おじん0523のヒロ散歩

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2023.05.18
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カテゴリ: ヒロ散歩
この後、小田原宿なりわい交流館から旧東海道の東を一部散策。

3月30日(木) 14:30
小田原宿なりわい交流館の東側から新芽が垂れ下がる柳の木。


カラーのマンホール蓋「日本遺産箱根八里 かまぼこ通り」。


小田原宿なりわい交流館の右前に「宮前町」の地名石碑。
国道1号はここで右方向へ大きく曲がる。


宮前町(みやまえちょう)
小田原北条氏時代、この町は上町、下町に分かれていたと伝えられている。江戸時代
には、町の中央に城主専用の出入口である浜手門と高札場(幕府の法令などを掲示する

隣の本町とともに小田原宿の中心であった。


小田原宿なりわい交流館の右側広場に立っていた観光案内板。
日本遺産「箱根八里」
  旅人たちの足跡残る悠久の石畳道  ー 箱根八里で辿る遥かな江戸の旅路 ー


小田原宿から箱根宿、三島宿の案内。


この辺りの観光案内
旧東海道筋は既に歩いているので、海側の寺社&史跡を後日訪れたいと計画している。


構成文化財
① 小田原城跡 (国指定史跡)、② かまぼこ通り、③ ういろう、④ 松原神社、⑤ 旧片岡本陣跡
⑥ 旧清水金左衛門本陣跡、⑦ 小西薬局


定食店「あきら食堂」
所在地:神奈川県小田原市本町3丁目1-24

旅友との弥次喜多道中で立ち寄り「トンカツ定食 (税込み 1000円)」を食べた。
遅い昼食をと思い立寄るが、今回はスルーしこの先の青物町交差点でユーターン。


青物町交差点から旧東海道を戻り左側に「小田原宿 脇本陣古清水旅館」の説明板。
右前方には「宮前町」の地名石碑が立っている。


小田原宿 脇本陣古清水旅館    2F 資料館

この本陣の 補助的な役目をしたのが脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力
者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣
と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能だった。


8月15日の小田原空襲
1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略
爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬
県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米
軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任
務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではありませんでした。
しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に小
田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受け
た可能性がありました。
8月15日の小田原空襲で被災し炎上した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町ニ・三丁目にま
たがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約400軒、死者は
本会の調査によれば12名です。
被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け
落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並みが映っています。当時の館主、清水
専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。
今から62年前にあった小田原空襲の記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置するこ
とで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。
     2007 (平成19) 年8月15日
               戦時下の小田原地方を記録する会
               古清水旅館  館主 清水伊十良


宮前町(みやまえちょう)
小田原北条氏時代、この町は上町、下町に分かれていたと伝えられている。江戸時代
には、町の中央に城主専用の出入口である浜手門と高札場(幕府の法令などを掲示する
場所)があり、同時代末期 町内には本陣二、脇本陣二に旅籠が二十三軒ほどあって、
隣の本町とともに小田原宿の中心であった。


旧東海道沿いの南側に「明治天皇聖跡」の石柱。


小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡
小田原宿は、東海道五十三次のうち江戸から20里(約80km)の距離にある、品川宿から数えて
9番目の宿です。
箱根越えを控えたことなどから、多くの大名や旅行者が宿泊し、東海道中でも大変規模が大き
く、本陣、脇本陣、高札場、問屋場など、宿としての機能が整えられていました。天保年間(1
830~1844)当時、小田原宿には4軒の本陣、4軒の脇本陣、95軒の旅籠があった。
このうち、清水金左ヱ門本陣跡と片岡永左ヱ門本陣跡は、明治天皇が全国巡幸のおり宿泊して
いたことから、それぞれ「宮の前行在所」、「本町行在所」として小田原市の指定史跡となって
います。

清水金左ヱ門本陣は、尾張徳川家や薩摩の島津家、熊本の細川家など、西国の有力な大名が定
宿としていました。また、明治元年(1868)の東京遷都や全国巡幸の折、明治天皇も5回にわた
り宿泊しています。
清水氏は、戦国大名北条氏の家臣で、伊豆下田城主を務めた家の子孫と伝わっており、江戸時
代にも小田原宿の町年寄など重要な役割を担いました。
   平成29年3月 小田原市教育委員会 


明治天皇宮ノ前行在所跡
所在地:神奈川県小田原市本町3丁目5-5
明治天皇が宿泊に利用した旧小田原宿清水金左衛門本陣の跡地にあり、小さな宮の前児童遊園
地になっている。


松が一本植えられその下に石碑が建っていた。


石碑は敷地の西側に建っており正面から。


小田原市指定史跡 (昭和32年3月30日指定)

  (旧清水金左衛門本陣跡)
    (所在地) 小田原市本町3-5-25
明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所です。正碑は
高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面に「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。副碑に
は由来が刻まれています。
清水金左衛門本陣は、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代
に町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行っていました。本陣の敷地面積は、およそ240坪で、
大名、宮家などの宿泊にあてられました。
明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)十月八日の御東行を際を初めとして五回を数えます。
明治天皇聖跡小田原町保存会は、この土地を買収して、昭和十五年二月に整備工事を着手し、
昭和十五年十月に落成しました。
           小田原市教育委員会


中央に建つ正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面に「明治天皇小田原行在所阯」
と刻まれている。


左側の副碑は小松自然石で、明治天皇が宿泊した由来が刻まれている。
  此地ハ舊本陣清水金左衛門・・・後略・・・
   昭和十五年十月八日  明治天皇聖跡小田原町保存會


右側の副碑は判読できなかったが、
事業碑?は本小松石で明治天皇聖跡小田原保存会の事業が刻んであると。


旧東海道小田原宿「おだわらかまぼこ通り」。


14:55
国道1号の本町交差点に戻り、小田原宿なりわい交流館を振り返る。


本町交差点の角に立つ「 高札場跡
高札場は、幕府や藩の法令が書かれた木の札を掲げた場所で、目立つように一段高くなった場
所に屋根がかけられていたようです。東海道の宿場町には必ず1か所設けられ、小田原宿では宿
の中心地である宮前町の一角にありました。
      平成29年3月  小田原市教育委員会


歩道にあった「水準点 基本  建設省国土地理院」。


次の目的地「大手門跡」を目指し、旧東海道(国道1号)の山側を西方向へ進み振り返る。
前方には「本町」の地名石碑が立っている。


スマホの案内で、御幸の浜交差点を右折しお堀端通りを北上。
道路脇に「枝垂れ桜」の案内板があり立ち寄ると、広場に二本の枝垂れ桜が咲いていた。


一本の枝垂れ桜は既に終盤になっていた。


満開の枝垂れ桜をズームアップ。


お堀端通りの三の丸小学校前交差点から西方向を見る。


お堀端通り沿いの遊歩道には花見客が多く訪れていた。


天守閣をズームアップするが最上階には多くの観光客。


学橋にも多くの観光客。


15:10
お堀端通りの横浜地方検察庁角を右折進むと、民家に挟まれた石垣の上に鐘楼があった。


小田原城 大手門跡
所在地:神奈川県小田原市本町1丁目5-25
江戸時代、三の丸には重臣の屋敷や藩の施設が置かれ、二の丸・御用米曲輪・南曲輪
を大きく取り囲むように配置されていた。この三の丸には4つの出入り口が設けられ
ており、そのうち、東の大手口、北の幸田口、南の箱根口は、堅牢な石垣で固めた
桝形門となっていた。
江戸時代初期の小田原城の大手口は箱根口だったが、稲葉氏の時代に江戸に向く現在
の場所に移されている。


史跡小田原城跡 大手門跡
この鐘楼は、江戸時代に小田原城大手門の櫓台北側石垣があった場所にあります。
東側の城下(国道1号側)より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重
臣屋敷が建ち並んでいました。
大手門には、翌年に三代将軍徳川家光の上洛を控えた寛永10年(1632)の改修工事により石垣が
造られました。また、寛永20年(1642)に幕府の許可を経て、正保年間(1644~1648)に渡櫓門
が建設され、延宝年間(1673~1681)には前面に冠木門が普請されました。渡櫓門と冠木門から
なる大手門の規模は、銅門とほぼ同じです。
「寛永年間小田原城城郭総図 (通称「宮内庁図」)」によると、渡櫓門の前には枡形勢溜が設けら
れ、さらに冠木門の外には長方形の馬出を設けて防御力を強化しています。城外とは幅9間半~
11間(約17~20m)の三の丸堀で隔たられており、堀には「大手口橋台」とも呼ばれた土橋が設
けられていました。
なお、大手門櫓台石垣上に鐘楼が設けられたのは大正時代のことです。


左図:図1「文久図」より   右図:図2「宮内庁図」(宮内庁書陵部蔵を一部改変)


大手門跡の石垣の上には、大正時代に移設された時の鐘があり (現在の鐘は昭和28年製)、現在
でも午前6時と午後6時に鐘を打ち、市民に時を知らせている。


高さ3メートル程の所に立つ鐘楼。


昔の鐘は太平洋戦争中に供出されたが、1953年に小田原寺院団によって新しい鐘が作られた。


15:15
鐘楼内には立入禁止になっていた。


鐘 楼
この鐘は現在、朝夕6時につかれ、時を知らせている。
時を知らせる「時の鐘」は、長い間、昼夜の隔てなくつかれていた。江戸時代の貞享3年(1686)
の「貞享3年御引渡記録」の中に「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は一年金
六両で、この内金三両は町方から、三両は町奉行所から遣わしている」という記事があり、300
年以上前からつかれていることになる。
この鐘は、初め浜手御門(ここより約150m南)のところにあったのを、明治29年(1896)裁判所
の東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。
昭和17年(1942)には、太平洋戦争の激化により、軍需資材が欠乏したため、政府は金属類の供
出命令を出し、鐘は応召される(「時鐘応召」と呼ばれた)。
その後、時報は鐘に代わってサイレンやチャイムになったが、城下町に似つかわしくないとい
うことで、昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しい鐘が作られた。
これが現在の鐘である。



                                     ー 続く ー





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最終更新日  2023.05.18 03:00:07
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