北海道 0
四国地方 0
九州地方 0
商店街 0
全174件 (174件中 151-174件目)
初めてジョージ秋山のマンガを目にしたのは、小学校の頃だったと思います。当時、和歌山に住んでいたぼくは貴志川線というローカル電車に揺られて和歌山駅まで共働きの両親と合流するために出掛けたものです。まだ幼いぼくにとって楽しみは、駅ビルの地下で明石焼を食べること、近鉄百貨店で抹茶アイスを食べること、駅ビルのゲームコーナーで遊ぶこと、同じく駅ビルの本屋で立ち読みをすること位しかなかったのです。あと一つ、やはり書店ですが、場所は今となってはしかとは思い出せぬけれど、駅の脇道とかそういった小汚い路地だったと思うのですが、新刊本屋でありながら他店では入手困難なマンガを取り揃えた書店があったのです。そこでは、朝日ソノラマの藤子不二雄の著作や多くの文庫漫画が残っていて、随分と珍しいコミックスが新書で入手できたのてす。そこで出会ったのがジョージ秋山の2作目の著作てある『パットマンX』でありました。講談社児童まんが賞を受賞したこのマンガ家さんの初期を代表する作品だったわけですが、当時はそんなことは知ったことではなかったのです。自身の発明品で身の回りのちょっとしたピンチを救うおちこぼれヒーローを描いたこの作品は子供時分のぼくにはとても好ましく何度も読み直したと記憶しています。その発表からわずか3年後に各地で有害図書指定された『アシュラ』や『銭ゲバ』が発表されていることを知るのは随分後のことです。『WHO are YOU 中年ジョージ秋山物語』(小学館, 2005) スケベそうなママのいる居酒屋がこのマンガ家の定番です。そこで描かれた酒場の建物には微塵たりとも魅了を感じません。むしろコマをぶち抜くように描かれる豊満でぼくにはグロテスクに思えるような女将というかママのいるようなお店には極力近寄りたくないのです。ジョージ秋山氏は酒も好きなんだろうけれど、それ以上に女が好きで好きで仕方がないのだろうなあ。ぼくも女好きではあると思うのだけれど、この人のような狂おしいまでの執着は持ちえなかったのであります。たまにはおでん屋も描かれるし、クラブのような接客ありのお店は頻繁に登場するけれど、基本的に女性のいる店に向かう前の気付け薬的な用法で居酒屋は使用されるようです。『くどき屋ジョー』(全4巻)(小学館, 1987) 主人公が出入りするのが「スタンド 酔仙」です。うっかり店名に惹かれて入ってしまいそうだけれど、ぼくにはどうも通うような店にはならなさそうです。でもジョージ秋山の描く主人公達にとってはこうした酒場は家庭のような役割を果たしているのだろうと思えます。『捨てがたき人々』(全5巻)(小学館, 1997-1999)「居酒屋 あかね」、スケベそうなママがやはりここにもいます。助平だけれどこれは母のイメージと解釈すると腑に落ちるのです。
2020/08/02
コメント(0)
この5月12日にジョージ秋山は77歳の生涯を閉じました。破天荒な生き様を辞任もしていたように思われますが、その割には案外、穏便にその生を全うしたような気がします。とここまでの書きようは亡くなった方やそのご遺族にはあまり穏やかな書きっぷりには思えぬかもしれません。そこには、ぼく自身のジョージ秋山氏に対する感情というか人物像への評価の揺れ幅が反映されているのだと思っています。どういうことかというと、デビュー当初は端正なタッチによる明朗な児童マンガの作家であったのが、突如として過激(?)(テーマ、物語、主人公)さを軸とした先鋭的なマンガ家に変貌を遂げた後に、またもや変貌を遂げた後には自意識過剰な粋と酔狂を一貫して描き続け、現実においても自作自演して見せようと振舞ったように思えるのです。かつてのマンガマニアたちはそんなジョージ秋山を崇拝するかの如く祭り上げる者がいる一方で、どうにも拭い難い嫌悪を抱きつつも常に意識せざるを得なかったりととかく評価が分かれる人だと思うのです。そんな氏とマニアに至らぬマンガ読みやマンガなど読まぬ人たちとを結び付けたのがかの大作でありますが、それについてはまた今度書きたいと思っているのです。『ジョージ秋山作品集第2集 日本列島蝦蟇蛙』(ソフトマジック, 2002)『銭ゲバ』(ソフトマジック, 2000) ジョージ秋山の描く風景のもっとも鮮烈なのがネオン街であります。ご覧いただくと分かるけれど、彼の描く居酒屋やクラブなどの描写はほとんど酒場好きの琴線をくすぐる余地がありません。さて、ネオンですが、クラブやBARの看板を覆い隠すようにたまには謎めいたおでんの店もあります。夜を表現する黒地に数多くの照明式看板を配するというのは、夜の町の表現としては、かなり凡庸な多用される手法であります。しかしジョージ秋山の手に掛かると、それが単なる照明の光の表現を超えて思われるのです。それは看板以外の謎の白い丸がもたらす効果、いやそれは魂のような何者かを意味しているようにも思えるのです。それが画面いっぱいに執拗に描かれる、この風景だけはこのマンガ家らしい表現に昇華しているようで見入ってしますのです。
2020/08/01
コメント(0)
どおくまんというと何と言っても数える事すら躊躇われるだけのモブキャラたちの描き込みの過剰さにその面白さの神髄があると思っています。どおくまん本人は主人公の顔にこだわっているとインタビューで語っていますが、その際立った個性に対して、モブキャラたちの顔はそれとは別のユーモアで描かれていて、じっくり眺めるとその表情の豊かさに驚かされることになります。ぜひ実作に当たって観察していただきたいと願うところです。マンガの楽しみ方にはストーリーを追っかけるというのもありですが、せっかく絵があるのだから存分に絵とコマの割方や組み合わせ方などマンガに特異な表現の妙味を楽しみたいところです。どおくまんのマンガには他のどのマンガ家も持ちえぬ特異なキャラクターの表情や徹底して緻密な描き込み、朴訥としているかのように見えて大胆極まりないコマ割りなど見どころが沢山です。『男 花田秀治郎』(集英社, 1994) このどおくまんの最初の著作ですでにこの特異なマンガ家の片鱗が見て取れます。食堂や「甘党の店 まんじゅ堂」の描き方が看板から俯瞰による内観全景というパターンがすでに大いに発揮されていて、その線描は拙く過剰な書き込みもまだまだ影を潜めてはいますが、それでもキャラクターたちのユーモラスな面は少しも損なわれていないのが驚きです。『怪人ヒイロ』 (全19巻, 秋田書店, 1985-88) 今回の作品ではもっとも近作ということになりますが、宴会、「West Coast 寿し」、「中国料理 北京樓」が描かれています。ここに至ると遠景(外観)―看板―鳥瞰(内観)という典型的なコマ運びがリズミカルに描かれ、微妙に変化を遂げつつ繰り返されるというまさにミュージカルを見るような気分に浸れます。『暴力大将』(全23巻, 秋田書店, 1975-85) もっとも気合のこもった描写がここに見て取ることができます。野営にて宴席、闇市(桜橋マーケット)、五番街のレストランといった変幻自在の画面には夥しい人々の姿が描かれており、ここまで過剰である必要があるのかと思いたくもなるのですが、でもこういうとんでもない画面を目にすることこそがマンガを読む快楽の最たるものだと思うのでした。『暴力大将 少年伝 純情大志編』(徳間書店, 2003) この大宴会の描写のユーモラスなことといったら、見返して思わずほくそえんでしまいました。なんだよヘンテコな文字でちっちゃく「がやがや」なんて書かれていたりして。どおくまんは本気なのか冗談なのか判然とせぬギリギリのところで勝負していて、そこにそこはかとないユーモアをしのばせるのでした。『熱笑!!花沢高校』(全29巻, 秋田書店, 1980-84)「来々軒」の描写は比較的このマンガ家としては穏当なものですが、映画館の描写はこの人以外に描きえないものとなっています。でもここで取り上げるべきは「づぼらや」でしょう。この6月11日に新世界店が閉店してしまったのでした。また大阪は大阪を印象付ける風景を失ったのです。ついでに映画館の描写もこういうモブキャラたちのぞろりと描けるコマへの嬉々としたところがどおくまんの真骨頂。
2020/07/30
コメント(0)
前回の続きになります。マンガという表現は、あくまでも紙面上に表象されたものこそがすべてである以上、それを描くものが仮に人であろうとAIが再現したものであろうとそこに貴賤はないはずです。だからAIが面白いマンガを執筆したとしてもぼくは驚かないと思うのです。先日、手塚治虫氏の息子の眞氏を中心としたプロジェクトが実際にAIを活用してマンガ作品を完成させたようです。ぼくはまだそれを読んでいませんが、もしかするとこれを手塚氏の未発表作品として読んでいたらそう思ったかもしれないと思うのです。同じようにどおくまんの作品の再現を試みたらもしかすると相当にどおくまんらしいマンガが仕上がるのかもしれません。それこそどおくまんらしさをより鮮明に表出するよう調整すればどおくまん以上にどおくまんらしいマンガが産出されるのかもしれない。というか、どおくまんに限らず、既に世間には何気ない顔をしてAI由来のマンガが流通していることも十分に考えられるのです。では、とその流れを否定するべきですが、取り敢えず手描きのマンガ家が存在する最後の時代を迎えた現代にあっては、手描きによってもたらされたオリジナルな味わいを主張していれば事足りますが、遠からずそのオリジナルであることの優位が陥落することを覚悟しなくてはならぬかもしれぬと思っているのです。『熱笑!!花沢高校』(全29巻, 秋田書店, 1980-84)さらに『熱笑!!花沢高校』での喫茶の活用例をご覧いただきます。「喫茶 マミー」、「喫茶 マニア」、「喫茶 ルブラン」、「喫茶 カナコ」、「喫茶 古都」、名無しの喫茶店が登場しますが、これらのオオバコの雰囲気というのは、どおくまんもしくはどおくまんプロの1名もしくは4名の出身である大阪の喫茶店を思わせます。難波の「アメリカン」なんかがイマジネーションの源泉にあるのではないかと思うのです。前回勝手に分析したコマ内コマの配置の中では大阪の不良学生たちが所狭しと画面を埋め尽くすわけで、実際にこんな連中がいる喫茶店に立ち入ったらすぐに背を向けて立ち去りたくなるのですが、少なくともマンガの中では丁寧に描き分けられた彼らの表情のいちいちを眺めるだけで楽しくて見入ってしまうのでした。
2020/07/29
コメント(0)
どおくまんの凄さはとにかくその画面の描き込みのしつこさにある。いや、あれはしつこさなんて表現には留まらぬ執念のようなものすら感じられるのです。当時でもスクリーントーン、現代であればCGを活用していくらだって、しつこい描画を生み出すことは可能であろうと思うのだけれど、そういった機械で描かれたものには出しえない味わいがあると思うのです。例えば、どおくまんのマンガでは基本的にスクリーントーンというお手軽便利アイテムが用いられたことはほとんどないという印象であったのですが、とあるインタビュー記事には『通販大王』位でしか使用されていないとありましたから、やはり印象は当たっていたということになります。レディメイドの便利グッズほどどおくまんのマンガからほど遠いものはないように思います。先ほど手書きの濃密さについて言及しましたが、もしかすると現代の技術があれば、あたかも手書きのような筆致をCGなどで再現できるような気もしますが、でもやはりあれは人の手によらなければならなかったのだと強く主張したいのであります。『熱笑!!花沢高校』(全29巻, 秋田書店, 1980-84)さて、酒場篇ですでにその過激な描写をご堪能いただけたかと思いますが、喫茶店では外観や共用部のらせんなどの階段の多様さやステンドグラスによる絵画内絵画という入れ子構造、そしてシャンデリアなどの絢爛たる書き込みに加えて、客席がシンメトリーに配置されることによって、ソファにより区切られて画面がコマと同様の役割を果たしているように思われます。コマ内コマというアイデアは吹き出しを利用したりと様々な工夫と実験がなされてきましたが、どおくまんは単純な仕掛けではありますが、最も効果的に活用しておりお手本ともいえる出来栄えとなっています。「MADBILLY」、「純喫茶 花」、「喫茶 真汝」、「キッサ バンビ」、「coffee ハリウッド」、「喫茶 リッチ」、いずれも魅力的です。
2020/07/28
コメント(0)
前回は、どおくまんが苦手だったことをくどくどしく書きました。今回は何がきっかけでどおくまんを読むに至ったのかを書きたいと思います。例のごとくでありますが、どおくまんを読みだしたのは映画がきっかけでした。代表作のひとつである『嗚呼!!花の応援団』が曾根中生の監督により『嗚呼!!花の応援団』(邦画配給収入ランキング第8位)、『嗚呼!!花の応援団 役者やのォー』、『嗚呼!!花の応援団 男涙の親衛隊』が製作されたのです。これがまあ滅法面白くて、必然として原作へと手が伸びたということなのでありますが、ここで少し脱線させていただきます。というのが曾根中生についてぜひ語っておきたいのであります。 曾根中生は日活に入社すると、鈴木清順の門下生として脚本家集団の具流八郎を結成、『殺しの烙印』などの脚本を手掛けました。1971年 に日活がロマンポルノ路線に転じた際に監督デビューを飾り、『色暦女浮世絵師』を監督しました。今は無き大井武蔵野館の定番プログラムでした。ここからはWikipediaからの引用ですが、--その後、歌舞伎町の不良少女を描いた「BLOW THE NIGHT 夜をぶっとばせ」 (1983年)が予想外のヒット作となり大当たりした[4]。曽根は、この映画で得た金で芸能学校を開設したが、これが大失敗し金策に追われる中、1990年頃に消息不明となってしまう[5]。消息不明ゆえに、好ましくない極道絡みの噂がまことしやかに囁かれ、キネマ旬報や映画監督協会、かつての主演俳優たち、同僚監督や脚本家たちが心配していた。--当時、曾根のファンであったぼくは、廃品回収だったりチリ紙交換車を運転していたとかいうまことしやかな噂を耳に挟んだりもしたのだけれど、--第36回湯布院映画祭の2011年8月26日のゲストとして健在ぶりを示した。『嗚呼!!花の応援団』DVDに収録の映像特典のインタビューによると、商業目的化しそれに迎合せざるを得ない状況で出来上がった作品への自己嫌悪に耐え切れず、監督業をやめたのだという。--の一報を聞いた時には驚く以上に、それなりに波乱万丈ではあるけれど案外ありふれた経緯にちょっとがっかりもしたのでした。本人曰くの自己嫌悪に至った作品にはもしかするとマンガ作品を原作とした『博多っ子純情』、『女高生 天使のはらわた』、『スーパーGUNレディワニ分署』、『天使のはらわた 赤い教室』、『元祖大四畳半大物語』なども念頭にあったのかもしれません。といった次第で、曾根中生のことを書いていたら久し振りに『嗚呼!!花の応援団』の3作を見たくなったので、今度の映画の中の酒場はこれにすることにして、その際に曾根中生について、もっとしっかり語りたいと思います。『熱笑!!花沢高校』(全29巻, 秋田書店, 1980-84)見落としがあるかもしれませんが、全巻を通して「カウンターバー やすい」、「ストオム」、「パブ ナポリ」、「R CLUB PALi」、「クラブ ひとみ」、「Club チェンマイ」、「クラブ 月舞」、「会員制クラブ 北死」、「スナック 大仏」が登場します。前回も書きましたが、得意とする鳥瞰・俯瞰の構図が全編に亘って採用されており、しかも今度のお店は洋風の装いが一貫して用いられているからソファやシャンデリア、時にはガクラン姿のバンカラ学生を縦横に駆使して幾何学的な画面を構築するのでした。シチュエーションやキャラクターはまったく異なるけれど、あたかもハリウッドの黄金時代のミュージカル映画を見るような絢爛豪華さで圧倒されます。ここはガタガタ余計なことは申しませんので、じっくり堪能していただきたいと思うのです。ちなみにこんなだから喫茶店もオオバコが次々と登場するのです。乞うご期待。
2020/07/27
コメント(0)
どおくまんって昔は苦手なマンガ家だってことを確かに描いたような記憶があるのだけれど、どういうわけだかその文章はどこかに消えてしまったので、悔しいし面倒くさいしで同じことは書きたくないなあとうんざりした気分になるのです。とまあ嘆いていても文章が戻ってくることはなさそうだから観念して書き進めることにします。さて、前に書いた文章では、どおくまんのマンガはその多くが不良たちを主役に据えたものであって、不良が嫌いだからこそぼくはどうもどおくまんのマンガを受け付けぬのだと思っていたようです。でも改めて思い返してみるとぼくの嫌いなのはヒロイックな描かれ方をした不良たちであって、どおくまんのマンガの主人公たちはそんな虚飾された不良=英雄めいた描かれ方はけしてされないのであります。マンガを描き始めた際には、入門書などを手にすることもなく、目先にあった筆一つで勝負をk始めたというどおくまんは、そのマンガ作法同様に不良というキャラクターもまたそれまでの鋳型に収まらぬ形で想像して見せたのであります。ぼくの場合は、技術よりもオリジナルであることがどおくまんの他に例を見ない特殊性であることに気付くのに随分な歳月を要したということです。『怪人ヒイロ』 (全19巻, 秋田書店, 1985-88) 赤ちょうちんのお店は、伝統的な居酒屋のスタイルとは到底思えぬし、かといってチェーン店のそれとも違っています。印象としては回転寿司屋の趣きといったところですが、そんなのがあるのかどうか知らないけれど、アメリカなんかに居酒屋があったらこんな風かもしれぬと思うと、一度は試しに行ってみたい独特の雰囲気があります。続いての焼き鳥とホルモンのお店「みわみわ」は、そのネーミングセンスの微妙さ―4人組のどおくまんの一人である宮勝彦のペンネーム―に反して、ずっと日本の典型的な居酒屋という感じで悪くないのです。どおくまんの描く酒場の描写と引き比べると余りに普通過ぎて物足りぬと感じるのはわがままでしょうか。『暴力大将』(全23巻, 秋田書店, 1975-85)『暴力大将』に登場する酒場は、一般的な酒場とは程遠い料亭がメインになります。でもさすがに特異なコマ使いを得てとするどおくまんです。凡庸なマンガ家の手になる料亭とは一線を画したユニークなイメージとしてコマに収まっています。そのユニークさは、クローズアップどころかバストショットすら稀有な表現にあります。ほとんどの画面が鳥瞰や俯瞰ショットで描写されていて、これって偏執的なまでの書き込みを要請されることなので、凡百のマンガ家なら手出しはしないはずですが、どおくまんにあっては大部分がこの構図によるのだからすごいことです。「料亭 松風」、「料亭 おぎはら」、「料亭 ひさじ」などが登場します。数少ない異質なお店が「BAR SURO」でありまして、ここでも俯瞰の構図が多く採用されていますが、アメリカンスタイルのバーということもあって本作にあっては異質な絵となっています。このより先鋭的な表現が次回の『熱笑!!花沢高校』では多く見ることができます。
2020/07/26
コメント(0)
ぼくの世代にとって、ちばてつや氏の存在はすでに同時代の作家というよりは少し上の世代と感じていました。子供マンガの作家として息の長い活躍をした藤子不二雄らは、ちば氏より年長だと思うのですが、だからちば氏は例の傑作とともに少し過去の作家と感じてしまっていたのかもしれません。より近しいのはその弟さんのちばあきお氏でありました。『キャプテン』、それに続く『プレイボール』はアニメ化もされたりととかく視界に入ることも多くて、ぼくにとってはお兄さんよりも近しく思えたものです。てつや氏が学園マンガやスポ根マンガの意匠を拝借して少年期から青年期への移行とその不可能さを表現したのに対して、あきお氏は一貫して少年の視線を貫き通したように思われます。しかし、あきお氏は2作の連載を終え、しばしの休載の後に復活を遂げたかと思ったらすぐに41歳で生涯を閉じてしまったのはつくづく残念な話であります。あきお氏が存命だったら今頃どういった作品を描いていたのかとても見てみたかったと思うのです。当時と同じく子供の目線から描き続けていただろうか、それとも兄のてつや氏のように大人の視線で新たな表現を切り拓いていただろうか、とても気になります。『男たち』(講談社,1982-83)の主役・朝倉新一は、東千住のぼろアパートに越してきた時にはすでにスーツ姿のサラリーマンで、勤めて間もないという感じではなかったから、すでに成人しているようです。おじさんを頼りに上京してきたというのに、ほってけぼりされて、孤独を噛み締めるように独り酒をラッパ呑みする哀切なシーンはとても好きです。アパートの住民たちは皆貧乏金なしで呑みとなると専ら家呑み専門となるのは致し方ないところですが、それでもわずか2巻の間だけでも数えるのが嫌になるくらいに呑んでばかりなのです。最初に少しだけ弱みを見せた新一ですが、他のシーンでは出てくる男のことごとくがとんでもない野郎たちであるにも関わらず、一貫して平静さを通すのであって、これは信念であるとか大義を持っているとかいったことでもなく専らもともと身に持った性格がそうだったのだと思わせます。特に目立った物語もなくほぼ淡々と物語が綴られていくのでした、突如、新一が海外赴任を命じられることで突然打ち切られることになりましたが、ぼくはこのマンガがもう少しずるずると引き延ばされるところが見たかったと思うのです。
2020/07/25
コメント(0)
まあ、本当だったらちばてつや氏の業績をもっと積極的に賛辞すべきところですが、しがないサラリーマンのぼくではできることは限られています。この面倒な作業、実は物凄く楽しくて傍らにバーボンをショットで用意しておきたくなるのでありますし、実際にそうして作業に勤しんだばかりに、うっかり夜通しとなってしまったりもしたのです。その気持ち、理解いただける方も少なからずおられるんじゃないかなあ、いやいや、そんな人は余りいないかな。でもぼくは良くも知りはしない人の事をいい人とか悪い人とか、そういう判断をするのって軽率にすべきではないと思うのですね。確かに世の中には「いい人」が存在するのは否定などしないけれど、人の事をそんなに単純に割り切ってしまうのは当の人物の多様性を否定する事にもなりかねぬだろうし、無礼な事ではないかと思うのだ。仮にぼくがそう深く知り合った間柄でない人に、「あなたはいい人だ」などと断じられたとしたら、それは一体どういう意味なのだ、あなたはぼくの全体何を知っているというのだ、と追求したくなるだろうと思うのだ。まあいい加減に大人だからそんな事は述べぬけれど、まあそういう事なのです。こういう断言で持って他人を語る人は、余程周囲の人が寛容だったかそれともすっかり諦めきって扱われているかな概ねどちらかではないかと思うのです。まあどちらも似たようなものですが。その信念なく軽率に断言する態度はまさしく以前のぼくそのものでありまして、今は初対面でその相手のことを即断してしまったのが大いに誤りであったという経験を積むことでようやく脱しつつありますが、まあこの話はいかにもちばてつや氏から遠いものに思えるのでここまでとします。 さて、現在、ちばてつや氏は自伝的作品『ひねもすのたり日記』を執筆しておられます。ぼくも随分久しぶりに新作が出たなあと何の気なしに手に取ってしまったのでありますが、読み進めるうちにまとめて読めばよかったとすぐに後悔したのでありますが、読み始めたら止まらぬその語り口の妙味にすっかりやられてしまったのでした。大ベテランマンガ家の筆はとにかく遅いのが最大の特徴でありまして、このマンガでだったと思うけれど、「マンガなんてものは齢を取ってベテランになったら迷ったり悩んだりしなくても自動で書けるようになると思っていたけれど、それは誤りで今になっても悩んで悩んでちっとも速く描けるようにならない」といったことを書かれていたと記憶します。藤子不二雄?の手による『まんが道』などは、1970年に連載が開始された「あすなろ編」は別にしても1977年から82年の5年に及んで連載された「立志編・青雲編」、1986年から88年の「春雷編」はまだしも、さらなる続編、後に「愛…しりそめし頃に… 満賀道雄の青春」のタイトルで不定期に連載された1989年から2013年の長きに渡って描き継がれてきたが、全12巻で一応の完結は見たものの、その結末には必ずしも納得がいかなかったし、いかんせん、ペースが遅すぎると思うのだ。いい加減な性格が時折見え隠れする?氏と異なるちば氏は、しっかりとしたプランと誠実さで納得のできる作品に仕上がると信じたいものであります。 さて、『のたり松太郎』(小学館, 1973-93)では呑み屋も頻出しましたが、喫茶店も折に触れては登場してきます。呑み屋も喫茶店も好きというところで、ちば氏には勝手に親近感を抱いていますが、まあそんなの格別に珍しくもないことで、呑んだり食べたり好きな人なら当然のこと、商店建築に愛着を持つ人も少なくないだろうし、単に居心地の良さを求めるとか家にいたくないとかで呑み屋や喫茶店に過ごす時間が多いという場合もあるのかもしれません。でもぼくには、この精密で丹念な書き込みからは、愛情以外の何物もを汲み取ることができないのです。物語中、浅草観光で昨年惜しまれつつも閉店しまった「アンヂェラス」を訪れるのですが、店舗の保管を名乗り出る人がいてもちっとも不思議でない魅力的な店舗でしたが、その外観とわずかな内装だけでもちば氏の手により残してもらえたのは幸運だったかもしれません。のたり松太郎(1) (コミック文庫(青年)) [ ちば てつや ]
2020/07/23
コメント(0)
2回に亘りお送りしています、ちばてつやの『のたり松太郎』(小学館, 1973-93)に登場する酒場紹介であります。マンガをコマごとに解体するという所業というのが果たして人道的に許されるべき行為であるかについては、いつも悩まされるところです。著作権的にどうかという事も気掛かりではありますが、多くの書籍でも引用元の出典を付すなら度を越しさえしなければ許容の範囲であると思わなくもないけれど、それよりも気になるのがぼくが敬愛するマンガ家さん達の意に沿わない振舞いではないかという事です。大体においてコマ割りによる物語の展開を活性化する演出は、映画におけるカット割、もっと広義にモンタージュなのであり、単一サイズのコマで区切られる事の多い諸外国のマンガとは異なり、日本のマンガではその作家性の際立つ要因となっています。ちばの演出では、同一頁内の中ゴマでの無人ないしはモブキャラのみの情景描写によるシーン切替えが独特の余韻やテンポをもたらすように感じます。その重要な一コマを取り出して見せて、ほらほらこのカットいいでしょ、というのはもしかすると愚行という範疇の所業ではなかろうか。人は映画を見て、クライマックスのあのシーン凄かったね、とかマンガを読んで真っ白に燃え尽きたとこに感動したなどと簡単に口にするけれど、本当にそういう語り方は作家にとって喜べる賛辞になり得るのだろうか、などと思ったりもするのです。でもここではそうした煩悶などかなぐり捨てて、敢えて読者の傲慢を貫きたいのです。ここで拾い上げているのは、ちばてつやという寡作ではないけれどその作品リストを眺めると、そのキャリアから見繕うと思ったよりは作品の少ない、でもそのほんの一部を眺めたに過ぎぬけれど、こうしてズラリと酒場などの限定した嗜好性で切り出した変遷に思わずほくそ笑むような喜悦を感じるし、その描写の的確なことに簡単の声を漏らしそうになるのでした。この絵を切り出すための作業は思った以上に労力が必要でコツコツコツコツと何らかの意味を持ち得るのかと悩みましたが、やってみて良かったと思うのです。だってこうしてみて並んだ絵を見ていると本当に楽しくて絵の中に入り込みたくなるし、これを見て実作を未見の方がいて、原作を手にするキッカケとなったならこれ程嬉しいことはないと思うのです。いかにも言い訳じみているけれど、しかしマンガ家さんたちにとっては自身の作品がいかなる形であれ読んでもらえるのは嬉しいんじゃないかと思うし、そのきっかけが切り取られた一コマであったのなら許していただけると考えることにします。って、すでにアップしているんだからグダグダ言ってもしょうがないんですけど。 さて、『のたり松太郎』の後半になると、憧れを手にしてますます登場機会が増えた「樽久」に加えて、屋台「白楽天」、「居酒屋 おどり」、「竜飛」、「高級クラブ Polo」など出てくるお店にもヴァラエティが増してきます。ケバケバしい高級なクラブなどの店舗に出入りする機会が増えた反動もあるのか屋台や枯れたお店も登場してきて羨ましくなるのでした。ぼくも松太郎のように気ままにでっかいジョッキをグイグイ開けてみたいなあ。ちなみに第23巻に「天七」というお店もチラリと出てきますが、これは北千住の有名酒場を模したのだろうなあ。呑み屋街の雰囲気は現実とは違っていますけど。調べていないので分かりませんが、次に紹介する作品も東千住(実際にはこうした地名は存在しないようです)を舞台としているから地縁がありそうです。のたり松太郎(2)【電子書籍】[ ちばてつや ]
2020/07/21
コメント(0)
マンガ家さんは、概して喫茶店が好きなようです。好きではあるけれど、それはサボる場所として気に入っているというのが真実に思われます。アイデアを考えに行くという体で散歩ついでに喫茶店に赴く。スタッフの手前、サボってくると言うわけにはいかないから、やれ独りでないとアイデアが浮かばない、やれ窓越しに道行く人を眺めていると思いがけぬ行動や仕草にアイデアが潜んでいるなんて言い訳するわけです。散歩を好むマンガ家もいるようですが、それは運動不足解消とか単に金欠だったりするんじゃないかと推測できます。また、編集さんとの打合せの場としても喫茶店はしばしば用いられるようです。自宅の作業部屋や仕事用の部屋は大概の場合、スタッフがすし詰めになっていて打合せする場所を確保できない、もしくは彼らには聞かせられない生々しい話題が交わされることもあろうかと思うのです。つまりは、マンガ家が喫茶店好きというのは消極的な意味においてであって、実際には現代(コロナ禍中の現在ではない)だとファミレスで一向に構わず、それで十分用を足したと思われるのです。実際にファミレスでネームを切るという描写はしばしばみられます。でもですね、確実に喫茶店が好きなマンガ家はいるものです。このちば氏もきっと喫茶店が大好きなのだと信じます。細部にまで手を抜かず書き込まれたその喫茶店は、比較的正統派のオーソドックスなものであるけれど、きっとこうした内装がちば氏は好むのだろうなあ。『あしたのジョー』(講談社, 1992)や『男たち』(講談社,1982-83)には数少ないながら印象的な喫茶シーンがあります。スポ根や人間群像劇などのドラマには喫茶店はうまく馴染まぬものでありまして、大体において喫茶店で寛ぐ様子をマンガに描いてみたところで、あまり面白くはならぬものなのであります。アクションが徹底的に欠如するから、敢えて喫茶店を描こうとするマンガ家というのは、やはりそれ相当の筆力、もしくは迸る愛情を時間など惜しむことなく徹底して描き込むことになるのです。ちば氏は筆力と愛情をともに持ち合わせたマンガ家として稀有な存在なのではないかと思うのですが、それは、得意なタッチ、画風でおざなりとも思えるような筆致により喫茶店を描いているマンガ家が実に多いことを知っているからであります。ともあれ、ちば氏による喫茶店の描画を堪能してください。次回は飲食が即、活き活きとした物語として語られる愉快な例のマンガが登場します。ここでは存分に腕が振るわれることになります。あしたのジョー(12)<完> (講談社漫画文庫) [ ちば てつや ]
2020/07/19
コメント(0)
ちばてつやがどの程度酒を嗜むか知らぬけれど、同世代の遊び好きのマンガ家仲間達との呑みの席の様子は時折目にした事があるから、酒席を避けぬ程度には好まれのだと思われます。弟のあきおと編集者に働いた電気アンマという所業の結果、マンガ家にとっての生命線である手に大怪我を負ったのは大きな代償ではあったはずです。しかしこの事をキッカケにトキワ荘の連中と親交が生まれたのは一マンガファンにとっては歓迎すべき逸話なのであります。トキワ荘の面々は藤子・F・不二雄のようなほぼ下戸の人もいるけれど、数少ない存命者であるその相棒や赤塚不二夫のように遊び人も少なくないから彼らとの交流はちばのマンガにも少なからず影響をもたらしているように思うのです。夜の呑み屋街の情景や酒呑みたちの素の状態との変貌ぶりや奇態などは、きっとそうした交流における観察が自身の作品に活かされているのだろうと思うのです。思うじゃない、きっと活かしているに違いありません。じゃなけりゃ、以下に見るような緻密で活き活きとした表現に到達するはずがないんじゃなかろうか。実際にこんな店があったなら迷うことなくその店の客となるんだけどなあ。 ということで、今回は『のたり松太郎』(小学館, 1973-93)であります。節食節酒を運命付けられた『あしたのジョー』の矢吹くんと違って、このマンガの主人公は暴飲暴食することが生業を成立させるための重要なファクターとするお相撲さんなのであります。物語が始動してすぐに主人公の坂口松太郎(四股名:荒駒)は酒をガンガン呑むシーンがあるのですが、彼は中学校を3年留年した後に角界入りするのでという設定なので、計算するまでもなくまだ未成年なのです。Wikipedia情報によれば「アニメでは「すでに成人」とされている」とのことですが、これはテレビ放映に伴う影響の大きさを想定しての自主規制ではないか、つまらぬ気遣いをするものです。たかがマンガで、それも破天荒な主人公なんだから、大酒を食らう程度のことで目くじら立てずとも構わないと思うのです。だって、見た目にしたところで、とても未成年とは思えぬのだから。さて、この作品には実に多くの呑み屋が登場するし、部屋での宴会もしょっちゅうだから、物語の半分は呑み食いに占められているといっても過言ではないのであります。様々な店が登場しますが、憧れの先生のご実家であります「樽久」をはじめ、大衆食堂「満腹食堂」、「小料理 ひな」、「だるま屋」などが既刊36巻―連載は中断していますが、完結ということは明確に発表はされていないようです―の前半に頻出します。と書くといかにも後半に続きそうな書きようですが、実際にそうすることにしました。それだけ、味のあるお店が続々と登場するのだから無理もないと得心いただきたいのであります。ということで、残りは次回へつづくのでした。ちなみに最後の一枚は、浅草観光で松太郎が連れてきてもらった「暮六つ」です。かつて浅草に実在したお店です。のたり松太郎(1)【電子書籍】[ ちばてつや ]
2020/07/18
コメント(0)
つげ義春について語ることは思いの他に困難です。初期の貸本時代のものはけして面白いとは言えないし、一般に『沼』、『チーコ』、『李さん一家』、『紅い花』、『ねじ式』、『ゲンセンカン主人』、『もっきり屋の少女』などの名作と呼ばれる作品も今では幾分古めかしい印象は否めぬところです。すでに30年以上の断筆期間を経ているから最新作とは呼び難い『無能の人』などのより自伝色を濃厚にしたものは今でもマンガの最前線にあるといえるかもしれぬけれど、描くことをやめてしまったマンガ家にいつまでもかかずらわっているわけにはいかぬのであります。というかぼくはもとよりつげ氏には懸念を持っていたのです。それはマンガに限らぬけれど、この人はマンガなど少しも好きではないだろうし、マンガ以外のあらゆるものも好きではないのだろうと思うのです。作品を製作しようとする者がそれを少しも信じていないし、愛してもいない以上、それを読む者がそれを本心から好きになれるのだろうかという疑問を抱くことがあります。そして現時点でのぼくの答えとしてはそれもあり得るだろうけれど、少なくともつげ氏のマンガにはそこまでの愛情を注げていない気がします。いつか再読する機会があった時、ぼくはこれまでにない愛ある視線をそのコマに向けることができるのだろか。『つげ義春初期傑作短編集 第3巻』(講談社漫画文庫, 2008)「ホワイブダイス」では「コーヒーの店 ガビランナオナオ」というお店が登場します。この店名はどういった意味なのだろう。外観も内装も案外悪くなさそうなのですが、どうも印象に残らないのは画力のせいといっては失礼だろうか。まあ、ご本人も絵が下手と公言して憚らぬから悪くはなさそうだけれど、他人からは言われたくないかもしれないなあ。「指をたべた男」には、「レストラン ハナクーソ」が出てきます。レストランというよりは西部劇に出てくる酒場のような店内で、どうもつげ氏は飲食店に対して思い入れが浅い、もしくはその業態を思い違いしているような印象があります。 『つげ義春全集 第1巻』(筑摩書房, 1994)「四つの犯罪」に「名曲とコーヒー らんぶる」が出てくるのですが、階段のある入口はともかく店内はちっとも面白味がなくて残念です。 『つげ義春全集 第2巻』(筑摩書房, 1994)「なぜ殺らなかった」では、ドライブインのような街道喫茶が登場します。外観は不愛想なレンガ張りでモダン、内装は板張りではありますが素っ気ないものでこれまたモダンと評すべきでしょうか。これを見ただけでつげ氏の喫茶趣味をどうこういうのは筋違いです。おそらくは画力さえあったならまた別の表情を見ることができたかもしれません。 『つげ義春全集 第4巻』(筑摩書房, 1994)「蟹」中華そばの暖簾の店舗が登場します。つげ氏本人をモデルとしたらしい主人公と居候の李さんが通り過ぎる背景として登場するのにですが、そんな特に力を入れる必要もなさそうな場面に念入りな筆入れをしているのが不思議です。 「西瓜酒」は下宿での呑みになりますが、珍しく剽軽で愉快な呑みなので挙げてみました。オチも今ひとつ冴えぬこの小話でありますが、コリャコリャの愉快さでもう納得してしまいます。 『つげ義春全集 第5巻』(筑摩書房, 1994)「ほんやら洞のべんさん」の頃になると、貸本時代の投げやりな絵も大分落ち着いてきて、宿屋「ほんやら洞」で囲炉裏の前にて呑むべんさんなどは背景の書き込みなども併せて大分見応えのあるものになってきます。半面、キャラクターの表情は単調というよりは無表情に近くなってきて、これがつげ氏のマンガを文学的とも評されるどこか謎めいたムードにしているような気がします。「やなぎ屋主人」では宿屋を兼ねた食堂「やなぎ屋」が舞台。建物の描写もかつてアシスタントを務めたという水木しげるを幾分か想起させるような細密な書き込みがされていて、主人公の複雑な表情も相まってつげ氏を代表する作品の一つとしています。かつ丼を食べるのですが、絵の中では丼は空っぽでこれは横着して省力を企図したのかもと思ってしまいます。 「庶民御宿」には、障子と畳のセンスがバツグンな喫茶店と語られるお店が登場するのですが、先に業態の思い違いと書いたけれど、これを見るとあえて思い違いに面白味を見出そうとしているとも思われます。「長八の宿」「長八の宿」にて一献 『つげ義春全集 第6巻』(筑摩書房, 1994)「外のふくらみ」には、謎めいた喫茶店が登場します。この夜霧の中の風景のような特異な描写は、普通に考えても喫茶店を描こうとする者が選択するシチュエーションではないのでした。といったそばですが、「日の戯れ」で描かれる普通の喫茶店は、本当にあっさりと描かれていて、物足りないのですがそれも計算のうちといった気がしなくもないのです。「夜が掴む」は、主人公が本当に孤独な呑みをしていて、遠近法も何もあったものじゃない狂ったパースの取り方が見ている者を不安にさせるのです。そして特異な距離感による俯瞰からの視点がこの孤独な男を高い所から眺めているという不可解な話者を想起させてさらなる不安を煽るのでした。 『つげ義春全集 第7巻』(筑摩書房, 1994)「義男の青春」では、宿屋で一献、喫茶店で一服と飲食のシーンがいくつか見られます。喫茶店のソファの描写も「池袋百点会」に登場する喫茶店「ランボウ」の頃になると、随分喫茶店が喫茶店らしく丁寧に描かれていて、つげ氏は屋外の緻密さに比して屋内がおざなりな印象でしたが、随分きっちりとしてきた気がします。「別離」でもガラス窓を背後に観葉植物とカフェにある程度の簡素な卓があるばかりです。これが現実に普通の喫茶店のありようならばぼくは喫茶店巡りをすることはなかったでしょう。「散歩の日々」にはヘンテコな蕎麦屋さんが出てきますが、そばをすする子供の何とも言えない、いや何も考えていない表情がつげ義春らしくて好きです。 『つげ義春全集 第8巻』(筑摩書房, 1994)焼そば屋「探石行」の蕎麦屋で主人公たちはフルチン坊やと母親から惨い仕打ちを受けるのですが、この時代のつげ氏の描く子供は本当に動物並みの生き物として描かれていて、この人は子供が嫌いなんだろうなあと思わされます。紅い花 小学館文庫 / つげ義春 【文庫】
2020/07/16
コメント(0)
つげ義春は、ぼくにとっては必ずしも手放しで好きと言えるマンガ家ではありません。というのもぼくがこの人を知った時にはすでに人によっては神格化されるまでに高められた存在であり、うっかり語ることを禁じられた者に祭り上げられてしまっていたのです。一方で、つげ氏のことを「私小説」になぞらえてか、「私漫画」のパイオニアとして位置付けるという極めて凡庸かつ大雑把な評価がまかり通っていたから情けなくなります。でもまあ実際に読んでみると必ずしもそんなのばかりでなく多様な表情を見せてくれて楽しく読んだのでした。そんな中には実際に私小説と呼ばれる一連の小説と似たような内容のものも少なくないのでありますが、私小説というのものの大前提があくまでも「私」という一人称で記述されるのであれば、マンガには真の意味での一人称などありえないだろうし、だからして「私漫画」などというものもないと思うのです。誰だって自分のことを書きさえすれば一冊の書籍をものすることができるといった人がいたと思うけれど、その言葉の真偽はともかくとしてつげ氏らしき登場人物を見ていてもその多面的な人物像を眺めるだけでもこれは面白い逸話をたくさん持っているだろうななんて思うのでした。『つげ義春初期傑作短編集 第3巻』(講談社漫画文庫, 2008)「指斬り剣士」には、武士たちが集団で呑むシーンがありますが、ここが酒場というよりは蕎麦屋に思えるのです。酒器ももう少し丁寧に描いて欲しいものです。 『つげ義春全集 第1巻』(筑摩書房, 1994)「四つの犯罪」には、「大学バー」というのが出てきますが、看板以外は少しも酒場らしく思えぬのです。「鉄路」に出てくるのは西部劇の酒場みたいな雰囲気であります。それはスウィングドアがあるからなんですが、サントリーのだるま風の酒瓶がないとやはり酒場には見えないかも。 『つげ義春全集 第2巻』(筑摩書房, 1994)「一発」では、カウンターで横並びになって呑む男二人が描かれます。どうも初期のつげ氏はバタ臭いイメージの酒場をよく描きましたが、どうも素っ気ない印象です。 『つげ義春全集 第4巻』(筑摩書房, 1994)「不思議な絵」に出てくる居酒屋は、赤提灯もあるし着流しの侍が立ち寄るにはそれらしい雰囲気でつげ氏の描く居酒屋としてはいい方かも。 『つげ義春全集 第5巻』(筑摩書房, 1994)「もっきりやの少女」は、つげ氏のマンガ作品では稀有な酒場を主たる舞台とした物語で貴重です。「もっきりや」で一人商売をするコバヤシチヨジは、近隣の若者たちにおっぱいを触らせて辛うじて商売をしています。ファンタジーでしかありえぬような酒場ではありますが、やはりこうした酒場に憧れるのです。 『つげ義春全集 第6巻』(筑摩書房, 1994)「窓の手」の殺風景な酒場は、酒場というムードは全くなくて、それどころかここは酒がなければ牢獄かというほどにあらゆる細部が削がれています。ここまでくれば案外いいかもと思ってしまいます。「日の戯れ」に出てくるのは、角打ちのようなお店ですが、「だから駅前の道でお酒呑んでる連中が」の一文を読むと今でいうコンビニ前で群れて呑んでるようにも思えるのです。でも、絵には暖簾も下がっているのが描かれているし、銀杏みたいでちっとも旨くはなさそうだけれど焼鳥らしき皿も描かれているから、これはまあ駅前の立呑み屋からはみ出てしまった酒呑みのスケッチなのかな。 『つげ義春全集 第7巻』(筑摩書房, 1994)「少年」には、屋台でも角打ちでもない屋外に開かれた酒場がチラリと描かれます。こんな酒場そうそうはない気がしますが、密閉された屋内の酒場よりずっと魅力的に思えます。「別離」には普通の大衆酒場が描かれています。この前後の酒場もそうだけれど、つげ氏のマンガ作品がずっとこのクオリティの酒場を描いてくれていたなら、もっとも魅力的な酒場を描けるマンガ家にもなりえていたかもしれないと思うのです。「無能の人」ではやきとん屋が描かれますが、ここでも「少年」同様に開放的なお店が登場します。夜景を背景にすることで、書き込みの省力を図ったのではないかと邪推しますが、それでも背景の黒が効果的で実に素晴らしいのです。ねじ式(1) (コミック文庫(青年)) [ つげ 義春 ]
2020/07/14
コメント(0)
つげ忠男の存在を認知したのは、主に日本映画を中心に評論活動を展開してきた山根貞男の初期の著作であるマンガ評論であったように記憶します。当時、自分が何歳だったかはっきりとは覚えていないけれど、中央公論社から電話帳程ではないけれど通常の辞書よりはかなりゴツい、でも紙質の悪いからそう重量感のない装丁で、多くのマンガが復刻されていました。藤子不二雄の『まんが道』や池田理代子の『オルフェウスの窓』、水木しげるの短編集2冊もありました。そしてつげ忠男の兄、義春の作品集は『夏の思いで』だったろうか、そんなタイトルで刊行され、名作として知られるあれやこれやを一冊で存分にしかも古書店に出回っていた文庫版などより遥かに大きな絵で見る事ができたのだから恵まれていたと思うのです。しかしその当時、つげ氏が兄弟マンガ家であることなど全く知らなかったし、実際に忠男氏の名を目にしたのは定期刊行物風に刊行されながらハードカバーの立派でそれに応じた程度に値の張る『夜行』だったのであります。手には取ってみるもののビニール袋で包まれたそれを開くことは出来ぬからもどかしい気持ちで見過ごすしかなかったのです。そんな悶々とした気分を宙吊りされていた頃に、山根貞男が一番好きな劇画家はつげ忠男だなんて酷い事を書いていたものだからぼくの読みたい欲求は最高潮にまで高められたのでした。だから多少は金銭面で余裕が出てきた頃―調べてみたら1998年らしい.もっと以前のことと思っていたけれど案外細菌だったのね―にサイン入りの函付き豪華復刻版『丘の上でヴィンセント・ファン・ゴッホは』が刊行された時には勇んで購入してしまうなどという暴挙に出てしまうのでありました。今この豪華本は実家の蔵書置き場に埋もれてしまっているだろうか。改めて手に取りたい気持ちにもなりますが、でもしかしねえ、自由に読みたいものが読める時代は素晴らしいことは間違いないけれど―コミックシーモアで検索しただけでも驚くほどにたくさんのつげ忠男作品が引っ掛かってくるのです―、やっとのことで手にした作品を紐解く甘美な瞬間は忘れがたいのであります。幻の作家が幻でなくなることで輝きを失うことはそんなに不思議な事ではないので、やはりなんでもかんでも手軽に復刻してしまうデジタル時代は少し物悲しく感じられます―の割に映画に関してはレンタルヴィデオテープの時代の市場活況は見られぬのはなぜ!?―。『つげ忠男漫画傑作集2 河童の居る川』(ワイズ出版, 1995)「いざ歌謡曲」では、やきとりの暖簾が「バタバタ」している白雪の宣伝看板を掲げる「……の店」で若い二人が呑んでいます。この作家には珍しいのんびりした光景に少し安堵します。 「懐かしのメロディ」でも二人が楽しそうに呑んでいます。つげ忠男の描く酒場は、人と人とがコミュニケートを取る場所ではあるのですが、そこでは楽しさが無縁の印象があるのでこういうのはうれしくなります。 「再会」では,ぷっくりとした小丘の上にある一軒家の居酒屋が描かれます。外ではうかれた連中が大盛り上がりでこんな酒場で呑んだら楽しいだろうなという気分にさせてくれます。 『きなこ屋のばあさん』(晶文社, 1985)「風来」には、「めし 助六」とあります。一杯呑ませもするようですが、今やこんな一軒家で呑ませる店があればこんな時期でも即入店は決まりでしょう。 『つげ忠男漫画傑作集3 けもの記』(ワイズ出版, 1996)「けもの記④」では、「うどん そば だるまや」という店が店舗の屋根の方とだるまの描かれた看板がユニークで町で見掛けたら立ち寄らずにはおられぬ風情です。つげ忠男の書き込みはそう緻密であるとかいうこともないけれど、鑑賞に値するだけの誘惑を放っています。 『つげ忠男劇場』(ワイズ出版, 1998)エッセイ集に添えられた挿絵のひとつ。ぬけられますの甲板のある赤線らしき路地入口そばのバラック食堂(開花丼)が描かれ、立石などで過ごした兄弟にとっての原風景になっているようです。 『つげ忠男選集2 昭和御詠歌』(北冬書房, 1995)「カマの底」には珍しくなべ料理の店が登場して、食事をするシーンまでが描かれます。 「青岸良吉の敗走」では、この作家では稀有なことに喫茶店「珈琲 ゆーかり」が登城します。そっけない描かれ方でこの方は喫茶にはさほど思い入れがない気がしました。 『つげ忠男選集3 屑の市』(北冬書房, 1999)「ドブ街(一)」では、どこかトゲトゲしい印象のみなみ通りの名もない喫茶店に入ります。飾り気はないけれど案外ちゃんとした喫茶店のようですが、実用一辺倒でけして居心地のいい場所ではなさそうです。昭和まぼろし 忘れがたきヤツたち 1 Medu Comics / つげ忠男 【コミック】
2020/07/12
コメント(0)
ちばてつやとあきおの両氏がメジャーなマンガ雑誌で活躍した一般には恵まれたマンガ家人生だとしたら同時期にマンガ家として活動しながらも常に貸本向けや「ガロ」などのマイナー雑誌に作品を発表し続ける事となったつげ義春と忠男両氏との差異は、資質の違いというひと言で語って済ませるのはいかにも安直な結論であろうと思うのです。また、発表媒体のメジャーか非メジャーかで差別化を図るのはいかにも乱暴な区分の仕方であります。これもそう言い切る事に躊躇いはあるけれど、あえて言ってしまうとすれば、ちば兄弟がマンガというメディアを信じていたのに対して、つげ兄弟はマンガの表現をさほど信用しておらずたまたま多少は絵が描けるから書き続けてきたまでという諦念が常に付き纏っているように思えるのです。そんな信念とかややもすると宗教的な思いの有無などというものは、人の思うままになど出来はしないのであります。人が幾らマンガを愛したとして、マンガに愛されない人はどうしたって読者の気持ちを揺さぶる事などできるはずもないのです。ちば兄弟がマンガを愛し愛されるというー無論、そのためには常人には計り知れぬ苦労があったはずですー幸運を享受し得たのに対し、マンガから一方的な愛を向けられた人たちの苦悩はいかばかりだったろうか。これはまあ好きなだけで信奉するほどの読者などではないぼくの捏造したフィクションでしかないのだけれど、どうもそんな風な想像が頭を離れないのです。そんな人たちの描く酒場だったり喫茶店なんかは一体どうしたって心ときめくような場所にはなりそうにありません。『つげ忠男漫画傑作集3 けもの記』(ワイズ出版, 1996)「けもの記①」・「けもの記②」では、「大衆酒場 三次」、「スナック 純」が描かれます。景色としてではなく極めて希薄にしか浮上してこないながら物語の綴られる場所として重要です。 「シンプルライフ」で二人が連れ立って入ったのは「一力」だろうか、ここでは酒場は酒場としての積極的な機能を果たしてはいない気がします。 『つげ忠男劇場』(ワイズ出版, 1998)大衆酒場と天ぷらの提灯ある夜の町のスケッチがありますが、絵の中に絵を置くという描写、そう多くは見られませんががつげ氏はもしかしたら好きな気がします。 『つげ忠男選集1 狼の伝説』(北冬書房, 1994)「無頼漢サブ」。流しの2人が入る「てる美」では尾張の盛田が出している忠勇を扱っているようです。どうというドラマがここで描かれはしないのだけれど、今しも激動のドラマが始動しそうな張り詰めた空気感が漲っていて心穏やかではおられません。 『つげ忠男選集2 昭和御詠歌』(北冬書房, 1995)「カマの底」、まあどうということのない一コマ。名無しのなべ料理屋などが絵が出てきます。 「雨季(一)」と「雨季(二)」「酒の店 五六亭」この連作はつげ氏が夜の作家であることを教えてくれます。重苦しいけれどドライ、息苦しいけれど爽快さもある不可解な夜の町を迷いはないけれど、どこかしら正確さを欠いたような線で描きます。 「雨季(完)」徹底して暗いつげ忠男の風景ですが、餃子の店「長栄軒」、「中華料理 末広」といった看板が辛うじてその重苦しさ沈鬱さを救いのある表情として見せてくれます。 『つげ忠男選集3 屑の市』(北冬書房, 1999)「ドブ街(二)」に出てくる「名物 養老乃瀧」など現にあるものとはちっとも違っているけれど、「支店1,000店目標」など微笑ましくて息苦しくなりがちなこの作家の物語に長閑な印象をもたらしているようです。【新品】【本】アックス Vol.115 特集つげ忠男 青林工藝舎/編集
2020/07/11
コメント(0)
少年時代には、ぼくもちばてつやに大いにのめり込んでいました。それはことごとくが少年マンガと一般には呼ばれるジャンルというかテリトリーの作品だったのでありまして、少女マンガカテゴリーの含まれるであろうちばの作品群に巡り合ったのは随分後のことでした。結局それが子供の頃に愛読して以来のちばとの再会となった訳でありますが、出逢った場所というのがマンガ作品とそうぐうするには少なからずの違和感を覚える図書館だったのです。それもまたひと昔前の事になるのでハッキリと明言するのに躊躇がありますが、『ユカをよぶ海』、『1・2・3と4・5・ロク』、『ユキの太陽』、『島っ子』、『アリンコの歌』といった作品群だったと思うのです。そして一読するにつけ図書館に置かれることの公共性の高さに得心するとともに、それまで思い込んでいたちば作品の持ち味であるアンモラルな主人公とは正対するような道徳的な振舞いの登場人物に物足りなさを感じると同時にその精密な風景描写にすっかり参ったのです。物語や登場人物の魅力に勝るだけの風景への並々ならぬ執着に打たれたのです。 さて、ご多分に漏れず最初にほくがちば作品に触れたのが『あしたのジョー』(講談社, 1992)でありました。それもテレビアニメーション版の第2シリーズを途中から見始めて、そのダイナミックな演出ーこの演出が出崎統というアニメーターによるものと知るのはちばと再会する頃とほぼ同時期だったと思いますーによって綴られる心揺さぶられずにおられぬドラマとキャラクターのカッコよさにすっかり痺れたぼくは早速マンガを入手したものです。そして、特に序盤の絵柄の少年マンガっぽい可愛さに食い足りぬ思いをしたのでありますが、改めて読み返すとこれはまたちばのマンガ作家としての成長の軌跡としても読みがいのあるものに思えたのです。さて、この日本のマンガ作品でも多くの信奉者を持ち、不朽の名作などと呼ばれたりもするこの作品を賛美していては埒が明かぬので、早速この物語と酒との関わりを見ていきたい。 警察の取り調べで「矢吹丈、15歳っと」と語られているから、物語が幕を上げたのが15歳頃で、真っ白に燃え尽きるのは20歳ちょっと位ということになりそうです。大衆食堂やおでん屋などの俯瞰シーン、モブキャラたちの呑み語りなどちば作品に一貫して見られる手法がここでも一貫して採用されるのでありますが、ジョーが酒を呑むのは再読、いや再々読、いやもっと多かったかもしれないが、たった1回もしくは2回だけなのであります。それはまず間違いなく前者であることを確認していますが、その疑惑のシーンでジョーの呑んでいる飲料がなんだか皆目見当が付かぬけれど、間違いなく前者と信じるのでした。 いちいち注釈を付すだけの根気がないから、全巻に散見される酒場や屋台、食堂などのコマを列記しますが、特筆すべきはやはり物語の中盤、第9巻の非常にこのマンガにとって稀有な描写を挙げるべきでしょう。おでん屋台でジョーが力石を邂逅してコップ酒を呷るという書いてしまえばそれまでのシーンですが、禁欲的である事をその生き様として受け入れる事がボクサーとしての使命だとすれば、ここでのジョーはその禁忌を自ら破ってまでも酒に頼らざるを得ない、そんな不穏さのうちに物語は否も応もなく悲劇的な展開へと突き進むことになるのです。 もう一つ、物語がクライマックスを迎えようとする場面を取り上げます。物語の底流をそよぐように流れていた、虚しい結果となることが初めから予告されていたジョーの果たされることのない愛の物語はここて明確なものとなり、しかし当然のように破局を迎えるのでした。「BALLON」で白木葉子と呑んでいたのは酒だったのだろうか。そんな筈はないことをぼくは知っているけれど、それが酒なら二人の関係も少しは報われたかもしれぬと思うと切ない気持ちになります。
2020/07/05
コメント(0)
ちばてつやのマンガに出てくる酒場や喫茶店について、リサーチしてみる気になったのは、ぼくの記憶にちばてつやの描くペーソスが溢れ、悲喜こもごもが滲んだコマの朧げなイメージが浮かんでは消えを繰り返したから、これはもう手持ちの資料を猟食しないわけには参らぬだろうと重い腰を上げることにしたのでした。ところでぼくの記憶に間違いがないとすれば初めて手にしたちばてつやマンガは、『ちかいの魔球』でありました。『巨人の星』の元ネタにもなった野球マンガの名作の一本で、ぼくも少年時代にはご多分に漏れず多くの野球マンガを読んできたけれど、正直読みすぎてしまったせいか、今でももう見るのもいやという風になってしまったのでした。最近でも女性を主人公にしたのとか、女性マンガ家の手による本格的な野球マンガなどあることも知っていて、実際に手に取ったこともあるけれど頁を繰る手に勢いが付くことはなく、いつでもすぐに投げやってしまうまでになってしまったのでした。このちばの名作は今読み返すと物語には古臭い印象が拭えぬとは思うけれど、見かけはいかにも少年マンガの典型と思わせるような大らかさと見やすい描線に思わせつつも実は相当に繊細で大胆な実験も見られぬのではないかと思っています。『少年ジャイアンツ』や『ハリスの旋風』などもいつか再び手に取る機会があるのだろうか。 さて、中学生でゴルファーとしてプロデビューする向太陽が大活躍する『あした天気になあれ』(秋田書店, 1981-1991)は、物語の大団円となる全英オープン優勝時にもまだ成人を迎えていないようだから、基本的に呑みのシーンも少なくなるというものです。出てくるのはもっぱら実家の「定食喫茶 あづまや」でありまして、ここの常連さんたちがたまに呑んでるように思えるけれど、大概は大人しく定食やラーメンなんかを召し上がっているようです。酒呑みには少し肩身が狭い印象がありますが、でも情感を隠すこともなく事あるごとに、いや何でもない日常を描くための場所として、ちばてつやが愛情を惜しまず描いているのが、手に取るように感じられるのです。とまあ呑兵衛には、事欠くドラマですが例外的に呑みまくるのが東洋マッチプレーで同行したキャディの岡村じいさんでありまして、クラブハウスのレストランでワインをガブガブ呑み、ホテルの冷蔵庫のビールは呑み尽くしたり、敵から送られた毒入りの塩のようなビールを口に含んでようやくにしてその危うさを気付いたりもするのでした。でも知る限りにおいてたった一度だけ例外的なシーンがあります。それは見開きの打ち抜きという大変に贅沢なコマ割りー割ってないけれどーで表現された太陽が酒を口にする場面なのです。普段はビフテキをがっつくだけの太陽ですが、貴重な勝利を辛うじてもぎ取った太陽と岡村のじいさんの乾杯です。これは手抜きと謗られようとこうすべき場面であったと思うのです。そして、最後の大舞台、全英オープンではパブなどが登場し、英国人らがいつだって呑んでる姿が見られますが、ここでは相棒が同年代ということもあり、快挙を成し遂げても乾杯には至らぬのでした。
2020/06/28
コメント(0)
酒を呑む行為というのが、飯を食う程には日常的なものではないにせよ、それに準ずる程度には特別ではないから、それを準日常的とでも称することはさして異議を唱えられる類の主張ではなかろうと思います。ただまあ、食が万人にとって生きていく上で欠かせぬ行為であるのに対して、呑みが呑兵衛にとっては切実な行為でこそあれ、命を繋ぐに必至であると強硬に言い張るつもりはありませんし、むしろ用法容量を謝ると命を奪う振舞いともなり兼ねぬからまあ、ここでは呑む事がそこそこ日常的な事と述べるに留めます。だから、マンガに限らず大部分の物語を描写する事を主な目的とした表現で主に人を対象ー人ならざる人外とか幽霊なんかを描いていたとして大体においては人の思考や行動を範としているようですーとすれば、酒を呑むシーンが頻出するのは無理もない事なのです。無論、特にマンガに顕著でありますが、マンガというメディアが主な購読層を子供に据えているため、必然的に自主規制が作用してしまいがちで、その表現は一定の制限が掛かるものですが、例えば今回取り上げるちばてつやの『おれは鉄兵』などでもまだまだ義務教育真っ只中の少年が大人を驚愕させつつも大酒を呑んでいるし、実際に酒を呑まずとも、例えばクレヨンしんちゃんなどのように牛乳を呑んで実際に酔っ払っているようになるといった描写は珍しくもないのであります。そもそも酔っ払いというのは特にギャグマンガの登場人物として頻出する存在なのでありまして、その登場の有無もしくは多寡があるのは単に作者自身の酒好き/酒嫌いに依拠するものに思えます。というわけで、マンガには必然として多くの酒呑みが登場し、彼らがいきなり酔っ払った姿を晒すことも少なくはありませんが、酔っ払っていく過程を丹念に描かれることも多いのであります。ちばてつやのマンガにあっては、酒場は単なる切り取られた景色の一枚に留まらず、ドラマを生起する舞台でもあるし、登場人物たちに安らぎをもたらしたり、苦悩を深化する場でもあったりするのです。 では、具体的にちばてつやを代表するまんがのいくつかを見ていくことにします。ちばてつやのマンガ家としてのベースは少年誌を中心とした少年マンガということに異論はないと思います。戦後期に活躍していた人気マンガ家たちには珍しいことではないのですが、少女誌などでも執筆をしましたが、まあ概ね少年マンガの作家として差し障りはないと思います。やがて、ちばは活躍の場を青年誌に移行することになりますが、途端に酒場の描写が激増するのがなんとも分かりやすくて嬉しいのでした。実際に少女マンガ誌に連載、執筆された『1・2・3と4・5・ロク』などは途中まで再読したけれど、酒場の描写など皆無だったのです。この際、そうした些事は無視して、分析などもあえて介入させずに列挙することにします。『おれは鉄平』(講談社, 1983-80)の主人公である上杉鉄兵は中学生。野生児と呼ばれたりもするのですが、単なる暴れん坊ではなく酒もガブガブと浴びるように呑んだりするから恐ろしい。というか、それが良いか悪いかはともかくとして中学生が酒など呑むのはさほど不思議ではないのですが、ちばの描画が丸っこくて可愛いせいもあってか小学生低学年のような見掛けなので、さすがにそんなガキんちょがガバガバと酒を煽るというのはヤバそうであります。そのためかその後は鉄平が呑む姿が描かれることも(恐らく)なくなって、物語も当初のギャグマンガから学園スポ根マンガ=>冒険宝探しマンガと驚愕の展開を繰り広げることになるのです。最後の埋蔵金探しの件、ほぼ大団円を迎える頃になって、ようやく蕎麦屋での呑みのシーンも登場します。 続いては、『紫電改のタカ』(講談社, 1992)。主人公の滝城太郎の正確な年齢は不祥ですが、本人もまだ未成年と語っております。鉄平よりは間違いなく年上ですが、滝は至って真っ当な人生を送ってきたようです。周囲の若い兵士たちが事あるごとに行われる酒盛りの席でも一人飲酒を固辞し続けます。ぼくは、ちょっと滝氏とは仲良くなれそうにないなあ。可愛い許嫁もこんなお堅い男だとそれはそれで息が詰まりそうだなあなんて思わぬでもないけれど、ご想像通りそれは叶わぬ杞憂となるのでした。
2020/06/21
コメント(0)
押井守という方が酒呑みかどうかは知るところではないけれど、酔っ払いを好んで描くところを思うときっと酒呑みの酒好きであるとは思うのです。でもそこで描かれる小市民の哀愁や寂寥感、愚かだけれど憎めない酩酊っぷり、理屈っぽくても可愛げがあるところなどがあまりにも克明なことにこの人を一緒に呑むのは避けた方がいいと思うのでした。どうしてって、きっと呑みながらもこの人は酔っているように振舞いつつも、その実、きっちりとわれわれ単なる酔っ払いを観察して作品に取り込もうと画策しているように思われるからです。でもまあ凡庸で退屈な呑み方をするぼくなんかでは、押井氏の観察対象とはなり得ぬだろうから、この心配は杞憂というものです。ということで、お楽しみ―なのかなあ、作品の一部のみピックアップして面白がるのは、映画作家にとっては失礼に当たるのかもしれないなあ―の押井守作品の飲酒シーンを一挙に放出します。あ、あとキャプチャー画像は、ちょっとレアなものだけとしました。といっても大概は動画配信サービスなんかで見ることができると思いますので、ぜひ実地に押井氏のお眼鏡に適った呑兵衛たちの姿を動画にてご覧ください。[参照1][参照2][参照3]『タイムボカンシリーズ 逆転イッパツマン』(1982)「第10話 つらいなあ! 休日出勤[キャプチャー参照1]」、「第14話 太平洋無着陸気球横断[キャプチャー参照2]」、(おまけ「第15話 にせリースで罠をはれ[キャプチャー参照3]」(押井は関与なし?))。このシリーズにはお決まりのお仕置きエンディングが用意されていますが、このイッパツマンでは、「人間やめて、何になる!?」として、国分寺の屋台「うえだや」を主な舞台に悪玉3人組が酩酊し、クダを巻くという描写があります。これが哀感があってなかなか良いのです。押井氏は絵コンテで関わっているようです。屋号とその主人の生々しさから、もしやと思いスタッフロールを眺めてみたら、担当ディレクターが植田秀仁とあります。これかと思ったら、Wikipediaにやはりその通りであるとの記載がありました。『うる星やつら オンリー・ユー』(1983)では、立食いそば店にて瓶ビールを立呑みするシーンがあります。ガラス張りの喫茶店や牛丼屋も登場。 『機動警察パトレイバー テレビアニメシリーズ(ON TELEVISION)』(1989-90)「第9話 上陸赤いレイバー」では酒田の土産物店併設の食堂で呑むシーンが描かれユーモラスだし、「第14話 あんたの勝ち!」では課内の軋轢を呑み会で解消するため男女それぞれに分かれておでん屋台で呑むという酒呑み泣かせの愉快な内容となっています。『機動警察パトレイバー 新OVA版』(1990-92)「第8話 火の七日間」では「中華・定食 上海亭」で餃子と酢豚?で瓶ビールを呑むシーンが描かれます。 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(2008)は、物語の要請上、一風異色な呑みの描写となります。ドライブンイン式のアメリカンダイナーや樽の中のような造作の高級レストランで呑むというものですが、ここでの呑みは終始沈鬱な印象でした。[参照4]おまけ:『うる星やつら』「第7話 秋の空から金太郎!」(おでん屋台[キャプチャー参照4])、『機動警察パトレイバー 新OVA版』「第1話 グリフォン復活」(立呑みやきとり店)、「第9話 VS」(熱海の旅館にて催された宴会シーン)、「第14話 雪のロンド」(スナック風の呑み屋さん)、「特別編 THE DAY AFTER」(未見ですが、特車二課解散後の屋台での呑み会を描く音声ドラマのようです) といったわけで、まだまだ取りこぼしの作品もありますが、今回はここまで。またいつか残りの作品に触れる機会があった際にはその3があるかもしれません。
2020/05/25
コメント(0)
押井守という人が立食いに対して、並々ならぬ執着を隠しもしない、いやむしろ嬉々として自身のみならず周辺の人々をも巻き込んでその描写に勤しんでいることはファンであれば当然周知の事実でありましょう。立ち食いそば屋は、押井守にとって「ディスコミニュケーションを求める若者の集う不穏な空間」であるらしいのですが―実際の表現では必ずしもそうなってはいないようです―、一方で、やはりその偏愛ぶりを誇示する屋台という舞台は、「コミニュケーションを求める若者の集う不穏な空間」として機能しているようです。しかし、立食いそばの発祥を江戸時代の屋台に求めることができるとしたら、もしかすると立食いそば屋と屋台、ディスコミュニケーションとコミュニケーションとは表裏一体なのかもしれません。ともあれ『dancyu』の1993年10月号に「立喰いそばの正しい食し方」と題する記事も掲載されているらしいから筋金入りの立食いニストであることは間違いなさそうです。実際、ご存じのように『立喰師列伝』(2006)、『女立喰師列伝 ケツネコロッケのお銀 -パレスチナ死闘編-』(2006)といった実写映画を集大成と見做すべきかは様々な意見がありそうですが、とにかく並々ならぬ思い入れを抱いていることは疑うべくもないのです。とくどくどしい文章を書いている暇はありません。とても満遍なくとはいきませんでしたが、過去に遡及して押井作品―及び関連する作品―を見直してみると思っていた以上に多くの立食いそば屋やそれに付随するお店が登場することが判明したのでその一端をご覧いただきたいのであります。詳細なコメントを付するよりは実地にご覧いただくためにも極力事務的に報告させていただきます。[参照1][参照2][参照3]『うる星やつら』(1981-86)「第122話 必殺! 立ち食いウォーズ!!」(ほぼ全編を通して立食いそば店が舞台[キャプチャー参照1])、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)(ハリアーの発射基地となっている友引銀座の立食いそば店、その他巨大な狸の置物のあるお好み焼店、名曲喫茶、牛丼屋)、『紅い眼鏡/The Red Spectacles』(1987)(天本英世が「ソバ喰う映画」と評した、その他映画館や「純喫茶 再会」(看板のみ))、『機動警察パトレイバー』(1988)(旧OVA版(1988)「第5・6話 二課の一番長い日」、『機動警察パトレイバー テレビアニメシリーズ(ON TELEVISION)』(1989-90)「第29話 特車二課壊滅す!」(シリーズではお馴染みの「上海亭」の従業員不足による機能不全を描く)、新OVA版(1990-92)「第10話 その名はアムネジア」(立食いそばだけでなく「上海亭」や「喫茶 回想」なんてのも登場)、『御先祖様万々歳!』(1989-90)の「第6話 胡蝶之夢」(立食いそば屋[キャプチャー参照2])など。 参考:『ケルベロス-地獄の番犬』(1991)(中国料理の露店、ラーメン屋台)『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(喫茶店)、『イノセンス』(2004)(ヤクザの事務所を兼ねた?中国料理店) おまけ(押井は関与なし?)):『タイムボカンシリーズ ヤットデタマン』(1981)「第12話 危うしジュジャクの曲芸」(立食いそば店)[キャプチャー参照3]、『機動警察パトレイバー テレビアニメシリーズ(ON TELEVISION)』「第11話 雨の日に来たゴマ」(ラーメン屋台) といったように、ざっと眺めただけでもこれだけの執着を確認できたのだから驚きです。でも、なんか物足りなくないですか、ぼくは物足りません。そうなのです、これだけリストアップしたのにも関わらずそこには酒がないのですね。何も子供向けの番組だから酒が出てこないわけではないのです。その2では、いよいよ飲酒シーンの登場する押井作品をご披露したいと思います。
2020/05/23
コメント(0)
本当なら1回で済ますつもりだったんですが、面白いネタが多過ぎて一度には紹介しきれぬので、もう少し続けることにします。今回は小振りな酒場セットで繰り広げられるコントからご覧いただきます。 いずれも見ての通りの暴力的なコントでありまして、窮屈な店舗を活かしたその大きなギャグの強烈さに衝撃すら覚えます。まさに見たまんまのど直球のネタには全員集合に見られる大掛かりな仕掛けが企てられていますが、ああいうオープンな舞台上のセットでのコントとはまた違ったより映画演出的な表現が実に上手く活かされています。 余りにネタばればかりしていては、叱責を受けてしまいかねませんので、酒場の他のヴァリエーションも見ていただきます。ドリフ映画では定番のおでん屋台も登場しますが、キャバレーも頻繁に登場する舞台です。画は取り損ねてしまいましたが、殺風景な中にソファがぽつぽつと置かれた侘しい内観に子供時分はうすら寒く感じたものです。その延長線上にノーパン喫茶なんてのも登場しますね。そんな中でも極端さでは随一なのが段ボールハウスの酒場であります。当然のように狭い店内には店主ばかりでなくホステスさんが2名もいるのだから、三密どころではなくて、まことに怪しからんのであります。だからお巡りさんにもお叱りを受けるのです。 さて、こうしてドリフのコントに登場する酒場の描写を見てきましたが、ぼくの記憶に残っているのがもっといかりやのペーソスが感じられるものだったので、それよりはずっと明朗だったという印象です。何にせよ現在は、「仕事のあとの一杯!」をへんてこりんでなくてもいいから、せめていつものマンネリ酒場でも構わぬから「ささやかな趣味」として楽しめる日が戻ってくることを願いたいものです。
2020/05/14
コメント(0)
この長い休みを過ごしながら、ぼくにとっての居酒屋の原点はどこにあるかというような益体もないことをつらつらと思ってみたりしました。一方で、3月の下旬であっただろうか、コメディアンの志村けんが新型コロナウイルスへの感染により死去されたというニュースを目にしました。ぼく自身は志村けんに対して、そこまでの思い入れもなかったし、無論面識などありもしないから、それほどに酷い衝撃を受けるということなどなかったのであります。しかしそれでも子供の頃には『8時だョ!全員集合』を好んで見ていましたし、中学生の頃になると地方テレビ局の深夜枠でドリフターズが出演する陰鬱な映画を毎週末の愉しみにしたものです。でもよくよく思い返すともっとも親しみがあったのが、フジテレビ系列の『火曜ワイドスペシャル』で長く放映されていたドリフのコントに徹した番組だったのでした。 とどうして、じらし気味に番組名を書かなかったかということには、理由があるのでご容赦いただきたく。実は今回改めて調べてみて初めて認知したのでありますが、『ドリフ大爆笑』は断じて『ドリフの大爆笑』ではなかったということです。ご覧になっていた方は言わずもがなでありますが、一応おさらいしておくと、ぼくと同様の勘違いをなさっていた方は、すでにご明察ではあると思いますが番組のオープニングの際に、まるで気乗りしないかのように例の音楽に合わせてドリフの面々がお揃いのスーツ姿で緩慢なノリでステップを踏むのですが、その時に流れる歌が「ド・ド・ドリフの大爆笑/チャンネル回せば顔なじみ/笑ってちょうだい今日もまた/誰にも遠慮はいりません(以下4番まで続く)」だったわけであります。歌もメロディーに乗せると、「の」がないとバランスが取れないのだし、メロディーに乗せるではないにせよ『ドリフ大爆笑』もまた語呂が悪い気がする。だったらもう番組名も『ドリフの大爆笑』としておけば良かったのではないかと思うのだけれど、実のところはまあどっちだって構わぬのであります。 さて、自粛中で鬱々としているからということでもないけれど―実はとても充実しているのですが―、御笑いを渇望する気分も高まったところですので、ネット社会の利器を活かして視聴することにしました。いやはやぼくの記憶ではもっとどんよりしたムードのネタが多い印象がありましたが、改めて見ると派手派手しいのが思ったよりも多くてびっくりさせられました。ドリフのコントは大掛かりの一発ネタも少なくないけれど、本領はメンバーの個性を活かした小ネタの積み重ねにあるので多少のネタバレを辞さずに印象に残ったのを紹介します。 居酒屋のセットは大雑把に2パターンあります。最も登場の機会が多いのが以下の店舗になります。格子戸に暖簾と赤提灯、手前には植え込みがあるというパターンです。繁華街の外れの住宅街との境目にありそうな構えですね。こちらの店内は広めのスペースになるので、じっくりと長尺のネタが多いようです。ドリフのネタの根本にあるしつこさが発揮されます。この一連のコントはいかりや長介が曲者ぞろいの店主と彼を陥れる仕掛けの施された酒場を訪れるというのが定番です。たまに加藤茶と志村けんとの絡みやメンバーが数名で訪れたり、由紀さおりなどのゲストが絡む場合もありますが、ぼくにとってはやはりいかりやが客となるのが王道のパターンとなります。 一つ目は仲本工事との絡みです。開店したての店にチンピラが押し掛けるというもので、大きなオチはないけれど、いかりやの殴られっぷりが笑わせます。 次は志村けんとの掛け合いになります。これもドリフの定番逆である西部劇におけるスウィングドアで顔面を打ち付けられるというのがどんどんエスカレートするネタの応用編。見てのまんまでありまして、この当時はまだまだ吊り下げ式のチェーンを引き下ろすタイプの水洗便所が一般的だったのでしょうか。 高木ブーも居酒屋店主ではそれなりに目立っています。これはおでん種の大根が見つからず、浴槽サイズのおでん鍋に飛び込むというもの。実に楽し気に演じています。 そして、最後の二つはサプライズ系のびっくりネタです。一つ目は開店したばかりの加藤茶の店に入ってみると、焼け跡だったというもので、これはコントが始まった早々にネタが明かされるのですが、この状況で延々とコントが続くという笑いの定石を裏切るような展開になります。次の志村けんとの絡みも同じパターン。店の中にさらに店舗があるという事実は始まってすぐに明かされるのですが、その後、いかりやと志村の掛け合いが延々と続きます。こうした大きなギャグを冒頭で披露してしまうという贅沢なコントに驚かされるのです。 これだけの断片をご覧いただいただけでも思わず笑ってしまいますが、実際にドリフのメンバーの動きや喋りを聞くとこれだけじゃ全く伝わらぬ愉快さがありまして、つい笑ってしまうと思います。ドリフはどうも苦手という方も一度ご覧になるとその過激さに撃たれるかもしれません。
2020/05/12
コメント(0)
ぼくは、ガキの時分から口卑しい人間でありました。恥ずかしい告白となるけれど、好きなテレビ番組は料理番組でありました。NHKの『きょうの料理』は当然のこと、『料理天国』、『チューボーですよ!』、『料理の鉄人』、『料理バンザイ!』などを見ていたし、夏休みなどの日中には『キユーピー3分クッキング』、『ごちそうさま』、『金子信雄の楽しい夕食』などにも目配せしていたから我ながら食い意地が張っているのです。『欽ちゃんのどこまでやるの!』、通称『欽どこ』も「推理ドラマ」というゲストが5種の献立をどういう順番に食べるのか当て合うという他愛のないコーナーを込んだものでした。これらの番組を視聴しつつ涎を垂らしたかというとそういうこともなく、極めて冷静にヴァラエティー番組としていたのだから、自身の食い気というよりはわざわざ手間暇かけて食い物を拵える様や他人が喜悦に満ちた表情を浮かべて食っている姿が愉快だっただけなののかもしれません。 世界の料理ショー 〜DVD SPECIAL PRICE-BOX 【DVD】 そんな料理番組好き―であった―のぼくですが、特に好んで見たのが、『世界の料理ショー』でありまして、この番組だけは番組のラストで観客席に腰を下ろしているところを料理研究家のグラハム・カーに誘われてその卓に着いて彼の作った料理をご馳走になりたいと心の底から願ったものでした。この番組は、グラハム自らが司会・進行・出演・調理・試食をこなすというワンマン料理バラエティー番組でありまして、これをご記憶の方は相当な食いしん坊なのだろうと思うのです。何といってもその番組中で紹介される料理というのがとんでもなくハイカロリーっぽく思われ、こんなのばかり食っていては長生きもままならぬというトンデモナくゴージャスかつ不健康そうな料理だったからです。実はお決まりのWikipedia情報によれば、1990年代に『新・世界の料理ショー』が放映されたそうで、「健康志向の時代にあわせ、低カロリーでおいしく作れるレシピを提案していた」そうであります。グラハムの女房/ダーリンであるところのトリーナの病気をきっかけにして己の3高―高脂肪、高カロリー、高コレステロール―を自省したことによるそうな。実に殊勝な心掛けではあるけれど、この番組がそしてグラハムから油っ気を抜いたらちっとも面白くなさそうに思えるのです。日本語版として現存するのは全52回だそうで、DVD-BOXまで出ているらしいからこの番組はぼくばかりでなく多くの視聴者がいたらしいことが推測されるのです。この番組の面白さは、やはりグラハムが好き勝手にワインを呑み、楽し気に料理を作り、下ネタを語り、そして助平な表情を浮かべて女性観客を彼の作った料理の前にエスコートする、つまりはグラハムのキャラクターに負うものなのでしょう。料理などは高級食材を多く用いるという予算面の都合だけでなく当時における入手困難さ、そして何より調理工程の面倒くささから実現可能性が低くて、結局そのレシピを一度として再現する機会を持つに至ってはいないのです。2012年頃にテレビ東京で再放送されたとあるので、この際に再見の機会に恵まれていたならば、実作するチャンスもあっただろうに。若い頃はグラハムにあやかって赤ワインを呑みながら調理するという真似もしてみたりしたけれど、近頃は実際に呑み出す前にお腹が張ってしまうから、やはりこの番組を模倣する機会はすでにぼくの人生では失われてしまったのでしょう。 古くは萩尾望都が画を担当した『ケーキ ケーキ ケーキ』などをその発祥とする料理漫画の系譜でありますが、小学生の頃は『包丁人味平』、その後、当初は『ブラックジャック』の拙劣な模倣でしかなかった『ザ・シェフ』が、昆虫食など当時は極めて特殊な嗜好であった昆虫食などその漫画技術よりも食材への拘りの極北を目指し出してからは、俄然面白くなって好んで読んだものです。『ダンジョン飯』も似たような興味から大いに楽しんでいます。その後のこのジャンルの多用化は目を見張るものがあり、この場で展開するのはいかにも荷が重いのです。『酒のほそ道』をはじめとした酒呑みまんがもこの系譜をなぞっているばかりで、今後は酒や飲酒がもたらす生理的変化などをストーリーや作画に組み込むことが求められると思うのです。ともかくも紀行物の要素を組み込んだ『孤独のグルメ』、市井の人々のささやかなドラマをほのかなユーモアとペーソスで描く『深夜食堂』、酒呑みまんがとしてはぼくには微塵の魅力も感じぬ『ワカコ酒』などまんがの枠を飛び出して実写化されることも多くなり、近頃のこのジャンルの停滞感と隆盛ぶりを矛盾と思っていたけれど、実は矛盾でもなんでもないのかもしれません。だって、食べることってのは多くの一般的な日本人が一日三食を毎日続けているのだから、淡々と同じ行為を繰り返すのが退屈なのは、当たり前なことで多少の食材の先鋭化、調理のドラマティックさなどというのは食うという振る舞いを前にしては些少な抵抗でしかないのだと思うのです。 めしにしましょう 7 イブニングkc / 小林銅蟲 【コミック】 こうして料理漫画の宿命を悟りきってみせながらも人は生きていくために食い続けなければならぬのだから、できる限りは退屈さに抗いたいという意思を、エッセイまんが風を装いつつ幾らか過激に実践して見せていて、やはり目が離せないまんがに『めしにしましょう』小林銅蟲作があります。キャラクターのはじけっぷりや力づくなユーモアなど様々な魅力を備えたこのまんがですが、徹底して見た目に拘る「普通ではないポテトサラダ」など惹句にある「“やり過ぎ飯”漫画!」を読んでいると実作する気合は起らぬけれど、作者自らが実作しているという作品を越えたところにある迫真とそれがもたらす滑稽さが堪らなく愉快なのです。酒呑みブログを続けるものとしては、このまんがを上回る酒呑みまんがが誕生することを期待したいと思うのでした。
2020/05/10
コメント(0)
全174件 (174件中 151-174件目)