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江戸川乱歩の長編「蜘蛛男」を読み終えて、「幽霊塔」を読み始めました。共に、挿絵が入った創元推理文庫の本です。 先日から、「三角館の恐怖」「孤島の鬼」「黒蜥蜴」を読み、そして「蜘蛛男」の順なのですが、乱歩の最高傑作とされる「孤島の鬼」はやはり面白かったです。現代では穏当を欠くという理由で、とても書けない設定だが、さすが乱歩と感心させられる物語でした。 で、「蜘蛛男」ですが、「蜘蛛男というと、年配のお方は、ああ、見世物の蜘蛛男のことか、と早合点をなさるかもしれぬ」との書出しで始まります。短い胴に足が短く腕が長くというような外見が蜘蛛みたいな、というそんな男ではなく、性格が蜘蛛のように残忍無比な殺人狂の犯罪を描いた作品です。 以降、ネタバレあります。 東京のとあるビルの貸事務所を借りた美術商を名乗る謎の男が、事務員募集の広告を出して、応募者のなかから自分の好みの女性を選び、それを空き家に連れ込んで惨殺する。バラバラにした体の一部をそれぞれ石膏で覆って、デッサン用の石膏像として学校や美術用具の店に配る。求人広告に応募したまま行方不明となった女性の姉が、犯罪学者であり素人探偵の畔柳(くろやなぎ)友助に捜索調査を依頼に訪れます。そして彼女も賊にさらわれて殺害される。 畔柳博士は警視庁の波越警部とも懇意であり、これまでにも警察に協力して難事件をいくつも解決に導いている人物だという。畔柳博士は助手の野崎青年とともに、蜘蛛男という凶悪犯罪者を追うことになります。蜘蛛男から畔柳博士に犯行予告の挑戦状が送られてくる。蜘蛛男の次の標的は女優の富士洋子で、畔柳博士や波越警部は彼女の身辺警護をするが・・・。 社会を恐怖に陥れる怪物蜘蛛男と名探偵畔柳博士の対決という形で物語が始まり、進むのですが、読んでいる間じゅう、何か落ち着かず、居心地の悪い、ヤキモキする気持ちが続きます。 読み始めるとすぐに、畔柳博士がうさん臭く感じられ、彼が怪しいと読者は気づくことでしょう。居心地の悪さ、ヤキモキする読書感は、主人公である名探偵に対する不信感であり、読者がすぐに気づいたのに、鈍感な警察の波越警部たちが彼を信頼しきっていることからくるのではないでしょうか。 これは、後半になって明智小五郎探偵が現れることによって、読者はようやく安堵できる。 明智探偵が現れるやいなや、すぐに畔柳博士の正体を暴露します。ここから蜘蛛男対明智小五郎の対決となって、読者はようやく信頼できる主人公を見出して安心することになります。 読者はすぐに、本来は主人公であるべきはずの探偵役 畔柳博士が怪しいと感じるので、ネタバレにはあたらないかと思うので書きますが、この探偵役の人物が真犯人だったというのは、ミステリ小説としては反則なのではないか? 最後まで読者に主人公だと思わせておいてそれをひっくり返すというならまだしも(こっちの方が反則か)、途中ですぐに探偵役が怪しいと感じることからの、そのために主人公不在の落ち着かない気持ちで読み進めることになってしまったのでは。 江戸川乱歩の通俗怪奇(猟奇?)冒険探偵小説です。以前に、乱歩の変態嗜好というか、死体愛玩、死体玩弄嗜好の倒錯性にゲンナリ、うんざりして、短編集を除いて持っていた乱歩の長編小説をすべて処分してしまいました。いま、改めてそれらを古本で買い求めて再読し始めました。以前と同じようにゲンナリするか、または異なった面白さを感じることになるか、現在の時点ではまだ不明です。
2023年03月27日
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「江戸川乱歩と名作ミステリーの世界」の創刊号「屋根裏の散歩者」(税込み499円)を読んだのがきっかけで、久しく読んでいなかった江戸川乱歩の長編作品を読み始めました。 とりあえず新潮文庫「江戸川乱歩名作選」に載っている中編「石榴」と短編の「目羅博士(目羅博士の不思議な犯罪)」を初めに再読し、創元推理文庫の長編「孤島の鬼」と「三角館の恐怖」を読了。そして「黒蜥蜴」を読み始めたところです。 江戸川乱歩の作品は、現時点では新潮文庫の短編集が2冊。光文社文庫と創元推理文庫、春陽堂の春陽文庫、角川文庫、集英社文庫などから出ていますが、自分的には光文社文庫の「江戸川乱歩全集」と創元推理文庫のものが気に入っています。 光文社文庫の全集は各巻700ページを超える分厚い本で、全30巻。 創元推理文庫のシリーズは連載時の挿絵が復刻されて載っているのが大きな特徴です。挿絵に興味がなければ文字が大きい光文社文庫が良いかと思いますが、昭和初期時代の雑誌や新聞に連載された当時の挿絵があることで、雰囲気が感じられて味わい深い感じがします。 私が江戸川乱歩を知ったのは、ご多分に漏れず小学校の図書室にあったポプラ社(光文社かも?)の「少年探偵団と怪人二十面相」のシリーズです。小学生の1、2年の頃に「少年」に載っていたのを読んだ記憶もありますが。 本格的に乱歩作品を読んだのは、1973年頃だったかに角川文庫から青い表紙カバーの、宮田雅之さんのおどろおどろしい切絵をデザインした大人向けの全作品が全20巻で刊行された時。この時に、「黒蜥蜴」「蜘蛛男」「魔術師」「吸血鬼」「黄金仮面」「地獄の道化師」などを読んだのですが、ストーリーなど内容はまったく憶えていません。 そんなわけで、これからの再読は初めて読むようなもので、新鮮な読書の楽しさを味わえそうです。 書店で隔週発売の「江戸川乱歩と名作ミステリーの世界」ですが、創刊号が499円だったけれど、第2号以降は1999円で、解説も解題も、註釈もない、ネットの青空文庫を製本しただけの内容です。第2号「D坂の殺人事件」、第4号「人間椅子」第5号「パノラマ島奇譚」、第9号「黒蜥蜴」第10号「怪人二十面相」と、乱歩作品の、この5冊を買うとしたら、全部で1万円にもなる。それだけのお金があれば、光文社文庫や創元推理文庫の本を何冊買えるだろうか(安い古本をさがせばもっと買える)。 光文社文庫の全集には解説、解題、註釈、著名人による「私と乱歩」が載っていて読みごたえがあります。創元推理文庫は復刻された挿絵が味わい深い本。それらを読む方がよほど楽しい読書時間を得られるのではないでしょうか。 先日、ネット通販で古本の創元推理文庫の長編作品を何冊が買って(送料を含めて一冊350円ほど)、その「孤島の鬼」「三角館の恐怖」を読んで、次に「蜘蛛男」「魔術師」「吸血鬼」と読み進めようかと思ったのですが、半世紀ぶりに読む「黒蜥蜴」にしました。この挿絵のすばらしさ。随所に挿絵があるのとないのとでは、雰囲気がまったくちがいますね。
2023年03月18日
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「江戸川乱歩と名作ミステリーの世界」創刊号(税込み499円)の「屋根裏の散歩者」を読み始めました。 現代でいうところの「アパート」の屋根裏に忍んで、各部屋をのぞき見をする男が、天井板の節穴から、眼下に眠っている男の口に毒薬を落として殺害するのを、明智小五郎探偵が看破する話です。江戸川乱歩の代表作ともいえるくらいに有名な短編ですが、私にとっては、「D坂の殺人事件」や「二銭銅貨」「心理試験」「陰獣」などの方がミステリ小説として面白いと思います。 江戸川乱歩のたくさんある作品では、長編よりも短編のほうが読んで面白いです。乱歩を読んだことがない若い人で、読んでみようかと思う人にお勧めするならば、やはり新潮文庫の2冊、「江戸川乱歩傑作選」と「江戸川乱歩名作選」です。入門書としての評価も高く、とりあえずは、この2冊から読むのが良いでしょう。 今回、発売された「江戸川乱歩と名作ミステリーの世界」ですが、第2号からは税込みで1999円になるという。現在の出版不況は、本の価格が高すぎるのが一因なのではないか?そんな状況下で、こんなに高額で、誰が買うのだろうか?という不安を感じます。 今回の隔週で刊行される名作シリーズは、ネットの青空文庫でも容易に読める作品ばかりです。この創刊号「屋根裏の散歩者」も青空文庫の文字データを製本しただけのものであり、解説や解題、注釈のページは一切なく、適正と思える価格は高くても1000円が上限ではないかと。 ミステリ好き、本好きにとっては、興味を感じる企画かもしれないけれど、全体に装丁が安っぽく、ページ数も少ない。こんなシリーズ本を買い続ける人がいるだろうか。 企画としては、このような安直なものより、江戸川乱歩に限定し、その代表的長編作品を各号、一作のみを取り上げて(短編なら2、3作品)、その本編全文と、乱歩文学の徹底的な研究分析と解説、評論。テレビや映画など映像化作品の紹介、複数の著名人によるエッセイを満載した分厚い、ソフトカバーにして、2段組みで400ページぐらいの紙質を落としても、読み応えのある読本にしたほうが読書人には受けるのでは? 定価1999円なら、それくらいのことは可能だと思いますが。 乱歩文学にくわしい識者への原稿依頼と、煩雑な整理と編集などに手間と費用をかけたくなく、ネットの青空文庫から持ってきたのをそのまま製本すれば簡単で安上がりだと。結局はそういうことでしょうか?
2023年02月18日
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大槻ケンヂさんが出ているテレビCM「江戸川乱歩と名作ミステリーの世界」を見て、興味津々、さっそく書店でその創刊号を買った。店頭には10冊ばかり平積みにされていました。 創刊号は499円(454円+税)です。第2号からは例のごとく、高くなって1999円(1817円+税)になります。 創刊号は江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」で、表題作と、「二銭銅貨」「赤い部屋」「蟲」「鏡地獄」「押絵と旅する男」の、全6編が収録されています。 レトロなデザインのハードカバー本で、この創刊号は全238ページぐらいです。 こういうのに目がないので、すぐに飛びついてしまいます。でも第2号からは1999円になるので、買わないと思う。でも第2号の「D坂の殺人事件」は欲しいなあ、でも高いなあ。 江戸川乱歩の他に、夢野久作、小栗虫太郎、坂口安吾、エドガー・アラン・ポー、コナン・ドイルなどが予定されています。全部で100号の予定だと聞きましたが、内容と価格がつりあわず、頓挫しないで最後まで完結できるのだろうか? 隔週の刊行です。
2023年02月17日
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グリム昔話集の「ラプンツェル(野ぢしゃ)」について、昨日のつづきです。 塔の上に幽閉されているラプンツェルが、自分の長い髪を窓から垂らして、それを王子が伝って上がってくる。愛し合うふたりは、魔女に知られないように毎晩、ひそかに逢引きを重ねます。 私が呼んでいる本、新潮文庫「白雪姫 グリム童話集1」(植田敏郎 訳)と、角川文庫「完訳 グリム童話 I さようなら魔法使いのお婆さん」(関敬吾・川端豊彦 訳)では、ラプンツェルが王子、つまり男性とあっているのを魔女が知るのは、ラプンツェルがうっかりと口を滑らせたからになっています。「王子さまは軽いのに、おばさまは重いので引き上げるのが大変だわ」と。それで、覚った魔女が怒ってラプンツェルを追い出してしまうことになる。 これを読んで、記憶をにあるものと違う感じがしました。古い記憶ではラプンツェルが「最近、洋服のウエストがきついの」と魔女に話したことで、彼女が妊娠しているのを知られてしまうのですが、今回呼んだ本では2冊とも記憶とは異なっています。 現在、ふつうに刊行されている「グリム童話集」は1857年に刊行された第7版だそうで、私の記憶にある話は、どうやらそれ以前の版だったようです。男との性描写や妊娠を暗示させる「洋服のおなかがきついの」というセリフが変更されたのだそうです。 読んでいて思ったのは、勧善懲悪(善を勧め、悪を懲らす)の内容であるグリムの昔話なのに、なぜか?、すべての発端である夫婦が、魔女が大切にしている畑から野ぢしゃを盗んで食べたこと、つまり盗みをした夫と、それをさせた女房は罰せられない。夫婦から子供を取り上げて塔に幽閉した魔女も罰せられないことです。 王子は塔から飛び降りた時にイバラが目に突き刺さって、痛い思いをして目が見えなくなる。魔女を裏切って妊娠したラプンツェルは髪を切られて追い出され、荒野の森でさみしく暮らすことになる。罰を受けたのは、若い王子とラプンツェルの方です。 親に内緒で、親の許可を得ないで若い男女が密かにデートをして妊娠してしまった、そのことが「悪」として描かれているのではないか。道徳観が現代人とは異なっているようです。
2023年02月10日
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「塔の上のラプンツェル」のタイトルでディズニーのアニメ映画になった、グリム昔話の「ラプンツェル(野ぢしゃ)」ですが、原作は、映画とは「塔の上に幽閉される」が同じだけで、ずいぶん異なる話ですね。 むかしむかしあるところに、子どものいない夫婦がいました。 ある日、奥さんが家の裏窓から見える、塀に囲まれた魔女の庭に生えている、新鮮でおいしそうなラプンツェルを見て、食べたくてたまらなくなりました。食べられないと思うほどに、その食べたい気持ちは強くなり、奥さんは次第にげっそりと痩せてしまいました。 ラプンツェルを食べさせないと死んでしまうと思った旦那さんは、塀を乗り越えて、こっそりと魔女の庭へ侵入しラプンツェルを盗んで来ました。念願がかなってそれを食べた奥さんは、もっともっと食べたいと、旦那さんに取りに行かせました。 それを見つけて怒った魔女は、もし夫婦の間に子どもが生まれたらその子どもを渡すことを条件に、ラプンツェルを好きなだけ持っていくのを許してくれました。 それからしばらくして、夫婦の間に女の子が生まれると、魔女が約束どおりに子どもを連れて行きました。魔女は子どもに「ラプンツェル」と名づけて、育てました。 ラプンツェルが12歳になると、魔女は森の中にある階段も出入り口もない高い塔にラプンツェルを閉じ込めました。魔女が塔の中へ入る時には、ラプンツェルに長い髪(12メートルもある)を下まで垂らしてもらって、その髪を伝ってよじ登っていました。 ある日、ある国の王子が偶然に塔の前を通りかかり、塔の上から聞こえてくる美しい歌声に聞き惚れました。塔の上にどんな女性がいるのか一目見てみたいと思っていると、魔女が髪を伝ってよじ登っているではないか。自分も試してみようと思いました。 こうして王子とラプンツェルは出会うなり、ふたりは恋に落ちました。昼は魔女が来るので毎夜ごとに秘密の逢瀬を楽しみ、王子はラプンツェルと結婚の約束をしました。 魔女は王子が通っているのを気づきませんでしたが、ある時、ラプンツェルがうっかりと口をすべらせてしまいます。「王子さまは軽くて楽なのに、おばさまは重いので引き上げるのが大変だわ」と。それを聞いた魔女は、男と会っていたラプンツェルを怒り、彼女の美しい長い髪を切り落とし、荒野にある森の中へ追い出しました。 ラプンツェルに会おうと塔を登ってきた王子は、待ち伏せていた魔女に嘲笑され、恋しい人に二度と会えないと絶望した王子は塔の上から飛び降りました。 いばらの藪に落ちた王子は棘で目を刺してしまい、王子の両目はつぶれてしまいました。盲目となった王子が森や荒野をさまよい続けていると、ラプンツェルがいる荒れた森にたどり着きました。 王子は聞き覚えのある歌声を耳にしました。ラプンツェルは双子の男の子と女の子を産んで、森の中で暮らし続けていたのです。 再会を喜んだラプンツェルが王子を抱きしめ、涙を流した、その涙が王子の目を濡らしました。すると、王子の目はもとのように見えるようになりました。 王子はラプンツェル親子を自分の国へ連れて帰り、長く幸せに暮らしました。 あらすじだけになりました。つづきは明日へ。
2023年02月09日
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古本で買った2冊、「完訳 グリム童話 I さようなら魔法使いのお婆さん」関敬吾・川端豊彦/訳 角川文庫と、「白雪姫 グリム童話集1」植田敏郎/訳 新潮文庫を読んでいます。「グリム童話集」は、19世紀にドイツのグリム兄弟(兄ヤーコプ、弟ヴィルヘルム)が古くから語り継がれた民話・説話をいろんな人から聞き集めて出版した本です。 1812年に初版第1巻(86編)、1815年に第2巻(70編)が刊行され、その後7回改訂版が出され、1857年の第7版が決定版とされるそうで、現在ひろく読まれているのは、この第7版だそうです。 日本ではドイツ語のメルヒェン、メルヘンを「童話」と訳したために子供向けの本だと思われていますが、「グリム昔話集」か「グリム説話集」とするほうが適しているのかもしれない。 何年か前に「本当は怖いグリム童話」という本がベストセラーになり、グリム童話のブームが起きたことがあります。「白雪姫」や「シンデレラ」などのディズニーアニメ映画のイメージしか持っていない人たちを対象に、そうではないんだよ、本当は残酷な刑罰や風習などが描かれていて、欲深く、悪いおこないをした者には、因果応報の恐ろしい刑罰が与えられ、報復されるのだぞ、というテーマだったのでは。「白雪姫」「灰かぶり」「鵞鳥番の少女」「ヘンゼルとグレーテル」「赤ずきんちゃん」などを読んだのですが、とても面白い話です。数ページの短い話なので、読みやすいし、長い話はしんどいなと感じる身としては、ありがたい読み物です。大げさに言えば、最近、これほど面白いと感じた本はありません。 厳しさを放棄した現代の甘っちょろい世の中。他人に迷惑をかけても平気な人たち、自分の欲望を満たすためには他人を傷つけても平気な人たち、何をしても許されると思っている人がたくさんいる。こんな世の中に、いったい誰がしたのだ? そんな現代だからこそ、このグリム童話集が面白く感じるのかもしれません。
2023年02月08日
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横溝正史さんの「悪魔の手毬唄」について2015年6月に書いているのですが、映画の事ばかりで、小説についてはふれていなかったようです。改めて再読したので、感じたことを書いてみたいと思います。 昭和30年、金田一耕助は旧知の岡山県警の磯川警部を訪ねます。 できるだけ辺鄙な田舎で静養をしたいと希望する金田一耕助に、磯川警部は岡山と兵庫の県境にある鬼首村を紹介する。 23年前に磯川警部が担当した鬼首村での殺人事件が迷宮入りしていて、警部は金田一耕助にその解明をひそかに期待したのです。昭和7年、「亀の湯」の女将 青池リカの亭主 源治郎が囲炉裏に頭を突っ込んで、顔が焼けて識別不能の状態で殺害された。犯人とされる詐欺師の恩田幾三がそのまま行方を断って見つからないという。警部は殺された方が恩田ではないかと考えていて、金田一耕助にその解明を期待したのです。 磯川警部の紹介状を持った金田一耕助は、鬼首村の「亀の湯」に逗留することになる。 金田一耕助は、お庄屋さんの法庵さん、鬼首村の有力者である仁礼嘉平と出会い、仁礼家と対立する由良家の後家 敦子、八十三媼の五百子。そして青池リカの息子である歌名雄、妹の里子。仁礼家の文子、由良家の泰子、らを知ります。 人気歌手の大空ゆかり(別所千恵子)が村に錦を飾って里帰りして来るというので大騒ぎのなかで、世捨て人のようなお庄屋さんの法庵さんが大雷雨の夜に行方不明となる。放庵さんは殺されたのか生きているのか? 続いて由良家の泰子が滝つぼで絞殺死体となって発見され、仁礼家の文子もぶどう酒工場で殺される。この連続事件が鬼首村の古い手毬唄の歌詞、「枡ではかって漏斗で飲んで」「大判小判を秤にかけて」をなぞっていることがわかります。 静養を望んでいた金田一耕助ははからずも磯川警部とともに鬼首村で連続殺人事件に立ち会うことになる。 これで何度目かを読む「悪魔の手毬唄」です。 再読すると、そのつど新らたな発見があるものですが、その反面、あれ?という納得いかない点が見つかったりすることもあります。 由良康子が滝つぼで殺された、そのお通夜に金田一耕助と磯川警部が出席する場面。その席での由良家の人物が簡単に書かれていて、「泰子の枕頭にひかえているのは、三人の真言宗のお坊さんのほかに、敦子と敏郎夫婦、それから敏郎の妹らしい夫婦とその子がふたり、そのほかにしなびて、しぼんだような老媼がひとり、数珠をつまぐりながらひかえているのが、金田一耕助の眼をひいた」とあります(角川文庫235ページ) 敏郎の妹らしい夫婦とは誰だろう? 殺された泰子が敏郎の妹のはずだが、他にも妹がいるとは初耳で、これまで一度も書かれていない。その妹らしい夫婦とふたりの子が出てくるのはここだけで、この前にも後も二度とでてこない。完全に意味も必要もないのではないか。 23年前の事件の発端となるのは、詐欺師の恩田幾三が由良家に逗留している間に主婦の敦子をたらしこんだ結果、泰子が産まれたのですが、恩田はこのことで味を占め、村の有力者の娘を次々と誘惑して子を産ませることになった。 由良家の主婦 敦子が恩田の誘惑にいとも簡単に応じたのは旦那の卯太郎が不能だったからです(仁礼の嘉平旦那が云っている。406ページ)。卯太郎旦那が自分の妻を満足させていれば、このような事件は起こらなかったのかもしれない。この鬼首村で起こった惨劇の原因の大もとを突き詰めていけば、卯太郎旦那の性的不能にあるのではないだろうか。 その卯太郎と敦子には、かろうじて敏郎がいて、不倫で産まれた泰子がいる。さらに235ページにあるような敏郎の妹がいるとしたら、卯太郎が不能だったという設定が生きてこなくなるのでは。 それと、「プロローグ」と「エピローグ」がありますが、ともに一人称で語られていて、「プロローグ」は「私」、「エピローグ」は「わたし」となっています。「エピローグ」の「わたし」は磯川警部ですが、「プロローグ」の「私」は、文面からでは磯川警部ではなくてY先生でしょうか?
2022年03月10日
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横溝正史さんの「獄門島」(角川文庫)を読み始めました。 金田一耕助シリーズの代表的作品であり、映画化や何度もTV化されてストーリーはおなじみのものになっていて、でも読み始めると面白くて夢中になってしまうのが横溝正史 金田一耕助シリーズです。 昭和21年9月下旬、金田一耕助は瀬戸内海の獄門島へと向かう。ニューギニアからの復員船の船上で戦友の鬼頭千万太が「おれが帰ってやらないと三人の妹たちが殺される」と言い残して病死した。「おれの代わりに獄門島へ行ってくれ」と頼まれた金田一耕助は、遺筆の紹介状を持って獄門島の鬼頭家を訪れます。 千万太の祖父 嘉右衛門は網元として大きな勢力を誇っていたが昨年亡くなり、千万太の父 与三松は気がくるって座敷牢に入っている。そして与三松が旅の女役者に産ませたという異母妹の月代、雪枝、花子。そんな本鬼頭家を支えるのは分家で従妹の早苗。早苗の兄の一(ひとし)は戦地から近々復員してくるという。「本家が死んで分家が助かって帰って来る」と知らされた三長老の了然和尚、村木村長、医者の幸庵。一方の網元として本鬼頭と対立する分鬼頭の後妻 志保は美少年の鵜飼章三に三姉妹を誘惑させて本鬼頭乗っ取りをたくらんでいる。 様々な人間模様と思惑が交錯するなか、花子が梅の木に逆さ吊りの死体となって発見される。それは千万太が恐れていた、三姉妹の無残な連続殺人の始まりだった。 金田一耕助シリーズの代表的作品であり、日本のミステリ小説最高の作品とされる「獄門島」ですが、私はそれほどの傑作とは思わない。かつて読んだ時に、花子の逆さ吊りの死体を発見したときに了然和尚の「きちがいじゃ仕方がない」の台詞から、以降にたびたび出て来る「気ちがい」「気ちがいさん」という言い方に辟易させられたからです。辟易したのは差別用語だからという理由ではなく、「与三松さん」でもよさそうな場合でも「気ちがい」となっている。こうまで連発しないでもよさそうなものなのに。 今、何度目かを読み返して、気が付いたのですが、こうまで連発させたのは横溝正史さんの意図的なものではないかと。了然和尚が花子の逆さ吊りを見ての「きちがいじゃが仕方がない」は言葉のトリックであり、活字のトリックなんだと。「気ちがいじゃがしかたがない」と受け取ったのは金田一耕助の勘違いであり、「木ちがい」「季ちがい」など、様々な意味にもとれる。そう考えると、「きちがい」を読者に意識させるために必要だったのかと。 兄の帰りを待つ早苗さんがラジオの復員だよりを聴いているのですが、角川文庫の104ページにラジオのプログラムが載っています。 6時15分 労働ニュース 6時30分 気象通報、今晩の番組 6時35分 復員だより 6時45分 カムカムの時間 この6時45分の「カムカムの時間」とは、NHKの朝のドラマ「カムカムエヴリバディ」の英語会話番組「カムカム英語」のことではないか?
2022年02月23日
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横溝正史さんの「三つ首塔」(角川文庫)を何年ぶりかで再読しました。「三つ首塔」は「小説倶楽部」(桃園書房)という雑誌に昭和30年(1955)1月から約1年間にわたって連載された作品。物語の背景は昭和30年であり、リアルタイムの時代設定になっています。 主人公 宮本音禰(みやもと・おとね)によるモノローグ形式の一人称小説です。 13歳の時に両親を失った音禰は伯母夫婦に引き取られ、伯母が亡くなったあとも伯父で 大学教授の上杉誠也とその姉 品子によって大切に育てられた。 ある日、音禰のもとに弁護士が訪れ、彼女の曽祖父 佐竹玄蔵なる人物がアメリカで成功し、その遺産100億円をゆずるという話を持ってくる。しかし、莫大な遺産を相続するには音禰のまるで聞いたこともない高頭俊作という男と結婚することという条件が付いていた。 伯父 上杉誠也の盛大な還暦祝いがおこなわれたホテルのパーティー会場で、余興に出演していたアクロバットダンサーが毒殺され、さらに別室で高頭俊作とみられる男の他殺体が、さらに高頭俊作をさがし出す依頼をしていた探偵も殺されているのが発見される。 清楚な令嬢として何不自由なく育てられた箱入り娘だったヒロインに莫大な遺産相続の話がもちあがり、彼女は高頭俊作の従弟を名乗る高頭五郎という謎の青年にホテルの一室で暴行されてしまう。自分を犯した男は闇商売の世界に顔が利く謎の面を持っていて、音禰は彼を悪党と恐れ疑いながら頼もしく思い、しだいに魅かれてゆく。 遺産相続の条件だった結婚相手の男が殺されたことで、遺産は音禰のほか佐竹玄蔵の血縁である男女8人に均等に分割されることになるが、それは権利者が減れば、そのぶんだけ取り分が増えるということだった。欲に目がくらんだ者たちのあいだに醜い欲と邪心が展開され、その関係者が次々と殺されてゆく。 横溝正史作品としては殺人にトリックはなく、ヒロイン音禰の視点で語られるので当然だけれども、彼女の眼前につぎつぎと血みどろの他殺体が。 警察に疑われて追及された音禰は高頭五郎を名乗る謎の男といっしょに逃走する。男を悪党と恐れ、殺人犯ではないかと疑うが、彼女はこの闇世界に勢力を持つ男を愛し、身も心も彼なしでは生きられなくなってしまう。 ミステリ小説にはちがいないけれども、これはヒロイン音禰の愛の逃避行を描いた冒険小説ですね。愛する男は本当に悪党なのか?そして音禰にふりかかる危機また危機の連続。金田一耕助は、ここでは活躍の場はなく、ラストでの救援者としてのみです。 横溝正史による異色作品であり、女性を主人公にした冒険小説。 この小説を読んで思い出したのですが、「愛」とはなにか? 「恋」とはなにか?。 愛するとは、相手の人が幸福になることを願うこと。恋するとは、その人を美しく思うことであると。 だとすると、この小説での真犯人の殺人動機は、愛ではなく、独占欲、所有欲でしかないのだろう。
2018年12月23日
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最近はまったく新刊本を買わなくなりました。 近所にあった書店が閉店してから1年が経ち、家の近く(歩いて行ける距離)に本屋さんがなくなったということもあるけれど、それ以前からも新刊で本を買うことが少なくなっていました。 昨日、古本屋で、角川文庫の横溝正史さんの金田一耕助シリーズの、たいへん珍しいというか、現在はなくなってしまった表紙カバーの本が何冊もあるのを見かけて、即行で購入。 杉本一文さんによるイラストによる表紙カバーです。現在はなぜかこのイラストが使われず、漢字一文字をデザインした味気ない装丁になってしまっている。杉本一文さんの懐かしいイラストが使われた本はすべて絶版になっていて、古本屋でさがすしか入手できなくなっています。 今回、幸運にも買うことができた本は、4年か5年前に期間限定で復刻された版です。この懐かしい杉本一文さんの表紙カバー本は貴重な物だと思うのですが、これを古本屋に売ってしまう人がいるなんて。そのおかげで私の手に入ったのですが。 今回買ったのは、「本陣殺人事件」「獄門島」「悪魔の手毬唄」「女王蜂」「八つ墓村」「迷路荘の惨劇」「悪魔が来りて笛を吹く」「三つ首塔」「病院坂の首縊りの家」(上下)の10冊。全部で3800円ばかりも費やしてしまったけれど(衝動買いで)、4年くらい前のものだから、すべてきれいな、傷みのない本です。「犬神家の一族」と、特に「白と黒」が欲しいのですが、その2冊はなくて買えなかったのが残念。「八つ墓村」なんかは、これで表紙の異なるのが4冊になってしまった。同じ作品でも時期によってカバーが異なるのでいろんなのがあって、すべてをコレクションしている人もいるそうです。 何度読んでもおもしろくて楽しませてくれる横溝正史さんの作品。その中でなにが一番かと問われたら、「八つ墓村」と答えます。「悪魔の手毬唄」と「犬神家の一族」も読み始めると夢中になってしまうけれど、やはり一番は「八つ墓村」ですね。
2018年02月25日
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108円の古本で、先日の偕成社単行本「シャーロック・ホームズの冒険」に引き続いて、「シャーロック・ホームズの思い出」(上下)「シャーロック・ホームズの帰還」(上下)も買いました。すべて傷も汚れも黄ばみもない、読んだ形跡のないきれいな本です。「シャーロック・ホームズの思い出」には、以下の12編が収録されています。「白銀号事件」 沢田洋太郎訳「黄色い顔」 沢田洋太郎訳「株式仲買員」 大村美根子訳「グロリア・スコット号」 沢田洋太郎訳「マスグレーブ家の儀式」 大村美根子訳「ライゲートの地主」 大村美根子訳「まがった男」 大村美根子訳「入院患者」 沢田洋太郎訳「ギリシア語通訳」 中尾 明訳「海軍条約」 中尾 明訳「最後の事件」 中尾 明訳「白銀号事件」は競走馬の白銀号が失踪し、調教師が頭を鈍器のようなもので殴られて殺される事件が起き、それをホームズとワトスンが調査する話です。 その冒頭部分に、「ホームズがこうまで分析し、考え込まなければならない事件といえば、ただ一つ、ウェセックス杯の人気馬の奇怪な失跡(しっせき)とその調教師がむざんにも殺されたことのほかなかった」(8ページ)と書かれているのを読んで首をかしげました。「失跡」? なぜ「失踪(しっそう)」ではないのだろう? ほかの本ではどうなっているのか?と思って、新潮文庫の「シャーロック・ホームズの思い出」(延原 謙訳)の同じ箇所を開くと、ちゃんと「失踪」となっている(しっそう、と振り仮名がある)。 河出文庫の「シャーロック・ホームズの思い出」(小林司/東山あかね訳)も同じく「失踪」と書かれています。 光文社文庫「シャーロック・ホームズの回想」(日暮雅通訳)は「失跡」となっていて、これは「しっせき」の振り仮名がない。 失踪と失跡。どのように使い分ければいいのでしょうか? 私にとっては、通常は「失踪(しっそう)」であり、「失跡(しっせき)」は使ったことがありません。 辞書で意味を調べると、「失踪」は、家を出て行方の知れないこと。失跡。とあり、「失跡」は、行方がわからなくなること。失踪。となっています(集英社 国語辞典)。「踪」(そう)を漢和辞典で調べると、「あと、足あと、あとかた、ゆくえ、ありか、あとをつける」となっていて、「跡」(せき)は、「あと、足あと、あとかた、ありか、残り、あとつぎ、あとを追う」と解説されています(小学館 漢和辞典)。 結局のところは、どちらも同じ意味で、どっちを使ってもいいような感じですが、一般的にはやはり「失踪(しっそう)」が広く使われるのではないだろうか? 新聞では漢字制限があり、「失踪」が使えないので「失跡」に漢字を置き換えたとも云われています。 ただ、この偕成社単行本「シャーロック・ホームズの思い出」にある「白銀号事件」では「失跡(しっせき)」としながらも、同じ本文中で「失踪(しっそう)」も出てくる(29ページ)。「そこの連中は、本命馬の失踪(しっそう、と振り仮名がある)に、利害関係があるわけです。調教師の--」と。 この「白銀号事件」の翻訳で気になるのは、人が書いた同じ文の中で「失跡」と「失踪」の両方を使うだろうか?ということです。同じ人が書いた文章では、どちらかに統一されているのが普通ではないだろうか? 考えたのですが、人間が行方不明になるには、自分の意思で行方をくらます場合と、自分の意思ではなく他人の力によって拉致や誘拐される場合がありますが、失踪と失跡はそのような場合によって使い分けるということはないのでしょうか?
2018年02月20日
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古本の108円コーナーで見かけて購入した「シャーロック・ホームズの冒険」。 偕成社の単行本で、上下2巻です。読んだ形跡がないので、買ったが読まずに古本屋に売ったのでしょうか?このようなきれいな本が安く手に入るのは得した気分になります。「ボヘミアの醜聞」 常盤新平訳「赤毛連盟」 常盤新平訳「花むこ失踪事件」 常盤新平訳「ボスコム谷の謎」 中尾 明訳「五つぶのオレンジの種」中尾 明訳「唇のねじれた男」 中尾 明訳「青い紅玉」 平賀悦子訳「まだらの紐」 平賀悦子訳「技師の親指」 平賀悦子訳「独身の貴族」 各務三郎訳「緑柱石の宝冠」 各務三郎訳「ブナ屋敷」 各務三郎訳 偕成社のシャーロック・ホームズ全集全14巻のうちの「シャーロック・ホームズの冒険」上下巻で、短編が全12編収録されている。各巻の巻末に作品解説とドイルの年譜、各務三郎さんのエッセイが載っています。シドニー・パジェットの挿絵入り。 探偵小説または冒険小説としてのシャーロック・ホームズの面白さはコナン・ドイルの語り口の巧みさによるものでしょう。毎話、その出だしを読んだだけで、たちまち物語にひきこまれてしまう。ホームズのもとに持ち込まれる事件を、ホームズが解き明かし、解決してゆくのを、ワトスンの視点で語る一人称小説として、ワトスンに同化した読者が事件に立ち会うという形です。アイリーン・アドラーという女性と一緒に撮った写真を取り返してほしいというボヘミア国王の依頼に始まって、女性家庭教師が高額の給料で雇われたことに不審を感じた依頼までの12編。「緋色の研究」や「四つの署名」のような長編より、私は、この「シャーロック・ホームズの冒険」や「シャーロック・ホームズの思い出」「シャーロック・ホームズの帰還」のような短編集のほうに、その面白さがあるように思います。「ボヘミアの醜聞」「赤毛連盟」「まだらの紐」「ブナ屋敷」など、おなじみの物語だけれど、何度読んでもおもしろく感じるのは、やはり名作といわれる所以なのだろう。 シャーロック・ホームズの探偵小説がある人生と、ない人生、どちらの人生が楽しいか? やはりある人生のほうが何倍も良いのではないか。読書という至福の時間がある人生とない人生、どちらが充実しているか、とも言えるかもしれないが。
2018年02月14日
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ジュール・ヴェルヌの小説「神秘の島」(偕成社文庫 大友徳明 訳)第1~3部全3巻を読みました。 1874年から75年にかけて「教育と娯楽書店」という雑誌(エッツェル社)に連載された作品で、のちに単行本として刊行。「教育と娯楽書店」はピエール・ジュール・エッツェルが創刊した若者向けの雑誌で、ジュール・ヴェルヌの作品を世に送り出す貢献をした人物です。 映画「SF巨大生物の島」(1961)の原作として知られている冒険小説ですが、読むのはこれが初めてです。 南北戦争末期の1865年、北軍に包囲された南部連合の拠点リッチモンドから、捕虜となっていた5人の男と1匹の犬が気球に乗って脱出する。彼らはハリケーンの暴風に流されて南太平洋の無人島に漂着する。 その地図にも載っていない絶海の孤島での、彼らのサバイバル生活と冒険を描いた作品です。サイラス・スミス・・・博学で高度な知識を持つ技師。ジェデオン・スピレット・・・新聞記者。従軍記者だった経歴から射撃が得意。医療技術もある。ペンクロフ・・・陽気な水夫。大工仕事が得意。ナブ・・・サイラス・スミスの召使いだった黒人青年。料理が得意。ハーバート・・・博物学に通じ、植物や動物について知識を持っている聡明な15歳の少年。トップ・・・サイラス・スミスに飼われていた忠犬。のちにエアトンという、悪人だったが改心した男が彼らの仲間に加わる。ほかに、ジュップと名付けられた利口なオランウータン。 彼らは無人島で生活することになるのだが、まずは火をおこすこと、風雨を避ける住まいを見つけることから始まり、食料の調達。それだけではなく、博学な技師サイラス・スミスの指導のもと、彼らは遭難者ではなく開拓者であろうとし、建築・土木・化学などの知識を駆使して生活環境を整えてゆく。粘土を焼いてレンガを作り、炉を作って陶器を焼く。発見した鉄鉱石や石炭から鉄の農具や工具を作る。畑を作り、家禽小屋を作り、放牧場を作る。木を切り出して川に橋を掛け、オナガーというウマ科の動物を馴らして荷車を引かせる。鉱石から硫酸や硝酸を精製し、綿火薬やニトログリセリンを作る。 彼らは不屈の精神をもって絶海の無人島に文明を作り出そうとします。 そして、彼らが窮地に陥るたびに、不思議なできごとが起こって陰から助けてくれる謎の存在があった。 人間は社会をつくることによってお互いに補いあっているのだ、ということを教えてくれる小説です。人間は一人では生きられない。どうしてもいろいろな他人が必要であり、社会では各人の役割がある。だから世の親たちは自分の子供に「社会の役に立つ人になりなさい」と教え諭すのだろう。 この小説が読んでいて楽しいのは、彼らのグループの中に、その小さな社会の調和を乱す者がいないということだろうか。自分さえ良ければいいという勝手な奴がいない。各人が自分の役割を自覚し、協調性に富んだ人物ばかりだというのは気持ちが良いものです。
2017年12月21日
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明智小五郎探偵の助手 小林芳雄くんを団長とする10人の少年たちで組織された「少年探偵団」。 団員は中学1年生が3人、小学5年生が1人、小学6年生が6人。彼らはBDバッジなるものを持っています。 小林くんが発案して作られた探偵団員の記章で、少年(Boy)と探偵(Detective)のBとDを模様のように組み合わせてデザインされている。 このBDバッジを、第2巻「少年探偵団」(ポプラ文庫クラシック)では100円銀貨のようなものと表現されています。いっぽうでは第3巻「妖怪博士」(ポプラ社単行本の廉価版)では50銭銀貨ほどの大きさ、と書かれています。 これらの作品が発表されたのは昭和11年から13年にかけてだから、まだ100円銀貨なるものは存在しないはずで、100円は当時はたいへんな高額であり、ほんらいは50銭銀貨が正しいのでしょう。 ポプラ文庫クラシックは、昭和39年(1964年)に刊行されたシリーズをそのままの内容(表紙も挿絵もそのまま)で文庫サイズ化したものです。この懐かしい表紙絵や挿絵と、現在では不適切とされる表現も当時のままで掲載されていますが、この100円銀貨だけは時代を昭和39年にあわせたのだと推測されます。 私が持っている第2巻「少年探偵団」はポプラ文庫クラシック。第1巻「怪人二十面相」と第3巻「妖怪博士」、第5巻「青銅の魔人」がポプラ社が現代風の装丁で1998年10月に刊行した単行本を廉価版にしたものです。 で、文庫本より二回りほど大きいサイズの単行本廉価版ですが、こちらは不適切とおもわれる表現は、一部表現を変えたりカットされているようで、どこがどう変えられているかは比較してみないとわからない。ただ、こちらの「50銭銀貨」は昔のままの表現になっているようです。 で、100円銀貨ですが、現在の100円硬貨は白銅貨であり銀貨ではありません。 東京オリンピックが開催された年である昭和39年の100円玉は「銀貨」でした。銀が60%も含まれている(銅30%、亜鉛10%)。直径22.6ミリ。重さ4.8グラム。昭和34年(1959)発行。 その後、昭和42年(1967)に、現在でも流通している白銅貨の100円硬貨が発行された。白銅とは銅を主体としたニッケルとの合金のこと。この100円硬貨は銅75%、ニッケル25%です。直径と重さは同じ。 少年探偵団は、子供たちが怪しい男の尾行追跡などをするのですが、現代の親はそんな危険なことをするのを許さないですね。
2017年11月07日
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秋の夜長、江戸川乱歩の「怪人二十面相」(ポプラ社)を読み終えて2冊目の「少年探偵団」を読み始めました。 少年探偵シリーズの第1作「怪人二十面相」は、戦前の昭和11年に「少年倶楽部」に連載された児童向けの作品です。 二十面相とは、変装がとびきりじょうずな、二十のまったくちがった顔を持つといわれる盗賊。「どんなに明るい場所で、どんなに近寄ってながめても、少しも変装とはわからない、まるで違った人に見える。老人にも若者にも、富豪にも乞食にも、学者にも無頼漢にも、いや、女にさえも、まったくその人になりきってしまうことができる」。 ほんとうの年はいくつで、どんな顔をしているのか、だれひとり見たことがない。二十の顔を持っているが、そのうちの、どれがほんとうの顔なのだか、だれも知らない。たえずちがった顔、ちがった姿で、人の前にあらわれる。そういう変装の天才みたいな賊だから警察もこまっているという。 そして、その怪人二十面相は宝石とか美術品とか、美しくてめずらしくて高価な品物だけを盗む。現金には興味がなく、人を傷つけたり殺したりする、ざんこくなふるまいは一度もしたことがない。血がきらいなのです、と。 そういう怪人二十面相に、名探偵明智小五郎と助手の小林少年が、のちには少年探偵団が登場し、数々の謎に挑み、知恵比べの対決がおこなわれます。 いま手元にあるのは「怪人二十面相」「少年探偵団」「妖怪博士」「青銅の魔人」の4冊(写真)。 私が「少年探偵」シリーズを知ったのは昭和36年か37年頃だったと思うのですが、兄が購読していた「少年」に掲載されていたのを読んだのが最初です。時期的に見て「電人M」か「妖星人R」あたりではないかと? ふつう私たちのイメージするポプラ社の単行本が刊行されたのは昭和39年だそうで、小学校の図書室に並んだのが同時期だとすれば、私の記憶にある図書室の書棚に「少年探偵団」の本が何冊もあった光景は、その時のものだろうか。それともそれ以前の光文社版だったのか? 最近、岩波文庫から「怪人二十面相/青銅の魔人」と「少年探偵団/超人ニコラ」の2冊が発売されたのを書店で見ましたが、1000円前後と高価なものです。 このような児童向け作品を懐古的な気持ちをもって読むのなら、私がいま読んでいるポプラ社の児童向け書籍のほうが安価(600円前後)だし、挿絵もあって気分を味わえるのではないか? 頭脳明晰で、ハンサムでスマートな風采の名探偵と探偵事務所と助手の少年。警視庁の捜査係長、警官隊の出動。悪党団のアジト。主人公が地下室などに監禁され、部屋の天井や壁が狭まってきて押しつぶされそうになる危機など、このような設定や展開は、私たちが親しんだテレビや漫画のヒーロー物「月光仮面」「七色仮面」「少年ジェット」などでお馴染みだけれど、だとすればそれらの原型となっているのが、江戸川乱歩の「少年探偵」シリーズなのではないだろうか。 江戸川乱歩の「少年探偵」シリーズに親しんだ少年少女の数は1億人に達するでしょう、と「怪人二十面相」のあとがきに書かれているけれど、たしかにそのとおりだと思います。子供の時に、このシリーズを読んだことで読書の楽しさを知った人も多いのではないでしょうか。戦前「怪人二十面相」 「少年倶楽部」昭和11年1月~12月「少年探偵団」 「少年倶楽部」昭和12年1月~12月「妖怪博士」 「少年倶楽部」昭和13年1月~12月戦後「青銅の魔人」 「少年」昭和24年1月~12月 戦後の第1作
2017年11月03日
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角川文庫に横溝正史作品が収録された最初が昭和46年(1971)の「八つ墓村」。そして昭和50年(1975)秋にそれまでに刊行された25点を「横溝正史フェア」として大々的に売り出した。 同時期に映画ではATGの「本陣殺人事件」(9月27日)が封切られて、横溝正史、金田一耕助の名前が、私のような若者のあいだにも知られるようになり、ブームの兆しが見え始める。 そして翌年の昭和51年に角川映画「犬神家の一族」(10月16日東京で先行ロードショー。全国公開は11月)が公開され、大ブームが起きる。 続いて昭和52年には東宝映画として同じ市川崑監督、石坂浩二主演で「悪魔の手毬唄」(4月)「獄門島」(8月)が立て続けに封切られ、角川春樹さんの「読んでから見るか、見てから読むか」の宣伝文句が功を奏したのか、映画が大ヒットし、文庫本が1000万部を越える売れ行きとなる。 1976年 日本映画ランキング 金額は配給収入1位「続人間革命」 16.0億円2位「犬神家の一族」 13.0億円 3位「男はつらいよ 葛飾立志篇」 11.9億円4位「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」 9.7億円5位「絶唱」 9.1億円6位「風立ちぬ」 7.9億円 7位「トラック野郎 爆走一番星」 7.7億円8位「嗚呼!! 花の応援団」 6.4億円9位「不毛地帯」 5.4億円10位「トラック野郎 望郷一番星」 5.4億円 1977年 日本映画ランキング 金額は配給収入1位「八甲田山」 25.0億円2位「人間の証明」 22.5億円3位「八つ墓村」 19.8億円4位「トラック野郎 天下御免」 12.8億円5位「トラック野郎 度胸一番星」 10.9億円6位「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」 10.8億円7位「泥だらけの純情」 9.8億円8位「春琴抄」 8.8億円9位「男はつらいよ 寅次郎と殿様」 8.4億円10位「悪魔の手毬唄」 7.5億円 映画では昭和52年(1977)の「人間の証明」も角川映画です。角川書店から単行本として出された森村誠一さんの新作ミステリ小説の映画化で、「母さん、ぼくのあの麦わら帽子どこへいったでしょうね」のテレビCMが流れ、横溝正史作品の文庫本刊行と並行して、森村誠一作品の文庫本も書店にたくさん並べられた。「読んでから見るか、見てから読むか」は横溝作品と森村作品に共通する宣伝文句です。 横溝正史と金田一耕助の大きなブームは角川文庫の角川春樹さんが火を着けたものです。 当時、引退同然で忘れられた作家だった横溝正史さんを復活させたのが角川春樹さんであり、それがなかったとしたら、その後の映像作品もすべて存在せず、金田一耕助の名前が現在まで残っていたかわからない。 私が初めて読んだのは、この角川文庫と角川映画がヒットした時期であり、これらが存在しなかったとしたら、横溝正史も金田一耕助の名前も知ることがなかったかもしれません。その意味では角川春樹さんの功績は大きいでしょう。 上の画像は片岡鶴太郎さんと牧瀬里穂さんで、テレビの金田一耕助で、1990年から98年にかけて全9作品あります。人なつっこいキャラクターが私の好みに合っていて、原作小説のイメージとしても違和感がない。映画の石坂浩二さんは存在感が最高にすばらしいけど、テレビでは鶴太郎さんのがいちばん好きです。
2017年10月01日
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横溝正史さんのミステリ小説「迷路荘の惨劇」(角川文庫)を読んでいます。「迷路荘の惨劇」は昭和50年(1975)5月に東京文芸社から単行本として出版された、比較的あたらしい作品。 このあと、「病院坂の首縊りの家」(昭和50年12月~52年9月 野生時代)があり、「悪霊島」(昭和54年1月~55年5月 野生時代)が最後の作品となる。横溝正史さんは昭和56年(1981)12月28日に亡くなります。 角川文庫では「八つ墓村」昭和46(1971)年4月、「悪魔の手毬唄」昭和46年7月、「犬神家の一族」昭和47年6月、「悪魔が来りて笛を吹く」昭和48年2月、「本陣殺人事件」昭和48年4月、「女王蜂」昭和48年10月など、角川春樹さんが当時は引退同然で忘れられていた作家だった横溝正史さんに注目して、その代表的作品を次々と文庫化し、昭和50年の秋はそれまでの25点500万部を「横溝正史フェア」として大々的に売り出して成功した年です。 横溝正史さんは昭和39年(1964)8月の「夜の黒豹」のあと休業状態に入っていたのですが、角川春樹さんの働きかけによって、10年後の昭和49年に久方ぶりの新作「仮面舞踏会」を書き下ろしで発表。本作「迷路荘の惨劇」は、その横溝さんが復活した2作目になります。 昭和25年。金田一耕助は戦後の闇商売でのし上がった篠崎慎吾から依頼されて富士山麓にある別荘 名琅荘へ出向く。明治の元老古館種人が富士山麓に建てた名琅荘(めいろうそう)を篠崎はホテルとして開業する目的で入手したが、その名琅荘に篠崎の紹介といつわって投宿した片腕の男が姿を消した。名琅荘は20年前に凄惨な殺人事件があったいわくがあり、その事件の重要人物が片腕を斬り落とされたまま逃亡していまだに消息不明ということもあって、不安を感じた篠崎は金田一耕助に調査を依頼した。 名琅荘の各所には抜け穴やどんでん返しなど、古館種人が暗殺から身を守るための秘密の設計がなされている。 金田一耕助が名琅荘に到着した早々に、ホテル開業前に招待された客の古館辰人が倉庫に置かれた馬車に乗せられた状態で絞殺体となって、同じく天坊邦武が自室の浴槽で溺死体となって発見される。。 地下に掘られた通路と、連続殺人。名琅荘の持ち主だった旧華族古館家の怨念。 傑作とはいえないまでも、金田一耕助シリーズとしては、時代設定は戦後間もない昭和25年であり、旧家の忌まわしい因縁と陰惨な殺人、地下に掘られたトンネル内の探検など、金田一耕助ものらしい趣向をこらした一作となっています。 横溝さんの文体の特徴である、登場人物の台詞末尾の「~ですね」「~なんですね」「~というわけですね」など、「ですね」の乱用がいささか気になるところですが、作品全体がかもしだす雰囲気は横溝作品らしい味わいが感じられ、魅力ある一作です。 金田一耕助についても書こうと思っていたら、長くなりましたので、つづきます。
2017年09月29日
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写真は私が持っている「今昔物語集」の岩波文庫版と角川ソフィア文庫版に自作のカバーを着けたものです。「今昔物語集」岩波文庫 本朝部 上中下巻「今昔物語集」角川ソフィア文庫 本朝世俗部 上下巻「今は昔」で始まる「今昔物語」はだれもが学校の古典の授業でならったはずで、芥川龍之介がその「羅生門」「鼻」「芋粥」「好色」などの題材にしていることもあって、現代の日本人にとっては「平家物語」とともに最も親しまれている古典ではないでしょうか。 「今昔物語」31巻は平安時代末期に成立されたとされる説話集。天竺、震旦、本朝の三部に分かれていて、本朝の部が最も面白いのは当然のことと思われます。そして本朝の部でも「仏法」より「世俗」「宿報」「霊鬼」「悪行」の部が三面記事的な話を集めた感があり、恐怖・怪異譚からユーモア話、愛憎、犯罪、SMから艶話、さらに朝廷の醜聞話まであって、現代人には親しみやすい内容です。「平定文、本院の侍従に懸想(けそう)せし話」巻第三十第一 主人公の平定文(たいらのさだふみ。通称が平中へいちゅう)は、人妻であろうが娘であろうが宮廷女官であろうが気に入った女性に次々と言い寄るプレイボーイです。 そんな彼が宮中で評判の美女に言い寄って手ひどく振られる。何通もラブレターを書くが返事が来ない。「見たらせめて見たと書いて送って下さい」と書くと、待望の返書がくるがそれには、彼が書き送った「見た」の部分を切り取って紙に貼ってある始末。そしてようやく逢うことができたと思ったら、だまされて部屋に鍵をかけられ置き去りにされてしまう どんなにお高くとまった堅い女でも俺が言い寄ったらイチコロさ、と自身満々だった平中だったが、この侍従には体よくあしらわれてしまった。寝ても覚めても美しい侍従の姿が脳裡からはなれない。悶々としてこのままでは俺は焦がれ死んでしまうと。 そこで侍従への思いをあきらめるには、彼女の臭い糞尿を見てやれと平中は考える。そうすれば百年の恋も冷めるだろうと(この突飛な理屈は可笑しい)。 彼は首尾よく便器を奪うことに成功する。その金漆の美しい箱(便器)を開けると中にあったのは、この世の人間が排泄したとは思えない芳香をはなっていた。 臭く汚い排泄物を見ることで彼女への恋をあきらめようとしたのに、思いもかけない甘く甘露な糞尿だった。そのために平中は病んで死んでしまう。芥川龍之介の「好色」では、「侍従!お前は平中を殺したぞ!」と叫んで、彼はその場に昏倒する。 実は、この侍従の糞尿は丁子を煮た汁と山芋に香を練り合わせた物であり、彼女が平中がとるだろう行動を見越した作り物だった。 自分の排泄物を見せれば、平中が興ざめしてあきらめるだろうはずなのに、なぜそうしないで山芋と香細工のニセ糞尿を入れたのか?、侍従はどこから平中のたくらみを見破ったのか? ユーモアと変態性。男と女心の複雑さ。1000年も昔の、現代人が読んでも通用する面白い話です。
2017年08月31日
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今朝の新聞記事に、読書は「必要」 でも読まず 月に0冊 3人に1人 という見出しの記事が載っていました。 漫画と雑誌を除いた本を1ヶ月に読む冊数が「0冊」の人が33%の割合に上ることが、日本世論調査会が実施した「読書」に関する全国面接世論調査で分かったとのことです。 本を読まなくなった理由として、「スマートフォンやゲームなどに費やす時間が増えた」とする解答が73%を占め、読書時間がスマホに奪われている実態が明らかになったという。 しかし、私が思うには、スマホに時間を奪われたというのは、たんなる言い訳にすぎないのではないか。 普段から本を読み、読書が生活の一部になっている人にとってはスマホがあろうがなかろうが関係ないだろう。本を読む人は読み、読まない人は読まない、ただそれだけのことではないか。 1ヶ月に読む冊数が0冊とのことだが、1年に0冊、10年に0冊の人だって世の中には多数いるだろう。一生涯に1冊も本を読んだことがない人だっているだろう。 出版不況といわれる昨今です。本が売れないのは、「魅力的な本が減った」ということもあるだろうけれど、大きな原因は「価格が高すぎる」ということではないか。 書店でおもしろそうな本だと思っても、その価格を見て買うのをやめてしまいます。1000円も2000円も(1000円以上の文庫本など珍しくない。単行本は2000円3000円、それ以上も)支払って本を買う人はいったい何人いるだろうか。 高いので売れない、売れないから高くせざるを得ない、その悪循環におちいっているのではないだろうか。 私自身が毎日のように書店に立ち寄っても買わない。今年の1月に近所にあった書店が閉店してしまったのも、本が売れないからだったのでしょう。
2017年06月25日
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ジュール・ヴェルヌの古典海洋冒険小説「海底二万里」に出てくるネモ船長とノーチラス号。 アメリカ海軍の世界初の原子力潜水艦の名前が「ノーチラス号」だったことからも、ヴェルヌの小説が世界中の人の心を躍らせ、いかに愛されているかということでしょう。「ノーチラス号」 円錐形の細長い円筒をしていて葉巻に似た形。全長は70メートル。円筒の最大直径8メートル。動力は「電気」で、最大速力50ノット。 排水量は1500トン(水中)。水面に浮かべた状態では10分の9が水中に沈み、10分の1が水面上に出ている。その状態での排水量は1356.48トン。 船体は二重構造。外板は厚さ5センチの鋼板。1万5000メートルの深海まで潜れる。敵艦に体当たりして船腹を切り裂いて沈めるために、船首に衝角をそなえている。 ノーチラス号の船形は葉巻型ですが、ウォルト・ディズニー製作の映画「海底二万哩」では魚形の独特のデザインになっていて、現在ではこの映画のイメージが広く伝わっているようです。 そして、このノーチラス号を「潜水艦」と表現しますが、ほんらいは軍用ではないので「艦」とするのはおかしいのではないか。「艦」 舟が形を表し、監は檻で、四方を板で囲む意味がある。 いくさぶね。艦は、矢や石を防ぐために四方を板で囲んだ戦闘用のふねのことである。(新選漢和辞典 小学館) 戦闘用の船。たとえば海賊船は商船などを襲って略奪するさいに戦闘をおこなうし、大砲を備えて武装をしている。しかし海賊船とはいうけれど海賊艦とはいわない。なぜならば軍艦ではないからです。 現在の日本でも、海上自衛隊の船は護衛艦など「艦」だが、海上警備の海上保安庁の場合は「巡視船」であり巡視艦とはいわない。 このようなあたりまえのことなのに、なぜ軍用ではないジュール・ヴェルヌのノーチラス号を「潜水艦」と云うのだろうか? 潜水艦と云うほうが迫力があって格好良いから? 潜水船では迫力がないということか? ならば、ネモを「船長」ではなく「艦長」とするべきではないか。 新潮文庫版「海底二万里」(村松 潔 訳)では「潜水艇」となっています。軍用以外にも使える「艇」ですが、そうすると「ネモ艇長」としなければならないのでは。
2017年03月18日
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写真は映画「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い」(2003)に登場するネモ船長です。初めてこの映画を見たときは、自分が思っているイメージとは異なっていて変な感じがしましたが、考えて見るとこのネモ船長の格好はけっしておかしくはないようです。 演じているのはインド人俳優のナセールディン・シャー(Naseeruddin Shah)。 ネモ船長はジュール・ヴェルヌの古典海洋冒険小説「海底二万里」の登場人物です。ディズニー映画「海底二万哩」でジェイムズ・メイソンが演じたことで、彼のイメージが強く定着したようだけれど、原作本の挿絵(アルフォンス・ド・ヌヴィルによる)を見ると、ディズニー映画が広めたイメージのほうがおかしいのかもしれない。「海底二万里」では謎の人物とされて、その過去や経歴はよくわかりません。しかし、おなじジュール・ヴェルヌの「神秘の島」のおわりの部分でネモ船長が出てきて、その正体があきらかにされています。 ネモ船長はインド人のダカール王子。インド中部ブンデルカンドの藩王国の王子で、インドの国民的英雄ティプー・サーヒブの甥。10歳から30歳までヨーロッパで教育をうけた。そしていつの日か祖国の権利を取り戻し、祖国から外国勢力を追い払い、独立を勝ち取るのだという希望をいだいた。 1857年、セポイの反乱で祖国を解放するために立ち上がった多くの英雄たちのなかで戦った。彼の父母や妻子はその戦いの中で殺され、そして反乱軍は敗北し、祖国インドは以前よりさらに強固なイギリスの支配下におかれることになる。 ダカール王子は人間の名を持つすべての物に激しい嫌悪感をいだき、文明社会を憎み、そこから永遠にのがれようとした。忠実な仲間20人とともに、ある日、彼らは姿を消した。 王子は戦士から学者に変わり、太平洋のある無人島を本拠地として、自分の設計による潜水艦を建造した。 映画「リーグ・オブ・レジェンド時空を超えた戦い」の中で、ネモ船長を紹介されたアラン・クォーターメイン(ショーン・コネリー)が「海賊だそうだな」と云い、ネモ船長が「もう少し穏やかな呼び方をしてもらいたい」と気分を害する。 そしてネモ船長がクォーターメインに「外国の土地を支配する大英帝国の象徴であるきさまからそのような云われ方を」と云い、それに対してクォーターメインが「私は大英帝国の象徴でもないし奴隷商人でもない」と返す。 クォーターメインは植民地が抑圧され、その土地の人々や文化や社会が虐げられ、服従を強制されているのを見て知っている。そのクォーターメインの反応を見てネモ船長は彼に対する態度を変える。 そしてクォーターメインはネモ船長に「あなたがこの超人紳士同盟に参加したとは。てっきり独立派の人間だと思っていたのだが」と云い、ネモは「さよう、わしは、わが同胞が大英帝国から解放される手段を模索しておる」と答え、ネモ船長が協力する見返りとして英国政府はインド政府との対話を開始することになっているのだと。 一見すると奇異に見える、この映画「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い」のネモ船長だが、このネモ船長こそが、これまで様々に描かれてきたなかで、もっとも正しい描かれ方なのかもしれません。 ところで、ネモ船長を「ネモ船長」と「ネモ艦長」、どちらの言い方が良いのか? 好みの問題と思えますが、ようするにノーチラス号を「潜水艦」と「潜水船」、どちらで呼びたいかということではないか。 潜水艦とするなら「船長」ではなくて「艦長」だろうし。ネモは軍人ではないので艦長ではなく船長とすべきだというなら、ノーチラス号は潜水艦ではなく潜水船と呼ぶべきだろう。
2017年03月17日
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先日、テレビで夏目漱石のアンドロイドが作られたニュースをやっていましたが、なぜいま夏目漱石なんだろうと思ったら、没後100年ということで静かなブームになっているようです。 書店へ行くと平台に漱石の文庫本がずらりと並んでいます。 そんな中での新潮文庫。通常のカバーの上に大きな帯状にもう一枚かけられていて、その漱石先生の肖像写真をカラーに加工したデザインがひときわ目に付きます。 その新潮文庫、「坊っちゃん」と「三四郎」の2冊を衝動買い。「坊っちゃん」は310円+税、「三四郎」は340円+税。「坊っちゃん」はかつて何度も読んだので、まずは「三四郎」を読み始めました。30年くらい前に一度読んでいるのですが、三四郎と野々宮さん、広田先生。ヒロインの美禰子とストレイシープくらいしか記憶になく、野々宮さんの妹よし子や三四郎の友人 与次郎の存在などまったく忘れていた。 このような小説を難しく読む必要はなく、気楽にその世界を楽しめばよいのでしょう。田舎から東京の大学に入った主人公の日常生活。彼をとりまくちょっと一風変わった登場人物たちの面白さ。ヒロインの美禰子に翻弄されるような三四郎。 青春小説として読んでみると、庄司薫さんの「赤頭巾ちゃん気をつけて」や「白鳥の歌なんか聞こえない」「さよなら快傑黒頭巾」などと、その世界というか形式と雰囲気がとても似ている。かたや昭和44年から昭和46年あたりの、かたや明治41年の若者の平凡な日常生活をみずみずしく描いています。
2016年12月15日
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司馬遼太郎さんの「関ヶ原」などを読んでいて思うのは、豊臣恩顧の大名たちがなぜ徳川家康に味方したのか?ということです。 徳川家康は豊臣秀頼の政権を奪うことを考えている。なのに、なぜ秀吉に可愛がられた加藤清正や福島正則をはじめ、浅野幸長、以下、黒田長政や細川忠興、池田輝政、加藤嘉明、京極高次など豊臣系大名たちは尻尾を振るようにして家康に接近したのか。 彼らは石田三成が憎いからだという、それだけの理由なのか? 石田三成が家康打倒に立ち上がった、そういう時になぜ豊臣政権簒奪をねらっている徳川家康に味方するのか? 自分たちが家康に味方することで家康が三成を倒したら、その結果がどうなるか、予想ができなかったのか。 つまりのところ、当時の人々は徳川家康をどのように見ていたのか?ということです。 現代の会社に例えると、社長の秀吉が死に、その跡を幼い秀頼が継いで二代目社長になった。筆頭重役の徳川家康が秀頼を蹴落として社長の座を奪おうとたくらんでいる。その野望を阻止せんと秘書課長の石田三成が立ち上がった。 幼い社長を社員全員が団結して守り立てていくべき時に、家康と三成の争いは個人的な内輪もめとして認識されたのだろうか? だから三成嫌いの者たちが家康派に加わって三成派と争った、派閥争いにすぎないと思っていたのだろうか。家康に味方した前社長恩顧の者たちはただ秘書課長の三成が大嫌いで、ボコボコにして会社から追い出せばそれでよいと思っていた? 関ヶ原の合戦で石田三成が敗北して捕らえられ処刑された。その罪名は豊臣秀頼に対する反逆ですね。石田三成は秀頼の名をかたって、豊臣家の筆頭家老 徳川家康に刃向かい、豊臣家に反逆して天下を騒がせた大悪人である。だから家康が秀頼に代わって処罰した。 関ヶ原の合戦は「天下分け目の戦い」といわれるけれども、勝った方が次期政権の座に近づくことになる、当時は誰もそんな戦いだと思っていなかったのではないか。 次期政権をめぐっての争いだと見られていたら、家康に味方して勝たせることが豊臣家から政権を奪って家康に渡すことになると誰もがそう思うだろうに。 関ヶ原の合戦が終わり、反逆者 石田三成を捕らえて処刑した。その時点での徳川家康は依然として豊臣家の筆頭家老にすぎない。合戦前よりも発言力が大きくなり、派閥もしっかりと安定して政務代行する権力を持ち、家康に逆らう者がいなくなったけれど、いぜんとして秀頼が君臨している。 戦いで敗走した石田三成が捕らえられずに大坂城に戻ることができていたらどうなっただろう?大坂城には毛利輝元が秀頼を守っている。そこへ反逆者の三成が戻ってきたら? すべて石田三成の個人的反逆であり豊臣家はまったく関係していないと、やはり同じように三成を処刑するのだろうか? 徳川家康が関ヶ原での西軍?首謀者を処刑したのは豊臣秀頼に代わっての政務代行ですが、そこには豊臣家の意思があるはずなのに、何も見えてこないのはなぜだろう?
2016年12月08日
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司馬遼太郎さんの作品でいちばん好きなのは? という問いでは、その答えは各人さまざまでしょう。「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「国盗り物語」「坂の上の雲」・・・などをあげる人が多いのではないでしょうか。 私は、小説としてみれば「梟の城」と「風神の門」「尻啖え孫市」の中から「梟の城」をいちばんに。歴史小説としてみれば「関ヶ原」がダントツです。 画像(上)は現在の新潮文庫版「関ヶ原」(全3巻)定価750円+税。 現在は活字が大きくなって読みやすく。老眼の身にはたいへんありがたい。しばらく前までは大きすぎる、大きければいいというものではない、などと思っていたのに、それだけ年を取って目が衰えたということでしょう。「関ヶ原」は「週刊サンケイ」に1964年(昭和39年)7月から1966年(昭和41年)8月まで2年間にわたって連載された作品。 単行本は1966年10月に上巻、11月に中巻と下巻が新潮社から刊行。 文庫本は1974年(昭和49年)6月で、この時は活字が小さく、一気に現在の大きさになったのではなく、何段階かの末に今の大きさになった。現行版は単行本より活字が大きい。 天下分け目の戦いといわれる「関ヶ原の決戦」にいたるまでを石田三成と徳川家康を中心に描いています。 秀吉亡き後、豊臣政権の簒奪をもくろむ徳川家康の謀略に、そうはさせじと対抗する石田三成。主人公は正義感あふれる石田三成といえるのですが、この主人公を「へいくゎいもの(横柄者)」とし、周囲から嫌われている人物として描いている。 かたや徳川家康を腹黒い悪役とし、この家康の悪役ぶりがたいへん魅力的です。 家康が、謀臣 本多正信とひそひそと謀略をめぐらすのがわくわくするほどに楽しい。この見事な悪役ぶりが、小説「関ヶ原」の面白さになっているのではないでしょうか。 関ヶ原の決戦という巨大なプロジェクト。登場人物の多さは小説としては最大なのかもしれません。
2016年12月07日
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「仮面舞踏会」で、鳳千代子の3番目の夫だった洋画家 槙恭吾が死体となって発見されます。 その場面で、「薄カーキ色をした槙のブラウスのちょうどお臀にあたるところに、べったりと茶褐色のものがついている。金田一耕助がのぞきこんでみると蛾の鱗粉らしかった」とあります(文庫125頁)。 ブラウスといえば婦人用の胴衣をイメージしてしまい違和感をもったのですが、それは現代だからのようで、「Blouse 」には「ゆるやかなシャツに似た仕事着」「野良着」「軍服の上着」という意味もあるらしく、画家が着る絵の具で汚れてもかまわない仕事着ということのようです。「ブラウス」にそんな意味があるとは今まで知りませんでした。「仮面舞踏会」のつぎに「白と黒」を読み終えました。「白と黒」は1960年(昭和35年)11月1日から翌年10月27日まで「日刊スポーツ」(日刊スポーツ新聞社)に連載された作品。事件が起きるのも同じ昭和35年10月11日だから、リアルタイムとして創作された作品。 原型は1957年(昭和32年)に「週刊東京」11月2日号~11月9日号まで2回にわけて掲載された「渦の中の女」という短篇で、それを文庫で550頁の長篇に拡大したものです。「渦の中の女」は「金田一耕助の帰還」(光文社文庫)に収録されています。 昭和35年のプロ野球日本シリーズ(大洋ホエールズ対大毎オリオンズ)が開始された10月11日に事件が起きます。 その日、金田一耕助は街で須藤順子という女性に再会。彼女はかつてバーの女給をしており、金田一は等々力警部とともに何度か通い、ハルミと名乗っていたその女性となじみになっていた。 須藤順子が結婚して住んでいる世田谷の「日の出団地」に招待された金田一は、彼女の部屋で「怪文書」を見せられる。それは順子が結婚しているにもかかわらず女給時代のパトロンとよりを戻していることを暴露する悪意ある内容だった。それを読んだ夫が家を出たまま帰らないと。同様な男女の性的関係を暴露する怪文書が団地内に出回っているのではないか、という相談を金田一は持ちかけられる。 その折り、向いの建設中の棟でダストシュートの中から、熱せられたタールで顔の見分けが付かなくなった女性の死体が発見される事件が勃発。 新興のマンモス団地内に出回る悪意ある怪文書は殺人事件と関係があるのか? 金田一耕助は等々力警部とともに事件捜査に介入することになる。 それまでの日本にはなかった新しい住宅形態である「団地」が登場した昭和30年代。 表面的には平和に見えるマンモス団地だが、そこには様々な人が住んでいる。団地という現代特有の舞台で、雑誌の活字を切り貼りして作った「根も葉もある」怪文書の横行と「顔をつぶされた(顔のない)殺人事件」。住人たちの疑心暗鬼と誤解と偶然。そして謎の言葉「白と黒」の意味は? 金田一耕助の事件物語は「村」や「孤島」などを舞台にしたイメージがありますが、近代的な「団地」も「限定された地域」という意味では同じなのでしょう。そこに住む人間たちの愛憎の生活も同じものだのだろう。現代的な団地にヨレヨレ和装の金田一耕助というのも奇異な感じがするけれど、異色作としてこういうのがあってもいいかと。 昭和35年という時代をよく表した一編だと思います。
2016年11月18日
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横溝正史さんの作品でベスト5を選ぶとすれば、順位は人によると思いますが、「獄門島」「悪魔の手毬唄」「犬神家の一族」「八つ墓村」の4作は不動ではないでしょうか。あと1作品は各人の好みで選ばれることになるのでは? 私の場合は、「獄門島」は好みではないので入れません。「八つ墓村」が第1位で、次は「悪魔の手毬唄」「犬神家の一族」と「女王蜂」で、これで4作。あと1作は「迷路荘の惨劇」「悪魔が来りて笛を吹く」「三つ首塔」のどれか? 中篇の「黒猫亭事件」「車井戸はなぜ軋る」も良作であり、捨てがたい。 そんなわけで私の横溝正史作品ベスト5は、「八つ墓村」「悪魔の手毬唄」「犬神家の一族」「女王蜂」と、あとの1作はその時々の気分次第ということだろうか。 ストーリーがわかっていて、真犯人を知っていても、何度読み返しても面白い。推理小説、探偵小説というだけでなく「文学」の名作といえる作品ばかりなのでしょう。 久しぶりに、というより約40年ぶりに「仮面舞踏会」を読みました。 1974年(昭和49年)に角川書店から単行本として刊行された書き下ろし作品です。原型は1962年に始まった連載で未完だった作品。 時代設定は昭和35年8月で、台風に見舞われた軽井沢の別荘地が舞台になっています。 かつて映画スターとして知られた鳳千代子(おおとり・ちよこ)は4回の結婚歴がある。戦前に結婚した最初の夫は元子爵で二枚目俳優の笛小路泰久。2番目は新劇俳優の阿久津謙三。3番目は洋画家の槙恭吾。4番目は作曲家の津村慎二であり、現在は元侯爵家の出身で戦後は財界の大物 飛鳥忠煕(あすか・ただひろ)と恋愛中で結婚をひかえている。 鳳千代子には最初の夫 笛小路泰久との間に美沙という娘があり、美沙は笛小路の姑 篤子に養育されている。 笛小路泰久は前年昭和34年8月15日に軽井沢のプールで溺死しているのを発見され、その前年の暮れに2番目の夫だった阿久津謙三が自動車にひき逃げされて死んでいる。 そして1年後、昭和35年8月14日、3番目の夫だった槙恭吾がバンガローのアトリエで青酸カリによって死んでいるのが発見され、4番目の夫 津村慎二も消息を絶つ。鳳千代子を愛する飛鳥忠煕は連続する不可解な事件に不安を覚え、金田一耕助に調査を依頼する。 鳳千代子に関係する人物たちがすべて軽井沢に集まっていて、不可解な殺人事件が起きます。「犬神家の一族」や「悪魔の手毬唄」のような旧家や農村の因習などおどろおどろしい雰囲気はなく、比較的新しい昭和35年の避暑地軽井沢の別荘地を舞台にして、ゴルフ場なども出てくるし、イメージがちょっと異なります。しかし、血縁と遺伝や、太平洋戦争を挟んで、没落してゆく華族など、人間の醜い欲望などがからんで、犯人を生みだしてしまった真の悪人が事件の背後にいる。そういう物語はやはり横溝正史さんならではのものです。 登場人物が多くて読んでいる最中に整理が必要です。文庫本で597頁の厚さがあるけれど一気に読んでしまう面白さがありました。
2016年11月15日
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読書の秋です。 先日は司馬遼太郎さんの歴史小説「国盗り物語」を読んだのですが、今度はなぜかがらりと趣が変わって横溝正史さんのミステリ小説を読み始めました。 金田一耕助シリーズです。「犬神家の一族」や「悪魔の手毬唄」のような代表的傑作ではなく、ちょっとマイナーな「仮面舞踏会」と「白と黒」「迷路荘の惨劇」などを読んでみようと思います。ずいぶん前に読んだきりなので内容をよく覚えていない。新鮮な気持ちで読めそうです。 画像は角川文庫に、自作のカバーを着けたものです。 現在の角川文庫版はカバーデザインが味気ないので、自分で作りました。パソコンとプリンタがあれば、けっこうなものができます。書店に売っているビニールのカバー(文庫サイズ14枚入り108円)をかけると、さらに体裁のいいものができます。 40数年前、角川文庫の横溝正史作品がまきおこした大ブーム。 角川春樹さんが、それまでは忘れられた存在だった横溝正史作品を文庫化し、「横溝正史フェア」として売り出して大きな話題を呼んだ。森村誠一作品と横溝正史作品の文庫本が書店にズラリと並んでいた、そんな時代が懐かしく思い出されます。 角川文庫の金田一耕助シリーズ、第1弾は「八つ墓村」で、1971年4月。そして「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」と、つぎつぎと映画化されたことで、さらに原作小説も売れるという、大きなブームになりましたね。 杉本一文さんの表紙カバーイラストがおどろおどろしい雰囲気を醸し出して、なかなか良かったのですが、現行の版ではなぜかそのイラストが使われていない。
2016年10月30日
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司馬遼太郎さんの「国盗り物語」(新潮文庫全4巻)を読んでいます。 廃墟のように荒れ果てた御所の土塀の上で乞食がつぶやいた。「王にはなりたくないが、将軍、それがむりならばせめて国主になりたいものだ」と。 この乞食は妙覚寺本山で「智恵第一の法蓮房」といわれ、いまは松波庄九郎と名乗っている若者。この若者が京の油商 奈良屋の婿に入り、その財力をもとに「国盗り」へと乗り出してゆく。その第一歩として美濃国内に入り込んでゆく。 司馬さんは「この物語は、かいこがまゆをつくってやがて蛾になってゆくように庄九郎が斎藤道三になってゆく物語だが、斎藤道三一代では国盗りという大仕事はおわらない。道三の主題と方法は、ふたりの『弟子』にひきつがれる」と書いています(文庫第2巻「雑話」)。 道三の娘婿である織田信長。道三の妻の甥である明智光秀。 道三から変革者としての意思と行動力を学び、それを合理主義のなかに生かした信長と、道三から古典的教養と技量を学び、それを一時は信長の天下取りに役立てながらもついに簒奪者となり得なかった光秀、この二人のたどる動乱の軌跡。 松波庄九郎が長井庄九郎、西村勘九郎となって権謀術数をめぐらして美濃国を乗っ取り斎藤道三となるまでを描いたのが「斎藤道三編」(文庫第1~2巻)。 信長と光秀が主従となり、のちに本能寺で、この道三の相弟子といえる二人が相搏つことになるまでを描いたのが「織田信長編」(文庫第3~4巻)です。 司馬遼太郎さんの戦国四部作といわれる長篇作品(「国盗り物語」「新史太閤記」「関ヶ原」「城塞」)の第1作にあたる本作は1963年8月~66年6月まで「サンデー毎日」に連載。 近年の研究では、斎藤道三による美濃の「国盗り」は道三一代によるものではなく、親子二代でなしとげたものではないか、となっています。 だからといって、この昭和38年に発表された歴史・時代小説を「嘘」だとしておとしめるのは誤った扱いでしょう。 司馬遼太郎さんは小説として、斎藤道三、織田信長と明智光秀という3人の主人公を生き生きと描出している。歴史上の有名人物を、まさにこのような人物だったのかと思わせるくらいに見事に創作しています。 自分的には明智光秀に魅力を感じます。「光秀は謹直な男だが、陽気さがない」と第4巻「小栗栖」の冒頭に書かれていますが、物語中では光秀がライバル 木下藤吉郎の「陽気さ」と「大気者」が主君の信長に愛されるのを見て、大いに悩むのは、しかし人間の性格は変えようがないだろうし、光秀が無理に藤吉郎のマネをしても失敗するだけだろう。 理屈っぽく、可愛げがない明智光秀に対して信長はその働きぶりと力量を認めながらも愛そうとはしない。そして光秀は、自分に不利な空気を敏感に察しられるたちの男であり、不利な要素に過敏な性格である。 明智光秀をそのような性格の人物として描いたのは司馬さんの創作なのでしょうが、私自身も幾分かは当てはまるし、世間にはそんな人はたくさんいるだろう。しかし自分の性格だからどうしようもない。それを良い方向へ活かしていくしかないのではないか。
2016年10月26日
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H.G.ウェルズの「宇宙戦争」(偕成社文庫)を読みました。 翻訳は雨沢泰さん、挿絵は佐竹美保さん。小学校上級からとなっている児童向けの本ですが、これがなかなかイケてる優れ本です。 偕成社文庫の4冊のウェルズ作品では、「モロー博士の島」と、この「宇宙戦争」の2冊がオススメです。ある夜、ロンドン郊外のホーセル、オッターショー、ウォーキングの三つの村にまたがる共有地に巨大な隕石と思われる物体が落下する。それは円筒形をしていて円筒の直径は約30メートル。円筒の内部でガサゴソと音がしている。 近隣の住民はピクニック気分で、弁当を持ったり、オシャレして着飾ったりして、はしゃいで、この落下物を見物にでかける。 しかし、その落下物は恐ろしい火星人の侵略の始まりで、円筒の中から三脚の巨大な戦闘マシンが現れて、人間たちを熱線で焼き殺します。 軍隊が出動して奮戦、何台かの戦闘マシンをやっつけるが、科学力の差は歴然としていて、人類は敗北へと。しかし、その時、火星の科学力による侵略に歯が立たなかった人類を救ったのは、地球の、肉眼では見えない微生物たちでした。 この「宇宙戦争」はこれまでに映画化されて、1953年のジョージ・パル製作、バイロン・ハスキン監督の「宇宙戦争」と、2005年のスティーヴン・スピルバーグ監督の「宇宙戦争」がある。ともにSF映画史に残されるべき傑作ですが、特にスピルバーグ監督作品では、この微生物たちが人類を救うというのを大きなテーマにしています。地球に住んでいるのは人類だけではないのだ。目に見えない微生物たちが人類といっしょに住んでいるのだよ、と。 そして、久しぶりに「宇宙戦争」を読んで感じたのは、火星人との戦いよりも、それ以上に人間の恐ろしさと、人間は自分で思っているような上等な生き物ではない、ということです。 主人公が落下物の現場を見に行き、火星人による殺戮から町に逃げ戻ると、そこでは何事もなかったかのような平穏な生活がおこなわれている。 郊外に空から変な物が落ちて、見物に行った人たちを焼き殺したんだよと話しても誰も信じない。この人、頭がおかしいんじゃないの?と馬鹿にしたような顔をされる。危険を伝えようとけんめいになっても信じてもらえない。 大変な危機がすぐそこに迫っているのに、大したことがないだろうと高をくくる人たち。あの東北の震災での大津波のときにも高をくくって避難しなかった人たちが命を落としているように、けっして他人事ではありません。 そして火星人との戦いが始まり、避難民たちが右往左往し、パニックのなかで、われ先に逃げようと人々の蹴落としあいが始まる。そんな中でおこなわれる略奪と女性への暴行。 人類が存亡をかけた戦いの危機の中で、人間同士の醜い欲望丸出しの争いがおこなわれます。 人間はみずからを高等生物だとうぬぼれているが、じっさいは下等な生物なのではないか。顕微鏡の視野の中でうごめく微生物のように。高度な存在から見れば笑止であり、この下等生物は自分たちだけが宇宙で唯一の生物であると思い上がっている。 このH.G.ウェルズの「宇宙戦争」はそのように云っているのではないだろうか。
2016年09月14日
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H.G.ウェルズの「透明人間」(偕成社文庫)を読みました。 この偕成社文庫版は児童(小学校上級以上)向けの本ですが、私のような目の衰えた者にとっては文字が大きいのでたいへん読みやすい。「タイムマシン」「モロー博士の島」を読み、この「透明人間」。あとは「宇宙戦争」があり、ウェルズのSF小説は偕成社文庫から4冊が出ています。ともに翻訳は雨沢泰さん、挿絵は佐竹美保さんです。 SF小説の元祖的な存在である(ジュール・ヴェルヌとともに)ハーバート・ジョージ・ウェルズはこれらの作品で、娯楽映画に原型を提供したことで、現代でもその変形作品が作られています。 物語は2月末の雪が降る寒いある日、村の「駅馬車亭」という宿屋に謎の男が泊まるところから始まります。帽子、コート、手袋、マフラーなど、頭のてっぺんから爪先まですっぽりと覆われた男。宿のおかみが雪に濡れた服を暖炉で乾かそうとしてびっくり仰天。その顔は、青い眼鏡と白い包帯でおおわれていた。 この泊まり客はグリフィンという名の科学者で、透明人間になったものの元の姿に戻れなくなった。元に戻る薬を研究するために宿を借りたのだが、その傲慢な性格のために村人たちの反感を買い白い目を向けられてしまう。やがて透明人間であることが露見して、村は大混乱に。 透明になったまま元の姿に戻れなくなった科学者が、人々に恐れられて、追われて、居場所がなくなり、自業自得といえども孤独で悲劇的な末路をむかえる話です。 もし透明人間になれたら、あんなことやこんなことしたいなどと空想したりする私たちですが、なったらなったで大変な苦労をしなければならない、ということです。 まず服を着られない、スッポンポンでいないとならない。寒いし、裸足で歩くと足を傷つけて痛いし、他人からは見えないので人も車もよけてくれない。足跡は残るし、犬に気づかれてほえられる。人のいる場所では食事もできない(食べた物が見える)。 主人公グリフィンは追い詰められて行って、自分を理解してくれない人々に対して憎しみをいだき、復讐するようにあちらこちらで暴れまわり、人を傷つけ、最後には殺人までおかします。 透明だというだけで人々は恐れて迫害する。 人間は自分とは姿形が異なる、異形の者を認めず、受け入れようとはしない。 異形の者にはこの社会には居場所がない。恐れられ迫害されて追われるのです。 毛色の違う者を仲間と認めず、追い払おうとするのは人間だけではなく、野生動物の群れ社会でもそうなのでしょう。 そんな人間社会の排他性を描いた作品かと思うのですが、主人公の傲慢な性格、他者を見下す性格には読んでいても感情移入することができないので、哀れだと思っても同情ができない。 透明人間。自分の体が透明になるということは、自分でも自分が見えないということです。 鏡を見ても自分がいない。見えない手で見えない体を触れることはできるが、自分の存在がなくなったように思える。意識だけの存在になってしまい、しまいには精神が耐えられないかもしれない。 透明人間になっても少しもいいことがないのではないか。
2016年09月12日
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H.G.ウェルズの「モロー博士の島」(偕成社文庫)を読みました。「タイムマシン」も面白かったけれど、この「モロー博士の島」はそれ以上に良かった。傑作です。「モロー博士の島」(完訳版)偕成社文庫 ハーバート・ジョージ・ウェルズ作。雨沢泰 訳、挿絵は佐竹美保。 定価800円+税 H.G.ウェルズが1896年(明治29年)に発表した作品で、「タイムマシン」(1895)「モロー博士の島」(1896)「透明人間」(1897)「宇宙戦争」(1898)の順になる。「モロー博士の島」を読むのは初めてです。 この映画化作品があって「ドクター・モローの島」(77)。1978年1月に日本公開された作品で、監督はドン・テイラー。バート・ランカスター、マイケル・ヨーク、バーバラ・カレラが出演している。 劇場公開版とテレビ放送の旧版はマイケル・ヨークがボートで島を脱出するが、そのボートにいっしょに乗っているヒロインのバーバラ・カレラに牙が生えて野獣(黒豹)にもどって行くエンディングだった。それが、のちのテレビ放送新版では何事も起こらないハッピーエンドになっていてズッコケた記憶がある、ズッコケ別バージョンの存在が印象深い映画になっています。 で、その原作小説としての「モロー博士の島」。「私」として語り手であるプレンディックは海難事故で南海を漂流中に、モントゴメリーという男が乗った貨物船に救助される。彼はモロー博士の助手としてはたらいていて、プレンディックはモロー博士と奇怪な人間たちが住む孤島で生活することになる。 モロー博士はロンドンでは有名な生物科学者だったが、残虐な生体実験のために学会を追放され、この南海の孤島にすんでいた。モロー博士はこの孤島である実験をおこなっていて、それは、動物に生体改造手術をほどこして人間化させるものだった。 プレンディックは、モロー博士が人間を切り刻んで動物にしていると誤解して森へ逃げ込むが、この島の奇怪な住人たちが、モントゴメリーを別として、モロー博士の手術によって人間化された動物だと知ることになる。 モロー博士の改造手術によって「人間」になった者たち(動物人間)は森の奥でコミュニティーを作って人間らしい生活をしようと「掟」を定めて努力している。「四本足で歩くな」「水を口ですするな」「生の肉や魚を食べるな」「木の幹で爪を研ぐな」「人を追いかけるな」などと皆が集まってタブーを唱えて宗教的な儀式すらおこなっている。 プレンディックから見れば、不気味な人間もどきでしかないのだが、彼らは「創造主」であるモロー博士の影響を強く受けていて、野生動物と人間の境界あたりを揺れ動いている。「やつらは、いずれもとにもどる。わしの手をはなれると、すこしずつ本来のすがたが優勢になる」と、モロー博士は云い、まだ研究は完全ではないが、いつか成功させてみせると。その博士が手術中に逃げ出したピューマ人間に殺されてしまう。 血の味を覚えた動物人間と、時が経てばしだいにもとの姿に戻ってゆく動物人間たち。 モロー博士が死んだ後、島からかろうじて脱出したプレンディックはロンドンに帰って人間社会に復帰するのだが・・・・。 マッドサイエンティストもののSF小説です。「人間性」と「動物的」を考えさせられる話ですが、現代の人間社会をみると、物語に登場する動物人間と同じような動物的な人間がそこいらにたくさん棲息?しているのではないか。 人間性とは 人間の人間であるゆえん,人間の普遍的本性の意。人間らしさという価値的意味をもつ。 人間特有の本性。人間として生まれつきそなえている性質。人間らしさ。 人間を人間たらしめる本性。 人間としてあるべき理想の姿。 動物的とは 動物の性質を持っているさま。人間らしい心がなく、動物のように本能だけで行動するさま。 人間が動物としての本能をもっているさま。また,荒々しく粗暴なさま。暴力的。 人間も動物の一種だといってしまえば身もふたもありません。日々の生活を送るなかで自分を律して、常に向学心を失わず、動物のように本能だけで行動することだけはないように気をつけたいものです。
2016年08月20日
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「宝島」スティーブンソン作 偕成社文庫を読んだのがきっかけで児童向けの本にはまってしまいました。「タイムマシン」「モロー博士の島」「宇宙戦争」「透明人間」と、H.G.ウェルズの古典的SF小説を4冊買ってきて読んでいます。 始めに「タイムマシン」を読んだのですが、これは面白かったです。 このようなSF小説は中学生のときに、学研の学習月刊誌の付録にあったダイジェスト本を読んでSFの面白さと共に読書の楽しさを知った、あの当時のような感覚がよみがえって懐かしいものがあります。「タイムマシン」(完訳版)偕成社文庫 定価700円+税 ハーバート・ジョージ・ウェルズ作。雨沢泰 訳、挿絵は佐竹美保。 時間を超えることができる機械を発明した科学者が80万年後の未来へ行き、その果てしない未来社会をその目で見、体験した物語。 普通、タイムトラベルの話といえば過去へ行って歴史上人物と出会い、歴史を確認するものが多いのだが、このH.G.ウェルズの小説では未知の未来社会へ行く、しかも80万年後というぶっとんだ未来へ。 そこでの地球はどうなっているのか?、人類はどうなっているのか?、さらなる未来へ行けば人類はどうなってしまうのか? 80万年後の世界は地上の楽園に住むイーロイ人が牧歌的に生活していた。何不自由のない穏やかで平和な社会に見えたがそれは偽りの楽園で、現実はその地下にはモーロックス人という化け物の容姿をした者たちが住み、夜になると地上に現れ、知能の退化したイーロイ人たちを脅かしていた。 世界が平和になり、人々のあいだに争いがなくなった。予防薬ができて病気にかかる心配もなくなった。働かなくても安楽な生活ができるようになった。立派な家に住み、華やかな服を着て、毎日遊んで暮らす。 お金を儲ける必要がないので金銭欲もなくなり、働く必要がないので労働意欲もなくなり、まったく不安も危険もない社会が到来した。 すべての人々が平等で、世界が平和で、生活の不安がない。そのような世界を理想として人類社会は発展してきたが、それが実現した時を境として、その後の人類は堕落し、退化してゆく。 ものを考える必要がなくなり、何も考えず、何も学ばず、毎日を遊んで暮らす。人間の脳は退化し、未来人は地底に棲むモーロックス人に食われるために飼育される肉牛の位置に堕していた。 さらに未来へ向かったタイムトラベラーは地球の終末世界を見てしまうことになる。 1895年(明治28年)に発表された作品ですが、何も考えず、何も学ばず、働かないで毎日を遊んで暮らす、そのような人たちがいる、ということでは現実になっています。
2016年08月19日
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新潮文庫の新訳版「宝島」(鈴木恵 訳)を読んでいて気づいたこと。「第八章 遠眼鏡亭にて」のジョン・シルヴァーとジム少年の会話で、シルヴァーが雇い主トリローニさんのことを「トリローニ船長」と云っています。「ピューだ!たしかにそういう名前だった。ああ、見るからに因業な野郎だったな、あいつは!その黒犬というのをとっ捕まえたら、トリローニ船長にはいい知らせになる!ベンは足が速いんだ。あんな足の速い船乗りはまずいねえ。あいつなら追いつくさ。とっ捕まえる、絶対にな!船底まわしの話だと?おれが船底まわしをさしてやらあ!」と。 郷士(または大地主)トリローニさんは宝探しに出発するための船と船員を設えた中心人物だが船長ではないので、この「トリローニ船長」というのは変ではないか。 そう思って佐々木直次郎さん・稲沢秀夫さん訳の旧版の同箇所を見返すと、なんと同じくトリローニ船長と訳されていました。「そうだった!」とシルヴァーはいまではすっかり興奮して叫んだ。「うん、ピューだ! 確かにそういう名前だった。ああ、あいつはぺてん師らしかったな、まったく! とにかく、もしあの黒犬をつかめえれば、トリローニ船長に、ええお知らせができるわけだぞ! ベンはなかなか脚の速い男だ。水夫仲間じゃベンくれえ早く走る男はあんまりいねえからな。あの男ならどんどんやつに追いつくよ、きっと! やつは船底くぐりの話をしてたんだと? このおれがやつに船底くぐりをやらせてやるぞ!」 原文でもキャプテン・トリローニとなっているので翻訳ミスではないようです。 "It was!" cried Silver, now quite excited. "Pew! That were his name for certain. Ah, he looked a shark, he did! If we run down this Black Dog, now, there'll be news for Cap'n Trelawney! Ben's a good runner; few seamen run better than Ben. He should run him down, hand over hand, by the powers! He talked o' keel-hauling, did he? I'll keel-haul him!" 同じ箇所を偕成社文庫の金原瑞穂さんは「トリローニ隊長」と。 岩波少年文庫の海保眞夫さんは「船主のトリローニさん」と訳しています。 原文があきらかにおかしいということで、そのまま訳さずに修正がなされたのでしょう。 この新潮文庫新訳版では、なぜ修正がなされなかったのか?「船底くぐり」という用語が出てきて、鈴木恵さんの新訳版では「船底まわし」となっています。 この「船底くぐり」とは刑罰の一種ですが、具体的にはどのようなものだろう? 罪人の胴体にロープをくくり付けて舷側から反対側の舷側へと潜らせるのか? ロープで縛った罪人を海に投げ落として、そのロープを反対側の舷側から引っ張りあげるというものか? 息が続かずに溺死するか、船底にはフジツボがびっしりと付着しているのでこすられると無惨なことになるだろう。縛り首の刑につぐ重刑かもしれない。 原文keel-haulingの意味は、竜骨と、引っ張る、たぐる、ですね。 hauling under the keelともいうらしいので、ロープを着けて罪人を自分で潜らせるのではなく、ロープを船底を潜らせての向こう側から引っ張るのかもしれない。 ほかに「置き去り刑」(無人島に置き去りにする)という用語も出てきますが、いかにも「海賊」や「海洋冒険小説」らしさのある用語です。 先にも書きましたが、「宝島」を読むなら偕成社文庫、あるいは岩波少年文庫、福音館文庫がいいのでしょう。児童向けとあなどってはなりません。判型も大きく(文庫となってるけど文庫判ではない)蔵書に最適です。
2016年08月12日
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「宝島」の面白さは宿屋の息子ジム・ホーキンズの冒険もあるのだろうけれど、真の主人公ともいえる海賊ジョン・シルヴァーの人間像がうまく描かれているからですね。 大地主トリローニ、医師リヴジー先生、スモレット船長たちと少年ジムが海賊と宝をめぐって戦う話だけだったら、古典的名作として現代まで読み伝えられなかったかもしれない。 ジョン・シルヴァーは残忍で狡猾だが、面倒見の良さと、知性と雄弁さ、野心と蓄財にはげむ勤勉さをもっているユニークな人物です。 海賊稼業で手に入れた金を散在することなく、しっかりと貯蓄していて、それを元手にして地位の向上をめざしている。手下の無法者たちとはあきらかに異なるキャラクターとして登場します。 ジョン・シルヴァーが言う。 「宝島」新潮文庫 佐々木直次郎・稲沢秀夫訳 「第八章 遠眼鏡屋の店で」「分限紳士(ぶげんしんし)ってなあこういうもんなんだ。やつらは荒稼ぎはやる、ぶらんこ往生覚悟の仕事はやる、闘鶏みてえにぜえたくに飲み食いするんだ。それで一航海やってくればだ、そうさなあ、ポケットにゃあ、はした金なんてもんじゃねえ、何百ポンドって金がへえってくるんだ。ところで、てえげえのやつらはそれをラムとか大尽遊びに使っちまって、またぞろシャツ一枚で海へ出かけるってわけさ。だけんど、わしのやりくちはそうじゃねえ。わしはそれをそっくり貯めておく。こっちにすこし、あっちにすこしってぐあいで、どこにもあんまりたんとはおかねえ。嫌疑がかかるからな」 訳注では、 海賊は、掏摸やこそ泥やふつうの強盗などを軽蔑して、自分たちをたわむれに「分限紳士」と称していた。「ぶんげん」とも読む。財産家、金持ちのこと、となっています。Here it is about gentlemen of fortune. They lives rough, and they risk swinging, but they eat and drink like fighting-cocks, and when a cruise is done, why, it's hundreds of pounds instead of hundreds of farthings in their pockets. Now, the most goes for rum and a good fling, and to sea again in their shirts. But that's not the course I lay. I puts it all away, some here, some there, and none too much anywheres, by reason of suspicion. 分限紳士。原文ではGentlemen of fortune です。 Gentlemen は紳士、旦那の複数形で旦那衆。 fortune は運、好運、果報、成功、出世、富。 佐々木直次郎さんは「分限紳士」と翻訳しましたが、ようするに「成金」「山師」のことですね。好運にめぐまれて一代で富を築いた男たち、というような意味。 シルヴァーが言うには、「海賊稼業で莫大な財を得た。たいがいの奴はお大尽遊びで金を使い果たしてしまい、無一文になって再び海へ出かけることになる。だが俺は奴らとはちがう。倹約してそれを貯めておくんだ。怪しまれないようにあちらこちらに分けてな」と。そしてその金で本物の紳士になって土地を買うか、議員をめざすのか? 新潮文庫の新訳版(鈴木恵 訳)では「冒険紳士」 偕成社文庫の金原瑞穂さんの訳では「純金紳士」となっています。 岩波少年文庫の海保眞夫さんの訳は「冒険家」です。 佐々木直次郎さんの訳をそのまま使うわけにはいかないのでしょうが、新潮文庫新訳版の「冒険紳士」だと意味がまったく異なってしまう。Gentlemen of fortuneから受ける語感がなくなってしまいます。 岩波少年文庫版の海保眞夫さんは「冒険家」として、訳注で原文の「Gentlemen of fortune 」を並記して「冒険家」と訳しておくと、ことわりをいれています。「分限紳士」と同じような意味の語では「成金紳士」か「山師」かと思いますが、自分で自分のことを、いかがわしい奴という語感がある「成金」とか「山師」と称するのはおかしいので、「Gentlemen of fortune」をそのまま日本語に訳するのはたいへん難しいのでしょう。
2016年08月11日
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ロバート・ルイス・スティーヴンソンの「宝島」が刊行されたのは1883年(明治16年)。 日本に入ってきて翻訳されたのはいつなのだろうか? これまでにいろんな方によって翻訳されていますが、現在もっともポピュラーなのは、児童向けでは偕成社文庫の金原瑞人さんと岩波少年文庫の海保眞夫さん、あとは福音館文庫の坂井晴彦さんでしょうか? 児童書ではない一般的な文庫本では新潮文庫の佐々木直次郎さんと稲沢秀夫さんによるものだと思うのですが、かつて岩波文庫(および岩波少年文庫旧版)の阿部知二さん訳がありましたが近年はあまり見かけなくなりました。 佐々木直次郎さんの翻訳は古く1935年(昭和10年)10月に岩波文庫が初版だそうです。佐々木直次郎 稲沢秀夫訳の新潮文庫版は初版が昭和26年3月となっていますが、この本は佐々木直次郎さんの翻訳に稲沢秀夫さんが手を加えたもののようです。 その新潮文庫「宝島」が新たに鈴木恵さんの翻訳で新刊として発売されました。 佐々木直次郎・稲沢秀夫訳の新潮文庫 鈴木恵訳の新潮文庫 新刊 阿部知二訳の岩波少年文庫 金原瑞人訳の偕成社文庫 の4冊を読み比べてみました。 まず目に付くのは、出だしの、トリローニさんの身分が「地主」と「郷士」のどちらか。 原文では SQUIRE TRELAWNEYです。 SQUIREは爵位を持たないが領地を持っている支配階級の身分。それを「郷士」と「大地主」のどちらで表現するか。「郷士」とは江戸時代の農村に在住して農業従事した武士。または農村で武士の身分を与えられていた農民。翻訳的には「郷士」が近いようですが、郷士と書かれても何だかよくわからない。社会的地位の表現としては「大地主」のほうが適っているのかも。 それに日常会話で他人が「郷士さん」と呼びかけるだろうか?という常識的な疑問もあるし、ここはやはり「大地主さん」ではないかと。 物語は少年ジム・ホーキンズが後になってから回想記として書いたもので一人称。「私」と「ぼく」のどちらが良いのだろう? 個人の好みの問題と思われますが、読者対象が児童だとすれば「ぼく」のほうが感情移入しやすいだろうし、私の個人的好みでも「ぼく」のほうが良いかな。 それに第16から18章までは医師リブジー先生の視点で語られるので、ジムの「ぼく」とリブジー先生の「わたし」になっているほうがはっきり区別しやすいのでは。 新潮文庫 佐々木直次郎・稲沢秀夫訳 「大地主」「わたし」 岩波少年文庫 阿部知二訳 「郷士」「ぼく」 新潮文庫 鈴木恵 新訳版 「郷士」「私」 偕成社文庫 金原瑞人訳 「地主」「ぼく」 です。 第二章 黒犬現れて去る"Bill," said the stranger in a voice that I thought he had tried to make bold and big.The captain spun round on his heel and fronted us; all the brown had gone out of his face, and even his nose was blue; he had the look of a man who sees a ghost, or the evil one, or something worse, if anything can be; and upon my word, I felt sorry to see him all in a moment turn so old and sick.「ビル。」とよその男がいったが、その声はしいて大胆そうに見せかけようとしているように思えた。 船長はくるりと後へ向きを変え、わたしたちと向いあった。その顔からは日焼けした色がすっかりなくなっていたし、鼻までが青かった。幽霊か、悪魔か、それよりももっとこわいもの(もしそんなものがあるとすれば)でも見た人のような顔つきであった。そして、まったく、ほんのちょっとのあいだにこれほど老いぼれて元気がなくなった彼を見ると、わたしは気の毒になった。第十一章 林檎樽のなかで聞いた話"Oh, I know'd Dick was square," returned the voice of the coxswain, Israel Hands. "He's no fool, is Dick." And he turned his quid and spat. "But look here," he went on, "here's what I want to know, Barbecue: how long are we a-going to stand off and on like a blessed bumboat? I've had a'most enough o' Cap'n Smollett; he's hazed me long enough, by thunder! I want to go into that cabin, I do. I want their pickles and wines, and that."「ああ、ディックが話がつくこたあ、おれにはわかってたよ」と舵手(コクスン)のイズレール・ハンズの声が答えた。「こいつはばかじゃねえからな、このディックは」それから彼は噛みタバコをぐにゃぐにゃやって唾をぺっとはいた。「だがなあ、おい」彼はつづけた。「おれの聞かしてもれえてえのはこういうことなんだ、肉焼き台(バービキュー)。いってえ、いつまでおれたちはつまらねえ物売り舟みてえにぐずぐずしてるんだね? おれはもうスモレット船長(せんちょ)にゃうんざりしてるんだ。やつは長えことおれををこき使いやがったからな、畜生! おれはあの船室へへえりてえんだ、そうさ。やつらの漬物(ピクルス)だの葡萄酒だのなんだのがほしいんだよ」 以上は佐々木直次郎さんと稲沢秀夫さんの新潮文庫旧訳版です。 今度、新潮文庫の「宝島」がこの佐々木直次郎さん、稲沢秀夫さんのものから、鈴木恵さんの新訳になりました。 新訳の新潮文庫「宝島」ではこの同じ箇所が、「ビル」と男は声をかけた。わざとふてぶてしさを装おうとしたような声だった。 船長はさっと振り向いて、私たちと向き合った。赤銅色の顔色はすっかり失われ、鼻までまっ青になった。幽霊か、悪魔か、もっとたちの悪いものでも--そんなものが存在すればだが--眼にしたような顔をしていた。船長が一瞬にしてひどく老け衰えてしまったのを見て、私は誓って言うが、残念に思った。「おお、味方なのはわかってたさ」答えたのは艇長のイズレイル・ハンズの声だった。「馬鹿じゃねえからな、ディックは」そう言うと、噛み煙草を転がして唾を吐いた。「だけどなあ、バーベキューよ」とハンズはつづけた。「おれたちゃいつまで物売り船みたいにぐずぐずしてるんだ?おれはもうスモレットの野郎にはうんざりしてきたぜ。ひとをさんざんこき使いやがって、ちきしょうめ!早くあの船室にはいりこみてえよ。はいりこんで、あいつらのピクルスやらワインやらをいただきてえぜ」 I felt sorry がなぜ「残念に思った」になるんだろう? coxswain がなぜ「艇長」になるんだろう? coxswainは 舵手、舵取り、かじ取り、楫取り、操舵手 。 レース用ボートの艇長(コックス)という意味として、この「宝島」へ向かうスクーナー船に搭載されているボートの艇長ということだとしても、この場合は「舵手」か「舵取り」がふさわしいのではないか? bumboatを「物売り船」とするのも、ボートならば「船」ではなく「舟」であるべきで、この「宝島」の鈴木恵さんによる新訳はていねいな仕事がおこなわれたとは思われません。佐々木直次郎さんの旧訳版に代わって、今後ずっと読みつがれていく本になるとすれば、このような粗っぽい翻訳でいいのだろうか? 児童向けの偕成社文庫の金原瑞人さんの訳では、「心から船長がかわいそうに思えた」「舵手のイズラエル」「物ごいの船」になっています。 現在、最も評判が良いのはこの偕成社文庫の金原瑞人さんの訳と、岩波少年文庫の海保眞夫さんの訳のようです。 金原瑞人さんの訳と共に評価の高い「岩波少年文庫」の海保眞夫さんの翻訳を読んでみたく、書店で取り寄せてもらうことにしました。入荷案内がたのしみです。
2016年08月08日
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本屋さんへ行くと夏休み恒例の読書感想文用に文庫本がいろいろ並べられています。新潮文庫、角川文庫、集英社文庫などなど。 世の中には読書習慣のない人が多く、何十年もの間に一冊も本を読んだことがないという豪傑もおられる。 私は本のない人生よりも本がある人生のほうが何十倍も何百倍も楽しいのではないかと思っているし、本のない生活など思いもよらないですね。 夏休みの宿題に読書感想文の提出があるのは中学生、高校生の時だったか?小学生の時にはそんな宿題はなかったように思います。 私は小学生の時は図書室が大好きだったし、なぜかその頃から本が好きだった。クラスの友人間で、誰が貸出しカードの記入欄を早くいっぱいにするか競争したくらいです。 そんな子供時代の読書として思い出深いのは「ロビンソン漂流記」と「宝島」。 この2冊はけっして子供向けではなく、60才を越えた現在になって読んでも充分に面白さを満喫できる傑作です。 画像は新潮文庫の「宝島」ロバート・L・スティーヴンソン著で、新旧版の2冊。 表紙が見えるのは今月新刊の「宝島」で、翻訳が新しくなった鈴木 恵さんの訳。右は佐々木直次郎、稲沢秀夫さんによる旧訳の平成10年2月20日 71刷のものです。 物語は、ジム少年の父親が経営する「ベンボウ提督亭」に顔に刀傷がある老水夫が泊まる場面から始まる。その老水夫が持っていた宝島の地図を手にいれたジムは、地主のトリローニさん、医者のリヴジー先生とともに宝島に向けて航海に出ることになります。 ところがその船は、雇い入れたジョン・シルバーという片足のコックが首謀者となって反乱が企てられる。敵は19人で味方は7人という危機に陥り、仲間にならないものは容赦しない海賊を相手にジムたちは戦うことになって、最後まで息もつかせぬ展開となる。 スリルと空想をかきたてる冒険小説。幾多ある冒険小説のなかでも、1883年(明治16年)に刊行された古典的作品である「宝島」を越える作品はいくつあるか?と云える傑作です。 海賊ジョン・シルヴァーの狡猾で残忍だが、愉快で頼もしくもあり、敵味方の状況に応じてうまく立ち回るキャラクターが心に残る。 無鉄砲だが賢く勇敢で律義な少年ジム、冷静で紳士的なリヴジー先生、武骨で自分の仕事をわきまえているスモレット船長など、登場人物の個性がうまく描きだされています。 近年は、古典的作品の新訳版がつぎつぎと刊行されるのが流行なのか?時期的にその時期が来たのか?わからないけれど、新訳版が出たからといって旧訳版を絶版にしてしまわないでほしいものです。新訳版、旧訳版、読者の好みに応じてどちらでも読めるように並行して出版してもらいたいな。 新潮文庫の新訳版は挿絵と解説がなくなったのが残念。
2016年08月05日
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江戸川乱歩作品の著作権が切れたそうですね。 青空文庫では早くも、「押絵と旅する男」「心理試験」「D坂の殺人事件」「二銭銅貨」「人間椅子」「パノラマ島綺譚」など短篇の代表的な作品が10作ばかり公開されていて、さらに、長篇も含めて有名な作品のほとんどが作業中になっています。 江戸川乱歩さんが亡くなった1965年(昭和40年)から50年が経ち、その作品がパブリックドメインとなりました。 最近、書店で江戸川乱歩作品の文庫本をよく目にするのは、そういうことだったらしいです。 右の画像は私が持っている光文社文庫の江戸川乱歩全集第1巻「屋根裏の散歩者」です。 全30巻で、定価1000円余で、文庫本としては高いものですが、かなり部厚くドッシリとした重量感ある本です。作品解説が充実していて、現時点ではもっとも良質な江戸川乱歩文庫本だと思われます。 で、第1巻しか持ってないので、第2巻の「パノラマ島綺譚」も欲しいと思い、思い立ったが吉日とやらで書店へ行くと、なんと装丁が変わっていて、格調あるものだったのが、格調のカの字もないアニメ絵の表紙になっている。これでは買おうにも買えず、ガッカリして帰って来ました。 なんでまた表紙を幼稚なアニメ絵にするのか?、青年や年配者や大人の読者は買うなということなのか。 そんなわけで、新潮文庫の「江戸川乱歩傑作選」と、この光文社の「屋根裏の散歩者」をパラパラとページをめくっていて、気がついたこと。「D坂の殺人事件」。「新青年」1925年(大正14年)1月増刊号に発表された、明智小五郎が素人探偵として初登場で知られる短篇ですが、この冒頭がわずかに異なっている。「それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中程にある、白梅軒という、行きつけのカフェで、冷しコーヒーを啜っていた。当時私は、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽ると、当てどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬカフェ廻りをやる位が、毎日の日課だった」 この「カフェ」の箇所が新潮文庫版では「喫茶店」に書き換えられています。戦後に乱歩先生本人がカフェを「今ふう」に喫茶店と改訂したのですが、カフェのほうがモダンな感じがするのにね。 同様に、古本屋で死体を発見した箇所で「自動電話」が「公衆電話」に書き換えられています。
2016年06月06日
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手塚治虫さんの漫画「新選組」。「少年ブック」昭和38年(1963)1月号~10月号に連載された作品です。 父親を土佐の浪士に殺された深草丘十郎という少年が、親の仇を捜して討つために新選組に入隊する。 主人公の前に坂本龍馬が現れて仇討ちの無意味さを説くのですが、この龍馬のキャラクターは現在の一般的なイメージとはずいぶん異なったものになっています。 立派な風采で貫禄があり、坂本龍馬というより、薩摩の大物のような感じか、または幕臣の勝海舟といっても通用する。仕立ての良い黒羽織を着て、桂小五郎を「桂くん」とか「桂」と呼び捨てにし、同輩か上位の関係のよう。 手塚先生は解説で「ぼくの描く時代ものは、だいたいに時代考証がメチャクチャで」と書いていますがなかなかどうして面白い新選組ものになっています。 主人公たちが局長 芹沢鴨を斬ってしまい、これは切腹だなと覚悟すると、近藤勇から、「じつは守護職に芹沢を処分せよと命令されていたのだ」と云われてお咎めなしになる。これはこれで漫画らしい面白いストーリーです。 ただ坂本龍馬のイメージがずいぶん異なっていて、当時の感じとしてはこういうのが一般的だったのでしょうか? 画像は私が持っている司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」単行本全5巻です。 この単行本は新装版で、昭和63年(1988)10月に出たもの。定価1200円。「竜馬がゆく」は「産経新聞」夕刊に昭和37年(1962)6月~41年(1966)5月まで連載された歴史小説。 単行本の第1巻「立志篇」が出たのは昭和38年(63)7月。 第2巻「風雲篇」は翌39年(64)2月。第3巻「狂瀾篇」11月 第4巻「怒濤篇」が40年(65)8月 第5巻「回天篇」が41年(66)8月です。 そして「竜馬がゆく」単行本全5冊がベストセラーになったのは昭和43年(1968)で、この年のNHK大河ドラマとして北大路欣也さん主演で放送されたのが大きな要因なのでしょう。 ヨレヨレの着物に髪はボサボサといった、身なりに無頓着なイメージは、視覚化されたこの大河ドラマから来ているのではないか? その大本となった司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」が多くの読者を得て、その飄々とした人物像ができあがった。 桂浜の龍馬像と、遺されている肖像写真はあるが、一般的には手塚先生の漫画にも描かれているように、ハッキリとした視覚的なイメージはなかったのかもしれない。 現在の人たちが坂本龍馬といって脳裡に浮かぶイメージは司馬遼太郎さんの小説「竜馬がゆく」によるものではないだろうか。 私としては坂本龍馬には魅力を感じず、歴史上人物としても関心がありません。 司馬さんの「竜馬がゆく」はたしかに面白くて、これまでにも何度か読みましたが、それは時代小説としての面白さだと思っていて、竜馬の魅力も時代小説の主人公としてのものです。
2016年05月30日
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現在はあたりまえのように書店に並んでいる新書判の単行本コミックスですが、このような形態の漫画単行本が初めて刊行されたのは1966年(昭和41年)の5月ごろです。定価は220~250円。コダマプレスのダイヤモンドコミックス「ロック冒険記」手塚治虫 5月10日「真田剣流」白土三平 〃小学館のゴールデンコミックス「カムイ外伝」第1巻 白土三平 5月15日「007死ぬのは奴らだ」さいとう・たかを 〃「007サンダーボール作戦」さいとう・たかを 〃「忍者武芸帳 影丸伝」第1巻 白土三平 8月10日秋田書店のサンデーコミックス「サイボーグ009」第1巻 石森章太郎 7月15日「サイボーグ009」第2巻 〃 8月10日「忍法十番勝負」横山光輝・他 10月5日朝日ソノラマのサンコミックス「黒い風」石森章太郎 11月10日 「日本奇人伝」水木しげる 〃「縄と石 佐武と市捕物控」石森章太郎 1967年(昭和42年)3月27日「漫画家残酷物語」 永島慎二 8月21日 日付は奥付に記載されている初版発行日。 私が初めて書店で新書判コミックスを手に取ったのは、小学館のゴールデンコミックスの「007サンダーボール作戦」だった記憶があり、それまでは月刊や週刊の漫画雑誌、あるいは月刊誌の付録本の大きさに馴染んでいたので、初めて目にした新書判のコミックスの細かく小さく縮小された画を見て、読みにくいと思ったものです(のちにはさらに小さい文庫版サイズも出されたが)。 講談社から「講談社コミックス(KC)」が刊行されたのは、その1年あとで、翌1967年(昭和42年)5月10日。「ハリスの旋風」第1、2巻 ちばてつや「墓場の鬼太郎」第1巻 水木しげる「魔犬ムサシ」石川球太 の4冊です。「巨人の星」第1巻 川崎のぼる画、梶原一輝原作 1968年3月「紫電改のタカ」第1巻 ちばてつや 1968年8月「あしたのジョー」第1巻 ちばてつや画、高森朝雄原作 1970年3月 この講談社コミックスは自社の「週刊少年マガジン」の掲載作品を単行本としてまとめたものです。収録作品はすべて「少年マガジン」のものですね。 ところが、朝日ソノラマ「サンコミックス」や秋田書店「サンデーコミックス」小学館「ゴールデンコミックス」などは自社の作品だけではなく、自社他社に関係なく自社ブランドのコミックスに収録している。 小学館ゴールデンコミックスの「カムイ外伝」「007シリーズ」は自社の「週刊少年サンデー」「ボーイズライフ」に載った作品だが、目玉商品?の「忍者武芸帳 影丸伝」は貸本漫画単行本として出されていたものを新書判型にして刊行しました。 数年後には青林堂の「ガロ」に連載されている「カムイ伝」(全21巻)が次々と刊行されベストセラーになったり、光文社の「少年」に連載された「鉄腕アトム」が全20巻として刊行されました。 秋田書店のサンデーコミックスは他社掲載作品が目立ち、刊行第1号「サイボーグ009」は少年画報社の「週刊少年キング」に連載された作品です。「週刊少年サンデー」に連載された「男どアホウ甲子園」(水島新司)もあって、これなどは本来は小学館が出すべき作品ではないか? サンコミックスの「縄と石 佐武と市捕物控」も「週刊少年サンデー」の作品で、小学館ではなく他社のコミックスから刊行している。 出版社に関係なく種々雑多な作品があちらこちらの新書判コミックスとして出されたのはなぜだろうか? それなのに、講談社の新書判コミックス「講談社コミックス(KC)」だけが自社の雑誌に掲載された作品のみしか収録していないのは、なぜだろう? マンガ史に記録されるされるできごと「新書判コミックスの誕生」。 それまでは「マンガ」は雑誌掲載のものしかなく、読み捨てにされるものでした。 貸本屋に並んでいるような劇画・マンガ単行本はあったけれど、「少年」などの広告ページには「鉄腕アトム」や「鉄人28号」の第何集が発売された、みんなで読もうとか書いてあったけれど、私たち小学生の子供にとってはおいそれとは買ってもらえるものではなく、高嶺の花でしかなかった。 新書判コミックスが誕生して、マンガを蔵書にできるようになりました。物価的に当時の定価220~250円は決して安いものではなかっただろうが、すでに中学生になっていたし、自分で買うことができる金額、そんな年齢になっていました。 小学館ゴールデンコミックスの「007シリーズ」(全4巻)や「忍者武芸帳 影丸伝」(全12巻)など、軽率に処分してしまって後悔していますが、いま持っていたら貴重な本だと思われます。 各社からいろんな新書判コミックスが出されたけれども、最もたくさん買ったのは講談社コミックス(KC)です。「巨人の星」「あしたのジョー」「愛と誠」「釣りキチ三平」「野球狂の詩」「おれは鉄兵」「翔んだカップル」などなど。
2016年04月13日
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この雑記帳の2011年9月12日に書いた「劇画007(ゼロゼロセブン)」。 今では読みたいと思っても絶版になっていて、幻の作品でした。 その「劇画007」が4ヶ月前の12月に小学館から復刊されて、全4巻が発売されていた。 まったく知らなかったので、ネット通販サイトを見てびっくり。これはなんとしても買わないと、というわけで近所の書店で取り寄せてもらいました。「死ぬのは奴らだ」(787円+税)「サンダーボール作戦」(694円+税)「女王陛下の007」(787円+税)「黄金の銃を持つ男」(787円+税) 4冊で税込3,300円。 さいとう・たかをさんが月刊誌「ボーイズライフ」に連載した作品で、1966年から67年にかけて小学館のゴールデンコミックスとして全4巻が発売(220円~250円)。 1980年頃にも小学館文庫として刊行されましたが、今回は判型が大きくなったので(B6判)比較的読みやすいです。 個人的な好みで云えば、表紙と背に「007」が大きく書かれて目立ちすぎな感じがする。 それと「007号」の「号」がなくなって「007」になっているのは、これがイマイチ気にいらない箇所です。ゴールデンコミックス版そのままの形で復刊してほしかった。 私にとっての「007」出発点であるさいとう・たかをさんの劇画「007」。「ゴールデンコミックスの劇画007号4冊」→「イアン・フレミングの原作小説(ハヤカワのポケットミステリと創元推理文庫)」→「映画 女王陛下の007の劇場公開」の順だったから。 そんなわけで、この「劇画007」4冊は、これからの生涯にずっと私の傍らにあることになるでしょう。こんどは絶対に処分したりしないぞ、と。
2016年03月22日
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外国のミステリや冒険小説ばかり読んでいると、突然に正反対の日本の時代小説を読みたくなったりします。 そんなわけで読み始めたのが柴田錬三郎さんの代表作「眠狂四郎無頼控」で、新潮文庫の全6巻。 本棚の奥深くにあって、取り出すのは10年以上ぶりだろうか? 開けてビックリ玉手箱ではありませんが、茶色い染みが各所に着いている。何年もほったらかしにしていた自分の管理が悪いのですが、大切な本にカビが生えたり染みが出たりすると、悔しいというかガッカリです。 そんなわけで、古い本で活字が小さいこともあり、改版された新しいのがほしいと思って本屋へ見に行きました。 ところが、眠狂四郎シリーズどころか柴田錬三郎さんの本が一冊も置いてないではないか。近年はこのような時代小説は流行らないのでしょうか。 ネット通販でみると品切れで注文できない品となっている。新しく再版されるまでは購入不可のようです。 そんなわけで、古本屋へ行ってみると、シリーズ全部ではないけれど置いてあって、何冊かを手に入れることができました。表紙カバーも新しいイラストになっており(写真)、活字も大きくなっていて読みやすい。「眠狂四郎無頼控」は昭和31年5月から「週刊新潮」に連載された作品で、全100話。続30話が加わり、文庫本で全6巻です。 その後、「独歩行」50話、「殺法帖」50話、「孤剣五十三次」55話、さらに「虚無日誌」、「無情控」、「異端状」と続く。 老中水野越前守忠邦の側頭役 武部仙十郎の密命をうけて行動する眠狂四郎の活躍を描いた作品ですが、悪役としての備前屋をはじめとして、数々の事件と、狂四郎の前に現れる刺客と公儀隠密団。そして、狂四郎を慕う清楚可憐な美保代、静香。狂四郎の子分となる掏摸の金八や常磐津師匠の文字若、読本作者の立川談亭老人など、娯楽時代小説としては定番キャラクターの人々。 水野忠邦が斬落とした将軍家拝領雛の男雛女雛の首を、失脚の材料にしようと暗躍する政敵一派。狂四郎の祖父松平主水正の配下戸田隼人の豪剣。 眠狂四郎の陰惨な生い立ちからくる虚無感と厭世観。円月殺法の前に血煙上げて倒れる刺客や隠密。剣戟の魅力と登場人物の魅力。面白い小説です。 文庫本の数としては大長編のように思われるかもしれないけれど、週刊誌連載の連作短篇の形をとっていて、たいへんに読みやすい。一日に一話ずつ読んでいってもOKです。 いま私は夜、寝る前に布団の中で1~3話ずつくらいを読んでいて、就寝前のちょっとした楽しみです。
2016年01月04日
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書店で新刊コーナーに並んでいるのを見て、迷うことなく買ってしまう本というのは、近年では少ないのですが、その少ないうちの一冊。「アラスカ戦線」ハンス・オットー・マイスナー著 松谷健二訳 ハヤカワ文庫 定価1060円+税は文庫本にしては高いが、冒険小説ファンとしては、これは買わずにはいられない。 というのは、40年くらい前に読んだことのある本で、その後ずっと絶版になっていました。それが装丁が新しくなって再刊。懐かしさもあっての購入です。 1944年、日本軍がアリューシャン列島のアッツ島に極秘裏に飛行場を建設し、アメリカ合衆国本土爆撃を計画。しかし、合衆国への長距離飛行には、途中の不安定なアラスカ上空の気象情報が不可欠である。そこで人跡未踏の荒野へ潜入し、敵の目を避けながら気象情報を送るという困難な任務を与えられたゲリラ戦のプロ 日高大尉以下11名の精鋭が選抜されアラスカの大地へ降下する。 一方、日本軍の潜入を察知したアメリカ軍は、捕捉殲滅するべく、アラスカの地を熟知するスカウトからなる捜索チーム14名を送り込む。 敵味方が持てる知識と知恵、技術と体力のかぎりを尽くす死闘が展開し、大自然の脅威の中、狩りと野営のサバイバル。装備を失い、部下を失い、やがてリーダー同士の対決となる。 著者のハンス・オットー・マイスナーはその名前のとおりドイツ人です。ドイツ人の作家がアメリカ人と日本人を主人公にした冒険小説。どちらに肩入れすることもなく、公平な視点で描いている。 主人公の日高大尉を始めとする日本人の描写はステレオタイプ的ではあるけれど、名誉ある武士といったキャラとして描かれていて、けっして悪くはない。「ヤンキーは女子供でも容赦なく爆撃で殺す」という日高大尉の発言は、ドイツ人としての著者の発言でもあるのでしょうか。 日高大尉とアメリカ追跡チームのリーダー アラン・マックルイアのお互いに敵同士でありながら、お互いの力量を認めて尊敬心をいだく。 こういう男同士のカッコ良さは冒険小説の醍醐味です。そして彼らの前に立ちはだかる大自然の猛威。 原題は「ALATNA DUELL IN DER WILDNIS」 は英語ではなく?ドイツ語?「アラトナ 野生の決闘」という意味だろうか?「アラトナ」はヒロインの名前で、日高大尉と結婚することになるアラスカ少数民族の娘さんですが、そのロマンスがさわやか。日本とアメリカの戦争が、このようなアラスカで平穏に暮らす人々まで巻き込んでしまう。 ラストは敵味方を越えた男同士の交流であり、気持ちの良い読後感を得られます。 この小説を映画化するというニュースを40年くらい前に新聞記事で読んだおぼえがあるのですが、たしか、クリント・イーストウッドと石原裕次郎さんが共演するとかで。この企画は実現しなかったようですね。
2016年01月03日
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「金田一耕助の帰還」と「金田一耕助の新冒険」という文庫本を古本(108円)で買いました。 共に短篇集で光文社文庫。古本ですが傷みも汚れもないきれいな本です。 「金田一耕助の帰還」 2002年4月30日 初版2刷発行「毒の矢」「トランプ台上の首」「貸しボート十三号」「支那扇の女」「壺の中の女」「渦の中の女」「扉の中の女」「迷路荘の怪人」 の8篇 「金田一耕助の新冒険」 2002年11月30日 初版2刷発行「悪魔の降誕祭」「死神の矢」「霧の別荘」「百唇譜」「青蜥蜴」「魔女の暦」「ハートのクイン」 の7篇 どこかで目にしたようなタイトルばかりなので、角川文庫版に収録されている短篇を再編したものかと思って買ったのですが、そうではないようです。 これらの作品はすべて角川文庫には収められていないもので、この光文社文庫でしか読めない珍しい作品なのだとか。というのは、横溝正史さんは短篇を元にして中篇や長編に書き直すことが多かったそうです。角川文庫に収められている作品の、これはその原型ということで、この光文社文庫の2冊は横溝正史ミステリのファンには貴重な本ではないかと。知らずに買ったのですが、得したような気分がする。「金田一耕助の帰還」の巻末には横溝正史さんによる「金田一耕助誕生記」という文が載っているし、「新冒険」のほうには、金田一耕助登場作品の全リストが載っている。これらもファンには嬉しい内容です。 金田一耕助について、つづく。
2016年01月01日
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新田次郎さんの歴史小説「武田信玄」を読み始めました。「歴史読本」(新人物往来社)の1965年5月号~1973年9月号にかけて連載された作品。新田次郎さんの代表作であるだけでなく歴史小説の代表的作品でもあるのではないでしょうか。「風の巻」「林の巻」「火の巻」「山の巻」の全4巻。読み応えのある長編小説です。 私が現在持っているのは文藝春秋社の単行本で全4巻。 奥付を見ると昭和62年8月15日、25日第1刷、9月20日第2刷だから、もう28年も前に買った本で、通読するのは3度目になります。 武田晴信が父信虎に疎まれ、その父を駿河の今川義元のもとへ追放するところから始まります。 信虎は晴信を追放して次男信繁に家督を継がせようとし、今川義元に密書を送り、晴信は父をあずかって欲しいと密書を送る。 今川義元としては甲斐国主は信虎と晴信のどちらがいいのか。 晴信は武田の家臣に人望があり、智勇とも信虎よりすぐれているとすれば、やがては駿河をおびやかす存在になるのではないか。信虎をこのままにしておくのは問題だがいずれ近いうちに自滅するだろう。晴信の弟信繁に武田を継がせたほうが駿河にとって安心ではないか、と考える。 このクーデターは、晴信が甲斐国領主の座を狙って父親を追放したというより、現実は甲斐の国人たちが自分たちの利益代表として信虎より晴信のほうを選んだということでしょう。 かつての日本史では、戦国大名は独裁者だとされてきました。 家臣や領民に対して生殺与奪の権を握って、絶対的な権力を持っていたと。 近年ではそうではなく、領民や国人たちが、自分たちにとってふさわしいと思われる人物を領主として担ぎ上げたとされます。労働組合の組合員たちが自分たちの利益代表として委員長を選ぶように。「早春孤影」「青梅の舞」「陣中の恋歌」「雨情無情」ときて、「手扇」の頁を読んでいるところですが、晴信が父親の信虎を追放するのを読者に納得させるために、信虎を残忍非道な人物として描き、やがては切腹に追い込む諏訪頼重を傲慢でイヤな男とする、小説としては常套的なものです。 晴信の恋の相手として登場するおここ、里美、湖衣姫など、ヒロインたちも魅力的で、そんななかで対比的に正室 三条氏を、家柄を笠に着る冷酷な女として描くのも小説の常套です。 このような歴史小説に対して「史実とちがう」と批判し、三条氏は小説に描かれるようなイヤな女ではないのではないか、と言うのはナンセンスです。「史実」はけっして「真実」ではなく、戦国時代の登場人物たちがどんな性格だったかなど、真実がわかるはずがない。残された記録がどうのといっても、記録など都合のいいように書けるのだから。歴史をねじまげないかぎり、小説だから作家の好きなように人物像を創ればいいのではないでしょうか。 新田次郎さんの「武田信玄」のあとには続編として「武田勝頼」(全3巻 講談社文庫刊)があって、「武田信玄」「武田勝頼」をつづけて読めば、その間は武田家盛衰の歴史世界に浸かった至福の読書時間が得られます。
2015年12月02日
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現在60才以上の男性で、子供の頃に江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズを読んだことがないという人はどれだけいるでしょうか? 小学校の図書室にあったポプラ社か光文社の単行本、または「少年」など子供向け月刊誌の連載を夢中になって読んだ男子がたくさんおられるのでは。 先日、108円で買った古本の「青銅の魔人」を読みました。 他にも10冊ばかりあったのですが、取りあえず買ったのがこの本で、なぜか少年探偵団というと「青銅の魔人」をすぐに連想します。 調べてみると、昭和24年(1949)に「少年」(光文社) 1月号~12月号 に連載された作品。 この「青銅の魔人」が脳裡に記憶されているのは、小学校の図書室で借りた本ではなく、雑誌「少年」で読んだのだろうと思います。 もちろん昭和24年は私が生まれる前なので、リアルタイムで読んだわけではない。家にあった古い「少年」を読んだのか、読んだとしても小学生の頃です。 冬の夜、深夜の銀座通り、人っ子一人通らぬ。月の光に電車のレールが光っているばかり。 月光に照らされたのは、三日月形に裂けた口をもつ金属のお面を着けた青い背広服の男。実はお面ではなく、頭だけでなく全身が青銅に覆われていて、その怪物のからだのなかからひびきわたる、ギリギリという歯車の音。真夜中の時計店を破った時計どろぼうは、青銅でできた機械人間だった。 名探偵明智小五郎は、小林少年が戦災孤児たちで結成した「チンピラ別働隊」の協力のもと、怪人のトリックをあばいてゆき、その正体をつきとめる。 子供向けの、しかも60数年も昔の古い作品。他愛がない内容といえばそうなのですが、私は年を取ったせいか、このような古い作品を楽しんで読めるようになりました。「少年探偵団」「怪人二十面相」・・・・・、まだ小学校に入る前だったと思いますが、母親に連れられて見た映画で、軽自動車くらいの大きさの黒い(白黒映画だった)カブトムシのロボットか乗り物が出てきて、建物の中まで入ってきて廊下を進んで来る、ちょっと怖くて、そこだけ覚えています。タイトルも出演者も不明です。
2015年09月07日
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「書店ガール」(碧野 圭 著 PHP文庫)の第4巻「パンと就活」が5月11日に発売されました。 主人公が代わって、3巻までの西岡理子と小幡亜紀からアルバイトの高梨愛奈と駅ビルにある書店の契約社員 宮崎彩加になりました。始めはとまどいましたが、読んでいるうちにいつもの「書店ガール」の世界になって一安心。 書店を舞台にしたお仕事小説です。 女性書店員さんたちの挑戦と悩みと仕事への頑張り。 自分の仕事に誇りを持っている主人公たちには、毎度感動させられます。 写真は新刊の第4巻です。普通なら帯は表紙の三分の一くらいですが、この本は全体が帯になっていて、外すといつものイラストが描かれたカバーになります。カバーが2枚かかっている、今まで買った本ではこんなのは初めて。PHP文庫さん偉い。 金沢にもいくつか書店がありますが、その店それぞれに独特の匂いと雰囲気がありますね。 このシリーズを読んで書店の仕事と書店員さんを意識するようになりました。
2015年05月19日
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「ビブリア古書堂の事件手帖」(三上 延 著、メディアワークス文庫)の第2巻ではアントニイ・バージェス 「時計じかけのオレンジ」福田定一 「豚と薔薇」「名言随筆 サラリーマン」足塚不二雄 「UTOPIA 最後の世界大戦」 を扱っています。 テレビで放送していたドラマ「ビブリア古書堂の事件手帖」は一度も見なかったし、出演者にも興味がないので今後も見ることはないだろうと思います。 その原作の、このような若者向け小説は普段なら手にしないのですが、「時計じかけのオレンジ」を扱っているとのことで関心を持ちました。 連作形式の小説です。ミステリではないようで、古書についてのエピソード、蘊蓄(うんちく)が古書店主の篠川栞子を通して語られるのが本好きには楽しい。日常的に本を読まない人や書店に足が向かない人は、おそらく読んでも面白くないのでは?そんな小説ですね。「福田定一」と聞いて、司馬遼太郎さんの小説やエッセイに慣れ親しんでいるファンならすぐに司馬さんの本名だとわかるはずです。■司馬遼太郎 しば りょうたろう 1923~96(大正12~平成8) 戦後の小説家。(生)大阪、(名)福田定一(学)大阪外国語学校(大阪外語大)蒙古語科 1946(昭和21)「新日本新聞」入社。1948「産経新聞」京都支局に転じ、のち大阪支局に移る。同人誌「近代説話」創刊に参加。1955刊「ペルシャの幻術師」により講談倶楽部賞を受賞。1960「梟の城」で直木賞を受賞。1961新聞社を退社して文筆専業となり、1966「竜馬がゆく」により菊池寛賞を受賞。「国盗り物語」「世に棲む日日」「坂の上の雲」「翔ぶが如く」など次々と雄大な構想と巧みな語り口で作品を発表した。1981芸術院会員。1993(平成5)文化勲章。 (「コンサイス日本人名事典」第4版 三省堂) 司馬遼太郎さんの推理小説「豚と薔薇」、福田定一名義の「名言随筆 サラリーマン」は現在では古書でしか読むことができない本です(全集にも入っていない)。「ビブリア古書堂の事件手帖」でも触れられているように、かなり高価な古書のようですね。「豚と薔薇」に関してはよくその書名を目にします。「司馬遼太郎が考えたこと」(新潮文庫)の第1巻には、「豚と薔薇」の「作者のことば」(153ページ)と「あとがき」(177ページ)が載っている。「あとがき」では、「ビブリア古書堂の事件手帖」にもあるとおり、「多少読者を意識する時期になってから、書いた。べつに動機はない。推理小説がはやっているからお前も書け、ということで、紙面をあたえられたのである。推理小説には興味をもっておらず、才能もなく、知識もない。書けといわれて、ようやく書いた」とおっしゃっています。 推理小説に登場してくる探偵役を、決して好きではない、と司馬さんは書いている。 他人の秘事を、なぜあれほどの執拗さであばきたてねばならないのか、その情熱の根源がわからない、と。 司馬さんの推理小説、というかミステリ的な作品は「豚と薔薇」だけではないようで、「司馬遼太郎短篇全集」(文藝春秋社)の第2巻に収録されている「マオトコ長屋」がそうです。昭和33年7月「小説倶楽部」第11巻第7号に掲載された作品。 この「司馬遼太郎短篇全集」の第2巻には「マオトコ長屋」の他に現代物としては、推理小説ではないけれども「大阪醜女伝」「白い勧喜天」「十日の菊」が載っていて、司馬さんのたいへん珍しい初期作品です。
2015年04月25日
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アントニイ・バージェス著「時計じかけのオレンジ」がハヤカワ文庫で刊行されたのはいつなのでしょうか? スタンリー・キューブリック監督の映画が日本で公開されたのが1972年4月。その映画公開に合わせて早川書房から単行本が発売されて、そののちに文庫化された。右の写真がその文庫版で、1977年ごろの発行だろうか? その時の文庫本表紙は映画ポスターのデザインから採ったものです。「ビブリア古書堂の事件手帖」第2巻では、栞子さんが小学4年生のときに買って読んで、読書感想文を書いたという、その文庫本が「1995年1月15日 25刷」。 現在、ふつうに書店にある「時計じかけのオレンジ」は2008年9月15日発行の「完全版」で、私が先日買ったのは2014年2月15日 11刷の本です。「時計じかけのオレンジ」の文庫本は、最終章がカットされた「旧版」と、最終章を復活して2008年に発行された「完全版」の2種類があり、「ビブリア古書堂の事件手帖」は、この「2種類の版があるのを知らなかった」を題材にしています。 アントニイ・バージェスの「時計じかけのオレンジ」初版が英国で刊行されたのは1962年。 同じ年にアメリカで出版されたのは最終章がない版だったそうで、出版社はむりやりにとってつけたハッピーエンドにするために作者にカットを要求したのだとか。 しかし、凶悪な不良少年が洗脳されておとなしくなり、それが再び不良少年にもどった、という所でエンドだったら、なんの意味も無い話になってしまう。作者の意図したテーマ「善悪を選択する自由。自由意思」は最終章にこそ描かれているのに、それをカットしてしまった不完全なものが流通し、その状態がずっとつづき、アメリカではようやく1986年に最終章が復活した完全版が刊行された。 日本で早川書房から1971年に出た単行本は最終章のない不完全版。のちのハヤカワ文庫になったのも同じ版。この不完全版がずっとつづき、2008年にようやく完全版のハヤカワ文庫が刊行された。「時計じかけのオレンジ」は3部構成で、それぞれ7章ずつあります。 不完全版はその第3部の第7章がカットされていた。第6章の「おれは、まるっきりなおったんだ」で終了していたものが、完全版ではカットされた「第7章」が復活。主人公アレックスは悪事に飽きて、成長し、大人になることを選んで終了します。 この「第7章」を読まなければ、「時計じかけのオレンジ」を本当の意味で読んでいない、と言われるのは、そういう事情があるんですね。 スタンリー・キューブリック監督の映画化作品は最終章をカットした不完全版をもとにしたものです。 アントニイ・バージェスさんは大人になったアレックスを描かなかったキューブリックを許さなかったそうで、その映画も嫌っていたそうです。 映画は面白いと思うし、これまでに何度も見た、私の好きな作品のひとつ。でも小説を読むと映画とは受ける印象が異なります。何よりも主人公アレックスの15歳という年齢。映画のマルコム・マクダウェルは大人っぽいですね(撮影時28歳?)。
2015年04月24日
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「時計じかけのオレンジ」 アントニイ・バージェス著 乾信一郎 訳 ハヤカワepi文庫 定価740円+税 先日、映画「時計じかけのオレンジ」(1971)をブルーレイソフトで鑑賞したのですが、その原作小説に興味が湧いて、読みました。「ビブリア古書堂の事件手帖」(三上 延 メディアワークス文庫)の第2巻に取り上げられているとのことで、この本も読んでみることに。栞子さんのように本の虫ではありませんが、負けていられない。 スタンリー・キューブリック監督の映画化によって世界的に広く知られた「時計じかけのオレンジ」です。 マルコム・マクダウェル演じる不良少年アレックスとその仲間たち。浮浪者を袋だたきにしたり、押込み強盗や婦女暴行など悪行の限りをつくす。 ついに殺人までおかしてしまったアレックスは仲間の裏切りにあって警察に捕らえられてしまいます。 懲役14年の刑をうけて服役するのですが、凶悪犯罪者を洗脳して善人にする「ルドビコ療法」の実験台にされる。薬物を投与され、暴力シーンを撮った映画を延延と見せられる。その結果、「暴力」を嫌悪し、拒否反応を起こすように改良されたアレックスです。 無害な人間になったアレックスは釈放されて娑婆に戻される。しかし彼を待っていたのは、かつて暴力を振るった者たちからの暴力の返礼でした。 絶望したアレックスは投身自殺をはかり頭を負傷。そのことでルドビコ療法の洗脳を解かれた彼が、これで元通り、「おれは、すっかりなおったんだ」と。 今回読んだのは、「完全版」ですが、以前に刊行されていた旧版は、映画と同じく、アレックスの洗脳が解けて「おれは、すっかりなおったんだ」で終わっていたそうです。 完全版では、この「なおったんだ」のあとに、あと1章がある。 結局のところ、旧版のテーマは「善というものは、心の中からくるものである。善というものは選ばれるべきものだ。人が選ぶことができなくなった時、その人は人間でなくなる」と。「人は自由意思で善と悪を選べなくてはならない。もし善だけとか、あるいは悪だけしか為せないのなら、その人は時計じかけのオレンジでしかない」、人間ではなく機械だというのですね。 それが、最終章を加えた「完全版」では、洗脳を解かれたアレックスは元の不良少年に戻るのですが、かつての仲間が足を洗って結婚して家庭を持ったのを知る。「悪」に飽きたアレックスは考えを変えて、今までの暴力行為と決別し、心を入れかえて、家庭を持って大人になることを宣言します。「わるさ」などはいつまでもやっているものではない。成長し、善悪をきちんと判断し、まっとうになる。それが人間だろう。若者の悪行など、一過性のものにすぎないのだ、というのが「時計じかけのオレンジ」の作者が言いたいことなのだと。 町の名士となった人が、「わしも昔は悪さをやったもんです。あははは」と言うあんな感じでしょうか。 つづきます。
2015年04月23日
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