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今朝も冷え込んだ。仙台は未明からマイナス4度の寒さ。ちょっと風も出ている。県内では、米山でマイナス11度となり、駒ノ湯を上回る寒気だ。ところで、岩手県では、薮川が4時のアメダスでマイナス19.8となっている。最低気温時点では、もっと下がっているだろう。今朝の岩手県は、ほかにも、花巻でマイナス13.9(3時)、江刺でマイナス13.4(4時)など、宮城の米山が冷え込んだことと関連しているのだろうか、北上川沿いの盆地地帯で軒並みマイナス10度以下の寒さを記録した。ところで、岩手県と言えば盛岡市(旧玉山村)の薮川が冬の最低気温で有名で、ニュースでおなじみだ。盛岡市街地にも遠くなく、奥羽山脈の高地という訳でもないのに、考えてみればどうしてなのだろう。今朝もそうだが、冷え込んだ北上盆地よりさらに低く、例えば盛岡とは実に10度の差がある。ちなみに遠野はマイナス8度程度。岩手の寒さについては、「一に薮川、二に田代(区界)、三四が無くて五に遠野」と言われるそうだが、薮川は北上高地の寒さを代表する場所で、戦前には何とマイナス30度台を記録している。なぜ、薮川は寒いのか。標高が680メートル、そして、北上高地の西斜面にあり、小本街道沿いの峡谷に位置するため、両側から山が迫る。地形は盆地状で(地元では薮川盆地と呼ぶ)、夕刻頃から山頂も盆地も同時に冷却が始まり、冷気は斜面に沿って滑降する。やがて盆地内には冷気が上へ上へと積み重なり、盆地の底はますます放射冷却が強くなる。特に、この地域は風が弱く、冷気で埋まってしまう。加えて、冬季の積雪の密度が非常に小さいので、乾燥した雪面からの放射冷却によって、接する空気の低温を助長する。局地気温の変化の要因は他にもあるわけだが、薮川はそのほとんどを兼ね備えた地点である。そのため、現在のところ、本州ではもっとも低温の所となっているのだ。(金野、七宮、駒井編『岩手県の不思議事典』新人物往来社、2003年から、「岩手で薮川が最も寒い理由」(工藤敏雄さん著作部分)を参考にしました。)
2010.02.07
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永井病院前に新生児置き去り事件が報道された。生後2,3日の女児で健康状態は良好。育てられないので赤ちゃんを置いたという電話が有ったという。事情は知らぬが、何でこんな事するのか。一瞬今年の正月のスペルマン病院赤ちゃん連れ去り事件を思い出したが、とにかく無事だったことは良かったけど、折角生まれてきたこの女児の母親はじめ関係者は、いったい新しい命をどう考えているのか。永井病院は私も知人の奥さんの出産後に訪れたことがある。とても良い病院なので選んだと言っていたように思う。報道の事情や犯罪の問題はあるが、それはそれとして、とにかく親が早くこの子のもとに来て欲しい。
2006.05.10
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久々に、シリーズ仙台百景の続きです。神聖な場所です、皆さん気をつけましょう!■関連する記事(探訪記はこの記事をご覧ください。) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)■シリーズ仙台百景の過去の記事(こんな企画で100まで続くでしょうか) 旧代ゼミ前(シリーズ仙台百景 39)(2015年10月24日) ペデストリアンデッキのマーク(シリーズ仙台百景 38)(2015年6月2日) send i(シリーズ仙台百景 37)(2015年4月18日) 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.10
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調理師免許を得るには、調理師養成施設で知識と技能を修得(1年以上)するか、又は、2年以上調理の業務に従事した後で、調理師試験に合格することが必要となる。つまり、前者の場合は卒業すれば、申請により調理師試験を経ずして免許が取得できることになる。この調理師養成施設は、厚生労働大臣が認めたもので、高校の一部も含まれている。厚生労働省サイトや全国協会サイトから拾い出すと、東北関係では以下のとおり(最新かどうか自信はない)。----------■青森 青森調理師学校(学校法人ケーエム学院、青森市) 千葉学園高等学校調理科(学校法人千葉学園、八戸市) 青森山田高等学校調理科(学校法人青森山田学園、青森市) 東奥学園高等学校調理科(学校法人東奥学園、青森市) 青森県立百石高等学校食物調理科(おいらせ町) 学校法人林学園八戸調理師専門学校(八戸市) 弘前医療福祉大学短期大学部生活福祉学科食育福祉専攻■岩手 盛岡調理師専門学校(学校法人盛岡大学、盛岡市) 盛岡スコーレ高等学校総合学科調理師養成課程(学校法人スコーレ) 水沢第一高等学校調理科(学校法人協和学院、奥州市) 岩手県立宮古水産高等学校食物科 岩手県立大船渡東高等学校食物文化科 岩手県立久慈東高等学校総合学科食物系列 盛岡女子高等学校家政科調理師コース(学校法人久保学園、盛岡市) 菜園調理師専門学校(学校法人コアトレース、盛岡市) 北日本ハイテクニカルクッキングカレッジ(財団法人創玄芸術学園、盛岡市)■宮城 宮城調理製菓専門学校(学校法人勝山学園、仙台市) 明成高等学校調理科(学校法人朴沢学園、仙台市)■秋田 秋田県調理師専門学校(学校法人大内学園、秋田市) 大館調理師専門学校(学校法人大館ホテヤ学園、大館市) 国学館高等学校調理科(学校法人敬愛学園、秋田市)■山形 酒田調理師専門学校(学校法人天真林昌学園、酒田市) 山形調理師専門学校(学校法人羽陽学園、山形市) 山形学院高等学校食物調理科(学校法人山形学院、山形市) 天真学園高等学校食育調理科(学校法人天真林昌学園、酒田市) 米沢調理師専門学校(学校法人音羽学園、米沢市) 山形県立山辺高等学校食物科(山辺町)■福島 郡山女子大学附属高等学校食物科(学校法人郡山開成学園、郡山市) 福島東陵高等学校食物文化科(学校法人東陵学園、福島市) 日本調理技術専門学校(学校法人永和学園、郡山市)----------青森や岩手は高校が随分と多い。そして、両県と山形では、公立高校でも資格を取れるようになっている。さまざまな経緯や地域の要望などで創設され、または残されたのだと思うが、生徒の多様な進路を支えるため、また、特色のある高校づくりの点からも良いことだと考える。専門学校では、夜間のコースを設けているところも随分あるようだ。しかし、宮城と福島では養成施設の立地が偏っている、という印象を受ける。さて、普段不勉強な編集長なので、この機会に調理資格の取れる高校について少々調べてみた。特に私学の場合は、女子教育から発展した学校が多いように感じる。■千葉学園高校(八戸市) 看護科(5年一貫)も有する。1910年に八戸女塾で裁縫を教授したのが始まりで、女子教育に100年の伝統をもつ。■盛岡スコーレ高校(盛岡市) 岩手県生まれの私には、向中野学園の名の方がわかる。総合学科の中で所定の単位を取得すると調理師免許が得られるようになっている。■協和学院水沢第一高校(奥州市) 千昌夫の出た高校という印象が強いが、当初は女子高校であった。普通科3クラスと調理科1クラス。■盛岡女子高校(盛岡市) 家政科は、ファッションデザイン、調理、製菓の3コース。卒業後、希望で北日本ハイテクニカルクッキングカレッジの2年次に編入できるそうだ。同校は盛岡裁縫女学院から、戦後、久保高校となり、平成2年に現校名に。菜園調理師専門学校も系列のようだ。■県立宮古水産高校(宮古市) 長い歴史を誇る名門水産高校だ。食物科は昭和47年開設。■県立大船渡東高校 大船渡農業、大船渡工業、高田高校商業科、広田水産高校家庭科の再編統合により誕生。■県立久慈東高校 久慈農林、久慈商業、久慈水産の3高校が統合された。■国学館高校(秋田市) 明治時代の秋田女子技芸学校に始まり、昭和56年家庭科調理コースを設置。現在は共学で普通科は大学進学にも力を注いでいる。■天真学園高校(酒田市) 裁縫塾に始まり酒田家政女学校、酒田女子高校などの校名を経て、昭和51年現校名に改めるとともに調理科設置。
2010.06.27
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『47都道府県・妖怪伝承百科』小松和彦・常光徹 監修、香川雅信・飯倉義之 編、丸善出版、2017年 から(今井秀和執筆部分) 青森県の妖怪伝承(2023年07月11日) 岩手県の妖怪伝承(2023年07月12日) 宮城県の妖怪伝承(2023年07月13日) 秋田県の妖怪伝承(2023年07月15日) 福島県の妖怪伝承(2023年07月17日)・犬の宮・猫の宮(置賜の犬の宮は狸の化け物を退治した犬を祀る。その近くの猫の宮は、庄屋の妻の体調を悪化させた屋根裏の大蛇を退治した猫を祀る。)・ウコン・サコン(米沢藩の侍が中身を間違えた書状を幕府に向かわせてしまい、上代の岩井大膳が狐を走らせて、下総古賀で飛脚がうたた寝している隙に中身をすげ替えさせた。一昼夜で往復した狐は米沢城中に戻ると倒れて死んだが、右近か左近かわからないという。)・大山の犬祭り(鶴岡市。毎年人身御供の噂のある椙尾神社に旅の僧侶が忍び込むと、生贄を食った大入道から、丹波国の和犬(メッケいぬ)に知らせるなと繰り返した。僧侶は丹波に赴き一匹の白犬を手に入れて一年後神社を訪れた。大入道と犬は相打ちになり、人身御供は不要になった。)・片目の鮒(鶴岡市の薬師社にある池を掃除すると、小さな片目の鮒が怒って雨を降らせるという。片目の魚の伝承は全国各地に伝わるが、雨乞いの習俗と関わっている。)・河童地蔵(尾花沢市毒沢の川原子地蔵。かつて最上川は水難事故が多く、河童によると考えられ、水難者の供養と安全を願い建立された。)・ケサランバサラン(白い毛玉状の呪物で、持つ者に幸福をもたらすという。薬品として珍重された動物の結石の意味が変じたと考えられる。念珠関村では、白粉を食べさせて育てると子を産んで増えるという。落雷の後によく落ちているという。1970年代にブームに。)・ケボロキ(奥羽地方の山村に伝わる。夜間に木を挽くような音がする。)・鮭の大助(おおすけ)(見てはいけない巨大な怪魚。庄内地方では、旧暦10月20日など特定の日に、鮭の大助いまのぼる、などと大声で叫びながら川を上る大魚が現れる。新庄市では声を聞いた者は三日のうちに死ぬと伝えられた。)・白髭水(しらひげみず)(吾妻山中腹の集落に、万治2年大洪水の際に白髭の老人が水の上に座ったまま流されたという伝承がある。ほかに東北地方には老人が大水を予言するものがある。)・仙人嶽(湯殿山の後に続く仙人嶽という山に住む仙人は、聖域を侵す人間を嫌うので、入った者は二度と村に帰ることができない。山裾には仙人沢という場所があり湯殿山に奉仕して一生山を下らない修行者が暮らしているという。)・デエデエボウ(羽黒山周辺に伝わる雪山の妖怪。一本足の巨人で、雪に大きな足跡をつける。)・手長足長(手と足がそれぞれ長い一対の妖怪。本来は中国の『山海経』などに記載された辺境の異人。秋田との県境の有耶無耶の関では、手長足長が関を通過する人を食っていたが、三本足の鳥が有耶(手長足長がいるとき)、無耶(不在のとき)と鳴いて人に知らせたという。)・出羽三山の天狗(明治の初めころ狩川村の佐吉が荒沢の杉を買い取ったが、杉材から血のような液体が流れ出たり搬出作業の男たちが怪我をした。三年後出羽三山詣りに出た佐吉が、古峰ヶ原の山伏宿で風呂の日の様子を見に来た寺男が、自分は荒沢の天狗だと佐吉を睨む。佐吉は逃げて気絶する。また、山中の平らな場所は天狗の相撲場とされ、月山バラモミ沢、朝日岳、母刈山、黒森山など県内各地のほか宮城県にもあった。月山と湯殿山にわたる連峰の中に天狗相撲取山の名があり、毎年正月10日の未明に、京都の鞍馬山からきた天狗が行司をして置賜庄内村山の天狗たちが相撲を取り合うので、けっして山に登ってはならないと戒められている。)・ナベオロシ(東村山郡では夕暮れ時に杉の木の梢から真っ赤に焼けた鍋が降りてくる伝承がある。類似のものに近畿地方などのツルベオロシ、ツルベオトシ。)・化け石(上山の生居(なまい)には、生居の化け石という巨石がある。昔、化け石に庄屋が一俵分の握り飯を食わせると、お礼に小石をよこした。池に投げ込むと家が栄えるというので、末代まで繁盛した。)・雪女房(米沢に伝わる。未婚の若者が山奥で炭焼きしていると、道に迷った女が訪ねてくるが、寒いからと勧めても女は決して火に当たろうとしない。やがて夫婦になり子もできるが、ある吹雪の日女は外に出ると雪崩が起きて女は下敷きになり、男は子と里に下りて幸福にくらした。小国の伝承では、雪女郎は人間の子を攫うと伝わるほか、ウブメのように出会った男に怪力を授けることもある。)・与次郎稲荷の狐(東根市の稲荷神社の狐で、秋田市にも祀られている。水戸から秋田に移った佐竹氏が与次郎という狐を神としたことに発端する。久保田に築城の際、棲家を奪われた白狐が佐竹義宣の夢枕に立ったので、稲荷社を祀ると、その恩義に報いて白狐は与次郎という名の飛脚の若者に化けて仕えた。幕府の姦計で狐罠で殺された白狐を祀るのが与次郎稲荷である。)
2023.07.16
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宮城電気鉄道の第1期線である仙台ー西塩釜間は、大正12年8月に工事に着手し、大正14年6月5日に営業を開始した。高砂村でも、福田町停留所、高砂停車場で、部落有志が村当局とともにそれぞれ設備をなして祝意を表した。しかし、福田町、高砂の両駅をめぐっては激しい紛糾があった。この福田町停車場問題は、福田町駅と高砂駅のいずれにするかで、当時の政友会と民政党の政治問題にもなって紛糾し、結局双方に設置することとなったものである。■参考 佐藤芳男『仙石線物語』2017年(本記事はおだずま再構成。なお、佐藤さんは1937年塩竈市生まれ、日本共産党塩釜地区委員長をされた。塩釜時事新報の連載をまとめた本とのこと。)1 問題のはじまり会社は福田町停留場の位置について、大正12年6月に認可を得ている。用地買収を始めた当初、数名の地主が応じないので、土地収用法の適用も考えたが年月を要するので、むしろ予定地点を放棄して高砂駅を設置しようとした。これは宮城電鉄社長山本豊次談によると(後出大正14年2月5日河北新報)、中野に停留所を要望された際(次の段落に叙述)に種々考えた結果なのだという。中野の要望とは、大正12年12月、高砂村長遠藤音右衛門、多賀城村長鎌田猛両名の連署で、田子と八幡の中間の中野字只屋敷地点(おだずま注、現在の中野栄駅近くのようだ)に停留所設置の請願書が出された。請願の趣旨として、中野字只屋敷に隣接する部落は出花、曲田、蓬田、向田、追分、沼田、北新田の各区と多賀城村の高橋区、停留所が設置されると利便性が生まれるのは高砂村和田、蒲生町及び中野成区で、これらの部落には戸数540、人口3300余おり、県道、鉄道が通ると将来村の開発、交通運輸、子弟の教育の便が成る。請願地点の停留所は前記部落民の乗降が最も便宜の位置で、この地点を通過するだけでは、田子、福室両部落が恩恵に与るだけ。村と部民のためこの地点に停留所を設置すべき。この中野案は会社側が停車場との間が短距離なので設置しないことにしたのを知り、高砂郵便局長花淵源吉などが、中間地点の北福室に変更するよう山本社長に懇請し、安価で敷地や人夫の提供も申し出る。会社は調査の上、建設費の少額などを理由に北福室に変更申請を行うこととなった(大正13年9月20日)。これを知り福田町の有志家たちが会社側と交渉、政治家にも運動方を依頼して、部落の間の紛糾となったものである。1-2 (おだずま解説)旧村についてここで、地域を知る前提として旧村を記しておく。宮城郡(陸方2郷27村)のうち、明治22年の町村制施行の際に、岡田、蒲生、田子、中野、福室の5村が、高砂村となる。上の地図は昭和50年代のもの。まだ中野栄駅はない。2 福田部落の対応福田部落は大正13年7月頃から、従来通りの福田町停車場を請願してきたが、同年9月鉄道大臣に陳情書を提出。高砂村会議員佐藤松三郎など10名、区長10名、吉田源太郎外4500名の連記署名入り。陳情の趣旨は、こうだ。大正12年に宮電が工事にあたり、停車場を高砂村福田町字原嶋に設置するから線路敷地の買収を社長から依頼された。高砂村長が町民に訴え、佐藤松三郎、菅野源太郎を代表として、将来の村の発展のため私利をなくし安価で会社の買収に応じるよう、所有者との交渉を働きかけ、約1800坪を確保した。工事中の田畑への被害も我慢してきた。すでに認可が下りたにもかかわらず、敷地が水害にあったことがないとは疑わしいと言い立て、それを口実に福室部落に移転するという。福田町は高砂村の中枢で、役場、小学校、郵便局もあり、居住する住民も福室部落の10倍、もし福室に移転するなら多数の住民は不便を強いられるから、移転認可をせず直ちに取り消すように、と陳情している。県選出代議士藤沢幾之助外5代議士を介して嘆願書も提出している。3 福室部落の対応他方、福室部落を中心に大正13年10月、県知事上田満平あてに「請願書」及び「宮城電気鉄道停留所位置認可指令請願理由書」が提出された。この概略は、高砂村は中野、蒲生、福室、岡田、田子の旧5か村からなり、田畑1800余町歩、戸数1200、人口8000余の県下唯一の大村で、仙台塩釜の中間に位置し仙塩県道が中央を通る交通上便利なところだが、七北田川が交通上障害となり中野、岡田、田子の3か所に分かれ経費が膨張し村民負担が増大、この解決が求められている。停車場の予定変更は村民の希望と一致しており、村の最西端の荒寥たる田野に面した福田町停車場予定地はほとんどの村民は便益を受けず、中野停留所の設置を要望することになった。新旧予定地の比較がある。・新予定地区(部落) 中野五区、蒲生二区、福室一区、多賀城高橋、新田(十区)戸数 7百余人口 5千・旧予定地区(部落) 田子四区、福室一区、岡田二区(七区)戸数 4百余人口 3千6百さらに、新予定地の利点があげられる。福田橋を起点としてみれば、旧予定地周辺のうち岡田二区はむしろ新予定地の方が便利という。また、旧予定地は仙塩県道と3百間余隔たり新道が必要で、村財政窮迫から実現不可能だが、新予定地は県道に接する。新予定地は福田橋から3百50間(おだずま注、約640メートル)、北に福室の大部落が風雪を防ぎ、出水の恐れもないが、旧予定地は福田町から420間と遠く、雲洞院墓地の北裏の淋しい田畑。藤川が氾濫逆流して水中に浸る恐れ。4 宮城郡長の回答鉄道省監督局から宮城県知事あての照会(大正13年9月26日)があり、10月13日、県から宮城郡に「宮城電気鉄道停車場の位置変更に関する件ー比較調査の上回答ー」の照会が出された。これに対する宮城郡長糟谷哲郎から、県内務部長あてに10月29日付回答がある。郡長の回答書は、甲(田子)乙(福室区)を比較し、次のようにいう。(1)県道等との連絡甲は福田に接近し、福田は県道仙台蒲生と岩切及び七郷方面に通ずる町村道との十字路上にあり更に仙塩道路の分岐点にも近接。乙は、仙塩道に近接のほか、多賀城及び中野方面に通ずる町村道に接近。(2)連携部落の利便高砂村内において連携する部落は点々人家散在。福田は役場及び小学校の所在地にして戸数200、主に商業を営む蒲生は仙台及び塩釜への連絡は福田を経由しなければならない。甲より福田まで約5丁、蒲生まで約1里。乙より福田まで6丁、蒲生まで約30丁。(3)既往供水の実例甲乙とも冠水したることなし(4)利用区域の名勝と人口比較甲利用を便とする区域は、福田、田子で、乙は北福室及び向田。甲は約3700人、乙は約3300人。(5)高砂は東西約3里南北3里の地積を有し、七北田川が中央を両分する。いずれか一方に停車場を設けると他方が不便になる。ことに本村は郡内有数の米産地で、輸出上停留所をこの停車場以外に適当なる箇所にさらに必要だ。5 塩釜警察署長の報告また、治安面で塩釜警察署長警部木村三郎からの報告書「報告 電鉄停車場争奪問題に関する件」が知事あてに出されている。高砂村福田町に決定しすでに認可を受け今春起工線(ママ。おだずま注:起工せん、では)としたところ、高砂村長と多賀城村長連名の上停車場の予定地より東方25丁の同村中野字只屋敷(宿在家と称する部落)に停留場設置方を請願したので、会社側が調査の結果、停車場と短距離なので設置しないことにした。しかし、高砂郵便局長花淵源吉(憲政会派)は従来福田町に郵便庁舎を借り受け北福室の自宅から通勤していた関係上自己の便宜のため停車場の予定地と停留場を設置せんとしたところとのやや中央に位置する前記北福室に停車場の位置を変更せしめんと社長山本豊次に対し停車場を変更するなら敷地を安価に提供し人夫も寄付する条件で変更方懇請したるが如く、そして予定敷地は福田町に接近し位置適当なるも田地の土盛りその他工費多額を要するに対して、北福室は位置不適だが現畑地で地価低廉かつ土工費も少額などから、山本社長は北福室に変更すべきことを応諾するに至る。これを知りたる福田町の有志家佐藤松三郎、伊藤重左衛門、安達葛四郎等は現場維持方を会社と交渉し、かつ仙台市伊澤平左衛門に運動方を依頼するなど相対峙して紛糾した。而して、両位置の適否、地方民の意向などを視察すれば次の通り。(1)位置の適否予定地(福田町)は、戸数約200人家連軒し、同村のやや中央にして乗降上一般便宜の地なり。変更すべき地(北福室)は、会社からは土盛りその他工費は少額、かつ暗渠費(約800円)及び人夫の寄付あり利益になるが、この場所は、付近人家40軒散在に過ぎず不適当。(2)地方民の意向両部落民は各自の利便より打算し互いに自説を主張し我田引水に過ぎず、公平な観察からは福田町を適当なりと認めている。(3)政党関係変更の首謀者たる郵便局長花淵源吉は憲政会系として憲政会宮城県支部長の村松亀一郎と現場維持。福田町は佐藤松三郎など政友会系に属し、政友会支部長の伊澤平左衛門に運動方を依頼している。以上の如く、目下両部落民はその成り行きを傍観し至って平静なり。然れども位置変更されるならば福田町部落民は紛擾を起こす情勢にある。現場維持なら大きな紛擾なきものと認められる。6 当時の河北新報の報道から・大正13年8月8日「電鉄福田町停車場問題」高砂村の宮城電鉄停車場問題で村民が二派に分かれ大騒ぎしている。元来同社は村当局に対して福田町に停車場を設置する条件で土地買収方を依頼してきたので、交渉の結果地主も普通一段歩600円の土地を450円で買収に応じ、会社もこれを諒とし工事に着手した。しかし同村の福室部落の融資が停車場位置変更運動を会社に持ち出した結果、会社では実地測量の上同地なら工事費に余裕が生じると突如位置変更を申し込んできたので、福田町は大いに驚き、早速区民招集協議の結果、工事変更と条件撤回されては死活問題になると、交渉委員を選任し今後とも多少の犠牲を払い妥協してもらう目的で会社に交渉したところ、会社から工事費の関係で変更したとの答弁だったため、委員は工事費ならある程度まで捻出寄付する旨誓約書を申し出たがやはり交渉不調で引き揚げた。福田町に属する5部落300名は更に会社に考慮を促すと言っているが、これがために村会議員も二派に分かれ、町長(ママ)の態度曖昧と評判されている。・同年12月23日 高砂電鉄問題 ー協調気分に傾く・同年12月29日 停車場問題はいよいよ紛糾 ー村長助役共に辞職・同年12月30日 「3百余名大挙して事務所を包囲 ー宮城電鉄の停車場変更から憤慨した福田部落民」29日宮城郡原ノ町苦竹の宮城電鉄に向け、同郡高砂村福田部落民300余名が殺到し、事務所を包囲、きわめて不穏なりとの急報に接し、原ノ町派出所の桜井隼人部長は仙台署に急報すると同時に南の目苦竹南小泉その他駐在巡査を招集して現場に駆け付け鎮撫策を講じているが、血の雨を降らさんばかりの形勢なることから、高等主任梶原警部補は高砂相沢佐々木啓治部長(ママ)伊藤刑事などとともに現場に急行し協商に努めている模様。原因は、会社で最初福田部落に停留所を決定し有志家の奔走にて設備中如何なる事情か同社では突如福田側に無断で停留所を福室部落に決定したため、福田側が極度に憤慨し会社重役連を詰問すべく示威運動となったと推測される。「代表者3名を警察部に招致、趣旨を聴取」仙台警察署の高等主任梶原警部補の鎮撫により一時平穏に帰したが、部落民は3人の陳情者を選定し、29日午後知事官邸に面会を求めたので澤田高等課長は一同を警察部へ招致し趣旨を聴取中である。小学生の同盟休校又は同盟滞納等の不穏な計画もあるので、塩釜警察署とも連絡を取り合って善後策を講じている。「停車場問題で滞納休校 ー福田町町民はいよいよ騒ぐ」宮城郡高砂村福田町の宮城電鉄停車場問題はますます紛糾し村長辞職に至ったが、福田町民の意思は容易に動かず、あくまで目的貫徹の運動を続けており果ては福田町より高砂小学校に通学する児童の登校を阻止し税金滞納の挙に出る計画をめぐらせている。目下小学校は冬季休業中だが、明年1月6日より決行と示威運動しているものもあるとか、警察当局も万一を警戒している模様。・大正13年12月31日「福田部落民無事帰村 ーその後不穏な形勢はない」・大正14年1月16日「停車場問題と郡長の態度 ー奇怪な風説があり県も調査中」・同年1月22日「停車場問題出郡長は板ばさみ ー無根の風説が流布されるのは心外と語る」・同年1月29日「高砂停車場問題解決条件」去る26日東京呉服橋末広亭に山本社長、伊澤、内ヶ崎両代議士及び福室側から花淵源吉、福田町側より佐藤松三郎氏が代表として会見し熟議の結果、会社としては一旦福室に停車場を設置すべく鉄道省に申請し近く認可に至らんとしつつあるので変更できないが、その代わりに福田町に停留所を設置して福田町側の面目を持たせることの調停案が成立したので、今後紛争を起こさないことを誓い手打ちを済ませた。なお、会社側では認可あり次第直ちに工事に着手すべく諸般準備中で、昨日帰仙せる村松亀一郎氏も問題の解決を見たことは会社にも地方にも喜ばしいと語っていた。・同年2月1日「高砂停車場問題の条件」確実なる妥協案は下のごときもので、いまだ何れに停留所を置くかについては鉄道省の指定に任せ何れともまだ決定せざるとの由である。(1)停車場の設置場所は鉄道省の認可通りにて異議なきこと(2)停車場を設置されない方には停留所を設置すること(3)停留所を設置の方に対して、停車場設置の部落より金3千円を提供すること・同年2月5日「福田福室の工事同時に着手して同時に使用する計画 山本電鉄社長談」山本社長はこう語る。高砂村内の停車場位置について村内の紛糾を惹起したことは遺憾に堪えない。実は中野に停留所を設置してもらいたいとの要望(おだずま注、大正12年12月、中野字只屋敷地点に設置の請願書)があった際、種々考慮の結果、停車場を福室に変更すればその中央に位置するが故に村内の利便ともなり且つ会社の建設費を節約しうるので、変更設計を立てたのであった。然るに村内では、電鉄の利用に重きを置いた結果面白からぬ事象を現出すべしとて福田町に停車場を設けるべしとなし熱心に唱導された。かくして延遷し解決に手間取る有様となったところ、各方面の同情となりことに本県選出の代議士及び県会議員の斡旋を受け去る24日関係者の会合を東京で開いたのを端緒とし福田町福室間の妥協が急転直下的に進捗し、26日には停車場は福室に停留所は福田町に設け、かつ福室より停留所建設費として3千円を福田町へ提供することにて解決を告げるに至った。かくして今月2日付で認可の指令を発せられた。以上の如く各有力者の尽力を煩わしそんなない多数者に心痛せしめたことは慙愧の他はなく、今後ますます奮励して一般の期待に副うべく各方円の援助を受けたい。されば、福田町と福室の建設工事については同時に着手し同時に使用せんとの計画を進めている。・同年2月16日「宮城電鉄 高砂条件ー遂行は容易」1月下旬円満解決した高砂村停車場問題は、その条件として福室より福田町停留所の建設費中金3千円を提供する件について、一部落では負担に堪えうるか疑問ありというが、会社においてもいよいよ起工の場合には有利の採算にて福室側の負担を遂行せしむるよう取り計らうというから、一概に現金提供と見たる一部の推察は杞憂に過ぎまいとの事である。
2025.06.04
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律令国家は全国平定のため行政区として五畿七道を設け、都より国府に至る幹線道路を整備した。東北の蝦夷平定のための東山道は、陸奥東山道と出羽東山道が北上する。陸奥東山道は7世紀後半には郡山(仙台市)に朝廷の地方役所が構築され、8世紀半ばには蝦夷平定の拠点として国府多賀城が置かれた。802年には坂上田村麻呂により胆沢城が竣工、アテルイが降伏した。その後東山道は志波城まで延びている。全国の官道には30里(16km)ごとに一駅が設けられ馬が配備された。宮城県及び岩手県分では(カッコ内は比定地)、篤借(あつかし)(越河、斎川)、柴田(大河原)、小野(川崎)、玉前(たまさき)(岩沼)、名取(仙台市郡山)、栖屋(すねや)(利府)、黒川(吉岡)、色麻、玉造(岩出山)、栗原(鶯沢)、磐井(西磐井)、白鳥(前沢)、胆沢(水沢)、磐基(いわき)(花巻)である。■関連する過去の記事 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日)利府を経由して吉岡に至るのは、現在の国道4号の感覚とは離れているが、多賀城の存在を考えなければならない。そして、黒川の東山道ルートについては、利府から、小鶴沢、太田、幕柳、鳥屋、北目、大崎、舞野村に出て、奥田を経由して色麻、玉造に向かったとされる。また、黒川が現在の吉岡でないことは、元禄13年(1700年)の黒川郡駒場村山林絵図に、古海道が記載されていることから明らかである。吉岡は政宗の三男宗清が下草から元和2年(1616)に居館を移して宿駅が成立し、新しい奥州街道を造成した。吉岡宿の北端から水田を横切って善川をわたり、昌源寺門前に出て、昌源寺坂(奥田坂とも)を上り、駒場村で県道に出て三本木に至る。古海道とは、この新奥州街道に対比しての呼称と見られる。舞野観音から須岐神社に至る古海道の沿道は東北自動車道が通っている。■関連する過去の記事 セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)いま、現代の交通路を含めて並べてみると、国道4号は吉岡市街北辺を迂回してから大衡丘陵地の西裾を廻って三本木に至る。奥州街道は吉岡の街中から水田を突っ切って奥田の山中(今ではセントラル自動車)に向かい、駒場地区(須岐神社)へ。古代の推定東山道は、奥州街道とは交わらず、舞野地区から北上し現在の東北自動車道と絡み合うように北に延び、大衡ICの東側を併走し再び自動車道西側に出て(というより自動車道が一度西に振れているとも言えるが)、駒場須岐神社で藩政時代の街道と交わるという関係。次に仙台以北の街道ルートについて。天保4年(1833)の御城下町割絵図には、北山輪王寺脇の道に古海道と書き込まれており、城下に新しい奥州街道が造成されたので古海道と呼ぶようになったのであろう。また、中山古海道(古街道)、中山通とも呼ばれ、輪王寺脇から荒巻小学校を右にみて神明社のところで梅田川を渡る。段丘崖の外縁にそって進むと水の森公園。公園入口の叢塚の前を過ぎると、地域の方々が命名した秀衡街道という標識に出会う。上谷刈村風土記には御城下ならびに黒川郡への道とあり、江戸時代の交通路でもあった。公園の東縁を通り抜けると高柳川が流れており、橋のたもとに8基の石碑が立っている。目の前には陸橋加茂大橋。古街道は橋の東に続き、住宅裏に道の痕跡が残っている。街道は北環状線道を越えて七北田川に沿って進み、道路神社(道六神社、沼遺跡付近)がある。ここで七北田川を渡ると、本七北田。嚢塵埃捨録にいう昔の巣鎌(現菅間)の宿であろう。本七北田の名称は、政宗により北根を経由して新たに造成された奥州街道の七北田宿に住民が移されたためである。■高倉淳『仙台領の街道』無明舎出版、2006年 などから■参考サイト 七北田のルーツ(泉区サイト内)なお、七北田・富谷ルート以前に、根白石が奥州街道の宿場だったとの見方がある。■関連する過去の記事 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)
2011.10.23
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大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)に初めて行ってみた。比丘尼坂から岩切に向かう旧街道は何度か通ったことはあるが、(東仙台側から向かって)坂を上る途中、コミュニティバスのりあい・つばめ「小鶴1丁目(ぽれぽれ鍼灸整骨院前)」の辻から折れて、初めて入る道を登っていく。前回記事(小鶴城跡(2023年09月01日))、御立場町(2023年09月02日))の続きです。この後が、比丘尼坂(2023年09月05日)。なお、 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日)も参照ください。■岩切市民センター岩切歴史散歩の会「いわきりの息吹き」4ページ大須賀森(おおすかもり) 岩切、鶴ヶ谷七丁目、燕沢三丁目の境でカトリック墓地のあるところに展望台がある。昔と云ってもそう遠くない鶴ヶ谷団地が造成される前までは、陣笠山とも呼ばれ、その名の通り陣笠を置いた様な格好の良い山であったと云う。一連の丘陵地の東端に当り見晴らし良く、伊達藩時代「御野初狩(おのそめがり)」と云って(おだずま注:同資料64ページでは「御野始狩」と表記。前回記事参照)、毎年旧正3日(ママ、おだずま注:旧正月3日か)に鷹狩に名を借りた、練武の行事が行われ、こゝ大須賀森は標幟場(たつば)として使用されていた、物見の丘である。 藩主の本陣は案内の丘の上(現在東仙台一丁目、その前は御立場町一帯)、岩切の諏訪の森(八坂公園のあった山)、高森(岩切城跡)、相の馬坂(入生沢)、陣ヶ森(松森との境の山)、鳥居峯(青麻一の鳥居跡富谷街道の分岐点)、は仮想敵陣として大きな幟(のぼり)を立てた。幟を立てる場所が標幟場(たつば)であり仮想敵陣は追標幟場(おたつば)と呼んだ。いつの間にか藩主の立つ場所だから「お立場」と変わってしまっている様だ。 岩切小学校の遠足でよくこの大須賀森へ行ったものだと聞いている。今は削られて低くなり展望台が設置されているが昔はその展望台の頂上より高い山だったと云う。展望台の上に立つと仙台平野が全部目に入り海まで見通せる眺めの良い場所である。(↓上記資料の散策図です。)展望台だ。ちょっと古い感じはするが、しっかり現役。展望台から四方を望んでみた。まず、カトリック墓地の向こうに、新幹線と田園地帯。南方向。小鶴や東仙台駅方面か。西方向は、鶴ヶ谷の大団地なのだが、草木が繁茂してよく見えず。展望台を降りて、墓地の周りを歩く。とにかく暑い日だった。■関連する過去の記事 --- 岩切・燕沢・東仙台を中心に(なお、ほかにもありますので、フリーページの記事リストご覧ください。) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.04
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今年(平成28年)、岩切駅に新たに自由通路も建設が始まり、多賀城市新田や南宮地区、また宮城野区分の東河原の人々の通勤通学に便利な南口が開設されるという。たしかにこれら地区の人々は、目の前に東北本線が通って、駅のホームに並び立つ人たちの光景も眼前にあるというのに、狭くて暗い高架下ガードをわざわざ迂回して駅北側の出入口まで歩かねばならない。5分程度はロスしているし、何より朝は混雑、夜も道路交通が危険である。岩切駅周辺の歴史については、三浦昇さんが著した『郷土再発見 我がふるさと岩切』で読んだ。私の手許にあるのではなく、かつて公共図書館で読んだ記憶で書くのだが、高校の先生をしておられた氏が30年をかけて地元の歴史や風物を網羅的にまとめた本当にすばらしい労作だ。文献の博捜によって歴史を、また、肉声や写真などをもとに明治から昭和に至る生活の視点、またかつての町並みの姿など、すみずみまで生き生きと岩切のまさに全てを知ることができる一冊だと思うが、、同時に、地域を知り伝えるという姿勢の原点を私は思い知らされて大変勉強になったと感じたのだ。さて、その三浦氏の著作では、東北本線が塩竈まで開通したとき、岩切駅は現在より東の南宮の方で、現在の塩竈街道踏切の付近にあった。踏切からすこし岩切側で教会があったところで、1年後に現在の位置である洞ノ口に移されたという。また、その際に加藤某さんが移転を迫られたこと、鉄道の盛り土のために周囲から土を掘ったのでため池が発生したこと、七北田川の鉄道橋のすぐ下流側に人が通れる橋があったこと、さらには、鉄道開通で今市側の旧街道がさびれて洞ノ口や若宮など塩竈街道沿いが活況を呈したことなどが記されていた(と思います。私の記憶が違っている点はご容赦下さい。)多賀城市議会の議事録をみると、平成25年頃の段階では、岩切駅南口の連絡自由通路が取り上げられ、仙台市で平成22年度に岩切駅を橋上駅にする調査費が計上され、翌23年度にJRが実施設計という矢先に震災が発生した、という内容がある。かなり以前から新田地区などで、県道を2度もわたる危険を避けて南口を作ってほしいとの要望があったが、事業主体が仙台市であること、負担金が生じることもありうること、などのやりとりがあるようだ。平成26年になると、仙台市とJRが事業をスタートさせたとの答弁があり、直近の平成27年の12月には、工事は平成28年度から2か年で行われ、駅の橋上化と南北の出入り口を結ぶ自由通路ができること、南口には送迎車両の転回スペースと駐輪場ができること、などを市長が答弁している。負担金は生じないようだ。130年前の岩切駅(現在地点)の開業で、おおきく岩切は変わった。塩竈街道沿い、また、安楽寺に至る七北田川沿いの道筋などは、その後に宅地化が進んだと思われ、県道の踏切がガードになるなどの改良はあっただろうが、駅の利用の不便は解消されずにきただろう。他方で、北口(と今後は呼ばれるだろうが、要するに駅前)の付近は、昔ながらの狭い街道だったのが、近年大きな道路が開かれた。2年後にどんな「南口」ができるのか、楽しみである。(10年くらい前です。岩切駅ホームで見かけたオバケの木?)岩切駅周辺に関して、もう一つ気になっていること。七北田川をわたる橋のことである。現在、七北田川(冠川)をわたる橋は、今市橋と岩切大橋、それに鉄道橋(東北本線と新幹線の高架渡河橋)だ。上掲の三浦氏の労作に、岩切近辺ではかつて仮設の土橋のようなものがあったし、また(上記のとおり)明治には鉄道橋のすぐ下流に橋があったというのだ。たしかに、東北本線の南東に取り残された形の岩切東河原地区と、川向かいである鴻巣地区をむすぶ橋があっても良いような気がする。人が通れる橋があれば、東河原の小学生が岩切小に通うのにわざわざガードを回らなくて済むし、鴻巣や余目地区の人たちも、上流の岩切大橋を迂回することなく、川向かいの岩切駅に向かって歩ける(南口できればなおさら)。なお、かつては鉄道橋の保線用通路を小学生が歩いたという話も聞く。これも、明治の岩切駅開設にともなう地域の課題ではないのだろうか。仙台市議会の議事録をざっと見てみた。1992年頃の赤間議員の質問に、従来何十年と地域住民は本来国鉄職員限定の鉄道橋を渡ってきたこと、JRはこれを禁止としていること、余目や鴻巣地区に住宅が増えており、岩切駅に直結する道路が必要なことなどが言われている。市側の回答は、大橋を渡ってもらいたい、新橋については両地区の推移をみて検討する、などの内容。■関連する過去の記事(岩切大橋から見た七北田川と鉄道橋方面を望む画像あります。その他記事は、この記事の過去記事リストをご参照下さい。) 今日の七北田川(2015年9月13日)
2016.02.14
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一昔前にTVにも登場した有名?なマンション。住所は新田4丁目、RC5階建、2008年建築とのこと。TVではギリシャ建築風と紹介されていたが、さほど感じなかった。新田小学校のすぐそば(次の画像の奥が小学校、右手建物が神殿!)、東仙台駅が最寄り駅になるだろう。そして、もうひとつ。小鶴新田駅すぐ前にあるのが、パルテノン新田東だ。新田東二丁目、RC6階建、2005年建築、なのでこちらが先にできたようだ。■過去の記事リスト シリーズ仙台百景
2024.04.30
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東京駅丸の内南口そば、KITTEの2階3階に、インターメディアテク(東京大学総合研究博物館)があり、1922年アインシュタインが来日した際に乗ったと伝えられるエレベーターが展示されている。以前訪れたときは、同じ場所で存在感を放って展示されていたはずが、今回いってみるとフロアの周囲は企画展示(海の人類史)に占拠され、その片隅に佇んでいるようだった。説明書きには仙台の記載はない。■関連する過去の記事(アインシュタインと仙台・松島) 寺田知事の松島公園化(2016年1月23日) 扶桑第一の好風 松島を考える(10年2月21日) 松島の世界遺産断念を考える(10年2月18日) アインシュタインと仙台(その7)(07年5月27日) アインシュタインと仙台(その6)(06年8月31日) アインシュタインと仙台(その5)(06年1月15日) アインシュタインと仙台(その4)(06年1月4日) アインシュタインと仙台(その3)(05年12月18日) アインシュタインと仙台(その2)(05年12月17日) アインシュタインと仙台(05年12月14日)
2024.08.20
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一番町のキクチ。たびたび買い物していたので、閉店すると新聞記事でみたのが寂しく感じた。感謝をこめて、撮りました。■シリーズ 仙台百景(こんな企画で100まで続くでしょうか) キクチが閉店(シリーズ仙台百景 44)(2026年02月12日) 何事もあわてずいそがずまず相談(シリーズ仙台百景 43)(2024年10月14日) パルテノン神殿?(シリーズ仙台百景 42)(2024年01月06日) 止まる(シリーズ仙台百景 41)(2024年01月06日) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日) 旧代ゼミ前(シリーズ仙台百景 39)(2015年10月24日) ペデストリアンデッキのマーク(シリーズ仙台百景 38)(2015年6月2日) send i(シリーズ仙台百景 37)(2015年4月18日) 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2026.02.12
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先日の記事(名称が七戸十和田駅に決定(7月29日))で、経緯に上十三広域市町村圏協議会が登場するが、この「上」「十」「三」とは何か。また、よく天気予報で聞く「三八上北」とは。そもそも、上北、下北とはどこで分かれているのか。一戸から九戸までの数字の地名、更には、南部地方とか、県外の者にはわかりにくい。上十三とは、津軽の十三湊と関係有るのかと思ったり、そもそも「三」とは三沢か三戸か三本木か、「八」は八戸だろうけど意外と八甲田なのか、などなど... いや、これは東北人としてマズいでしょう。というわけで、青森県東部の地理を概説いたします。もう迷いはなし。結論だけ知りたい方は、3からご覧下さい。----------1 前史 関ヶ原で東軍についた津軽氏と南部氏はともに藩政を興隆させた。南部信直は、九戸城を福岡城と改めて居城とし、世子利直に不来方(盛岡)城を築かせ、中世以来の三戸から盛岡に本拠を移す。寛文4年(1664年)に南部重直の後継をまぐり藩論が分かれたが幕府は10万石のうち8万石を重信に、2万石を直房に分封して八戸藩を創設させる。 こうして、近世の青森県東部地域は、 八戸藩(八戸周辺)と、三戸郡(三戸通、五戸通)及び北郡(七戸通、野辺地通、田名部=たなぶ=通)を領地とする盛岡藩で構成された。 なお、北郡田名部通は、さらに代官所の置かれた田名部と、西通、東通、北通に細分。 この時、青森県全域を見渡すと、これに津軽郡(平賀庄、鼻和庄、田舎庄)を領地とする弘前藩を合わせた三藩体制である。なお、文化6年(1809年)には支藩黒石藩が誕生。 盛岡藩は、藩士新渡戸親子が奥入瀬川から取水して用水を引き(現在の稲生川)、不毛の原野三本木原の新田開発を行い、12町(1.3km)四方の町割り(現在の十和田市)を行った。 明治2年の版籍奉還により、現在の青森県域は、弘前藩、黒石藩、八戸藩、七戸藩(南部信隣が1819年大名に列す)、斗南藩(朝敵とされた会津藩が北郡、三戸郡、二戸郡の各一部を所領とされ立藩)の5藩体制となる。明治4年(1781年)廃藩置県では、弘前、黒石、八戸、七戸、斗南の5県が成立し、同年9月にはこの5県に館県(旧松前藩)を合併し、広大な新弘前県が誕生。まもなく青森県と改称し、県庁も青森に移転。その後、館県は開拓使に、二戸郡は岩手県に編入し、現在の県域が決まる。(以上、青森県高等学校地方史研究会『青森県の歴史散歩』山川出版社、2007年を参考に)2 郡の区分、広域行政区分などの状況(1) 郡の区分は次のとおり。■三戸郡 明治22年の町村制で、2町31村。町は、八戸町と三戸町。明治期に五戸、大正に小中野、湊が、昭和に入り田子が、それぞれ町制。昭和4年、八戸町、小中町、湊町、鮫村が合併し八戸市。 昭和の大合併では、三戸町、五戸町、名川町などの5町5村に再編され、平成の合併を経て、5町1村。南部町、三戸町、五戸町、田子町、階上町、新郷村。■上北郡 藩政時代には、野辺地と七戸に南部藩の代官所。第七大区50村が、下北郡と分かれて上北郡となる。明治22年町村制で16村。明治期に、野辺地、七戸、三本木が町制。昭和に入り、百石が町制。昭和23年、大三沢町が発足。昭和30年に三本木町など3町村合併で三本木市が発足(後1村を編入)、同年に十和田村が十和田町に。その後、昭和30年代に、大三沢町が三沢市に昇格するほか、六戸、横浜、上北、東北の各町が誕生。昭和44年下田町。 平成の合併では、十和田湖町(昭和50年十和田町が改称)が十和田市と合併。また、東北町(上北町、東北町)、七戸町(天間林村、七戸町)、おいらせ町(下田町、百石町)が発足し、郡部は6町1村(野辺地町、七戸町、六戸町、横浜町、東北町、六ヶ所村、おいらせ町)。■下北郡 明治11年(1878年)の郡区町村編制法で北郡を二分して33村で発足。明治22年町村制で9村。明治期に唯一町制を敷く田名部が中心であった。平成の合併で3町がむつ市に編入し、郡部は現在は1町3村(大間町、東通村、風間浦村、佐井村)。(2) 青森県庁では総合的な出先機関として07年度から「地域県民局」を設置しているが、東青(青森市など)、中南(弘前市など)、三八、西北(五所川原市など)、上北、下北の6つに分かれている。 ■三八地域県民局(エリア図) 所管区域は八戸市、三戸郡の全6町村(三戸、五戸、田子、南部、階上、新郷)に加えて、保健福祉関係事務では上北郡おいらせ町も所管。 ■上北地域県民局(管内イメージ) 所在地は十和田市。所管区域は十和田市、三沢市、上北郡(全7町村)。このうち上北郡おいらせ町は、保健福祉事務で所管となり、2つの県民局の管轄対象となる。2つの県民局のサイトいずれのエリア図にも、おいらせ町が出ている。 正確に言うと、(青森県地域県民局及び行政機関設置条例)の第2条では、三八地域は八戸市と三戸郡、上北地域は、2市と上北郡、ときれいに郡市別で所管を分けているのだが、保健福祉事務では、おいらせ町が三八地域局に移されている。他にも環境や水産関係など例外あり。 ■下北地域県民局 むつ市、下北郡。 (3)市町村のまとまり 事務処理を共同で行う広域行政の設定状況をみてみる。 ■八戸地域広域市町村圏事務組合 八戸市、三戸郡(全)、上北郡おいらせ町 ■上十三地域広域市町村圏協議会 十和田市、三沢市、野辺地町、七戸町、六戸町、横浜町、東北町、六ケ所村。上北郡のうちおいらせ町が外れる。事務所は十和田市役所。 これはあくまで協議会であり、いわばエリアの大枠。消防、衛生などの共同事務処理はそれぞれ個別に複数自治体で共同処理されているようだ。 ■下北地域行政事務組合 なお、消防の広域化計画が進行しているが、県内6圏域の体制を計画しており、県東部では上記の3圏域を想定している。すなわち、八戸地域と下北は現行の広域事務組合。上十三地域は、十和田地域広域事務組合、三沢市、北部上北広域事務組合(平内町を除く)、中部上北広域事業組合の1市3組合の消防事務を統合する。 このように、市町村レベルで見た広域行政としては、おいらせ町が八戸地域に入るようだ。また、上北郡の北部では消防は野辺地町に隣接する平内町とも共同しているようだ。(4)警察(県条例による) 八戸警察署 八戸市、三戸郡階上町 三戸警察署 三戸町、田子町、南部町 五戸警察署 五戸町、新郷村 野辺地警察署 野辺地町、横浜町、東北町(一部)、六ケ所村 十和田警察署 十和田市、六戸町(一部) 七戸警察署 七戸町、東北町(一部) 三沢警察署 三沢市、おいらせ町、六戸町(一部)、東北町(一部) 大間警察署 大間町、佐井村、風間浦村 むつ警察署 むつ市、東通村 以上の通りでやや複雑だが、上記のように郡単位に3グループに分類すれば、郡界をまたぐ所管区域設定はない。つまり、上北郡おいらせ町が八戸グループに入るようなことはない。(5)保健所 保健所の所管区域は(上記条例)、下記の通り、郡境界パターンではなくて、おいらせ町が八戸グループに属するパターン。 ■八戸保健所 八戸市、三戸郡、おいらせ町 ■上十三保健所(十和田市) 十和田市、三沢市、上北郡(おいらせ町除く) ■むつ保健所 むつ市、下北郡(6)気象区分 おなじみの呼び方。青森地方気象台の天気予報発表区域によると、まず全県を津軽、三八上北、下北に三分し、さらに津軽は4つに、三八上北は、三八と上北に細分される。 ■三八 八戸市+三戸郡全6町村に、三沢市、六戸町、おいらせ町が上北郡グループから加わる。 ■上北 十和田市と5町村。 ■下北 むつ市と下北郡全4町村。「三八」には三沢まで含まれている。気象の共通性からこうなるのだろうが、上北は十和田湖や八甲田から太平洋岸の六ヶ所村までひょろ長い地域となっている。3 広域エリアを指し示す名称(1)三八上北 さんぱちかみきた。東北の人なら、NHKの広域の天気予報で耳に入っている。 一般に、三八とは上記2(2)の三八地域県民局のように、三戸郡と八戸市を指している。 もっとも気象上の地域区分では、三八に三沢市なども含まれる(上記2(6))が、いずれにしても、「三」は三沢市ではない。(2)南部地方 三八上北地方、つまり県民局で言うと三八地域と上北地域の管轄となるエリアをまとめて呼ぶ言い方。南部藩が治めていたことに由来するが、下北は地理的にも離れ風土も異なるので、含めないようだ。(3)上十三 かみとうさん or かみとさん と読むようだ。上北(郡)、十和田(市)、三沢(市)の郡市名をつないだもの。県外人には、有名な「三八(上北)地方」の「三」を示す三戸郡と混同してしまいがちだ。 郡の成り立ちや地勢事情から、七戸町が中心であっただろうが、圏域の南部に形成された十和田市、三沢市に人口や産業が集積し、そもそも郡域が非常に広いことから、産業経済面でも、人心の面でも一体性が薄いものと推察する。 そこで、圏域全体を指し示す言葉として、「上十三」が考出されたのだろう。もともと郡名の「上北」地域で良さそうなものだが、両市に配慮する辺りに、広範で考え方も異なるだろうこの圏域の一体性を何とか保持していこうとする気概だろうか。(上十三医師会のサイトの沿革が参考になりました。)。 広域行政組織、保健所のほか、医師会や法人会などの地域の連合体などに使われるようだ。4 余話 ところで、津軽地方でも、西北五、中弘南黒、東青などの呼び方が定着しているようだ。津軽地方は、もともと東西南北を冠した四つの郡だったが、新興の都市名の頭文字を付けることで、中心都市をハッキリさせる命名法が定着しているようだ。 西北五(西津軽郡、北津軽郡、五所川原市) 中弘南黒(中津軽郡、弘前市、南津軽郡、黒石市) 東青(東津軽郡、青森市)津軽だけなら弘前を中心に方位だけで良いとしても、県東部には上北や下北なる地名もあるので、絶対地点を表示することにしているだろうか。「上十三」や、「三八」も同様で、まず郡名、そして郡から独立した都市名、を連記する表現が確立しているようだ。それに、上記3で、「上十三」について書いたように、地域の一体性を保とうとする高度の知恵なのかも知れない。 そう言えば、引っ越しや観光バス(宮城県人がよくミヤコーと間違える)の「三八五」がある。小さいとき、国道4号を走るトラックを見て、サンパチゴー貨物だよ、と言って父親にミヤゴと読むのだと教えられた。これは、三戸、八戸、五戸から取った名前だという。 上北、下北に、東西南北中の各津軽郡。南部町や東北町などの存在も、考えてみれば不思議である。それに、n戸の地名に、五所川原や十三湖など、数字も豊富。方角、上下、数字、そして色(黒と青)、など抽象的幾何学的な楽しいコンビネーション地名なら、青森県が絶対に世界一だろう。
2009.08.01
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お陰で編集長の休日の仕事も増えました。田植えを終えた田園地帯を、さわやかにわたる朝の風。気温が高くなるのでしょうか、もやが立ちこめる中を、今日もわが宮城を盛り上げようと県北部を疾走してまいりました。前回に引き続き、自分の見聞も広めようと鹿島台(大崎市)で1カ所立ち寄りました。道路地図に記してある「竹谷の町並み」。書かれている場所がちょっと違うのですが、鳴瀬川の西岸一帯に、堀を中央に配する直線道路を中心に南北に延びた集落。鹿島台から美里町(南郷)、石巻市方面を結ぶ木間塚橋に近い。橋に至る県道が堤防の高さに達するよう高架されているので、その直交オーバーパスする県道を見上げるように、佇んでいるのが竹谷の集落なのです。仙台藩の大身侍、茂庭氏の家中が集住した町並み。現在、住宅の多くはすでに改築・新築されているが、中には茅葺民家の姿も見られ、道路の中央には用水路(堀割)が敷かれ、旧集落・旧町並みが依然としてそのかたちを残している、ということです。前回も思ったが、旧佐沼街道とはどういうルートだったのだろう。現在の鹿島台駅の東口から国道346を斜めに横切るように伸びる道路がそれだっただろうか。東北本線と、それをオーバーパスしてカギ型に進む国道346号によって、昔の街道筋が分断されているのだと思われます。とすると、この竹谷の武家屋敷はそれからは外れていると思うのですが。わざわざ川土手沿いに、堀を引き込んで町を作ったということでしょうか。写真は集落の北端と南端から、それぞれ撮影しました。中央の掘り割りをあえて暗渠にしないで残しています。風情があります。■関連する過去の日記 エリアスタディ鹿島台駅東口(08年5月5日)
2008.05.18
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楽しい趣味だ。児玉健さんの文章に出会った(「さあふ」(仙台都市総合研究機構NewsLetter)2006年夏、No.78)。仙台鉄道の軌道跡をたどるレポートだ。仙台浅草の小路は、かつての仙台鉄道の起点「通町駅」と「北仙台駅」(旧宮城交通ターミナル)の間の軌道跡なのだそうだ。そして、現在の仙山線東照宮駅下をくぐって北上する。上杉山中学校あたりの不自然なカーブを描く路地も軌道跡。道路脇の古い家は道路に背を向けて建っているのが、鉄道であったことの名残だろう、と記されている。この観察眼が、素晴らしいと思う。最近でも、新しい都市計画道路の両脇の家やアパートが背中を見せていることがあるのと、似ていると思った。紹介されているHP(鉄の廃路)を訪れると、仙台鉄道跡をたどった気分にしてくれる。楽しい。仙台鉄道だけでなく、県内外のいろんな廃線を紹介している。藪をかき分けて、川を渡り、廃線跡を紹介してくれる、こんな熱意を素直に尊敬する。
2006.11.22
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私だけかも知れないが、頭に思い浮かべる青森の地図では、東西に横幅の広い県土の中間当たりに弘前市があるような感覚でいた。しかし地図を見ると、弘前は相当西に寄っている。そこで、例によって東北道路地図で経度をチェックしてみました。釜石や秋田市は緯度のチェックでしたが、今度は経線です。○県土の西端 深浦町不老ふ死温泉付近 東経139度52分程度○県土の東端 階上町岩手県境 東経141度41分程度○弘前市 市庁舎所在地点 東経140度28分程度西端---33%---弘前市---67%---東端ということで、何と東から3分の1程度しかない。相当東に寄っている。宮城県から思い浮かべるに、東北縦貫道で青森に向かっている途中だから、内陸の中央部にあると思うのだろうか。弘前の西に広大に横たわる岩木山や白神山地が、頭の中では青森県の西半分を占めているような感覚かも知れない。実際に地図で見ると、その縦貫道も大鰐弘前IC付近では西に膨らんで曲がっている。ところで、青森県は横に広い県土、と書いたが、実際に南北のスパンも測ってみる。○県土の北端 大間町大間崎(弁天島) 北緯41度33分程度○県土の南端 田子町(岩手県八幡平市境) 北緯40度13分程度南北スパンは80分。従って南北スパンは、約148km。東西は経度差ですぐに距離が求められないので地図に定規を当てて測定して、約157km。わずかに東西の方が長い。下北半島の斧が大きくて柄が長いから、意外に南北が長いかも、と思ったが、やっぱり横広だった。でも僅差。■関連する過去の記事 秋田県の方位感覚を考える(07年12月1日) 岩手県の方位感覚を考える(07年10月6日) 同緯度くらべ(06年06月29日)
2007.12.09
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小牛田(美里町)の地名は、鉄道の要衝である小牛田駅の名で宮城県民にはなじみだが、県外の人には「こごた」とは読みにくいのかも知れない。浅井建爾『難読・誤読駅名の事典』(東京堂出版、2013年)に書いてあったが、駅名としては1890年(明治23)に日本鉄道の駅として開設、1906年に国有化。駅名は、○ 小田郷と牛甘(うしかい)郷が統合された際の合成地名○ 小田郷から分村した小小田が小牛田に転訛などの説があるという。いずれにしても、明治や昭和の合併に際する合成地名などではなく、古くから成立した地名のようだ。そもそも、「牛」をゴと読むのは、「牛頭」などの例はあるが、あまり自然に出るものではないように思う。午前午後の「午」ならわかるが、ウシ(牛)なのだ。牛飼の地名や、今でも町内に大きな家畜市場があることなどからも、牛とのつながりは深い地域だったのだろう。上記文献にあるように、牛甘の地名から来たのか、あるいは発音が先にあって(コゴダ)、ゴの音に対して地域で大事にしている「牛」の字をあてたのかも知れない。■関連する過去の記事 ゆとり~と小牛田(2015年4月15日) 東北の難読地名(2012年6月16日) 小牛田駅前20時(2008年5月10日)
2016.01.27
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宮城県の村井知事は特別名勝松島について、めざしていた世界文化遺産登録を断念することを明らかにした、と報じられている。08年に暫定リスト入りが見送られ、再検討を続けていたが、登録は難しいと判断した。大橋松島町長は、冷静に受け止めているものの(毎日)、登録されれば外国人を招くのに非常に大きな要素となっただけに残念がっていたという(読売)。一昨年のリスト入り見送りで断念の方向は見えていただけに、何故今さら、との感もあると不満を口にした(産経)、とも報じられている。現実問題として、世界遺産登録は実現が極めて難しくなっており、断念は仕方がない。かりに登録となれば、さまざまな効果が期待されることからすれば、残念との受け止め方も、これまた頷ける。しかし、考え方を改めて行かねばならない。あきらめが肝心、ということも勿論あるのだが、そもそも世界遺産に登録されなければ一流の観光地ではない、などということは全くない。しょせん人様が(たぶん西洋中心の価値観で)決める話であって、選ばれなくても別に気にすることはない。堂々と松島の美しさをPRしていけば良いだけのことだ。登録されたら世界から人が集まるのに、という仮定法の恨み節は、やめよう。登録されてもされなくても、観光地としての主体的な努力というのは自ずとあるはずなのだ。努力とは、何らかの権威を勝ち取ることが中心にあるのではなかろう。ギラギラした派手さは要らないから、日々の営みそのものを、しっかり、良心的に、長く続けていることに尽きるのだろう。いつも思うのだが、松島の良さは、当然ながらその景観であって、施設型のエンタテインメントではない。かつて司馬遼太郎(記憶違いかも)が、竜の形をした極彩色の派手な遊覧船をさして、興ざめで良くないというようなことを書いていた。政宗が寺を再興し、芭蕉が絶句し、アインシュタインが名月を観賞した、天下一の名勝だ。自然の美しさを敬い、畏れ、自然の中に足を運んで体感するのが本道であって、それが文字通りの観光だろう。何も、竜の形の船や、豪華絢爛なホテルが必要なわけではない。もちろん、人を楽しませることは大事だし、ぜひ努力をしていただきたいが、本道を違えてはいけない。松島の主人公は、松島だ。率直に言って、縄文の原風景という「普遍性」の打ち出し方は、私にとっては不自然だった。たしかに、古来、国府多賀城や塩釜神社などと結びついて、中世には瑞巌寺など、松島の持つ文化的価値は非常に高いものがあると思う。だが、文化の衣を無理に強調する必要もない。世界遺産なる制度が何時から始まったか知らないが、大自然の美しさは不動で(何百年もすれば松島の形は変わると言われているが)、これに比べれば、登録するとかしないとか歴史の中で小さなノイズだ。誤解を恐れずにあえて言えば、宮城県民の悪いところとして、他力本願で、自分で切り開く意欲が高くない。世界遺産はダメだ、水族館もなくなる、やれ不況だ、やれ新型インフルだ、客が減ったぞ。行政はどうしてくれる、政治家は何をしてくれる。日本三景の名が泣いているぞ、などなど。やれやれ、だ。では、地元は一体何をしてきたのだろう。これもあえて悪く言わせてもらうのだが、料金ばかり高く、商店は客引きでイメージを悪くして、結局もう行きたくない観光地だなどと言われてしまう。観光の一般に言えることだが、突飛な施設やイベントなどが観光地の中心的な価値を持続的に担うはずはない(そういう「観光地」も有り得るけれど)。永続すべきは、宿泊施設、飲食施設のもてなしの心、観光ガイドなどきめの細かくて多様な観光ニーズに応えてくれる体制、すなわち人の営みだ。これも突飛なことが必要なわけではないし、今の2倍の汗を流せということでもない。毎日の地道な営みこそが重要だ。マックス・ウエーバーではないが、日々の商売を誠実に続けることが、観光地全体の価値を高めていくと思う。松島には、何より永続する自然美がある。これほど強い観光地はない。あとは、地元の人の営みだ。
2010.02.18
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宮崎道生『青森県の歴史』山川出版社、1987年(2版12刷)による。多賀城碑には、「去京一千五百里」「去蝦夷国界一百廿里」とあって、都から蝦夷の国界までの距離は、1620里(1080km)とみなされていたと知られる。まして、エミシの中でも最も遠くに住む「都加留」エミシについては、都の人々が未開野蛮の種族と考えたのも無理はない。蝦夷は、平安後期の歌では「えそ」と表現しているが、古訓では「えみし」「えびす」だった。これが平安後期以後「えぞ」の訓となるが、エミシではなくアイヌを意味するものとなっている。(ただし、古くは北奥の地にアイヌ人が住んでいたことも事実であり、青森県では江戸時代になっても津軽半島の一部に「狄」とよばれるアイヌ人がいたのであり、津軽藩の政治家乳井貢のいわゆる宝暦改革で解放政策がとられたりしている。)ところでツガルの語であるが、日本書紀の斉明天皇紀にみえるのが初めであるが、はやく新井白石が解釈を試み(「蝦夷志」)、明治に入って「新撰陸奥国誌」の解説、吉田東伍博士の詳しい説明(「大日本地名辞書」)などがある。後二書により要点を述べると、まず文字は、津刈、都加留、津軽、東日流など、さまざまである。陸奥国誌では、ツガルとは「津借」の意味であり(むかし蝦夷が松前藩から渡ってきてこの国の津を借りて住んだ)、この地は日本の尽頭にあたるから、西の対馬にたいして東方蕃国の津所とし、「都加留」の意味を改めて「津加留」のそれとしたのであろう、津刈・津軽の津は正字で刈・軽は仮字であり、日東流(東日流とあるのは誤用か、とする)という表現は意味に基づいて書いたもので、日東は日本、流は「荒服最遠の処」の意味である、津軽をあるいは「津加呂」とも訓(よ)んだらしく、清輔朝臣集の歌などにそれがみえる、なお都加留はツカルと清音でよむべきで、濁音の場合は都我留となるのである、などと述べている。うがったおもしろい説だとは思うが、これに対して吉田博士は、白石説以下の先行諸説をすべて疑わしいものとし、「ツカルは夷(アイヌ)語か、今の夷語トカリは海豹なり」とされている。はやくは有名な「伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)書」に、エミシは五穀がないため肉を食べて生活し、屋舎がなく深山の中、木の根元に住んでいる、などとあり、平安時代に入り再三大征討が行われた後も、都人からは野蛮視されたのであるが、問題はそういうエミシがなぜ長い間中央政府の軍隊を悩まし、たやすくその支配に服しようとはしなかったのかの点にあろう。ことに津軽エミシは、その党が多種で勇壮でもあったことから、その動向について政府がきわめて神経質だったことは平安初期の正史・公記録の伝えるとおりであるが、その背景や基盤となるものについては一般に関心が払われていないようである。人間と風土の関係はひじょうに密接であるから、北奥寒冷のこの地域に住む人々が厳しい自然の圧力に良く耐えかつ生きぬいたことは、そのたくましい生活力、ひいては精神力を育て上げた主な原因と思われる。いったい岩木山麓、大森勝山の縄文時代竪穴遺跡の示すように、津軽の地域に早くから人間が住んでいたのは明らかであり、長い間に生産手段、社会構成さらには精神生活についても工夫や進歩があったはずだ。それにしても文化は水と同じく高きより低きに流れる。中央の文化が意識的無意識的にこの地域に入ってきたことは言うまでもないところで、その意識的努力の表れが奈良から平安時代にかけての朝廷のエミシ同化政策だったといえよう。「津軽の狄俘は野心測り難し」といわれたが、一面からすればこれは津軽エミシの柔軟な政治姿勢を示すものでもある。現に反抗一点張りではなく、適当に政府と妥協している場合があるのである。そこに政府によって田村麻呂伝説の示唆するような和戦両様の構えがとられる根拠もあったと思われる。あの「日本中央」の四字をきざんたという、そして多くの文人の関心をひきつけた「壺の碑」の伝承には、征夷大将軍坂上田村麻呂の、すなわち中央政府の壮大なプランがよみとれると同時に、他面またエミシ、ことに津軽エミシの英雄的抗争の歴史が記念碑的に投影しているともみられよう(ただし、田村麻呂と津軽エミシが交戦したかは不明)。吉田東伍博士は、エミシの人種論の後に、「本邦歴史の二千年は、専ら此の蝦夷の北走を観るものとす」といわれ、その存在意義の重さを強調されたが、少なくとも二千年の三分の一ないし半分にあたる期間、すなわち我が国の原始・古代に該当する時期は、一面エミシとの対決の時代でもあったわけで、エミシわけても北門の雄津軽エミシは、まだまだ多くの謎を秘めたままで我々の眼前に横たわっていることを、改めて思い知らされるのである。〔続く〕■関連する過去の記事 十三湊遺跡(2013年7月16日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 白八幡宮(鰺ヶ沢町)(2013年5月27日)(阿倍比羅夫の遠征) 田村三代記(田村語り)(2011年8月28日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 津軽の由来(再)(07年12月12日) 「むつ」の語源(07年8月27日) 津軽の名の意味(07年4月6日)(高橋富雄氏の見解) 青森県民の気質(06年11月7日)(宮崎道生氏の見解) 津軽とジャパン(06年8月28日)
2013.07.20
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仙台とコレラの歴史について。阿曽沼先生の著作を読んで記す。■参考阿曽沼要『墓誌・碑文・古地図にかいまみる仙台の医学史』丸善出版サービスセンター、2010年■関連する過去の記事(疫病、民俗、感染症など) 芋峠(2021年8月9日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)1 明治15年の仙台コレラ流行と水の森の碑文緑豊かな水の森公園。水の森市民センターを起点とする散策路を150歩ほど北進すると、左手に、「叢塚」が建つ。さらに60歩ほど奥の散策路分岐部には、上部が欠けた自然石の「焼場供養塔」がある。276人の供養碑である。叢塚には漢文で碑文が刻まれている。以下が解読文である。明治15年7月、虎列刺(コレラ)疫が盛行し、宮城県仙台区の病死者日に十余名に上る。官は荒巻邨(村)に場を設けて死屍を火(焼)き、壇(檀家)の埋葬を許さず。蓋し伝染を防ぐなり。虎列刺疫は、印度に原出し、遂に我が邦に侵入して愈東に熾んなり。宮城県の此の疫あるや、今茲に始めと為す。疫の本は有機毒性為りて尤も酷烈にして熱度沸湯に至らざれば則ち撲滅せずと聞く。凡そ、飲水の不浄庭宇の不潔、及び魚鳥果菜、調理を失うの類は必ず其の種を遺す。故に飲食の選択、庭宇の麗掃、最も不可なるは以て心を用いざるべからざるに夫婦の愚かなるは衛生の何物為るを知らず、恬然として省みず。遂に毒を使わし焔炎々として嚮邇すべからず(向かい近づくのを止められない)。是自ら招くところの者有りと雖も豈に亦憫ならずや。今や秋気清爽、呻吟の声熄(や)むも当時を回想すれば実に人をして身戦(おのの)き心悸(おそ)れしむ。其の惨を極むと謂うべし。荒巻邨は仙台区の北に在り。場を設けて自り以来、屍276名を火(焼)く。火く毎に親戚遺骨を収めて之を葬る。然れども余骨灰中に現存する者堆積す。宮城県士族邨上左膳君之を哀れみ、叢冢を築き、遺骨を収めて合葬し、又碑を建てて永く香火の地と為す。義を好む者争って貲を捐して之を助け、余に嘱して之を記せしむ。嗚呼、君の此の挙、祭吊(弔いの祭)に礼情有りて義の尽くるに至ると謂うべきなり。死者霊有らば宜しく泉下に瞑すべし。是に於いて書す。明治15年11月 西岡逾明撰并書干時明治15年12月建之 発起人世話人8人邨上左膳なる人物の詳細は不明である。西岡逾明(ゆめい)は肥前佐賀の生まれで字は子學、宜軒と号した司法官。明治14年宮城県控訴院長に任ぜられ、のち大審院刑事局長、長崎、函館控訴院長を歴任した。西岡は文学を愛し、仙台在任中は維新後衰退した仙台文学を発揚した文人でもあった。2 過去のコレラの歴史コレラは経口感染する法定伝染病。潜伏期間は早ければ数時間から5日以内、猛烈な水様便と嘔吐で急速に脱水症状が進む。腹痛や発熱はなく、血行障害、血圧低下、筋痙攣を起こして死に至る。現在では補液などの適切な対処を行えば死亡率は1%から2%に過ぎないという。『宮城県史』の災害編には、疫病を含む多くの災害が記録される。・寛永6年(1629) 暑熱・疫病・享保19年(1734) 洪水・疫病・安永3年(1774) 気仙郡疫病・死者2,107人・寛政2年(1790) 疫病死者多し・寛政5年(1793) のどはれ流行・死者多し・享和2年(1802) 疫病流行・享和3年(1803) 麻疹流行・死者多し・文政7年(1824) 麻疹流行・死者多し・天保元年(1830) 痘瘡流行・子ども多く死す・天保2年(1831) 感冒流行・天保3年(1832) 朝鮮風邪流行・天保6年(1835) 夏中疫病流行・死者多し・天保8年(1837) 流行病者多数・安政元年(1854) 痘瘡流行・安政5年(1858) 天然痘・コレラ病流行・安政6年(1859) コレラ病激烈・文久2年(1862) 麻疹流行・死者多し・明治15年(1882) コレラ大流行・屍体は焼却病名が記載された最初は、寛政5年の「のどはれ」である。その後、麻疹、痘瘡(天然痘)、朝鮮風邪などがあるが、コレラが最初に記載されたのは安政5年である。日本のコレラ流行の最初は、コッホのコレラ菌発見の60年ほど前の文政5年(1822)とも言われる。この年は、朝鮮、対馬、九州、山口、京都や大阪の経路で流行し、朝鮮では4万人、対馬は全滅、萩583人、岸和田134人、大阪では毎日ニ三百人が死亡したという。安政5年(1858)は、九州、中国、東海道、江戸、そして仙台藩へ伝播したと考えられる。江戸の死者は30万人を越したといわれる。西岡は碑文の中で酷烈な伝染力を記し、衛生知識のないことが死を招いたと断じている。3 火葬について火葬はユダヤ教、イスラム教、ギリシャ正教やロシア正教では禁じられている。米国ではプロテスタント保守派で禁忌が強いこともあって火葬率は20%ほどだという。日本では、仏教伝来とともに伝わったという説が有力。これは仏陀が火葬されたことに因むと言われており、日本の火葬率は高いそうだ。明治政府が衛生面から推奨したことにもよるという。しかし昔は土葬が主で、火葬が主流になるのは昭和もずっと後である。何かで火葬の必要があるのに常設の火葬場がないときは、場所を決めて野焼きを行った。火葬が法律で決められた当時は、あの世に行けなくなると、施行前に自殺が相次いだそうだ。焼かれることが大変な苦痛だったからこそ、この碑を建てた人の心が顕彰され、人民の心は別に伝染防止のため集めて焼いた「官」の英断も賞賛されよう。
2022.09.19
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当ジャーナルではかなり前に、青森県の地域呼称「上十三」について(大げさに)論じたことがありました。青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日)昨日のこと、東北学院時報(第793号)を眺めていたら、同窓会のページに、上十三支部があります。昨年11月29日に十和田シティホテルで第16回上十三支部同窓会を開催、14名の方々が集まったとのことで、写真も添えられていました。報告記事を読むと、やはり懇親会は讃美歌から始まったそうです。また、参加者の卒業年の差が56年とのことで、さすが東北学院、幅広い年代で人材を輩出していると感じました。このページには、福島県北支部、近畿支部新年会の報告の記事も。また、支部総会の開催案内があります。全国に広がっていて、すばらしいですね。私はTG会ではありませんが、感動したので書き出してみます。武蔵野支部(会場は所沢パークホテル)、白石支部(和み処ももの木)、宮城の支部(メゾンドリア・フィーユ)、利府支部(森の郷集会所)、秋田県南支部、岩沼支部、弘前支部、多賀城支部(和食の小島)、札幌支部、東京支部(コートヤード・マリオット銀座東武)、北海道TGしびる会総会(ポールスター札幌)、神奈川支部(みなとみらい県民共済プラザビル・メルヴェーユ)、近畿支部(KKRホテル大阪)、仙台同窓会主催TG交流ビアパーティ(仙台国際ホテル)、など。さて、話を戻します。上十三は、やはり青森では定着した呼び方だということが、わかりました。■関連する過去の記事 青森はデジタル県(2024年04月10日)=黒田四郎さんの文章 十三の読み方 再論(2015年5月26日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 「三八地方」を考える(再論)(2011年12月4日) 五能線の名の由来を考える(10年5月24日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 南部の戸(へ)の地名(07年12月17日)
2026.07.07
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川崎町内にはいくつもの山城の跡が残され、どれもが桁外れのスケールだ。兵どもが駆け巡った往時に思いを馳せて、歴史探訪に出かけよう。(別冊りらく川崎町探訪編2025(2025年5月)から、当ジャーナルにて編集)1.上楯(かみたて)城跡東西400m、南北600mの大型の連郭式山城跡。連郭式とは、本丸、二の丸、三の丸を直列した形式。最高所に本丸、西に二の丸、南に三の丸のほか、曲輪、馬場跡からなる。比高70m、北側は断崖で、東南面は数段のそれぞれ平場。1545年(天文14)頃に築城。城主支倉常正は1200石の中級武将。1571年(元亀2)米沢の伊達藩士山口常成の子に生まれた常長は、7歳で伯父支倉時政の養子に。養祖父常正の築いた上楯城で青年期まで過ごした。上楯城跡までは、圓福寺の駐車場から登るほか、山頂付近に駐車場。本丸は広く、西に土塁が築かれ、空堀がぐるりと囲む。中央は鬱蒼と杉木立。明治以降は本丸は畑として利用されたが、持ち主が杉を植林して現在の杉の回廊のような光景に。本丸の北東側は二重の空堀で、ここに通じる虎口は二段のコの字の土塁が築かれている。同様に横堀が巡る二の丸も一部に土塁。三の丸はやや荒れているが、東側に横堀がみられ、南は堀切で遮断されている。攻め入る敵をイメージすると武者震いがする臨場感だ。2.圓福寺圓長山圓福寺(えんぷくじ)。開創は平安後期で、明治初期に真言宗智山派の直末寺として現在地に中興開山した。塑像の延命地蔵菩薩が本尊。身の丈3尺、平安時代の作と伝える。脇仏にマリア観音像が置かれ、仏像に模していることから隠れキリシタン由来とされる。常長は藩主政宗の命でイスパニアにわたり、帰国後は支倉の地に安住し52年の生涯を閉じたといわれる。圓福寺の本堂裏手の斜面には常長の墓とされる宝篋印塔が残る。ほかにも、錨印の付いた墓跡も3基あり、同行した人物の墓と考えられている。五輪塔は苔むして文字が風化で磨滅し解読ができない。なお、常長の没年は、圓福寺の碑には51歳とあるが、大郷町メモリアルパークの碑は84歳、さらには常長の墓とされる場所は岩手県を含めあちこちに点在する。3.前川城跡(川崎城、川崎要害)川崎小学校の小さな丘(館山)が、かつて砂金氏の居城前川城の跡。砂金氏11代砂金右兵衛常房(実常)が1608年(慶長13)から2年ほど費やして築城。1702年(元禄15)まで居城。砂金氏途絶後は、最上境、笹谷街道沿いの要衝として、一門川崎伊達氏を配した。仙台藩の要害は支城の役割を果たし、21城のひとつがここである。要害は、城だけでなく必ず町場や宿駅などの城下町を持った。現在城山公園となっている場所が本丸、川崎小学校が二の丸だった。周辺の町割りもほぼ当時のままである。いまの川崎町の名は、川崎城(要害)に由来する。なお、庁内には、前川城とは別に前川本城(もとしろ)がある(後出)が、川崎要害の前身の意味で、中ノ内城がそう呼ばれるようになったもの。4.小野城跡(牛ケ館)小野城跡のてっぺんからは、釜房湖、国営みちのく杜の湖畔公園、蔵王連峰までを一望できる。この巨大な山城は、天正年間、笹平山に小野雅楽之允(うたのじょう)が築城。1576年(天正4)、伊達輝宗と相馬盛胤の間の丸森での戦いに、近郷の砂金、支倉両氏とともに参戦。1588年(同16)の政宗の大崎攻めでは支倉氏とともに出陣。東西250m、南北180m、東郭と西郭に二分され、それぞれが曲輪群と土塁、空堀などをもち、東の南側には大手、北中央付近に搦め手の虎口があった。南山腹に二の丸。主郭の西から北にかけて土塁がめぐり、北下には空堀から続く通路が搦め手虎口まで続く。小野城跡にある熊野神社隣には、疱瘡神である若木(おさなぎ)神社がひっそりと佇む。5.前川本城(もとしろ)(中ノ内城跡)土塁が三重に連なり、美しくウェーブする。内枡形をふたつ重ね付けた技巧的な虎口とあわせて、土の芸術と呼ばれる。笹谷街道と羽前街道に接する交通の要衝。山形最上氏、米沢上杉氏と対し、伊達氏にとって重要な防衛拠点だった。前九年の役(1056-)の際に、安部貞任が4千の精鋭で川崎柵によって戦い、その柵が地名から中ノ内城と呼ばれた。天正年間1573年頃、砂金氏8代常久が築城。1609年頃、11代常房が前川城に移転するまで居城した。居城期間は36年と短く、廃城後は本城と呼ばれ、周辺の地名にもなった。200mの中世連郭式山城で、本丸、二の丸と大規模な土塁、空堀があり、馬出曲輪も備える。1500石ほどの砂金氏の動員人数より曲輪が広すぎるため、関ヶ原のころに上杉対策で最上への増援を考え外曲輪を増設したのではないかと考えられている。6.知ってタメになる用語一覧(当ジャーナル編集長メモ:これは気が利いたコーナーです。りらく編集者に敬意を)・土塁 土を高く土手状に盛った防壁・曲輪(くるわ)/郭(かく、くるわ) 生活上軍事上の理由で平坦化された土地・虎口(こぐち) 曲輪の出入り口・枡形(ますがた) 土塁や石塁で方形に囲んだ虎口。防御を重視した出入り口で、塁線の内側に設置する内枡形、外側に設置する外枡形がある・空堀 水堀(濠)に対して水のない堀。現存する堀は、廃城以降堀底に土が堆積して浅く見える・要害 地形が険しく、守りやすく攻めにくい所・搦め手 城の裏・横堀 曲輪を取り巻くように、等高線に沿って作られた堀・堀切 敵の侵入を防ぐために尾根を垂直に切り取って作られる空間。曲輪同士の区切りや城の境を示す目的で造られることもあった
2026.07.09
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わたし(おだずま注:後掲出典の著者三原さん)が中学生の頃の台ノ原は軍隊の射撃場があっただけで、家はほとんど無く、春にはスズラン秋には鈴虫が多かった。ことに秋の台ノ原は良かった。こどもたちは石油ランプのホヤを持って鈴虫を捕りに行き、一本松の根方に腰を下ろして展望を楽しんだ。その頃までは樗牛瞑想の松などといわず、台ノ原の一本松で親しまれた。北仙台の近く北山丘陵東端の鹿島ヶ崎から東照宮の在る玉田ヶ崎をかけ榴ヶ岡までを一線とした原野は古歌に知られた玉田横野で、台ノ原と向小田原をむすぶ丘陵は仙台平野一帯の低地にのぞみ、この連丘から北が延暦4年に建置された階上(しなのえ)郡であった。シナは高原を意味する。このシナの南の縁りは天平の昔、陸奥国分寺創建の時、瓦焼きの工人によって良質の陶土が発見され、地形も窯を構築するに打ってつけの好条件の上、国分寺にも近いという便利があった。後に二代藩主忠宗の時、藩窯杉山焼が台ノ原に起こったのも偶然ではなかった。平泉時代、この辺一帯は佐藤基治の所領であったといい伝え、基治は基衡の時代に一本松の近くに天満宮を建てたという。慶長6年に政宗が仙台城を築城したとき、この天満宮の社地から建築資材として百本のケヤキを伐採したという。公は仙台城完成後、その奉斎のため基治創建以来の天満宮を今の東照宮の地、玉田ヶ崎に移して新たに社殿を造営した。玉田ヶ崎は、仙台七崎の一つで玉手崎とも称したので、これを玉手崎天神と呼んだ。慶安2年、忠宗が玉田ヶ崎に東照宮を造営するに先立って、これを東林に遷宮し、さらに伊達騒動最中の寛文7年、当時品川邸に隠居中の三代綱宗が。かつてこの天神に所願の事があって、亀千代に命じ三度び遷座したのが、榴ヶ岡天満宮である。一本松の近くに今も元天神という地名が残っているのは基治の建てた当初の天満宮の地であろう。忠宗も綱村も造林に力を入れた。平泉毛越寺の杉並木は忠宗、中尊寺の表坂の杉並木は綱村の植林で、今はない塩釜街道や奥州街道の松並木も綱村時代のものであった。台ノ原丘陵は仙台城下にとって左翼の防御地帯で、忠宗、綱村相次いで杉を造林したので、後には鬱蒼たる杉の大森林となり、杉山台という地名が生まれた。ただ堤町に隣接する今の警察学校のあるあたりは藩窯があり、綱村がタカ狩りに行くために杉はその奥の方だけであった。文化元年12月レザノフが皇帝アレキサンドル一世の命を受け、仙台藩の水主(かこ)寒風沢の津太夫ら4名の漂流船員を長崎に送還し通商を申し入れたが、長崎奉行に拒絶されたのでカムチャッカに引き返し、フォストフ中尉に命じて幕府を威嚇するためエトロフ、クナシリを荒らしたとき、松平越中守定信から仙台藩の国老中村日向成義に出兵命令が下った。文化4年11月のことである。12月には千島に500名、箱館に700名出動を告げ、なお幕府から大銃を携行すべしという命令があって杉山台で演習を開始した。連日寒風の中で猛特訓を行った。この場所が明治になってからそのまま陸軍射撃場となり、現在警察学校が建っている。幕末には迫撃砲の演練をかね、藩主が臨場して打ち上げ花火がここで行われていた。幕末から明治にかけて杉山台の杉は年とともに伐採され、杉山台は名実ともになくなり、そこで杉の字を除いてタダの台ノ原と呼ぶようになった。堤焼の初期に杉山焼と称したのは杉山台の杉山であり、仙台の北に、上杉山通、中杉山通、杉山通の町名があるのは、そのいずれも北は杉山台に通ずる町であるところから生まれた町名で、かつて台ノ原は鬱蒼たる杉の密林地帯であったことを仙台市民に教えてくれる町名である。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年
2011.10.08
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蕃山の東麓にある臨済宗の大梅寺は、初め祥岩寺と称し、松島瑞巌寺中興の雲居禅師が慶安3年(1650)隠居寺として創建した寺で、それから6年後の明暦2年に根白石の奥、福岡の照岡に永安寺を開基した。大梅寺には近年まで甘泉露という有名な清水があった。永安寺の泉は今も絶えない。この二寺は、仙台城、辰之沢口、大梅寺、芋沢川、永安寺を結ぶ戦略構想の下に雲居禅師が開いたという。大梅寺の背後に東蕃山(365メートル)、永安寺の後に坐禅堂山(370メートル)の展望台と水源を持つのはそのためとある。4代藩主綱村は若いころ大梅寺に行って、ここが仙台城にとり重要な搦め手である形勢を、つくづくと観察した結果、貞享4年(1687)に大梅寺門前の東北方、郷六村の広瀬川べりに別荘を営構し、人呼んで郷六御殿と称した。総面積2町歩、高い土居でかこみ、北は広瀬川にのぞみ、三方に濠をめぐらし南に門を開いた。邸内には、楽寿園と号した屋敷、馬場や蔵など。庭には梅を集植し、田も一反歩あった。仙台城からは山越しにお裏林を経て道が付いていた。表向きは綱村の別荘であったが、寛文事件の忠臣伊東一族の嫡孫で家格着座600万石を領し、小姓頭から綱村の麻布隠邸の家老を勤めた伊東宮内祐栄の手記「節翁古談」には「肯山様郷六御屋敷御取立成られ候儀は只山川静かなる景を御ろうずるばかりの事では御座りませぬ。取立てさっした場所は仙台川(広瀬川)外に廻り、御裏林より直に御城へ山伝い往来も余所より気も付かず、最上街道は愛子口にて郷六の方は見えず、依って何ぞの時、人数かくし置くにも余所より気も付かず、つまるところ隠し郭の忍所の御心と相見え候」とある。それと仙台城の有事最悪の場合に備え、辰之口沢から郷六へ、さらに芋沢川をさかのぼり永安寺に活路を開くという想定もあり、梅も兵食のためという。六代藩主宗村もよくここに遊び、春秋には城中からお姫さんが多数の御殿女中をお供にワラビ狩りや栗拾い、キノコ取りに来た。十三代藩主楽山公慶邦の夫人八代(やよ)姫は、御三家水戸宰相徳川斉昭の姫で十五代将軍慶喜の妹であったが、慶応2年秋、向小田原松林の登米伊達家の別荘天遊館に遊び、大変気に入ったというので、楽山公から登米伊達家に所望して郷六御殿と交換、以後登米伊達家の下家敷となり、戊辰役に大手門前の登米邸の宝物を郷六屋敷に疎開したこともある。斬り込み戦術で官軍をノイローゼにした細谷十太夫のカラス組は明治元年9月旗巻峠に背水の陣を布き、官軍にひと泡吹かせようとしたが仙台藩の無条件降伏となり、郷六御殿は細谷十太夫に率いられたカラス組の一時収容所となった。維新後、郷六御殿は郷六村に払い下げられ村民17人で一人あたり一反歩余に分割し、その跡は田畑と化して井戸が一つ残っているだけ。葛岡墓地の広瀬川対岸である。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年■関連する過去の記事 東北大学植物園と最上古街道跡(08年5月4日) 仙台城と最上古街道(07年11月14日)(古街道は近世以前ですが) 城砦システムとしての仙台城(07年5月29日) 大梅寺(07年5月21日) 仙台城秘密の抜け道の話(07年5月20日)
2011.10.10
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慶応4年は明治元年と同年だ。仙台藩士が旅館金沢屋で新政府の参謀世良修蔵を殺害する。戊辰の役の一大転機だ。さて、その2日後に、世良の従者の繁蔵が金沢屋に世良に会うためにやって来る。これを殺す命を受けたのが、仙台藩士の玉沢喜之助だ。喜之助は岩出山の菓子職人で、岩出山伊達家の士分扱い。武術に長けていたという。果たして繁蔵との文字通り真剣勝負に勝ち、喜之助は繁蔵の所持品調書を作成しようと筆を持とうとしたら、自分の指が落ちようとしていたという。激闘だったのだ。(逸見英夫『仙台じけん帳』2002年、河北新報社、を参考にしました。)この玉沢喜之助の兄は、仙台藩の金山御用達の大野安吉で、藩の軍資金捻出のため、喜之助も偽金作りにも関わったという。鋳造職人との人脈もあり、また自ら作製を指揮した。職人50人を集めては、まずウナギ蒲焼きを食わせて士気を高め、昼夜兼行3日間で7200枚もの偽造をさせたという、リーダーシップも並ではない。この玉沢喜之助、随分多方面に才能のある男だ。ところで、岩出山の菓子職人と言うから、仙台の御菓子屋の玉澤さんと関係があるのだろうか。先日も三越向かいの玉澤総本店に行った時に思い出したが、聞かなかった。私はこの玉澤の2階の喫茶コーナーが好きだし、またこのビルの3階か4階の喫茶店は学生時代によく行った。もう少し調べてみます。
2006.05.27
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山形県の最上川で発見された江戸時代の小判の話。24時間テレビでも川の捜索が行われたので私も知っていた。その経緯を下記の書物を参考に記事にしたい。■八重野充弘『埋蔵金発見!解き明かされた黄金伝説』新人物往来社、2010年------------昭和36年(1961)7月31日、白鷹町の最上川で手製の箱眼鏡で魚取りをしていた12歳の上村義実さんが、川底から金色に輝く楕円形の小判を発見。うわさが町中に広まり、約半月の間に小判23枚、二分金9枚、二朱銀358枚がみつかった。白鷹町の人々の記憶には、西村久左衛門の黄金伝説がよみがえった。米沢藩御用商人の西村久左衛門は、米などの産物を舟で酒田まで運ぶため黒滝の改修を藩に提案。財政難のため断られるが、1万7千両の自己資金を投じて工事を行い、米沢と酒田の間の水運を完全なものとし、藩主上杉氏も久左衛門も巨利を博することができた。その後久左衛門は現在の白鷹町最上川河畔に藩のため蔵屋敷を建て、近くに自宅も新築。そして自宅地下に子孫のため財産を埋蔵したといわれる。屋敷がどこにあったか全くわからないが、川っぷちにあった久左衛門の屋敷が洪水で流され小判が川底に沈んだのではないか、と憶測する住民もいた。しかし、見つかった小判はすべて文政2年(1819)から11年にかけてつくられた文政小判で、二分金と二朱銀も同時代。久左衛門の河川改修は元禄6年(1693)から翌年なので、久左衛門埋蔵金説は否定された。ところが、地元の郷土史家が、寛長公御代要覧という史料から、本庄家用人の小嶋俊親の日記の記述を見つけ出した。「天保元年(1830)7月10日、城下(米沢)の大和屋久左ヱ門から、荒砥の清水屋に80両を運ぶ飛脚が、鮎貝、荒砥間の最上川で溺死した。」1830年は文政小判が流通した頃であるし、発見された金銀貨の総額が72両1分なので、金額にも矛盾がない。また、飛脚が溺死した場所は当時の渡し場の近くで、金銀貨がみつかった場所とも一致する。現金輸送飛脚の落とし金とみて間違いないだろう。ただ、残り7両と3分が未回収となる。2008年夏の日本テレビ「24時間テレビ」で地元の子ども達とタレントが探そうと言うことになったが、生放送の当日は豪雨のために川が増水して中止。後日リベンジを図ったが何も見つけることはできなかった。なお、61年に改修された小判その他は、はじめ25名の発見者がそれぞれ自宅で保管していたが、町が埋蔵文化財に指定して一括保存することとなり、昭和41年にかき集められた。時価総額2千万円といわれるお宝は、今、白鷹町役場の出納室の金庫に厳重に保管されている。------------■白鷹町観光協会のサイトに詳しい解説があります。
2011.11.02
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古代の日本の地理空間は現在の日本列島全域ではない。倭国に代えて「日本」の国号を使い出すのは7世紀後半だが、どこまでが「日本」だったのか。997年に奄美人が兵船で薩摩に来襲し、住民300に連れ去ったとあるが、当時の奄美初頭は日本から見て異国だったことになる。自国と異国を分かつのが国境だが、近代的な意味の国境は、安政2年(1855)の日露通好条約で択捉島とウルップ島の間に初めて引かれたが、千年前の奄美を異国と認識した日本人の意識はこのような近代的な国境ではない。政治地理学では、国境にはバウンダリーとフロンティアの2つの形態がある。日露通好条約の国境はバウンダリーだから、地図に線として描ける。一方、フロンティアは一定のゾーンとしてしか捉えられない。2つの国境は、形だけでなく質的な違いも大きい。ブルース・バートン『日本の国境』は、地理学者L・クリストフの所説を紹介している。バウンダリーが空間的に広がってもフロンティアになるのではない。両者の世界観はまったく異なり、バウンダリーは法律的または政治的な概念に基づいて決まり、フロンティアは自然発生的に1つの文明世界が広がる中でたち現れる。劣等の東北側にはまた別のフロンティアが長く存在した。エミシ、エゾが、そのフロンティアの外に広がる世界に住んでいた。■参考:奥武則・大島透『にっぽん一千年紀の物語』毎日新聞社、2001年私は、この話を読みながら、憲法論としての「国境の存在理由」を想起していた。たとえば長谷部教授の著書の中の「国境はなぜあるのか」の論考だ。古代日本の、その「日本」の側からエミシをどう見てきたか、それはいわば現代日本人が習う日本の歴史感だ。一方で、われわれが住むこの土地。東北という地に、こだわりたい。そうすれば、この地に政治空間が広がっていた古代のフロンティアを、東北の視点から想像してみたい。もちろん、その時代に立憲的な意味でのconstitutionはなかっただろうが(研究が進めばどうかわからないが)、いかなる政治社会がどこまで広がっていたのか。古代蝦夷社会の規律や法制など、もし時間や方途に恵まれれば、ぜひ勉強したいものだ。
2011.03.08
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平内町狩場沢あたりの国道4号を、湾の向こうに下北半島の陸地を眺めながら走っていると、野辺地町との境に、旧藩の境をなす塚がある。高台を走る国道沿いに「県史跡 津軽南部藩境塚」と木製の標柱。ここから降りていくと、4つの塚が見える。看板に詳しく説明がある。県指定史跡藩境塚(通称 四ツ森)昭和44年12月15日指定東津軽郡平内町大字狩場沢字関口(二基)上北郡野辺地町字柴崎(二基)高さ3.5米 直径底面にて約10米この塚は江戸時代、津軽藩と南部藩の境界に築かれたものである。津軽領と南部領を結ぶ主要街道上にあり、二本又(ふたまた)川(境の川)をはさんでそれぞれ二基づつ四基とした。築造年代は明らかでない。海辺には最近作ったと思われる碑が並んで屹立している。それぞれこう書かれている。従是東南盛岡領従是西北津軽本次郎領分国道4号に戻ると、野辺地側に、馬門御番所の復元のような建物。高札があって、宝暦6年(1756)の覚書が再現されている。解説として次のように書かれている。馬門番所の高札南部藩と津軽藩は藩境に近い馬門村と狩場沢村にそれぞれ番所を設け通行人や物資の出入りを取り締まっていました。この高札は、馬門番所に掲げられていたもので、手形なしで南部領内の特産品を他領へ出すことを南部藩家老連名できびしく禁じています。なお、馬門番所は藩境塚のあるこの地からおよそ1キロ南東にありました。旅も津軽を後に、いよいよ下北半島を目指す。
2013.06.20
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蔵王町について学んだ。自分が感じていた謎を解くことを軸にしながら、資料で勉強。なお、「謎」とは、次の2つだ。謎1 小学校名にもある「永野」は旧村名にないが、どこを指すのか?謎2 旧宮村は遠刈田温泉も含むが、通じる道路は円田地区なので実質飛び地。どういう経緯か?(3回シリーズです。第2回は遠刈田温泉、第3回は宮財産区について) 蔵王町を知る(その3 宮財産区)(2024年01月20日) 蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉)(2024年01月19日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)1 概況まず、読みは「ざおうまち」だ。市町村合併の経緯でいうと、昭和の合併で円田村と宮村が合併して命名された。明治の合併(明治22年町村制)の際は、円田、小村崎、塩沢、平沢、曲竹、矢附の6村が合併して円田村となり、他方の宮村は単独で村制を敷いた。現在、「蔵王町」の次に続く地名としては、これら7つの旧村名と「遠刈田温泉」の合計8つがある。ただし、厳密には、旧円田村の6つの地名は「大字何々」だが(例えば役場は蔵王町大字円田字西浦北10となる)、宮と遠刈田温泉は「大字」ではない。さらに細かいことを言えば、「遠刈田温泉」と同格のものとして「遠刈田温泉本町」「遠刈田温泉仲町」「遠刈田温泉旭町」「遠刈田温泉栄町」「遠刈田温泉寿町」があるので(遠刈田温泉(字)本町、ではない)、結局のところ、「蔵王町」の直下の階層をなす地名としては、大字の6つ、大字以外で7つ(「宮」、「遠刈田温泉」、遠刈田温泉市街地5町)、合計13の地名があることになる。2 江戸時代の概要(村、宿駅、温泉など)『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。●宮村 宮村は東西に細長い広大な山林牧野を含む。この広範な地域は江戸時代に、向山村・宮司村・沢内村・宮町に分かれ、それぞれに肝入が置かれていた。宮町は白鳥神社のある宮宿を中心とした限られた地域で、沢内村は宮町に接し七日原・遠刈田温泉を含み、蔵王山頂お釜までの広大な地域である。●円田村 松川沿いに遠刈田温泉・青根温泉に通じ、永野は笹谷街道の宿駅であり、猿鼻(さるはな)宿を経て四方峠(しほうとうげ)を越えて川崎宿に至る。 史料には、円田(天文7年段銭古帳)、苅田荘遠田郷内(伊達正統世次考)、延田(同)などと見える。 円田村の知行主秋保氏の検地帳が残されていて、人頭144人で、寛永検地の竿答え百姓75人から69人の増と言える。人頭144人のうち、村住居95人、町住居49人で、家数を記載してある項目に「当村永野町と申し候宿場家数49軒」とあるから、町住居49人は永野宿の居住である。人数は男447人女347人の計794人で、馬数114匹とある。明治初年の「刈田郡地誌」では戸数149戸、人数1151人(男586女565)とある。 永野町鎮守は愛宕神社で、寺院として真言宗円明院、同慈眼院、曹洞宗龍源寺があったが慈眼院は廃寺となった。 永野の町裏に白崩明神があった。文治の合戦で西城戸太郎国衡の屍を埋めた所と伝え、岩山が崩れ落ちて白くみえるためにこの名があるという。蔵王町文化財(白九頭龍古墳)。古墳の上に白九頭龍神社が祀られている。同じく永野の西裏の田中に古い松の大木があった。文治の合戦の平泉側の大将金剛別当秀賢が伊達大木戸で敗戦、厚樫山も攻め抜かれ、秀賢は出羽に逃げ延びようとして病重くついにここで松の樹下で死んだという。そのため死生松という名を残している。●宿駅について 蔵王町にあった宿駅は、奥州街道沿いに、宮宿ー金瀬宿、笹谷街道沿いに、宮宿ー永野宿ー猿鼻宿、がある。それぞれの宿場には定められた人馬が準備され、荷物の継送の責任者を検断といった。宿場の中央に問屋(とんや)場があり、制札場があった。問屋場は検断や本陣を兼ねる場合があった。宿泊は本陣と旅篭のほか、格安の木賃宿があった。 宮宿は、奥州街道と笹谷街道の分岐にあり、安永風土記には、「宮町と申す宿場4丁21間78軒御坐候」とある。寛文7年書上(白石市史)によると、東側に39軒、西側31軒、御伝馬所(3軒分)、宮荒町分南側11軒、北側蓮蔵寺門前8軒、とある。本陣は幕末に設けられたと思われ、肝入の阿部氏が問屋を兼ねていた。 永野宿は、円田村の「安永風土記」によると、村居住95人、町居住49人とあり、永野町49軒で構成された。宿場は文久年間の「永野屋敷図」によると3丁14間とあり、町の中央に検断清右衛門の屋敷があり、その向かいを村田への道が東進している。また、町の北端において遠刈田への道が分かれている。「梅津政景日記」寛永3年(1626)に「永野町より雪降る」とある。 猿鼻宿は、永野宿を出て北進、31丁余で東に折れると猿鼻宿である。そのまま東に行けば平沢に、北に進むと四方峠を越えて川崎町に通じる。平沢村の「安永風土記」には、村住居76人、町住居18人とある。猿鼻町は18軒で、宿場の長さ2丁とある。成立時期は安永風土記は慶長7年(1602)とする。3 役場と学校刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年(復刻版=名著出版、昭和47年、限定500部)から。なお、一部新字体にした。以下本ブログ記事において同様。同資料(第18章)から官署と学校の経緯。●宮尋常高等小学校 明治6年8月創立。初め7大学区第3中学第20番小学と称す。同19年9月尋常小学校と改称。20年4月尋常高等(ママ)併置、23年4月宮尋常小学校と改称。31年高等科(修業年限2年)を増設し宮尋常高等小学校と改称。33年4月高等科4か年とする。41年4月小学校令改正の結果、尋常56年を置き高等科1、2年を置く。●宮村役場 明治11年宮村戸長役場として宮村一村を統轄し、同14年4月宮村曲竹村を管轄し宮村曲竹村戸長役場と改称。17年宮村深谷村曲竹村八ッ宮村4ヵ役場として宮村外三ヵ村戸長役場と改称。明治22年3月31日町村制実施とともに宮村一村の宮村役場となる。おだずま注:深谷村と八ヶ宮村は、明治の合併で福岡村に含まれることになる。●遠刈田尋常高等小学校 明治9年9月以来宮尋常高等小学校の分教場としてその管轄に属したが、大正12年4月分離独立し、遠刈田尋常高等小学校と改称。大正13年4月実業補習学校を附設。●圓田尋常高等小学校 明治6年5月村内龍源寺を仮用して創立。同15年白石高等小学校区内圓田中等学校と称し、25年7月圓田尋常小学校と改称。29年高等科を併置して圓田尋常高等小学校と改称。41年5月小村崎、平澤、永野、曲竹に四分教場を置く。42年12月新築移転。44年補習学校を併置。大正11年1月平澤、小村崎両分教場を合併して平澤尋常小学校と称す。同12年、曲竹、永野両分教場を合併して永野分教場とす。●永野巡査駐在所、郵便局 巡査駐在所としては、永野巡査駐在所が記載されている。他には、宮村巡査駐在所、平澤巡査駐在所が記載されている。 なお、郵便局は、宮郵便局、遠刈田郵便局、圓田郵便局のようだ。●平澤尋常小学校(略)4 明治の町村制『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。●明治の地域制度 従来の郡を大区、村を小区としたが、従来の町村とは切り離されたもので、区長や戸長も新しい観点で任用された。明治5年4月の改正では、刈田郡は第17大区で、従来の宮、曲竹、矢附の3ヶ村が第8小区、円田、塩沢、平沢、小村崎の4ヶ村が第9小区となった。 幕政時代、曲竹、宮、矢附は独立した単独の村だったが、これを解体して国家統治を効果的に地方に浸透させるため、本来戸籍事務だけのはずの戸長の職務も「小区の一切の事務に任ず」と村政全般を管掌することになる。 明治7年4月、柴田郡と刈田郡は合併して第9大区となり、郡役所というべき大区詰所は宮駅に置かれた。●学校 第7大学区(東北全体)は、仙台に我が国7番目の大学を設置し角田市に第3の中学校を、その他の各連合村には1小学校の建設計画であった。第3中学区(伊具、刈田、柴田、名取、亘理、宇多の6郡)の一番小学校は角田小学校、伊具郡内一巡の後刈田郡白石小学校が13番目に、柴田郡大河原小学校は24番目に建設された。 明治6年6月10日宮小学校(学校番号20)が三谷寺に、同年7月7日円田小学校(21番)が龍源寺に開校。生徒は宮68人、円田57人。教師は応急措置で村田の教師を派遣。通学区は明治5年の大小の行政区制度が施かれ、第8小区、第9小区がそのまま学区に置き換えられた。 明治6年7月には円田小学校平沢学校(ママ)が保昌寺を仮教室に開校(生徒数男57女5)、また同年9月には遠刈田地区に刈田嶺神社を教場に遠刈田支校が開校された。その後平沢支校は12年に円田小学校から分離し初等科3年制の独立小学校に。 円田小学校は明治8年6月新校舎に移り、平沢、小村崎、矢付(ママ)に14年には支校を設置した。宮小学校も明治9年校舎を新築。5 昭和の合併前の状況刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年、から。一部新字体にした。●町村 宮村(役場所在は宮)=大字及字 宮、澤内、向山、宮司、遠刈田 圓田村(役場所在は圓田)=同 曲竹、円田、平澤、塩澤、小村崎おだずま注:大字及び字として、永野もだが、矢附の名も見えない。●宮村について(上掲資料から) 地勢上自ら東部宮と北部遠刈田の2つの中心を有する。松川は源を刈田岳に發し、遠刈田、圓田村、宮村向山区を貫流して白石川に入る。沿岸の地は細長き平地を成せども、其の他は悉く山地...●圓田村について(同上) 東南部及南部は一帯に平地にして松川この間を流れ、西部は丘陵重畳し、土浮山、七日原高原連亘、遙かに蔵王を望むべし。松川は、遠刈田にて澄川を合せ、本村に入りて永野、矢附、曲竹を貫流し、宮村に出でて白石川に合す。上流澄川を合わせざる部分を濁川と称し、多量の硫黄分を含有するを以て魚類の生息することなし。 なお、同上資料の「神社、自院、堂宇、教会」の章(第14章)の「圓田村」の項には、「御渡神社」は「永野にあり。印度より渡来の神を祀るなりと。」と記載されており、地域の呼称としての認識がわかる。6 仙南温泉軌道と永野駅 仙南温泉軌道は、大河原町と遠刈田温泉を結ぶ軽便鉄道で、現蔵王町内には、平沢駅、円田駅、永野駅、疣岩(いぼいわ)駅、遠刈田駅があった。 経緯を少し。日本鉄道の開業で、遠刈田温泉の観光客や青根の鉄鉱石の輸送を目的に、まず1900年柴田鉄道が設立される。これは、大河原から金ケ瀬、宮、永野、遠刈田を経由して青根まで馬車鉄道を敷設する計画だったが、資金難で断念。1904年、日本製鉄が鉱石運搬用の馬車鉄道を申請し、1906年に遠刈田と永野の間が先行開業。永野の先は大河原町堤地区を経て大河原駅に至る計画だったが、1907年に宮地区を経て白石駅に至るルートに変更する誘致運動が起きて工事が一時中断する。1908年に遠刈田と青根の間は貨物用索道で開通。日本製鉄は解散するが、遠刈田ー永野間は地元資本で仙南軌道として継続。永野の先は、仙南軌道が宮地区経由で北白川駅に至るルートを予定したが、大河原や村田の資産家が中心に設立した城南軌道は、平沢、村田町中心部を経由して大河原駅に至るルートを想定した。結局、郡長の調停で永野から先は城南軌道が開業させることで、1915年再申請に漕ぎつける。1918年城南軌道の大河原ー村田間が開業。1920年城南軌道が仙南軌道を吸収合併し、1921年仙南温泉軌道と改称、1922年(大正11)ようやく全線開通に至る。(下の図面は、刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年、の付録から)7 昭和の合併『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。 宮城県の町村合併促進審議会が昭和28年10月答申した町村合併計画策定答申では、旧刈田郡は白石市、七ケ宿と小原の合併、宮と円田の合併による1市2町案であった。 宮村と円田村では様々な意見がだされた。宮村では各地区代表と村議会議員で構成する町村合併研究委員会が組織され、県案を中心に住民の意見を集約することになった。大方の意向は、宮地区では白石市との合併を望み、遠刈田地区は円田村との合併を希望した。これらは地理的経済的条件が近いところを望む合理的なものだったが、意見がまとまらず、住民投票を行い、結果、白石市との合併1,172票、円田村との合併1,053票となったので、合併研究委員会はこの結果を尊重して村議会に答申した。 村議会では採決の結果、12票対7票で白石市との合併が決まり申入れを行うことになった。しかし、宮村でも遠刈田地区は事情が異なり、道路その他で円田地区とのつながりが強く、村議会では遠刈田地区の円田地区への分村を表決したところ、16票対4票で決定した。 他方、円田村では、宮村宮地区が白石市を向いたため、やむを得ず宮村遠刈田との合併決議が円田村議会で決定された。 この結果を受けて、両村はそれぞれ県に内申。県議会は昭和30年3月の本会議で町村合併を議決する予定だったが、刈田郡が県の試案と合致せず、難色を示す県当局や議員が多かった。というのも、宮村宮地区を白石市に合併すると白石市が突出した広域になり、逆に弱小町村をつくることの懸念で、原案を崩さない県の意向が刈田事務所長を通じて両村長に伝えられた。 これを受けて両村は議論を深めようとしたが、利害や感情が絡んで紛糾。4月1日の町制施行のタイムリミットが3月20日であることから、3月15日から17日にかけて両村議会があいついで協議を重ね、両村の対等合併をまとめ、17日に県に「刈田郡宮村円田村を廃して蔵王町を設置する処分申請書」を提出した。昭和30年4月1日新しい蔵王町が発足した。 この紆余曲折は、両村の歴史的地理的経済的な背景や基盤が異なっていたことも指摘されているが、明治22年の町村制施行時も同様な動きがあったといわれ、大正9年には遠刈田地区が、宮村から分村独立の請願運動を行うなど、宮村の宮と遠刈田がしばしば合併分離などの経過があったことも、今回の町村合併に陰に陽に左右し続けていたとみるべきであろう。 なお、地方の町村にありがちな政治的思惑もあり、県議会議員にも動きがあったとされる。(おだずま注:具体的な記載はない。) 役場は将来の発展を考えて円田におき、宮と遠刈田に支所を置くことで両村は合意をはかった。旧円田村役場が新町役場となり、昭和52年に現在の新庁舎となる。8 現在の小中学校ここで蔵王町の学校通学区域をみてみる。小学校は5校あり、永野小学校の所在地は大字円田(円田小学校も同様)である。・円田小学校 (学区)大字塩沢の一部を除く字全部、大字円田の一部、大字平沢の一部・平沢小学校 (学区)大字小村崎の字全部、大字平沢の一部・永野小学校 (学区)大字曲竹の字全部、大字矢附の字全部、大字円田の一部・宮小学校 (学区)宮の字全部(おだずま注:「大字宮」と言わない。)・遠刈田小学校 (学区)遠刈田温泉の一部を除く全部、大字円田の一部中学校は3校。・円田中学校 (学区)大字小村崎の字全部、大字平沢の字全部、大字矢附の字全部、大字塩沢の字全部、大字平沢の字全部、大字曲竹の字全部(A)、大字円田の一部(C)を除く字全部、遠刈田温泉の一部(八室、大枝山)(B)・宮中学校 (学区)宮の字全部、大字曲竹の字全部(A)・遠刈田中学校 (学区)遠刈田温泉の字全部、大字円田の一部(上記C)(A)と(B)は地域が重複することになるが、通学先中学校を選択できるとされている。(B)は円田地区寄りのエリア。(A)の曲竹だが、宮中学校の学校要覧では学区に曲竹北、曲竹南と記載されているし、円田中学校の学校要覧には、円田、平沢、永野の3小学校から子どもたちが集う、と記されているので実際には曲竹地区の中学生は宮中学校に行くのだろう。大字円田の中でも遠刈田中学区となる(C)は「釜沢と土浮山の一部」とされており、すずらん峠に至る西部丘陵地帯で遠刈田に近い。なお、中学校は、統合の上で令和9年4月開校にむけて事業が進んでいる。以上から、謎を解題するとすれば、永野は宿場名に使われた由緒ある地名。旧村名では円田に含まれ小字名にも残らないが、円田村のうち主要街道を擁する南部一帯を指すものとして定着、官署名にも使われて定着してきたのだろう。遠刈田は温泉場の特殊性からか近代の村制では沢内村→宮村に包含されたが、やはり地方制度改革にあわせて宮地区との関係では離合の動きがあった。■関連する過去の記事(蔵王町など) 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2024.01.18
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きょうニュースで盛んにやっているが、午前3時半頃に、親子らしき2頭のクマが徘徊していたと自転車で通りかかった人から警察に通報があった。場所は、平成一丁目の丁字路交差点だという。テレビの映像だと、貨物線をくぐるガードが見えて、路上に自転車注意とペイントされた道。中原本通り(松岡街道)の信号のある交差点から、西に、東郵便局角の交差点まで延びる道だ。報道では、目撃地点から50メートルに保育園があるという。たしかに、ピースフル保育園がある。南に300メートル行くと梅田川があるので、川を伝って来たのだろうか。■関連する過去の記事(東仙台、松原街道、苦竹付近など) 宮城県沖地震を知る(2026年06月11日)=苦竹の被災建物 名が珍しい平田神社(2026年04月22日) 岩切の追分の道標(2026年04月11日) 御立場町の道路愛称(2025年12月06日) 案内のネコ(2024年10月14日) 何事もあわてずいそがずまず相談(シリーズ仙台百景 43)(2024年10月14日)=苦竹の梅田川沿い 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日) 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日) 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) パルテノン神殿?(シリーズ仙台百景 42)(2024年01月06日) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日)=鶴ヶ谷カトリック墓地 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 清水沼のこと(10年9月8日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2026.07.02
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きのう(3日)、午後2時20分頃に幸町二丁目で通行人から、約1メートルのクマらしきものをみたと通報があり、警察が捜索したが見当たらず、幸町南小学校では、未下校の児童を集団下校にしたという。コンビニの裏のフェンスを越えて、会社敷地に入ったという証言があり、テレビの画像では、その場所が映されていた。朝夕の渋滞ポイントである中江の仙山線踏切(新石巻街道踏切)のすぐ脇にファミリーマートがある。私もよく利用する。店と駐車場をはさんで、県道と並行する形で、専用引き込み線跡の小道があり、そこを渡って北側の会社の敷地のフェンスを乗り越えて侵入したということのようだ。1980年頃の仙台市の地図では、こうだ。専売公社工場まで伸びている貨物線が、細い線で示されている。いまでは、幸町南小学校の校庭になって消えているが、ファミマと今回クマが侵入した会社(松本事務機か)に挟まれたあたりでは、引き込み線跡がはっきりとわかる。緩やかに弧を描いて、仙山線(東照宮駅方)に合流していくのだ。踏切より北の仙山線沿いには、レンタル倉庫が細長く点在する。■関連する過去の記事 クマの親子が出た平成一丁目(2026年07月02日)
2026.07.04
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伊達政宗が来住する以前の仙台平野は、国分氏支配の下に名族が城館を構えていた。現在の国分町は、政宗開府以前に木ノ下の国分寺薬師堂周辺にいた家臣団(国分衆)を移住させたという。また、仙台城も、若林城ももとは国分氏の旧城を基にしているのであって、仙台は国分氏とその領民が基礎を形成したのである。木ノ下の白山神社は国分町移住後も国分衆によって流鏑馬などの儀式が運営され、国分氏滅亡後は遺臣(国分侍)が伝統に則り祭礼を執行している。国分氏は、鎌倉御家人の千葉介平常胤の五男胤通が、平泉征伐の戦功で国分荘33郷と名取郡を給与されて仙台平野に土着したという。胤通は、その前に鎌倉から下総国国分荘に移住して国分氏を称しており、国分氏の祖となっている。もっとも、国分氏の名は宮城郡の国分荘に由来するとの説もある。居城は、始め郷六城、次いで千代城、小泉城、松森城と当主により転々した。国分寺郷の名は南北朝期にも見え、国分寺周辺を指し、北は南目村、東は伊在、蒲町あたりで区切られていた。しかし、観応2年(1351年)の岩切城の合戦で吉良探題に味方し勝利した国分氏は、ライバル留守氏の勢力を削いで、仙台平野に君臨することとなる。十代盛忠は足利義持から宮城、名取、黒川の三郡の主政に任ぜられたとされ、北は泉区から旧宮城町一帯、東は岩切で留守氏と境を接し、南は増田付近まで、西は秋保峡から高館付近までを治めた。栄盛を誇った国分氏だが、室町中期以降南奥から北上する伊達氏と結んだ留守氏に、小鶴の合戦で敗れる(永正3年、1506年)。また、同年松森城主で国分氏の分家松森盛次の反乱があり、衰運に向かう。14代宗政が伊達家の後ろ盾を得て立て直すが、家中に意見の対立が続く。伊達家から入嗣した第十八代盛重が、政事宜しからずと政宗の怒りを買い、松森城を追われる。一説には、国分家老の堀江伊勢(掃部)が盛重の謀反の意と急襲の陰謀を政宗に通報したとされている。軍記には乱戦の中、盛重の身代わりに切腹させて自らは落ち延びた、とされるが、亡命先は常陸の佐竹氏。関ヶ原の後の出羽の左遷には同行し、横手城に一千石を充てられる。盛重には三男一女があり、三男の重広は姉の嫁いだ先の古内実綱の家督として、やがて岩沼に1万6千石を得る。なお、長男と次男は僧となり、盛重が横手城に移ってから、藩主佐竹義久の三男宣宗を養子とし、宣宗は国分(伊達)氏を称した。さらに、妾腹に伊賀重吉がおり、国分氏没落の際に、宮城郡桂島の馬場主殿をたより桂島(松島)に隠れ住み、やがて木ノ下に移り伊達家の安堵を受けて荒巻方面の開墾に従事したが、一族は国分姓をはばかり馬場、桂島を称したという。国分氏の家臣団としては、郷六、森田、八乙女、北目、南目、朴沢、鶴谷、松森、秋保、粟野、古内、坂元、白石、福岡、馬場、小泉、堀江、萱場、武田、横沢、小林、税所などの各氏があった。参考 紫桃正隆『みやぎの戦国時代 合戦と群雄』宝文堂、1993年
2009.08.09
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現在道路交通は車は左、人は右と規定される。歩行者を車と対面させて双方に注意を促す趣旨だろうが、実はこれは昭和35年(1960)の道路交通法によるもので、それ以前の我が国は明治以来、車馬も人も左、だったという。もっとも、駅構内や地下街、歩行者専用の商店街などの場合はどうだろうか。JRの駅によっては、構内通路の左側通行を案内しているそうだ。仙台駅ではたぶん明確な表示やアナウンスはないと思うのだが、各駅によっては改札口と券売機の配置の関係によってそう案内することがあるそうだ。ある実験(加藤孝義氏)によると、人間は壁が右側にあると歩きにくく、左に壁を見て歩く方が安定する感じがするのだそうだ。右利きの手の側を自由にしておくという心理が働くのかも知れない。車の乗り入れがない歩行者専用の商店街の場合は、6:4または7:3で概ね左側通行だそうだ。仙台、京都、大坂、鹿児島など、アーケード街はどこも同じだという。また、八重洲、JR大阪駅前、天神などの地下街もやはり左側。さて、エスカレータの立ち位置はどうか。よく東西の差が取り上げられる話題であり、大阪は右立ち、東京は左立ちとされる。その理由として大阪人は右手に風呂敷を持つから、とも言われるが、昭和45年の大阪万博で阪急電鉄梅田駅が混雑回避のために、パリやロンドンを参考に、エスカレータの左空けを案内したのが始まりとするのが有力説である。東京は大阪から遅れて90年代に左立ちが定着した。風呂敷の大阪人に対抗してか武士の習慣という俗説もあるが、上述のように駅の構内が左側通行であることの自然な延長と見られている。世界標準ともいうべき右立ちは、実は日本では大阪など少数派。京都は、市営地下鉄は左立ちが多いが、地下鉄京都駅やJR京都駅は左右混在だそうだ。都道府県庁所在地で左空け(右立ち)に統一されているのは、大阪、神戸、奈良、和歌山の4か所だけだという(横田耕治氏)。とすると、東京をはじめ東日本はすべて左立ちとなりそうだが、なんと仙台では市営地下鉄の駅が右立ちだ。仙台市交通局によると、交通局が右立ちを案内したことは開業以来一切ない。多くの客が自然に右に立っている、とのことで、その理由は交通局でもわからないそうだ。■小沢康甫『暮らしのなかの左右学』東京堂出版、2009年 を参考とした仙台のエスカレータは、JRは左立ち、地下鉄は右立ち、デパート等の建物はたぶん右が多い、ような気がする。統一されないのも不思議だが、駅の場合は、エスカレータを終えてから向かう方向とも関係しているのかも知れない。エスパルやロフトなど仙台駅周辺では左に立ち、藤崎や三越では右に立つ、と解説してくれる人もいる。そこまで割り切れているとは思えないが。■関連する過去の記事 仙台のエスカレーター作法を考える(2010年4月9日)
2010.12.21
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簡潔に偏りなく正確に答えられることが、その地の歴史を本当に知っていることと言えるのだろう。それならば各県庁の説明がそうなっているはずだ。思い立って、東北各県の公式ホームページでの「県の歴史」をみてみた。■青森県 年表とコラムと写真で見る青森県の歴史これは秀逸。コラムもあって読みやすい。江戸時代後期の大名領図では、弘前藩、盛岡藩の中に、黒石藩と八戸藩が飛び地も含めて存在する様子が良くわかった。最新は新幹線八戸駅開業でした。ところで「コラム3」が「南部と津軽」と題されているのに、内容が「コラム1」の土器の話と重複している。間違いだが、「南部と津軽」に本当は何が書かれているかも興味が残る。■岩手県 岩手県のあゆみちょっと簡潔すぎか。アテルイや九戸政実なども取り上げているけれど、あまりにアッサリしすぎ。平泉文化の優位性や明治大正の偉人達などに触れても良かったと思うが。おそらく網羅的な歴史紹介としない意図なのだろうか。また、変な言葉遣いもあって(自主の回復、とか)残念。■宮城県 みやぎのあゆみこれは困る。「行政区画の変遷」と、明治以降のトピックだけ。いったいぜんたい、この豊かな地に人間がどう活動してきたのかを伝えるつもりがないらしい。■秋田県 論外。ナシだから。■山形県 山形県のプロフィール岩手県のようなスタイル。年表などもナシ。しかし、丁寧に流れを追って、また今に伝わる由来なども説明する姿勢には誠意を感じます。■福島県 歴史ここは、時代区分ごと、また年表、歴史探訪などメニュー形式になって内容豊かだ。中世、近世は読み物のような楽しさも感じる。会津藩以外の中小藩もなるほどこんなにあったのですね。年表が現代から遡る方式がユニークだが、19世紀以降と以前の記載の濃淡の差があまりに激しい。----------さて、お待たせの(誰も待っていないですが)ランキング。当ジャーナルの独断で。第1位 青森県。文化や生活も織り交ぜた郷土史の説明に心を感じます。でもコラムの間違いだけは早めに直してね。第2位 福島県。青森と甲乙付けがたいが、青森のように単一ページでまとめる方が私は言い(好みの問題だが)。「歴史探訪」を付したところは大変素晴らしい。第3位 山形県。第4位 岩手県。すみません。県公式サイトに掲げている「あゆみ」は、網羅性までは必要ないという意図なのだろうが、私はそうではなく、折角サイトを訪れた人に、風土、文化、政治など地域の歩んできた様を満遍なく(しかも簡潔に)伝えて関心を持ってもらうべきだと思うのだ。また、あっ○○県の歴史全体を見たい、年表で位置を知りたい、なんていうときにパッと使えるように、ということにもなる。詳しいのなら△△にあるよ、というのかも知れない。でもそれでは使えない。トップページから入れるところに歴史がなくてどうする。プロフィール以上の「歴史」を掲げるべきだ。青木さやかの写真集じゃないが、どこ見りゃいいんだよ! とストレスを感じさせる。従って、第5位宮城県、第6位は秋田県、となる。
2007.11.18
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名取郡生出村は、明治22年(1889)町村制実施の際に、茂庭と坪沼の両村を合併し、霊峰生出森の名をとって命名された。明治34年(1901)、宮城県の調査により、生出村は静岡県稲取村(現東伊豆町稲取)、千葉県湊村(現富津市上総湊)とともに、日本の三模範自治村に選ばれ政府から表彰された。町村制施行で生出村が成立したとき、初代町長長尾四郎右衛門は、植林をすすめ林業振興に力を入れるとともに、養蚕を副業に奨励し、村内3か所に養蚕伝習所を設置した。養蚕農家の師弟を村費で農学校に入学させ指導者を育て、農家に養蚕資金を貸し出し、また明治31年には最新式の機械を導入して製糸工場を経営するなど、村ぐるみの大事業を行った。養蚕業生産戸数は明治22年に10戸だったのが10年後には280戸になったという。表彰された生出村には、村おこし、地方改良運動の手本として多くの見学者が訪れたという。その功績に藍綬褒章を授与された村尾は、明治44年9月勤務中に58歳で没した。ところで、生出村の名のもととなった生出森は、太白山のことである。名取富士、摺鉢山とも。アイヌ語のオード(神の宿る山)から、烏兎ヶ森(おどがもり)と称されたという。これが生出(うと)となり、後にオイデとよぶようになったという。佐久間洞巌の「奥羽観蹟聞老志」(享保4年)巻之五には、太白星(金星)が落ちて山となり、山名はそれに由来すると記されている。また、孝霊天皇の御代に富士山と時を同じくして一夜のうちに出現したという。さらに、山頂に住む巨人の話もある。大昔当山に独活(烏兎)(うど)の大木があって枝葉が茂り三里四方の作物が実らぬため、村人が切り倒そうとしたが効き目がない、そこで、大同2年(807)京都から貴船明神を勧請し三昼夜の祈願の末その害を免れたという。■木村孝文『太白の散歩手帖』宝文堂、2001年 から■関連する過去の記事 仙台自慢の太白山(2010年10月9日)
2011.10.24
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囚人を収容する場所は現在は刑務所だが、古くは牢屋、獄屋、監獄、明治12年頃から暫くの間は集治監と呼ばれていた。我が国で最初に集治監を設置したのは、東京と仙台の2か所である。仙台は明治12年(1879)9月のことである。設立当時は宮城集治監と称し、仙台区郊外の古城址に建設された。東京集治監とともに我が国における刑務所の嚆矢であった。宮城集治監は、中央に見張りの六角五層の塔が高く聳え、六棟の獄舎が放射状に配置されていて、中央棟からの監視が行き届くように設計されたもので、当時の人々はこれを「雪形六出の構え」と形容した。囚人三千人を収容することの出来る設備があった。かの西南の役における国事犯人が囚人としてここに送られたという。宮城刑務所房舎(旧宮城集治監)は、西南戦争の国事犯を収容するためにつくられたもので、明治12年(1879)落成。請負は大成建設の前身である大倉組。中央にルネッサンス風の六角塔を置き、放射状に木造2階建ての6棟の雑居房と独房を配したもので、今は3棟が切り取られている。中央の棟は4階建て、1、2、3階は看守の見張り所となっている。この看守所は組み立て梁を用いた洋風構造である。房舎の内部においては日本在来の牢建築の手法を用いている。獄舎建築としては画期的なもので、香港、シンガポールの獄舎を通じて英国に範を求めたとも言われている。堂々たる大建築で、俗に六角大学の異称で呼ばれた。■菊地勝之助編『名数みやぎ郷土小事典』(宝文堂、1973年、1987年復刻)から■関連する過去の記事 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年8月12日) きょう宮城刑務所から出てきました(2010年11月6日)
2011.11.01
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随分と小さい頃のことだが、祖父に連れられて東京から帰る途中、宮城県内松島あたりの仙石線で電車脱線事故があり、併走する東北本線列車の窓からその現場を目にした記憶がある。水色の電車が大きく線路から逸脱して、回りには救出のためなのか人が多数集まっている、天気は良くて、背景は海、というような構図で覚えている。ただ、私が実際に目にしたのか、それとも帰宅してからニュースで事故を知り、その映像が頭に残って自分が直接見たものと誤信してしまったのか、よくわからない。電車の水色についても、後になってから記憶の中で仙石線の定番のカラーに置き換えられたのかも知れない。いずれにしても、子どもながらに衝撃だったことは間違いない。あれは、どんな事故だったのだろうか。『仙台鉄道管理局60年史』(昭和54年5月1日)で見ると、昭和47年の項に出ていた。------------8月18日、仙石線東塩釜-陸前浜田間の新田踏切(第3種)で警報無視のダンプカーが下り電車と衝突、電車の前2両が脱線、うち1両は線路わきの沼に転落、電車運転手殉職、ダンプ運転士死亡、乗客65名が負傷するという重大踏切事故が発生した。------------写真が添えられている。1両目と2両目なのだろうが、2両の連結部が大きくレール上に「人」の字のように浮き上がり、おそらく一両目は頭を沼に突っ込んでいるのだろう。白黒なので車体の色はわからない。東塩釜駅と陸前浜田駅の間という。新田踏切とは、どこか。住宅地図を見る。浜田駅のすぐ南に踏切があるが、ダンプは通らないと思う。塩竈市との境界付近にも小さい踏切があるようだ。塩竈市域に入ると(越の浦一丁目)、やや大きな道路が仙石線と交わるようだ。もっとも、昔のことなので道路も付け変わったかも知れない。■関連する過去の記事 浜田駅付近の立体交差(10年9月28日)
2011.09.08
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仙台藩の財政を調べようと思っている。現在どこの自治体も財政改革と騒いでいるが、太平の藩政時代に、わが伊達藩も苦しかったはずで、吉村の藩政改革で息を吹き返したとの言い方もあるが、米相場の影響で一時的に赤字が解消したのだろう。全国第三の大藩を標榜しながら苦しい台所だったはずで、何が原因で、改革が進まないのはなぜだったか。今に通じる仙台の役人や商人の苦楽がわかるか、或いは、現代に何か学び取れるものはないのか。できれば Odazuma Journal が継続的に取り組む一大テーマとして、考究していきたい(企画倒れの予感有り)。今回は、ちょっと変わった角度から入る。すなわち藩札発行について調べた。藩財政の歴史を赤字対策の面から観る。有価証券の勉強にもなるという思わぬ副収入もありそう。(主に伊東信雄『仙台郷土史の研究』1979年、宝文堂出版)1 貞享の金札 我が国で紙幣が多く使用されるのは江戸時代。幕府自体は発行しないが、各藩が領内の紙幣を発行。寛文元年の越前福井藩の銀札が最初とされるが、仙台藩では、ハコモノ好みで借金を抱えた4代綱村の時代、若老の古内造酒之祐が発案して、貞享元年(1684年)に初めて金1分札を発行。 そもそも紙幣とは正貨との交換が保証されて初めて流通するのだが、藩政の窮乏を救う目的だから正貨の準備などなく、むしろ藩札を流通させるために藩内の正貨通用を禁じて、正金を藩に引き揚げようとした。結果として札は信用を得ず、使用に制限のない銭の相場が高くなる。物価高騰を来して社会を混乱させた。 こうなると結局、藩札を回収し正金通用に戻すことになるが、藩札回収のための資金を調達せねばならない。正金を得るためには、江戸、京、大坂の商人からはすでに借財し尽くしたから、江戸回り米の代金しかない。そこで、貞享3~4年度は借金の返済を中断して、返済に回す予定の米代金を、藩札回収に振り向けて、元禄2年(1689年)まで4年かけて藩札を回収した。2 元禄の金札 貞享の失敗に懲りず、綱村が幕府の許可を得て、元禄16年(1703年)に再び発行。物価高騰と経済停滞で、早々に打ち切ることとしたが、発行済みの藩札を正金と引き替えるにも正金が準備できない。本当は「札潰し」にしてしまいたいが、大藩の面目が許さない。そこで、宝永2年(1705年)度の藩士の禄の半分を召し上げる大胆な措置に出た。今で言う公務員給料カットだろうか。 ところが同年は干ばつで減収が激しく、結局2カ年に分けて召し上げた。そして、宝永3年にやっと金札の禁止、正金使用が命ぜられた。もっそも、現実にはどの程度まで正金引き換えができたか怪しいようだ。3 天明の銀札 元禄の金札の後、しばらくは藩札は使用されなかった。藩財政の悪化につれ発行論は唱えられたが、濫発の弊害をおそれたのと、幕府の金銀札禁止令による。 しかし天明3年(1783年)の冷害が大凶作を招き、56万石の減収となり藩財政も危機をきたし、幕府の老中田沼に賄賂を使って、救民のためを強調して藩札発行に踏み切った。発行には、藩主重村も関心を持って参画し、説明文を自ら起草している。 これが天明4年(1784年)の銀札である。関西と異なり銀貨がほとんど使われない仙台藩で、なぜ銀札かというと、金札に厳しく銀札に緩やかな幕府の意向によると考えられる。 これにより正貨である金貨使用は禁令となり、柳町三浦屋惣右衛門方の両替所で銀札と引き換えて使うこととなった。藩では4月10日に藩士の登城を命じ、全奉行列席の上、4月14日から銀札を一定割合で家中に貸付け、返済は年賦にするから、各自生計を新たにし、質素倹約して奉公せよ、と申し渡している。12日には御触れとして一般に周知。藩士には貸付だが、一般で困窮の者には無償で与えた。 今回も札は不人気で円滑に通用せず、他方で従来通り使用できた銭は払底してしまい、物を売買する手段が喪失。裕福な商人以外は物を買うに困る事態を招いた。銀札の相場は急落し紙くず同然、物価の高騰が起きるから、銀札を懐に行き倒れる餓死者が続出したという。 これを放置できず銀札を回収する必要があったが、かといって正金と引き換えるのは藩財政が許さない。そこで、正貨の通用を解禁し、公の支払には正貨を用いるべきとしながら、銀札は時価での通用を継続した。この間、わずか5ヶ月で、仙台藩の藩札で最も短命。 正貨を銀札に引き換えるものが少なく、藩のもくろんだ民間の正貨引き揚げは結局進まなかった。むしろ、銀札回収のため、献納者には苗字のほか、扶持の特権を与えたことで、これが更に藩財政の負担にもなった。日野屋などの大商人たちは、銀札の正貨引き換えの約束を藩が実行しなかったため損失を受けた。4 寛政の米札 幕府は宝永4年以降、しばしば法令を出して金銀札を禁じてきた。すると諸藩では、米札などの名称で藩札を発行するようになった。仙台藩は、例外的に幕府に認めさせた天明の銀札が失敗したため、再び金銀札が許可される見込みはなかった。そこで米札を案出したのだ。 米札は、米の代金を支払う形式の金銀の引換券である。仙台藩の場合、買米と呼ばれる米の専売制度があり、自家用米と年貢米以外は藩が買い上げて、米価の高い江戸に送出して藩の収入としていた。しかし藩に米を買い上げる資金が無かったので、米札を発行して、買米を江戸で売った代金で金貨に引き換える、という方式を考えた。 仙台藩は、寛政6年(1796年)にこの米札を発行。しかし、天明の銀札の失敗の記憶もある時代、百姓一揆も懸念され、これも成功しなかった。5 升屋平右衛門預かり手形 失敗のオンパレードの仙台藩藩札だが、これだけは信用を得て流通した紙幣である。寛政年間から仙台藩蔵元となった大坂の豪商の升屋平右衛門が、文化6年(1809年)に発行した預かり手形。 預かり手形とは、形式上は金銀の預かり証文で、幕府の金銀札禁止令に反しない点では米札と同様である。具体的には、升屋平右衛門から為替組あてに発行した手形である。1枚1枚筆で書かれ、裏面には番号を記している。升屋は引き換え準備金を十分に用意したので次第に信用が出て、円滑に藩内に流通するようになった。幕末まで流通し、仙台藩では藩札を単に手形とも呼んだ。 升屋は藩の財政を一手に引き受けることとなり、買い米も担当したから、自ら発行する藩札で領内の米を買い、江戸に回送し深川で高く売って正金を得る。藩札が信用を得ているから、農民に直ちに正金を引き渡す必要がない。このカネを大坂に回して大きな利子を得る。こうして升屋は莫大な富をなした。この妙案は、升屋の大番頭で学者の山片蟠桃の発案。 なお、偽札も登場したため、文政2年(1819年)からは京都西陣特注の小さな布片を貼り付け、仙台領内の模造を防いだという。 この藩札は、25年間継続して発行され、天保の凶作後の財政に関する意見対立から、天保5年(1834年)升屋が仙台藩の蔵元を断られるに至って、発行を終了した。もっとも、既に出回った手形は流通を続け、天保8年以降の両替所預かり手形とともに使用された。そして、両替所預かり手形の乱発で相場が下落すると、升屋手形も信用を落とすこととなる。 現在残る升屋手形が他の藩札に比べ汚れの多いのは、長年の流通を物語る。6 両替所預かり手形 天保7年の冷害大凶作は飢饉を招き、仙台藩は92万石の大減収となった。年貢米はもちろん、百姓の飯米も足りず、当然ながら買米はできないから藩収入も皆無。他領から高価な救援米を買い入れたが、領外には正貨を支払わねばならず、30万両以上の正貨を失って藩財政は危機に瀕した。天保5年に縁の切れた升屋に借りることもできず、天保8年、藩では升屋手形にならって藩が新たに預かり手形を発行した。これが両替所預かり手形である。両替所とは南町の藩引換所をさす。 しかし、正貨の準備などなく、ただ升屋手形の信用に便乗したこの札は、領内の使用には役だっても、他領への支払には使えない。たちまち藩札が下落し、天明の銀札の際ほど著しくはなかったものの、物価高騰となって領民を苦しめた。7 改正手形 安政3年(1856年)に藩の蔵元となった大町の商人、中井新三郎が両替所名義で発行。一般に改正手形と呼ばれる。中井は近江商人で平素は近江国日野に在住。元文5年(1740年)に仙台大町に古着店を出して巨利を博し、幕末の仙台城中では、佐助(佐藤助五郎)と並ぶ豪商。藩の御財用方御用達の筆頭となり、安政3年には遂に藩の蔵元となったものだ。 中井は、改正手形を条件に望んで蔵元を引き受けたようである。中井の計画は、手形が額面の4分の1に下落したのは引換準備金が足りないためだ、準備金を上方借金で調達する(実際には自分のカネを藩に貸す)、その際に藩の名義では信用がないから、中井自身の名義で借金して藩札を発行する、その代わりに買米は仲居に任せよ、という条件であった。 時あたかも黒船直後で仙台藩も蝦夷地警備、大砲鋳造など巨額の軍事支出を強いられ、さらに、13代藩主慶邦と八代姫の結婚費用もかさみ、窮乏の時であった。藩は上方からの借金を模索したが、従来の貸金20万両のカタをつけなければ融資はしないと強硬に断られた。そこに、仙台藩の財政支配権を上方から奪取しようとしたのが、中井である。 藩内では主席奉行の芝多民部が、中井の献策を採用し、蔵元に任じた。 この手形は国分町の引換所で、徐々に旧札と引き換えることとされた。しかし、発行高が増すにつれて準備金が枯渇。芝多民部は巨額の支出を工面するため、準備金にお構いなく手形を増発し、紙幣インフレが生じた。
2006.07.25
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1 鎌倉幕府と安藤氏平安時代後期までは、蝦夷をエミシと読み、主に東北地方の住民を呼称した。12世紀以後は、蝦夷をエゾと読むようになり、対象地域も東北から北海道へと変化し、アイヌ集団を示すようになる。その要因は、奥羽全域を支配するに至った奥州藤原氏が、院政期の国家によってエゾの統括者に位置づけられたことにある。ところが、1189年(文治5年)藤原氏を滅ぼした鎌倉幕府は、藤原氏の地位を踏襲した上に、新たにエゾ(アイヌ)に対する支配権(東夷成敗権)を得る。そして、二代執権北条義時の代官を任じられたのが、津軽の豪族安藤氏である。鎌倉幕府は奥羽支配のため関東の有力御家人を派遣すると同時に、津軽・糠部地域に多くの北条氏所領を設けた。その中心が安藤氏である。安藤氏はエゾと密接な関係を持つ系図を作成した豪族で、以前から海上交通で活躍していたが、鎌倉幕府の東夷成敗権を媒介に、夷島(えぞがしま、北海道)や津軽のエゾ居住地域全域の統括を担い、鎌倉末期には蝦夷管領と称された。2 蒙古襲来とアイヌ蜂起北九州の蒙古襲来に前後して、元がサハリンのアイヌを攻略していた。「元史」によると、1264年、モンゴル支配下のギリヤークの居住地域をアイヌが侵していたことから、ギリヤークの要請に応えてフビライがサハリンに派兵してアイヌを征討した。この時期は、北海道のアイヌが日本社会の求める鷲羽、鷹、テン皮、アザラシ皮、オットセイの捕獲を目指してサハリンに進出していた時期で、ギリヤークとの抗争が続いていた。1308年にはアイヌが元軍に屈し、以後元に朝貢するようになる。ところで、フビライのアイヌ攻略直後の1268年には、エゾの蜂起により安藤五郎が首を取られる事件がある。フビライのアイヌ攻略が、アイヌとの交易権を掌握した津軽安藤氏にも影響を与えていたものと考えられる。3 日の本将軍室町時代の応永年間(1394-1428)には、北海夷狄の動乱が起きるが、この鎮圧に活躍したのが、津軽十三港を根拠にした下国安藤盛季の子康季と、盛季の弟で秋田湊を根拠とした安藤鹿季である。このため、安藤氏の宗家である津軽十三湊の下国安藤康季は、室町幕府から、日の本将軍の地位に任ぜられる。永享8年(1436年)に、康季が後花園天皇の命を受け若狭国小浜の羽賀寺を再建するが、「羽賀寺縁起」には、「奥州十三湊日之本将軍阿倍康季」と記されている。日の本(ひのもと)は、もとは日高見と同様に東の意味で、古代には陸奥の国のうち現在の岩手県辺りを指していたが、次第に北上し、中世には国家の境界と認識されていた外ケ浜あたりを指すようになる。15世紀には更に北上して、外ケ浜と夷島を含んだ地域、特に夷島を意識した地域概念になる。また、将軍は本来天皇から任命された追討将軍の称号であるから、「日の本将軍」とは、通称であったとしても、古代の鎮守府将軍にも比すべき「蝦夷征討将軍」を意味し、夷島の軍事支配権を持つことを意味した。中世後期の語り物である「さんせう(山椒)太夫」では、安寿と厨子王の父が「奥州日の本の将軍、岩城の判官正氏」と記される。越後の直江津を中心に、夷島から丹後に至る日本海を舞台に各地をさすらう物語であるが、実際に日本海を行き交った人々によって語られたもので、下国津軽安藤氏のイメージが物語中の日の本将軍に投影されたと考えられている。4 夷島に逃れる安藤氏得宗領を管理し、夷島(えぞがしま、北海道)とアイヌの支配権を与えられた津軽安藤氏は、津軽と糠部郡を支配し、北方世界に君臨したが、糠部の南部氏の成長により影響を受ける。南部氏は、南北朝の争乱を南朝方についてくぐり抜け、14世紀半ば以降は三戸南部氏が八戸南部氏に代わり宗家の地域を得る。南部氏の支配した糠部郡は一般の郡と異なる特別行政区で、広さも一国に匹敵する。藤原氏の時代には九戸四門を設置し、中世には駿馬を産し、北部にはアイヌも居住する地域である。地域の中央を拠点とした八戸南部氏は、南部一族の宗家三戸南部氏の配下にありつつも、上北、陸奥湾にまで支配を及ぼし独立した立場を維持していた。15世紀半ばまでには、津軽安藤氏の支配した宇曽利郷(下北)一帯を支配し、さらに日本海川の津軽地域に侵入し、永享4年(1432年)には下国安藤氏の拠点である十三湊を攻撃に至る。このため、下国安藤氏は、エソカ島(「満済准后日記」)に逃れる。幕府は、北奥・夷島の支配と海運掌握のため、南部氏に対して下国安藤氏との和睦のための使者を派遣した。南部氏も最終的に調停策を受け入れ、下国安藤氏は十三湊に復帰するが、嘉吉2年(1442年)再び南部氏に攻められて十三湊を放棄、小泊に逃れた後、翌年夷島に渡る。参考:一戸富士雄・榎森進『これならわかる東北の歴史Q&A』大月書店、2008年■関連する過去の記事 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日)(今回の記事は、前回の記事の部分を含めて拡張しています。)
2010.05.18
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角田の大地主、旧氏丈(うじじょう)邸を訪れた。よく晴れた連休の昼間、地元の方が中心のようだが割とお客さんもおられ、ちょっと昔の手の込んだ木造家屋を味わっているようだった。3月16日の地震のために庭の塀はすべて倒壊し、屋敷の中も被害を受けており、その状況が大型ディスプレイで説明されていた。座敷の畳に座ってみたり、廊下をゆっくり歩いてみたりした。なお、遺跡出土の考古資料や石川氏関係資料を展示している展示室(もとの米蔵)は地震のためだろう閉鎖されていた。■氏家丈吉(加登丈、かどじょう)について〔資料館でいただいた資料から〕 初代氏家丈吉は天保10年(1839)本家(氏家清吉)の次男に生まれ、慶応年間に現在地に分家したようである。店蔵(一階二階とも開放され、二階は角田の歴史が展示されている)、文庫蔵、母家、表門(角田要害から移築)は初代により建てられた。明治21年角田の大地主13人中4番目、伊具郡内に59町6反521歩もの田畑を所有。明治26年町税納税は本家氏家清吉に次いで2位である。 二代目氏家丈吉は慶応2年(1866)山形県生まれ、角田町会議員、郡会議員、角田製氷社長などを歴任。新座敷、奥座敷、米蔵等は二代目によって建てられた。昭和8年宮城県内で16番目の多額納税者。本家氏家、加川とならび角田町三富豪の一人に数えられた。 三代目氏家丈吉は明治27年生まれ、昭和17年に父の死で襲名。書画刀剣に造詣深く、仙台藩の書画の鑑識に長じた。農地解放直前の昭和22年3月、140町9反104歩を所有していた。■氏家本家について 本家の氏家は、代々清吉を名乗り、屋号は加登清(かどせい)。4代目が仙台に進出し、七十七銀行頭取に就任、その子栄一、孫照彦も同銀行頭取を務めた。 本家は現在資料館の駐車場となっている隣地にあった。七十七銀行の角田支店長は就任すると必ず、分家のここに挨拶に来るのだそうだ。〔資料館職員の方の話〕。■旧氏丈邸の建物 初代と二代目が建築した建物を昭和60年に角田市が譲受した。平成3年市文化財。 座敷は床柱をはじめ良質な材を多用し、奥座敷、夏座敷(北側)など、日常の喧騒を忘れさせる静謐な時間が往時から今に至るまで流れているようだ。浴室は大正期のモダンな雰囲気を漂わせる。石灯籠が配された庭を窓越しに臨むのだが、ガラスには微妙な歪みがあるのが職人技の証拠。3月の地震では、八角時計が落ちるなどしたが、建物の基本部分やガラス戸などはほとんど壊れなかったようだ。(資料館の前に、河川敷の菜の花畑に行ってみた。晴天の下、蔵王を背景に撮りました。)■今回の角田訪問の関連記事 高蔵寺、旧佐藤家住宅(角田市高倉)(2022年5月5日) 旧氏丈邸(角田市郷土資料館)(2022年5月5日) 角田と鉄道の歴史(2022年5月1日)
2022.05.05
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東の松島、西の象潟。芭蕉と曽良の旅は現在の秋田県にちょっとだけ入っている。九十九島、八十八潟の絶景と讃えられた象潟だ。太古のこの地域は鳥海山の火山活動により海にせり出した半島だった。嘉祥3年(850年)の出羽国一帯を襲った大地震によって海岸線が大きく陥没、さらに、火山灰が海水に浸食され、火山岩からなる島々だけが残った。これが名勝象潟の風景である。大小百いくつかの島々を浮かべ、水面には南にそびえる鳥海山が島の間を縫うようにその姿を映し出していた。その絶景は今はない。芭蕉紀行から115年後の文化元年(1804年)の象潟大地震で一帯が隆起して陸地となってしまった。地震前は水深約2メートルの湾で、アサリなどが豊富だったが、現在は水田の中に浮かぶように島が点在する。(百聞は一見にしかず。にかほ市HPの空撮写真です。)私は昨夏に酒田から鳥海山北麓をめぐった。象潟(現にかほ市)は、酒田から鳥海ブルーラインに入り秋田県側に出て、元滝を見た後に北麓の高原に向かったので、象潟には足をのばさなかった。松島町とは「夫婦町」の仲だそうだ。松島こうれんせんべいで知られる紅蓮尼が象潟出身であることから、昭和62年、芭蕉が訪れた8月1日に調印式を行った。
2006.12.24
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今朝の仙台は雪だった。湿った雪が早朝から短時間に積もったため、道路の除雪が間に合わずに、通勤の車が踏み固めてしまい、すっかりスケートリンク状態になっているところもあり、かなり危ない思いをしながら運転をした。ラジオを聞いていたら、高速道路の閉鎖も伝えられていた。ところで、ラジオの交通情報の内容なのだが、東北縦貫自動車道について「上り下りとも」通行止め、というのはすんなりと理解できるのだが、仙台南部道路の仙台南インターと山田インター間の「上り車線」が通行止め、というような説明には、一瞬アレッと戸惑った。正確には覚えておらず、「下り」だったかも知れない。現在、山田ICからは東方面にしか乗り入れできないはずだから、南IC→山田ICが通行止め、という意味だったのだろう。いずれにしても、戸惑ったのは、「上り」や「下り」と言う場合に、どっち行きを指すのか、ピンと来ないからだ。東北道なら、東京方面行きが上り、とすぐわかる。また、例えば仙台東部道路のように、基本的に道路自体が南北方向に通っているのなら、これもわかりやすい。一般化して言うならば、東京を一方の起点に(起点か終点かという議論は措く)、他方に延びる道路じたいについては問題がないが、そのような道路Aの途中にある地点であるa市と、同様に東京を一方の起点とする別の道路Bの途中にある地点b市とを結ぶ、a-b線なる道路がある場合に、その「上り」「下り」をどのように決めるのか、という問題状況だ。東北で具体例を挙げれば、磐越自動車道。新潟-郡山-いわき、と結んでいる。いわきに向かうのが「上り」で、新潟に向かうのが「下り」のようだ。ちなみに、起点はいわきで、終点は新潟。名称も「磐」城が先だから、一応すべて符合している。ひょっとしたら、東北道に交差する郡山に向かうのが「上り」なのか(換言すれば郡山が山の頂上で、ミニ東京みたいな扱い)とも思ったが、そうではないようだ。確かに、もしそう決めると、同じ磐越道を走っているのに、郡山を過ぎると、「上り」「下り」がチェンジしてわかりにくい。仙台北部道路は、現在供用中の利府ICから東部道路側に乗り入れるのが「上り」の扱いのようだ。東北道には来年にはつながるそうだが、東北道に向かうから「上り」というのではない。その逆になる。もし仙台港から東部道路に乗り入れて、北部道路経由で例えば仙台宮城ICまで高速道を走ったとすると、 東部道路(下り)→北部道路(下り)→東北道(上り)ということになるのだろう。さて、問題の仙台南部道路だ。若林JCT方面に向かうのが「上り」だそうだ(宮城県道路公社のサイトによる)。やっぱり、朝のラジオでも「上り」と説明したのだろう。たぶん。とすると、南部道路については、東部道路に向かう方向を「上り」とする点では北部道路と同様だが、実感からすると、東京までつながっている東北道に向かう方を「上り」と称した方が、南は亘理ICで終わる東部道路に向かうのを「上り」と称するよりも、わかりやすいと、私は思うのだが、どうだろう。これは人によって感じ方が違うかも知れない。さて、話を広げて、鉄道の場合はどうだろう。上記のように、東京から伸びた幹線上にある都市aと都市bを結ぶ横断線の場合が問題となるだろう。具体的には東北本線と奥羽本線とを横につなぐ線路などだ。一応北から見ると、まず、花輪線。好摩に向かうのが「上り」。大館は由緒ある都市だが、東北線が優越した形だ。ちなみに、上り列車は盛岡が終着となる。五能線は、いずれも奥羽本線上にある川部(始発終着は弘前又は青森)と東能代を結ぶが、東能代に向かう(秋田まで行くもの)のが「上り」だ。名称は津軽側の五所川原が能代より先だが。山田線、釜石線、岩泉線、大船渡線は、東北本線(盛岡、花巻、一関)に向かうのが「上り」。これは、まず文句なしだろう。八戸線は八戸方面が「上り」で、久慈行きは「下り」。これも同様。田沢湖線。盛岡と大曲・秋田を結ぶから、良い勝負かと思いきや、やはり盛岡が高い。もっとも、秋田新幹線が秋田まで直行するから、そうしないと混乱するのだが。では、北上線はどうか。北上に向かうのが「上り」だ。昔は横黒線と呼んだはずだから、横手の方が北上(黒沢尻)より上位かと思えば、さにあらず。気仙沼線、陸羽東線、石巻線は、いずれも東北本線に向かう方が「上り」。従って、小牛田駅は、石巻線と陸羽東線の「上り」列車が向かってくる「高い」地位にある。その陸羽東線では小牛田駅に上位の座を奪われた新庄は、陸羽西線では、酒田・余目からの「上り」列車を迎えるという「高い」地位にある。仙山線も仙台に向かうのが「上り」。仙石線も同様だが、正確には仙台の先にある「あおば通駅」に向かうのが「上り」である。米坂線は米沢行きが「上り」。磐越西線は郡山行きが「上り」で、新潟・新津より「高い」。ここまで見てくると、東北本線が優先(一番高い)、次いで奥羽本線が羽越本線より優越していることになる。しかし、郡山からいわきに向かう磐越東線と、水戸に向かう水郡線だけは、郡山から出発する列車が「上り」である。つまり、常磐線の方が東北本線よりもさらに優越しているというルールにも思われる。もっとも、小山から友部・水戸に向かう水戸線では、小山行きが「上り」とされているから、明治以降の開発の歴史に従って、北関東では奥羽街道沿いが重視され、福島では常磐地域が中通りよりも重視されたということなのだろうか。敢えて言うならば。その小山も、両毛線では、桐生・高崎に向かうのが「上り」になるのだから、面白い。なお、会津若松と上越線の小出を結ぶ只見線は、微妙な感じもするが、会津行きが「上り」だ。最後に、一つの疑問が湧き起こった。山形から見れば、仙山線で仙台に行くのは「上り」になるはずだが、「上り」仙台行きは、羽前千歳までは奥羽本線を走り、同駅から分岐した仙山線を仙台に向かうことになる。とすれば、羽前千歳までの2駅の区間は(山形→北山形→羽前千歳)、仙台行きの「上り」列車と、新庄方面行きの「下り」列車とが、全く同一方向に走っていることになる。さらに、北山形駅までは、左沢線の「下り」も走っている。例えば、北山形駅から山形駅に毎日通勤している人は、帰宅の際に、上りでも下りでも帰れますよ、ということになるのだろう。面白い。それだけのことですが。
2009.02.20
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昔は事件名に被害者の名をハッキリと使ったものだ。昨夜のTV番組で、吉展ちゃん誘拐事件と3億円事件を取り上げたものがあった。宮城県でも、昭和20年代に誘拐事件があった。また、昭和50年代には仙台で3億円ならぬ9億円の盗難狂言事件があった。昭和27年2月11日、小牛田町の小学1年生大治ちゃんが下校途中に不明となり、3月2日、校庭西側の麦畑で他殺体で発見された。この間、被害者宅には身代金を要求する脅迫状が届き、検出された指紋掌紋と照合させるため、町民の指紋登録運動が起きた。この結果、同町の浪人中の男が犯人と断定された。この男は、指紋を登録しないと疑われると思って登録した、という。宮城県内で初めての身代金目的の誘拐殺人事件。町民の自発的な指紋登録運動や、犯人が教育者(校長)の息子だったことなど、話題となった事件である。9億円盗難狂言は、昭和54年のことだ。6月18日午前10時半、仙台市中央三丁目の会社社長伊藤富美夫は、応接室に置いていた土地代金9億4200万円がなくなったと仙台中央署に届け出。同書で捜査の結果、借金の返済に窮した伊藤氏の狂言と判明。同氏は仙台高裁控訴中に、自殺した。ネットでは、昭和56年10月八木山橋で投身、と記すものがある。■参考 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年 ほか
2009.11.10
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読売新聞東北総局による企画連載だ(海の民、山の民)。今年4月にスタート以来、大変楽しみにしている。東北のあちこちに根付く風習や考え方に、遠い先祖たちの生活、交流、思想が深く刻まれているではいか。新幹線もインターネットもない古い昔から、わが先人は遠く海外と交易し、研ぎ澄まされた知恵で道を切り開き、地域を守り、子孫を育ててきた。今の時代、ともすれば見過ごしてしまう民俗の扉を開き、東北とは何かを探る、そんな企画でないかと思う。オムニバス形式だが、なぜかどの話題も、普遍的に我々東北に生きる心に浸み入ってくるように思う。タイムリーなニュースバリューとは異質だろうが、いや、それだけに、息長く続いて欲しい。実は私は読売を自宅で購読していないのだが、ネットで読めるのは大変ありがたい。今朝はじっくり読ませて頂いた。来年も期待したい。
2010.12.25
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十三湖や十三集落などの十三は「じゅうさん」と読むが、中世から江戸時代後期にかけては「とさ」と呼ばれていた。その語源にはいくつかあるが、アイヌ語の「ト・サム(湖沼・の畔(ほとり))」という説が有力である。「日本書紀」斉明天皇四(658)年夏4月条に、阿倍比羅夫が有間浜(ありまのはま)で渡島(わたりじま)の蝦夷を集めて饗応した所としてみえ、十三湊付近にあてる説もある。この地が港湾として利用されるのは中世からのことで、15世紀前半に南部氏にこの地を追われるまで、蝦夷管領安藤氏の日本海貿易の拠点であった。室町時代初期にまとめられたといわれる「十三(とさ)往来」には、繁栄をきわめた様子が記され、文明年間(1469-87)に成立したという海商法規「廻船式目」では、三津七湊の1つに数えられている。十三湊遺跡は、13世紀から15世紀前半に本州最北端の湊として、アジアや北方地域との交易によって繁栄した中世の港湾都市遺跡である。また、旧北津軽郡市浦(しうら)村十三(じゅうさん)の盆唄に、「とさのすなやま」で歌い出す「十三の砂山」がある(砂山節、砂山踊りとも)。北前船の船乗りが残した船歌で、盆踊り歌として悠久の時を超え、浜辺で踊り歌われている。■青森県高等学校地方史研究会編『青森県の歴史散歩』山川出版社、2007年■関連する過去の記事 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日)
2013.07.14
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別にクレームでも何でもなく、ただ感じたこと。昨日我が家に別人の宛名のはがきが届いていた。見ると、住所のうちの番号の部分が一か所だけ違う。もちろん名字も違うのだが、なぜか、とにかく誤配されたのだ。さほど遠くないから住所を探して正しいお宅に届けてもいいが、あまりヒマもない。そのままどこかの郵便ポストに入れてしまおうかとも思ったが、消印があるから投函してはいけないのだろう。内容は喪中欠礼だった。差出人は届いたと思っているだろうから、何とかしなければならない。いちおう家を出るときにカバンに入れて、仕事場の近くで郵便局を尋ねて、窓口で渡した。窓口の人は言う。ちなみに住所のどこが違っているのですか。はい、ここですね、というと誤認した箇所をメモしたようだった。内部的な処理の上で必要なのだろうか。そのうち本来の宛先にこのハガキは到達するのだろうから、良かった。以上のとおりなのだが、私が感じたのは、なにやら割り切れなさ。年末だからか窓口も混んでいて、並んでしばらく待った。恩着せがましく、わざわざ届けに来たぞとばかりに気負っているわけではないにしても、足を伸ばして持ってきたことに一言感謝のことばがあるだろうな、という予感は正直いって多少はある。そうであれば、足を伸ばした甲斐もあるというものだろう。だが、違った。すみませんでしたという言葉くらいはあったように思うが、誤認箇所の確認作業が優先。味気なく、はい次の方、という感じ。たしかに窓口の人の責任ではないし、数ある中にはあり得る間違いだろう。だが、オレが持ってこなければ浮かばれない一件なのだから、そこは一言有っても良いんじゃないのかな。べつにティッシュ一つくれ、といっているワケじゃないんだから。もう、差出人や受取人が困らないで良かった、と思って忘れるしかない。忘れる前に、本来このようなときどう行動すべきか、日本郵便のホームページを見てみた。「他人あての郵便物が届きましたが、どうしたらいいのでしょうか」という項目があって、誤配達であると付せん貼ってポストに投函するか、最寄りの郵便局か相談センターに連絡ください、という内容だ。そして、その次に、郵便局以外の配送物はそれぞれの事業者に連絡せよ、との旨。そして最後には参考として、郵便法42条の規定が。「郵便物の誤配達を受けた者は、その郵便物にその旨を表示して郵便差出箱に差し入れ、又はその旨を会社に通知しなければならない。」と。それはそうなのでしょうが。正しいか誤りかではなく、書き方のほんのちょっとした配慮の話なのに。こんな案内ぶりを平気で掲げているのなら、今日の対応も納得できるというものだ。
2014.12.11
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登米市のクーポンマガジン「まちナビ」を見ると、登米市出身の俳優木村昇さんが載っていた。29歳で石原プロ所属だそうで、私は知らなかったが、旧中田町浅水の出身、佐沼高校、日大でボートをやったのだそうだ。小学校時代の先生の言葉で芸能界を決意したという。故郷を大事にする心を忘れずに、大きく飛躍を期待します。そして、地元出身の木村さんを特集した「まちナビ」には、やはり登米市出身の歌手(シンガーソングライター)の美菜さんも。07年メジャーデビュー。中学まで佐沼で暮らしたのだそうだ。これまた私は知らないのだが、美菜さんは2月に迫養護学校で生徒とライブを楽しんだり、地元大型店でホームタウンライブ。地元を大事にして、大きく羽ばたいて下さい。このフリーペーパーを私は過日行楽の道すがら立ち寄った店で手にした(その日の日記)。米谷のA店。実は行きも帰りも立ち寄った。缶コーヒー2本で115円とオトクだったので。発行部数2万部。07年夏の創刊のようだが、これからも、地元を盛り上げて行って欲しい。
2008.05.02
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大館城(桂城)に化け猫が出たという。鎌倉幕府は甲斐国浅利郷を本拠とする鎌倉御家人浅利氏、大館地方一帯の地頭職を与え支配させた。南北朝の動乱期を経て16世紀に入ると、交通や軍略の要衝である大館地方を支配しようとする南部・安東(秋田)氏と、独立を堅持しようとする浅利氏との間に、めまぐるしい攻防が展開される。天文十九年(1550年)浅利勝頼により大館城が築城されたが、太閤検地により、この地は秋田氏のものとなった。関ヶ原の後、秋田氏は常陸に移封され、かわりに秋田県一帯は佐竹氏が支配することになる。(一国一城令の例外としてこの城は横手城同様に存続。)城は戊辰戦争で焼失。以上が略史だが、天正10年(1582年)に城は浅利氏から安東氏のものとなる。やがて(秋田)実康が大館城に入場したときのこと。城下を進む実康の行列の前に巨大な猫が居座る。その時は忽然と消えたが、今度は城の湯殿に出るようになる。実康みずから湯殿に潜み、化け物に斬りつける。臣下総動員で赤い血の跡をたどると、林の洞窟に巨大な猫股が倒れていた。実康は、虫の息の化け猫にとどめを刺した。しかし、その夜から奥方は原因不明の病に苦しみ、年末に死去。実康も同じく不明の病で死ぬ。浅利様のたたりだとして、城内では猫を大事にするようになったという。(平川陽一編『日本列島名城の謎』1995年 トラベルジャーナル などを参考にしました)
2006.08.14
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仙台近郊の造成団地の名称などを、渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)から集めてみた。著書の冒頭部分の略図に従い拾い出す。■関連する過去の記事 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日)------------(1)仙台近郊造成地分布(*印は昭和30年代を示す。おだずま注:著書の表を正確に再現できず。)市内北半 中山ニュータウン *川平 *泉ヶ丘 第3勝山 桜ヶ丘 *公苑 第2勝山+共済、平和台、ひばりヶ丘等(*?) *黒松 *旭ヶ丘 *双葉丘、常磐 自由ヶ丘 鶴ヶ谷、東光台 *高砂 半子町市内南半 東北大 教育大 ゴルフ場 *亀岡 *八木山 *松ヶ丘+恵通苑 *緑ヶ丘 茂ヶ崎 八木山南 太白 ひより台 山田自由ヶ丘 仙台南 日本平 羽黒台 *飯田 *袋原 *四郎丸 四郎丸東泉市 三菱パーク 将監 *向陽台+泉ニュータウン 永和台 松森 鶴ヶ丘 東黒松 南光台 西田中 住吉台 中山第2 中山ゴルフ場 長命ヶ丘 加茂宮城町 中山吉成 伊勢吉成 落合・大竹利府町 神谷沢 県民の森(2)仙台北部造成地泉市 将監団地 泉向陽台 共栄泉 泉ニュータウン 泉永和台 松森団地 鶴ヶ丘ニュータウン 加茂団地 長命ヶ丘 大平西 第2中山 中山ゴルフ場 南光台 泉黒松宮城町 中山吉成 伊勢吉成 葛岡霊園仙台市 中山ニュータウン 第3勝山 桜ヶ丘 公苑団地 春日団地 泉ヶ丘 共済団地 平和台・国鉄荒巻 大和ネオポリス 第2勝山 ひばりヶ丘・幸福ヶ丘 サギヶ森(鷺ヶ森のことか) 常磐団地 勝山 双葉ヶ丘 黒松 旭ヶ丘 森林公園 自由ヶ丘 第2自由ヶ丘 ?葉ハイツ 鶴ヶ谷 東光台 北仙台グリーンプラザ 東急青葉台(3)仙台南西部造成地東北大学 青葉山ゴルフ場 青葉荘 八木山 松ヶ丘 越路恵通苑 長町恵通苑 緑ヶ丘 茂ヶ崎 西ノ平 大谷地 八光台 第2羽黒台 八木山南 国鉄鈎取 城南荘 信賑鈎取 太白団地 ひより台 月ヶ丘 山田自由ヶ丘 仙台南ニュー 日本平 羽黒台 山田住宅(4)八木山方面造成地(主要建築)上野原小 電磁気研究所 郵政研修所 八木山中 八木山小 東北工大 東北放送 電子高 向山高 向山小 愛宕中 西多賀中 東北大電子研 朝鮮人学校 恵和町(長町恵通苑) 東北電通学園------------著書では丁寧に地図に団地の分布状況を示している。おだずまジャーナルの前回記事でも出ていない団地名称もあり、何だかワクワクする。今は時間がないが、著書の図や詳細な団地造成の記述などをたよりに、現在のどの町名を指しているかなど、後日よく調べてみたい。
2012.05.20
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魔よけに関する本を読んだ。古今東西の魔よけの形と由来を紹介する入門編で、随所でなるほどそういう意味だったのか、と思わせる。紋章や道具だけでなく、鰯の頭、猿、シーサーなども紹介されている。人類がどんな思いを込めて魔よけに努めてきたのか、とても興味深く読んだ。■岡田保造『魔よけ百科 かたちの謎を解く』丸善、2007年 978-4-621-07876-1西日本が中心かと思いきや、東北に関する記述も結構あったので記す。1 五芒星(安倍晴明判紋とも) いわゆる星マーク。一筆書きで書けて閉鎖性を持つことで、悪霊を監視する「目」の結び目が多く、また魔力を封じ込める効果があると考えられ、先史時代から洋の東西を問わず呪符とされてきた。(私は地球防衛軍の流星マークを思い出す。) 我が国の五芒星は西洋あるいは中国から伝来し、5つのカドが、密教でいう五大(地水火風空)や陰陽思想の五行(木火土金水)を表し、五行相生説や五行相剋説と結びつけられた。 我が国最古のものは7世紀の阿古山古墳(鳥取市)石室壁面。上野国分寺と国分尼寺(群馬県)に挟まれた河川敷の祭祀遺跡。 また、古代出羽国の役所であった払田(ほった)柵(秋田県)の祭祀遺跡の土器に墨書されている。915年の十和田火山大噴火に対する祓いの祈りとみられている。2 目籠 かつて東北や関東では御事始め(2月8日と12月8日)に目籠を籠の先にかぶせて軒に立てかけた。この日に来る鬼を撃退するために、多くの「目」を用意するのだ。また、目は五芒星(六芒星といった方が近いが)に似ている。3 九字 中国の葛洪(かっこう)の道教思想の本『抱朴子』にある護身の呪文。臨兵闘者皆陣列前行の9字。これを図形化した縦5本横4本の井桁が九字紋として用いられる。 9世紀の国家北方経営の拠点胆沢城(奥州市)近くの住居跡からこの図が刻まれた土器が出土。 修験道や日蓮宗では九字之大事という秘法がある。修験者は護摩を焚く時、九字を唱えながら空中に紋を切る。4 ×印 弥生時代の島根県荒神谷の銅剣などに刻まれ、古墳時代の但馬地方などの土器に書かれている。明らかに信仰的なものとしては高松塚古墳壁画や薬師寺金堂本尊台座の青竜像の首にある。アイヌ民族の神に捧げる酒箸や修験者の錫杖にも付く。 会津若松城では現存の5つのすべての虎口(入り口)の石垣に×印が刻印されている。5 双六 インドのエローラ石窟寺院の床に十字形の双六が彫られている。パチシと呼ばれ、インドで一千年を越える伝統をもつ。イランのペルセポリスのテラスにも、古代エジプトの双六セネトに似た双六が彫られている。 我が国では北国鎮護を祈る達谷窟毘沙門堂(平泉町)の入り口階段土台石に同様のものがある。 トルコのエフィソス遺跡では大道上に数種のゲームの模様。これらは神の意志を問うための祭具とされる。また古代エジプトのものは死後の安寧を祈るものとも。6 反閇(へんばい) 中国夏王朝の始祖禹が治水のため全土を巡った時、痛めた足を引きずるように歩いたのを禹歩(うほ)と呼び、道教で清めと魔よけの呪術的歩行法となった。足跡を9つ残す歩行法ある。我が国に渡って反閇と呼ばれ、陰陽道、修験道の呪法となり、また芸能にも受容された。奈良時代には新築の時に土地を踏み地霊を鎮める行為が万葉集にも詠まれている。平安以降は陰陽師が貴族の外出などに際して祓いの反閇を踏んでいる。 江戸時代になると魔除けの九字を意味する三方陣盤の1から9の数字を順に踏むと招福除災が約束されるとして、ひろく庶民まで大きく刷られた三方陣盤の上で自ら反閇を踏むようになった。 芸能では、奥三河の花祭りで反閇が踏まれる。また北上の鬼剣舞の名は反閇から付いたという。いずれも修験者がもたらした作法。相撲も地霊を踏み鎮めるもの。7 鉱山 危険な作業だけに坑道には呪符刻印がある。奈良大仏の銅を産出した長登銅山(山口県)の坑口前の岩にも呪符の星印と×印が彫られている。17世紀頃のものでは、山形県の野辺沢銀山で排水用の疎水坑に十字などの刻印が彫られ、近くに祀られる山の神の神紋は○に十字。----------最後に、画像は知人のトルコみやげの魔よけ。この本にも出ていた。東南アジアから地中海沿岸にかけて、青い一つ目のお守りが邪視(危害を加える眼差し)を退けるとされる。
2008.02.10
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