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ブレーズ・パスカル 1623年6月19日生今日、天国では400歳の誕生日フランスではきっとお祭りをしているだろう。ボクはと言えば、しばらくパスカルから遠ざかっている。心友、パスカルとまた会話をはじめようかな!どうぞ、右のフリーページから、パスカルのこと知ってください。以下は『パンセ』から賭け 「・・・ためらわずに、神があると賭けたまえ。」233考える葦 「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である・・・だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。」347
2023年06月19日
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「聖人物語式パスカル学者」のようにではなく、マルクス主義社会学者として人間パスカルを描こうとしたという。この本の扉を開いた時、著者がマルクス主義者だとわかって、読むのをやめようかと思った。しかし思い直して読み始め、最後の2章は斜め読みだったが、なんとか読み通した。著者にはパスカルの信仰の高揚についての共感はない。それでもパスカルを愛している著者の思いは隠しようもないのだ。いくら人間パスカルが賛美されても、神への賛美に至らなければ、パスカルは喜ばないと思う。日本語訳者・川俣晃自という人の訳文が、すばらしい。「永遠の沈黙」云々というこのパスカルの一行は、突如として感得されて不安な魂を締めつけずにおかなかった或る激動を表現し得ている。これは一つの絶叫である。この孤立した簡潔な一句にあふれている芸術のなんというすばらしさ。十二音綴詩体ではじまったかと思うとたちまち砕け散り、飛び去らせてゆくその韻律のすばらしさ、孤独なパスカルの叫びはパスカルが充たそうとして充たすことのできなかった空間を遠くひろがってゆく。それにしてもこのパスカルの叫びは、やがてランボーやロートレアモンのごとき詩人たちが辿りつき、あらためてまた美しい文体や文学に移し入れるに至ったあの切れ切れな嗚咽と相へだたることはいかばかりであろうか・・・・。 183頁
2021年05月04日
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115(津田穣訳) 神学は一つの学問である、しかしそうであると同時にまた何といろいろの学問に属していることであろう! 人間は一つの基体である、が解剖するならばそれは頭、心臓、胃、かすかずの血管、一つ一つの血管、血管の各部、血、血のもつそれぞれの液質となろうか。 都会や田舎は、遠くからみれば、都会であり田舎である、しかし近づくにつれて、家々となり、樹木となり、瓦となり、葉となり、草となり、蟻となり、蟻の脚となり、かぎりがない。これらがすべて田舎の名のもとにつつまれる。パスカル著『パンセ』の中でも心惹かれる断章だ。どこがどうして? と問われても、うまく答えられない。思想の多様性を表現し詩的である。
2021年01月14日
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各断章をまとめ、エクセルに記しながら津田訳を読み終わった。この訳はパンセの中でも古いもので、1952年刊。新潮文庫で上下2冊物。全断章をすでに松浪訳でデーターベース化しておいたので、それに津田訳を付け足しながらタイプしていった。「パンセ」の邦訳はたくさんあって、日本人のパンセ熱は本国フランスに次ぐそうだ。「あとがき」が心に響いたので、この部分をテキスト化して読み返して行きたいと思った。「沈没しないと保証されているなら、船の中にいて暴風雨に打たれるのは面白い。教会が迫害にあうのもこれに類する。」断章332
2020年12月09日
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「パスカルとその妹」モーリヤック著オークションサイトをあさっていて、この本を見つけたとき絶対に読んでみたい! と思った。欲しい人がほかに無かったので、無競争で買えた。モーリヤックの著書は、若い頃「イエスの生涯」を呼んだ記憶がある。この著者は、少年の頃から「パンセ」を繰返し読んできたようだ。同じフランス人同じカトリック教徒パスカルについて記すにはこれほどふさわしい人はいない。痛みと共に生きた病者パスカルを最後まで支え続けた姉ある時は弟子、ある時は師のようにパスカルと向き合った妹手に負いがたい烈しく一徹なパスカルの性格モーリヤックはパスカルへの強い愛情と、同国人の誇りと文学者らしい性格分析をもって筆を進めている。読みながら何度か心熱くした。「科学者であり哲学者である彼は、身体の秩序や精神の秩序よりも無限に高い秩序、愛の秩序に近づこうとしつつあった。」(モーリヤック)
2020年08月29日
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わたしたちが真理を知るのは、ただ理性によるばかりではなく、また心にもよる。 パンセ282 書き出し
2019年08月30日
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パスカル著『パンセ』人文書院版の全断章にタイトルを付け終えた。短い断章は全文を差し込んだ。エクセルを使った。ほっとしている。作業の始めと終わりの方では自分のアイデアがずれているのでまた読み直して改訂しようと思う。信仰の言葉信仰に導く言葉これらの断章があるとき、しばし頭を垂れる。神なき人間の心を辛辣に曝露している諸断章にはやりきれなく思う。パスカルのことが大嫌いな芸術家や思想家があること無理もないと思える。そうだよ、パスカルの言辞によると、神に向かう心、以外の地上の営みはすべて「気ばらし」のたぐいとなる。芸術もスポーツも神を必要としている自分の真実の姿から目をそらす営みとなる。でも「抱きしめて」寝たいそんな珠のような言葉も。
2017年02月09日
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「パンセ」を鍵にしてネットを徘徊していた。随分ある。熱を入れてダイジェストを載せている人もいる。わざわざ「クリスチャンでない」と断って「パンセ」を読み解こうとしている人はキリスト教の護教的断章以外は、深く鋭いが護教的な部分になると、文章が平板になりつまらなくなる、などど書いている。まことに心外。パスカルの信仰の言葉は、彼のピュアな心そのままを映し出している。そこにパスカルの真骨頂がある。
2017年02月06日
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「パンセ」のブランシュヴィック編小型本は、断章924が最後だ。松浪信三郎訳では、925以下が置かれている。そこはパスカルの他の著書『プロヴァンシアル書簡』のための覚え書きで、難解な部分である。その中で、断章949は、真理のために命を賭けたパスカルの真精神があふれている。ボクの信仰の心に欠けているものがそこに脈打っていて、頭を垂れるほかはない。みなさんどうぞ読んでください。パスカル著『パンセ』断章949 国家における平和がただ民衆の財産を安全に保つことを唯一の目的としているように、教会における平和は、ただ真理を安全に保つことを唯一の目的としている。真理こそは、教会の財産であり、教会の心の在り場所としての宝である。国家のなかに異邦人が侵入してこの国を掠奪するにまかせ、平穏をみだす怖れからそれに抵抗もせずにいるのは、平和の目的に反することであろう。というのも、平和はただ財産の安全のためにのみ正当であり有益であるのであって、それがかえって財産を失わせるときには、平和は不正なもの有害なものとなり、財産を擁護することのできる戦いこそが、正当であり必要であることになるからである。同様に教会においても、真理が教会の敵どもによって侵害されるとき、彼らが信者の心から真理を奪い取り、そこに誤謬をはびこらせようとするとき、そのときにいたって平和のうちにとどまるのは、教会に仕えることであろうか、それとも教会を裏切ることであろうか?、教会を擁護することであろうか、教会を破滅させることであろうか?明らかに、真理が支配しているときに平和をかきみだすことが一つの犯罪であると同様に、真理が破壊されようとしているときに平和のうちにとどまることは、やはり一つの犯罪ではなかろうか?それゆえ、或る時には平和は正当であるが、他の時には平和は不正である。平和の時と戦いの時があると記されている。それらの時を見分けるのは、真理に対する関心である。けれども、真理の時と誤謬の時があるわけではない。反対に、神の真理は永遠にとどまると記されている。そういうわけで、イエス・キリストは平和をもたらしに来たと言いながら、他方では戦いをもたらしに来たとも言っている。けれども、イエス・キリストは真理と虚偽とをもたらしに来たとは記されていない。それゆえ真理はあらゆる事物の最初の基準であり、最後の目的である。 (松浪信三郎訳 パスカル全集第三巻・人文書院©1959 )
2017年02月04日
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思うにパスカルに惹かれるのは、「あこがれ」からなのだろう。自分と違うタイプの人に、人は惹かれるから。(もしかしたら,共通点もあるのかな? などと 少しの期待も混じるが)『パンセ』は5回ぐらい読んでいるがパンセ471に初めて出会ったときは、ボクは顔を張られたように感じた。 人が私に執着するのは、たとい喜んで心からしたにしても、不当なことである。私は(中略)裏切ることになるであろう。なぜなら、私は何びとの目的でもなく、彼らを満足させる何ものも持たないからである。私はやがて死ぬべきものではないか。そうしたら、彼らの執着の対象も死んでしまうだろう。だから(中略)自分を愛させるのは罪である。もし私が人々をひきつけ、私に執着させているとしたら、私は嘘を信じようとしている人々に向かって、それが私にどんな利益をもたらそうとも、決してそれを信じてはならないと忠告すべきであるように、彼らにも私に執着してはならないと忠告すべきである。なぜなら、彼らは神を喜ばすため、また神を求めるために、その生涯と考慮とを費やすべきものだからである。 (パスカル著『パンセ』471~B版)
2016年12月30日
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「あまりに従順すぎる点で人々を責めなければならない場合も、まれではない・・・・」 (『パンセ』254)自分の意見を持ち、きちんと言うことができることが、人としてのしるしと言っているのだろう。これはフランス人の特質かもしれない。こんな警句を満載しているのが『パンセ』である。しかし哲学的な言辞も多く、ボクにはお手上げである箇所も、また多い。哲学は門外漢と自分で決めつけて、飛ばして次に進む。
2016年10月09日
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パスカル著「パンセ」を読み始めています。今までは中央公論社版で、何度か読みましたが、こんどは松浪訳です。松浪訳も格調高い訳ですね。今朝は、151 まで読みました。 栄誉。称賛は幼時からからすべてのものを駄目にする。まあ、何て上手に言えたのでしょう! まあ、何て上手に出来たのでしょう! 何てお利口なんでしょう! 等々。 ポール・ロワイヤルの子供たちは、そういう羨望や栄誉の刺激を与えられないので、無頓着になる。 (「パンセ151 松浪信三郎訳)
2016年09月29日
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パスカル著『パンセ』を読み出したのは10年ほども前だったか。それはボクにとって衝撃であり、妻に「あなたはパンセを読んで人が変わった」と言われたほどだ。たとえば下に引用したB版82の書き出しである。そこは「想像力」を扱う。「想像力」って“人間のしるし”人が人である証し、と思っていた。想像力で将来を見、また一日のプランを立て、人と接する時にも不可欠のもの、それが想像力と思っていた。しかしパスカルは想像力の虚偽、欺瞞性をあばきだす。それは人間の愚かさ、そして罪深さにつながっていく。そのようにして、パスカルはボクたちをキリストに導いていく。パスカルが人の想像力をおとしめていると言ったって、それを働かせずに生活することはまず無理であることに気づく。人間は欺瞞と傲慢の塊なのだ。続く83になると、もう身震いしてくる。パスカルの人間観は「暗黒」=罪の塊 82 想像力。これは人間のなかのあの欺く部分のことである。あの誤りと偽りとの主であり、いつもずるいと決まっていないだけに、それだけいっそうずるいやつである。
2016年06月21日
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ある実験を行ったという。猿の赤ちゃんに、人形の猿のお母さんをあてがった。始めは、赤ちゃんは遠巻きに見ていたがやがてその人形にすがりついたという。なんと悲しい実験だろうと思ったが、これはボクたちの現実でもあるのだ。真の神を知らずイミテーションの神にすがりつくのが現代なのだ。「精神は,自然的に信じる。意志は、自然的に愛する。したがって、真の対象がないと、精神や意志は誤った対象に執着せざるをえなくなる。」 パスカル著『パンセ』81 松浪訳
2016年06月19日
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「神をもたない人間の悲惨。 神をもっている人間の幸福。」 パスカル『パンセ』60この第60節は海なのだ。『パンセ』のすべての支流がこの海に注いでいる。
2016年06月16日
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「雄弁は、思想をうつした絵である。したがって、描き終わったあとでなおも加筆する人は、肖像画の代わりに、装飾画を作ることになる。」26「言葉の無理をして対句を作る人々は、均整のためにめくら窓を作る人々に似ている。彼らの基準は、正しく語ることにあるのでなく、正しい形を作ることにある。」27 パスカル『パンセ』(松浪訳)ジョン・ウェスレーの説教は彼が説教集の序文で語っているように、一切の飾りを排したもので、彼の思想そのものの塊である。心をそのまま取りだして切々と心に訴えかける。ウェスレーは母親のすすめで、パスカルを読んだようだが、上のパスカルの警句がそのまま当てはまると思った。むろん、ウェスレーは「真の雄弁家」ということになる。
2016年06月11日
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年頭からウェスレー著「キリスト者の完全」を読みました。よかったです。「完全」という言葉が誤解され、論議を呼ぶ。この本は、神学論争文書というカテゴリーに分類される恐れがありますが実際の内容は、霊的書物とか、実践的信仰の勧めに近いのです。ボクはこの書を愛読しています。長い書物ではないので、パソコンに全文を取り込んでいますが自分流にダイジェスト版を作り、evernoteに収めました。こうすればスマホでも読めます。クリスチャンとして聖書の宗教にどう取り組み、どう信じ、どう生きるかウェスレーは書き記しています。そのあまりにも真摯な態度に、畏れの念をさえ覚えます。これほど誠実な生き方をした人を、もう一人知っています。ブレーズ・パスカルです。パスカルは病弱で早死にしましたがウェスレーは長寿であり、実践的伝道者でした。パスカルは科学者からスタートしています。しかし敬虔の部分で、信仰の質が驚くほど似ています。ウェスレーがアングリカンであったことでカトリックのパスカルに近づいているとボクは考えています。ウェスレーは宗教改革の神学を受け入れていますがまた隔たりもあります。そう! 本当はウェスレーは、ルターやカルバンよりも、パスカルの方に近いと、ボクは考えているのです。
2016年01月09日
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パスカルの姉ジルベルト・ペリエが書いた「パスカル氏の生涯」彼を愛してやまなかった姉ジルベルトが、渾身で書いたパスカル伝と言える。ボクはこれをテキストファイル化して「楽天kobo」に収めている。因みに車内読書に関しては、「楽天kobo」ほど便利なものはない。koboには、上位機種がいくつか出ているようだが、初期に出た機種で十分である。ジルベルトのその書物を読むと、パスカルのキリスト教信仰の純一さがよくわかる。その点で、ジョン・ウェスレーと共通点を見いだす。ボクが今まで出会ってきた生存しているクリスチャンの中最もパスカルの人となりとその信仰に近い人は、ボクの妻であると思う。その人となり、病との厳しいたたかい、その信仰を生活に現すその生き方少なからず、妻のそれと似たものがある。そこでその本を半分ほどにダイジェストして印刷し今朝、妻にそれを渡した。
2015年02月03日
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パスカルを紹介する書籍は世に氾濫している。その中で、パスカルとその信仰について最も的確に著されているものはジルベルト・ペリエ著「パスカルの生涯」だろう。ジルベルトはパスカルの姉でありパスカルを看取った夫人。そこに姉の愛があふれている。またブレーズ(パスカル)の信仰を深く理解している人。『パンセ』丸写しの所もあり。涙無しには読めない。
2015年01月29日
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『パンセ』のテキスト・ファイル化が完成した。もう一度パスカルに向き合うことに。それは「楽天koboタブレット」で読むためだ。読みながら、キーボードをぱちぱち打ちながらパスカルと語り合り、パスカルと信仰問答をする。今回は最終章(第14章・論争的断章=ブランシュヴイク版)にパスカルの純粋なキリスト教信仰を見た。病弱な、華奢なパスカルでもたった一人で岩のような信仰の旗を振り続けた精神の強靱さ。あこがれるだけでいてはダメだ。もうこの歳だけどパスカルのナイーブこの上もない信仰の心に少しでも近づかなければ申し訳がない。
2013年09月27日
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