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あきても @ Re:雨の烏来老街(ウーライラオージェ)へ(12/01) New! 雨降って猛スピード運転バスは怖いですね…
空夢zone @ Re:雨の烏来老街(ウーライラオージェ)へ(12/01) New! 猫ちゃんとっても可愛いですね。抱っこし…
空夢zone @ Re:雨の烏来老街(ウーライラオージェ)へ(12/01) New! 無事お帰りできたのですね。 ダイサギは…
Feb 9, 2018
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カテゴリ: カテゴリ未分類
日本のカレーとインド式のカレーは全く違うと云うのはよく知られていること。

要するに日本のカレーは小麦粉を加熱することでとろみを出しているのが特徴です。


もちろんカレーそのものはインドが発祥ですから、日本のが亜流になるワケですが、最近は日本のが有名になって、インドにまで日本式のカレー店が進出しているようです。

それほど日本のカレーは美味しいと云うことですが、それではインド→日本とダイレクトに伝わったのかと云うと、そうではなくて、いったんイギリスを経由しています。
もともと私たちがカレーと呼ぶインドの煮込み料理は、サーグ、サンバール、コルマ、ダールなど、それぞれ固有の名前があり、インドに「カレー」と云う名前の料理はないのです。

だいたい日本の家庭でカレーを作るときに使う「カレーペースト」そのものが無い。
あれはイギリス発祥なんですな。
ご存じのように、インドでは数多くの香辛料を混ぜて、すり潰して使用します。

イギリス人の船乗りは航海中にシチューを食べたがったのですが、材料の牛乳が長持ちしないのでこれではNG。
それで牛乳のかわりに日持ちのするカレーの香辛料を使って、シチューと同様の食材で作った料理がイギリス流のカレーの由来となってます。

1772年、インド総督のウォーレン・ヘースティングズによって、イギリスに植民地インドの「カレー」料理が紹介され評判となりました。
しかしイギリス人がインド人のように、多種多様な香辛料を使いこなすことは至難の業です。

そこでイギリスのC&B社は、スパイスをあらかじめ調合したものを「カレー粉」として商品化し、「C&Bカレーパウダー」という名前で売り出しました。
これによりカレーは英国の家庭料理として普及したのです。
このときフランス料理の影響から、小麦粉のルウでカレーにとろみを出す料理法が編み出されたと云われています。

面白いことに、カレールウ発祥のC&B社には現在、カレールウを初めて販売したときの資料も残っていません。
C&B社はもともと缶詰、瓶詰、乾燥食品や調味料、香辛料などさまざまな商品を取り扱っており、カレーペーストも数多い取扱品目のひとつにすぎなかったのです。
西洋料理としてカレーが日本に伝来したのは明治初期のことです。
1872年(明治5年)発刊の「西洋料理指南」に当時のカレーのレシピが記載されているそうです。


つまりこの時点ですでにカレーにとろみを出すため、水でといた小麦粉を入れていたのです。

下の画像はハチ食品の「蜂カレー粉」。
カレー粉と云えば「赤缶」、エスビー食品が国産カレー粉を最初に開発した会社として世間で認識されていますが、大間違いです。
ハチ食品と云うのは1845年(弘化元年)創業の大阪の薬膳問屋です。
ここが開発したのが1905年(明治42年)。

さて、そろそろ「新宿木村屋」のお話しに移りましょうか。
概説のように日本のカレーはイギリス式のものです。
そのイギリス経由のカレーを拒絶して、インド式にこだわったのが中村屋の「純印度式カリー」なんです。

今では中村屋でもレトルトのカレーも売られてますね。
現在の中村屋ではビーフカリーや海の幸と野菜のマイルドカリーなんてメニューもありますが、もともとはチキンを使ったカレーが元祖でした。
そりゃあそうですわな、インド式を謳っておきながら、ヒンズー教徒の多いインド式でビーフは有りえない。
中村屋の創業者、相馬愛蔵は敬虔なキリスト教信者でした。
そのため孤児院基金の募集や廃娼運動に取り組み、芸術家を支援するなど開明的な人物として知られ、インドのイギリスからの独立運動にも理解を示していました。

1915年(大正4年)、相馬愛蔵は日本に亡命していたインド独立運動の志士、ラス・ビハリ・ボースを新宿のアトリエに匿いました。
ボースと云うのはイギリスのインド植民地統治に抵抗し、インド総督への爆弾投げつけ事件を首謀した過激な独立運動家です。
イギリス政府に指名手配され、祖国を追われて日本に逃亡していたのです。
しかし日英同盟を結んでいた当時の日本政府は、ボースに国外退去を命じます。
そこで相馬夫妻が匿った次第なんです。

相馬夫妻はボースの独立運動にかける熱意とその誠実な人柄に次第にほれ込み、3年後には長女の俊子を嫁がせ、末永くボースを支援するようになっていました。

この時代に国際結婚そのものが驚異ですね。
しかも亡命者との結婚。
世を忍んでの新婚生活でした。
「ちまたに出回っているのはインドのカレーではない。日本人に本場の上質な味をぜひ味わってもらいたい」。
日本での長い亡命生活、ベンガル地方出身のボースが故郷を懐かしんで料理していたのが骨付きチキンと香辛料のたっぷり入った「純印度式カリー」でした。

ボースのこんな願いがかない、1927年(昭和2年)に新宿中村屋本店1階に開設した喫茶部で「純印度式カリー」を売り出すことになったのです。
一般的なカレーが10銭から12銭のところ、「純印度式カリー」は80銭という破格の高値。
しかし、すぐに客の評判を呼び、中村屋でも屈指の看板メニューになったと云います。
さて、お話しが脱線して申し訳ありませんが、ボースと結婚した俊子のことにちょっと触れさしていただきます。
実はボースと結婚する前、俊子はストーカーにつけ狙われていました。

ストーカーは高名な洋画家です。
帝展の審査員にも選ばれた中村彝(つね)です。

もともと、1913年(大正2年)に開催された東京大正博覧会で、中村彝の描いた裸体の相馬俊子を描いた「少女」が出品された時点から、画家たちの間では「描かれているのは中村屋の娘だ」とウワサが絶えませんでした。
なぜ俊子をモデルにした絵を描けたかと云うと、1911年(明治44年)に相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになったからです。
そのうち中村彝は俊子を愛するようになり、俊子に求婚しますが患っていた結核を理由に反対されてしまったのです。

しかし中村彝は諦めきれない。
もともと俊子という女性は動揺し易い、態度の曖昧なところがあり、荻原守衛の従弟で東京商船学校の学生三原林一も俊子を愛していたと云います。
つまり俊子自身にも原因があったのですね。
1915年(大正4)に女子聖学院を卒業した相馬俊子は、同年4月より女子学院高等科(現・東京女子大学)に入学しています。
俊子は実家からそれほど離れていない、淀橋町角筈101~109番地に女子学院の分教場として、本学とは別に新たに設置された同学院高等科へ入学して寮生活に入りました。

実家の中村屋からは、わずか400m ほどしか離れておらず、自宅から容易に通える距離だったにもかかわらず、俊子を女子学院の寮へ入れたのは、明らかに中村彝から、彼女を隔離し守るためだったようです。

一方、中村彝は、俊子への恋情に煩悶していました。
伊豆大島へと旅立つまで、ほとんど狂気に近い行為を繰り返しています。

実家の家に石を投げたり、戸をたたいたり。
最後にはお世話になった相馬愛蔵が俊子を匿ったから殺すと日本刀を振りまわしたり、悪口雑言を書いてよこしたり、全く正気の沙汰ではありませんでした。
結局、ついには狂人扱いを受けて敗北したようです。

そんな俊子がボースと結婚したのは20歳のとき。
ボース、32歳。
俊子は亡命者として隠れ家を転々とするボースと行動を共にし、支えました。
しかし俊子は肺を患い、26歳の若さで永眠してしまうのです。

ボースは一度、俊子に自分を愛しているなら身を投げる覚悟があるか試した事があるそうです。
俊子は、実際に岸壁から身を投げようとして、自分を愛してくれていることを知り、自分の愚かさと謝罪で号泣したそうです。





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Last updated  Feb 9, 2018 05:07:14 AM
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