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内舟渡観音堂
本尊:如意輪観音
横枕観音堂跡(現 長根天満宮 )から大橋へ至る道は、江戸時代、八戸城下への近道として利用されていたため、多くの歴史が残されている。例えばその道筋に、庚申塔・義経伝説の矢留の泉跡・八戸南部九代信順公の別荘跡などを今日でも見ることができる。そして、橋を渡れば内舟渡の部落である。
この一帯は、根城南部時代(14世紀から)の交通の要所で、八戸湾が入り込んでいたため、内陸部の港という意味で「ないみなと」と呼んだ。当時はまだ橋が架けられていなかったため、舟着き場として根城城の城下町が形成され、八戸一にぎわっていた場所であった。
ところが、八戸藩成立(1664年)以降港町は、馬淵川河口や鮫・白銀が中心となり内舟渡は陸上運送の要所として変ぼうしていったのである。このころ大橋が架けられ、番所や橋守小屋が建ち、抜け荷や穀物の取り締まりを行ったり、制札が掲示されたりもした。巡礼道(旧道)は、現在の馬淵川土手であり、橋を渡ってすぐに「西左ハ五戸」「北右ハ市川」と刻まれた追分石が立っていた。この追分石は、川がよく氾濫したため、現在では、もう少し北の毘沙門塚境内に移安されている。
内舟渡の観音堂へは、五戸通りを西へ進む。現在は産業道路を左へ曲がった方が近いようである。ここは、江戸時代から茶屋が建っており、八戸八景のひとつに数えられていた。この風光明媚な景観を眺めながら巡礼者たちは一息ついたことであろう。
そこから200mほど西へ進むと、右手にブロック塀で囲まれた400坪(約1,300㎡)ほどの小じんまりとした共同墓地がある。墓石の名字は、ほとんどが沼田・船田・西野・在家の4家で占められている。明治以前まで各家の庭に置かれていた墓を、内舟渡の産土の神である当地へ集めたのである。ところが、水はけが悪く、雨が降ると沼地となり、地下から棺桶が浮き上がってくるなど地元の人々を悩ませたという。そこで、土を盛りあげ、現在のように、石畳を敷き、よく整備された境内となった。墓地入り口には「尊佛敬祖」と刻まれた墓地全面整備記念碑が立っている。
観音堂は、二間半四方で何度か改修されており、いちばん古い棟札では文久2年(1862年)3月24日のものが残っている。また、最近のものでは、昭和30年5月3日の棟札が残り、この時、御堂の前に茂っていた樹齢300年以上もの夫婦大木を切って堂舎建立したという。産業道路が開通する以前は御堂が現在の銀杏の前に建っており、墓地がちょうど道路の辺りであった。それを、全体的に後ろへ下げたのである。
御堂の入り口には、昭和46年(1971年)12月20日に氏子総代一同が御詠歌の扁額を奉納した跡を見ることができる。墓地の檀徒は、 来迎寺 ・青龍寺・ 光龍寺 ・ 對泉院 (これらすべては御城下三十三札所に含まれる)がほとんどであり、観音堂は、祝詞をあげる神社神道形式で儀式を執行している。いわゆる神仏混淆した霊地である。
御堂外陣には、明治時代からの祝いちょうちんが8個掛けられており、内陣中央には、観音の内御堂がある。さらに、この中に桐製の内々御堂が安置され、内々御堂の扉を開けると、白い布が垂れ下がっている。ふだんは御神体として人の目に触れることはなく固く扉が閉ざされているが、年に3回(1月21日・8月21日・12月20日)御開帳が許されている。
それは、5寸ほどの白木如意輪観音座像で、非常に女性らしく、やさしい顔立ちをしている。細い目に唇が朱色で、鑢がかけられており、念の入った御作仏である。その姿は、模範的な如意輪観音像であり、6本の手を待っている。右の上手は右頬にあて、われわれ衆生を救って下さる方法を考えており、真手は宝珠を持ち、下手は数珠を持ってわれわれに信仰を奨めている。左手真手には体の割に大きな法輪を手のひらに乗せ、上手は左膝に置き、下手は開蓮華と蓮葉を握って安らぎを与えている。また、背中には、当地方で珍しく、輪光背を背負っており、坐り方は右膝を立てた、いわゆる輪王坐である。
内御堂の棟札によると、「明治14年(1881年)5月6日、開眼師光龍寺二世駒井禅亮」と墨書きされていることから、この観音像が奉納される以前は、内舟渡部落の大火の際、焼失してしまったものと思われる。
とにかく「内舟渡の産土様」として根城南部時代から信仰されてきた観音である。境内の向こう側には、嘉永3年(1850年)の蒼前堂が鎮座しており、産業が発達し、まわりのものすべてが近代化してきても、この一帯は観音信仰の盛んな聖地であることにかわりはない。


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