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かすむ駒形
天明6年(1786年)1月26日
空は晴れてのどかである。きょうは達谷村(平泉町)に行って山王の窟を見ようと、千葉某の案内で深い雪をふみながら行った。たいへん高い窟の内に堂を作ってある。よこたわっている梯子をはるばると登ると、内部はひろそうである。真鏡山西光寺といって坂上田村麿の建立で、百八体の毘沙門天を安置してあり、鞍馬寺をうつした所といわれている。
むかし、赤頭、達谷(たかや)などという鬼が、この窟に籠っていたのを、田村麿がうち平らげられたという。大きな円形のうちに、ささやかな田村将軍の霊像を据え祀っている。それが右手には、唐の軍扇を持たれている。
正月二日の夜はここで、たいまつを投げあう祭があるので、板敷や柱がみなこげている。この正月二日の火祭を追儺(おにやらい)という。そのため、このように仮敷や柱がところどころ、むかしからやかれたのだという。
百八体の毘沙門天王も、年を経てこわれて、今はわずかばかり残っているのを修理して、十体ばかりが立っている。蛇の歯、鬼の牙などの宝物があり、中尊寺で見たものと同じだった。
梯子を下りて来ると、五尺ばかりの高さに鼻垂大仏という像が岩面に彫られてある。これは源義家将軍が弓の上弭で刻まれたもので、某仏の頭とかということだった。
姫待が滝という所があり、また、かずら石というものがある。この滝のもとに達谷麿が身をひそめて、女が来ると捕えて、蔓でつなぎ、この岩にゆわえておいたという。また、葉室中納言某卿の御娘をも捕えたという物語がある。












姫待不動堂
惡路王等は京から拐って来た姫君を窟上流の「籠姫」に閉じ込め、「櫻野」で暫々花見を樂しんだ。逃げようとする姫君を待ち伏せした瀧を人々は「姫待瀧」、再び逃げ出せぬよう姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪を掛けた石を「髢石」と呼んだ。
姫待不動は智證大師が達谷西光寺の飛地境内である姫待瀧の本尊として祀ったものを、藤原基衡公が再建した。
しかし年月を經て堂宇の腐朽が著しい為、寛政元年(1789年)當地に移された。
桂材の一木彫で、全國でも希なる大師様不動の大像である。制作年代は平安後期で、岩手有形文化財に指定されている。



金堂
江戸時代には現在地に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていたが、明治初年に廢佛毀釋で破棄された。
昭和62年(1987年)に再建に着手し、平成8年(1996年)に完成した。桁行五間梁間六間の大堂で、後世に技を伝える為、昔ながらの工法を用いて作られた。
本尊は眞鏡山上の神木の松で刻まれた四尺(約120㎝)の藥師如來である。

神鏡山 達谷西光寺
天台宗
開山:奥眞所上人
開基:坂上田村麿
本尊:薬師如来
別當 達谷西光寺 縁記
「ここはお寺でせうか、神社でせうか」というご質問をよく頂きますが、江戸時代迄はどこの社寺でも神佛が仲良く一つの所におわしたのです。
抑々達谷窟は征夷大將軍坂上田村麿公により達谷の靈窟に創建された毘沙門堂を根本道場とし、その御神域に建つ諸堂と、別當達谷西光寺境内の諸堂、及び鎮守社からなる神佛混淆の社寺で、昔のまゝなのです。
古来毘沙門堂境内は殺生禁断地で、達谷西光寺境内と厳格に区別され、毘沙門様が主で別當は従来、毘沙門様に仕へ奉るのが勤めとされ、神事に関わる都合上、弔事に出仕した当日は、鳥居をくぐる事さえ叶わなくなるのです。從って壇家は一軒もなく、寺でありながら葬式を營まない大変珍しい寺であります。
嘗て達谷西光寺に於ては、飛澤にあった別當達谷西光寺廣照院正念坊を筆頭に、樺澤坊、下田坊の天台三箇院、さらに赤部(あかぶ)の奉行坊を筆頭に敎覺院、龍覺坊、無量壽院といった本山派修驗の諸坊からなる一山寺院で、廣照院衆徒として勢い盛んでありました。然し度重なる戦乱で次第に荒廢し、江戸時代には本坊の正念坊と脇院の敎覺院を残すのみとなり、さらに明治維新の廢佛毀釋で、敎覺院は雲南神社として分離されて了ったのです。
爾来達谷西光寺は一箇寺のみとなりましたが、法燈護持に努め、修正會や師走二日に執行される日本一早い毘沙門樣の御年越祭、そして四季折々に奉納される神樂等の諸行事を、今も大切に守り伝えているのです。






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