全21件 (21件中 1-21件目)
1
前回掲載した松平郷の「八幡神社・松平東照宮」そこから最深部に鎮座する徳川菩提寺「高月院」、今回は高月院から更に山道を登った先で見かけた『親氏公行場跡』を掲載する事にします。髙月院(後日掲載)の境内から北に続く細い人道を進むと車道に出るので、そこを右に上っていきます周囲は山の斜面を耕作した長閑な山村の趣が漂います。東照宮から親氏公行場跡の入口までの約1㌔、道草無しで徒歩30分程でしょうか。まだまだ等高線の間隔も広いので上りと云ってもさほどのことはない。髙月院の境内から上る事20分程。六所山南西にあたり、道の正面に古びた神明鳥居が現れます。鳥居の右に小さな道先案内板がありますが、神社を指し示すものではなく「親氏公行場跡と展望所」へ導いています。道の先には更に車道が横切っているようで、この鳥居の社殿は中央の杜の中かと思い鳥居をくぐり参道を進みました。枯れ葉が覆う少し荒れた参道はすぐに急な坂となり上の写真の様にガードレールが見えてきます。「ありゃ、ないじゃん」、車道からの眺め。何さ、鳥居くぐらなくても道なり進み上の道で左に行けば上らなくても良かったんじゃないの。すると社殿は何処ヨと道の先を見ると・・・その先には今来た参道よりもっと過酷な山道が森の中に続いています。入口付近の案内板には親氏公行場跡はこの先と導いているが、神社を指し示すものではない。550㍍かぁ、どうしても神社が気になり、かみさんにはここで待ってもらい一人で上ってみました。落葉樹と熊笹が生い茂る荒れた細い参道?獣道?、足元は枯れ葉で滑りやすく足元は要注意。こうした道はついつい良からぬ事を想像してしまう。足元の長い物やら道の先に猪や熊がいるんじゃない?、足元も道の先にも気を使わなくては安心できない、坂道以上に気を使う。ささやかでも安心の拠り所となる熊除け鈴は必需品か? 写真の撮影データから入口から下の写真撮影まで1.5分、この先550㍍にしては近く、実感は長く感じる。狭い山道から視界が開け、広くて平坦な空間が現れます。そこは正面に山肌から露出した巨岩が屏風の様に並び、幾つかの石の社と岩の下に建つ社が視界に入る。更に右側に写真の建物があります。拝殿なのか覆殿なのか、格子から内部を窺うも暗くて詳細は不明でした。鳥居の先の社殿はこの建物と岩の下に建つ覆屋がそれにあたるのか?額も神社の名が彫られた石標も見当たらなかった。自宅に戻ってから、三河物語や松平郷村史など見ていたがどうもはっきりしない。岩の前に清水と彫られた手水鉢があり、寄進された年度が彫られていないか探してみたが分からなかった。左の石標も正面に文字が刻まれているようですが読み取れず年代はイメージすらできない。この場所が徳川家の根源となる松平親氏が行を行った場所という。雰囲気は行をするにはいい場所かも知れないナとは思う。今とは違い道が整備されていない当時は険しい道だった事だろう。親氏の素性は諸説あるようで三河物語や松平郷村史でも違うようだ、三河物語では「親氏の先祖は八幡太郎義家の流れで、上野国新田郡徳河の郷に代々定住し徳河殿と申す。足利高氏に打ち負け、徳河郷を離れ全国を流浪し、親氏は時宗の僧侶となり、徳阿弥と称し当地に辿り着いた・・・・・」片や松平村史では僧侶としては記されず、徳翁斎信武と名乗りこの地に辿り着いた親氏は、松平太郎左衛門信重の連歌興行の折に筆役としてそつなく務め、それを気に入られ「見納めの井戸」で摘んでいたあやめを差し出した水姫の婿に見染められた。など記述のされかたが違うようだ。更に松平村史に親氏公行場跡と思われる記述も現れた。内容は「高月院の後山を登ること四十五町、屏風を立てたる如き嶮山あり。観音山と称す。山の中腹に大岩石あり。松平親氏公観音を岩洞に勧請し、其ノ岩上に直立して七日間天に祈りし所なりと云ふ」ものです。記述にある屏風の様な岩を背にするこの場所が行場で、岩の下の覆屋には松平親氏公観音が祀られている。そう感じさせる程雰囲気は似ている。一つ腑に落ちない、「高月院の後山を登ること四十五町」…?昔の距離感なのでなんともいえないけれど、高月院からグーグル先生によれば1㌔も満たない、気にしない方がよさそうだ。松平村史に記された「岩上に直立して七日間天に祈り…」の場所がここである事には間違いなさそうです。ところで本題のあの鳥居は?ここに鳥居の社殿があったと思いたいが修験道のようなこの道が万人が訪れる神社参道なのだろうかと思うと腑に落ちない。そういえば、八幡社・松平東照宮の栞には1916年(大正5)に松平郷内の三社を合併とあった。推測でしかないけれど、この鳥居はその合祀された神社の名残なのかもしれない。社殿のあった場所となると……やはりここなのかな?その根拠になるものがこの空間にあったのかもしれない、けれど自分には鳥居以外に神社の痕跡を見付けられなかった。下で待つかみさんの事を思うとこれ以上は時間を費やせない、岩の前で手を合わせこの場を立ち去りました。2021/11/18親氏公行場跡所在地 / 豊田市松平町藤伝田高月院から徒歩ルート / 約15分八幡社・松平東照宮から高月院まで徒歩ルート / 10分程関連記事 / 松平郷の紅葉、松平東照宮
2021.11.29
コメント(0)
半田市乙川若宮町。以前掲載した海潮院から西に40分程歩き、乙川幼稚園北側に知多新四国八十八箇所霊場番外の「曹洞宗 清涼山 海蔵寺」があります。清涼山 海蔵寺入口。山門はなく参道右に禁葷酒入界内の石標が建っています。正面には本堂が見えている、今日は餃子もビールも口にしてはいないので大丈夫。海蔵寺境内の全景。参道左の宝篋印塔の先に本堂、右に庫裏・納経所、本堂左は手前から鐘楼、手水舎、弘法堂の伽藍。中庭に聳えるイチョウの樹が印象的で、これらが黄葉し境内を黄に染める頃に訪れると海蔵寺の別の一面を見られるのでは。境内に車が止まっていますが法要に訪れた方の専用駐車場と理解した方がいいかもしれません。参道左の宝篋印塔方向の眺め。右手に聖観世音菩薩像、奥の樹々に覆われた一画に鐘楼が建っています。更にその後方に広々とした海蔵寺参拝者駐車場があり、駐車に困る事はなさそうです。とはいえ、この辺りの道は幅員の狭い個所も多く、今日は歩きですが、自分なら軽でくるかな。瓦葺の切妻屋根の鐘楼。本堂と庫裏方向の眺め。イチョウの樹の大きなこと。海蔵寺本堂全景。比較的新しいように見えます、過去この地は大きな地震(昭和19・20年の東南海・三河地震)に見舞われ、海蔵寺の庫裏を始め大きな被害を受けたそうです、こうして見る姿はその後再興されたもの。新しいとはいえ、正面から見る入母屋瓦葺の本堂の姿は安定感があり落ち着いた佇まいのもの。本堂の額と堂内。海蔵寺の創建は1489年(長享3)と云われ、開山は月洲用敦大和尚、開基は華草栄香大和尚とされます。本尊は釈迦如来で宗派は曹洞宗。知多四国霊場は弘法大師上陸の地でもあるこの地方で、大師と所縁のある88ヶ寺の札所と番外10ヶ寺で成り立っています。海蔵寺は1909年(明治42)に高野山奥の院として番外に加えられ、直伝弘法霊場二十二番札所、東海薬師霊場四十六番札所でもあります。本堂左の弘法堂全景。左に手水舎とその左にも大きなイチョウの樹が聳えている。切妻瓦葺の手水舎、訪れた時は秋の実り銀杏が一杯。龍はまだお休みの様です。弘法堂入口右の石標には「この寺に大師法来の法衣あり」と刻まれています。その由縁は海蔵寺第二世、田翁和尚は予知能力に長けた方で、遠く離れた高野山の火災を予知し、祈祷しながら庭に水を撒き高野山の火を消したそうです。そうした功績から高野山より「蓮糸の法衣」を授かり、それは寺宝として現在も受け継がれているそうです。御詠歌 奥の院高野の山に変らねば 真心こめて頼め諸人2021/9/24「曹洞宗 清涼山 海蔵寺」宗派 / 曹洞宗創建 / 1489年(長享3)開山 / 月洲用敦大和尚開基 / 華草栄香大和尚本尊 / 釈迦如来札所 / 知多新四国八十八箇所霊場番外、直伝弘法霊場二十二番札所、東海薬師霊場四十六番札所所在地 / 半田市乙川若宮町二十五番地亀崎 海潮院から徒歩ルート / 概ね40~45分程度関連記事 / 「知多新四国霊場 五十四番札所 亀嶺山 海潮院」半田市亀崎
2021.11.28
コメント(0)
鳥取県鳥取市国府町の因幡国庁跡などが点在する山裾に大きな社叢を持つ「因幡國一ノ宮宇倍神社」街中の大きな一ノ鳥居から続く石畳の参道は杜に続き、社殿は町を見下ろす高みに鎮座する。住宅街に一ノ鳥居があり、そこから続く石畳は狛犬が守護する石段に続きます。石段付近は駐車場になっていて、駐車場はここ以外にも右手の坂を上がりきった所、一の鳥居から2~3分離れた場所の3か所が用意されているようです。石段は比較的緩やかでここまでの段数はありません。右に「國弊中社宇部神社」の社号標。石段前を守護する狛犬。そこから一の鳥居方向の眺め。石段を上ると境内は杜に包まれ既に灯篭には灯が灯っています。参道はここから左に続きます。正面にニノ鳥居とその先に石段が続く。ニノ鳥居の額「因幡一宮宇倍神社」鳥居右には県指定無形文化財の「宇部神社獅子舞」と同有形民俗文化財「宇部神社御幸祭祭具」の解説。参道の石段は大きく三つに分かれていて、最初の石段を上ると常夜灯が並び、参道左側に素朴な形をした天保14年(1844)と刻まれた灯篭がある。杜に包まれた参道の先に境内が見えてきた。「頑張ろう日本 丑の歩み着実に 疫病退散」の大きな幕、毎年こうした世相を表す幕が張られるようです。次々に変異を繰り返す見えない脅威、委縮しなくてもいい世の中が訪れる様、個人でやれることを実践する以外に動いていかないのかも知れない、牛の歩みの様に。正面に拝殿の全景が見えてくる、境内は拝殿右に神饌所、手前右に真新しい参集殿と授与所。境内左脇に手水、社務所、拝殿の左に双履石、国府神社が鎮座している。上が手水鉢、訪れた時は整備中、手前に仮設の手水が用意されていた。この水は七宝水(しっぽうすい)と呼ばれ七つのご利益を授かる事ができるそうで、平安時代には百人一首にも詠まれ、病や延命長寿の霊験があらたかで他には飲用すれば美人になるという不思議な水。下が社務所。宇倍神社の創建は古く、648年(文化4)の創建だという、幾度か盛衰に伴う再建や兵火に見舞われ、1581年の羽柴秀吉の鳥取城攻めで社殿全てを焼失。現在の社殿は、1898年(明治31)に完成しました。入母屋造妻入の向拝屋根を持つ拝殿と切妻造妻入の幣殿、その先の本殿は1898年のもので三間社流造の正面に縋破風向拝が付き、斜めから見る姿は優美なものがある。祭神は武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)で第十二代景行天皇から成務、仲哀、応神、仁徳天皇の5朝に仕えたとされ、信じられない程長命の方。歴史上最初の大臣と云われ、そうした事から長寿の神、子供の神、大臣の神とされ、端午の節句の武者幟でもお馴染み。1899年(明治32)には全国の神社としては初めて、祭神の武内宿禰命と社殿が五円紙幣にデザインとして採用され、その後も大正、昭和と紙幣の図柄として取り上げられ、お金に縁がある事から商売繁盛の神様としても崇敬されているそうです。石段脇に右近のたちばな、 左近のさくらがありますが樹齢はそれほどでもないようです。当日は早目の七五三の御祈祷を受けに訪れる客も多かった、本来はもっと参拝客で賑わうはずの神社。多いとはいえ、まだまだこうして写真が撮れるのだから参拝客は少ないのかもしれません。上は社殿全景で下が流造本殿。本殿後方の小高い場所の頂が武内宿禰命の昇天の地とされる双履石がある。社殿域は一段高く石垣が一段高く積まれ、周囲を玉垣で囲い門の目の前が拝殿。向拝柱の像の木鼻彫刻と拝殿額、幣殿には個性的なユニコーンの様な狛犬も見えていましたが参拝者も多くこれより下が撮れなかったのが残念。取り敢えず参拝させてもらいました。拝殿左側には、「福徳亀」と呼ばれる亀に似た石があり、撫でると願いが叶うと信じられている。右には金色に輝く飛翔の鳥、これも撫でると願いが叶うのか?苔むした檜皮屋根の神門と拝殿脇の由緒書き。栞のフォントは老眼の始まった自分にはつらいけれど、こうした解説が多数掲げられているはありがたい。神饌所「宇部神社は平安時代には鳥取県で唯一の名神大社、因幡國一ノ宮として崇敬され、明治4年に国幣中社に列せられた」双履石本殿左に頂に続く石段があります、これを上りきり奥に進むと玉垣に囲まれた石「双履石」に続きます。解説は以下「武内宿禰命第十二代景行天皇から仁徳天皇までの五朝にお仕えされ、大臣の祖として日本の国造りに御活躍の後、仁徳天皇五十五年春三月、この亀金の岡に双履を遺し360余歳でお隠れになりました。その石を双履石と称し命御昇天の霊石として今に伝わる当社の原点です」ここは日本一長寿の神さま御昇天の地で宇部神社発祥の地という事の様です。であるならば、この石段を上り岡に向かうしかない。最初の石段を上りきると右方向に僅かばかりの石段があり、その先に玉垣が見えている。少しばかり歩きを覚悟していたが意外に近かった、丁度本殿の斜め後方あたり。双履石周辺は樹々に包まれ薄暗く、玉垣の中には二つの石があります。薄暗い杜に木漏れ日で照らし出される双履石を見ると特別な空間なのが感じ取れます。双履石から右手を眺めると本殿を良く見渡す事ができる。入口から双履石は見通せないので遠いと思って諦めずに最初の石段を上ってみて下さい。国府神社双履石入口の左から奥に続く参道があります。ここも境内から見通せない位置なので見落としがちになる。奥に続く参道には常夜灯とその先で苔むした狛犬が拝殿を守護しています。国府神社正面全景。瓦葺の妻入りで向拝を持ち、シックな外観の拝殿。元々は宮下神社と称して、建御雷神と宇迦之御魂命を祀っていたそうです。1918年(大正7)、近隣の坂折神社(日本武尊)、小早神社(速佐須良比咩神)、下山神社(武内宿禰命)、白山神社(伊弉諾尊、菊理姫命)、上神社(武甕槌命)、安田神社(土御祖神、奧津彦命、奧津姫命)の6社を合祀し国府神社に改称したようです。この辺りの境内は苔が多く、地面は苔のカーペットを敷き詰めたよう。足に伝わる石段の固い感触から苔のふんわりした優しい感触が伝わってくる。上拝殿前の苔むした狛犬。大きなものではないが随分古そうで、阿形の足元に寄り添う子の姿が妙に魅かれる。下拝殿に掲げられている額、拝殿のシックな外観にマッチした違和感のない意匠のもの。祭神は以下。建御雷神、日本武尊、速佐須良比咩神、武内宿禰命、伊弉諾尊、菊理姫命、土御祖神、奧津彦命、奧津姫命、宇迦之御魂命の10柱が祀られています。ここに男女の神が10柱、狭いような賑やかな様な。創建等は不明ですが、現在の社殿は恐らく宇部神社と同時期に再建されたものかと。拝殿左から本殿後方に回り込め、そこから社殿が一望できます。周囲にはもみじも多く、訪れた時にはまだ青々としていましたが、今頃は鮮やかに色づいている事でしょう。長い歴史を持つ因幡一宮宇部神社、杜に包まれ落ち着いた佇まいの社殿は一ノ宮の風格が漂う、個人的には双履石と国府神社の雰囲気が印象に残ります。「因幡國一ノ宮宇倍神社」創建 / 648年(文化4)主祭神 / 武内宿禰命境内社 / 国府神社所在地 / 鳥取県鳥取市国府町宮下651駐車場 / 鳥取県鳥取市国府町宮下1008
2021.11.27
コメント(0)
無駄な税金の使い方が話題になる機会が多い 国や議員さんには打ち出の小槌は手放せないのだろう持たざる国の悲しさか ここ数日一気に冬型になり気温は急降下、寒さは単に気温だけの問題ではないバッジを付けるだけで結果を生まない先生方には退場願い、寒さを実感願いたいところ。
2021.11.25
コメント(0)
2021/11/18名古屋からでもひとっ走り、豊田市松平町の松平東照宮へ参拝。この辺り一帯は松平郷と呼ばれ、今からおよそ六百年前、この地に発祥した松平氏は三河を平定し天下太平の礎としました。徳川三百年の礎となった松平氏発祥の地がこの地。松平東照宮へは国道脇の駐車場か、山中に続く道路を奥に進むと東照宮脇の駐車場までスムーズにアクセスできます。国道脇の駐車場から10分も歩けば東照宮に辿り着ける距離です。この時期は山々の紅葉を見がてら歩くのもいいかもしれない。(写真は松平郷 入口広場 駐車場)駐車場から続く歩道沿いに建つ「笠掛けのかえでと見納めの井戸」その昔、親氏が高月院を訪れる際にこのかえでに笠を掛け休息をした場所と云い、その時にあやめを摘んでいた水姫は井戸の水にあやめを添えて親氏に差し出した出逢いの場とされる。(現在の井戸は水害により土砂で埋まり復元されたもの)松平東照宮はこの井戸の正面に社頭を構えている。松平東照宮の社頭と西側は堀が築かれ、色付いた落ち葉が水面に浮かび、周囲の紅葉が映り込み秋らしい趣のある光景を魅せている。これらは関ケ原の合戦の後、松平太郎左衛門家九代尚栄によって築かれたそうだ。松平東照宮社頭。石の明神鳥居、境内に入り左に手水舎、社務所、社殿、松平郷館、更に右に産八幡の宮が主な伽藍。額は「東照宮」落葉が盛んなイチョウ、境内や手水舎を黄に染めている。手水舎左に由緒書き。「八幡神社、松平東照宮祭神 誉田別命(八幡様)、徳川家康、松平親氏、他六柱。例祭 4月17日より前の土曜(試薬祭、お水取り)、日曜(例祭・御輿渡御)由緒 当社の歴史は古く、松平家氏神として若宮八幡を奉祀。1619年(元和5)久能山東照宮から家康の分霊を勧請合祀、以降「松平の権現様」、「松平東照宮」と称す。立身出世の神、政治の守神、安産の神、厄除けの神として崇敬されている」こちらの鉢は面白い。この形は盥を模しているようで、盥に清水は満たされていない。その下に視線を向ければ空の盥を苦悶の表情で支える力士がいる。これで水が張られたら支えられるの?松平郷開拓領主は、後宇多天皇(在位1274〜1287年)に仕えた公家の在原信盛と言い、この地に入郷したのは弘安年間(1278〜1287年)とされ、現在の松平東照宮境内に屋敷を構えたとされます。 信盛の子信重は、開拓を進め道を作り交通の便を図り、後に諸国を流浪しこの地に辿り着いた徳阿弥は信重の末娘水女の婿として家を継ぎ親氏(ちかうじ)と称し、徳川家の始祖松平太郎左衛門親氏の始まり。ここ松平町は正にここから付いている町名。松平郷最奥部の松平氏の菩提寺高月院には松平氏の墓所があり、松平親氏、二代泰親、四代親忠夫夫人の宝篋印塔が祀られています。松平東照宮拝殿全景。入母屋造、平入の瓦葺の拝殿は東照宮の名から受ける華やかなイメージとは随分違う。煌びやかな社殿より落ち着いた佇まいの外観は松平郷の杜に溶け込みこの方がいいのかもしれない。松平東照宮の前進は八幡宮と称し、松平家の館の一角に祀られていた屋敷神。この松平郷には松平太郎左衛門家が大正初期までこの地に居住していたという。1619年(元和5)家康を合祀後は松平東照宮とも呼ばれ、1916年(大正5)に松平郷内の三社を合併、昭和初期に松平家の館跡へ境内を拡張、現在の社殿を新築、旧社殿(産八幡の宮)は奥宮とし、1965年(昭和40)に松平親氏を合祀、それまでの八幡神社から松平神社に改められ、1983年(昭和58)昔からの呼称である「八幡神社・松平東照宮」に改称されたそうだ。狛犬、マスク着用は宣言解除も変わらない。禍は過ぎ去ったような風潮だけれど見習わなくてはね。拝殿と幣殿の扁額は「松平東照宮」拝殿の外部には至る所に葵の紋が彫り込まれている。松平東照宮の売りは近年描かれた拝殿格天井絵、拝殿前からも見ることが出来るが、拝観料200円で拝殿内を拝観出来るのでそちらがお勧め、写真撮影もOKだ。108枚の天井絵は、白梅や紅梅など見慣れたものからアロエや朴葉など松平郷で見られる草花が色鮮やかに描かれ、仰いで鑑賞するのもいいが、仰向けに鑑賞するのが一番か。2015年、豊田市出身の漆芸家安藤則義氏の手によるもの、これから時を重ね後世に繋いでいくのだろう。上幣殿から本殿方向。下拝殿内から社頭の眺め。拝殿右からの眺め、鮮やかな紅葉とはいかないようだ。周囲の樹々もあり社殿全景の撮りどころは見つからない。本殿は流造で脇障子が付き、細部には彫も施されているが、光物は控えめで黄金色に輝く葵の紋に東照宮らしさが漂う。社殿全景。平入拝殿と切妻妻入の幣殿が連なり右に本殿。拝殿から右方向に参道が続き正面に社殿が二つ視界に入ってくる。これが奥宮、参道を右に進むとその脇の小さな堂(二の井戸、三の井戸)の先の神門に向かう。産八幡の宮と産湯井戸に続く神門。神門前の「産湯井戸の由来」1542年(天文11)岡崎城で生まれた家康、この井戸の水が産湯として竹筒に詰められ早馬で届けられたそうだ。一の井戸、二の井戸とあったようにここには七つの井戸があったそうで、産湯井戸はその中でも最も古い物だという。門の左に「徳川家康産湯井戸」の札、門の扉には当然・・・・・境内正面の産八幡の宮、入母屋瓦葺の平入で棟瓦には当然・・・・・右手の斜面に市杵嶋社(弁天様)が祀られている。その手前の玉垣で囲われた一画が産湯の井戸。石の切妻屋根で覆われ、井戸に下る入口は扉で塞がれている。汲み上げるイメージの井戸ではなく、石段を下りて湧き出る水を汲み取るようです。玉垣の紋にも当然・・・・・この水は水位で農作の吉凶を占い、御神水は健康長寿、出世開運、厄除け、安産に御利益があるそうで遠方からも訪れるそうで、この水は社務所で頂けるようです。奥宮は新しく拡張された東照宮に対し、苔むして松平郷の時の積み重ねを感じる趣が漂う。2021/11/18「八幡神社・松平東照宮」創建 / 1619年(元和5)祭神 / 誉田別命(八幡様)、徳川家康、松平親氏、他六柱所在地 / 豊田市松平町赤原13関連記事 / 松平郷の紅葉
2021.11.24
コメント(0)
2021/11/20知多四国八十八箇所霊場を巡りに常滑方向に出かけてきました。今回は六十一・六十二・六十三・六十四・六十五番札所を巡る約10㌔のルート。この二年程はまともに歩かなかったこともあり多少不安な距離。当日は快晴、この日を逃すと気温は下がり天気も崩れる予報だった。常滑駅から歩き始め、県道252号線を南下し大落川に架かるいちば橋の手前で上流に向かいます。歩きなので苦にはなりませんが、大型の四駆などで踏み入れてはいけない場所です。情緒のある大落川沿いの道筋を数分歩き、小さな橋が見えればその左が「知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所宝全寺」、常滑街道沿いに玉垣と石柱門が建っています。お寺に玉垣というのは何となく神仏習合の名残を感じます。知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所 世昌山 宝全寺創建は1573年(天正元年)と云われる曹洞宗のお寺。伽藍は正面に寄棟瓦葺の本堂、境内右側にいぼ取り、がん封じに御利益があると云う地蔵尊を安置する小堂、左に三十三観音堂と十王堂、秋葉三尺坊大権現堂、むくり屋根の向拝を持つ弘法堂、その奥に天狗瓦の乗った金毘羅堂、左に三宝荒神様を祀る小さな祠と、さほど広くない境内に盛りだくさんの堂が並んでいます。現在こちらの住職は体調を崩されているようで本堂は施錠され、手書きの解説だけが至る所に張り出されています、かみさんの話では納経印も自分で押してきたそうだ。車の場合、石柱門の右に駐車場が用意されています。とはいっても周辺の路地は狭く、譲る気持ちが無ければ車で訪れるのは避けた方がいいかもしれない。知多新四国八十八箇所霊場六十四番札所 世昌山 宝全寺創建 / 創建は1573年(天正元年)宗派 / 曹洞宗所在地 / 常滑市本町2-248次は宝全寺から右に、常滑街道を少し南下して知多四国八十八箇所霊場六十二番札所 洞雲寺に向かいました。宝全寺から少し歩くと橋の袂に「陶と灯の記念碑」とからくり時計が現れます。このあたりからほぼ20分程歩き、道路左側に樹々の生い茂る小高い丘が洞雲寺です。入口は丘の手前を左に進むと石柱門と奥に本堂が見えます。こちらのお寺、猫の姿をした「ねこ大師」で知られる様になりそれを拝みに訪れる方も多いようです。弘法堂は本堂の正面にある丘の頂です。頂きには右に弘法堂、左に稲荷大明神、忠魂碑などがあります。西山浄土宗の洞雲寺は1555年(弘治元年)善海法師の創建で本尊は阿弥陀如来座像。この像は織田と今川の兵火から逃れるために池や田畑に埋められたものらしく、後に池を改浚の際に見つけられたものでこれを本尊として創建されたのが洞雲寺だという。この木造の阿弥陀如来座像は常滑市の指定有形文化財に指定されているそうです。訪れる参拝客が多い印象を受けました、駐車場も完備しアクセスしやすく、ねこ大師の効果もあるのかもしれない。知多四国八十八箇所霊場六十二番札所御嶽山 洞雲寺宗派 / 西山浄土宗創建 / 1555年(弘治元年)開基 / 善海法師本尊 / 阿弥陀如来座像所在地 / 常滑市井戸田町2-37次の目的地は知多新四国八十八箇所霊場六十一番札所 天台宗 御嶽山 高讃寺を目指しましたが、洞雲寺から20分程歩いたところで七社神社に出会い。ここで少しコースアウト。常滑市西阿野半月263に鎮座する「七社神社」細い路地は真っすぐに小高い丘に続き、社頭からは石段が伸びる。社頭には「村社式外七社神社」の社号標と由緒書きがあり、内容は以下。「七社神社祭神 天照大神(天照皇大神宮)、伊邪那美命(熊野權現)、譽田和氣気命(岩清水八幡宮)、廣国押建金日命(藏王權現)、天児屋根命(春日大神)、菊理姫命(白山神社)、菅原道真公(天満宮)例祭 4月15日、祈年祭 2月25日、新嘗祭 11月25日 月次祭 毎月1日境内社:天王山津島神社、猿田彦神社、塩窯神社、厳島神社、金刀比羅社、白山社、山神社他 由緒:往当社は往古七所明神と唱せしが1824年(文政7)七社明神に昇格、明治維新の際七社神社に決定、1872年(明治5)村社に列挌、1889年(明治40)神饌幣帛供進神社に指定された」とある。石段の先には境内が広がり一段高く石垣が積まれた神域が作られ、社殿と境内社が祀られていた。七社神社創建 / 不明祭神 / 天照大神、伊邪那美命、譽田和氣気命、廣国押建金日命、天児屋根命、菊理姫命、菅原道真公境内社 / 秋葉社、天神社、知立社、山神社、白山社、金刀比羅社、厳島社、塩窯社、猿田彦社、天王山津島社所在地 / 常滑市西阿野半月263今日は御供で来ているのでゆっくりする余裕もなく、参拝を済ませ失礼したが改めて参拝に訪れよう。ここから5分も東に歩けば六十一番札所御嶽山 高讃寺です。七社神社から東に進み国道247号線を越えれば六十一番札所 天台宗 御嶽山 高讃寺の駐車場です。石柱門から長い参道を進むと中ほどに仁王門、そこから更に先に本堂、弘法堂などの伽藍が広がる。高讃寺の創建は古く、684年(白鳳12)天武天皇の勅願寺として行基により創建されと伝わり、最盛期には七堂伽藍、300坊を越え知多三山の一つに数えられという。戦国時代には織田信秀と今川義元の兵火で伽藍の大半を焼失、その後も文禄年間や明治時代にも兵火や失火による焼失を経て、現在の姿となります。参道途中の仁王門の仁王像は度重なる兵火を避けため池に沈められ、後に引き上げられたものだと云いいます。余談 こちらの住職の口からも「今年は紅葉が宜しくない」と云われていた。知多四国八十八箇所霊場六十一番札所天台宗 御嶽山 高讃寺創建 / 684年(白鳳12)開山 / 天武天皇開基 / 行基本尊 / 聖観世音菩薩所在地 / 常滑市西阿野字阿野峪71-1ここから国道247号線沿いに約40分程北上します。道は地味にアップダウンし、今回歩いた中で一番長い移動時間。奥条7丁目交差点で左に向かい、目的地の知多四国六十三番札所 真言宗 大善院は右手の丘陵地です。丘陵地の南垂れの斜面に鎮座する大善院。境内で聳える大きな樹はイブキの樹、大善院のシンボルツリー。入口に大善院、補陀洛山の石柱門が建つ、伽藍は石段正面の本堂、右に大師堂、庫裏、本堂左に赤い幟が山の頂に向かって立ち並ぶ補陀洛山中宮の伽藍。大善院の歴史も古く684年(白鳳12)御嶽山三百坊が滅亡の時に本尊の十一面観音と不動明王、毘沙門天の三尊を大善院に移し奉安したそうです。往時には六坊あったと云われ、大善院は本坊として常滑城の鬼門を守護して来た。左の補陀洛山中宮の牛頭天王は常滑城城主水野家の氏神として崇敬されていたという。本堂は方型の瓦葺……こちらのお寺も檀家減少の逆風を受けているのだろう、痛々しい姿を曝け出している。一般参拝客がもたらす収入は、朽ち果てる速さに追いつくことが出来ないのだろう。こうした寺社は幾つも目にしてきたけれど、情報発信や積極的なアクションが遅れると荒廃の道を辿る。常滑と云えば名の知られた企業が名を連ねている、利益の僅かでもそうした方向に還元されれば復旧も早いと思うのですが。知多四国六十三番札所 真言宗 補陀洛山 大善院創建 / 不明開山 / 興覚法印 開基 / 養春上人本尊 / 十一面観世音菩薩所在地 / 常滑市奥条5-20最後の目的地知多四国六十六番札所 曹洞宗 神護山 相持院へは大善院の丘陵地を上り、「とこなめ陶の森資料館」を右手に見ながら尾根沿いを歩けば15分程で到着です。大善院から北に続いた平坦な尾根が下り始めると、その先に見える丘が相持院の杜。南側に知多四国六十五番札所の石標があり、そこから石段が上に続きます。途中の山門は樹々に包まれ全体を望めなかったが唐破風と枓栱や木鼻等の彫は見応えがありました。参道は常滑「やきもの散歩道」のBコースに含まれることから頻繁に人と出逢います。石段を上り詰めると境内で正面に本堂、右手に納経所、庫裏、鐘楼堂、本堂左に稲荷社の伽藍。神仏習合の香り漂うお寺です。草創は不明、1560年(永禄3)、現在地から西500m程に鎮座する神明社の近くに曹洞宗・天沢院の末寺として鎮座していたそうだ。廃仏毀釈の中で一時は世昌山 宝全寺に統合、1903年(明治36)西光寺として復興を遂げ、1921年(大正10)に相持院と寺号を改め、伽藍を整備したという。樹々に包まれた境内の右に建つ鐘楼堂の梵鐘は「延命長寿の梵鐘」と呼ばれ知多半島最大のものだという。知多四国六十五番札所曹洞宗 神護山 相持院開創 / 不明開山 / 興覚法印 開基 / 養春上人本尊 / 延命地蔵大菩薩所在地 / 常滑市千代丘4-66参拝を済ませ境内左手から更に北へ、やきもの散歩道の案内板があるように常滑の街中も近づいてきた。そろそろ遅い昼食を摂りに西方向の常滑駅方向へ。写真上は相持院から15分程西に歩いた住宅地の中で見かけた小さな祠。祠の中には青面金剛らしき石像が安置されていたが詳細は分からなかった。この辺りは過去に映画のロケ地として取り上げられ、昭和を感じさせる懐かしい情景が保存されています。この祠からでんでん坂方向の古窯庵で蕎麦を食べに向かいました。でんでん坂を上がり切った突き当りにある「古窯庵」古民家をリノベした落ち着いた佇まいの外観、店内も梁剥き出しの天井のないジャズの流れる落ち着いたもので、座敷とテーブル席が用意されている。ここで粗挽き細うちせいろ(880円)と天ぷら盛り合わせを昼食とした。新そばの粗挽き細うちせいろは細うちとあるが、さほど驚くような細さではないものの、蕎麦の風味が口の中で広がり、妙にこだわって敷居も価格も高い蕎麦屋よりは良心的かもしれない。出汁が自分には少し辛かったかな、蕎麦湯と合わせて丁度いい加減、美味しく頂けました。古窯庵 常滑所在地 / 常滑市栄町4-87これで今日の知多四国巡りは終了、電車に乗って家路に向かおう。歩行数は約19,000歩、歩行距離は13.4km、歩行時間は3.12時間。高讃寺から大善院の約3㌔の道のりは見るものも少なく一番足に来た、鈍ってるネ。今回のルートはこちら。
2021.11.23
コメント(0)
知多新四国霊場 五十四番札所亀嶺山 海潮院(半田市亀崎町)先回掲載の「神前神社」から東に徒歩1~2分、正面の海岸沿いに国道247号線が通り、静かだった街中から交通量は多くなる。海岸が目の前で亀崎の端といってもいいかもしれない。知多新四国霊場 五十四番札所「亀嶺山 海潮院」は国道沿いに建っています。よく見かける「知多新四国霊場」の幟は見当たらず、山門はありません。山門がないので通りからも本堂が良く見通せます。入口左の白壁に「知多新四国霊場 五十四番札所」の表札と右に「不許葷酒入山門」の石標、壁に「曹洞宗 海潮院」の表札が掲げられています。境内の右に手水舎。左に鐘楼と弘法堂。入母屋瓦葺の平入で向拝が付く「本堂」と左に金比羅大権現、豊川稲荷大明神、秋葉三尺坊大権現を安置した「金比羅権現堂」右に庫裏、寺務所の伽藍。本堂左に賓頭盧尊者(おびんずるさん)。いつからここにおわすのか知る由もないけれど、多くの人々になで続けてきたのだろう。この歳になると、もの忘れも多くなる、都合のいい「呆け」を言い訳に丸く収まっていくが、口にする本人は結構自分自身に落胆しているもので、そんな頭を撫でたいのに帽子があって撫でれない。呆け?隣の金比羅権現堂、お参りの方が見えたので帰りでいいかと思っていたが見事に撮った気になっている自分の事だ、撫でておけば良かったか。本堂に掲げられた「亀嶺山」の額。曹洞宗の寺院で本尊は釈迦牟尼仏。創建は古く、室町時代中期の文明年間(1469年~1487年)、安窓全公首座により海長庵として神前神社北側の北浦に創建されたのが始まりのようで、草創開山には知多郡東浦町にある乾坤院の芝岡宗田大和尚が迎えられ、海潮院はその末寺のようだ。上は「尾張名所図解」から亀崎の挿絵。海岸には多くの船が停泊し、沖には衣浦大橋方向に向け多くの船が行き交う光景が描かれ、嘗ての亀崎は物流の拠点として賑わいを見せていたことが分かる。その玄関先に海潮院、左には神前神社も描かれている。随分と地形は様変わりしたが今も当時の面影は残っている。弘法堂前の松の袂に白龍大神、黒龍大神を祀る社。弘法堂。こちらの弘法大師像は1899年(明治32)以前は五十四番札所として、現在は廃寺となった野間の寺に安置されていたそうです。それが1901年(明治34)に像と共に五十四番札所として海潮院に託されといいます。半島を横断して随分飛んできたきたものです。「かめざきの かいちょういんになみしずか しゃかむにほとけのまもりゆたかに」かみさんを待たせまくった亀崎の町から離れ、一路乙川方向に向け歩き出す。知多新四国霊場 五十四番札所「亀嶺山 海潮院」創建 / 文明年間(1469年~1487年)開創 / 安窓全公首座、 開山 / 芝岡宗田大和尚宗派 / 曹洞宗本尊 / 釈迦如来所在地 / 半田市亀崎町1-130関連記事 / 知多四国巡りと矢勝川の彼岸花(見頃は過ぎていた) 13.4㌔を歩く、 半田市亀崎「神前神社」
2021.11.22
コメント(0)
19日夜、月の98%が地球の影に入る部分月食を見ることが出来ました。かみさんと双眼鏡とカメラで眺めていたが、雲が邪魔したりして全貌までは捉えきれなかった。11/19 17:20見あげれば既にこんな状態、ひょっとすると一部始終見ることが出来る?少し期待する。17:23そんな期待を裏切る様に意地悪雲の群れがやってきた18:00今回の部分月食は97.8%が地球の陰に隠れる部分月食。こんなもんかぁと手持ちで撮った一枚がこれ。なんとなく淡く赤い色に染まりドラマのピークを見届けた。昔の人はこの事象を捉え、怯え恐れ、神と結びつけたりしていたのだろう。1年後の2022年11月には皆既月食が見られるそうです。ぼんやりとしてはっきりしない月、ぼんやりとした消え方をする掴みどころのない議員さん達の歳費のようだ。月はすぐに見る者すべてにクリアな元の姿を見せてくれる。議員さん達はぼんやりとしたまま、毎日が皆既月食。クリアにはなりたくないようだ。
2021.11.20
コメント(0)
2021/10/26一ノ宮巡りでこちら方面を訪れ、兵庫県の城崎温泉に宿を取り、翌日の早朝に訪れた「玄武洞」今回はそちらを取り上げます。山々に雲が垂れこみ水墨画の様な光景は早起きのご褒美。雲海に浮かぶ竹田城も足を延ばせる場所だけに、予定変更して目指したくなるがドラマは短い、諦めよう。城崎温泉で迎えた当日の最大の目玉(おやじ的に)「玄武洞」に揺らぎはない。城崎温泉から玄武洞までは円山川対岸を車で10分もあれば到着できる距離です。前日の雨は上がり切らず、霧雨の様な天候。玄武洞公園の前に車を停め、円山川右岸の河畔に建つ石の博物館「玄武洞ミュージアム」を眺める。この時間は会館前、中には世界中から集めた珍しい石や鉱物、化石など約2500点収蔵されていて、右側の別棟には土産やレストラン・カフェなどの施設もある。玄武洞のある玄武洞公園はこの施設の向かいの山側にあります。駐車場から続く階段を上った先が玄武洞公園で、円山川右岸の山肌から露出した柱状節理や洞窟があり、国の天然記念物に指定され、山陰海岸国立公園に含まれる絶景が広がります。主となる玄武洞のほかに、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞の洞窟が連なり玄武洞公園として整備されています。公園と云っても施設は休憩所とトイレがあるくらいで、観光客目当ての店は並んでいない。「玄武洞」は国の天然記念物に指定され、周辺地域一帯は、1963年(昭和38)に山陰海岸国立公園となり、現在に至っています。柱状節理自体は地元名古屋に近い所で行けば福井県の東尋坊や三重県の香落渓谷でも見ることが出来ます。こちらのものは大自然が造り上げたうねりの造形美、人の及びもつかない自然の圧倒的な力を感じることが出来ます。「玄武岩」の名は良く耳にすると思います、これは玄武洞からこの名が来ているようです。1884年(明治17)岩石の日本名を制定する際に玄武洞の名に因んで「玄武岩」と命名されたようで、言ってみれば玄武岩の発祥の地と云っても良いのかもしれない。ここの玄武岩の持つ磁気は、現在の地磁気と反対の向きを指していることが発見され、この地の玄武岩が出来た当時の地球の磁場は反転していたとされ、その説は後に260万年前から78万年前まで逆転していたことが広く認められるようになったという。なんともSF映画を彷彿とするような発見がこの地からもたらせられた。160万年前の火山活動で流れ出したマグマが、冷えて固まる時に作り出した規則正しいきれいな割れ目は柱状節理と呼ばれ玄武洞の始まりで、約6000年前に地上に隆起し、波に洗われ姿を現したのが現在の玄武洞、と云われていますがそんな火山があったのは事実だろう、その火山とはまで明確に言及されないのは何か消化不良気味な感じがしてならない。「そんな火山があったのね」でサラッと流せばいいんだろうが、城崎温泉の源泉の熱量は紛れもなく地下に秘めている事を思うと・・・なんだろう?ついつい考えたりもする。なんだろう?から流れ出た溶岩は柱状節理として露出し、人が採取し洞窟となって行き、現在の姿になったようです。採掘された岩は人の営みに利用され、石垣や身近なところでは漬物石などにも利用され、江戸時代の1807年(文化4)に幕府の儒官、柴野栗山により「玄武洞」の名が付いたとされます。玄武洞。公園に入り最初に異様な光景を魅せてくれるのがこの玄武洞。右には社が祀られているようなので向かってみました。成田山不動明王と彫られた石標、これも柱状節理の岩を利用したものかもしれない。規則正しく綺麗に面が整ったこの岩は、様々な使い方に対応できそうだ。「成田不動尊」社殿全景と解説。玄武洞を訪れた全ての人々に玄武洞不動明王のご利益を授かれるという。これは参拝しておくしかないだろう。創建等詳細は調べきれませんでしたが、本尊は不動明王。玄武洞と「成田不動尊」。玄武洞と火山活動についての解説。「火山の形は残っていません」とある、それはそれでいいのだが…玄武岩溶岩の厚い層が形成され、むき出しとなった玄武洞。マグマが冷却され体積が収縮して出来る割れ目(節理)は切り出しやすかったのだろう。これを人々が採掘し、その採掘跡が洞窟として残った人口の洞窟。ここから切り出された玄武岩は城崎温泉街の護岸や豊岡の石積みなどに利用されたという。綺麗に整った5~8角の石柱は写真右手にも断面として現れています。断面が見えるかと思えば側面が現れ、溶岩の複雑なうねりが見られる。想像もつかない自然の造形が目の前に現れている。玄武洞の名の由来と人とのつながりを伝える解説板。現在見る玄武洞は1925年(大正14)の北但馬地震による震度6の揺れで崩落した後のもので、案内板には崩落前は巨大な洞窟が幾つもあった事を伝えています。青龍洞。成田不動尊から右に進んだ先に露出する岩壁。横方向の流れが多かった玄武洞に対し、こちらは縦方向にうねりながら流れたのが見て取れる。岩壁の前には小さな池(願掛け池)があり、水面に写る柱状節理の姿は池の主「龍」をイメージさせるものがある。思わず賽銭を投げ込みたくなる、不思議な空間。鏡の様な願掛け池の水面に青龍洞や四季折々の景観が写り込む姿も美しい事だろう。縦の流れに、右からも上方向に流れ込んでいる。なんという地形、そして岩盤の上に堆積した僅かな地表に根をおろす樹々の生命力。圧倒的な自然の造形美と生命の逞しさに唯々佇むのみ。青龍洞解説。玄武洞、青龍洞と見て、次は玄武洞の左方向の白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞に向かいます。園内は写真上の様に歩道が整備され、石段や石垣などにも柱状節理が利用され、この地にとっては欠かせない重要な資源だったのが分かる。下白虎洞全景と解説板。白虎洞。こちらは正面は横に流れ、左方向はこちらを向いて流れたようで、石垣でも積んだかのように綺麗な多角形の断面が整列している。こうした岩は採掘が容易なのかも知れないが、常に危険が付きまとう命がけの作業だっただろう。現在も経年劣化や地震等で部分的な崩落は起き、青龍洞などでは崩落した柱状節理が池に堆積している光景が見られ、今も山全体が蠢いているようだ。白虎洞解説。白虎洞から左に進むと南朱雀洞。こちらはこれまで見た綺麗な多角形の節理の姿はあまり目に付かない。解説によると溶岩の先端にあたる部分で、固まった先端部分からトコロテンの様に次々に溶岩が吹き出た事からこの様な形状になったのだと云う。この正体は誰よ。南朱雀洞解説。南朱雀洞から少し下がった左方向に北朱雀洞があります。正面に石垣の様に断面が現れ、奥には柱状節理がはっきりと表れていて、南朱雀洞と似てはいますがここはまた表情が違います。玄武洞、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞と見て廻ると1時間程。訪れたのが10/26、紅葉には早かった。周囲が紅葉で染まると更に美しく神秘的な光景を魅せてくれるでしょう。展望台から見る円山川に山陰本線を走る列車が写り込む、右方向は城崎温泉方向になります。玄武洞公園から円山川河畔に下りて見ました。先ほどまでは手前に水鳥が群れ、対岸の列車と手前の渡し船を一枚に収めようと待っていたが、列車が来た頃には群れはいない、残念な写真だ。渡し船は対岸の山陰本線玄武洞駅から玄武洞を渡すもので、風波の影響が欠航しななければ、この船で円山川を渡れるようです。圧倒的な自然の造形美が日常の雑念を解き放ってくれる。玄武洞(げんぶどう)公園・成田不動尊所在地 / 兵庫県豊岡市赤石1362玄武洞ミュージアム営業時間・入場料金 / 9:00~17:00・大人800円駐車場 / 玄武洞ミュージアム、公園、玄武洞観光センターなど3カ所あり公共交通機関アクセス / JR城崎温泉駅から車で10分程、山陰本線玄武洞駅から渡船がありますが欠航が多いようです。
2021.11.20
コメント(0)
今朝は日の出と共に空にぼんやりと虹がかかる幻想的な光景を見ることが出来た。一日の始まりは思いもよらぬ光景から始まった。今日は以前から予定していた紅葉探しに出かける。既に香嵐渓とか綺麗に色付いた紅葉が見れるとか、盛んにメディアに取り上げられ、若干煽られているかもしれない。目的地は豊田市の松平郷、朝8:30に自宅を出て、猿投グリーロード経由で国道301号線沿いの松平郷に到着が10:00前、通勤渋滞もなくすんなり辿り着けた。国道から松平郷に向かう分かれ道にある駐車場に車を停め、ここから徒歩で向かう。駐車場に掲げられていた観光案内図、歩きたくない向きには奥に駐車場は何カ所かあります。私らは3㌔ほど歩きたいので一番入口に近い駐車場に停めています。松平郷は今からおよそ六百年前、この地に発祥した松平氏は三河を平定し天下太平の礎としました。徳川三百年の礎となった松平氏発祥の地がこの地。この奥には松平東照宮や松平家の菩提寺高月院などあり紅葉意外のお楽しみもある。駐車場から東照宮に向け山里に付けられた歩道を登っていく。今日見た紅葉で一番鮮やかだったがこの歩道沿いのもみじ。高月院の住職によると「今年の紅葉良くない」そうだ。確かに、紅葉しようとしながら枯れ始めたり、紅葉する前に葉が枯れ始めていたりする。近年、山が鮮やかに赤く染まり「きれいだね」と感じる光景はあまり見なくなった気がする。徒歩10分程で松平東照宮に辿り着けます。境内を落葉を始めたイチョウが黄色に染める、もみじも随分と色付いている。松平東照宮拝殿全景。ところどころにもみじがあり、状況によっては綺麗な写真が撮れるのではないかなぁ。境内周囲には水濠や石垣も残っています。これらは関ケ原の合戦の後、松平太郎左衛門家九代尚栄によって築かれたもので、水面に紅葉を写し込み趣のある光景を見せてくれます。松平東照宮の始まりは八幡宮と称して松平家の屋敷神でした。1619年(元和5)家康を合祀し1965年(昭和40)親氏公を合祀したもの。松平太郎左衛門家は大正初期までこの地に居住していたという。外観は贅を尽くした東照宮のイメージで訪れるとギャップを感じるかも知れません。その代わりと云ってはなんですが、松平東照宮の売りは拝殿格天井絵かもしれない。神職の方からは「写真撮影もOKだからね」と一言。200円の拝観料は拝殿内の箱にセルフで入れる、信用あってのシステム。108枚の天井絵は、白梅や紅梅など見慣れたものからアロエや朴葉など見慣れない草花が色鮮やかに描かれている。上を仰ぐのもいい、一番の鑑賞法は仰向けになる、これに尽きる。豊田市出身の漆芸家安藤則義氏の手により、2015年に松平東照宮の見所の一つとして新調されたもの。松平東照宮所在地 / 豊田市松平町赤原13松平東照宮から松平郷の最奥部に鎮座する高月院へ向かいます。途中の道には茶屋や室町塀、小さなせせらぎ沿いの親水緑道などあり、紅葉の進む松平郷を感じる事が出来る。東照宮から高月院まではゆっくり歩いて15分程。紅葉の樹々の隙間から見る山門と背景の田畑は、古き良き日本の原風景を感じることが出来ます。松平家の菩提寺高月院全景。こちらの住職、トークがお好きで、なかなか面白い方だった。特別御朱印やYouTubeにも投稿、寺の維持費の足しにしているという。今のご時世、寺社の管理は氏子や檀家に依存するだけでは成り立たない。時代にあった発想が無ければ維持は出来なくなってる。高月院本堂左から続く道を進み松平郷展望テラス目指し登り続ける。道沿いには標識も立っており、住職曰く「分からんかったら農作業している人に聞けばよろしい」との事だったが・・・・第一村人に遭遇することはなく、村人ではなく何か別の住民と出逢う予感がする。高月院所在地 / 豊田市松平町寒ケ入44松平郷展望テラス、車道沿いの高台にある展望台からは豊田スタジアムなど豊田の街並みを一望できる。ここから再び山中の歩道に戻り、松平城跡を経由し駐車場横に出る予定でした、途中で道に迷い東照宮に出てしまった。ここから引き返す元気もなく潔く来た道を戻る。少し遅い昼ご飯はJAあいち豊田グリーンセンターでシイタケバーカー。パンズは柔らかく、シイタケとひき肉の入ったコロッケ、衣はカリカリで松平郷のシイタケが丸々入っている。どこぞのバーガーと比較してもこれは美味しかった。こちらでラズベリーの苗が手に入るか期待していたが生憎在庫はなく、シイタケの原木500円を買って帰途に着く。紅葉に東照宮と高月院の御朱印を頂き、自宅には3:00には戻ってこれました。松平郷の紅葉もこれから本番だと思います。2021/11/18JAあいち豊田 グリーンセンター 松平店所在地 / 豊田市松平志賀町丸山5−1今回ルート / 猿投グリーンロード力石インターから松平郷入口駐車場
2021.11.18
コメント(0)
半田市亀崎2浄顕寺から通りを東に向け4~5分程歩く。やがて道は海岸線を走る国道247号線と交わります。その少し手前に大きな参拝者無料駐車場を持つのが「神前神社」車で訪れてもこれだけ広いと心配はいらない。社頭は海岸にある亀崎海浜緑地方向を向き、その先は海。海岸線の小高い丘に鎮座し、丘全体が社地といって過言ではない。丘の頂には公園があり、そこには亀崎城跡や伊勢神宮遥拝所、中腹に末社の多賀社などが鎮座する。その丘の杜に包まれるように社殿が建てられています。駐車場から緩やかな石段となり、神明鳥居の一ノ鳥居、ニノ鳥居、拝殿が一望できます。一ノ鳥居。鳥居左の手水舎。重量感漂う瓦葺の屋根を四つ足の柱が支えている。右に「重要無形民俗文化財 亀崎潮干祭」の石標と後方に小さな社があります。駐車場脇の由緒書き。「御祭神 神倭磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)(神武天皇)由緒 往昔神武天皇が大和御入国の途次、此地に上陸せられたるを以て天神洲と称し小祠をここに建て産土神として崇敬したるものなり。後世、神の井の由緒ある現在地に遷座されました。初め神前天神と称し、後に亀崎神社と改め、1871年(明治4)郷社に定められ、1885年(同18)神前神社と改称、県社に列せられる。例祭 10月23日 棧掛祭、潮干祭 5月3日・4日 山車五台県 重要文化財特殊神事 井戸のぞき神事、虫封祭 6月1日~7日境内末社 神明宮、天満宮、多賀社」棧掛祭の起こりは、伊勢から海を渡りこの地に立ち寄った神武天皇、里人が小船に桟橋を架け出迎えたことから、以来この地は「神嵜」と呼び、亀崎の地名の由来と云われるようです。上陸地点を「天神洲」(現在の洲の崎)と称し、後に同地に社を建てお祀りしたのが神前神社の起源と云われ、こうした故事に因んで「棧掛祭」が執り行われています。300年以上の歴史があると云われる潮干祭では、町内の山車が浜に曳き下ろされ、ユネスコ無形文化遺産(山・鉾・屋台行事)のひとつとして登録されていると云う。鳥居右手に社務所、ここにも「神前神社」の社標とその奥に祓?戸大神が祀られている。一ノ鳥居扁額。鳥居前を守護する狛犬は子と毬を持つもの。参道右に左に参道が伸び、鳥居の先の多賀社へ続く。その狛犬と多賀社。山の斜面に社地を造り神明造の社が祀られ、右には山肌が迫っている、創建時期などは不明。ニノ鳥居から境内全景。右から神楽殿、神明宮の門、拝殿・本殿、境内社、神馬、天満宮の伽藍で、左から岡の頂にある伊勢神宮遥拝所に続く参道があります。ここでかみさんと合流、既に札所も神前神社も参拝を終えたという、すまない。境内左。左から天満宮、神馬、境内社6社が一つに纏められている。左から御首社、海亀大明神、御鍬社、恵毘須社、大国主社、山之神社。随分新しく感じますが、比較的最近まではそれぞれが単独の社として祀られていたようです。境内右は入母屋瓦葺の神楽殿。拝殿は5本の鰹木と外研ぎの千木が付く、シャープな外観の神明造。大きな鏡が参拝者を映し出している。左に撫で牛、右が神明宮の門。拝殿内と本殿方向。参拝。しっかりと顔を見られている、この顔の願いを叶えたまえ。拝殿の先は本殿域の鳥居と狛犬。天満宮神門。神門の先の石段は神明宮に続く。左手に鹿の像と注連縄で囲われた岩がある。写真左の注連縄が巻かれた石が「神の井」井戸のぞき神事がここで執り行われる。由緒によれば「神武天皇東征の際に立ち寄り、湧き水に写った姿を見て、その水の清らかさに心が和まされた神事は子供の疳の虫が治まると言い伝えられている」祭神は神倭磐余彦命。この井戸の水に顔を映すと神武天皇にあやかれるとの信仰が拡がり、現在では子供の健やかな成長を祈る「井戸のぞき」として親しまれてるという。ここから左に入り神前神社本殿へ。鬱蒼とした杜に包まれた石段を上り神前神社本殿方向へ。鳥居を守護する狛犬、寄進年度は不明ですがここまで見た中では一番キャリアは長そうな。幣殿の額。今頃は右のもみじも色付いているか。祭神は神倭磐余彦命(神武天皇)。創建は定かではないようですが、1612年(慶長17)に波風の影響を受けにくい現在の地に遷宮されました。幣殿内から本殿域。幣殿から右に進むと天満宮幣殿に。天満宮幣殿の味のある額、確か鳥居の入口には天満宮と神明宮の社標があった気がするが。あれ?・・・・神明宮見逃したか、マいっか。祭神は菅原道真でいいんだろうか。拝殿左の天満宮から丘の頂続く小道を進む事にする。かみさんはこちらにはいっていないという事なので一緒に登り始める。それ程きつくない坂を登っていく事2~3分、徐々に高度を上げ左に衣浦湾の眺望が広がる。観月亭の解説板が見えれば頂です。上観月亭展望台から亀崎町を見下ろす。観月亭は大正天皇の大嘗祭で亀崎の月の屏風絵と和歌が寄進されたことを記念し、ここに観月亭を建てたそうです、しかし伊勢湾台風で倒壊、以後は展望台として保存されているようです。下観月亭の北側は広い公園として整備され、ここには伊勢神宮遥拝所と亀崎城跡の石標があります。観月亭の左に亀崎城跡の石標。本来はこの公園の北側の高台にあったようです、それも衣浦開発により城址は削られ、碑のみがここに移されたようです。城址として纏めるにしても遺構らしいものは見当たらない。亀崎城跡の碑の奥にも歌碑らしきものが「萬代も変わらぬ影を亀崎の波に浮かべて月照りにけり 正二位 源 清綱」大嘗祭に詠まれた和歌が碑に刻まれ、この碑も衣浦干拓工事に伴いここに移されたようです。下城跡の碑の後方をよく見れば古そうな手水鉢が置かれていた、年代は不明。公園西側の高台に「神宮遥拝所」この先がお伊勢さんという事です。高騰した燃料を使って伊勢に行かなくてもここでお伊勢さんにお参りが出来てしまう。観月亭の下から亀崎港方向の眺め。「萬代も変わらぬ影を亀崎の波に浮かべて月照りにけり」神武天皇が訪れたこの海、こうして見る景観も随分と変わったようだ。古くは神前神社の沖を航行する舟は帆を半分をおろして神社に敬意を表して航行したと云う。そんな光景を思い浮かべながら眺める。2021/09/24神前神社創建 / 不明祭神 / 神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミミコト)初代神武天皇境内社 / 神明宮(天照大神)、天満宮(菅原道真)、多賀社(伊邪那岐大神・伊邪那美大神)、御首社、海亀大明神、御鍬社、恵毘須社、大国主社、山之神社祭典 / 潮干祭5月3日・4日、虫封祈願6月1日~8日まで、七五三詣 10月~11月所在地 / 半田市亀崎2-92関連記事 / 「林正山浄顕寺」半田市亀崎町
2021.11.17
コメント(0)
岡山県津山市一宮、名古屋から5時間越えの移動時間で津山盆地に鎮座する『美作國一ノ宮 中山神社』に到着。駐車場に車を乗り入れ「ヨッコラショ」と外に飛び降り背伸びをする、やはり遠くて疲れるなぁ。なんとなく体のエンジンがかからない状態で社頭に向け歩き出す、そんな状態も社頭前の老木の姿を見て、エンジンがかかってきた。駐車場に向かう際に横を通った時にはこの巨木は「立派な楠があるな」とは思っていた。実際に目の当たりにしてみるとこれはクスノキではなく「ケヤキ」それもとても太い幹のケヤキで高さこそさほどでもないが、幹には空洞ができ、しかも穴までも開いている。二本のケヤキが一つになったのかは定かではないけれど、その幹から伸びた枝は道路の上を覆うように広がっている。自然の驚異的なパワーが伝わってきます。樹齢は推定800年とされるケヤキ。(写真は2枚合成)祝木(いほぎ)のケヤキと呼ばれるようです。この堂々とした風格たるや、何かが宿っていたとして不思議ではない。その幹の傍らに小さな社も祀られている。解説によれば名木百選「中山神社・祝木のケヤキ」とある。目通りは8.5㍍、樹高が10㍍で推定樹齢800年だそうだ。「中山神社は美作國の一之宮で天武天皇の慶雲4年の創建と伝えられる。社殿は天文二年(1533)に尼子経久の兵火で焼失したが、永禄二年(1559)に再建された。本殿は国指定の文化財である。本樹は尼子の兵火以前のもので神社と歴史をともにした記念木である。正面の小祠には「大国主命」が祀つられている」なんとなく蛇の予感がしていたがそうではないようだ。幹の至る所に握り拳のような無数のこぶが現れ、空洞となったところから日差しが差し込む光景は神々しさを感じます。参拝の際にはこのケヤキは必見だろう。祝木のケヤキから左手に社頭。参道は遥か先まで続く。石の明神鳥居と思いきや、両柱を支える横の柱、貫から両柱から先に先端が飛び出ていない神明鳥居に似た珍しい造り。なので木鼻が存在しない「中山鳥居」と呼ばれるもの。寛政三年(1791)に作られたこの鳥居、高さは11㍍あるという。下から額を見上げると長時間運転したストレッチ替わり、首の筋肉がつる感じになる。その先には遮るもののない青い空が広がる。鳥居をくぐった左にも「名木百選 中山神社のムクノキ」が聳えています。「津山市一宮 推定樹齢500年。 本樹は「祝木のけやき」等とともに中山神社の社叢を代表する木で、目通り周囲5.3㍍、樹高は23㍍である」ひたすら空に向かって延びるこの樹もまた、自然の逞しさを感じさせてくれる。鳥居前の常夜灯は「文化13?」と記されているように見える。だとすると1816年、200年程経過したものですが、それを感じさせない意外に綺麗なものです。鳥居から先の参道を望む、遥か先に千木が見えます。参道が広がると左に忠魂碑と右に撫で牛が横になっている。解説らしき板はあったが詳細が読み取れなかった。参道を進むと二対の狛犬が神門を守護していた。この辺りに掲げられていた「中山神社の指定文化財」の解説板。・慶雲四年(707)の創建と伝えられる美作國の一宮。・延喜式にも記され、今昔物語や一遍上人御絵伝にも一遍上人が詣でた様子が描かれるなど古来より名が知られている。・本殿 国指定重要文化財で戦国時代に兵火に遭うが、永禄二年に尼子晴久により再建。 入母屋造妻入で向唐破風の向拝を有し、本殿形式は中山造と呼び美作地方独特の建築様式で当社が最古の例。・神門 市指定文化財で元は津山城二ノ丸の四脚門で、廃城後に移築した本柱二本と控柱二本の薬医門形式、屋根は切妻造で檜皮葺。・中山神社祝木のケヤキ 祝木のケヤキは内部が空洞で祠は祝木社で中山し神に國譲りした先住神。・中山神社戦国武将文書(市指定文化財) 美作地区を支配した戦国武将の戦勝祈願や奉納のために神社に宛てた文書。 尼子晴久、毛利元就の判物、古川元春外三名連署状、毛利元就書状、浦上宗景判物の五通からなる。手前側の狛犬。「日露戦役全勝記念」とある、海に囲まれた小さな小国が大陸の大国に勝利し国民が沸いた際に寄進されたものでしょう。そうした国の勢いが狛犬のデザインにも表れているか、尾を立ち上げ前屈みの勇猛な姿は今にも飛び掛からんばかりのもの。手水舎手水鉢。狛犬の左脇にあり、柄杓はなく、除菌スプレーが置かれ時世を象徴している。神門前の狛犬。元号は確認していないけれど先程の狛犬とは姿勢も容姿も雲泥の差がある。小さな角と小さな尾、ちゃんと付くべきものも付いている。これ犬?と感じるような素朴な容姿が印象に残る。神門。門の屋根の先に外削ぎの千木が姿を見せている。手前に神門を横切るように御手洗川の小さな流れがあり神橋が架けられている。緊急事態宣言解除もあり、当日は七五三とウオーキングイベントで境内は賑わっていました。津山城二ノ丸から移設したとされる四脚門。上神門をくぐり側面から眺める。檜皮葺の屋根をケヤキの角柱が支えている、本柱(鏡柱)の位置が妙に不自然で幅も広い。城の門として戦略的な意味合いも盛り込まれているのだろう。飾りを控え、派手さはないけれど、落ち着いた佇まいをしている。下 神門左に吹き抜けの神楽殿。右に美作国の全神祇を合祀する総神殿があるはずなのですが…。神楽殿から社殿全景。透かし塀が周囲を取り囲み、取り囲む様に参道が伸びている。社殿は檜皮葺で手前が入母屋・平入の拝殿で唐破風向拝が付く、その先は釣殿を介し入母屋妻入りの本殿に繋がっていて「中山造」と呼ぶそうだ。参拝客の途切れない拝殿は控え、左手の参道からぐるりひと回り。社殿左の斜面に社と石標、「鉾立石」と末社の「国司社」が鎮座しています。上「鉾立石」現在の石は1292年(正応5)に造られ、国難の際には本殿に移し祈念されたという。下「国司社」地主神として大国主命を祀ったもの。その先に急な石段の先に祀られている社が「御先社」栞によれば「中山の神の祖神を祀り、中山の神の側にあって供をするという義で、一般には、稲荷神として信仰されている」……レンズが歪んでいるわけではないようだ。尼子の兵火以前はこうした末社の数は100を超えたと伝わる。御先社から眺める社殿。ここから見ると本殿周りの擬宝珠の付いた高欄が見渡せる。更に進むと正面に鳥居があり、参道は薄暗い杜の奥に続いている。参道は途中から細い登山道的な趣となり、その先の岩肌に「猿神社」の赤い幟が見えてきます。よく見ると岩肌にへばりつく様に小さな祠が祀られている。猿神社今昔物語に「中山の猿」の霊を祀るとされ、現在猿田彦神として祀られている。この岩肌全体が祭祀対象のような気がする。牛馬の安産守護神の信仰を受け、子猿を模したぬいぐるみを奉納する風習が今もこうして残っている。人の思いがこもった手作りなんでしょう、同じものは見受けられない。本殿後方から左に回り込んでいきます。千木と5本の鰹木、屋根勾配は軒に向かい緩やかに反っていく、一番優雅に見える場所かも知れない。神厩舎神厩舎から中門に向け本殿の横を進む。大きくせり出した向拝の姿が強調されて見える。中門。この門もあり、拝殿の正面全景は取り辛い。創建は707年(慶運4)の創祀とされ、美作國の一ノ宮で鍛金、冶工、採鑛の守護神で農耕・牛馬の守護神として崇められている。現在の社殿は1559年(永禄2)、出雲国富田城〃主の尼子晴久により18年の歳月をかけ再建されたものだと云う。主祭神は鏡作神(かがみつくりのかみ)相殿神は石凝姥神(いしこりどめのかみ)、天糠戸神(あめのぬかどのかみ)創建や祭神には諸説あるようです。創建は美作国が備前国から分立した713年(和銅6)だとされたり、祭神も吉備津彦命、金山彦命、天鏡命などと挙げられるようでもある。そこには吉備国(備前・備中・備後国)の一之宮が吉備津彦命を主祭神として勧請されている等あるようで、美作国が分立して勧請され中山神社が創建されたという考察もあるようです。何れにしても歴史のある神社であることは確か、ここでは栞を尊重しよう。拝殿の右側と左側から見る社殿。丁石道神門から右手に進み、宮川を渡り境外に出る、その角に「中山神社・萬福寺参拝道(丁石道)」の碑と丁石があった。碑には「中山神社と萬福寺を結ぶ登山道の一つに丁石道がある。古来より多くの参拝者で賑わっていたが、年数経過、時代の変還・徒歩にての参拝者の減少により風化していた。美作一宮の遺産を見つける会、東一宮財産区・土地所有者・中山神社氏子・萬福寺檀信徒の協力を得て平成28年、欠損した石柱20本を建立し丁石道を復興する。願わくは、参拝者並びに一宮の地は縁ある方々の安全を祈念する。 平成28年吉日」とある。守るべきものものがある、ある意味羨ましく思える。下は碑の左側に建つ「四十三丁石」旅人はこの丁石を頼りに目的地まで歩いていった、今ならグーグル先生が案内してくれるが当時にそんな物はなく、先生の代わりとなったのが丁石。単位1丁は約109mあり、36丁で1里 (約4K)となる、写真の丁石は43丁と彫られている。境外を徘徊し始め時計を見る、既に予定時間は過ぎていた、神門前で待つかみさんのもとに戻る事にする。長閑な環境の中、豊かな杜に包まれ佇む中山神社の光景は再び訪れて見たい神社。美作國一ノ宮 中山神社 創建 / 707年(慶運4)主祭神 / 鏡作神、相殿神 / 石凝姥神、天糠戸神 末社 / 総神殿、国司社、御先社、猿神社 所在地 / 岡山県津山市一宮695関連記事 / 二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day1 、備前国一ノ宮「吉備津彦神社」、備中国一ノ宮「吉備津彦神社」
2021.11.16
コメント(0)
めでたくも単独過半数を獲得できた今更、本意でないパートナーの腑に落ちない内容をいつまで受け入れなきゃならないのかい。おやじ現役の頃は世帯年収で多様な恩恵を受ける事はなかった。子育てを終えたものとして過去の事を云うつもりは更々ないが、今回の趣旨から考えればどう考えても世帯年収だろう。恐らくそうした意見は少数ではないと思う。我々が納めた税金をたった一回のバラマキにする本来の趣旨はなんだった。納税者として今回の線引きは不公平でしかない。マイナンバー含め立ち止まって、熟慮を願いたい。そうまでしたければ議員定数・報酬、つまり自分達見える形で痛みを見せよ。無駄な税金の使い方を徹底的改めよ。食料・原料・燃料すら持たぬ国、舵を切る機会は何度もあった。いつまでも過去の幻影を追いかけている場合ではなくなっているんです。一時的な飴玉与え、これから先どうするのか。この付けは次の世代に確実ついてまわる、いつまでも高齢者が舵を取る時代だろうか。ペダルを踏み違えているような気がしてならない。自民、公明の与党は年収960万円の所得制限を設けることで合意
2021.11.13
コメント(0)
小牧市南の応時4に鎮座する大山神明社。少し西に上街道(赤線)が通り、江戸時代は小牧宿助郷村の一つとして人や物資の往来が盛んでした。明治に入りそれまでの北外山、南外山、北外山入鹿新田が合併し外山村となる。1891年の地図の中で大山神明社は既に記載されている。名鉄小牧線から県道25号線を東方向へ歩いて5分程の県道沿い、緑豊かな杜に包まれ鎮座するのが大山神明社。境内西に隣接するように公園があり、周囲は玉垣やフェンスが囲い子供らを遊ばせるには絶好かもしれない。県道の歩道には進路を塞ぐように太い幹の樹が聳えている、神社の杜という事もあるのだろう幹を迂回するように歩道が作られている。自然への畏敬の念を感じる光景だ、名古屋市内であれば歩行の邪魔、やれ鳥だ、虫だと騒がれて伐採の道を辿るのは間違いない。お子ちゃまだって当然のように境内側に回り込んで歩いていく、ここでは大先輩の巨木に人が道を譲るのだ。南向きに鳥居を構える大山神明社。右に社標と鳥居の先に常夜灯があり、右側の建物は「大山会館」杜に包まれた参道の先に赤い屋根の木造蕃塀と拝殿があり、奥には東西に長く石垣が積まれた神域がある。蕃塀から社殿方向の眺め、強烈な日差しに本殿域の姿が飛んでしまった。拝殿は瓦葺、妻入りの四方吹き抜けのもので2015年に修復を受けた綺麗なもの。控え柱を持つ木造の蕃塀も腐れがある訳でもなく綺麗な状態、恐らく同時期に手が入れられたのかもしれない。最初にこちらの神社、由緒書きがなく、さらっと地誌など目を通したが詳細は分からなかった。本殿域は玉垣で囲われ三つに区切られていた。小さな狛犬が守護する本殿を挟んで左に御嶽神社、右に赤い屋根の小社が祀られている。本殿前を守護する小さな狛犬、寄進年度まではよく分からなかった。しかし綺麗に補修された拝殿や、灯篭の柵や手摺など氏子の方々がしっかり支えているのが伝わってくる。氏子の方々の存在が感じられる神社は規模の大小に関わらず、参拝に訪れても心地いいものです。本殿右の小社、板宮造りで大きな楠の下に祀られているが残念ながら社名までは分からない。中央の本殿。午前中の日差しは撮影には適さないかもしれない。鰹木が4本、千木は内削ぎ。社標に神明社とあるので祭神は天照大御神でいいと思います。社名札があるとうれしいなぁ。では参拝っと。本殿域の右手前に3匹の亀(?)の石像がある。なぜ亀がいるのか?天照大御神と云えば陽光、陽光と合いそうなのは鶏を勝手に結びつけてしまう。意味あっての事だろう、由来が良く分からない。願わくば由緒書きが欲しい。本殿左の御嶽神社。御嶽をイメージさせる石組の神域に、先端のとがった一抱えはありそうな立派な石標が建っている。拝殿から鳥居方向の眺め、杜の中に陽光が差し込む様は、天照大神をお祀りする神明社らしい光景かもしれない。2021/10/15大山神明社創建 / 不明祭神 / 天照大御神境内社 / 不明社、御嶽神社所在地 / 愛知県小牧市応時4-163 公共交通機関アクセス / 名鉄小牧線から県道25号線を東方向へ歩いて5分程
2021.11.13
コメント(0)
今年は何十年ぶりにキャンプに行く機会や車内泊で出かける機会もあり手持ちのツールに補充なり見直しを迫られる事が多かった。コンパクトなランタンもその一つ。テント用、災害時の一時的照明として、何十年か前のコールマン製のランタンを使っていた。コンパクトに折りたため、丈夫で電池さえ管理できれば多少重たいが不満はなかった。今年、キャンプ場の夜を照らし出していたのは大半がLEDの明りだった。温かい色合いや燃焼音のたまらないガソリンランタンですが、それを好んで使っているサイトの少なかった事に驚きを感じた(今更の話と思われるかもしれないが浦島太郎なのでお許しを)。ガソリンランタンは今後も使い続けるだろう、しかしテント内や手持ち照明は電池から卒業し余計な廃棄物は減らしたいそう感じていた。とはいえ充電はなぁ(おやじの古い考えなのだろう)今年そういえば携帯バッテリーを購入、家電も充電も出来る環境だった事を思い出しお試しで下の製品を頼んでみたものが今日届いた。相変わらず過剰な梱包の中から出てきたのがこれ。サイズ直径90mm×高さ47mm~約120cm、大きさは車のダッシュボードに入る大きさ、本体重量も約132gとテントにぶら下げても負担にならない重さ。以前の日本はこうしたものが得意だったはずなのだが、made in 大陸の製品(大陸なぁ、これも古代人の先入観なんだろう)粗悪なイメージのあった大陸製品も今やそんな事もなく日常の中に溢れている。ランプシェードを伸ばして初期充電の状態で点灯すると「温かい電球色」は意外に青味が強い。シェードがある事で比較的目に優しい光かも。照度調整は低・高の二段階と点滅モードの3種が選択できる様で照度高で5時間、低で10時間は使えるようだ。充電はUSBケーブルで約 5時間、ソーラーパネルで約 20時間という事だ。そのUSBが卒業したと思っていたBタイプ。照度は120-140ルーメン…ワットでしかイメージできない古代人にはピント来ない。概ね20W程度のイメージだと思う、車中泊の車内であれば不足のない明るさかと。太陽光パネル充電も機会を見てフル充電時間を調べて見よう。実はかみさんには蛇腹のシェード、使用頻度により恐らく折り目の部分で切れてくるような予感がして如何なもんかと云っていた。この予想が外れ耐久性に不安がない事を少し期待したい。購入動機の軽量コンパクト、充電ができる要件は満たしているので満足できる商品なのは間違いなさそう。後はスマホ充電が可能と書いてあるので、携帯バッテリーとしての機能を試してみたい。使い込んで感じた事は追々追記する事にしよう。取り敢えず充電完了後は非常持ち出し袋に忍ばせておくことにする。それにしてもこういうものは得意だったはずなのだが・・・・・マウントスミ(Mt.SUMI) LEDソーラーパワーバンクランタン os1812sl
2021.11.12
コメント(0)
過去掲載した「亀崎仲間通りの街並み」その中に「力神車の保管庫」がありますが、今回はそこから東方向に鎮座する浄顕寺までを掲載します。かみさんの知多新四国八十八箇所霊場巡りにお供として亀崎に来ていますが、お供が道草ばかりするもんだからかみさんにはドンドンおいて行かれています。そんな状況にありながら、力神車管庫の左に奥へ続く路地があります、正面に山を背にして建つ瓦葺の小さな門が目に止まり路地を進んで見ました。町内で盛んに見かけた「望洲楼」の看板、ここがその望洲楼。知多で作られた日本酒などの産物を江戸に運搬する海運業で賑わった亀崎。ここに1855年(安政2)に中口屋の屋号で本町通りの南に料理屋として創業したのが始まり。敷居が高そうな雰囲気、亀崎で一番古い料亭のようで半田市景観重要建造物に指定されている。「亀崎十二勝」と題して、漢詩で亀崎の景勝を詩ったものらしく、十二勝の10か所を亀崎十景として掲げているそうです。入口でくつろいでいたキジトラ。ここの住人なのか尋ねても答えてくれないが、人には動じない姿は、むかし我が家の住人だったキジトラを思い出す。敷居の高そうな雰囲気を彼?が和らげているような。キジトラに別れを告げ通りを東に2~3分程進むと左に山門が見える。「寳物 蓮如上人 御自作木像 石山合戦御身方連名 血判弥陀画像 其他多数」と記された看板に目が止まり拝観させてもらいました。林正山浄顕寺と称し真宗大谷派のお寺。蓮如上人(本願寺第8代)は1468年(応仁2)応仁の乱と堅田大責の変を避け三河国に下向のおり、亀崎に留まりこの地の教化を導いたとされる。血誓の阿弥陀如来絵像「1570年(元亀元年)から1580年(天正8)までの10年間、御田信長による大阪本願寺攻め(俗に石山戦争)に於いて、阿弥陀如来絵像の裏や上に誓約を示す宗徒の署名血判が押されているもので、血判状の代表的なものとされる。絵像の裏には武士と考えられる「佐田五郎二郎」の名が農民に混じり瀬田町衆、八幡町衆、南蔵坊禰宜の文字も見られ、様々な階層が一致して一揆に参加した事がうかがわれる。絵像はこの地方のものではなく長浜のものであると考えられ、浄顕寺四世の林正が本願寺に尽くした結果、与えられたと伝えられている」一向一揆に結集した門徒が血判した「血判阿弥陀如来絵像」が二幅保存されているといわれ、大阪本願寺で信長と戦った人たちの署名血判状の代表的なものとされ半田市指定文化財のひとつだそうだ。参道の先に建つ瓦葺の山門。寺の沿革によると1754年(宝暦4)に大門(山門)建立とある。丸い門柱に角柱の控え柱が付く四脚門でそこから間近に本堂が望める。参道脇にはイチョウの巨木が聳えている。創建については諸説あるようです、沿革を尊重すると1468年(応仁2)蓮如上人の開基されたのが始まり。本尊は阿弥陀如来。この寺へ幾度も藩主が訪れ、1679年(延寶7)尾張藩、後の第3代藩主・徳川綱誠(つなのぶ)が知多郡巡視の際に浄顕寺に立ち寄り休憩を取ったとされ、1733年(享保18)には尾張藩第7代藩主・徳川宗春(むねはる)も浄顕寺で休憩を取ったようだ。1803年(享和3)には伊能忠敬も浄顕寺に宿泊した記録があるようだ、1827年(文政10)徳川綱誠立ち寄りの縁で宗春の位牌を受領するなど古くから続く亀崎の古刹。血判阿弥陀如来絵像は1901年(明治34)に封印されたようで拝観は出来なかった。本堂左の眺め、東南海地震、三河地震などで被災し伽藍の一部を失い、境内にあった鐘楼も伊勢湾台風で倒壊しその後撤去された、現在の伽藍に留まっているようです。境内中央には樹齢は不明ですが大きなイチョウが御神木の様に聳えている。本堂から山門の眺め。晩秋には黄葉したイチョウの葉が境内を黄色一色に染めるのだろう。もういい加減待ちくたびれたかみさんから電話が入りそうな・・・・・2021/09/24浄顕寺山号 / 林正山宗派 / 真宗大谷派創建 / 1468年(応仁2)開基 / 蓮如上人本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 愛知県半田市亀崎町3-51関連記事 / 「亀崎仲間通りの街並み」力神車の保管庫から / 徒歩2~3分
2021.11.11
コメント(0)
二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day3お風呂や考える必要のない食事を提供してくれたホテル泊。岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」も三日目の最終日が始まった。朝起きてカーテンを開ければ円山川対岸の山並みに朝もやがかかり、竹田城とは言わないけれど幻想的な光景が広がっていた、思わず外に出て眺めていた。一瞬のドラマも終わり、ホテルに戻り朝食を済ませ、最終日最初の目的地「玄武洞」に向け走りだす。大江戸温泉物語「きのさき」所在地 / 兵庫県豊岡市城崎町桃島1232ホテルから玄武洞までは、譲り合う気持ちがなければ通れない「城崎大橋」を渡り車で10分程。現在新たな橋を架けるため工事が進められているけれど、今の「譲り合い橋」で問題なく成立している。普段の生活で狭くもない道でさえ、「お前が下がれ」と睨みあ合う光景を見ると、渡り始めていれば手前で待つ、待避所に近い側が寄せて待つ、当たり前の事ができない便利な街の日常を見ると、中途半端に整備し過ぎな気がしてならない。この三日間運転中にストレスを覚える場面は一度もなかった、10分程で円山川上流にある「玄武洞公園到着」施設は「玄武洞ミュージアム」と柱状節理の露出した5つつの岩壁で構成される山陰海岸ジオパークの一つ。展望広場からは眼下に円山川と対岸に山陰本線が良く見える。河口が近い事もあるのか、玄武洞へ続く苔むした歩道には真赤な蟹の多い事。玄武洞160万年前の火山活動に伴う玄武岩の大露頭で、 高熱の溶岩が急激に冷える事で生じる割れ模様「柱状節理」が美しく、断面は人が作ったかのように綺麗な5~6角形をしている。 洞窟になっていますが、これは人の手により採掘された結果のもの。この石は人々の生活に不可欠なものとして古くから採取され、街中の石垣や漬物石、地蔵湯で見た庭石など利用されてきてそうだ。こうした柱状節理の露頭は他にも青龍洞、白虎洞、北朱雀洞、南朱雀洞があり、その断面の美しさだけではなく、溶岩流が複雑に蠢いた道筋や、岩盤の上の僅かな地表に根をおろす樹々など、人の及ばない自然の力を感じさせられる。紅葉が深まれば、更に美しさを増し、腰を据えてゆっくり眺めていられるいい場所です。玄武洞所在地 / 兵庫県豊岡市赤石1362さあ、次は「但馬國一宮出石神社」に向かいます。円山川を遡り(南下)ながら但馬の小京都と呼ばれる出石市まで小一時間程の移動時間。豊岡盆地の東の山裾に位置し、周囲はコウノトリを育む田畑が広がり、その中に島の様に出石神社の杜が見えてくる。但馬の国の一宮として周辺では一宮(いっきゅうさん)と呼ばれ親しまれている神社。神社解説によると。「神社の創立年代はあきらかではない、社伝の一宮縁起に谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によると、およそ千三百年前にはこの地で祭祀がおこなわれていたことがうかがわれる。天日槍命(あめのひぼこのみこと)が新羅の国よりお持ちになった八種の神宝を出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)として、また天日槍命の大御霊を御祭神として斎祀している。天日槍命は、古事記、日本書紀ともに新羅国王の王子であり、日本に渡来されたとし、その事蹟は記紀のほか古語拾遺、播磨国風土記等からうかがうことができる。八種の神宝とは、古事記には珠二貫・振浪比礼・切浪比礼・振風比礼・切風比礼・奥津鏡・辺津鏡と記している。天日槍命の子孫には、田道間守命(たじまもりのみこと)や神功皇后があります。天日槍命は泥海であった但馬を円山川河口の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を造り、円山川の治水、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めている」鳥居はニノ鳥居(中門)まで構え、狛犬が守護するニノ鳥居は、流麗な曲線を描く屋根の付いた両部鳥居で「一宮」の額が掲げられている。現在の社殿は大正三年に再建されたもので、神門と入母屋造りの拝殿、切妻造りの幣殿と祝詞殿、その先は透塀に囲まれた流造の本殿が主な伽藍。杉木立に包まれた参道の先に朱に彩られた神門があり、蟇股など彫と色彩は見事だった。神門から左右に繋がる塀にも朱が塗られ、派手な印象に思えるけれど、周囲の木々の緑と調和する上品なものだ。場所により紅葉が始まり、祝詞殿や拝殿周辺は色づき始めてきていました。境内には写真の様に苔も多く見られ、鮮やかな緑色の絨毯が広がっています。写真の赤い社は夢見稲荷社、祭神は天日槍の妃神。その奥が比売社で宇賀能魂を祀る、写真の右手方向に絵馬殿がある。境内にはこのほか市杵島比売神社、菅原神社などが祀られている。更に後方には玉垣で囲われた禁足地があり、その昔は天日槍廟所と称されていたようで、禁足地に立ち入ると良くない事が起こるとか。現在の伽藍は南北に長く、一ノ鳥居から続く長い参道始め、今でも十分広大な印象を持ちます。幾度となく火災に見舞われ、規模や配置なども変わっていったようです。古来の伽藍は更に大きな規模を誇ったようで、西方向に流れる出石川付近では古い鳥居の遺物が掘り出され、神門の横に安置されています。因みに発見された場所の地名は出石町鳥居として残っている。往古は東西に長い社地を誇っていたようです。当日は祈祷や、ウォーキングイベントも重なり、撮影には随分待つことが多く、境内も賑やかでした。しばらく時間を待っていると賑やかだった境内はいつしか静かさに包まれていた。「但馬國一宮出石神社」建立 / 不明(現社殿1914年の造営)主祭神 / 伊豆志八前大神、出石八前大神、天日槍命境内社 / 夢見稲荷社、比売社、市杵島比売神社、菅原神社、所在地 / 兵庫県豊岡市出石町宮内99出石神社を後にして出石市営西の丸駐車場まで10分程の移動時間、目的は出石そば。出石町は「古事記」「日本書紀」にも記されている程の歴史ある町で、但馬の小京都とも称されるだけにどことなく京都の雰囲気が漂う落ち着いた街並みが残っている。但馬開発の祖神とされる新羅の王子天日槍は垂仁天皇3年(BC27年)に渡来し但馬を拓いたと伝えられ、町名の出石は天日槍の宝物『出石小刀』からきているとされる。古くは但馬の国衙が置かれたとも伝えられ、それらを裏付けるように袴狭地区の田多地公園付近の遺跡から祓いの道具(人形や斎串)が発見されているという。辰鼓楼大手前通り沿いに建ち、マンホールにも描かれている出石町のシンボル的な建物。1871年(明治4 )旧三の丸大手門脇の櫓台に1881年大時計が寄贈され以降は時計台として親しまれている。現在の時計が3代目で今も時を刻み続けている。写真を撮っていると観光協会の方だろうか、他府県の新聞を手に最近記事として取り上げられた事を説明してくれた、地元に住む者のシンボルとして辰鼓楼やこの街並みを大切に保存していると熱く語ってくれた。古いものは取り壊し建て替える都会では、子供の頃に見慣れたシンボルは残っていないものです。幼稚園の散歩コースなんだろう、辰鼓楼を指さして通り過ぎて行く子供たちがいた。彼らが大きくなり、辰鼓楼はじめ情緒ある町並みに誇りを持ち受け継いで行ってくれると思いますよ、そう話すと「そうなんだよ、取材があるから」と云って立ち去って行った。熱く語れるものがあって羨ましい限り、我が町の誇り?あったかな。下はこれも出石町のシンボル出石城跡の登城橋。1604年(慶長9)、出石藩主小出吉英により有子山の麓に築城された城で、この城と共に城下町が整備され現在の町並みが作られていった、小出氏、松平氏、仙石氏と城主を代えながら、1868年(明治元)廃藩置県により城が取り壊されるまで威容を誇っていました。それでも辰鼓楼や野面積みの石垣、堀などは残り、1968年(昭和43)隅櫓、1994年(平成6)登城門など復元され、登城橋河川公園として出石の観光スポットになっているようです。城下街の名残を強く感じる街並みを出石そばを目指し徘徊する。街並みには歳月を経た赤い土壁や酒蔵が残り、昨晩堪能した地酒「楽々鶴」の蔵元(右上)もある。出石明治館(右下)城下街に明治の香りが漂う建物は、1887年(明治20)に郡役所として建造された木造洋風建築の建物で、桜井勉をはじめ郷土の偉人を伝える出石明治館として残っている。街並みに溶け込む様に小さな地蔵堂や稲荷などが点在し、これら見て廻るだけでも歩く楽しみがある。出石そば街にはとにかく蕎麦屋が多い、その数は50軒ほどあるらしい、そもそもが1706年(宝永3)、出石藩主松平氏と信州上田藩の仙石氏の国替えにより、出石でも食べ慣れた「蕎麦が食べたい」と信州からそば職人を呼び在来のそばに信州の技術に加え誕生したのが出石そばの発祥だとされます。そんなことで少し歩けば蕎麦屋にあたる、どこで食べようか迷うところです。彷徨った挙句、お地蔵様の近くにある「そば庄 鉄砲店」を選択。割り子そばの様に出石焼きの小皿に盛られた蕎麦、出石そばの特徴といってもいい。五枚一組が一人前で、わさび、ねぎ、大根おろし、とろろ、玉子などの薬味に徳利に入れられた鰹と昆布の出汁でいただく、もちろん蕎麦湯も出してもらえます。小さな小皿に盛られた蕎麦が机に並ぶ、朝食を普段以上に食べた事もあり5枚の蕎麦は手ごわかった。食べ歩きスタンプラリーもあるようですが今日は無理。美味しく個性的なそばを頂き、この遠征がとても充実したものになった。さて十分すぎるほどお腹は満たされた、腹ごなしにもう少し散策を続ける。上左天満宮 九州大宰府天満宮の分社で祭神は菅原道真。明治の初めの神仏分離に伴い現在地に祀られたものだという。所在地 / 兵庫県豊岡市出石町材木25上右呉服神社京都の祇園社より勧請したもので、勧請年月日は不明。祭神は織物の神、袴幡千々姫命を祀る、現在の社殿は明治の大火災で焼失以降に再建、大正6年に本殿改築、昭和6年に鳥居や狛犬が建築されたもの。所在地 / 兵庫県豊岡市出石町魚屋43下諸杉神社式内社で、旧社格は県社。有子山北麓の出石城東に鎮座し、創建は不詳。社伝によれば、当初は出石神社近くの水上村に鎮座していたとされ、この地に遷座したのは1574年(天正2)の頃とされる古くから鎮座する神社。こちらも両部鳥居でその先に拝殿、本殿と続く、特に本殿の各所に施された彫飾りは見る価値がある。境内には川上神社、天神社、厳島神社、社日神社、新田神社、三柱神社、八幡神社、稲荷神社、大國神社など境内社が多く祀られている。創建 / 不明祭神 / 多遲摩母呂須玖神所在地 / 兵庫県豊岡市出石町内町28町内にはこうした寺社が集中しあっという間に時間が過ぎ去っていきます。1日そばを食べ歩き、寺社を巡る、ゆっくり滞在したい場所かもしれない。とはいえ帰りの時間を考えると最終目的地「但馬一宮粟鹿神社」に移動しなければ、走り出すか。出石市営西の丸駐車場所在地 / 兵庫県豊岡市出石町小人129-19次の目的地、粟鹿川左岸に鎮座する但馬一宮粟鹿神社まで移動時間はほぼ1時間程の工程です。粟鹿山山麗の周囲は田畑が広がる長閑な場所に鎮座する「但馬一宮粟鹿神社」社頭駐車場へは粟鹿川に架かる趣のある橋を渡った右に無料の参拝者駐車場があります。社伝によれば粟鹿の名の由来は粟をくわえた鹿が粟鹿山から現れ、人々に農耕を教えたと伝えられ、その鹿が祀られているとされるのが但馬国随一の古社粟鹿神社、2000年以上の歴史を持つとも云われるそうだ。町名も神社から来ているのかもしれません。駐車場から鳥居はすぐそこ、石の明神鳥居には大きな「粟鹿神社」と記された額が架かる。鳥居の先の参道には勅使門と奥に髄神門が見えている。勅使門その名の通り勅使が神社に参向の際出入りする門、記録から4回の参向があったという。建立年は不詳で屋根は以前は檜皮葺だったようで、過去に幾度が火災に見舞われながら免れてきた門。シックな佇まい唐様の門で、特に扉は長い時間の経過を感じさせてくれる。髄神門(日の出門)瓦葺の随身門は入口側には一対の随身像、内側には狛犬一対が安置され、それらは朝来市指定有形文化財に指定されているもの。こちらの髄神門も長い時間の経過を感じるもので、そろそろ何とかしないといけない時期に来ている。門をくぐった左側に天満宮、拝殿右に猿田彦神社が祀られている。苔むした狛犬が守護する社殿の全景。手前の拝殿と奥に1880年(明治13)造営の流造の本殿と並び、本殿の後方には小高く盛られた小山が見える。こんもりは怪しいよね。この小山は日子坐王の墓だと伝わるようで、古墳調査も行われていない神聖な場所のようです。古くから国土開発の神とされ崇敬されてきた。神社境内には由緒書きはなく創建は不詳です。主祭神は天美佐利命、日子坐王命、日子穂穂手見尊配祀神が阿波奈岐尊、伊弉奈岐尊、天照大御神、籠神、鵜草葺不合尊、月讀尊、素盞嗚尊、豊玉姫尊社殿左に境内社が複数祀られていて、床浦神社(大己貴神)、稲荷神社(保食神)、厳島神社(市杵島姫命)、茗荷神社(草野姫命)が点在する。 但馬一宮としてそれなりの参拝客を想定していました、しかし訪れる方は意外に少なかった(この御時世だからと思いたい)。静寂で神々しい空間に包まれた神社とするのもいいけれど、歴史のある神社や寺など修復の手が届いていない姿を見ると、どうなんだろうといつも思う。我々からお国が取り立てていった年貢、有効に使われているのか疑問に思う事が多いだけに、尚更そう感じる。多くの参拝客が訪れ、賽銭や御朱印で潤えばいいのだが、どこも実態は苦しいのではないだろうか。但馬一宮 粟鹿神社所在地 / 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152これで今回の二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」の予定は全てコンプリート、欲を出して竹田城まで行きたいとこですが、ここから高速に乗り名古屋に帰る事にします。この三日間、日本海の先にある大陸の香りを感じることも多かった、砂丘や柱状節理等自然の圧倒的なパワー、我が町を熱く語れるパワーを見せつけられ有意義な小旅行でした。かみさんも今回参拝した神社を塗り潰す事が出来て満足気です。総走行距離は1000k越え、燃費の悪い愛車も良く頑張ってLiter/8km程度走ってくれました。関連記事 / 二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day1 / day2
2021.11.10
コメント(0)
以前掲載した生駒屋敷跡。そこから東の県道172号線を越え5分程歩く、民家が集中する中に、ポツン〃と田畑が残るそこに恰も古墳でもあるようにこんもりとした森がある。それは小折本町栄3の「御嶽神社」生活道路沿いに残る小高い小山、よく見れば周囲は石垣が積まれ土が盛られている。その頂から東斜面にかけて複数の石碑が並んでいるのが見える。いかにも御嶽神社らしい佇まいをしている。社頭は写真の石碑が建つ交差点を左に曲がります。写真左が木曽御嶽本教布袋教会で右が御嶽神社。入母屋瓦葺の妻入り拝殿、優雅な曲線を持つ唐破風向拝が付き左右に常夜灯が建つ。木曽御嶽信仰は、長野県の御嶽山を信仰の対象とし、室町時代後期頃から信仰を集め古来は麓で百日行を経た者しか登拝を許されていなかった。江戸時代に武蔵國の行者・普寛、尾張国春日井郡牛山村の行者・覚明により開かれ、後の行者により全国に広がっていったとされます。東の五条川を超え、小牧城の南に位置する春日井市牛山町が黒沢口を開山した覚明の生誕地という事で一帯ではこうした御嶽神社を見かける事が多い。こちらの建立がいつ頃なのかwebで少し調べたりもしたが詳細は分からなかった。社頭右に「御嶽神社 福寿元講 大正5年」と刻まれていた社標、その隣には「三福三寶荒神社」の石標建っている、後方の常夜灯の寄進は明治の元号が刻まれていた。この場所を明治から平成まで見渡してみると、赤い場所に鳥居の印が記されるのは平成になってからだった。鳥居こそ描かれていないものの、明治・大正の頃には既に社地の形は描かれている事から、社標や燈籠の年号が示すように、規模はともかく、明治の頃には何らかの形でこの地に建立されているようです。こうした神社は地域や系譜によって心願講や日出講など複数の講が存在するようで、この辺りは福壽講が多いようです。講の主な活動は霊峰御嶽の御嶽大神(国常立尊、大己貴命、少彦名命)を信仰し、お山に登拝し神を拝み、先祖に会いに行く、そして日々の御勤めが主となるようで、御嶽教自体は奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く政府公認の教派神道で、神道一三派の一つ。三福三寶荒神 火は古来より万物を浄化する神聖なものとして尊ばれ、人々の暮らしに欠かせない。不浄や災難を除去する神とされ、火と竈の神として家内安全、商売繁昌、厄除開運などの利益をもたらすとして信仰されているようです。三宝(仏・法・僧)の守護神で、御嶽を開山した役小角が感得した仏神とされ、三身を持ちそれぞれ如来荒神、麁乱荒神、忿怒荒神と呼ぶ荒神信仰。拝殿左の手水鉢、正面に文字が刻まれているようですが読みとれなかった。拝殿は外壁はともかく落ち着いた佇まいで、向拝の優美な曲線が目を引く外観鬼瓦には山と〇に囲まれた三の文字が入る、山の形は霊峰御嶽、○は宇宙を現し、中の三本の線は上から不動明王、中央が大日如来、下が摩利支天を現しているそうだ。拝殿内の様子、山丸三の紋が入った幕、その先に霊神碑が並ぶお山を望む。霊神碑と聞くとなんだかお墓の様に思えますが、これはお墓とは少し違うようで、山岳信仰では亡くなった信者の神霊が遠く離れたお山に戻る事を念じ建てられるもの、忌み嫌うものではない。小折の町に小さな御嶽がここにある。2021/09/20御嶽神社・木曽御嶽本教布袋教会創建 / 不明祭神 / 御嶽大神所在地 / 江南市小折本町栄3関連記事 / 江南市 生駒屋敷跡・小折城跡
2021.11.06
コメント(0)
名古屋市南区南野2丁目 稲荷社県道36号線から南に一本入った三叉路の角地、住宅が広がる一画に小さな杜が残っています。周囲を玉垣が囲う社地の北側に南野2丁目稲荷社の社が見えています。三角形の社地は底辺を南に、頂点を北に向け、社頭は東側の道路沿いにある。タイトな社地になっています。南側には南野二丁目公民館があり隣接しています。この公民館、趣に独特なものがある、まるでお堂のような造り。南野2丁目公民館の札が掛けられていますが、恐らく以前(現在もかもしれない)は弘法堂で地域のコミュニティーの中核だったのかもしれない。何れにしても公民館としては味のある外観だ。社頭は道路から太鼓橋が架かり、その先に明神鳥居が建てられています。左には「南区史跡散策路」の案内板とその奥に石碑が建っている。碑には「福井八左衛門供養塔」とある。現在のこの地はひと昔前は南野村で当時庄屋だったのが福井八左衛門。以下は南区福井八左衛門(ふくいはちざえもん)の供養塔(くようとう)から引用。「福井八左衛門供養塔弘心寺の境内に、新田開発の遺徳をしのんで、1914年(大正3)に村人が建てました。南野村の庄屋福井八左衛門は江戸時代、瀬戸内海の製塩業に圧倒され、当地の塩の生産に見切りをつけ、田畑、塩屋を売却して資金を作り、1757年(宝暦7)八左衛門新田開発に挑んだが、完成に至らず地頭竹腰山城守に、新田築方証文と共に返還しました。山城守は自普請(周辺集落からの供出金)で築立てたがこれも費用がかさみ開発できず、1791年(寛政3)に御小納戸(徳川家直轄)の控となります(『尾張徇行記』)。なお、八左弘法堂(現弘心寺)は1924年(大正13)に建てられています」ほぼ素性が見えて来たような、因みに稲荷社の創建は1848~54年(嘉永年間)の創建だと云われているようです。分からないのは現弘心寺、公民館は寺なのかい? 近くに寺は無かった気がする、それとも弘心寺の札を見落としているのかもしれない。今となってはもやっとしたものが残る。社地北側から境内社殿の全景。一段高く積まれた神殿域に3社が祀られているのがよく分かる。中央の大きな社は流造、左右の社は板宮造りのようです。以前はここに流れがあったのだろうか、太鼓橋を渡り1961年(昭和36)に再建された鳥居をくぐり境内へ。左右の常夜灯は1928年(昭和3)寄進のもの。上は1891年頃の南野の地図。マーカーの位置が南野 稲荷社の鎮座地になります。周囲はまだ水田が広がっていて、そこに八左衛門新田に導く水路が伸びています。社頭入口の太鼓橋は単なる飾りだけではなかったのかもしれません。境内左に手水鉢があるが、ここに龍はいないようだ。今こうして見る鉢は脚の部分に拘りがあるようだ、寄進年度は確認していません。参道は右に続き本殿域へ。石積みの本殿域に更に台座が作られ、その上に社が祀られ、中央社殿の左右に狛狐が守護している。本殿域左右に常夜灯が二対と本殿域の石積みの左右に狛狐が祀られている。鳥居前の燈籠より古そうですが年代は不明。本殿域左右にひっそりと佇む狛狐。こちらも年代不明、立派な尾を持つ狐ですが随分と風化しているのか細かな輪郭は失せている。南野 稲荷社参拝させてもらいます。玉垣で囲まれた本殿域、中央の社を守護する狛狐は見慣れぬ参拝者を睨んでいるような。本殿域の三社に社名札は掛けられていません。中央は稲荷社としても左右の社は………分からない。本殿域の狐の目は吊上がり、視線は鋭い。稲荷社、流造で大きくはないけれど脇障子も付き彫飾りも入れられている。本殿域の社殿全景。右側にはもみじもあり、それが色付いて行くと境内も華やかになるのでは。境内左の片隅に建つ八左衛門新田稲荷社境内改修碑。1938年(昭和13)の健之で改修に貢献された多くの方々の名が刻まれている。そろそろ帰ろうと境内全景を撮ろうとしていた時、地元の方が参拝に訪れた。こうして参拝に訪れる方の姿があるのは、この稲荷社のご利益があらたかな証かも知れない。境内も綺麗に掃き清められ、稲荷社を支える氏子の姿が感じられる。2021/10/21南野2丁目 稲荷社創建 / 1848~54年(嘉永年間)祭神 / 不明境内社 / 本殿域に2社の不明社所在地 / 名古屋市南区南野2丁目関連記事 / 南区星崎1「市杵島社」公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本星崎」降車、南西方向に徒歩20分程参拝者駐車場はありません。
2021.11.05
コメント(0)
二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day2車中泊した道の駅「神話の里 白うさぎ」で二日目を迎える。新調したインフレーターマットは布団と同等の効果があり熟睡できた。例によって夜が明ける少し前には目が覚める。携帯を見ればまだ5時過ぎ。横ではかみさんが熟睡中、ひとり外に出て周辺散策。こうして車の鍵を持ってブラブラするもんだから目覚めた彼女の動きを制限している。車中泊の際はかみさんにスペアキーを持ってもらうのがいいのかも。白みかけた空は雲が多く、生憎の空模様、日の出のドラマは期待できないようだ。道の駅の前を伸びる国道9号線、道の駅と白兎海岸を結ぶ巨大な木造歩道橋から日本海の沖合を眺める。昨晩は真っ暗な海原にポッン〃と漁火が灯り幻想的な光景があった。星取県の看板、周辺に民家が少ないこともあり、昨晩は晴天の夜空に普段の数倍の星が輝き、若い頃の視力に戻った錯覚になる。普段の街は明る過ぎる、こうした光景すら打ち消し、どこまでも味気ない現実しか感じさせない。歩道橋から見る白兎海岸左は鳥取砂丘方向、かみさんが雨が降る前に行きたいスポットだ。右は今日の第一目的地、白兎の丘と恋島方向の眺め。昨晩、地図と雨雲レーダーを見ながら今日の行程を話し合い、当初第二目的地だった鳥取砂丘の前に道の駅から西に片道40分も走れば伯耆国一ノ宮も行けそう。計画外で第二目的地に加えることにした、鳥取砂丘までは雨は降らないと診た。そろそろかみさんも起きた頃だろう、第一目的地に向かう準備をしよう。車に戻ると既にかみさんは身支度を終え、顔も洗いに行けず、おやじの帰りを待ち構えていた。やはりスペアキーは次回から持ってもらおう。準備を整え目の前の小さな岬「気多岬」に歩き出す。普通に歩けば岬の頂にある「白兎の丘」まで15分程もあれば辿り着ける。岬の先には小さな小島「淤岐之島(おきのしま)」がある。「因幡の白兎」の舞台となった場所がここで、海岸には物語を伝える解説が置かれています。岬の陰に祀られた小さな神社「白兎 川下神社」「古来氣多ノ前神ヶ岩に鎮座されたもの。白兎神社と共に1764年(宝暦14)再興、1912年(大正元年)白兎神社に合祀した。綿津見大神の娘豊玉比売は神ヶ岩に庵を結び、鵜の羽を敷き鵜草萱不合の命を生み、龍神となって海に消えたとされ、それを機に此処に祀ったのが白兎 川下神社。海を守り、婦人病の守護神とし崇められている。平成21年の台風で被災し現在の場所に遷座。祭典は8月1日」ここから一旦国道の歩道を進み「白兎トンネル」の手前から右に入り丘を目指します。丘なんだから当然のことだが坂が続く、その坂を2~3分程上り気田岬東屋に向かう。たいした坂でもないですが、起き掛けの体には少々応える。何の飾りっ気もない東屋ですが、窓からは白兎の住んでいた淤岐之島が目の前に見える。恰も額に入れられた一枚の絵のように見える。その島には数本の松が自生する程度で、頂には鳥居が建てられているが岩礁と云っても過言ではない。これでは兎も渡りたくなるというものだ。冬には荒れる日本海、今はまだ穏やかだ、姑息な手段を使わなくとも渡れるような気がする、そんな間近に島がある。さて東屋に辿り着く手前に丘へ続く坂があり、それを登り「白兎の丘」を目指す。坂はこれまでより急になる、こちらも数分で辿り着ける距離ですが体はまだ起きていないようだ。東屋から先に進む歩道もありますが、歩道整備中なのか当日はそれ以上先は進めませんでした。丘には白兎神上陸の地として展望台とカップル向きの撮影スポットが建てられていた。眼下には小沢見の集落とその先の岬の「大崎城址」が望め、右方向は鳥取砂丘が見通せる。余談ですがこうした鐘をあちらこちらで見た気がする。「道の駅はわい」もその一つ。道の駅白兎から国道9号線を西進する事30分程。今はまだ未開通の部分が残る山陰自動車道のSAとなる施設。ここで8:00、レストラン営業時間には少し早く、併設のコンビニで朝食を買い求める。今回はこのパターンが多いかな。この地の地名が「羽合」と云うらしく、日本のハワイとして売っている場所のようだ。セイタカアワダチソウの咲き乱れる展望台からは南に東郷池を見下ろせる。そこには「ハッピードーム」なる鐘が置かれていた。「道の駅はわい」所在地 / 鳥取県東伯郡湯梨浜町宇野234これまで快調に走ってくれている車にも少し給油もしなければ。満タン70literのメーターも既に残り一目盛り、「ハワイ」インターで下道に入り30リッターほど給油。車も多少お腹を満たし、東郷池東岸に鎮座する倭文神社までは県道234号線で20分程の移動時間。東郷池北端の湖岸に杜を見かけ立ち寄ってみた。そこには解説板が建ち、それによればこれから向かう倭文神社と所縁があるようだ。「宮戸弁天」「古来より伯耆一ノ宮の七弁天として付近7カ所に弁天さまが祀られていた。宮戸弁天はその一つ、祠が残るのは宮戸弁天だけである。もとは小島で倭文神社の祭神下照姫が魚釣りをしていた場所。下照姫の使いの白蛇がここから龍湯島までの間を往復した伝説もある。今は埋め立てられ陸続きとなっている」東郷池の湖畔に大きな岩が組まれ、神域に小さな社が祀られる宮戸弁天。とても美しいと云われる下照姫、朝もやの湖畔にその姿を落とし糸を垂らす光景は幻想的だったろう。東郷池に佇む宮戸弁天の姿も下照姫の姿に通じるものがある。湖面に向いて立つ鳥居の先には倭文神社の鎮座する御冠山も間近に見えている。宮戸弁天創建 / 不明祭神 / 弁財天?所在地 / 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内御冠山を目指し車を進める事にしよう。宮戸弁天から10分程で倭文神社の社頭駐車場に到着。時間は9:00を少し回っていた。社頭では神職の方が参拝者を迎えるため参道を掃き清めるそんなタイミング。一番乗りだ。社頭から続く参道、その先の石の鳥居をくぐると趣のある随神門がある。この門は至る所繊細な彫が施され、興味が有る無しに関わらず参拝者は必ず足を止め見上げる事だろう。山門から先の参道は緩やかに右に曲がっているため社殿は見通せない。参道の由緒書き(一部抜粋)伯耆(ほうき)国一ノ宮 倭文(しとり)神社、通称 伯耆一ノ宮【祭神】 健葉槌命(主神)、下照姫命、外五柱(事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高高彦命)【例祭日】 5月1日【由緒】伯耆國一ノ宮として御冠山の中腹に鎮座、安産の神として広く信仰されてきた。創立年代は不明、出雲大社御祭神大国主命の娘下照姫命がこの地に移住、安産の復旧に努めた。創建当時この地の主産業が倭文(しずおり)の織物であった、倭文部の祖神健葉槌命に下照姫命加え祭神としたもの。織物はその後姿を消し、安産信仰だけが残り、安産守護として崇敬されている。参道には安産岩もある。延喜式神明帳には倭文神社の名が残り、神階は幾度も昇進、正一位伯州一宮大明神の額が残る。往古の社殿は広大で千石の御朱印地を有したが戦国時代に荒廃、1554年(天文23)守護大名尼子晴久が社殿を造営し神領70石を寄進、後に神領は中絶、1570年(元亀元年)羽衣石城主の南条宗勝が復旧。その後も盛衰を経て明治以降県社であったが1938年(昭和13)国幣小社となる。【安産岩】昔難産に苦しむ妊婦が一之宮に願いをかけ日参したという。満願の日、下照姫命の霊夢を感じ参拝、その帰りに参道脇の岩で安産できた、以来安産岩と呼ばれるようになった。【下照姫命着船の地】羽合町宇野と泊村字谷の中間の御崎に出雲から着船されたとされる。下照姫命は舟から降り、化粧を直すのに使った化粧水と呼ばれる水が伝えられている。【国宝】伯耆一ノ宮経塚出土品【史跡】伯耆一ノ宮経塚下緩やかに右に曲がる参道、その先に拝殿が姿を現す。伯耆一ノ宮倭文神社神社は1521~28年(大永年中)と1600年(慶長5)に焼失しているそうで、1624~45年(寛永)に社殿再興、現在の社殿は1818年(文化15)造営とされ、1872年(明治5)随神門も造営された。祭神は健葉槌命(主神)、下照姫命、事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高高彦命社殿拝殿は平入の入母屋造りで大棟後方右側に神饌所(?)が付く特徴のあるもので、そこから渡廊と流造の本殿に繋がる。本殿は妻壁、虹梁、木鼻などいたる所に緻密な彫が施され、三本の鰹木と内削ぎの千木が付く。境内は落ち葉焚きの煙が漂い、恰も社殿が朝もやがかかったようでもある。受付前の時間でしたが快く御朱印を頂けたようです。伯耆国一ノ宮 倭文神社創建 / 不明祭神 / 健葉槌命(主神)、下照姫命、事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高高彦命所在地 / 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754計画外で訪れた伯耆国一ノ宮 倭文神社、静かな杜に包まれた本殿や随神門、それらに施された彫も見事、一ノ宮の風格漂う神社でした。ここから鳥取砂丘を目指し山陰自動車道を東進しよう、今にも泣きだしそうな空だがゆっくり走っても1時間程、なんとか持つ、だろう。鳥取砂丘鳥取砂丘パークサービスセンターの駐車場に11:10到着、雨雲もなんとか雨を降らすのを思い留まってくれている。かみさんの希望だった鳥取砂丘、修学旅行で訪れた学生や家族連れで訪れる観光客が多かった。世の中少しだけれど活気を取り戻しつつあるようだ。かみさんは若い頃に訪れた砂丘の印象とは随分と違っている事に驚いていた。まずは砂丘の大きさも随分小さく見え、砂はもっと軽かった印象だったようだ。日本で二番目の大きさを誇る鳥取砂丘、おやじにはそれでも大きく見える。幸い雨に降られることもなく、風もさほどない、馬の背なかの様な砂丘を目指し歩き出す。靴は砂の入らない物に履き替えたものの、歩きにくい事に変わりはない。30分程で海の見渡せる馬の背到着、風紋を探し右往左往するも足跡ばかりで風紋らしい風紋は見つからなかった。それでも馬の背から見る日本海の波が打ち寄せる渚の長さ、振り返って見る砂丘の大きさは歩いて辿り着いた者にしか分からない感動がある。時間は丁度お昼時、砂丘を歩いた事もあり多少お腹も空いた。車から傘を持ち出しお目当ての海鮮丼を食べに行く。ところが、かみさんが予定してお店は既に予約で一杯。諦めて砂の美術館方向に歩き出す、予定の店とは縁がなかったけれど、少し歩いたところに「海鮮問屋村上水産鮮魚部」のお店があり、そこで食べる事に。それなりに刺身が乗った海鮮丼にみそ汁付きで1,200円。それなりの味で、値段もそれなり、コンビニや軽食が多かったので美味しく頂けた。お腹も満たされ、そこから「砂の美術館」に向かい歩き出す。これまでずっと我慢していた空も遂に泣き出した、良くぞ持ってくれた。「砂の美術館」に着いた頃は雨脚も強くなっていた。鳥取砂丘リクエスト、最大の目的は砂の美術館だったかな。2022/1/3まで開催されている「砂で世界旅行 チェコ&スロバキア編」、どうやらここがメインだったか。広い館内全体はプラハ歴史地区、カレル橋とモルダウ川、スピシュ城などチェコとスロバキアの歴史や景観、自然や動物、伝承をテーマにした「砂像」が立ち並ぶ。素材は砂と水だけで圧縮した砂、その塊から形を彫り出すもの。どれも細部まで緻密に刻まれた作品は見事なもので、館内は海を越え現地に来た気分になる。素材には糊など含まれていないので、石垣同様で砂の粒子一粒〃がお互いを支えあい形になっているだけ。作者の情熱や技術の結晶も時間の経過や振動、雨等でやがては崩れ去る。二度と再現できないはかなさと美しさを感じさせてくれた。「砂の美術館」所在地 / 鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17時計を見ると間もなく14:00、今日の予定はここまで、ここから今日の宿泊地城崎温泉に向かいます。移動時間を1時間30程度と想定、チェックインが15:00なので丁度いい時間になりそうだ。のんびりと走って城崎温泉到着が16:00頃。ホテルにチェックイン、荷物を降ろし一息つく、となればビール。ほんとこの時期は日暮れが早い、行動範囲は狭くなり、ビールを飲むと一日終わった感が漂い損な気分になる、ましてや雨だ。かみさんの構想は温泉街を食べ歩き、外湯めぐり全制覇の計画だ。食べ歩きは無理だが外湯めぐりは捨てられない、食事は最終(19:00)にしてもらい、下駄に履き替え温泉街に歩き出す。ホテルから無料のバスもありますが周遊している訳ではない。歩いた方がいろいろ見られます。城崎温泉の宿泊施設は内湯の大きさに制限を設けているようで、所謂大浴場のような大きな内湯を設けない代わりに宿泊者には外湯めぐりのパスがもらえます、そうする事で温泉街に人は流れ、外湯も活性化するという仕組みの様です。大谿川沿いの温泉街には上流から、鴻の湯、まんだら湯、御所の湯、一の湯、柳湯、地蔵湯の六つ、城崎温泉駅近くにさとの湯と、其々特徴のある七つの外湯があり、それら全てをコンプリートするのが通なんだとか。まずは一番上流側から下流に向け巡る事にしました。大谿川沿いは柳並木が続き、石の太鼓橋が架かり温泉街の情緒が漂う、城崎らしさを感じる風景。ホテルで貸し出しされた下駄は歯が低く鼻緒はビニール、まるでサンダル、最後まで履けるだろうか嫌な予感がする、それでもカランコロンといい音は響く。1300年の歴史を持つとされる城崎温泉、泉質はナトリウム、カルシウム塩化物泉などが含まれ、神経痛や筋肉痛、打身などに効果が期待できるされる無色でサラッとした感覚の湯。一つ〃が外観・内部共に個性的で趣のある外湯で紹介していると一枚には収まらない。個人的には江戸時代の村民が入浴していたことから「里人の外湯」と呼ばれる「地蔵湯」が印象に残ります。この湯の泉源から地蔵尊が出た事からこの名が付いたそうで、入口には地蔵も祀られています。銭湯の様な湯舟ですがその奥にはこの地を象徴する柱状節理が多数置かれていたのが印象に残ります。柱状節理はこの辺りでは日常生活に身近な存在として漬物石や石垣などに利用されてきたそうです。それを間近で眺めながら湯に浸かると城崎を体験できたような気がする。七つの内、大谿川沿いの六つは制覇したものの、少し離れたさとの湯は食事時間の関係で巡り切れなかった。外湯めぐりは連泊でゆっくり巡りたいもの。城崎温泉外湯めぐり雨の影響もあり温泉街の人通りは少なかったけれど、懐かしい射的も残っていたりして温泉街の雰囲気は十分味わえました。 ・・・・・ここは雨は要らなかった。ホテルに戻り、一息ついて食事。刺身を摘みに地元の酒を頂く、二日目お疲れさん乾杯、これが最高。大江戸温泉物語 きのさき所在地 / 兵庫県豊岡市城崎町桃島1232関連記事 / 二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day1二日目ルート / 道の駅白うさぎ➡宮戸弁天➡倭文神社➡鳥取砂丘➡城崎温泉
2021.11.04
コメント(0)
稲口町「津島神社」から北に向かい歩く事10分から15分程、春日井市如意申町「六所社」到着だ。六所社社頭全景。如意申(にょいさる)町と読むそうです。如意と聞くと名古屋市内に住んでいる者から見ると北区の如意を思い浮かべます。調べて見ると、1661年(寛文元年)に名古屋市北区から移り住んだ人によって最初に新田として開かれたのが六所社の鎮座するあたりだった云う。それから40年程、新田も広がり、それに伴い村人も増え、村として形成されていきます。後の1716年(享保元年)に検地が行われ、その年が申年だった事から如意申新田と呼ばれ、現在の如意申町となったようです。今は社頭南に高校や如意申公園があり、それらを取り囲む様に住宅が広がり、新田の面影は留めていない。唯一、境内西側の「開墾記念碑」がそれがを伝えている。社地は南北に長く、桧と落葉樹の杜が囲い、住宅の広がる一帯にあって今では貴重な森かも知れない。社頭は常夜灯と右に「村社 六所社」の社号標(大正15)が建ち、鳥居(大正4)の先に蕃塀がある。参道右側に手水舎があるが水は張られていなかった。参道左に目立つ解説板。十二支の由来と季節を解説するもので、その奥には干支の守護を授かる「幸せの十二支」の石柱が建つ、六所社の鎮座245年を記念し2013年(平成13)に建てられたようです。六所社の一つの売りかも知れない参道に立ちふさがる石の蕃塀(大正14健之)、その先に一対の狛犬と銅葺屋根で四方吹き抜けの妻入り拝殿が続き、後方に幣殿、本殿と続くようです。拝殿前の狛犬。歳を伺うのを忘れていたが、派手な彩色を避けた落ち着いた雰囲気が漂う。拝殿正面全景、遠目に見ると地味で素朴な印象を持つ外観。鬼に飾られた神紋は八重の桜の様に見える。近寄って見上げると妻壁上面には龍、後方の妻壁には獅子らしき姿の彫り飾りが施され、目立たない所に拘りが見られる。龍が睨みをきかせている下で六所社参拝。境内東の瓦葺の覆屋には檜皮葺の流造の社殿が祀られている。如意申町の火伏の神「秋葉社」その左に浅間神社、神明宮、一番左に板宮造りの不明社が祀られている。幣殿から本殿方向の眺め。拝殿と幣殿の間には堀が掘られ、石造りの太鼓橋が架かる。手前に六所社祭神由緒標が建つ。上小さいながら石造の立派な太鼓橋。下由緒標から抜粋「神社名 六所社位置 如意申町4丁目3番地の17、祭神 事勝国勝長狭命、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、豊玉姫命、猿田彦命社格 12等級創立 明和5年(1768)9月」と記されていた。この地を開いた如意村の人々、そこの氏神さま「大井神社」から六所明神を新田の鎮守として勧請、1768年六所社神社として創立された云う。以来、如意申町の氏神様として厚く崇敬され、それは今も変わる事はない。現在の伽藍は鎮座245年にあたる2013年(平成13)に補修、建て替えが行われ、外観は傷みも少なく綺麗な状態を保っている。幣殿、神明造の本殿共に6本の鰹木と内削ぎの千木が付く。下は拝殿後方から社頭の眺め。周囲を杜に囲われているけれど、境内上空の空は抜けていて、社殿がスポットライトで照らし出されたように見え、暗く重い空気が漂うものではない。如意新町の始まりから移り変わりを見守り続けて来たこの街の氏神様です。蕃塀を構え敷居が高そうに見えますがそんなことはない、明るく親しみを感じる神社だった。六所社創建 / 1768年(明和5)祭神 / 事勝国勝長狭命、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、豊玉姫命、猿田彦命境内社 / 秋葉社、浅間神社、神明宮、不明社所在地 / 春日井市如意申町4-3-17 (社地東に参拝者駐車場あり)公共交通機関アクセス / 名鉄小牧線「春日井」駅降車➡津島神社経由徒歩30分程関連記事 / 春日井市稲口町「津島神社」、名古屋市北区如意「大井神社」
2021.11.01
コメント(2)
全21件 (21件中 1-21件目)
1