仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2026.04.18
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カテゴリ: 東北


奥州藤原氏と貢馬の道 (2026年04月16日)
北方へのびる道 (2026年04月17日)
に続く
■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年
(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」後半部分から。おだずま要約・再構成)

1 陶磁器の道 - 北上川の舟運

平泉の遺跡から大量に出土する陶磁器の9割は、渥美・常滑焼だが、陶磁器の搬入ルートは海上や水上しか考えられない。例えば柳之御所跡遺跡からは直径高さともに90センチ超の大型の渥美焼の甕が出土したが、馬の背で陸路を運ぶことは考えられない。そして、東海地方から運ぶのだから、太平洋岸の海路ということになり、太平洋岸の海運はこれまで考えらたより古くから発達していたと考えねばならない。

そのルートは、海と北上川であった。北上川は日本でも有数の流れのゆるやかな川で、流域の仙台藩領の広大な米作地帯の産米が石巻に集められ、江戸に運ばれ、仙台藩の財政収入のかなりの部分を占めていたことは有名な事実である。江戸時代の北上川では、大型のヒラタ舟(艜)が筵帆をあげ米俵を満載してゆっくり川を下った風景が日常だった。さらに近代には、河口の石巻には水運の商社が創設され、鉄道による舟運の衰退まで続いた。



井内石板碑の北方への分布は、北上川をさかのぼって平泉の北の胆沢郡まで及び、井内石文化圏とでもいう分布圏が存在する。石材は当然石巻から北上川を舟で遡って運んだと考えられ、平泉のやや北で分布が終わっているのは、この時期の北上川舟運の北限がそのあたりだったことを示しており、その水上交通圏は奥州藤原氏の時代に形成されたものにちがいない。

自然条件でみても、北上川は平泉付近から北は流れがやや急になる。現在の県境付近に狐禅寺という狭窄部があり、その北の一関市付近は磐井川との合流点でもあり古くは池沼上の地形だったと考えられる。平泉はその台地上に位置し、北上川水運の基地はこの付近ではここ以外には考えられないような場所である。

藤原清衡は12世紀のごくはじめ頃に、奥六郡内の江刺郡豊田の館(たち)を出て平泉に居を構えるが、平泉を選んだ理由の一つには北上川水運があったと思われる。

2 陸上の道

一方、陸上交通でも平泉は重要な場所で、陸奥国を縦貫する陸上の道と北上川水運の水上の道が交差するところでもあった。

吾妻鏡(1189年=文治5=9月17日条)には、中尊寺建立の由来について、清衡は白河関から外が浜にいたる20余日の行程の一町ごとに笠卒塔婆を建て、その中心をはかって山頂に一基の塔を建てたのが中尊寺のはじまりで、寺院の中央の多宝寺には釈迦如来と多宝如来が左右に安置され、その中間に関路が開かれていて旅人の往還の道となっている、と記されている。

中尊寺は山号を関山(かんざん)と称し、その山頂には歌枕で有名な衣関(ころもがせき)があったと伝える。関山を越えるとすぐ北に衣川があり、その北が胆沢郡。関山は磐井郡の北端で奥六郡との境の山である。古代の奥六郡は俘囚の地で、以南の内国とは政治風土が全く異なるところであったので、関山は政治的にも重要な境界であった。また、関山の麓は衣川と北上川の合流点に近くかつては低湿で交通困難であったため、奥六郡に入る交通路は関山を越え衣川をわたるルートをとらざるをえなかった。中尊寺はその交通路上に、それを扼する形で建てられた寺だったのである。

一方、南から平泉に入る道路は、今の一関市市街地を通るルートはかつては低湿であったため、現在より西のルートだと考えられる。文治奥州合戦の際には、頼朝は鎌倉への帰途に平泉の南の達谷の窟(いわや)、西光寺の前を通り、西光寺に水田を寄付している。西光寺には大量のカワラケを出土する遺跡も存在する。頼朝の通った道は、毛越寺の門前から太田川の谷に沿って南下し、山を越える道で、現代や江戸時代の道より西のルートを通るが、平安時代はこれが平泉に入る主要なルートだったにちがいない。

この道はそのまま南下して陸奥国府の多賀城にいたる。つまり、陸上の道は平泉ではじめて北上川の水上の道と交差するのである。平泉は水陸の交通路が交差し、奥六郡と以南の境界をなす、交通上きわめて重要な場所であった。

3 伊勢と陸奥

渥美・常滑焼が海路から石巻でヒラタ舟のような吃水の浅い船に積み替えられて、北上川を遡ったであろうことは、石巻市水沼で発見された、渥美焼とそっくりの陶器を焼いた窯跡の発見により明らかである。この窯跡は、渥美から工人を招いたと考えられ、12世紀の渥美焼と瓜二つの袈裟襷文(けさだすきもん)の陶器を焼いていた。この窯で焼いた陶器片が柳之御所跡遺跡から出土しているのである。この窯の製品が北上川水運で平泉に運ばれたことを踏まえれば、海路太平洋岸を運ばれた渥美・常滑焼の陶器が、石巻と北上川を経由したことはほぼ間違いない。



1338年(延元3、暦応1)伊勢国の大湊を発って海路陸奥国に向かった南朝の北畠親房の一行が目指したのも石巻港でなかったかと考える。親房は実際には台風で常陸の国に漂着し、親房が奉じる義良親王は伊勢国に帰ったが、親房は陸奥国白河の結城親朝に対して、宮(親王)と国司(北畠顕信)は宇多か牡鹿に着いているはずだから連絡を取るようにと書き送っている(結城古文書写)。宇多は松川浦、牡鹿は石巻港をさす。こう書いたのは、両港のどちらかが到着予定地だからと解され、伊勢と石巻をつなぐ海路が14世紀に存在したことは確実である。それは12世紀にもさかのぼるものだったに違いない。

知多半島の中ほどの常滑焼や、渥美半島先端の渥美焼が、どこから船に積まれてか確実なことはわからない。小野正敏氏は、産地からいったん伊勢国の桑名か大湊に集められて、大船に積み替えて東国をめざしたのではないかとする。それは北畠親房がたどろうとした道の先蹤をなすものである。

15世紀初めに武蔵国品川湊に出入りしていた船に、大塩屋、馬漸(まぜ)、和泉、本郷、藤原、通(とおり)など、大湊の付近の地名を船名とするものがある。綿貫友子氏が、そこからこれらの船は伊勢から来航したと推定することも参考にして良いだろう。大湊は伊勢と関東や陸奥国をつなぐ港として早くから開けていたと思われる。

4 陶磁器を運んだ人々

尾張や三河の窯業地帯から陸奥に陶器を運んだのは、小野正敏氏によれば、伊勢大神宮の神人(じにん)や熊野の御師(おし)であり、中でも前者の役割が大きいという。筆者(おだずま注、大石氏)は、熊野の海上勢力の荷担を重視したい。その根拠は、12世紀における伊勢勢力の東国進出の証拠とされる大神宮領の御厨の設定が、常陸国でとどまり陸奥国に及んでいないこと、奥州藤原氏周辺に熊野勢力の存在が強く観察されること、秀衡の庇護を受けた義経周辺に熊野海上勢力の存在が見え隠れすること、などである。



5 日本海海運

従来は、日本海海運のほうがずっと大きく評価されていた。

越後国小泉荘の定使(じょうし)が、清衡の金、馬、檀紙などを押しとったという事件がある(中右記、1120年=保安1=6月17日条、24日条)。小泉荘(新潟県村上市を中心とする地域)には岩船潟があり、中世には船着き場や町が形成されていた。二代基衡の代に、摂関藤原家の奥羽の家領の年貢納入の責任を奥州藤原氏が負っているが、それは清衡の代に始まったと考えられる。この事件は、摂関家領の年貢が港に保管されていたと考えられる。これらが日本海海運で、越前、若狭、さらに琵琶湖の水運で今日に運ばれたことは間違いないだろう。

基衡が管理して年貢納入の責任を負っていた荘園は、陸奥国本良(吉)荘、高鞍荘(栗原市金成)、出羽国の屋代荘(高畠町)、大曽禰荘(山形市)、遊佐荘(遊佐町)の5つである。基衡と本家左大臣藤原頼長との間で年貢増徴交渉が行われていたが、これらの荘園の年貢は、布、金、馬、鷲羽、アザラシ皮、漆などであった(台記=頼長の日記)。檀紙もまた陸奥国土産として有名なので、これも年貢となることは充分考えられる。

6 大楯遺跡

ただし、奥羽の荘園年貢がすべて日本海海運を利用したかはわからない。貢馬の例からすれば、出羽国の荘園だけが日本海を利用したのが実情だったのかもしれない。

出羽国の3荘のうち最北の遊佐荘内に、平安時代の大楯遺跡があり、大量のカワラケ、珠洲焼系統の陶器などが出土する。保元の紀年銘の木製品が発見され、曲物の素材の年輪年代鑑定からも12世紀前期または中葉とされている。この遺跡が荘内の有力者の館に関連することは疑いなく、柳之御所跡とカワラケ文化を共有しながら、国産陶器は日本海海運による珠洲系陶器の流通圏内あったのである。

陸奥は太平洋海運、出羽は日本海によって西日本と交流したというのが実態だろう。奥州藤原氏はこの両地域を支配しており、平泉は両方の交通路の一つの終着駅であった。数は少ないが平泉から珠洲系陶器も出土する。

7 日吉神人

日本海海運の担い手は、鎌倉時代後期には時衆(じしゅう)が目立つが、この時代の手掛かりはまったくない。ただ、この時期に、北陸道諸国の海辺には比叡山地主の神で山門と一体の日吉社(ひえしゃ)の神人(じにん)の存在がかなり見られることは注目に値する。網野善彦氏が推定するように、海上交通にかかわりを持つ者がいたに違いないのである。

そして当然ながらこの日吉神人の活動は奥州藤原氏の周辺にもみられる。また、中尊寺経蔵別当領の骨寺村には、山王岩屋というものがあったが、これは、この村がその開発と中尊寺領化とともに、日吉神人の手で設定されたからと考えられる。山王権現は日吉神社の別称だ。

さらに、奥州藤原氏と北陸の白山の関係も注目に値する。平泉の鎮守に白山社が勧請されているほか、秀衡が加賀国の白山本宮に獅子駒犬の像や五尺の金銅像を寄進した伝えがある(白山之記)。白山社は12世紀には山門の末社となり、白山神人は日吉神人を兼ねることがあったという(網野善彦)。これらから総合すると、日吉社の神人が平泉と西日本を結びつける媒介を果たしたことは充分に考えられる。日本海方面の山門、日吉社の勢力と、太平洋側の熊野海上勢力は、海を通して平泉を西日本に結びつける二大勢力だったのだ。

彼らが運んだのは年貢物ばかりではない。陶磁器が商品だったことはもちろんだが、金、馬、鷲羽、アザラシの皮、檀紙、奥布といわれる陸奥国特産の麻布なども、年貢としてだけでなく商品としても流通していた。彼らは、商品を運ぶ商人でもあった。そして、奥州藤原氏の自立的政治権力は、こうした商品流通によって支えられたのであり、陸上と海上の道の存在なくしてはありえなかったと言ってよいだろう。
(完)





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最終更新日  2026.04.19 21:55:27
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