おじん0523のヒロ散歩

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2023.05.13
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カテゴリ: ヒロ散歩



3月30日(木) 12:10
住吉橋から内仕切門をくぐり西側に折れると「 銅門渡櫓門 」へ。


銅門 (あかがねもん)
銅門は、小田原城二の丸の表門にあたる桝形形式の城門で、渡櫓の門扉や鏡柱に耐火を兼ねた
銅の装飾がなされていることから、この名で呼ばれています。馬屋曲輪から住吉橋を渡って、
桝形正面の埋門形式の「内仕切門」を潜って桝形内部に入ります。桝形を西に折れると「銅門
渡櫓門」となります。
渡櫓門は、幅約6m、長さ約23m、高さ約12mの規模で、渡櫓には「石落とし」と呼ばれる敵
を撃退するための仕掛けが設けられていました。
銅門は、明治5年(1872)に解体されましたが、発掘調査により石垣の位置が明らかになり、城
絵図や古写真などから復元設計が検討されて、平成5~7年(1993~1995)にかけて桝形や櫓台
石垣が、平成8、9年にかけての渡櫓門や土塀が、日本古来の伝統的な工法で復元されました。


内仕切門周囲の土塀には三角形の鉄砲狭間と長方形の矢狭間が開けられている。


銅門渡櫓門の門扉から二の丸内を望む。
柱と扉はヒノキが使用されている。


銅門渡櫓門には木製の大きなマツの梁(直径50センチ以上か?)が2本。

南側の梁支え。


銅門 (あかがねもん)
江戸時代の二の丸正門に位置づけられる門です。この門を通り本丸や天守へと進むようになっ
ていました。
桝形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これを繋ぐ石垣と土塀で構成されます。
銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついたといわれています。
地震などによる被害を度々受けながらもその都度修理がなされ、江戸末期まで維持されていま
したが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872)に解体されました。
現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平成9年(1997)に古来の工法によ
り復元しました。銅門の梁にはマツ、柱と扉にはヒノキが使われています。


銅門の復元
銅門は、住吉橋の・・・ピンボケのため後略


銅門渡櫓門をくぐり二の丸広場。
右前方に常盤木門を望む。左手前には「小田原市指定天然記念物のビャクシン」が聳える。


小田原市指定天然記念物 小田原城跡のビャクシン。


小田原市指定天然記念物 (昭和56年3月30日指定)
小田原城跡のビャクシン
  所 在  小田原市城内3-22
  樹 相  目通り幹囲  3.1メートル  
       株元周囲   約3.9メートル
       樹  高   約15メートル
       枝張り状況  東西約12メートル、南北約15メートル
ビャクシンは主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも
植栽されている常緑樹です。
この木は市内最大級のもので、主幹の地上約4.5mのところで二つの支幹に分かれており、各々
が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相
当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い
歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。
                       小田原市教育委員会


ビャクシンの下で咲いていたこの花は?


ズームアップ。


二の丸広場


ビャクシンの下で休憩、見上げる。幹のうねりはピカソの絵を感じる!


南東方向に銅門渡櫓門を見る。
櫓門への入場は開放されていなかった。


銅門 土塀模型と左に銅門礎石。


銅門 土塀模型


土塀の施工工程、
荒壁 → 班直し → 大直し → 中塗り → 砂漆喰


銅門 土塀模型
この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち製作したものです。
使用する木材や白壁の材料である、土の収縮を乾き具合などを確かめるため重要な役割を果たし
ました。
皆さんに古い建築の工法を分かりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合より寄贈を受けたも
のです。


伝 銅門礎石


伝 銅門礎石
この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。
使用状況は、復元した銅門をご覧いただくと解りますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜め
に加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石と
しました。
箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。
手前の石は約1.6t、奥の石は約1.8tもある立派なものです。


二の丸広場に咲く桜並木。この道を進むと隅櫓、学橋へ。


二の丸跡
江戸時代、多くのお城では藩主の住まいは本丸にありました。しかし、小田原城の本丸には徳川
将軍家のための御殿があったため、小田原藩主の住まいは二の丸にありました。
二の丸の建物は「二の丸御屋形」と呼ばれ、藩主の住まいのほか、藩の政治を司る政庁としての
役割がありました。
二の丸御屋形は、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で被災した後に大規模に整備され、唐門
や能舞台を備えた御殿造りの壮麗な建物となりました。しかし、元禄16年(1703)の地震により
倒壊・炎上したことが、発掘調査でも確認されています。その後、規模を縮小して再建されま
すが、幕末に至って幕府老中や将軍家の上洛が再開されると拡張され、本丸御殿に代わる将軍家
宿所としても用いられました。
明治に入り廃城となった後、同34年(1901)に御用邸が建て替えられましたが、大正12年(1923)
の関東大震災でほぼ全壊しました。そして、その後、昭和4年(1929)に小田原第二尋常高等小学
校(後の城内小学校)が建設されました。平成4年(1992)に小学校統合に伴い城外へ移転しました
が、残った旧講堂は歴史見聞館として使われています。


小田原城歴史見聞館
所在地:神奈川県小田原市城内2-6
入場は有料で、小田原城の始まりから現在に至るまでや、小田原北条氏の歴史を、模型、音声、
映像などで分かりやすく説明していますと。


小田原城歴史見聞館
忍者体験ができるようで多くの子供たちが入っていた。


小田原城歴史見聞館


元々は小田原第二尋常高等小学校(後の城内小学校)で、平成4年(1992)に小学校統合に伴い城外
へ移転したため、残った旧講堂を歴史見聞館として利活用している。


常盤木門を見上げる。


常盤木門への朱色の常盤木橋。
常盤木橋の下に菖蒲園があるがまだ苗はポットの中。


常盤木橋をズームアップ。
三脚をセットして撮影する高齢カメラマン。


本丸の南斜面に植えられたサクラは満開。ツツジも植えられているようだ。


常盤木門の土塀を見上げる。


常盤木橋上には本丸へ登城する人が次から次と。


北側の菖蒲園。
小田原城東堀にある花菖蒲園では、6月になると約6,000株の花菖蒲が花開きます。同じく見頃
を迎える周辺のアジサイ(約2,100株)と併せてお楽しみいただけますと。
以前に訪れた時のブログ「​ あじさい・菖蒲まつり ​」👈 をクリック願います。


本丸の斜面に咲くサクラが満開。


数日後には花びらが舞い上がり・・・。


常盤木坂に聳える市指定天然記念物のイヌマキ。
右下奥には銅門渡櫓門が建つ。


小田原市指定天然記念物 (昭和49年3月30日指定)
小田原城跡のイヌマキ
  所 在  小田原市城内3-22
  樹 相  目通り幹囲  4.5メートル  
       株元周囲   約6メートル
       樹  高   約20メートル
       枝張り状況  東西23メートル、南北13メートル
イヌマキは関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、
小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます。
この木は、幹回り4.5メートルに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地
上5メートルのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ密に枝を広げて傘状の見事な
姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のよ
うな姿になってしまいました。
しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨
松と並ぶ双璧です。
                       小田原市教育委員会


株元周囲が約6メートルもあるイヌマキ。
主幹は左巻きにねじれており、補強用の支柱が立っていた。


イヌマキを見上げる。
地上5メートルのところで四支幹に分岐している。


常盤木坂から常盤木門を見上げる。


12:40
満開のソメイヨシノ。


小田原城と小田原合戦攻防図。


豊臣方の布陣


小田原合戦攻防図
天正18年(1590)4月、戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める豊臣
秀吉の大軍に包囲されました。
● 時代を画した小田原合戦
  織田信長の死後、北条氏は従属を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、天正15年(1587)から
  は、決戦に備えて小田原の城と城下を囲んで堀と土塁を構築しました(総構)。また、各地の
  支城を整備して迎撃態勢を整えましたが、豊臣勢の進軍は早く、次々に支城は落とされてい
  きました。豊臣軍は武器や食料の調達・確保にも長け、豊富な物量を背景におよそ15万と
  もいわれる軍勢で小田原城を包囲しました。そして、3ヶ月の籠城の末、北条氏直は小田原
  城開城を決意します。合戦の終結により、豊臣秀吉による天下統一が成りました。


● 戦闘の経過
  天正18年(1590)3月1日、豊臣秀吉は小田原に向け京を進発しました。東海道を進む本隊
  は、山中城(三島市)を突破し、4月中頃に小田原城を包囲しました。。また、毛利輝元(本
  人は京都留守居)等の水軍が物資輸送にあたり、前田利家率いる北国勢が上野国(群馬県)方
  面から北関東に侵攻しました。
  これに対して氏直は小田原城に主力を投入しつつ支城の防備を固めます。長期戦を覚悟し
  た秀吉は、早川(小田原市早川)西方の山上に陣城を構え、6月26日に本陣を移します。
  本隊の猛攻に耐えて小田原城総構の防衛線を死守するも、別働隊に主要な支城を撃破され
  た氏直は、これ以上の戦闘継続は無益と判断し、7月5日に城を出て降伏しました。
● 小田原合戦の意味
  北条氏は、中世的ではあるものの、優れた領国経営を行っていました。そして、その本城
  である小田原城は、堀と土塁で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、「土の城」
  でした。かたや秀吉が本陣を構えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭
  であり「石の城」でした。
  北条氏の滅亡により秀吉の天下統一が達成され、戦国時代は終わりました。小田原合戦は、
  日本の歴史が中世から近世へと動く、歴史の転換点となった出来事だといえるでしょう。
  また、小田原合戦後、参陣した武将は国元に戻ります。そして、自国を整備し、城郭の普
  請を行いました。普請された城郭の中には、駿府城(静岡市)や御土居(京都市)、岡山城(
  岡山市)など、総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考に行われたといわれているもの
  もあります。



                                     ー 続く ー






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最終更新日  2023.05.13 03:00:07
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