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似鳥観音堂(飯近山観音堂)
本尊:似鳥観音 または 飯近山観音 とも (聖観音)
悩んだ末の特別札所
誰にでもうっかりや間違いはある。無事に巡礼を終え、八戸に帰った則誉守西上人は、 長者山山寺 の隠居所で「順礼文序記」をまとめる際、 悩みに悩んだ。その一文に次のように記している。「同行一同、先ヅ禪宗 福藏寺ノ裏門ヨリ入り佛前ヲ拝シ院主ト談話ノ後、案内二加ワリ飯近ノ観音堂ニ詣り三十二番ノ札ヲ納メ別當文珠院二雑話シテ・・・」と。
守西上人は、福蔵寺住職の案内で浄法寺の飯近山観音堂に参詣した際、ちゃんと御詠歌を詠み、三十二番の札を打って、別当(管理者)文珠院と雑談してから宿舎に入った。翌日、一戸の 実相寺 に三十一番の札を納め、雲岌上人と面会するが、ここで守西上人は青ざめてしまう。満願成就を目前にミスに気付いたのである。三十一番札所が軽米の 観音林観音堂 と実相寺の2ヵ所、成立してしまった。
このいきさつについて、『 天台寺 研究』創刊号(昭和55=1980=年、浄法寺町教育委員会)で山崎武雄氏は次のように記している。「守西上人が、実相寺を三十二番とする約束を実相寺住職 雲岌和尚としてあったにもかかわらず、三十二番の札を飯近山観世音に打ってしまうというミスから生じたものである」と。
守西上人は巡礼を始める2ヵ月前、雲岌上人と面談した。糠部巡礼を計画中であるとの話題になったところ、雲岌上人が「三十二番に定めてくれたら、実相寺に観音堂を建立する」と約束をしたため、後には引けなくなってしまった。そこで隠居所において守西上人が解決策として考えたのは、三十二番札所を約束通り実相寺とすることだった。守西上人は本来、実相寺を三十一番札所にしようと考えていたが、三十一番札所を観音林観音堂、 三十二番札所を実相寺、そして先に札打ちした飯近山観音堂を「拝み所札所」という、札所と同等の扱いの特別札所にしてつじつまを合わせた。そのため後世、観音巡りを行う巡礼者は三十二番札所について戸惑ってしまうことになる。
三戸の俳諧師・松尾頂水が明治18年(1885年)に 天台寺 と 法光寺 に奉納した「糠部三十三札所御詠歌奉納額」には、実相寺が番付に記されておらず、飯近山観音堂から移安した似鳥の観音堂を三十二番に定めている。
守西上人が、なぜこうまでして実相寺を札所番付に入れようとしたかといえば、雲岌和尚は守西上人の先輩だからである。今も昔も変わらなそんたくい人間関係のしがらみと忖度が見えてくる。また、歴史と伝統を持つ実相寺を番付から外すことは到底できなかった。
番外ともいえる似鳥の観音堂は、似鳥八幡神社境内に鎮座している。同神社は、毎年旧暦正月6日の夜に「祭斎(サイトギ)」という珍しい年占いの火祭りを催し、近年、話題になっている。
本尊の観音像は寛保2年(1742年)に浄法寺氏の一族、松岡家が甲州(山梨県)から勧請し、飯近山に観音堂を建立したという。その後、観音像は転々と人手に渡っていき、現在、天台寺参道の上り口の二戸市立浄法寺歴史民俗資料館に保管展示されている。高さ55㎝の一木造聖観音立像で、左手に蓮華を持ち、右手で蓮華を支えている。片膝を少し曲げた美しい姿態を保っていることが特徴で、切れ長の目の彫眼にふっくらとしたお顔、そして大きく増を結い、何回か漆を塗った跡も見られる。おそらくこの漆は浄法寺塗であろう。
天台寺参詣の際は、同資料館の似鳥の観音像も番外として拝みたいものである。
似鳥観世音
はるばると 尋ねて来れば似鳥の 大悲の山に ひびく瀬の音













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