おじん0523のヒロ散歩

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2023.06.28
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カテゴリ: ヒロ散歩
小田原北條五代祭りのパレード前に小田原城内の散策を続ける。

5月3日(水) 11:35
菖蒲園の海側に廻り、常盤木坂から常盤木橋を見る。


常盤木坂をズームアップ。
この時間帯は本丸広場で「鉄砲演技」が行われており、20分間隔で火縄銃の発砲音!


本丸南側の石垣、「 滑り落ちた本丸の石垣


本丸下の石垣。


石垣を下から見上げる。



ここは二の丸とともに本丸の周りに配置された曲輪のひとつ「南曲輪(鷹部屋曲輪)」です。南
曲輪南側の堀(蓮の花が咲く堀)に面する両側の角には二重の櫓がそびえ、小田原城南側の防備
を固めていました【図1】。
現在は埋まっていますが、この看板付近には本丸斜面の裾をめぐる掘幅9間(約16.3m)、深さ
2間半(約4.5m)の「本丸堀」がありました。南曲輪と本丸とはおよそ14mの高低差があり、堀
から立ち上がった法面(斜面)の上部には石垣が築かれていました【図1~3】。
この辺りの石垣は、寛永10年(1633)に築かれた本丸の石垣が、元禄16年(1703)の元禄地震な
どによる被災と修復を経て、関東大震災で滑り落ちたものです。
大正12年(1923)、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の激震が発生しました。小田
原での被害は甚大で、明治34年(1901)から城内に所在した御用邸の建物も倒壊し、小田原城の
多くの石垣も崩壊しました。この辺りの石垣も崩壊しましたが、偶然にも積み上げられていた

石垣のコーナー部分の積み方や排水口もそのままの姿で確認でき、小田原城本来の石垣の積み
方や関東大震災の被害の大きさを伝える貴重な遺構です。


図1 「文久図」南曲輪部分 (小田原城天守閣所蔵)
東海道に面する小田原城の南面は、東側の大手口と並ぶ小田原城の正面のひとつで
す。三の丸には箱根口門を配し、二の丸諸曲輪の一画となる南曲輪には二棟の櫓が
そびえていました。


図2 「宮内庁図」本丸部分 (宮内庁書陵部所蔵)

までは徳川将軍家のための御殿がありました。周囲には石垣が巡らされ、その上には瓦を乗せた
白亜の土塀があり、常盤木門と鉄門の2つの門が設けられていました。


図3 本丸の鉢巻石垣
上図【1】【2】の 部分の石垣のイメージをイラストで表現したものです。本丸の石垣は、
法面(土居)の上の部分のみに石垣を積み上げた「鉢巻石垣」という構造でした。この辺りの
石垣とイラストを比べると、石垣の崩れ具合が確認できます。


この木は、「 ビラン樹 」であったか。
市内早川の「寶珠山 海蔵寺」にあり、成長すると樹皮がはがれて紅黄色となるので、
異名を「バクチの木」又は「ハダカの木」と呼ばれている。
四国、九州、琉球列島に分布していて、この地が生育の最北限とされている。


成長し樹皮がはがれて紅黄色なったビラン樹。
また早川には、国指定天然記念物「 早川のビランジュ 」がある。


南曲輪跡に建つ「 星﨑記念館
入り口横の掲示板には、
「星﨑記念館は令和2年3月31日に閉館しました。
 60年間のご利用ありがとうございました。
 図書館の機能と伝統は中央図書館と、小田原駅東口図書館に引き継ぎます。」と。 


壁面に貼られたプレート「星﨑記念館」。


写真は「星﨑定五郎氏胸像」。
星崎定五郎(ほしざきさだごろう、1879年 - 1966年)は、矢作出身の実業家。日系アメリカ人
1世。1899年に草柳竹次郎らと共に渡米し、カリフォルニア州各地で農作業に従事。1905年に
ロサンゼルスで食料品・雑貨品を扱う東海商会の店舗を開業、以後、業績を拡大した。1921年
に日本からの輸入品を扱う共同貿易㈱を設立して社長に就任。1930年頃、ロサンゼルスの中心
街に多くの土地・建物を所有した。
1940年に北京飯店を買収。戦時中のマンザナール収容所での抑留生活を経て、戦後も事業活動
を継続。1955年にアメリカに帰化し経営を引退。翌1956年に日本に移住し、熱海で隠棲した。
1923年の関東大震災で被害を受けた矢作の浅間神社や春光院の修築や再建のために寄附をし、
1958年に小田原市に5万米ドルを寄附、星﨑記念館が建設されたことで知られる。


銅門 (あかがねもん) を望む。


小田原市郷土文化館
所在地:神奈川県小田原市城内7-8
小田原城内にある、郷土の自然・歴史・文化に関する博物館相当施設である。


展示案内【常設展示】
  小田原をとりまく豊かな自然と、そこに暮らす人々の文化や歴史を紹介しています。


入館案内
開館時間:午前9時 ~ 午後5時 (入館は4時30分まで)
入 館 料 :無 料
休 館 日 :年末年始(12月28日 ~ 1月3日)


小田原橋親柱
親柱には「おだわらばし」の銘板。


小田原橋(おだわらばし)親柱
小田原橋は、昭和四年(1929)現在の東京都中央区築地に架設されたコンクリ―ト製のアーチ橋
です。名称は、江戸時代から昭和四一年まで、この一帯に「南小田原町」(その後「小田原町」)
と呼ばれる町があったことから名づけられました。
「小田原町」の成立は、小田原城下板橋の石工棟梁善左衛門が、ほど近い江戸湾の海浜に江戸築
城用の石材の荷揚場を設けた慶長年間(1596ー1615)頃までさかのぼります。
善左衛門は、諸国の職人を指揮して小田原や伊豆方面から切出した石材を船で廻送し、ここで
荷揚げ加工しました。
昭和四一年、当地は築地に編入されて町名が消滅、その名残をとどめる「小田原橋」も平成二五
に撤去されたことから、小田原市では、かつて江戸の築城や街づくりに市域の先人が深くかかわ
っていたことを偲ぶよすがとして、橋の親柱一本を譲り受け、ここに移設したものです。
                         小田原市教育委員会


早川石丁場群の切石について
ここに並んでいる二つの切石は、小田原市早川字箕ケ窪の広域農道建設用地より発見され、事
業者のご協力により現地より移設したものです。
箱根外輪山の早川に面した山腹一帯には、江戸時代初期の寛永年間頃(1630年代)の江戸城修築
に使用された石垣用の「石丁場」(石切場の当時の言い方)が広く分布していることが知られて
おり、「早川石丁場群」と呼ばれています。広域農道建設に伴い、平成十七年度に実施された発
掘調査の結果、江戸時代当時の石切り作業を生々しく示す多数の切石が確認され、一部は現状
保存されましたが、そのほかの切石の中で、歴史的価値の高い刻印が見られるものを移設保存
したものです。
切石の角には割り取る時に刻まれた「矢穴」が見られ、正面に〇に「寸」の刻印があります。
左側の切石にはなぜか逆さまの向きに2箇所刻まれています。このような刻印は、石切りを幕府
から請け負った大名もしくは石工の集団を示すものなどという説がありますが、詳しいことは
わかっていません。
                    小田原市教育委員会
残念ながら二つの切石の撮影を忘れました。


小田原市郷土文化館入口左に建っている碑。


皇后陛下御歌


台座の裏に刻まれていたが判読できなかった。


館内に入りポスターには、
「小田原 邸園 散歩」
  小田原城周辺の三邸園
  邸宅+庭園=邸園


手前は「閑院宮(かんいんのみや)別邸で使用されていた長椅子」、後方に「人力車」。
   長椅子は:擬石製、大正時代、郷土文化会館


人力車
人を乗せ、車夫が引いて走る二輪車。明治2年 (1869) に和泉要助(いずみようすけ)らが発明し、
駕籠や馬に代わる乗り物として爆発的に普及した。
小田原でも1871年頃から人力車の営業を始めたようである。当初は木製の車輪だったが、ゴム
輪に代わり、1912年から空気入りのゴムタイヤが用いられた。人々に親しまれ、代表的な公共
輸送機関として乗り物の首位を占めていたが、乗用自動車 (タクシー) の普及により、次第に姿
を消していった。
写真は、茅葺き屋根の民家前を走る人力車。


館内の陳列。


小田原城周辺写真 (昭和25年ごろ)。


こども文化博覧会
昭和25年(1950)の小田原市制10周年記念事業「こども文化博覧会」は、時の市長・鈴木十郎が
中心となり企画されました。鈴木市長は、生活物資がなく「子どものことなど全く顧みられない
時代に子どもたちに夢を与えてやりたかった」と回想しています。
博覧会の内容は、文化館、産業間、観光館、アメリカ児童館、ゆうびん・でんしん・でんわ館な
どの展示、人形劇、のど自慢などの出し物、豆電車・飛行塔・メリーゴーランドなどのアトラク
ション、動物園などが設置されたそうです。


県下最大級の縄文土器  ー 天神山の土器棺墓 ー


県下最大級の縄文土器


県下最大級の縄文土器
7基の埋設土器群のうち、J7号埋設土器から出土した縄文土器の深鉢は、口径45.6cm
・底径15.8cm・高さ78.6cmであり、そのサイズは県下最大級です。
この土器は、上下逆さまに穴の中に置かれた状態で見つかりました。土器の口の部分
から胴体の中央ほどまでは残っていましたが、それより下の部分は壊れており、土器
の中から破片となって見つかりました。
これらの破片を集めて復元したところ、ほぼ完全な形となったため、埋めた際に土器
の下半分をわざと壊して土器の中に置いたと考えられます。これは縄文人の風習だと
思われますが、彼らはどのような意味で土器を残し、埋めたのでしょうか?


こちらにも大きな土器がケースの中に陳列されていた。


常盤木坂への遊歩道脇に立っていた案内板。


小田原市郷土文化館を出て海側へ進み、右側に南曲輪南掘、御感の藤棚がある。


南曲輪南掘のハス。
前回3月30日に訪れた時はハスは芽吹き始めていたが・・・。


御感の藤棚はゴールデンウイークの時期はいつもなら見頃であろうが。


御感(ぎょかん)の藤   樹名 ノダフジ(マメ科)
     昭和三十二年三月三十日 小田原市天然記念物指定
     昭和五十九年十二月   かながわの名木百選選定
この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、
市内板橋の森元氏の手に渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられ
たと伝えられています。
大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が
藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮し
ていると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから「御感の藤」と呼ばれるようにな
りました。
大正十一年三月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の
名物として私たちの目を楽しませています。
樹齢は約二〇〇年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、五月の開花期に藤棚いっぱい
に花房が下がった様子は誠に壮観です。
                     小田原市教育委員会


残念ながら藤の花は既に咲き終わっていた。


いつもなら長い花房が見れたのであろう。


南曲輪南掘の右側に小田原市郷土文化館。


小峯橋 (御茶壺橋) から駐車場を見る。


小峯橋 (御茶壺橋) を渡ると「御茶壺曲輪」。


御茶壺曲輪 (おちゃつぼくるわ)
御茶壺曲輪は、三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利に
するための「捨曲輪」として用いられていました。
元禄期(1688~1704)には、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺道中」の際に、往路で空
茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられていたことから、御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとさ
れます。


12:05
土塁があり「御茶壺曲輪」へ。銅門渡櫓門廻りにのぼり旗が並ぶ。



                                     ー 続く ー





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最終更新日  2023.06.28 03:00:07
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