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これに対する師観のコメント:上記引用を簡単に言うならば、 私tomy4509が主張してきたところの「独生子論」、「独生女理論」「独生女論」は存在しない、 に尽きる。只々、各人の信仰によるものだ。
ケリュグマとは初代教会の信徒たちによって宣言・宣教された「イエスはキリストである」という信仰告白のようなものです。
問題は聖書が書かれた目的はイエスを史的に描写するために書かれたのではなく、「イエスは人類の救い主である」ことを証しする目的で書かれているというのです。これをケリュグマのイエスというのです。
ケリュグマのような「信仰の論理」は実存の論理と言い換えて良いでしょう。それゆえ、初臨のイエス自体がケリュグマですから、再臨はその延長になりますのでケリュグマのキリストの再臨ということになります。
したがって、文鮮明師はケリュグマの再臨主であり、韓鶴子女史はケリュグマの独生女ということになります。
これは信仰の論理の問題であり、個々人の実存の問題ですので、史的、客観的に議論する必要のない問題なのです。
したがって、サンクチャリ-の信徒たちが松濤本部の前で反対のデモをする必要は全くない問題であり、お門違いの問題なのです。
しかし、家庭連合が韓鶴子女史は史的独生女だと主張すると議論になり、客観的根拠が求められデモにまで発展しても致し方ない
ということになります。
文師がどうして再臨主であるのかというと、師が16歳の時、復活のイエス(霊的イエス)と出会い、イエスより再臨の使命を受け継いだことにあり、これを信じるか否かは各人の信仰にかかっているのです。
その点は、イエスについても同じことが言えます。イエスをキリストとして告白するか否かは、彼を受け入れる人々の信仰にかかっており、その人の実存の問題なのです。
しかし、このことは全ての宗教についてもいえることなのです。その典型的なものがキルケゴ-ル信仰観です。
彼によれば、「受肉のキリスト」とは理性によってのみ完全把握できる存在を不完全に表象したものではなく、いかなる種類の理性からも完全に分類したものであり、実存と理性とは必ずしも類似のカテゴリ-ではないといえるのである。
このように、普通一般の人が十字架を背負ってイエスの姿を見るとどう見ても理性では、この人が人類の罪を贖罪している”神”とは見えないのであるが、キリスト教徒がこれを見て、その中に現れる神の啓示を受け入れたい気持ちに誘われる時、理性とは無関係の”信仰の飛躍”をもって、この人物を「救い主であり、神である」と告白するというのである。
それ故、今日イエスがキリストかどうかという問題は、客観的論理において取り扱うべき問題ではなく、あくまでも信じる者の”実存”の問題であり、信仰告白の問題と言えるのである。
……
一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵
奇知の外の凡人
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