全478件 (478件中 1-50件目)
子どもの頃の、じゃんけんのときのかけ声ちっけったっと言った。男の子同士のときにするどく、かっこよくちっけったっと言う。女の子が混じるとじゃんけんぽん、となった気がする。ちっけ、ちっけ、ちっけったっ!!声を出して言ってみると暗くなるまで遊んだ日々がよみがえる。
2023年12月22日
コメント(0)
岩手在住の息子が来て、帰って行った。一陣の風だ。妻のうれしそうな顔名残惜しそうな顔この古い家の細々とした手入れを済ませ。昨日は、3人で貝殻山公園をゆっくり歩いた。そろそろ家に着く頃かな。向こうは雨こちらも夜には雨。
2023年05月06日
コメント(1)
「サルーキ=愛の家クリスマス・ロックンロール・コンサート」YouTubeで観たロックンロールに聴き入ったのは初めての気がするサルーキというもう20年以上バンドを組んでいるらしい人たち3人エンターテイナーアドリブと乗りの世界リズムに乗せ、会場と一体化する体操のお兄さんのようにジャンプときどき聞き慣れた讃美歌がアレンジされて出てくる聖書のメッセージは誠実そのもの彼らの独特の語り口が新鮮クリスチャンの証詞の多様性に感動した
2022年12月25日
コメント(0)
結婚して40年以上職業柄、外で食事する機会が少なくほとんど朝昼晩、家で食事を摂ってきた。ボクの妻は朝昼晩と食事を作って来た。40000回は優に超える。当然のように顔色一つ変えずにそのルーティンに勤める
2021年02月02日
コメント(3)
EVERNOTEというクラウドにお世話になっています。その運営から来たコラムの転載です。こんなふうに仕事ができたら素敵だなと思いました。一部省略編集しています。David Perez • July 23, 2019漠然と、でも必死に一日中働いたのに、何も仕事が終わらなかったという日はありませんか? 現代社会では SNS やスマホの通知などに遮られてしまい、生産性を維持するのは簡単ではありません。気が散るようなテジタル機器の電源を切ってしまえればよいのですが、なかなかそうもいきませんよね。そこで、以下の 5 つのヒントを活用して、やるべき仕事を効率よく片付けましょう。1. カエルを食べてしまう「カエル」とは最もやっかいで気の進まないタスクのことだそうです。先延ばしにすればするほど、そのタスクによるストレスは高まります。思い切って最初に「食べて」(つまり「完了して」)しまえば、それ以上心配する必要もありませんし、残りの時間はやりがいのある仕事に費やすことができます。大きなカエルをすぐに食べるためには、一日の最初に片付けてしまいましょう。2. 走って、休憩して、その繰り返し。たとえば、あくびが出るほどつまらないプロジェクトがあるとします(誰しも経験ありますよね)。そのプロジェクトでは文章での報告だけでなく、チャートや画像も含めた長文レポートを書かなければなりません。そのときに、「嫌というほど長いレポートを書かなければならない」と思うのではなく、手順を細かく分けてみましょう。「序章だけ書く」「最初のグラフだけ仕上げる」といった小さなタスクに分ければ、先延ばしせず集中して作業できます。そのタスクが終わるまで「走って」、終わったら「休憩して」、それから次のタスクに取り掛かるリズムを作りましょう。3. 自分の記憶を過信しない食事会などで初対面の人の名前を聞いて、2 分後にはもう思い出せない、なんて経験はありませんか。あるいは仕事でじっくりプレゼンテーションを聞いたのに、会議室を出たあとはもう重要な内容が思い出せない、なんてこともありますよね。人間の短期記憶には限界があり、だからこそ私たちはメモをとるわけです。4. その日のゴールを決めておこう日々の仕事で一番大変なのは「取りかかること」です。いったんタスクを片付ける達成感を味わえば、次のタスクには取りかかりやすくなるものです。午前中なかなかエンジンがかからない人は、重要なタスク(ゴール)を一つ選び、そのタスクが終わったら今日はもう休んでよいと自分に言い聞かせてみましょう。実際にそのタスクが終わってみると、弾みがついて他のタスクにも手をつけやすくなるはずです。たとえ最初のタスクの後に休憩するとしても、最初のタスクを終えた満足感を感じることができます。5. 集中できる環境にするスマートフォンが鳴ったり、SNS の通知が届いたりすると、「ちょっとこれだけ見て、仕事に戻ろう」と思うものですが、実際にはそう簡単には意識が仕事に戻りません。ちょっとだけのつもりが、長々とデジタル画面に見入っていたということも珍しくありません。このようにいったん集中力が途切れると、やるべきタスクに再度集中するのが難しくなります。結果として、仕事が遅れたり、そもそも仕事に取りかかれないまま時間が過ぎたりもします。どうしたらいいでしょう? 解決策は簡単です。スマートフォンの電源を切るか、おやすみモードに設定するだけです。こうすることで、通知などに邪魔されることなく仕事だけに集中できます。
2019年08月07日
コメント(1)
若き頃、日本キリスト教団に所属した。東静分区では中高生の修養会とか、楽しい集いがあった。当時、天皇制反対が日本キリスト教団の旗印の一つだったように、記憶している。分区の集まりで、ある教職が天皇制反対の演説をした。そのあと、ボクは感想を述べた。「ボクは、天皇制に反対も賛成もしません。 ただあるものは認めます。」怖い目つきでにらまれたが、特に何も言われなかった。天皇制が良いのか悪いのかさまざまな立場があるだろう。さまざまな立場を切り捨てないというのが当時の日本キリスト教団の旗印でもあった。さまざまな立場を切り捨てないということと天皇制反対で一つになれというのは、矛盾する。若い頃、お訪ねした御殿場市にある神山復生病院では、皇族の方が植樹されていった木が大切にされていた。神様を敬う心は、こんな所にも、こんなふうに表れるのだと感心した。神山復生病院が、カトリック立ではなく、日本キリスト教団立だったら皇族の訪問自体を拒むのだろうか?先の天皇の、貧しい人や苦難の中に居る人を思いやる心は人一倍であり、ボクはこの天皇を世界に誇りたい思いにあふれる。心から、ご苦労様と述べたい。
2019年05月02日
コメント(0)
キリスト様が地上に足跡を記されたクリスマスみどりごの尊いおからだがかいばおけに寝かされた始め夜なべの羊飼いたちが、駆け込んできたクリスマスな~に? ボクたちの救い主がお生まれだって?そう、きみたちの。ボクたちの。学者たちも、うやうやしく訪れ最初のプレゼントをささげていったすごい すごいこうしちゃおれぬ とこの一年お祈りありがとうおかげさまで、神様のみ助けを受けて過ごしました。ありがとう!!ちいさいけれど豊かなクリスマスを過ごしました。写真の上はクリスマスのお便り。下は、息子が一時帰宅するというので二戸教会の人たちが、リースを作って持たせてくださったものだいぶ枯れましたので、クリスマスに妻が手を加え、よみがえったリースです。良いお年をお迎えください。
2018年12月25日
コメント(7)
積年の混乱に嫌気がさして、教団から離脱する教会がホーリネスの群傘下の教会からも起こってくる。今考えると、この教団離脱は2通りのタイプがあった。第1次離脱は、とにかく教団を離れることを至上とする牧師結果的に教会が2つに分かれる。次のタイプは、教会をまとめあげる努力の末に決断に持って行く。淀橋教会、浅草橋教会は第2のタイプをとった。ホーリネスの群の半数の牧師たちは、教団から出て行った牧師やその教会が、そこにいることを潔しとしなかった。ある年のホーリネスの群の総会で、教団から出た牧師とその教会を切り離す決議がおこなわれた。ボクの記憶では、2~3票の差で切り離し決議が成立。泣いた牧師もいた。主よ、託された信徒の皆さんを迷わせてごめんなさい。さて聖書を読み返しましょう。
2018年07月31日
コメント(4)
どんどん忘れるので、覚えている分を書いておく。あまり興味もないかも?ボクが東京聖書学校を卒業する時分は、日本キリスト教団の教師検定試験は行われなかった。実施しようとしても、問題提起者たちが妨害する。なされるままだったひ弱さは、日本のキリスト教。そこで、当時の教団=教師検定委員会は問題提起者たちと話し合い、妥協点を見いだす。何とか教師検定試験を実施したい一心だったのだろう。その妥協点とは1,教師検定試験を、日本キリスト教団教憲教規にのっとり実施する。2,ただし、イエスをキリストと告白できない人も、日本キリスト教団の教師として働きたいと望む者には、教師として迎える。それで教師検定試験実施に漕ぎつけたのだった。ボクたちはその試験を受けなかった。そんなふうにしてまで、試験を実施することは、キリスト教会の破綻に見えた。さて、もうこれは40年以上も前のお話だったのだ。今は、上の「第2番目の基準」は、なくなっていますよね?とっくのとうに、なくなっていますよね?しかし待てよ?ゆるいキリスト教やさしいキリスト教 の走りだったのかも?
2018年07月30日
コメント(1)
(記憶が頼り。間違いがあるかもしれません)東京教区総会だったか、東京東支区総会だったか問題提起者が粉砕しに来た。ヘルメットと竹竿を手にして。当時ボクがお勤めしていた教会の信徒さんは総会を守ろうとバリケードを築いたが、竹竿で殴られたと言っていた。それ以来、長い長い間、総会は開かれないままだった。当時の東京聖書学校の講師もなさっていた東京神学大学教授・故北森嘉藏先生も問題提起者に殴られている。淀橋教会の礼拝にも問題提起者が押しかけた。牧師だった小原十三司先生が「わたしの教会から出て行って頂きたい」というと「わたしの教会とはなんだ」と胸ぐらをつかまれた、と。キリスト教があまりにも魅力がなかったんだ。
2018年07月28日
コメント(2)
日本キリスト教団に問題提起者が現れたのは大学紛争が下火になった頃だった。それは良き時代でもあった。大学紛争懐かしい思い出銀座の大通りいっぱいに練り歩くデモ隊先頭はヘルメット、マスク姿の過激な連中で後尾は「ベ平連」などの叫び歩くだけの人たちそれでも角材で歩道の敷石を打ち砕いてバケツリレー式で前に送っていく。先頭で受け取ると機動隊に向かって投げつけるのだ。時々、機動隊がわっと攻勢をかけてくると隊列は乱れて逃げるが運悪く捕まえられた者は、機動隊から殴る蹴るの暴行を受けたりする。そんなのんびりした時代だったのだ。
2018年07月26日
コメント(7)
その神々しさに顔を赤らめるだろう
2016年12月23日
コメント(0)
(それは息子の死よりも もっと悲しい出来事)その人は海を渡ってきた。ボクたちの集まりの講師になってくださりボクたちの教師の集まりにも加わりその心の内もフランクに語って下さった。やがていつの間にかお顔が見えなくなった。どこかの集まりに来ておられて駆け寄ろうとすると、もうあなたがたとは付き合わないと言うように、顔を背けられた。その人は、いつしか巨大な群れを作った。あるとき、その人の耳を疑うような噂を聞いた。柔和なお顔を思い出しそんなことはあるはずがないと思った。ボクはホームページを漁りその人のニュースを調べようとしたよかった、何もない、やはり、間違いだった。つい先日、その人のことをまた耳にした。ボクはまたホームページを調べた。悪い噂が幾つも幾つも書き連ねられていた。その人は強い指導者だった。檄を飛ばしてまっすぐな信徒たちを走らせた。その人は弱い人だった。自分の弱さを隠すために大声を上げなければならなかったのか。
2014年12月12日
コメント(3)
とはいえ、選挙の結果に心を取り乱す。ガラスの心は粉々に砕け散る。心は荒れ、苦虫を噛み潰したようなボクの顔今朝は聖句を読んでも心に響かない。
2012年12月17日
コメント(0)
ブレーズ・パスカル著『病の善用を神に求める祈り』幾何学者。若い時から虚弱体質。痛みと共に生きる。40歳にならずに病死。『パンセ』を著す。この祈りは、パスカル36歳の時に書く。全15章にわたる長大な祈り。祈りの中でのパスカルの独白・・・・(この祈りに触れてボクが読み解いたこと)病はやがて来るべき死の予告として受け止め、これに備えること。健康にまかせて神様から離れて生きた自分への神の裁きとして病を受容すること。神の助力がなければ、健康は神から離れさせる。神の助力がなければ、病の痛みをも神から離れさせる。病が魂への良薬となることを願う。そしてパスカルが最後に神に語ること。自分の病の苦しみ痛みがキリストの十字架の痛みと一つとなることを願う。自分の苦しみが、キリストの苦しみを現すに至るように。病の苦しみの中にキリストが私の中で苦しまれていることを知るに至るように。15(抄) 主よこの私が、あなたの御心に一致するものとならせてください。今こうして病んでいます時には、苦しみの中であなたの栄光を讃えさせてください。あなた御自身も、苦しみを通って栄光に至ろうとなさいました。 私は今、自分の犯した罪のため、肉と霊とにおいて苦痛を受け忍んでおります。この苦痛のゆえに、私をあなたの弟子として認めてください。私の心をあなたの御心と通じさせ、私の苦痛をあなたの忍ばれた苦痛に合わせてください。私の苦しみがあなたの苦しみとなるようにしてください。あなたと一つにならせてください。あなたと、あなたの御霊とで、私を満たしてください。私の心と魂の中へ入ってください。そして、私の中で私の苦しみを負い、あなたの御苦難の内なお残っているものを、私の中にあって耐え忍び続けてください。また、あなたの御体である教会がすっかり完成される日まで、あなたの肢体において、御苦難を完全にお果たしください。こうして、あなたに全く満たされ、もはや、生き、苦しむのは私でなく、私の中にあって、救い主なる神よ、あなたが生き、苦しまれるということになるのです。こうして、まことに僅かながらあなたの御苦しみにあずからせて頂くことによって、あなたは、この私に、御苦難によって勝ち取られた栄光を満たしてくださいます。この栄光の内に、あなたは、御父と聖霊と共に、代代限りなく生きておられるのです。アーメン。「病の善用を神に求める祈り」最後の部分
2012年09月26日
コメント(0)
集団下校の列にまた車が突っ込んだ集団下校は裸で無防備だサタンはそれが恰好の対象のようにこわごわと固まって歩く弱い人間を攻撃するのだ集団下校などやめた方が良い
2012年04月24日
コメント(0)
イースターおめでとうございます。復活の主が霊においてそこにおられるそこで主にお目にかかれるイースター礼拝へイースターエッグもあります。
2010年04月04日
コメント(8)
遠州キリスト教会での聖会に出席車1台で4人乗り。去年に続いて、中野雄一郎先生のお話。中野先生は70歳くらいだそうですが煮えたぎる熱き血潮に脱帽。ボクが落としてきて長い間気づかないでいたものを教え下さったような気がした。中野先生、ありがとうございます。どうぞいつまでもお健やかに・・・・
2010年03月14日
コメント(2)
このボログを読んでくださる友だちへつたない言葉があなたがたの心の中に入るとドライアイスのように気化して心の栄養に役立てられますように。
2010年03月11日
コメント(2)
「あの人がこう言っていたよ」「えっ、ほんと? ムカ ムカ ムカ ムカ」「親友に向かってすら王を呪うな。 寝室ですら金持ちを呪うな。 空の鳥がその声を伝え 翼あるものがその言葉を告げる。」 コヘレト10:20「自分の口と舌を守る人は 苦難から自分の魂を守る。」 箴言21:23
2010年02月10日
コメント(0)
エリシャがシュネムで死んだ子供を生き返らせる場面は臨場感があふれている。物語は具体的かつ神秘的である。(列王記下4章)キリストは会堂長ヤイロの娘を生き返らせた。(マルコ5章)悲しみに打ちひしがれる人々と、よみがえった娘を目の当たりにする対比が劇的である。またキリストは死んで3日たって死臭を漂わせていたラザロをよみがえらされた。この場面の書き方は生き生きとしている。福音記者ヨハネの真骨頂である。(11章)ペトロは死んだタビタをよみがえらせた。(使徒9章)パウロは3階から落ちて息絶えた若者をよみがえらせた(使徒20章)神のみ力は時として、生と死のボーダーラインをずらされる。なぜか? 神がそれを必要とされたとき。
2010年02月05日
コメント(2)
2回続けて完全原稿なしで講壇に立ってしまった。2つの理由が考えられる。完全主義をやめられた象先生の影響が一つ。もうひとつは、先日の役員会での「伝道するのが面倒になるときがある」との一人の役員の言葉。メッセージの原稿書きが面倒になることもあると共感。
2010年01月25日
コメント(6)
頑張って110キロで 走っているのに ボクの横を すうっと追い越して行ったやつがいた
2009年11月24日
コメント(10)
昨日は地裁に行きました あれを話せばよかった これを話せばよかった ボク自身もこうして 神の法廷に立つ日があります その時は まことの弁護者である あのかたが一緒です
2009年11月05日
コメント(4)
昨夕とつぜんに、信徒さんの奥様の逝去の報を受けました。訪問を怠っていたことを恥じました。元気なときに、主の愛を伝えていなければ後の祭りとなるのです。ナマケモノ牧師はこんな時、居場所を失います。それでもグリーフ・ワークは待ってくれません。遺族により、葬儀は市の火葬場が選ばれたので、諸式のための、賛美歌の伴奏や献花のBGMの曲を選びCDに焼きました。今年は葬儀はないと思っていたのに2ヶ月続きの葬儀となりました。
2009年10月29日
コメント(6)
今日は修道院に留まる。個室には机と寝台だけ。 大好きなバソコンがない。 あぁどうしよう!
2009年09月01日
コメント(0)
水曜日の祈り会の後「必要があれば、いつでもおっしゃってください。」その方は、その週のウチに天の御国へ旅立った。その家を訪ねればわかった。ぎりぎりの質素な暮らしを心がけていた。急を聞いて駆けつけると家人が出てきて「財産を教会へ捧げると約束していましたか?」「いいえ、そんな約束はしていませんから」(どうぞご安心を)
2009年07月03日
コメント(2)
みんなが賢者というわけではない。 みんなが愚者というわけでもない。 自分の中でさえ賢者も愚者もいる。
2009年06月18日
コメント(0)
箱根ケズィック聖会に来ています。 英国人エイメス師は 眉間にシワを寄せ ちょっとイカツイ顔 でも思いがけないジョークが 口から飛び出してくる。
2009年02月25日
コメント(2)
クリスマスイブの集いが終わり、笑い声が星空に吸い込まれるように消えた頃2人の青年が訪れました。「うちはもう終わりました。 でもカトリック教会なら 夜中のミサがそろそろ始まるでしょうから そちらに伺いなさいな。」そう言って、カトリック教会までの道順を教えてあげました。彼らは羊飼いたちではなかったか?
2008年12月25日
コメント(0)
軒をきしませていた風が陽が昇ると治まった。陽が風を追い出したのだ。
2008年11月30日
コメント(0)
きよらかな人は ただ生きているだけで 周りの人々に影響を与える。 だれでもきよらかな人になることができる。
2008年10月07日
コメント(2)
馬喰町の地下駅から上がると 青空の下だった。 神田川にかかる 浅草橋を渡る。 行き交う人々を眺め 女性たちのファッションが ひときわ輝く季節が来たと思った。
2008年09月09日
コメント(0)
会い別れまた会いまた別れ 会い別れまた会いまた別れ また会いまた別れまたまた会いまたまた別れまた会う
2008年09月02日
コメント(2)
今日もだれも来なかった。 今日もだれも来なかった。 今日もだれも来なかった。 今日もだれも来なかった。 今日もだれも来なかった。 今日もだれも来なかった。 今日もだれも来なかった。
2008年07月23日
コメント(0)
傘を差して、蔵前から秋葉原まで歩きました。数日前通り魔事件があった交差点でお祈りをしようと思いました。こんな事件が2度と起こされないようにと。その交差点に献花台が置いてありかなりの人だかりテレビカメラのようなものが何台も置いてありました。歩きながらお祈りをして足早に通り過ぎました。初夏の雨よ、悲しみを早く洗い流せ。突然に命を奪われた人々とその家族の悲しみを思います。そして破滅的事件を起こした当事者である若者の心を思います。ボクの感情移入はどうしてもその若者の方に傾いてしまいます。もう少し、何とかならなかったのか、と。そしてそんな若者がこれからも現れてきそうな予感。
2008年06月12日
コメント(0)
箱根での集いに来ています。 400人程の人々が集まり 賛美を歌ったり、みことばに聴き入っています。 前のほうに、Aさんの後姿を見つけました。 苦労を通って、今は横浜の教会で元気に働いています。 ここで3人の同窓会をすれば Aさんとボクとボクの妻です。
2008年02月20日
コメント(0)
舞い降りる白いものの下 頭も肩もま白 空も田もま白
2008年01月17日
コメント(7)
98歳になろうとする義父の入院。 知らせを受け、月曜日から見舞いに来ています。 病床で、その末娘であるボクの妻は 福音を伝えています。 妻はこのために、手紙を毎月書き続けて来ました。 主よ今祈りをお聞き下さる時が来ました。祈りを聞いて下さるあなたのご栄光を現して下さい。
2007年08月08日
コメント(7)
今日は3つ目の教会を訪問した。 クリスチャンに会えば初対面とは思えず、直ぐに打ち解ける。 どの町にも教会にクリスチャンが集まる。
2007年08月01日
コメント(1)
七つの色が一つに溶け合えば透明になる 虹のような教会を創りたいと思った
2007年07月31日
コメント(2)
北九州市にある教会で日曜日を過ごした。 明るく自由な雰囲気、皆が自分の場所を持っている。 そんな教会でメッセージを語らせて頂いた。
2007年07月29日
コメント(3)
大きな陸の突端と、大きな陸の突端がくっつきあっている。 その間の、強い潮の流れに乗ったり逆らったりして、大小の船が行き交う。 対岸の美しい町町は未知の町町ではない。橋に乗っても、トンネルをくぐっても、小さな船に乗っても届く隣町となっている。
2007年07月29日
コメント(1)
知り合いと似た人がいた 声をかけそうになったが、とどまった ここは北九州市だから
2007年07月27日
コメント(4)
叱られる・・・・その時は、頭に来たり、鬱の引き金になったり逆恨みになったりするしかしあとあとまで残りそうか、(叱られたことは)適切だったんだと思うようになるそんな叱り方をしたいよ確信と愛がなければ怖くてできないよそんな叱られ方をもう一度されたいちょっぴりはそう思う
2007年06月25日
コメント(7)
「北風と太陽」イソップ童話あるとき、北風と太陽が、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をする。まず、北風が上着を吹き飛ばそうとする。しかし旅人が上着をしっかり押さえてしまい、北風は旅人の服を脱がせることができなかった。次に、太陽が照りつけた。すると旅人は暑さに耐え切れず、今度は自分から上着を脱いでしまった。これで勝負は太陽の勝ちとなった。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参考)これだから北風より太陽の方がまさっているとは言えない。北風は太陽のように振る舞うことはできないし、太陽は北風にもなれない。北風は北風の役割があり、太陽は太陽の役割がある。この童話は単純すぎて、現実を反映していないと思うのだが・・・・
2007年06月24日
コメント(4)
昨夜はレモンのママレードを自作しました。それが食べたくて、朝の祈りを終えてからコンビニ行き、食パンを買ってきました。さぁてパソコンを閉じて、食べに行きましょう!
2007年04月26日
コメント(4)
群馬県草木湖のほとりに建つ富弘美術館に行きました。 詩画を読み辿りながら、隈なく部屋を回りつつ、 ここに来れば、だれでも優しい気持ちになれると思いました。 草木湖は雨に煙っていました。
2007年04月11日
コメント(4)
旧約律法に、聖職者(レビ人)の任期が決められていることに驚きます。「ボクは力にあふれている、幾つになっても大丈夫だぞ」そういう一人合点は通用しないのだ。考えさせられました。せめて、引く時ぐらいは美しくありたいと願わされます。-----------------------「五十歳に達した者は務めから身をひかねばならない。二度とそれに従事してはならない。ただし、臨在の幕屋で同族の者が警護の任に当たるのを助けることはできるが、自分で作業をしてはならない。」民数記8章25~26節(新共同訳聖書)
2007年03月29日
コメント(2)
「もし、神様が愛だったら」 「もし、天国があったら」 ボクが、こんな調子で話すことが多いらしく、抗議する人がある。 もっと断定的に、確信を持ってお話するべきだと言うのだ。 断定的に言わないと、聞いた気がしないらしい。
2006年12月07日
コメント(8)
全478件 (478件中 1-50件目)