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2025年04月03日
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発足当時の陸奥国は、茨城県の北部と福島県の一部という小さな領域しかない国でした。国の北側は蝦夷の領域と接し、幾多の戦いが繰り広げられ、徐々に前線は北上。ついに蝦夷の根拠地である胆沢の地まで支配領域を広げました。この胆沢の地には、阿弖流為(あてるい とも あてりぃ とも)と呼ばれる蝦夷の戦士がいて、朝廷軍を苦しめていたのです。業を煮やした朝廷側は、かの征夷大将軍田村麿を派遣。この地を鎮めようと躍起になります。
このような歴史ドラマの舞台として、かなりの知名度を誇る神仏混淆の霊地が、今回紹介する達谷窟の毘沙門堂と別当寺院:西光寺です。

2024.11.2
東北三十六不動尊霊場二十三番札所:神鏡山 達谷西光寺


岩手県の神社仏閣の中で、最も気に入っている寺院を挙げてください、と言われれば迷わずここを挙げるくらいにお気に入りの霊地です。
達谷窟で有名なのは、なんと言っても懸造の見事な毘沙門堂でしょうか。本地垂迹説にのっとって、蝦夷達を鎮めた田村麿将軍を毘沙門天の垂迹として崇め祀っています。
毘沙門堂の別当としては、神鏡山 達谷西光寺という寺院が置かれており、現在でも境内を接しています。西光寺の金堂と不動堂は拝観可能なんですが、本堂は一般の方は立ち入りできないのか、車止めなどが置かれています。下の写真は本堂への入口に置かれた寺門で、薬醫門と呼ばれています。奥にはチラリと茅葺屋根の御堂が見えますが、おそらく本堂でしょう。



門の手前辺りにも茅葺屋根の家屋があります。これは何のための建物なのか不明なんですが、名前からして御供え物を置く神饌所的な役割の御堂なんじゃないでしょうか、知らんけど。それに御が付いているということは、国からの奉幣もあったのでは・・・?知らんけどぉ・・・。



それでは境内に向かいます。

こちらは一之鳥居。



説明書きです。




鳥居

 「一之鳥居ハ石之鳥居(いちのとりいはいしのとりい)、二之鳥居ハ丹之鳥居(にのとりいはにのとりい)、三之鳥居ハ杉之鳥居(さんのとりいはさんのとりい)」と称され、古くから参道にあった。三之鳥居は明治初期に、二之鳥居は昭和30年(1955年)に失われたが、平成10年に再建された。二之鳥居・三之鳥居ともに、他には見られない特殊な形式を今に伝えている。
 一之鳥居は「ひこじうらう、とくぢ、せいのじゃう」という達谷村の3人の石工により達谷石を用いて江戸時代に建立されたものである。



二之鳥居です。確かに単純な両部式鳥居とは異なり、分厚い屋根が付いていますね。



二之鳥居をくぐると、東北三十六不動尊霊場の札所本尊:姫待不動尊が収められている不動堂がチラリと見えます。もとは宝形造・茅葺屋根の素朴な御堂だったんですが、ここ数年の建て替えによって現在の姿になりました。後で詳しく見てみましょう。



三之鳥居です。ここをくぐると毘沙門堂は目の前です。



三之鳥居の脇には観音石像と古峯山と刻まれた石碑が建っていました。古峯山というと修験を連想してしまいます。ここも修験が大本になっているんでしょうか、不明です。



おほー!これですよ、これこそ僕が求めていた光景です
仁王2のDLCにてここを知ってからというもの、日に日に参拝したいという思いが強くなり、2023.8.31に初めて参拝出来ました。厳美渓の方から山道を抜けて、急に開けたと思ったら岸壁から生えるように御堂が建っていて、それはもう感動したもんです・・・!



それでは蝦蟆ヶ池辨天堂から見ていきましょう。




辨天堂の扁額は、宇賀神に因んでか蛇文字で書かれています。にょろにょろと波打つ蛇たちが”蝦蟆*神”という文字を表現しています。



説明書きです。




蝦蟆ヶ池辨天堂

 昔、満面の水を湛えていた達谷川や北上川を美しい浮嶋が行き来するのを、奧刕巡錫の慈覺大師は、五色の蝦蟆の姿で、貧乏を齎す貪欲神が化けていると見破った。
 大師は嶋を捕えて窟毘沙門堂の前まで引きい、再び逃げ出さぬように一間四面の堂宇を建立し、蝦蟆を降伏する白虵、即ち宇賀神王を冠に頂く八肘の辯才天女を自ら刻して祀り、蝦蟆ヶ池辯天堂と名付けたと伝えられる。

 昭和60年(1985年)の調査で蝦蟆ヶ池旧護岸から平安末期の土器が大量に発掘されている。

 現堂は、昭和21年(1946年)の大火で焼失し、昭和46年(1971年)再建の堂が狭小で、神事の執行に甚だ不便であったため、平成25年癸巳の歳(2013年)に、元祿再建時の舊規に倣い、脇侍の十五童子の内の九躰と共に、御修覆となったものである。

 辯天樣は巳年守本尊である。昔から「藥師、辯天には錢上げて拜め」といわれ金運商売の神で商家の信仰が厚い。また、智慧の神、技芸の神として民衆からの信仰が厚い。
 「生けるが如し」と賞される美しい御姿は美人の譬とされたが、流石に祟を恐れて誰も御貌を覗き見る者はいなかったという。
 悋氣な天女の故、仲良き男女は共に詣らぬ習しがある。

 蝦蟆ヶ池は神の池で、ここに棲む生きとし生けるものは、古来から辯天樣の御使であり、特にも虵はその最も尊いものとされている。



慈覚大師円仁にまつわる伝説が伝わっているようですね。旧護岸からは土器も出土しているようですが、これは儀式用の物だったんではないでしょうか。だとすると、中世の頃には既に神聖な場所として認識されていたんではないでしょうかね。
本尊の弁財天像は、色白の豊かな頬を持つ美像で、光背の表現も見事でした。背後の童子像も似たような作風でした。
今では美しい庭園の様になっていますが、歴史ある古辨天を祀る御堂でした。



お次は毘沙門堂です。紅白に染められた幅広の御堂は、いつまでも見ていられる位美しいですねぇ仁王2では、この奥に隠し金山があるんですが、実際はどうなっているんでしょうか。



右側の扉から堂内に入れます。入り口近くには狛犬が置かれており、あらためて神仏混淆の霊地である事を実感させます。




狛犬:吽



堂内を見てみましょう。公式サイトにてご覧になれます。
・達谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺 / 達谷窟毘沙門堂諸堂

通常、寺院の内陣には、四隅に四天王が置かれていることが多いんですが、ここはその中でも毘沙門天に的を絞り、数え切れない位の毘沙門天像が置かれています。見ると作風は様々、大きさも様々、本当に不思議な空間です。
中央の厨子は伊達家が寄進したもので、中には円仁作の毘沙門天・吉祥天・善膩子童子像が収められていると言われます。

次にご由緒を見てみましょう。




達谷窟毘沙門堂綠起

 およそ1200年の昔、惡路王・赤頭・髙丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を拐さらう等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。
 そこで人皇五十代桓武天皇は、坂上田村麿公を征夷大将軍に蝦夷征伐の勅を下された。対する惡路王等は達谷窟より3000余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発するとの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。
 延曆20年(801年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、惡路王・赤頭・髙丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝は毘沙門様の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を模して9間4面の精舎を建て、108体の毘沙門天を祀り、鎮護国家の祈願所とし、窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付けた。
 翌延曆21年(802年)には別當寺として達谷西光寺を創建し、奥真上人を開基として東西30余里、南北20余里の広大な寺領を定めた。

 降って前九年後三年の役の折には源頼義公・義家公が戦勝祈願のため寺領を寄進。奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公は七堂伽藍を建立したと伝えられる。
 文治5年(1189年)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が「吾妻鏡」に記されている。
 中世には七郡の大守葛西家の尊崇厚く、延徳2年(1490年)の大火で焼失するが、直ちに再建された。
 戦国時代には東山の長坂家より別當が赴き、多くの衆徒を擁したが、天正の兵火により、岩に護られた毘沙門堂を除き、塔堂楼門ことごとく焼失した。
 慶長20年(1615年)伊達政宗公により毘沙門堂は建て直され、爾来伊達家の祈願寺として寺領を寄進されてきた。

 昭和21年隣家から出火。御本尊以下20数体を救い出したが毘沙門堂は全焼した。昭和36年に再建された現堂は創建以来五代目となる。
 内陣の奥に慶長20年伊達家寄進の厨子を安置し、慈覺大師作と伝える御本尊毘沙門天・吉祥天・善𧸐師童子を秘佛として納める。次の御開張は令和24年(2042年)となる。

 毎月3日の月例祭・春秋の大祭を始め多くあるが、特に修正会は正月元旦から8日迄行われ、慈覺大師から二世別當恵海大和尚が伝え、1000余年も続く神事である。



元は108体もの毘沙門天像が置かれていたんですね。今ではそこまでの数には到底見えません。幾度も起こった火事や時の流れによる風化など、だんだんとその数を減らして行ったんでしょうね。
毘沙門天像の少なさについては菅江真澄も触れており、↓の様に記載しています。
かすむ駒形
天明6年(1786年)1月26日

 空は晴れてのどかである。きょうは達谷村(平泉町)に行って山王の窟を見ようと、千葉某の案内で深い雪をふみながら行った。たいへん高い窟の内に堂を作ってある。よこたわっている梯子をはるばると登ると、内部はひろそうである。真鏡山西光寺といって坂上田村麿の建立で、百八体の毘沙門天を安置してあり、鞍馬寺をうつした所といわれている。
 むかし、赤頭、達谷(たかや)などという鬼が、この窟に籠っていたのを、田村麿がうち平らげられたという。大きな円形のうちに、ささやかな田村将軍の霊像を据え祀っている。それが右手には、唐の軍扇を持たれている。
 正月二日の夜はここで、たいまつを投げあう祭があるので、板敷や柱がみなこげている。この正月二日の火祭を追儺(おにやらい)という。そのため、このように仮敷や柱がところどころ、むかしからやかれたのだという。
 百八体の毘沙門天王も、年を経てこわれて、今はわずかばかり残っているのを修理して、十体ばかりが立っている。蛇の歯、鬼の牙などの宝物があり、中尊寺で見たものと同じだった。
 梯子を下りて来ると、五尺ばかりの高さに鼻垂大仏という像が岩面に彫られてある。これは源義家将軍が弓の上弭で刻まれたもので、某仏の頭とかということだった。
 姫待が滝という所があり、また、かずら石というものがある。この滝のもとに達谷麿が身をひそめて、女が来ると捕えて、蔓でつなぎ、この岩にゆわえておいたという。また、葉室中納言某卿の御娘をも捕えたという物語がある。
​​平凡社 ワイド版東洋文庫68 菅江真澄遊覧記2 25ページ より引用

この追儺(おにやらい)という祭りですが、もしかして火災の原因の殆どはこの祭りだったんじゃないでしょうか?天正の兵火以外の火災原因は、民家からの出火以外書かれていませんが、僕はこの祭りが原因説を推したいと思います。
どういう結果になろうとも、大切な祭事であることに変わりはありません。

由緒などに出てくる姫待ヶ滝・髢石は、境内から少々離れたところにあります。駐車場から平泉町方面に車を走らせると見えてきます。
姫待ヶ滝は小さな滝ですが、水のベールが非常に見事な名滝です。



別角度から。達谷麿・悪路王・赤頭などと伝わる蝦夷ないし鬼たちは、この滝の側に隠れて人(おもに姫)が通りかかるのを待ったんでしょうね。それ故に姫待ヶ滝。今は不動堂に収められている不動尊も、もとはこの近くに置かれていたことから姫待不動尊と呼ばれています。



姫待ヶ滝から車で数分、髢石と呼ばれる巨岩が見えてきます。さらった姫の髪をここに縛ったとか、首を刎ねてここに置いたとか、様々な類型が伝わっているようです。
今では岩から木々が生え、本当にかつらをつけている様に見えなくもないです。



再び境内に戻ります。
次は田村信仰についての説明書きを見てみましょう。




中世文学の故郷  達谷窟と田村信仰

 征夷大将軍坂上田村麿公東征の霊跡である殺生禁断地、国指定史跡達谷窟に関する最古の記録は『吾妻鏡』文治5年(1189年)9月28日の条であり、それ以降『田村三代記』『諏訪大明神絵詞』『鹿島合戦』『神道集』等の中世文学や芸能の他、日本国中の社寺縁起にこの窟の名が記され、古来奥州で最も著名な窟であり、また窟毘沙門堂は岩窟に堂宇を構える窟堂としては、今なほ日本一の規模を誇る大堂であります。

 御創建の代将軍に於かれましては『公卿補任』に「毘沙門天ノ化身来タリテ我国ヲ護ル」と記されている様に、大将軍は神であり、その本地を毘沙門天と見なす田村信仰発祥の霊場として、貴賤の尊崇を集めて参りました。

 窟毘沙門堂内陣の扉の奥に祀られる御本尊様は、慈覺大師が毘沙門天の化現である田村麿公の御貌を模して刻し給う所の秘佛であります。それ故に毘沙門様に抱かれた床下の広い空間は往古より守護不入とされ、諸国行脚の遊行の聖や山伏、乞食等の休める安住の宿として、また合戦に敗れた武士が暫し身を隠し、而る後生まれ替わって行く再生の場として、さらには御先祖様の霊魂があの世から還り来て集う聖なる処として、現在も人の立入る事を許さぬ禁足地とされており、その信仰は「現世で毘沙門様を拝めば災に遇う事無く、極楽往生の際は毘沙門様が擁護し給ふ」と言われる程、隆盛を極めました。

 三つの鳥居を潜り達谷毘沙門堂の御神域及び別當の達谷西光寺境内に座す諸佛諸神に御参りすれば、延暦20年の創建以来、今も変わらぬ田村信仰の佇たたずまひを、きっと懐かしく感じられることでしょう。

「南無大慈大悲多聞天王」
「南無田村大將軍」
平成18年正月 合掌 別當



今回達谷窟では毘沙門天と習合していますが、東海道の難所鈴鹿峠では、その峠の神と習合し祀られている様なんです。恐らくこの様なエピソードは幾つもあって、田村信仰の実態は各地の神との習合という所にあると思います。
田村麿のことを、自分たちの崇めていた神と同じくらい力のある存在と捉えていなければ、この様な現象は発生しないと思うので、崇敬はよほどの物だったでしょう。

※↓他の土地に残る田村信仰に興味のある方はご覧ください!
・甲賀市 / 鈴鹿峠と田村麻呂信仰

この様に、古くからの信仰と田村麿を崇める信仰とが混ざり合い、現在の達谷窟毘沙門堂の信仰が形作られたんですねぇ!そんな特別な信仰に触れられる素晴らしい霊場でした。



達谷窟毘沙門堂の隣には、東北地方随一の磨崖仏、岩面大仏が見られます。
かなり摩耗しており、遠く昔に刻まれたことを実感させます。体は殆ど削れてしまっていますが、今でも顔の部分ははっきりと浮かび上がっています。



大仏の前には、鰐口が懸かった遥拝所が置かれており、そこに説明書きが建ててありました。




岩面大佛

 毘沙門堂西方の約そ十丈(約三十三m)にも及ぶ大岩壁に刻まれた磨崖佛は、前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養する為に陸奥守源義家公が馬上より弓弰を以って彫り付けたと伝えられている。
 この大佛は高さ五十五尺(約16.5m)、顔の長さ十二尺(約3.6m)肩幅三十三尺(約9.9m)全国で五指に入る大像で、「北限の磨崖佛」として名高い。
 元祿9年(1696年)の記録に「大日之尊體」(岩大日)その後岩大佛と記され、現在は岩面大佛と呼ばれている。

 猶、尊名は岩大日の記録から大日如來とする考えもあるが、拙寺では昔から阿彌陀佛の名号を唱えており、戦死者追善の伝說からも阿彌陀如來とするのが正しいと思われる。その証左として岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(1317年)には阿彌陀の種子である「キリク」が刻まれている。

 明治29年に胸から下が地震により崩落し、現在も摩滅が進んでおり早急な保護が叫ばれている。



岩面大仏は阿弥陀如来なんですね。
大日と呼ばれているのは、何だか真言宗の信仰の広まりを感じさせますが、この様に阿弥陀如来が”大日さま”とか呼ばれている例が青森県にもあるんです。大鰐町の神岡山 大圓寺の本尊は”大鰐の大日さま”と呼ばれる古仏で、まさに岩面大仏の状況と同じです。もともと阿闍羅山山頂の寺院に祀られていたとされています。いつか記事を書きたいと思います。

達谷窟毘沙門堂は余すところなく楽しめました・・・!そろそろ別当の方も見てみましょう。
西光寺の方に進んでいくと、一際立派な杉の木が生えています。奉行坊杉と呼ばれるこの杉には、面白いエピソードが残っているんです。



説明書きです。




奉行坊杉

 達谷窟毘沙門堂の祭事を司る僧を別當奉行という。奉行の指図により各坊の僧がこの杉の元に参集したので奉行坊杉と呼ばれる。
 「安永風土記」にも大杉と記される。昭和21年、隣家から出火し、西風に煽られた炎は毘沙門堂と辨天堂に燃え移ったが、この杉が西側の枝葉を失いながら炎を防ぎ、不動堂、鐘楼等の諸堂が類焼を免がれたのは、古来暫々雷が落ち神宿木である大杉に、火之神不動尊が降りた為であると云われた。



巨大で遠くからも見えやすかったからか、集合地点としても使われていた様です。

奉行坊杉を過ぎ、左の方を向くと立派な鐘楼が置かれています。杉によって火災から守られた堂宇の1つです。掠れてはいますが、丹が塗られて赤く染まっています。説明書きも見てみましょう。

鐘楼

 窟毘沙門堂、鹿島社と共に慶長20年(1615年)の建立と伝える。
 江戸時代には伊達藩が毘沙門堂と共に屋根の葺き替えを行っていた事が記録に残る。
 かつては板葺で120貫(約450㎏)の洪鐘を吊っていたが、昭和19年に戦時供出。昭和58年に150貫(約563㎏)の洪鐘を新鋳。
 平成27年に御修復を了え、面目を一新した。今でも五ツ(午前8時・辰刻)、九ツ(正午・午刻)、七ツ(午後4時・申刻)に昔ながらの打鐘で時を報せている。





鐘楼を過ぎると直ぐに不動堂があり、その向かいには閼伽堂が置かれています。名前からして水神を祀っている御堂だと思われます。



お待たせしました。今回の巡礼の札所、姫待不動堂です。早速ご由緒を!



姫待不動堂

 惡路王等は京から拐って来た姫君を窟上流の「籠姫」に閉じ込め、「櫻野」で暫々花見を樂しんだ。逃げようとする姫君を待ち伏せした瀧を人々は「姫待瀧」、再び逃げ出せぬよう姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪を掛けた石を「髢石」と呼んだ。

 姫待不動は智證大師が達谷西光寺の飛地境内である姫待瀧の本尊として祀ったものを、藤原基衡公が再建した。
 しかし年月を經て堂宇の腐朽が著しい為、寛政元年(1789年)當地に移された。
 桂材の一木彫で、全國でも希なる大師様不動の大像である。制作年代は平安後期で、岩手有形文化財に指定されている。

不動堂は、なんと智證大師(円仁)によって建立され、奥州藤原氏二代基衡公によって再建された御堂だったようです。何という華々しい由緒でしょうか、本当に面白いです。以前は茅葺・宝形造でしたが、現在は銅板葺き・宝形造でしょうか、鮮やかな色彩の御堂に生まれ変わっています。
調べていくと、2021年に火災があったようですが、その時に古い御堂は焼失してしまったんでしょうか?この新しい御堂の建立年代なども、いつなのかは不明です。

扁額もこのように見事な朱塗り。



御堂の中には火焔光背はありますが、不動尊像は有りません。現在絶賛修理中で、今年の9月に完成予定だそうです。
姫待不動尊は3m近い巨像だそうで、この火焔光背を背負った時の迫力は相当なものでしょうね修理後の姿を早く拝みたいです!



斜めから。
今年は不動堂本尊、姫待不動尊の修理が完了する記念すべき年です。御堂も本尊も一新され、生まれ変わった姿を拝むことが出来るんです。特に本尊は、造像当時の総カツラ材造に立ち返るそうで、1000年以上の時を超え、本来の姫待不動尊の姿をこの目に映せるというのは、本当に今からもって楽しみで仕方ありません

立替え前の不動堂は↓のリンクからご覧になれます。
・文化財デジタルコンテンツ / 達谷窟<たっこくのいわや>



最後に金堂を見て終わりましょう。西光寺の堂宇において、最も重要な御堂です。
金堂


 江戸時代には現在地に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていたが、明治初年に廢佛毀釋で破棄された。

 昭和62年(1987年)に再建に着手し、平成8年(1996年)に完成した。桁行五間梁間六間の大堂で、後世に技を伝える為、昔ながらの工法を用いて作られた。

 本尊は眞鏡山上の神木の松で刻まれた四尺(約120㎝)の藥師如來である。

​金堂は入場可能で、本尊の目の前でお参りすることも出来ます。

本尊の薬師如来像は、最近修復されたのかかなり煌びやかな姿をしています。螺髪は鮮やかな青色、身体と蓮台は輝く金色です。光背は火焔の様な赤と、後光の様な金色によって縁どられており、所々に独鈷が取り付けてあります。古刹に相応しい荘厳な本尊でした。
本尊の左右には年代物の十一面観音像と聖観音像が置かれています。像本体は錆や損傷(特に十一面観音の頭上の頭)が目立ちますが、光背や宝冠は新しく、光輝いていました。そちらも是非ご覧ください!



ご由緒を見てみましょう。
神鏡山 達谷西光寺

天台宗
開山:奥眞所上人
開基:坂上田村麿
本尊:薬師如来

別當 達谷西光寺 縁記
 「ここはお寺でせうか、神社でせうか」というご質問をよく頂きますが、江戸時代迄はどこの社寺でも神佛が仲良く一つの所におわしたのです。

 抑々達谷窟は征夷大將軍坂上田村麿公により達谷の靈窟に創建された毘沙門堂を根本道場とし、その御神域に建つ諸堂と、別當達谷西光寺境内の諸堂、及び鎮守社からなる神佛混淆の社寺で、昔のまゝなのです。
 古来毘沙門堂境内は殺生禁断地で、達谷西光寺境内と厳格に区別され、毘沙門様が主で別當は従来、毘沙門様に仕へ奉るのが勤めとされ、神事に関わる都合上、弔事に出仕した当日は、鳥居をくぐる事さえ叶わなくなるのです。從って壇家は一軒もなく、寺でありながら葬式を營まない大変珍しい寺であります。

 嘗て達谷西光寺に於ては、飛澤にあった別當達谷西光寺廣照院正念坊を筆頭に、樺澤坊、下田坊の天台三箇院、さらに赤部(あかぶ)の奉行坊を筆頭に敎覺院、龍覺坊、無量壽院といった本山派修驗の諸坊からなる一山寺院で、廣照院衆徒として勢い盛んでありました。然し度重なる戦乱で次第に荒廢し、江戸時代には本坊の正念坊と脇院の敎覺院を残すのみとなり、さらに明治維新の廢佛毀釋で、敎覺院は雲南神社として分離されて了ったのです。
 爾来達谷西光寺は一箇寺のみとなりましたが、法燈護持に努め、修正會や師走二日に執行される日本一早い毘沙門樣の御年越祭、そして四季折々に奉納される神樂等の諸行事を、今も大切に守り伝えているのです。

修験の寺であり、かつては幾つもの僧坊が置かれていたんですね。かつての僧坊の一つ、敎覺院は雲南神社となっており、こちらも今年度訪れてみたいです。

斜めから。
東北には、田村麿創建と伝わる神社仏閣は幾つもありますが、ここに関しては本当に田村麿が建てたんじゃないかと個人的には思っています。そう思わせるだけの歴史と文化が息づいており、何度訪れても感動が薄れません。
毘沙門天堂は幾度も焼失しますが、その度に建て直され現在に至っています。時の支配者からの後援を受けて、千年以上にも及ぶ長きに渡って崇敬され続けた霊地中の霊地です。その歴史と文化に、改めて感嘆のため息をつき、にやけ面で記事を眺めながら酒を飲むのでした・・・。



御詠歌
大悲心 姫待つ滝の不動尊 もるゝかたなき ちかひぞうれし
だいひしん ひめまつたきのふどうそん もるゝかたなき ちかひぞうれし

札所本尊:姫待不動尊 अचलनाथ

以前貰った御朱印です。

東北三十六不動尊霊場(姫待不動堂)



達谷窟毘沙門堂(以前貰ったもの)



達谷窟毘沙門堂(今回貰ったもの)



蝦蟆ヶ池辨天堂



最強のお札と名高い”牛王宝印”です。



公式サイトへのリンク
・達谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺

以上です。

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調子に乗って撮った写真ギャラリー

境内




仁王2 聖地巡礼

再現された達谷毘沙門堂



御堂の奥には隠し金山が広がる






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最終更新日  2026年02月25日 21時22分27秒
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