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12月27日バスツアーで湖東のワイナリーと彦根周辺の酒蔵を巡り試飲する、ただそれだけのツアーに参加してきました。ほぼ酒を飲み、気に入った酒の買い出しツアー。名古屋発の同じツアーがありましたが、それぞれ昼食内容が違い、湯豆腐が食べられる小牧駅集合のツアーに参加。小牧駅7:00集合。名古屋からだと結構朝が早い。ツアースケジュールは上の内容。何処にも寄らず、唯々酒蔵を巡り飲む、飲みたい人だけ参加する分かりやすいツアー。今回、当日が最後となる支援を利用し、夫婦二人で9,000円程の出費。それに二人で6,000円分(酒の購入で消えるのだが…)のクーポンが付くので実質一人1,500円。酒蔵には行きたいが、個人では絶対に行けないツアー。最初の目的地は栗東ワイナリー。名神栗東ICから約20分。県道上砥山上鈎線を信楽方面、北の山交差点右折。県道栗東信楽線 山入交差点を右折、県道石部草津線を草津方面へ。美之郷交差点を左折所在地は滋賀県栗東市荒張字浅柄野1507-1葡萄は青い小粒の形が出来ていて順調に育っていました。琵琶湖ワイナリーは、地主より譲り受けた山林を拓き開墾を行ったのが始まりです。葡萄栽培に適した土壌づくりのため、葡萄畑の荒地を開墾し、表土と底地を取り替える天地返しの大工事の末に葡萄栽培に適した土壌を作り上げたという事です。昭和34年に果実酒の製造免許を受け、ワイン造りが始まったそうです。ショップ外観。ガラス張りの内部から眼下に広がる葡萄畑は、この時期実も葉もありませんが、海外の田舎に来た趣があります。工場見学もあり、ワイン造りの行程を丁寧に説明して頂けました。上は収穫したブドウを、房の状態から粒と房の芯に分離する機会の内部。分離、搾汁、移送は機械化され、品種に応じタンクに遷され、そこから手作業による熟成管理で育てられています。有機栽培の葡萄は収穫、搾汁、醗酵、熟成、貯蔵、瓶詰めの全行程を自社で一貫して行い製品化しています。オーク樽。熟成室には多くの樽が眠り、それと共に少しずつ仕込んだワインは減っていきます。所謂「天使のわけまえ」というやつですが、定期的に実測により保管量を測定し税務署に申告し直すようです。こうした事は日本酒も同様で、酒造者と税務署は密接な関係にあります。見学後はずらり並んだ製品から好きなだけ試飲する事ができました。試飲に含まれていないものもリクエストした所わざわざ試飲させて頂けました。その中で上の浅柄野ブランドの「レッドミルレンニューム白ワイン」の印象が良かった。微炭酸で僅かに濁りを持った白ワイン、香りもフルーティーで美味しかった。納得するまで飲ませてくれ、摘みがあればここは天国です。栗東ワイナリー所在地 / 滋賀県栗東市荒張字浅柄野1507-1栗東ワイナリーから彦根方向へ向かう道すがらの道の駅アグリの郷栗東で買い物休憩。ここはクーポンが利用可能でした、地元の赤こんにゃく、丁字麩を期待していたが残念ながら赤こんにゃくのみ、次の目的地彦根に期待。道の駅として小規模な方で、地元の特産品の品揃えは多くはなかった、ここは目の前を新幹線が走り抜け、ドクターイエローを待つ写真愛好家の中でも知られる場所という。バスはここから再び高速に乗り、約小一時間程の彦根市街を目指し昼食を摂る。彦根では昼食時間は1時間。 夢京橋キャッスルロード周辺の散策時間は食事時間に左右される。ひこね食賓館四番町ダイニング2Fの個室ダイニング赤鬼で湯豆腐の昼食。バスツアーの昼食としては上品な方だと思う。既にワインでほろ酔い、御飯は完食できなかったが温かい湯豆腐はありがたい、そして冷たいビール。飲んだくれツアーなのでこれでいい。バスの車内も飲食制限は撤廃、但し騒がない、大声は出さないマナーは求められる。個室ダイニング赤鬼滋賀県彦根市本町1-7-34ゆっくり昼食を摂り過ぎ、散策時間はさほど取れず、周辺にある寺町を少し眺める程度。上は祥壽院大信寺の山門。1603年(慶長8年)創建、開基は井伊直政とされ、彦根藩第2代・井伊直孝の歯骨を祀る御廟がある。下は聖聚院来迎寺の山門。慶長8年(1605)宗誉来極の開基とされ、木造阿弥陀如来坐像は建久7年(1196)造立のもので彦根市内の本尊仏の中では最古とされる。ささっと寺を拝観しキャッスルロードを後にして食後の酒蔵巡りへ。創業安政元年の老舗、岡村本家。何度か飲む機会があり自分の中では気に入っていった銘柄。一度酒蔵を訪れたかっただけに、今回の酔いどれバスツアーに魅かれた。こちらの搾りの行程は機械で圧縮して絞り出すものではなく、1枚ずつ袋に入れて搾る「木艚袋搾り」で搾る製法を用い、効率も悪く手間もかかるが譲れないとして受け継がれている。食後の試飲、こちらのラベルには数値が書かれていてその数値が精米度を表しています。低ければ低いほど磨かれているという証、個人の好みにもよりますが、精米度が高ければ美味しいとは限らないのが日本酒。こちらでは写真のしぼりたてと背番号40を買い求める。岡村本家滋賀県犬上郡豊郷町吉田100番地次はここから10分程の藤居本家に向かいます。「旭日」「琵琶の舞」「杜氏の舞」の銘柄で知られ趣のある蔵はTVのロケでも使われたといいます。店舗と蔵は少し離れていますが、どちらも見事な欅の柱を用いた老舗らしい風格ある建物。酒蔵入口。蔵内部、こちらでロケが行われたとか。薄暗い内部に灯るやさしい明るさの白熱電球は酒が眠るのに相応しい。見学を終え、店舗で試飲。いくらでも飲んでください、但し飲み残しは絶対にやめて欲しいとの事、丹精込めて育てた製品に対する作り手のプライドを感じる。どれも美味しいものばかり、結局こちらでも大量買い。落ち着いた雰囲気の蔵の中には「かくれ蔵 藤居」もあり、酒を味わい飲食も出来る。ここは宿も近くにあるようだし、蔵開きには電車で訪れたい。藤居本家滋賀県愛知郡愛荘町長野793 大隴神社。酒蔵の西隣りに鎮座する伊邪那美命、建速須佐之男命、大山咋命、大物主命をお祀りする神社。古くは白山権現と称したそうで、創祀の年代は明らかでないが、往古は大きな伽藍を誇っていたようです。大隴神社滋賀県愛知郡愛荘町長野1170冬の夕陽が鳥居から差し込み始めました。各自お気に入りの酒を買い求め、バスの車内には酒瓶が何本あるのだろう。今日一日、参加したツアー客は十分美味しいお酒を味わえたことだろう。気分も上々、あとは寝て帰るばっかりだ。気が付けば、小牧駅到着、交通渋滞もなく予定の19時に戻ってくることが出来た。これから重いリュックを背負い家路に着く。飲んだくれツアー、普段できない体験なので面白いイベントでした。これが今年最後のお出かけかぁ、一年過ぎるのは本当に早い。土壌も出来ていない一億総労働社会でしたか? 体が動く間に適当に楽しまず何時楽しむ?今回の走行ルート
2022.12.30
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西区那古野を神社を探し徘徊する事二回目。 今回は円頓寺商店街を西に進み、江川線を越え円頓寺本町商店街のアケードを西に進む。円頓寺本町商店街は江川線円頓寺交差点から西区那古野2丁目交差点まで東西に連なるアーケードを持つ商店街。 美濃路や堀川、清州越しで寺社が周辺に移転した事から、人が集まり店が立ち並ぶ門前町として賑わう立地にあった。話は脱線しそうですが、こうしてアーケードのある商店街は少し前には身近に普通あったものです。 大阪のディープな光景と云うか、文化と云うのか、朝から活気のあるアーケード街とは少し違うかもしれない。今回掲載する多賀宮はこの円頓寺本町商店街のほゞ中間の北側に鎮座します。 金刀比羅神社からアーケードの下を5分も歩けば社頭に着きます。多賀宮社頭。 間口が狭い社頭は、足早に歩いていると見過ごしてしまうかも、右に床屋のサインポールがあり、これが目印になる。社頭右に多賀宮の石標、左に由緒が掲げられ、石の神明鳥居を構えている。 こぢんまりとした間口から奥に続く参道を歩いていると、どことなく京都の町屋の風情を感じる。社頭左の由緒。「多賀大社は滋賀県犬山群多賀町に鎮座。 伊耶那岐命と伊耶那美命の二柱を祭祀する。古来寿命の守護神として、上下の崇敬厚く、天正16年(1588)、秀吉の生母大政所の病平癒を祈願した事が史実に残る。 ここに上畠町に分社が奉祀された、年代は不詳ですが、慶長17年(1612)の名古屋築城後の清州越によって城下町が形成され、崇敬心の篤い人々によるものと推測される。詳しくは史家の考証を埃つべきである。」多賀大社に祈願した秀吉の思いは叶い、大政所はその後の天正20年(1592)まで永らえる事ができ、母を思う秀吉の願いを叶えた多賀大社は、秀吉から社殿の改修を受けたと云います。 この多賀宮がいつ頃ここに祀られたかは由緒にある様に定かにはならないが、大切な人の延命を祈願するその気持ちは聞き入れて頂けそうだ。 神明鳥居に掛けられた額は多賀宮。参道右側に清水の張られた手水鉢。参道先の拝所から先の境内は左右に広がりを持ち、左に倶利迦羅大龍不動明王、中央に多賀宮、右が薬力稲荷大明神の三社が鎮座しています。拝所脇の由来から一部抜粋。・多賀宮 古来寿命の守護神、縁結びの神として崇敬が厚く、上畠町に奉斎されたのは明治中頃。 元社殿は昭和32年に改修された。・犬鳴山倶利迦羅大龍不動明王 犬鳴山は斎明天皇7年、役行者の開基で、本尊は行者自作の倶利迦羅大龍不動明王。 不動明王を信仰する事で福寿繁盛、一切の厄炎を除き難病から救われる。 和合敬愛、知恵聰明、賊盗を除き、鎮宅、祈雨、生々爾加護の十徳が得られる。・薬力稲荷大明神 秦公伊侶具により京都伏見の稲荷山に倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命を祭神とした伏見稲荷が生まれ、以来福徳を司り、家業繁栄の霊験はあらたか。 伏見稲荷に鎮座し五大稲荷の一柱の薬力稲荷を勧請奉斎したもの。これに依ると多賀宮がこの地に祀られたのは明治中頃とある。円頓寺商店街の前身は江戸時代まで遡るのかもしれないが、多賀宮は近代になってからのようです。他の二社については詳細は分からなかった。境内左の祭事案内板と灯台。商店街故だろう、ろうそくの明かりに似た揺らいだ明りを放つ電球が使われていた。犬鳴山倶利迦羅大龍不動明王。 鰹木は5本で内削ぎの千木が付く神明造。祭事 10月18日繁昌息災祭。多賀宮拝所前の重軽石。作法は1.願い事を決める。2.重かる石に両手を添え、石を持ち上げ、その重さを感じとります。3.再び重軽石を持ち上げ2.で感じ取った重さより軽く感じれば願いは聞き入れてくれる。よくある重軽石の作法ですが、黒光りした艶々の重軽石は多くの願いを叶えてきた証だろう。多賀宮。祭事 1月1日元旦祭、4月12日春の大祭、8月(日付識別できず)万燈祭、10月4~5日秋の大祭。昭和に入り修復の手が加えられているため、綺麗な社殿です。 手前の狛犬はシルエットとなり、寄進年など読み取れなかった。鰹木は6本で内削ぎの千木が付く神明造。多賀宮右の薬力稲荷大明神。入口の鳥居の額は「薬力大権現」奉納鳥居先の本殿。 鰹木は4本で内削ぎの千木が付く。本殿を守護するスリムな狛狐をよく見ると複数の罅割れがあり、劣化以外の何かを物語っている。薬力稲荷大明神。初午 初午繁昌祭(第二の午)三社の創建など分からない事はあるけれど、人通りの多いアーケード街にある事から、多くの徳を授けていただける三社の参拝に訪れる方は多い。 商店街や地元の方々から大切に護られている、訪れればすぐに伝わってきます。それだけ霊験あらたかな三社、円頓寺本町商店街を訪れた際には参拝してみる価値はありそうです。 鳥居から一歩入れば京都の趣き、アーケード街はプチ鶴八?の趣を感じさせる。大阪の活気を呼び込みたいものです。多賀宮、薬力稲荷大明神、犬鳴山倶利迦羅大龍不動明王所在地 / 名古屋市西区那古野2-8参拝日 / 2022/12/08金刀比羅神社から徒歩ルート / 円頓寺商店街を西に5分程関連記事・金刀比羅神社(西区那古野1-6)・五条橋の袂に佇む屋根神様 (西区那古野1)・屋根神と子安地蔵尊(名古屋市西区那古野1)・屋根神さま(西区那古野1-35)・専修寺 名古屋別院(名古屋市西区那古野1)・淺間神社(西区那古野1)・中橋の袂で佇む屋根神さま (西区那古野1)
2022.12.29
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知立市来迎寺町西中畑「御鍬神社」 畑仕事の応援で当地を訪れ帰り際に見かけ参拝に立ち寄ってみました。社頭の前を旧東海道が横切る、ここから西に向かえば旧東海道の39番目の宿場町池鯉鮒宿へ続きます。現在の知立(ちりゅう)は江戸時代「池鯉鮒(ちりふ)」と呼ばれ、現在の字と読みに変ってきたという。 古来のこの辺りは、西の知立神社を中心に門前町が出来、やがて知立城、今崎城等の城が建てられ、当地周辺にはそれを偲ばせる地名も残っている。後に家康による五街道の整備が始まり、東海道39番目の宿場町池鯉鮒宿として制定されると更に街道は賑わいを見せ、当時の様子は歌川広重の東海道五十三次にも描かれている。街道沿いに社頭を構える御鍬社。 猿渡川と逢妻側の二つの川に挟まれた当地、街道沿いは住宅が立ち並んでいますが、北側には肥沃な耕作地が広がり、そこから見る社叢は、海に浮かぶ小島のように存在感がある。社頭は右に御鍬(おくわ)神社社標、参道中央に石の神明鳥居が立ち、その先に拝殿が姿を見せている。御鍬社由緒。「江戸時代來迎寺村を初め近村の牛田村、八橋村、駒場村、花園村、里村、今村、大浜茶屋村の八ヶ村が連合して伊勢より御鍬社を勧請し各村輪番で御鍬祭を奉仕し豊作を祈願してきた。明和年中(1764~71)この輪番が当村で終わることになったことから、社殿を造営し以後氏神と仰ぎ祀ったという。明治5年(1872)、村格に列格となり、同6年現在の拝殿が造営され、同時に字西中畑に鎮座の山神社、字石田(現安城市今本町地内)鎮座の秋葉社、弁天社を境内に遷された。その後、本殿は大正3年(1914)に神明造、一重の繁垂木反り無し棟に千木、鰹木5本を置く神殿で、丁度伊勢神宮の二分の一の大きさに造営された。」耕作地の広がる一帯は明和年中(1764~71)には農耕・五穀豊穣を祈願して御鍬信仰を崇敬していたようです。この御鍬信仰は伊勢神宮の御田植初め神事から来ているようで、神事で用いる忌鍬を祀り豊穣を祈るのがある種のトレンドだったようです。以前はこうした御鍬社は普通に見られたものでしょうが、田畑が消え住宅地に変貌すると共に姿を消していった。境内末社と祭神。境内社 / 山神社(大山祇命)、弁天社(市杵島姫命)、秋葉社(火産霊命)年中行事 / 1月1日迎春祭、1月4日新年祭、交通安全祈願祭、2月祈年祭、7月3日弁天祭、10月例祭、12月新嘗祭・除夜祭、毎月月次祭。伽藍は中央の社殿、左側の奥には境内社、一番左に社務所の伽藍。 境内に入った左側に鳥居が立てられています。境内に立つ神明鳥居と右に玉垣で囲われた一画。 鳥居や玉垣を見るもヒントは刻まれていなかった。御神木?伊勢神宮遥拝所だろうか、詳細は不明です。 鳥居だけ見ればこちらの鳥居の方が年月が経っているように見える。社殿全景。瓦葺切妻平入の拝殿から塀が本殿域を取り囲み、拝殿脇から神域に立ちいる事が出来る。 神明造の本殿は幣殿で繋がっている。拝殿左の境内社、瓦葺の鞘堂の中に三社が祀らています。鞘堂脇の由緒書き、ここに興味深いことが書かれていた。「末社と祭神末社をお祀りするこの鞘堂が元来の本社殿てあった。 鞘堂の棟札及び石灯籠は左のようである。棟札 天保5甲午年(1834)、石灯籠 三河碧海群来迎寺村秋葉社 火産霊命 火の神様は、古来火伏の神として庶民の信仰は高い。 この地方の村落では殆どが末社に祀られ、旧町誌には明治6年6月山神社と共に西中畑より社内に遷宮して末社とした。弁天社 市杵島姫命 水の神様で旧町誌には明治6年6月、厳島社を石畑より社内に遷宮して末社とするとある。 厳島神社に併設された弁才天堂と市杵島姫命と習合し弁財社として祀るようになった。 市杵島姫命は河川、湖沼を神格化したもので、ここでは猿渡川が氾濫しないように祈願したらしい。山神社 大山祇命 山の神様は秋冬は山を守り、春になると里に出て他の神になると信じられ、猟師や山の仕事をする人、 農業に携わる人から尊ばれている。 旧町誌には明治6年6月、秋葉社と共に西中畑から社内に遷座し末社とした。 末社前の石灯籠には左の様にある。 11月吉日 山神三州碧海群来迎寺村」知立町誌(昭和48)境内の古い鳥居は元本殿だった鞘堂の鳥居のようで、建替えとばかり思いこんでいた元社殿は新造のものだ。 以前の参道は、あの鳥居からの先にある東海道と鞘堂に繋がっていたのだろう。 左から山神社、弁天社、秋葉社。木の色合いを生かした瓦葺の拝殿、軒下には大きな鈴が吊るされていた。 最初賽銭箱が分からず、格子から投げ入れ参拝しましたが、拝殿後方の左右に門があり、中に入り参拝が許されているようだ。由緒、社頭のものと内容が同じなので割愛します。本殿域の幣殿から本殿の眺め。 ここに賽銭箱があり、再び仕切り直す。参拝を終え本殿を眺める。 由緒にある「本殿は大正3年(1914)に神明造、一重の繁垂木反り無し棟に千木、鰹木5本を置く神殿で、伊勢神宮の二分の一の大きさに造営された」とあったが今一つ実感が沸かない。江戸時代中期発祥とされる御鍬社は、神宮の御田植初めが起源だと云う。 神田と聞くと、五十鈴川右岸の神宮神田か三重県磯部の伊勢神宮別宮伊雑宮の神田しか浮かばないが、 伊雑宮の神田は日本三大御田植祭(千葉の香取神宮、大阪の住吉大社)の一つで、農の豊穣を祈願する儀式としては認知度は高いように思います。 その神事で使う忌鍬を諸国に祀り、御鍬社として稲の豊穣を祈願するようになったのだと云う。耕作地を広げ、農業を営む農民にとっては御鍬社は必須の神社だろう。拝殿の鬼には鍬の文字が入る。 今回、畑仕事の応援で日本のデンマークを訪れ汗を流したが、丹精込めて収穫に辿り着くまでの過程を思えば、自助努力だけでは補いきれない部分は必ずあり、そこを補うため神仏に依存する気持ちは当然だろう。良くぞ実ったものだ、この実りは日々頑張った神からの恵みなんだろう。 それに比べ我家の箱庭の家庭菜園の収量の悪い事、御鍬さんを祀る必要がありそうだ。(それ以前に努力が不足している)。旧東海道沿い、城址や古刹もあり奥が深そうです。御鍬神社建立 / 明和年中(1764~71)祭神 / 豊受比賣命例祭日 / 10月第三日曜日境内社 / 山神社(大山祇命)、弁天社(市杵島姫命)、秋葉社(火産霊命)年中行事 / 1月1日迎春祭、1月4日新年祭、交通安全祈願祭、2月祈年祭、7月3日弁天祭、10月例祭、12月新嘗祭・除夜祭、毎月月次祭所在地 / 知立市来迎寺町西中畑16参拝日 / 2022/11/12関連記事 / 不乗森(のらずもり)神社(安城市里町森)、『皇大神宮別宮と一之宮』一泊二日紀伊長島御朱印ツアーday2
2022.12.28
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東寺1からの引き続きとなる今回は広い境内を持つ東寺の西側を巡っていきます。東寺西側には南から塔頭の潅頂院や小子房、弘法大師空海が真言密教の根本道場東寺を形作り高野山を求め旅立つまで過ごしたとされる御影堂が鎮座しています。 上が今回訪れるところで、一般公開されていない潅頂院や小子房以外は拝観が可能でした。潅頂院東門から壁沿いに北上していきました。上は小子房の勅使門。 この先にある小子房は天皇を迎える特別な建物で、現在の建物は、弘法大師空海の1,100年の年忌に合わせ昭和9年(1934)に再建されたもの。混沌とした南北朝時代、建武3年(1336)、北朝の足利尊氏(源尊氏)が光厳上皇を奉じ都に入った際、戦が治まる間の半年間を上皇が小子房を御所とし、尊氏は食堂に居住したと云う。勅使門は檜皮葺の唐門で、皇族方が利用する時のみ開く門らしく、門の扉には大きな菊花紋の透かし彫りが施され、その周りの菱格子の内側にも細かな透彫りが施されており、意匠はそれにとどまらず扉の柱にもおよびます。 昭和に入ってからのものですが、この細密な仕事は目を見張るものがあります。更に北へ進むと本坊の二つの門。本坊の北側の四脚門が毘沙門堂入口の門。 左の入母屋の屋根が毘沙門堂で御影堂と共に入場は無料。ここから更に北の門に進みます。東寺の境内の西にあって最も北の門が大師堂(御影(みえ)堂)への入口になります。 東寺を形作った弘法大師空海は自らの余命を悟り、約10年過ごした平安京を後に、帰国前に唐から投げた三鈷杵に導かれる様に高野山に旅立っていきます。 ここは空海がそのあいだ身を置いた場所。大日堂。 門をくぐった右側に建ち、東寺のなかでは一番新しいお堂。もとは、江戸時代の頃、御影堂の礼拝所として建てられたようです。その後、桓武天皇、嵯峨天皇をはじめ足利尊氏などの位牌を納める尊牌堂となり、大日如来を本尊としたことから大日堂となったと云い、現在は先祖供養などの回向所となっています。現在の建物は平成12年(2000)に大改修が行われている。大師堂(御影堂・不動堂)を前堂から望む。 空海は、ここを拠点にして講堂の立体曼荼羅を構想し、東寺の造営工事の指揮をとったとされ、空海住房だった事からこの名が来ているとされます。一棟の入母屋檜皮葺の建物に見えますが、後堂と前堂、その間に中門で形作られています。 南北朝時代の康暦元年(1379)に火災で後堂を焼失し、天授6年(1380)に後堂を再建、元中7年(1390)に前堂・中門が増築されこの姿になったとされます。 司馬遼太郎は、暮れから正月にかけて京都で過ごすのが習慣だったそうです。 彼を訪ねた人と待ち合わせる場所はこの御影堂がお気に入りだったようです。寺紋は東寺雲。 前堂内には天福元年(1233)に仏師康勝法眼斎戒沐浴して、一刀三礼し「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えつつ彫刻した大師像と南側の不動堂には大師の念持仏の秘仏、不動明王が安置され、毎月21日(弘法大師命日)は多くの参拝者で賑わう。全国津々浦々の弘法堂でも、縁日が催され、弘法大師を慕う参拝者が訪れ、空海は今も庶民から広く崇敬されている。前堂の鬼や妻飾りには輪宝紋が輝いている。 鐘楼大師堂前堂西の鐘楼。 「梵鐘」は室町時代(1348)に足利尊氏が寄進したもの。毎朝開門の時を告げていたが、傷みが酷くなり、オリジナルは宝物館で収蔵し、現在はレプリカが吊られています。 梵鐘の間には蓮の花の上に仏や金剛界、胎蔵界を表す梵字が刻まれているが、凡人には読み取れない。梵鐘の下は、空海を高野山に導いたと云われる三鈷杵が全周に施されています。 梵鐘のオリジナルを収蔵する宝物館は、年二回公開されており、食堂の火災で被災し、修復を受けて蘇った千手観音菩薩や兜跋毘沙門天など収蔵され、訪れた11/24は秋期特別公開(9/20~11/25)期間中だった事を後になって知りました。 立体曼荼羅に塔の初層拝観に喜んでいたが…また「おこしやす」という事です。 大黒堂 前堂の西側にある中門をくぐった右にあり、向かって右側には不動明王が祀られ、安産祈願に御利益があるとされます。左には三面大黒天が祀られています。厨子の中に安置されている三面大黒天は、弘法大師の作と伝わり、台地の神「大黒天」、四天王の北方の神「毘沙門天」、インドでは河の神とされる「弁財天」の三体が合体したものが三面大黒天で、3神のご利益を一度に授かることができるとされます。 堂に手向けられる生花は三面大国お花講という講により、月々300円でその運営に充てられているようです。大黒堂左の入母屋瓦葺の建物、詳細は分からなかった。 左側の小さな看板は犬の散歩、捨犬を禁じる案内板だった。諏訪大社では「犬の小便の結果・・・」の案内板を見かけた、目の前には通行禁止となった鉄製の橋が架かっていた、犬の小便は物を破壊する威力がある。 コロナでペット需要が盛り上がったようですが、癒しを求めあらゆる生きものが売買されてきました。犬なら訓練も必要、損害保険や医療費など金はかかるし、行動も制限され、時に悪さもする、やがては気持ちも冷める。 別れの時まで看取れる責任が持てなければ、生きものをアクセサリーの様に飼ってはいけない。やがては空にインコが飛び交い、水面に鰐が泳ぎ、在来種が消えていく事になる。 桂川で起きている事は人がもたらした結果です。どんな生きものでも最後まで看取ってほしい。また話が脱線した、もとに戻ろう。上は御影堂の前堂と呼ばれ、入母屋檜皮葺で周囲の縁には高欄が施された落ち着いた佇まいの建物です。 空海の念持仏だった不動明王はこちらに安置されているという。この中では不動明王の御宝前で護摩を焚く法要が執り行われ、燃え盛る炎は、恰も不動明王の光背のようでもあるという。 秘仏の不動明王は法要を行う僧侶ですら目の当たりに拝んだことはないそうです。御影堂後堂の正面。 生前の空海は毎朝6時、一の膳、二の膳とお茶の食事を召し上がったとされ、いまも生見供として受け継がれている。 これは高野山でも同様で、御廟で待つ空海に1日2回、食事を届ける儀式が行われています。東寺の御詠歌には「身は高野、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」とあるという。高野山遥拝所。 空海が築いた高野山、今なら車で数時間で訪れられるが、自らの足で行くしかなかったころは片道でも3日は要しただろう、遠く離れた聖地。その奥の院にある廟を京から遥拝できるのがこの場所。遥拝所解説。 31歳で唐に渡り、恵果の教えの全てと曼荼羅はじめ多くの資料を持ち帰り、東寺や高野山を開き、広く教えを説いた空海は62歳で世を去りますが、各地を修行で訪れた事から空海に纏わる逸話は各地に残ります。 空海が生まれた四国の四国遍路や各地の遍路は空海の生きざまを辿るものなんだろう。天降石。 遥拝所左の石の瑞垣で囲われた一画の中にある石。この石を撫で、その手で身体の患部を撫でると完治すると云う。 古くからこの地にあった石だと伝わり、江戸時代には護法石、五宝石、不動石などと呼ばれていたらしい。現在では天降石や撫石と呼ばれ、今も御利益を求め訪れる方は多いと云う。 因みに、物忘れが多くなった頭を撫でていた自分、その後に続いた海外からの観光客も同じように頭を撫でていたのには少し苦笑い。変な手本をみせてしまったか。毘沙門堂御影堂の南側にある入母屋銅板葺の建物で、空海が唐から持ち帰った兜跋毘沙門天像は、羅城門に安置されていたが天元元年(978)羅城門は倒壊し、長らく東寺の食堂に祀られていたものを新たに安置する目的で、文政5年(1882)に建てられたものが毘沙門堂だとされます。 現在の姿は平成6年(1994)に補修を受けたもの。妻側の正面には三つの額が掲げられており、中央に兜跋毘沙門天王の額が掛けられており、右が愛染明王、一番左に不動明王の額が掛かる。 堂内は中央に兜跋毘沙門天像のレプリカと不動明王、愛染明王像が祀られている。オリジナルは宝物館に収蔵されており、日本最古の七福神巡りといわれる「都七福神」の毘沙門天になっていると云う。毘沙門天は北方の守護神、仏教を守護する神で、毘沙門天を崇敬すれば十種の福が得られ、学業成就や安産の御利益が得られることから、あの菅原道真や小野道風も崇敬したと云われています。 空海が生涯をかけて築き上げた真言密教の教え、真言宗の開祖に留まらず、満濃池の修築工事や綜芸種智院の設立など常に庶民に目を向けた功績を残してきた。 どこぞのポンコツ首相や居眠りばかりして、覚めれば私利私欲しか考えない国民の代表?に少しは見習えといいたい。東寺の北側の北大門をくぐり、北大門の先の蓮池に架かる石橋。 親柱には延宝3年(1675)と刻まれている、いまだに現役の橋。石橋を渡り観智院方向へ、その先から真っすぐ北に延びる石畳は櫛笥小路、平安時代当時の姿を留める唯一の小路で、この前方に北総門が望めます。北大門、北総門ともに鎌倉時代に建てられたもの、北大門は人の映り込みが多く掲載できず、北総門はバスの時間から見送りました。 時間に余裕があれば見ておきたいところです。静かだった境内も10時を過ぎるとツアー客も増え、写真は撮り辛くなる。蓮池でくつろぐ彼らだけは気の済むまで撮らせてくれる。逃げもしない。 この亀は何処の子だったのかなぁ?、うちの近所にいる噛み付き亀よりは可愛げがあっていい。橋の右手に小さな堂、開運大元帥明王堂。 明王の中でも風貌が一番恐ろしい姿をし、全身に蛇が纏わりつき、複数の手には武器を持ち、表情は怒りまくっている姿しかイメージできないけれど、ご利益は必勝祈願、国土防衛、疫病退散と個人よりは国家の安泰を司る明王様の様です。その北側に建つ建物が観智院。 観智院門前の全景。 鎌倉時代、延文4年(1359)頃に真言宗の勧学院として杲宝により創建されたもの。東寺に十五あった別院の中でも厚遇された存在で、江戸時代の徳川家康からも、東寺のみならず真言宗すべての勧学院とする黒印状が送られたと云う。 本尊は杲宝の弟子、賢宝により五大虚空蔵菩薩を安置したと云う。学業成就の御神徳があるようで、お守りを求め訪れる方は多かった。 拝観料300円で拝観できますが、写真は庭園のみに限られており、武蔵の画いた襖絵などは当然NG。拝観はしませんでしたが、門の先に祀られていた静観堂をお参りして東寺を後にすることにしました。慶賀門から東寺を後にして大宮通りのバス停に向かう。 普通に立っているこの門も鎌倉時代初期に再建されたもの。大宮通りから南の眺め、塔手前に見えている門は東大門。 不開門と呼ばれ、南北朝時代に足利尊氏が東寺に陣を置き、新田義貞と戦火を交え、戦場は都から東寺の近くに及び、足利軍は東大門の扉を閉ざし危機を脱したとされます。それ以降、東大門は不開門と呼ばれ、門には当時の戦乱の傷痕が残っているそうです。 普段の生活の中に歴史が普通に存在しているのが京都です、そこを訪れるなら早朝に限る。東寺のライトアップではこの通りを越え、南大門まで拝観の列が出来たようです。 これから紅葉の東福寺に向かいましたが、写真はなかなか撮れなかった。教王護国寺(東寺)創建 / 延暦15年(796)開基 / 桓武天皇宗派 / 真言宗(総本山)山号 / 八幡山院号 / 祕密傳法院本尊 / 薬師如来所在地 / 京都市南区九条町1番地参拝日 / 2022/11/24関連記事 / 伏見稲荷大社御旅所(京都市南区西九条池ノ内)、教王護国寺(東寺)1(京都市南区九条町1)、京都一泊二日 (東寺・東福寺・瑠璃光院・南禅寺)伏見稲荷御旅所から東寺慶賀門 / 東寺通りを西に徒歩5分程
2022.12.27
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伏見稲荷御旅所を後に、次の目的地東寺に向かう。伏見稲荷御旅所の社頭の通りは東寺通りと呼ばれ、名が示す様に、西に5分程向かうと世界遺産東寺の慶賀門に至ります。門右に「史蹟 教王護国寺境内」の石標。 あれぇ、東寺ではないの?となりますが、東寺の正式な呼称を教王護国寺といいます。真言宗の総本山で、平安遷都とともに都の南玄関、羅城門(南区唐橋羅城門町に碑が残る)の東に建立されたのが東寺で、唯一残る平安京の遺構です。 桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で新しい仏教、密教を学び帰国した空海に託し、日本ではじめて誕生したのが密教寺院の東寺で、官寺の寺格を有した国営の寺院。空海は密教の教えを、21体の仏像で立体曼荼羅(胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅)として視覚に表し、講堂に安置しました。 空海の東寺と対峙する形で羅城門を挟み、守敏に西寺(南区唐橋西寺公園に遺構)の建立を下賜しましたが、空海の東寺の隆盛ぶりに比べると西寺の荒廃は寂しいものがあります。二つの大きな伽藍と五重塔が聳え立つ姿は壮観そのものだった事でしょう。 東寺へは空海の思い描いた立体曼荼羅と特別拝観の五重塔初層を拝観する目的で訪れました。慶賀門をくぐり境内に入る、左に視線を移すと手前の宝蔵と奥に五重塔が聳えています。 東寺を訪れた時期は11/24、この時期は紅葉のピークは過ぎ、銀杏の黄葉がピークを迎えていた。宝蔵。 校倉造の瓦葺寄棟造で現在はこの一棟のみですが、創建当時は南北一棟存在し、宝物や経巻が収蔵されていた。長保2年(1000)と大治元年(1126)に消失し、建久9年(1198)に再建されたとされたが、解体修理の際にそれらを覆し、東寺創建時期とされる延暦15年(796)に近い年代に建立された根拠となるモノが見つかったようです。 堀の先でひっそり佇んでいるので目立たないが、高床式の校倉造は正倉院や宝蔵などが示す様に、素材の特性を知り尽くした日本の誇れる技術。瓢箪池から望む五重塔。 紅葉の時期の東寺はライトアップされ一層美しいようですが、日中以上の長い列ができるらしい。東寺の拝観時間は8:00から、少し早めに訪れればそれほど混雑していなかった。 行列が苦手な自分には向かない状況の様です。食堂。 当時の伽藍は南に金堂、講堂、食堂が南北に配置され、配置そのものが仏法僧を表していると云う。南の金堂は本尊の「仏」、講堂は密教の教え「法」、この食堂が「僧」を意味する。 食堂は日常の修行を行う所で、四国八十八ヶ所巡礼や洛陽三十三所観音霊場などの納経所になっています。建立は、平安時代とされ、足利尊氏は東寺に本陣を置き、この食堂に居住していたこともあったとされ、本尊は約6メートルの千手観音菩薩で持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が護っていました。 昭和5年(1930)の火災により堂は焼失、仏像は大きく損傷したと云い。それらは修復を受け本尊は宝物館に保管、新たな本尊となった十一面観音像を修復を受けた四天王が守護しています。 現在の建物は焼失後、3年間の工事を経て建てられた、入母屋瓦葺の建造物。食堂正面と夜叉神堂。 東西2棟の小さな堂は左が雄夜叉、右が雌夜叉の堂。内部に安置されていた本地文殊菩薩と本地虚空蔵菩薩は修復を受け宝物館に遷座されています。 歯が痛い方は宝物館にお参り下さい。講堂から金堂の眺め。 講堂は幅約35㍍の入母屋瓦葺で、講堂正面の漆喰壁に三間の扉があるだけで、一見見所がないように見える。しかしここが東寺の核心といっても過言ではなく、内部には21体の仏像が安置され、空海が伝えたかった密教の世界観を、曼荼羅や文字ではなく仏像により立体的に再現されています。 上は東寺栞から抜粋。 堂の中央に宇宙の根源とされる大日如来を中心に、右側に五大菩薩坐像、左側に空海が初めて伝えた五大明王像などの国宝が安置されており、堂内は全面撮影禁止ですが、点眼鏡で間近に見る事は許されています。東寺の建立は弘仁14年(823)から始まり、承和6年(839)に16年の歳月を経て完成したとされます。 建立当初は講堂と金堂の周囲を廻廊が巡り、ふたつの伽藍をつないでいたという。それも、文明18年(1486)に金堂、南大門などを焼失。 その後の再興は桃山時代(1573~1603)に金堂が、南大門は江戸時代に入るまで再建を待たなければならなかったとされます。しかし、この講堂だけは焼失後僅か5年後に再建されたと云い、東寺にとって如何に重要な存在だったのかが窺われます。金堂。 延暦15年(796)東寺の創建で最初に建造がはじめられたのが金堂で、国営の東寺として荘厳な姿を求められたとされ、そうした事もあり、伽藍の中で唯一、二層の様に見えますが、内部は一層で一階の屋根は裳階、中央の切り上げは東大寺大仏殿の意匠にも通じ、意図した荘厳さが伝わってきます。金堂内部には本尊の薬師如来坐像を中央に、右に日光菩薩、左に月光菩薩を配している。 特に薬壺を持たない薬師如来坐像、七体の化仏を配した光背や、台座に施された十二神将など緻密な意匠が見所、東寺拝観に点眼鏡は外せない。 空海は伽藍全体でも曼荼羅を再現しようとしたのかもしれません。いずれも桃山時代の金堂再建時のもの。五重塔。 空海が講堂の次に着手したのが五重塔とされる。しかし、造営から30年を経過し費用も人手も不足、そこで天長3年(826)に朝廷に東寺の塔を作る支援を求め完成にこぎ付けたのがこの塔。 塔は過去に4度焼失、その都度再建され、現在の塔は寛永21年(1644)に徳川家光が再建しもので、高さ54.8㍍の日本最高の塔とされる。塔の傍らに五重塔の側面構造図と初層の平面図。 初層の特別拝観は平面図の東側から内部を見ることが出来た。上は拝観時に頂ける解説。 こちらの方が分かりやすいか、この技術は現代のスカイツリーに応用されるなど、昔から木と接し代々受け継がれて来た日本人の誇る知恵の一つ。(画像は東寺HPより)初層内部。 中央心柱の大日如来を四尊の如来、八尊の菩薩が脇を囲み、四方柱に金剛界曼荼羅、四面の側柱に八大龍王、四方の壁に真言八祖像が描かれています。胎蔵界曼荼羅(右)と金剛界曼荼羅(左)(画像は東寺HPより) 空海は其々もとになる経典の違う二つの曼荼羅を持ち帰り、一つのものとして独自の教えを説き、生きとし生けるものの平安を願ったのだろう。この空間にも空海の思い描いた世界観が視覚化されている。 有料になりますが、これらの保全に貢献できると思えば安い物です、点眼鏡片手にじっくり拝観したいところです。この時期は瓢箪池から望む五重塔が一番印象的なんだろう、結局ここに戻ってきた。平安京の正門、羅城門を挟んで建立された東寺と西寺。延暦15年、796年に東寺が創建され、最初に工事がはじめられたのが金堂です。 ここから南の南大門方向へ。南大門の左に鎮座するのは八嶋社。 石の明神鳥居の先に朱色の拝所を構えている。伽藍は五重塔の西に位置し、鳥居に掲げられた額には「八島社」とある。唐破風屋根の拝所に掲げられた額には「八嶋社」とある。八嶋社。 祭神は東寺の地主神とも、大己貴神とも云われるようです。八嶋社の由来は我国を大八洲瑞穂国という所から起った社号で、それ故にこの社は東寺以前から鎮座していたとされる。 弘法大師空海はこの神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち、この神へ寺門建立成就、方位安全、法道繁栄を祈願し地主神と崇めたと伝わる。 長い歴史を誇る東寺、それより更に創建は古いという。本殿は銅板葺流造で、年代は分からないが痛みのない外観から近年再建されているようだ。本殿前の狛犬。 滑らかな曲線を描く小さな狛犬、恐らく木造だろうか。小粒な体つきてありながら、立派な尾や角を持っている、「体の大きさで決めるなよ」とでも言いたげだ。 空海にして祈願をしたと云う地主神八嶋社、参拝しておくべき所です。 周囲の紅葉に引けを取らぬ鮮やかな朱色の社殿です。 八嶋社創建 / 不明祭神 / 不明南大門。 現在の南大門は明治元年(1868)に焼失。明治28年(1895)、豊臣秀頼により建てられた三十三間堂西大門の八脚門を移築したものらしい。南大門の右の東寺鎮守八幡宮。 入母屋銅板葺の拝殿と流造の本殿を持ち、東寺創建時の王城鎮護を願って祀られた社と云われる。本殿には僧の姿をした僧形八幡神と二尊の女神が祀られ、それらは空海自ら彫ったものされ、わが国最古の神像だと云われ、他に武内宿禰も祀られているそうです。 鎮守八幡宮は、平安時代に起った薬子の変(810)を鎮めたと伝えられ、以来、戦勝祈願の社として崇敬され、足利尊氏も祈願に訪れたと伝わります。現在の伽藍は明治元年(1868)に焼失後、平成4年(1992)に新たに再建されたもの。社殿周辺の解説。八幡宮社頭の前に立つ 灌頂院東門。 鎌倉時代後期のもので寛永11年(1634)に再建された切妻瓦葺の四脚門。 灌頂院北側にも似た形状の北門があります。ここから南大門の門前に出て見る。南大門門前から金堂の眺め。門脇の教王護国寺解説。南大門の門前は東西に堀があり、水辺を求めて訪れるアオサギ?が群れ、南大門は止まり木になっていた。東寺は一辺約300㍍のほゞ正方形の広い境内と伽藍を誇っています。 一度で済ませたいところですが、まだ御影堂もあり、二回に分けて掲載する事にします。今回は赤枠部分、次回は灌頂院東門から御影堂方向に向かいます。教王護国寺(東寺)創建 / 延暦15年(796)開基 / 桓武天皇宗派 / 真言宗(総本山)山号 / 八幡山院号 / 祕密傳法院本尊 / 薬師如来所在地 / 京都市南区九条町1番地参拝日 / 2022/11/24関連記事 / 伏見稲荷大社御旅所(京都市南区西九条池ノ内)伏見稲荷御旅所から東寺慶賀門 / 東寺通りを西に徒歩5分程
2022.12.26
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だいたいこの時期には雪は降るものだ。 今朝はやけに静かだった。まさにホワイトクリスマスだ。朝一番の我家の玄関先に見慣れぬ足跡、正体は誰だろう? サンタではなさそうだ。
2022.12.24
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名古屋市西区那古野1 堀川に架かる五条橋を西に渡ると正面に円頓寺商店街のアーケードが現れます。ここは円頓寺商店街の東にあたり、ここから西に向けアーケードが続いています。 清州越しに伴い掘削された堀川、水運の要衝となり、美濃路を行き交う旅人や清州から移転した寺社の門前町として発展してきた通り。五条橋。 堀川に架かり、円頓寺商店街の東に位置します。今から約400年程前、家康により名古屋城築城に伴い、それまで政治の中心となっていた清州城から名古屋城に機能を移す清州越しが行われ、清州城下の人や物、寺社、商店、町名など一斉に移転されました。名古屋城下を形成する中心的存在になったのが人の手で掘削された堀川です。堀川に架かるこの五条橋も清州越しに伴い、清州城の西を流れる五条川に架けられていたのを移転したもので、五条橋の名の由来はそこから来ています。 堀川が完成し最初に架けられた橋が五条橋です。現在見る橋は鉄筋コンクリート製のもので昭和13年(1938)に建替えられたものです。 当時、こうした技術があろうはずもなく木造の橋でしたが、幾度か補修を繰り返し昭和の時代まで使われていました。架け替えはオリジナルのデザインを意識したものだと云います。橋の袂には昭和の頃の五条橋の姿や江戸時代に水運で栄えていた当時の光景が掲げられています。 水運が栄えると両岸には荷下ろしの為の石畳や荷を保管する蔵が立ち並び、人が集まると町屋も広がっていきます。五条橋右岸の親柱の脇に流麗な曲線を描く山型造りの社は地に下りた屋根神様。 人が集まり長屋が連なる堀川沿いは一度災いが起れば他人事では済みません。元禄13年(1700)に起きた大火では1640軒余りの町屋を焼失、当時の尾張藩主の徳川吉通は、こうした被害拡大を抑えるため、堀川沿いの商家が連なる通りの道幅を4間(約7㍍)に拡張させました。 現在の四間道と呼ばれる通りの名の語源といわれます。そうした過去の経験もあり、災い除けの拠りどころとなる神社は必然的に祀られていきます。 普段の社は扉が閉ざされていますが、祭礼時にはこの扉が開かれるのでしょう。五条橋を渡る機会はあっても、扉の開いている姿は見た事はありませんが、恐らくは津島神社・秋葉神社・熱田神宮の三社が祀られているでしょう。扉が開かれる祭礼は恐らく、正月や毎月1・15日の月次祭、その際は中に祀られている三社の提灯が吊るされている事でしょう こうした屋根神様の起源は定かではなく、堀川の歴史と共にあるのかもしれません。主に明治、大正に祀られたものが多いようですが、昭和に入り、戦災やその後の家屋の建替を契機に数を減らしていったようです。五条橋親柱の擬宝珠、慶長7年(1602)と刻まれています。 現在の擬宝珠はレプリカでオリジナルは名古屋城で見ることが出来ます。 堀川の開削が慶長15年(1610)とされます、この橋はその8年前に清須の五条川に架けられていた証でもあります。五条橋から名古屋城方向の堀川の眺め、名古屋の街づくりに文化に大きな役割を果たしてきた堀川、現在の工事が終われば本来の姿を取り戻す。五条橋の袂に佇む屋根神様創建 / 不明祭神 / 不明祭礼 / 正月、毎月1・15日 所在地 / 名古屋市西区那古野1-1参拝日 / 2022/12/08関連記事 / 中橋の袂で佇む屋根神さま (西区那古野1)、屋根神と子安地蔵尊(名古屋市西区那古野1)、屋根神さま(西区那古野1-35)、中村家と屋根神様(名古屋市西区那古野1)
2022.12.23
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大分県滞在二日目。 気持ちのいい朝焼けから始まった二日目、本日の予定は温泉地湯布院を目指す。 その前に、折角別府に来たのだから、旅館から歩いて廻れる距離でもある地獄巡りを楽しんでからにしよう。今回はその地獄巡りの際に海地獄で祀られていた白龍稻荷大神と小さな社を取り上げて見ます。名勝海地獄。 茅葺屋根の長屋門が入口。白龍稻荷大神へは地獄巡りの共通観覧券か、個別のチケットを手に入れないと参拝ができません。 海地獄の施設マップ。 これより下に出てくる写真を撮影場所に貼りつけておきます。門をくぐると目の前に蓮池が現れる。 訪れたのが10月27日、水面には季節外れの睡蓮が咲き誇っていた。紅葉に睡蓮、大鬼蓮、温泉地ならではの光景かもしれない。 海地獄園地には青い湯の海地獄と真赤な湯を湛えた赤池の熱泉があり、他に温泉の熱を利用した温室が見所。 海地獄で見かけた覆屋。 地獄を目当てに訪れる人が多いなか、お参りする観光客もなく、園内の片隅にひっそりと祀られていた。中には三体の地蔵が安置されており、穏やかな表情をした左右の地蔵は安政4年(1857)に寄進されたもの。 中央の小さな地蔵の年代は不明で、風化により表情はもはや分からない。こちらは海地獄の展望台入口脇の少し上がった場所に祀られていた小社。 海地獄を見下ろす様に鎮座する社。案内板はなく、地獄を行き交う観光客は通り過ぎて行く。板宮造りの小さな社ですが、榊も供えられており地獄を鎮護する社なのだうか。 地獄を前にすると小さな社は存在感がないかも知れないが、外国から訪れた観光客には「Cool」に映るかも。海地獄。 園内の一番奥にあり、鮮やかなコバルトブルーの熱泉を湛える。今から約1200年前の貞観9年(867)正月、鶴見岳の火山活動に伴い出来た熱泉のひとつが海地獄です。 地下200㍍から湧き出す湯が海のようなブルーに見えることがその名の由縁で、湯温は約98℃と煮えたぎる地獄の熱さ。青い熱泉と白い湯気が一面立ち上る海地獄、湯気の切れ間の先に朱の明神鳥居が垣間見れる。 白い湯けむりの中で朱の鳥居は一段と鮮やかに映る。一ノ鳥居の扁額には「白龍稻荷大神」とある。 朱の鳥居は「Cool」に映るようで、鳥居の前や柱に抱き着いて、記念写真を撮影する人が途切れることはない。神橋前の鳥居。 橋を渡って右側に手水舎がある。手水鉢に注がれる清水は湯だった。 外国人観光客の多くは、鳥居や朱の橋、手水舎まで足を運ぶものの、ここから覆屋へは意外に訪れないようでした。朱の鳥居にはためく赤い幟、その先の朱の覆屋など外国人観光客が好みそうなんだが。 覆屋に足を向けないように見えた。内部には流造の白龍稻荷大神の社と、左脇に白龍稻荷大神と彫られた石標が立ち、更に左に狐と思われる石の立像が建てら、その左に小さな社が祀られていました。 白龍稻荷大神本殿。 家内安全、商売繁盛、交通安全の御利益が得られると云う。大分県神社庁などに目を通したが、白龍稻荷大神の由緒などはよく分からなかった。左に安置された石の立像。狐でいいと思いますが。左の小さな社。 こちらも社名や由緒などよく分からなかった。手水舎から一ノ鳥居と海地獄方向の眺め。 真赤な湯を湛えた赤池。 血の池地獄ではありません、鳥居の鮮やかな朱色とは違い暗い赤。あちらこちらで噴気が上がり、地下では今も盛んに活動している。 噴気で隠れていますが後方に温室があり、そこには色とりどりの熱帯性睡蓮が咲き誇っていた。温泉の熱を利用したもので、あまり見慣れないカラフルな色の睡蓮を見ることが出来た。 睡蓮好きには良い場所かも知れません。白龍稻荷大神について詳細が掴めず、内容が乏しく申し訳ないですが、青や赤の湯の色と白い湯煙に朱の鳥居、そしてこの鮮やかな睡蓮の色。 地獄巡りの中で自然の営みと多彩な色が見られるのが海地獄の様な気がする。別府白龍稻荷大神創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 大分県別府市大字鉄輪(かんなわ)559-1参拝日 / 2022/10/27関連記事 / 大分県(別府・湯布院) 一之宮巡りDAY3
2022.12.22
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名古屋市西区那古野1「中村家と屋根神様」浅間神社の南側の路地を西に向かい、二つ目の交差点を右へ進むと円頓寺商店街に続く路地が伸びている。円頓寺方向の眺め。 その昔は写真の様な町屋が軒を連ねていたのだろう。壁一枚で臨家と接した建物も、新しい建物に置き換わり、今ではその連なりも一部歯抜けになったり、分断された建屋が連なる光景に移り変わっている。 それでも、表通りはコンクリートの四角いビルが立ち並び、見上げるようなビルも聳えているが、一歩入ればこうした街並みが一部に残り、どこかホッとする場所でもある。中央の木造瓦葺の建物が中村家で二階軒下に祀られた屋根神様が今回の目的地。 時間の流れと共に、この区画で唯一残ったのが中村家。那古野1丁目まちづくり研究会による「中村家と屋根神様」の解説。「築200年と云われる旧家・中村家は江戸時代の商家の佇まいを良く残しています。 当家の屋根にある屋根神様はこの地方独特の風習で、津島神社・秋葉神社・熱田神宮の三社を祀り、そのお祀りは今も続けられています。ここは仏教系の秋葉さんで、静岡県袋井市の秋葉総本殿可睡斎という寺院が本山です。 鎮火防火の秋葉信仰は静岡県の秋葉神社から起りましたが、明治の神仏分離令で、仏教系の秋葉神社は火の神「火之迦具土神」を祀る様になりました。 中村家の秋葉神社は秋葉三尺坊大権現を祀っています、この神は室町時代以前に秋葉信仰で活躍した修験者の事で、天狗又は烏天狗が白狐に乗る形に象徴化されています。 この辺りは円頓寺筋とつながって、昔はにぎやかな御本坊筋とも云われました。」地方から訪れた人にはとても有難い解説です。二階の軒下に祀られた屋根神様。 今でも現役なのが見て取れます、左右の壁には枠に囲まれた額があり、絵なのか、こて絵だったのか分かりませんが、意匠が施されていたようです。こちらの屋根神様は四角い箱型の中に祀られ、祭礼の時はこの扉が開けられ社の姿が現れる。こんな高い所に祀られているので御世話も大変。 梯子を架けてお世話する事になります。なぜ敢えてこの場に祀る事になったのだろう。 軒が連なる町屋の生活は一度火災が起きればすぐに延焼してしまいます、運命共同体のようなもの。火伏の秋葉さんは必然的に祀りたくなるものです。 見渡せば長屋が連なり地面に社を祀る土地も資金もない、そうした環境下で着目されたのが軒下だったのでしょう。信心深かった当時、町内で祀られた屋根神様を住人が世話するのが自然に受け入れられていたはず。 自然に当番札が作られ、持ち回りで面倒を見る神社当番が生まれ、それと共に住民同士のコミュニケーションができ、町内は上手く回っていたのだろう。こうした屋根神様はこの地域ばかりではなく、小牧や木曽川を越えた岐阜県の街道沿いなどに一部残っていますが、高所の御世話は高齢になると難しくなり、建て替えと共に姿を消しつつあります。海外と違い、日本は古い家屋に価値が生まれないので、家のライフサイクルが短く、築200年の家が残るのは歴史的価値がないかぎり、取り壊されていきます。 古い家屋に対する価値観の違いも屋根神が消えていく要因になっているのでしょう。お洒落な家が立ち並び、住民も変われば、人の繋がりも薄れ神社当番も回らなくなっていくのだろう。 個人宅や公園の片隅に佇む小さな社が、以前は町民で世話した守り神だった事すら風化していくのだろう。こうした光景が見られるのも長くはないのかもしれない。中村家と屋根神様所在地 / 名古屋市西区那古野1-17-5関連記事 / 淺間神社(西区那古野1)、「秋葉山本宮秋葉神社」静岡県浜松市天竜区春野町、熱田区神宮2「補陀山 円通寺」、全国天王総本社『津島神社』(津島市神明町)
2022.12.21
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久し振りの京都。 名古屋から新幹線で一時間もあれば京都の地を踏みしめられる。車で訪れようものなら駐車場に困り、観光名所や食事処は何処に行っても海外旅行者とツアー客で溢れ、 気安く訪れたいと思えないのが京都の個人的な印象かもしれない。しかし瑠璃光院の紅葉を見るためにもここは受け入れるしかない。京都駅から西に徒歩10分程。 東寺に向かう途中、油小路東寺道の交差点の西角で、古い寄進者銘の連なる玉垣に囲まれた「伏見大社御旅所」の前を通りがかる。伏見大社の神様が祭礼の際に臨泊される場所で、普段神様は伏見大社におられるので今は不在。境内は北と南に二つの鳥居があり、写真は南の鳥居から境内を見ています。 境内は落葉した赤いもみじの葉が朝陽を受けて赤い絨毯を敷き詰めたようだ。この時ばかりは朱の鳥居の存在感も薄くするほどだ。境内の伽藍は左の建屋は奉安殿?と奥の赤い建屋は神楽殿、参道中央に神輿台車庫、右に境内社の伽藍。 伏見稲荷はとんでもなく人が集まるが、駅から近い御旅所は誰一人出逢わなかった。意外な穴場かもしれない。境内右に横一列に四つの社が並んでいる。社頭の御旅所解説。「此処は伏見稲荷大社(伏見区)の御旅所です。 この御旅所は、かつて七条油小路と八条坊門猪熊の二か所に分かれてありました。天正年間にこの地に移り現在に至ります。 稲荷祭りでは五基の神輿、田中大神(田中社)、佐多彦大神(中之社)、宇迦之御魂大神(下之社)、大宮能売大神(上之社)、四大神(四之大神)が駐輿し、その間神輿の氏子区域(不動堂、西九条、塩小路、中堂寺、東九条、八条東寺)の巡幸、神楽殿での湯立神事、六斎踊り等々により境内は氏子、参詣者で賑わう。境内社殿、神輿台車庫、神楽殿、奉安殿の整備は平成19年より順次行われ、社殿(下命婦社、上命婦社、御旅殿、大神宮)は平成27年に竣功。 御旅殿を除いた社殿は、神宮遷宮後の古殿舎の使用材が使われている。周囲の石玉垣は明治40年に新設され令和元年に改修されたもの。 所在地京都市南区池ノ内町98祭礼日 菜花祭 4月初巳の日、稲荷祭・神幸祭 4月20日前後近接日曜日、区内巡幸 4月氏子祭の日、還幸祭 5月3日、火焚祭 11月10日」全国津々浦々のお稲荷さんの本店、伏見稲荷大社、その神様が御旅所に訪れるのは神幸祭の時。 天正年間(1573~1592)、下社(七条油小路)、中社・上社(八条坊門猪熊)の御旅所は秀吉により統合され、この地に遷されたもので、旧地は古御旅所と云われ、ここから北西の南区古御旅町に地名として名が残っています。稲荷祭は貞観年間(859~877)から続き、室町時代の1442年には山鉾も登場するなどし、祇園祭に匹敵する祭りだったといいいます。 その祭も応仁・文明の乱(1467~1477)の戦乱で中断、それと共に山鉾も姿を消したそうだ。戦乱後の1476年に神幸が再開され、江戸時代には賀茂祭、祇園祭と共に京の三大祭の一つとして称されたようです。 神輿台車庫に保管されている神輿は、一基の担ぎ手が300人を要する大きなものという、普段はシャッターが下ろされその姿を見る事は出来ない。神楽殿も普段は引き戸が閉じられ祭礼時の賑わいを感じさせない、駅近くにありながら静かさが漂う境内です。赤い絨毯の先の四つの境内社。 正面が稲荷社で祭神は稲荷大神、右の神明造の相殿には左に豊受皇大神、右に天照皇大神が祀られています。稲荷社の左の上命婦社、祭神は上之命婦、その左が下命婦社で下之命婦を祀ります。境内社右から四社の眺め。 2015年(平成27)に手を掛けられただけに、稲荷社始め何れの社も綺麗な状態で、鮮やかな朱塗りは鏡の様に輝いていた。この稲荷社と東寺は空海に纏わる言い伝えも残る。駅からほど近く、本来の静かな京都を感じられる場所かも知れない。 ここから僅かばかり西に歩けばそこは東寺、こんなに落ち着いて参拝や写真に収めるのは難しいのかも。伏見稲荷大社御旅所創建 / 不明、天正年間(1573~1592)遷座所在地 / 京都府京都市南区西九条池ノ内町98境内社 / 稲荷社、神明造の相殿、上命婦社、下命婦社参拝日 / 2022/11/24JR京都駅から目的地まで / 徒歩10分程関連記事 / 京都一泊二日 (東寺・東福寺・瑠璃光院・南禅寺)、青春18切符で京都まで VOL1『伏見稲荷大社登頂』
2022.12.20
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津島市神明町「津島神社」全国天王総本社として、西の八坂、東の津島として知られる。門前町を西に進むと、朱の東大鳥居が現れる。鳥居の先に朱で彩られた二層の楼門。往古は津島牛頭天王社と称し、今も「お天王さま」として崇敬される神社。社伝によれば540年(欽明天皇元年)鎮座とされ、810年(弘仁元年)に正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇(980~1011)の正歴年中、天王社の号を授かり天王社の本社として全国に約3000社の分社があります。歴史があるだけに当然ながら尾張名所図会にもその姿は残されている。広大な境内に塔頭寺を含め規模の大きな伽藍が描かれています。上は写真の東鳥居を下にして門前町と右脇に宝寿院、上に向け伽藍と参道には多くの参拝者の姿が描かれています。伽藍は挿絵の左に建つ南鳥居から更に左方向に続いていきます。昔も今も津島神社に参拝する参拝客の姿は途絶える事はない。当時と今で大きく違うのは、歩きから車に変った事、東大鳥居周辺は参拝者駐車場となり多くの車が駐車し賑わっている。上は先の挿絵の南門から左の続き。南門前の広い境内に南大鳥居が建ち、現在は鳥居から南門にかけて駐車場となっています。参道を更に南に進めば天王祭で知られる津島湊(天王川公園)も近い。600年以上受け継がれ、昨年は7月24~25日開催予定でしたが中止を余儀なくされたようです。祭りは無形民俗文化財、ユネスコの無形文化遺産にも登録され、まきわら船の屋台の上に365個(1年の日数)の提灯、中央の真柱に12個(1年の月数)の提灯をかかげあかりをともし天王川を漕ぎ渡る夏の風物詩。古くは信長もこの天王祭をよく見物した云う。現在は流れは堰き止められ池となったが、挿絵には滔々と流れていた頃の天王川を舟で訪れる姿もある。東大鳥居から太鼓橋を経て国の重要文化財に指定される楼門方向の眺め。入母屋檜皮葺の二層の門で1591年(天正19)秀吉により寄進されたもの。1941年(昭和16)に修復の手が入っている。楼門左の末社。右愛宕社 祭神 迦具土神(防火・火の守護)1760年(宝暦10)建立の銅板葺流造の社で、元は楼門外北側の橋守社と相似して鎮座していたが神厩移転の際現在地に遷座。左橋守社 祭神 猿田彦命(交通安全・導きの神)銅板葺流造の社で、1760年(宝暦10)建立、元は天王川に架かっていた天王橋の守神として橋の袂に祀られていたとされ、橋姫社と称していたという。楼門右に手水舎、手水鉢。(写真は2018年6月撮影)津島神社由緒と境内案内図祭神 / 建速須佐之男命、 相殿 / 大穴牟遅命(大国主命)由緒「津島神社は古くは津島牛頭天王社と申し今日もなお一般に「お天王さま」と尊称されております。 大神は国土経営・産業開発にお力を致され民生の安定に限りないご仁慈を垂れさせられた御神徳は広大でありますが、わけても津島のお社は人の身に起こる災厄と疫病(はやりやまい)除けの守護神として、また授福の大神としてあまねく世に知られて居ります。 社伝によれば当社は欽明天皇元年(西暦540年)のご鎮座で弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇の正歴年中、天王社の号を賜ったと伝えられ、いわゆる諸国の天王社の本社として全国に約3,000社の御分霊社があります。 御鎮座以来、歴代の武門貴賊から篤く尊崇されましたが、殊に戦国時代津島の隣り勝幡城出身の織田氏は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、秀吉公を始め豊臣一門は織田氏に続いて社領を寄進し造営を授けるなど尊信し、現在の重要文化財指定の楼門は天正19年(西暦1591年)秀吉公が寄進され、また愛知県文化財指定の南門は慶長3年(西暦1598年)秀吉公の病気平癒を祈願して秀頼公より寄進になったものであります。 又現在の御本殿は慶長10年(西暦1605年)清洲城主松平忠吉公(家康の四男)の病弱を憂えた妻女政子の方の寄進になった建物で重要文化財に指定されております。 天保4年尾張藩主徳川義直公は社領として津島向島の地で高1,293石余を寄進し後に将軍家綱公の朱印状を以って幕府寄進の神領地となり明治維新まで続きました。 幕府光格天皇以降、朝廷内々のお沙汰を以ってしばしば歴代の主上親王様方のご祈祷を仰付けられ又有栖川宮家のご祈祷所をも仰付けられました。 明治6年県社に大正15年国幣小社列せられましたが、終戦後この制度は廃止されました。例祭 6月15日、尾張津島天王祭宵祭(提灯祭)第4土曜日 夜朝祭(車楽船祭) 7月第4日曜日 昼」 境内には本殿含め37の摂末社が祀られ、ここに掲載した末社はその一部分にしかすぎません。(今回、写真を整理していて津島神社が未整理で投稿すらしていないことに気付き、2018年の画像を基に投稿しています)上は尾張名所図会の当社記述。津島神社を氏神とする信長から厚遇され、神社神紋紋木瓜紋と織田氏の家紋も同じである事など信長と神社の関りの深さが窺われる。秀吉が1591年(天正19)に寄進した楼門、丸柱や三手先の斗供、垂木など赤く塗られた二層の門は、軒の長さもあり、艶やかでどっしりとした安定感を感じさせる。国の重要文化財に指定されている。楼門から境内の眺め。上は授与所から拝殿方向。下は拝殿から南門方向の眺め。拝殿から本殿方向の眺め。南門、蕃塀、妻入拝殿と平入の祭文殿、それに廻廊が左右に繋がり、渡殿から流れ造りの本殿に続く尾張造。檜皮葺の切妻妻入拝殿は1649年(慶安2)建造とされ県の指定文化財。この先にある祭文殿や渡殿は1823年(文政6)の建造で廻廊は1825年(文政8)の建造で何れも県の指定文化財。本殿は1605年(慶長10)の棟札が残り国の重要文化財に指定されている。上楼門左側の摂末社群、突き当りから南門方向にも複数祀られている。境内にある摂末社の内、ここから南に祀られた摂末社を参拝して行く。下柏樹社 1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命奇御魂。御神徳 無病息災。上瀧之社(左)、祭神は配水の神、弥豆麻岐神を祀る。右は和御魂社、1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命和御魂。1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命奇御魂。御神徳 無病息災下突き当りに鎮座する二社左大蔵社(左) 穀物の守護神大年神を祀る。 右が熱田社、災難除けの神、倭建命を祀る。 更に右へと社が続く。上熱田社から南門方向の摂末社、ここからは社名むと祭神のみ記載。左から米之社(宇迦之御御魂神)、児之社(若年神)、大社(大山咋命)、外宮(豊宇気比売命)、船付社(庭高津日神)と南門に向けずらりと鎮座する。下南門から見た摂末社。上摂末社を過ぎるとシックな蕃塀が建つ、檜皮葺で控え柱の付くもので中ほどは透垣になっている。江戸時代後期の建造で県の指定文化財。正面の鳥居は弥五郎殿社。下南門。1598年(慶長3)建造の四脚門で県の指定文化財。秀吉が病に伏した時、秀頼の発願で清洲城主福島正則が建立したとされる。南門から入ると左側に三社祀られています。左から多度社(羽山戸神)、秋津比咩社(速秋津比売命)、内宮(天照大神)。更に左手に朱の鳥居を構える社が摂社の弥五郎殿社。本殿は流造で拝殿・本殿共に1673年(寛文13)の建造でどちらも県の指定文化財。祭神は大穴牟遅命、武内宿禰命。郷土の守護社家堀田一族の堀田弥五郎正奏が造替、津島神社社宝で国の重要文化財の大原真守作の佩刀を寄進するなどから弥五郎殿社と呼称されるそうだ。上拝殿右の社は戸隠社(手力雄命)下弥五郎殿社拝殿から本殿の眺め。上弥五郎殿社から津島神社拝殿方向の眺め。気付かなかったが左の西の廻廊と東の廻廊にまだ多くの摂末社が祀られていた。次回はこの摂末社は忘れずに参拝しよう。下蕃塀から境内方向の眺め。右は旧授与所。 ここから南門を出て南大鳥居方向に。神橋から南門境内の眺め。上神橋の左に南門参道の手水舎がありその左に石標が立つ。下石標は照魂社とあり、正面の鳥居から先に拝殿と本殿が祀られている。津島照魂社の謂れ「昭和26年10月9日、旧津島町出身の英霊六五八柱を奉斎して遷座され、祖霊社としてお祀りしたのが始まり。昭和29年10月10日現在地に移築し社頭を整備した。昭和51年5月、終戦30周年記念として本殿の修復及び境内整備を行う。昭和54年8月、遺書掲示板を設置し、同年12月には狛犬一対が奉納された。主な大祭(祭典)、御魂祭/7月15日(夜)、10月10日(昼)、月次祭/毎月10日(午前)現在祭神数一一七三柱」郷土のために英霊となられた方々へ、平穏な日々が送れることに感謝するしかない。上照魂社の左に鎮座する菅原社。下参道左に手水鉢と与謝野晶子の歌碑が彫られた碑が建つ。「二もとの銀杏を於きて自らは紅き津しまの神の楼門」上参道入口にある津島市指定先祖の遺産「三つ石」長さ2㍍、1.4㍍、3㍍、直径1㍍ほどの石がトライアングル上に配置されている。この石については何ら伝承がないという。尾張名所図会の神社境内図の現在地と同じ位置に三つ石は描かれている。(下)津島神社は540年(欽明天王元年)に居森の地に鎮座と伝承されており、古代祭禮の場ではないかとも云われる。この三つ石はその一角に置かれていて津島神社の鎮座と関わりがあるのかもしれない。ミステリアスな石だ。 写真下鳥居の先、中央に菅原社、左にも小さな社と右側の絵馬掛けの先にも社が祀られています。 f:id:owari-nagoya55:20220208215159j:plain 正面の菅原社1644~1647年の政保年間、津島神主氷室氏の邸内社として京都北野社(北野天満宮)から勧請されたもので1901年(明治34)にこの地に遷座したもの。祭神は菅原道真、例祭は3月25日。左の社は不明。菅原社の右に小さな鳥居を構えて鎮座する社。こちらも少し調べて見るが社名など詳細は分からなかった。ここから南大鳥居方向に進めば疹社と摂社の居森社が鎮座していますが、宝寿院で御朱印の話に盛り上がっているかみさんの元に戻る事にした。2018/6/15 津島神社創建 / 540年(欽明天皇元年)祭神 / 建速須佐之男命、 相殿 / 大穴牟遅命(大国主命)摂末社 / 南大鳥居参道沿い、境内廻廊の南、東に本殿含め37社所在地 / 愛知県津島市神明町1公共交通機関アクセス / 名鉄津島線「津島」駅から西に徒歩15分程 関連記事 / 津島市 Vol 4『宝寿院』 余談今回、別記事掲載に際し、関連記事としてここに飛ばしたかった。しかしさっぱり見当たらず、纏めていない事に気付き急遽掲載する事にしました。過去の日付でしれっと掲載できません。掲載写真は2018/6/15時点のものです、ご容赦下さい。この際、コロナ直前の京都、奈良などの神社仏閣の写真が多数出てきた。参拝客の映り込みが多く見送っていたのだろう。メジャーな神社仏閣を訪れるには、ある意味今がいいのかもしれない。
2022.12.17
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12月14.15日寒空の下、三重県志摩市磯部町的矢のいかだ荘へ牡蠣を食べに出かけました。 そしてかみさんが子供の頃、よく訪れた桑名の町、当時の記憶を辿る徘徊も兼ねていた。名古屋から近鉄で桑名駅まで約25分の電車移動。 かみさんが子供の頃に遠足で連れてこられた九華公園、当時の朧げな記憶を呼び起こすために寄ってみた。桑名駅三岐鉄道北勢線の起点でもあり、西桑名から員弁川左岸沿いをいなべ市阿下喜までの20.4㌔の区間を結び、幅の狭い軌道(ナローゲージ)で路線、写真は昭和35に製造されたク143。四日市のあすなろう鉄道もそうですが、町中をこうした車両が走る姿は昭和生まれの者にはどこか懐かしい。関連記事 / 「鵜森神社」四日市市浜田町桑名と云えば蛤と七里の渡し。 東海道53次の宮宿と桑名宿を結ぶ海上輸送の要衝。熱田から船に揺られて辿り着くとそこが伊勢国の東の入口にあたります。 かみさん曰く、国営木曽三川公園桑名七里の渡し公園にも学校の遠足で来た記憶があるとかでそちらを目指す。美濃街道を東に進み公園を目指していた途中、「北桑名総社北桑名神社」の社頭を通りかかる。 江戸時代始めからこの地に鎮座するという神社で、三崎神明社、今一色神明社とも呼ばれ今一色の産土神。明治以降近隣の神社を合祀し社名も現在のものに改称したようです。 三崎神明社は慶長年間、桑名藩による町割りで慶長19年本多忠政が神殿を寄進し遷宮された云う。佐之富神社、中臣神社は両社共に延喜式内社にも名が残り、代々の桑名城主の崇敬が厚く、寛永20年松平定綱により建立されたと伝わる。祭神は天照大御神、鵜葦不合尊、高水上命、須佐之男命、天兒屋根尊、持統天皇、大山祇命。 五霊神社は明治41年合祀の際、この地に点在した小祀を一社に統合し、奉斎するようになり赤神様とも呼ばれ、桑名藩主の命で災害の無い事を祈り防火の神、八天宮が祀られた。祭神は八天宮(火産御霊神)、稲荷大明神(宇迦御霊神)、金刀比羅宮(大物主神)、船魂社(神功皇后)、天神社(菅原道真)。所在地 / 三重県桑名市堤原7煉瓦蔵。 写真左の三棟の煉瓦造りの蔵は明治20年頃に創建されたもの。当初は五棟連続の木造蔵だっと伝わり、明治28年に焼失し煉瓦造で再建された。 それも昭和20年の戦災で西側の2棟を失い、現在は3棟が現存する。所在地 / 三重県桑名市太一丸19-3桑名七里の渡し公園は煉瓦蔵の前を通った先になり、更にその先は揖斐川堤防。 おにぎりの様にも見えるが桑名だけに蛤だろう。住吉神社。 ここから先が揖斐川、長良川、木曽川が隣り合う様に伊勢湾へそそぐ。古くから水上輸送の要衝で港が整備され、周辺は廻船業者が集まっていた。 そうした事もあり、航海の安全を祈願するため、正徳5年(1715)摂津国「住吉大社」から勧請し建立されたと伝わります。祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后で八幡宮、天照大御神、稲荷大明神を合祀。 桑名宗社境外末社で、現在の社殿は揖斐川堤防改修整備が行われた平成15年に新しく建替えられたもの。所在地 / 三重県桑名市堤から東の眺め。 手前が揖斐川、その先は長良川と河口堤。この辺りから揖斐川、長良川は流れを一つにします。伊勢国一の鳥居。 東海道唯一の回路で伊勢国の東玄関にあたる事から一之鳥居が建てられている。当初の鳥居は天明年間(1781~1789)に建てられ、この一帯には舟番所、高札場、脇本陣等が置かれ街道を行き交う人で賑わい桑名宿の中心として栄えたが、伊勢湾台風以降の改修に伴い往時の姿はありません。 七里の渡しの石標の後方に見える櫓は水門統合管理所で、水位に応じ周辺の水門の開閉作業を行う施設。往事の蟠龍櫓の跡に建てられていて、外観は景観保全を意識し往時の姿を再現したものだと云う。 治水目的のためオランダ人技師団が招かれ、船頭平閘門の施工でも知られたヨハネス・デレーケが関わっている。 所在地 / 三重県桑名市船馬町34関連記事 / 船頭平閘門と国営木曽三川公園船頭平河川公園の蓮伊勢国一の鳥居から東海道を南進する、街道沿いは嘗て宿や食事処が立ち並んでいた面影が残る。 写真左の手打ちうどん「 □噌煮込 川市」で昼食。はまぐり鍋うどん(@1,590)を頂く、かみさんは小鉢と天丼の付いたはまぐり本膳(@2,180)を頂く。 当日は日中も気温が上がらず、天気も雲が流れ込むと小雨が降る生憎の空模様。冷えた体にグツ〃煮えたぎる鍋うどんは有難い。 はまぐりの風味が口に広がり桑名に来た?感じを味わえる。個人的感想、はまぐりうどんを提供する店は他にもあり、それぞれ店の味があるのだろう。 ここは塩加減が強く、折角の蛤の風味を消してしまい、自分には合わなかった。この値段が妥当なのか分からないが、「桑名だから蛤」に拘らなければ味噌煮込みランチ(@990)がお勧めかも知れない。 麺はいかにも手打ちそのものの美味しいものだった。川市所在地 / 三重県桑名市川口町32本多忠勝像。 三の丸公園の南、柿安コミュニティパークに桑名城を築いた本多忠勝の銅像が立つ。桑名藩初代藩主、徳川四天王の一人で桑名城下町の基礎作り、神仏の崇敬も厚かった。 背中の後ろに立てられた代名詞ともいえる蜻蛉切(とんぼきり)、飛び交うトンボが槍に触れるとスパッと真っ二つになるほどの切れ味だったと云う。どっしりと腰掛け、先を見据える姿と表情は実にいい姿をしている。 所在地 / 三重県桑名市吉之丸5かみさんが子供の頃感じた飾り気のなかった公園のイメージとかけ離れ、随分と整備され綺麗な公園に変っているようだ。桑名宗社。桑名宗社とは桑名神社と中臣神社の両社をあわせた名称で、古来桑名の総鎮守として桑名首(くわなのおびと)の祖神を祀る神社。写真の青銅の鳥居は寛文7年(1667)の銘があり、笠木全面に紋が刻まれ、参道先に見える総門も古来桑名の総鎮守に相応しい立派なもの。桑名首(上代桑名の豪族)の祖神であることからの桑名の開祖として繁栄の神と崇敬されているそうだ。拝殿は入母屋瓦葺で二つの唐破風向拝が並列に並ぶ。延喜式神名帳伊勢國桑名郡にも記された古社で桑名神社、祭神 天津彦根命 天久々斯比乃命中臣神社、祭神 天日別命、相殿 春日四柱神(建御雷神、斎主神、天兒屋根命、比売神)境内には母山神社、皇大神宮御分霊社、桑名東照宮、春日稲荷神社が鎮座し、多くの限定御朱印始め、日吉社御朱印もこちらで頂ける。桑名東照宮が示す様に徳川家とも関りが深く、家康の孫娘である千姫が建立したものだと伝わる。見た事はありませんが、石取祭りはユネスコ無形文化遺産になっているそうだ。毎年八月第一日曜日を本楽、前日を試楽として行われ、日本一うるさい祭りとも云われるそうです。桑名宗社所在地 / 三重県桑名市本町46安永餅本舗 柏屋焼き立てホカホカの安永餅を一個からでも購入でき、店内で食べられる。冷めた安永餅はお馴染みの味ですが、焼きたてのものはこちらでしか提供していないという。安永餅本舗 柏屋所在地 / 三重県桑名市中央町1-74桑名徘徊ルートさて車中で飲む酒を買い求め、鈍行で牡蠣食べに行こう、目的地は志摩磯部駅、約2時間程の電車移動。座席がとても暖かく眠りを誘う。桑名から約2時間。志摩磯部駅到着、この駅舎改札出口の天井はドーム状でカラフルなステントグラスが入るお洒落なものだ。外観もレトロで、駅舎には時計台があるが、短針も長針も脱落し時刻盤だけというお茶目な時計台だ。この駅から宿までは送迎バスで15分程、今夜の宿はいかだ荘山上。 ここで牡蠣を食べ尽くす(そんなに食べれないのだが・・)いかだ荘 山上的矢の牡蠣を食べさせてくれる事で知られる宿、今回は全国旅行支援を活用して訪れました。 前日に宿から電話があり確認かなと思いきや「ボイラーが故障し内湯が使えません、露天の家族風呂は使え、近隣の旅館の内湯までお好きな時間に送迎も致します、この状態でもお越し頂けますか?」との事だった。「牡蠣を食べに行くのが目的なので伺いま~す」との事で訪れた。家族風呂1。 普段は有料ですが希望者は予約し無料で一時間貸し切れました。偵察を兼ね一人で訪れ、かみさんに状況報告「開放的で海の眺めも良く、湯加減もいいが外は寒い、家族風呂1で待つ」、すぐに「パス」の回答だった。 家族風呂で一人温まる、缶ビールでも持って来ればよかった・・・湯上り後缶ビールで仕上げる、あとは牡蠣を食べるのみ。いかだ荘では刺身や牛肉など豊富なプランがあるが、牡蠣オンリーの牡蠣食べ尽くしプランを選択。 ボイラーの件もあり、旅館から最初のアルコールはサービスとの事でビールを頂いた。ワインの取り揃えも充実していたが、それ以降は日本酒!。生牡蠣は伊勢志摩プレミアムオイスターと的矢牡蠣の選択が出来た、自分は的矢牡蠣、かみさんはプレミアムオイスターを選択。写真は的矢牡蠣。今年の牡蠣は生育が宜しくないようで身が小さく、プレミアムオイスターはそれより更に小さいという事だったが、十分でしょう。潮の風味と牡蠣の風味が口の中いっぱいに広がる。ワイルドな牡蠣の風味は的矢、旨味はプレミアムか?プレミアムオイスターも本来別料金かもしれない、コースでは選択できないような気がする。これもボイラーの影響か?以前家族で食べ放題の牡蠣小屋を訪れた、蒸と焼きだけの無制限はさほど食べきれないもの。椀子そばの様に次から次に待ってきてくれても、そんなに食べれないもの、食べ放題では元は取れない。ほど〃がちょうどいい。ところで、付け合わせのレモンはmustなのかぇ、自分だけかもしれないがレモンは使わない派。会社の会食などで、あもそもなく絞られるととても残念に思う方・・・・(評価下げてやる)。からっと揚がった熱々のから揚げに容赦なくレモンシャワーが降り注がれると、冷めるしレモン風味になってしまう、それが残念でならないんです。牡蠣尽くし、酒尽くし美味しい牡蠣をゆっくり頂き、テラスから的矢湾に陽が落ちていくのを眺める。 今夜は流星群がピークを迎える、起きてさえいれば見れそうだったが部屋に戻ってバタンキュー。筏荘テラスからの朝陽。 かみさんが内湯をリクエストしたのでフロントにお願いしに行ったときの光景。車で近くの旅館 橘の内湯へ、湯あがりに旅館から見た朝陽を一枚。 朝陽の赤が加わり周囲の紅葉が燃え上がる。宿に戻り朝食を頂き、チェックアウトの10時までゆっくりさせてもらう。 朝からビール、電車ならではの楽しみだね。いかだ荘 山上所在地 / 三重県志摩市磯部町的矢883-12燃料補給も終え、チェックアウト。お国からの補助金にクーポンも頂け、しかもボイラーで不便をかけたとの事で旅館からも割引をして頂け、宿泊代は一人1万を軽く切っていた。 牡蠣食べに来ただけなのだが随分といかだ荘には気を使ってもらえた、また利用させてもらうしかなさそうだ。さて磯部駅から鳥羽方向の中之郷駅まで30分の電車移動。 帰路に着く前に中之郷から鳥羽城跡を徘徊し、鳥羽駅まで向かう。旧鳥羽小学校から頂を目指す。 東側の眺望が開けると眼下に鳥羽の街並みと鳥羽湾の眺望が広がる。鳥羽城跡。 野面積みの石垣が幾重にも築かれ名残を感じさせる。本丸跡は運動場の様な広い空間で井戸跡など僅かに遺構は残る程度、少し前までは小学校の運動場だったようです。 ここから東の眺望は絶景、舟で攻めてくれば遥か先から見通せる。鳥羽城址所在地 / 三重県鳥羽市鳥羽3-1-1本丸から北側の城山公園に向かうと鳥羽水族館やミキモト真珠島を見渡せる展望台に続きます。 最近流行りの文字モニュメント、分かりやすいので一枚。鳥羽に来たぞッと。ここ電車を撮るには良いスポットかも知れないですよ。 鳥羽駅を出た車両が青い海を背景にしてカーブから現れる。ここから更に北に進むと西側に小路があり、そこを降りると大山祇神社・大漁稲荷大明神に出ます。 山の中腹に鎮座する小さな神社ですが、当日は境内がイチョウの落葉で黄一色に染まっていました。冬本番もいよいよなんだろうか。 瀬戸内海に浮かぶ大三島の大山積神社の末社で、横町、中之郷、藤乃郷、錦町の村社として1907年(明治40年)に建てられた神社だと云う。1,594年(文禄3年)、九鬼嘉隆が鳥羽城築城の際、石垣が何度も崩れた事から、元城山に斎祀されていた大山祇神をこの地に移したところ、石垣は崩れる事無く鳥羽城が築城できたと伝わる。祭神は大山祇神、草野姫命、猿田彦命をお祀りするようです。大山祇神社・大漁稲荷大明神所在地 / 三重県鳥羽市鳥羽3-4-15ここから更に下り、鳥羽市内の鳥羽駅方向へ、焼貝 いろは鳥羽駅からすぐ先のさざえストリート、ここはどこも新鮮な魚介を提供するお店が軒を連ね、こちらで昼食を摂る事に。写真1番手前のお店がいろはです。どこも声掛けに余念がなく、ついつい引っかかってしまったが単に貝だけではなく、右の「じこん」が冷蔵庫で冷やされているのを発見、それもあって入らせてもらった。写真のひおき貝が二つで550円、サザエ二つで650円と比較的安価な価格設定で、貝を摘みに昼飲みするには嬉しいかもしれない。写真の「じこん」はなかなか手に入らない、ネットでは10倍の価格で売られとても買えない。 今回の鳥羽行きで出逢うことを期待していたが漸く巡り逢えた。フルーティーな口当たりで香りもフルーティー、貝によく合うお酒だった。欲しい一本ですが手に入らない。一人二杯のんで貝は何回かお代わりして一人3,000円のクーポンで事足りた。酒の銘柄も多く主に三重県産、桑名、津のお酒が揃っていた。焼貝 いろは所在地 / 三重県鳥羽市鳥羽1-8-5鳥羽マルシェ土産を買おうと鳥羽一番街に向かうも木曜は定休日、やむなく鳥羽マルシェに。そこで出会ったサメ春巻き、これにかみさんが引っ掛かり、一つ購入。サメは臭い印象しかないが、なにこれ、中のホワイトソースがしっかりした味で、サメの臭さも全くなくサメの存在を感じさせない、淡白な普通の魚に変身している。意外にサメもすてたものではないか。大衆魚も捕れなくなり、なんでも食べていかねば。商品名にサメと表記しなければ引くものも少ないかも、クリーム春雨、原材料サメ。美味しかったです。鳥羽マルシェ三重県鳥羽市鳥羽1-2383-42鳥羽駅。一泊二日の貝三昧、かみさんも昔の記憶を辿り、あの頃を呼び戻す事が出来たようだ。お国の支援を頂きお安く行けた事はいいのだが、その分はしっかり増税で回収されそうだ。明日から再び粗食に耐えなければ。鳥羽市徘徊ルート
2022.12.17
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西寒多神社から車で北西に別府方向へ25分程。 大分市の西、二葉山(八幡柞原山)の山間に豊後國一之宮「柞原八幡宮」が鎮座します。現在地は大きな〇で柞原八幡宮の一之鳥居はここから県道696号線を大分港に下り、海岸線沿いに延びる国道10号線の手前(小さい〇)に一之大鳥居を構え、往古は広大な社地を有していたようです。県道696号線沿いの社頭全景。 鬱蒼とした社叢に包まれ、入口右側には手水舎、その後方に天を突く様な大杉が聳えています。注連縄鳥居の先から長い参道が上に続き杜に消えていきます。長い参道の途中には日暮し門とも形容される、随所に見事な彫刻が施されている南大門が建ち、その手前には国指定天然記念物の大楠が聳えています。手水舎。柞原八幡宮境内配置。 参道は途中で二手に分かれ、右手は楼門、左手を進めば西門に繋がります。おやじ達は矢印のルートを進むことに、理由は、楼門に至る石段が急な事もあり、上りよりは下った方が楽だろう、つまらない理由かもしれない。 尚、参拝当日は修復工事中で社殿の大半は覆いに包まれていました。社頭入口の由緒略記から一部抜粋。 「豊後國一之宮 柞原八幡宮(国指定重要文化財)御祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后主な祭典 例大祭(3月15日)、夏越祭(7月14~20日)平安時代の天長4年(827)に宇佐神宮より分霊を勧請、承和3年(836)社殿を造営。 嘉承(1108)、敷地の四至が定められ税を免除。仁平3年、鳥羽法皇により神領を定められた。 元暦元年(1184)、源範頼が平家追討を祈願、頼朝や領主からの崇敬が厚かった。嘉永3年(1850)、八幡造りの本殿を再建。」靑もみじの下、石段を上り始める。石段が続く参道は所々に石畳が現れる。 紅葉や新緑の時期には見応えがありそうです。先に朱の鳥居が見えて来た、社殿も近いか?参道沿いに立つ燈籠の寄進年は天保だけに留まらない。菊の紋が施された朱の明神鳥居。社殿かと思い込んでいた建物は南大門。 この辺りで参道のほゞ中程、社殿はまだ見えても来ない。 南大門の左に聳える大楠、柞原八幡宮の国指定天然記念物で、空に向かって堂々と聳えるその姿に自然への畏敬の念を抱く。 樹齢三千年とも云われ、幹回りは約19㍍、樹高は約30㍍の自生の樹で、幹には空洞も出来ている。柞原八幡宮の広大な社叢にはこうした巨樹が聳え、昔の自然林の姿を留めています。南大門。 別名日暮し門と呼ばれ、元和9年(1623)に再建され、こうしてみる門は明治3年(1870)の建立のもの。参道に対し門が大きく側面の姿は見られなかったが、銅板葺の入母屋屋根で前後に大きな唐破風向拝が付けられている。どっしりとして趣のある門です。向拝の額は「由原八幡宮」と書かれていた、今の柞原の表記は明治に入ってからとされ、明治に再建された当時の呼称の額が掲げられている。 以前は由原宮、八幡由原宮、賀来社などと呼ばれていたという。一見派手さはないけれど、木組みや天井、壁面に施された聖人や龍、花、鳥などの彫りには、当時の匠の拘りが見えてくる。門の内側にも手の込んだ彫が、一之宮の入口を飾るだけに職人の拘りが込められているのだろう。裏側から見る南大門。 放射状に並ぶ垂木や斗供が美しい、日暮し門の名は強ち間違ってはいない。二葉山稲荷神社。 南大門を過ぎた参道左に赤い鳥居を構え、参道の奥の杜の中に社が祀られている。今から500年ほど前に伏見稲荷神社から分霊を勧請したもので、創建当時から霊験あらたかで、開運の守護神として崇敬されていると云います。 以前は本殿域の西宝殿に祀られていたものをこちらに遷座したものと云う。門をくぐると参道は燈籠の前から二手に分かれ、右は楼門へ、左は神門へと続いています。 急な上りの石段を気にしなければ右に進むと、参道脇には古い灯篭が立ち並んでいます。長い参道が続いていますが左を選択します。参道左側の宝物館。 これが見えてくれば社殿は目の前。長い歴史を誇るだけに各時代の有力者の寄進物が数多く残り、それら国指定、県指定の文化財の他に神仏混淆の名残を留める仏像などが収蔵されている。宝物館の前の石段を上ると左側が社務所、右側が西門が現れる。西門全景。 門から先に見える建物は申殿。朱に彩られたこの門、ただ色彩が目立つだけではなく、その内側も見上げてみるといいでしょう。 四方の梁の間には細部まで彫られた透彫りや蟇股の彫刻など細かな仕事が施され、いずれも彩色されていた名残が残る。神殿域は東西に長く、この西門と東門、南側に楼門を持ち、それらは廻廊や塀に繋がり社殿を囲んでいます。楼門。 楼門には左右に廻廊が繋がり、楼門、拝殿、申殿が屋根続き繋がっています。参拝者は靴を脱いで廻廊に上がり、拝殿前まで進み正座して参拝する事になります。 その先の本殿域は参拝当日修復作業の真っ最中、残念ながら本殿方向の絵はありません。特徴のある本殿と左右の東西宝殿や八王子社などが祀られているようですが、ネットに遮られ姿が見られなかったのはとても残念。 いつか遮るものの無い姿を見たいものだ。因みに本殿の建立は嘉永3年(1850)と云われ、本殿は創建以降33年毎に建替され続け、嘉永3年(1850)以降は建替はされなくなり、明治、昭和と一部補修が行われて来たもので、二棟が前後に連結された八幡造り。 八王子社は明和7(1770)の建築とされる一間社流造。東宝殿、西宝殿は何れも宝暦6年(1756)とされ、桁行三間で中央に向拝を持つもののようです。申殿と右の拝殿。 では下足を脱ぎ拝殿から参拝。東廻廊から拝殿、西廻廊の眺め。廻廊には寄進年すら読み取れない奉納額が掛けられている、何れも脱色が著しく全体像が分からない。拝殿から申殿、本殿方向。 柞原八幡宮の始まりは天長4年(827)、延暦寺の金亀和尚が宇佐神宮の参篭に神告を蒙り、柞原山に勧請したのが創設起源とされる。拝殿先には巨大な天狗の面が掛けられていた。 神社と天狗の謂れはよく分からなかったが、神社を包む深い社叢には天狗が住み着いていたとしても不思議ではないか。天狗の鋭い視線を受けながら参拝させて頂く。 今時は眼に見えぬものに恐れ、自らを戒めても、拳を振り上げた不動明王や鋭い視線を送る天狗の面如きでは自らを戒める気持ちにはならないかも知れない。なまはげに恐れ慄く純粋な気持ちは失せ「誰が入っているの?」今どきの子供はいいそうだ。 怖い物の対象が昔と今では随分変っているように思う。東廻廊から見る東門。 ここもまた修復作業中、西門同様手の込んだ意匠が施されているのだろう。社殿南側の楼門と廻廊。 そこから南は急な斜面に石段で繋がり、目の前の楼門は仰ぎ見る様に聳え、木漏れ陽に照らされた緑の樹々と朱の色合いが印象に残る。 社殿の全景は杜と斜面が迫り、捉え難い神社だった。楼門前から下の眺め、足元の石段は短いながら斜度があり、石畳や石段は苔むし油断できない。 大分まで来て転げ落ち「おお痛い」では洒落にもならない。豊後國一之宮 柞原(ゆすはら)八幡宮創建 / 天長4年(827)祭神 / 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后境内社 / 二葉山稲荷神社他参拝日 / 2022/10/26所在地 / 大分県大分市上八幡三組西寒多神社から柞原八幡宮 / 約25分前後関連記事 / 豊後一ノ宮 西寒多(ささむた)神社(大分県大分市寒田)
2022.12.16
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兒神社の手水舎から下に続く道が伸び、徒歩1~2分程で石尊不動明王堂を訪れる事が出来ます。石尊不動明王堂全景。 車でも訪れられそうですが、駐車場へ戻る事を思えば少しは歩かないと。写真は少し明るくしています、実際は生い茂る樹々で昼でも薄暗い印象です。 入口左側に「石尊不動明王」と刻まれた石標が立っています。石尊不動明王は大山の山岳信仰岳の修験の場だったようです。枯れ葉が積もった参道から不動堂の眺め。 参道の左右に無数の風鈴が吊るされ、石尊不動明王のご利益のほどが見て取れます。右側の覆屋には守り本尊が並ぶ。左側には複数の石標と石仏が並ぶ。 写真中央に一つだけ苔生した笠を持つ石碑、寛政時代(1789~1801)の俳匠丹羽鯉圭(丹羽忠次郎氏兼)の句碑で「尊ふとさや石に不動の苔の花 鯉圭敬書」と刻まれている。石標の先には複数の石仏があるが、中でもこの馬頭観音に魅かれた。入母屋瓦葺の石尊不動明王堂。 ここから奥に進むと、滝修行をしたわけではないだろうが、山肌から小さな沢が流れ、下流の大山川に注いでいる。堂の軒下に由緒が掲げられていたが写りが悪く全文読み取れなかった。想像が出来そうな一部だけを抜粋する。 祭神 大山不動明王大山寺創建・・・江岩寺初代秋岩黒江和尚、戌年正月寺社奉行所下賜しせり土地なり例祭 11月18日、毎月18日御尊徳当地域を始め尾張地方の農民の福寿産業・・交通安全安産御守護戦時中の各地から訪れる。これではよく分からない。ここから少し下に臨済宗妙心寺派の洞雲山江岩寺が鎮座します。江岩寺の創建は1571年とされ、嘗て存在し荒廃した正福寺の再興を願い、正親町天皇が寺を建立させたとされる古刹で、正福寺の寺宝が移されている。その江岩寺初代住職により建立されたのが石尊不動明王堂のようだ。東春日井郡誌の大山峰正福寺跡の記述にもこの堂の記述が残り、「兒山の東渓谷に沿いて小宇あり、是往古の正福寺に属し、付近に金剛ヶ瀧、王子ヶ瀧の名残を留めている」とある。この小さな堂は1571年以前の正福寺の時代から、この地に鎮座していた事になる。 外観から及びもつかない歴史があるようです。人気のない境内ですが、堂内は綺麗に保たれ、鈴紐も降ろされていた。 鈴の音がよく響く事。参拝を済ませ堂内を窺ってみた。 真っ暗な堂内はコントラストを変えて見ると幾つもの奉納提灯が現れたが、その先に祀られているであろう大山不動明王の姿は当然見えなかった。堂前から兒神社方向の眺め。大山廃寺跡と江岩寺、日を改めて訪れる必要がありそうだ。石尊不動明王堂創建 / 不明本尊 / 大山不動明王所在地 / 小牧市大字大山字郷島412関連記事 / 兒神社(小牧市大字大山字郷島)参拝日 / 2022/10/05
2022.12.15
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安城市里町森。 「日本のデンマーク・安城」とか学校で教わった気がする、この日は親戚が借りる畑の落花生収穫の手伝いに駆り出された。毎年この時期になると大量の野菜を持ってきてくれるが、今年初めて応援要請をしてきた、そこには「後は宜しく」という意味が込められているのだろうか。 手入れの良い土も高齢の親戚一人が自給で維持するには畑は広すぎ。さりとて自分が?・・・、自家菜園ですら上手く育てられない自分には到底無理だ。 きちんと収穫まで育てられる方々の持つ経験と知識は尊敬に値する。半日近く落花生を掘りだし、落花生の選別と雑草取り、屈んだ状態の作業が続き、一仕事を終えいざ立ち上がろうとしても固まった体は一向に動かなかった。 畑作業から解放され、固まった体をほぐすため、最寄りの神社に参拝し帰ることにした。安城市里町森に鎮座する不乗森(のらずもり)神社。 不乗森神社の遠景。 デンマークと称されるだけに、日頃見慣れた住宅が林立しアスファルトばかりの光景とは程遠く、田畑が広がり解放感のある景色が広がります。祭神は大山咋神を祀り、大山咋神の「咋」は「主」という意味で、山水を司り、大地を支配し万物の成長を守護する御利益があり、広く地主神として崇められている。 広大な田畑が広がるこの地にあって、大山咋神が祀られたのも必然的なのものか。南向きの社頭は左に社標、常夜灯、石の明神鳥居を構え、田畑の中に浮かぶ島の様にこんもりとした杜の奥へ参道が伸びている。 参道の先には朱の合掌鳥居が見えますが、不乗森神社はこの先の神楽殿までに三つの鳥居を構えています。一ノ鳥居の額。参道を進むと左に手水舎、右に国のために亡くなられた方々の慰霊を弔う忠義護邦家の塔が建てられている。 手水舎、手水石。 こちらの龍口は立派なもので、手水石の上に全身が形作られ、恰も今ここにやって来たかのよう。社務所の南外れの水田、そこに立つ鳥居の額には「神殿」とある。 ここから先の水田は神のもの、収穫された米は神様に供えられる。神様もこうして自給している。ニノ鳥居は朱の合掌鳥居。 日吉神社などでお目にかかりますが、身近で見かけることが少ない者から見ると、その姿は個性的な形をしている。二ノ鳥居から右手境内の杜の中に石の明神鳥居があり、こちらを参拝する。 鳥居の先の赤い社は神猿(まさる)神社。合掌鳥居で知られる日吉神社と云えば猿、こちらもこうして神猿(まさる)神社が祀られています。 詳細は不明。キャンプ場で見かける猿は悪戯しかしない厄介者で集団は怖い存在なのだが、なんでも、魔が去るとされ猿は縁起の良いものだとか。参道に戻り三ノ鳥居へ。 参道脇で狛犬が守護する鳥居は明神鳥居。金色に縁どられた額は「不乗森神社」。寄進年未確認の狛犬。切妻瓦葺の神楽殿。 拘った意匠は避けたシンプルなもので神楽殿を一対の狛犬が守護しています。1955年(昭和30)寄進の狛犬。 筋肉もりもりのマッチョな姿をしている。頭部と体の比率に決まりがあるのか定かではないが、これくらいの比率が見ていてもバランスが良く、好きな体形。神楽殿内部。 本殿側に額が掛けられ、他にも1885年(明治18)の鴨緑江大激戦の様子が描かれた奉納額など掛けられていた。川の向こうに見える相手はプーチンか? 拝殿とそれに繋がる透塀、棟飾りには二葉葵の紋が入る。 拝殿前を一対の狛犬が守護…ではなく人の様な像が置かれています。神猿。 神の使いとして烏や鹿などあるが、こちらは猿が使いのようです。阿形、吽形ともに膝を立てリラックスした姿で座り込んでいる。 畑仕事を終え、立ち上がれない自分の姿に見えてならない。拝殿額と内削ぎの千木と鰹木が施された本殿。 本殿は杜に包まれ詳細は不明。不乗森(のらずもり)神社の創立は、第63代冷泉天皇の御代(967~969)近江国坂本村(大津市坂本町)に鎮座する日吉大社東本宮の祭神大山咋命の御分霊を観請して奉斎したと伝わる古社。 社頭は、旧鎌倉街道沿いの野路の宿(現在の知立市八ッ橋町)と共に宮橋の里と称する駅次の所在地で、古来より街道を往来する人々は、社頭通行にあたり馬に乗る者は下馬して拝礼の後に通行したと云う。故に駄野森山王宮と称したが、明治維新改革に際し不乗森神社と改められた。長い歴史を持つだけに庶民はもとより、武将からの崇敬も厚く、此の地の領主水野右衛門忠政、稲垣信濃守重祥、本多中務大輔忠良、板倉内膳正崇敬等からの尊崇があつく、祈願のため献納された品々は、神宝として保存されていると云う。 社頭の社標は東郷平八郎の執筆によるもの。広い境内には神猿神社の他に、神明社、東日吉社、厳島社、秋葉社、山神社、津島社、稲荷社等境内社も多く祀られています。拝殿左の境内、手前の大きな覆屋は土俵か?その奥に二つの社が祀られています。上右が山神社。下左が神明社、祭神は天照皇大神。上土俵から南に水みくじ下土俵の左に祀られていた朱も鮮やかな不明社。上境内は桜やもみじの樹も見られ、訪れた時(11/12)のもみじは陽光に透かされた緑がとても綺麗な時期でした。下天満社(左)とさざれ石。子安石。 仲睦まじい姿の像だね。拝殿右の境内社。二つの赤い社は右が稲荷社(蒼稲魂命)、左が津島社(須佐之男命)。上切妻瓦葺の東日吉社、棟瓦にも「東日吉」の社名が入っている。 祭神は大山祇命。下その右が入母屋瓦葺の秋葉社。 祭神は火産霊命。 上 その右に厳島社、市杵島姫命を祀る。下 猿田彦命を祭神とする社口社。上 境内右側に安置される幸福釜。古くから伝わる湯立て神事(3月9日)で使われる釜。 この釜で湯を沸かし豊凶を湯占するものらしく、米、麦、綿、豆、粟、文字を紙に書き神前に供へ祝詞を奏上し、その後釜の中に入れて笹でかきまぜる。一般参拝者は、釜の上の御弊を湯にしめし、身の痛い部分につけると癒ると伝わり、安城市の民族無形文化財指定されていると云う。下 その傍らに安置されている三猿。歳を重ねてもこうは出来ないもの、隠れミッキーではないが、境内のあちらこちらに猿をモチーフにした小物が見られる。 境内の右の境内社から脇参道が伸び、ここにも社標が立てられている。 その脇に明治24年に寄進された手水鉢とお休み中の龍がいる。帰りはここから神社を後にしよう。 社頭南に大きな駐車場があり、一ノ鳥居まで近かったのですが、自分のナビは社地東の細い道に誘導し、竹林脇の小さな駐車場まで導いて案内を終えてしまった。駐車場から一ノ鳥居を探し歩いた通りを再び戻る。 社地沿いに宝篋印塔や石塔が並んで安置されているが詳細は分からない。駐車場に戻り、ポンコツナビに帰り道に立ち寄り出来る神社をセットし帰路につく。 「案内を開始します…」と云ってくれるものの、頼むよ、土地勘がないのだから。不乗森神社創建 / 冷泉天皇の御代(967~969)祭神 / 大山咋神境内社 / 神猿神社、天満社、神明社、東日吉社、厳島社、秋葉社、山神社、津島社、稲荷社所在地 / 愛知県安城市里町森38-132参拝日 / 2022/11/12
2022.12.14
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この日は多治見修道院で行われたワインフェスタを訪ね、新酒のワインを味わって来た。 歩いて多治見駅に向かう帰り道、街角に祀られた幾つかの祠を見かけました。何れも住宅地の中の狭い範囲に、個人宅の敷地の一角で大切に祀られていました、それら個人で祀りお世話しているものか、町内なのか、どなたを祀っているものか詳細は分かりませんが、今回は多治見の町並に佇む祠を幾つか掲載します。多治見市小田町2、本土神社の北側を東西に延びる通り。 多治見修道院のある東を眺める。 この右側の酒屋の片隅に小さな神社がありました。敷地の一画に四方をフェンスで囲み社地が与えられ、中には社と幟立、常夜灯がある。 社標はなく一見すると社名は分からない。境内に入れられた砂は綺麗に均され、まめに人の手が入っている事を窺わせます。社は東向きに祀られ、通りの東方向を見護るようにも見える。境内全景。 創建時期等は分からないが、常夜灯の寄進年までは読み取れませんが、竿に秋葉神社の銘が刻まれていた。家々が寄り添うように立ち並ぶ通りの守り神だろう。幟立の側面に明治35年(1902)の寄進年が刻まれていた。 古くからこの通りの火伏の神として受け継がれ、これからもこの一画を護り続ける事だろう。秋葉神社所在地 / 多治見市小田町2 ここから西に向かい小田町1の交差点北角にも社が二つ祀られていました。小田町1の不明社、前方に見えている杜は本土神社の杜。 立派な石を積み上げた基壇の上に祀られた二つの社。左の松は御神木だろうか。こちらの二社は南側を向き祀られ、南北の通りの守護しているのかな。社名札がなく、二社の詳細は分かりません。 地元の守り神、その地に住む人が分かっていればいいものかもしれない。基壇にしても社にしても朽ち果てた様子は皆無、今もこの町には必要な存在なのが分かる。小田町1の不明社所在地 / 多治見市小田町1この交差点から左に折れて三叉路まで進みます。多治見簡易裁判所の東側の三叉路の左角、ここにも写真の社が祀られていました。 先程の社同様の基壇が作られ、その上に一社祀られています。個人宅でお世話しているものか否かは定かではありません。本土神社の前を横切る通りに接し、社は南を向いて祀られています。社に対し立派な注連縄、頭を東に、尾は西に向いて飾られ、午後の陽ざしを受け紙垂は白く輝いていた。 社名や由緒は分かりませんが、この社がある事で住民同士のコミュニケーションを図る一翼を担う存在なのかも知れない。こうした社は嘗ての我が町にも祀られていました。 時の移り変わりと共に古くからある家が忽然と更地になり、切り刻まれた土地に斬新な家が増えるにつれ、そうした姿も消えていった。小田町のひとつの区画に、これらの社が今も残るのは、下街道が通る古い街というだけでは無いような気がしてならない。 不明社所在地 / 多治見市小田町1ここから西に進み本土神社の社頭を過ぎ、JR中央線の高架手前で左に進み線路沿いを多治見駅に向かいます。多治見市上野町1。 JRの線路沿いに一つの社と祠が祀られていました。左の祠。 中には「馬頭観世音」と彫られた石碑が安置されています。この碑の年代は分かりませんが、ここから少し南の土岐川沿いには旧下街道が伸びており、対岸の小路町に続いており、鉄道が整備される以前から、人や荷の動きは活発だったと思われ、こうした馬頭碑も祀られていったものと思います。右手の社はGマップでは稲荷堂とありましたが定かな所は分かりませんでした。 ストリートビューの画像(2021)を見る限り、現在の社はその後に建替えられているようで、以前は赤い玉垣と赤い(錆か?)鎖が社を囲んでおり、稲荷の様な、違うような。ここでは不明社としておきます。馬頭観世音石碑と不明社所在地 / 多治見市上野町1今回、多治見市内を歩く機会がありましたが、市内の町角にはこうした祠が多数見られるようで、暖かい日を見て巡るのも楽しそうだ。 それにしても師走の声を聴いた途端のこの寒さ、次第に出不精になってくる。多治見修道院から多治見駅 / 徒歩ルート 参拝日 / 2022/11/03関連記事 / 本土神社 (岐阜県多治見市)
2022.12.11
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春日井市松本町宮下「諸大(もろだい)明神社」 春日井ICから北東約2㌔程の丘陵地に鎮座し、西に大学キャンパス、東の社頭前には県道508号線が走り、周辺は内津川に向けて田畑が広がる中に住宅が点在する。県道から狭い道路を左に入ると右側に「諸大明神社」社標、常夜灯(1906年寄進)、鳥居(1956年寄進)を構えた社頭がある。 鳥居の先の石段の上には綺麗なアイボリーの拝殿らしき姿が見えている。社頭左に神社の解説が掲示されている。その中で目を引いたのが1806年(文化3)に寄進された古い幟旗の画像。 新しい社頭の外観から想像できない、古くからこの地に祀られてきた神社なのが窺われる。鳥居から拝殿?方向を眺める。 石段周辺は樹々が迫り鬱蒼とした雰囲気が漂う。僅かばかりの石段を登り切ると正面に蕃塀が現れ、屋根越しに拝殿?妻壁の彫刻が目に入ってくる。 鬱蒼とした杜に包まれた境内をイメージしたが、木漏れ陽の差し込む比較的明るい境内。境内入口を守護する狛犬(寄進年未確認)。 石段から仰ぎ見る姿が勇ましく見える。境内社殿全景。蕃塀から左の境内に手水石(寄進年未確認)と龍口があるが当日は清水が張られていなかった。蕃塀から眺める社殿。 手前は拝殿ではなく神楽殿の様で、コンクリート造りの靑瓦で葺かれた四方吹き抜けのもの。奥の拝殿とは屋根で繋がり社殿全体はコンクリート造りのようです。 遠目に木彫りの妻壁飾りかと思っていたが、よく見ると美濃志野焼きの陶板で出来ている。 上下二段に分かれ、下に獅子、上に龍が躍動感溢れる姿で描かれている。 拝殿から本殿方向を眺める。 手前の石碑は改築記念碑。こうして見る社殿は1970年(昭和45)に改築されたもので、その際にコンクリート造りを選択したのかもしれない。 拝殿右から回り込んで本殿を窺うが、姿は良く見えなかった。拝殿額は「諸大明神社」 国常立尊、日本武尊、国狹槌尊を祀る。拝殿右から本殿の千木を眺める。1923年(大正12)に出版された東春日井郡誌に記された「諸大明神社」 これによれば1730年(享保15)の棟札が残るとあり、幟旗の1806年(文化3)をさらに遡る。又、冒頭の由緒に依れば養老年間(717~724年)にまで遡る古社のようです。式内社の物部神社、松原神社と推定する書物もあり、往古の篠木庄西部の総氏神と推定されるようです。「庭中に六尺ばかりの大石あり、古気良不動石と名が付く」とありましたが、境内を見渡してみても古気良不動石と思われる大石は見当たらなかった。 唯一の大石と云えば先に挙げた手水石くらいで、ひょっとするとこれが古気良不動石と思いたい。境内社は金刀比羅社、市杵島社、秋葉社、子安社、愛宕社、稲荷社、御嶽社とある。また社頭の解説に当時の御札の版木の写真があり、そこには諸大明神社と式内社物部神社との繋がりを示す「物部神社と記された」御札の版木が残るようです。手水石付近で今では絶滅危惧種とさえ思える二宮金次郎像がある。 その後方は二十二夜塔。境内の二社。 解説に依れば左が神明社、右が八幡社のようだ、東春日井郡誌に書かれている複数の境内社は見当たらなかった。境内はここから右手の西に広がっていたが、祭礼用の空間だろうか、境内社の姿は見られなかった。社叢は昔ながらの照葉樹林が残り、春日井市の保存樹林に指定されている。 こうした濃い森も開発により減りつつある、猪が街に出たくなるのも分からなくない。木漏れ陽に照らされた社殿は神々しい姿を見せる。木造の蕃塀は控柱を持った大きなもので、社頭、境内側どちら側からも見通せず、俗世と神域はこの蕃塀が隔てている。社頭に出て、何気に右に向かってみる。 すぐ先の北側に社叢に隠れる様に常夜灯があり、その奥に複数の社が祀られていました。道路の正面に社が三つ、その間に幾つか石標が祀られています。石標は左は読み取れず中央が氏神、右が山神とある。 三つの社は社名が分からず、間にある石標も文字が分からなかった。複数の社群の先に一社だけ覆屋の下に祀られた社がある、これらが書かれていた境内社だろうか? 何か違うような気もする、杜に続く小道もあり、その先に何かありそうです。日を改めて、山道に踏み込んで見ようと思う、新たな気づきがあれば別途書き起こします。諸大明神社創建 / 不明祭神 / 国常立尊、日本武尊、国狹槌尊境内社 / 神明社、八幡社等参拝日 / 2022/10/23所在地 / 春日井市松本町宮下504関連記事 / 物部神社
2022.12.10
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大分県大分市の南に位置し、本宮山から流れ出た寒多川右岸沿いに鎮座する西寒多神社は旧国幣中社で豊後一之宮。 北側には住宅地が広がり、ナビに任せて走っていくと入り組んだ道へ導き辿り着けなかった。西寒多神社を訪れる際は、寒多川沿いに走れば袋小路に迷い込む事はないかもしれない。 神社のおこりは古く、神功皇后が三韓征伐帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸し、四方の山々を御覧になり、その場に一本の白旗を立てて帰られた事から始まる。人々はそれを敬いその地に瑞垣を結び、聖地として崇めるようになったと云う。 創建は応神天皇の御代、この地に宮殿を建立するため朝廷に願い出て、勅許を得た。勅を奉じた武内宿禰は応神9年(278)、豊後国に下向し、西寒多山山上に宮殿を建立したと伝わる、古の歴史を持つ古社。西寒多山(本宮山)北嶺を流れる寒多川に架かる萬年橋の前が参拝者駐車場。 橋の先に鳥居の姿が見えている。萬年橋 文久2年(1862)当時、延岡藩領であった寒田村の庄屋らの発起により架けられた橋長22㍍の石造橋で、綺麗な曲線を持つこの橋は昭和55年(1980)に大分県の有形文化財に指定されている。寒多川の川面に写り込んだ萬年橋の姿は趣があって美しいものがあった。萬年橋の上から西寒多神社の境内の眺め。 橋から続く石畳の先に鳥居、左に神楽殿、一段上がって社殿が建っている。参道右の手水舎、すぐ後ろを寒多川が流れ、対岸は田畑が続く。龍口から注がれる清水は手水鉢を潤していた。石の明神鳥居。 社務所は鳥居左に建っている。扁額は「西寒多神社」 「にしかんた」と読むとばかり思っていたが、下の略記を見て「ささむた」と読む事を始めて知る。西寒多(ささむた)神社略記より祭神月読尊、西寒多大神、天忍穂耳命。 相殿応神天皇、神功皇后、武内宿禰。 殿内所在諸神伊弉諾大神 伊弉册大神(縁結びの神)、大直日大神 神直日大神(厄除)、天思兼大神(学問の神)、大歳大神 倉稲魂大神(農耕神)、軻遇突智大神(火の神)、天児屋根命(国土鎮護の神)、経津主神(必勝)。 由緒創祀は応神天皇9年(278)、西寒多山山上に宮殿建立するとあり延喜式内大社として国司・武将からの崇敬され、特に大友能直、宗麟など豊後大友氏の崇敬厚く、応永15年(1408)大友親世により社殿を西寒多山麓の現在地に遷された。 明治4年(1871)国幣中社に列格、豊後国一ノ宮、現在別表神社。西寒多山山上の旧社地は奥宮とされ現在に至り、拝殿右に校倉造りの神庫がありますが、その右側から奥宮に続く参道が付けられています。観音堂。 手水舎を過ぎてた右側に鎮座し、堂内には十一面観世音菩薩が安置されています。昭和41年、火災により御堂と共に像は焼失するも、翌年には氏子により復興されたもので「西寒多観音」として崇敬されている。鬼の歯形石。 その昔、霊山には恐ろしい鬼が住み、鬼は麓に降りてきては村人に悪さばかりしていた。ある時、天照大神を祀る巫女の親子が本宮山にやってきて毎日お祭りをしていました。 霊山に住む鬼たちにとって、祭りの音は嫌な音で、鬼たちは親子を喰おうとしました。母親は、霊山から本宮山まで一晩で橋が架けられたら食べられましょうと約束をした。 約束を受けた鬼たちは一晩で完成させかけたため、慌てた親子は手ミイを叩き、鶏の鳴き真似をしたという。すると鬼たちは朝が来たと思い、残念がって歯で石を噛み投げ、霊山から姿を消したという。この石はその名残とされます。 働き者で素直な鬼たち、この地方にはこうした鬼に纏わる昔話は他にも伝わっています。後方に見えているのは合併社。合併社。 御星社・保食社・龍王社・貴船社・歳神社・愛宕社・高尾社・金刀比羅社・天満社・竹内社・九一郎社の十一社を合併した社、右手は日露役記念碑。参道左の神楽殿。一段上の社地に拝殿が建ち、狛犬の左右に廻廊がある。 空を見上げ遠吠えするようなフォルムの狛犬(1930)、いい姿をしている。 拝殿は入母屋銅板葺で千鳥破風と唐破風向拝を持つもの、黄金色の十六八重菊が輝くが過度な装飾のない落ち着いた佇まいをしている。 額は「鎮国一宮」拝殿内から本殿方向を眺める、額は西寒田神社。 神紋は「西」文字紋。拝殿内の木彫りの狛犬は、肉付きが良く、尾と髪に拘っている。拝殿斜景。幣殿から本殿方向の眺め。本殿の棟には6本の鰹木と外削ぎの乗せ千木、ここまで長い千木は初めて見るもの。廻廊。 手前が東廻廊で奥が西廻廊、10/26の境内の楓は緑から赤へ微妙に紅葉が始まったばかり。拝殿から左に鎮座する正霊殿。拝殿右の神庫。 明治19年(1886)に改築された、入母屋校倉造りで市の有形文化財に指定されています。先人の知恵と技術は明治になっても取り入れられている。神庫右の天神社と大分社。 大分社の祭神は豊門別命、大分の地名の元となった古代豪族大分の君を祀る。二社の創建など詳細は不明。 この辺りから鬱蒼とした山に向けて奥宮参拝道が始まります。神楽殿の後方に鎮座する厳島神社、詳細は不明。 上厳島神社の後方、旧神宮入口から続く参道の両脇に祀られているのが繰生社。 御祭神は繰生青海とその妻をお祀りします。この南側には伊勢社、遥拝所がありますが手振れが酷く写真は掲載できません。下繰生社から先に進むと旧神宮入口に至ります。 ここから左手の境内に戻ります。旧神宮入口から左へ進むと上の写真の土俵に出ます。 その奥には藤棚が広がっています、西寒多神社は藤の花でも知られ、市の名木に指定されているそうで、毎年5月のふじ祭りは花を見に訪れる人で賑わうようです。神社解説に依れば、このふじは地区民が社殿に供える御酒の酒造所を建てる時に植えたものと伝えられているという。 太い幹からは大きく枝を張り、満開の時期はさぞかし見ごたえがあるだろう。この藤や観音堂もそうですが、この神社と氏子の結びつきは強いもの…と願いたい。豊後一ノ宮 西寒多神社創始 / 応神9年(278)祭神 / 西寒多大神境内社 / 合併社、天神社、大分社、厳島神社、繰生社、伊勢社所在地 / 大分県大分市寒田1644番地参拝日 / 2022/10/26関連記事 / 大分県(別府・湯布院) 一之宮巡りDAY1~DAY2
2022.12.09
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既に掲載した小牧市野口の八幡社から山間に車を進める。 小牧とは思えない深い森とカーブが連続する狭い道を上っていきます。やがて道は二手に分かれ、右に進むと広い駐車場で行きどまり。 入口に写真の「兒神社」の石標と「史跡大山廃寺跡」の石標が立っているので目印になるでしょう。この駐車場が今回の目的地「兒神社」の駐車場。石標脇の「史跡大山廃寺跡」の解説板。 「大山廃寺、白鳳時代から中世にかけて存続した山岳寺院跡」。塔跡の礎石や各所に建物跡が残る。 昭和49~53年まで発掘調査が行われ、兒神社境内から平安時代の掘立柱の建物三棟、中世の礎石建物二棟など発見され、塔跡のみの国指定史跡から寺域全体に指定範囲が拡大された。」今回大山廃寺跡の塔跡までは行っていませんが、兒神社とこの史跡は切り離せないので記載しておきます。上は1923年(大正12)に出版された東春日井郡誌に「大山廃寺跡と兒神社」について記載されていたのであげておきます。石標から右に進むと写真の駐車場で道は途絶えます。 兒神社は突き当りの先に鎮座します。訪れたのが10/5という事で、周辺の山々が紅葉するには少し早かった。 代わりと云ってはなんですが、周辺、境内には蚊が多く、二人ともボコボコに刺されました、活動時期に訪れる際は虫除けは必須かもしれない。蚊ごときなら危害はないが、無人の社地は獣に遭遇しそうな雰囲気が漂っている。駐車場から兒神社社殿は目の前。 入口に大山廃寺塔跡、礎石建物跡の道標が立つ。道標から右に進むと目の前に境内と拝殿が見えてくる。 人里離れた山中に鎮座するので荒れた神社をイメージしていた。しかし切妻瓦葺の吹き抜け拝殿や境内は枯葉に埋もれる事もなく、綺麗に手入れされ、人の気配を感じられる神社です。 麓で神社幟を見かけたが、兒神社社頭は麓にあるのだろうか。今更戻るのもなんだ、帰りに寄ってみようと思いつつ、寄り忘れてしまい社頭の光景はなし。拝殿から更に右に進むと石灯籠、その先に神明鳥居が建てられ、両脇に神社幟がはためく。笠木の先端が欠け落ちた神明鳥居(寄進年不明)と燈籠。 鳥居から下を覗くと石段が下に続いてた。鑿跡の残る燈籠の竿には安永(1772~1781年)の文字が刻まれていた。鳥居の前から社殿方向を眺める。 写真の右手が礎石建物跡だと云う。傍らに解説が置かれていたが苔に覆われよく分からない。 位置的に鳥居の西側なのだが、囲われている訳でもなく、「これが礎石だね」と思うものは見つけられなかった。燈籠の先の兒神社社標。 明治18年(1885)と刻まれ、下に右善光寺とある。拝殿から本殿方向の眺め、拝殿とは書いてはみたものの、ひょっとすると神楽殿なのかも。拝殿右手の手水舎。 鋭い爪を持った龍がいるが、その口からは清水は注がれていなかった。この手水舎から下に道が続き、その先の石尊不動明王へ続く。社殿全景。 結構急な石段を上ると右手が社務所、中央が幣殿だろうか。石段の両脇に狛犬の姿がある。狛犬側面。 どちらも口を開け、背中をピンと伸ばし胸を突き出す姿、とても姿勢のいい姿だ。毛並みなどは輪郭として描き、立体的な彫り方はしていない、素朴で好感が持てる。 台座には「〇和11年」と刻まれている、拡大すると昭和と読めなくもない。斜めから見る狛犬。 右の狛犬は姿勢を正しながらも口元がにやけた表情をしているように見える。結構お気に入りの狛犬のひとつになりそうだ。幣殿から本殿方向。 本殿域は白壁で囲われ、本殿は脇障子を持つ流造のように見えます。創建は久寿2年(1155)創建とされ、祭神は天照大神、少彦名神、多聞童子、善玉童子、禰宜。 現在までの沿革は不明。先の解説にある様に、嘗てこの地には「大山峰正福寺」が存在した。 由緒、創建などは不明だが、往時は比叡山と並ぶ寺勢を誇っていたことが伺われる。仁平2年(1152)に比叡山延暦寺の僧兵に攻め込まれ堂宇は悉く焼き尽くされた。 その際、僧1名と2名の子供の修行僧が亡くなった。後に、近衛天皇が病気になり、大山寺の1僧2児を祀れば快癒するとの占いから、当社が創建されたと伝わります。 毎年3月15日に行われた祭礼は、亡くなった二児の没した日だとされる。一部に心霊スポットと捉える向きもあるようですが、そんなことはない。 参拝の折にはここで鎮まる二児を思い手を合わせてもいいのかもしれない。本殿左の境内社。 氏神の石標と社が3社祀られているが何れも社名札がなく詳細は不明。境内社と社殿全景。拝殿瓦。 鬼に菊と右三つ巴の紋が入る。既に過ぎてしまったが、紅葉や境内の桜の樹など、四季それぞれに表情を持つ神社のようだ。兒神社創建 / 創建は久寿2年(1155)祭神 / 天照大神、少彦名神、多聞童子、善玉童子、禰宜境内社 / 不明社3社祭礼 / 1月1日 歳旦祭、4月第1日曜日 稚児祭、10月第2日曜日 例祭所在地 / 小牧市大字大山字郷島412野口八幡社から車アクセス / 野口八幡社から5分 関連記事 / 八幡社(小牧市野口)
2022.12.08
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9月13・14日と長野県安曇の白骨温泉を訪れ、帰りに参拝したのが四柱神社。 松本市のほゞ中央に位置し、松本城や松本美術館もほど近い。社頭前を流れる女鳥羽川、東の袴超山から松本市内を流れ下る、ゴミ一つない河川敷と澄んだ流れはとても羨ましく思う。 橋の前方は四柱神社の大鳥居に続く。女鳥羽川に架かる幸橋から上流側の中の橋を眺める、更に上流は浅間温泉だ。 御幸橋。 大鳥居を過ぎ、この石橋を渡ると境内に至ります。この趣のある石橋は明治天皇が明治13年(1880)6月、信濃地方初の御巡幸の際、行在所(宿泊地)に四柱神社が選ばれ、それに合わせ造られた石橋。 天皇が訪れる当日の午前に完成させたもので、午後に訪れた天皇は竣工したばかりの橋を渡って行在所に向かった。そこから御幸(みゆき)橋と命名されたという。 御幸橋から眺める社殿。 祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神の四柱。社名の由来はここから来ている。由緒は1872年(明治5)、筑摩県(長野県)松本に設置された神道中教院が起源で、1874年(明治7)に四柱の神を祀ったことから始まる。・1879年(明治12)、この地に社殿を造営し、村社の四柱神社として遷座。・1888年(明治21)、松本大火で社殿を焼失。・1924年(大正13)、社殿を再建。・1959年(昭和34)、別表神社となる。歴史自体は浅いものですが、松本市内にあって、創建以来地元から崇敬されている神社。 そうした事もあり伽藍に古を感じさせる趣はあまりないかもしれない。御幸橋を渡った左に手水舎。 境内は鳩の楽園のようだ。拝殿。入母屋銅板葺で千鳥破風と唐破風向拝を持つ優美な姿のもの。拝殿右の由緒。 祀られる四柱の御神徳から全ての願いを叶えてくれる「願いごとむすびの神」拝殿前の一対の狛犬は大正13年寄進されたもの。光り輝く飾り金具を多用していない拝殿は、落ち着いた佇まい。 後方にNTTのタワーが聳え立っている。拝殿向拝の彫飾り。 意匠に拘った彫飾りも比較的少ないかも知れない。拝殿から本殿方向の眺め。 惟神(かんながら)、「神の意志に沿い、自身も自然に神の道にある」揮毫は「右大臣???美」と見えるが、1872年神社創建前後に美の付く右大臣は・・・三條實美(実美)だったか?。拝殿右に鎮座する恵比寿神社。その右側にある由緒。祭神は大国主命、事代主命、配祀は保食神。 昭和27年(1952)、島根県出雲大社から大国主命を、美保神社から事代主命を勧請。境内東側の眺め。 右手は松本市招魂殿の鳥居。旧松本市出身戦没者の英霊が鎮まる。西南の役、日清日露戦争で祖国のために亡くなられた旧松本市出身者を護国の神として祀るために創建され、その後の戦争による戦没者も合祀したもの。 現在の社殿は伊勢神宮遷宮の古材を用い、平成27年(2015)に移築再建されたもの。国難に瀕した祖国に住む家族や故郷を命をかけて護るため亡くなった方々、平和ボケした時代に生きる我々をどう見ているだろう、我々にそうした思いが持てるだろうか。 この歳で予備自衛官制度は受けられない、遺憾の意を唱え続け、今の平和が維持し続けられればいいのだが。祈るしかない。社務所全景。 平日でありながら訪れる参拝者は途切れる事はなかった。境内西側の伊勢神宮遥拝所と右に小さな社が祀られています。三峯神社。 詳細は不明。鳥居の先は伊勢神宮。四柱神社御朱印。参拝後は境内の社殿西隣りの蕎麦屋「こばやし本店」で食事も摂る事ができる。あたかも神社直営蕎麦屋のような佇まいですが、どうやら全く関係はないようです。 腰があって歯ごたえも良く、薬味に山葵、ネギ、おろしと付く、個人的にはおろしが一番合っていた。写真はざる2枚重、ペロッと二枚たいらげられる。四柱(よはしら)神社創建 / 1874年(明治7)祭神 / 天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神境内社 / 恵比寿神社、招魂殿、三峯神社所在地 / 長野県松本市大手3-3-20関連記事 / 元秘湯を守る会 「白骨温泉 泡の湯」へ・『下浅間薬師堂』長野県松本市浅間温泉
2022.12.05
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大分県臼杵市深田にある深田の里、その東外れに紫曇山 満月(ガツ)寺は鎮座します。里の中ほどは臼杵石仏公園として整備され、そこから西を眺めると臼杵石仏群と日吉神社が一望できます。 この公園の東、満月寺本堂の正面に臼杵石仏蓮畑があり、シーズンには一面見事な蓮の花が咲き誇るようです、訪れたのが10月26日という事もあり、この時期の蓮田は葉は枯れて寂しいものがある。公園中ほどにこの公園の成り立ちが記されていました。「現在の石仏公園一帯は、12世紀末臼杵摩崖仏が彫られたのと時期を同じくして創建され、摩崖仏を本尊とする満月寺の寺院跡とされる。 一帯からは柱列跡、工房跡、井戸跡などの遺構や、国産を始め中国、朝鮮で焼かれた瓦・土器、鉄の精錬に使用する用品や廃棄物などの遺物が出土している。当時作られた寺院では、敷地の中に大きな池を作り、西側に阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂を設ける形式が全国的に流行し、阿弥陀如来のいる極楽を再現したこの形式は浄土式庭園と呼ばれる。 発掘調査から見つかった水面を池と見立てると、西側に阿弥陀堂(ホキ第二群)を配置する事になり、満月寺も浄土式庭園の形式を持った寺院と思われる。」解説には臼杵摩崖仏群、満月寺の伽藍と室町当時の池が描かれている、公園はほゞ池だった事が分かります。 里には民家が点在しますが、何れも中央の平坦な場所を避け、山の麓に建てられています。上の室町時代の池の規模を見るとそれも頷ける。蓮の咲き誇る池の対岸からこちらを見据える摩崖仏の姿は正しく極楽に見えた事だろう。現世に戻り、公園から臼杵摩崖仏の守護寺「紫曇山 満月寺」を眺める。 この時期はさすがに蓮も枯れ果てコスモスが咲き乱れていた。紫曇山 満月寺本堂全景。 山門はなく、本堂正面に一対の石の仁王像が安置されています。満月寺は「臼杵八ヶ所霊場の第一番札所」でもあります。 手入れの行き届いた庭園は気持ちが良いものです。以前から野晒しだったのか、はたまた門に納められていたのかは定かではないけれど、フォルムは仁王像に見えますが、既に風化も進み細部の意匠は見て取れません。 特に像の鼻の部分は原形すら残っていません。なんでも、この鼻を削り飲む事で病が癒えるとされ、長い年月で削られ現在の姿になったようです。木原石仏解説。「凝灰岩製の仁王像は膝から下が地中に埋没しており、全体像は知り得ない。阿形、吽形共に鼻が欠損しているのは病気回復に対する信仰によって無削られた事に依る。 制作時期は鎌倉後期から室町時代前期に作られたものと考察される。」本堂右手の庭園。 奥の岩稜にも摩崖仏らしき姿と五重塔が見える。右は県指定文化財「五重塔」と左は特別史跡「観音石仏」 五重塔は「正和4年(1315)の銘文が刻まれ、阿闍梨隆尊が先師尊全及び、自分の亡き父母のために造立、作者は日秀という阿闍梨であるとわかりました。基礎石の4面には宝篋印塔のものに類似した袼狭間が刻まれている。」観音石仏。「地元に伝わる真名野長者伝説では、真名野長者夫妻が亡き娘の菩提を弔うため、蓮城法師に依頼し臼杵摩崖仏を彫らせたとされますが、伝説と摩崖仏造立年代が異なっているため、この像も真名野長者夫妻像、蓮城法師像と伝わるが、実際は満月寺の僧侶増ではないかと推測される」 右の二体が真名野長者夫妻像と伝わり、左の一体が蓮城法師像。境内にあった「満月寺の遺構と石造物」解説。「現在の満月寺(昭和25年創建)の西側、南側に接する場所の発掘調査で新旧二時期の礎石跡が見つかりました。 東西約11㍍、南北約11㍍の鎌倉時代初めの礎石と、それに重なる室町時代の礎石建物の跡。江戸時代に書かれた「寺社考畧畧」、そこに「本坊釈迦堂は、7間(約12.6㍍)4面で礎石は二重になっている」と記されている事から、満月寺が廃寺となる江戸時代初めまで「釈迦堂」として残されていた。 摩崖仏群から見て東に位置するこの建物は、中世の満月寺を構成する伽藍の中でも重要な施設と思われる。建物跡の南側には「木原石仏」と呼ばれる一対の「仁王像」が建立されています。 その周囲には宝篋印塔(日吉塔)や観音石仏、五重塔などの石造物が建てられています。」 本堂。 軒丸瓦や鬼瓦には左三つ巴の紋が入る。軒下には縁起がいいとされるツバメの巣がいくつも掛けられていた、深田の里はツバメ達にとっても極楽のようだ。満月(がつ)寺本尊は釈迦如来。 創建は不明、解説によると現在の満月寺の創建は1950年(昭和25)の様です。本堂左から奥に進むと右手に鐘楼。 手前に解説板らしき木札が立っていたが破損がひどく内容は読み取れなかった。賽銭を供えれば自由に鐘を突く事が出来ます。 更に奥に進みます。特別史跡臼杵摩崖仏「日吉塔」解説から抜粋。・宝篋印塔としては日本最大の高さを誇る。 ・臼杵摩崖仏を本尊とする中世寺院満月寺の守護社で古園石仏の上に鎮座する日吉社からこの名が来ている。・13世紀後半に製作された4.44㍍の石塔は、満月寺整備の一環で経典を納め寺の鎮護のため建てられたと思われ、建立以来この位置から動かされていないという。宝篋印塔を先に進むと突き当りに石仏が祀られている。 顔の一部は欠け落ち、中央の像は一度は二つに割れてしまったようです。手前の二体は1727年(享保12)に作られたもの。 この先の公園が往古には大きな池だったとは、解説で知らされるまでは想像すらできなかった。現世と極楽の狭間にあった池がいつ埋められた?、それは少し気にはなる。摩崖仏に見守られ、陽光が燦燦と降り注ぐ深田の里は、温もりを感じる特別な空間です。 風もなく温かい陽射しの下では猫も…伸びる。深田の里、日常を忘れるには良い場所だ。紫曇山 満月(ガツ)寺宗派 / 高野山真言宗創建 / 現在の満月寺 (昭和25年)本尊 / 釈迦如来所在地 / 大分県臼杵市深田963関連記事 / 臼杵石仏#2 山王石仏から古園石仏
2022.12.04
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名古屋市西区那古野1-6「金刀比羅神社」 江川線円頓寺交差点から五条橋方向にアーケードを持つ円頓寺商店街。一時期の賑わいを思えば、店舗の歯抜けやシャッターを下げたままの店舗も目立ち、やや寂しい感じは漂うが、今も約30店舗が軒を連ね、明治から続く老舗店もあれば、若い年代をターゲットにした新しい店舗もオープンし、時代に合わせて形態を変えようとしている。 名古屋の商店街でも最も古い一つといわれ、こうして眺める通りには昭和の香りが漂っています。「商店街の歴史は、江戸時代の名古屋城築城まで遡り、運送の要として作られた堀川を利用する人々がこの地で遊ぶようになったこと、寺社がこの地に移転し門前町として賑わうようになったこと、美濃路街道がそばを通り多くの人が行き交ったこと、これらさまざまな要因から発展していったと言われています。」 円頓寺商店街HPから抜粋。大阪の商店街の様な賑わいが訪れるとうれしいものだ。円頓寺商店街の中ほどの三叉路の角、間口が狭く奥に長い社地に金刀比羅神社は鎮座します。 周辺の都市化に伴い、社地は削られ現在の姿になった様ですが、小さいながら赤〇に金の紋と鮮やかな朱色の社殿は商店街を歩いていても存在感があります。金刀比羅神社の間口は狭いながら、「塩町・伊藤萬蔵」寄進の石鳥居を構え、常夜灯の陰に社標が立てられています。 この手狭な社地に社務所、手水舎、拝殿、本殿の伽藍が押し込まれています。ここは名古屋弁で書かれたおみくじで知られ、それ目当てに訪れる参拝客も多い。社頭の金刀比羅神社解説。 「大国主命を主祭神とし、須佐之男命、加具土命を配祀して祭る。名古屋城築城当時より城内三の丸に重臣大道寺氏邸に祀られていたが、安政6年(1859)この地に遷座。 毎年10月10日は大祭が行われる」「名古屋市史」に金刀比羅神社について記述があり、解説と同じ内容のものでした。 他の地史については眼を通してはいない。金刀比羅神社例大祭には花車神明社山車巡行が行われ、神社の前でからくりが奉納される。 鳥居から拝殿方向の眺め、右手は社務所、手水舎。 堀川を行き交う舟の往来で賑わった土地柄、金刀比羅神社が祀られる動機としては不思議ではない。コンパクトに纏められた手水舎、手水鉢。 商店街にある神社、龍は今日も営業中、結ばれた針金の目的は…… 手水鉢の上方の由緒。 残念ながらほとんどよく分からない、明治12、大正2、昭和?、昭和?とあるが、再建、遷座の履歴と思われます。明治12年は再造営の行われた年、明治から戦後の短い期間に、目まぐるしい動きがあった事が感じられます。鈴をならして参拝。 大物主命、加具土命、須佐之男命をお祀りする金刀比羅神社、賽銭の多い少ないで忖度はない、拝めば何でも聞いてくれるはず。拝殿額は「金刀比羅宮」拝殿内から本殿方向の眺め。 中には円頓寺商店街の神輿が保管され、本殿前で金色の可愛い狛犬が守護している。赤い金刀比羅神社の全景、本殿の棟には三本の鰹木が飾られています。 円頓寺商店街の通りは金刀比羅神社、円頓寺、慶栄寺の山門が接しており、通りはこれらの門前町の様相ですが、華やかな赤い金刀比羅神社は商店街の顔と云ってもいい。・・・大阪の様に朝っぱらから一杯ひっかけられると毎日参拝に訪れるやも金刀比羅神社創建 / 安政6年(1859)三の丸より遷座祭神 / 大物主命、須佐之男命、加具土命所在地 / 名古屋市西区那古野1-6-16屋根神さま(西区那古野1-35)から徒歩ルート / 円頓寺商店街金刀比羅神社まで徒歩2~3分関連記事 / 屋根神さま(西区那古野1-35)、花車神明社参拝日 / 2022/10/12
2022.12.03
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今年も早いもんで師走を迎えた。 いろいろ気が重くなる出来事が多く、考えさせられる事の多い年で終わりそうです。サッカー観戦で少し気だるいなか、毎年恒例の市内北区山田三丁目の金虎酒造へ年越しの酒を買いに行ってきました。今年の仕上がりを聞くのが恒例ですが、「今年は元気がいいよ」との事。 いつもの様に酒粕と梅を頂き慎重に慎重に持ち帰る。先程今年の金虎にごり酒を味わってみましたが、開栓を始めた途端「シュッワー」と吹き上がり元気のいい事。 昨年は意外なほどおとなしかったが、今年はとにかく元気がいい。爽やかな酸味と、サラッとしたのどごし。 トロッとしたものとは一味違う独特の風味の酒。今年の金虎にごり酒は昨年より間違いなく出来はいい。 年越し用にと複数本買ってきたが、年を越す程もたないようだ。買い足しに行かなければ。2022/12/2金虎酒造株式会社名古屋市北区山田三丁目11番16号関連記事 / 今年もやってきた「金虎初しぼり」
2022.12.02
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前回の臼杵石仏#2 山王石仏から古園石仏からの続きとなります。 今回は深田の里の臼杵石仏群に挟まれるように鎮座する日吉神社。マップの赤丸エリアが日吉神社の鎮座地。 社頭は臼杵石仏公園の西に位置し、参道は古園石仏に続く歩道を横切り、苔むした石段が鬱蒼とした森の中に消えていきます。臼杵石仏公園から日吉神社の杜。 右はホキ石仏第2群の覆屋、鳥居左方向に進むと古園石仏に続きます。日吉神社は集落、雨、学問を司る守護神として祀られた古社で、祭神は大山咋神、大山祇神、菅原神、水分神(みくまりじ)を祭祀します。神社だけであれば観覧券なしで参拝は出来るようです。往古は「山王社」とも「山王宮」とも呼ばれ、鳥居の先に見える小倉山満月寺の鎮守として創建されたと云う。 この古びた石の明神鳥居(1785年寄進)は、額が掛けられているものの、大半は欠損し「宮」しか残っていません。鳥居が寄進された天明5年当時に山王宮と呼ばれていた頃の名残なのでしょう。鳥居からは、杜の中に続く苔生した石段を上り進めます。 日吉神社はこの石段を上り詰めた小高い頂、山王山石仏の直上あたりに鎮座します。ここからは足元の滑りやすい石段が続き、鬱蒼とした杜に包まれた静寂が漂う神域に入っていきます。最初の石段を直登すると参道は左に続き、写真の様な上りやすい石段に変わります。 上り始めて5分程、ここを上り切れば境内が広がります。ニノ鳥居(寄進年未確認)も石の明神鳥居。 境内にはこの他に同様の鳥居が更に二つ建てられています。日吉神社や満月寺の創建時期については、天正年間(1573~1592)に大友義鎮(宗麟)の破却により、寺や石仏、神社に関する記録を焼失し定かではないとされます。 過去の修復履歴は不明で、現在の伽藍は右手の切妻瓦葺の平入拝殿と本殿に続く渡廊の伽藍で、拝殿左には土俵が設けられています。沿革は1873年(明治6)村社、1884年(明治17)深田村字山神に鎮座した大山祇神を合祀、1885年(明治18)本村字観音寺に鎮座した菅原神、水分命を合祀。ニノ鳥居手前左側に草木に包まれた手水鉢(寄進年未確認)と後方は石灯籠の竿だろうか。日吉社の杜はイチイカシやコジイなど実を付ける樹を主とした森林で、地域古来の植生を残す自然林で学術的に貴重な森で、県の天然記念物に指定されている。 天に向かって聳え、広く枝を張る姿に自然の力強い生命力を感じます。今時のグルメな熊や猪はこれらの実はお口に合わないかも知れない。社殿全景。 華美な意匠のない素朴なもので、樹々に包まれた環境なので湿気が多く、風の通りも良くないせいか社殿の傷みが目立った。後方の本殿は外削ぎの千木に5本?の鰹木が施された一間社流造。 拝殿右に日吉社由来が掲げられていた・・・が写真に収めるも読み取れない、想像を交えメモを取るしかない。 「日吉社由来祭神 大山咋神、大山祇神、菅原神、水分神(みくまりじ) 由緒当神社はその昔、小倉山満月寺の鎮守の社として創祀されたと云われる。 天正年中(1573~1592)に大友義鎮(宗麟)の破却により、記録滅失し、寺院、石仏共々その創立は不詳。大山咋神は村藩(?)の守護神、大山祇神は山林・国土を守護、菅原神は広く学問の神として知られ、水分神は雨水を分配し五穀豊穣をなす灌漑を司る神である。」拝殿から本殿。 内部には山王宮の日吉神社と記された額が掛けられていた。鈴の音が静けさに包まれた境内に良く響く、下で待つかみさんの到着した合図でもある。本殿全景。 脇障子には手間をかけた彫刻が施されていました。本殿前には白い狛犬の姿がある。本殿前の狛犬。 白ではなく全身朱だったのか?斑に剥離した色合いから元の色合いは想像できない。耳垂れで犬らしい体形をしており、目と口周りに金色で塗られていた名残が見られました。 素材は木か?拝殿左の土俵。境内の二つの鳥居と間に石の祠が祀られていた。 境内にはこの祠以外に、本殿の両脇にこうした石の祠が祀られています。ふたつの鳥居の先が気になるがここまでにしておこう。本殿左の三つの石の祠、詳細は不明。本殿右に点在する祠の数々、詳細は不明。何れも苔むし、祀られてからどれだけの年月を重ねてきたのだろう。中央の三つの祠。 左の祠には石像が祀られていて、像容は仏と云うより武士の様にも見えるがよく分からない。参道を上り切った鳥居を二ノ鳥居と書かせてもらいましたが、深田の里入口の国道502号線脇の稲田の中にポツンと立っていた「深田鳥居」が実は一ノ鳥居なのかもしれません。 柱の太さが印象的な石の明神鳥居は柱の下部は埋もれ、当日は稲田にテントが張られ、発掘調査?が行われていたので写真は撮れませんでしたが、市のHPに写真と解説が掲載されていたので下に載せておきます。随分と時間を取ってしまったのでそろそろ下に降りる事にします。日吉神社創建 / 不明祭神 / 大山咋神、大山祇神、菅原神、水分神所在地 / 大分県臼杵市深田218関連記事 / 臼杵石仏#2 山王石仏から古園石仏参拝日 / 2022/10/26
2022.12.02
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