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10/25~28 大分県の別府・湯布院の温泉を満喫し一之宮を巡ってきました。今回はその一日目と二日目。10/25 当初は車で巡る計画でいましたが、燃料高騰や高速代など考え、大分へは飛行機、現地はレンタカーで移動する計画に変更、それに全国旅行支援を併用したもの。 初日は翌朝7:25のフライトに備え、セントレアへ移動・宿泊。シアトルテラス、ターミナルで食事を済ませ翌朝に備える。10/26 6:00ホテルから朝陽を眺めつつ起床、コンビニで朝食を済ませ搭乗手続きを済ませる。ズングリむっくりの機体は747-400LCF「ドリームリフター」、B787の機体部品を最終組み立て工場のあるアメリカに空輸するための機体。 私らが乗るのはボンバルディアCRJ-700、細くてスリムなやつで大分まで約一時間で送り届けてくれる。※セントレアは名鉄が止まるとバスすら運航されない孤島となります。9:00大分空港着。 空港でレンタカーを受け取りいざ出発。※セントレア食事の検索中にレンタカーの燃料を満タン返ししなくても良い特典を発見、現地での燃料代は気にしなくても済みました。 10:10 別府湾サービスエリアで小休止。 「恋人の聖地」別府湾を見渡せる高台に位置し、湯の街別府を一望出来るビュースポット。今回は別府・湯布院周辺を移動するのみ、目的地を詰め込まず、一之宮とゆっくり温泉を巡る。 大分最初の目的地は国宝の「臼杵石仏」別府湾サービスエリア 所在地 / 大分県別府市内竈3677-43-210:34臼杵石仏到着。 周囲を小高い山々に囲まれた長閑な里山の風情が漂う、街には澄んだ流れが幾筋かあり錦鯉が優雅に泳ぐ静かな環境。 臼杵石仏は東側の小高い山の岩肌に4郡に渡り摩崖仏が彫られ、その数は約60体にのぼる。駐車場から徒歩5分もあれば最初の摩崖仏に辿り着けます、後は整備された参拝路を巡っていきます。写真はホキ石仏第二群。 ホキ?なんのこっちゃ。これ「がけ」という意味らしく「がけ石仏第二群」という感じなんだろう。 この山自体が凝灰岩の山でその岩壁に摩崖仏が彫られている。良くある輪郭だけの平面的な摩崖仏ではなく、一体〃立体的に削り出されたもの。 いずれも表情豊かで、心にやすらぎをあたえてくれる像容で、一体〃彩色も施されていたようです。年代は平安時代後期(1100年頃)から後の鎌倉時代にかけて彫刻されていったとされ、誰がどのような目的で造営したのか、はっきりとしたことは分かっておらず、今も謎に包まれています。 一時期はこうした石仏群は崩落が進み荒廃していた時期があったようですが、造形や歴史的価値が評価され摩崖仏としては初の国宝に指定。 以降、修復や覆屋を設けるなど保全、保存が行われています。当日も学芸員の姿があり謎の解明に向け調査が行われていました。4群の石仏群は地名によって、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、ホキ石仏第2群、山王山石仏、古園石仏と呼称されています。臼杵石仏所在地 / 大分県臼杵市大字深田804-113:30豊後一之宮西寒多神社到着。 寒多川右岸沿いに鎮座し、川面に写る萬年橋と藤の花の美しさで知られる神社。旧国幣中社で豊後一之宮。由緒は、神功皇后が三韓征伐帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸し、四方の山々を御覧になり、その場に一本の白旗を立ててお帰りになったと云う。 人々はそれを敬いその地に瑞垣を結び、聖地として崇めるようになった。応神天皇の御代、この地に宮殿を建立するため朝廷に願い出て、勅許を得た。 勅を奉じた武内宿禰は応神9年(278)、豊後国に下向し宮殿の建立に当たった。 7世紀の中ごろ、藤原鎌足が百済救援のため豊前国仲津郡まで立ち寄った際、霊夢のお告げから西寒多神社に参拝。老巧化した社殿を修築し、太刀一振りと八幡舞面を奉納した。 貞観10年(869)、従五位下の神階が授けられ、延喜5年(905)に延喜式神名帳で式内大社とされた。以降も土地の有力武将から崇敬され、大友能直を初めとする歴代大友氏の尊崇を集め続けた。 応永15年(1408)、第十代大友新世により山麓の現在の地に社殿を遷した。江戸時代、この地を領した延岡藩の牧野氏、後の内藤氏からも崇敬され、神殿の改修・修繕や藩士の燈篭寄進などもあった。 明治4年(1871)、新社格制度で国幣中社に列格。昭和20年(1945)、社格制度廃止に伴い別表神社となった。※カーナビはとんでもない道を勧めます、寒多川沿いに遡る道を選択する事をお勧めします。豊後一ノ宮 西寒多神社創始 / 応神9年(278)祭神 / 西寒多大神所在地 / 大分県大分市寒田1644番地14:35 豊後一ノ宮柞原八幡宮到着。 二葉山の中腹に鎮座し、駐車場からは長い石段が続く参道を上っていく事になります。鬱蒼とした社叢に続く参道の中ほどに朱の明神鳥居が立ち、そこから石段は更に上へと伸びています。 途中に南大門があり、そこから参道は二つに別れ、右に進むと楼門、左を進めば西門に続きます。少し足元が悪いけれど、楼門に続く右の参道がお勧めかも知れない。 現在本殿は修復工事中で本殿の姿は皆目見れませんが廻廊から続く拝殿の前までは参拝可能。由緒は 天長4年(827)延暦寺の僧金亀和尚が宇佐神宮参篭の際、神告を蒙り、柞原山に勧請したのが創設起源とされる。承和3年(836)、右大臣・清原夏野が勅を奉じ、国司・大江宇久に社殿の造営をさせ、以来、国司の厚い崇敬を受けて来た、一方皇室からも厚く尊崇されている。 又、嘉承3年(1108)、勅使の参向があり、敷地の境界を定め税を免ぜられた。仁平3年(1153)、鳥羽法皇が60歳の祈願を修せられ、神領を定められた。 元暦元年(1184)、源範頼が平氏追討を祈願したのをはじめ、源頼朝、領主(大友・竹中・日根野)、武家の崇敬も厚く、近世には、社家二百余・坊舎三十を教えた。祭神は応神天皇(誉田別命)、仲哀天皇(帯中日子命)、神功皇后(息長帯比女命)柞原八幡宮創建 / 天長4年(827)祭神 / 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后所在地 / 大分市上八幡三組15:50明礬温泉岡本屋売店到着。 国道500号線を走っているとそこかしこに噴気が立ち昇り、硫黄臭が漂う、ここは江戸時代から続く明礬(みょうばん)採取の史跡名所。国道を挟んだ両側に遊歩道が整備され台地の息吹を身近に感じることができる。 硫黄臭の漂う一帯に湯の花小屋や入浴施設が建てられている。ここ明礬地獄からは別府温泉街を見下ろせ、手前の別府明礬橋は名の通り明礬温泉の上に架けられた巨大な橋。かみさんの御目当て地獄蒸しプリン@330円、懐かしい食感と味わいのプリンだ。明礬温泉 岡本屋売店所在地 / 別府市明礬3組営業時間 / 8:30~18:3016:00別府八湯の一つ鉄輪温泉の「おにやまホテル」到着。 チェックインし内湯に浸かり、一休みの後温泉街を散策。写真は鉄輪足蒸し(無料)で今日の足の疲れを癒す、足とは云わず頭以外蒸されたい。 温泉街には修学旅行で訪れた学生があちらこちら見かけることが出来た、おやじとおばさんが蒸されている間も、背後のギャラリーは弾けていた。15分程を目安に蒸すのですが、膝からつま先にかけて芯から温まり足が確実に軽くなるのを感じられる。鉄輪むし湯 足蒸し、〒874-0043 大分県別府市井田おにやまホテル。 白湯地獄のすぐ西側にあり、2階ロビーの前を国道500号線が走り、表通りをふらふら徘徊するには少し怖い。一階から温泉街に流れるのが正解かも知れない。この日の晩御飯。 蒸篭蒸しの中身はこんなに一杯、更に鍋やらなんやら・・・そんなに食べれないって。美味しい酒と漬物があれば幸せなのに、ゆっくりと時間をかけて味わう。 酒は智恵美人。杵築市で明治7年創業の蔵元中野酒造、「智恵」の名は女将の名からきているらしい。以前は県内のみ販売していた「ちえびじん」を漢字にして全国展開を図ったものだという。 優しい甘みがじんわり染み渡り、冷が美味しいお酒だった、この酒蔵の酒を一本買って帰る事にした。おにやまホテル所在地 / 大分県別府市鉄輪335-1大分初日移動ルート / 移動距離Gマップ上170㌔
2022.10.30
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花車 神明社(中村区名駅5)から堀川に架かる錦橋を渡り、北の桜橋方向の丸の内1丁目の白山神社へ。 名古屋市中区丸の内1丁目「白山神社」鎮座地周辺。 写真は桜通りから東方向のもの。桜通り周囲のオフィスビルが立ち並ぶ一帯に赤い幟と小さな神明鳥居の姿がある。上は明治31年(1891)の当地と、現在の比較。 当時は社頭から西の堀川に架かる桜橋は存在せず、昭和12年(1937)になって架けられています。 ビジネス街の歩道沿いに間口の狭い社地が与えられ、木造の神明鳥居と真新しい綺麗な玉垣が社地を囲む。ビルの森の中の僅かな隙間で、時の流れから取り残された様にポツンと白山神社が鎮座しています。社頭左の白山神社解説板、内容は以下。「祭神は菊理媛命(ククリヒメノミコト)。 元白山権現と称した。創建は明らかではないが、加賀国(石川県)の白山比咩神(シラヤマヒメノカミ)を勧請したのが始まりといわれる。 応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社(廣井八幡宮)の境内続きの末社であった。慶長の検地の際、境内が二分された。 延宝5年(1677)、広井八幡宮の祭礼の初めより、八幡宮の御旅所として神輿の渡御(とぎょ)があった。昭和12年(1937)、桜通りの開地により境内地は大幅に減少した。 昭和39年(1964)、現在地に移る。」白玉稲荷大明神説板、内容は以下。「山城国伏見より勧請御祭神 宇迦之御魂神。 御由緒 創建年月不詳御神徳 護国豊穣、商売繁盛、産業興隆、家内安全、芸能上達。」白山神社鳥居扁額。 三方は見上げるばかりのビルの森に囲まれ、いかにもビジネス街の神社の様相。参道に左の手水鉢。 今から約300年ほど前の寛延3年(1750)に寄進された鉢。名古屋城築城にあわせ堀川が開削されたのが1610年頃とされるので、既に水運が盛んになり四間道が整備された後に寄進された鉢。 立派な髭を持つ龍口から清水は注がれていなかった。ビルの谷間の奥まった場所に妻入りの拝殿と平入の幣殿が建ち、その奥に外削ぎの千木と三本の鰹木が施された本殿が僅かに見通す事が出来る。 参道左には境内末社が連なり、右側に赤い幟と奉納鳥居が連なる「白玉稲荷社」が鎮座しています。白山神社の由緒に依れば「祭神は菊理媛命神、創建は明らかではない。加賀国石川郷の白山比咩神社から勧請された。 応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社の境内続きの末社であった。慶長17年(1612)の検地の際二分された。 延宝5年(1677)8月より泥江縣神社祭礼の御旅所として御輿の渡御があった。元禄13年(1700)、享保9年(1724)、弘化2年(1845)の大火で焼失。 修造遷宮は14回余りを数える。明治初年に村社に列せられる。 昭和12年(1937)桜通り開通に伴い境内地はさらに減少。昭和39年(1964)に現在地に遷座する。 伝説として文禄年中(1592~1596)、秀吉の朝鮮征伐の際、軍船を造船するため、境内の楠を伐採させたところ、多くの人夫が負傷したので造船を中止、用材を社司に寄付した。社司はその用材の一部で地蔵菩薩像を一体作り広井の極楽寺に安置した。 その地蔵は「枕返しの地蔵」と呼ばれるようになったと云う。また、元禄(1688~1703)の頃、尾張藩の御殿女中愛玩の猫が行方不明になり、所要の帰路に参詣祈願の後、城中へ戻ったところ猫は戻っていたと云う。 以来現在まで特殊信仰として犬猫の紛失祈願に参詣する人が多い」冒頭の地図で泥江縣神社北側、現在の鎮座地西に鳥居(黄色丸)が描かれている、これが元の白山神社鎮座地で桜通りのど真ん中に鎮座していたのが分かる。 都市化に伴い、このビルの狭間に落ち着いたという事だろう。手水鉢の先に安置されている「白山神社 自然石」 解説は以下。「この石は元から境内にあったもの。いつ頃かは定かではありませんが氏子始め御神威を畏み慕う崇敬者等を諸事萬難より守護する不思議な力があると信じられている。 お参りの際は石に軽く手を当て心を込めてご祈願しお参り下さい。」参道左の境内社。 左から・秋葉宮、金毘羅宮 御祭神 火之迦具土神、大国主命 御神徳 鎮火、防火、鉱工業発展、刃物農機具業繁盛、航海安全、海難救済、福徳。・山神宮 御祭神 大山津見神 御神徳 山の安全・神明宮 御祭神 天照大神 御神徳 国家安泰、五穀豊穣、養蚕織物業繁盛。・松尾宮 御祭神 大山咋神 御神徳 酒造繁盛、土木建築業繁盛。・恵比寿宮 大国宮、御祭神 事代主命、大国主命、御神徳 商売繁盛、豊漁祈願、航海安全、海難救済、福徳。・御由緒 創建年月日不詳。拝殿側から見る境内社。 拝殿前の狛犬。 寄進年は昭和47年(1972)と比較的新しい。このデザインが定番のひとつなのか定かではないが、個人的に自由なデザインで「いいね」を付けたいくらいだ。 つぶらな眼でにこやかに微笑み、子供がおねだりでもする姿にも見え、とてもユーモラス。双方が口を開けどちらが吽形が分かりませんが、左の狛犬は銭、右は前脚を合わせ鈴を握りしめた意匠のもの。白玉稲荷社鳥居から本殿の眺め。 拝殿から社頭方向の眺め、空は狭いが南には真っすぐ伸びる中ノ町通りが一望できる。 白山神社創建 / 不明祭神 / 菊理媛命境内社 / 白玉稲荷社、秋葉宮、金毘羅宮、山神宮、神明宮、松尾宮、恵比寿宮、大国宮、神事 / 歳旦祭 1月1日、稲荷社 初牛祭 旧ニノ午、例大祭 10月12日、大祓式 12月30日、月次祭 毎月15日所在地 / 名古屋市中区丸の内1-15-18公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線「国際センター」駅から東へ徒歩5分程関連記事 / 花車 神明社 (中村区名駅5)花車神明社から白山社徒歩アクセス / 堀川を渡り北へ徒歩10分程
2022.10.29
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春日井市大泉寺町で見かけた「御嶽神社」に参拝させてもらいました。 今回はその道すがらで見かけた「天王社」を掲載します。名古屋から車だと国道19号線「春日井インター東」で豊田・瀬戸方向に右折、国道155号線を東進します。目的地「天王社」は「大泉寺町」交差点の南角に鎮座しています。 交差する通りは下街道でセンターラインのない対面通行の細い道です。その下街道に入るためこの交差点で左折したのですが、その際角っこに覆屋を見かけ日を改めて訪れてきました。大泉寺町交差点角に鎮座する「天王社」全景。 右手の道路は155号線「春日井インター東」、手前の通りが下街道で二つが交わる辻にあたります。覆屋の左に隣接するのは大泉寺消防器具庫。 郊外にでると、こうした消防施設や集会所に併設し、天王社や津島社、秋葉社が祀られている姿を目にします。コンクリの保管庫と一体となる様に建てられた覆屋は、北側と東側が吹き抜けのもので、中に東を向いて祀られた社の姿がある。 妻入りの覆屋、軒下にステンレスの額縁に天王社と刻まれた石板が組まれた洗練された意匠の扁額が掛けられている。覆屋。 扁額と社全景。赤い屋根の板宮造りの社で手前の枡に賽銭を入れ、参拝。 …下の息子の資格取得、受かりますように…、今日ばかりは神に縋りたい。ん?専門が違うか。 社頭には年月を経た石灯籠二基と石の幟立てが立っている。 手前の燈籠の寄進年は分からなかったが、もう一方は安政3年(1856)としっかりと読み取れた。安政3年(1856)寄進の常夜灯。 反対側には「金毘羅大権現」と彫られていた。海や川が近い訳でもないが、下街道を行き交う者の旅の安全を願い村が祀ったものなんだろう。 金刀比羅宮と天王社(津島神社)の二社が祀られているのか、ある時から天王社だけに変ったものか定かではないがこの場では「天王社」と表記します。いずれにせよ、下街道沿いに安政の頃より祀られて来た大泉寺集落の氏神さまのようです。天王社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 春日井市大泉寺町942参拝日 / 2022/10/23車アクセス / 名古屋から国道19号線「春日井インター東」右折「大泉寺町」交差点角。 周辺に駐車余地はありません、御嶽神社付近の八幡社参拝駐車場があるので合わせて参拝がお勧め。関連記事 / 御嶽神社(春日井市大泉寺町)
2022.10.28
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塩尻市塩尻町「阿禮神社」 弥彦神社から国道153号線を塩尻市内に向け10分程。国道から右に逸れるとそこは旧中山道、右手前方に見えるのが「阿禮(あれい)神社」の杜。「延喜式神名帳」にも記された古社。 阿禮神社のもとは、五百砥(いおと)山に社があったものを、仁寿2年(852)に柿沢の神明平(ここから東に車で10分程)に奥社として新たに社が建てられた。その後の寛保3年(1743)、現在地に里宮として建立されたのが阿禮神社。住宅が点々と立ち並ぶ中山道沿いに杉の巨木を主とした社叢がある。 社頭右側に「式内大宮 阿礼神社」の社標は立っているが、鳥居は参道から随分先に入った所に立てられている。社頭左に中山道の道標と塩尻宿周辺の観光マップが掲げられていた。阿禮神社の鎮座地を〇で囲ってみました。 阿禮神社参拝は予定外、宿で飲むお酒を買うため近くに立ち寄り、かみさんが品定めしている間にささっと参拝に訪れた。こうしてマップをみると周辺には道祖神や寺社があり、旅館のチェックインさえ気にしなければじっくり巡ってみたいところ。社頭から東側の鳥居が立つ境内の眺め。 社地は東西に長く、広大な境内の奥に社殿があるようだ。参道に入るとすぐ右側に手水鉢、奥の入母屋造の建物は「和魂神社」手水鉢には龍の姿は見られない、後方に井戸らしき姿があり龍はそこにいた。 右手奥に注連縄が張られた小さな石の祠が祀られている、水神か?和魂神社と忠魂碑。石の明神鳥居の先に伽藍が広がる。 参道沿いの常夜灯は古いようですが年代を確認していません。境内の「阿礼神社縁起」 当神社は平安朝時代、醍醐天皇の御代延長5年(927)に延喜式神明帳登載の由緒ある古社。以下は神社必勝祈願の神様の栞より「御祭神 素戔嗚命 天津神(阿礼ノ神)、相殿 大己貴命 国ッ神(大宮ノ神)、相殿 誉田別尊 応神(八幡ノ神)当社は古来より武運長久をもって篤く崇敬され、特に戦へと向かう武将たちが必勝祈願の祈りを捧げてきた。 古くは平城天皇の御世延歴年間(782~802)に蝦夷征伐に向かう初代征蝦夷大将軍坂上田村麻呂が必勝祈願をしたと伝わる。治承4年(1181)には木曽義仲が当社参拝し必勝祈願をした後、塩尻の諸豪族や諏訪一族に挙兵を要請したとも伝わる。 また、300年にわたりこの地を所領としていた小笠原氏が、天文19年(1551)、甲斐の武田信玄に追われ代々の領地を失った際にも、小笠原長時の子・貞慶が武田氏滅亡に乗じ阿禮神社域にあった八幡宮で挙兵し、かつての諸豪族と共に念願の旧領回復を果たした。 以後、現在に至るまで塩尻地区の氏神として、必勝祈願、無事長寿祈願の神様として尊崇を集めている。」以下は神社栞には「もとは五百渡(いおと)山に社があったのを養老年間(西暦700年末期頃)に柿沢の明神平に新たな社殿(奥社)を建て遷した。 さらに貞享4年(1687)に現在の地に里宮として新たに社殿を建て遷した。本殿は三間流造で間に五百渡の社を遥拝するための扉口を設けた独特の社殿である」 例大祭は、別名塩尻祭りと呼ばれ毎年七月の第二日曜日と前日の土曜日に行われる遷座祭。偶然立ち寄った神社ですが、長い歴史と由緒を持つ神社だ。 伽藍は境内東に纏められ、左に社務所と中央に拝殿、幣殿、本殿と並び、拝殿左右には複数の境内社が祀られている。拝殿に向け参道を進むと左に阿禮天神の大きな石標がある。拝殿全景、入母屋瓦葺の妻入りで唐破風向拝が付き、左右に廻廊が繋がる。 拝殿前には2対の狛犬が守護しますがそれらは個性的なものです。 手前の狛犬(吽形)手前の狛犬(阿形) 肉付きは良く、体格に対し少し短い脚はとても骨太、何より印象に残るのは大きな目と歯並び。今まさに歯肉炎で抜けようとしている自分の歯と同じだ、何年か先の自分を見る様で何か気持ちがひとつになったような気がする。 それだけに妙に愛おしくなる風貌だ。奥の狛犬…でいいのかな。 こちらは哀愁すら漂う姿だ、何れも寄進年を見ていないが、外観からは相当の年月を感じさせる風貌をしている。吽形の輪郭が綺麗に残る丸い顔とドングリ眼が尚更哀愁を誘う。 一体何が起きた?拝殿。 向拝柱の梁の蟇股や組物は意匠は少ないが、太くてどっしりした印象を持つ。薄暗い拝殿内は額に彫られた金色の阿禮大明神の文字と金色の幣帛だけが浮かびあがって見えている。拝所に掲げられた額「延喜式内 阿禮神社」、額の周囲の彫物は龍か?山形の下に並び鷹の紋が神紋だろうか、右側にも阿禮神社の額が架けられている。 覆殿に収められた本殿は三間社流造だと云われるが、外周からは全く見る事は出来なかった。拝殿左には稲荷社、子安社、金平羅社、津島社、秋葉社、山神社など境内社群が祀られている。 更に左に向かうと左側に冠木門を構えた脇参道があった。 境内の脇参道は幾つあるのかナ。南に2カ所と西に正参道、東のここと4カ所か?拝殿右側の境内社に向かう。拝殿右側の境内社、良く見れは左側にも小さな相殿があるが、何れも社名札はなく詳細は不明。境内南側に小さな鳥居がある。上鳥居の先は玉垣で囲われた一画があり中には大きな岩が安置されていた。下更に奥に進むと石の祠群が祀られていたが社名は不明。上忠魂碑下和魂神社 これで一通りすべての参拝は終えた、見計らった様にかみさんから「そろ〃行くよ」との連絡が入る。駆け足で参拝し写真に収めただけですが、阿禮神社里宮と塩尻宿に阿禮神社奥社、もう一度訪れたいところです。 時期は…いつがいいだろう? 電車と徒歩もありかな?阿禮神社里宮建立 / 貞享4年(1687)祭神 / 須佐之男命、大己貴命、誉田別天皇境内社 / 稲荷社、子安社、金平羅社、津島社、秋葉社、山神社など例祭(塩尻祭り) / 毎年7月、第二週の土・日曜日所在地 / 長野県塩尻市塩尻町433-1参拝日 / 2022/09/13関連記事 / 信濃國二之宮「矢彦神社」矢彦神社から車アクセス / 国道153号線を塩尻方向へ10分程公共交通機関 / JR塩尻下車東へ徒歩で40分程
2022.10.27
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先に掲載した中村区名駅5の「天王社」から南へ徒歩5分程の神明社へ。上は1898年頃の中村区名駅5丁目周辺とほぼ現在の地図を比較したもの。 目的地の神明社は当時既に鳥居の印があり、古くからこの地に鎮座しているのが窺われます。名駅は目と鼻の先の立地にありながら、東に堀川が流れ、静かな下町の趣が漂う通り。この通りを北上すると四間道に続き、一本東には美濃路が南北に続く。 ビルが聳え、車が溢れる味気ない色合いの名古屋の玄関口にあって、ここには嬉しい樹々の緑がある。 名駅5の神明社の杜だ。 普段はこんな静かな佇まいですが、名古屋まつりの行われる10月の第2土曜~日曜日には一転して多くの人で賑わいます。 先の天王社で見かけた「紅葉狩車格納庫」の紅葉狩車や二福神車(旧下花車町)、唐子車(旧内屋敷町)の3輌の山車が曳行され、からくり奉納を行い、その後、市内の各区で受け継がれて来た山車と共に勢揃い、名古屋まつりに花を添えます。訪れたのが10/12、名古屋まつり直前。 当日は山車揃えが見られるかと調べてみたが、今年は中止とあった。因みに当日に山車揃えで巡行が予定されていた山車が以下の名古屋祭りサイトで紹介されていました。 名古屋まつり まつり行列 山車揃え中村区、中区、東区で代々受け継がれる山車、それらが秋空の下で勢揃いする姿を来年は見たいものです。社頭全景。 社地にはこの正参道の他にも東側の脇参道にも鳥居を構えている。とても名駅とは思えない豊かな杜が残され、真夏には心地いい日陰を提供してくれそうだ。ほゞ南向きに社頭を構え、神明鳥居と社号標「村社 神明社」が立ち、右手に乃木稀典像が立てられている。 神明社が鎮座する名駅5丁目はかつて花車町と呼ばれていた、1878年(明治11)に成立、1977年(昭和52)に名駅5丁目になり町名としては姿を消した。 花車町の由来は「大須観音に馬の塔(飾り立てた馬を寺社に奉納する行事)を供出した際に、花車(山車)の飾りを用意したことによる」という、地名はそれが由来のようで、神明社を花車神明社とも呼ばれるようです。参道から拝殿方向の眺め。 右手の覆屋は「天光龍王辯戝天」で後方に椋の巨木の切株が神木として祀られている。今は右手に玉垣で囲われた銀杏の樹が高く聳えている。参道右の手水舎と手水鉢(明治26)。 後ろの岩からいきなり龍らしき頭部が現れている、とても個性的なデザインだ。「天光龍王辯戝天」 覆屋妻壁に額が架けられ、幕の紋はシダだろうか見慣れないものだ。なにか・・・いる。そうだわな、いるよなぁ。 もう少し可愛いデザインにはならんのかい、リアルさはあまり求めていない。覆屋の下には木造鳥居とその先に流造の社が祀られている。 創建等の詳細は不明。拝殿に続く参道左には社務所と右に境内社があります。拝殿正面からの眺め。 鎮座などの詳細は不明ですが「尾張志」「尾張年中行事絵抄」に記述も見られ、1663年(寛文3)社殿修築とされ、創建となると更に遡るのだろう。元はここから堀川を越え、少し高みに鎮座する泥江(ひじえ)縣神社の境内社とも云われるようです。 往古の廣井村は、現在の堀川を越えた東辺りまであったとされ、城下町として整備されて行く過程で、この辺りの廣井村の氏神となっていった様です。 神明社は過去に元禄の大火(1700)や享保の大火(1724)で焼失、その都度氏子の支援に依り再建され、現在の伽藍は昭和29年(1954)、本殿と拝殿と手が掛けられています。 拝殿の左右に複数の境内社が祀られている。拝殿前で守護する狛犬。 1954年(昭和29)健之のもので胸板の厚い骨太な印象の姿で、阿形吽形が見つめ合うものではなく、それぞれが社頭を向き、視線を合わせない配置になっている。拝殿に貼られていた神明社栞り「所在地 中村区名駅5丁目13番6号(旧町名中村区花車町2丁目1番地)神社名 神明社(旧社格村社指定、現社格8級社) 祭神 天照大御神例大祭 10月第2土曜日・日曜日 由緒もとは廣井村四間道と称し勧請年月不詳。 廣井村新明記によると「寛文3年(1663)修造とあり、これより先の修造履歴は分からないがそれ以前より斎祀されていた。貞享元年(1684)修造。 元禄13年(1700)類焼、同14年再建。宝永8年(1711)修造。 享保9年(1724)類焼、同年9月最造。明治元年(1868)村社に列せられる。 同26年(1893)修造遷宮。同40年(1907)神饌幣帛料供進指定神社となり祭禮毎に山車4輌が引き出され極めて盛大。 昭和8年(1933)隣接地買収し造営する計画あるも戦争に伴い見送られ、幸い当神社は戦禍を免れる。昭和29年(1954)、本殿改築、拝殿新築等造営移築工事、同31年8級社に昇級。 同33年社務所増修築、現本殿、祭文殿、拝殿、神楽殿、手水舎井戸屋形、社務所、斎館、神饌所、境内等整備。境内末社及び神祠。稲荷社 由緒不詳 祭神 倉稲御魂命。秋葉社 由緒不詳 祭神 火之加具土神。津島社 由緒不詳 祭神 須佐之男命。宗像社 由緒 氏神神明宮、辯才天社は慶長15年(1610)、藤田民部、百姓屋敷検地の際社内除地とされ、清州遷府以前は八幡宮を氏神とした言い伝えがある。これは廣井村が堀川の東上原にあった時の事、その後、船の入江開墾し居住を西に移し、神明宮を氏神とし、祭事は正月、9月に執行されてきた。三社宮 祭神名不詳、花車町字鎌倉の地主神と云われ、神明社のシンボルと云うべき樹齢800年の椋木は枯れてしまうが、切株に手を触れ祈念すると願いが叶う。大聖不動明王(坤現(こんげん)不動) 昭和54年正面参道敷石中央に天から突然天下り、氏子始め神威を畏み慕う崇敬者等を諸事萬難より守護するとお告げがあり、その時参拝していた参拝者が金縛りにあい動けなくなった。(世に云う不動金縛り)依って即時現在の位置に奉斎されたもの。氏子区域西、名古屋駅前より東へ堀川に至り、南北は桜通り、広小路西通りを含めその周辺の25町内、凡そ1000世帯。 氏子の上花車に紅葉狩車、下花車に二輻神車、内屋敷に唐子車の3輌があり、名古屋市文化財に指定され、例大祭に曳き出される。」拝殿左に鳥居が二つ並び、右手の鳥居から本殿方向を進むと三社宮に至ります。 一対の狛犬が守護する先には三つの社が祀られています。ここの狛犬は年代を見忘れたが、外観がとても痛々しい。 吽形は台座の一部は欠落し体の一部に大きく罅が入り、阿形に至っては足から胸にかけて一部が欠け落ちている。小振りで可愛い顔つきだけに、その姿は尚更痛々しく感じる。本殿左に並ぶように祀られている三社は左から三社宮、秋葉社、右に津島社が整然と祀られている。 この辺りの神域はイチョウの樹々が空を覆い、境内の中でも特に厳粛な雰囲気が漂う。訪れたこの時期、参道に立派な銀杏で黄色に染まり、特有の香りが漂っていた。この辺りは特に緑に溢れ、本殿の全容も良く見える場所。 上は拝殿、下が本殿の千木と鰹木、どちらも千木は内削ぎで鰹木は6本。本殿は神明造で銅葺屋根で、本殿前の銅製常夜灯がなかなか立派なもの。 その先に小さな木造狛犬が本殿を守護する姿がある。木造ならでは、滑らかな毛並みの表現と木目の美しさ、彫の深い顔が強く印象に残ります。拝殿左のもう一つの鳥居。 その先に小さな泉があり、中央の小島に「宗像社」が祀られています。祭神は田心姫命を祀ります。 鳥居の先に小さな手水鉢があり、正面に明暦2年(1656)の文字が刻まれている。外観は見ての通り、鉢の表面が水の鉄分で赤く染まり、この神社の歴史を物語っています。 灯篭など寄進年を見て行く中で、自分が目にしたものでは一番古いもの。この神社の創建時期は定かではないが、少なくとも慶長時代には既に祀られていたかもしれない。拝殿右側に「倉玉稲荷神社」の赤い鳥居が連なります。 この先の拝所にもなにか…いるようだ。ここは稲荷だ、あれではないだろう? 良かった、これは宝珠の重軽石だ、表面は艶々だ。 これならやれる、早速持って見るか、いつも思うが二回目は必ず軽く感じる、これは慣れかな。大きなイチョウの樹の傍らに祀られる本殿は流造でこちらの参道も銀杏に埋もれている。 手間がかかるのが難点だが、酒のつまみには最高だよね。境内西側の神楽殿。 銅葺屋根の入母屋造り。その左に白い幟が立ち並ぶ。 「大聖不動明王 坤現(こんげん)不動」この神社には不思議な話が伝わります。 それは「参拝に訪れた方が突然参道で金縛りにあい、足元に不動明王の姿が現れたされる。住民はその敷石を不動明王の化身として祀った」これがこの神社の起こりの様で昭和54年(1979)の事だと云う。 玉垣の中に社はなく、台座の上に不動明王が現れた敷石が祀られている。この境内には不動明王だけでなく境内には人慣れした猫が多く見られ、境内のお気に入りの場所でくつろぐ姿を見ることができる。 ここが名駅5丁目とは思えないほっこりとする空間がここにはある。参拝を終え、社地沿いに西に進むと社地の角に小さな社「津島社」が祀られています。 祭神は素戔嗚尊で、社を護るのは先程見かけた猫のようだ。手元までは来てくれるのだが…触らせてはくれない、顔なじみになる必要があるか。 今度はおやつを持ってくるかナ、お見送りありがとう。花車 神明社 創建 / 不明祭神 / 天照大神境内社 稲荷社 / 倉稲魂命、秋葉社 / 火之迦具土神、津島社 / 須佐之男命、宗像社 / 田心姫命、三社宮 / 祭神不明、天光龍神社 / 御神木椋の木霊神、大聖不動明王(坤現不動)所在地 / 名古屋市中村区名駅5-13-6参拝日 / 2022/10/12公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「国際センター」駅降車3番出口から、天王社経由南へ徒歩5分関連記事 / 天王社(名古屋市中村区名駅5)
2022.10.24
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先日「AJUワインフェスタin多治見修道院」のチケット購入のため下街道を少し利用させてもらいました。 その道中の春日井市大泉寺町で見かけた「御嶽神社」に参拝させてもらいました。今回はそちらを掲載します。所在地で云えば春日井市大泉寺町にあたり、国道19号線の1本東の大泉町交差点から左折、南北に続くセンターラインのない対面通行の細い道を北に向かって進みます。 この道はかつての下街道で「御嶽神社」はその街道沿いに社頭を構えています。御嶽神社は下街道の西側に明神鳥居と社標を構え、社頭から緩やかな登りの参道が上に続きます。 参拝者駐車場はなく、路駐も迷惑になります、付近の八幡社に参拝駐車場があるのでそちらに停める事をお勧めします。石の明神鳥居から登りの長い参道が続きます。 社頭の先にある境内の拝殿はここからでは見通しは利かない。長い参道を上り切る頃、正面に拝殿が見えてきます。 左側は鬱蒼とした社叢が迫り、御嶽神社らしい雰囲気が漂います。参道脇の色付き始めた柿の実に秋の訪れを実感する。参道右側の手水鉢。 水源が無いのでどうしてもこうなるか。御嶽社拝殿全景。 小高い丘陵地の頂に設けられた御嶽神社、いかにも御嶽神社らしい。社叢の陰になり写真では分かり辛いけれど拝殿後方には複数の霊神碑が立てられています。拝殿は基礎の上建てられた瓦葺で切妻妻入りで四方吹き抜けのもの。 御嶽神社は身近な所では春日井、小牧など、神社の片隅に祀られている光景を目にする。それらに対し、鳥居や拝殿を備える大泉寺町の御嶽神社の規模はかなり大きな規模と云える。 御嶽講は過去にも書いている様に霊峰御嶽山を根源とした山岳信仰。天明5年(1785)に春日井市牛山で生まれた覚明行者が御嶽黒沢口を開き、これにより庶民が登拝できるようになり、寛政4年(1792)武蔵国の普寛行者が王滝口を開き、登拝者は増加していき御嶽教は各地に広まっていった。 この春日井は覚明行者生誕の地として多くの講があったが、現在は後継者の減少もあり往時の勢いが衰えているようです。上は明治24年頃の大泉寺町周辺の地図、既に鳥居の印があり創建は更に遡るようです。 往時は社頭の前を続く下街道を、白装束に金剛杖を持った御嶽詣の集団行き交ったのだろう。拝殿から本殿の眺め。 手入れの良い拝殿内にはこの拝殿新築に寄与した福寿講講員の名が記され、今も多くの講員が支えている事を示していた。創建は一部に明治44年(1911)ともあるが詳細は定かではなく、祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命。 智恵・才能を授け、長寿を護り、病難を癒し、禁厭を司る霊妙神として祀られています。本殿は石の玉垣が取り囲み、その神域に石を積み重ねた基壇の上に流造の社が祀られている。 静まり返った社叢に包まれて佇む社は霊峰御嶽の雰囲気が漂う。本殿斜景。 本殿域の左右には多くの霊神碑が立ち並んでいる。廿一夜塔(月待塔)。 特定の月齢の夜に講員が集まり、神仏と共に飲食や経を唱え時間を共にする宗教行事の一つ。主に女人講とされ、集落に住む女性達の交流の場となっていたようだ。本殿右側の霊神碑群。鳥居の寄進年は不明、社標は明治?らしき元号が見て取れた。御嶽神社(大泉寺町)創建 / 不明祭神 / 国常立尊、大己貴命、少彦名命所在地 / 春日井市大泉寺町133-87境内社 / なし公共機関アクセス / JR中央線「神領」降車、バス又は徒歩で約40分マイカー / 専用参拝者駐車場なし、付近に八幡社参拝駐車場あり参拝日 / 2022/10/05関連記事 / 今年は開催「AJUワインフェスタin多治見修道院」
2022.10.23
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白川郷萩町の荻町城跡展望台を後に再び集落に戻り「49番札所弘法堂・和田家」方向に向かいます。マップ上では展望台の直ぐ近くに位置しますが、展望台から和田家までは来た道を一旦戻り、そこから右に進んでいきます、移動時間は10分程。和田家北側から荻町城跡展望台の眺め。 頂の左側が荻町城跡になります。萩町を見通せ、山の西側、南側の斜面は切れ落ち、こうして見ると山城を築くのに都合はいい。緑の稲田の中に常夜灯を構えた小さな堂がある。 茅葺ではないものの、切妻造の棟の向きは周囲の合掌造り同様に妻側は南北を向いて建てられている。観光マップによれば「49番札所弘法堂」とあったので向かってみる事にする。弘法堂全景。 「白川郷の湯」の右あたりから稲田に続く小道(あぜ道?)を進む。社標などは見当たらず、竿に膨らみを持たせた安定感のある常夜灯はあるが、弘法堂と云われても実感ははないかもしれない。弘法堂正面全景。 額はなく、内部に弘法大師の姿がある事から弘法堂で間違いなさそうです。中央に如来像、左に真赤な迦楼羅炎のお不動さまの姿がある。 観光マップに49番札所弘法堂とあるが、由緒について全く情報が得られなかった。49番札所は「新四国飛騨八十八霊場」を指しているようで、この霊場がいつ頃開かれ、札所全容などの情報は分からなかった。弘法堂所在地 / 白川村荻町和田家全景。白川村に残された合掌造りの中では規模が大きく、周囲の田畑や水路などがあり趣のある建物かも知れない。 町内を南北に延びる白川街道沿いのためか、訪れる観光客は多い。和田家は番所の役人を勤める傍ら、煙硝や生糸を生産、内部は1階の一部と2階が公開されている。 文政年間(1818~1829)に和田家次男の佐治衛門が分家したのが先に掲載した神田家。和田家所在地 / 岐阜県大野郡白川村荻町山越997和田家の前には水場があり、訪れた8/22には水面に赤や白の睡蓮が咲き誇っていた。 ここで一先ず白川郷観光を終え少し遅めの昼食を摂る。和田家から少し北にある合掌造りの「お食事処いろり」 こちらも街道沿いのためタイミングが悪いと待ちができやすいようだ。朴葉味噌定食 山にきたら朴葉味噌は外せないだろう、少し辛めの味噌が白飯に良く合う。他にニジマスの甘煮、味付豆腐、蕎麦も付く。 昼にしてはボリュームがあるが、キャンプ場に向かいテント設営すれば多少は腹ごなしできるか。 お食事処いろり所在地 / 大野郡白川村荻町374-1見所の多い白川郷、一日だけでも表情を変えていく合掌村、今回はそのごく一部の表情でしかない。 今頃は合掌集落は紅葉に包まれているだろう。次回は紅葉と雪が見られるときに訪れて見たいものです。 さてキャンプ場に向かう事にしよう。白川郷 「弘法堂・和田家」所在地 / 岐阜県大野郡白川村荻町1116天狗堂から徒歩ルート / 南に向かい約10分参拝日 / 2022/08/22関連記事 / 白川郷「荻町城跡・天狗堂」
2022.10.22
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9/27 LOVEあいちキャンペーン企画「奥三河旧田口線廃線と湯谷温泉和会席&日帰り入浴」で旧三河大草駅跡を訪れた際に参拝した新城市富保宮前の貴船神社を掲載します。信長・家康連合軍と武田勝頼が戦った設楽原決戦場も近い。 この時期、貴船神社が鎮座する周辺の集落では、あぜ道や堤に彼岸花の群落がそこかしこで見られる。社殿は県道32号線の道路脇にあり、道路からでも存在は直ぐに分かるが、それが神社だと知るには道路から一歩入らないと分からないかも知れない。道路から北に入ってみる社頭全景。 石の明神鳥居と古びた燈籠があってようやく神社だと分かる。社頭は県道からの脇道に面し、南東を向いて社頭があります。 鳥居に額や社標もなく、由緒もなく詳細は分からなかった、G先生によれば貴船神社とあった。帰宅してからこの辺りの地史で大正15年(1926)出版の「南設楽郡誌」に目をやると村社の項目で貴船神社の記述を見つけた。 「貴船神社、長篠村大字富保、闇龗命、境内無格社、八幡社、若宮社、熊野社」とあった、うーん歴史はともかく社名も祭神もスッキリするはずだった。 ところがその隣に同所在地で「貴船神社、長篠村大字富保、闇龗命、境内無格社、秋葉社、金刀比羅社」 と併記されており、これはどうしたもんだか… 因みに棟札が残り、貞享5年(1668)2月に社殿再建とあるようでかなりの古くからこの地の氏神として崇敬されてきている神社のようで、村社に列格されたのは明治5年(1872)のようでこれ以上は分からなかった。境内右側の少し離れた場所で山を背にして建つ覆屋。中には二つの社が祀られている。 詳細は分からない、境内無格社の三社と思われる。貴船神社社殿全景(写真は二枚張り合わせ) 貴船神社となれば、京都の貴船神社から勧請されたもの、いつ頃、誰がと知りたくもなる。伽藍は左に切妻平入の拝殿?から渡廊を経て右側の鞘殿に一体となっています。 本殿を収める切妻平入の鞘殿は随分大きく、本殿の姿も見たいところです。拝殿右に見えている山が旧三河大草駅のある場所になります。渡廊から本殿方向の眺め。 蟇股に見える白いものは彫飾り?、本殿は朱塗りの流造のように見え、大振りな本殿の様相。参拝を済ませ県道側を覗いて見るとツアーバスがお出迎え、慌てて鳥居の寄進年を撮りバスに乗り込み貴船神社を後にした。 急いで鳥居を撮った事もあり、寄進年を撮った写真はフォーカスが追従せずさっぱり読み取れなかった。旧三河大草駅含め、もう一度訪れる事になりそうです。貴船神社創建 / 不明祭神 / 闇龗(くらおかみ)命境内社 / 八幡社、若宮社、熊野社又は秋葉社、金刀比羅社所在地 / 新城市富保宮前参拝日 / 2022/09/27車アクセス / 東名新城ICから国道151号線を北上、長篠交差点左折、県道32号線宮前地区まで10分程関連記事 / 「奥三河旧田口線三河大草駅跡と湯谷温泉和会席&日帰り入浴」
2022.10.21
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岸田さん!国会中継、皆が岸田さんの発言を注視している。国の首相の発言の重みを自覚できないのですか。これが「聞く耳」なんですか、まともな取巻きはいないのですか?急ぎ対応すべきことがあるはずだ。岸田さん、政権与党・・舵取り出来ないのですか。野党の話にも耳を傾け、与党の駄目な部分を一致団結して国を立て直す。日本の信用(円の価値)下げているようなものだ。関連記事 / ばた〃の全国旅行支援の予約で思う
2022.10.20
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2022/10/01日泰寺の「日・タイ文化フェスティバル2022」のイベントを楽しんできた。 覚王山日泰寺は、日本で唯一お釈迦様の御真骨が眠る場所、イベントは日本とタイの友好の象徴として開かれたもの。 普段は我々おっさん、おばさんのテリトリーだが、この日ばかりは飲食ブースもある事から普段の年代層から打ってかわって随分若い年代層が多かった。 名古屋市千種区山門町2丁目。 南北に続く日泰寺参道の中ほどで右に入ると写真の屋根神様が祀られている。しばらくご無沙汰していましたが、久し振り参拝させてもらいました。 消えていったり、世話する人が無く朽ち果てて行く屋根神様がある中、山門町のこの屋根神様は今も守り継がれている。以前写真に収めてから随分年月が過ぎ、調べて見ると前回取り上げたのが2018年の事。 朽ちるどころか以前のままの状態で保たれている。左から秋葉神社、熱田神宮、津嶋神社のお札が納められ、いつもこの状態ではない。 普段は覆屋の扉が閉じられ、提灯は片付けられ、社の下の沿革も裏返されていたりする事もある中で、今日はドレスアップしてお出迎えしてくれている。境内に向かう人波は途絶える事はないけれど、ドレスアップした屋根神様に目を止める人は少ない。 日泰寺を訪れた際に立ち寄って見てはどうだろう。 2022/10/01公共交通機関アクセス / 市営地下鉄覚王山駅から徒歩、日泰寺参道を直進約5分関連記事 / 覚王山参道脇の屋根神
2022.10.18
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台風11号の影響で猫の目の様に変わる空模様、雨が降ったら即退散と決めていたが良く持っているものだ。 とはいえ、次の目的地「白山神社・津島神社・白山龍神社」の参拝をもって本陣に向かう事にする。定徳寺から東へ向かい徒歩3~5分程の移動時間、所在地は日比津町1にあたります。Gマップで神社は日比津町1となりますが、現地を訪れると鳥居と常夜灯を構えた写真の社頭は日比津町2となり、社殿のある区画から更に一つ南の区画になります。 参道両脇を民家に挟まれ、その間に明神鳥居と常夜灯を連ねた参道が奥に伸びている。街中にあって長い参道の神社で写真は一ノ鳥居。 一筋先の車道から見る拝殿方向の参道。 地図を遡っていくと周辺の車道は大正から昭和初期に随分と新たに作られたように見える。明治初期以前は日比津村集落の北外れの神社参道に横切る道もなく、神社に続く今ほど長い参道もなかったように思われます。 この車道から見る参道に鳥居はなく、右に明治37年(1904)健之の「郷社白山社」の社号標が立つのみ。参道脇の白山社沿革。「当町は大正10年名古屋市に合併したるも、消防自動車の入る道もなし依って、地主の申し合わせに依り土地整理組合の認可を得て、経費は上地所有者の負担にて着手起工、昭和4年11月竣工、昭和25年11月旧面積131町歩728名完成後、面積112町歩経費全133万円、完成記念として此の角地112坪神社境内に無償編入したり」南の参道はひょっとしてここにある無償編入された部分なんだろうか? 一ノ鳥居のある参道の樹々は一回り背丈が小さい気もしてくる、一ノ鳥居や常夜灯の寄進年を見ていなかったのは失敗だった。社号標から先の参道。 両脇に御大典記念石標と常夜灯、その先にニノ鳥居を構えている。ニノ鳥居は随分と奥まった位置に建てられているが、一ノ鳥居とニノ鳥居どちらが新しいのやら、こちらも寄進年を見ていないので長い参道の理由は分からないまま。 この神社、境内に大小多くの常夜灯が立てられていたのが印象に残る。参道を抜けると右側に躍動感のある神馬像。 参道左側の手水舎。 大きく開けた龍の口から清水は注がれていなかった。拝殿全景。 拝殿右が社務所で、その間を参道が奥に続き白山龍神社に続く。拝殿左にも参道が続き、奥には鳥居を構えた津島神社が鎮座する。シックな色合いの木造瓦葺の切妻・妻入りの四方吹き抜け拝殿で、緑青に包まれた飾り金具や吊燈籠など落ち着いた佇まいの拝殿外観に調和している。境内の由緒。 建立 年月不詳、祭神 菊理姫神、祭日 10月4日。建立年月日は不詳ですが尾張誌に「白山ノ社村ノ本居神」と記録がある。 元禄(1688~1704年)以後の棟札12枚が残る事から、それ以前の建立で日比津町開墾当時、加賀國石川郡白山比咩津神社から分霊・勧請し日比津町の産土神として祀られた。 明治5年郷社に列せられ、大正6年供進社に指定される。菊理姫神は、国生み、神生みを行なった神代7代の最後の神、伊邪那岐命、伊邪那美命の仲介を行った神として伝わる事から縁を結ぶ神として知られるが、歯痛を治める御神徳も得られるとあり広く崇敬されている。拝殿前の狛犬。拝殿妻壁には雲間に蠢く龍の姿が見られ、全ての軒丸瓦には「白」が入れられている。 吊提灯に入る紋はイチョウか? 黒光りする木鼻の獅子。拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。 幣殿前の狛犬(年代不明)は小振りなものだが阿形吽形ともに凛々しい姿をしている。拝殿(上)と幣殿(下)全景。 周囲を玉垣で囲われ、本殿域と一体となる。上本殿域、後方の白い幟は白山龍神社。下幣殿から本殿の眺め。 本殿は銅板葺の流造だろうか、本殿の右脇に社の棟が見えていたが詳細は分からなかった。破風の拝紋には桐紋が施されていた。 白山龍神社。 本殿域後方に鎮座し切妻の覆屋の中に社が祀られている。白山神社祭神の菊理姫神は龍神との所縁もある事から祀られているのか、由緒詳細は分からない。白山龍神社から社頭方向の眺め。幣殿屋根に飾られた鯱と跳ね獅子。本殿左の津島神社。拝所から本殿域の眺め。 津島神社の由緒についても詳細は不明。消防車も入らない狭い通りに密集した集落、その禍除けとして重要な存在なのは間違いない。境内西側の三本のイチョウ。 右の樹の幹には乳らしき姿もあり御神木の雰囲気が漂う。拝殿からニノ鳥居方向を眺める。 境内はイチョウの樹が多く見え、これから秋が深まり色付いていくと境内の趣は違うものになるだろう。それにして多くの常夜灯の一つでひと回りしておくべきだった。 今回外堀通り北側に鎮座する寺社の一部を巡ってみました、まだ〃訪れたいところは多い。けれど雨には降られたくないのでここまでとして帰途に着こう。白山神社創建 / 不明祭神 / 菊理姫神津島神社創建 / 不明祭神 / 不明 白山龍神社創建 / 不明祭神 / 不明 所在地 / 名古屋市中村区日比津町1-1-25定徳寺から徒歩ルート / 北東へ5分程(一ノ鳥居)参拝日 / 2022/09/02関連記事 / 長秋山 定徳寺 #2 (妙龍大善神・稲荷社)
2022.10.17
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全国旅行支援が始まって随分と申し込みの方も落ち着いた感がある。 コロナ禍と燃料高騰が逆風になり、今年は全国一宮巡りも進んでいない。手近な所を回って見たが、どこのホテルも安価で観光地の観光客が少ないゆったりとした旅行ができた。 制限も見直され、海外からの旅行者も戻り、静寂な空間は期待できなくなった。もう少し行くべきだったと後悔している。全国旅行支援(来年の延長可能性大) 期間は10/11〜12/20で旅行代金の最大40%OFFと地域クーポン最大3千円分が付く。これまでじっと我慢してきた旅行希望者にとってこんな美味しい話はない。 我家のかみさんも同じ、九州と近畿を狙って、ここんところずっとPCの前を離れず繋がらない画面とにらめっこ。 我慢しきれず中断、別のサイトを訪れたりと誰しも美味しい話に乗り遅れんとばかりに躍起になっていた。やっと繋がってもプランを変えたりするうちに、最終画面に辿り着く前に動かなくなる。 これと3時間格闘していたらしい、「あと一部屋しかない、直前まで動いていたのにぃ~!」普段、旅行の企画は、かみさんまかせで関与しない。 さすがに今回はおやじのPCも参加して予約に参加した。かみさんの希望するサイトに繋ぎ、「只今混みあっています」画面でじっと更新ボタンをポチポチ繰り返すとアクセスでき、すんなり割引の適用された予約が取れた。 これはきっと運がいいだけだろう。予約を確認すると間違いない、そして最後の一部屋は当然0⃣だろう・・・・0⃣にはならないの? 別のサイトにアクセスすると価格が高くなっていた、それも大きな上げ幅で。ご存知の通り、宿泊料金は1年中同じではありません、業界にとって空室は利益は生まないので需要が無ければ価格は下げ部屋を稼働させたい、需要が上がれば価格も上がる。 ダイナミックプライシングというAI化されたシステムだ。今回は全国旅行支援でニーズが集中し価格はどんどん跳ね上がっていく。 この間まで札1枚で泊まれたのに内容は変らずに何枚も必要になってくる。AIが決める金額が妥当でなければ利用しなければいい事になる。なんとも国に踊らされている感は否めない、税金を原資とするこのやり方は納税者に対し公平性に欠ける。 といっても有難く利用して還元させてもらおう、「得したねぇ」と一瞬でも気分を得られれば良しとしよう・・・結局、物価高や増税、新税で持っていかれるのだろうが。上は今朝の記事 円安に歯止めがかかる要素はなく、若かりし頃の円ドル相場になりつつある。折しも入国制限が取り払われ、安い日本に海外の観光客は殺到し、益々相場も高くなる。 不動産も同様、やがては国土の重要な所は大陸所有になりかねない。(かつての日本の行動)経営者以外に富が分配される仕組みが回らない限り、ます々手は届かなくなっていき若い層の夢が小さなものになる。 海外進出盛んな一時期、「やがて息子達は大陸に集団就職する時代が訪れる」と感じた事もあったが、取り敢えずはそこまで至っていないのは救いかもしれない。人口ピラミッドのピークの末端で、目まぐるしく国や組織の制度変更を変えられてきた年代から見ると、先を見通し手を打ってこなかったこの国の指導者たちには大いに不満が残る。 仕組みをヨーイドンで変えられては、その節目にある者のライフプランすら大きく影響を受ける。2004年の年金法改正と引き換えに年金「100年安心」、与党が公に喧伝してきたこと。 当時生まれた子達達は早ければ既に税を納める年代に成長している。この間も収入は抑制、既婚率はあがらない、出生率も上がらない。 都合が悪くなるといとも簡単に撤回、理解不能な釈明に終始する。安易に制度ばかり変え、それを回す仕組みを回さなかった先生方の責任は大きい。 そこでいつも被害を受けるのは制度変更の節目になる年代だ。言い換えれば無策な指導者、先生方の尻ぬぐいの犠牲となっている。 この国は繰り返すだけ。全くもって遺憾。自分達の制度変更を見直してから言って欲しいものだ。 一時的に紙をばらまいても芽は出てこない。先生方よく考えよう。
2022.10.16
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名古屋市中村区名駅5 天王社名古屋の玄関、名古屋駅から地下鉄桜通線に乗り一駅先の「国際センター」駅で降車、3番出口から地上に出る。 そこは桜通りと江川線が交差する泥江(ひじえ)町交差点。今回訪れる天王社はここから南の1ブロック先を左に入ると鳥居が見えてくる。徒歩1~2分で辿り着く。江川線沿いは花車ビルをはじめオフィスビルが林立し、上を見上げると名古屋高速の高架が空を覆い視界の狭い空間が広がり、偉大なる田舎と呼ばれた名古屋も息の詰まる都会になってきた。 上は明治頃の名駅5付近とほぼ現在の地図を並べて見ました。 中央の堀川を境にして右と左で町割は見事に違う。名古屋城を中心とした当初の町割と後に発展していった町の違いがよく分かる。 1898年当時にしてここから西の庄内川に向け水田が広がり、その中に集落が点在する土地柄だった。明治生まれの曾祖母が生前良く言っていたが、水が湧く湿地帯が多く、夜道を歩いていると狐や狸が道を謀ってきて「もう信じらんない!サイアク~」そんな世界だったという。 今や方向を謀るのは狐や狸ではなく、どれもこれも個性のないビルが林立する森かも知れない。 昔の人はとにかく良く歩いたものだ。車や地下鉄で最寄り迄、なんて選択肢はなかった時代、それに比べなんとひ弱な自分、歳と共につくづく感じる。泥江(ひじえ)町交差点から1ブロック先で左に入り、花車ビルの東側の通りに出る。 一本中に入るだけで随分と見通しも利き、周囲は静かになる。名駅5の天王社全景。 交差点の角地一画にある駐車場の一角に天王社は鎮座します。周囲を石垣と玉垣で囲われた小さな社地、西を向いて石の神明鳥居が立つが、社標はなく天王社かい?と思えてくる。 樹々に包まれ、高い位置に祀られた社の趣は御嶽神社にも見えてくる。後方の紅葉と書かれたシャッターがある建物は「名古屋市指定文化財 紅葉狩車格納庫」 ここを調べて見るとこの社が天王社である事が定かになった。社頭全景。 良くぞ開発から免れたものだ、旧広井村から花車町へ変わり、この地に居住する住民から護り継がれて来た結果だろう。紅葉狩車格納庫と隣り合っていればこの先も鎮座し続けられるだろう。 この天王社の詳細は分かりません、鳥居の寄進年は1934年(昭和9)、これを以て地図に記されていない天王社の創建時期と推測するには無理がありそうです。 それは1610年(慶長15)名古屋城築城に伴い掘削された堀川にあり、堀川により水運が発達し四間道をはじめ堀川沿いには商人の住居や土蔵が立ち並び住居が軒を連ねるようになります。住居が密集すると様々な災い除けのため、社が祀られていくのは自然な事です。 街道沿いや四間道沿いの住居の軒下に屋根神様が祀られていきます。そうした屋根神様も時代と共に地に降ろされたり、住居の一角に社地を与えられ祀られますが、それらはまだいい方で、住居の建替えと共に姿を消していきました、これも自然な事です。 こちらの天王社もそうした流れからここに移された可能性はあります、それが鳥居寄進年の1934年なのかもしれない。すぐ東の四間道沿いは景観保全に積極的で、かつての面影を残すためそうしたことから通りには今も屋根神様が残っています。上 千種区山門町の日泰寺参道にある屋根神様(2022/10/01、日・タイ文化フェスティバルの際に参拝)屋根神様には写真の様に津島神社、熱田神宮、秋葉神社の三社が祀られる場合が多く、こうした提灯が吊るされている光景が見られます。鳥居をくぐって天王社境内の全景。 岩が高く組まれその最上段に社が祀られています。では早速参拝……ん? 賽銭箱が見当たらない。台の上にその理由は書かれていた、敢えて文字に起こそう。「おさい銭が再三盗難にあっています 『罪人を作らない』為、おさい銭を遠慮致します。あなた様の清らかな参拝は三社の神様に通じていると思います」悲しい内容だ、一度の事ではないだろう。 防犯カメラを投資し愚かな行為を取り締まる解決策もあるなか、街中の小さな神社が選んだ、人を責めず仕組みを変える究極の選択だろう。龍口や蛇口、排水桝・・・金目のものはなんでも盗んで行く、貧しい国になったものだ。 岸田さん! 政権与党! 先生方! ここまで追い込まれている今の日本の現実どう考えている? 気を取り直し、ささやかな賽銭を置き、三社に参拝させてもらおう。 天王社東に隣接する紅葉狩車山車蔵。 個人的にこの辺りとは縁がなく、紅葉狩車が曳航される花車神明社祭は知らない。「名古屋の文化財から祭りの概要を見る。この山車は、那古野神社の天王祭に周辺の町から曳き出された山車で、1818~1830年(文政年間)に作られたといわれている。山車に用いられる水引幕、大幕も製作当初のままである。人形は、能の紅葉狩を写したもので、大将維盛・鬼女・従者の三体からなっている。」とあった。那古野神社(中区丸の内2)の前身は三の丸天王社で、1818~1830年(文政年間)には祭礼で曳き出されていたと云う。 往時の天王祭ではこの町内(旧広井村)から9輌の山車が天王社のだんじりに対する献灯車として参加していたと伝わる。 現在、この町内には紅葉狩車、二福神車、唐子車の3輌の山車が受け継がれ、他は各地に転売されるなどされているとの事。 明治時代に入り三の丸天王社の城外移転に伴い祭礼は衰退し、献灯車としての役割も無くなり、山車は地元の祭で巡行されるようになったと云う。1955年(昭和30)、名古屋まつりに山車が巡行されるようになると、 資金面で年に2回の巡行は難しくなり、名古屋まつりと同じ10月に行われる花車神明社(同町)の祭例に山車を巡行するようになったと云う。 格納されている紅葉狩車のからくりは、女人形の優しい顔が一瞬で鬼の形相に早変わりするらしい。まるでかみさんを怒らせた時の様だ。天王社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市中村区名駅5-9-10参拝日 / 2022/10/12公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「国際センター」駅降車、3番出口から南へ徒歩1~2分関連記事 / 覚王山参道脇の屋根神
2022.10.16
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既に掲載した信濃國 二之宮「小野神社」ひとつの社叢を共にする小野神社と矢彦神社、今回は辰野町の飛地となる境内に鎮座する「信濃國二之宮 矢彦神社」を掲載。 両社は細い水路で塩尻市と辰野町の飛地境界を設け、一つの社地を共有する。小野神社から一旦国道153号線を南に向かい、矢彦神社の赤い鳥居を通り過ぎ、北上する際見かけた矢彦神社の手水舎に向かう。 走行中に見えていた光景、左に手水舎と古びた石の神明鳥居、そこから石畳の参道が杜に続く。石垣の中ほどから引かれた清水が絶えることなく手水鉢に注がれている。 この清水は長野県の「ふるさとの水20撰」にも選ばれ、長野県の代表的湧水リストにも名を連ねている御手洗の奥の境内には小さな泉もあり水の豊かさを感じられる。矢彦神社由緒。 信濃国二ノ宮矢彦神社御祭神 正殿 大己貴命、事代主命 副殿 建御名方命、八坂刀賣命 南殿 天香語山命、熟穂屋姫命 北殿 神倭磐余彦天皇、譽田別天皇 明治宮 明治天皇御由緒 当神社の社伝によると、矢彦神社は1400年ほど前に創建されたとされる信濃国二ノ宮であり、上伊那郡54か村の総鎮守である。遠い神代の昔、大己貴命の国造りの神業にいそしまれました折、御子事代主命・建御名方命を従えこの地に立ち寄ったと伝えられる。 古くから皇室の御崇敬が厚く、勅使の御差遣もしばしばあった。欽明天皇の御代、大己貴命、事代主命を正殿に、建御名方命、八坂刀賣命を副殿にお祀りし、矢彦神社の形が整う。 例祭日は毎年八朔(旧8月朔日)と定め田ノ実祭(憑祭)と云われた。天武天皇の御代に勅使を下向、新宮を造営、御柱祭とが7年毎の式年祭と定められた、白鳳2年(674)の事である。 安徳天皇の御代、木曽義仲が宮材を木曽山林より伐り出し社殿を造営、以後約700年にわたり宮材を木曽山林から出材されることになる。以来、鎌倉から徳川時代に至るまで、武田晴信(武田信玄)、勝頼をはじめ徳川幕府の崇敬厚く再三社殿が造営された。 慶安2年(1649)徳川家光から神領高10石及び附属山林諸役免除の公丈御朱印状を献納される。明治天皇の御代、明治5年(1872)社格が郷社となり、明治14年(1881)有栖川宮熾仁親王殿下より神号の額字を賜る。 明治27年(1894)、明治遥拝殿を創建、明治天皇の生祠明治宮は、我国でも初めてのもの。明治33年(1900)、社格は郷社から県社に昇格。 御造営材の御下賜は昭和7年(1932)まで続き、「天賜材式年造営神社」と称された。昭和11年(1936)、巣山沢御料地を御造営材供給の備林として24町歩余の山林御下賜の天恩を受ける。例大祭 9月朔日(現在は10月第一日曜)式年御柱大祭 毎卯酉年5月 鳥居をくぐった左手の境内社。 社名札等見当たらず詳細は不明。左脇の社叢には小さな泉があり、泉中央に小さな石の祠をお祀りした小島が浮かんでいる。 右手後方は御柱と矢彦神社神楽殿。社叢の中の小島と祠。参道を進み神楽殿へ。 神楽殿の左がニ之御柱、右は一之御柱。諏訪信仰の一角をなし、諏訪大社に次ぐ「信濃国二之宮」の風格ある佇まいで、社叢を共にする矢彦神社は上伊那郡の総鎮守、隣の小野神社は東筑摩の総鎮守と呼ばれる歴史のある神社です。国道153号線沿いの矢彦神社東参道鳥居。 先程くぐった鳥居は神明鳥居だったが、こちらは朱の明神鳥居。境内から見える山を越えれば諏訪大社。神楽殿正面からの眺め。 小野神社でも書いたように、社叢は針葉樹と落葉広葉樹が大部分を占め、これらの老木が茂った典型的な混交林で灌木や草本類も多く樹木合わせて150種類に及ぶ。中部地方の植生は古い時代にはこうした混交林で覆われていたが、やがて人工が加わり姿は一変した。 この社叢は古来の平地林の様子を留め、36,326㎡に及ぶ広さも貴重な事から長野県天然記念物に指定されている。大きな神楽殿が小さく見えてしまう程の立派な御神木が聳えている。神楽殿。 社伝によると「天保13年(1842)に完成されたとされ、弘化3年(1846)の「普請諸入用調帳」も残されていることから、このころ建築されたと考えられます。さらに、この「調帳」から立川和四郎冨昌の請負であることが判明しています。 建物は梁間3間、桁行4間の木造切妻造妻入りで、銅板葺です。柱はすべて丸柱で、身舎外側の四方に浜縁と擬宝珠高覧を廻し、正面のみに階を備えています。手前2間は、舞人が舞を舞うところで吹放となっており、奥2間は楽奏室で、周囲には格子がはめ込まれています。」神楽殿に架けられている矢彦神社の額は、周囲に手の込んだ龍の彫が施された重厚なもの。神楽殿内部に架けられている奉納額。 ほゞ顔料は退色し全体の描写もよく分からず奉納年度は定かではない。上は明治15年(1882)、下は昭和62年(1987)に奉納されたもの。神楽殿から東参道を眺める、境内を左に進めば小野神社。ニ之御柱。神楽殿と勅使殿。擬宝珠高覧。 小さな体でよくぞここまで登るものだ、豊かな杜は小さな命も育む。勅使殿。 神楽殿後方に建ち、建築年代は定かではなく、17世紀後期と推定されます。木造切妻平屋建ての銅板葺四脚門に似ていますが、内部は高床式の板張床を設け正面には両開きの扉が付き、左右の下部は板壁になっています。 シンプルな外見ですが細やかな彫や透かし彫りも施されています。欽明天皇の大御代奉幣の典の折に、天武天皇の大御代勅使高根使主が参向し建立されたとされる。拝殿。 派手に光り輝く飾り金具はなく、落ち着いた外観ですが、木組みや各部に手の込んだ彫飾りが施され、 幕には左三つ巴の紋が入る。神社HPによれば 拝殿左右の廻廊と共に、安永9年(1780)に初代立川和四郎冨棟が請け負っていることが、残された請負証文で明らかとなっています。社伝によると天明2年(1782)に完成したとされています。 拝殿は梁間2間桁行1間の木造切妻造平入りの総ケヤキ造りで、屋根は銅板葺きです。この建物は大きな屋根を支えるための組物や、多数の斗の積み重ねと彫刻によって美観と豪壮な雰囲気をかもしだしています。 左右廻廊は、木造切妻造平屋建てで、拝殿の左右に配されています。両廻廊ともに4間左右に広がったのち、正面に向かって折れています。 建物外面は連子格子および板壁とし、内面は開放されています。拝殿前の狛犬と拝殿唐破風。年代不明の狛犬。拝殿の巧みな斗組や見事な彫物は視線を釘付けにする。拝所の格子天井全面にデフォルメされた龍が描かれ、周囲の透かし彫りにも龍が彫られている。 二枚の額が掲げられているが、随神?が描かれていたのだろうか、脱色し輪郭がうっすらと見える。大きな鏡が輝く内陣。 拝所同様に内部も細かな彫飾りが施されている。正面、左右に面格子が組まれているが、以外に外光が入らず良く見えなかった。 拝殿と廻廊。拝殿両脇の脇障子の彫物は水面と蓑亀、竹が彫られている。拝殿の木目が綺麗な象と獅子の木鼻に大きな屋根を支える斗組。本殿域には手前に流造の社四棟(南殿、副殿、正殿、北殿)がある。 その四棟後方にも三棟が建てられ、中央のやや大きめの流造の社が明治宮だろうか。 上は四之御柱。板塀が囲う本殿域の外周は、小野神社同様御柱を立てるための道が付けられ一周する事も可能。 ここまで来たものの、高い板塀に遮られた本殿域は見渡せなかった。拝殿を後に小野神社境内に向かう。左は矢彦神社宝蔵、右側が小野神社の宝蔵。 かつては1郷であった村も毛利秀頼と石川数正の領地争いの結果、秀吉の裁定で2つに分けられ、同じ社叢に2つの神社が祀られる形になったが、両社を隔てるものは細い流れだけです。 両社ともに静かで落ち着いた居心地のいい神社です。当神社は神職常駐ではないので御朱印は電話で連絡した後に頂くことになります。 電話番号 / 0266(46)2064信濃國二之宮 矢彦神社創建 / (伝)欽明天皇年間(539~571)祭神 / 大己貴命、事代主命、建御名方命、八坂刀賣命、天香語山命、熟穂屋姫命、神倭磐余彦天皇、譽田別天皇、明治天皇境内社 / 不明社2社所在地 / 長野県上伊那郡辰野町大字小野字八彦沢3267公共交通機関アクセス / JR中央線「小野」駅降車、北へ徒歩15分程参拝日 / 2022/09/13関連記事 / 元秘湯を守る会 「白骨温泉 泡の湯」へ、 、信濃國二之宮「矢彦神社・小野神社」
2022.10.15
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白川郷萩町の神田家から北方向に15分程前回掲載した神田家を後に北方向にある高台に向け15分程歩きます。 萩町の平坦な道は町外れから緩やかな上り坂となり見上げる高さの高台を目指します。長い坂も終わりを迎えると目の前に駐車場が広がります、そこから左を眺めると萩町の眺望が開けます。 駐車場脇にある細い道を直進する広い空間が現れ写真の世界遺産記念碑が立っています。合掌集落を見渡せるこの場所に集落の解説が記されたプレートが立てられています。 その中で「成長著しかった日本の国にあって、この美しい環境を守ってきた住民の努力・・・」の一文は響いてくるものがある。快適性や対候性を求めがちになるなか、伝統的なこの街並みを維持できのも町全体の協調性あって可能になったもの。個が集まった都会ではあり得ないものだ。記念碑周辺から望む萩町集落。 右の流れは庄川、中央の直線が白川街道、この先の上流は御母衣ダムを経て荘川村に続きます。展望台から今回、白川郷を訪れた場所を丸で囲ってみました。 集落を一望できるビューポイントです、この展望台から東には山が迫り、等高線沿いにくねくね道の国道360号線が続き天生峠を越えると飛騨古川方面に至ります。 昔は細くて急登の続く峠越えの印象でしたが紅葉の時期には見事な紅葉が見られました、降雪時は恐怖の道も時が経ち少しは良くなっているかな?訪れた8/22集落の稲は鮮やかな緑色に染まっていた、今頃は黄金色…いや既に刈り取りは終わっているかナ。恐らく周囲の山々は秋の装いになっていることだろう。荻町城は世界遺産白川郷合掌集落を見下ろす台地先端に築城されていた。 このあたりは庄川と宮谷、牛首谷から流れる渓流がひとつとなる地点で、標高540㍍の緩やかな台地にあり集落からの比高は約60㍍程になります。戦国時代の白川は内島氏が支配し、謎の多い帰雲城を居城としたと云う。 帰雲城の守りを固めるため、庄川沿いに南北続く白川街道上の南側に日崎城、新渕城、牧戸城を配し、北側に荻町城を築城し西の馬刈峠、東の牛首峠の監視行っていた。 この荻町城の城主は内島氏の家臣の一人山下氏で氏頼、氏規、時慶の3代が荻町城主として入れ置かれました。荻町城跡。 城は台地続きを切断する堀切と土塁を構え、その内側が城域とされました。現在は駐車場から右手方向の細い道を進み萩町を望める場所に立つ世界遺産記念碑に向かう途中で土塁の遺構が見られます。 城とは言っても曲輪は単郭の小規模な山城だったようで、曲輪内から掘立柱の一部遺構が見つかるなど、居住施設ではなく、簡単な建物であったと云われ、主に櫓から街道を監視する事に重きを置いたものとされます。それだけにここから望む白川郷の眺望は抜群です。天狗堂。 その一画に鎮座する城山天狗堂。もともとはここから庄川の上流に位置する平瀬集落に鎮座していた社を、1998年(平成10)に旧平瀬温泉神社からこちらに遷座したもの。 今回平瀬周辺でキャンプ泊をしたけれど、若い頃に何度か訪れた平瀬温泉共同浴場を求め彷徨ったが既に姿はなく空き地となり、代わりに少し離れた場所で新たにできた道の駅に隣接する小奇麗な「しらみずの湯」に置き換わっていた。因みに平瀬温泉が無くなったのは2005年の事だと云う。 昔は山籠もりの小汚い恰好で訪れても抵抗のなかった浴場で、仕事を終えた地元の人とも気軽に会話できるいい雰囲気の共同浴場だったのだが・・・寂しい限り、どんだけ歳食ったんだ。城山天狗堂。 荻町城跡に鎮座する流造の社殿、素木の素朴なもので派手な飾りはなく周囲の風景に溶け込む様に鎮座している。訪れる人は町の展望に視線が行きがち、こちらにも立ち寄って見てはどうだろうか。 祭神、由緒等の詳細は調べきれていませんが、平瀬から遷座するくらいの神社、立ち寄って手を合わせても損はないだろう。天狗堂妻壁の彫飾りと本殿正面の眺め。 海外から訪れる観光客は普段気にもしない些細なものに興味を持つて訪れる人もいる。自分が見落としているのかもしれないが、この神社の解説が見当たらなかったように思う。 海外から訪れるであろう世界遺産白川郷、安い円で賽銭を奮発してくれように。荻町城跡・天狗堂城山天狗堂創建・祭神 / 不明遷座 / 旧平瀬温泉神社より1998年(平成10)遷座所在地 / 岐阜県大野郡白川村荻町1116神田家から徒歩ルート / 北に向かい約15分参拝日 / 2022/08/22関連記事 / 白川郷「龍神さまと神田家」、白川郷散策の拠点に最適「白川郷ひらせ温泉キャンプサイト」
2022.10.12
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今日の夕焼けはドラマチックな光景を魅せてくれた。 道行く人は足を止め、誰しも奥行きのある燃える空を見上げていた。嫌な事がとても多い毎日かも知れない、たまには視線を変えて見るとなにか明日につながる活力につながるものと出逢えるかもしれない。明日は少し遠出してみるかぁ、そんな気にさせる一瞬のドラマだね。2022/10/11
2022.10.11
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麺乃はる名古屋からだと国道19号線で春日井ICを越え、その先の「春日井IC東」で右折、国道155号線「不二が丘」で左折したすぐ右側。この看板が目印。 10:30から営業開始、訪れた時は11:00を過ぎていた。店舗前は入店待ちの先客が一組、店内は開店直後の第一陣で満席だった。 呼ばれた頃には列は随分伸びていた。店内に入った右側の券売機。 かみさん曰く白湯ラーメンとつけ麺の店と聞いていたが確かに。魚大好きの自分が魅かれたのは「牡蠣白湯ラーメン」、数量限定メニューで幸いまだ残っていた。 迷うことなく「牡蠣白湯ラーメン」で決まり。いつも決めきれない肉派のかみさん、ここでは選択肢はつけ麺か白湯しかないので「特製鶏白湯」で即決。 原料高騰の折、ラーメンの単価もこうなるのか…。 店内はカウンター席とテーブル席がひとつ。 待つことしばし「牡蠣白湯ラーメン」が配膳された。「牡蠣白湯らーめん」1,200円個人的な感想ですがこのスープは旨い。 磯の香りが漂い、スープは見た目にもトロリとしたもので、鶏白湯ベースで魚介の旨味と牡蠣の風味が ひとつになり、味も濃厚で芳醇な味わい。リゾットにしてもいい味だろう。 トッピングを追加しないベーシックなものをオーダーしたので具は写真の通り。吊しヤキブタ1枚と太切りメンマ、青ネギと薄切りの酢橘(個人的に不要)が添えられる。麺は自家製でコシがある中太麺、トロリとしたスープとよく絡み相性もいい。 炙り牡蠣は2個と寂しいように見えるが、スープに牡蠣の旨味が溢れているのでこれくらいでちょうどいいかもしれない。濃厚な風味のスープに対しヤキブタの存在は薄いものだった。このお店替え玉が最初の一杯が無料で頂けます。 替え玉麺は専用の極細麺ですぐにスープに混ぜないとほぐせなくなる。細麺なので若い衆ならペロッと食べれてしまう。因みにかみさんとシェアしてお腹一杯。「特製鶏白湯」1,330円 かみさんオーダーのものですが、旨味が凝縮されたスープは牡蠣白湯同様トロリとして結構濃厚。このスープも絶品かもしれない、我家的にリピートあり。 総合評価は5点評価の3.8。寒さも増しラーメンが恋しくなってくる。 ラーメンも原価高騰で庶民の口から縁遠い存在になって行くのかなぁ。麺乃はる所在地 / 春日井市不二ガ丘1-6 (駐車場は店舗北)営業時間 / 10:30〜16:00(ラストオーダー15:30)定休日 / 毎週火曜日、第3水曜日
2022.10.11
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長秋山 定徳寺 #2の今回は定徳寺番神堂裏手の妙龍大善神・稲荷社を掲載します。天満宮の右側から番神堂の奥に続く参道。 その先に朱の明神鳥居が立ち、その前を一対の狛狐が守護しています。妙龍大善神・稲荷社へはこの鳥居をくぐり番神堂の裏に続くコンクリートの参道を進みます。番神堂の裏側で参道は二手に別れ正面の石の明神鳥居の先の社が妙龍大善神になります。 まず最初に、この神社について詳細を記したものに全く出会えず、見た事のみをお伝えしまう。妙龍大善神社頭全景。 右手の社標には「妙龍大善神」と刻まれていた。左は社標、1930年(昭和5)の寄進。右の鳥居も同一寄進年でこれより遡る寄進物は見られなかった。「妙龍大善神」本殿全景。 板宮造りの小社で縁起や創建に繋がるものは何も見付けられなかった。妙龍と云う龍が存在しそれを祀つたものなのか、僧侶妙龍が関係するものか分からない事ばかりだ。 とはいえお参りされている痕跡もあり、地元では知られた存在なのだろう。 「妙龍大善神」 創建・祭神 / 不明どれたけ悪足掻きしようが情報が得られそうではない、右手参道を奥に進みます。「妙龍大善神」に続く参道には朱の鳥居が幾つも立ち並ぶ。参道は三方に別れ中央の参道先に鳥居と覆屋が見えます。 鳥居手前を狛狐が守護している事からこちらが稲荷社となる。右の鳥居は番神堂から渡廊を経た先に立ち、覆屋の正面に位置する事から本来はこちらが正参道にあたるのかも。 取り敢えず写真左の鳥居から覆屋へ。鳥居前の狛狐、寄進年度未確認。中央の鳥居から覆屋の眺め。 右手に手水鉢があったが年号は読み取れなかった。上 覆屋全景。下 番神堂から稲荷社に繋がる渡廊。覆屋は切妻妻入りで向拝が付くもので、その前に小さな狛狐の姿がある。こちらの狛狐も寄進年度は不明、ガリガリに痩せ細った悲壮感漂う体ではないが目力がないか。覆屋に架けられた「福綠尊天」、額からして福禄寿を祀るお稲荷さんなのか。 本殿は福禄寿の他にも祀られているようで、三つの唐破風向拝が付き其々に扉が付いていた。倉稲魂命も祀られていると思われます。 稲荷社は小高い小山の上に建てられ、鳥居の左から後方に回り込むことが出来ます。上回り込んで覆屋を見ると二階建てになっていて、二階部分が先程の「福綠尊天」、下側が祠となっている。下置かれた手水鉢はいい感じで苔むし年代すら読み取れない。一階部分の祠。 一対の狛狐の先に稲荷にはつきものの四角い狐穴があり、上には小さな社が祀られている。ここの狛狐は多少痩せ気味のフォルムで目つきも鋭く狐らしい風貌。 右の狐だけ体の一部が欠け落ちている、何がこうさせたのかな。良く見れば玉垣の隙間から立派な耳をした小さな金色狐がこちらを見つめていた。 この社、二階本殿の奥宮なんだろうか。 妙龍大善神・稲荷社の縁起や創建時期は分からない。 尾張名所図会の定徳寺に結天神は見られたが、妙龍大善神・稲荷社の記述は見られなかった。編纂以降に創建されたものか。 定徳寺境内にある事から住職にお会いできれば縁起など教えて頂けるかもしれない。 妙龍大善神創建・祭神 / 不明福綠尊天稲荷社創建 / 不明祭神 / 福禄寿、倉稲魂命所在地 / 名古屋市中村区日比津町1-16-8 (定徳寺境内)関連記事 / 長秋山 定徳寺 #1
2022.10.10
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コロナで中止となっていた「AJUワインフェスタin多治見修道院」。 今年は開催が決まり早速チケットを買いに小牧市大字野口の小牧ワイナリーへ。以前はコンビニで手に入れられたチケットですが、今回は名古屋にお住まいの方には入手が面倒になっています。 1,500枚限定のチケット入手方法はワインフェスタサイトから確認願います。小牧ワイナリーのショップに行けばチケットを販売していると知り、ひとっ走りしてきました。ワイナリーの所在地はざっくりですが入鹿池と桃花台の間に位置し、県道178号線野口地内にあります。 写真の八幡社が鎮座する交差点の奥にあたります。八幡社脇の坂を上り始めると右側に写真の様に葡萄棚も見えてきます。 ワイナリーはそのすぐ左側にあります。広い敷地に立つ小牧ワイナリーショップ。 こちらでチケットが販売されています、以前に比べチケット代も高騰しています、これも時代の流れ。小牧ワイナリー所在地 / 愛知県小牧市大字野口字大洞2325番2営業時間 / 10:00~16:00定休日 / 月曜 & 第2・4火曜第17回AJUワインフェスタin多治見修道院開催日 / 2022年11月3日(木・祝)10:00〜14:30(開場 9:30)場所 / 神言会多治見修道院参加費 / 4,000円(前売券のみ)1,500枚限定(720mlワイン1本&グラス+おつまみ・ミネラルウォーター付)ワインフェスタサイト1500人の限定開催ですが、その代わりに密にもならず葡萄畑でゆっくりとワインが飲めそうです。 3年ぶりの開催楽しみにしよう。関連記事 / 2017多治見修道院ワインフェスタ岸田さん。 何をしたいの? 恒久的な高騰に見合う現金以外の全世代配分を検討ではなく実行しなければ待ったなしです。低賃金就労所得者、年金受給者だけの問題ではありません。 ここで働く障害を持つ人も同じ。このフェス参加者僅か1500人の売り上げが、彼らの人件費の一部に充当されます。 実りのない海外で金のばら撒きや、理想論を語っている場合じゃない。役に立たない高齢議員の定年、世襲禁止、定数削減を速やかに実行し、内に目を向けたらどうなのかな?火の車の日本、普通は身を切って報酬を減らし「考え・実践する」ものだ。 昨日今日浮上した問題なのか? 分析調査はとうに終わっているはずだ。
2022.10.09
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伊北ICで高速を下り、国道153号線を北上し信濃國二之宮に参拝。 矢彦神社と小野神社の鎮座地の小野は、塩尻市と辰野町の飛地が隣り合い、社叢を共有する二つの信濃国二之宮が鎮座します。 古くは1つの神社だったとも云われ、小野盆地において飯田城主の毛利秀頼と松本城主石川数正の領地争いがあり、1591年(天正19)秀吉の裁定により、盆地を流れる唐沢川を境に北小野村、南小野村に分けられたことに始まる。社地は北小野(塩尻)の地籍であったが、裁定により境内は二分され、社叢南半分の矢彦神社が南小野(辰野)の氏神で社地は辰野の飛地という扱いになり現在に至っている。国道153号線を矢彦神社・小野神社の鎮座する塩尻方面に向け走っていると、国道を跨ぐように大鳥居が建っていますが、そこから少し塩尻側に行ったあたりが境になります。 JR小野駅北側辺りが辰野町と塩尻市の境で、Gマップで辰野町と検索すると矢彦神社の社地が辰野町の飛地になっている事が分かります。 秀吉が定めた境となる唐沢川を上の地図で示します、この小さな川で北小野村、南小野村に分断されます。現在は地図上で塩尻にある辰野町の飛地である矢彦神社と塩尻市の小野神社、祭礼等は旧北小野村、南小野村共に手を取り合い開催されるようです。 また現在は両小野として塩尻市と辰野町が共同し「組合立」の学校が立てられるなど、戦国時代の境界を感じさせない。伊北ICから国道を北上、大鳥居をくぐりしばらく走ると前方に写真の手水舎と鳥居が見えてきます。 この鳥居が辰野町の飛地に鎮座する矢彦神社の東参道。駐車場へはそのまま社叢沿いの国道を走っていきます。 すぐに左側に朱の明神鳥居が現れます、矢彦神社正参道。 ここは走り抜けます。左側に石の明神鳥居が現れます、こちらが信濃国二ノ宮小野神社の社頭になります。 ここも走り抜けます。 国道をもう少し進むと左側に社叢の切れ目が見えてくるのでそこで左折です。左折の目印は国道の案内標識、縄鳥居の前を通り過ぎた左側に駐車場はあります。社叢から見えた縄鳥居、物好きは国道から正参道に向かいます。宮前地内を通る国道153号線、辰野町方向の眺め。 右手が矢彦神社・小野神社の境内。写真は国道153号線沿いの両社の社頭、国道沿いに社地を囲う玉垣が延びる。 社地中央に小さな水路があり、それを境にして両社が隔てられ、境界を示す石標が立てられている。両社を隔てるものはその水路だけで、水路の意味を知らなければ「大きな神社だこと」で終わるかもしれない。 国道を挟んだ門前町は初期中山道、伊那街道の宿場町小野宿でその面影を感じさせる光景が残る。小野神社境内には立派な土俵があり、北小野村、南小野村合同で相撲が奉納される。 両社には御柱が奉納されているが、地元の方の話によれば「来年がその年に当たるが、コロナ禍や担い手不足でどうなるかねぇ」との話だった。小野神社社頭。 国道沿いに石の明神鳥居を構え、左側に手水舎、右に社号標が立ちます。社頭の手水舎、手水鉢。 絶え間なく注がれる清水ですが飲用は出来ません。社頭の小野神社解説の数々。上小野・矢彦神社社叢は針葉樹と落葉広葉樹が大部分を占め、これらの老木が茂った典型的な混交林で灌木や草本類も多く樹木合わせて150種類に及ぶ。 中部地方の植生は古い時代にはこうした混交林で覆われていたが、やがて人工が加わり姿は一変した。この社叢は古来の平地林の様子を留め、36,326㎡に及ぶ広さも貴重なもの。 そうした事から社叢は長野県天然記念物に指定されている。下小野神社社殿解説。 本殿二棟、八幡宮本殿、勅使殿は寛文12年(1672)4月の類火により焼失、松本藩主水野忠直により同年9月までに再建された。本殿に見られる全体の形が直材に近い海老虹梁、勅使殿の渦が付く上向きの拳鼻など、県内にある寛文期の建築物に共通するもので、造営は水野家大工頭の中村四郎右衛門らによるもの。 本殿の木鼻は扁平の象鼻で、眼頭に当たる部分にも突起を付ける独特の形である。本殿向拝の蟇股内部には水野家家紋の花沢潟の彫が入れられている。左 市有形文化財「小野神社の梵鐘」永禄7年(1564)、武田勝頼が戦勝祈願し鳬氏に命じ鋳造し小野神社に寄進したもの。 江戸時代以前の鐘としては優れた出来栄えと云う。(資料館で展示) 右長野県宝 銅造千手観音坐像御正体残闕 総高18.7㌢、像高16.1㌢、製作年代は鎌倉時代に遡るとも。要所を抑えた無駄のない簡潔な仕上げで頭体部及び一鋳した蓮華座を含めバランスが良く安定感がある。 (資料館で展示) 平安時代後期におこった本地垂迹説にもとづく神仏混淆の信濃における信仰の歴史を知る上で貴重である。境内の資料館にはこれらの他に、室町時代前期の鐸鉾などが所蔵されている。 鳥居扁額「小野神社」上資料館 開館日に制限があるようで、この内部に梵鐘などが保存されている。下宝形屋根の薬師殿。 後方の建物は額殿。上 屋根付きの相撲土俵。 旧北小野村、南小野村合同で相撲が奉納される。下 左の建物が宝蔵。右が「ニノ御柱」、石の玉垣で囲われた二本の杉が「夫婦杉」諏訪大社も近い事もあり、小野神社、矢彦神社共に御柱が立てられている。 小野神社の御柱祭は、諏訪大社の御柱祭の翌年の卯の年と酉の年の7年目(6年毎)開催されます。駐車場付近で名古屋から小野に嫁いでこられた地元の方に声掛けを頂いた。 その方の話によれば「人を見たけりゃ諏訪御柱 綺羅を見たければ小野御柱」、「来年がその年に当たるが、コロナ禍や担い手不足でどうなるかねぇ」との話だった。 名古屋ナンバーの車を見かけて親近感を持って声掛けをして頂いたようだ。今でこそ高速でひとっ走りだが、彼女の年代の頃となると電車に揺られ嫁いできたかナ?境内は緑濃い社叢に包まれ、その多くは自然林である故に県の天然記念物に指定されているそうだ。 社頭の前を国道が横切り結構交通量がある、車の騒音が気になりそうだが、社叢のお陰で境内は静寂そのもの。常夜灯の先に佇む一対の狛犬。 骨太な体格で目と鼻の大きさが印象に残る。神楽殿。 拝殿に続く参道の右側にあり、切妻妻入りの神楽殿と奥の平入の建物は渡廊で一体となっている。参道左側の御鉾社。 四方を木の玉垣に囲われた一画がそれにあたるようで、解説によれば「伝 古代祭祀遺跡」とあったが、玉垣内にこれといった痕跡は見当たらなかった。自分には後方の広葉樹の緑と空に向け聳える杉の樹の息吹が強く印象に残った。上御鉾社の右に一部欠損した石の社。 「おぼこさま」と彫られた石標はこちらを指すものか定かにはならなかった。下 御鉾社の左にも石の社が祀られていたがこちらも定かにはならなかった。夫婦杉の左の小さな覆屋。 「中央御玉命 御厩?社」・・・とあるような、覆屋内には小さな社が祀られ、妻側の棟から鈴が吊るされていた。参道左の境内摂社。 左から天満社、宗像社、子安社、稲荷社と並ぶ。参道先の拝殿が大きく見えて来た、いよいよ参拝。 その前に左にも一社あるようだ。玉垣で囲まれたこの建物、解説もなく詳細は分からないが「神庫」とある。 神宝を納めるという事?小野神社拝殿全景。 切妻屋根の拝殿の平側に向拝が付き、内削ぎの千木が付く、拝殿大棟にも6本の鰹木と内削ぎの千木が付く。現在は銅葺屋根ですが、往古は杮葺き屋根だったという。拝殿右から向拝と拝殿、廻廊の眺め。 正面、斜めと見渡すが安定感のあるシンプルな外観で光り輝く飾り金具も見られない。拝殿向拝の額と本殿方向の眺め。 全体の造りと色が落ち着いたものだけに、額の金色と神社幕の紫がアクセントになり上品な印象を受ける。祭神は建御名方命。 拝殿の先の本殿域には正面に勅使殿があり、その後方に左から副本殿、本殿、八幡宮本殿の三つの社が祀られています。恐らく諏訪大社同様に副本殿、本殿の2棟で交互に神宝を移すものかと思います。 まずは参拝を済ませ、玉垣沿いに社殿左側に向かう。 玉垣沿いから拝殿、社殿の眺め。本殿域全景。 中央が拝殿正面に当たる勅使殿。勅使殿の奥に並ぶ左から副本殿、中央が本殿、八幡宮本殿で、解説にあった寛文12年(1672)4月の類火により焼失、同年9月には松本藩主水野忠直により再建された。 境内解説から、手前の勅使殿は御門屋造りと称する様で、奥の三殿は寛文12年(1672)造営の一間社流造。注連縄が左の福本殿に張られていないので、現在副本殿は空きという事か?玉垣沿いに御柱を運び入れるための道が付けられている。 その左側に小さな泉があり、中央の小島に石の祠が祀られていたが🐍の予感がして近寄れなかった。そそくさとこの場を後に参道に戻る事にした。参道に戻り一安心、そこから社頭方向を眺める。 境内の整然と聳える大木が自然林とはとても思えない。 境内摂社あたりに「夫婦杉」二本の杉の巨木が寄り添うように聳える。 次は再び薬師堂方向へ。 薬師堂右側の境内に細い流れの水路があります。 この水路を上流に沿って進むと一つの石標があります。そこには「社地境界標」と刻まれている。 上の写真でこの水路を境に左が塩尻市の小野神社、右が辰野町の矢彦神社の社地として区切られている。この水路を跨げば辰野町の矢彦神社境内になり、そのまま社殿に至ります。もの好きは国道に戻り矢彦神社社頭に向かいます。信濃國二之宮 小野神社創建 / 不明、(寛文12(1672年)焼失、同年再建)祭神 / 建御名方命 境内社 / 八幡宮、稲荷社、子安社、宗像社、天神社、御厩社、御鉾社所在地 / 長野県塩尻市北小野175-1公共交通機関アクセス / JR中央線「小野」駅降車、北へ徒歩15分程参拝日 / 2022/09/13関連記事 / 元秘湯を守る会 「白骨温泉 泡の湯」へ
2022.10.06
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諏訪神社から東へ徒歩で10分程、日比津公園の東に鎮座する「長秋山定徳寺」へ。 所在地は中村区日比津町1になります。この地にはかつて栗山城が築城されていたとされる場所で、今回「長秋山定徳寺」を訪れ、城の痕跡も探して見たがそれらしい遺構は皆無だった。 定徳寺境内には天満宮、妙龍大善神、稲荷社など鎮座し、今回は定徳寺と天満宮を取り上げ、二回に分けて掲載。定徳寺薬井門前に写真の名古屋市教育委員会の解説板がある。内容は以下。 「長秋山(ちょうしゅうざん)と号し、日蓮宗。延文5年(1360年)、僧日悚の創建。 明徳年間(1390~94)の頃、当寺第二世日就により諸堂が整えられた。当寺第25世日潤は道徳才学兼備、和歌、茶道をよくし、その高徳は四方にきこえたと伝えられ、天保8年(1837年)に身延山久遠寺の第60世貫主となった。」 尾張名所図会の定徳寺に目を通すと内容は符合、境内の日潤碑、結天神の記述は解説では省略されているようだ。伽藍の挿絵が見たかったが残念ながら描かれていなかった。薬井門の左は駐車場のようだ、右側に「傅教大師御自作 日蓮上人御開眼 三十番神鎮座」の石柱が立つ。薬井門は緩やかな曲線の壁と一体となっている。 参道の先に見えているのは番神堂。伽藍は参道右側に本堂、庫裏、寺務所が連なっています。薬井門に架けられている山号額「長秋山」薬井門から境内の眺め。 参道左に鐘楼、その奥の番神堂左に地蔵堂と天満宮の覆屋があります。正面の番神堂と手前の庫裏と本堂。 庭は入念に手入れされ、当日も庭師の方の手が入っていた。定徳寺は神仏混淆の寺、正面の番神堂には複数の神像が祀られ、奥に安置された厨子が50年に一度開帳されるという。 因みに次回の御開帳は2047年、かみさんはともかく、自分が訪れる確率はかなり低いだろう。鐘楼。 入母屋瓦葺で見た目は普通だが柱と梁に免震装置が施されていた。 梵鐘。 かなり大きな物でさぞかし好い音色だろう。一回りしたいところですが、当日それが出来る状況ではなかった。参道右側の本堂。 架けられた額には…達筆すぎて読めないのがまた悲しい。何でもスマホの時代、QRの様に翳して読み取れる時代は訪れないのかね。番神堂。 傅教大師御自作という天照大神像などが安置されている。番神堂を守護する狛犬は大正2年(1913)に寄進されたもの。 架けられた額…達筆すぎて読めないのがまたゝ悲しい。番神堂左の覆屋と地蔵堂。 右の天満宮の前には赤い前掛けを付けられた撫で牛が安置されている。昭和4年(1929)に建てられた天満宮縁起。 「当寺祀る天満宮は宗祖日蓮上人の開眼。元来、尊像は城西児玉町観音寺に祭祀されていた、安政3年(1857)、当山27世住職の霊夢から当境内に遷座し勧請。以来多くの人々から崇敬されている。昭和4年春」 一部読み取りが出来ず一部抜粋。城西(西区名西2)からこちらに遷座したようで、尾張名所図会(1838)の「境内に結天神あり」とはこの天満宮なのだろう。 撫で牛…だろう。 往古から多くの願いを聞き入れて来たであろう風貌。覆屋向拝下に掛けられた額には流れるような美しい筆致で「天満宮」と書き上げられている。覆屋内の社。 社の全体像は分からないが向拝などに梅紋が入れられている。先程の石像は道真と所縁の深い撫で牛で間違いないようだ。 それにしてもこの社、道真一人を祀るには扉が多い様な。天満宮の右隣りの地蔵堂。 それぞれに銘板が架けられていたが調整してみるも文字は読み取れなかった。二体の像は口元に笑みを浮かべた表情をしている。制作年代は不明。天満宮の右側から番神堂の奥に続く参道が伸びています、その先には朱の明神鳥居が立ち、その前を一対の狛狐が守護しています。 また、鳥居左には脇参道があり南側の道路と繋がっています。定徳寺南側から番神堂全景の眺め、境内の朱の鳥居は目立つ存在かもしれない。 ここからすぐ南の交差点角には、以前、日比津の「秋葉社」で見かけた「南無妙法蓮華経」と刻まれた髭題目が立てられています。定徳寺宗派 / 日蓮宗山号 / 長秋山創建 / 延文5年(1360年)開山 / 明徳年間(1390~94)本尊 / 釈迦如来境内社 / 天満宮所在地 / 名古屋市中村区日比津町1-16-8参拝日 / 2022/09/02関連記事 / 諏訪神社(中村区諏訪町3)、秋葉社 (中村区日比津2)諏訪神社から東へ / 徒歩10分程
2022.10.05
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「萬松山 観音寺」を後に一路北に向かい、東山通りを越え日吉神社に向かいます。上は昭和43年(左)と右がほぼ現在の上社。 日吉神社は赤のマーカーになります、明治、大正の地図の方が周辺の変貌ぶりはよく分かるかもしれないが、この当時でさえ山が切り開かれ急速に宅地化が進む周辺の様子が見られ昔の面影が残る。地下鉄東山線の高架沿いに日吉神社の鎮座する上社駅方向を眺める。 下の流れは植田川、地下鉄はこの辺りは上を通る。名東区上社2に鎮座する日吉神社社地。 写真は南東側角から社地東側と南側の眺め、正参道は左に進みます。日吉神社東参道の鳥居。 寄進されたのが最近なのだろう、緑の杜を背景に白い姿が浮き立っている。 明神鳥居の笠木上部に三角形の屋根が付く鳥居、山王鳥居と呼ばれ、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表し山王信仰の象徴とされる。この山王鳥居は社地西側の西参道にも立っています。 京から見て表鬼門にあたる比叡山の東山麗に鎮座する日吉大社、これから紅葉が深まっていくと綺麗な神社ですが、こちらが朱の山王鳥居で知られます。日吉神社周辺には往古、藤森と下社の二つの城がありました、それらの鬼門、裏鬼門除けとして建てられた?そんな気にすらなってくる。南側の正参道社頭。 上社のなだらかな丘陵地、宅地開発で住宅地となった現在でも緑濃い社叢を残している。社頭から参道。 左に由緒、右に社標が立てられ、石の明神鳥居から社殿へは石畳の敷かれた参道を進む。由緒「当神社の創建年代は詳かではない。 祭神は大山咋神、大己貴神、元官幣大社日吉神社の分霊を勧請して土地開拓守護神とした。元禄7年(1694)上社村覚に「氏神山王権現森村より西北に当り云く」とあり既に鎮座していた。 明治44年(1911)当村八郎に鎮座の元官幣中社貴船神社の分霊である罔象女神を本社に合祀。昭和40年氏子の奉賛により社殿改造を行い社頭の面目を一新。 古来よりこの地域の氏神と尊崇され「日吉山王さん」と親しまれ、農工商の恵みの神として神徳あらたか。 上社鎮護 日吉神社」名東区史跡散策路の概説は以下。 「江戸時代は山王権現と呼ばれた。区画整理により周りの環境が変わった中で、境内はかつての丘陵地の姿を残しています」古くから上社の変貌を見続けて来たこの地の氏神様。往古から上社の丘の頂に鎮座する日吉山王さん。 石の明神鳥居は昭和38年(1963)に寄進されたもの。常夜灯の立ち並ぶ石畳の先にはニノ鳥居を構えている。ニノ鳥居は朱の両部鳥居。 いつ見ても優雅な姿だ、鳥居額束はあるが神額は架けられていなかった。ニノ鳥居前を守護する狛犬。 鳥居の先の石段を上ると社殿が見えてくる。 西参道から見る社殿全景。 南側一面に石垣が積まれ、さながら城か館のような佇まい。東参道から見る社殿全景。 境内は石畳が敷かれ、中央の石段以外にスロープが用意され足が不自由な方でも家族と共に参拝が出来る。石段を上った左に手水舎があるが・・・お休みだ。拝殿全景。 切妻瓦葺の平入拝殿で派手な意匠はなく、木の温もり漂う落ち着いた佇まいのもの。Wikiによると「1813年(文化10年) - 刀比羅社を勧請。1865年(慶応1年) - 御嶽社を勧請。1865年(明治1年) - 神仏判然令で日吉社と改称。1878年(明治11年) - 大山祇社が境内に移された。1909年(明治42年) - 下の森(愛知県愛知郡猪高村大字上社字八郎84)にあった貴船明神(現存の貴船神社とは異なり、現存しない)の罔象女神が合祀される。1965年(昭和40年) - 日吉神社と改称。」とあったが・・・ここは由緒書きを尊重した方がよさそうだ。拝殿前の狛犬も明神鳥居と同時期の昭和38年(1963)に寄進されたもの。拝殿。 光り輝く鈴、鈴紐は下ろされていなかった。拝殿幕の神紋、こちらも日吉大社と同じ二葉葵のようだ。 境内のお願い…ではなく、左の滲んでしまった解説、徳川家家紋として知られるけれど、意外に実際の二葉葵は見ることが少ない。写真が入ると「あぁあれかぁ」となるのだが。拝殿から幣殿本殿方向の眺め。拝殿左の「奥の院 御嶽山ゆかりの霊場」の解説。「御嶽信仰の歴史は平安時代に起った民間信仰と山岳信仰が結びついたもので江戸時代に広く庶民に浸透していった。 かって日吉神社「奥の院」の頂からは鬼門、丑寅の方向に霊峰御嶽を望むことが出来た。言い伝えでは氏子中による御嶽信仰の始まりは日吉神社創建当時、江戸時代初期の事。 「伊勢に七度、熊野に三度、日吉御嶽百度詣り」という言葉が残ると云う。中略奥の院までの石段は48段、四苦八苦で階段を登ると頂には氏子中を守り続ける「霊神碑」と「神石」が坐す。 「神石」は御嶽山頂の御嶽神社から拝受されたもので、先人達が担いでこの地にもたらしたもので「勇者の碑」とも呼ばれる。神石は「足の碑」、「勤勉の碑」と呼ばれ崇められ、石に触れ記念する事で御嶽明神と信仰を守り続けた先人からの加護があると信じられている。 並んで坐する「霊神碑」は「神石」を持ち帰った先人達のもの。日吉神社の社格は高く、社郷の鎮守社で、祭神大己貴神、命がけで氏子中の安寧を願った先人達の魂に溢れた霊験あらたかな神社である。」 奥の院へはこの解説板の左にある赤い鳥居から上っていきます。 その前に写真の境内社を参拝。 玉垣に囲われ、一面石畳が敷かれた一画。 左から金刀比羅宮、報國殿、大山祇神社、御嶽神社の4社が整然と祀られている。Wiki情報の1813年(文化10年)に勧請された「刀比羅社」がこの金刀比羅宮にあたるのだろう。 御嶽神社の勧請は1865年(慶応1年)、大山祇神社の遷座は1878年(明治11年)でいいのだろう。報國殿の建立は定かにはならない、境内社後方に石標が立てられていたがそこに何か書かれているのかも知れない。 因みに手前の燈籠は昭和42年(1967)の寄進。奥の院へ続く朱塗りの鳥居。 四苦八苦の石段が始まる。奉納鳥居の手前に大正3年(1914)の石標が立っていた。 四苦八苦の石段には手摺も設置されている。石段を上りたくない向きには、右からも奥の院に続く参道が用意されている。奥の院境内。 斜面の頂にあり、ここから北側は高層住宅と樹々が覆い眺望は遮られているが、宅地化前は北側に御嶽山が望めただろう。鍬神社。 小さな切妻の覆屋の中には社と金属と木製の鍬の先端が安置されていた。鍬神社右に不動明王。 年代は不明ですが頭部から上は欠け落ちていた。鍬神社左の「神石」 往古の先人達が人力で持ち帰った御嶽の岩。こちらに触れると知恵と勇気、健脚の神徳に授かれるという。左は「刀利天宮」で右側に霊神碑が立ち並ぶ。右川の境内にも山丸三の紋が刻まれた複数の霊神碑が立てられている。奥の院から南の眺め。 南の遠景は…地下鉄と高速の高架が横切り眺望は望めないが、眼下に日吉神社の伽藍が良く見下ろせる。奥の院参道から見る本殿域。 銅葺屋根の流造で外削ぎの乗せ千木に3本の鰹木が施されている。本殿前で陶器製だろうか、小さな狛犬が守護しているが姿を見せてはくれなかった。日吉神社創建 / 不明祭神 / 大己貴神、罔象女神、大山咋神境内社 / 金刀比羅宮、報國殿、大山祇神社、御嶽神社、鍬神社、刀利天宮祭礼 / 7月天王祭本祭、10月15日秋の大祭所在地 / 名古屋市名東区上社2丁目45-1参拝日 / 2022/09/08公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線上社駅から徒歩5分観音寺から徒歩ルート / 北へ徒歩10分関連記事 / 萬松山 観音寺 (名東区上社3)『貴舩神社』名東区一社3丁目、白い矢伝説の伝わる『貴舩社』
2022.10.04
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大江戸温泉下呂新館で快適な一夜を明かす。 既に朝風呂、朝食を済ませチェックアウトを待つばかり。部屋から望む縄文橋もこれで見納めとなる。 歩いてここまでやってきたものの、帰りは下りだがどうするか?昨日スルーした愛宕神社や山王坊をお参りしながら腹ごなしに歩いて下りる事にした。 高野山真言宗 弘法山(飛騨信貴山) 山王坊 以前記載した内容と重複しますが記載しておきたいと思います。「石標に「東海圏新西国 第二番札所」とある。 昭和43年8月、集中豪雨に伴う土石流に巻き込まれ、41号線を走行中の観光バス2台が飛騨川の濁流に転落、多くの方がなくなった「飛騨川バス転落事故」。 事故現場の国道を走行していると「天心白菊の塔」が立ち、事故の事実を伝えてきた。その塔も今年、上流の「道の駅美濃白川」に移転されたようだ。 この事故を契機に国の国道の整備・点検・管理体制の見直しにつながった。それでもこの国道や鉄道は常に災害のリスクが伴う、安全で快適が当たり前のように錯覚してしまう昨今、こうした碑は風化させたり撤去してはいけない。 この観音霊場は犠牲者の慰霊と供養を弔う目的で事故後設けられた33の霊場で山王坊はその一つ」入口から山王坊へ続く参道。 参道沿いには昨日見た祠が先に続く。この地方では大師信仰の中心的存在なのか四国八十八ヶ所の祠がずらり勢揃い。山王坊の狛虎? これは犬や獅子ではなく紛れもなく虎でいいだろう。山号の信貴山から受ける印象は、奈良県生駒市に鎮座する信貴山朝護孫子寺が思い浮かぶ。 虎の寺として知られ、阪神ファンが必勝祈願に訪れるという、ここにも立派な狛虎が寄進されていた。虎だけを捉えると、ここ高野山真言宗の山王坊と信貴山真言宗の護孫子寺の繋がりがありそうだが定かではない。狛虎から石段を上ると左側に鐘楼がある。 架けられた額には「飛騨信貴山 昭和廿九年」と刻まれてていた。 七福神 七病難封じ祈願の寺として病気封じのほうろく灸を行っているようだ。 斐太後風土記に目を通してみたが寺の沿革は見当たらなかった。境内右に円形に配置された七福神や白寿観世音菩薩等の像が境内に安置されていました。 ここを更に進むと身代り大師を経て、再び寺標があった入口に戻ります。山王坊本堂全景。 伽藍は本堂と右の庫裏で鬱蒼とした森に埋もれる様に鎮座している。沿革についてWikiと山王坊HPで食い違いが見られ困惑している。 Wiki「1937年(昭和12)、下呂水明館創業者の滝多賀男が建立を志し、中呂の大前家旧家を下呂に移し1939年(昭和14)に本堂、庫裡を建立。 寺格は美濃市上有知村向山にあった1685年(貞享2)建立の寺から移された」とあった。山王坊HP「1200年前、弘法大師空海によって開かれた密教であり、現世利益を大切にして人々の幸福を神仏に祈る宗旨であります。 当飛騨信貴山山王坊の本山は、和歌山県高野山金剛峯寺であり、御本尊は毘沙門天王様です。当寺は鎌倉時代に建立されました。 そして1992年(平成4)に、それまで雨漏りのしていた本堂を、多くの方々のご助力によって修理することが出来、その年の11月15日に落慶法要を行い、現在の当寺の姿となりました。毘沙門天王様は、福徳・財宝を司り、夜叉・羅刹の統領として、災いをなす暗黒界を治める仏天様ですので、殊に古来より商売繁盛・病魔降伏の守護神として人々を守り、当寺は、中部地方の毘沙門天王信仰の中心となっております。」ここでは山王坊HPの内容を尊重させてもらいます。 毘沙門天は聖徳太子が物部守屋討伐のため祈願した時、虎を供にした毘沙門天が現れ、物部守屋を討伐したとされる。謙信が毘沙門天を崇め、自らを化身と称したのもそうしたことからだろう。堂内外陣の格子天井には梵字と三鈷杵が書かれている。 内陣の中央に本尊の毘沙門天王像が安置されています。毘沙門天の鎧・兜はあらゆる魔を砕き、災いから守って頂けることを象徴するとされる。 右手の如意宝珠の棒は心ある者に金銀財宝を授け、家内安全・商売繁盛・病魔退散の守護を象徴するとされます。左手の宝塔は福を満し、信じる者の願いを叶える福徳の象徴という。鐘楼脇に掲げてあった「ほうろく灸」 弘法大師秘伝とされるこのお灸、効能はストレスや自律神経失調、ホルモンバランス調整などに効果があり、身体健康・病気平癒・無病息災の願いを込め祈願して頂けると云い、過去にテレビでも紹介された程知られるようです。また、この寺は檀家を持たない祈祷寺で、人生を全うする過程で誰しも必ず直面する色々な悩みがある、これらを祈祷により和らげてくれるのがこのお寺のようです。 悩みを持ち訪れる者を受け入れる姿は、開け放たれた無人の本堂からも窺えるような気がする。檀家を持ち葬儀や供養を行う寺と比較すると、境内の様子は少し違うかも知れない。山王坊宗派 / 高野山真言宗山号 / 飛騨信貴山(弘法山)開基 / 不明本尊 / 毘沙門天毎月縁日 / 3日毘沙門天、7日七福神、18日聖観世音、21日弘法大師、28日不動明王年中行事 / 正月三ヶ日 初詣 初護摩祈祷、2月3日 厄除大祈願星祭、北斗護摩祈祷修法、7月第1日曜 秘仏・毘沙門尊天御開帳会、11月第2日曜 毘沙門天王入仏記念祭、七福神祭所在地 / 岐阜県下呂市森2318-3飛騨信貴山HP狛虎から先に進んだ本殿裏に鎮座する楠公社と右に忠魂碑。 鎌倉時代から南北朝時代の武将楠木正成を祀る。創建など詳細は不明。 社後方の石標は回天と刻まれている。回天とは先の大戦で敗戦が濃厚となった時代、人が魚雷と一体となり敵目がけ突撃していった人間魚雷の事。 自らの命と引き換えに父や母、親族を護るため突撃していった回天特別攻撃隊を伝えるもの。楠公社と共にあるのも意味あっての事だろう。地勢的な危うさ、きな臭い香りが漂う昨今にあって、平和に慣れてしまった感は否めない、二度と同じことは繰り返してはならないが、家族を護るための弾の込め方くらいは知っておくべき時代かも。楠公社から左に進んだ谷への降り口付近にある櫛塚。 詳細は不明。櫛塚の後方から下りの山路が付けられていて、愛宕神社を経て下呂温泉合掌村方向に繋がっています。 怪しい道ですが大丈夫。平和の塔。 下呂市は2004年(平成16)非核平和都市宣言を発した町。回天碑やこの塔が宣言と関連するものなのか定かではないが、下呂温泉街から東を眺めると山中に手を合わせる様に聳え立つ白い塔は良く目立つ。道なりに下って行くと目の前に現れるのが愛宕神社。 周囲は杉木立に囲まれ、山肌を切り開いて覆屋が建てられている。昨日道路際から見た強烈な上りの参道はここに続いていた。覆屋には7体の観音像と山神が祀られている。 あたご夢くじ、おみくじは三本の授かり棒に結ぶことでなんでも願いが叶うという。Gマップで「山の神」のマーカーがありますが、恐らくここを示したいのだと思います。 山神はマップ上の「愛宕神社」にあります。みくじは引かなかったが、参拝をさせて頂き愛宕社から下っていきます。 途中から愛宕社を見上げる。道は格段に良くなり手摺も用意されていますが転けるとまずい下り坂。下を眺めれば愛宕社の神明鳥居と眼下に下呂温泉合掌村が間近に見える。 車道まであと少し。やっと車道まで下りて来た。 車道に掲げられていた愛宕様の案内板。愛宕神社創建 / 不明祭神 / 不明合祀 / 山の神所在地 / 岐阜県下呂市森ここまで来れば後の下りは楽なものだ。飛騨高椅神社 道路沿いから眺めただけですが、1974年(昭和49)に建立された神社のようです。飛騨高椅神社創建 / 1974年(昭和49)祭神 / 盤鹿六雁之命、櫛八玉之神、山陰中納言藤原政朝所在地 / 岐阜県下呂市森(下呂温泉合掌村内)さてこれで帰るばっかりだが、その前にクーポンで酒を買っていこう。 昨日通り過ぎた湯の街通り沿いの柏屋酒店まで戻って買い出しだ。柏屋酒店 テレビの「なんということでしょう」のフレーズで知られた番組の舞台となった店。酒の種類も豊富で何回か利用させてもらった事がある。所在地 / 岐阜県下呂市湯之島745-1毎度〃出かければおやじの空のリュックは酒と特産品でずっしり重くなる。 酒も纏めないとなぁ…当たりと外れが分からなくなる。今回の二本はどちらも地元で手に入るもの、どぶは何度か飲んだことがあり外さないが、左の久寿玉原酒超辛口は初めてだったが美味しく飲める当たりのお酒だった。 さて買う物は買った、後はビールを飲みながら電車に揺られて帰るとするか。訪問日 / 2022/06/29大江戸温泉下呂新館⇒下呂駅 / 徒歩ルート関連記事 / 大江戸温泉物語 下呂新館、岐阜県下呂市徘徊 水無八幡神社⇒浄観堂⇒山王坊
2022.10.03
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今日から10月、早いものです。 10月最初の休日、予定通り日・タイ文化フェスティバルに出かけてきました。日泰寺参道は縁日の様に多くの観光客で賑わう。 イベント期間中は日泰寺境内のスタンプラリーが開催されコンプリートすると粗品がもらえる他会場ではタイ料理のキッチンカーや特設ステージではタイ舞踊やムエタイショーなど開催されていた。 会場は山門をくぐった境内会場と奉安塔会場の二か所。上は奉安塔。 スタンプラリーの台紙は境内受付で配布され、境内会場4箇所、奉安塔会場1ヶ所の5ヶ所のスタンプを押し受付に持って来れば粗品と引き換えてくれる。スタンプを全て押して回れば日泰寺伽藍を一巡りする事になる。 それを終えてしまえば後は好きなタイ料理を食べながらイベントの鑑賞。残念ながら場内ではソフトドリンクはあるがアルコール販売はしていなかった、予めコンビニで買ってくるといいかも。日・タイ文化フェスティバルは10/1~10/2まで開催。さて次は地下鉄を乗り継いで市役所まで移動した。ラリージャパン1ヶ月前イベント こちらも10/1~10/2まで開催されている。愛知県庁と西庁舎の二か所でWRC Rally Japan開催一か月前イベントが催されている。 世界を転戦するラリーの最高峰で間もなく日本で開催される。それを盛り上げるためのイベントで、昔のラリーを御存知の方には懐かしい名車がズラリと並び、最新のラリー車と共に往年の走りを見せてくれる。流石に今の車と比較すると今一つかもしれないが、青春時代の懐かしい名車が走る姿はあの頃を思い出させてくれる。県庁西庁舎南側の道路を封鎖しサービス満点の走りを見せてくれる。 会場はエキゾースト音とオイルやタイヤが焦げる香りが漂う。会場の抽選で当選するとデモ走行に同乗が可能、そうなると更にドライバーはアクセルを踏み込むもの。 くるくる回され、加減速、下手なアトラクションは及びもしない。小さく軽いボディーのハイスペックなマシン…あこがれだ。 このイベントは明日も開催されます。
2022.10.01
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