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久々に娘のことも書いておこう。本当に早いもので、昨日で1歳11ヶ月となった。大きくなっているなぁということは、毎日のように実感するところだが、最近はかなり意志の疎通も出来るようになってきた。『ウンチ出た』とか、『お化け怖い』とか、『アイロン、アチチ(熱い)』とか、2語文みたいなのも話すようになったり、猫と犬だけでなく、象やキリン、ライオンなどもわかるようになって来た。『大きなくりの木の下で』『ソフトバンクホークスの歌』『糸巻き巻き』の歌も歌って踊れる(つもりになっている)積み木やブロックのお片づけは自分で全部するし、『お出かけ行くよ』と言ったら、玄関へ行こうとする。勿論、お菓子の隠し場所だってとっくにわかってる。最近の流行は、お店屋さんごっこ。3人で寝ようとすると、ベットを降りて、ベットをカウンターのようにして、『いらっしゃいませー』『どうぞー』と言い出す。『これ下さい』っておもちゃを手渡したら、『ピッ』と言って、『どうぞ』と返してくれる。まぁ、この手の認知的発達なんて、どんな子供でも時間の問題なのだから、我が娘が殊更出来が良いとか悪いとかは思ったりしないのだが、こうやっていつの間にかどんどん出来ることが増えていくのを見るのは、素直に楽しい。最近は『何歳?』の問いかけに、『1歳』とも言えるようになった。来月末にはもう2歳。混乱するのだろうなぁ。
September 26, 2006
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とうとう桑田が巨人を去ることになりそうだ。私にとっての桑田は、私が好きだった頃の巨人を支えた最後のヒーローだった。斉藤、槙原、そして桑田。4番は原。小学生の頃のヒーローが江川であれば、中学以降のそれは桑田だった。PL学園の頃世間を呆然とさせた圧倒的な強さはないが、あの美しいフォームには勝敗を度外視して、見る度にわくわくした。それにしても、プロ生活21年。ということは、今日ドラフトにかかった高校生たちは、物心がつくどころか、生まれてすらいない。プロ野球選手というのは、結果を出してナンボの最たる職業なわけで、近年の彼のパフォーマンスしか知らない若い世代にしてみれば、なぜ彼の去就があれだけ騒がれるのか自体疑問に思う人もいるだろう。それは私が子供の頃、江夏や堀内に対して抱いていた思いと変わりはあるまい。しかし、どんな優れた選手でも、いつかは衰える日がやってくる。全盛期を知っているだけに、その衰えを認めたり、引退を迎えるのはファンでも辛いものがある。新庄やヒデのように、美しいままパッと去るのも美学だろう。でも、それが出来ない人もいる。野球が好きで、巨人が好きで、どんな怪我をしても、諦めないで栄光の背番号を守り通してきた彼が、これ以上球団に居続けることが出来ないと悟ったとき、あのようにするしかなかったんじゃないかなと思う。フランスワールドカップのカズでも思ったが、結論が出ているのに、それをギリギリまで本人に伝えない首脳陣というのは、どうなのかと思う。最後まで可能性を信じ、努力し続けることは、我々には想像も出来ないくらい、辛く、孤独な日々だったことだろう。この期に及んでも200勝にこだわる彼の発言をあざ笑うのは容易いが、私はただひたすら応援したいと思う。今まで雄姿に対する心からの敬意と感謝とともに。
September 25, 2006
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昨年異様な盛り上がりを見せた作品。『2ちゃんねる』で盛り上がって、それが本になり、それが売れて映画になり、それもヒットしてドラマになり、それもヒットして舞台にもなり、それもヒットしたからか、わが街北九州公演まで果たしたという、21世紀の奇跡とも言うべき現象。これだけ『作品化』されると、それはもはや『質』を問うべきレベルを超えているとしか思われないのが常であるが、ことこのドラマに関しては、質の面でも非常に良く、昨年は毎回楽しく見ることが出来た。とはいえ、ネタがネタだけに、結末は出ている以上、最終回が終わったら、『あー面白かった』で終わってしまっても仕方のないものだと思っていたのだが、その『続編』?が昨日テレビであった。そりゃあ仕事も早く切り上げて、観るしかない。ハチャメチャの2時間。大いに楽しませてもらったが、原作と同じで、どこまでが本当なのか、どこまでがフィクションなのか、その境界線がわからなくなってしまうほど巧く造られているのには、感心あるのみ。恐らく、出演者やスタッフの思い入れに相当なものがあったのだろう。それにしても、ネットが舞台のこのお話で特徴的なのは、『どれだけ有名になっても、本人のことを誰も知らない(知られてはいけない)』ということだ。匿名性はこの世界の一大原則だ。よく、『匿名は卑怯。無責任。正々堂々実名で』云々の議論はあるが、実名で登場するということは、場合によっては売名や宣伝目的と取られても仕方なく、それが目的でない場合、不特定多数の人間に個人情報を明かすというのは、今のご時勢、かなり危険でもある。あくまで時と場合にもよるが、匿名だからこそ素晴らしいものもあると思う。そんなわけで、昨日のスペシャル版も、その辺のことがかなり意識されたストーリーになっていた。匿名の世界。それはとても不思議な世界だ。普通のメッセージであれば、受け取った人は、その発言者の存在を具体的に感じることが出来る。それが一枚の葉書であっても、友人の名前がそこにあれば、その文字から彼の顔や声を思い浮かべることが出来る。しかし、匿名の世界には、それがない。どこまで細かく知ることが出来ても、それが匿名である限り、本人を特定することは出来ない。仮にたまたま二人が同じ場所にいたとしても、その瞬間お互いがそれを認識することはない。目には見えない。具体的に形として認識することは出来ないけれど、それは幻でも気のせいでもなく、現実にこの世のどこかに存在する。もしも悪意を持つ人間がその状態になったとき、それは時として恐ろしく、危険な世界になる。では、逆の場合、どうなのか。例えば、それが愛だった場合、どこまでいっても、それが具体的に形になることはない。でも、だったら、それは本当に意味のない行為なのか。匿名性が命と言えば、このブログにも共通する。私の書いているこのブログでは起きるべきもないが、先日、友人のブログでは、本当に『有名人(知る人ぞ知るというレヴェルだが)』ご本人と、私を含めた友人とが本編や掲示板で遭遇する事態も発生した。そこでの出来事は、まさに『電車男』の世界。その『有名人』以外、誰一人存在は特定できない上、結局のところ、お互い誰一人として面識すらなかったにもかかわらず、交流の高まりは、誰もが実感せざるを得ないものだった。普通、人は形のないものは信じることは出来ないし、ましてや本気で接することなんて出来ないと感じている。でも、ネットの世界のそれは、そういう常識を打ち破る何かがある気がしてならない。
September 24, 2006
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「銃・病原菌・鉄」のダイヤモンド博士の続著。人類の歴史では、栄華の限りを尽くしていた文明が、ある時点を境に突然崩壊してしまう。ということが、何度か起こっている。『モアイ像』で有名なイースター島や、南米のマヤ文明など。今となっては人も住まぬ廃墟になっているが、かつてはそこに、世界でも最先端の文明が存在していたのだ。筆者は、世界各地のそうした事象に対して、様々な要因を考察している。『文明の崩壊』というと、まず思い浮かぶのは、『戦争』だろう。異なる国々や文明が戦争をし、その過程で破壊と略奪が行われて一つの文明が滅びゆく姿は、悲惨ではあるにせよ、容易に想像がつく。しかし、この本では、そうしたことばかりが原因ではないということを教えてくれる。なんと、戦争もないのに、住民自らが作り出した原因によって滅びた文明が歴史上沢山あるのだ。そもそもそれだけの文明を築くことの出来た人々が、そのような自滅的行動を取るほど愚かだったのだろうかという疑問が当然沸くが、その多くは、つまるところ、無意識のうちに自然環境を劇的に変化させたことに起因している。緑に被われた楽園だったはずの場所も、無計画に木を切り続ければ、一本残らず無くなってしまう。気が無くなる頃には、草も無くなり、そこに生息していたはずの動物も絶滅し、そうなると当然食べるものも無くなり…イースター島の崩壊はそうやって訪れたという。他にも実に緻密な検証が行われているのだけれど、つまるところ、自然環境を馬鹿にしていると、取り返しのつかないことになるということのようだ。昔から、この手の危機を叫ぶ声に対しては、『そんなことはない。そのうちそれなりの画期的新技術が開発されて…』という楽観論にすがりたくなる。しかし、こと、『資源の消費』という視点で考えたとき、今の世の中は、かつてのどの時代よりも、激しい消費をしていることは間違いない。例えば石油。昔から、『あと50~60年でなくなる』と言われていたらしいが、本当に無くなったら、どうするのだろうか。高度な技術も、石油がなければ、殆どは何も出来なくなる。あまり深刻に考えても始まらないが、たまにはこういう本を読んで、そういうことに関する認識を持っておくというのも大切なんじゃないかと思った。
September 14, 2006
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たまには感想文も書かないと…ということで、またまた伊坂幸太郎の『魔王』。毎回趣向を凝らした仕掛けで楽しませてくれる伊坂幸太郎だけど、今回のはちょっとだけ硬派?頼り甲斐のない政治家、閉塞した社会の現代日本に、突如彗星の如く、妙に心強い若手政治家が現れる。端正なマスク、はっきりとした発言に、人々は今までにない期待を抱く。でも、主人公には、それが胡散臭く見えて仕方がない…。その昔、ヒトラーやムッソリーニが政権を握った時も、最初は同じような感じだった。人々はムードで動く。もしその『希望の星』が『悪魔の使い』だったら…そして、彼すらが、さらに黒い悪の操り人形だったら…というわけで、色々と考えさせられる作品だった。折りしも現実の世の中は自民党総裁選の真っ只中。現役の首相までが認める、近年稀に見る出来レース。『再チャレンジ可能な世の中を目指す』とか、いかにもという事を言っているけれと、胡散臭いわなー。国民が望んでいるのって、本当にそういうことなんだろうか?そもそもそれって、具体的にどういう政策なんだろうか。小泉内閣は、まずい面もたくさんあったけれど、いろんな意味で、ある程度の道筋を作ったと思う。でも、現時点で、安倍氏に何が出来るのかが全然見えてこない。小手先の政治というか、単に絶大なバックアップがあって、それを目当てにみんなが『寄らば大樹』という感じで同調しているだけのような気がしてならない。長期的には、小沢の政権奪取の手助けをしてしまうのではなかろうかとさえ思う。この国の将来、どうなるのだろうか。
September 13, 2006
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どうしたことか、相変わらず非常にタイトな毎日が続く。そんな中、今日は珍しいものを観てきた。『慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団』の北九州公演。私は会社のコーラス部の部長をやっていたりするわけで、歌は元々好きなのだが、こんなものを聴きに行った事は今までなかった。たまたま、会社の上司が慶應の卒業生だったようで、色々お手伝いをされるということで、また、内容の性格上、動員が厳しいのではと危惧されていたこともあり、正直気の毒になったこともあったが、会社のコーラス部の先生も行かれるということなので、行ってみる事にした。とは言うものの、行く前は少々抵抗があった。なにせ『男声合唱』である。見たことも聴いたこともないヤローの歌を2時間も大人しく聴くことが出来るのだろうか。聞けば、『わが国最古の音楽学校以外の学生音楽団体』というが、それって…?そもそも卒業生じゃないし…さまざまな懸念はあったものの、2千円の前売券をタダでくれた上司の心意気には報いたい。上司も上司で、『サクラでもいいから…』と言っていたし。結局のところ、怖いもの見たさといっても過言でないレベルで、会場に赴いたのだった。会場に着くと、上司の心配とは裏腹に、沢山の人が来ていた。いくら私学の雄とはいえ、東京からこれだけ離れた土地で、1000人近くの来場者を集めるとは、さすがとしか言いようがない。調べてみたら、北九州の三田会(同窓会支部)は、500名もいるそうだが、それが本当にきちんと機能していないと、これだけの人間は集まるまい。まぁ、冷静に考えれば、私の勤務先の社長は2代続けて慶應。私を誘ったその上司は経理部長。以前お世話になっていた本屋の社長も慶應。慶應を出ないと偉くなれないとまでは言わないが、慶應を出た人は、みんなと言っていいくらい、偉くなっているのだ。私の会社がそうならば、他の会社もそうなのかもしれない。とにかく、こんな地方まで、そんなことになっているというのは、見事としか言いようがない。というわけで、男声合唱。これがまた見事だった。パンフレットをみても、その自信の程はプンプン漂っているのだが、実際の歌声は、それがあながち嘘ではないということを感じさせられるものだった。最初の『男声合唱とピアノの為の≪ジプシーの歌≫』なんて、それだけ見たら、『なにそれ?』って感じだったが、ひたすらロシア語(ドイツ語?)で、30分くらいの組曲を歌いまくるわけだ。それがまた、ちゃんとそれらしく、聴こえてる。目を閉じれば、どこかの外国のオペラを聴いているのではないかとさえ錯覚しそうになる出来。アカペラとかも、こんなになるのかーと、自分たちの合唱との違いに、ただ唖然。そりゃ目つきの怪しい人もいたし、パンツの裾が、どう見ても合っていない人とかもいたけれど、私だけじゃなく、みんな全体的に度肝を抜かされたんじゃないかと思う。他の曲も渋すぎる。宮沢賢治の、『永訣の朝』だから。これも1曲で40分くらいあったのではないかと思う。それだけ長くても、全然空気が緩まないのが凄い。アンコールが『陸の王者!』とか叫ぶ、慶應の応援歌というのも、それはそれで、OBとしては、たまらないだろうなって感じがした。長い人生の中で、大学時代なんて、後から思い返せば、本当に一瞬に過ぎなくて、そういう意味では、『どこの大学を出た』なんていうのは、本当はあまり大したことではないのだけれど、それでもあながち馬鹿にならないのは、ある程度上の学校に行っていると、当然それなりのレベルの高い人間の中で時を過ごすわけで、そういう時間の密度っていうのは、たった4年だけど、とっても大きいのかもしれないと思う。レベルの高い人間のいる集団にいると、間違いなく、自分自身も高まっていくし、その相互作用は、大変なものになるだろう。ただ、大学を出て、一歩社会に出たら、当然ながら、みんながみんな慶應ボーイではなく、場合によっては、いつの間にか、周りに同化して、普通の人間になってしまったりもする。それは決して悪いことではなくて、社会の中で生きていくためには、逆に必要なことでもある。でも、たまに、『じゃあ、あの4年間はなんだったのさ?』という時もある。校歌って、そういうときに、役に立つ。あいにく慶應とは縁がなかった(受けてもいなかったので当然)私だが、帰り道で、自分の通った青山学院の校歌を久々に口ずさんでみた。『…こだまするチャイムの響きーわが母校、あーおやーまが、く、いーん。』悪くないんじゃないの?と思った。上司や社長のように出世するかどうかはわからないけれど、私にも、親に一生懸命お金を出してもらって通った学校があった。それなりに心を熱くした日々もあった。それでいいじゃん。ちょっと最近お疲れ気味だけど、あの頃の心意気を思い出して、私は私で頑張ってみようじゃないの。不思議な元気をもらった2時間だった。
September 8, 2006
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別に人事異動の話をするわけではない。会社で100人規模の移動があろうと、2期連続で『該当者なし』となったりするのが、私の勤務する経理部なわけで。今回のお話は、私のクルマのことだ。8月7日に契約のハンコは押したものの、待てど暮らせど、車は来ず、季節は油蝉からツクツクボウシに移って、どうしたものかと思っていた。聞けば『盆休みを挟んだ』だ、『船の移動に日数がかかり…』だの、尤もらしいことをクルマ屋は言う。あるいは、『オプションで頼んだリヤ・コーナーセンサーの穴を開けているんじゃないか』とか、会社の者にもからかわれる。そんなうちに、9月を迎え、もうこれ以上待てないと思った頃、ようやく納車となった。本来は納車費用を払っているのだから、家まで持ってきてもらっても良いのだが、待ちきれないので、店まで取りに行った。その前に、3年間お世話になったラパン氏と、家族揃って最後の記念撮影。クルマとしての走りに関しては話にならなかったが、私たちの新婚生活は、これなしにはありえなかった。(もう結婚して3年も経つのだ!)そしてついに来た日産ノート。実際のところ、世間的には、『大衆車』であり、『コンパクトカー』なんだろうけれど、今まで軽自動車に乗っていた私たちにとっては、とっても大きく、広く思える。まさに、夢のようなセカンドステージの象徴のようなもの。こういう嬉しさというか、幸福感は、ずっと大切にしたいと思う。当然のことながら、車屋を出ると、早速走りを試しにドライブ。新北九州空港と、皿倉山に行って来た。やっぱり、走りは全然違う。今まで、かなりアクセルを踏んでも80キロ以上出る気がしなかったが、今度は少し踏んだだけで、ビュンッと走る。坂道も普通に走れる。広いし、静かだし、疲れない。(普通、クルマってそんなものだった気もするが…)ロシアからの飛行機や、名古屋からの飛行機や、スターフライヤーが飛ぶところを見たり、皿倉山の夜景を見た。この夏の全てを捧げたといっても過言でない棚卸しがひと段落着いて、つかの間の休日だったが、明日からは、引き続き、月度決算、中間決算に終われる毎日となる。このクルマを心の糧にして、何とか乗り切っていきたいなぁと思った。
September 2, 2006
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