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以前掲載した稲置街道の本町道り。目的だったビールと食を堪能し犬山城方向を目指す。背後に犬山城と通りの突き当りに大きな鳥居、最終目的地としていた針綱神社も間もなくだ。針綱神社一ノ鳥居から境内全景右に「尾張五社 針綱神社」の社標。尾張五社とは、尾張藩士で国学者の天野信景(1661~1733年)が著した『尾張五社略記』に記された尾張国を代表する五つの神社とされ、現在の愛知県、岐阜県に鎮座する熱田神宮、津島神社、千代保稲荷神社(おちょぼさん)、尾張大國霊神社(国府宮)、針綱神社を指すと云う。しかし、これも諸説あるようで、一之宮(真清田神社)、二之宮(大縣神社)、三之宮(熱田神宮)と国府宮と針綱神社を加えた五社、熱田神宮を外し津島神社を加えた五社等定かではないようだ。もっとも、そうして意識し参拝してこなかっただけに少し意識してみよう。一ノ鳥居からの眺め、鳥居脇に狛犬、正面に反橋があるようだ。鳥居右の略記「針綱神社 鎮座地 犬山市大字犬山字北古券65-1御祭神 尾治針名根連命(尾張氏の先祖神)、伊邪那岐命、菊理姫命、大己貴命、大己貴命、建筒草命、建稲種命、建多乎利命、大荒田命、尾綱根命」建立年代は不明ですが、927年(延長5)の延喜式神名帳に尾張国丹羽郡「従一位針綱明神」または「正一位針綱明神」と記されている古社。一ノ鳥居脇の狛犬。上反橋から手水舎。下反橋は1919年(大正8)と刻まれていた。この傾斜、とても渡れるものじゃない、神様たげが渡れる橋だ。手水舎と龍口、注ぐ先は鉢ではなく竹筒だ。後方の赤い手水舎は隣接する三光稲荷神社のもので、針綱神社に比べると若い参拝者で賑わっていた。手水舎から先は境内が一段高くなり、狛犬とニノ鳥居を構える。ニノ鳥居の狛犬、1915年(大正4)のもので、一ノ鳥居の狛犬に比べるとベテランのようだ。参道はそこから右に曲がり石段を上り社殿に続く。正面には複数の境内社が祀られている。参道正面に鳥居を構える社は上大本町の秋葉社。秋葉社の右の境内末社群。この一画に山神社、杉木霊社、造酒社、大國社、稻荷社、小栗社、御饌社、染甫社、鍛冶社、熱田社・神明社、御建宮社が祀られ、小銭消費ゾーン。秋葉社左の境内。ここから左に進めば隣接する三光稲荷神社、石段を上りまっすぐ進めば犬山城。秋葉神社の左に鎮座する市神社、あまり聞きなれないけれど、どうやら津島神社の祭神を祀るようだ。金比羅神社。多賀神社、この社以外は南方向を向いて鎮座するけれど、この一社だけが東を向いて祀られている。境内右の末社群を秋葉神社方向に眺める。末社群の左に鳥居を構える針綱天満宮。多くの境内社があるけれど、創建時期などは分からなかった。針綱天満宮の右に三ノ鳥居、その先は本殿方向に石段が続きます。針綱神社拝殿と右に八幡社。「針綱神社の犬天文6年(1537年)、信長公の叔父、織田信康公が自ら木の犬を彫り当神社に延命長寿、安産を祈願した。その犬は誠に素朴で良い出来とは言えないが大きな陽物をつけているのが特徴である。その犬を模して古くから子犬は織田広近(信康の4代前)を模して彫ったとも云われる。この広近は信康が犬山城を築く68年前の文明元年(1469年)夏、犬山の木ノ下の地に初めて城を築いた人で、非常に活動力の優れた人であったと云う。この旺盛な力が商売と結びつき、商売繁盛の守護犬として商家に人気があったと云われる。又、一説には、犬の特徴にちなみ神社に祈願すると良い殿御に巡り逢えるとか。下半身の病を思わないとか。犬は安産故、安産、子授、縁結びの守護犬として若い女性に人気があり、厳かに授けられたものと伝えられています。命の神としても有名で戦のある度、出征する兵士、家族の参拝が後を絶たなかった。」(針綱神社栞より)これが約500年前に奉納されたと云う「木彫りの犬」(写真は栞から引用)神紋は三つ巴。下は拝殿に掲げられた扁額。針綱神社社殿全景。「御由緒 当神社は延喜式神明帳所蔵の式内社で本国貞治本に従一位針綱明神又元亀本には正一位針綱明神とあり、太古よりこの犬山の峯に鎮座させれ、東海鎮護、水産拓殖、五穀豊穣、厄除、安産、長命の神として古来より神威顕著にして士農工商の崇敬殊に厚く白山大明神と称えられる濃尾の総鎮守でありました。中古織田信康公、市内木の下城を社地に移築せんと後奈良天皇の宣旨を蒙り、天文6年(1537年)8月28日、白山平(お城の東方にあるお山)に遷座し奉った。爾后69年を経た慶長11年(1606年)4月8日更に市内名栗町に遷座し奉り、城主成瀬氏代々の祈願所でありました。明治維新の後、同15年(1882年)9月28日名栗町の座地より天文6年(1537年)迄座地であった現在地に御遷座になり、戦前は県社とし戦後は宗教法人針綱神社(尾張五社のひとつ)として近隣の崇敬を集める。」上、白馬本殿西側に祀るこの白馬は古くから子供の守り神として霊験あらたかと云われ、お馬さんにお供えした豆を頂くと歯ぎしり、ひきつけが治ると伝えられおり、願い事の叶うお馬さんとして信仰されている。下、愛宕社燈籠は1829年(文政12)のもので竿には子孫の福を願った銘文が刻まれている。ニノ鳥居から本町通を振り返る、人の流れは三光稲荷神社に向かう姿が大半でした。訪れたのは3月9日、この時期は境内の梅と木曽川沿いの河津桜が見頃だった。針綱神社創建 / 不明祭神 / 尾治針名根連命、伊邪那岐命、菊理姫命、大己貴命、大己貴命、建筒草命、建稲種命、建多乎利命、大荒田命、尾綱根命境内社 / 秋葉社、山神社、杉木霊社、造酒社、大國社、稻荷社、小栗社、御饌社、染甫社、鍛冶社、熱田社・神明社、御建宮社、石神社、金比羅神社、多賀神社、針綱天満宮、八幡社、愛宕社所在地 / 犬山市大字犬山字北古券65-1公共交通機関アクセス / 名鉄小牧線「犬山遊園駅」から西に徒歩15分程関連記事 / 稲置街道 犬山市「本町通り」
2021.06.30
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2021/5/28巣籠に耐えかねかみさんと連れ立って国営木曽三川公園 フラワーパーク江南に花を見に江南方向に向かった。帰り道にお囲い堤ロードを更に下って国営木曽三川公園138タワーパークまで足を延ばす事になりタワー通りの南派川の堤で小さな小社を見かけ車を停めて見た。社の左には大きな幹のイチョウの樹が植えられていて、火の災いから社を守りたい、そんな意図が伝わってきます。堤の斜面に合わせる様に石段が積まれ、角の取れた丸い石を積み上げ境内が作られています。その周囲を玉垣が囲んでいますが社に比べ風化が進んでいます。社号標はなく、社の扉はしっかり閉じられ外部から識別は出来なかった。玉垣に何か彫られていないか調べて見るもそれらしいものは見つけられない。5本の千木と内削ぎの千木が施された社、その正体は分からない。南派川の堤から光明寺の街並みを見据えるように佇む小さな社と近代的なタワー。地図からは創建年代が推測できないか見てみました。上段左上は1891年頃ですが、そもそも道がない。現在の道筋になり目印となるイチョウの樹と石段らしきものが写りだすのが昭和の中ほどから。玉垣の風化具合が昭和の時期に合うのかな。1562年(永禄5)清州城で信長と家康の間で結ばれた清州同盟。その宴の席で信長と家康は酔い覚ましに馬に乗りこの地の光明寺城(現在は石標のみ)を訪れたという。そこから対岸の岐阜城を眺め「美濃を制する者が天下を制するか」と呟いたといわれる。地名の由来は古刹の天台宗光明寺がある事からきている。光明寺城は廃城となり現存しないけれど、この堤から北を望むと岐阜城(稲葉山)は間近に望める。この地が戦国武将と所縁のある地なのが分かる。この不明社がいつ頃ここ祀られているのか定かではないけれど、こうして高みから眺める姿からはそんな武将たちの思いを想像させる。(写真は国営木曽三川公園 138タワーパークから岐阜城方向の眺め)光明寺の不明社創建・祭神 / 不明所在地 / 一宮市光明寺東神明 国営木曽三川公園 フラワーパーク江南から車アクセス / 県道183号線 県道182号線 県道150号線(タワー通り) 所要時間15分程関連記事 / 「お囲いロード沿いの不明社」
2021.06.28
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昨日2回目のワクチン接種を受けて来きた。良く2回目の副反応の強さが聞かれる高齢者とされてしまう65歳以上より若い世代の副反応が強いなどとも云われている熱もなく、全く体調に変化は見られない公的機関などが副反応の症状として挙げる中から強いて挙げるなら接種したところの疼痛(なんじゃこれ)、早い話が痛みの事なんだろうがそれくらいかこれって、程度の差こそあれ至極自然な事、注射に痛みは付き物だいつもの様に酒を飲み、風呂にも浸かり今朝は今しがたまで伸び放題の庭木の枝をバンバン切ってきた若干、腕の筋肉が張り(そりゃ剪定したからでしょう)軽度のだるさを感じる(そりゃ剪定とキャンプなんか行ったからでしょう)副反応らしきものは・・・・ない気持ちだけは若いが、やはり高齢者の証なのか?ひとまず、いつの型に有効なのか分からないけれど感染しにくくなり、感染しても発症や重症化のリスクが低くはなるようだ日常となった、マスクや消毒、密の回避、なにも変わらないけれど自分が要因で家族に広めるリスクが低減される事は一番有難い
2021.06.27
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6/23~25にかけて戸隠で2連泊し戸隠神社を5社巡ってきました。何十年ぶりかのキャンプでした。名古屋から6時間程(途中2回休憩、現地で食材調達含む)、戸隠神社奥社を通過し10分程で県道脇の戸隠イースタンキャンプ場受付に到着。今にも降り出しそうな天気、梅雨、まして山なんでこんなもんか。広いフリーサイト区域に先客は4名ほどか、雨に降られる事もなくテントの設営を終え場内を散策。場内は針葉樹の林の中にオオバコの群生する草地が広がり、立派なログのトイレ棟を中心として各所にトイレ、炊事等が整備されている。食べ残しは都度廃棄場へ、飲料容器は濯いで廃棄場へ持っていく事がルール、これも獣対策。それさえ徹底していれば自然に包まれ静かに時間が過ぎていく。携帯はアンテナは取り敢えず立ち、テレビは入らなかった。二泊しましたが雷と一時的に強烈な雨の二日間。 台風の影響で晴れていても雲がくれば雨。ビンテージもののテントやタープでは防水性が心配。それでも雲が切れると綺麗な星空が広がり、フクロウも毎晩やってくる。念仏池キャンプ場から県道36号線沿いに奥社方向へ徒歩5分、県道脇に注連縄が吊られた熊笹に包まれた森に続く道があります。念仏池はすぐ目の前、県道から少し奥まり、やや下がった位置に池があるので目立たない事もあり訪れる人は少ない。小さな池の対岸に石の祠があり、親鸞に由来がある池でもあります。池の底からは砂を舞い上げ湧水が湧きあがり、自然の息遣いを感じられます。水面には周囲の木々が映り込み、朝霧に包まれた念仏池は神秘的だった。カッコーの鳴き声で目が覚めたら、熊の存在を考えると心細いかもしれないが散歩がてら歩くのもいい。朝はカッコーから始まりウグイスのさえずりで目が覚める。ここを利用する方はそうした時間を楽しむ目的で訪れている様だ。空いていればとてもいい時間を過ごせるキャンプ場でした。戸隠イースタンキャンプ場所在地 / 長野県長野市戸隠戸隠山国有林内上信越自動車道 / 須坂長野IC➡戸隠バードライン➡℡ / 026-254-2125(8:00~17:00)キャンプ場から車で10分程の鏡池人造湖ながら戸隠の山々を水面に落とす姿は美しいものがある。所在地 / 長野県長野市戸隠キャンプ場から車アクセス / 奥社方向へ、「そばの実」で左折2km、10分程、幅員は当然狭いです。戸隠 神告げ温泉キャンプ場から戸隠神社中社方向へ車で15分程の所にあり、戸隠スキー場中社ゲレンデの麓にある日帰り温泉入浴施設。神経痛や筋肉痛などに効能がある単純泉で、内湯しかありませんが緑を望みながらリラックスして温泉に浸かれます。中には食事処もあり、戸隠の蕎麦屋の中では遅くまで蕎麦が食べれる。館内は昭和レトロな展示品やご主人の趣味が全面に現れ懐かしさを感じる。写真はマスコットの北海道犬の「おたる」、入口で出迎えてくれる、隣にご主人様がいるので一切こちらを向いてくれないが愛嬌のいいワン子だ。泉質 / 単純泉効能 / 神経痛、関節痛、運動麻痺、うちみ、慢性消化器病、痔症、冷え性など℡ / 026-254-1126所在地 / 長野県長野市戸隠3182, 中社ゲレンデ駐車場内キャンプ場から車で5分程で戸隠神社奥社駐車場へ。そこから奥社までは長い、写真の随神門から杉並木がひたすら続く全長2㌔の参道を20分程かかっただろうか。コロナ禍で訛った足には相当くる。雨具なしで奥社に向かい、途中から雷交じりの雨に見舞われたが杉並木が和らげてくれた。戸隠神社「奥社」祭神 / 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)天岩戸を開けた神様をお祀りしている。九頭龍神社天手力雄命が祀られる以前から地主神として古来より水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結びの神として崇敬されている。祭神 / 九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)戸隠神社「中社」奥社から5分も下れば中社無料駐車場。大きな鳥居をくぐり目の前の石段を上ればすぐだ。祭神 / 天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)天岩戸に隠れてしまった天照大神、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作った神様です。中社からは戸隠古道を歩き火之御子社、宝光社へ向かいます。火之御子社1098年(承徳二年)頃の創建とされ、岩戸の前で舞われた天鈿女命が主祭神で他に三柱の神様をお祀りしている。戸隠山の神様が神仏習合の当時も、この社だけは神社として終始し、戸隠神社太々神楽は、この神社に仕えていた社人により古来から現在に伝えられている。祭神 / 天鈿女命(あめのうずめのみこと)、高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)、栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)宝光社長い石段を登ると神仏習合時代の名残を感じさせる荘厳な社殿があり。祭神 / 天表春命(あめのうわはるのみこと)中社祭神の御子神様で、開拓・学問技芸・裁縫の神、安産の神、女性や子供の守り神として御神徳があるという。戸隠 蕎麦処 そばの実上、数量限定の十割蕎麦@1,100下、旬の味比べ@900戸隠イースタンキャンプ場の5分程手前にある蕎麦屋、人気店で列が出来ていた。ここから左に進むと鏡池に続く。10割蕎麦にしては細く美味しい、最初は塩で頂いて欲しい。我家評価は5段階で星3つ、店内、外の眺め、そして料理と見栄えの良さは味にも影響してくる。℡ / 026-254-2102所在地 / 長野県長野市戸隠3510-25うずら屋中社の鳥居右にある老舗でここも人気店。ざるそば並み(上)@880と大(下)@1,050とお野菜いろいろ天ぷら盛り合わせ@960。天ぷらの揚げ加減は絶品、外はさくさく、中はふっくらで口当たりがいい。蕎麦は特に良さを感じなかった、体調の加減か、つなぎ粉の香りが口の中で広がった。朝8:30に記名を済ませ、開店前に神社を巡ったけれど、中社鳥居から最短の蕎麦屋である以外、そこまで人気なのが味音痴のおやじには分からなかった。我家評価は5段階で星2.5。℡ / 026-254-2219所在地 / 長野県長野市戸隠中社3355最終日は快晴。食事を済ませ、現地で土砂降りの雨に曝されたテントやメッシュタープを天日干しして積み込むことが出来た。・・・最初の絵と外観が違う? やはり豪雨には防水性が足りず、タープとブルーシートで雨漏れと格闘した結果です。晴限定と考えるか、上にタープを張るしかなさそうだ。もう一つ失敗、虫寄せとして点ける予定の2マントルガソリンランタン、前準備では問題なかったがプランジャーがスカスカで圧縮不能で使えず、タープに虫がガンガン寄ってきた。これは部品交換しないと。久し振りのキャンプ、問題や課題抽出の機会として考え、次回までにはなんとかしよう。それにしてもシームレスのテントやタープはないもんかい。2021/6/23~25車アクセス / 東名高速➡中央自動車道➡長野自動車道➡上信越自動車道➡須坂長野東ICから➡バードライン経由で5時間程
2021.06.26
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今年はキャンプに行く。何十年ぶりにが分からないが、ビンテージものともいえる用品の点検補修をちまちまと進めて来た。キャンプの日程も決まり、明りとバーナーの点検を漸く終えた。今回はガスの2バーナーとガソリンランタン×2、ガスランタンで準備した。コールマンのシングルランタンはマントルが割れていたが、交換品(これもビンテージ品)もあり消耗品の補充はなし。バーナーもガスにしてパッキン類の点検と油脂補給をして着火テスト、生きてたね。コンロ自体は汚れがあるが、アルミ箔でラッピングし見てくれだけは良くして様子を見よう。後はバーベキューコンロがあるので飢える事はないだろう。前回点検したテント・タープに今回の明りとコンロ、まずはキャンプ行ってみよう。椅子もテーブルも骨とう品、何かが起こるだろうがそれも楽しみ。梅雨だけに天気は期待しないけれど、熊だけは遠慮したいものだ、久し振りの遠出は妙に嬉しい。
2021.06.24
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亀鶴蓬莱(きかくほうらい)山 正覚院前掲載した能登國一之宮氣田大社からの続きになります。正覚院は氣田大社の西隣に隣接し、歩いても1~2分。鶴亀蓬莱山 正覚院は石川県羽咋市寺家町に境内を構える高野山真言宗の寺院です。気多大社の旧神宮寺で本尊は大日如来です。最初に視界に入るのが黒瓦葺の鐘楼。一見地味に見えますが各所に彫りが施され、瓦には加賀梅鉢の紋も入る。山門へはここから右に進みます。正覚院山門黒瓦の四脚門で右奥が庫裡、左が本堂。山門から本堂の眺め正覚院の創建ははっきりしない、718年(養老2)、白山を開山した泰澄大師が伊勢内外宮を参拝しての帰り、夢想の歌「恋しくば尋ねても見よ能く登る一つの宮の奥の社へ」とのお告げを受け、氣田神宮寺を創建したと伝えられている。855年(斉衡2)に亀鶴蓬莱山気多太神宮寺の勅号を賜り、以来氣多大社(能登国一之宮)の神宮寺として寺運が隆盛しました。往事の氣田多神宮寺は正覚院を初め、長福院・地蔵院・薬師院等多くの神宮寺や坊があったが、明治政府による神仏分離により廃絶の道を辿るが、正覚院のみが存続し独立の道を歩んできました。仏式を廃された氣多大社で保管されていた重要文化財の阿弥陀如来坐像や多くの仏像など、幸いにも正覚院に引き継がれ寺宝として継承されている。本堂全景。黒瓦葺で葺かれ棟飾りにも加賀梅鉢の紋が輝いている。唐破風向拝の木鼻や虹梁などにも彫が施され、落ち着いた佇まいでありながら拘りを感じる。境内左に多宝塔、参道はその先の鐘楼と観音堂に続きます。境内左の全容。雪深い地域に来ると黒瓦を目にすることが多いけれど見事に統一されています。小さな鐘楼ですが降り棟瓦の立派な事。正覚院庭園中央の由緒護摩堂2007年(平成19)に手が入れられたようです、右手は白寿観音像、左奥に赤い宝物殿。白寿(ボケ封じ)観音写経奉納「願わなくとも花は咲く だがいくら願っても咲いた花なら散っていく 後で必ず実を結ぶ誰もが一応は通らなければならない老いの坂道で 道に迷わず まわりの皆と共に幸せでありますように願う・・・・・・惜しまれるような良い思い出をこの世に残していきたいものです」最近こうした言葉が浸みるようになってきた、老いの坂道を実感する毎日です。護摩堂から左へ進み楼閣方向へ。黒瓦と白漆喰、そして木の色合い、上品な佇まいです。宝物殿を横目に見ながら先に進めば駐車場に戻ることが出来ます。高台の駐車場から先は日本海が広がります。広大な駐車場に車が少ないのは寂しい限り。とはいえ、祭礼でもないのにごった返す姿がいいかというとそうでもない。氣田大社も正覚院も静寂さが似合っている。2021/3/24亀鶴蓬莱(きかくほうらい)山 正覚院創建 / 不明 宗派 / 真言宗本尊 / 大日如来札所 / 北陸白寿観音霊場 第19番、能登国33観音札所 16番札所所在地 / 石川県羽咋市寺家町ト92関連記事 / 能登國一之宮氣多大社 其の1
2021.06.22
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越中國、能登國、加賀國一之宮巡り二日目は「道の駅氷見」から能登國一之宮氣多大社を目指します。国道415号線で県道232号線、国道249号線をひた走り、能登半島を西へ横断します。県道249号線の「氣多大社前」の信号を右折し氣多大社まで休憩含め約1時間ほどの道のり。氣多大社は石川県羽咋市寺家町にある神社。何も考えず県道249号線で神社まで来てしまいましたが、ここは一ノ鳥居と二ノ鳥居の中間地点のようで、バックミラーの遥か先に一ノ鳥居が・・・・あった。こうして見ると日本海の海岸に一ノ鳥居を構え、そこからニノ鳥居に長い参道が一直線に伸びています。ニノ鳥居。駐車場は左に広大な駐車場が確保されています。車を停め、歩いて一ノ鳥居まで向かおうとしたが、遠景だけ撮影し諦める。右に「國幣大社 氣多神社」社号標。ニノ鳥居は木造の両部鳥居、参道はここから更に続き、神門までは随分先です。ニノ鳥居左に由緒書き、境内見取り図。「当大社の御祭神は大国主命(大己貴命)と申し、能登の地を開いた大神と崇められる。創立年代は、第10代崇神天皇の御代と伝わる。延喜の制では、名神大社に列せられる。本殿背後、約1万坪の社叢林(入らずの森)中央の奥宮には素戔嗚命、奇稲田姫命が祀られている。伝統的な特殊神事は、新年門出式(1月11日未明)をはじめ、平国祭(3月18日~23日)、蛇の目神事(4月3日)、鵜祭り(12月16日未明)等が有名。」参道左の木々に包まれた小高い所に鎮座するのが氣多大社末社「養老大黒像奉安殿」一間流造のシンプルな佇まい、大黒天の提灯に明かりが灯る。社殿内部。大きな厨子の扉が開けられ、にこやかに微笑む大国様が安置されています。氣多大社の社伝に「孝元天皇の御代に大己貴命が出雲から多くの神々を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いた」と云われ、氣多の「氣」はそれら神々の気に肖り付いたとか。目が三角になる事の多いこのご時世、大黒様の表情は「少し余計な力を抜いたらどうなの」とでも言っているような。いい表情です。参道を進みます。背筋をピンと伸ばした狛犬と神門、左に手水舎。写真では切れていますが参道右に社務所があります。手水舎。清水は注がれていませんでした、その代わり花手水。常時なのかは定かではないけれど、コロナ禍にあって嬉しい計らい。上を見上げて雄叫びを上げる、強そうな狛犬だ。神門。社伝に建立年代は1584年(天正12)とされ、1680年(延宝8)に補修の手が入れられている。優雅な屋根の勾配で、派手な飾り金具を廃したシンプルながら、落ち着いた佇まいの門。拝殿入母屋造の桧皮葺妻入り拝殿。建立年代は、1653年(承応2)~1654年(承応3)の建立とされ、屋根の曲線が綺麗だ。拝殿内高欄がない縁には正面と左右の石段で上がるけれど、結構な高さがあり下から眺める拝殿内は写真のようになります。社殿全景左に摂社の「若宮神社」、拝殿の奥に本殿に並び、その右に摂社の「白山神社」が並びます。訪れた3月の時期、境内を彩るのは梅、過度な装飾を廃した社殿に色を添えている。社殿後方の深い杜は社叢林「入らずの森」、 加賀藩により保護された森は国の天然記念物に指定されているそうで、聖域の杜には奥宮が鎮座するという。左の若宮神社本殿は1569年(永禄12)、能登守護大名の畠山義綱により再建されたもので、檜皮葺の1間社流造りで事代主命を祀ります。右が氣多大社の本殿。棟札によれば建立は1787年(天明7)といわれ、檜皮葺の3間流造りで、前後に庇が続き、正面に1間の向拝が設けられ、それらが綺麗な曲線を描き軒先に続く、両流造りと呼ばれるもので、本殿内部は外陣、中陣、内陣に分かれているという。大国主命(大己貴命)を祀る事から縁を求め訪れる参拝客は多いという。拝殿右は摂社の白山神社本殿。3間社流造りの檜皮葺で、建立は棟札から氣多大社本殿と同年とされ、同時期に同じ大工の手により造られたようで、本殿内や外観など氣多大社本殿に準じデザインが整えられている、祭神は菊理姫命。白山神社本殿と気多大社本殿。高欄付きの縁を持ち、蟇股や木鼻にも装飾が施されている。神庫。本殿域一番右にある方型の校倉造の建物で、建立は本殿と同時期の1787年(天明7)とされ、宝倉として呼ばれていたようです。校倉造、久しく見ていなかったような気がする。揚田神社神庫から右に進むと参道脇に杜の入口に鳥居が建っている。ここから先は聖域で立ち入ることは許されない、奥宮まで続くのだろうか。大玉神社揚田神社から更に右に進んだ突き当りに鎮座し、石積みの台座の上の小さな狛犬が本殿を守護している、祭神は、天太玉命。「むすび神苑」と彫られた岩。縁起は分からないけれど小石を積むのが習わしの様だ。菅原神社大玉神社から右に進む参道の先にあり、菅原道真を祀る事から合格祈願などの無数の絵馬が掛けられている。これでひと回りした事になります、神門に戻り西隣の氣多大社神宮寺「正覚院」に向かいます。神門の斜景。角柱を用いた四脚門、屋根の勾配や木組みなど斜めから見ると美しさが増す。神門からニノ鳥居方向の眺め、左が社務所。あれま、かみさんの姿がない、隣の「正覚院」へ向かったのか?追いつかねば、正覚院はここから右の参道を進みます。能登國一之宮氣多大社創建 / (伝)第8代孝元天皇の御代、または第10代崇神天皇年間とも主祭神 / 大己貴命境内摂社 / 若宮神社(事代主命)、白山神社(菊理姫命)境内末社 / 養老大黒像奉安殿(大黒天)、揚田神社(荒御魂神)、大玉神社(天太玉命)、菅原神社(菅原道真)所在地 / 石川県羽咋市寺家町ク1 「道の駅氷見」から車アクセス / 国道415号線で西へ県道232号線国道249号線氣田大社前を右折関連記事 / 道の駅氷見
2021.06.20
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国道19号線で春日井方面へ大和通り2丁目交差点を左折、県道62号線に入ります。神社のある徳農公園前交差点まではものの1~2分程。そのまま直進すると稲置街道に続きます。近所にコインパーキングはありません、車の場合は駐車場所に困る事に。自分は近所の飲食店を利用し、少し停めさせてもらいました。徳農公園前交差点から見る神社全景。県道62号線沿いに鎮座し、県道を挟んで向かいに徳能公園があります。この神社が「天王社」なのか社標もないので自信はありませんが、ここはグーグル先生の教えに従い以降は天王社とします。この「天王社」が鎮座する町名が神明町という事が少し気になります。上は1920年頃の当地、春日井市内のこの地には天王社や津島社が祀られていたようです。それらの村々では病除けを祈願する祭りで夏の風物詩ともいえる天王祭りや祇園祭り、津島祭りが行われてきました。それらの神社の一部はここから東の柏井町に鎮座する八幡社に合祀されたらしい。こうして見る天王社の境内はやたら広く感じます、ひょっとしてここに神明社があり八幡社に遷座後に天王社が祀られたものかもしれません。過去の地図ではここに鳥居が現れるのは昭和に入ってから、それ以前には鳥居の印は出てこなかった。天王社に鳥居や社標はなく、参道口もはっきりしない。境内は四方吹き抜けの妻入り拝殿と本殿、右側にコンクリートの建物があります。いたってシンプルな外観の拝殿。拝殿内から本殿域、丁度目線の高さにくるように本殿が祀られています。本殿域全景、石垣が二段に積まれその頂に社が祀られている。祭神は建速須佐之男命本殿斜景、結構な高さに祀られています。やはりここから見ても社名札は確認できません。県道側から見る天王社全景。コンクリートの建物には石像が安置されているようです。観音堂内部全景。石仏の中には明治36年と刻まれたものや、更に風化の進んだもの等、十数体安置されていました。物々しい鉄格子は何を意味しているのか。神社の由緒等分からない事ばかり、柏木町の八幡社を訪れるとすっきりできるのかもしれない。2021/5/22神明町の天王社創建 / 不明祭神 / 建速須佐之男命所在地 / 春日井市神明町車アクセス / 国道19号線を春日井方向へ大和通り2丁目交差点を左折1~2分
2021.06.17
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COCOAすら対応しなかった携帯もやっと更新昨日今日とその設定に時間を費やし、ほぼ何処にも出歩けなかった簡単に引っ越しできるものと踏んでいたが、世の中甘くないちまちま小さな画面とキーボードで操作していると目の疲れは半端じゃない漸く目途も付いたので気分転換で外出してみた茶屋ヶ坂公園の紫陽花ここんところの暑さから元気がなかった今日の雨をうけて再び元気を取り戻してきたようでもうしばらくは目を楽しませてくれそうです携帯が更新されて一安心と思っていたら、WIN10の終わりを告げる情報が飛び交っている確かwin10で終わりのはずだったように記憶していたけれど、こちらも世の中甘くないこうした作業を何回繰り返せばいいんだろう少しうんざりしてきた、どこまで延命できるか気になるところ気になる緊急事態宣言も予定通り解除されるようだこちらも何回繰り返せばいいんだろう取り敢えず解除されれば見合わせていたキャンプに行こうと計画しています用品の点検も再び始動、かみさんも計画立案に余念がない・・・・・解除するんだね、解除されれば人は動く我家は出かけるとしても、自国開催の五輪ではないな、TVで事足りる出だしから躓いた五輪、何を残してくれるのか楽しみだ
2021.06.16
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5月28日かみさんと花を見に「フラワーパーク江南」と「138タワーパーク」をはしごしてきました。フラワーパーク江南では丁度植え替えの時期を迎え、人目を引き付ける見所は少なかったように感じますが、当日は睡蓮の花も開花し始め、華麗な花が水面に写る姿は訪れた甲斐がありました。今回はこのフラワーパーク江南の入口で見かけた小社を掲載します。江戸時代の慶長年間に築かれ犬山市から弥富市に続く約47㌖の堤防、そこを県道183号線が走っています「お囲いロード」と呼ばれるようです。桜がとても綺麗な道筋です。その社は「フラワーパーク江南前」の交差点角に鎮座しています、かたらい橋の袂と云ってもいいかもしれません。堤から石段で少し下がった場所に鎮座し、使い込まれた幟立ての先に小さな社、その後方の緑はフラワーパーク江南です。社の両側には大きな2本の桧?が恰も社を守護するように聳えている。右に石標がありましたが読み取れなかった。社は石の玉垣で囲われ、石が積まれた台座の上に祀られています。この社の名称など詳細はよく分からない、背後に木曽川が迫っているので水を司る神様が祀られているのかも知れない。社の直ぐ後ろに「宮田用水」という用水路があるけれど、何気ない用水路ですがこれにはお囲い堤が関わっているようです。綺麗な桜並木の堤を目指した訳でも、治水目的を主眼に置いて堤が作られたというより、戦国時代に木曽川対岸からの防御を目的として築かれたもののようです。堤で囲われ遮られてしまっては木曽川から導水し農地を潤していたそれまでが一変してしまいます。それを抑制する目的からこうした用水路と水門が設けられていったようです。この社の歴史がそこまで古いとは思えないけれど、一帯に水神社が多いこともあり、なにか水と縁があるような気がします。社に社名札はなく、扉が閉ざされお札から確認はできない。玉垣に何か刻まれていないかひと回りするも手掛かりなし、不明社としておこう。この辺りは伽藍の整った神社や、こうした小さな社など点在しているようです。名古屋から少し時間はかかるけれど、公園の花を見がてら車で訪れ、弁当持参で周辺を見て歩くのも楽しそうだ。街に比べ密になる事もなさそうです、それだけに地元の方に教えを乞う機会も少ないのがネック。気軽に尋ねられる日常が訪れればいいのだが・・・・・2021/5/28不明社創建、祭神 / 不明所在地 / 江南市小杁町一色関連記事 / フラワーパーク江南 0528
2021.06.15
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人の出入りの多い道の駅「雨晴」での車中泊は諦め、次の候補地「道の駅 氷見」を目指します。途中市内のスーパーで地元の食材(ホタルイカ)を買い求めたりした、「道の駅 氷見」までの移動時間は実質15分ほどで到着。地元スーパーで食料は買い求めて来た、もう車は運転しない、なのでまずはビール。一息ついて施設を見て歩く。施設東側の光景、立山連峰が綺麗に見られる、道路の向かい側にも駐車場と小規模のトイレもあります。芝生が敷き詰められた広場、その先に建つ小さな建物は無料の足湯で道の駅の建物はその奥になります。道の駅の徒歩圏内にスーパー銭湯「総湯」や老舗の酒蔵「高澤酒造」があり、「ひみ番屋街」ではフードコートもあり、広い駐車場もあるので車中泊には最適だと思います。何より道の駅から立山連峰のシルエットが良く見える。施設も新しく、女性が一番気にするトイレもかみさん曰く「とても綺麗」と好印象。コロナ禍の影響もあり、フードコートなど営業時間等はHPから確認される事をお勧めします。到着したのが17時30という事で併設する「ひみ番屋街」は店じまいを急ぐ店が多く、施設内をじっくり見て味わう時間はありませんでした。・・・・・多宝塔があるようだ。夕方のひみ番屋街、本来の姿ではないだろう。道の駅の施設「氷見漁港 場外市場 ひみ番屋街」HP取り敢えず今夜の酒を調達しようと近くの老舗酒蔵「高澤酒造」へ。マンホールのデザインは富山湾と立山連峰、手前の島は?道の駅駐車場から「高澤酒造」は歩いて5分もかからない、というか見えています。県道373号線沿いに店舗があり、所謂酒蔵のイメージはなくガラス張りの綺麗な酒屋さんの趣です。この道を少し歩いた右に「魚取社」と云う小さな神社が鎮座し、参拝を予定しましたが日没も近く見送ってしまったのが少し残念。店舗入り口曙・・・・・あの? 創業者が日本海から昇る美しい日の出に感動し付けた銘柄だそうだ。明治創業の酒蔵でこうして訪れるのは今回初めて。過去に曙は飲んだ記憶がある、すっきりしたのど越しのお酒だったように覚えている。今夜のお酒は大漁旗曙の720mlで決め打ち、お土産は・・・・・どれにするか迷うところ。こんな時期、ダメもとで利き酒できるか尋ねるがやはりだめ、恨めしコロナ。ラベルが気に入りしぼりたて純米生を家のお土産に、今どきの日本酒のパッケージは昔に比べお洒落になったものです、ラベルコレクションしたくもなるが、写真で事足りるか。もれなく酒粕も頂けました。高澤酒造所在地 / 富山県氷見市北大町18-77さあ、美味しいお酒を飲みながら晩御飯。今回、車中泊に持参した装備はホータブル電源、電気毛布、湯沸かし器、新たにポータブルナビをネットで買い求めてきた。期待のナビは時々方位を見失うけれど、持ち運びができる事、車中や緊急時の情報収集のアイテムだと思って買ったので付加価値は十分。因みにこの宿泊地の受信状況は良好、複数選局ができTVを見ながら食事が出来るようになり環境はよくなった。今後の課題としてコロナ禍でスーパーで食材を買い求める事も多くなり、クーラーボックスではなく冷蔵庫、夏を考えると小型のクーラーか冷風扇の方がいいのか、どれが本当に必要なものなのか考え中。写真は銭湯帰りに撮った駐車場と道の駅夜のとばりも降りると車の出入りは落ち着き、道の駅や周辺は静寂に包まれます。後方には比実乃江大橋のタワーがライトアップされていて、それが妙に心強く感じる。陽気のいい3月末とはいえ、陽が沈むと冷え込みはきつい、電気毛布はありがたい。いつもの様に爆睡。そしていつものように日の出前から目が覚める。足湯のある小高い場所から富山湾方向を眺める。赤く染まり始めた空に立山連峰のシルエットが浮かび上がり始めました。急いでカメラを取りに戻る、丁度目覚めたかみさんに外綺麗だよと声をかけるが中から見るとの事。早起きした者だけのご褒美です。手前の小島は氷見港の沖に浮かぶ唐島。この光景はひょっとしてマンホールのデザインか?曙の由来そのものか?こうした光景が見られるのは一瞬だね、見る見る色合いが変わっていく。いろんな事を忘れさせてくれる一時です。「ひみぼうずくん」あったーらしい朝が来たァ、きぃぼーの朝だぁ・・・・さてと、今日も暑くなりそうだ、上着を脱いで二日目動き出すか。車に戻るとかみさんが宿泊モードから走行モードに変えてくれていました(いつもすみません)日の出みた? 「車からしっかり見た〃、で朝御飯は来た道を戻り氷見漁港の魚市場食堂に行きます」そこかぃ、かみさんのエンジンも始動したようだ。了解「コーヒー飲んでから出発しよう」足湯あり、銭湯あり、快適な一晩と美しい光景を見せてくれた「道の駅氷見 ひみ番屋街」機会があればまた訪れたいところです。道の駅「氷見 ひみ番屋街」所在地 / 富山県氷見市北大町25-5「道の駅雨晴」から車ルート / 国道415線を北上⇒島尾橋を越え右➡漁火ロードで左折➡南大町右折➡県道302号線➡比実乃江大橋を越え左側 移動時間15~20分程関連記事 / 「義経社」富山県高岡市 富山飯 「魚市場食堂」
2021.06.13
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一泊二日で訪れた熊野三山。最後の参詣地那智大社の参拝も終え、大門坂駐車場から海岸線を走り帰路に就く。やがて左手に「花の窟(はなのいわや)神社」の案内板を見かけたので参拝することにした。ここは既に三重県に入ります、大門坂駐車場から所要時間は約一時間程です。花の窟神社は道の駅「熊野・花の窟」に隣接し、駐車は道の駅で問題なし。国道を渡るとその先は熊野灘が広がる七里御浜、とても解放感のある場所です。海岸線から陸側を眺めると目の前に小高い山が見えます、そこが花の窟(はなのいわや)神社。駐車場から神社は道の駅の「お綱茶屋」の間を抜け東側に進みます。写真は施設の東外れにある熊野市指定文化財「口有馬道標」上部が欠けた約1㍍ほどの石碑で「右 くまのさん 志ゆんれい」と記されていますが、建立年月日などは彫られていない。解説によれば「道標は本来「右」「左」と示すが熊野三山、西国巡礼はここから右に曲がって行くべしという指示のみ刻む。右に曲がらず、眺めの良い松林道を真っすぐに行くと、行く手に志原川が海に注ぎ、橋もない当時は渡し舟が上流にあったものの、渡し賃を節約し波打ち際を渡ろうとして、高波にさらわれる人も多かった。かつての志原川西岸の松林には十四基の無縁墓碑が並んでいたという。ここ、花の窟の前は本宮道と浜街道の分岐点で、人々はともすれば風光明媚な浜街道を選んでしまうため、安全な道は有馬村本街道に廻るように道標を建て警告したもので、地元の人たちの他国からくる旅人を思いやる心情がうかがえる。指定 平成十一年一月二十八日 熊野市教育委員会」この道標の後方には覆屋があり、中には「口有馬竜宮塔」と云う石標があります。こちらは塩害を防ぐため湊切りで犠牲になった人々と海の神竜宮神の怒りを鎮めるために建立された塔があります、参拝後に寄るつもりでしたがすっかり忘れ見逃してしまった。「口有馬道標」から道路を隔てた向かいが「花の窟(はなのいわや)神社」社頭。右に社標と略記がある。花の窟(はなのいわや)神社略記「祭神 伊弉冉尊、軻遇突智神代の昔より花を手向け祀るので花乃窟と言う。窟の頂上よりかけ渡すお綱は神と人をつなぎ神の恵みを授けて下さるお綱なり」お綱茶屋はここからきているのか。参道は杜の中に向かって真っすぐに続きます。正面に社殿らしき姿と参道左に赤い鳥居が見えます。鳥居の主は稲荷社のようで、左奥に向かって奉納鳥居が連なっています。参道の先には岩壁を背にした二つ社殿。左は「稲荷大明神」本殿前には二対の狛狐が守護しています。覆屋の中に丸い円盤状の石が山積みにされている、願いの数を表しているのか?稲荷大明神について解説や由緒は見当たらず、残念ですが詳細は分かりません。右の覆屋の中で祀られるのは「黄金竜神」幟に開運と書いてあり、しっかりお願いさせてもらいました。花の窟(はなのいわや)神社には一般的な拝殿や本殿はありません。参道の先に見える建物は境内唯一の建造物となる参籠殿。参籠殿左の手水鉢と参籠殿前に狛犬。参籠殿を抜けると目の前に巨大な岩壁が現れます。境内は杜が作る影に包まれ、静寂な空間に陽ざしを浴びて輝く白い岩。その前に立つと優しく包み込まれているような錯覚すら感じます。花の窟神社由緒書は以下鎮座地 三重県熊野市有馬町上地一三〇の三祭神 伊弉冉尊、軻遇突智尊例祭 春季大祭二月二日 秋季大祭十月二日由緒日本書紀に「一書曰(あるふみにいわく)伊弉冉尊火神を生み給う時に灼かれて神退去ましぬ、故れ紀伊国熊野の有馬村に葬しまつる土俗此神の魂を祭るには花の時に花を以って祭る。又鼓 吹幡旗を用て歌い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。この神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、此の霊地保護のため寛文九年九月、及び元禄八年十一月四限界御定書を下付し、且つ高札を建て殺生禁断を布令された。又、昭和二十三年四月十日上皇陛下が皇太子殿下の当時、熊野地方御見学の途次御立ち寄りあらせられる。昭和三十七年五月二十一日昭和天皇が熊野行幸啓遊ばされ當神社前浜に奉迎台が設けられ、三万市民心からお迎えを申し上げた」「伊弉冉尊」この岩自体が御神体、この拝所から参拝します。祭神は伊弉冉尊。中央の大きな窟は伊弉冉尊の女陰とされる「陰石」、ゴトビキ岩は「陽石」とされ、それらで一対をなすとも云われるようです。国生み、神生みの神はこの大きな窟に葬られているという。御神体には複数の穴があいていて、境内の白石をここに納め祈願すると願いが叶うと云われています。「軻遇突智尊」伊弉冉尊と向かい合う様に注連縄が張られた岩があります。祭神は軻遇突智尊伊弉冉尊は火の神軻遇突智尊を出産時に自らの体まで焼かれ死んでしまいます。母親と子が向かい合う様に祀られている。御綱掛け神事紀伊風土記寛文記に「昔祭には 紅の縄 錦の縄 金銀にて造り散らし花の祭また火の祭と云いしと 錦の幡は毎年朝廷より献上されたが 何れの年に熊野川の洪水にて旗を積みたる御船破れしかば 土俗祭日に至り 俄にせんすべくなく 縄にて幡の形を作りしが 其後錦の幡の事絶えて縄を用ゆると」今土俗の用ふる所は、縄を編みて幡三流の形を造り、幡の下に種々の花を括り、又、扇を結び付けて長き縄(一一〇尋)を以って窟の上より前なる塔に高く掛け、三流の幡窟の前に翻る。この神事は昭和四十三年三月二十八日、三重県無形文化財に指定される。平成十六年七月ユネスコ世界遺産登録三重、和歌山、奈良の三県にまたがる熊野古道などを含む「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産(文化遺産)に花窟神社も登録。高さ45㍍と云われる岩壁、この岩そのものが伊弉冉尊です。旗縄三神を意味するもので「三流の旗」と呼ばれるそうです。三神とは伊弉冉尊の子の太陽の神/天照大神、月の神/月読尊、大海原、統治の神/素戔鳴尊を指していると云う。解説だと地上の柱から45㍍の御神体の頂まで縄で繋がれるようですが訪れた時は写真の状態でした。とはいえ、この縄は人と神を結ぶものである事に違いはない。参籠殿には、御綱掛け神事の様子を伝える写真が掲げられています。この神事や派手な伽藍を持たない花の窟(はなのいわや)神社は、自然(神)への畏敬と感謝の念を持つ日本人の根源を感じさせてくれる。豊かな自然に育まれる熊野、八咫烏が飛んでいても不思議ではない。花の窟(はなのいわや)神社創建 / 不明祭神 / 伊弉冉尊、軻遇突智尊境内社 / 稲荷大明神、黄金竜神所在地 / 三重県熊野市有馬町上地130番地那智大社から車移動 / 大門坂駐車場から国道42号線と国道311号線を一時間程関連記事 / 「神蔵神社」熊野権現降臨地ゴトビキ岩は神秘的、「那智御瀧飛瀧神社」
2021.06.12
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瀬古東3「天王社」から庄内川左岸を下流(西)方向に歩いていく。30分ほど歩くと写真の用水路が進路を遮るように現れる。「庄内用水元杁」1910年(明治43)に作られたもので「現存する重要な土木遺産2800選」に選定されている。庄内川の水を取り入れ、矢田川の地下を横切り、黒川樋門から再び地上に、ここで堀川(黒川)、庄内用水、御用水(ごようすい)、上飯田用水、志賀用水などに分けられました。治水目的だけにとどまらす水上輸送路としても使われていたそうだ。「庄内用水元杁」から下流方向へ10分程歩いていきます。歩道が整備され、ゆったりとした流れの中に魚が泳ぎ、水草が躍る、暑気払いにはいい場所。水質は庄内川次第で変わりますが、ちょっとした柿田川の雰囲気が楽しめるお気に入りの場所です。「庄内用水元杁」所在地 / 名古屋市守山区瀬古味鋺前瀬古東3「天王社」から西へ徒歩で20分程関連記事 / 善光寺街道と水屋巡り VOL8『庄内用水元杁』ここまで来ると南側には矢田川の堤はもう目の前。僅かな距離で大きな二つの川に挟まれていて、水害が起こりやすいのは容易に想像がつきます。写真のこの堰堤? これ堰堤ではなく嘗ての名鉄勝川線の名残。1931年(昭和6)名岐鉄道の城北線の一部として、味鋺 ⇔ 新勝川間で開業し、名古屋駅から岐阜県可児郡豊岡町(現在の多治見駅付近)を間を結ぶ構想の下に出来たが1937年(昭和12)に廃止となったもの。この辺りにはこうした軌道跡が今も残っています。道路(県道202号線)を挟んで庄内用水の治水目的の堤のようにみえるけれど、この上に線路が敷かれ車両が走っていたという。その右の大きな施設は守西ポンプ所二つの天井川に挟まれ、地盤の低い周辺一帯の治水対策の要と云っても過言でないだろう。一帯に降った雨水や地下水はここで汲み上げ矢田川に放流されるそうだ。水屋が必要なくなったのもこうした揚水施設の整備によるもの。守西ポンプ所所在地 / 名古屋市守山区瀬古1丁目 「庄内用水元杁」から南へ徒歩5~6分守西ポンプ所の南が矢田川堤。その上を走る道路際に赤い覆屋の中に祀られた赤い社があります。南を流れる矢田川を向いて祀られる社は天王社。車で通りがかっても赤い存在はすぐに目につく、守山で見かける天王社の外観のイメージをくむものです。正面から庄内川方向の眺め、後方の建物が守西ポンプ所。これまで一度も扉が開けられているのを見たことがなく、御札は見た事はありませんが、巷の情報から天王社で間違いないと思います。こうして堤の上から北の建物の屋根を見ると土地の低さが良く分かります。この社とポンプ所が一帯を災いから防いでいる、そんな光景です。この天王社の創建は不明ですが、以前は矢田川に架かる三界橋の南側に祀られていたと云われ、水害の被害を避ける目的から堤の上に移されたと云われています。天王社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市守山区瀬古1丁目関連記事 / 上飯田『黒川樋門』南側の矢田川の眺め。普段は穏やかな流れも梅雨時や台風の時にはガラッと表情を変えます。矢田川堤上流から眺める天王社。目立つ存在です。この辺りから北のポンプ所を見ると、東側に堤防らしき痕跡が見られます。これが先程道路から見た名鉄勝川線の軌道跡。枕木や線路こそ見られませんが、その下に敷かれたバラストがここに線路があった事を語っています。まだこうして残っているんですね。所在地 / 名古屋市守山区瀬古1丁目12432021/5/31守山瀬古東3「天王社」から瀬古1「天王社」までの徒歩ルート / 約30分の工程関連記事 / 守山瀬古東3「天王社」大曽根駅から徒歩で天王社を巡ったルート
2021.06.10
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稲置街道 「旧堀部邸と不明社」からの続きになります。おやじの燃料計は警告灯が点滅している、いよいよおやじ待望の本町通。ここまで歩いて来た稲置街道は本町通り中ほどから一本東を平行し北上、新合瀬川を渡り木曽川方向へ続いていきますが、ここは街道は置いといて燃料補給のため直進。それまでの通りとはうって変わって人通りが多くなります。本町通り1㌖に満たない通りですが、地域の活性化を目的として情緒ある犬山城下を再現したもの。沿道には食欲をそそる店や土産店、古くから続く酒蔵など軒を連ね、人が集中するところでもある。時期が卒業シーズンだったこともあり、若い衆が多い。普通なら卒業旅行に海外や遠方へ・・・・・と行きたいところだろうがこんな世の中ではそうもいかん。記録に残る時代に節目を迎えたことを前向きに捉えるしかない。老い呆け来ず地蔵(元気地蔵)縁起には「おぼこ地蔵といけず地蔵、ふたつあわせて「老い呆け来ず」二体の像は人の内面の善と不善を表し、頭にはちまきを結び「元気長生き、縁結び、安産、この成長」を祈願しています」とあり、左がおぼこ地蔵で右がいけず地蔵で、詩画書作家の城たいが氏の作で京都市役所前のゼスト広場に設置されているという地蔵の原像だそうな。所在地 / 犬山市西古券62どんでん館犬山祭りで使用される車山の実物や衣装が展示され、名称の「どんでん」とは犬山祭の車山が城下町の辻で180度方向転換する様から「どんでん」と事から名付けられているらしい。犬山祭(毎年4月、第一土日開催)では13輌の車山(やま)が曳かれ、ユネスコ無形文化遺産に登録されていて、どんでん館にはそのうちの4輌が展示されているという。(入館は有料)所在地 / 犬山市犬山東古券62犬山牛太郎飛騨牛にぎりのお店、どこに行っても「牛の握り」と聞くと引き付けられる。列に並んで手にするだけに尚更おいしく感じるか。所在地 / 犬山市犬山東古券70森のマルシェ多様な店舗が入っていて何を食べるか迷うスポット。間口は狭く、うなぎの寝床の様で奥にテーブル席のある広場がある。ここの二階はウッドデッキのオープンテラスになっていて、十分な間隔を保ってテーブル席があり、解放感満載の中で美味しいお酒が味わえる。所在地 / 犬山市犬山西古券21-2さあ、ここまで歩いてきたご褒美だ、燃料補給といこう。壽俵屋 犬山庵 醤油おこげ串にかみさんが捕まる、串にやきおりぎりと守口漬けがサンド、チビ太のおでんのように見える。上の焼おにぎりは必ずハート形ではないらしい、ハート型は当たりらしい。おこげと守口漬が相性がいいのを初めて知った、おいしい。所在地 / 犬山市犬山西古券15犬山ローレライ麦酒 食べ歩きしながら再びこちらで燃料補給。左はローレライ麦酒「スタウト」、右が地元の酒小弓鶴の上撰。みりんのような不思議な味わいだった、もれなく黒豆付きなのがうれしい。犬山市大字羽黒字成海郷70番地にある小弓鶴酒造の犬山ローレライ麦酒館ではビアホールもあり、予めRVパークを予約しておけば帰りの心配は不要、腰を据えてじっくり味わえる。丸の内店所在地 / 犬山市犬山北古券7-5 犬山ローレライ麦酒館 / 犬山市大字羽黒字成海郷70番地「本町通り」の街並みも間もなく終わり、正面に犬山城も近づいてきました。2021/03/09関連記事 / 稲置街道 「旧堀部邸と不明社」 名鉄小牧線沿線 春を探しに25,000歩
2021.06.09
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『越中國一之宮 氣多神社』の参拝を終え、氣田神社口交差点を左折、国道415号線でかみさんが予定していた宿泊予定地「道の駅 雨晴」に向かいます、移動時間は10分程。「道の駅雨晴」国道415号線の海岸沿いにある道の駅で2018年に完成した三階建ての白い外観はあたかも船のようにも見える。当然施設も綺麗で展望デッキは24時間開放されています。駐車場は二つに分かれていますが、そもそも国道を行き交う車も多く、景勝地が間近という事で駐車可能台数は少なく感じる。人の出入りが多く車中泊には適さないかもしれない、予定を変えよう。手前の線路はJR氷見線で、この道の駅の展望テラスからだと海岸線を走る電車と踏み切り、夕陽に赤く染まっていく立山連峰の絶景が見られる最高の場所。テラスから眺める眺望、手前の踏切の先の小さな杜が義経社。目の前に広がる海岸線は日本の渚百選の一つ「雨晴海岸」と呼ばれる景勝地です。踏切を越えると岩礁が続く海岸に下りることが出来、海岸から眺める富山湾とすぐ沖に浮かぶ小島「女岩」、背景に立山連峰と絶好の写真スポット。手前の踏切は以前はなかったそうですが、絶景を見ようと線路を横断する観光客が多く近年設けられたもの。テラスからだと運が良ければ氷見線の電車、義経社、女岩、富山湾、立山連峰を一枚に収めることも出来る、三脚を構えてその時を待つ写真愛好家が多いのは頷ける。テラスから見る義経社社殿。海岸の小さな岩山の頂に社殿が祀られています。踏切を越え義経社へ。円錐形の岩山の手前に鳥居があり、岩山の斜度はとても急です。下から社殿に続く石段が組まれ、狛犬もいる。鳥居左に「雨晴海岸と義経社」解説。「二上山の山裾が富山湾に没するこの辺り一帯は、白浜青松と日本海では数少ない遠浅海岸の「雨晴海岸」です。この岩は「義経岩」といい、文治三年(1187年)に源義経が奥州下りの際、ここを通りかかった時、にわか雨にあい、この岩の下で家来ともども雨宿りをしたという伝説に由来します。また、近在する女岩、男岩と共にこの海岸は秀景をなし、かつて越中国司として伏木に在住した青年歌人大伴家持もこの絶景を多くの万葉集におさめています。」ここに記されている男岩とは、女岩から右方向に1㌔程離れているので双方を一枚の写真に収める事はできません。また先程参拝した「越中國一之宮氣田神社」の「大伴神社」に大伴家持が祀られています。鳥居から見上げる本殿、岩山(義経岩)の下から石段はあるものの・・・・・こんな感じの高度差があり冒険するのは諦めて下から参拝させてもらいました。義経社側面の眺め、こうして見上げると首が疲れる高低差。義経社右方向から義経社と左が道の駅。こうして義経岩を見ると大した事はなさそうに見えるのだが、滞在時間中に上まで登り参拝する姿は見かけなかった。義経社境内から女岩が目の当たりにできる。「女岩」周囲に連なる小岩を子と見立ているようです、男岩は右の堤防の先となり親子の姿は捉えきれませんでした。 訪れたのは3月末、立山連峰の山々にはしっかり雪が残る。「義経岩」頼朝に追われた義経と弁慶の一行が雨をしのいだとされる義経岩は別名「義経雨はらしの岩」とも呼ばれるようで、雨に打たれ雨宿りをする義経が天候の回復を祈願すると瞬く間に雨は止んだと云う。大きく張り出した岩は浸食により劣化し、柱で補修されたようですが、違和感のない外観を意識した造になっています。岩の下は広間のようになっていて、雨をやり過ごすにはいい空間が出来ています。大勢入れるかというとそうでもない。四季折々、朝な夕なと美しい自然の表情を見せてくれる雨晴海岸。富山を象徴するスポットと云っても良いかもしれない。「義経社」創建不明 / 不明祭神 / 不明「道の駅雨晴」所在地 / 富山県高岡市太田24番地74氣田神社から車アクセス / 氣田神社口交差点左折、国道415号線を直進10分程関連記事 / 『越中國一之宮 氣多神社』
2021.06.07
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COVID19ワクチン昨日一回目接種を終えた接種会場は案内や書類確認、問診などセクションは細分化され、多くの担当による誘導もあり、会場に入場してから次回の予約含めて退場まで26分で終えることが出来た。TVで見る混乱は皆無だった。接種後はいつも通り酒を飲み、風呂に入って一晩経過した。反応には個人差はあるだろうが、家畜の様に予防接種を打たれ育った年代から見れば痛みは蚊がさすようなもの。体温に変化なし、倦怠感などもない。唯一、接種した所だけは触ると弱い腫れと若干の痛みを感じる事はある、こんなもんだろう。1回目の接種を終え、発熱を想定し予め解熱剤も用意したが必要はなさそうです。解熱剤の成分についてもいろいろ云われているようで、アセトアミノフェン配合の商品を推奨する考えもあるようで、それにより一部商品が店頭から消える事象が起きている様です。発熱など自覚症状かあるなら、アスピリン、ロキソプロフェンやイブプロフェンなどの非ステロイド性抗炎症薬の使用は可能という事です。1回目より2回目の方が顕著に反応が出る傾向にあるようなので薬箱の中身は見ておいた方がいいかもしれない。幸い子供達の解熱剤もあるのでこの時期、医者の手を煩わせることもないだろう。周囲の様子を窺う必要はないと思います、接種が出来る機会は生かすべき。2週間ほど前に会社の健康診断があり、担当者の方との世間話でも「こうした機会に打てばいいのに」と話していたが、漸く形になって行くようです。接種しようがしまいが昨日までの日常とはなにも変わらないし、何回打っても感染する事も事実。しかしワクチンを接種する事でメンタルな部分の改善効果は大きい。ウイルスは人の動向を見据えたように生き残りをかけて素早く変異し、日本株、五輪株も視野に入れている。ウイルスに忖度や党利党略、選挙などない、どこまでも純粋だ。危機感のないガースーの意思表明やのんびりした具体的な施策の運用よりもウイルスは賢く、早い。時間も予算も情報も意見もあった。ウイルスに負けないスピード感のある、多様性に満ちた決断をするのは責任者の仕事だ。そんな中で台湾支援はあの量であれだけ感謝の意を表してくれた、滅多にないクリーンヒットだね。接種会場で誘導してくれる多くの担当者への接種状況は分からないけれど、そうした方々には「ご苦労様です」の声掛けだけはしたいものです。
2021.06.06
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おはようございます今朝はいつも以上に早く目が覚めてしまい折角なので車で千種公園のユリを見てきました5/26に訪れた時には蕾の多かったユリ園あれから一週間、今が見頃を迎えています園内南側は緑の中に鮮やかな色合いのユリ咲き誇っています甘い香りが一帯に漂っています一見平和なこのユリ園の南は「名古屋東部医療センター」、終わりの見えない病と闘う最前線がある。いま外は鮮やかな色で溢れている、病いに勝ちその目で見よう2021/06/05かみさんには悪いが今日が一回目ワクチン接種の日千種公園 ゆり園所在地 / 名古屋市千種区若水1丁目1茶屋ヶ坂公園 あじさい今朝の紫陽花こちらもいい感じ所在地 / 名古屋市千種区鍋屋上野字汁谷
2021.06.05
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瀬古東2の「天王社」を後に、一部下街道を歩き庄内川方向の瀬古東3「天王社」に向かいます。小学校の西側の路地を北に進み右に進みます。幸心の交差点の西側にある東春酒造、この西側の細い路地に入ります。ここの路地は水屋が残り、その石垣はまるで城壁の様。周辺の光景とは一味違った、落ち着いた雰囲気が漂います。矢田川を越え間もなく庄内川も近づいてきました。二つの一級河川に挟まれたこの一帯、古くから川の氾濫に見舞われ瀬古村輪中とも呼ばれるそうです。そうした環境から、そこに住むための知恵が生まれます、水屋もそうです。この高さの石垣が必要な土地柄だった、そう考えると少し怖いものがある。今は堤防や導水路、揚水施設が整備され、それらが水屋の役割を担っている。水屋の石垣沿いに進と左右に延びる細い道が現れます、左に進みます。その道は下街道、ここを進むと瀬古東3の「天王社」は近い。瀬古東2の「天王社」から徒歩15分もあれば瀬古東3「天王社」に到着。写真は今歩いて来た下街道方向の眺め。手前の交差点を左に進むと目の前は国道19号線の「勝川橋南」交差点です。駐車場はないので歩きが一番。交差点の角に社地が与えられ、瓦葺の覆屋の中に板宮造りの赤い社殿が下街道を見守る様に佇んでいます。左にはトタン屋根のお堂があります。低い玉垣で囲まれていて瀬古東2のやたら広い境内の「天王社」を見た後だと狭いけれど、樹々はなく鳥居や狛犬がいる訳でもないのでスッキリした印象があります。境内に入ると右に篝火台と手水鉢(石臼か?)覆屋の中は遠目に見た時は一社だけのように見えましたがよく見れば手前に2社と鳥居もある。手前の二社は扉が開けられ、中が見通せ神札は入っていません。中央の社には中に神札が収められているのがわかります。頑丈に施錠された賽銭箱に賽銭を入れ参拝。こちらがいつ頃祀られたものか調べて見ましたが辿り着けませんでしたが、町内の神社当番により神札は入れ替えられているようです。神社のある町に住むと神社当番がついて回ってくるもので、それは時に面倒臭いと感じかもしれない。ご近所さんを知るいい機会だと思うのだが。左のお堂。内部に一体の地蔵が安置されています。良く見ると像の左右に何か刻まれているように思える。嘗ては街道の分岐点に祀られた道標だったのかもしれない。この辺りは下街道、そこから分岐するとなると庄内川沿い上流の龍泉寺方向か。いずれにしてもこの地蔵さんは長年の不風雨で風化し、顔の表情すら分からない。右の天王社より古くからこの辺りで行き交う人々を導いてきたものだろう。赤い前掛けがかけられ、堂前に生花も手向けられ今も地元から崇敬されているのがよく分かる。天王社から先の下街道、右手のコンクリートの壁は国道19号線、その先の勝川橋を越えれば春日井です。名古屋市守山区瀬古東3「天王社」創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市守山区瀬古東3関連記事 / 守山区瀬古東2 「天王社」 善光寺街道と水屋巡り VOL7『水屋』 瀬古東2天王社から徒歩ルート / 東春酒造経由徒歩15分程
2021.06.05
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前回5月27日に茶屋ヶ坂公園の紫陽花を見に出かけあれから一週間が過ぎ再び訪れて見ましたそろそろ花も揃ってきました葉ばかりが目立った前回ですが今はカメラの画面いっぱいに紫陽花の花の色が入るようになりましたカメラ片手に訪れても大丈夫(写真は茶屋ヶ坂公園野球場東の紫陽花)茶屋ヶ坂公園所在地 / 名古屋市千種区鍋屋上野字汁谷公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線「茶屋坂」下車南へ徒歩10分程関連記事 / 0527 茶屋ヶ坂公園の紫陽花 2 (今週末はまだ早い)
2021.06.03
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熊野三山詣も熊野那智大社、青岸渡寺と参拝し、三重の塔から徒歩10分~15分程谷筋に下って那智御滝飛瀧神社で一応コンプリートとなります。裏参道から飛瀧神社までは下りばかりなので楽だろうと思いきや最後の最後まで道のりは楽ではありませんでした。境内と一般道を結ぶ舗装された連絡道を歩くのはほんの僅か、すぐに裏参道に入ると写真のような看板、看板は助かるが、奴は事前に「ここにいる」とは教えてくれない。いつも突然黙って現れる。長いものは嫌いだ。そんな怪しい空気も正面に見える那智の滝が忘れさせてくれる、事はないか。降り始めてすぐに庚申塔が現れる。車で移動すれば楽なんだろうが、もう少し熊野古道を体感していこう。三重塔近辺から裏参道を歩き飛瀧神社に向かいます。参道は連絡道路を横切りながら下へ続きます、五町石から見上げると、このような感じです。伏し拝みここは「那智御瀧飛瀧神社」の遥拝所。五町石後方のこの辺りには往古の礎石が残る、毎年7月14日熊野那智大社の例大祭(扇祭り・那智の火祭り)ではこの場所で扇建て神事が行われる聖地。ここから飛瀧神社に向かう石段は鎌倉積みの石段が面影を留め、道はここから少し険しい表情に変わる。昨日のゴトビキ岩への道のりに比べれば楽なもんでしょう。しばらくは杜の中に続く石段と周囲の樹々の間から時折姿を見せる滝だけの視界の狭い静かな古道の世界が続きます。やがて視界は一気に広がり、茶店や車が行き交う車道が現れます。ここは「那智の滝前」のバス停、駐車場もあり、車で容易に訪れることが出来るので参拝客も多く、現実の世界に戻った感じ。道路は大きくカーブし、「那智御瀧飛瀧神社」鳥居はその曲がり角に見えています。鳥居脇の解説。大雲取連山は那智48滝と云われ多くの滝があります、その中で一番の落差を誇るのが「那智御瀧」。高さは133㍍で滝口の幅は13㍍、滝壺の深さは10㍍以上とある。御瀧そのものが大己貴命が現れた御神体としてお祀りし、熊野の神様は元々ここでお祀りされたという。「那智御瀧飛瀧神社」は熊野那智大社の別宮。鳥居をくぐり、角の取れた石段を参道を降りていきます。杉木立の薄暗い杜の先に陽光に照らされた那智の滝が迫る。ここが最後の石段、立ち止まって滝を眺めたい。多くの参拝客が踏みしめた石段を下から振り返る。石段を下り切ると写真の「光ヶ峯遥拝石」「熊野の神様が降臨したと伝わる御山、那智山熊野信仰の原点。この石は原点の地「光ヶ峯」に通じ、ここは遥拝所として重要な場所。この石を撫でると原点の御力を頂ける事が出来ると伝わる」この不思議な石を1回撫でると縁結び心願成就、2回撫でると金運隆盛・家庭安全、3回撫でると厄除け・身体健勝に御利益があると伝わり、その御利益を得るため古くから撫でられて来たのだろう、石の表面は角が取れ滑らかになっている。「那智御瀧飛瀧(ひろう)神社」と那智の滝全景。滝そのものが御神体なので、ここには拝殿や本殿はありません。滝の音だけが聞こえてきます。遥拝所から見る那智の滝見あげるような岩壁の上から白い筋となり流れ落ちる水。はかり知れない自然の力を目の当たりにするとこの場所に神の存在を感じるのは当然だろう。主祭神は大己貴命 社格は熊野那智大社別宮。本殿や拝殿もなく、直接滝を拝むこととなる。滝の飛沫に触れることで延命長寿の霊験があると云われるそうです。更に滝を間近で感じたい、そうした方は有料になりますが飛瀧神社遥拝所に行くことができます。境内は流れ落ちる水が空気を震わせ、マイナスイオンが溢れています、心が落ち着く世界。左の木立の中に朱塗りの遥拝所が見えています。瀧を感じる極め付きは「御滝注連縄張替式」ですね。新たな年を迎えるにあたり、あの滝口に架かる大注連縄は張り替えられますが、想像しただけでも身震いする。南紀熊野ジオパーク解説あの岩壁の成り立ちが分かりやすく解説されている。今でこそメカニズムが紹介され「なるほど」と思うが、太古の人がこの地に踏み入り始めて目の当たりににした時、仰ぎ見る高さから空気を揺るがし流れ落ちる那智の滝の姿は、私達見る滝とは違う神々しいものだっただろう。大門坂駐車場から延べ3時間半~4時間、自ら我慢して極めたからこそ、こうして見る光景に何か特別なものを感じる事が出来る。途中「茶房珍重庵」で「もうで餅」を食べたりして歩いていたので9:00に駐車場を出発、再び戻ってきたのが12:30を過ぎていました、じっくり回ると1日がかりだね。自然を感じなから杉木立の古道を歩き、自然の力強さの中に不思議を感じることが出来るのが熊野三山かもしれない。因みに飛瀧神社から駐車場まではバスで降りてきました。これで当初の目標は達成した、時間を見ながらもう一社参拝して行こう。2021/2/22「那智御瀧飛瀧神社」住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1三重の塔から徒歩ルート / 10分~15分関連記事 / 熊野三山詣 『西国第一番札所 那智山 青岸渡寺 』
2021.06.02
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八尾稲荷の鎮座する下街道、そこから1本西筋、北側に集合住宅、前と左右を戸建住宅に囲まれるように一区画がぽっかりと空いた空間。整地されただけで雑草が生え、区画は玉垣で囲われている。ここが瀬古東2の天王社。下街道の一方西筋を北方向に向いて撮った一枚。住宅が林立した光景はそのまま掲載するには難があり、相当消してしまったので全体のイメージが伝わりにくくなってしまった事をお許し願いたい。天王社がある区画は上の写真の右上。道路から見る天王社。区画全周を少し古めの玉垣が囲っており、広くて南北に長い社地の奥に本殿が見える。本殿に対し不必要と思えるような広い社地にポツンと本殿だけが祀られている。鳥居や狛犬、手水鉢も見当たらない、社地には杜はなく、こうして見ると一本の樹があるように見えますが、それは集合住宅の庭木。不思議な比率だ。過去ここには少し規模の大きな神社があったのかも知れない。その名残なのか社地の中ほどに大きな切株が残っています。本殿はこの辺りで見かける天王社の流れを踏襲し、この広い境内に小さな板宮造りの赤い社の存在と、そこに訪れるは参拝客は逆に周囲から目立つかもしれない。社名札はなく扉は閉じられ、お札まで確認できないけれど天王社で間違いないと思います。社は大きな岩を組み、一段高く積まれその上に祀られています。社を斜めから眺める。境内の様子に対し、社の状態は綺麗に手入れされ、近隣の天王社より状態はいいかもしれない。この辺りの少し前の地図など当たってみる、そもそも鳥居の印がなく、いつ頃祀られたものなのか推測すらできない。一帯は各町内ごとに天王社が祀られているといってもいいくらい、少し歩けば目にすることができる。瀬古東2の天王社と云って間違いないかもしれない。大正か昭和初期に祀られたような気はするが創建に繋がるものは見つけられなかった。ひと回りして古びた賽銭箱に志を入れ参拝させてもらうも、何も分からない事に対し若干消化不良気味。由緒は分からない、この広い境内の意味も良く分からない。分からない事ばかりだけれど、住宅が建つ中で天王社の社地がこうして与えられている。話は脱線するかもしれないけれど、息子たち二人は学童で育った、そこには年間のイベントがあり職種の違う父母が得意の分野で参画し目的達成に向け活動していた、そうした親の姿を見て子は育っていき助け合いを学んでくれたものと思っている。ややもすると面倒は避けたい傾向に陥り、昔から続いていたイベントや地域行事は姿を消していく。家は一杯建っていても隣の顔も分からない住宅街、それが時流なんでしょう。集まっている事で安心を得ている錯覚に陥るけれど、実はとんでもなく山奥の集落より繋がりは希薄なのかもしれない。この小さな社は地域の住民同士を繋ぐ重要な役割を担っているのかもしれない。守山の天王社を見て廻るとペンキでコテコテだったりするけれど、そこが住民同士の結束の強さのバロメーターとして映ってくる。業者が綺麗に塗装したものより味があっていいものです。2021/05/02守山区瀬古東2「天王社」創建・祭神 / 不明所在地 / 名古屋市守山区瀬古東2丁目八尾稲荷から徒歩ルート / 八尾稲荷から一筋西、徒歩5分関連記事 / 『八尾稲荷』
2021.06.01
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