おじん0523のヒロ散歩

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2023.05.15
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カテゴリ: ヒロ散歩
本丸跡の広場には多くのソメイヨシノが満開であった。

3月30日(木) 13:05
天守閣の傍に一部咲いた一本のサクラの木が植えられていた。


木の根元に立札があり、
春日局 おふく桜   小田原 春日局の会  平成二年三月八日 植樹」と。
おふく桜をネットで検索するが?。


枝垂れ桜であろうか。


本丸跡の北側にある御用米曲輪。


御用米曲輪 (ごようまいくるわ)

と呼ばれています。平成22年度から史跡整備事業に伴う発掘調査を行い、江戸時代の蔵跡、戦
国時代の建物跡などが発見されました。現在、江戸時代と戦国時代の双方の小田原城の魅力を
体感していただけるよう、整備工事を進めております。
                   小田原市教育委員会


御用米曲輪出土の三ツ葉葵紋軒丸瓦
平成22年度から実施した御用米曲輪の発掘調査では、推定 15t を超える大量の瓦が出土してい
ます。中でも徳川将軍家の三ツ葉葵紋の軒丸瓦が多く出土したことが特徴的で、全国的にも最
多の出土量です。
御用米曲輪に幕府の蔵が置かれるなど、小田原城が徳川幕府と関わりの深い城であったことを
示す重要な出土品です。
                   小田原市教育委員会



だんごを串に刺し、タイヤのようなものに刺し回転させていた。


表に廻り込み、キッチンカーで「北条 三福だんご 本丸茶屋」。
小田原城 縁起物 三福だんごは、「大福+幸福+裕福」と。ここでも一本 500円。


タイヤらしきものを廻し中に炭火が積まれ焼いていた。


本丸広場の老木のソメイヨシノが満開。



花まつり:梅まつり、桜まつり、花菖蒲まつり、菊花展。


本丸広場のベンチには多くの観光客が休憩。
南東方向に南多聞櫓と巨松が聳える。


現在の天守閣は昭和35年(1960)に小田原市民らの力により、鉄筋コンクリートで復興された。


天守櫓の入口にあたる付櫓を見上げる。


ズームアップ。


常盤木門渡櫓、南多聞櫓。
現在、渡櫓は「常盤木門SAMURAI館」となり、往時のように武具・甲冑を展示している。
本丸跡には松が聳えている。


本丸広場。


小田原城天守閣


小田原城天守閣
「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用
いられました。江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明
治時代になってからのことです。江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将
軍家の宿所としても用いられました。寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳
川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。
元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、
天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、 入り口の「付櫓」、 両者を結ぶ「続櫓」
の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃城・解体までその姿を保ちました。
現在の天守閣は、昭和35年(1960)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興さ
れたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、
最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。
そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。天
守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介
しています
標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆
大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。
天守閣入場料:大人/510円、小中学生/200円。  


小田原城
  入 館 料 :天守閣+常盤木門SAMURAI館の2館共通券/大人 610円
  開館時間:9:00 ~ 17:00 (16:30 入館締切)
  休 館 日 :12月31日 ~ 1月1日・12月第2水曜日 (天守閣のみ)
第59回 小田原北條五代祭り
  開 催 日 :2023年5月3日 水・祝


天守入り口の付櫓への階段に並ぶ登城者。


ズームアップ。


13:20
本丸跡を後にし南側にある報徳二宮神社へ向かうことに。


天守閣の南西方向から見上げる。


小田原城址公園内にあったおすいマンホール蓋。
背景に箱根の山と奥に頭をのぞかせる富士山。二の丸櫓を従えた小田原城と酒匂川の渡し。
地名はないが、小田原とわかるデザインである。


本丸跡から下りこども遊園地前を過ぎ、報徳二宮神社の北側にある鳥居。



報徳二宮神社の北側にある鳥居の前にある板碑。


板碑の下側には字が刻まれているようだが判読できなかった。


小田原市指定文化財 (平成二十九年三月二十七日指定)
小田原城内大日一尊種子板碑
    地上高  百七cm  幅  七十七・五cm
    最大厚  十七・一cm
正面に金剛界大日如来をあらわす種子(バン)を刻み、下部には、結衆により供養が毎月十五日
に行われた旨の願文がありますが、年号などは記されていません。
石材は、箱根火山の安山岩質熔岩と推定されますが、相模西部で確認されている他の安山岩製
板碑と比べると、自然石をあまり加工せずに作られており、特異な存在です。天蓋の形態など
から、筑波山周辺の異色粘板岩で製作される「常総型」の影響が認められます。
造塔された時期は、形態の特徴から、鎌倉時代末期から南北朝時代と考えられます。中世小田
原周辺で製作された板碑の多様性を考える上でも重要な文化財です。
                   小田原市教育委員会


報徳二宮神社の北側にある鳥居横にあった案内板。
 ・杜のひろば     ・きんじろうカフェ    ・Cafe 小田原柑橘俱楽部
 ・HOTOKU KAIKAN   ・食楽庵 報徳      ・カフェ・ジンジャー
 報徳博物館


小峯曲輪北堀
深い空堀が掘られているが石垣がなく、小田原城が石垣を用いない土塁と空堀だけの戦国時代
の城郭であったことがよくわかると。
報徳二宮神社の北側にある堀で、右上にはこども遊園地がある。


小田原城小峯曲輪北堀
報徳二宮神社の境内は、戦国時代北条氏によって造成された古い曲輪にあたります。江戸時代
前期は雷曲輪、後期には小峯曲輪と呼ばれていました。雷曲輪は全国にも例のない面白い名称
ですが、由来ははっきりしません。小峯は天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名なので、こ
れにちなんだものでしょう。
目の前の空堀は、左手の小峯曲輪を囲む堀の北側の部分です。石垣を用いない土塁と空堀だけ
の、戦国時代の城の原形をよく留めている貴重な遺構です。堀幅は神社境内の土塁から二一メ
ートル、深さは現状で五メートル余りですが、実際の堀底はさらに二~三メートルは深くなる
でしょう。
また堀底には、堀障子と呼ばれる畝状の仕切が設けられていたと考えられています。
正面右手急斜面の高台は、本丸の裏手を守る曲輪状地形の屏風岩(現在遊園地)です。小峯曲輪
北堀は、今公園路となっている屏風岩と本丸との間の本丸西堀と、神社裏門出口の辺りで合流
し、本丸の南麓、現在の市立図書館(南曲輪)前から、常盤木門下の九輪橋の方へ向っていまし
た。
                            報徳二宮神社


報徳二宮神社境内配置図。
小田原城本丸跡から下り裏口(矢印)から入る、このため逆方向へ進むことに。


報徳二宮神社
所在地:神奈川県小田原市城内8-10
報徳二宮神社の右側から境内へ入ると、御社殿の前には参拝者の長い列。
御社殿は神明造りで、明治42年に本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神苑を拡張して現在の社
地の景観を整えましたと。
なお、拝殿礎石は天保の大飢饉の際、藩主大久保翁の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開
き、米が人々の手に渡ったことにより小田原11万石の領内から一人の餓死者も出さずにすんだ
という、その米蔵の礎石が用いられている。


境内へ入り、御社殿前の左側に授与所
◆ 授与時間 午前9時 ~ 午後4時
ご朱印・神札・お守り・金次郎あめ・報徳文庫書籍を頒布 している。


報徳二宮神社
御祭神  二宮尊徳翁
例祭日  四月十五日


参道左側に建つ「祈祷殿」
恒例祭典や結婚式などで御本殿が使えない時でも、祈祷殿にて御祈願を執り行います。元は、
宝物殿として使われており、納められていた物は報徳博物館に展示されている。


参道右側に建つ「社務所」。
入口に「御祈願受付」の看板があった。
◆ 祈願受付時間 午前9時 ~ 午後3時30分



神池にはたくさんの錦鯉が泳いでおり授与所で、鯉のえさの販売もしている。


境内には、二宮金次郎像、多くの絵馬。


二宮金次郎像
"薪を背負って歩きながら本を読む"金次郎の姿が初めて登場したのは明治24年(1891)
に出版された幸田露伴の『二宮尊徳翁』という本の挿絵でした。この少年像は昭和3年、
昭和天皇即位御大礼記念として神戸の中村直吉氏より寄進されたブロンズ像。


二宮金次郎像
昭和三年 昭和天皇の即位御大礼記念として 神戸の中村直吉氏が寄進したもので制作者は
三代目慶寺円長 材質はブロンズ その後これと同じ像は全国の小学校などに向けて約一千
体制作されたが 戦時中すべて供出に遭い現在残っているのはこの一体だけである。なお、 
この像は当時のメートル法普及の意図を反映して 丁度一メートルの高さに制作されている。 


銅製の鳥居が建つ。


鳥居の手前右側の狛犬(阿形像)。


左側の狛犬(吽形像)。


手水舎
御社殿から逆に廻っているのでここに手水舎。


シャクナゲが咲いていた。


我が家のハクモレンは既に散っているがまだ咲いていた。


参道左側に二宮尊徳翁像。
後方には「きんじろうカフェ」「Cafe 小田原柑橘俱楽部」がありここを目当てに訪れる人も。


正面から、年輪を重ねた二宮尊徳翁である。


​​二宮尊徳 翁​  【1787~1856】​
 経済なき道徳は戯言であり
   道徳なき経済は犯罪である
江戸時代後期の農政家・思想家。通称金次郎。尊徳は武士の名乗り。
幼少時の逸話が一般に知られているが、後に「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法と理念で、小
田原藩や日光神領などを含む、多くの諸家諸領の復興に尽くした。直接・間接的に指導した農
村は六百余りにものぼる。
内村鑑三著「代表的日本人」の中でも、十九世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、こ
れほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されるなど、明
治時代以降の政財界人にも多くの影響を与えたのである。
翁の教訓や訓言は、今の時代にも通じる、私達が手本とすべきものばかりである。


兵庫県西宮市報徳学園創立100周年記念として彫刻家 南部祥雲氏に依頼作成された
「二宮尊徳翁立像」10体の内1体。
平成21年11月23日に、前報徳学園理事長 故 大谷勇様より寄贈いただきました。
平成22年5月31日に、入魂祭並びに除幕式を行い現在に至ります。

石碑には、
「二宮尊徳翁之像
   至誠と実行   大谷勇 贈」と刻まれている。


こちらは石製の鳥居。


御社殿前から二つの鳥居を潜り階段を降り、右側に報徳会館。


13:40
表参道大鳥居
高さ三十五m、直径一m以上の巨木を伐採し、長さ十二mの木材を搬出・運搬・製材することは、
通常扱っている材木の大きさをはるかに超えるもので、大変な作業でありましたと。


駐車場脇に建っていた看板に、
創建百二十周年記念事業奉賛会
  表参道大鳥居建立事業
     平成二十九年九月十七日 竣工式
     平成二十九年八月三十日 御木曳・立柱祭
この大鳥居は、かつて小田原城主が植えたとされる辻村山林の樹齢三百年の大杉を御用材とし
て、小田原の「木」に携わる職人達が力をあわせ、伐採~搬出運搬~製材~加工~建立までの
作業を行い、約三年の歳月をかけて完成させた大鳥居です。


報徳二宮神社


表参道大鳥居を背景にソメイヨシノが満開。



                                      ー 続く ー





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最終更新日  2023.05.15 03:00:07
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