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夫 婦 (3)光太郎と智恵子(7) きのしたよしみ銅とスズとの合金が立ってゐるどんな造型が行はれようと無機質の図型にちがひがない。はらわたや粘液や脂や汗や生きもののきたならしさはここにない。すさまじい十和田の湖の円錐空間にはまりこんで天然四元の平手打をまともにうける銅とスズの合金で出来た女の裸像が二人影と形のやうに立ってゐるいさぎよい非情の金属が青くさびて地上に割れてくづれるまでこの原始林の圧力に堪えて立つなら幾千年でも黙って立ってろ。 高村光太郎 『十和田湖畔の裸像に与ふ』 この詩は、青森県十和田湖の畔に建立された『乙女の像』に添えられた。光太郎は花巻での孤高の生活を切り上げ、人生最後の仕事を遂行するために上京した。詩人にとっての人生最後の仕事、それは『裸形』で詠った智恵子への約束を果たすこだった。智恵子の裸形をこの世にのこしてわたしはやがて天然の素中に帰らう。 高村光太郎 七十才を超えた光太郎の脳裏には、智恵子のみが点滅していただろう。智恵子そっくりといわれる裸像を建立した三年後の一九五六年(昭和三一年)四月二日、智恵子のいる天に向って旅立った。七四才であった 光太郎が残した裸像を見るため、僕は三度かの地を訪れた。一度目は青春の真っ只なかで、二度目は妻と二人で、三度目は青春の入り口に立ったばかりの息子と二人で。 その度に光太郎・智恵子の生涯を想った。そして、自分はどう生きるかの示唆を受けた。只、凡夫の僕には光太郎・智恵子の人生は眩し過ぎる。 生涯、光太郎一人だけを、精神が破綻しても尚愛した智恵子、七十才を超えて尚、妻を想い、その心情を独白する光太郎、その迫力は文学形式が違えども『嵐が丘』と双璧をなす、世界に誇れる愛の物語である。 ぼろぼろになった『智恵子抄』の文庫版を片手に、智恵子の故郷福島・二本松、光太郎が一人過ごした岩手・花巻を、娘と訪ね歩く日は来るだろうか。光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき 高村光太郎 (完) のいちごつうしん第453号 初稿 20040921
2015年10月21日
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夫 婦 (3)光太郎と智恵子(6) きのしたよしみ 翌、早朝未明、雨音が消え風が静まったのを機に外にでた。涸沢全域が霧に包まれていた。《今日も無理か》 山頂のある方角を見上げていたら、友がやってきた。「あと二、三日は駄目だといっている。どうやら福井、新潟、福島の豪雨をもたらした前線が南下したようだ。」「断念するしかないな、でもJさんが約束の山頂の山小屋で待っているかもしれないよ」「彼なら大丈夫さ、この風と雨ではきっと思い留まる正しい決断をしてるよ」「無事であることを祈って下山しよう。」 三十年近く登山をして、目指す山頂に初めて到達しないことが確定した瞬間だった。そう言ったまま、悔しそうにして山頂のある方角を見つめている僕に友が言った。「こんなときもあるさ、でも俺は、お前に会うのが今回の目的だったから、俺にとっても目指す山頂に行けないのは初めてだけど、お前に会えてそれだけでも俺は嬉しい」 無事下山し、温泉に入ってから帰るという友を見送って上高地の国設キャンプ場にテントを設営していたら、何事もなかったかのように、飄々としたJさんがやって来た。「雨と風が強くて、引き返してきたよ。これ、いるかい」 ブランデーと上等のつまみが入っていた。西穂高からジャンダルムと名づけられた難所を越える予定だったのに、僕らのために重い思いをして担ぎ上げてくれた貴重品だった。頭が下がった。 帰る頃になって厚い雲の間から陽が差し込んできた。久しぶりに見る陽だった。《ちゃらんぽらんな僕のような人間のために、貴重な時間とお金をかけて駈け付けてくれる人がいる》山頂まで行けなかったが、登頂したときに感じる達成感以上の幸福感が満ちてきた。 帰京してすぐ、ゼームス坂のある大井町で青年と飲む機会があった。 ゼームス坂を上りきったところに智恵子終焉の地となった病院があった。光太郎はこの坂を、精神の破綻した愛する人に会うために、何度も上ったに違いない。そのときの光太郎の気持ちはいかばかりであったろうか。 晩年の智恵子は、光太郎だけを認識した。その光太郎のために、光太郎に見せるためだけのために切り絵を制作した。光太郎が病院に姿を見せると、嬉々として光太郎に披露したという。余りにも切なく、余りにも不憫というほかないが、智恵子にとっては幸せな時間ではなかったろうか。 これから結婚するという青年と語らう機会を得て、久しぶりに気持ちが豊かになった。大井町を後にして一人電車に乗って帰る時、光太郎の最後の詩が蘇ってきた。 のいちごつうしん第452号 初稿 200409016上高地・梓川
2015年10月20日
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夫 婦 (3)光太郎と智恵子(5) きのしたよしみ 激しい雨がテントを打ちつけ、雪渓の谷を抜けた風はテントを吹き飛ばすかのように、間断なく吹き付けてきた。感覚が目覚めると今度は寒さで体が震えてきた。《やむをえない》 燃料もなくなったので、濡れた服の上に重ねて雨具を着込んだ。濡れた服が肌に密着して冷たかったが、風は防げる。体の熱も逃げないはずだ。意を決して、濡れた寝袋の中に入った。寝袋の冷たさが伝わってきて、思わず体を屈めた。 切迫した状況の中、不意に不出世と言われた登山家・加藤文太郎の言葉を思い出していた。『極限の状態で眠れば死ぬというのは間違いです。疲れないうちに眠れば、死ぬ前に必ず目が覚めます。』 今度は、僕に山を教えてくれた先輩の言葉が思い出されてきた。『蒸れた汗が冷たくなったのは、雨に濡れた冷たさに較べればなんてことはない』 気分が少し楽になった。と同時に、体感の冷たさはあったが、少しだけ蒸れるようになり、体の震えが和らいできた。《最悪期は脱したのかもしれない》 少しだけ余裕ができたら、智恵子死後の光太郎の生活が頭を過ぎった。 智恵子との別れによって、永遠の存在としての智恵子と交信できる自分を見いだした光太郎は『智恵子・その後』というべき系譜の詩篇を発表していった。『レモン哀歌』以後がこれである。 もし、この一群の詩篇が綴られなかったならば、『智恵子抄』の名声はなかったかもしれないと思われるほど重要な詩篇である。 光太郎は戦後、戦争礼賛への悔恨から、六三才から七〇才まで花巻郊外に住んだ。冬には寝床の傍まで雪が吹き込む人里離れたあばら家であった。切なく、侘しく、辛い時期であったとされる。 だが、そんな境遇にあっても、光太郎のこころには智恵子が常に有り、古老の光太郎を励ましてくれたのだと僕は思う。そうでなければ、この時期の一群の詩篇は理解されえない。わたしの手でもう一度、あの造型を生むことは自然の定めた約束であり、そのためにわたしに肉類が与えられ、そのためにわたしに畑の野菜が与えられ、米と小麦と牛酪とがゆるされる。智恵子の裸形をこの世にのこしてわたしはやがて天然の素中に帰らう。 高村光太郎『裸形』この詩の前半は、妻・智恵子の造型が語られ、次の言葉で締められている。今も記憶の歳月にみがかれたその全存在が明滅する のいちごつうしん第451号 初稿 200409014上高地・明神岳
2015年10月19日
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夫 婦 (3)光太郎と智恵子(4) きのしたよしみ 明け方未明、体の異常な感触に目を覚ました。全身水に濡れていた。何が起きたのか咄嗟には理解できなかった。ヘッドランプを照らして始めて気付かされた。昨夜来の雨がテントのなかにまで浸水していたのである。 これまで台風に何度直撃されても浸水したことはなかったので信じられなかった。寝袋も、替えの下着までもずぶぬれにしてしまった。この状況で明日からの本格的な登山をどうするか、考えあぐねていたら、朝が明けた。 土砂降りのなか、朝食を摂った。横尾は槍ヶ岳と穂高岳への登山の分岐点に位置しているので、朝はこれから登る人、下山の人でいつもごった返しているが、今日は下山の人が圧倒していた。 今週は天候はだめね、一週間待ったけど悪天候で諦めて下山してきたわ、と、疲れきった表情と無事下山できた安堵感が交錯していた。《山頂で友が待っている、行かない訳にはいかない》 一人は槍ヶ岳から、一人は西穂高から奥穂高岳の山小屋で会う約束だった。 雨が小降りになったのを機にテントを撤収し、山頂を目指した。涸沢に着く直前から雨が再び激しくなり、風も強烈に吹きつけてきた。《これ以上の前進は命取りになる》 涸沢で天候の回復を待つことにした。いつもなら、こんな風も雨もたいしたことではない。 しかし、昨夜で状況は一変していた。濡れていない衣類は一枚もない。寝袋までも濡れたままだ。 晴れなくても、風だけならなんとかなるが、雨は断続的に降り、益々激しさを増していた。そのうち風もテントを吹き飛ばしかねない程の脅威になり、テントを守るフライシートの張綱を固定していた石をも度々動かした。 何度もその補強のため、テントの外に出なければならなかった。 これでだめなら諦めようと一本の張綱に大石を載せて顔を上げたときだった。山頂で会う予定の友がきょろきょろしているのが見えた。「強、こっちだ」「おお、生きとったか」北海道の最奥の山、トムラウシに一緒に登って以来だから十年近く会っていなかった。「おまえもな、無事でよかった」「今日は南岳に登ったのだが、稜線はひどい風で縦走は無理だったので止めにして、横尾まで引き返し、ここまで登ってきた。ここにくればおまえが必ず居ると思ったよ」「嬉しいね」二十キロを超えるテントを背負って、山を走って登るパワーを持ち合わせている万年青年の登場は心強い限りだった。 久しぶりの話をしたかったが、夜が迫っていた。会えただけでいい。「明日、またな」 友のテント設営の位置を確認してテントに戻った。濡れた衣類を着たまま眠りに就いた。《人間は簡単には死なない》 のいちごつうしん第450号 初稿 20040909上高地・明神岳
2015年10月18日
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夫 婦 (3)光太郎と智恵子(3) きのしたよしみ やっと一緒に生活できるようになった二人だったが、光太郎は両親の了解を取り付けるため、土地、建物等の相続権一切を放棄した。 芸術家の収入は、有るときは有るが無いときは無いという状態で、翻訳等を手がけたり、父の下請け的な仕事を手伝ったりして、収入増を図ったが、冬の暖のための薪もなく、明日の米にも事欠く日が続き、智恵子の病気も重なって、日毎に生活は困窮していった。 赤貧のなか、光太郎を支えたのは、智恵子の純真な愛だった。 その智恵子に変調の兆しが見えだしたのが、一九三一年頃からだった。闘病の末この世を去ったのが一九三八年(昭和一三年)十月五日のことだった。 愛する人を失うことの辛さは失った人でなければ分からない。光太郎もその辛さに苦闘する日を送ることとなる。だが、その闇のなかで本当の光を見いだすこととなる。その光を光太郎は次のように書いた。『:智恵子はその個的存在を失う事によって却って私にとっては普遍的存在となったのである:それ以来智恵子の息吹を常に身近に感ずることが出来、言はば彼女は私とともにある者となり、私にとっての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなった。: 後ろをふりむけば智恵子はきっと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである』 高村光太郎 『智恵子の半生』 仏教のなかにその現象を言い表わす言葉がある。令其生渇仰・因其心恋慕(りょうごうしょうかつごう・いんごうしんれんぼー)、これである。直訳すれば、請い願えば即ち何時でも何処でも現れるであろう、と言っているのである。 僕は小さい頃からそのことばは母から教えられていた。 いつだったか、母に聞いたことがある。「父さん居なくて淋しくないの」「父さんは早くに逝ってしまったけれど、いつでも母さんの傍にいるのよ。大切な人ほどきっとそうなのよ」 母は決まってそう言った。 上高地から梓川を遡り、観光客で賑わう明神池を過ぎると徳本峠への道を分岐する。智恵子を迎えにこの道を胸ときめかせて登っていく光太郎の姿が手に取るように見えてくる。そこから更に進むと徳沢で、かって牧場があったところだ。『狂奔する牛』はこの牧場に題材を得たのだろう。 そこからは一時間で奥上高地と呼ばれる横尾に着いた。パンを頬ばっている間に、雨が降り出し、段々ひどくなって一メートル先も見えない程になった。出発を諦め、やむなくテントを張って停滞を決め込んだ。 それが苦難の序章になろうとはこのときはまだ知らなかった。 のいちごつうしん第449号 初稿 20040907
2015年10月17日
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夫 婦 (3)光太郎と智恵子(2) きのしたよしみ著名な彫刻家の長男として生まれ、芸術的自立を望む父に答えられないふがいなさ、新芸術を標榜しながら、父を超えられない焦燥のなか、智恵子との出会いが、芸術家・彫刻家としての光太郎の運命を切り開くことになる。私にはあなたがあるあなたがあるそしてあなたの内には大きな愛の世界があります私は人から離れて孤独になりながらあなたを通じて再び人類の生きた気息に接しますすべてから脱却してただあなたに向ふのです深い、とほい人間の泉に肌をひたすのですあなたは私のために生まれたのだ私にはあなたがあるあなたがある、あなたがある 高村光太郎 『人間の泉』 退廃との決別。光太郎はそれをこの詩で高らかに宣言した。この詩の本意に触れたときから、その高潔な精神は僕にはなくてはならないものになった。 それ以来、この詩は、孤独に沈むとき、居たたまれないほど悲しいとき、一人では乗り越えられないほどの壁に立ち向かうとき、恥ずかしさに打ち震えるとき、僕を励ましてくれる。 『智恵子抄』を知ったのは、中学に入ってからだった。最初の読んだときは、なぜ愛する人のことを詩にするのだろう、なぜ愛する人と暮らしていて狂気になったのだろう、という疑問から抜けだせなかった。 高校に入ってからも、何度も読んだが深い感銘はなかった。社会人となり成人したとき、思春期を豊かにし、僕の心の支えになってくれた最良の友を失った。 希望から絶望へ、歓喜から悲嘆へ、僕の人生は大きく旋回した。絶望の闇のなかで、母の声を聞いた。《死んではいけない、愛するのです》 その声に励まされ、中学の頃から乱読した本を一冊一冊精読した。その内の一冊が『智恵子抄』だった。 詩の一編一編が新鮮だった。どうしてこれまで疎んじていたのか信じられなかった。詩に込められた光太郎の智恵子への深く、清らかな愛の全景をはっきりと合点した。『人間の泉』は光太郎・智恵子にとって、一緒に暮らす決定的動機となる犬吠崎、それに続く上高地行に先立つ大正二年三月に発表された。『智恵子抄』のなかで、ひときわ光輝く一編である。 のいちごつうしん第492号 初稿 20040902
2015年10月16日
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今日で1月も終わり、明日から2月になります。大切な友が逝った冬の終わる3月がまた今年もきます。悲しい、悲しい3月が!でも、そのすぐ後に春がきます。今年の春は、友のふるさと・ながさきで開催する【のいちご展】のある特別な春です。それを迎えるためのプレ展も来週から始まります。友 よ (二) 母衣崎 健吾白百合を手向けし墓標 真向かえば 君が顔見ゆ 君が声聞こゆ恥じらいて「白百合が好き」言いし友 ひたむきに生き ただひたむきに 友が逝って、三年が過ぎた六月、嫁ぎ先を初めて訪ねた。 友と初めて出会ったのは中学の頃だ。私はバスケが飯より好きな少年で、雨の日もドロンコになってコートを走り回り、日曜日も練習に明け暮れていた。そんな時、顧問の先生が奔走して隣村の中学の女子バスケ部との対校試合を持ち込んできた。友はその隣村の中学のキャプテンだった。 隣村の中学の男子部は、例年地区大会の最大のライバルで、まじかに迫ったその年の大会でも私たちのチームと、郡大会に出場できる優勝をかけて激突するはずだ。その学校の女子部との対戦ということが気がかりだった。「きっと、偵察される。それになぜ女子部と:」私の質問に顧問の先生は笑った顔を崩さなかった。 当日、隣町の中学に着くと、バスケコートを取り囲んで何重にも輪ができていた。その中央には既にメンバーは整列していて、私たちを拍手で迎えてくれた。 私たちの整列を待って、友が片手をあげて、「大会前の貴重な時間を私たちのために割いてくれてありがとうございました。胸を借りるつもりで、本気で戦います」 堂々の宣誓だった。背丈は私たちと同じ位だったが、ずっと大人に見えた。何よりも半袖にブルマ姿が眩しかった。私たちの中学は体育の時間は男女別々で、一緒に競技することはなかった。 試合が始まってすぐにリードされた。すぐにタイムがコールされた。 日頃は柔和な顧問の先生が厳しい声で怒鳴りつけた。「キャップテンの君がそれでどうする。彼女たちは県大会の優勝候補だよ。忙しい日程を空けて、君たちと対戦してくれているんだ。彼女たちを女子と思うな。素早いパス、正確なシュート、ドリブル力、ジャンプ力、いずれも君ら以上だ。全力で立ち向かえ」 タイムが終わってコートに戻ると、恥ずかしい気持ちは消えていた。 徐々に差が詰まり接戦になった。応援の人たちも総立ちになって声を嗄らした。経験したことのない一体感が全身に押し寄せてきた。試合が終わると彼女たちが駆け寄ってきて、握手をしてくれた。「いい試合だったわ。ありがとうございました」「ぜひ県大会で優勝してください」 笑顔いっぱいの彼女たちは、コートの中央で円陣を組んで、私たちのチーム名を連呼した。私たちは、分け隔てなく応援してくれた隣村の生徒たちに正対して四方にお辞儀した。波のような拍手がコートを包んだ。顧問の先生はいつもの柔和な顔に戻っていた。 友は高校を卒業すると、幼稚園の先生になるのが夢だと言って、故郷を離れ、働きながら学べる夜間の短大に進んだ。成績は抜群であったが、親に負担をかけたくなかったのだろう。村中が貧しかった。運命は自分で切り開くしかなかったのだ。 無事に保母の資格を取って、故郷の幼稚園に職を得た。数年を経て、友を励まし続けていたSさんと結婚した。 運命を自分で切り開いてきた友を病魔が襲ったのは三年前の春のことだった。責任感の強い友は、新学期の始めの忙しさも災いして、変調を感じながらも、大好きな園児たちと接し続けた。立って歩けないほどの状態になって、病院の門を叩いた時は、もう手の施しようがないほど、病気は進行していた。 せめてもと、友の教え子が通う小学校の校庭が見える病院に移ったのが秋、友が逝ったとの知らせを受けたのは、春がそこまできていた三月のことだった。 バス停から友の嫁ぎ先まで歩いた。 路地に入ると、一人の少女が待っていた。友との出会いのころからこれまでのことに想いを巡らしながら歩いていたので、危うく声をあげそうになった。目鼻立ちが端整なその少女は、出会った頃の友にそっくりだった。 軒先までくると、少女ははにかみながら踵を返していなくなった。友の遺影がある仏間に通された。「文集がやっとできたよ」 静かな時間が流れた。お墓参りに向かうと、少女が再びやってきて、先立って案内してくれた。 墓標は海を見下ろす高台に、海に向かって立っていた。「お母さん、お母さんがよく話をしていた人がきてくれましたよ。お母さん、会いたかったでしょう。よかったね」 少女は私に一礼して下りていった。 私を気遣ってくれたのだろう。 一人になって、友が好きだといっていたユリの花を手向けると、止め処もない新たな悲しみが襲ってきた。 カット作品:赤ずきんちゃんの散・歩・道
2014年01月31日
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神さま水野源三の世界(2) 母衣崎健吾 あやめの紫が母も好きでした風にそよぐ若葉が母も好きでした飛びかうつばめが母も好きでした私の好きな聖句に母が鉛筆で線を引いてありました (水野源三詩集より 「母も好きでした」) 九才の時、脳膜炎により、体の自由と言葉の自由を失ってしまった水野源三。絶望の淵で源三を支えたのが母の愛であるならば、生きる力を与えたのは神の愛であった。源三は、このモチーフを幾度も幾度も詩歌に詠んでいる。神さまの大きな御手の中でかたつむりはかたつむりらしく歩み蛍草は蛍草らしく咲き雨蛙は雨蛙らしく鳴き神さまの大きな御手の中で私は私らしく生きる 「生きる」 源三は手も足も動かせず、口もきけない困難な中にあっても、満ちたりた安らぎのなかにあった。三十三年間寝たきりの私の額には三つの傷跡があるその一つ一つの傷跡には美しい野山を遊び回った思い出がある神様が与えて下さった尊い十年間が 「傷跡」 源三が罹病した小学四年生に、娘は今春進級した。娘は一〇ケ月を母のおなかの中で過ごすことなく、未熟児で生まれた。幼い頃は体が弱く心配していたが、このごろは怪我を心配するほどのおてんばになった。そんな娘を見ていると、この頃が最も遊びに夢中になれるときだということが分かる。遊べなくなった源三の失意の大きさは、計り知れない。 失意のなかで、牧師と出会い、神の愛をこころに刻んだ源三は、こころのあるがままを詩歌に詠んだ。咲き匂う月見草の花は野辺の歌鳴き競う河鹿の声は清流の歌飛び交う蛍の光は夜空の歌これらの歌を一つ一つ集めて神さまに捧げる詩集を作ろう 「詩集」 源三の詩歌には、絵画のような豊かな色彩がある。純白の心にしか描けない色彩がある。私が臥している六畳のこの部屋にも神様の恵みの春がある弟がとって来た蕗のとう姪達のつんで来たイヌフグリ義妹の生けたあんずの花 「春」 感謝の心は次の詩に結実する。困難に出会ったとき、いつも私を勇気づけてくれる詩だ。ものが言えない私は有難うのかわりにほほえむ朝から何回もほほえむ苦しいときも 悲しいときも心から ほほえむ 「ありがとう」 感謝の心を終生もち続けた源三にして、はじめて詠める境地であろう。
2012年08月18日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (23) 少 年 母衣崎 健吾 < 中浦ジュリアン > 人若し我に従はんと欲せば己を捨て十字架をとりて我に従ふべし (マルコ第8章) 西坂の記念碑に寄り添うように、資料館がひっそりと建っていた。展示の多くは二六聖人に関する資料であったが、背景説明としてイエズス会の資料も展示されていたので、もしやと思い、丹念に一点一点に目を凝らしていたら、中浦ジュリアンの資料が飛び込んできた。幸運だった。同時に、これまで、何度もこの地を訪れながら、全然気付かなかった自分の不明を恥じた。 ジュリアンは天正遣欧少年使節の副使としてヨーロッパに向かった。ザビエルがキリスト教を伝えてから三三年後の一五八二年のことである。その六年前の一五七六年、信長は安土に城を築き、天下人であった。その信長はキリスト教に寛大であった。特に九州の大名は熱心で、教会を設置したり、港を開港し、土地を競って寄進したりしていた。長崎はそのひとつであった。そのような時代の雰囲気のなかで、ジュリアンもセミナリヨで学び、イエズス会の巡察師バリニヤーノに認められた。 一行はゴア、リスボン、マドリード、フィレンツエを経てローマに入り、教皇グレゴリウス一三世と謁した。 しかし、ヨーロッパに向かった同年、信長が暗殺され、時代は暗転する。信長の後に天下人となった秀吉は、一五八七年、伴天連追放令を発し、キリスト教を禁止、長崎も収公した。さらにその十年後には日本最初のキリスト教殉教となった二六聖人の殉教へと突き進んで行った。少年使節が帰崎したのは禁令から三年後のことである。 ジュリアンは帰崎の翌年イエズス会に入り、その一〇年後の一六〇一年マカオに赴き神学を修めた。一六〇八年司祭に叙階され、布教活動しているところを捕らえられ、長崎で処刑された。島原の乱の四年前のことである。 資料館に展示されていたのは、処刑の十二年前にジュリアンが立てた最終誓願の文書と手紙で、流暢なラテン語で認められていた。 私の息子は今年十四才になる。少年たちが旅立ったとされる年令である。この年令で、八年余の海外への旅に赴いたとは。しかも、当時の都、京から遥かに離れた辺境の地から。 今般の洋行と違い、当時の航海の技術水準では、決死の覚悟が要ったであろうことは容易に想像がつく。 命がけの訪欧に少年たちを駆り立てたものはなんであったのだろう。今の時代を生きる私には不明であるが、少年の純真さ、旺盛な冒険心がなければなしえなかったのではなかろうか。 その足でジュリアンの生誕地に向かった。 日本の最西端にある妻の故郷にはジュリアンの顕彰碑がひっそりと建っている。ジュリアンの生家の跡といわれるその一角に立ち、少年ジュリアンの生涯を辿ると、いつも目頭があつくなる。 村のどこからでも海が見えた。ゆっくり歩いて浜に下りた。日本海の荒波が繰り返し繰り返し岩にぶつかり、飛沫する。その度ごとに潮の香りが風に乗ってやってくる。《たじろぐことはない。自分に正直に生きよ。人として生きよ。自分のためにではなく人のために、愛する人のために生きよ》 そう呼びかける海鳴りがいつまでも耳に残った。 のいちごつうしん NO,404
2007年12月24日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (22) 神さま 母衣崎 健吾 < 水野源三(2)> あやめの紫が 母も好きでした 風にそよぐ若葉が 母も好きでした 飛びかうつばめが 母も好きでした 私の好きな聖句に 母が鉛筆で 線を引いてありました (水野源三詩集より 「母も好きでした」) 九才の時、脳膜炎により、体の自由と言葉の自由を失ってしまった水野源三。絶望の淵で源三を支えたのが母の愛であるならば、生きる力を与えたのは神の愛であった。源三は、このモチーフを幾度も幾度も詩歌に詠んでいる。 神さまの 大きな御手の中で かたつむりは かたつむりらしく歩み 蛍草は 蛍草らしく咲き 雨蛙は 雨蛙らしく鳴き 神さまの 大きな御手の中で 私は 私らしく 生きる 「生きる」(水野源三) 源三は手も足も動かせず、口もきけない困難な中にあっても、満ちたりた安らぎのなかにあった。 三十三年間 寝たきりの 私の額には 三つの傷跡がある その一つ一つの傷跡には 美しい野山を 遊び回った 思い出がある 神様が 与えて下さった 尊い十年間が 「傷跡」(水野源三) 源三が罹病した小学四年生に、娘は今春進級した。娘は一〇ケ月を母のおなかの中で過ごすことなく、未熟児で生まれた。幼い頃は体が弱く心配していたが、このごろは怪我を心配するほどのおてんばになった。そんな娘を見ていると、この頃が最も遊びに夢中になれるときだということが分かる。遊べなくなった源三の失意の大きさは、計り知れない。 失意のなかで、牧師と出会い、神の愛をこころに刻んだ源三は、こころのあるがままを詩歌に詠んだ。 咲き匂う 月見草の花は 野辺の歌 鳴き競う 河鹿の声は 清流の歌 飛び交う 蛍の光は 夜空の歌 これらの歌を 一つ一つ集めて 神さまに捧げる 詩集を作ろう 「詩集」(水野源三) 源三の詩歌には、絵画のような豊かな色彩がある。純白の心にしか描けない色彩がある。 私が臥している 六畳のこの部屋にも 神様の恵みの春がある 弟がとって来た蕗のとう 姪達のつんで来たイヌフグリ 義妹の生けたあんずの花 「春」(水野源三) 感謝の心は次の詩に結実する。困難に出会ったとき、いつも私を勇気づけてくれる詩だ。 ものが言えない私は 有難うのかわりにほほえむ 朝から何回もほほえむ 苦しいときも 悲しいときも 心から ほほえむ 「ありがとう」(水野源三) 感謝の心を終生もち続けた源三にして、はじめて詠める境地であろう。 のいちごつうしん NO.408
2007年12月02日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (22) 夫 婦 (四) 母衣崎 健吾 鉄幹と晶子(2) I先生が、顔を赤らめながら読んで下さったのが与謝野晶子の『みだれ髪』だった。与謝野晶子(旧姓鳳、本名しょう)は大阪堺市に鳳宗七の三女として生まれる。一九〇〇年『明星』に参加、主宰者鉄幹と恋愛し、翌年上京、歌集『みだれ髪』を刊行し、鉄幹と結婚する。 やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君 一九〇〇年十月 『明星』 髪五尺ときなば水にやはらかき 少女ごころは秘めて放たじ 自選『与謝野晶子歌集』第一首『みだれ髪』に収められたこれらの歌は、それまでの短歌にない自由さ、奔放さで歌われ、歌壇にとどまらず、社会的な反響を呼んだ。 歌集『みだれ髪』刊行から三年後、晶子の名声を不動のものとした詩を発表した。 あゝおとうとよ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ この詩は明星に一九〇四年(明治三十七年)九月初めて発表され、一九〇五年(明治三十八年)一月に出版された『恋衣』に四連四十行の詩として収められた。 この詩は、折からの日露戦争への反戦歌であるとした大町桂月らとの論争になったが、肉親の出征に際し、止むに止まれぬ情を詠ったものであるとして、鉄幹は晶子を擁護した。 その後、明星は同人の離反、鉄幹の他界を経て、経済的にも行き詰まり、一九〇八年(明治四十一年)十一月満百号で終刊となった。 後日、晶子が自選の短歌集を出版するとき、若き日の作品のほとんどを選外とする方針だったが、不十分であれ、歴史的なものではあるとして、最終的には初期の作品から数点を採用した旨述懐していたが、初期の晶子の作品こそが、晶子そのものであり、心を揺り動かしてくれるのである。『みだれ髪』が晶子のいう整った短歌で詠まれたものならば、不滅の名声は獲得できなかったのではないか。 実際、現代の歌人、俵万智が読み替えた『現代文・みだれ髪』は、難解といわれる『みだれ髪』の解釈の役にたつとしても、晶子の『みだれ髪』の足元にも及ばない。 晶子が歌人として大成したのに較べ、鉄幹は、歌人としてではなく、明星の創始者として文学史に名を残した。。 もしも鉄幹という人物がいなかったならば、明星は生まれなかったであろうし、もしも晶子が鉄幹という人物と出会っていなければ、その明星はかくも短い時間で、かくも世人の注目を浴び得なかったであろう。 鉄幹の才気、晶子の情熱、この二つがハーモニーを奏でたとき、鉄幹と晶子は離れがたい二人になった。 I先生が中学生の私に語ってくれた言葉がある。『愛する人と一緒に暮らすことほど素晴らしい人生はない。わたしはそのことを伝えるために教師になった。』 最後に私の好きな晶子の一首を挙げる。 道を云はず後を思はず名を問はず ここに恋ひ恋ふ君と我と見る 明星第十一号 のいちごつうしん NO。440
2007年11月28日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (21) 夫 婦 (四) 母衣崎 健吾 鉄幹と晶子(1) われ男の子意気の子名の子つるぎの子 詩の子恋の子あゝもだえの子 与謝野鉄幹『紫』 与謝野鉄幹(本名・寛)は一八七三年(明治六年)京都のお寺に四男として生まれる。その後、四歳にして小学校に入学、五歳にして父からは仏典や国書等の素読を受け、母からは習字を習っている。 しかし、父の借財が重なり、家を失い転校する。八歳のとき、父の転居により鹿児島に移り、一〇歳のとき再び京に戻った。そして、十一歳のとき請われて養子に出たが、一四歳にして養家を出ることとなる。 十七歳で得度、徳山の女学校の国文学教師になったことが鉄幹にとって大きな転機となる。その在職二年の間に、森鴎外、生涯の師と仰ぐ落合直文の文章に親しむこととなった。その後上京し、直文門下になり、『亡国の音』、詩歌集『東西南北』等を発表する。そして、一八九九年十一月(一九〇〇年二月説あり)新詩社を設立、ついで翌一九〇〇年四月、『明星』を創刊するに至るのである。翌年、晶子と結婚する。 私の中学時代の恩師、I先生が私の母校、O中学校に赴任してこられたのは昭和三十八年の春であった。 国立大教育学部を卒業したばかりの教師一年生で、教師というよりも兄貴的存在だった。 一学年三クラス編成の小さい中学校だったので、国語、理科、体育の三教科を担当され、私にとってはバスケ部の顧問であり、三年間担任だった。 下宿は私の部落のタバコ屋で、私の家から近かった。独身でもあったためか、学校の当直にもよく起用されていたので、日曜日にも学校までよく遊びにいった。 その先生のお気に入りが鉄幹だった。鉄幹が先生と同じ僧侶の出身であり、熱っぽく青春を語る気性が先生と同一のものだったからだろう。 妻をめと娶らば 才長(た)けて 見目(みめ)麗しき 情けあり 友を選ばば 書を読みて 六分の狂気 四分の熱 『人を恋ふる歌』与謝野鉄幹 先生が高唱されるのを何度も聞かされたので、いつの間にか、バスケ部の応援歌だと勘違いする生徒もいた。 ビンタは日常茶飯事で、自習時間に騒いでいた、女の子をからかったなどの理由でよく殴られた。先生は背丈が百九十センチを超える大男で、その手の平は八手の葉よりも大きく見え、ビンタの跡が顔全体を覆いつくす程の威力があった。今で言えば暴力教師のレッテルを貼られるところだが、人望高く、誰も不平を言うものはいなかった。 それどころか、先生がバイク事故で怪我をされたときなど、何の連絡もしなかったのに何処からともなく多くの生徒が入院先の病院に集まってきた。先生が最初の赴任地の私達の中学を離れた後も、高校生になった私達の同級生や後輩と、先生の赴任地を何度も訪ねた。 それらのとき、先生の顔は純真な少年のような瞳で迎えてくれた。いつの日も若き日の鉄幹でいらっしゃるのが嬉しかった のいちごつうしん NO:439
2007年11月27日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (20) 夫 婦 (三) 母衣崎 健吾 哲久とあき(2) 人の歌にまぎれぬうたをつくるべし 雪ふればこころたかぶりていふ ( 坪野哲久「秋冬編」) 坪野哲久は明治三十九年石川県に生まれた。大正十四年「アララギ」に入会、島木赤彦に学び、赤彦没後「ポトナム」同人となる。 昭和三年プロレタリア運動に参加、昭和十一年「鍛冶」を創刊。第一歌集『九月一日』は発禁となる。 第二歌集『百花』は第一歌集の社会性から一転、母の死の前後を主題とした作品群である。斉藤茂吉の「死にたまう母」と双璧をなすこの歌集は、涙なくしては読めない。 母よ母よ息ふとぶととはきたまへ 夜天は燃えて雪ふらすなり いのち細れる母のくちびるうるほさん 井桁に高く雪ふりつもる (坪野哲久) この歌集を読むたび、私は母のことを思い出す。前年五月に入院して冬を越し、母が逝ったのは六月のことだった。 入院して以来、病院に寝泊りして必死に母の看病をした。深夜の看病は身に応えた。誰もいない病室で、母の苦しそうな息だけが聞こえてきて、真に心細かった。早く夜が明けてくれ、生きて朝が迎えられますように、と、そればかり念じた。 あまつち天地にしまける雪かあはれかも ははのほそ息絶えだえつづく (坪野哲久) この歌を詠んだときの哲久の心境は察して余りある。故郷、石川県の冬は、ことのほか冷たい雪だったことだろう。 その後、「桜」、戦後すぐの作品群を集めた「一樹」、「新宴」、最後の歌集「北の人」を発表し、一九八八年他界した。 冒頭の一首はその前年の作品である。プロレタリア文学の旗手として活躍し、その後その代表とまで言われた哲久にして、人の歌にまぎれないうたを詠いたい、との決意、信念。 虫食いのみどろも共にきざむなり 冬の蕪よ良くきてくれた 坪野哲久「秋冬編」 強い信念によって詠まれた歌が、人の歌にまぎれるはずがない。哲久の歌が、、他の追随を許さず、今でも、いや混迷の今だからこそ、孤高の山のごと気高く輝いているのは、そのためであろう。 そのような強い心の持ち主だからこそ、妻、山田あきも生活苦の最中にあっても生涯を共にできたと私は思うのだ。 その山田あき、絶詠の一首。 皆さまよ御夫婦ともに長らえて 喜怒哀楽をなしたまえかし (山田あき)人生の最後に詠ったこの歌に触れたとき、こみ上げてくるものがあった。このような人生があるのか、こんなに信頼しあえる夫婦でありたいものだと。 生くること苦したのしときみとあれば ただ一炊の夢なるもよき (山田あき) ☆11/25の【哲久とあき(1)】とあわせてお読みくださいませ。 のいちご通信 NO.456
2007年11月26日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (19) 夫 婦 (三) 母衣崎 健吾 哲久とあき(1) 山田あきの短歌を初めて知ったのは高校生の頃だった。 指をもてわれの唇閉めあわす きみが愛撫はかく素撲なり (山田あき) 初々しさがみごとに表現され、数十年を経た今なお俗化されない気品を漂わせている。どうしてこんな歌が詠めるのか、こんな気高い歌を詠んだ女性はどんな女性だろうかと興味を持たせてくれた大切な一首である。 山田あきは、一九〇〇年(明治三十三年)一月一日、村松茂三の七人兄弟の五女として新潟県に生まれた。生家は藤原氏の末裔で、一帯を支配する大地主であった。 女学校卒業と同時に、父により十三歳年上の医学者と結婚させられた。わずか半年でこの結婚は破綻する。いったん郷里に帰ったが、十九歳で上京、プロレタリア短歌運動を通じて坪井哲久に出逢い、結婚した。 しかし、その結婚は父、兄に反対され、勘当の身となり、それ以後郷里の土をふむことはなかった。 夫、哲久は病気がちで、折から勃発した中国との全面戦争、太平洋戦争に突入した国内の戦時体制による弾圧と重なり、夫婦の生活は困窮した。あきは会社勤めや内職をして必死に生活を支える。 戦後、女工等を転々としながらも文学活動に留まらず、平和、反戦活動に参加、女性解放運動の担い手として母親大会の結成に尽力する。 生きながら石に灼かれし人の 影視まじきものをなみだ垂りいき 八月は千万の死のたましずめ 夾竹桃重し満開の花 (山田あき) あきの短歌は夫、哲久とあきが歩んできた人生を色濃く投影し、人間賛歌、愛の賛歌になっている。 自ら信じる道をひたすら生きてきた自信、誇りが、格調高い歌を次々に生み出す原動力になった。。 畳の上に死なじときめし若き日の 胸の焔を大切に生く ただ一度の生きざま重し自らの 魂すがやかに悔いざらんとす (山田あき) 後悔することのない決然とした青春、人生、山田あきの歌に貫かれたそれらは、冬の星座のように、眩しく輝いている。 わたしの知人に、平和憲法の下、理不尽な差別、弾圧に抗した人々がいる。その大部分の人々が、人生をかけた青春を過ごした。戦前と戦後の違いはあるが、山田あきの詠ったテーマは、真剣に生きようとする人々に、熱く、強く語りかけてくる。 ゆく春のつれなき思いかさねきて あくがれはなお眩暈のごとし (山田あき) 山田あきという名前が、故郷の山と田圃、とりわけ野山が美しく装う秋から命名した筆名であることを知ったのはずっと後のことである。あきの瞼には勘当以来訪れなかった故郷がいつも映っていたに違いない。その悲しさ、淋しさを埋めてくれた夫、哲朗への深い想い。 かたくなの夫なき心を己とし なおも君思うを大切とす (山田あき) 九十六歳で永眠したあき、絶詠の一首。愛を貫き、苦難に耐えた、あきでなくては詠えない歌だ。現代短歌全集第11巻・15巻山田あき山田あき歌集yahooブックス坪野哲久全歌集yahooブックス坪野哲久と山田あきの歌碑現代短歌全集(第15巻)増補版
2007年11月25日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (18) 夫 婦 (二) 母衣崎 健吾 武郎と安子 召し給ふ星のまたたく遠方へ いざわれ行かん 君と別れて ( 有島安子 ) 神奈川県平塚市の海岸を眺める絶好の位置に杏雲堂病院がある。その庭先に、有島武郎の妻、安子夫人の晩年の作である歌碑がひっそりと建っている。 私の妻もこの病院で生死の境を彷徨い、療養したことがある。そのときは、妻を見舞うのが精一杯で、この歌碑には気付かなかった。この歌碑のことを知ったのは、妻の入院からずっと経って、大磯の海岸から海沿いのサイクリングロードを歩いて平塚の駅に向かう途中で、ああ、ここは妻が入院した病院だと、懐かしく辺りを見渡したときだった。 なんと雄大な歌であろう。死を覚悟した人間がこれほど雄大な歌を詠めるのであろうか。いや、死を覚悟した人間だからこそこのような歌を読めたのだと、家に帰ってから安子夫人の消息を調べて理解した。 神尾安子は陸軍大将神尾光臣の次女として生まれた。武郎との結婚は明治四十二年三月。七年間の結婚生活の間に三人の男子を出産、その後、病になり杏雲堂病院で療養生活を送ることになる。大正五年、二十七歳の春、同病院で逝き、夫、武郎を星の国で見守ることになる。 武郎は妻の生前、妻を評して「自分の意見を全然持っていない」と、嘆いていたが、妻の死後、妻が自分をどのように見ていたかを、妻の書き残した書編により知ることとなる。「あなたはご自身の生活に飛び入らず遠慮していらっしゃるのです。親孝行の美しいあなたの御性質がそれを躊躇させているのです。」と、安子夫人は夫、武郎を評した。そして、その書編の最後に、夫、武郎に激励の言葉を書き記した。「私はあなたのご成功を見ないで死ぬのが残念で御座いますけれども、必ずご成功遊ばす事と信じております。凡ての事に打ち勝って御成功遊ばして下さい。あなたに対しての唯一のお願いで御座います」 この言葉に触れたとき、あの短歌に込められた安子夫人の夫への想い、最初に感じた雄大さの真の意味を知った。 武郎は、遺言ともいうべきこの書編によって、それまでの不甲斐ない自身を悔恨し、勇気を奮い立たせて、文学の道をひた走ることとなる。夫人の死後、『カインの末裔』『小さき者へ』『生まれ出づる悩み』『或る女』『惜しみなく愛は奪う』など、次々に発表し、文壇の地位を確立した。 その武郎の作品のなかで、『小さき者へ』は、特異な作品である。 安子夫人の死の翌年執筆されたこの小品は、母親を亡くした六歳、五歳、四歳の三人の息子に宛てた父親としての心情を書き綴っている。その小品の最後に結んだ言葉がこの作品全体を特徴付けていて、印象的だ。《 行け。勇んで。小さきものよ。》 この言葉は、作品では息子たちに向けられているが、妻の遺言に答えるべく、武郎自分自身に向けたものであると、私は確信している。
2007年11月24日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (17) 夫 婦 (一) 母衣崎 健吾 光太郎と智恵子(7) 銅とスズとの合金が立ってゐる どんな造型が行はれようと 無機質の図型にちがひがない。 はらわたや粘液や脂や汗や生きものの きたならしさはここにない。 すさまじい十和田の湖の円錐空間にはまりこんで 天然四元の平手打をまともにうける 銅とスズの合金で出来た 女の裸像が二人 影と形のやうに立ってゐる いさぎよい非情の金属が青くさびて 地上に割れてくづれるまで この原始林の圧力に堪えて 立つなら幾千年でも黙って立ってろ。 高村光太郎 『十和田湖畔の裸像に与ふ』 この詩は、青森県十和田湖の畔に建立された『乙女の像』に添えられた。 光太郎は花巻での孤高の生活を切り上げ、人生最後の仕事を遂行するために上京した。詩人にとっての人生最後の仕事、それは『裸形』で詠った智恵子への約束を果たすことだった。 智恵子の裸形をこの世にのこして わたしはやがて天然の素中に帰らう。 七十才を超えた光太郎の脳裏には、智恵子のみが点滅していただろう。智恵子そっくりといわれる裸像を建立した三年後の一九五六年(昭和三一年)四月二日、智恵子のいる天に向って旅立った。七四才であった 光太郎が残した裸像を見るため、僕は三度かの地を訪れた。一度目は青春の真っ只なかで、二度目は妻と二人で、三度目は青春の入り口に立ったばかりの息子と二人で。 その度に光太郎・智恵子の生涯を想った。そして、自分はどう生きるかの示唆を受けた。只、凡夫の僕には光太郎・智恵子の人生は眩し過ぎる。 生涯、光太郎一人だけを、精神が破綻しても尚愛した智恵子、七十才を超えて尚、妻を想い、その心情を独白する光太郎、その迫力は文学形式が違えども『嵐が丘』と双璧をなす、世界に誇れる愛の物語である。 ぼろぼろになった『智恵子抄』の文庫版を片手に、智恵子の故郷福島・二本松、光太郎が一人過ごした岩手・花巻を、娘と訪ね歩く日は来るだろうか。 光太郎智恵子はたぐひなき 夢をきづきてむかし此所に住みにき 高村光太郎 (夫婦 光太郎と智恵子 終)
2007年11月20日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (16) 夫 婦 (一) 母衣崎 健吾 光太郎と智恵子(6) 翌、早朝未明、雨音が消え風が静まったのを機に外にでた。涸沢全域が霧に包まれていた。《今日も無理か》 山頂のある方角を見上げていたら、友がやってきた。「あと二、三日は駄目だといっている。どうやら福井、新潟、福島の豪雨をもたらした前線が南下したようだ。」「断念するしかないな、でもJさんが約束の山頂の山小屋で待っているかもしれないよ」「彼なら大丈夫さ、この風と雨ではきっと思い留まる正しい決断をしてるよ」「無事であることを祈って下山しよう。」 三十年近く登山をして、目指す山頂に初めて到達しないことが確定した瞬間だった。 そう言ったまま、悔しそうにして山頂のある方角を見つめている僕に友が言った。「こんなときもあるさ、でも俺は、お前に会うのが今回の目的だったから、俺にとっても目指す山頂に行けないのは初めてだけど、お前に会えてそれだけでも俺は嬉しい」 無事下山し、温泉に入ってから帰るという友を見送って上高地の国設キャンプ場にテントを設営していたら、何事もなかったかのように、飄々としたJさんがやって来た。「雨と風が強くて、引き返してきたよ。これ、いるかい」 ブランデーと上等のつまみが入っていた。 西穂高からジャンダルムと名づけられた難所を越える予定だったのに、僕らのために重い思いをして担ぎ上げてくれた貴重品だった。頭が下がった。 帰る頃になって厚い雲の間から陽が差し込んできた。久しぶりに見る陽だった。《ちゃらんぽらんな僕のような人間のために、貴重な時間とお金をかけて駈け付けてくれる人がいる》 山頂まで行けなかったが、登頂したときに感じる達成感以上の幸福感が満ちてきた。 帰京してすぐ、ゼームス坂のある大井町で青年と飲む機会があった。 ゼームス坂を上りきったところに智恵子終焉の地となった病院があった。光太郎はこの坂を、精神の破綻した愛する人に会うために、何度も上ったに違いない。そのときの光太郎の気持ちはいかばかりであったろうか。 晩年の智恵子は、光太郎だけを認識した。その光太郎のために、光太郎に見せるためだけのために切り絵を制作した。光太郎が病院に姿を見せると、嬉々として光太郎に披露したという。余りにも切なく、余りにも不憫というほかないが、智恵子にとっては幸せな時間ではなかったろうか。 これから結婚するという青年と語らう機会を得て、久しぶりに気持ちが豊かになった。大井町を後にして一人電車に乗って帰る時、光太郎の最後の詩が蘇ってきた。 ( 続く)
2007年11月19日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (15) 夫 婦 (一) 母衣崎 健吾 光太郎と智恵子(5) 激しい雨がテントを打ちつけ、雪渓の谷を抜けた風はテントを吹き飛ばすかのように、間断なく吹き付けてきた。感覚が目覚めると今度は寒さで体が震えてきた。 《やむをえない》 燃料もなくなったので、濡れた服の上に重ねて雨具を着込んだ。濡れた服が肌に密着して冷たかったが、風は防げる。体の熱も逃げないはずだ。意を決して、濡れた寝袋の中に入った。寝袋の冷たさが伝わってきて、思わず体を屈めた。 切迫した状況の中、不意に不出世と言われた登山家・加藤文太郎の言葉を思い出していた。 『極限の状態で眠れば死ぬというのは間違いです。疲れないうちに眠れば、死ぬ前に必ず 目が覚めます。』 今度は、僕に山を教えてくれた先輩の言葉が思い出されてきた。『蒸れた汗が冷たくなったのは、雨に濡れた冷たさに較べればなんてことはない』 気分が少し楽になった。と同時に、体感の冷たさはあったが、少しだけ蒸れるようになり、体の震えが和らいできた。《最悪期は脱したのかもしれない》 少しだけ余裕ができたら、智恵子死後の光太郎の生活が頭を過ぎった。 智恵子との別れによって、永遠の存在としての智恵子と交信できる自分を見いだした光太郎は『智恵子・その後』というべき系譜の詩篇を発表していった。『レモン哀歌』以後がこれである。もし、この一群の詩篇が綴られなかったならば、『智恵子抄』の名声はなかったかもしれないと思われるほど重要な詩篇である。 光太郎は戦後、戦争礼賛への悔恨から、六三才から七〇才まで花巻郊外に住んだ。冬には寝床の傍まで雪が吹き込む人里離れたあばら家であった。 切なく、侘しく、辛い時期であったとされる。 だが、そんな境遇にあっても、光太郎のこころには智恵子が常に有り、古老の光太郎を励ましてくれたのだと僕は思う。そうでなければ、この時期の一群の詩篇は理解されえない。 わたしの手でもう一度、 あの造型を生むことは 自然の定めた約束であり、 そのためにわたしに肉類が与えられ、 そのためにわたしに畑の野菜が与えられ、 米と小麦と牛酪とがゆるされる。 智恵子の裸形をこの世にのこして わたしはやがて天然の素中に帰らう。 高村光太郎『裸形』 この詩の前半は、妻・智恵子の造型が語られ、次の言葉で締められている。 今も記憶の歳月にみがかれた その全存在が明滅する
2007年11月18日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (14) 夫 婦 (一) 母衣崎 健吾 光太郎と智恵子(4) 明け方未明、体の異常な感触に目を覚ました。全身水に濡れていた。何が起きたのか咄嗟には理解できなかった。ヘッドランプを照らして始めて気付かされた。昨夜来の雨がテントのなかにまで浸水していたのである。 これまで台風に何度直撃されても浸水したことはなかったので信じられなかった。寝袋も、替えの下着までもずぶぬれにしてしまった。この状況で明日からの本格的な登山をどうするか、考えあぐねていたら、朝が明けた。 土砂降りのなか、朝食を摂った。 横尾は槍ヶ岳と穂高岳への登山の分岐点に位置しているので、朝はこれから登る人、下山の人でいつもごった返しているが、今日は下山の人が圧倒していた。 今週は天候はだめね、一週間待ったけど悪天候で諦めて下山してきたわ、と、疲れきった表情と無事下山できた安堵感が交錯していた。《山頂で友が待っている、行かない訳にはいかない》 一人は槍ヶ岳から、一人は西穂高から奥穂高岳の山小屋で会う約束だった。雨が小降りになったのを機にテントを撤収し、山頂を目指した。涸沢に着く直前から雨が再び激しくなり、風も強烈に吹きつけてきた。《これ以上の前進は命取りになる》 涸沢で天候の回復を待つことにした。 いつもなら、こんな風も雨もたいしたことではない。しかし、昨夜で状況は一変していた。濡れていない衣類は一枚もない。寝袋までも濡れたままだ。晴れなくても、風だけならなんとかなるが、雨は断続的に降り、益々激しさを増していた。そのうち風もテントを吹き飛ばしかねない程の脅威になり、テントを守るフライシートの張綱を固定していた石をも度々動かした。何度もその補強のため、テントの外に出なければならなかった。これでだめなら諦めようと一本の張綱に大石を載せて顔を上げたときだった。山頂で会う予定の友がきょろきょろしているのが見えた。「豪、こっちだ」「おお、生きとったか」 北海道の最奥の山、トムラウシに一緒に登って以来だから十年近く会っていなかった。「おまえもな、無事でよかった」「今日は南岳に登ったのだが、稜線はひどい風で縦走は無理だったので止めにして、横尾まで引き返し、ここまで登ってきた。ここにくればおまえが必ず居ると思ったよ」「嬉しいね」 二十キロを超えるテントを背負って、山を走って登るパワーを持ち合わせている万年青年の登場は心強い限りだった。 久しぶりの話をしたかったが、夜が迫っていた。会えただけでいい。「明日、またな」 友のテント設営の位置を確認してテントに戻った。濡れた衣類を着たまま眠りに就いた。《人間は簡単には死なない》
2007年11月17日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (13) 夫 婦 (一) 母衣崎 健吾 光太郎と智恵子(3) やっと一緒に生活できるようになった二人だったが、光太郎は両親の了解を取り付けるため、土地、建物等の相続権一切を放棄した。 芸術家の収入は、有るときは有るが無いときは無いという状態で、翻訳等を手がけたり、父の下請け的な仕事を手伝ったりして、収入増を図ったが、冬の暖のための薪もなく、明日の米にも事欠く日が続き、智恵子の病気も重なって、日毎に生活は困窮していった。赤貧のなか、光太郎を支えたのは、智恵子の純真な愛だった。 その智恵子に変調の兆しが見えだしたのが、一九三一年頃からだった。闘病の末この世を去ったのが一九三八年(昭和一三年)十月五日のことだった。愛する人を失うことの辛さは失った人でなければ分からない。光太郎もその辛さに苦闘する日を送ることとなる。だが、その闇のなかで本当の光を見いだすこととなる。その光を光太郎は次のように書いた。『::智恵子はその個的存在を失う事によって却って私にとっては普遍的存在となったのである::それ以来智恵子の息吹を常に身近に感ずることが出来、言はば彼女は私とともにある者となり、私にとっての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなった。::後ろをふりむけば智恵子はきっと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである』 高村光太郎 『智恵子の半生』 仏教のなかにその現象を言い表わす言葉がある。令其生渇仰・因其心恋慕(りょうごうしょうかつごう・いんごうしんれんぼー)、これである。直訳すれば、請い願えば即ち何時でも何処でも現れるであろう、と言っているのである。僕は小さい頃からそのことばは母から教えられていた。 いつだったか、母に聞いたことがある。「父さん居なくて淋しくないの」「父さんは早くに逝ってしまったけれど、いつでも母さんの傍にいるのよ。大切な人ほどきっとそうなのよ」 母は決まってそう言った。 上高地から梓川を遡り、観光客で賑わう明神池を過ぎると徳本峠への道を分岐する。智恵子を迎えにこの道を胸ときめかせて登っていく光太郎の姿が手に取るように見えてくる。そこから更に進むと徳沢で、かって牧場があったところだ。『狂奔する牛』はこの牧場に題材を得たのだろう。そこからは一時間で奥上高地と呼ばれる横尾に着いた。パンを頬ばっている間に、雨が降り出し、段々ひどくなって一メートル先も見えない程になった。出発を諦め、やむなくテントを張って停滞を決め込んだ。それが苦難の序章になろうとはこのときはまだ知らなかった。
2007年11月16日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (12) 夫 婦 (一) 母衣崎 健吾 光太郎と智恵子(2) 著名な彫刻家の長男として生まれ、芸術的自立を望む父に答えられないふがいなさ、新芸術を標榜しながら、父を超えられない焦燥のなか、智恵子との出会いが、芸術家・彫刻家としての光太郎の運命を切り開くことになる。 私にはあなたがある あなたがある そしてあなたの内には大きな愛の世界があります 私は人から離れて孤独になりながら あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します すべてから脱却して ただあなたに向ふのです 深い、とほい人間の泉に肌をひたすのです あなたは私のために生まれたのだ 私にはあなたがある あなたがある、あなたがある 高村光太郎 『人間の泉』 退廃との決別。光太郎はそれをこの詩で高らかに宣言した。この詩の本意に触れたときから、その高潔な精神は僕にはなくてはならないものになった。それ以来、この詩は、孤独に沈むとき、居たたまれないほど悲しいとき、一人では乗り越えられないほどの壁に立ち向かうとき、恥ずかしさに打ち震えるとき、僕を励ましてくれる。『智恵子抄』を知ったのは、中学に入ってからだった。最初の読んだときは、なぜ愛する人のことを詩にするのだろう、なぜ愛する人と暮らしていて狂気になったのだろう、という疑問から抜けだせなかった。高校に入ってからも、何度も読んだが深い感銘はなかった。社会人となり成人したとき、思春期を豊かにし、僕の心の支えになってくれた最良の友を失った。 希望から絶望へ、歓喜から悲嘆へ、僕の人生は大きく旋回した。絶望の闇のなかで、母の声を聞いた。《死んではいけない、愛するのです》その声に励まされ、中学の頃から乱読した本を一冊一冊精読した。その内の一冊が『智恵子抄』だった。 詩の一編一編が新鮮だった。どうしてこれまで疎んじていたのか信じられなかった。詩に込められた光太郎の智恵子への深く、清らかな愛の全景をはっきりと合点した。『人間の泉』は光太郎・智恵子にとって、一緒に暮らす決定的動機となる犬吠崎、それに続く上高地行に先立つ大正二年三月に発表された。『智恵子抄』のなかで、ひときわ光輝く一編である
2007年11月13日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (11) 夫 婦 (一) 母衣崎 健吾 光太郎と智恵子(一) 山の友が逝って十年になる今年、数年ぶりに上高地を訪れた。梅雨明けが例年より一週間ほど早かったから、梅雨明け十日の格言通りなら最高の天候が約束されていたはずだったが、実際は雨又雨の連続だった。 雨なら雨で、上高地は素敵な時空を与えてくれる。 今日はもう止しませう。 画きかけてゐたあの穂高の三角の屋根に もうテル・ヴェルトの雲が出ました。 槍の氷を解かして来る あのセルリアンの梓川に もう山々がかぶさりました。 谷の白楊が遠く風になびいてゐます。 今日はもう画くのを止して この人跡絶えた神苑をけがさぬほどに 又好きな焚火をしませう。 天然がきれいに掃き清めたこの苔の上に あなたもしづかにおすわりなさい。 高村光太郎 『狂奔する牛』 高村光太郎が上高地に遊んだのは大正二年八月から九月にかけてだった。長沼智恵子は、光太郎に遅れて九月に上高地に入った。光太郎が絵を画くのを邪魔したくないというのがその理由だった。光太郎は智恵子のそんな心使いに答えるべく、画作に励んだ。当時は、上高地までは徳本峠を越えて行くほかなかったから、大変な難儀であったろう。だが、愛する二人には、高い山であればあるだけ、越えて行くだけの価値があった。 今日、私の前に広がる上高地の風景は、百年以上も前の光太郎・智恵子にどのように映ったであろうか。
2007年11月12日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (10) 母の愛 母衣崎 健吾 水野源三 我が顔をふいてくれいる母の手にまだ 山菜の香りが残る (『水野源三詩集』より) 水野源三は、一九三七年長野県坂城町に生まれ、豊かな自然の中でのびのびと幼年時代を過ごしていたが、四六年八月、同町で発生した集団赤痢に羅患、打ち続く高熱により脳膜炎を併発、体の自由と言葉の自由を失ってしまった。そのとき、源三は小学四年生、わずか九才であった。 白い雲は 母の顔 笑った顔が 泣いた顔に変わり 雨となる 雨の音は 私のために 祈り続けてくれた 母の声 雨あがりの空は 私の重荷を になってくれた 母の愛 「母(一)」 (水野源三) 五十音表を使って詩作を始めたのは、脳性麻痺になって九年後の十八才のころである。瞬きが意志を伝える手段になると思いついたのは、外ならぬ母だった。 いつもそばに寄り添っていてくれた母を、源三は、いくつも詩歌に詠んでいる。その一つ一つに母への想いが込められていて、私の胸を強く打つ。 口も手足もきかなくなった私を 二八年間も 世話をしてくれた 母 良い詩をつくれるようにと 四季の花を 咲かせてくれた 母 まばたきでつづった 詩をひとつ残らず ノートに書いておいてくれた母 詩を書いてやれないのが 悲しいと言って 天国に召されていった 母 今も夢の中で 老眼鏡をかけ 書きつづけていてくれる 母 「まばたきでつづった詩」 (水野源三) 源三の第一詩集が発行されたのは、母の召天五日前、七五年二月二五日、源三、三八才のときであった。 父に続いて、母をも失ってしまった悲しみを乗り越えて、その後も万を超える詩歌を発表、八四年、第四詩集発行を前にした二月六日、多くの人に、いのちの尊さと生きることの喜びを教えて、母のいる天に向かって旅立った。四七才であった。 どこからか 落葉掃く音が 聞こえてくる 落葉を焚く 煙と臭いが 漂ってくる こんな朝は 消しても 消しても 決して消えない 母の姿が 母の涙が 母の祈りが 「母(二)」 (水野源三) 源三の清らかなこころで詠まれた詩歌に触れるとき、決まって故郷を思い出す。そこには、青い空と、静かな海があり、なによりも母がいる。貧しいながらも、誠実に生きた母がいる。こんな美しい朝にみ国をめざして主にまかせよ汝が身を今あるは神の恵みわが恵み汝に足れり
2007年11月11日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (9) 愛 母衣崎 健吾 日本26聖人 「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままで残る。 しかし、死ねば、豊かに実を結ぶ」 (ヨハネ12-24) 長崎は殉教の町でもある。長崎駅に降り立ち、浦上の方角に少し歩くと西坂の丘がある。かっては港に出入る外国船がよく見えたというその丘には、二六聖人のブロンズの記念碑が静かに建っている。 豊臣秀吉の伴天連追放令により六名の外国人、二〇名の日本人が京都、大坂で捕えられ、伏見、堺で引き回された後、長崎に護送された。護送の道々、耳をそがれ、瞳をえぐられても、信念を曲げず、処刑のそのときまで人々に説教を続けたという。 ブロンズの像の前に立つと自然に目頭が熱くなってくる。ルビドコ茨木一二才、アントニオ一三才、トマス小崎一四才。まだあどけない少年である彼らの童顔を見上げるとき私は慟哭する。私の娘と同じ年ではないか!息子の年令に達していないものまでも! 心もち天に向かって顔をあげ、胸の前でしっかりと手を合わせている目の前の少年達は、二月だというのに、足にはたびも履かされていない! 二六名が処刑されたのは、ザビエルがキリスト教を日本に伝えてから四八年経った一五九七年二月五日、殉教の記録がルイスフロイスによってその年に書かれ、ローマ教皇ピウス九世により聖人となったのは、それから更に二六五年後の一八六二年六月のことである。 殉教より後、三八四年を経て西坂の丘を訪れたヨハネパウロ二世は次のように称えた。《・・・きょう私はこの殉教者の丘で愛がこの世で最高の価値をもつことを高らかに宣言したいと思います。この聖なる地で各階層の人々が愛は自己よりも強いことを証明しました 》 日本を知らないという人に二十六聖人の話をしたら、大抵の人はあの人達の国ですかと尊敬の眼差しをされたと、北欧を旅した友に聞いたことがある。 真実の愛は、時代を超え、民族を超え、国境さえもこえるものなのだ。 たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる (下村ひろし) のいちごつうしん NO、315日本26聖人殉教の地(西坂の丘)26聖人殉教の地写真26聖人と長崎物語 26聖人と長崎物語 聖母文庫 著者: 結城了悟 出版社: 聖母の騎士社 発行年月: 2002年11月 旅する長崎学(3(キリシタン文化 3)) 旅する長崎学(3(キリシタン文化 3)) 26聖人殉教、島原の乱から鎖国へ 著者: 長崎文献社 出版社: 長崎文献社 発行年月: 2006年08月 古書 自注現代俳句シリーズ 下村ひろし集 著者: 下村純一 出版社: クレオ 発行年月: 2004年08月
2007年10月28日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (8) 童 心 母衣崎 健吾 金子みすず 私の本棚の最前列に『金子みすず童謡集』が置かれている。悲しいとき、苦しいとき、わたしがいつも開く本だ。 青いお空の底ふかく、 海の小石のそのように、 夜がくるまで沈んでる、 昼のお星は眼にみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。 散ってすがれたたんぽぽの、 瓦のすきに、だアまって、 春のくるまでかくれてる、 つよいその根は眼にみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。 ( 星とたんぽぽ ) 金子テルは明治三六年山口県長門市仙崎に生まれた。三才のとき父と死別、四才のとき養子になった弟と、一六才のとき再婚した母とは離れて暮すこととなる。 二〇才のとき転機が訪れる。ペンネームみすずで童謡を書き、雑誌に投稿を始め、すぐに西条八十に認められる。 しかし、母の再婚先の当主によって二三才で結婚させられ、同年出産したのを境にみすずの人生は暗転していく。夫の放蕩、病気さえも夫に移され、離婚、愛する子供さえ夫に奪われるというその日、二六才の生涯を自ら閉じることになる。 わずか三才六ヶ月の子供を守るために自らの命を投げ出さなければならなかった悲しみ、それほどまでに愛しい子供を残していかねばならない悲しみ。みすずの心の中は推測するに余りある。 詩人矢崎節夫の永年の労により、みすずの残した手書きの童謡集がみすずの実弟の手にあることがわかったのがみすず没後五十三年後の昭和五七年のことである。 その二年後に『金子みすず全集』が刊行された。 上の雪 さむかろな。 つめたい月がさしていて。 下の雪 重かろな。 何百人ものせていて。 中の雪 さみしかろな。 空も地面もみえないで。 ( 積もった雪 ) 私の父も母もみすずと同時代を生きた。みすずの辿らなければならなかった人生を通して、父の人生、母の人生を想うとき、みすずの残した童謡は深く深くこころに染み込んでいく。 昨年四月、生誕一〇〇年を期して開設されたみすず記念館には、みすずを慕う入館者が十七万人にも達したと朝日新聞は伝えた。思わず快活の声をあげた。 新年の賀状を開いていたら、友からの便りの中に嬉しい書き込みがあった。【 仙崎を旅してきました。みすずのこころに思いっきり触れてきました。 】
2007年10月26日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (7) 平和 母衣崎 健吾 峠三吉 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ (峠三吉『原爆詩集』より) 三吉は大阪に生まれ、幼いとき広島に移り、育った。 そして、あの一九四五年八月六日、世界で初めて人間の頭上に落とされた原爆に被爆した。 《何故こんな目に遭わねばならぬのか なぜこんなめにあわねばならぬのか 何の為に なんのために》 (峠三吉『原爆詩集』より) 広島に降り立ち、平和記念公園を訪れた。被爆当時のままの原爆ドーム、原爆の悲惨さを訴える資料館、市民がたどった平和への歩みを伝える記念館、そこに展示されている遺品の数々。いずれもが戦後生まれの私にも胸に迫ってくる。 《瞬時に街頭の三万は消え おしつぶされた暗闇の底で 五万の悲鳴は絶え》 《死者 二四七〇〇〇 行方不明 一四〇〇〇 負傷 三八〇〇〇》 (峠三吉『原爆詩集』より) 三吉の悲しみと怒りの言葉を重ねながら公園を歩いた。そのほぼ中央に原爆慰霊碑が、一八万を超える原爆死没者名簿を抱いて建っていた。 そこからいくらも離れていない片隅に、三吉の詩碑はポツンとあった。三吉の慟哭が聞こえてくるような静けさだった。 「原爆詩集」は、被爆から六年後に自家版謄写印刷で五〇〇部製作された。その著者、三吉が他界したのは被爆後八年足らず、詩集発行後二年に満たない一九五三年、そのとき弱冠三六才であった。 のいちごつうしん NO、312にんげんをかえせ原爆詩人峠三吉雲雀と少年/峠三吉論行李の中から出てきた原爆の詩
2007年10月24日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (6) 夢 母衣崎 健吾 鈴木三重吉 私は永久に夢を持つ。ただ、年少時のごとく、ために煩はさるること少なきのみ (鈴木三重吉) 三重吉は、一八八二年広島に生まれた。五人兄弟だっだが、長兄、次兄、すぐ下の弟の三人は若くして他界、恋しい母は八才のとき他界した。淋しい幼少年期ではなかったろうか。 中学時代、バイロンを耽読した三重吉は、京都の三高を経て、東大英文科に入学。そこで夏目漱石の講義を受けた。その漱石に寄せた処女作「千鳥」が『ホトトギス』に掲載され、転機を迎える。二十四才であった。 さらなる転機は、それから十年後、長女出生を待たねばならなかった。その年、最初の童話集を発行した。そして、ついに『赤い鳥』を創刊したのは長男が誕生した同じ年、グリム兄弟が『子供と家庭のメルヘン』としてグリム童話集を発表してから百年余を経た一九一八年七月のことである。 『赤い鳥』は、少年少女のための「芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する、最初の(文学)運動」であった。 その創刊号に作品を掲載したのは、北原白秋、泉鏡花、島崎藤村、芥川龍之介など、「文壇の主要な作家であり、又、文章家としても第一流の名手」達であった。 以後、、関東大震災、世界大恐慌の一時期を除いて発行を続けた。 三重吉は、終生、夢をもち続け、子供の幸せを願い、児童文学の隆盛のために尽力した。その功績は、もっともっと評価されていい。 広島に立ち寄った際訪れた三重吉の文学碑は、訪れる人の絶えない原爆ドームのある平和公園の片隅、元安川を背にして建っていた。今にも飛び立とうとしている鳩と少年少女を配した構図の胸像の三重吉は、心なしか淋しい表情をしていた。 私の子供は九才になったが、母の後をついてまわり、片時も離れない。子供にとって母は特別な存在である。幼くして母を失った三重吉にとって、母恋いの想いこそが、文学の動機であったろうし、夢そのものであったろう。 今を生きる子供達は、どのような夢を見ているのであろうか。昨今、子供を取り巻く環境は悪化するばかりである。いじめ、自殺、虐待、放置、様々な事件を報じるニユースから、子供達の悲鳴が聞こえてくる。 なにもしてやれない私は、世界中の子供達が、健やかに育つことを祈るばかりである。 のいちごつうしん NO、314 この一章をブログに掲載の準備していたら、今日10月23日朝日新聞神奈川版で、鈴木三重吉の長女、鈴木すずさんの半生記を綴った【赤い鳥翔んだ】(著者:脇坂るみ 出版社:小峰書店 2200円)の記事が目に留まった。著者は横浜在住とある。 嬉しい。鈴木三重吉を研究している人がすぐ近くの街にいたなんて。それも、鈴木三重吉の子供さんの本を出版してくれるなんて。嬉しくて、嬉しくて、こころは一編に童心に戻った。 記事によると、【赤い鳥】は、長女に読み聞かせる純粋な児童雑誌がないため、自ら創作運動を提唱し、長女誕生から2年後に【赤い鳥】を創刊したとある。 スケールは違うが僕とこころは一緒だ。僕も子供が生まれてから、子供たちに僕らが生きてきた記念碑を残したいとして仲間に呼び掛け、文集『のいちご』を創刊した。 【赤い鳥飛んだ】を早く読みたい!読みたい!読みたい! 鈴木三重吉童話集
2007年10月23日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (5) へいわ 母衣崎 健吾 永井 隆「・・・母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりともと恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄る幼ごころのいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はやうやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命を、この子は知っているのであろうか。 ・・・せめてこの子がモンペのボタンをひとりではめることが出来るようになるまでーーーなりとも・・・。」 永井隆『この子を残して』より) この作品を読んだのは小学生の時だった。当時、どれくらい理解できたか分からないが暖かいものに触れたという記憶がある。今、二児の父親となって、再び読み返したら、永井隆の悲しみと怒りと慈しみのひだひだまでもがはっきりと見えてきた。 一九四五年八月九日、広島に続いて長崎に原爆が投下され、炸裂した。一瞬のうちに七万余の人命を奪い、爆心地から半径2キロにわたり焦土と化した。 永井隆は島根県松江市に生まれ、長崎医科大学を卒業後も長崎に残り、被爆した。 四八年「この子を残して」を脱稿、四九年「長崎の鐘」刊行、「花咲く丘」脱稿、五一年、最後の著書である「乙女峠」を脱稿し、四三年の生涯を閉じた。 原爆資料館の一隅に永井隆の足跡が展示されていた。その遺品のなかに質素な、あまりにも質素な筆記具があった。ちびた鉛筆、ささくれた筆、《ああー、原爆病に冒された限りあるいのちを刻んで、この鉛筆で、この筆で、父としての、人間としての、切々たる思いを書き綴ったのか。》拭いても拭いても涙が溢れでてきた。 その足で、松山町の国際平和公園のほぼ中央部、長崎の鐘をかたどったモニュメントに添えられた碑文の前に立った。長崎の鐘よ鳴れ長崎の鐘よ鳴れ私達の両親を奪った私達のからだをむしばんだあの原爆がいかに恐ろしいものであるかあの戦争がいかに愚かなものであるか長崎の鐘よひびけ長崎の鐘よひびけ地球の果てから果ての果てまでも私達の願いをこめて私達の祈りをこめて その碑文を柔和な平和祈念像が見守っていた のいちごつうしん NO,313この子を残して第2版長崎の鐘永井隆に愛と平和を考える乙女峠原子雲の下に生きて亡びぬものを如己堂随筆ロザリオの鎖
2007年10月22日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (4) いのち 母衣崎 健吾 星野富弘/ 鈴の鳴る道 いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのがくるしかった いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった (鈴の鳴る道 星野富弘) 星野富弘は、群馬大学を卒業した一九七〇年、新任地の中学校のクラブ活動の指導中、鉄棒より落下し、頸髄損傷になり手足の自由を失ってしまう。 その彼が、口に筆をくわえて文字を書き始めたのが事故から二年後、手紙のすみに花の絵を書き始めたのがさらに二年後の一九七四年のことである。 彼の詩画は愛に溢れている。いつ見ても、いつ読んでも、私を励ましてくれる。 のろくてもいいじゃないか 新しい雪の上を 歩くようなもの ゆっくり歩けば 足跡が きれいに残る (鈴の鳴る道 星野富弘) 顧みられることもなく、ひたすらに生きている小さいものにも、あたたかい眼差しが注がれている。 美しく咲く 花の根元にも みみずがいる 泥を喰って 泥を吐き出し 一生土を耕している みみずがいる きっといる (鈴の鳴る道 星野富弘) かざりけのない、それでいて心に染み込んでくる作品の終章には次の言葉が添えられていた。「・・・その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることがなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。・・・わたしの心の中にも、小さな鈴があると思う。その鈴が、澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日が送れたらと思う。私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う。」 五体満足でありながら、安易な道ばかりを歩こうとする私は、ただただ頭を垂れるのみである. のいちごつうしん NO.311鈴の鳴る道
2007年10月04日
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≪この人・この本・この言の葉≫ (3) 青春 母衣崎 健吾 黛 まどか / B面の夏 恋はじまってゐる香水を替えて(黛まどか) 第四〇回角川俳句賞奨励賞を受賞した五〇句中の一句である。受賞者の黛まどかさんは二〇才。「・・・拙いなりに、その瞬間を感じたままに詠みとめることは、どんなに美しい絵葉書より私の心に強烈に焼き付きます。・・・一句一句にあの日あの時の光景、匂い、ときめきが鮮やかに甦ってきます。三〇代、四〇代、五〇代・・・。 これからも出会いという掛け替えのない宝物を、俳句という形式を通して集めてゆきたい」と、まどかさん。 さわやかである。初々しい感性は、なにもおそれない。 水着選ぶいつしか彼の眼となって 写真奪って緑蔭に走り込む (黛まどか) 一七文字のなかに青春の断面がみえる。青春の薫りがする。 私の青春時代、絶望があり、挫折があり、悲しいこともたくさんあったが、それにも増して嬉しいこともたくさんあった。山と出会い、旅の喜びを知り、なによりも友がいた。夜を徹して語り合い、共に歌い、共に笑い、共に涙を流してくれる仲間がいた。 いつの日か、そのことを、書きたい、書かねばならない、と心に誓ってきた。《文集を出そう、第一集「のいちご」を創刊したあの頃の純真な気持ちで。 たとえ、拙くってもいい、未完成でもいい。借物ではなく、自分の言葉で、自分のこころに語りかける文を書こう。》 そう心に決めて、もう一度まどかさんの俳句に接したら、青春の一ページ一ページが鮮やかに蘇ってきた。 のいちごつうしん NO、310 B面の夏
2007年10月01日
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≪この人・この本・この言の葉≫ 箴言 母衣崎 健吾 三浦綾子著【明日のあなたへ】 『九つまでは満ちていて、十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、人間はまずその 不満を真っ先に口から出し、文句をいいつづけるものなのだ。自分を顧みてつくづくそ う思う。なぜわたしたちは不満を後まわしにし、感謝すべきことを先に言わないのだろ う』 (三浦綾子 明日のあなたへ) 三浦綾子は新聞の懸賞小説に『氷点』で入選し、小説家としてデビューする。それからの女史の活躍は衆人の知るところである。 しかし、女史の歩んだ道は決して平坦ではない。むしろ、昨今は難病のパーキンソン病など十本の指では足りないほどの病気を患い、自分の体を動かすことすらままならない。 この事実を前にして、先の女史の言葉に触れるとき、その価値は燦然と輝きを増す。そんな女史の繰り出す作品の一つ一つが、こころに焼き付いてくるのだ。 女史の作品に共通するテーマは「愛」、しかも奉仕する愛、耐える愛、ということができる。 私も青春の一時期、希望を失い、闇のなかに埋もれたことがある。その絶望の淵から私を救ってくれたのが女史の作品群だった。 初めて読んだ女史の作品『天北原野』は私のために書かれたものであろうかと錯覚するほどのモチーフで描かれていて、絶望のなかにあっても死んではいけない、と私を激励してくれた。 『自分自身の身に起きたことなら笑えぬことを、他人事なら笑うという冷たさは、決し て許されることではあるまい。笑うべきことは、他人の失敗や不幸を見て笑うおのれ自 身のすがたではないだろうか。 人を笑ったとき、その時の自分こそ笑われる人間なのだ。わたしたちは何を笑うべきか を知らねばならぬ』 (三浦綾子 明日のあなたへ) 女史は、年を重ねた私に、今も圧倒する迫力で人生を教えてくれる。 のいちごつうしん NO.403 明日のあなたへ 天北原野(上) 【再度のお願い】 三浦綾子記念文学館10周年記念事業 ☆ 取材資料等の整理・保管を主目的にした増築の資金協力の呼びかけ ☆ 朝日新聞(2007・9.8)で、資金協力の呼びかけが行われました。 三浦綾子記念文学館は、日本はもとより、海外からも訪問者を迎えています。 今回の建設資金は約3000万円とのこと。 当文学館は本趣旨に賛同し、会員を始め、文学愛好者及び、当ブログ訪問者の皆様 方にご協力を呼びかけるものです。 募集期間:2007年末 郵便振替:財団法人三浦記念文化財団 口座番号:02760-3-64846 お問い合わせ:TEL 0166-69-2626三浦綾子記念文学館三浦綾子記念文学館の風景
2007年09月29日
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詩 歌 歌人とは、詩とは何かを常に問いつづけている者である。 歌人とは、歌人である前に人間であるべきである。 (角川書店刊 1994年短歌十月号 結社の窓 薫風の巻 長谷川 正) 友が結婚するとき、友が人生の節目にあるとき、私にできることは、詩歌をプレゼントすることだった。 私の拙い詩歌のときもあれば、その詩歌さえも詠めないほど感動したり、悲しみが深かったりするときは、私を励まし、勇気を与えてくれた先達の詩歌の本を贈ることを常とした。 私の詩歌は、たった一人の為に捧げられる。たった一人だけれど、その一人一人は私にとって、大切な、大切な、人達である。私の詩歌は拙いけれど、一つ一つに思い出がある。 最今は、友のほとんどが結婚し、詩歌を詠むこともなくなり、緊張感が薄れていただけに、前述の言葉は新鮮な驚きであった。そのすぐ後に次の言葉が続いていた。「歌は人なり、人は心なり、心は命なりを基調とし、人を愛し、己を見つめる歌人として、名利を追うことなく謙虚な心で詠むべきである。」 久し振りに幸福な気持ちになった。詩歌だけでなくそういう人生でありたいものだ。 のいちごつうしん NO,309
2007年09月27日
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