天皇御代祭神 / 夫須美大神、家津美御子大神、速玉大神境内社 / 三狐神、丹敷戸畔命神倉神社から車アクセス / 「神蔵神社」から国道42号線(那智勝浦新宮線)を南下、那智勝浦ICを降り県道46号線43号線経由、補陀洛山寺まで20分程関連記事 / 神倉神社 車中泊で熊野三山巡り2021/02/21
2021.04.10
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以前掲載した知多郡美浜町古布『津島神社』知多半島道路を挟んで西側にあたる場所に鎮座するのが知多四国霊場二十七番札所の『誓海寺』。今回の知多四国霊場のゴール。まずは津島神社から知多半島道路の下をくぐり、最初に左に入る道が見つかれば迷うことなく曲がってください。それ程広い道ではなく、何となく民家の庭先に出てしまいそうな道ですが「左です」。後続車がいる場合は諦めUターンして再度チャレンジです。民家へ続くような細い道の突き当りに写真の山門が現れます。車はこの右手の方に駐車スペースが確保されています。入母屋瓦葺の二層の山門(鐘楼門)、上層から突き紐が垂れ下がっています。なかなか鐘楼を突く機会はないものですが参拝者は自由に突いてもいいようです。天龍山の額。この寺を印象付ける一番の建造物かもしれません。曹洞宗の寺で、正式には天龍山誓海寺と称します。地味な外観ですが写真の様に木鼻には拘りを感じる飾りが施されています。山門右には金色に輝く観音像と左に千手観音が安置されています。傍でよく見るとこの像はコンクリート像の様だ。コンクリートというと最初に浅野祥雲が思い浮かぶけれど、作者はどうもおやじに馴染みのない作家の様だ。本堂へは左のスロープを登っていきます。参道脇には見事なみかんが身を付けていて、殺風景な2月の景観の中にあってこの色合いは鮮やか。直ぐに石段が現れ、右に納経所、本堂や開山所などの伽藍は石段の上になります。石段を登ると右が本堂、正面が弘法・愛染堂、左に開山所の配置。本堂は入母屋造りの瓦葺で向拝が付く。見た目にはそれほど古さを感じさせないが、開創は古く1555年(弘治元年)と伝わるようで、南知多三十三観音三番札所「信渓山 全忠寺」の末寺にあたる。「誓海寺」の名が示すように、もとはここから2㌔程東の海を望む場所に鎮座していた。『津島神社』の由緒にも記載されていたように、きっかけとなったのが1944年(昭和19)の海軍河和航空隊の建設、それに伴い周辺の住居と津島神社、「誓海寺」が移転を余儀なくされたという。その移転先が現在の鎮座地のようだ。山の傾斜を切り開き、敷地を造成、解体された建物を組み直したという事です。本堂の額「御本尊 釈迦牟尼仏 第二十七番札所」「誓海寺」は知多四国霊場開山所、南知多三十三観音霊場5番札所でもある。 本堂前で参道は二手に分かれ、正面の弘法・愛染堂、左の開山所と続く。弘法・愛染堂。堂内は二間続きで左の間の中央の厨子に愛染明王が祀られている。縁結びにご利益があるようで未婚女性の方々、或いはその母親らに崇敬されているようで、境内に祀られる子安観音は良縁を得た女性が安産祈願に訪れるという。 右の間中央に弘法大師が祀られています。堂内に四国巡礼、善光寺巡礼記念の奉納額。年代は読み取れないが色は鮮やかに残っています。左禅林堂、額には「新四国開創 禅林堂」とある。知多四国開山所で本尊は子安観音。新四国開創の三人の祖の一人で岡戸半蔵を称えるための堂。岡戸半蔵は1752年、知多郡福住村(阿久比町)で生まれた江戸時代後期の人物で、妻子に先立たれたの機に諸国巡礼の旅へ。そこで妙楽寺住職の亮玄阿闍梨に出会い、霊場開創の思いに感銘、私財を投じて開創に尽力、後に出会う武田安兵衛らと共に現在の知多四国霊場の礎を築いた人物。1824年移転前の誓海寺禅林堂で亡くなる。中央左の供養塔は岡戸半蔵が1816年に建立した「乗妙典六十六部供養塔」、右が行者像は岡戸半蔵を模したものかも知れない。かつては海も見通せただろう誓海寺、戦争に翻弄されこの地に落ち着き、今では山寺の趣すら感じられる。『曹洞宗 天龍山 誓海寺』開創 / 1555年(弘治元年)本尊 / 釈迦如来霊場 / 知多四国霊場二十七番札所、知多四国霊場開山所、南知多三十三観音霊場五番札所所在地 / 知多郡美浜町古布善切20-63 『知多四国開山所 禅林堂』本尊 / 子安観音関連記事 / 『十二神社・山之神社・北方稲荷社』 『津島神社』 車アクセス / 津島神社から県道279号線で知多半島自動車道の高架をくぐり左折納経印因みにこちらの御朱印は絵が描かれ、その筋の方には好評の様です。かみさん、あれだけ集めながら最近は冷めたのか頂かなかったようだ。誓海寺HP
2021.04.09
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牧野ヶ池緑地名古屋市名東区にある牧野池を中心に緑地と公園があり、近隣住民の憩いの場にもなっています。この時期は園内の桜は美しい時期を迎え、竹の小径も散策するには良いところです。上は緑地の案内図。緑地西側は国道302号線が伸び、国道から容易に駐車場にアクセスでき、利便性もいい。この緑地の南側はゴルフコースが隣接し、境界となっていて「白美龍神(羽白美衣龍神)」は眼下に五合上池が良く望められる高台に鎮座しています。グーグルマップの羽白美衣龍神の位置は信用しない方がいいでしょう、もう携帯は電源OFFです。これ脇参道です(でした)。駐車場から真っすぐ南のグランウンド方向に向かい。そこから左に進む石段と森に続く怪しい小道。そこから先は何か出そうな鬱蒼とした山に続いています。こんな道に敢えて立ち入る動機は入口に立つ白い幟、それが目的地に導いてくれるはず。参道(山道)脇に咲くスミレの花。周辺には山つつじの紫も彩りを添えてくれている。それでも何かが出そうな予感に変わりはない、ウリ坊?はたまた長いもの?山道を5分程登ると参道は三叉路となり右に導く表示板がある、それを信じ右に進みます。右です。前日の雨で粘土質の地面は滑りやすく、この辺りはぬかるんでいました。右に進むと尾根道に変り南へ続きます。この時期なので森は木漏れ日が射し明るいので心強い。入口から10分程で尾根道は先が開け視界が広がる。その先の陽射しに照らされた開けた空間が現れ、鳥居と社殿が見えてきます。「白美龍神(羽白美衣龍神)」到着です。境内全景。社殿の前に山桜の古木があり、訪れた頃は少し遅めですが白い花を付けていました。境内には幟が立ち、この左手にはゴルフコースも広がり、ウリ坊?長いもの?なにそれ。ここまでの心細い道のりから一気に解放されるような気がします。社殿全景。一段高い位置に一間流造のしっかり作られた社が鎮座しています。グーグルマップの羽白美衣龍神や白美龍神はここの事です。何故にスポットとして何カ所も現れるのか、元は白美龍神で遷座50年で改修された際に、羽白美衣龍神に改称したもので、一社しか存在しません。スポット登録時の呼称や登録位置のズレから二社あるような表示として現れているのでは?紛らわしいのでそうした理由から携帯の電源はOFFしました。社殿にはいろいろなものが祀られています。その前に参拝を済ませます。社殿上部に掲げられている長いものの抜け殻。以前はこの殻を財布に入れておくと金運が良いと云われ入れていた事があった。それが効果がなく結局自分次第なのねと悟ってからは抜け殻に有難さを感じなくなった。世の中そんなに甘くはないものだ。二つの抜け殻がありますが右側の抜け殻は妙に白い。下は由緒、その他に新聞の切り抜きが掲示されています。ゴルフコース建設のためこの森を拓いていた際、森の中にある池の水面を泳ぐ大きな白蛇を多くの方が目撃した、人々は恐怖に慄き白蛇(龍神)を鎮めるために祀ったのがこの神社の始まり。創建年は1953年(昭和28)、龍神信仰の始まりです。ただこの発端は大勢の人が同時に目撃している事、新聞にも取り上げられている事から、何か長いもの(飼育しきれなくなったペット?)、あるいは正に龍神だったかもしれない、なにかかいた事は事実だと思います。ほら、ここにもいます。重軽石です、個人的にはこの形態の重軽石は試さない事にしています。上重軽石の占い方、アルコールも用意されています。下毎月巳の日にお金がらみの願い事をすると使いの蛇が弁財天に願いを届けてくれると云う。社殿西側からの眺め。社殿は五合上池方向を向き鎮座しています。少し離れて境内全景。右の桜は新緑が眩しく、名残の花も付けていた、今は明るい境内です。境内から南を眺めると正面に五合上池が見える、ここの水面を何かが泳いでいった。森の守り神の大蛇はゴルフ場造営にともない新たな居場所を求め立ち去ったか?或いは今もこの杜のどこかに潜んでいるのか?不思議な空間がここにある。今にも手前の斜面から社に戻ってくる大きな大蛇が現れそうな。森の守り神の龍神を参拝し来た道を戻る事に、粘土質の参道は滑りやすい、気を抜かず戻る事にします。帰りは例の三叉路を真っすぐに進むことにします。尾根道を進み三叉路を真っすぐに進む、やがて下りとなり遥か先に明るい下界と手前に鳥居が見えてきた。鳥居はないものだと思い込んでいたけれど、どうやらこちらが正参道。全く逆から参道を進んできたようです。こちらから参拝に向かえば多少足元はしっかりしている気がします。鳥居へは駐車場から「わいわい広場」方向に舗装された歩道を進めば、この鳥居と山の中に続く参道が視界に入るはずです。「白美龍神(羽白美衣龍神)」創建 / 1953年(昭和28)、2003年(平成15)遷座50周年に合わせ建て替え。祭神 / 不明所在地 / 名古屋市名東区猪高町大字高針山ノ中関連記事 / 桜 2021#1牧野ヶ池緑地
2021.04.08
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「羽黒新田の観音堂」 から羽黒八幡宮(八幡林古戦場跡)を目指し稲置街道を歩いて北上。五条川沿いの「尾北自然歩道」を遡りそこから羽黒小学校東側を南下すると左に杜が見えてきます。稲置街道から東に曲がりそびれ、五条川まで来てしまい遠回りしたけれど、なんとか目的地の「羽黒八幡宮」到着。羽黒小学校東側の通りから見る杜、この杜の東は名鉄小牧線が南北に伸びています。神社の入り口は通りに拝殿に繋がる脇参道がありますが、もう少し南側から左に入ると常夜灯のある参道が現れます。鳥居を構えるわけでもなく、参道の南側は住宅地が有りそこで遮断されています。以前は更に南に参道は伸びていた様子。常夜灯から境内の眺め正面に蕃塀があり、拝殿、本殿、拝殿右側に石の鳥居が見て取れる。蕃塀の先の左に手水鉢。拝殿全景。切妻の瓦葺で四方吹き抜けの拝殿です。本殿全景。7本の鰹木と外削ぎの千木の本殿、本殿域は鉄の柵と鉄の鳥居で囲われている。祭神は品陀和気命(応神天皇)創建はよく分からない、現在は羽黒八幡宮と呼ばれるようですが、以前は羽黒成海神社と称し鳥鳴海神を祭祀していたようで、経緯の詳細もよく分からなかった。市の情報では現在は羽黒八幡宮、祭神は応神天皇とある。拝殿右の石鳥居は忠魂社のもの。今日の平和への感謝を伝える場。きな臭い状況なってきた今、平和が当たり前で緊張感や危機意識があまり感じられない昨今をどう感じているだろうか。拝殿左から神社後方の全景。杜は杉を主として広葉樹の混じる。「羽黒八幡宮」の辺り一帯は1584年(天正12)、北から攻める豊臣秀吉と南から受けて立つ徳川家康・織田信雄が一戦を交えた八幡林古戦場跡。この戦いは小牧・長久手の合戦の前哨戦ともいえ、秀吉側の森長可と家康側の酒井忠次らの刃を交え、負け戦となった長可を逃がすため犠牲となった野呂助左衛門の供養塔「野呂塚」が残る。杜の北外れに掲げられている古戦場の解説板。野呂塚はここから名鉄小牧線歩行者用踏切を渡ると慰霊碑が建てらられています。羽黒八幡宮から来た道を戻り、五条川を渡り羽黒駅方向へ街並みに一際目を引く古い建物があり足を止める。1907年頃の旧加茂郡銀行羽黒支店で現在の県道27号線沿いに建っていたものをここに復元移築されたもの。当時の日本の様式に西洋の香りを織り交ぜた「擬洋風」と呼ばれる様式。洋の香りを漂わせながら唐破風が施された姿はどことなく銭湯をイメージさせる。名古屋では随分解体され姿が少なくなってしまった佇まいですが、時を経て逆に斬新にも思える。何でもそうかもしれないけれど流行は巡っている。古いものは煙たがられ取り壊し、新しいものに姿を変える、日本でよくある流れだ。こうして残したマインドに救いを感じる。上旧加茂郡銀行羽黒支店復元施設前の解説板。支店は東濃銀行、大垣共立銀行羽黒支店を経て1930年に廃止。その後個人住宅として購入され「愛北病院羽黒診療所」として利用されるが解体の必要性が迫っていたのを機に犬山市の羽黒まちづくり拠点施設としてここに移築・復元された施設。2013年有形文化財に登録された。現在は「小弓の庄」として羽黒地域の街づくりの拠点として利用されています。漆喰の白い外観は洋、唐破風の飾りなどは和そのものです。下羽黒周辺の案内図。小弓の庄から目と鼻の先の羽黒駅へ駅前の某コンビニの裏手で見かけた小社。かみさんは足を止める事無く快調に歩いて行く、置いて行かれるぞ。ここは詳細不明です。「羽黒八幡宮」創建 / 不明祭神 / 応神天皇所在地 / 犬山市羽黒八幡東3 公共交通機関アクセス / 名鉄小牧線「羽黒」降車し南へ、五条川を越え工程10分程羽黒観音堂➡羽黒八幡宮徒歩ルート / 稲置街道を北上徒歩約10分小弓の庄所在地 / 犬山市羽黒古市場5小社所在地 / 犬山市羽黒古市場7羽黒八幡宮➡小弓の庄➡小社 徒歩ルート / 徒歩約10分関連記事 / 御日塚神社、三十三観音堂 「羽黒新田の観音堂」
2021.04.07
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0404五条川の桜随分川面がピンク色に染まり始めまていますその後ほぼ一日中雨が降り続く今日はいい天気、しかし風が強い今頃川面はピンクに染まっているかもしれない、季節は動いている・・・今朝の地震、嫌な感じ、あっちこっちが動いている
2021.04.05
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失くしたと思っていた沖縄のデータが見つかった 2019/10/31 、 沖縄県民の象徴ともいえる首里城、その正殿、北殿、南殿が焼け落ちるというTVの映像は今も記憶に新しいところ。県民のみならず、訪れた事のある本土の者からしてあの映像は衝撃と悲しみしかなかった。あの時以来、焼失前の首里城の写真を探していたりしたけれど、自分のデータを探すのを諦めていたら見つかった。しかも子供らに渡していたカメラの映像だ。人様にお見せできるようなものでもなく、「何これ?」と思う画像ばかり。その中に彼らなりに焼失前の首里城を見て感銘を受け、画像として捉えたデータが残っていた。焼失前、観光客で賑わう当時の画像を見ていてとても懐かしく思えた。 COVIDなんちゃらと云う得体の知れないものが訪れる以前だ。早いもので、あれから10年が過ぎているようだ。焼失以降、今も着々と復旧に向け工事は進んでいる。この復旧費用の極々僅かながら、復旧の支援に役立ったと思うと嬉しいものがある。当時を思えば、10年後にこんな世の中になるとは誰も思ってはいなかっただろう。ましてや焼失するとは、このデータが出てきて妙にうれしい気持ちになった。我家の中の首里城はいつでもあの日のままだ。おやじの画像は何処に行った事やら、それにしても子供の視点は面白いものです。
2021.04.04
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滋賀県長浜市 長浜城(長浜城歴史博物館)今年も息子から地元長浜の桜の写真が送られてきました。長浜の開花は名古屋がピークを越えた頃が見頃になる印象があります。下は長浜城豊公園の桜。琵琶湖東の湖畔に建つこの御城、1983年に犬山城や伏見城のデザインを基に模擬復元されたもので、中は長浜城歴史博物館になっています。個人的には長浜の景観に佇む城、その姿を楽しむところ。琵琶湖を高い位置から眺めるにはいいかもしれません。秀吉が初めて築城した城は出世城と呼ばれる様ですが、1615年(元和元年)に廃城、石垣などが遺構として残る。桜と城もなかなか見応えのあるものです。所在地 / 滋賀県長浜市公園町10-10
2021.04.03
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和歌山県新宮市神倉「神倉神社」熊野速玉大社から10分程に位置し、狭い道路脇に間口の狭い駐車場があります。駐車場自体それほど広くなく、大きなSUVや四駆には過酷な場所、生活道路でもあり路上で空きを待つのは避けたいところ。しかしそれさえ我慢すれば、熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社「神倉神社」はとても近い。僅か120㍍程の神倉山の中腹に鎮座する社までは、熊野古道の一部の500段ほどの石段を上るだけ・・・・嘘ばっかりです。降臨の地へ訪れるには過酷な道を覚悟しておくべきです。写真は神橋から神社入口の眺め。神橋の先に赤い鳥居、これは猿田彦神社、神倉三宝荒神社の鳥居です。最初に参拝すべき神社。神倉山の山肌を背にして鎮座する猿田彦神社、神倉三宝荒神社の全景。右手が社務所。猿田彦神社、神倉三宝荒神社右手に神倉山から湧き出た清水が滝となり流れ落ち、周囲に比べ空気がひんやりとして、身は引き締まり、流れる水が心を洗い清めてくれる、そんな気になる空間です。湿気があるので看板にあるよな彼らがいてもおかしくない。猿田彦神社祭神の猿田彦は、高天原から地上に降りる天孫瓊々杵尊を高千穂に導いた神で「道開き」の神。御神体のゴトビキ岩に向かう前に参拝。三宝荒神社祭神は火産霊神・誉田別命で、願望成就、商売繁盛の御神徳が高い。高野山の奥社と立里(たてり)の三宝荒神を勧請したもの。上「熊野三山(権現山)」解説「市内西方にそびえる権現山(神倉山)、神が降臨する神体山として崇められて来た。主峰は千穂ヶ峰(253㍍)で鎮護ヶ峰とも記され、神仏が鎮まり守護してくれる山。古くから熊野速玉大社の神降臨の神域として重要でした。権現山の南、高さ100㍍近い断崖絶壁に神倉神社があり「天磐盾」とみなされてきた。ここには神が鎮座する磐座があり「ゴトビキ岩」と呼ばれる。古来から霊域として、修験者の行場として栄えてきた」下「神倉神社由緒」「御祭神 高倉下命、天照大神例祭2月6日 夜御灯祭りという古儀の特殊神事として名高い、白装束に身を固めた祈願者が神火を松明に受け急坂(源頼朝公寄進の鎌倉式石段)を駆け下る壮観な火祭りである。御由緒「熊野権現として有名な熊野速玉大社の摂社。熊野三山(速玉・那智・本宮)の主神降臨の霊地、熊野信仰の根本ともいうべき霊所。御祭神の高倉下命は建国の功臣、熊野三党(宇井、鈴木、榎本)の祖として知られ、農業、漁業の守護神として御神徳が高い」「天磐盾」天磐盾とは、神武天皇紀(日本書紀)に、紀元前3年に神武天皇東征の際に佐野を越えて「熊野神邑(新宮の古称)に至り天磐盾に登りて」と記されている。左の碑は紀元2650年を記念し平成2年に建てられたもの。さあ、降臨の地に向け参道を進みます。朱の両部鳥居。鳥居から先は石段が壁のように上に伸びています。降臨の地までは源頼朝寄進の鎌倉式石段538段を登りきらなければ辿り着けません、段数は大した事はないが目の前の勾配は参道ではなく、修験道そのもの。安易なつもりで登れば後悔する事になるでしょう、一番怖いのが踏み外しによる怪我です。この写真の箇所から途中の火神社あたりまでが特に急で、自分も含め周囲では四つん這いで昇り降りする光景も見受けられます。人目を気にすることなく手は使う事をお勧めします、無事に戻って参拝終了です。なんていうのか、これが登りにくく、ただの直登ではなく、くねくねした直登と云えばいいのか。踏み石も大きさはバラバラ、でもって角が取れ斜度は急。毎年2月6日の夜に御燈祭りがおこなわれ、この急こう配を松明を手にした信者が駆け下りるのだそうだ。熊野に春を呼ぶ男の火まつりとして知られるようですが、命がけの度胸試しだ。くれぐれも下は見ない。鳥居からしばらくの間の200段?が最大の難関なので、ここだけは人目は気にせず空いた手を使おう。最初の難関を乗り越えれば概ね心配はいらない、といってもその先はこんな感じで続きます。中間地点の火神社、中ノ地蔵堂が見えるとそこは平坦な境内。ここで小休止、水分補給を行い参拝。世界遺産熊野古道の趣が漂う参道、ここから先は比較的勾配は緩く歩きやすくなります。左側は杜があるものの手摺はなく、踏み外し注意に変わりはない。山肌に沿って平坦な参道に変り、前方に朱塗りの鳥居と玉垣が見えてくればゴトビキ岩もあと僅か。右の斜面につけられた石段の先に社が鎮座する、参拝していきます。満山社熊野本宮大社でも見かけたが、縁結び八百万の神々を祀る。ニノ鳥居ここから先の右斜面全体が突起が少ない巨大な岩盤が露出しています。濡れたところは滑りやすい。神倉神社の手水鉢鳥居から先の右にあり解説は以下。「新宮城主第2代の水野重良(1596~1668)が下野國(栃木県)那須城主の大関高増の母の延命と繁栄を祈願し寄進したもの。黒雲母花崗斑岩の巨大な石を加工して作られ、正面には寛永8年(1631)に重良が寄進したと刻まれている。阿須賀神社にも同様の物が奉納されている」手水場を過ぎればゴトビキ岩。山肌に露出した岩盤の上に注連縄が巻かれたゴトビキ岩と呼ばれる巨岩と複数の岩が寄り添うような形で組まれ、それら絶妙のバランスで安定している。これが御神体の「ゴトビキ岩」、自然が作り出した不思議な造形だ。一見すると一つの岩に見えるゴトビキ岩、よく見るとその上部にもう一つ岩が乗っており、少し離れて眺めるとカエルが佇む姿にも似ている、この地方ではガマガエルを「ゴトビキ」と呼ぶようで名の由来はそこからきているようだ。その巨岩の下に人が築いた赤い社殿が建つ。劣化も少なく近年補修の手が入っているようで朱も鮮やかです、造がどうこう以前に良くぞ建てたものだ、そちらの方が驚きに値する。御祭神は高倉下命と天照大神をお祀りする。熊野信仰の始まりともいうべき霊所。ゴトビキ岩は神倉山中腹の岸壁にあり、そこからの眺望は絶景。下に新宮市の街並みが広がり、その先に熊野灘を臨む。写真左中ほどのこんもりとした山が蓬莱山、水野重良が寄進したもうひとつ手水鉢がある阿須賀神社が鎮座する。壁の様な石段を折れそうな気持を押さえ登り詰めた御褒美だ。振り返ると社殿とゴトビキ岩。樹々の隙間からさす陽射しは神々しく、神の降臨を疑う者はいないだろう。石垣が高く積まれその上に鎮座する社、参拝に向かおう。神倉山の天ノ磐盾(あまのいわたて)という険しい崖の上に鎮座する姿は新宮市を見守るようでもあり、その姿は麓の町からも良く見える。御神体のゴトビキ岩を支える袈裟岩を右手方向に登っていく。ゴトビキ岩に寄り添うように巨岩が組まれ、その隙間に丸い玉砂利が敷き詰められ榊が供えられたスピリチュアルな空間があります。巨石を中心とした古代信仰が行われていたようで、ここから弥生時代の遺物や平安時代の経筒など見つかっているという。この不思議な空間と空気感は、自然の奇跡では語れない特別なものを感じる。さあ、麓に戻ろう。誰も助けてはくれない、自分の足で戻るしかありません。 下に一ノ鳥居が見えて来た、ゴールを前に気を緩めると一番危ない場所。行きは下を見ないようにしていたが、こうして下を見ると相当怖いものがある。今回参拝し次に訪れる際の覚えとして以下を書き留めておこう。参拝時にヒールは絶対に無理です、滑り止め加工されたソールの靴がいいでしょう。飲み物もあるといいでしょう。入口に杖があります、その心遣いには甘えて下さい。手摺はありません。調子こいて直登すると膝に来る、途中休憩を入れゆっくり登ってください。人の目は気にすることなく手も使いましょう。登ったら最後、エスカレーターはないので必ず自分で降りるしかありません。山と一緒です、登りの方や足場の悪い方には道を譲りましょう。御燈祭りでここを駆け下る? 信じられないものがある。修業がたらん自分は踏み外して転がり落ちるのが見えている、恐怖の石段だ。夫婦共々無事に下に戻って岩に腰掛け一息つく。こんな辛い思いをしながら、心の中では「また訪れたい」気持ちが生まれてくる。神倉神社はそんな不思議な魅力を持っている。2021/02/21神倉神社(熊野元宮)創建 / 128年(景行天皇58)祭神 / 高倉下命、天照大神境内社 / 猿田彦神社、神倉三宝荒神社、火神社、中ノ地蔵堂、満山社所在地 / 和歌山県新宮市神倉1-13-8熊野速玉大社からアクセス / 車で10分程関連記事 / 車中泊で熊野三山巡り 熊野本宮大社「大斎原」 熊野本宮大社 『産田社』 熊野本宮大社 『熊野速玉大社』
2021.04.02
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2021/03/31山崎川の桜土日は結構人の多い山崎川も、平日の朝は地元の方のみ。ゆっくりと散りゆく桜を愛でる事が出来る。満開を過ぎた両岸の桜、風が吹くたびに花弁は舞い散り川面を流れる、花筏の光景になってきた。何回来ても変わり映えしない写真ばかりだが、枝には鮮やかな緑もチラホラ。身近な桜が楽しめるのもあと僅か。
2021.04.01
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