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2025年09月30日
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カテゴリ: 御朱印:山梨県
​陸奥から坂東を経て、奥多摩の山間部を抜け、やっとこさ辿り着いた甲斐盆地。1時間以上も山間の狭路を走った末に、山梨の平野部が見えてきた時には、冗談抜きで安堵の大ため息が出ました。
引っ越しを早々に終え、向かうは甲斐武田氏始まりの地。そこに鎮座するは武田八幡宮、ここから甲斐武田氏の長い歩みが踏み出されたのです。


武田八幡宮


韮崎市内の西方、釜無川を越えた先に神山町があります。町の背後には山塊が連なり、まるで西日本と東日本を分けるかのようです。そんな南アルプスの山々に見とれていると、大きな木造の鳥居が見えてきました。これは武田八幡宮の二之鳥居です。



説明書きを見てみましょう。




山梨県指定有形文化財
武田八幡宮二の鳥居 附・神額 輿石

平成12年10月12日指定

 武田八幡宮二の鳥居は、武田八幡宮にある三つの鳥居の一つで、社記によれば承久2年(1220年)に武田信義の弟、 加賀美遠光が修復・整備 したことが記録されています。江戸時代末期の棟礼によると、武田信虎の時代に再建計画が始まったとあるので、武田晴信(信玄)の時に本殿と同時に完成されたと考えられます。
 現在の姿は、鳥居の額束から元禄14年(1701年)に再建されたものであり、寛政元年(1789年)にも修理されたことがわかります。

 また鳥居の再興年代が記されている額束や、地域の祭礼の形態を残す輿石も含めて、地域の文化にとって貴重な文化財といえます。 本鳥居は、昭和60年(1985年)に市指定文化財に指定され、平成11年(1999年)の解体修理を経て、翌年12年に県指定文化財に指定されて、現在に至ります。
令和2年3月吉日 山梨県教育委員会 韮崎市教育委員会



建設されたのは13世紀、しかも南部初代光行公の父 加賀美遠光によるものらしいです。山梨県の寺院・神社の由緒書きにはよくよく加賀美遠光が登場しており、当地での影響力は相当のものだったのではないでしょうか。​

鳥居の脇には道祖神の小祠が建てられており、武田八幡宮へ向かう参拝者を見守ります。



二之鳥居から武田八幡宮までは数百mで、その道沿いに武田氏所縁の寺院などが置かれています。ちなみに二之鳥居がここまで大きいなら一の鳥居はどんなに立派なんだろうと思われるかもしれませんが、現在一之鳥居は両脚部しか残っておらず、参道を韮崎方面に向かった時、歩道にポツンと置かれていました。かつてはここで下馬し八幡宮に向かったそうです。



参道の突き当り、巨木が生い茂り、一気に森感が溢れます。特に石鳥居の両脇におがる杉は巨大で、いったいいつから生きているのか、途方もない長い時間をかけて育ったんではないでしょうか。こんな森厳の地に武田八幡宮は鎮座しているのです。



山門手前、参道の右脇には面白い石碑が置かれていました。碑面には小さな地蔵?観音?が幾躰も刻まれております。



説明書きです。




市指定文化財
一石百観音石像

 本石像は、宝永6年(1709年)に天下泰平・ 国土安全を願って一の鳥居付近の「お観音」という所に建立された。
 その後現地より約500m北にあった竜岩山 玉保寺に移されたが、玉保寺が明治時代の初めに廃寺となり、明治17年(1884年)に武田八幡宮境内に移された。その後昭和62年(1987年)に現地へと移された。
 石像の高さ、下部の幅ともに約1.7mの安山岩製で、頂部には阿弥陀三尊の梵字、その下全面には、西国三十三番・東国三十三番・秩父三十四番、合わせて百体の小観音像を七段に配列し、彫刻したものである。

 その後、一ヵ所で参詣できる方式が流行し、百観音を描く彫刻が各地に造られるようになる。このような時代背景によって本石像も造られたものと考えられる。
 一般的に見られる百観音石像は文字塔であるが、本石像のように像が彫刻されているものは珍しく、貴重な石像である。
 昭和60年2月1日に市指定文化財となる。
令和4年3月 韮崎市教育委員会



再び境内の入口に戻ります。よく見ると石鳥居の下には見事な石垣が築かれています。このような石垣は山梨県の至る所で見られます。時には棚田の畔の外側が石垣、というパターンもありました。武田氏の戦力の1つとして”百足衆”という組織があるんですが、それを統括していたのは軍師として名高い山本勘助。彼は金山開発を行っており、甲斐国の財政面を支えたともされています。金堀を行う採掘集団を率いていたようで、彼らが崇拝するのは百足・・・。もしかすると百足衆の本来の役割は金堀で鍛えられた採掘作業や土木作業であったのかもしれませんよね。宗像教授シリーズでも、この説をテーマとした話がありますので、興味のある方は調べて見てください。
とにかく武田氏が優れた土木建築技術を持っていたのは確かです。








山梨県指定文化財 昭和36年12月7日指定
武田八幡宮石鳥居 付正面石垣

 石造明神鳥居、大きな亀腹(礎石)上に立つ。柱には、双葉町志田の船形神社のそれと同様、見た目には胴張り(エンタシス)のごとくに感じられ、しかもがっちりと太く(径46cm)、これに比して柱上には台輪をはさんで置かれた幅の狭い鳥木や笠木は程よい真反りを示し、両端の切り方も内斜ではあるが後世のものほど極端でなく、増しも軽妙である。
 鳥居の貫に天正12年(補修)の銘があり、峡北地方の中世造営の鳥居の特徴を備えている。
 石垣は正面神社参道から鳥居を迂回して石階をつくる特殊な形態を呈し、石積技術も優れ貴重なものである。
平成10年3月吉日 山梨県教育委員会 韮崎市教育委員会



鳥居をくぐると脇に手水舎、現役です。



そんで随神門。彩色が見られない分、組物などは秀逸で見ごたえがあります。現在の随神門は天保12年(1841年)に再建されたものです。



門の内部には右大臣・左大臣。どちらも古めかしく、所々に彩色跡が見られます。胸部には武田氏の家紋である四菱が刻まれていました。
右大臣!



左大臣!
何気に阿吽になっていますね



門をくぐった先には幾つもの小祠が置かれています。かつて周辺部落で祀っていたものかもしれません。詳細は不明です。



参道の石段は一段一段の高さが控えめで、足腰への負担が少なく、非常に参拝者に優しい石段でした。石段の先に社殿が見えますが・・・拝殿でしょうか?



近づいてみると拝殿ではなく神楽殿が置かれていました。参道の途中、しかも拝殿の前に神楽殿が置かれるケースは、東北地方ではほとんど見られないんではないでしょうか。そういえば長野の諏訪大社も同じような配置になっていますねぇ。何か関係があるのかもしれません



神楽殿の奥、一段高いところに拝殿が置かれています。



正面から見ると、参道に対して真っすぐに置かれているわけでは無いと分かります。こうした点も不思議なところです。



ご由緒です。




武田八幡宮

祭神
・武田武大神(日本武尊の御子、足仲津彦命と兄弟)
・誉田別命(十五代応神天皇、八幡大菩薩、文武の神)
・足仲津彦命(十三代仲哀天皇、応神天皇の父、武の神)
・息長足姫命(十四代神功皇后、応神天皇の母、安産の神)

 当社は弘仁13年(822年)に勅命によって、九州宇佐神宮の御分霊を勧請奉祀し、地神の武田武大神と併祀して武田八幡宮と称したという。甲斐源氏の崇敬をあつめ、甲斐武田氏の初代当主となる甲斐守義光(新羅三郎)の曾孫龍光丸は、当社で元服を行い武田信義と名乗ったと伝わり、以来この郷一帯を寄進して当社を氏神とした。
 戦国時代になると武田信虎が信義以来信仰の厚い当社の再建に着手し、その後武田晴信(信玄)が天文10年(1541年)に当主になると本殿再建を引き継ぎ、同年12月23日に完成させ、現在もその姿を残している。
 勝頼の代になると、勝頼夫人が戦勝を祈念して天正10年(1582年)2月19日に奉納した願文は、武田氏を守る神社として厚く信仰されていたことを示している。武田氏が滅亡した後も徳川氏等によって保護されながら、広く信仰された神社である。
韮崎市教育委員会



9世紀に勅命によって創建された古社でした。甲斐武田氏の祖、武田信義公が元服を行ったのが当社と言うことで、非常に縁深い神社となっています。武田信義公は武田八幡宮から里の方に数百m下ったところの鳳凰山 願成寺に葬られており、願成寺は甲斐武田氏の菩提寺となっています。

普通に応神天皇を奉斎しているだけかと思っていたら、武田武大神という聞きなれない神格も祀っていました。調べてみるとこの神格は武田王(たけだのきみ)とも呼ばれる皇族だったんだとか。仲哀天皇と同じく日本武尊の子とされますが、記紀に記載されていないことからも実在は疑わしいですよね。同じく武田王を祀る神社は愛知県の宅美神社があるようです。
調べる前は武田”嶽”大神だと思っていて、山岳の神格化とも思ったんですが、どうやら違うみたいです。不思議な神格ですねぇ

拝殿内を除いてみると四菱の窓が取り付けてあり、当に武田氏発祥の社といった風情です。



拝殿から飛び出るように建てられているのは神輿舎です。その手前には小さな池もあり、側には小祠も添えてあります。



小池の隣には大きな石碑が建っています。これは武田勝頼夫人の祈願文を刻んだものだそう。公式サイトの説明を見てみましょう。
勝頼夫人願文

 武田勝頼公は、天正9年(1581年)12月24日新府城に入城しました。すでに形勢が悪く、織田信長に攻め立てられました。
 夫人は武田家の守護神である「武田八幡宮」に祈願を決意し、天正10年(1582年)2月19日「祈願文」を納めました。
 しかしながら願い届かず勝頼公一行は3月3日に新府城を後にし岩殿城へ向かいました。そこで小山田氏の裏切りにあい田野で悲しい最後を迎えました(3月11日)。
 時に夫人は19才、勝頼公は37。



碑文も見てみましょう。
うやまつて申 きくわんの事
南無きキやうちやうらい、八まん大ほさつ、此国のほん志ゆとして、竹たの大郎とかうせしより此かた、代々まほり給ふ、ここにふりよのけき新出きたつて、国かをなやます、よつてかつ頼うんを天とうにまかせ、命をかろんして、てきちんにむかふ、志かりといへとも志そつりをさえるあいた、そのこころまちまちたり、なんそきそよし政そくはくの神りよをむなしくし、あわれ身のふほをすててきへいをおこす、これミつからははをかいする也、なかんつくかつ頼るいたい十おんのともから、けき新と心をひとつにして、たちまちにくつかへさんとする、はんミんのなうらん佛はうのさまたけならすや、そもそもかつよりいかてかあく新なからんや、思ひのほにを天にあかり、志んいなをふかからん、我もここにしてあひともにかなしむ。涙又らんかんたり、志んりょ天めいまことあらは、五きやく十きやくたるたくひ、志よ天かりそめにもかこあらし。此時にいたつて神かんわたくしなく、かつかうきもにめいす、かなしきかな志ん里よまことあらは、うんめい此ときにいたるとも、ねかわくはれいしんちからあわせて、かつ事をかつ頼一しんにつけしめたまい、あたをよもに志りそけん、ひやうらんかへむてめいをひらき、志ゆめう志やうおん志そんはんしやうの事、ミきの大くわん、ちやうしゆならは、かつ頼我ともに、志やたんミかきたて、くわいろうこん里うの事、うやまつて申

天正十祢ん二月十九日 ミなもとのかつ頼うち

ふんわりと内容はわかりました。現状の厳しさを嘆きつつも、とにかく勝頼公の勝利を強く神仏に願っています。なんとも願いの籠った文書でしょうか。

神輿舎の裏手からは本殿が覗けます。武田八幡宮の本殿の脇に小さな社が置かれていますが、これは摂社の若宮八幡宮、十六代仁徳天皇(大鷦鷯命、十五代応神天皇の子)を祀ります。



説明書きです。




国指定重要文化財
武田八幡宮 本殿

・・・。
 本殿は三間社流造・桧皮葺で、身舎は桁行三間・梁間二間、柱は円柱を用い、組物は通肘木つきの和様出組として軒支輪を設け、組物間の中備は間斗束である。頭貫の先端は木鼻をつけ、室町期の特色を見せる。正面三間は幣軸構えとして金箔押しに八双金具で飾る両開きの板唐戸をつけ、扉の両脇の方立面を埋める松・竹の透彫装飾は豪華絢爛である。壁は板で、周囲には刎高欄つきの縁をめぐらし、両側に脇障子を備える。正面には昇高欄つき階段を設け、向拝前面に浜床を張る。向拝三間は面取り角柱で、組物は桁行外方にだけ二手先となる通肘木つきの連三斗組をおき、中備えに透彫の装飾を入れた暮股を飾る。 妻飾りは虹梁大瓶束で、屋根は桧皮葺の切妻造りで、前方の流れを延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流造りをなす。本殿全体は木割が雄大で、しかも装飾的意匠にすぐれた室町時代の特色を示し、武田氏隆興期の力強さを誇る遺構として貴重な有形文化財である。
令和4年3月 韮崎市教育委員会



続いて摂社 若宮八幡宮の説明書きです。




県指定文化財
武田八幡宮摂社 若宮八幡宮 本殿

 若宮八幡宮は大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る一間社流造りで、桁行1.5m、梁間1.2mで桧皮葺屋根の小建築である。社記によれば、承久2年(1220年)武田信義の弟である加賀美遠光によって造営されたと伝わっている。現在の姿は、様式や手法から桃山時代末期から江戸初期の建物と推定される。
 細部についてその特色をあげれば、身舎は出組斗栱に支輪をそえた取り扱いであるが、支輪の屈曲状態、木鼻の繰りと施された絵様、中備に配した各蟇股の脚の形態と脚端の若葉化、挿入された彫刻意匠、幣軸の形、妻飾りでは虹梁の渦状紋、派出された若葉の形、大瓶束の結綿。向拝では柱の面の大きさ、虹梁の木鼻の形態、手徒の輪廊と側面に示された絵様等がみられ、桃山時代末期ごろの優れた姿が残されている。
今和4年3月 韮崎市教育委員会



この様に本殿と摂社が並んでいるのは非常に面白いですよね!親子とされる祭神だからでしょうねぇ。なんとも粋な祀り方だと思いませんか?



本殿から左手、金網の脇を進んでみましょう。この先に末社が鎮座している様なんです。



木立の奥の方に社が建っていました。
これは末社の為朝神社。名前の通り源為朝を祀る社です。2つの社がくっ付いたような不思議な形をしています。



説明書きです。




為朝神社

 為朝神社は鎮西八郎源為朝を祀った神社で、元暦元年甲辰年(1184年)武田太郎信義が社殿を建立し、為朝の画像と大長刀を納め神霊を祀った。後文化13丙子年(1816年)3月源氏の直系深沢文兵衛源直房等がその衰頹を憂い、昔日の面影を再現したものである。
 古来、疱瘡除けの神として四方民の信仰厚く、遠近より賽する者多かりしが、明治維新後種痘の実施と共に参詣者も跡を絶つにいたった。戦後再び人文地史美術研究のため詣う人が日をあって増加している。
昭和56年10月 韮崎市観光協会



甲斐武田初代信義公による創建。祭神の鎮西八郎こと源為朝はトンデモエピソードをいくつも持っている最狂の武人です。武勇を轟かせるその姿は、武士からしてみると憧れの存在だったんではないでしょうか。源為朝は流刑先の八丈島から疱瘡神を追い出したという伝説もあり、疱瘡除けの信仰はそれにまつわるものでしょう。

社殿内部、左側には祠が置かれています。かつてはこれが野ざらしで置かれていたのかもしれません。小さいながらも木彫などは非常に秀逸です。



そしてなんと右側には源為朝の巨大像がありました。目方は3mくらいでしょうか?非常に大きかったです。力強く結ばれた口元が強者の風格を放っています。
因みにこの為朝神社の御朱印(見開き)もありますよ。



斜めから。
山梨県の神社一発目は甲斐武田氏発祥の地に鎮座する八幡宮。巨木生い茂る境内に、独特の配置で置かれる社殿、なんとも面白い神社でした。華美すぎない外観は、樹叢とよく調和していて趣のある雰囲気を作り出していました。
この調子で甲斐源氏の歴史を探っていきたいですね



今回貰った御朱印です。



公式サイトへのリンクです。
・~甲斐武田発祥の地~ 武田八幡宮

以上です。

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最終更新日  2025年10月13日 07時32分21秒
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