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滋賀県米原市大清水『泉神社』泉神社の鎮座地は伊吹山南麗に位置し、北に伊吹山、南に養老山系に挟まれた山間の扇状地。少し南には中山道があり、東と西を結ぶ交通の要衝でもあり、戦国時代には関ヶ原の合戦で知られるように戦略的に重要な拠点になった。名古屋では春めいた日も続き、温かさに誘われて郊外に出たくなるものです。当地を訪れたのは3月7日。前日はこの辺りは雪が舞い屋根や樹々には雪が残り名古屋の季節感とは随分違いを感じる。林道に踏み入ると深い雪が残り日陰は凍結している、軽い気持ちで深入りするとしっぺ返しをくらう。参拝者駐車場から社頭に向かう。前日の雪は至る所に残る。神社のある山裾に寄り添うように大清水集落があり、西側には田畑が広がる、少し先には住宅地が迫っている。長閑な農村地の光景はやがて消えていくのだろうか。ここに住む者には雪深い厳しい土地柄だが、山々は厳しい環境ばかりではなく豊かな自然の恵みを人々に与えてくれる。その一つが水。伊吹山には多くの湧水があり、滋賀県の名水6選(十王村の水、堂来清水、針江の生水、居醒の清水、山比古湧水)の一つで、名水百選に選定にされている「泉神社湧水」がある。社頭の「御清水拝受所」には早朝から地元の方が湧水を汲みに訪れる姿が見られる、この水は地元にとっては田畑を潤し日々の生活で使用する貴重な水。それだけに小さな集落の細い道は観光用と生活道路の経路が分けられています。観光目的の採水や参拝に訪れた車は看板に従って専用駐車場に停めて下さい。上参拝者駐車場から5分程下り社頭に向かう、右手に社務所と鳥居が見えてきます。下社頭脇の泉神社湧水由緒・社伝によると天智天皇の頃当地の山野は弓馬操練の地で多くの牧士などの居住地。・この地に天泉が湧出、その清冽な水から天泉所と称し素戔嗚命と大己貴命の二柱を産土の神として祭祀した。・後に天泉所は大泉大清水と改められる。・景行天皇の皇子日本武尊が伊吹山の蝦夷征伐に向かい、毒霧にあてられ失意粋えるが如くなられた時の「居醒水」と伝わる。・小栗助重(宗湛)が病気平癒を祈願した霊泉とも崇められる。・伊吹三名水(堂来清水、居醒の清水)の一つで2千年来涸れる事のない御神水で昭和60年3月28日環境庁から日本名水百選の認定を受ける。余談になりますが、日本武尊が毒霧を浴び清水で正気を取り戻した伝説はここだけではないようです。蝦夷征伐は何度も毒を浴びるほど強敵で、その都度清水で復活し退治したと云う事になる。坂田郡志(1912年発行)から泉神社の創建に繋がる記述を見付ける。・春照村大字大清水の村社泉神社境内より清水湧きだし、涸れる事なし、村の名の由来となる。・永享6年(1434)の古鐘あり。・大日霊貴尊、伊弉冊尊、大鷦鷯尊、水波能売神を祀る。・白鳳2年(662)社頭全景。右に社号標「泉神社」正面の明神鳥居の先から石段が上に続く。鳥居の額は黒地に金の文字で泉神社。境内は主に杉の社叢で、昨晩の雪が樹々に積もり、日差しを受けて融け始め雨のように雫が落ちてくる。静かでとても清々しい空間です。上鳥居から先は石段が続く。境内は段々畑のように何段かに別れ石垣が積まれ境内が作られています。よもや雪を頂く社殿が見られるとは有り難い、今日はまだいい方だろうが積雪時は足元要注意。下名水縁起・水は生命の源。・一帯は縄文時代中期から人が居住。・天智天皇の頃は御領所で天泉所として名付け伊吹の大神を水の神として祀った。・伊吹山系から湧出する清水は大地を潤し、古代寺院の甍を、中世には城館の偉容を整えた。・村名も大泉から大清水に改称された。・ミネラルを含む湧水は千数百年長寿の水と呼ばれ村人の健康と生活を支えて来た。・昭和60年環境庁「日本名水百選」に指定、各地から参詣者が訪れる。・ここに畏敬の念を忘れず後世に保存伝承する事を乞い希います。街の生活では蛇口を捻れば水は出るものと錯覚しがち、愛知用水神社でも感じたようにそれは知らない働きがあって成立するもの。ここでは水を育む山と樹々、そして川が神同様に大切にされています。それらは地元の方の清掃活動や保全活動により保たれ、意識のレベルは別次元。現在は「御清水拝受所」が建てられ300円で採水できます。石段登り口にある泉神社湧水。以前はここで採水できたが現在は立ち入り禁止、ここから導かれた湧水は「御清水拝受所」で採水できるようになっています。水源を荒らされた結果の苦肉の策だったのは容易に想像できる。湧水量は日/4500㌧と云われ、無尽蔵のように感じるけれど、山肌から湧き出た水は扇状地の土壌にすぐに吸い取られていきます。ここで農耕を営むうえでこの流れは神のようなものです。さて石段を上ります。石垣の積まれ方は山城の雰囲気が漂います。拝殿が間近に迫る。上から見下ろす様に両脇の狛犬が拝殿前を守護している。狛犬。左と右で季節感が全く違う。一面白銀の世界もいいものだがこうした光景はそんなに見られるものじゃない。毬持ちと子持ちの狛犬、足元の子は構ってもらいたいばっかりだ。上拝殿から社殿全景。入母屋瓦葺の平入で四方はガラス戸になっていて、内部は外光が差し込み明るい。拝殿の先は石垣が積まれその先に幣殿、本殿と続く。下拝殿から本殿方向。拝殿右の神楽殿。1713年(正徳3)と記された木札がある、瓦葺で素木の建物は木札がなければ境内社と見間違えるほどの規模、逆に神楽殿?と疑いたくなる大きさ。上拝殿左側の本殿域、透塀の先に二社祀られているのが分かる。景色は春だ。下拝殿右側の本殿域はまだ冬景色、こちらにも二社祀られているようだ。上 本殿域右30㌢程残雪が残る山に分け入り本殿域を眺める。流造の本殿と右手に二つの社。下手前は流造で高縁はない。奥は流造で向拝に唐破風が付き棟が大棟に繋がっているようです、高縁や脇障子も付いているようだ。屋根は檜皮で葺かれているように見える。社名や祭神など記した木札があるようだが分からない。上 本殿域左こうして本殿を見ると本殿向拝にも唐破風が施され、妻壁には細かな彫が施されているように見える。下右側と同じ造の社が二社祀られ、どちらも社名を記した木札があるが読み取れない。社殿側面全景。拝殿から渡廊の先に幣殿、本殿へ連なり、左右の透塀は幣殿に繋がっている。泉神社湧水は拝殿右側の山肌から湧出しているようで、水を司っているのは正に泉神社そのもの。伊吹山から湧き出た清水が川となり田畑を潤し、梅花藻やイトヨなど育み、ミネラルに富む水は住民の健康をも支える命の水だ。川と生活が切り離された都会とは違い、ここには生きた川と人が密着する少し前の原風景がある。地蔵川水源の加茂神社もそうですが、小さな流れは琵琶湖に注ぎ、下流にある大きな街の水源となる。水源地に住む人が川を大切に護っているのが見て取れる。拝殿左方向の小高い丘に鐘楼が建てられている。坂田郡志にあるように梵鐘の池の間に永享6年(1434)11月7日の銘が刻まれていた。今も現役のようで600年前の梵鐘がどんな音色がするものか聞いて見たいものだ。鐘楼あたりから石垣の眺め。急な斜面に何段にも石垣を作り社地を作る、良くぞ積んだものだ。目的を果たす、先人達のエネルギーには敬服する。石段途中から社頭の眺め。地元の方の軽トラに今日使う湧水を積んでいく姿がある。大清水集落には軽トラが一番だ、街から来た大型車が迂闊に集落に侵入すればそれだけで日常の生活が崩れていく。駐車場から歩こう。狛犬が見護る御神水拝受所。覆い屋の中に複数のホースが繋がれた給水塔があり、観光客は保全協力金を支払えば持ち帰れる。味は伊吹山の味、自然の味だ(意味わからん)、美味しい水です。塩素は滴下されないので煮沸して飲むのが賢明。泉神社子供に自然の恵みの有難さ教えるのには良い場所かもしれない。創建 / 662年(白鳳2)祭神 / 大日霊貴尊(天照大神)、伊弉冊尊(伊邪那岐命)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)、水波能売神所在地 / 滋賀県米原市大清水1174アクセス / 名神高速関ケ原ICから北西に20分程関連記事 / 滋賀県高浜までのんびりドライブ、『賀茂神社』滋賀県米原市米原町醒井、知多市「愛知用水神社、愛知用水水利観音」
2022.03.30
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知多四国霊場第72番 慈雲寺以前掲載した街並み保存通り、竹之内資郎邸から西に少し進む。道は二手に別れ右に進むと正面に「太郎坊」交差点に至ります。突き当りが次の目的地「慈雲寺」「登り」交差点だったりローカル色満載の地名が多い、ここは「太郎坊」交差点。慈雲寺に由来するものだろうが、調べて見たが岡田村の記述はたどり着いたが太郎坊の詳細は分からなかった。慈雲寺は尾張史や尾張名所図会にも記された古刹のようで、挿絵も描かれていた。当時と現状の伽藍や環境に大きな変貌は見られないようだ。寺の前を日長川が流れ、川の左岸に県道252号線が東西に延び、右方向に進むと「登り」に続く。境内左から後方の山に続く参道の先に白山宮が描かれている。白山宮は現在も鎮座しているが、秋葉社は見当たらなかった。日長川に架かる誠橋から山門の眺め。橋は明治時代に架け替えられたものですが、今も挿絵のままの姿を残している。山門の左右に枝垂れ桜の樹があり、これからピンクの彩りが溢れていくだろう。慈雲寺山門。訪れた3/3は梅が見頃を迎える時期。慈雲寺は臨済宗妙心寺派の寺院で山号は白華山。慈雲寺は知多四国霊場の72番札所で知多西国三十三所霊場19番札所でもあり、訪れる参拝者は多い。昔と変わらぬ参道を歩きこの山門くぐっていった。山門は瓦葺の四脚門、軒丸瓦に描かれた紋は何種類も描かれていて、これも慈雲寺の歴史を物語っているのかもしれない。陽当たりのいい塀脇の梅が見頃を迎え甘い香りを漂わせていた。山門から望む観音堂。観音堂左の石段は白山宮へ続く。(後日、2-2として掲載)寄棟瓦葺の観音堂全景。瓦の紋は右三つ巴で統一されている。観音堂斜景。向拝付きの木造で至って素朴な外観。慈雲寺は1655年(承応4)の火災により本堂や宝物を焼失するが、唯一この観音堂が焼け残ったとされる。この火災というのが、中谷屋敷秋葉社の解説に書かれていた大火を指すのかもしれない。消失した伽藍は1660年(万治3)、寺尾直龍により再建された。とてもシックな額が架けられているが文字が…読めません。岡田街並保存会解説「観音堂は万治3年(1680)三月、地頭・寺尾直龍によって再建された岡田最古の建築物。鬼瓦の寺紋は寺尾家の家紋。本尊の千手観音は恵心僧都作とされ、開山・一色範光の稔侍佛とされる。江戸時代は観音堂が本堂であった。慈雲寺什物として観音が観音が携えて降臨されたという「雨乞いの壺」がある」山門の先が観音堂というのがしっくりこなかったが本堂だったという事なら頷ける。観音堂向拝脇の一願抱き地蔵。願い事を一つに絞り、お地蔵さんを抱くと願いを叶えてくれる。堂内。正面の黒い厨子に本尊が安置されているのだろう、ガラス越しのため脇侍など姿が不鮮明。軒を支える柱の太さは今とは比較にならない立派なものが使われています。観音堂から入母屋瓦葺の本堂、庫裏方向の眺め。本堂・観音堂は渡廊で結ばれている。本堂に掲げられる額は慈雲寺。本堂内の釈迦如来像。1350年(観応元年)、宮山城主であった一色範光が、夢窓疎石を開山として創建した寺院とされる。一色範光(1325~1388年)は、南北朝時代の武将で守護大名だった。一色氏第5代当主で尾張国知多郡(常滑市青海町)に嘗てあった大野城(現在は城址公園)を築城した。城は後に佐治氏4代の居城となりこの地方の中心となった。境内には範光の墓もあり、南北朝時代、北朝の足利尊氏と南朝の後醍醐天皇の双方からの庇護を受けたという。尾張史には京都妙心寺(京都府京都市右京区花園妙心寺)の末寺とあり、観応元年夢窓疎石の建立、範光卒去について記されていた。鐘楼から西側の弘法堂方向の眺め。山門脇に十三重石塔と手水舎がある。梵鐘の大きさや鋳造年は見ていないけれど撞座は相当すり減っていた。弘法堂、寄棟瓦葺で軒下に長い向拝が付く。堂内には仏足跡と厨子に安置された弘法大師像が見て取れる。山門脇の慈雲寺由緒。由緒書きを見て後方に写り込んでいる石標がとても気になる。全く気付かなかったが何かの跡らしいが今となっては遅い、長い歴史を持つ慈雲寺だけになんの跡なのかとても気になる。かみさんの話では今年も知多四国を巡ると云う、その際には確認してみよう。2022/03/03白華山 慈雲寺宗派 / 臨済宗妙心寺派創建 / 1350年開山 / 夢窓疎石開基 / 一色範光本尊 / 千手千眼観音札所 / 知多四国霊場第72番、知多西国三十三所霊場第19番札所所在地 / 知多市岡田太郎坊108-1岡田街並み保存通りから / 徒歩5分程 関連記事 / 知多市岡田中谷 「街並み保存通り」
2022.03.29
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三重県四日市市富双1引っ越しの手伝いに向かうため三重県四日市の国道23号線を通りかかる。「四日市ヒモノ食堂」富田一色町交差点を左折、海に向かって通りを進む。左に大きな施設のまぐろレストランがある、その名の通りまぐろ推しの海鮮丼で知られるお店のようだ。通りかかった時間が7:30頃で店舗は開店前(8:00~)だった。「四日市ヒモノ食堂」はその道路を挟んだ向かいにありました。その名の通りヒモノを焼いて定食として提供する食堂で7:00から営業している。かみさんが一度は訪れたかったようで、ここで朝御飯を摂る事にした。時間帯によってプロドライバーや行楽に向かう一般客で待ちが出来る人気店のようです。7:30で既に店内は満席、外に5組ほどの待ちが出来ていた。なにせ初めて、流儀が良く分からない。店舗の外で待ちの列に並ぶ前にまずやる事。・店内に入り豊富な種類の干物から好みのものを選ぶ。・焼き場のおばちゃんに干物を渡し整理券をもらう。・店舗の外で番号が呼ばれるまで待つ。・呼ばれてから店内で商品を受け取り席に着く。定食(写真はホッケ@950円)干物、御飯、漬物、みそ汁と小鉢一品を選ぶ。御飯は男性も女性も容赦なく山盛りで提供される、有難く頂こう。魚は好まないはずのかみさんにしては珍しい朝御飯の選択。自分には朝から焼きたての干物にみそ汁、日本人で良かったと感じる最高の朝食だ。感じた事・干物を焼くので当然時間がかかる、店内で場所取りをしないのがマナー。・果たして自分が選んだものか疑問符が付く。退屈な待ち時間は港に向かってみよう。富双緑地埠頭には何隻も船が停泊し、付近は芝生が敷き詰められ公園として整備されています。朝のランニングや散歩に訪れる方も多く、間もなく桜も咲きだし、子供達が喜びそうないい環境です。御犬様の散歩コースにもなっているようで、大切な家族の一員が残した糞が芝生に散乱、凧のようにリードを長く伸ばす、リードを離し開放する飼い主の姿が目に付いた。世の中には犬に近寄ってほしくない人やアレルギー体質の人もいる。芝生の上で子供達は戯れたりもする。短いリードで足並みを揃え歩かせる、無駄吠えをさせない、公共の場所は飼い主のモラルと御犬様の躾の出来が問われる場所でもある。朝にしてはボリューム満点、お腹一杯だ。朝も早かった事だし、さあ一寝入りするか。そっかぁ、今日は引っ越しだった、頑張ってお手伝いに向かうかぁ。2022/03/27富双緑地とヒモノ食堂所在地 / 三重県四日市市富双1車アクセス / 名二環➡伊勢湾岸自動車道➡みえ川越IC➡国道23号線経由50分
2022.03.28
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曹洞宗 霊鶴山 千松寺八剱神社から西に徒歩5分程に鎮座する寺院。訪れた目的はこちらの境内に祀られている福富稲荷大明神。八剱神社から細い通りを経て西に進む、辻堂が見つかれば千松寺は近い。道から少し奥まった先に伽藍がある。右に寺号標、左に赤い幟が立ち並び、山門に続く参道沿いには多数の石仏が並んでいる。頬杖をつき、やや俯き顔の如意輪観音、正気を逸した一人の指導者の蛮行、どうしたもんだか思案に暮れているのだろう。左に禁葷酒の石標、山門の山号額は霊鶴山。比較的新しい山門で、外観に目を引く意匠は見当たらないが棟を支える柱には拘りが感じられる。山門から望む本堂。境内左の手水鉢。寄棟瓦葺の本堂、右に寺務所、庫裏と続き、本堂左側は霊園と目指す福富稲荷大明神が鎮座する。その前にお寺にお参りさせてもらう。見あげる本堂の大棟には山号が入り、軒丸瓦には「千」本堂に掲げられた額「千松寺」千松寺の由緒は以下1545年(天文14)に天州寂道和尚により創建されました。当時は「泉松寺」と称したそうですが、1808年(文化5)「千松寺」に改められた。後の、1770年(明和7)に鐡文道樹大和尚が七堂伽藍を建立し、法地開山として入山。その後綿々として受け継がれ、現住職で21代目になるという。先ほど見た山門は1795年(寛政7)、本堂は1839年(天保10)に建立され、2006年~2007年にかけて修復された。なので見た目は新しい伽藍ですが、歴史のある曹洞宗の寺院なのです。曹洞宗は大本山が福井県永平寺と神奈川県總持寺の二つあり両大本山と言います。本尊は南無釈迦牟尼仏。本堂左の福富稲荷大明神。千松寺の守護するために祀られたものだという。奉納鳥居が並ぶ先に石の社が祀られている。鳥居右に石のモニュメントと左に小さな鳥居が建つ。右のものは重軽石。四角い石の枠の中に丸い石が安置されていて、枠の左右に開けられた空間から石を持ち上げるようだ。中の丸い石は御神木の楠の木の下に埋もれていたものらしい。御神木の霊験がこの石に宿るとしてここに安置された。願いを決めてからその石の重みを想像する。実際に持ち上げ、持った実感が想像より軽ければ願いは叶う。重ければ残念、もう少し鍛錬して再チャレンジ。鳥居に掲げられた福徳稲荷の額。朱色が鮮やかだ。本殿全景。重量感のある石の社を健康的な姿の狛狐が守護する。これらも手入れがいいのかとても綺麗だ、寺の修復に合わせて手が入れられたものだろう。1845年頃(元号は弘化、徳川十二代将軍 徳川家慶の頃)、当山十一世良重大和尚が豊川閣妙厳寺(豊川稲荷)から豊川稲荷の分身としてご神体をお守りする「飯縄権現」を拝請してお祀りしています。五穀豊穣、商売繁盛、心願成就のご利益が得られ、特に病苦、盗難等の災いを除く霊験があらたかだとして崇敬されている。「福富」とは神仏にお供をすることで、財産や物が豊かになり幸せを得ることができると言われています。小さな石の鳥居「くぐり鳥居」と呼ぶそうです。綺麗な御影石の参道の中ほどに鳥居があり、ここをくぐると御利益があるされる。ご利益は下解説写真を見て頂くとして、この鳥居をくぐるとあるがそれはとても難しい。潜ってくぐり抜けるしかない、その為なんだろうね、ピカピカ艶々の御影石は。これなら安心して潜る事ができるというものだ。右くぐり鳥居のご利益と作法。左福徳稲荷の由緒。福徳稲荷から見る千松寺伽藍全景。右の切株は豊山町指定文化財「楠」重軽石が出て来た御神木の楠とはこの株の事を指しているのかもしれない。霊鶴山 千松寺宗派 / 曹洞宗創建 / 1545年(天文14)本尊 / 釈迦如来福徳稲荷創建 / 1845年頃祭神 / 飯縄権現所在地 / 西春日井郡豊山町青山1756 常安寺👉八剱神社👉千松寺徒歩ルート / 八剱神社から西へ5分 関連記事 / 八剱神社
2022.03.28
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守山区高島町 天王社高島町公園北西角の交差点角地に鎮座する天王社。一帯は静かな住宅地ですが、南向いに公園があるため開放感が漂う。庄内川左岸堤防から南1㌔の範囲に天王社だけでも8社が祀られています。明治の頃の地図で見るとほぼ集落毎に祀られているのが分かります。当時の集落で大森垣外地区、現在の村合町では見かけた事がない。この辺りの通り、もう少し歩いて見る必要がありそうだが、ひとまずこのエリアに鎮座する天王社は参拝した気になっておこう。高島町の天王社を公園から眺める。民家一軒ぐらい建ちそうな社地を与えられ、切妻瓦葺の拝殿?とその先に赤い社が祀られている。大きな樹は聳えていないが、綺麗に剪定された境内の樹々は手入れが行き届いている。木造瓦葺の切妻拝殿は四方吹き抜け。瓦の重さを分散させるため、か細い柱には支えが付く、これも定番の姿だ。高島町天王社。覆屋はないものの、赤く塗られた板宮造りの社に鳥居が置かれるのも定番の姿。基壇が赤くなるのも見慣れた光景。この天王社がいつ頃祀られたのか定かにならなかった。現在の高島公園西側の通りは天王社を避けるように北に続くのは妙に違和感がある。過去の航空写真で天王社の存在が分かるようになるのが1974年以降、碁盤の目のように町割りされてからはっきりと存在が確認できる。それ以前は集落南の入口にあたる三叉路の突き当りになる。鎮座地に映像として社は確認できなかったが、立地から推測すると、規模はともかく集落入口に災い除けとして何かしら祀られていてもおかしくはない。遡っても明治までだろうか、創建に至った時期は分からないままだ。祭神は建速須佐之男命を祀ると思われます。はっきりしない事ばかりですが、この集落の様変わりをこの天王社が見守ってきたのは間違いない。天王社西側からの眺め。町割も終わり、住宅が広がる一帯。もはや集落の境もなく、今は公園に集う子供たちを静かに見守っている。2022/03/01高島町 天王社創建 / 不明祭神 / 建速須佐之男命所在地 / 名古屋市守山区高島町 川村町(川嶋神社)天王社から徒歩ルート / 南東へ徒歩10分程関連記事 / 川村町 天王社
2022.03.27
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養老山系の東に広がる岐阜県海津市南濃町、『東天神社』は県道8号線沿いに鎮座します。県道8号線「城山支所前」交差点で写真のような杜と二つの鳥居に目が止まり立ち寄ってみた。石の明神鳥居の脇に「東天神社」社標が建ち、少し右に若苗神社の丸太鳥居がある。参道の先は奥行きがありニノ鳥居と拝殿が窺える。参道に朝陽が差し込み始める、長い参道奥の社殿を照らすにはもう少し時間がかかりそうだ。一ノ鳥居に掲げられた額は「東天神社」参道脇は深い社叢に囲まれている。参道中ほどの右手に案内板が建てられている。右手の若苗神社を示す看板と東天神社の解説の二つが建つ。普段訪れる小規模の神社と比較するととても広大な社地に思えるが、嘗ては10㌶もあったという。その社地は東天神古墳群と呼ばれ30基ほどの古墳が作られていたという。何れも4世紀後半から7世紀前半に造られ、土器や鏡など出土した。現存する古墳としては1~5号墳(円墳)が残る。1号墳が東天神社本殿下。2号墳が若苗神社社殿下。3号墳は山神神社建立の際削られ一部が残る。4号墳が稲荷神社社殿下。5号墳が山神神社社殿下。参道から見る2号墳に鎮座する若苗神社。こうして見ると僅かに盛り上がっている様に見える。東天神社ニノ鳥居前から境内。鳥居の貫には一ノ鳥居には見られなかった梅の紋が彫られている。十分に広い境内は左に手水舎、中央に入母屋に唐破風の施された拝殿、右に社務所の伽藍。後方と左を社叢で隔たれ、社殿には歴史を感じさせる風格が漂う。拝殿後方の本殿が1号墳の上に鎮座しています。社務所全景。社務所の後方は南濃グランドに整備されている。千木、鰹木の施された手水舎と派手に仕事する龍。拝殿。シックな木造入母屋拝殿で唐破風向拝を持つ。棟には7本の鰹木と外削ぎの千木が付き、向拝にも3本の鰹木と外削ぎの千木が飾られている。破風の鬼や懸魚など左三つ巴の紋が見られる。拝殿前の狛犬達。子持ち毬持ちで年齢を聞き忘れたが貫禄漂う姿だ。岐阜県神社庁で東天神社の由緒が記されていた。由緒「創立年紀不詳なれども、当社は美濃國石津郡座(十三社の内)従四位下東天天神及び日本紀略曰く延喜十一年二月十日授美乃國東天神従五位下とある。本郡の古社なり。然れども遷座及再建等数回にして旧記古書に拠るものなく、祭神不詳なり。永徳元年本村(羽根、馬澤、奥条その他数村同一村の頃)、宮ヶ原(現在揖斐川添ひ黄金山の南方なり)に再建す。(南宮高山の社日誓覚遷宮祭事を司る)。その後年暦を経て(羽根川分郷の後故有)慶長五年西山北坂口に遷座す。(西山北坂口には今猶宮の段とも宮事とも云ふ正しき古跡あり)、後又慶長十八年夢想に拠り称名ヶ原に遷宮す(西駒野村奥条村入会地)現在の神域なり。昔は杉船に乗り、武冠を戴ける神像あり。故に最初は船を守る神とされしが、元和の頃より神遊されて其の方所を知らず。宮ヶ原は本村東部に在るを以て東天神の名称へられ又中古の書には奉勧請大神並に島天神とも(島は東の同音誤字か)あり。何れの頃よりか渡唐天神、天満大自在天神とも称へられた。何れも誤り伝へられたるなり。維新より東天天神と復旧す」911年の延喜11年には既に存在する古社で、それ故に今は天神社とあるが祭神すら分からないようだ。「最初は船を守る神」とある、事実すぐ東には津屋川、揖斐川も流れ海へと繋がっている。船神様から始まったと云うのはありえない事もない。それが歴史の中でいつしか天神信仰に変わっていったのだろう。拝殿の先は渡廊を介し切妻平入の幣殿に繋がる。妻壁や木鼻に素朴な彫が施され、蟇股には左三つ巴の紋があしらわれている。奥に見える玉垣が本殿域のもの、幣殿の玉垣の高さに対し随分高い位置なのが分かる。この盛り上がりが古墳の名残なのだろう。本殿。流造で棟に鰹木6本、外削ぎの千木が飾られ、木鼻に獅子、脇障子に透かし彫りが施されている。境内の眺め。歴史のある神社は巨樹を育む。社叢の樹々はさほど多くもないのだが、一本〃が伸び伸びと枝を張り外界から遮断している。東天神社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 岐阜県海津市南濃町駒野奥条入会地98若苗神社。東天神社一ノ鳥居から右に少し離れた県道沿いに若苗神社の丸太鳥居がある。境内社と云っていいものか判断が出来ない。社頭右に「ゑびす大神 若苗神社」の看板と社標。歩道からだと1.5㍍程盛られた頂に社が祀られている。この場所が2号墳になる。「ゑびす大神」、七福神の一人で鯛と釣り竿を持ってにこやかに微笑む姿が印象的な商売繁盛、金運や心願成就に御利益のある神様を祀っているのだろう。この神社の創建、祭神など確かな記述は見つけられなかったが、祭神はえびす様で間違いないのだろう。若苗神社創建 / 不明祭神 / 事代主神所在地 / 岐阜県海津市南濃町駒野奥条入会地県道8号線脇に東天神社参拝者駐車場があります。その後方に黄色に染まった大きな杉が聳える杜があります。駐車場横からシレッと社に行けてしまいます、ここが山神神社。社の下が5号墳のようです。シレッと横入りも失礼なので社頭から参道に向かう。二つの鳥居があり右は朱色の稲荷鳥居で額はあるが文字は消えかかり読み取れない。グーグル先生によれば尾白稲荷神社とあり、鎮座地が4号墳になる、赤い鳥居から続く参道の奥に鎮座するようなのでこちらの稲荷さんはスルーする事にした。白い明神鳥居の先が山神神社。山神神社建立の際削られた3号墳は推測ですが鳥居から参道にかけてがそれかもしれない。特に古墳の痕跡らしいものは見当たらない。5号墳の上に鎮座する山神神社。大きな杉に囲まれ、その中に玉垣に囲われた小規模な本殿域が作られ、高く積まれた石垣の上に流造の社が祀られている。手前の杉が御神木のようだ。祭神は大山祇命。詳細は分からなかったが「創立年紀、由緒、不詳なれども古来より地方民の信仰あつく元禄十三年の七宮御検地帳には境内東西十一間南北十間とあり古社たることを知る」とあった。駒野集落の守り神なのだろう。山神神社創建 / 不明祭神 / 大山祇命所在地 / 岐阜県海津市南濃町駒野528-1参拝者駐車場脇の堂。一体の石像が安置されているがお地蔵様か観音様か見分けがつかなかった。鬼瓦に入れられた「水」の文字、火事の禍から逃れられるようにとの願いが込められている。安置されている小さな石像には、村人の大きな願いが込められている。先人の思いが込められた意味のあるものだ。古墳の数も多いが、参拝駐車場に停めるだけで、一度に古墳の上に鎮座する神社を四社巡る事などそんなにない。先を急いでいなければ4号墳の尾白稲荷神社にも足を延ばしたかったが、残しておけば再び訪れる動機にもなる。周辺には多くの寺社もあり急ぐことはない。関連記事 / 滋賀県高浜までのんびりドライブ
2022.03.24
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永かった蔓延防止も21日を期限に全面解除された。そんな流れとは関係無いが、用あって再び滋賀県に出かけた。前回は全て下道だったが、今回は羽島まで下道。コストコの安いガソリンを腹一杯補給、そこから高速でひとっ走り。燃料高は大食いの車にとって負担は大きい。 CROCE&Coコストコで燃料を補給するため立ち寄ったモーニングで有名なお店。開店前から行列ができ他府県ナンバーの車も多い人気店でだった。名物のサイコロ食パンは柔らかく食感はいい、パンの香りや風味には乏しい。パンの上に乗るのはマーガリン。coffee代でこの内容と考えればお得…かもしれない。岐阜県一宮市開明教堂池41−1道の駅 近江母の郷の駐車場から見る伊吹山。前回訪れた時より若干雪が消えて来たようだ。この辺りの桜はまだこんなものだ。この地のソメイヨシノの開花は名古屋より一週間遅れて見頃を迎える。道の駅 近江母の郷琵琶湖東岸にある道の駅、田畑には春を告げる土筆が生え放題。周囲からウグイスの鳴き声が盛んに聞こえていた。滋賀県米原市宇賀野1364-1琵琶湖北部の山間地にあるマキノ観光栗苑とメタセコイア並木。道沿いには除雪された雪山が残り、山々には残雪が残っている。現地の気温は7度、一枚上着がいる世界だ。近くにキャンプ場もあり、夜は少し寒いが虫のいない静かな時間を過ごせるだろう。メタセコイア並木1981年に果樹生産組合が植えたのが始まり。1994年新・日本の街路樹百選に選定された延長2.4km、約500本のメタセコイア並木。メタセコイアの原産が中国だとは知らんかった。セコイア国立公園のあるアメリカが原産だと思い込んでいた、調べて見ると似てはいるが冬に枯れるのがメタセコイアでセコイアとは別物のようだ。日中は並木を目当てに訪れる観光客の車やツーリングバイクが多く、静かな高原は賑やかだ。滋賀県高島市マキノ町並木カフェ メタセコイアコールマンの椅子に木製の電線ドラムをテーブルにしたアウトドアの香り漂うカフェ。写真はキーマカレー、味も価格も並木鑑賞代込みと考えるべきか。滋賀県高島市マキノ町寺久保835-1大處神社(おおところ)並木から歩いて30分程に鎮座する。延喜式神名帳に記載された式内社。地元のおばあちゃんの話によると、「出雲からお越しになり、45代(48だったか?)続く古いお宮さんで白猪白馬白鶏を供えて神様を祀った」という事。大處郷の総社であった。主祭神 / 大地主神創建 / 670年(天智天皇9)滋賀県高島市マキノ町森西175広大なマキノ高原を散策して待望のフキノトウに出会った。たった一つしか見かけなかったが漸く春が来た実感を得た。帰りの道の駅でフキノトウを買い求め、春の苦みを味わう事にした。天ぷらとフキ味噌で決まりだ。お蔵入りになったまま陽の目を見なかった徘徊計画、そろそろ実行してもいいのかなぁ2022/03/21今回の立ち寄りルート持たざる国、値上げの嵐が吹きすさぶのも止む無しだ。聞く耳を持つ方。実生活の負担を減らす策を実施して欲しいものだ。消費税も下げたくない、トリガーも引きたくない、二重関税も撤廃したくない、議員削減とんでもない、手当ても減らさない、おとなしい国民性だが、黙りっぱなしの国民だと錯覚してないだろうか? 里山で一人で生活するおばあちゃんにとって、ガソリン価格抑制の実感は得られない。日々里山で手に入れる日常品の値上がりをおばあちゃんは強く実感している。
2022.03.23
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知多市岡田中谷「街並み保存通り」この日は佐布里池の梅を見に、名鉄河和線八幡新田から名鉄常滑線長浦駅間を歩いて訪れていた。「街並み保存通り」は名鉄常滑線長浦駅からだと30分程東に位置し、県道252号線の一本南にあたる。県道252号線「登り」交差点から「太郎坊」の間の僅か500㍍に満たない距離ですが、車の往来も少なく落ち着いた古い街並みが続く通りだ。過去は岡田村で、田畑の多い地域で農家の副収入として木綿の機織りが発達した地域。特に江戸時代から昭和中頃にかけては、全国有数の木綿生産量を誇り「知多木綿」として知られ、生産に携わる女工達も多く集まったという。その中心地として繁栄したのが岡田の街。往時は木綿工場や商店、劇場なども軒を連ねたと云う。やがて時代の流れと共に衰退するも、古い町並みにはなまこ壁の蔵や懐かしい様式の建物が保存され往時の名残を感じられる。 範丈亭岡田の街並みの東外れに位置する、古民家をリノベし街並みにマッチするよう配慮された食事処。OKDクラフトビールが味わえる。ベルギービールに似て果実を加え醸造されたもの、歩いた人へのご褒美の一杯。所在地 / 知多市岡田中谷4「登り」交差点の西側に細い道筋が続く「街並み保存通り」の入口と云ってもいいか。木綿で栄えた往時を伝えるなまこ壁の蔵。女工達が織った木綿はこうした蔵に保存され出荷を待ったのだろう。なまこ壁この蔵は1920年頃に造られたもの。蔵の向かいに佇む石仏。左の弥勒菩薩像は風化も進み表情が消えてしまった、年代は古そうだ。手織りの里「木綿蔵 ちた」明治後期に建てられたもので、登録有形文化財に指定される建造物。現在は製品の販売や機織の体験の場となっている。所在地 / 知多市岡田字中谷9街並みを意識した街路灯。普段は見上げる事もない街路灯、チョットした意匠で存在感のあるものに変わる。知多岡田簡易郵便局子供の頃、我が町にもこんな感じの郵便局があった、それも後に取り壊されて味気ない四角いコンクリートの箱に変わった。登録有形文化財で解説は以下「1899年(明治32)横須賀郵便会所の集配区の郵便受取所として民家から始まった。1901年(明治34)岡田郵便局に改称。1902年(明治35)郵便局現在地に新築。町は木綿工場で栄え、局は女工さんたちが給与の送金・手紙のやりとりで故郷とつなぐ役割を持っていた。1964年(昭和30)知多郵便局に改称。1975年(昭和41)他所へ移転、閉鎖。1993年(平成5)知多岡田簡易郵便局として復活」日本「最古級」の郵便局舎としてPRし現在も現役。最古級かぁ、そこに拘らなくても岡田の街並みと局舎があって価値がある。所在地 / 知多市岡田中谷8竹之内資郎邸の木綿蔵と長屋門(左)。「竹之内家は江戸時代から知多木綿の買継問屋の鑑札を受け江戸を中心に問屋業をしていた。一番古い蔵は天明年間(1781~1789)に建てられたもの。長屋門は江戸末期から、二層屋根で門番の覗き窓や従業員の住まいになっていた」中谷屋敷秋葉社。「村の言い伝えによれば江戸時代中期に大火があり、岡田の中心部が被災しました。これに懲りた村人が火の神として崇められた秋葉山信仰を盛んにし、享保14年(1729)の笹根屋敷に始まり、17屋敷にこのような祠堂を建て、今も守り継がれている」現在も当時のまま残っているという。秋葉社巡りだけでも面白そうだが、岡田の町には他にも古くからの寺社や堂などが残っている。岡田街並保存会による解説。中谷屋敷秋葉社全景。他の秋葉社は見ていないが、身近な道沿いに火の神が祀られている姿は、集落に住むうえで禍から護ってもらう大切な存在なのだ。竹之内資郎邸の木綿蔵と中谷屋敷秋葉社所在地 / 知多市岡田中谷54竹之内資郎邸西側から秋葉神社方向の道筋。通りは白壁に黒の板塀の建物が残り、少しだけ過去にタイムスリップした落ち着いた光景が見られる。岡田に住むOB曰く「道は細くて田舎〃」とよく言っていたが、都会の雑踏に包まれ生活する者から見ると羨ましい環境だと感じる。見知らぬおじさんとおばさんに「こんにちは」と声をかけてくれる子供たち、そんな町だ。町は人をも育むものかもしれない。岡田「街並み保存通り」名鉄常滑線長浦駅から徒歩ルート / 東へ30分程岡田景観ガイドマップ関連記事 / 知多市「愛知用水神社、愛知用水水利観音」
2022.03.22
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常安寺から北に流れる大山川を越え豊山町青山に鎮座する八剱神社は徒歩で20分程。八剱神社(赤印)の鎮座地は大山川右岸に位置し、現在の所在地は豊山町青山。左の1891年当時は青山村、1906年(明治39)豊場村と青山村の二つの村が合併。豊場の「豊」と青山の「山」を合わせ豊山村として纏まり、1972年(昭和47)の町制施行により豊山町になった。明治の地図にも鳥居は記され、創建は古そうです。江戸末期の青山村は上青山と下青山の二つに分かれていたようで、何れも米の収量は多かったようです。鎮座地は集落の北外れに位置し、昔から周辺は大きく変わっていないようで、今も北側には田畑が広がっています。南北に集落を貫く様に道が伸び、その東側に八剱神社の社頭があり、社務所は道路の左側にある。社地は南北に長く、社頭に石の神明鳥居と右に「村社八剱神社」の社標。写真では切れているが、社標の右に馬頭観音と地蔵菩薩を安置した堂が建っている。(別途纏める事に)鳥居をくぐり境内へ。鳥居の寄進は1928年(昭和3)豊山町文化研究会による八剱神社解説。・祭神 須佐之男命・由緒 きわめて古くからの宮居で古墳であったと思われる。八重垣を巡らし、整地の入口に水戸を設けた。嘗ての社叢は檜の大木が多かったので、木陰を利用し児童指導の夏季林間学校にもなっていた。古墳だったようだがフラットな境内にそれを感じさせるものは何も残ってはいなかった。この一帯は古くから人が住み、周辺には日吉神社古墳や殿邑古墳跡などの円墳があるが、何れも開発に伴い原形を留めていない。富士神社鎮座地の豊場青塚古墳が辛うじて古墳の雰囲気は漂っている。境内全景。正面に蕃塀、四方吹き抜けの切妻瓦葺拝殿、本殿域を囲む透塀は祭文殿に繋がり、流造の本殿が祀られる尾張造り伽藍。参道左側に手水鉢、鉢に清水を注ぐ蛇口は石臼を利用し取り付けられている鉢には文化6年(1809)と彫られている。境内寄進物の年代ではこの鉢が一番古かった。手水鉢の先の社は御嶽神社だろうか。役行者、不動明王像、霊神碑が安置されています。御嶽神社右のこの社、社名札はなく不明。郊外で昔から続く神社なので境内は奥行きがある。蕃塀と拝殿は随分奥にある。石の蕃塀は1921年(大正10)ら寄進されたもの。周囲を玉垣で囲われた四方吹き抜けの妻入りの拝殿。鬼は「八剱社」、軒丸瓦に「八」が入る。枓栱は二手先で組まれ、拝殿妻側の壁面に見事な彫が施されている。派手な飾り金具はないがシックで手の込んだ造りが施されている。拝殿から本殿域の眺め。格子扉の先に本殿が見え、本殿域を守護する狛犬の姿もある。極めて古くからの宮居と云う八剱神社、その由緒に関して特に記されたものはないようで、地史など調べて見たが記述は見つけられなかった。なので祭神は冒頭の由緒に従い須佐之男命なのだろう。創建時期についても境内で確認できたもので最古のものは手水鉢の文化6年(1809)が最も古かった。古来から青山集落の発展を見守ってきた神社だろう。綺麗に纏まった拝殿から本殿域の眺め。拝殿左に堂らしき建物があるようだ。切妻瓦葺の平入祭文殿、瓦葺の透塀と一体となり本殿域を囲んでいる。本殿域を守護する落ち着いた風貌の狛犬は1906年(明治39)。本殿域。流造の本殿と右に1社、左に2社の板宮造りの社が祀られているが、御嶽神社同様札はなく詳細は不明。拝殿から社頭の眺め。この先は大山川だ。本殿域西側からの眺め、後方が児童遊園で建物が建たない、防風林のように杜が境内外周を覆っているがとても解放感があり居心地のいい神社。児童遊園から社頭方向を眺める。ソメイヨシノの古木もあり、間もなくピンクの花が彩りを添えてくれるだろう。拝殿左に見えていた建物は役行者を安置する御堂。台座に文字が刻まれていたが読み取れなかった。この豊山町一帯、道すがらの堂の多さなど信仰心の篤い土地柄なのが現れている。信仰心の薄い自分ですが、手を合わせていると不思議に頭の中の雑念が消えて軽い頭がさらに軽くなる。現役時代、頭の整理が出来なくなると作法は知らないが座禅を組んだものだ、それは不思議に楽にしてくれたものだ。それは氾濫する情報や幻想から遮断する事なのかもしれない。昨今の状況は三猿になりたくなるような愚行ばかりだ。頭の薄い狐や可愛い顔した熊さん、悶々と考え込まず一緒に座禅でも組んで見よう。豊山町青山 八剱神社創建 / 不明祭神 / 須佐之男命境内社 / 不明社4社所在地 / 西春日井郡豊山町青山1633常安寺から徒歩ルート / 大山川を越え20分程 関連記事 / 萬松山常安寺
2022.03.21
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永森の天王社から北に15分程歩くと川嶋神社が鎮座する守山区川村町に辿り着く。明治の頃は東春日井郡川村と呼ばれ、町村合併を繰り返し、1978年(昭和53)に当時の守山区大字川、大字大森垣外の一部が纏まり現在の川村町になった。目の前に庄内川の堤が迫り「川村」や「大字川」の地名はまさに言い得て妙だ。この町にも『天王社』は祀られている。ゆとりーとライン川宮駅と川村駅の中間に位置する川村天王社、永森の天王社からだと歩いて進んだ方がいい。田んぼの姿は消えてしまったが、道沿いは梅の花や上手に育てた野菜畑など、上手く育てられない者から見ると学ぶものは多い。上は川村町近隣の明治時代(左)と現在(右)の地図で、今回訪れた川村町天王社を赤塗で示してあります。この一帯は川が間近に迫る土地柄、川は時に暴れるが反面豊かな土壌を作ってくれる。その土壌を人は汗を流し耕作地にする、そして形になったものを川は容赦なく一瞬でリセットする。自然と人が鬩ぎあって見事な野菜が育つ。粘土質の山土で作られた我家の畑、耕す努力もしなければ生きものも伸びやかに育たない。土の問題ではなく、どれだけ汗を流したかの差だろう。川嶋神社、ここまで来ると川村の天王社は目前です。907年(延長7)「延喜式」に山田郡19座の一つに記された歴史を誇る神社。地名から社名は川村神社もしくは川神社じゃないの?どうも往古から当地に鎮座していた訳ではないようで、元はここから少し東の川嶋之里、白沢口辺りに鎮座したと云われ、その後何度か遷座し現在地に鎮座したようで、元の名が残っているのかもしれない。何れにせよ庄内川左岸のこの一帯を彷徨ったようだ。本題の川村の天王社。川嶋神社の東参道の対面に鎮座し、過去に川嶋神社は訪れているが見落としていたようです。三叉路の角地に鎮座する天王社全景。覆屋の下に見慣れた赤い社と覆屋に繋がるように瓦葺で妻入りの四方吹き抜け拝殿?舞殿?が建っている。この様式も守山天王社のstandardな形の一つかもしれない。東側から眺める川村天王社全景、正面が川嶋神社。拝殿から本殿の全景。北側と東側に民家は建っているが角地のため解放感のある社地。社地は綺麗に維持され、地域の方々の手が行き届きている。創建はいつ頃かと云うと困ったもんだ、分からない。明治の地図、現在の地図共に天王社の印も記されていない。古くから集落があり、航空写真が創建に結びつくとは考えないが、昭和20年頃(左)の航空写真で天王社をみると明確に識別ができない、識別がでるのは昭和39年(右)になって姿が見えてくる。そこまで新しいとは思えないが一つの記録の結果です。分からない創建よりニーズがあってここに祀られた社の現在の方が重要かと思う。そうした目線から見てもここの天王社は今も血が通っている。それがこの姿に現れていると思います。赤く塗装された社は、埃を被り色合いがくすんでいる訳でもない。ある意味、作物を育む土と同じで人の手が行き届いている表れだ。この社も扉が開けっぱなしだ、誰か興味本位で開けそのままなのか?「開けたら閉めなさい」子供にはよく言ったものだが。いつ頃祀られたかという疑問より、むしろいつ開けられたのか、そちらの方が気になる。川村 天王社創建 / 不明祭神 / 建速須佐之男命所在地 / 名古屋市守山区川村町290 永森天王社から川村天王社徒歩ルート / 北に15分程関連記事 / 永森天王社
2022.03.19
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2022/3/3知多市佐布里白脇に鎮座する「愛知用水神社」と「愛知用水水利観音」を訪れた。佐布里と聞くと愛知用水の調整池「佐布里(そうり)池」として知られる。調整池一帯は佐布里緑と花のふれあい公園として整備され、園内の佐布里池梅林は25種類、6,000本の梅が植えられこの時期になると開花時期を迎える。園内では梅祭りも開催中(3/13で終了)だった。花の開花は自然のみぞ知る、イベントの都合に合わせてはくれない。この日の開花状況は3~4分咲き。上は園内マップイベントがなければ車で訪れても駐車場の心配はないでしょう。目的地「愛知用水神社」と「愛知用水水利観音」は佐布里の北端の西側の池を見下ろす小高い丘(赤丸部分)に鎮座します。愛知用水と名が付く以上、用水について知る必要があるだろう。知多半島全体は大きな河川がなく、往古から水の乏しい土地柄。そこで灌漑用の溜池がいたる所に作られ田畑を営んでいたが、その水源の貯水量は自然のみぞしる。自然に依存する水事情を解消する目的のため、長野県鉢盛山(標高2446.6㍍)を源に伊勢湾に注ぐ木曽川の水を取水し半島先端まで導水する総延長112㌔に及ぶ愛知用水が作られました。上は愛知用水の導水経路用水は1961年(昭和36)に一期工事を終え、岐阜県の八百津にある 兼山取水口から導水が行われ、その後も二期工事として調整池や更に細かく配水する経路の工事が進められ、その水は離島の日間賀、篠島にもおよぶ。この佐布里池は1965年(昭和40)に完成したもので半島と離島の水事情の改善に伴う約4年に渡る工事期間中56名の方が亡くなられた。「愛知用水神社」と「愛知用水水利観音」は水の恩恵に感謝し、それを実現するために亡くなられた方々をお祀りするため受益者により創建された神社。佐布里池を見下ろす小高い丘。梅林の広がる園内に大きな巨樹が聳える一画が愛知用水神社の杜だ。右愛知用水神社社標左水源感謝之碑周辺の楠木が御神木。社頭全景。右に愛知用水神社、左に愛知用水水利観音の石標。中央が愛知用水神社、左が愛知用水水利観音で右に社務所。御神木の楠木が陽射しを和らげ明るい境内。左の愛知用水水利観音と狛犬が守護する愛知用水神社。愛知用水神社、左に由緒書きが建つ。愛知用水神社建立 / 1976年(昭和51)祭神主神 / 熱田大神、熱田神宮、名古屋市熱田区相殿神 / 罔象女神、丹生川神社中社、奈良県東吉野村〃 / 水分神、吉野水分神社、奈良県吉野町〃 / 高龗神、丹生川上神社上社、奈良県川上村〃 / 埴山媛神、波爾布神社、滋賀県新旭町水と土を司る神々が祀られている。用水を流れる水は山、川、海、大気が絶妙のバランスを保ち成立している。そこには保全に努める人の汗があってのもの、異常気象はそのバランスが崩れて起きている。そのバランスを乱しているのは我々自身なのを忘れてはいけない。野麦峠の東に聳える鉢盛山に木曽川源流碑がありますが、そこには「母なる川ここに生まれる」と記されています。そちらは営林署の許可が必要な林道の遥か先です。河原でバーベキューなど好き勝手に振舞い、地元とのトラブルの話を聞きます。水源地に住む方々は自然のサイクルの一つの要素「山」の美化・保全意識をもっています。蛇口を捻れば水が出るのが当たり前ではない。母なる川の下流に住む我々は何ができるのか考えることも必要。事実、水不足による工場停止、洗車、朝シャンとんでもないそんなことがあったのはつい最近の事です。この神社はそうした気付きを与えてくれるものです。愛知用水水利観音堂。建立 / 1976年(昭和51)本尊 / 水利観音立像殉職者56柱を祀る社務所前の水源感謝之碑碑文には愛知用水沿革、建設概要、愛知用水神社、愛知用水水利観音堂の建立由来が記されている。 水源地木曽山方位の碑木曽山の遥拝所、遠く離れてはいるけれど下流に住む我々、水源地のへの感謝は忘れてはいけない。何に感謝する?今は平穏な御嶽や周辺の乗鞍を始めとする山々もいつリセットボタンを押すかもしれない。「平穏でいてくれている事に感謝」するしかないかな。愛知用水水利観音堂から西の眺め。眼下に梅の館や観葉温室などの施設が一望できる。梅の館付近から愛知用水水利観音堂を見上げる。常緑樹以外冬枯れた光景に梅の花が一面染まるにはまだまだのようだ。愛知用水神社創建 / 1976年(昭和51)祭神 / 熱田大神、罔象女神、水分神、高龗神、埴山媛神愛知用水 水利観世音堂創建 / 1976年(昭和51)祭神 / 水利観音立像所在地 / 知多市佐布里白脇 公共交通機関アクセス / 名鉄河和線「八幡新田」降車、西へ徒歩35分程関連記事 / 佐布里池梅祭りと周辺散策 03/03
2022.03.18
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名古屋市東区高岳から白壁に至る南北に1㌔程続く並木道がある。毎年名古屋で一足早く桜を見ることが出来る。3回目のワクチン接種後、熱を出していたかみさんの体調も戻り、すっかり春めき温かく穏やかだったこともあり一足先に桜を見に歩いて来た。東区泉二丁目と三丁目を隔てる南北の道路沿いに植えられた寒桜の並木道。1961年(昭和36)、「名古屋で一番早く咲く桜を見たい」という地元の希望から、大寒桜と寒緋桜が植えられたのが始まり。当初16本の苗木から始まり、現在は約140本が桜の並木道を形成しています。大半はピンクの大寒桜が占め、一部に濃い紅紫色の花を付けた寒緋桜がアクセントをつけています。寒い冬も終わりだ。この時ばかりは沿道は車も連なり、歩道に人が溢れている。並木道の中間あたりに位置する「文化のみち 二葉館」国内初の高堰堤式水力発電所を完工させた実業家福澤桃介と日本初の女優川上貞奴が1920年代に住んでいた建物を移築復元し資料館として公開している。この辺りはその昔寺町で一帯は今も多くの寺があり、一歩脇道に入ると今も屋根神様が残る道筋もある。コロナだ戦争だ、そして大きな地震、落ち込みたくなることばかりが続く。せめて一時でも無にしてくれる、上を見上げよう、今日の主役はこの桜だ。2022/03/17オオカンザクラの並木道
2022.03.17
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名古屋市守山区永森町、この町にも『天王社』が祀られている。上は川村町近隣の明治時代(左)と現在(右)の地図で一帯に祀られた天王社を落として見た。赤枠のものは既に何回か訪れ、枠で囲ってないものは今だ訪れていない天王社。今回訪れた永森町天王社は赤塗で示してあります。永森町天王社について、1889年(明治22)町村制施行・合併により二城村大字大永寺となり、当時の二城村集落の南に位置します。二城と「城」が付く様にこの辺りには嘗て大永寺城があった、城の場所は定かではなく大永寺辺りにあったものと思われます。1978年(昭和53)守山区大字大永寺、大字金屋坊、大字牛牧、大字大森垣外の各一部から、同区永森町として誕生した町、由来は大永寺の「永」と大森垣外の「森」を取って「永森」となったそうだ。明治の地図と現在の地図から天王社の分布を見ると集落ごとに祀られている様子がわかる。新田開発と集落の発展に伴い、集落の災い除けに祀られていったものだと推測できる。肝心の永森町天王社の創建がいつ頃なのか分からなかった。少し前は水田が広がっていたこの辺り、今は水田すら見る事は難しくなった。上はゆとりーとライン金森駅、大曽根から高蔵寺を結ぶバス路線で全区間の一部、大曽根から小幡緑地間はこうした高架が延々と続く。県道の渋滞や名鉄瀬戸線の踏切待ちなどの影響を受けずスムーズに移動できる。地下鉄の代替交通網として整備され、朝夕を除き概ね10分間隔で運行されている。渋滞時には上を走るバスが羨ましく感じる。天王社へは金森駅で下り、北に進み古川右岸に広がる住宅街の角地に鎮座します。永森町天王社。西から東方向の眺め、この先はすいどうみち緑道が左右に伸びています。東から西方向の眺め、先にはゆとりーとラインの高架が聳えています。天王社外観は一帯で見かけるものと全く同じ、瓦葺の覆屋に朱色の本殿が祀られたもの。例によってDIYの香り漂う朱の塗装は覆屋の土台部分まで達しようとしている。角地に建つ本殿は南を向いて祀られ、道路から参拝する事は出来ない。社地へは東側の通りから境内に入る事になります。参拝の為境内に入らせて頂く。綺麗に赤く塗られた覆屋と本殿、そこには赤い鳥居も置かれています。参拝を済ませ本殿の写真を撮らせてもらう。興味本位で誰か開けたのか?閉めるべきものか困ったものだ、今どき姿は見られている、不審なおやじの不審な行動は面倒なことになりかねない。ありのままにしておこう。そのおかげで津島神社の御札が見て取れた。もうひとつ、置かれていると思っていた鳥居は覆屋の玉垣と一体物だった。良く鳥居が置かれたりするが、これが定型なのか?と思いたくなるほど収まりも見た目も自然だ。中央にある石も含めて赤一色だ。まめに塗装されていることもあり躯体に傷みもなく、人の温もりが感じられる天王社だ。土台ごと染めてしまってはどうだろう。この町の禍除けとして存在感は更に増すような気がする。永森 天王社創建 / 不明祭神 / 建速須佐之男命所在地 / 名古屋市守山区永森町236-1239公共交通機関アクセス / ゆとりーとライン「金屋」駅降車、北に10分程関連記事 / 雨が降り出す前に5.3㌔歩いて来た
2022.03.17
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ここ二日夜中になると強烈な雨が続いた春とは思えぬ暑さとなった今日、これなら土筆も生えているだろうと郊外に出かけた場所は矢田川支流香流川のほぼ源流域の田んぼのあぜ道。身近な散歩コースでは終わったのか、まだ早いのかさっぱり見なかった土筆に漸くお目にかかった。ここまで来ると伸び放題だ。あぜ道周辺には早春から春にかけて見かける小さく可憐な青い花が一面に咲き誇っていた。花言葉は忠実・信頼・清らかと云われ、どこぞの大国の狐に送ってやりたい花だ。オオイヌノフグリ(大犬の陰囊)、なんとも気の毒な名前の花だ。たまたま種子の形が「それ」に似ていた事から名付けられた。もう少しなんとかならんかつたものか。外来種のこの花、大陸では別名「星の瞳」と呼ばれるそうだ。地表から小さな青い瞳が見つめているさまからそう呼ばれるらしい。ネーミングセンスの差は大きい。春を味覚で感じたい方は花も葉も食べても死なないけれど、お勧めはしない。春の程よい苦みを感じるなら土筆。写真は景気よくニョキ〃生えていた土筆の群生。あんなに雨が降りながら茎の部分はやせ細り、穂は開いたものばかり。低地では時期は過ぎていたのかナ、もっと標高を上げればまだ〃お目にかかれるかも。穂の開いていないものを見繕い10分程で片手一杯摘むことが出来た。春の訪れを味わうにはこれで充分だ。自宅に戻り袴を取り去る、調理はかみさんにお任せだ。帰り路、偶然神社を見かけそこにも立ち寄る事が出来ました。パン〃「万事平穏でありますように」・・・5円では叶わないかマラソン以降左手首の関節が痛い、拍手のし過ぎの影響だろうか?
2022.03.15
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多奈波太神社を後に黒川沿いに志賀本通方向へ30分程東に進む。黒川沿いで見かけた解説板「糊落としの風景」庄内川から導かれ以前に比べ綺麗になった気がする黒川、つい最近までこんな光景も見られたという。地下鉄名城公園から徒歩で神社を巡ってきたが六所社でひと区切り。名古屋環状線から一本北に入っていることもあり意外に静かな住宅街、その一画に六所社が鎮座しています。神社西側に隣接する医王山成福寺の山門、幼児園もあり山門は塞がれていた。上六所社境内西側の「彩江橋」欄干(左)と御嶽神社社標(右)。欄干? 街を歩いていると子供の頃に比べ随分と川が無くなった気がする、無くなったわけではなく川の上に蓋をして暗渠化され表に見えていないだけの事。この欄干は大幸川の暗渠化に伴いここに保存された「彩江橋」の欄干。大幸川は東区、千種区、名東区に至る長い小川で以前は蜆や小魚も生息していた。今も生物がいるか定かではないが、歩道の下には隠れた小川がとうとうと流れています。下岩山の上の御嶽社(左)と右に尾張大国霊神社(国府宮神社)が祀られている。これらが六所社の末社なのかどうか定かではない。上六所社社頭、神明鳥居を二つ構えています、一ノ鳥居はハイカラだ。渋く輝く銀メタの金属製、内部は分からないが無垢の樹より確実に対候性はいいだろう。これの金色バージョンは静岡の秋葉社にもあったような気がする。鳥居左に見える掲示板、その基礎に使われている石も彩江橋の道を辿った近隣の橋の石材が使われている。下石造のニノ鳥居と右に稲荷鳥居。豊藤稲荷詳細は不明ですが奉納鳥居や幟の多さから相当な御利益があるのだろう。住宅が広がる一帯にあって五穀豊穣はないだろうが、商業施設が多いので商売繁盛なのだろう。境内に聳える巨樹、種類までは見なかったが空に向かって伸びやかに聳えている。真夏の炎天下には一時の安らぎを与えてくれる杜だ。境内全景、左に手水舎、右に妻入り瓦葺の建物、六所社の額が掛けられているが詳細は不明。二本足の手水舎と手水鉢。露・・・ 「そんなんだから皆に嫌われるのですよ」「なかよくしましょう」社殿全景。左の廻廊は拝殿に続く、本殿域の左右に境内社が祀られている。六所社境内に由緒書きは見当たらず詳細は不明、ただ1781~1788年の天明年間に社殿造営の棟札が残るとされるので、歴史は古そうだ。北区と東区は六所神社が多い、ここ下飯田町から少し東の上飯田南町には祭神も全く同じ六所宮が鎮座します。近代工法の社殿は新しく、クリーム色の塗装が施されている。拝殿前の狛犬は毬と子を持った昭和38年寄進のもの。拝殿額と拝殿内。祭神 / 伊弉諾神、伊弉冉神、蛭子神、天照大御神、月読神、素戔嗚神。六柱を祀るから六社を祀るから六所なのか知る由もない。上天神社、拝殿右に祀られ祭神は菅原道真。下天神社と六所社本殿。棟持柱と内削ぎの千木、鰹木は6本、高い塀に囲われ本殿の全様は掴みにくい。拝殿左の参道先の境内社。正面に流造の社と左に六社祀られている。左から琴平金羅社(大物主神)、弁天社、八大竜王社、山ノ神社、熊野社(月読神)、神明社(天照大御神)。これら何れも下飯田周辺の開発によりこの地に集まってきた。今は住宅が広がるこの地も少し前は稲田が広がり、糊落としの黒川や田畑を潤す小川など生活と水は密着していた、水に縁のある神様が多いのはそうした過去の立地を示している。正面に鎮座する八幡社。社は天神社と同様の大きさですが、こちらは高縁や脇障子などの飾りが付く。如意宝珠を持つ龍や木鼻の獅子など、小さな社のわりに手も掛けられている。拝殿から名古屋環状線が走る南方向の眺め。嘗ての稲田は姿を消し背の高いビルや民家が広がっています。北区下飯田町 六所社創建 / 不明祭神 / 伊弉諾神、伊弉冉神、蛭子神、天照大御神、月読神、素戔嗚神境内社 / 御嶽社、尾張大国霊神社、豊藤稲荷、天神社、琴平金羅社、弁天社、八大竜王社、山ノ神社、熊野社、神明社、八幡社所在地 / 名古屋市北区下飯田町1-1 公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線「平安通」駅から西に徒歩10分程多奈波太神社から徒歩ルート / 志賀本通を東に30分 関連記事 / 多奈波太神社、マラソンボランティア説明会帰りの五社巡り、『六所宮』名古屋市北区上飯田南町、「秋葉山本宮秋葉神社」
2022.03.14
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名古屋ウィメンズマラソン本番当日どうにか天気にも恵まれ、start一時間前から道路封鎖、沿道のテープ貼り等作業を行っていても暑いくらいだった。気温差がありすぎ、これはランナーにとっても負担だったはず。準備も整い9:00ホイールチェアマラソンstart9:10女子フルマラソンstart10:20 男女ハーフマラソンstartと無事に参加者を見送る。最終ランナーを拍手で送り出し一息ついた頃、ハイスピードなレース展開で間もなくトップが戻ってくる。なんという速さだこと。ゴールを目指す選手を応援する人〃が再び沿道に訪れ拍手で出迎える。トップランナーはともかく、フルマラソンを走り息遣いも荒いランナー、足に来てしまったランナー、ゴールを前に自分の目標に向け走り去っていった、目標達成できただろうか。それにしても早かったGame Records 2:20:29 対して結果が2:17:18 3分近く記録を上回る驚異的ともいえる記録でケニアのルース・チェプンゲティッチ選手が優勝。一人旅だ。3位日本の安藤選手の姿が見えたのは5分後の事だった。結果は1位 #6 ケニア ルース・チェプンゲティッチ 2:17:182位 #7 イスラエル ロナチェムタイ・サルピーター 2:18:453位 #1 日本 安藤友香 2:22:22まだまだレースは終わっていない。全員家に戻ってレースは終わる。個人的な感想参加者、観客、ボランティアの面々はマナーも挨拶もいい感じでレースは運営されていた。残念だったのが人件費や食費の伴う運営スタッフだ。ボランティアに対する言葉使いや横柄な態度が目に付きとても残念だった。ピラミッドの底辺で運営を支える一般ボランティアはそうした目線でも見ています。よもや〃打ち上げなんか予定してないよね。
2022.03.13
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縁あって豊山町の八所神社と津島社を訪れました。この辺りは寺社も多く、町角には観音堂や地蔵堂が祀られ古い石仏など新たな発見が多い。今回はこの時見かけた新田町 観音堂と名桑町 菩薩堂を掲載する事にします。上は以前掲載した豊山町豊場中之町の津島社の社頭から長寿寺方向の眺め。この通りを長寿寺の赤い塀沿いに奥に進みます。長寿寺東側の交差点を左に曲がります。上段写真左の小さな瓦葺の堂が建っています、ここが新田観音堂。長寿寺敷地の通りに面した一画が新田観音堂として区画を与えられています。堂前には生花も供えられ、身近な存在として町内の方々でお世話されている。堂内には二体の石像が安置されていました。左に金剛輪と斧を持ち、口をへの字に、目を吊り上げた険しい表情の馬頭さん。不毛な殺生をやめられない世の中に対し怒りを隠せないようでもある。右の観音像は私利私欲を捨て去り全てを受け入れる寛容で穏やかな表情をしている。新田観音堂所在地 / 西春日井郡豊山町豊場新田町138関連記事 / 『豊場中之町 津島社』、豊場中之町 『医王山 長寿寺』名桑町 菩薩堂豊山町豊場木戸『八社神社』の社頭。名桑町菩薩堂は鳥居に続く南側の通り沿いに建っています。上段写真左鳥居から南に伸びる通り、写真中央の三叉路の角に小さな堂が見えます。右はそこから振り返り八社神社方向の通りを見ています。下段写真左三叉路の角地が与えられ堂が建てられています。瓦葺の平入の堂で新田観音堂より一回り大きなもの。堂の右に「名桑町菩薩堂」の札が掲げられています、一帯の堂にはこうした札が掲げられています。堂内に4体の石仏が安置されています。右に地蔵さん、険しい表情の馬頭さん、風化が進み表情の読み取れない石仏、左に頭を少し傾げたように見える石仏が安置されている、如意輪観音だろうか。欲の皮を纏った狐の蛮行を止め、裁きを下す秘策を練っているのか、はたまた赤い前掛けの裏で初期化ボタンを押そうとしているのか誰も見通せない。表情は「お前ら何やってる?」とでも言いたげだ。名桑町 菩薩堂所在地 / 西春日井郡豊山町豊場大門46 関連記事 / 豊山町豊場木戸 『八社神社』 新田観音堂~名桑町菩薩堂徒歩ルート / エアポートウォーク名古屋から20分程
2022.03.13
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豊山町豊場中之町『医王山 長寿寺』二月に掲載した豊場中之町『津島社』の東隣に臨接する曹洞宗の寺院。赤のマーカーで示した場所が長寿寺の鎮座地です。津島社社頭から赤い塀が続く長寿寺方向の眺め。あの日は時間の制約もあり二社だけ巡って終わっています。豊山の町周辺には寺社も多く、町角に祀られた観音堂や地蔵堂も多く魅かれるものが多い。長寿寺前の通りを奥に向かった左側にも新田観音堂が建っています。この日二つの堂に出会い、それらは後日纏めて掲載します、全てを巡るのは難しいかもしれないが機会を見てこの辺りを訪ねようと思う。今回は前回寄れなかった津島社東隣の『医王山 長寿寺』を取り上げます。長寿寺山門入口。右に寺号標があり、参道はすぐに左に折れてその右に山門が建っています。切妻瓦葺の薬医門に白壁の塀が連なった山門。山門手前に二体の石仏。山門から境内の眺め。角柱を用いた木造の山門は小型ながら軒桁と柱を繋ぐ斗組もしっかりと作られている。軒桁を支える斗組ですが装飾の意味もある。絶対必要かというとそうでもない、一説には間違えて柱を短く切ってしまい、長さを補うために組んだものが始まりとも聞きます。DIYでよくあるやつだ。そこに手をかける事は作り手側の拘りを表現するところかもしれない。山門にシンプルな額が掲げられているが文字は読み取れなかった。山門から境内の眺め。左に二つの堂と正面の本堂、右に庫裏の伽藍。左の堂が薬師堂、右の堂はよく分からなかった。本堂全景。大きな向拝を持つ寄棟瓦葺で堂の右に大きな石標が建てられている。長寿寺の創建を古史で調べて見たがどうも見当たらなかった。ただ一点、前回掲載した「萬松山 常安寺」とは拘わりがあるようです。織田家家臣の溝口富之助が常安寺を創建した812年(弘仁3)、薬師堂として始まったのが長寿寺のようだ。やがて田畑は広がり、それと共に集落も大きくなり、常安寺の末寺となったようです。軒丸瓦に五七の桐、集水枡に金色の輪宝らしき紋が見える。本堂内の額は医王山。本堂右の石碑第七世住職 恒川活禅和尚の碑で、法務の傍ら茶華道を極め、小牧・春日井地域に茶華道を広めた功績を称え建てられたもの。薬師堂方型の瓦葺の堂で豊山町最古の建造物とされ、長寿寺を訪れる動機になるだろう。約250年前の常安寺再興の際にこの地に移転されたものだという。堂前の解説板、それによればこうある。「町指定文化財 薬師如来坐像(長寿寺)秀麗な面貌表現・深浅を交えた写実的な衣文は当代の作例中でも出色。檜造高さ32㌢、高さ32㌢、長寿寺薬師堂の本尊」薬師堂内。山号の医王山はこの薬師如来から来ているとも云われるようで、当然ながら十二神将が守護する厨子の中に安置された薬師如来像の姿は窺うことが出来ない。格子天井には天井絵が描かれている。本堂から山門方向の眺め。犬山街道一帯に法務の傍ら茶華道を広めた恒川活禅和尚、豊山町最古の建造物薬師堂のある寺。2022/02/24医王山 長寿寺宗派 / 曹洞宗創建 / 不明本尊 / 不明所在地 / 西春日井郡豊山町豊場中之町190-1関連記事 / 豊場中之町『津島社』 、萬松山常安寺
2022.03.12
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日々使用するPC先日、使用中に突然以下の画面が表示された、所謂サポート詐欺MicrosoftからPC使用をブロックする内容で表示は以下・メッセージ画面「Microsoftがセキュリティー上ブロックしました、サポートセンターに連絡すれば安全に復旧する方法を案内する、表示の℡に電話し指示に従って復旧して下さい」・同様に音声でも繰り返しメッセージが流れる<警告画面の内容>・この PC へのアクセスはブロックされました・このウィンドウを閉じると、個人情報が危険にさらされ Windows 登録が停止されます・Trojan スパイウェアアラート – エラーコード: #・・・・・・Windowsサポートに連絡する、・・・ ・・・・ ・・・PC状態・PC画面は全画面となりマウスによる操作が出来ない・左下にあるWindowsアイコンも当然消えている※慌てて連絡・指示に従わない<自分が行ったこと・LUNケーブル抜き取り・別のPCで表示されている電話番号検索・・・当該番号検索数が急上昇し、サポート詐欺注意の情報が発信されていた<復旧操作 (マウス操作はできないのでキーボードor画面タッチ)・ctrl+art+deleteのキーを同時押し強制終了 (キーボード矢印キーでセレクト、enterで確定)・LUNケーブル復旧・PC起動(マウス復旧)ウイルスソフトでフルスキャン・キャッシュと履歴を削除以上で復旧・・・強制終了に伴い直前の作業内容は振り出しに戻された最近こうしたサポート詐欺が多発しているとは聞いていた 実際遭遇し操作が出来なくなり、警告音声が繰り返し流れると焦るサポートを提供する名目で、支払いやコンピューターの遠隔操作を求め、情報抜き取りやデータに損害やウイルスなどインストールされます。 電話番号が記載されていても絶対に連絡しない。因みにMicrosoftによれば「エラー メッセージや警告メッセージに電話番号は記載しない」そうです。正規のサイトかどうか見極めも付かず、URLから判断はできなくなっています。 その画面から対処せず、当該の業者サイト自分から確認するのがいいかもしれない。しかし、今戦争を仕掛けている国の主張同様、なにが嘘で真実なのか分からない状況になってしまった。 データは外付けに保存するのが一番いいだろう。息子達が小さかった頃、飛び交う電波を拾ってゲームを楽しんでいたのを思うとwifiもねぇ・・・ 便利な道具や抑止力も使い方次第では存在しない方がいいのかもしれない。
2022.03.09
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2022/03/07所用で滋賀県高浜まで出かける機会があり、6時半に名古屋から西へ。急ぐ道行きでもない、下道を走り鈴鹿山系を越えてのんびりと向かう。通勤ラッシュ前には木曽三川だけは越えておきたかった。渋滞もなく一時間程で鈴鹿山系の麓、県道8号線沿いの海津市南濃町付近にやってきた。朝食をこの近くの喫茶店で予定していたが開店までに時間もあり「城山支所前」交差点で見かけた神社を訪れた。前日の冷え込みで新たに雪が舞ったようで西の山々は白く薄化粧をしていた。東天神社、若苗神社、山神神社県道脇の参拝者駐車場から社地の眺め。左の鳥居が東天神社、右の鳥居が若苗神社、駐車場後方の小さな森に山神神社とこの辺りに三社が集中し鎮座しています。東天神社朝陽で照らされた鳥居奥のまだ薄暗い境内に唐破風付きの拝殿と幣殿、流造の本殿が主な伽藍。歴史を感じさせる社殿や神社を包み込む杜を含め厳粛な雰囲気を持つ神社。若苗神社東天神社と社地を共にし、こんもりと小高く盛られた頂に小さな社が建つ。両社の社地全体が東天神古墳群の上に鎮座し、一帯は4世紀後半から7世紀前半の古墳が複数あったが、現存するものは1~5号墳までのようです。東天神社本殿は1号墳(円墳)、若苗神社本殿は2号墳(円墳)の上に鎮座する。駐車場後方の山神神社も3~5号墳の上に鎮座する。山神神社駐車場後方に二つの鳥居を構え、二本の杉の巨樹に挟まれ小さな社が祀られている。所在地 / 岐阜県海津市南濃町駒野奥条入会地98朝食はLe lupin bleu(ル・ルパン・ブルー)スキレットで焼かれたふわふわのパン(ちぎりパン)と小さなサラダ+coffeeが付き430円ちぎった熱々パンにメープルシロップ(小倉orマーマレードもあり)を漬けて食べるが、焼きたては本当にうまい、ボリュームある大きさながらペロリと無くなる。所在地 / 岐阜県養老郡養老町飯ノ木313-1TEL / 0584-84-3113泉神社 滋賀県米原市大清水1174養老町飯ノ木から40分程北上した大清水集落に鎮座する神社。素盞嗚尊、大己貴命を祀る。天智天皇の時代に突如として霊泉が湧きでた「天泉所」と名付けられ、伊吹の大神を水の神として祀ったのが起源とされる。滋賀県の名水(十王村の水、堂来清水、針江の生水、居醒の清水、山比古湧水)6選の一つで、名水百選に選定されている。急峻な斜面から湧き出る水は住民にとって灌漑、生活用水として必要不可欠。水源は大切に維持管理され立ち入り禁止、社頭の採水所で協力金300円を支払い採水する。また大清水集落は道幅も狭く、生活道路と外部から訪れる方の経路を分けています、車は看板に従って専用駐車場に停めて下さい。2022/03/07時点の参拝者駐車場は一面雪。街の陽気につられて訪れ、わ~い雪だと入り込むと二度と出れなくなります。日陰には残雪もあり、その上に前日の新雪が積もっていました。久し振りに四駆に入れて走る、フキノトウもまだ〃山はしっかり冬です。泉神社所在地 / 滋賀県米原市大清水1174長浜で久しぶりに息子と再会。食事時となり「いつ行っても完売で食べた事がない」ローストビーフ丼を食べに、地元の精肉店が併設する焼肉屋「焼肉のまルぜん」に。息子が行く時間が悪いのか、当日は運が良かったのか、お目当ての丼はオーダー可、肉まみれの丼は若いのに任せ定食にした。焼肉屋なので当然こうなる、かみさんは「乙女ローストビーフランチ」(写真上)、自分は「鉄板焼き肉膳」(写真中)、昼からボリューム満点、晩御飯はいらないな。ライスは無料で大盛にもなる、豚・鳥・牛肉の三種とスープ付きで1,000円、乙女ローストビーフランチもスープ、デザート付きで1,000円、ローストビーフ丼も1,000円。この価格で三種味わえれば安い、店内の客層は「乙女」が多く、食事が終わると精肉店で肉を買って帰る姿もある。ロケーションは長浜市街から少し離れ、田園の中に住宅の建つ長閑で静かな環境、東に雪を纏った伊吹山を望む。今年は特に雪が多かったようで、今も除雪された雪山がそこかしこに残る。焼肉のまルぜん所在地 / 滋賀県長浜市新栄町70-1帰り道、山菜を求めて幾つかの道の駅に立ち寄るも何れも販売されていなかった。雪の影響で例年より遅れているのかもしれない。山道の道端などに目をやってもフキノトウすら目にしなかった、ここも春はまだ早いようだ。道の駅 伊吹の里所在地 / 滋賀県米原市伊吹1732-1都会では梅の開花だ、土筆見付けたと云っていても、山里に春が訪れのはもう少し待つしかないようだ。それでも泉神社の杜でウグイスの声を耳にした、まだ〃鳴き方は下手ですが少しづつ春は近づいている。今回の走行ルートはこちら
2022.03.08
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名古屋市北区金城 多奈波太神社前回掲載した深島神社から北に徒歩10分程に位置する。訪れたのが2月16日。道は堀川に突き当たる。随分暖かくなったが川面も堤も冬枯れ、水仙の緑だけが春の兆しを感じさせる。対岸に見えている。多奈波太神社へは下流の城光橋か上流の金城橋から対岸に渡ります。飛び越えれない? 子供の頃、棒高跳びよろしく竹竿で小川を飛び越える、そんなことして悉く失敗し親に怒られたものだ。どちらに向かっても大して距離は変らない、城光橋から向かうかぁ。多奈波太神社と深島神社の位置関係をマーカーで示します。堀川右岸道路を歩くと直ぐに社地が見えてくる。東側に参拝者駐車場もあり車で訪れても良さそうです。社地は玉垣でぐるっと囲われ、南側に正参道、東側に脇参道があり其々鳥居を構えています。正参道脇の社号標「式内 多奈波太神社」と解説板。上「多奈波太神社」平安時代に編纂された「延喜式」に「山田郡多奈波太神社」と記される。主祭神は天之多奈波太姫命(天之棚機姫命)「尾張名所図会」に田幡村にあり、七夕の森と云われ例祭7月7日、燈をかかげて諸人参詣す」と記されている。昔からの祭礼風景が七夕祭りとして今も続いている。社殿は昭和20年5月の空襲で焼失、昭和39年に現在の木造鋼板葺に復興再建された。下「多奈波太神社の乳イチョウ」イチョウは柱状の瘤(乳垂)が出来る事があり霊力の宿る神木とされる。多奈波太神社の乳イチョウは樹齢が若いにも拘らず多くの瘤(乳垂)が垂れ下がり珍しい。このイチョウの生命力にあやかり、健やかで豊かな母乳に恵まれた逸話がある。乳イチョウの解説付近でイチョウを探すが見当たらない、結果として東参道から境内に入った右側にイチョウが植えられていました。社頭から境内の眺め。社殿や石の明神鳥居も建替から時を経ていないのでとても綺麗な伽藍。正面に向拝付きの入母屋平入の拝殿、右に東参道の鳥居、乳イチョウは写真奥にあります。拝殿左に社務所があり手水舎は境内右にあります。手水舎と東参道鳥居方向の眺め。右の掲示板に祭礼の案内。例大祭 毎年8月7日、1月1日元旦祭、1月14日左義長祭、3月7日祈年祭、7月7日茅輪祭、10月7日祈願祭、12月30日大祓祭、毎月7日月次祭。旧暦の7月7日には願い事の書かれた短冊が結ばれた笹竹が町内から奉納されるそうだ。七夕というと西区の星神社の七夕伝説が思いつく。星神社の南を流れる庄内川には「たなばたひめ」の民話が伝わる、ここ田幡村の娘と対岸に住む若者の悲しい物語だ。心情として星神社と多奈波太神社が対であると更にジーンとくるだろうがどうもそうはいかないようだ。南を向き鎮座する星神社に対し、多奈波太神社は背を向けるように南を向き鎮座する。華美な装飾のない、落ち着いた佇まいの拝殿。拝殿前の守護担当はとても愛嬌のある面々。愛嬌はあるが頭にはしっかり角を持っている、タンコブではなさそうだ。ドングリ眼でこちらを見つめ、どことなく微笑んでいるような。拝殿額と拝殿内。右側に神輿が安置されていた、神紋は五三桐のようです。由緒にあった昭和39年の再建以降、平成に入り屋根の葺き替え、社殿の修復工事等の手が入れられているようです。祭神は天之多奈波太姫命、天照皇大神、応神天皇、大山津見命、大己貴命、素盞嗚神。創建時期は定かではないようですが、由緒にもあるように延喜式(925年)や後の尾張名所図会にも名が出てくる。一説に1752年頃の江戸時代、名古屋城築城(1610年~)に伴い、鬱蒼と樹々が生い茂る多奈波太の森に換地されたとも。拝殿右の「神域拡張、玉垣建設記念碑」昭和12年に建てられたもの。碑の右側に小さな祠がありその横に注連縄が張られた一本の樹「乳イチョウ」イチョウと云えば真っすぐに聳え立つ印象がある、乳イチョウは見慣れたイチョウとは随分違うものだ。樹の姿も違えばその枝も特徴がある。上解説にあるように柱状の瘤(乳垂)が枝から鍾乳石のように垂れ下がっている。仕組みは調べていないが自然の不思議として腑に落としておこう。おやじに母乳は用なしだが、健康と幸せはそうはいかない、二人分の賽銭を投じてしっかり願をかけておく。ここから本殿をぐるっと一周。拝殿から切妻妻入の幣殿、本殿が一体となっている。拝殿同様、華美な飾りが施されていない落ち着いた佇まいの社殿。本殿は流造、千木は外削ぎで鰹木は5本。鬼や妻飾りなどに桐紋が施されています。ここにも金色に輝く桐紋。拝殿脇の楠が空に向かって聳え立っている。多奈波太の森は人の都合で姿を消していったが、ここにはその面影の様な巨樹が聳えている。拝殿全景、なかなかいい姿をしている。ここにも春を告げる彩りがあった、少しづつ色が溢れていく。ここにも。拝殿から社頭の眺め、鳥居は再建時のものだ、この光景に桜の花が加わるのもそう遠くない。下は参拝者駐車場から多奈波太神社の眺め、住宅や店舗の並ぶ一画に嘗ての森の名残が残る。2022/02/16もう少し東に向けて歩いてみるか。多奈波太神社創建 / 不明祭神 / 天之多奈波太姫命、天照皇大神、応神天皇、大山津見命、大己貴命、素盞嗚神所在地 / 名古屋市北区金城4-13-16公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線「名城公園」駅から北に徒歩10分関連記事 / 深島神社、『星神社』七夕伝説が伝わる神社 、(民話)たなばたひめ(名古屋市北区)
2022.03.08
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名古屋市守山区大永寺町「熊野社」町名の由来はここから少し西に鎮座する曹洞宗の寺院「寿昌山大永寺」から来ている。山門脇の枝垂れ桜が綺麗な寺でこれからの時期楽しみな場所。熊野社は大永寺から徒歩で2分程東に鎮座し、直ぐ東にゆとりーとラインの高架が聳え立つ。過去に何度か訪れていますが、「熊野社」単独で取り上げていなかったようなので今回の再訪となりました。上は明治初めの当地とほぼ現在の地図の比較。ゆとりーとライン川宮駅から南西5分程に鎮座し、南北に長い社地に二城消防団詰所、大永寺公民館、天王社が区画を共にし、この町のコミュニティーの中心。熊野社社頭全景。消防団詰所の存在感が大きいけれど、その奥に杜と鳥居が見える。周囲は一部玉垣で囲まれていますが、社頭に鳥居や社号標はない。鳥居は境内の中ほどに建ち、その脇に社号標が建っています。境内中程から鳥居と社殿の眺め。明神鳥居と拝殿後方に見事な巨樹が聳えている。過去訪れた時と印象に違いはないようだ。常夜灯の後方に社号標と鳥居を構え、その先に切妻瓦葺の妻入り拝殿。鳥居は1971年(昭和46)建之のもの。社殿全景。本殿周囲は巨樹の木陰に包まれています。熊野社拝殿。最後の参拝が2017年、社殿全体は当時と比べても大きな傷みはなく、綺麗に手入れされた境内も当時の印象と変わっていない。拝殿額「熊野社」シンプルな外観の拝殿ですが、一部の金色の飾り金具や懸魚の鰭に施された彫など、さり気無い拘りが感じられます。熊野社の創建は古く1617年(元和3)、名古屋城築城普請奉行の岡田善同が名古屋城築城時の余材でこの地に大永寺を移転、その際に熊野三山から勧請を受け熊野社が創建されたという。大永寺は尾張名所図会に挿絵も残るが、東隣りの熊野社までは描かれていなかった。拝殿から本殿方向の眺め。本殿域は石垣が高く積まれ、その上に台座が作られ社が祀られている。神域全体を杜が包み込み、昼とはいえ薄暗い空間。本殿域の右に複数の境内社と石像が安置され、本殿左にも一社祀られています。本殿前の狛犬は1929年(昭和4)覆屋下の本殿と左右に境内社の姿がある。薄暗い覆屋の下、強烈な外光の中に神々しく浮かび上がる一間社流造の本殿。祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、速須佐之男命。本殿右の境内社と御嶽講の石像群。覚明霊神の石柱や役行者、赤い火炎の不動像。石像群後方に板宮造りの三社、左から神明社 津島社、八幡社。本殿域左の境内社へ参拝に向かう。本殿を斜めから見る。逆光でよく分からなかった脇障子の存在や木鼻の彫、虹梁の滑らかな曲線が見えてくる。左の境内社、御鍬社、御塚社の相殿。後方左に見える赤い社は大永寺町の天王社。拝殿左の参道から天王社へ繋がっています。右の本殿域の高さの高い事、本殿は更に一段積まれた上にある。社頭から境内は平坦だったので、こうして見ると庄内川に向けて僅かに傾斜しているようです。川の氾濫を考慮した水屋造りと云ってもいいのかな。水屋造りの面影が残る住宅は今も近隣で見ることが出来る。見上げるほどの高さにある本殿域。大永寺町の天王社。熊野社の境内社として一緒に挙げていいものか悩むところですが併せて掲載します。外観は周辺で見かける天王社の姿を踏襲するもの。赤く塗られた覆屋、その中に祀られる赤い社と鳥居。大永寺町の厄難災除として祀られたものですが、その時期は定かにはならない。創建 / 不明祭神 / 速須佐之男命(牛頭天王)天王社へは道路沿いからも容易に参拝できます。ここが入口とすると少し足元が悪い、やはり熊野社から訪れるのが正しいのか。熊野社西側から本殿域側面の眺め。一抱えも二抱えもあるような楠の巨木、町のシンボルツリーと云ってもいいほど。大永寺町 熊野社創建 / 1617年(元和3)頃祭神 / 伊邪那岐命、伊邪那美命、速須佐之男命境内社 / 神明社 津島社、八幡社、御鍬社、御塚社所在地 / 名古屋市守山区大永寺町256関連記事 / 守山史跡散策路 12 水屋 、大永寺 大永寺町 天王社創建 / 不明祭神 / 速須佐之男命(牛頭天王)
2022.03.07
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ひな祭りの今日、我家の姫のご希望で佐布里池梅祭りを見に出かけてきました。ルートは名鉄河和線沿線の「八幡新田」で降車、徒歩で佐布里池、岡田の街並みを眺め名鉄常滑線「長浦」までの約8㌔で咲き誇る梅を眺め土筆に出会えればいいかな的なルート。我家の姫が随分とコースを練って楽しみにしていた事もあり、今日は多少風はあるものの快晴に恵まれ温かかった。無人駅の八幡新田で降車。自分はこれまで少し歩いて来たが、姫にとっては久し振りの長い距離、スローペースで一路西に向かって歩きだす。30分程で佐布里池到着。何カ所かある駐車場は平日にもかかわらず満車に近く、空き待ちの車列が出来ていた。ここ最近TVが煽るように取り上げていたこともあるのだろう。今日時点の梅の開花状況は個人的な指標で4分咲き。一面梅の花で染まるには程遠くアップの写真ばかり。佐布里緑と花のふれあい公園、その中央に位置する小高い丘の上に鎮座する愛知用水神社(右)と愛知用水水利観音(左)。知多半島は立地上往古から水の確保の難しい土地柄。それを解消する目的のため、木曽川から水を導水する総延長112㌔に及ぶ愛知用水をつくりました。境内の水源感謝の碑には「先人達の偉業を称え、改めて水源に思いを馳せ、水源地域の人々に感謝し、その心を子々孫々に伝えるために愛知用水神社を祀り、工事期間中の犠牲者五十六霊位、関係物故者を合祀する水利観音堂を建立した」山から海、海から山のつながりがあって成り立っている、水も平和もあたり前のものではない事を忘れてはいけない。園内にある鑑賞温室周辺の梅の開花状況はこんな感じでまだまだ早い。その分温室内のシクラメンの彩りが綺麗でした。佐布里池大橋付近。陽当たりのいい場所で紅梅がほぼ満開に近いものも一部見られた。佐布里池から20分程で岡田の町に。ここまで姫の足取りは軽快に見えたが、久し振りのウォーキングで足が重いと訴えていた。範丈亭で昼ご飯とビールを飲みながら小一時間程休憩を取る。こんな古い町並みを残す岡田の町。右のレトロな建物は知多岡田簡易郵便局(登録有形文化財)、1899年(明治32)横須賀郵便会所の集配区の郵便受取所として始まり、日本最古級郵便局舎で現在も簡易郵便局として現役。左は中谷屋敷祠堂、火伏の秋葉社を祀っている。岡田の町はその昔、木綿生産で全国有数の生産量を誇った、知多木綿と呼ばれ生産に携わる女工達が集まったという。彼女らが織った知多木綿は遠く江戸にも流通し、木綿を納める木綿蔵が建ち並んでいたという。現在でも街中にそうした蔵が姿を留めている。岡田太郎坊に鎮座する白華山 慈雲寺。1350年に創建された臨済宗妙心寺派の寺院で知多四国72番札所。長浦駅に向かう道筋で今年初めてお目にかかった土筆。身近な散歩道でも探せばきっと頭を出しているかも知れない。春は確実に訪れている。長浦駅東の高台(コンクリートの法面)に鎮座する長浦神社。境内から西を眺めると工業地帯を望み、昔は伊勢湾も良く眺められたろう。佐布里池の梅。一面満開には程遠いが一足早く春を体感するには良いだろう。駐車場に入る車の列を見ると、自分ならビールも飲める歩きで訪れたい。ルートは下の写真をクリックして頂ければマップにリンクしてあります。写真は2022/03/03時点名鉄河和線「八幡新田」駅👉佐布里池👉岡田通り👉名鉄常滑線「長浦」駅歩行距離約8㌔、歩行時間1時間50分
2022.03.04
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名古屋市北区柳原前回掲載した宗像社から徒歩で東に2~3分の位置に鎮座する「深島神社」上は天王神社、宗像社と深島神社(赤)の位置。柳原と聞くとこの地の往古の姿が連想できる。現在の名古屋城二ノ丸付近は嘗て名古屋台地の北端にあたり、そこに那古野(なごや)城が建てられていました。台地の北側から当地にかけては柳が茂る湿地が広がり、柳が多く茂っていたことから由来するようです。後に家康により名古屋城が築城され、それまで尾張の拠点だった清州からこの地に移転(清須越)するに伴い城下町として整備された地域。宗像社から東に進むと南北に伸びる柳原商店街の街並みが残る。通りから南を望むと遥か先に旧称名古屋テレビ塔が良く見える。どこもかもネーミングライツで体に馴染んだ名が変わり、我が家の息子達とも噛み合わない事が多い。深島神社は柳原商店街方向に向かう通りから、左を眺め歩いて行けば突き当りの鳥居が見て取れる。社頭は鳥居の右に「村社 深島神社」の社号標と左に由緒書きがある。境内はさほど奥行きはなく、目の前の拝殿と右に稲荷社、左に社務所の伽藍。神社由来神社名 深島神社(旧指定村社)鎮座地 名古屋市北区柳原2-3-19祭神 本社殿 田心姫命、東社殿 牛頭天王、西社殿 石神社 石土彦神、石巣姫神、末社 深島稲荷大神 由緒 創建年月は明らかではない。尾張史に1398年(応永5)三月改築の記録が残りそれ以前から鎮座する。慶長年間(1596~1614)名古屋城鬼門の守護神として、新たに荒神社並びに石神社を尾張藩祖 源敬公が建立し崇敬され、二代藩主 徳川光友光友以降の歴代藩主からも崇敬される。1872年(明治5)据置公許となり、1885年(明治18)5月13日村社に列格、1939年(昭和14)9月14日指定村社へ。1994年(平成5)13等級から10等級社へ。1945年(昭和20)戦焼、1952年(昭和27)再建され現在に至る。例祭月次祭 毎月11日元旦祭 1月1日左儀長 1月11日初午祭 旧2月初午天王祭 6月1日例大祭 10月第2月曜大祓除夜祭 12月31日境内左の手水舎。西側の柳原北公園と境内に塀はなく、公園で遊ぶ子供たちは自由に往来できる。拝殿全景。吹き抜けの拝殿は左の授興所と繋がっています。拝殿の先に陽光に照らされた本殿と両脇の末社の姿が見える。深島神社の狛犬、1932年に寄進されたもの。拝殿から本殿の眺め。本殿域は玉垣に囲まれ、本殿左に石神社と荒神社、右が牛頭天王。中央の本殿に田心姫命が祀られている。本殿の祭神は諸説あるようですがここでは由緒から田心姫命とした。本殿左の石神社、荒神社社殿。小型の流造の社ですが千木は縦に切り落とされ、5本の鰹木が棟を飾る。細かな彫も施された金色に輝く擬宝珠も見られる。左から本殿、牛頭天王、深島稲荷本殿。大きさの違いこそあれ造りは石神社と同じ。深島神社創建時期は分からなかった。稲荷社尾張藩8代藩主の松平宗勝の第6子、松平勝長が現在の長栄寺南付近に柳原御殿とも呼ばれた屋敷を建てた。1756年(宝暦6)、邸内に江戸から勧請した稲荷社を建て祀ったのが始まりと云う。牛頭天王社1761年(宝暦11)に牛頭天王社も遷宮をして御殿の中に祀った。勝長の死後、深島神社に合祀された。荒神社、石神社もとは名古屋城内に鎮座していたが1694年に柳原に移され、その後1878年(明治7)に深島神社に遷座したようだ。名古屋城下の町割から長栄寺の鎮座地は確認できたが、深島神社を始め、荒神社、石神社は見つけられなかった。拝殿右の深島稲荷と左に覆屋の中に安置された岩がある。御霊石由来深島神社神主 三谷左内が初代尾張藩主 徳川義直公(1607~1650)の命により木曽山中へ入り秘法を用い厳修し霊験を感応し当神社に安置した霊石。古来より「願い事を祈願すれば何事も御利益がある」白みのある花崗岩に似た三角形の岩で、撫でて祈願するものではないようですが表面に艶がある。祈願した事はただひとつ「流行病の終息」に尽きる・・・はずだった。これを書いている現在ではもう一つ増えてしまった、「北の狐が正気を取り戻し、南の熊さんが同じ道を歩まないように」何も持たない島国に住む者の切なる願い。奉納鳥居の先の深島稲荷本殿。拝所に掲げられた額は深島稲荷大神とある。祭神は宇迦之御魂大神で稲荷の使い、狐の姿は見られない本殿はひとつの岩を台座にしてその上に祀られ、深島神社の三社と並ぶように配されています。近年不作続きの自家菜園、今年こそ豊作であることを祈願しておこう。さざれ石鳥居右の桜の古木の根元に安置されています、看板が無ければ気付かない程小さなもの。境内東から眺める伽藍全景。以前の社殿は先の大戦の空襲で焼失し、1952年(昭和27)に再建されたものという。拝殿から南方向の通りの眺め、狛犬が見つめる通りを行き交う車は意外に少ない。神社付近に参拝者駐車場はないようでした。拝殿から西方向の眺め、工事用のフェンスの辺りが宗像社になります。深島稲荷鳥居の右の参道を進むと北側の車道に至ります。そこには石の神明鳥居が建っていました、表は明神鳥居だったがこの違いはなんだろう。千木や鰹木もそうですが、こうしたセオリーは必ずしも当てはまらないと捉えた方がいいのかも。2022/2/12深島神社創建 / 不明祭神 / 田心姫命末社 / 深島稲荷、創建 / 1756年(宝暦6)、祭神 / 宇迦之御魂大神 牛頭天王社、創建 / 1761年(宝暦11)、祭神 / 牛頭天王 荒神社、石神社、創建 / 不明、祭神 / 不明、石土彦神、石巣姫神所在地 / 名古屋市北区柳原2-3-19宗像社から深島神社徒歩 / 東に2~3分関連記事 / 『宗像社』北区名城2
2022.03.03
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ここ最近TVを点けても明るい話題がない当たり前の様な平穏な日々も常識ある振舞いだけでは国土も維持できない、力による恫喝がまかり通る現実が目の前にある。終末時計の残り時間、減るしかないようだ。早いもので今日から3月寒かったり暖かかったり、梅の開花も遅れているようです雨が振りそうな空模様、午前中は大丈夫と見込んで外に出た名鉄瀬戸線「守山自衛隊前」駅から歩きだし、川村町方向をぐるっと回り、ゆとりーとラインで帰ってくる、戦車や神社、季節の花もありの全行程5.3㌔を歩いてきた。歩いていない体に活を入れる為、動機として川村町周辺で訪れていない天王社を参拝する事にあった。写真最下段の左から2番目「守山自衛隊前駅」左回りに写真を並べています。駅を下りすぐ北にある陸上自衛隊守山駐屯地の西を通る、戦車を眺めながら駐屯地の北側から東に向かいました。1.道標 松葉交差点の東角に建っている東 「左り ふねのり場 右 京大津」とある。 左に進むとそこは庄内川に続く2.守山区高島町 天王社 高島公園北側の角地に鎮座する。3.守山区川村町 社宮寺神社川村町天王社に向かう道すがらで目に止まった梅と水仙梅の満開にはまだ早いようです4.守山区川村町 天王社 川嶋神社社頭の向かいに鎮座する。5.守山区村合町 神明社 山下公園北側の東側に鎮座する。境内に赤い天王社が祀られています。6.守山区永森町 天王社 山下公園の南西の住宅地の三叉路に鎮座する。過去に訪れた事のある神社を経由しながら天王社3カ所を巡ってきましたが、全行程の所要時間は3時間30分程でした。帰りはゆとりーとライン金屋駅から帰途に着く。帰宅して間もなく雨が降り出す、今日は運が良かった。それにしてもこれくらいで体がだるいとは情けない・・・今回歩いたルート
2022.03.02
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西春日井郡豊山町字木戸「萬松山 常安寺」現在は曹洞宗のお寺で、以前掲載した豊山町豊場木戸の『八社神社』の社頭西側に参道が隣接し、伽藍はその奥に広がります。前回も使用した地図、明治時代とほぼ現在の立地の移り変わりを見ていきます。当時の豊場村集落西部の北外れに鎮座し、北側から西にかけては水田の広がる立地。左の地図にも常安寺(黄マーカー)として記されており、この地に古くからあるお寺である事が分かります。上は尾張名所図会の常安寺挿絵。右下が八社神社で左上の伽藍が常安寺になります。八社神社山門左に上に続く参道が伸び、奥で左に折れその先で突き当りとなっています。その右側に常安寺山門が描かれています。周辺環境は住宅地に変貌していますが、参道の位置関係は今もそのまま残っています。上が八社神社脇の参道口。右隅に建つ石標は「三國傳来 根釈迦如来奉安場」と記されています。1916年(大正5)に名古屋出身の実業家の伊藤萬蔵(1833~1927年)氏から寄進されたもの。実業家として財を成し、各地の寺院に多くの寄進を行い財の一部を世に還元した人物。挿絵に描かれた参道口から伽藍を望む事は出来ません、山門に向け進みます。突き当りを左に進むと塀が山門に続き、塀の向こうに伽藍が広がります。参道はこの先で行き止まりとなり、挿絵と全く変わっていません。山門周辺の眺め、門の左右に置かれた解説板が目に入ります。右に「不許葷酒入山門」の石碑と二体のお地蔵さまが安置されています。解説板はお地蔵さまではなく、常安寺寺宝で県の文化財に指定されている鋳造誕生仏についてのもの。鎌倉時代に作られたものと云われその解説は以下。「県指定文化財 鋳造誕生佛高さ13.5㌢、胴の直径2.5㌢、重さ260gの小さな立像。所謂「天上天下唯我独尊」の形をなしている。材質は金・銅で保存状態は良く、光沢のある漆黒色を呈している。豊山町教育委員会」大きなものかと思いきや、ちょっとしたフィギィアと同等のサイズだ。左の解説「三界万霊の碑」解説板の奥に建てられているのがそれです。解説は以下「1834年(天保5)に大洪水があり、大水は西豊場一帯の稲田に集中し大山川の堤防が決壊し、濁水がいつまでも溢れた。西豊場の農民達は稲田の冠水が引くのを待ち切れず、悲愴な決意で各自に鍬や鋤を持ち、大蒲新田の囲い堤を切り崩しました。尾張藩では農民の気持ちを汲みながらも暴挙は許せないとして、その罪を問われた三十七名は投獄され、獄死した者もいた。後世になり有志農民達が、この犠牲者の霊を弔うためにこの碑が建立された。豊山町文化財研究会 2018年」西豊場農民の思い、水没した大蒲新田一帯の農民の思い、裁く立場の思い、苦渋の選択だったのが理解できます。碑には複数の名が刻まれています。山門。重厚な趣の切妻瓦葺の四脚門、近年建て替えたのかとても綺麗な姿です。門から境内の眺め、左に手水舎、本堂、庫裏、明王堂の伽藍。さて境内へ・・・・・視線を感じ山門天井に目をやる。そこには二間に渡り格子天井に絵が描かれています。門の入口側は草花が描かれています。出口側に描かれた龍。この躍動感ある龍が上から睨んでいた、視線の主はこの龍だった。2000年に描かれたもので、上が安?江と読むのか下は観山、安江観山の手によるものか?見事なものだ。これ以上首は曲がらないが、できれば仰向けになって見たいものだ。この龍と対面できただけでも訪れた甲斐があったというもの。あらたな天井画コレクションに加えよう。天井画だけで纏める必要がありそうだ。境内全景、二本の巨樹が聳え立つ広い境内。手水舎両脇にお地蔵さま。後方に聳える巨樹の根元に朽ちた明王像が安置されています。火炎が彫られているが風化と欠落が進み、全体の姿は想像できない。本堂全景、寄棟瓦葺で左の軒下に梵鐘が吊られている。宅地化が進み、本堂後方の森の緑は存在感がある。存在感のある二本目の巨樹。挿絵の同じ位置に木が描かれている、木の種類を見なかっが写真の木肌を見ると楠か?嘗て本堂後方に広がっていた水田は姿を消し、住宅地に変貌を遂げた。棟に乗せられた「萬松山」の山号瓦と梵鐘。常安寺の歴史は古く、812年(弘仁3)に現在の名古屋空港付近にあった岡山に、空海が創建した真言宗の観音寺から始まると云う。平安末期に戦禍で焼失し衰退の道を辿ったが、後にこの地を収めた織田家家臣の溝口富之助が、私財を投じて現在地に常安寺として再建。熱田の円通寺の末寺となり曹洞宗に改宗した。本尊の釈迦牟尼如来は、溝口氏が九州肥後国如来寺から勧請したという釈迦如来立像で、印度から唐を経て伝来したもので、「豊場の寝釈迦」とも呼ばれるそうだ。山門や伽藍が比較的新しいのは天井画の描かれた時期に手が入れられたのかもしれない。境内右の庫裏と棟続きの明王堂。二体の烏瑟沙摩明王像が祀られています。背後の炎で日常生活の不浄を焼き払う功徳があり、トイレの神さまとして知られる。歳と共に妙に手を合わせたくなる。本堂から山門方向の境内の眺め。挿絵には描かれていないが、境内には迦葉水と呼ばれた小池があったともいいます。山門が小さく見えるほど、空に向かって聳える二本の巨樹、常安寺の象徴ともいえる。常安寺駐車場から伽藍の眺め。二本の巨樹と天井絵が印象に残る常安寺です。1/20に周辺の二社を訪れました、当日は時間もなかったので2/24改めて訪れました。狭い道、一方通行の多いこの辺り、巡るにはチャリがいい。萬松山 常安寺宗派 / 曹洞宗創建 / 812年(弘仁3) 開基 / 弘法大師再興 / 溝口富之助再興時期 / 不明本尊 / 釈迦牟尼如来所在地 / 西春日井郡豊山町字木戸76関連記事 / 豊山町豊場木戸 『八社神社』、 豊場中之町『津島社』
2022.03.01
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