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大阪市内の道路は京都と同じで縦横に規則正しく交差した「碁盤の目状」に配置されています。これは江戸時代に碁盤目状の町割りにされた結果そうなったのですね。なので大阪を知らない人が訪れても、比較的分かりやすい導線になってます。この大阪の道路には、例えば「御堂筋」と云うように「筋」がついてる道路と、例えば「中央大通」と云うように「通り」がついてる道路があります。この「筋」と「通」で道が南北にのびてるのか、東西にのびてるのか分かるのですね。南北の道が「筋」で、東西の道が「通(通り)」なんです。実は昔の大阪では「御堂筋」のように南北にのびる道路ではなく、「通」が幹線道路でした。つまり東西の道が生活のメインだったのです。これは東京が皇居を中心にとりまくように道路がのびてるのと同じで、大阪では大阪城が中心だったので、ここを起点に東西にのびる道がメインストリートだったのです。東京の方が皇居を中心に、内堀通り(環1)から環八通り(環8)までが同心円状に走り、そこから放射状に国道が延びていて複雑ですね。大阪でもっとも有名な「御堂筋」は梅田→淀屋橋→本町→心斎橋→ナンバとまさに大阪の中心部を南北に貫くメインストリートです。距離は全長4,027m 、幅43,6m の6車線の南向き一方通行です。この道路名の由来は、1597年(慶長2年)創建でウチのお墓もある「北御堂(本願寺津村別院)」と1595年(文禄4年)創建の「南御堂(真宗大谷派難波別院)」を繋ぐ道であることからきてます。北御堂も南御堂もオフィス街「本町」にありますから、昔はそれより南の天王寺どころか心斎橋やナンバも目ぢゃなかったのですね。実は御堂筋が整備される前は、北区の天神橋1丁目交差点→大阪市中心部の船場・島之内を縦断し→西成区の天下茶屋東1丁目交差点に至る「堺筋」がメインストリートでした。堺筋に面して百貨店の三越、白木屋、髙島屋、松坂屋が立ち並び大阪一の目抜き通りだったのですね。堺筋は和歌山に至る紀州街道の一部で、船場から堺に出る道だったので「堺筋」と名付けられたのです。むしろ御堂筋の最初期は道幅たった6m しかなく、とてもぢゃないけどメインストリートとは呼べない。ところが、梅田にJR大阪駅、阪急・阪神電車が乗り入れ、またナンバに近鉄と南海電車が乗り入れて、2大ターミナルが形成されると、天神橋を起点にする堺筋では都合が悪い。で、1920年代~30年代にかけて大阪市が堺筋に代わる新たな目抜き通りとして御堂筋の整備・拡張を行い、同時期に日本初の公営地下鉄である御堂筋線の建設を行ったのが今日の御堂筋の隆盛につながりました。ちなみに1920年代~30年代にかけて、大阪市は人口、面積、工業出荷額において国内第一位で、当時の東京(市)を凌ぐ世界有数の大都市へと成長していて「大大阪」と呼ばれてたんですよ。今は見る影もありませんが...御堂筋や堺筋以外でも、大阪駅前→浪速区の元町交差点をつなぐ四ツ橋筋。中之島公園→天王寺動物園までをつなぎ玩具の街として有名な「まっちゃまち」のある松屋町筋。大阪府庁など官公庁が立ち並び四天王寺に至る谷町筋など「筋」には多くの幹線道路と呼べる道が多く存在します。では、昔のメインストリートだった東西にのびる「通」はどうかと云うと、ほぼ中央を東西に走り交通量の多い中央大通や、大阪を代表するオフィス街「本町」を貫き、東側には、官公庁や大阪城がある本町通。そして大阪を代表する繁華街ミナミを貫き、沿道にはファッションビルなどが建ち並んでる長堀通。難波、日本橋エリアがある千日前通などこっちも幹線道路はいくつもあります。ちなみに御堂筋は2037年をメドに車道を廃止し、歩行者専用道路にする予定らしいですが、そのときを私が見ることはまぁ無いでしょう。
May 3, 2026
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今の世代の方は名前くらい聞いたことあっても、どんなことが起こったかご存知ない方が大半でしょう。昔、チェコとスロバキアは「チェコスロヴァキア」と云うひとつの国でした。1948年の共産政変以降、社会主義国家としてソ連の衛星国となり、ソ連の強い影響下に置かれてました。1968年になってドゥプチェクがチェコスロヴァキア共産党中央委員会第一書記に選出されると経済を民主化し、報道の自由や言論の自由を認め、自国民の旅行に対する制限の緩和も断行したのですね。これが「プラハの春」です。しかし、この改革を快く思わなかったソ連(ロシア)はワルシャワ条約機構50万人規模の軍隊と戦車を送り込み、チェコスロヴァキアの領土を越えてなだれ込んだのです。ワルシャワ条約機構軍は、ドゥプチェクが実施しようとした自由化の改革を阻止・鎮圧するため、チェコスロヴァキアに侵攻したのですね。こうしてチェコスロヴァキアはソ連軍に占領され、ドゥプチェクとその仲間たちは逮捕されモスクワに連行されました。プラハに戻されたのち、ドゥプチェクは共産党第一書記を辞任したのです。まさにプーチンが今おこなってるウクライナ侵略は昔からロシアのお家芸なんですね。この「プラハの春」を背景にした恋愛映画が1988年に「存在の耐えられない軽さ」と云うタイトルで公開されました。物語はプラハで暮らす脳外科医の夫と写真家の道を志す妻の新婚生活が始まったばかりの出来事。社会主義から自由化の空気の中で、幸福な新婚生活を送ってたとき、1968年8月20日、ソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻の夜が来たのです。ソ連軍に対し糾弾の声をあげる民衆の波に交じって、無心にカメラのシャッターを切る妻。夫は彼女を守りつつ、群衆に交じってスローガンを叫びます。しかし次第に、チェコの民衆の声は弾圧され、再びソ連支配の重苦しい空気が流れていくと云うストーリー。この作品の監督はアメリカ人のフィリップ・カウフマン。エドワーズ空軍基地で航空研究に携わったテストパイロットと、米国初の有人宇宙飛行「マーキュリー計画」に従事した、7人の宇宙飛行士の実話を基に描いた映画作品「ライトスタッフ」の監督でもあった人です。この映画の舞台はプラハですが、撮影時は東西冷戦の最中だったため、チェコ国内で撮影することは不可能でした。そのため大半のシーンはフランス国内で撮影され、プラハのシーンは主にリヨンで、その他のシーンは主にコート=ドールで撮影されてます。チェコ侵攻のシーンでは実際の状況を撮影した記録フィルムとリヨンで撮影されたものが巧みに組み合わされているのですね。しかし「プラハの春」の起きた1968年から20年も経ってからの撮影です。時代考証がどうしていいか分からない。そこで白羽の矢が立ったのが"ヨゼフ・コウデルカ"と云うチェコスロバキア出身の写真家の作品です。彼はまさに「プラハの春」そのものを実体験して写真を撮り、ロバート・キャパ・ゴールドメダルを受賞してたのです。ヨゼフ・コウデルカが使ったカメラは東ドイツ製の「エクサクタ」です。このカメラが当時、共産圏でイチバン入手しやすかったカメラですね。エクサクタは1930年代にドイツで産声をあげた歴史の古いカメラメーカーです。ヨゼフ・コウデルカは、プラハ装飾美術館でディレクターをしていた女性が東ドイツに旅行するときに35mm F2レンズを買ってきてくれと頼んだのですが、どうしても入手できず、代わりに25mm F4レンズを買ってきてしまった。ところがこの25mm F4レンズで1968年に撮ったジプシーの撮影が彼を一躍有名にしてしまったのです。その素晴らしい作品が下の画像。ヨゼフ・コウデルカは1991年のソ連崩壊を待たず、1970年にイギリスに亡命、その後1987年にフランス国籍を取得しました。
May 2, 2026
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小説家で評論家でもある小林信彦のエッセイ「映画狂乱日記」はハリウッドがもっとも輝いていた時代の作品です。日本映画の俳優もエノケンや原節子、高倉健など銀幕のスターの思い出に触れられてて私らの年代とちょっと前の年代にマッチする内容なんですな。その「映画狂乱日記」で若尾文子のことにも触れられてます。私は仕事してたとき多くの芸能人のお世話にも携わってて、女優さんもその中にいたのですが、ついに若尾文子と出会うことは無かったですね。小林信彦は、デビューして2年目の若尾文子ヒット作「十代の性典」「続十代の性典」を観てからのファンだったらしい。性典シリーズはタイトルのような過激なものではなく、このころ大映に入った南田洋子が堕落する高校生、マジメな高校生役を当時20歳だった若尾文子が演じるいわば青春ものです。この性典シリーズで若尾文子のブロマイド売れ行きは1位になったらしいけど、知名度が急上昇した反面、マスコミから性典女優と酷評されたらしい。若尾文子の評判を一気に取り戻し、本人も覚醒させたのは1953年に巨匠 溝口健二に起用された「祇園囃子」出演でした。この作品で若尾は、可憐でありながら強烈な情念と内に秘めた激しい気性を表現する演技で、いっきに性典女優の汚名を返上したのですね。これ以降、京マチ子、山本富士子と並ぶ大映の看板女優と謳われ続けたのです。キネマ句報社の「女優 若尾文子」と云う書籍に若尾文子自薦11作品と云うコラムがあります。それによると...・「祇園囃子」(溝口健二監督)・「赤線地帯」(溝口健二監督)・「浮草」(小津安二郎監督)・「女はニ度生まれる」(川島雄三監督)・「妻は告白する」(増村保造監督)・「雁の寺」(川島雄三監督)・「越前竹人形」(吉村公三郎監督)・「清作の妻」(増村保造監督)・「刺青」(増村保造監督)・「雁」(池広一夫監督)・「華岡青洲の妻」(増村保造監督)まぁ、なんと日本映画史に残る名作ぞろいで、監督も錚々たる巨匠ぞろいです。この「女優 若尾文子」には映画評論家の佐藤忠男も「おすすめの作品」と題して執筆しており、その中には松竹の「男はつらいよ 純情編」をあげてます。これは大映が倒産して以降の作品ですね。「男はつらいよ 純情編」はそれまでB級映画だったこのシリーズを大々的に売り出した記念碑的作品で、マドンナ若尾文子が登場したのには驚きとともに、彼女が出てきただけで派手になり、画面がピカピカしていたと云います。試写会もいっきに混みだしたらしい。しかしこの作品以降、彼女はほとんど映画出演をしなくなり、TVと舞台が主戦場に変わっていくのですね。ご存知の通り彼女は一度離婚した後、建築家の黒川紀章と再婚してます。知り合ったキッカケは1976年にTV番組「すばらしき仲間」で対談したとき。黒川は若尾に「君はバロックのような人だ」とその美貌をバロック美術に例えたのです。これがきっかけで交際を始めますが、当時、黒川は既婚者で娘が20歳になるまで妻が離婚に応じなかったため結婚まで7年かかりました。1983年に黒川と再婚して以降、TVの出演も抑え気味になっていったのですね。黒川が亡くなる2日前に、若尾が「私、あんまりいい奥さんじゃなかったわね」と問うと、「そんなこと、そんなこと、そんなこと(ない)! 本当に(君が)好きだったんだから」と云われたのがふたりだけの最後の会話になったと云うのは有名な話ですね。スクリーンでは身近でも、京マチ子や若尾文子ら昔の大物女優は最近の若手女優と違って、イザとなったら近寄りがたいオーラもってますね。この落差って何なんでしょう。今の若手女優はSNSの発達で自身も私生活を公表してるけど、昔の女優は私生活なんて微塵もうかがい知れなかったからでしょうか。若尾文子は現在、都内のマンションでひとり住まいとか。
May 1, 2026
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新しいDell のPCを購入してかなり経つから、すっかりこのPCで更新してたとお思いでしょうが、実はずっとヨメの休眠中のPCで更新してたのです。なぜかと云うと、新しいPCにデータだけ保存する記憶装置を増設しようとしたら、Dell の仕様で別途専用のブラケットを買わなきゃいけないのが判明したからです。私はメインの記憶装置(いわゆるCドライブ)にはWindows とアプリしか入れない考え方なんですね。データ用の記憶装置はSSD(ソリッドステートドライブ)と云って、従来のハードディスクより高速で、衝撃に強く、動作音がしない記憶装置を使ってるのですが、これがそのままでは取り付けられない。専用ブラケット無しでPCを設置してしまうと、ブラケットを入手したらまた全部のコードを引き抜いてPCカバーを開けて作業しなくちゃなりません。これでは面倒なので、ヨメのPCを使い続けて、その間Dell にブラケットの発注をしてたのですね。市販のサードパーティ製ではピッタリ合うのが無かったのです。それが昨日やっと届きました。データはどうしてたかと云うと、保存してるSSDの出力をUSBに変換するアダプターを使って、外付けで使い続けてたのですね。これでは速度が落ちますが、それでも内蔵ハードディスクより早い。で、きのうDell からブラケットが届きました。ブラケットと電源コード、データ用コードのセットです。Dell はPC内部の電源コネクタも独自仕様にしてるので、純正品でないと手作りしなきゃなりません。作って作れないことないけれど、万一結線ミスしたら、それでSSDはオジャンです。ここは安全みてすべて純正品で。これをDell PCに設置するのですが、手順はDell サイトにYouTube 動画が載ってたので簡単です。思案したのはこのSSDをそのまま使うか、別に用意してる外付けのハードディスクからディスクを取り出して、SSDと装換するかです。と、云うのはSSDは容量が500GBしかありません。ハードディスクの容量は16TBもありますから、実に32倍の容量差です。私ごときの作業では16TBもあれば、とても使い切れない容量なんですね。しかしSSDとハードディスクの読み出しスピード差は約5~7倍は違うのですね。このアドバンテージは大きすぎる。そこでSSDをPC内部に設置、ハードディスクは従来通りUSB経由の外付けで使うことにしました。今保存されてるデータの容量が250GBくらいなので、当分はこれで。実際、SSDのデータにアクセスしたら、これが爆速なんてものぢゃない。もしSSDが満杯になったら4TBくらいのSSDを買おうかと思ってますが、SSDで4TBと云うと15~20万円はしますから、おいそれと手がでない。当面はこのままで。と云うような具合でようやく新しいPCの環境が整って本格始動です。ディスプレイも2台繋いで快適になったし、やっとこさですね。結局、PC以外にグラフィックボードや画像編集ソフトなど5万円くらい余分に持ち出しなってしまいました。まぁ、この機会に使ってないアプリ整理したり、ドライバーの更新もおこなったので、これで良しですかね。
Apr 30, 2026
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先日、私のブログにmarnon1104さんが「昔、仙台から福島へ移り、家電が必要で不動産屋さんから電話の債権を苦労して買った事を「TOKYO 東京」の写真を見て思い出しました。50年近く前の話なのですけどね」とコメを残してくださいました。電話の債権、懐かしい名前ですね。1800年代以前に成人されてなかった方は全くご存知ないでしょうが、昔はNTTの前身の電電公社が電話回線拡充資金として加入者から強制的に借りた債券がありました。債権ですから、企業が借りる立場にあるのですが、これを昔は電話を引く人が強制的に設置費用とセットで購入させられてたのですね。まぁ、今の世代は固定電話そのものを設置してない方が多いので、NTTから徴収される費用なんてご存知ない方が大半でしょうけど。債権ですから「借用証書」が発行され、満期になると利子つきで返金可能です。ところが満期=自動返金ではなく、利用者が銀行で手続きしなくちゃなりません。この手続きを忘れてて時効になると換金できなくなるのですね。電信電話債券(加入者債券)が取り入れられたのは1953年(昭和28年)で、1983年(昭和58年)に終了しました。通常、債権の時効は10年なんですが、NTTが特例として2027年7月5日まで換金を受け付けているそうです。とは云っても、そんな昔の債権証書残して無い方が多いでしょう。公式なデータはありませんが、数十年にわたり放置されているものが多数存在してるそうです。しかし債権を強制的にって、なんだかNHKの受信料と同じで、民営化される前の事業主って利用者無視して有無を云わさずお金をまきあげることが多い。JRだって旧国鉄時代は駅員が威張りくさって利用客を乗せてやる感強かったし。いちど国鉄時代に窓口で切符買ったら、オツリを投げてよこして頭にきたことあります。今は役所でも利用者に丁寧で親切だし、これがアタリマエですよね。つきつめれば、みんなサービス業なんですから。「電話加入権」は電信電話債券と違って、今でも生きてます。NTTの電話回線を利用する権利で、新規設置時に支払う約4万円の費用のことを云います。設置費なので解約しても返金されませんが、光回線電話やフレッツ光のインターネット回線を使った電話が普及した今、ほとんどイミが無くなってますね。そもそもこの電話回線(メタル回線)は老朽化が激しく、2035年をメドに廃止にするらしい。うちもとっくにフレッツ光に切り替えました。しかし高齢者宅なんかではまだ引き続き使ってる方もいるでしょうが、これもガラケー(3G)が無くなったのと同じでいずれは対応しなくちゃならない。
Apr 29, 2026
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1967年に製作されたフランスのドキュメンタリー映画に「ベトナムから遠く離れて(Loin du Vietnam)」と云う作品があります。ホロコーストを告発したドキュメンタリー映画「夜と霧」でフランスを代表する映画監督として有名なアラン・レネや、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した「男と女」やグルノーブルの冬季オリンピック記録映画「白い恋人たち」の監督クロード・ルルーシュ、ジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグ主演の「勝手にしやがれ」でヌーヴェルヴァーグの旗手と有名なジャン=リュック・ゴダールなど総勢6名の監督によるオムニバス映画です。作品は1965年に開始されたアメリカによる北ベトナムへの空爆(北爆)と、それに対する同年のアリス・ハーズ、ノーマン・モリソンらによるアメリカ国内での抗議の焼身自殺や、湧き上がる反戦運動を描いたものです。既存のニュースフィルムを除いて、ベトナム以外の各地で撮影された本作は1967年に完成して、世界中で多大な反響を得ました。その「ベトナムから遠く離れて」に参加した、たったひとりのアメリカ人監督がいます。その監督の名前は"ウィリアム・クライン"。クラインは数々のドキュメンタリー映画を製作してますが、むしろフォトグラファーとしての顔の方が有名です。最初は画家として作品展で早くから成功を収めたのですが、まもなく写真へと足場を移し、ヴォーグ誌のファッション写真家として世界的に評価されるようになりました。35mm フィルムカメラで当初の標準レンズは35mm レンズでした。人物と風景の距離感が自然で、スナップ撮影でもっとも好まれる焦点距離を持つレンズ。ライカなんかで永らく使われたレンズです。それがほどなく50mm レンズにとって代わられました。50mm レンズは人間の視野に最も近く、自然な遠近感で撮影でき被写体を明るく鮮明に描写できるので、ポートレートやスナップなど初心者におすすめのレンズとして君臨したのですね。ところがクラインが1954年に発表した写真集「ニューヨーク」では28mm レンズによる撮影をしてるのですね。28mm レンズは広角レンズの代表24mm レンズと準広角とも云える35mm レンズとの中間のレンズで、広範囲を撮影しつつ歪みが少なく、自然な奥行き感や臨場感を表現できるレンズなんです。広い視点で空間を切り取れるため、風景からスナップ、ストリート写真などに最適なレンズなんですね。しかしクラインが狙ったのは焦点距離の問題ではなく、どれくらい近づくか、どれくらい踏み込むか、引いたときは客観的でありながら、被写体に近づくと主観的な写真になることに着目しての選択だったのです。この作品でクラインはフランスで出版された写真集の中でいちばん優れたものに送られるナダール賞を受賞しました。クラインの作品は「当時はびこっていた写真の決まり事を一切の妥協なく拒絶したこと」そして「広角レンズ、自然光、モーションブラーの多岐にわたる使用により革命的」とみなされました。ニューヨーク・タイムズ紙のキャサリン・ノアは「クラインはストリート・フォトグラフィーの父の一人」とみなされると述べてます。普通にファッションフォトグラファーかと思ったら、ストリート写真ではものすごく踏み込んだ映像を残してますね。ブレやボケなど、従来の写真のタブーを気にせず狂気に満ちたニューヨークを大胆に表現。彼のスタイルは今なお多くの写真家に影響を与え続けてます。クラインは都市4部作として1964年(昭和39年)に「TOKYO 東京」と云う作品も残してます。高度経済成長に差し掛かり、東京オリンピックを3年後に控えた喧噪に沸く都市 東京の姿を鷲掴みにするカメラワーク作品です。クラインは2022年、パリで死去しました。享年96歳。
Apr 28, 2026
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日本料理は熱いものは熱く、冷たいものは冷たくしていただくのが基本ですね。同じように中華だって料理の熱さ冷たさには敏感です。ところがフランス料理のフルコースでふうふうしなければ食べられないとか、熱くて舌がヤケドしたって料理に当たったことない。イタリア料理だってそうです。彼らは料理の温度に鈍感なんかいな?本格的なフランス料理のフルコースとなると、食前酒とともに出されるオツマミみたいなアミューズブーシュから始まって、オードブルへと進み、そこからスープ、魚料理(ポワソン)とその後のシャーベット「ソルベ」を経て本番の肉料理(ヴィアンド)、サラダ、チーズ、デザートで最後にコーヒーと小菓子(カフェ・ブティフール)で終わりますね。全部を一緒にテーブルに並べれば食べやすいのにと思っても、一品ずつ順ぐりに。実はフランスの宮廷料理も最初は全品を一度にドバッと出してたらしい。ところがこれがロシアやドイツの宮廷に広まると、寒くてすぐに料理のさめるロシアなんかでドバッでは料理の味が損なわれてしまうんですね。それで1品ずつ順序だててサーブするようになった。これがフランスに逆輸入されて今のフランス料理提供の基本形になったのだとか。もちろんいくらフランスと云えども、一般家庭では一度にドバッです。だったら熱い料理は熱いままに提供できるでしょうにと思いますが、これってワザとやってるのですね。ぬるいのは、食材の香りと風味を最大限に引き出すための意図的な演出で、熱々よりも少し温度が下がった方がソースや食材の繊細な味を感じやすいためなんです。熱すぎる料理は味覚を麻痺させ、ワインとのペアリングを損なう要因にもなります。と云うワケで舌をヤケドしそうなタコ焼きみたいな下々の食べ物とは違うのですね(笑)そのためフランス料理には低温調理と云う手法が取り入れられてます。食材を50℃~80℃程度の一定温度でじっくり加熱し、旨味を逃さずしっとりとした食感に仕上げる技法ですね。特に肉や魚の旨味流失を最小限に抑える、食材を真空パックし湯煎で温度管理をして均一に火を入れる「真空調理」は70年代にフランスで発展し、焼く、煮る、蒸すに次ぐ第4の調理法として、フォアグラのテリーヌや鴨のコンフィなどでよく使われてます。また鴨や鶏などに用いられる75℃前後の低温のオイルで食材をじっくりと煮る「コンフィ」やサーモンやフォアグラなどで中心部まで完全に火を通さない調理法「ミキュイ」もよく用いられてます。ただ63℃~68℃以下での長時間調理は食中毒のリスクがあるので、外食するにしても厨房の衛生状態が気になるとこですが、こればっかしは事前確認しようが無いのでお店の評判を調べるしかない。フランス料理がぬるい理由はもうひとつ有ります。宮廷の広い敷地内の厨房とダイニングルームの距離が離れていたので、そもそも熱々で提供する文化が育たなかったためです。それとともにフランス人は熱い食べ物が苦手で、苦味や辛味にも弱いとも云われてます。フランス料理は、日本人から見て「猫舌」のフランス人が好む温度で供されるため、ぬるいと感じてしまうのですね。
Apr 27, 2026
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ときどき府外の方から質問されるのですが、大坂の地名には「大阪」以外に「大坂」ってのが有るけどどう違うの?答えはどっちも大阪のことを指しますが、「大坂」は江戸時代の表記のしかた、明治に入ってからは「大阪」なんです。以前にも述べましたが、大阪人が行かない大坂の代表「道頓堀」とりわけ「グリコ看板前」と「大阪城」。どっちも外国人観光客の巣で歩行もままならないし、ボッタクリのお店も多い。昔から大阪城でたこ焼き店を出してる「わなか」12個盛りの「天守閣盛り」で1,100円くらいと記憶してるけど、特段美味しとは大阪人は思いません。観光客の少なかったころの大阪城はいい散歩コースでしたが、もう行かないですね。串カツや通天閣で有名な「新世界」も大衆演劇場があったりスマートボール場があったりと、いかにも下町でのんびりしてましたが、今はここも外国人観光客の巣。今では串カツ店や居酒屋なども東京資本や中国資本のお店が増えて、足が遠のいてる典型的な地です。梅田スカイビル屋上に設置されてる「空中庭園」、かつては大阪人のデートスポットでした。今は知られてるように外国人観光客のターゲット。まぁ、ここの入場料は2,000円で観光客目当ての施設としては良心的な設定かな?バンコクのマハナコーンビル最上階78階にあるガラス床の「マハナコーン・スカイウォーク」の入場料なんて、時間帯によって料金が違って、夕方だと約5,000円もしますからね。まぁ、どこの観光地もそうでしょうが、観光客で混雑する場所に行くの地元の人は躊躇します。それとともに観光客向けに営業形態を変えたとこはなおさらですね。その典型が「黒門市場」です。黒門市場と云うのはもともと安くて新鮮で大坂庶民の台所でした。ところがナンバに近いと云うこともあって外国人観光客が集中し始めると、たちまち営業形態を変えるお店が続出したのですね。それまで食べ歩きを意識した串ざしの料理とも云えない代物なんて無かったのに、これを扱うお店が軒を連ねる。そうなると地元の人の足は遠のく。ところがコロナで外国人観光客がこなくなるとこうしたお店は困り果てたのですね。そこで地元民がもう一度、黒門市場を立て直そうと再び利用し始めた。これで一旦は昔の黒門市場に戻ったのに...コロナ開けで、再び外国人観光客が増え始めると、それまで貢献してくれてた地元民を無視してまたぞろボッタクリ商売に転訛。今では外国人観光客の間でも黒門市場は高すぎると有名だし、中国語しかできない中国人店員のお店が増えた。なんせ天ぷらうどんが3,000円って世界ですよ~!車エビ1匹串に刺して焼いて4,000円です。常軌を逸してます。あんだけコロナで痛い目あって、それを地元民がカバーしてくれたのに忘恩もはなはだしい。いつまで日本ブームが続くか分からんのにねぇ。そこが観光業の弱みで、ホテルだって中国人団体客専門のホテルは中国政府の政策ひとつで悲鳴あげたぢゃないですか。アパ・ホテルを見習うべきです。そもそも都市ホテルはシーズン料金なんて無くて、年間を通じて同一料金だったのに、今やどこでもシーズン料金導入してますからねぇ。東京の品プリなんて、昔はロケーションがいいだけで"クソ"みたいなホテルだったのに、新幹線が停車するようになるとたちまち値上げですものね。観光客がこんなに来る前からめったに大阪人が行かないビルが黒門市場から近いとこにありました。「上海新天地」。このビルはまんま中国1階~3階は免税専門の家電量販店「ラオックスDUTY FREE 大阪」。4階は中華レストラン、5階を飛ばして6階はえたいの知れない中華雑貨専門店と中華食材店。エレベーターは3~4人乗ればすし詰め。食材店に2度ほど行きましたが、まったくどこから来たのか分からん中華の冷凍食品や乾物のオンパレード。中国系の客以外見かけたこと無いし、店員ももちろん中国人だけです。このビル前には中国人観光客を乗せたバスが我が物顔で路上駐車を繰り返していたのですが、2020年になってコロナの影響で訪日中国人観光客が減少すると耐えきれず閉鎖してしまいました。今はコンインパーキングと化してます。ぢゃあ大阪人はどこに行ってるのか?アウトドアだと太陽の塔がある万博記念公園とか箕面の大滝あたりでしょうね。万博記念公園にはミャクミャクも引っ越ししましたからねぇ。この万博記念公園内にある水族館や動物園と美術館を融合させた「NIFREL(ニフレル)」はお勧めです。水族館は「海遊館」がプロデュースしてます。ニフレルのキャッチフレーズは「生きているミュージアム」。ここに展示されてる生き物は、ワオキツネザルとかミニカバ、ホワイトタイガー、カピバラ、コツメカワウソなど種類は多くないけど、見せ方が楽しい。とくにご家族連れにお勧めの施設です。
Apr 26, 2026
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ブログの長いお友だちパパゴリラ!さんとこには"ゆり"ちゃんと云う紀州犬がいます。パパゴリラ!さんとこでは代替わりしても、ずっと紀州犬と大切に同居してきました。紀州犬は猪猟にかけては右に出る犬種はいないと云われるほど巧みなワンちゃんで、国の天然記念物です。パパゴリラ!さんとこの ゆりちゃんは一般的な白毛ですが、中には赤毛や胡麻毛の子もいるそうですね。紀州犬は読んで字のごとく紀州地方の山岳地帯が原産です。筋肉質でがっしりとした体型で、立ち耳、巻尾が特徴ですが、パパゴリラ!さんとこの ゆりちゃんは普通に垂れ下がってますね。性格は落ち着いていて、飼い主に忠実と云われてますが、飼い主以外には慣れにくい傾向にあるそうな。これは日本犬全体に云えることですね。日本犬と呼ばれるのは、紀州犬を含めて柴犬、秋田犬、四国犬、北海道犬、甲斐犬の6種類です。全員、国の天然記念物です。日本で年間に血統登録される日本犬は5万5,000頭ほどですが、圧倒的に多いのは柴犬で、日本犬中の約80%を占めると云われてます。そして紀州犬と四国犬がこれに次いでるのですね。日本犬と云うのは縄文時代から続くルーツを持ってて、忠実で勇敢な反面、自立心が高く、主人と認めた人にのみ従う1人1犬の気質があります。見知らぬ人には警戒心が強いとこなんて、にゃんこと同じですね。パパゴリラ!さんとこには別に らんちゃん、きりちゃん、せりちゃんとさんにんのにゃんこが同居してるので、実質にゃんこよにんと同じ(笑)どの日本犬ももともと狩猟犬だったため、身体能力が高く毎日の散歩は必須なんですな。最近は日本犬の魅力が海外にも発信されてて、海外人気もうなぎのぼり。特に、秋田犬、柴犬、北海道犬は世界的に高い人気を誇ります。とりわけ秋田犬は2009年の映画「HACHI 約束の犬(Hachi: A Dog's Tale)」の世界的大ヒットで知名度が高い。もちろん「忠犬ハチ公」の実話を下敷きにした映画ですね。アメリカや台湾、ロシアで秋田犬は昭和のころから人気が高く、特にロシアでは賢さと耐久力が評価されています。ヨーロッパでも近年、熱心なブリーダーによって日本から輸入して繁殖されていますね。中国では富裕層で人気のシンボルとなっています。秋田犬の日本国内登録頭数は年間約2,500~3,500頭程度ですが、イタリアだけで年間1,000頭を超えるなど、世界的な人気が急増しているのですね。アメリカやロシアでも飼育頭数は日本よりも多いのです。秋田犬とともに特に近年、世界的に人気が高まっているのが柴犬。特にフランスやヨーロッパ諸国では人気が急増しており、フランスでは血統書登録団体によると約1万2,000~1万3,000頭の柴犬が存在し、新規登録数も増え続けています。 他にはイタリアで900頭以上、さらにフィンランド、アメリカ、オーストラリアでも血統登録が確認されており、ヨーロッパや北米での人気が目立ちます。 柴犬が海外で強い人気を得てるのは、日本犬種の中では一番小さく、最もオオカミに近い犬種と云われてて、引き締まった体つきと無駄のないシルエットが魅力とか。さらに、見た目だけではなく性格も強く印象に残ります。海外では柴犬の気質を「鋭敏で、非常に警戒心が高い」とか「独立心があり、見知らぬ相手にはやや控えめでありながら、信頼した相手には忠実で愛情深い犬」と評してますね。この「愛想を振りまきすぎないのに、深くつながると濃い」という関係性は、海外の犬好きには新鮮に映りやすいのでしょう。それとともに海外の日本文化への関心度の高さが柴犬ブームを助長してるんですね。柴犬は「日本らしさを感じる犬」として見られてるのです。動物愛護法により野良猫、野良犬の保護が義務付けられているトルコではワンちゃんの飼育頭数は約138万頭ですが、にゃんこ飼育頭数は約466万頭とワンちゃんの頭数の約3倍もにゃんこが上回わってます。欧州の中で最も猫の飼育比率が高い国ですから、いくら親日国と云っても日本犬はそんなに居ないでしょうね。北海道犬ってのはアイヌの人たちに猟犬として飼育されていた犬種なんですね。縄文人が東北地方から北海道へ渡る際に同伴したマタギ犬がルーツとも云われて1869年に"アイヌ犬"と命名されたのち、1937年に"北海道犬"として国の天然記念物に指定されたのです。被毛はダブルコートで、胡麻、虎、赤、黒、黒褐色、白とバリエーションに富んだ毛色を持っているそうな。そうなと云うのは私は純粋な北海道犬と出会ったことないから。寒さに強く持久力があり、比較的原始的な姿に近いとされています。野性味が強く、怖いもの知らず。気性が荒く頑固な一面もありますが、辛抱強く飼い主に忠実なのは他の日本犬と同様なんですね。
Apr 25, 2026
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精進料理に「タヌキ汁」と云うのがありますね。コンニャクを入れた味噌汁で、昔、獣肉食が禁止されていた仏僧が凍りコンニャクをちぎり胡麻油で炒って味噌汁にしたところ、タヌキの肉を入れた味噌汁に味が似ていることからついた名前。と、云うことはタヌキの肉を入れたタヌキ汁もあったそうです(タヌキさん可哀想う)。ところが、タヌキの肉は固くて臭いため、日本各地にニオイ消すための方法が誕生しましたが、実際のところアナグマを使ったものが多かったそう。東京の両国にある獣肉料理店「ももんじや」には以前、豆腐、ゴボウ、ワケギにタヌキの小さな脂肪の塊が4粒ほど入った「狸汁」があったそうです。日本のタヌキは海外に生息するタヌキとは別の種類で、日本独特らしいですね。日本のタヌキは北海道のエゾタヌキと本州、四国、九州に生息するホンドタヌキの2種だけ。民話にでてくる「ムジナ(貉、狢)」ってのがいますが、アレはアナグマのことを指してます。しかし時代や地方によってはタヌキやハクビシンを指したり、これらの生き物をきっちり区別することなくまとめて指している場合もあるとか。タヌキってのは、長い剛毛と密生した柔毛の組み合わせで、湿地の茂みの中も自由に行動でき、水生昆虫や魚介類など水生動物も捕食する雑食性の生き物です。足の指の間の皮膜は、泥地の歩行や遊泳など水辺での活動を容易にしてるのですね。タヌキの「ため糞(ふん)」ってご存知ですか?タヌキってのは仲間同士で決まった場所にウ◯コするのです。だいたい1頭のタヌキで約10ヶ所のため糞場があって、ひと晩でそのうちの2~3ヶ所を使います。このため糞場、おっきいとこになると直径50cm 、高さ20cm ものウ◯コが積み上がってるそうです。ため糞をすることによって、臭いで仲間同士の情報交換に使ってるらしい。くちゃい情報交換ツールやなぁ(笑)都合の悪い時など、わざと寝たふりをしてやり過ごすことを「たぬき寝入り」と云いますね。これは猟師がテッポウを撃ったとき、銃声に驚いたタヌキが「擬死(死んだふり)」や気絶して動かなくなるとこから来てます。タヌキってのはとにかく臆病で、擬死は外敵から身を守るための反射的な防衛行動なんですな。そして猟師が獲物をしとめたと思って油断すると、その間に擬死が解けて逃げ去るのです。「タヌキ」って名前そのものが、この「たぬき寝入り」を「タマヌキ(魂の抜けた状態)」と呼んだのが語源なんです。ちなみにエゾタヌキもホンドタヌキも信楽焼のタヌキみたいにご立派なモンは持ってません。ごく普通の生き物のサイズです(笑)
Apr 24, 2026
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猫又って妖怪がいますね。山の中にいる猫又と、飼われているにゃんこが年老いて化けた猫又の2種類あります。吉田兼好が書いた「徒然草」には「奥山に猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに」と記されています。山にいる猫又は後世になるほど大型化して、1685年(貞享2年)の「新著聞集」に記されてる紀伊国の山中で捕えられた猫又は「イノシシほどの大きさ」とあり、1809年(文化6年)の「寓意草」で犬をくわえていたという猫又は「9尺5寸(約2.8m )」もの大きさだったらしい。前述の「徒然草」には山にすむ猫又の他に、飼い猫も年を経ると化けて人を食ったりさらったりするようになると記されてます。つまり山にいる猫又は、もともと飼い猫だったのが猫又になり、山に移り住んだものだったのですね。猫又の特徴は尾が二股になること。猫又の「又」は、この尾が二股になってることから来てるのですね。越後国(新潟県)のある武家で、毎晩のように正体不明の火の玉が出没してました。大きさは手毬ほどで、床から高さ3寸(約9cm )ほどの中を漂っていたのですね。それが寝ている家人の部屋に入り込むこともあったと云います。火が現れるだけでなく、人がいないはずの部屋で物がひとりでに動いたり、夜に眠っていた者が、朝になると寝ている姿勢が正反対になっていたと云った奇妙な出来事も起こるようになったのです。そんなある日のこと、主人が庭に出ると、年老いた猫が頭に赤い布をかぶって立っているぢゃないですか。怪しんだ主人は、弓矢で猫を射落としました。主人が猫の死骸に近づくと、それは5尺(約1.5m )もの大きさで、尻尾が二股に分かれた怪猫だったのです。この怪猫の死後、それまで起きていた怪異は一切、起こることはなかったと云います。江戸時代は三味線の撥皮(ばちがわ)にオスのにゃんこの皮が用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌うのですね。このとき猫又が芸者の格好をしているのは、かつて芸者が「ネコ」と呼ばれたことと関連しているのです。そんな「猫又」を名前にした駅があるのご存知ですか?富山の黒部を走る黒部峡谷鉄道(黒部峡谷トロッコ列車)にその「猫又駅」があります。関電黒部川第2発電所(猫又発電所)の業務目的で造られた駅で、標高358m の作業員が寝泊まりする宿舎のある業務用の駅です。駅の名前「猫又」の由来は、その昔、猫に追われてきたネズミが「猫又駅」のそばにある「ねずみ返しの岩壁」に阻まれて登れずに引き返したため、それを追ってきた「猫も又」引き返したと云うことからこの名前がつけられました。つまり妖怪の猫又とは関係ない話なんですね。しかし宇奈月駅の改札を入ったところにある駅員さん手作りの猫又コーナーには例の尾が二股に裂けた猫又のフィギアが飾られてます。こっちの説明では昔、猫の妖怪が黒部峡谷に住んでいたと云う謂れを表現してるのですね。私は登山してたころ針ノ木岳から黒部ダムを見ましたが、立山には対面まで行ってもついに登らず終いだったんですよね。ヨメはトロッコ列車に乗る直前まで行ったのに、天候悪化で断念してます。なんか若いころ観た石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」ですっかり黒部ダムに魅せられたらしいですが、もはや今の体調、体力では夢のまた夢になってしまいました。
Apr 23, 2026
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私の住んでるエリアは特殊なとこで、背の高い土手に囲まれて、中に入るには唯一開いてるゲートで許可をもらって通らなければなりません。エリアが開発された当初は自家用車の通行が許可されず、そのためエリア内にはどこにも駐車スペースが無いのですね。うちの駐車場もこの土手の先、エリアをぐるっと囲むように設置されてる駐車場を利用してます。とは云え、エリア内にはスーパーや商業店舗があるので、商用車は乗り入れざるを得ないのですが、この商用車を停めるスペースもないのです。それでいきおい路駐だらけになってしまうのですが、このエリア全体は大坂市港湾局の所轄なので、いわば私道なんですね。なので、いくら路駐しても取り締まりの対象にならないのです。つまりエリア全体の設計段階で理想論が先行して、現実を直視しないバカな設計をやってしまったのですが、これが役人の仕事なんですな。そんな中途半端な道路設計なので、ここに住んでる人の多くは一般的な交通ルールを守ってないこと多いです。歩行者もチャリも横断歩道どころか、ところかまわず横断するし、今月から厳しくなったチャリの罰則規定もどこ吹く風。いまだにスマホのながら走行もするし、ふたり乗りを見ることも頻繁。警察も定期的に見回ってますが、違反者を見つけても注意するにとどまってます。私が若いころ、このエリアは理想的な居住エリアと呼ばれてたのです。町全体が桜と銀杏に覆われ、人工の川が流れ、災害時の貯水タンクも公園の敷地全体の地下に設置されてて、ゴミはダスターシュートに落とすと、空気輸送で遠く離れた焼却場まで自動で運ばれる。ところが居住民の高齢化とともに、大坂市のメンテナンスも滞り、先ずゴミの空気輸送が施設の老朽化で廃止になり、今では吸い込みポンプのついたゴミ回収車がマンション1軒1軒を周って個別に吸引回収してる。美しかった公園は雑草ボウボウとなり、加えて樹木のメンテをやってなかったことが影響して、2018年に大坂を襲った台風18号で桜の2/3が倒れてしまいました。人工の川もメンテ費用がかかると埋め立てられ、まったく当初の見る影もない。ネットでは「都会の限界集落」と取り上げられる有様。毎度の役人による長いスパンで見る姿勢の欠如がそのまま現れてしまったエリアになってしまったのですね。そんな地区ですから、とりわけ急激に増加した高齢者(私もですが)の交通マナーのひどさは群を抜いてるのですね。数多くの歩行者が杖代わりの買い物キャリーを曳いてたり、電動車イスに乗って移動してるのですが、歩道を歩くのも人の流れをまったく無視して、自分が歩きたい側を歩く。それで対向する人たちが避けなきゃならなくても、そんなことは預かり知らぬ。横断歩道もなんのその、自分が渡りたいと思ったら、そこが自分専用の横断歩道です。それでよく目にするのが、横断歩道がスグ横にあるのに、高齢者が路駐してるトラックの直前を平気で横断してることです。高いトラックの運転席からでは直前を歩行してる、それも腰が曲がって背の低くなった高齢者なんて見えないのに。路駐車がなくても有っても、左右確認なんてしてるとこ見たこと無い。もう見ていて「ゾッ」としますね。車は止まるものだと思い込んでる。運転者からしたら、これほど危険で迷惑なことはありません。これは私が住んでる地区だけでなく、日本全国どこでも起こってることですね。そしたら医学博士 平松類の著作「老人の取扱説明書」にこんなこと書いてました。信号が赤に変わったのに、ゆっくり渡ってる高齢者のこと。みなさんも見かけたことあるでしょう。私は信号が変わりそうだったら、例え今、青でも渡るの控えて、信号が赤になって再び青になるまで待ちます。脚に人工関節入れてるので、健常者より歩くのが遅いからです。横断歩道が10m だと10秒程度+αで青点灯か点滅になるので、待ってもそんな長い時間ぢゃない。ときには信号がとっくに赤に変わってても、平気で横断しようとする高齢者もいる。アメリカでは信号が青のあいだに横断歩道に入って、信号が点滅中に歩いて渡りきれるよう時間設定されてます。イギリスでは方式にもよりますが、横断歩道の歩行者がいなくなったことを感知して信号が変わるので安全です。日本の信号は青が点滅したら走って渡るか戻るようになってるので、高齢者にはたいへん不便です。その上、日本の信号を渡るのはおよそ1秒で1m 歩くと云う前提で作られてます。しかし85歳を超えると男性は0.7m 、女性は0.6m しか歩けないのです。理由としては、歩幅が小さくなることがひとつです。歩幅を大きくすると速く歩けますが、体重の上下動が大きくなり不安定で転倒しやすくなるんですね。それなのに「遅っせえなぁ!」「さっさと歩け!」と云われるのは可哀想な気しませんか?高齢者としてはできるかぎり、信号が青でも途中で渡り始めず、いったん赤になって再び青になるまで待って、青に変わったばかりのときから渡り始めることで、赤に変わる前に渡り切る可能性を高めることができますと述べてます。つまり私の渡り方が正しかったってこと。シルバーカー(例の買い物兼用キャリー)を使うと、普通に歩いたり杖をついて歩くより歩行スピードが18%早くなるらしい。歩いてるときに重心が安定するのと、車輪なのでエネルギーロスが少ないからです。さて次はもっとも悩ましい問題です。信号を渡るとき、高齢者がどこを見ているかご存知ですか。高齢者は信号をあまり見てません。転ばないようにと足元を見ているのです。その上、腰も曲がってるので信号を見上げるのは一苦労なんです。さらに瞼(まぶた)まで下がってます。見える範囲(視野)の上の方が見えにくくなってるので、信号も見なくなります。瞼が下がって上が30度くらいしか見えないと信号機は7m 離れないと見えず、20度になってくると10.5m 離れないと見れません。なのでちいさな交差点では信号との距離が近くなり、黄や赤信号を見逃すのですね。もし家族が食器など普段よく使うものを上に置かなくなったら、瞼が下がってるか疑ってみてください。実際に高齢者の瞼を持ち上げてみましょう。瞼が下がってれば「あっ!見やすい」と云うハズです。瞼が下がってきて、上が見にくく信号を見逃してしまうと云うのは歩行者だけの問題ではありません。そう高齢者の運転でもです。瞼のさがりをケアしておかないと、赤信号を無視して突っ込んでしまうかも知れません。瞼が下がる眼瞼下垂と云う病気は眼科で手術することによって治療できます。実はきのう散歩しててゾッとする経験しました。横断歩道の信号が青になったの確かめてから渡り始めたら、対面からチャリに乗ったオバアチャン。そこに大型トラックが右折しようと迫ってきたのです。そしたら件のチャリ・バアチャン、トラックの正面直近で転倒してしまったのです。私はあわててトラックの運転手に合図して、バアチャンのとこに駆けつけ助けたのですが、私の歩行が遅いのでバアチャンが見えてなかったらトラックは先に通り過ぎてたかも知れません。なにしろ運転席は私が歩行してた側でしたからね。聞いたら、信号が変わってしばらくたってたので、あわててチャリをこぎ始めたら転倒したとのこと。これですよ、高齢者になるほどムリや慌てることは禁物って。と~ぜんのごとく、このバアチャンはヘルメットも被ってませんでした。
Apr 22, 2026
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今回、新しく買ったPCに古いPCから設定を始め、アプリやファイルを移行するのに「データ移行ソフト」を購入して使いました。既に述べた通り使ったデータ移行ソフトは「ファイナルパソコン引越し」と云うWindows 11対応版です。この手のソフトを使うメリットは、先ず手作業でソフトのダウンロードやインストールにかかっていた時間が不要になることと、ひとつひとつのデータを個別に移行させるために必要だった手間が激減できることです。特に設定の移行ができることは、大きいアドバンテージです。さらに「ファイナルパソコン引越し」は移行元と移行先のドライブ名の違いやデータの格納場所などを自動的に判別して移行してくれると同時に、自分で移行不要なアプリを選択できることですね。ただしこうしたデータ移行ソフトを使っても移行できないアプリがあります。アプリケーションによっては、引越し後にうまく作動しない場合があるのです。こうしたアプリは引っ越しリストから外し、引越し作業後にインストールし直す必要があります。だったらデータ移行ソフトの価値ないぢゃん!と思われるかも知れませんが、こうした移行できないアプリの多くはPCのハードウェアに依存してるので仕方ないんです。その筆頭がNorton やマカフィー、ウィルスバスターなどウィルス駆除系セキュリティソフトです。そもそも、こうしたセキュリティソフトが新旧PCで稼働してるだけで、引っ越し作業そのものができません。セキュリティソフトが引っ越しソフトのアプローチを危険な侵入と思い込んで排除するからです。どのみちセキュリティソフトは、システムに依存する情報が多いため、新しいPCでインストールしなおす必要があるんですね。それとGoogle 変換(日本語入力)とかATOKとか日本語変換ソフトは、システムに依存するため移行しても正しく動作しません。会社で使用してる会計ソフトなども、クラウド(インターネット経由で必要な時に必要な分だけサーバーや機能を利用する仕組み)を使ってるので、外部に相手方のある場合は作動しません。また「Windows ストア」から仕入れたアプリを使ってる方も多いと思いますが、特殊な方法でインストールされているため、移行してもアプリケーションとして判定できません。他にもあるのですが、著作権保護機能を扱うアプリとか、外部との連携で成り立つアプリ、機種依存するアプリは全て別にインストールし直す必要があるのです。よく「データ移行ソフト」を使ったのに引っ越しできないアプリがあると云う声があるのは、こうした考えたらアタリマエのことを理解してない方が多いのですね。それと「データ移行ソフト」そのものが弾かれてうまく動作しないと云う方は、セキュリティソフトを立ち上がったまま移行しようとするからです。セキュリティソフトと云うのは何もNorton やマカフィーだけでは有りません。Windows に標準装備されてる「Windows Defender」も新旧PC両方とも動作をストップする必要があります。そうすると移行終了までPCは外部に対して極めて脆弱になりますね。データ移行ソフトのデータをLAN経由で移行するのはとても危険です。どっちのPCもLANケーブルを取り外して、USBケーブルか私が行ったLANクロスケーブルで新旧PCを直接繋ぐのがのぞましいです。LANケーブルを取り外しても、WiFiでPCが繋がってることがあるのでここも注意ですね。もちろん引越しが完了したら、セキュリティソフトとファイアウォール設定を元に戻しておかないといけません。OneDriveやGoogleDrive などPCがクラウドストレージに同期するように設定されていると、古いPCから転送されたファイルもクラウドストレージに送信され、ファイルが重複したり、クラウドストレージの使用量が増えることになります。この現象を避けるためにクラウドストレージの同期を無効にしてから引越ししなくてはなりません。同様にDropbox も停止した方がいいけれど、私はDropbox は百害あって一利無しなのでインストールそのものをしてません。なにしろ無料で使えるのは2GBしかなく、満杯になると有料プランにせよと頻繁にメッセージが来てうるさい。それだったらGoogleDrive の15GB無料ストレージスペース提供の方がマシです。こう書くとなんかややっこしくって面倒だと感じられるでしょうが、実際にやってみるとそんな手間かかるものではありません。要するにポイントを掴んで、順番に対処すれば数分で済むことです。それで私の移行は当初2時間かかると見積もられてましたが、実際には3時間以上かかってしまいました。なにしろLAN経由ですからねぇ。USB3.0で移行すればもっと早く済むでしょう。移行成功率は80%くらいかな?やっぱ認証が必要なアプリほど移行できなかったです。だけどメール設定や各ウエブサイトのログイン情報、お気に入りがそのまま移行できたのは大きいです。移行が完了したら、新旧PCを繋いでるLANケーブルを取り外して、セキュリティソフトをもとに戻します。そして両PCのネット環境を復旧したら作業終わり。後は移行したアプリが正しく起動するかひとつひとつ確認するだけです。表面上は移行できたと思っても、起動しないアプリもあって、それは一旦削除して新規インストールするワケです。おっと云い忘れてました!移行前に旧PCのCドライブは一時ファイルやシステムゴミ、ダウンロードした不要なファイルなどを削除してクリーンアップしておかないとゴミまで一緒に移行してしまいます。「設定」の「ディスククリーンアップ」できれいにしてから移行を始めてくださいね。なかなか2台のPCでシステムを移行するなんて経験される方は少ないでしょう。たいてい新しいPCを導入したら、一から設定やり直して、アプリの再インストールをする。ところがデータ移行ソフトを使うとその手間が激減します。使うにあたって敷居が高いように感じられるかも知れませんが、ほとんどの作業は移行ソフトが勝手にやってくれるので、移行前のポイントさえ押さえておけばダイジョウブです。データ移行ソフトが使えるのは1回きりです。移行が終了するとソフトそのものが使用できなくなります。永久に同じPCを使い続けられるワケはないので、ご参考までにこの記事を書かせていただきました。
Apr 21, 2026
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私はひとり旅行でお土産をほとんど買ったことがありません。現地に知り合いが居れば、こちらから何か買っていくことはあっても、旅行先で買わないのは何よりお土産選んでる時間がもったいないからです。それで家族も文句云わないし。ところがヨメと行ったら、お土産買いにわざわざ海外に来たの?と思うくらいショッピングセンターや土産物店につきあわされる。去年、夫婦でバンコクに行ったときは帰国直前にタイの出発ロビーにあるデューティフリーショプに行ったまま帰ってこない。それでやっと帰ってきたと思ったら「ゴディバ」のチョコレートを山盛り!ゴディバなんて大坂でも買えるのに...いったい何しに旅行行ったのやら...そしたら、たまたま読んでた池波正太郎のエッセイ「男の作法」に私の考えと同じこと書いてました。池波は食べ歩きだったら食べ歩き、ショッピングだったらショッピングと旅行目的以外のことを全くやらないと云ってるのですね。せっかく旅行に来たのだから、観光もしいの、食べ歩きもしいの、ショッピングもしいのと云うのが日本人だけど、結局それで躰も疲れるし、どこかでムリするから本来の目的が充分にはたせず、あぶはちとらずになると。それで池波は土産と云うものを旅行に行って買ってきたことがない。ひとつの目的に集中すると云うよりも、これはやっぱり僕が怠け者だと云うことでもあるんですね。(図星つかれてしまった/笑)私なりに云い訳すると、お土産でスーツケースがパンパンになるのもうっとおしい。池波に云わせると、余分なことすると、それだけで忙しく動かなきゃならない。まして海外の場合、疲れちゃって病気にでもなったらタイヘンだしね。それで目的以外のことは全部省いちゃうだよな。確かにそうです。私がひとり旅するとき、ヨメに家族分のお土産所望されたら、それのチョイスでまる1日以上かかった。具体的にどこそこの何を何個買ってこいだったらいいのですが、ただ「お土産」ではこっちが困ってしまう。さらに池波は続けます。たとえば新婚旅行に行くでしょう。新婚と云うのが目的で...これ、やっぱり大切だと思うんだよね。だからこそ、そこに目的を絞っていけばいい。お土産なんてのは、新婚旅行ではそりゃ大変。お祝いもらったからお土産買ってこなきゃならない。そう云うこと考えたら、大きな木の細工物なんかを買った日には大変ですよ。例えば、真珠のペンダントなんかだったら小さい粒だし、そこに1軒だけ行って全部そこで1回で済ませてしまう。新婚を楽しむのが目的で、お土産は二の次でいいんだから。ごく簡単な荷物にならない、それで喜ばれるようなものを全部一ヶ所でいっぺんに済ませる。大切な旅行で時間は限られてて、いくつもいくつもできないんだから。だから目的に沿ったことだけしかやらない方がいいんだと思うんだ。だとすると、私のヨメがショッピングに明け暮れたのも、それはそれで目的貫徹と云うことか...それだったら、私を巻き込まないでくれ~!(笑)ヨメなんて買ったものが多すぎて、自分のスーツケースに収まりきらず、私のスーツケースにまでいっぱい入れてたものなぁ。
Apr 20, 2026
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ようやくDell のタワーPC1250が届きました。なんとアメリカのDell 本社からの直送だったので時間がかかってたのです。日本に着いて通関と配送もアメリカの運送会社DHLでした。相前後して、Amazon に発注してたグラフィックカードや設定・アプリの旧PCからの移行ソフトなども届いてます。グラフィックカードは、PCでCPUに負担をかけず映像処理を専門に行うパーツなんですが、最初は旧PCに追加で乗せてたものを流用する予定でした。こっちのグラフィックカードは大きな冷却用ファンがついてて、PC内部から別電源を用意する必要があったのですが、Amazon を検索するとファンが無くてヒートシンク(冷却用のフィン=ひれ)だけで冷却するタイプが見つかりました。こっちの方がダンゼン省エネ。だいたい市販のPCは電源容量に余裕無いの多いので、この際と思って買い替えることにしたのですね。新しいグラフィックカードも安心の「MSI」製Geforce です。他社のグラフィックカードでも使ってるICチップはすべてMSI製なんですな。旧PCからの移行ソフトは当初ソースネクストの「おまかせ引っ越し」を予定してたのですが、AI DATAの「ファイナルパソコン引っ越し」の方がWindows 11対応と詠ってたので急遽こっちにしました。実は「おまかせ引っ越し」は古いソフトなので一応Windows 11も対応としてますが、保証はWindows 10までの対応でしたから。ところが「ファイナルパソコン引っ越し」届いてみたら、PCとPC間をつなぐ特別なクロスケーブルとともに、アプリの入ったCDだけが同胞されてるぢゃないですか。今どきCD読み込めるPCなんて少ないでしょう。たまたま私は外付けのDVDドライブを持ってたからいいようなものの、こりゃあ不親切ですな。イヤだったらダウンロード版をどうぞと云うことでしょうか。移行ソフトを使うときは、それより前にウイルス監視ソフト「ウイルスバスター」を削除しなければなりません。どんな移行ソフトでもウイルス監視ソフトが働いてるPCは動かないからです。で、PCなんですが、先ずはグラフィックカードを装着せず、PCを買ったままの状態で立ち上げます。こうしないと起動の時何か不具合が出ても、PCそのものの問題なのか、グラフィックカードが悪さしてるのか分かりませんからね。そもそもグラフィックカードは装着しただけではダメで、装着と同時にMSIのサイトアクセスして、グラフィックカードを動作させるドラバーと云うソフトをダウンロードしないといけないので、どっちにしてもイチバン最初はPCオリジナルで起動するしかありません。で、新しいPCに最低限のキーボードやマウス、LANレーブル、ディスプレイケーブルを装着して、いよいよ火入れ式です。ちなみに使ってるディスプレイはDVI(PCと液晶ディスプレイを接続するデジタル転送の標準規格)のコネクターなんですが、PC側には液晶ディスプレイを接続する映像出力インターフェース規格HDMI(映像と音声を同時にデジタルで伝送できる4K対応の規格)端子しかありません。それで新しくDVI→HDTV変換コードも購入して、これでディスプレイも接続できました。この辺のところは、デスクトップは拡張機能が豊富な代わり、ノートみたいにPCだけで完結しない弱みですね。ところがです。ところがPCの電源スイッチを押すと確かに作動してるのに、ディスプレイが真っ暗なまま。こんな症状はPCそのものの初期不良か接続してる機器の不良かどっちかです。PCの初期不良でなかったら、ディスプレイが壊れたか接続ケーブルの問題しか考えられない。先ず予備のディスプレイ2台に接続し直しても症状改善されず。それで接続ケーブルを一旦外して、持ってた同じ仕様の古い接続ケーブルに接続したらみごとに映像が映る。と、云うことは新しい接続ケーブルの初期不良しか考えられません。そもそも既に接続ケーブル持ってたら、何も新しく買わなくてもいいのにね(笑)新しく買った接続ケーブルは中華製だったので、サスガに中国品質です。と思ってたら途中からディスプレイに「Out Of Range」と云う表示が出て画面真っ黒!これはPCから出力する映像とディスプレイの設定があってない証拠。ケーブルの初期不良ではなかったのです。通常はWindows 11の中で設定を変えるのだけど、まだインストール途中だからWindows 11は使えない。こりゃ困った...万事休して、最後の手段。まだドライバーのダウンロードできてないグラフィックカードをPCに刺して、ここから映像出力。できましたがな!どうやらマイクロソフト標準のドライバーで動くらしい。それでいよいよPCが立ち上がってWindows のインストールです。イチバン最初に表示言語選択画面が出るのですが、PCがアメリカ直輸入のためか「英語」「フランス語」「スペイン語」「ポルトガル語」の4つしか表示されない。「日本語」の選択画面が無いのです。これだったらマイクロソフトからWindows 11をダウンロードしてそれを使えばよかった。しかしダウンロードファイルをUSBなんかに保存して使おうとすると、PCの電源投入直後に最初に起動する、マザーボード上のチップに記録された制御プログラム「BIOS」を立ち上げての作業が必要です。そんな難しいことでは無いけれどうっとおしい。と云うことでPCに保存してるWindows を英語のまま、インストール作業することに。ところがうっかりフランス語を選択してインストール画面にしてしまった。やれやれ、スマホで翻訳しながらのインストールです。インストールが済んだら、後から表示はどの国の言語にでも変えられます。インストールが成功したら、先ず「設定」画面から搭載されてるプロセッサーの型番とメモリ量が発注した通りか確認しなければなりません。発注どおりにインテルのUltra 7 CPUと32GBメモリ、1TBのドライブが実装されてました。それから「Dropbox 」など使わないアプリの削除やWindows のアップデートを済ませて、旧PCからのアプリ移行をします。データファイルは全て旧PCの別ディスクに保存してるので、ここではデータ移行はおこなわず、これまた別ディスクの増設を予定してますが、Dell PCは増設ディスク専用のブランケットを別途購入しなければならないらしい。と、云うことでこれもDell 本社に発注済みですが、届くのが来月1日予定なので、当面は外付け式のシリコンディスクにデータをコピーして使う予定です。まぁしかし久しぶりにWindows のインストールなんてやらかしましたが、とにかく時間がかかる。もう昔の記憶なんて消滅してるし、ネット検索でインストール手順を確認しながらの作業です。
Apr 19, 2026
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北海道にお住まいになってるブログのお友だち"danmama "さんが、過日、日光東照宮を観光された記事を投稿されてました。danmama日記 日光・東照宮日光東照宮と云えば、1日中見ていても飽きないことから「日暮の門」とも呼ばれる「陽明門」や「見ざる・言わざる・聞かざる」の教えを表した「神厩舎 三猿」など見どころが多いですね。そして坂下門の奥宮に通ずる入口上の蟇股(かえるまた)でうたた寝する左甚五郎の作と伝わる猫の彫刻「眠り猫」も。この眠り猫、東照宮では「牡丹の花咲く下に日の光を浴びて子猫がうたた寝しているところで日光を現わす絶妙の奥義を極めている」と説明されていて、このにゃんこが日光と云う地名との関わりを示す物であることが分かります。東照宮以外の神社にあるにゃんこの彫刻の多くは目を開いています。例えば、仙台の大崎八幡宮にある「睨み猫」は「牡丹の花に羽を休めている蝶を狙う猫」と云う構図なんですね。にゃんこは、雀のようなちっちゃい生き物を捕獲して食べてしまう。ところが「眠り猫」裏側には2羽の「竹林に遊ぶ雀」が彫られ、喰う者と喰われる者が一対になって装飾されているのです。そこには猫が雀を追いかけることなく眠っているほどの平和な世であってほしいと云う願いが込められてるのだとか。ところが「眠り猫」はぐっすり寝入ってるのではなく、実は徳川家康をお守りするために薄目を開けてるのですね。敵が攻め入って来たときは、いつでも飛びかかれるような前傾姿勢を取っているのだと云います。実は大坂・四天王寺の「猫之門」にも左甚五郎の猫彫刻があります。「猫」は元和の再建時に作成されたもので、猫の隣にある牡丹は「牡丹花下睡猫児(ぼたんかかすいびょうじ)」と云う禅問答から着想を得ています。この四天王寺の眠り猫は東照宮の眠り猫と対を成すそうで、夫婦と呼ばれています。えらい遠距離の夫婦ですなぁ。なので大晦日と元旦には、このふたりのにゃんこがニャオと鳴き合うそうです。四天王寺のにゃんこは、夜ごとミナミの道頓堀界隈に出かけホストクラブで遊びまわっていたため、お寺はにゃんこが抜けださないよう門に網をかけてしまったそうです(笑)。「招き猫」ってのはもともと猫が農作物や蚕を食べるネズミを駆除ので、昔は養蚕の縁起物でした。それが養蚕が衰退してからは商売繁盛の縁起物に変化したのですね。招き猫発祥の地いろいろ説があって東京の世田谷区にあって家康の家臣 井伊家の菩提寺でもある豪徳寺と云う説。同じ東京の台東区浅草エリアにある今戸焼きの「丸〆猫」を発祥とする説。京都の左京区法林寺門前町にある浄土宗の寺院「檀王法林寺」も招き猫の古い発祥伝承を持つ場所として有名です。豪徳寺の招き猫は小判を持たず、右手を上げているのが特徴で、報恩感謝の気持ちがあれば自然と福が訪れるという教えに基づいています。その豪徳寺がまだ弘徳院と云う小さな庵であったころ、鷹狩に出かけていた井伊直孝が庵の前を通りかかると1匹の猫が井伊直孝を寺に招くように前足を上げていたのですね。不思議に思い近寄ってみると、急に辺りの雲行きが怪しくなり、間一髪で雷雨の難を逃れることができたと云います。雨宿りをしながら和尚の説法を聞き、すっかり心奪われた井伊直孝はその小さな庵を菩提寺に定め、のちに伽藍の整備に努めました。井伊直孝の死後、庵は井伊直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」から「豪徳寺」へと寺号を改め、今日まで猫とゆかりの深い寺として人々に親しまれているのです。ゆるキャラブームの火付け役になった滋賀県彦根市のキャラクター「ひこにゃん」も井伊直孝に由来してます。井伊直孝は近江国彦根藩3代藩主でしたが、この近江国が現在の滋賀県全域ですね。そして井伊軍と云えばシンボル「赤備えの兜」。井伊直孝の豪徳寺の招き猫伝説と赤備えの兜を合体させてできたのが「ひこにゃん」と云うワケです。
Apr 18, 2026
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びろうな話で恐縮ですが、今日はおなら(屁)の話題で(笑)歌川国芳の弟子だった浮世絵師で日本画家でもあった"河鍋暁斎(きょうさい)"と云う人物がいます。幕末から明治にかけて活躍した絵師です。非常にユニークな絵を描く画家で、「花鳥図」のような正統日本画を描くかと思ったら、「動物の曲芸」なんて擬人化した絵も描いてます。この河鍋暁斎が1867年(慶応3年)に発表した作品に「福山画師 六十九翁 相覧」と云うのがあります。この作品の中に「屁合戦絵巻」と云うのがあって、これはもともと平安時代の天台宗僧侶"覚猷(鳥羽僧正)"がユーモアと風刺を織り交ぜた戯画として伝えたものを写本したものです。この屁合戦絵巻がとにかくぶっ飛んでるのですね。まぁ、ご覧じろ。江戸庶民の間では、おならは自然現象、笑えるものでした。まぁ、今の時代でも親しい間柄では笑ってすませられるけど、公共の場でするとかなり気恥ずかしい。嘘をつくことを「うそをこく」と云うように、放屁することも「屁をこく」とも云いますね。「こく」は体の外に出すと云う意味合いですね。江戸時代後期に発行されたかわら版「スカ屁」ってのがあります。文章を読むと「越中(富山)の"かき山"の"いまき谷"にある"尻が洞"の割れ目から、スカ屁という老婆が出現し、こやし取りに次のように告げた」。「4~5年以内に、今は名もない"おなら病"が流行する。それは芋屁(芋を食べた後に出る屁)を止める薬も効かず"手に汗握り屁"になるだろう」。ことさら左様に、江戸時代と云うのは屁の話題に尽きないのですね。男性だけでなく、女性も「屁をこく」ことになんら恥じらいがなかった。ところが、これは庶民の話で、大奥の女性たちを始め、大名や旗本などの奥方や姫君、朝廷に仕える公家の姫君や典侍にとって「屁」したのを知られるのは死活問題でした。こうした女性たちは和歌や書道、茶道、香道などの教養を身につけることが求められたし、立ち居振る舞いにも高貴さが求められる中で、屁をこくなんて有り得ない話だったのです。庶民でも「大店(おおだな)」の奥さんや娘さんも同様だった時代らしい。そんな高貴な女性が、ついウッカリ人前で屁こいたら「放屁娘」と冷やかされ、もう二度と人前に出られないほどの醜態です。おならは「一生の恥」、なかには自殺した女性までいたとか。そんな女性の危機を救う職業がありました。「屁負比丘尼(へおいびくに)」。普段は高貴な女性の付き人として身の回りのことをこなしながら傍を離れず、女性がまんいち屁をこくと云うミスを犯したときには、すかさず恥ずかしそうに「私がしました」と身代わりになってその場を収め、ご主人を守る役割の女性です。役目をするのは"尼(あま)姿"の女性が適任とされましたが、あまりに高齢だと耳が遠くなって屁こいたことに気づかない。それで音を聞き逃さない中年の演技力がある人が選ばれたようです。屁負比丘尼はあんうんの呼吸で、屁以外でも身分の高い女性が起こした粗相やはしたない行いなどをすべて引き受けていたようです。当時、身分の高い女性にはたくさんの付き人が付き添ってましたが、そのほとんどが花嫁修業としてお勤めしていたそれなりの家柄の娘さんです。なので屁負比丘尼はそれらのお付きの人とは別枠採用だったようです。尼さんだったら「もうお嫁に行くことないから恥かいても大丈夫だろう」と云うことで採用されたのですね。ちなみに「おならをする」を英語で云うと「fart(ファート)」。日常会話で非常によく使われるカジュアルかつ卑俗な表現です。これが大きな屁となると「a loud fart」、子ども向けの可愛い表現は「Toot」ですが、非常に直接的で品のない表現なので、親しい友人や家族間でのみ使うのが無難です。「fart」はスラングで「嫌なやつ」とか「ろくでなし」ってイミもあります。
Apr 17, 2026
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先日、ヨメの具合が悪くなり通ってる病院に連れて行ったのですが、その病院の敷地には駐車場がなく外の駐車場もかなり離れてる。しかし、このときはヨメの具合はいちじるしく芳しく無くヨメだけ降ろして病院の玄関で待たせておくのもキツイ状態だったので仕方なくタクシーを呼ぶことに。初めて「タクシーGO」を使いましたが、5分くらいで住んでるマンションの玄関口まで来てくれました。病院で診てもらって、幸いヨメの症状も改善しましたが、帰りもタクシー利用で往復1万9千円は痛かった。タクシーも昔のなんちゃってクラウンは珍しい部類になって、最近はトヨタの「JPN TAXI(ジャパンタクシー)」とか一般車のプリウスとかが多くなりましたね。タクシー車と云えば、今だにフェンダーミラーつけてるの多いけど、アレはドアミラーのようにドライバーの真横ではなく、前方にあるため視界に入りやすく死角も少ないためだからだしい。屋根の上に設置されている「社名表示灯」もタクシーの特徴ですね。俗に「行灯(あんどん)」と呼ばれるこの表示灯は、周囲の人にタクシーであることを示す役割とともに、都市部のタクシーは空車の場合は点灯し、乗客が乗っている場合は消灯すると云うことで空きタクシーかどうか判別できるようになってますね。よく知られてるようにこの行灯は昭和20年代、タクシー強盗が横行したころ乗務員を強盗から守るため、赤く点滅する「防犯灯」が取り付けられたのが始まりなんですな。当初は単に電球をカバーで覆っただけのものだったらしいけど、1954年、行灯で全国的なシェアを持つ武内工業所の社長 武内金弥がこれに社名を入れてはどうかと、社名入り防犯灯を考案したのが現在の社名表示灯につながってるのです。現在でも非常事態が起きたとき、行灯を点滅させることがSOSのサインになってます。何もないのに、間違えて行灯を点滅させてしまうことを業界では「赤恥」と云うらしい。最近は観光客が多い地方都市で、金沢市は「寿司」行灯、長崎市は「カステラ」行灯、香川県琴平町は「うどんの丼」行灯など名物を表示した社名表示灯を取り付けて、訪日外国人を含む旅行者を取り込もうするタクシー会社が増えてきたらしい。しかし、こんな行灯つけたタクシー乗るの恥ずかしいなぁ(笑)
Apr 16, 2026
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九州エリアで福岡は何度か訪れましたが、長崎まで足を伸ばしたのはたった一度きりです。なにしろ大坂から福岡までだったら新幹線で約2時間半で着きますが、長崎までだったら博多で西九州新幹線に乗り換えて約4時間半~5時間もかかります。飛行機で長崎空港まで行くのだって、大阪市内から伊丹空港や関空までの移動時間を考えると同じくらい時間がかかる。それに加えて、長崎空港から長崎駅までだって約1時間はかかるから、大坂からするとかなり遠い。関空から台湾までの飛行時間は約3時間ですから、台湾行くより遠いことになる。私が長崎に行ったのは仕事してたとき、契約してる会社の招待旅行で、泊まった旅館では丸山芸者を大勢呼んでドンチャン騒ぎ。定番の長崎チャンポンも料亭風のお店で提供され、とても美味しかったの覚えてます。ところがヨメが東京から修学旅行で長崎に行ったときの長崎チャンポンは冷えててとても不味かったらしい。やはり食べるとこ選びますね。修学旅行だったら、到着前に作り置きするから仕方ないか。長崎市から1時間くらいの佐世保まで足のばすと有名な佐世保バーガーがあるし、薄切り肉をレモンソースで食べるレモンステーキもこれまた有名。また大坂にも食べさせるとこが多い、長崎名物トルコライスもありますね。いっときトルコライスにはまったことありますが、あれのボリュームはハンパない。今では完食絶対ムリです。とは云え長崎チャンポンもトルコライスも庶民の食べ物。町場の食道で普通に食べれますな。しかし「卓袱料理(しっぽく料理)」はそうはいきません。市内の歴史ある料亭料理ですから。卓袱の「卓」はテーブル、「袱」はテーブルクロスを意味してます。この料理だけは料亭と云っても、丸テーブルでいただくのがルール。この料理、ルーツは江戸初期に遡ります。鎖国をしていた日本で外国に門戸を開いてた数少ない長崎。交易していたのは中国(清)とオランダの東インド会社でした。長崎出島の人々は中国人(唐人)が、客人を招いて大きな丸いテーブルに料理を並べ和気あいあいと食事を楽しんでる姿を見たのですね。それで円卓に大皿に盛られた和食、中華、洋食と取り混ぜてコース料理にしてしまったのが卓袱料理。大皿に盛られた料理を各自が自由に取り分け食べるのが卓袱料理の基本形なんですね。ちなみに「ポン酢」はこの時代長崎の出島から広まったオランダ由来の調味料です。柑橘果汁を指すオランダ語「ポンス(pons)」に、保存性を高めるため「酢」を加え「ポン酢」になりました。卓袱料理は長崎だけでなく、文化・文政(1804年~1829年)前後には江戸で一大ブームになります。ひとりにひとつの箱膳が出されるのが当時の食文化。それがひとつのテーブルを囲んで大皿で食べるという中国式のスタイルは物珍しかったからです。しかし四足動物の肉を食べない当時のこと、サスガに豚の角煮なんてのは出なかったらしい。このブームは江戸だけでなく大坂や京都にも伝搬していったようですが、次第に廃れていったのですね。卓袱料理とともに長崎に伝わった什器があります。「散蓮華(レンゲ)」と「呑水」です。卓袱料理を食べるとき、陶器製のさじ「湯匙(たんし)」が入ってきて、片やレンゲとなり、同じ起源のものが「呑水」になりました。「呑水」ってのは、鍋料理を食べるときに料理を入れたり、天つゆ入れに使うあの食器です。小鉢の片側が取っ手のように少し伸びた独特の形してますね。レンゲは蓮の花が散って1枚の花弁に似ているため「散蓮華」と呼ばれるようになり、呑水は「たんし」がなまって「たんすい」と呼ばれるようになりました。ちなみに取っ手の無い丸い器は「玉割」と云います。長崎の花街 丸山に文政元年(1818年)丸山遊郭の老舗だった引田屋の庭園一部を開いて茶屋を開いた料亭が現在も残る「花屋」です。幕末、明治に活躍した偉人や文人墨客が訪れており、花屋の「竜の間」には坂本龍馬が付けたという刀傷が残ってます。この花屋で卓袱料理が味わえるんですね。お値段いかばかりか?卓袱料理は吸い物から始まって、刺身の盛り合わせなど小菜(冷たい料理)、天麩羅やポルトガルから伝わったパイ料理「パスティラ」など中鉢(温かい料理)、野菜の煮物などの大鉢から水菓子や梅椀と呼ばれる紅白の丸餅入りのお汁粉なんて盛りだくさんのお料理を大勢で囲むって楽しいでしょうね。
Apr 15, 2026
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きな臭い話ではありません。2011年3月11日14時46分に発生した国内観測史上最大規模のマグニチュード9.0の大地震「東日本大震災」発生時の話です。この震災で津波に加え、福島第一原発事故が発生して多大な被害が出て、今も被災地では復興が進められているのはご承知の通り。あの震災のとき、各国から救援と援助を受けましたが、米軍による「トモダチ作戦(Operation Tomodachi)」について日本の報道では詳しく報じられてません。しかしYouTube には米軍が記録したトモダチ作戦の様子が詳しく述べられてます。トモダチ作戦実行の背景は当時の駐日大使キャロライン・ケネディの公式発言が参考になります。「3.11トモダチ作戦は、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ(9.11)に、日本の消防救助隊が駆けつけてくれた事に起因する」と。震災当日中にアメリカ政府は日本に支援を申し入れました。日本政府は駐日大使キャロラインに在日米軍による支援を正式に要請。これにより人員約2万4,500人、艦船24隻、航空機189機が投じられた米国史上最大級の外国災害支援が始まったのです。YouTube ではトモダチ作戦に参加した多くの兵士が当時を振り返ってます。当時空軍の女性中佐カタリヤ・カールソン「わたしたち第36空輸中退は"コープ・タイガー"の演習に参加するためタイに遠征していた。ホテルに戻りスマホをWiFiにつなげると着信音がなり続けメールが山のように入ってた。TVをつけると津波と地震による壊滅的な被害の映像が目に飛び込んできた。タイで物資投下演習の途中、すぐに空港に引き返す命令が下り、撤収準備に入った。1時間以内にホテルに戻り、自身の荷物をまとめ、日本に戻り、そしてトモダチ作戦が始動した」。UH-1Nヘリコプターで救援要員を輸送していた第459空輸飛行隊のマシュー・シムズ少佐「原発が壊滅的な損傷を受け、周囲の住人への影響を心配した。我々は原発と近隣の町の放射能測定を始めた。建物は崩れ落ち、構造物がそこら中に散らばってた。近くでは、消防車が原子炉を冷却するため懸命に放水作業を続けてた。基地に帰還すると、環境部が待ち構えていて、我々の放射能測定検査をしてくれた。その時はまだ、現実を受け入れられずにいた。我々は、とてつもない大きな事象に立ち向かい、貢献していることに気持ちが高ぶっていた」。第17特殊作戦飛行隊のマーク・マラキー大佐「我々はアラートの隊員を呼び出し、早朝3時ごろ特殊作戦群の2分隊と2台の高機動多用途車両を飛行機に乗せ、航空自衛隊松島基地(宮城県)に飛んだ。そこで一行は先遺隊と合流した。特殊作戦の1分隊は松島基地に残り、先遺隊と共に無線通信設備の設置を行い、松島基地の滑走路の復旧作業に従事した。もう一部隊は松島基地から32km 離れてる仙台国際空港まで高機動多用途車両で移動した。滑走路の半分ないし1/3は完全に海水や泥、融けた雪に覆われてた。空港の駐車場まで押し流されてる航空機や、滑走路に乗用車が散乱していた。あらゆるモノが津波で押しやられ、泥で覆われてた。午前10時~11時ごろまでには、無線通信システムを松島基地と仙台空港の2ヶ所に設置完了。その後、両空港滑走路の瓦礫撤去作業にとりかかった。午後3時、最初の特殊作戦機MC-130(C-130ハーキュリーズをベースにした超大型輸送機)が仙台空港に着陸した。それこそが海岸スグ近くにあり、津波が押し寄せる全貌がビデオに記録されていた空港である。それから2週間以上にわたり、空港職員や地元のボランティアと連携し、復旧作業に従事した。そして間断無く、水、ガソリン、軽油、フォークリフトなどの空輸支援も同時に行った。さらに滑走路から自動車や瓦礫を撤去するための重機も空輸した。そして日々の成果によって、着々と使用できる滑走路の範囲が広がっていった」。トモダチ作戦では、アメリカ海軍、海兵隊、空軍が連携し統合軍の形態を執って活動しました。3月25日からは在ハワイの常設司令部組織JTF-519が横田基地へ移動し、統合支援部隊(Joint Support Force)として指揮を執ってます。それとともに主要な在日米軍基地の多くが救助活動に対応してます。被災地域での航空中核拠点を担うはずであった仙台空港は津波の流入によって使用不能となったため、東京都の横田空軍基地に作戦司令部が置かれました。沖縄の嘉手納空軍基地はアメリカ空軍の拠点として、青森の三沢空軍基地は自衛隊との共同活動拠点として、神奈川県のキャンプ座間は在日米陸軍の保健物理および化学生物核放射線拠点として活動してます。4月5日までには大量破壊兵器(NBC兵器、核兵器、生物兵器、化学兵器)対策などを専門にする海兵隊即応部隊であるCBIRF(化学生物事態対処部隊)が到着。トモダチ作戦は、被災者の捜索・救援の段階から、福島第一原発事故への対応や復興支援の段階へ移行していきました。この福島原発事故の対応を巡って、当時の民主党政府は致命的なミスをおかします。当時、東京都知事をしていた亡き石原慎太郎が後に告発してます。福島原発で水素爆発があって中に立ち込めてる放射能を、風向きが陸から海に向かってタイミングがいいから建屋を吹き飛ばして放射能を海に拡散させようとする「ベント」作業をやろうとしてときのこと。トモダチ作戦に従事していた米軍は当然それをやると思って、助けにやってきていた空母ジョージワシントンを始めとする海軍部隊はUターンして沖へ退避。ところが、突然、時の首相"菅直人"が原発の状況を視察するため、陸上自衛隊のヘリコプターで官邸を出発し、午前8時29分に仙台の霞目駐屯地に到着、被災地視察を行ってしまったのです。それで菅首相がベント作業を待たせてるうちに風向きが逆になって、遅れてやったベントのために北西側の30km 圏内どころか、それ以上の人々が内部被爆してしまったのです。これについて「菅直人公式サイト」では、「東電が申し出た格納容器のベントが実行されず、東電担当者が理由を即答できないなど、現場の様子が分からなかったからです。現場を仕切る人物を見極められたのは最大の収穫でした」と述べてます。石原慎太郎は続けます「あの菅総理が防御服もつけずに、とにかく飛んでいったあの失われた数時間と云うのは、ものすごい多くの人の一生につきまとう被害を与えたワケですよ。いろんなかたちでこれから先、いろんな恐ろしい形で出てくるだろうねぇ。あの過失と云うものを、その責任をいつ誰が取るんですか?」さらに石原は続けます。「原発の爆発が起こってから、消防庁のハイパーレスキュー隊により原発に放水してほしいと依頼があった。それでハイパーレスキュー隊が放水を始めたが、4時間~5時間放水続けてると機械が焼けてきて放水を続けられない。いったん放水やめたら、グズグスせずに続けてやれ!云うこと聞かないと処分するぞと脅されて仕方なしに放水続けたら機械が壊れて消防車1台がパァ~になった」。このことを石原が抗議すると、翌日に経産相だった海江田万里が「どうも私が云ったらしいけど、よく覚えていない。誤解を招いて申し訳ございません」と謝ってきたと。YouTube に登場したアメリカ軍兵士は終わりにこう語ってます。「忘れることのできない貴重な体験だった。特に日本人の不屈の精神と、回復力の速さ、そして我々がどう支援できるかを知ることができた。決して忘れられないこの日の事象を想うと、甚大な被害に今でも胸が詰まる。日本の一部として復旧支援に当たれたことは、アメリカ人として家族のような日本人を心を平静に保ちながらも、少し心の高ぶりを感じながら、復旧支援に貢献できたことを誇りに思ってる」。「被災した人々が極限の状況下でも、食料などを求める列を冷静に何時間も並んで待ってる姿に感銘を受けた。世界が見習うべきだと思う」。「仙台空港の滑走路近くの浜辺には、たくさんの流木が打ち上げられてた。その中に、大きな流木で並べられた「ARIGATO」の文字が上空から見えた。乗員たちに感謝を伝えるメッセージだった。この先も、日本で何かが起これば、米国は全力を尽くし助けるだろう。また、逆の立場になった時、日本が我々の力になってくれることを確信します」と。
Apr 14, 2026
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ずいぶん前に、私がメインで使ってるPCの電源ユニットが壊れて、この際にと買い替えを検討することにと述べました。大型量販店と云う手もあるのですが、えてして大型量販店で扱ってるPCは型落ち製品を安い値段で展示してることが多く、候補から外しました。Amazon で探してみましたが、使ってるCPU(PCの頭脳)や搭載してるメモリの量で希望するものがなかなか見当たらず時間ばかり過ぎていく。その間、サブのノートPCで作業してましたが、29インチの大型ディスプレイ使ってた身にはノートPCのディスプレイは小さすぎる。そこでノートPCの外部ディスプレイ端子にもう一台接続してた24インチディスプレイを接続して使ってたのですが、壊れたPCに内蔵してたデータストレージと連携とれなくて困ったことに。結局、お飾りになってるヨメのデスクトップを持ってきて、29インチディスプレイを繋ぎ、壊れたPCのメインストレージ(Cドライブ)とデータストレージをこっちに入れ替えて使ってたのですね。ところがこのPC、なんとも力不足。「システム」画面からメモリ量を見ると、なんと8GBしか搭載していない!これぢゃあネット閲覧でも、ちょっと重いサイトだともたつくワケです。で、壊れたPCからメモリモジュールを取り出して、ヨメのPCと入れ替えることに。これで16GBになったので、快適とは云えないまでも、写真編集なども支障なくできるようになって一段落。とにかくPCの性能はCPUの型番と搭載メモリに左右されますからね。とは云え、これは一時的な方策で、従来行ってたダブルディスプレイ(ディスプレイ2台)ではなく、テンポラリーなのでシングルディスプレイのまま。一度ダブルディスプレイに慣れてしまうと、シングルはなんとしても不便で仕方ない。動画編集なんかしてる人の中にはダブルどころかトリプルディスプレイにしてる人もいますね。やはり早く新しいPCを入れないと。ネットのお友だちdanmama313さんから「この際、Mac も検討したら?」とお言葉頂戴してたのですが、最低価格のMac mini では力不足だし、使えるとしたらMac Studio になります。Mac のPCはユニファイドメモリ(説明略します)と云う優れたメモリ管理おこなってて魅力なんですが、Mac Studio の最低性能機種でも約33万円もする。とぼしい予算ではちょっとキツイなぁ。と、云うのも今まで使ってたソフトはみんなWindows 用だったので、Mac 用ソフトを全て買い直さなければならないからです。このソフト代を含めると、ヘタすればかなりの金額に。で、やっとこさAmazon で私の仕様に見合うWindows 商品を見つけました。メーカーは初めて使う「Dell」です。今まではHPが多かったけど、使ってるCPUとメモリの搭載量さえOKならばメーカーは選ばないですし、市場シェアではApple に次いで世界第2位の会社です。Dell の難点はアメリカ本社ですが、日本向け製品は中国で生産しており、受注から納品まで時間がかかること。まぁ、PC環境が無いワケぢゃなし、気長に待つことに。Dell のPCは初期故障率が高いので「やめとけ」と云うコメも多いのですが、それは安さにつられて低価格のInspiron シリーズなどを買うからです。上位モデルは頑丈で高性能との評価が高いです。私が購入したのはTower Desktop ECT1250と云う最新機種で、CPUは最高ランクのIntel Core Ultra 9のひとつ下、Core Ultra 7です。Core Ultra 9は長時間の動画編集や3Dモデリング、ゲームなんかに使うCPUですね。普通の用途だったら、さらに下のCore Ultra 5でも充分使えますので、このCPU(Core Ultra 7)で支障なし。もっとも重視したのはメモリの搭載量で、同じ型番でも他の出店者のは16GBが最大値なのに、私が選んだ出店者だけ32GBも積んでます。これが魅力でした。後は、実際に到着して立ち上げたとき、先ずシステムメニューを出して、ホントウに仕様通りの機種か確認しなければなりません。壊れたPCにはCPUに負荷をかけず滑らかで高精細な映像を出力するグラフィクカードをオプションで搭載してたので、これを取り出して新しいPCに乗り換えさせます。もうひとつの問題は、今まで使ってたソフトや設定の移行です。こんなこと、新しいPC買ったから一からやり直しでは時間がかかってやってられない。今は同じネット環境下でPCからPCへのデータ移行(引っ越し)できるソフトが出回ってます。イチバンお安くするなら「EaseUS Todo PCTrans Free」と云う無料アプリを使う方法ですが、転送容量やソフト数に制限があるし、デター移行に失敗すること多いです。そこで、これも転送できないソフトもあるようですが、ソースネクストの「おまかせ引越 Pro 2」を使うことにしました。これが引っ越しアプリではもっとも成功率が高いソフトのようです。注意しなければならないのは「おまかせ引越」にはいろんなバージョンがあって、安いものはデータ移行できても、ソフトの引っ越しはできません。データは別ディスクにすべて保存してて、新しいPCにそのまま装着する予定ですので、データ移行はそもそも問題ないのですね。と、まぁ、PCを買い替えるのはイロイロと面倒いこと多いのですが、こうなったら仕方ないので気長にやります。
Apr 13, 2026
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国際月探査プロジェクト「アルテミス計画」の有人宇宙船が月の裏側を周って、人類史上地球から最も遠い地点に到達して帰還しましたね。アルテミス計画は、アメリカが出資して人類を月面に着陸させることを目標にしてます。この計画はNASAとスペースX、欧州宇宙機関(ESA)、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)、カナダ宇宙庁(CSA)、アラブ首長国連邦のムハンマド・ビン・ラシード宇宙センターなど国際的パートナーによって実施されてるのですね。アルテミス計画では人類を月に送るのが最終目標ではなく、月面の北極か南極地中深くにある水を活用して人類が月面で生活できる環境をととのえ、その後に計画されてる人類を火星に送る(有人火星探査)という長期的目標に向けたステップとしてとらえられてます。NASA長官ビル・ネルソンは、日本人宇宙飛行士も月面着陸に参加させることを表明していますね。そもそもビル・ネルソン自身が、1986年にスペースシャトル・コロンビアにペイロードスペシャリストとして乗り組み、宇宙飛行を行った2人目の現職議員となった人物です。今回のアルテミス2号による月周回から57年前の1969年7月、私たちはもっとも感動的な瞬間を迎えてました。そうアポロ11号による人類初の月面着陸です。半世紀以上前ですよ~今のようにAIはおろか、電卓に毛が生えた程度のコンピュータだけを積んだ宇宙船で臨んだ月面着陸。日本時間で7月21日12時56分にあの有名なメッセージが発せられたのです。「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」。この言葉を発したのはご存知アポロ11号の船長ニール・アームストロングです。実際にはこの言葉の前にもっと喋ってるのですね。「いま着陸船の脚の上に立っている。脚は月面に1インチか2インチほど沈んでいるが、月の表面は近づいて見るとかなり...、かなり滑らかだ。ほとんど粉のように見える。月面ははっきりと見えている」「これより着陸船から足を踏み出そうと思う」それから彼は後ろを振り返り、左足を月面に踏み降ろしました。そして「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」と云ったのですね。ニールから遅れること15分、着陸船の操縦士バズ・オルドリンオルドリンも月面に降り立ち、月に立った2番目の男になりました。この歴史的快挙をテーマにした映画が2018年に公開されてます。いみじくもトランプによって承認されたアルテミス計画の発足が2017年の12月ですから、このニュースに感化されて制作された映画なのか?映画のタイトルは「ファースト・マン(First Man)」。タイトルから推し量られるように、この作品はニール・アームストロングの伝記映画です。ニールの1961年~1969年にかけてのNASAのジェミニ計画、アポロ計画が実話に基づいて描かれてます。日本語字幕の監修は、JAXAの宇宙飛行士 毛利衛が努めました。ニール・アームストロング役は「きみに読む物語」や「ラ・ラ・ランド」など多数の映画で名演技してる俳優であるとともに「デッド・マンズ・ボーンズ」と云うロックバンドを率いるライアン・ゴズリング。製作総指揮はスピルバーグです。この作品でニールは感情を表に出さず、あまりの寡黙さから周りからも何を考えているのか分からない人物として描かれてます。1983年に公開された映画「ライトスタッフ」で、ロケット機ベルX-15を駆り音速の壁に挑戦し続けた実在の人物チャック・イェーガーに、ニールは操縦の未熟さを指摘されテスト・パイロットを退任します。それでもジェミニ計画の候補として当初選ばれたものの娘の危篤状態から参加を拒否するのです。しかし脳幹腫瘍のため2歳で夭折した娘の死をきっかけに月へ行くことに執着を持つようになり宇宙飛行士への参加を決意するのです。このように、この作品はあくまでニール個人の視点で物語が進んでいく作品なんですね。映画「ファースト・マン」オフィシャルトレーラーFirst Man - Official Trailerアポロ11号のパイロットで、月面を歩いた2番目の人物バズ・オルドリン役は映画「ミッドナイト・イン・パリ」でヘミングウェイ役をやったコリー・ストール。ニールと対照的に明朗快活な宇宙飛行士を演じてます。司令船パイロットのマイケル・コリンズ役をやったのはディカプリオ主演映画「インセプション」に出演してたルーカス・ハースでした。そしてニールにテスト・パイロット引導を渡したチャック・イェーガー役はクエンティン・タランティーノ監督作品「パルプ・フィクション」でニッキー・コックス役をやったマシュー・グレイヴとなかなか渋い顔ぶれです。実際のアポロ11号メンバーは1969年に日本を訪問して、日本政府より文化勲章を贈られました。銀座で行われたオープンカーでのパレードには12万人の観衆が押し寄せたそうです。ニールは民主党、共和党両党からアプローチを受けましたが、政治的な誘いは一切断ってます。個人的には「合衆国の正義」を謳い文句にアメリカが「世界の警察官」として行動することに反対の立場でした。ニール・アームストロングは2012年、82歳の誕生日を迎えた3日後に心臓の外科手術を受けます。ところがそれから20日も経たないうちに手術後の合併症のため死去してしまうのです。遺骨は大西洋上でアメリカ海軍の軍艦から水葬されました。映画「ファースト・マン」月に降り立つシーンFirst Man (2018) - One Small Step For Man Scene
Apr 12, 2026
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世の中、カーボンニュートラルがはげしく叫ばれてて、もはや自動車レースの世界最高峰「フォーミュラ・ワン世界選手権(F1)」なんてずいぶん肩身の狭い思いしているかと思いきや、2026年シーズンのF1世界選手権は、史上最多の全24戦が予定されてました。オーストラリアで開幕し、アブダビで最終戦を迎えるカレンダー構成となっていますが、中東情勢の悪化でスケジュールが変化して、今のところ第4戦のバーレーンGPと第5戦サウジアラビアGPの開催が中止になってるので、最終的には全22戦になる見込みです。毎年 鈴鹿サーキットで開催される日本GPは、既に3月27日~29日に開催され、メルセデスのイタリア人ドライバー"アンドレア・キミ・アントネッリ"が優勝しました。F1は1950年にイギリスのシルバーストーンサーキットで初めて開催された長い歴史があります。このレースで走るF1マシンはレース専用のオープンホイールと呼ばれるタイヤが剥き出しの「フォーミュラカー」なのはご存知ですよね。F1マシンがとてつもない速さで走行できのは、ウイングなど空力デバイスによってフロア下部に負圧を発生させ、マシンを地面に押しつけながら走行しているからです。このダウンフォースによって、非常に速い速度でコーナリングすることが可能なんですね。最速のF1マシンに搭乗するドライバーには、常に危険が伴ってて、激しいストレスを感じてるでしょうね。F1の歴史において最も有名な死亡事故は1994年のサンマリノGPで3度ワールドチャンピオンを獲得したブラジルのレーシングドライバー"アイルトン・セナ"が決勝中に時速約210km でコンクリート壁に激突34歳で死亡した事故です。事故の直接原因はステアリングシャフトの折損による操縦不能や、サスペンションパーツの頭部直撃とされていますが、この事故でサーキットの安全対策が根本的に見直されるきっかけとなりました。他には1973年オランダGPでイングランド出身のロジャー・ウィリアムソンがタイヤトラブルからマシンがコースアウトしてガードレールにクラッシュ。さらにクラッシュ後に炎上して、同僚のデビッド・パーレイが救出のためにマシンを止めて駆け寄り、消火と救出を試みましたが、甲斐もなく焼死して帰らぬ人となりました。その後コースにセーフティウォールの設置が義務化された事故です。1982年のベルギーGPでは、カナダ・ケベック州出身のジル・ヴィルヌーヴが予選中に前走車に時速230km で接触してシートごとマシンから投げ出され、コース脇のフェンスに叩きつけられ宙を舞ってコース脇のフェンスに叩きつけられ死亡しました。この事故がきっかけで、頭部を保護するヘイロー(保護するフレーム)の導入が義務化されました。1975年、77年、84年のF1チャンピオンで「スーパーラット」とか「不死鳥」の異名があるオーストリアの"ニキ・ラウダ"も1976年のドイツGPで事故にあってます。左に廻る高速コーナーで突然コントロールを失い、コース右側のキャッチフェンスを突き破り、露出していた岩に衝突。この衝撃でヘルメットが脱げてしまいました。クラッシュし発火したマシンはコース中央まで跳ね返され停止、これにブレット・ランガーのサーティースTS19が衝突し、アメリカ人ドライバーのガイ・エドワーズ、後続で停止したハラルド・アートル、アルトゥーロ・メルツァリオ、ランガー、コースマーシャルの5人が捨て身の行動で消火・救出活動を行ったのです。ラウダはヘルメットが脱げてしまった影響で頭部に大火傷を負い、FRP製のボディーワークが燃えて発生した有毒ガスを吸い込んだため、肺に深刻なダメージを受けました。数日間生死の境を彷徨ったのですが、臨終儀式用意のため神父が病室に訪れた途端にラウダは驚異的なペースで回復!事故発生から6週間後の第13戦イタリアGPで奇跡のレース復帰を果たし4位入賞しました。ニキ・ラウダの事故El accidente que le cambió la vida a Niki Lauda1994年のアイルトン・セナの事故を受けてFIAのレーシングスーツ安全基準を引き上げ、1980年代F1レーシングスーツの典型を作り出しました。この安全基準で、クラッシュ時のドライバーを狭いコックピットから引きずり出すため、頑丈なエポレットが肩部に取り付けることが義務化されました。エポレット(epaulette)とはフランス語で肩をイミするエポール(epaule)に由来してる言葉で、「肩章」とも呼ばれてます。エポレットはトレンチコートの肩にもついてますね。もともとは陸海軍将校の制服の肩章のことを云いましたが、現在ではトレンチコートをはじめ、ミリタリージャケットやスーツ、ワンピースなど男女を問わず広く使われてます。軍服のエポレットは絢爛豪華ですが、単にステッチ(縫い目)の施された布をとりつけたものや、尾錠どめしたものなどさまざまな種類があります。レース技術が進歩するにつれて、安全のためのエポレットの必要性は減少し始めましたが、スポンサーシップが増加していった時期にエポレットにスポンサーロゴを打ち込むことで、写真やTVインタビューで社名をより目立つようにできるため復活していきました。こうしてレーススーツのエポレットは安全機能からファッションアクセサリーへと移行していったのですね。
Apr 11, 2026
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インドの婦人が額に赤い印をつけてること画像なんかでご覧になったことあるでしょう。アレは「ビンディ(Bindi)」と云って、誰でもつけてるワケではありません。あくまで既婚で、かつ夫が存命してるヒンドゥー教徒の女性がつけるものです。ビンディは、デリーなど主にインド北部や中部で話されるヒンディー語の語源「サンスクリット」で「点」を意味する「ビンドゥ(bindu)」なんですね。ビンディ、伝統的には硫化水銀を含む赤い顔料「スィンドゥール」で小さな赤丸を描くのですが、現代ではシールタイプが主流になってます。未婚女性はビンディーをつけてなかったり、赤以外の印をつけます。もともとは、悪霊から身を守って吉兆を祈ると云う習慣から始まりました。また、ヒンドゥー教の複数の宗派を表す印でもあり、当初は宗派ごとに模様が異なってました。神聖な灰や石灰をウコンに混ぜて足や手にも模様を描いてましたが、後に簡略化され、額のみに点で施されるようになったのです。ちなみにインドの女性が手や足に施している入れ墨のようなものは「メヘンディ(Mehendi)」とか「ヘナタトゥー」と云いって、古くから魔除けや幸運を呼ぶ力があると信じられています。これは「ヘナ」という植物の葉を粉末にして、水やペースト状にしたものを染料として使用するのですが、約1~2週間で自然に消えるので、私もオッサンながらマレーシア クアラルンプールのインド人街にいったとき興味半分で施してもらいました。やっぱ2週間待たず消えてしまいましたね。ビンディーを施す位置は第三の目がある第6チャクラである「アージュナー」で眉間の少し上になります。「チャクラ(Chakra)」って言葉はヨガやってる方はご存知でしょう。サンスクリット語で「車輪」「回転」を意味し、人体に7つあると云われる「エネルギーの出入り口・中枢」です。背骨のラインに沿って位置し「生命エネルギー(気)」の循環を担う重要なポイントとされています。 そのうちの第6チャクラは、眉間(サードアイ)にあって、直感や洞察力の機能を持ってます。ファッション的な意味合いが強いビンディーとは違い、「ティラカ(Tilaka)」はやはり第6チャクラに塗る宗教的な印や装飾のことです。泥、香油、クムクム(赤い粉)などを練ったものが使われ、宗派を示すほか、精神的な目覚め、保護、神の祝福や幸運を招く意味があります。 こっちは男女問わず、日常のほか結婚式、誕生日、宗教行事で用いられてます。なをインド婦人にとってビンディと同じくらいアタリマエなのが「鼻ピアス」です。これもファッションと云うより、魔よけなどの意味を込めて、大半の女性が耳や鼻にピアスを空けます。なんか顔にこれでもかと装飾ほどこしますね(笑)
Apr 10, 2026
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21世紀に入って日本の労働者賃金がほとんど上がっていないどころか、1997年をピークに減少してるってデータが広く流布しています。直近の数年は政府指導もあって基本給がアップしてるけど、円安と物価の高騰がそれを凌駕していて実質的には減少傾向にありますね。私の世代は高度成長やオイルショックの大幅賃上げを経験した世代でバブル期を知っていますが、それに対して今の若者たちは昇給以外の賃金引き上げをほとんど知らず、現在や将来に渡って親の代よりも良くなるという見方が少なくなっています。国税庁の「令和5年(2023年)分民間給与実態統計調査」によると、1年を通じて勤務した給与所得者1人あたりの平均年収は460万円です。平均年齢47歳、平均勤続年数は12.5年の給与内訳は、平均給料と手当が388万円、平均賞与が71万円となっています。令和4年(2022年)の厚生労働省による統計「都道府県別賃金」によると、平均値が最も高かったのは東京都で、後に神奈川県、愛知県、大阪府、兵庫県が続いています。逆に最も低かったのは青森県で、それに続いて宮崎県、沖縄県、山形県、岩手県と云う結果になってます。経済協力開発機構(OECD)調査で日本の平均賃金は38ヶ国中25位。G7の中で最下位なんです。ちなみに令和7年(2025年)度の最低賃金(時給)は全国平均で1,121円となり、全ての都道府県で1,000円を超えました。最高額は東京都の1,226円で、最低額は高知、宮崎、沖縄の1,023円です。ところで近年の訪日観光客には欧米人や韓国、台湾、中国などともに、タイやマレーシア、インドネシアなど東南アジアの人々も急激に増えてます。それもショッピング中心から、日本の文化や自然、アニメなどの体験型観光へ移行し、また東京や大阪、京都と云ったゴールデンルートに加え、地方への観光需要も増している。さらにこうした観光客にはある程度収入の高い中高年のみならず、若者が大勢押し寄せてます。日本から見たら、まだまだ低開発の国々の若者たちが...タイを例にとって云うと、発展段階の国の常として格差が激しく、首都バンコクと地方では平均収入がとんでもなく違います。それで2025年-2026年の平均月収は約1.5万~2.5万バーツ(約6.5万~11万円)程度ですが、これがバンコクなど都市部や専門職、外資系企業ではこれより高いのですね。管理職や専門職の平均月収は5万バーツ(約25万円)以上になることが一般的なんです。日本人の平均年収460万円を月割りすると約38万円ですから、まだ日本の方が高いように見えますが、タイバーツの米ドルに対する為替レートは100$=3,289前後で推移しています。これに対し日本円の米ドルに対する為替レートは1$=159円半ば~後半で推移する歴史的な円安水準にあります。 一時的な買い戻しはあるものの、160円をうかがう展開が続いているのですね。つまりバーツの方が日本円よりドルに対して強いのです。ただ日本のように安定してない国なので、ガソリンが1リットルあたり約35~40バーツ(約170円~190円)前後だったのが、今回のホルムズ海峡封鎖を受けてリッターあたり約260円までハネ上がってます。この辺は備蓄量の違いと、政府補助額の違いがハッキリ出たのですね。それを云うと香港なんてリッター600円を超える異常値ですしね。このように世界情勢にはまだまだ脆弱ですが、確実にタイの経済力は力をつけてきて、それとともに物価も上昇。タイ旅行していても、ここ数年でとんでもなく高くなってますし、例えばナイキやアディダスと云った輸入メーカーの商品なんかは、日本で買った方が安いくらいです。今ではタイで年収1,000万円プレヤーなんてはいて捨てるほど居ます。もはや日本人は物価の安かった東南アジア旅行でさえ困難になってきてますね。まぁ、イランの紛争が正式に終わるまで、飛行機の燃油サーチャージが倍以上に引き上げられてますから、とても海外に出る気にはなれません。
Apr 9, 2026
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この間の日曜日に息子家族が来たので、おでんを振る舞いました。おでんの具さまざまですが、外せないのは牛スジです。孫が高校1年生と大学1年生なので、とにかくよく食べる。はんぱない量の牛スジ買ってきて、先ずお湯で一度ゆでこぼしてから、今度は生姜とネギの青いとこ入れて本格下茹で。これで2時間。それからおでん鍋に入れて、手羽もとと一緒に約2時間グツグツ。牛スジも手羽もとも箸でつかんだら崩れるくらい柔らかくなって、長男孫なんてお鍋の底すくうようにして全部たいらげてくれました。関東では牛スジそのものが入手しづらいことがありますが、この最大の理由は関東では牛スジを食べる文化があまりないからですね。それでも今では居酒屋や食堂などで「牛スジ煮込み」料理が定番になってるようです。ただ東京なんかのは牛スジだけでなく、モツを使ってるとこが多いし、味付けも赤味噌や醤油ベース、塩味で煮込むスタイルが多いような。名古屋の牛すじ煮込みは、お馴染み八丁味噌など赤味噌をベースに、牛すじとコンニャクを甘辛く煮込んだ濃厚な味です。これはこれで美味しいんですが、八丁味噌独特の渋味と酸味が強すぎるとこがニガテな人もいますね。それに対して大坂の「どて焼き」は白味噌を使います。これが私たち大阪人が「牛スジ煮込み」と「どて焼き」は全く違うと云う根拠のひとつです。ちなみに「どて焼き」と云う名前ですが、焼いてるのではなく、牛すじ煮込みと同じように煮込んでます。「どて焼き」は、鉄鍋の内側の縁に味噌を「土手」のように盛り、その中央で牛スジを焼きながら、溶け出した味噌で煮込むからこの名前がつきました。どて焼きは、大正~昭和初期に大坂の屋台で普及したものですが、もともとは豚の皮身などが使われてたんです。それが今では牛スジ一筋、モツは使いません。名古屋の「どて煮」も同じように、味噌の土手で煮る料理に由来します。 どて焼きは、白味噌やみりんで長時間かけて煮込むため、濃厚で甘辛い味わいが特徴ですそれとともに どて焼きは1本1本、串を打ちます。それで注文するときは「どて焼き◯◯本おくれ!」と本数でオーダーするんですな。スジ煮込みみたいに、コンニャクや大根、豆腐など他の具材は入ってこなくって、牛スジ一筋の料理です。大坂でも牛スジとコンニャクを煮込んだ「すじこん」ってのも有りますが、こっちは味噌と醤油で味を付けて牛スジ煮込みと同じようなものです。茹でこぼしたスジ肉を酒だけで炊き、後少し醤油で味付けしただけの単純な牛スジの煮込みも大阪人のソウルフードです。大坂の居酒屋なんかで どて焼き出してるお店は専任スタッフが必要です。どて焼きでは、出汁を入れると云ってもヒタヒタになる程度。牛スジの表面から出汁がスグ蒸発してしまうため、こまめに「追いだし」をかける必要があるからです。この追いだしは、3~4分に一度は必要。どて焼きなんてお安いアテなのに、結構な手間かけてるのですね。大坂以外の方は「たこ焼き」とか「お好み焼き」が食い倒れの街 大坂の象徴と思ってる方が多いでしょうが、大阪人からしたら「どて焼き」食べずして大坂グルメを語って欲しくないですね。どんなチンケな居酒屋でも大抵出していて、どこも美味しいです。
Apr 8, 2026
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私は基本的にお札を入れる財布は持ち歩いてません。いつもお札を裸のまま半分に折って、そのままポケットに入れてます。理由は単純で、支払いするとき財布から出すのがメンドイから。まぁ、落とすことはありません。何十万円も持ち歩かないですし、そんなお金ありません(笑)別にカードはアルミ製のカードケースに収納してるし、財布らしきものは小銭入れだけで、これはAmazon で見つけた片手で開閉できるスグレモノです。オーガナイザーウォレットって云うのですかね。ひところ流行ったファスナーで閉じるタイプのお札を折らずにそのまま入るデカイ財布。ポーターとかイルビゾンテなんかのブランドものが人気で、それをパンツの尻ポケットに1/3くらい飛び出させて収納してる。これって、海外だったら問題外の収納の仕方ですね。どうぞ獲ってくださいと自ら宣言してるようなもの。1970年以前の財布と云うと、収納するお札を1枚ずつ小さく4折れにし、それを重ねて収納してる人が多かった。財布そのものがお札よりコイン収納重視型で、とにかくコインがいっぱい入るものが多かったですね。この時代、高度経済成長期とは云え、大阪万博が開催された1970年でさえ、ラーメン1杯96円てなご時世です。日常支払うのは圧倒的にコイン主流。そのため「チビ袋ジップ財布」が財布業界を席巻してました。金種ごとに分けられたレールに硬貨を収めていく「コインホルダー」も流行りましたね。これは1982年の500円玉登場を境に減少していきました。1977年にアメリカ人が考案した「サーファーウォレット」。マジックテープで開閉する財布ですが、考案したアメリカ人は特許をとってなかったために類似品が大流行り。この財布、開けるときにビリビリと音がしてダサイとすぐに廃れてしまいました。財布の歴史を振り返ると、平安時代のころはお金を紙に包んで懐中に入れてたらしい。そのあと、巾着みたいな袋に入れるようになり、江戸時代には長いひものついたポシェット型の銭入れが登場します。穴の開いてる貨幣はひもに通して持ち歩くこともありました。がま口が登場するのは明治に入ってからです。がま口と云う呼び名は、ガマガエルが口を開いた感じに似ていると云う他に、お金がカエル(返る)と云う縁起をかついでたことに由来します。がま口、もともはと軍隊で兵士の物入れとして使われてたのですが、明治4年に新貨幣が発行されると、舶来ものの財布の影響を受けて庶民に広まりました。そのころのがま口は「げんこつ」とも呼ばれてたそうです。ちなみに「財布」の語源は財宝を入れる袋から来てるそうです。呼び寄せたお金が一時的に滞在する借家みたいなものと云うイミらしい。がま口の口金についてるパチンとなるところは「らっきょう玉」と云います。ぷっくりと丸く、ツヤのある形状がラッキョウに似ていることに由来します。らっきょう玉、昔は「俵玉」や「こけし玉」と呼ばれていたこともあります。とは云っても、スマホ決済が浸透した今、そもそも現金を持ち歩かない若者も増えてるし、財布も最小限のお金で済むのでどんどん小型化してますね。中国では屋台にいたるまですべてスマホ決済が浸透してるのは、あまりに偽札が横行したためで、やむにやまれぬ事情だったのですね。
Apr 7, 2026
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ずいぶん前のことですが、大阪 道頓堀の「金流ラーメン」に食べにいきました。金流ラーメンは、大阪人だったら誰でも知ってる有名店で、「神座(かむくら)」と並ぶ老舗ラーメン店です。神座は一度だけ行ったことありますが、評判とは裏腹に口にあわないし、接客態度が最悪で二度と行くまいと心に誓ったお店。昔よく行った金流ラーメンは御堂筋に面した御堂筋店でしたが、このとき行ったのは道頓堀店、つまり本店です。金流ラーメンは豚骨ベースのシンプルな味で、白菜キムチやニラキムチ、きざみニンニクなどをお好みで好きなだけトッピング出来るのが特徴。しかし再訪した道頓堀店の味にがっかり。どこのラーメン店でもある平凡な味。昔、ひんぱんに食べてた頃は、もっとしっかりしたスープだったし、麺は昔ながらのストレートの中細麺だけどどこか違う。あるいは、高齢になって私の味覚が変化したのか?きのう息子夫婦が来たので、その話したら確かに金流ラーメンの味は落ちたと語ってました。そんな金流ラーメンの道頓堀店が一昨年、ニュースで取り上げられたことありました。金流ラーメンと云えば、ド・ハデな龍のオブジェ看板が有名ですが、龍のしっぽ部分が隣接地にはみ出ていると土地所有者との間で訴訟があり、金流ラーメンが敗訴したんですね。判決を受け、しっぽ部分を電動カッターで切断してしまったのです。それもまた話題のひとつになって、今でも大勢の観光客が殺到してるのですね。この金流ラーメンの看板、チョット目には香港あたりで見かけるようなインパクトのあるものです。それだけではありませんね。道頓堀の看板は、どのお店でも超ド・ハデ!「かに道楽」の7m もの長い手足を動かす看板だったり、コロナの影響で閉店してしまった大阪 新世界にもあった「づぼらや」の巨大な「ふぐ看板」、食のデパート「くいだおれ」の太鼓を叩いてるメガネのオッサンと異様なものばかり。大阪人はとにかく目立ちたがりです。東京と比べて千林商店街のヒョウ柄オバサンを持ち出すまでもなくファッションもハデだし、女性のメイクも濃いめ。そんな気質が道頓堀のあのハデハデ看板にマッチしているのでしょうか?ところが大阪の看板は昔からハデだったワケではないのです。むしろその逆で、昔の大阪では、看板よりも「のれん」が重視されてたため、むしろ看板は地味めに作られてました。商人がむやみにハデにするのは信用を損ねるもとになると、目をひくような看板は嫌われたのですね。豪商になればなるほど、着物も質素なものをまとい、つとめて地味に振る舞ってたのです。そんな大阪気質が変化して、「目立ってナンボ」みたいな看板に変化したのは「目立ちたがり精神」以前に物理的な理由があったからなんです。東京の銀座あたりでは、屋外広告はビルの屋上に設置されてることが多いですが、これは銀座には背の高いビルが多く道幅も広いので、通行人の視線が上に向きやすい。それで高い位置に看板を設置して、遠くからでもよく見えるようにしてあるんですね。ところが大阪の繁華街は道幅が狭い上に、背の低いビルが多い。つまり通行人の視線はビルの屋上よりも壁面にいきやすい。それで大阪の看板は壁面に設置されてるのが多いのですね。それに加えて道頓堀の場合は、ネオンが道頓堀河の水面に映えることも計算に入れて作られてます。水面に映ることを考えると、看板は壁面に作った方がよく見えるし、地味なものより、光った看板の方が夜景によく映えます。そんなが大阪にハデハデ看板が育った理由なんですね。同じ大阪でも北の梅田(大阪駅)界隈は高層ビルが多いし、開けてるので屋上広告が多いです。
Apr 6, 2026
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放送用語で番組開始の直前(提供クレジットの前)に流されるスポットCMのことを「カウキャッチャー」と云います。「前につけられたもの」と云うイミです。カウキャッチャーは、番組の視聴率や聴取率が適用される枠で、注目度が高いのですね。で、この「カウキャッチャー」と云う放送用語、どこから来たものでしょう?実は昔の蒸気機関車がその語源です。「国鉄7100形蒸気機関車」と云ってもピンとこないでしょうが「弁慶号」と云えば、あぁアレねとなる方も多いでしょう。現在は埼玉県さいたま市にある鉄道博物館で見ることができます。 この蒸気機関車、もともと1880年(明治13年)に北海道初の鉄道(官営幌内鉄道)の開業にあたり、アメリカから輸入された蒸気機関車なんですね。この弁慶号は、西部劇から抜け出てきたようなアメリカの古典的スタイル機関車で、その前方を見ると「犂(すき)」みたいなものが取り付けられてます。これの名称が「カウキャッチャー」なんです。1926年に公開されたバスター・キートン主演のサイレント(無声)映画「大列車追跡」では、このカウキャッチャーによじ登ったキートンが走る列車で活躍する姿が描かれてます。このカウキャッチャー、英語の綴りは「Cow Catcher」です。「Cow」=「牛」さんですね。つまり牛などをできるだけ傷つけずに、すくうように受け止めて、左右に跳ね飛ばすための装置なんです。「キャッチャー」と云う名前がついてるけど、実際は「跳ね飛ばす」んですから逆の役目の装置ですね。原野を走る区間が長いアメリカや中国などでは、線路上に大型動物が入り込む事が多く、幹線で運用される大半の蒸気機関車に装着されました。そう云えばニンテードースイッチに同名のゲームがあったけど、アレはムササビスーツの主人公が牛を追いかけるゲームでした。カウキャッチャーとは呼んでませんが、明治や大正時代の路面電車では人身事故がよく起こったために、車体前面下部に救助網を取り付け、人を傷つけずに受け止めるようにしていました。こっちは実際にキャッチするための装置です。この鉄道のカウキャッチャーが語源になって、放送用語が生まれたのですね。
Apr 5, 2026
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昔の時代劇映画なんかを観ると、百姓一揆なんかのシーンで、すごい勢いでお百姓さんたちが走って代官所なんかに押し寄せる場面がでてきますが、あれは現実には無い話です。せいぜい早足程度。なぜなら昔の一般日本人は「ナンバ歩き」をしていたからです。現代人だと歩くとき右足が前に出たら左手が同時に出ますね。次に左足が前に出ると右手が前に出る。足と腕の振り方が逆になってるワケですが、ナンバ歩きってのは右足と右手、左足と左手を同時に出す、日本古来の歩行法です。上半身と下半身のねじれをなくし、骨盤を動かして「すり足」気味に歩くことで、無駄な力を省き、長距離でも疲れにくく腰の負担も少ない、効率的な歩き方として再評価されています。着地するときも踵からではなく、足の指の付け根から接地し、すり足気味に歩くのが特徴です。現代人が一日に歩ける距離は30~40km と云われてますが、ナンバ歩きをした場合は、1日に100km 以上歩くことも可能なんですね。前傾して歩くので、歩幅も20~30% 広くなり現代人の歩き方よりも疲れにくいのでこのように距離を稼ぐことが出来るのです。それが飛脚になると、ナンバ歩きを早足でする(ナンバ走り)ので、歩きよりもチョット速い速度で長距離をかせぎ荷物を届けることが可能なんです。江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ全長約490km の街道を、最速丸3日、72時間という記録があります。もちろんリレー方式で、一睡もせずに行ったようです。火事や戦で狂乱状態になったとき、庶民が逃げ散ってる様を描いた昔の絵がありますが、あれを見ると、みんな両手があがってます。盆踊りみたいな、泳いでるみたいな恰好なんですね。あれは自分の身体を精一杯早く前に運ぼうとする状態なんですね。しかし武士ともなると戦場に行くのに早足ていどでは戦になりません。武士は走れました。しかし、その走り方は現代人とは大きく異なります。走る時に腕を振らないのです。なぜかと云うと、いつでも刀を抜けるようにしなければならないから。独特の走りだったのですね。と云うワケで、武士やナンバ走りのできる飛脚を除いて、昔の庶民にとって早く走ると云うのは、泳げることと同じくらいひとつの技術だったワケです。一生 走ったことないと云うのが普通の人です。だから走り方を見て、あぁこれは武士だとか、飛脚だとか、一般人か分かるのですね。忍者が町人の姿にやつしても、ヘボな忍者だったら見抜かれるワケです。
Apr 4, 2026
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もともとの「おでん」は、今とはまったく違う食べ物で「豆腐田楽」のことだったらしい。豆腐田楽は、豆腐に味噌を塗り、竹串に挿してあぶったものですね。この「田楽」の「楽」が略された上「お」がついて「おでん」になったらしいです。その豆腐田楽が今の「おでん」に進化したのは19世紀に入ってからのこと。それまでの焼き田楽に対して、こんにゃくや野菜を串に挿して茹で、甘味噌をつけて食べる「煮込み田楽」が登場しました。さらに幕末になると、具を出汁で煮て、砂糖や醤油で味付けする「おでん」になったワケです。おでん出汁で、関東は鰹節をベースに濃口醤油とみりん、砂糖を加え、色が濃く、甘辛くコクのある味わいが特徴ですね。醤油の風味が強く、長時間煮込んで具材にしっかり味を染み込ませる「濃いめの味」が好まれるし、これが はんぺんや魚の練り物と相性が良いのですね。また長時間煮込むことで、大根や玉子などの具材が茶色く染まり、芯まで味が染み込むのが特徴ですね。この濃厚な出汁は、江戸の屋台文化から発展し、お酒の肴としても親しまれてきた歴史があります。ところが、この関東風のおでん出汁が関西人には理解不能。「あんな真っ黒なモン、辛ろうて食べられへん」となるワケです。なんせ関西のおでん出汁は、昆布と鰹節をベースに、薄口醤油と塩で味を整えた、透明感のある上品な薄味が特徴です。具材の風味や色味を活かすため、醤油の香りが強く主張せず、出汁本来の旨味を味わう仕上がりになるんですね。具材も牛すじや大根などが定番で、これらから出る旨味が相乗効果を生んでいるのですが、関東では牛すじそのものがあまり売られてないですね。関西人に云わせると、牛すじはコラーゲンや旨味が出汁に溶け出してなんとも云えない美味しさがあるのに。もっとも、最近は牛すじが全国区になりつつあるようですね。出汁に使う鰹ぶしにも関西と関東で違いがあります。関西ではカビつけをしない鰹の「荒節」が好まれます。荒節は、焙煎の香りが残ってスッキリとした香りと酸味が特徴です。一方関東では、江戸の中期頃からカビつけした「枯節」が好まれるようになりました。枯節は甘味があって上品な香りが特徴で、よりまろやかな味わいが楽しめます。関東の出汁が濃いのは、味付けに使う濃口しょうゆが原因ですね。濃口しょうゆはどっしりとした味わいで、煮物から焼き物までしっかりと味付けしてくれます。一方、関西出汁に使われる薄口しょうゆは、香りを抑え、あっさりとした味わいが特徴的です。関西は素材の風味つけ程度に使うことから、薄口しょうゆを使うのですね。ところが関西人はおでんのことを「関東炊き」と云います。東から輸入された おでんを関西人は関東炊きと云うネーミングで関西独自の味付けにし、独自の具を加えていったのですね。牛すじもそうですが、捕鯨が盛んなころは必ずおでに入ってた具があります。クジラの背中の皮である「コロ」をおでん種に使ってたのです。関東では基本的に肉類は入れないですが、その分、練り物が種類豊富ですね。ヨメの実家があった大田区の商店街に行くと、まぁどんだけ~と云うくらい練り物を種類豊富に並べてるお店がありました。その関東の練り物で関西人のほとんどが目にしたこと無い具材があります。「ちくわぶ」です。私もヨメと結婚するまで存在すら知りませんでした。初めて名を聞いたときは「麩なん? ちくわなん?」。まぁ、食べても特段に美味しいとは思いませんでしたが...あと関西ではイワシで作った「つみれ」を入れない家庭が多いですね。
Apr 3, 2026
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神戸の観光名所と云えば中華街の「南京町」と「異人館」と相場が決まってます。南京と云う地名は中国の一都市の名前だし、蔑称的だと、横浜でも使われてた南京町と云う地名は「中華街」と改められました。しかし神戸では南京町のまま。これは、神戸の中国人たちが「南京町」と云う呼び名に嫌悪感を抱かなかったからです。彼らは古くから日本人社会と良い関係を築いてきたので、南京町と云う地名に親しみをもってたのですね。それでは「異人館」はど~でしょう?これが関西人と云うより神戸人で行った人は少ないんぢゃないですかね。今の大阪人が道頓堀に行かないように、神戸っ子にとって異人館は行きたくない場所の筆頭でしょう。行くとしたら、他府県から友人が来て観光のお供にいやいや付き合わされるくらい。神戸の異人館は幕末から明治にかけて欧米人の住宅として建てられた西洋館です。当時の居留地に建てられ、すべて高台にあるのですね。当時の西洋人は高台の家から坂を下り、海外通りにあった仕事場に向かい、仕事が終わったらまた坂道を歩いて家に帰っていったのです。で、その坂がハンパないのです。私も一度訪れましたが、もう二度とイヤだとそれ以来再訪してません。観光パンフレットには「迷路のような細い坂道を歩いていくと、いつしか時間が止まったような不思議な空間が現れる」なんて記述されてますが、行ったら止まるのは「時間」ぢゃなくて「身体の動き」としみじみ感じさせてくれます。よくまぁ、明治期の西洋人は毎日こんな坂を下りたり登ったりできたものです。とくに「うろこの家」と呼ばれる旧ハリヤー邸への道は非常に急で狭い石畳の坂道になっていて、かつ段差があるので自転車も車椅子もきついところに有ります。このうろこの家に至るのが「北野オランダ坂」と云うすれ違うのもやっとの幅しかない急勾配の坂なんですね。こんなとこ、あえて行きたいと思うほうが普通ぢゃない...と、私は思ってます。長崎にも同名の「オランダ坂」がありますが、長崎のも急だけど、まだ道幅が広いだけマシ。ここも長崎で居留してた外国人を「オランダさん」と呼んでたことから名づけられたそうですが、当時の西洋人は坂道好き?もうずいぶん昔に長崎のオランダ坂も訪れましたが、当時 若くっても私には一度で堪能しました。
Apr 2, 2026
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なんとか壊れたPCのソリッドステートドライブ1台からデータを取り出せたので、今日はまともなブログになります。よく京都を「千年の都」と云いますが、この千年と云うのは794年桓武天皇の平安遷都から1869年の明治維新で東京奠都までの約1,100年間を指します。平安時代は後の武家政治と違って、天皇中心の華やかな貴族社会が築かれました。この1000年にわたる伝統行事や風習が現代の京都の生活にも息づいているのですね。この平安時代の前はご承知の通り奈良に都があって、天平文化はなやかりし奈良時代。聖武天皇は、741年に全国に詔して、国分僧寺や尼寺を全国に建てさせ、また良弁を開山の師として東大寺の造営をおこないました。それが有名な奈良の大仏(廬舎那仏金銅像)建立に繋がったのですね。奈良には平安時代よりさらに古いこの時代の建物が多く残っています。では京都で平安時代の建物はいくつ残ってるでしょうか?先ずは「平安神宮」?いえいえ平安神宮は、遷都1100年を記念して明治28年(1895年)に京都市民の寄付によって創建されたものです。京都の神社ではもっとも新しいものなんですね。となると何処でしょう?「金閣寺」は足利義満の別邸だったところを死後、お寺にしたものだから室町時代。しかも1950年(昭和25年)に放火で焼失、1955年に再建されたものだから昭和の建物。「清水寺」は奈良時代末期の778年に開山されましたが、本堂や多くの堂塔は江戸時代初期の1633年に徳川家光の寄進によって再建されたものだから、建物そのものは平安時代のものでない。「伏見稲荷大社」の本殿は、室町時代の1488年に再建されたものだし、朱塗りの大きな楼門は豊臣秀吉が1588年に建立したものだから安土桃山時代。「八坂神社」の本殿は、江戸時代前期の1854年に4代将軍徳川家綱によって再建された建物だし。「南禅寺」は鎌倉時代後期の1291年に亀山法皇によって創建されたもので、しかも多くの建物が戦乱で焼失。現存する伽藍は、江戸時代初期に再建されたものですね。そうなると平安時代の建物って何処に有るの?実は京都に平安時代の建物はひとつも残ってないのです。えぇ~っ!?と思われるでしょ。平安時代より古い奈良時代の建物が奈良に残ってるのに、なんで京都に平安時代の建物が無いのか。その最大の理由は、両時代の建物の性質によります。奈良に残る奈良時代の建物は寺院ばかり。平安時代以前で現存する建物は全国に67棟ありますが、そのうち63棟は寺院建築です。長い歴史を経たとき、もっとも残りやすいのは寺院建築なんですね。ところが平安京では、当初、宗教政策上の理由から、東寺と西寺を除いて、都の中に寺院を作らなかったのです。これが京都に平安時代の建物が残ってない最大の原因です。地理的な理由もあります。平安時代、都が築かれたのは四条河原町を中心とする現代の繁華街よりやや西側にあたる場所です。そのあたりは湿地帯で、建物を建てても長い年月耐えることが困難だったのですね。さらに中心地がしだいに東側に移ったため、平安時代に建てられた西側の建物は管理や補修がじゅうぶん施されなかったのです。さらに多くの自然災害と応仁の乱をはじめとする政権争いによる人災もありました。こうした要因が重なって京都に平安期の建物がひとつも残らなかったのです。
Apr 1, 2026
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メインのPCがタウンして、それでなくても使い勝手悪いノートPCでの作業。別にもう1台デスクトップがあるのですが、こっちはOSに「UNIX(ユニックス)」系を使ってて、サーバーやワークステーション用のOSです。長い間使ってないのでシステム更新に1時間以上要するので、今回は使ってません。それでノートPCのことなんですが、ちょっと必要なソフトを探したくて「Microsoft store」を覗いてみようとしたら、Microsoft storeそのものが見当たらない。Microsoft storeはアンドロイドスマホで云うGoogle Playみたいなもんで、ここに掲載されてるアプリは安全と云うこと。(後で気づいたのですがMicrosoft store、ちゃんとインストールされてました。気づかなかっただけです)で、ネット検索でMicrosoft storeを探してインストールしたのですが、それが何を血迷ったのか違うアプリをインストールしてしまった。アプリの名前は「PC App Store」。これが、とても厄介なウイルスに近いアプリだったのです。このアプリ、立ち上げも何もありません。自動的に立ち上がってクレジットカード番号を含む「入会」データ入力画面が全画面表示されます。通常右上に表示されるアプリの終了「X」ボタンも画面サイズ変更の「□」ボタンも最小化の「-」ボタンも何も表示されません。このアプリが画面全体を仕切ってて、ほかのアプリを立ち上げてもすべてPC App Store画面の裏側に隠れてしまうのです。これでは「コントロール画面」表示させて、このアプリを削除することもできません。PCの再起動をやっても、すぐにPC App Storeの入力画面が表示されて同じ状態。こんなときは、「Alt」+「F4」キーで強制終了できるハズですが、これも受け付けない。いよいよとなって「Ctrl」+「Alt」+「Deleete」キー同時押しで、タスクマネージャーを呼び出して強制終了しようとしたけど、これも受け付けない。最後の手段です。「Ctrl」+「Alt」+「Deleete」キー同時押しで、右下に表示される「電源ボタン」アイコンをクリックします。そしたら「Shift」キーを押しながら「再起動」をクリックします。(画面が切り替わるまでShiftキーは押したままにします)すると葵画面で「トラブルシューティング」「詳細オプション」「スタートアップ設定」「再起動」のメニューがでますので「再起動」をクリックします。再起動後、番号を選ぶ画面が出るので「4」の「セーフモードを有効にする」を選択します。そしたらWindowsが壁紙のないシンプルな画面で表示されてPC App Storeも立ち上がりません。ここで「エクスプローラ」を表示させて「C」ドライブの「Program Files(x86)」を探すと「PC App Store」というホルダーが見つかるハズです。見つけたらフォルダごと「右クリック」で削除。こんなこと、普通に立ち上げてたらご法度ですが、「セーフモード」だったらやっても支障ありません。これでPC再起動して普通のモードで立ち上げても、PC App Storeは立ち上がりません。念のために「コントロールパネル」から「スタートアッププログラム」にこのソフトが登録されてないか確認しておきます。もし登録あれば右クリックで削除でOKです。とまぁ、自分の不注意からとんでもないアプリをインストールしてしまいました。今回はWindows に特化した話題ですが、同様の危険性はMACでもあると思います。よりによってこんな時にアホなことしたものです。
Mar 31, 2026
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いきなりメインで使ってるデスクトップPCが立ち上がらなくなりました。電源ボタンを押してもパイロットランプすら点灯しません。山のように接続してるコード類を引っこ抜いて、PCの点検用カバーを外し、電源ボタンを確認しましたが異常なし。と、云うことは電源ユニットそのものがオシャカになった証拠。私の使ってるPCは、クリエーター向けなので、高速に画像を表示するグラフィックカードが刺さってたり、シリコンディスクとハードディスクがつごう4台も内部接続されてます。そこに電源ユニットだけ買ってきて取り替えても、ジャングルのような配線を処理するのはかなりの労力。今、PCはカバー外したまま放置してます。このブログはノートPCで書いてますが、見慣れた29インチx2のディスプレイと比べると、見づらいたらありゃしない。とにかくサブのディスクにアクセスできないのでは、データにまったくたどり着けない。メインのシリコンディスクにはWindowsとアプリしか入れてないからです。困りましたね。とにかくこの際、PCを新調するしかないか。もうクリェーター向けでなくてもよいけど、CPUとメモリーは妥協できないので、よく検討して購入することに。てなことで、新しいPCを入手してシステム構築できるまで手抜きブログになります。
Mar 30, 2026
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劇団四季「キャッツ」のプログラムイラストを手掛ける前田マリと云うイラストレーターがいます。この方が1996年に初めて出した画文集のタイトルは「ニューヨーク猫画帖」。ニューヨークに行ったとき、あちこちのお店で出会ったにゃんこを主人公にした絵本みたいな作品です。この前田マリってのはよほどにゃんこが好きらしく、にゃんこをテーマにした作品が多いです。そんな彼女の作品に「猫はジャズが好き」ってのがあります。ジャズ・シーンやミュージシャン、ファッションとかジャズを楽しむための著書なんですが、「なんでにゃんこ」?それは英語のスラングで「CAT(猫)」は、ジャズミュージシャンやジャズ狂を現すからです。もともと1920年代から、ジャズミュージシャンの間で「クールな人」「優れた奏者」を指すスラングとして「CAT」が使われてたのですね。それとは別に演奏後に、食事をまかなったり、ギャラを支払うことを「猫に餌をやる」と表現したところから来ていると云う説もあったり、ジャズマンは猫がネズミを追いかけるようにオンナを追いかけるからっていう説もあります。そう云うことで、多くの猫好きミュージシャンや猫をモチーフにした名盤が存在するのです。もっとも有名なのは1957年に発表されたジャズ・ピアニスト"トミー・フラナガン"とサックス奏者"ジョン・コルトレーン"らによる「THE CATS」でしょう。ハモンドオルガン奏者としてソウル・ジャズというスタイルを確立した"ジミー・スミス"も1964年に「THE CATS」と云うアルバムを発表してます。作曲家ラロ・シフリンによるビッグバンドのアレンジを収録した1枚で、ビルボードで12位にランクインした人気アルバムです。他にはテナーサックス奏者"チュー・ベリー"の「Chu」と云うアルバムにもにゃんこをモチーフにしたジャケット使ってるし...アルトサックス奏者"ジョニー・ホッジス"のアルバムにも猫ジャケが。コロラドを拠点に活動するサックス奏者兼作曲家のアンドリュー・ヴォークトの2010年に発表したアルバム「Cats Afoot」なんてにゃんこオンパレードです。ジャズとにゃんこのつながりは、単なる愛猫家というだけでなく、音楽性やカルチャーにおいても深く結びついているのですね。にゃんこの自由気まぐれで、単独行動を好み、警戒心が強いといった性質が、ジャズの即興演奏やミュージシャンの雰囲気に似ているからです。1945年8月15日の太平洋戦争集結とともに、占領下の日本には全国で約16個の師団規模の地上軍が展開しており、基地や施設は主要都市から地方まで数百~数千ヶ所に及んでいました。旧日本軍の施設ばかりか学校から公園、民間施設まで広範囲に接収されてたのです。そこには決まって米兵のためのクラブが有りました。そんな時代、"ハナ肇とクレイジー・キャッツ"と云うバンドがジャズマンとしてステージに立つことになるのですね。そのバンドメンバーのひとり、谷啓は高校時代からキャバレーでバンドマンのアルバイトをしていました。高校卒業後、中央大学に進学するとバンドを組んでキャバレーや米軍向けに演奏していたのですが、確かな腕前とコミカルな演奏が原信夫に注目され、トロンボーン奏者としてジャズのビックバンド「原信夫とシャープス&フラッツ」に参加することになるのです。谷啓はやがて「スイングジャーナル」誌上でトロンボーン奏者として上位にランキングされるようになっていくのです。と、云うワケで、コミックバンドの印象が強いハナ肇とクレイジー・キャッツの成り立ちは本格的なジャズバンドで、だからこそグループ名に「キャッツ」をつけてるのです。ディズニー映画「おしゃれキャット」の中で歌われる「Everybody Wants to Be a Cat(みんな猫になりたいのさ)」と云う曲があります。このダウンビートで軽快なジャズ調の曲は、猫たちが集まって「猫であることがいかに素晴らしいか」を歌い上げているのですね。「猫は自由でクールで、リズムを知っている」と云い、ほかの生き物の生き方は時代遅れだと。この歌詞には、スウィング感のあるジャズや音楽への称賛が詰まっていて、「ジャズを演奏する猫」こそが最高で、他のスタイルは古臭いというメッセージが込められているのです。「The Great City,Meow York/大都市ニャンヨーク」も猫×ジャズ(Cat & Jazz)をコンセプトにしたジャズ調の作品で、都会の夜を感じさせるレトロなジャズの雰囲気を持ってます。てなことで、猫とジャズくらい親和性の高いものはない。そう云えば先日取り上げた村上春樹も無類のジャズ好きでにやんこ好き。作家のアーネスト・ヘミングウェイは極端なにゃんこ好きとともに、その作品は1920年代のパリやアメリカの「失われた世代」の雰囲気、すなわち当時のジャズエイジ(ジャズ時代)の空気感と深く結びついています。簡潔でリズム感のある文体は、即興的で力強いジャズの即興演奏と比喩され、とりわけ小説「日はまた昇る」などは、その世代の心情を色濃く反映しています。キューバのハバナ近郊に20年以上住んでいたヘミングウェイ。そこには数千冊の書籍に加えて、膨大な量のジャズレコードのコレクションがありました。
Mar 29, 2026
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大阪人にとって神戸人は「お洒落で都会的、洗練されたイメージ」だけど「少しすました上品な存在」と映るのですね。なんせ全てのことにガツガツ貪欲な大阪人と違って、洗練された「神戸ブランド」と云う少し違う文化圏の人々。一方、大阪人から見た京都人は、優雅で上品なのですが、本音が読めず腹黒いと云う印象が強烈です。言葉は丁寧でも真意が見えない「イケズ(意地悪)」文化が浸透している。なにしろあそこは長い都の歴史があって、大阪人を「上品さが無い」と見下していますからねぇ。(云われれば、確かにそうなんですが)そんな京都は京丹後や宮津、舞鶴市など北部(丹後エリア)が海に面しているとは云え、京都市内はまったくの陸の孤島。なので海から捕れる魚には縁遠い土地なのに、「鯖ずし」と云う名物料理が存在します。鯖ずし、昔はお祭りのたびに京都の各家庭で作られてたほどポピュラーなものなんです。水上勉の小説「越前竹人形」を読まれた方はご存知ですが、福井県小浜市(若狭)は、古くから日本海の海産物、特に鯖を都へ運んだ物流街道「鯖街道」の出発点でした。捕れた鯖にひと塩した荷を担いだ人々が夜通し歩いて京都市内まで運んだのですね。若狭の浜と京都市は70km ほどの距離です。鯖街道を通過して、着く頃にはちょうどよい塩加減になってたのですね。その鯖を3枚おろし、酢で締めたものを酢飯の上に乗せ、コンブで巻いたものが鯖ずし。京都人にとって、なかなか食べれない海の魚だけに、より美味しく食べる工夫を考えついたワケです。同じように海と縁遠い奈良県人も鯖を酢飯に乗せて、柿の葉(本来は朴の葉)に包んだ「柿の葉すし」を考えついたのですね。これも昔は、ひと塩した鯖が唯一入手できる海の魚だったからです。最近の柿の葉すしは鮭なんかを使ったものも出てますが、これは亜流で本家はあくまで鯖です。海の魚料理で京名物がもうひとつあります。身欠にしんを使って作る「にしんそば」です。身欠にしんは、北海道で獲れたにしんを乾燥させたものですね。これまた若狭の鯖と同様、京都の人たちにとって貴重なタンパク源。毎月1日や15日にお惣菜として食べる習慣がありました。この身欠にしんを、蕎麦と組み合わせてはどうかと云う発想から生まれたのが「にしんそば」です。「にしんそば」を考えついたのは、四条川端東詰にある「松葉」2代目の与三吉。彼は、明治初期、身欠にしんを醤油や砂糖、みりんなどで柔らかく煮上げ、蕎麦の種として出したら、これがたちまち評判を呼び、あっと云う間に京名物になったのです。「松葉」は今も「総本家にしんそば松葉」として営業していて、にしんを煮る煮汁は、煮詰まった分だけ新たに注ぎ足し、当時のものをずっと使い続けてます。関西人は総じて薄味です。薄口醤油は一般的な濃口醤油より塩分が約1~2割高いですが、これを少量使って煮物なんかも仕上げます。なので上のにしんそばの画像を見ても分かる通り、蕎麦やうどんの出汁もすべて透き通ってるのですね。麺が見えなくなるくらい黒い出汁は使いません。あくまで出汁の旨味を活かした調理法をとります。その典型が京都の「おばんざい」でしょうね。おばんざいとは、豪華な懐石料理とは違って、京都の一般家庭で日常的に食べられている「お惣菜」のことで、京野菜や旬の食材、乾物などを使い出汁を効かせた薄味の家庭料理のことです。その薄味の本家本元 京都に奇妙な食べ物があるんですね。関東のお雑煮はおすまし仕立てですね。ところが関西のお雑煮は白味噌仕立てで、こってりしている上に非常に甘いとこが多いのです。これは関西で一般的ですが、京都以外の他府県では普通の赤味噌も使います。しかし、京都は白味噌仕立てで統一されてるような。京都=薄味と云うイメージからは説明つかない食べ物です。京都で白味噌を使うのは、白味噌を使ったお菓子が多く、特に正月菓子が多いからです。白味噌を使ったお菓子で有名なのが、カステラ風の生地に白味噌を塗った「味噌松風」とか、餅に白味噌を塗った「稚児餅」などです。京都の北区紫野今宮町にある今宮神社では、神聖なお餅を“あぶり”、無病息災、子孫繁栄、長寿などを願って「あぶり餅」を食べるのですが、これも竹串に刺したお餅に白味噌をつけて食べます。端午の節句に食べる「柏餅」にも白味噌を使ったものが多いです。正月の雑煮も、その延長線上にあるんですね。麹をたっぷり使ってつくる白味噌は、味噌の中でも高級品です。その白味噌を京都人は正月にたっぷり使って年に一度の贅沢を味わってるのです。普段は薄味好みなのに、お雑煮だけやたら甘くこってりしてるのは"お菓子"と考えれば納得いきます。京都の白味噌お雑煮では、だいたい丸餅、かしら芋、輪切りの大根、京人参などを入れますが、鶏肉や魚介類は入りません。関西で丸餅が多い理由は、「円満」や「鏡餅(神の魂)」を象徴する縁起物として、平安時代からの伝統を受け継いでいるためです。角(かど)を立てず、物事が「丸く収まる」ようにとの願いが込められているんですね。それとともに温暖な関西では、切り口のある角餅はカビが生えやすいため、保存性の高い丸餅が好まれたのです。
Mar 28, 2026
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元禄14年(1701年)3月14日、勅使である公卿を幕府が江戸城で饗応している最中に、勅使饗応役を務めていた赤穂藩主 浅野長矩が殿中松の廊下で 高家 吉良上野介を脇差で斬りつけ、重傷を負わせた事件。そして第5代将軍 徳川綱吉は長矩を即日切腹に処し赤穂藩を後日改易しましたね。ご存じ「忠臣蔵」の発端です。これを不服とした赤穂浪士 大石内蔵助以下47名は、翌年の元禄15年12月14日深夜、吉良邸へ討ち入り、上野介を殺害。その後、赤穂浪士らは切腹に処せられました。この史実をもとに人形浄瑠璃や歌舞伎から講談、映画、TVドラマなど多数制作されたのですね。こうした作品では吉良上野介が一方的に悪者になって、仇討ちという美談として描かれるのが常。史実的には映画なんかで描かれることとは違う観点もあるようですが、なにしろ勧善懲悪に弱い日本人、とにかく赤穂側の立場で見ると云うより見たいが勝って押並べて大石内蔵助=主君の恨みをはらしたヒーロー、吉良上野介=内匠頭を権勢を楯にいじめ倒したアンチヒーローと云う構図になってます。私らの年代で云うと1964年にテレビ初出演の長谷川一夫が大石内蔵助、滝沢修が吉良上野介を演じたNHK大河ドラマ「赤穂浪士」が強く印象に残ってます。映画で最初の「忠臣蔵」作品は、1910年(明治43年)製作の牧野省三監督、尾上松之助主演による「実演・忠臣蔵」です。大石内蔵助を多く演じた俳優、戦前ではこの尾上松之助が、戦後では8代目松本幸四郎なんですな。とにかく登場人物が多い忠臣蔵はオールスターキャストでの演出が可能なので、大作映画にはうってつけ。とにかくこの忠臣蔵くらい日本人の琴線に触れる物語は無いでしょうね。過去のものになりつつあった武士道を四十七士が「義」をもって表したこと。しかも討ち入りをはたした後の自分たちに待ち構えてるものを事前に知っていながら、あえて命を捨ててまで決行した。内蔵助が討ち入り決行直前に南部坂の屋敷に暮らす浅野長矩の妻 瑤泉院と会ったとき、吉良方の間者が潜入している可能性を警戒して「西国の大名に召抱えられることになりました」と伝えると、瑤泉院は「忠義の心も忘れたか」と怒ります。ところが内蔵助が置いていった旅日記が、実は連判状であったことに気づいた瑤泉院のもとに、討ち入りの知らせが届きます。大石の別れの意味を初めて悟った瑤泉院は、短慮を悔い、亡き夫の霊前に合掌すると云う「南部坂の別れ」、これなんど観てもイチバン心打たれるシーンです。実は、私はYouTube で放映されてた長谷川一夫主演の映画「忠臣蔵」でこのシーンを観て胸が熱くなったのですね。まったく単純な人間です(笑)他にも吉良邸討ち入りのとき、隣の家から高張提灯を掲げて吉良邸の庭を明るく照らして赤穂浪士を援護した旗本の土屋主税逵直など赤穂浪士を援護するさまざまな人々と、四十七士個人個人でも家族に討ち入りを云えず、仇討ち終わった後でつかの間の逢瀬、しかし最後の別れを懐かしむ浪士など、まぁ、これくらい人情の機微にふれる物語は無い。と、まぁ忠臣蔵の魅力は討ち入り直前と討ち入り後に集約されてて、討ち入りそのものや長矩の刃傷なんてのは付け足しみたいな。長矩のくだりでも、いざ切腹と云うときに庭でひっそりと送る浅野家の家臣に「風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残を いかにとやせん」と辞世の句を読んで逍遥と切腹するシーンでこれは春。春と云えば心匈ぐ時期なのに、あえて切腹と云う尊厳な儀式をもってくる。対する討ち入りは積もる雪を踏みしめる冬と日本の四季まで偶然とは云え、たくみに日本人にアピールしてるとこがスゴイですね。ほとんどの話はフィクションでしょうけど、とにかく日本人の機微に触れる物語の連続。これがハリウッド映画だったら、討ち入りだけをクローズアップさせてアクション映画になってしまうのでしょうが、そう云えば2013年にはキアヌ・リーブスが天狗に育てられた外人との混血児カイを演じ、忠臣蔵を題材にしたファンタジーサムライ映画「47RONIN」なんて作品がハリウッドで撮られました。やっぱりね、外国人には忠臣蔵に流れる日本人の心は理解できんやろなぁ。
Mar 27, 2026
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雨が降ったときに着用するレインウェアを「かっぱ」とか「雨がっぱ」と呼びますが、これは「河童(カッパ)」とは関係ないですね。河童が背中に亀のような甲羅を背負ってるの指して「かっぱ」ではありません。漢字で書くと「合羽」。「かっぱ」は、ポルトガル語の「capa」に起源があると云われてます。16世紀前後、ポルトガルから来航した宣教師たちが防寒用に着ていた「袖がなく裾が広い上着」を指し、日本でも真似て作られるようになったそうです。同じ雨具でも洋傘のことを「こうもり傘(蝙蝠傘)」とも云いますが、幕末にペリーが黒船で来航したとき持ち込んだ洋傘の開いた形がコウモリの羽に似ていることや、黒い傘骨がコウモリを連想させたことに由来してるらしい。このこうもり傘は和傘と異なり、閉じた時に細く巻けるため、ステッキ(杖)としても使用できました。文明開化の象徴として親しまれ、明治時代には女性の間でも流行し鹿鳴館時代には洋装のアイテムとなったのですね。ところが一つ目で一本足の妖怪「からかさ小僧」は「唐傘」と云うネーミングなのに「こうもり傘」ではありませんね。そもそも「からかさ」とは、竹の骨組みに油紙を張り、漆を塗った柄をつけた伝統的な和傘の総称なんでね。中国では古くから天蓋式の傘が発達し、日本へは百済を通じて伝来しました。「日本書紀」には百済聖王の使者が552年に欽明天皇へ幢幡を献上したと書かれてます。当初は主に日射を避ける「日傘」として用いてたのですが、その後日本独自の構造的進化も見られ、降水に対して使うことが多くなっていったのが「からかさ」、つまり和傘なんですな。相撲の力士は、幕下以上に上がらなければ和傘を差すことを許されず、三段目以下は洋傘と決まってるらしいです。和傘には「番傘(ばんがさ)」や「蛇の目傘(じゃのめ)」、「端折傘(つまおれ)」などがありますが、「蛇の目」傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見たときに「蛇の目」模様となるようにした傘で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗ったりすることも有りました。「端折傘」は傘の骨の端を中へ折りまげた長柄の持傘で、公家の参内をはじめ、外出の際に、袋に納めて傘持ちの従者に持たせたのですね。昔、私も番傘を持ってましたが、和傘ってのは長い間使わないと、防水用の油がくっつき、イザ使おうとするとなかなか開かないことありました。洋傘の骨が数本程度であるのに対して、和傘は大きさにもよりますが数十本の骨がありますね。これは洋傘と傘の展開方法が異なるためで、余った被膜を張力で張るのではなく、竹の力により骨と張られた和紙を支える仕組みになっているためです。上向きに展開するには力がいってタイヘンなので、下向きに展開し、展開した後で上に向けます。傘は和傘・洋傘の区別なく、全体を支える中棒と全体を覆う傘布、傘布を支える骨でできてますね。他に中棒の先端は「石突」、持ち手は「手元(ハンドル)」など独特の名前が傘には多い。傘を閉じた時に状態を保持し開傘しないようにするため、中棒下部の手元近くに設置された部品を「下ハジキ」と呼びます。傘を開くときに手で押し上げる部分には、傘の骨が集められてますね。この傘の骨をまとめている部品を「ろくろ」と云います。骨を一手にまとめて傘の重心を支え、開閉の仕掛けとなる重要なパーツです。傘を開閉できるのはこの「ろくろ」のおかげなんですな。実は取手のある傘は平安時代には登場してましたが、そのころの傘は開いたままで、閉じることができなかったのです。開閉を可能にする「ろくろ式」の傘が日本に伝わったのは安土桃山時代の1594年で、堺の商人"呂宋助左衛門"がフィリピンのルソン島から持ち帰ったとされてます。その後、ろくろは和傘に取り入れられ、開閉できるろくろ式の傘が主流になりました。傘を開閉するときに、ろくろに引っ掛けてストッパーとなる、手をはさみそうになる部分は「はじき」と云います。「はじき」にも「下はじき」と、開傘状態を保持するため「ろくろ」を下側から固定する「上はじき」が有り、親骨接合部分の「ろくろ」とは別に、中棒を上下にスライドして傘の開閉を行う「下ろくろ」も有る。そして傘布の展開を支え、親骨にかかる負荷の逃げ道を引受ける「露先」もあって、これは「ろくろ」に次いで破損することが多い部分。と、単純そうに見える傘も、実はなかなかに複雑で精巧な部品の組み合わせなんですね。欧米人は雨降っても傘ささないで濡れてる人が多いし、雪なんかでも傘無しで平気で歩き回ってる。それが昨年バンコクに行って、日傘さしてる欧米のご婦人をかなり見かけました。ど~やら、ようやく傘の有用性が分かってきたみたいですが、それでも晴れたときに持ち歩くのがジャマになると傘をもたない人はまだまだ多いです。
Mar 26, 2026
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昨年のノーベル賞は、生理学・医学賞に坂口志文さん、化学賞に北川進さんとふたりの日本人受賞者を出し、平和賞も核兵器廃絶を訴える「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が受賞しましたね。しかし文学賞は、毎回決まって名前の出ていた村上春樹は候補でさえ触れられず、韓国の作家ハン・ガンさんが受賞しました。いったい村上春樹はど~したのか? とお思いでしょうが、そもそもノーベル賞の候補者と云うのは公表されておらず、名前が出るのはブックメーカーが勝手に発表している賭け率の話なんです。候補者公表にノーベル賞選考してるスウェーデン・アカデミーはまったく関与してません。なので村上春樹がノーベル賞文学賞の候補に上がってるかは選考委員会のメンバー以外誰もしらず、それが分かるのは50年先の話です。候補者は50年経つと公表されるからなんですね。その村上春樹、少年のころから無類のジャズファンです。それも聞くときはCDではなく、レコード演奏にこだわってるみたい。村上は1991年から2年半に渡ってアメリカのニュージャージ州で暮らしており、その後2年間こんどはマサチューセッツ州で暮らしてます。このときにアメリカの中古レコード店をまわり、中古のレコードを買い漁ったらしい。村上はクラシックやロックは完全にCDに乗り換えたそうですが、ことジャズだけはレコードにこだわってる。ど~も村上からすると、レコードで聴くジャズはえも云われぬふっくらとした雰囲気があるのに対して、これがCDだとまるでどこか清潔で上品なホテルのロビーで演奏されてるように聞こえて、ふっくら感が消え失せ平凡な印象しか与えなくなる。タバコの煙がたちこめる地下のジャズ・クラブで演奏されてるように聞こえるのが、レコードによるジャズ再生の楽しみらしい。驚くことに、村上は早稲田大学を出てから7年ばかりジャズ喫茶を経営してたらしい。在学中も大学へはほとんど行かず、新宿でレコード屋のアルバイトなどをしながら、歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸る日々を送ってる。1970年代初め、東京の千代田区水道橋にあったジャズ喫茶「水道橋スウィング」の従業員となってるのですね。そして大学在学中の1974年、アルバイトで貯めたお金と親からの借金で500万円を用意し、国分寺駅南口にあるビルの地下でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店したのです。店名は以前飼っていた猫の名前「ピーター」から。夜間はジャズバーとなり、週末は生演奏を披露するジャズ喫茶・バーだったのですね。この店の演奏装置はレコードプレーヤーがデンオンDP3000、カートリッジはシュアーV15Ⅲ、アンプはサンスイのAU6600、スピーカーはJBLのL88と云う陣容でした。村上がニュージャージー州に行ったのは、プリンストン大学の客員講師として招聘されたためですが、前後して湾岸戦争が勃発してます。当時の村上は「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞し、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で谷崎潤一郎賞も受賞、そして有名な「ノルウェイの森」も刊行していて油の乗り切った時期なんですね。アメリカから帰国して、2002年には初めて少年を主人公にした長編「海辺のカフカ」を発表してます。帰国してから、遊びでボストンのジャズ・クラブにジャズピアニストのトミー・フラガンとそのトリオを聴きに行ったときのことです。演奏はまあまあと云ったところで、あまり感動もなかった。このとき村上は「もしトミー・フラガンに何かリクエストするとしたら、やはり"バルバドス"と"スター・クロスド・ラヴァーズ"だよね」とぼんやり考えてたらしい。そしたらステージの最後に、この2曲をメドレーでやってくれたらしい。これには村上も驚いたらしい。サックス奏者のペパー・アダムズとトミー・フラガンの共演した「スター・クロスド・ラヴァーズ」は村上にとって昔からの愛聴盤だったからです。別の日に村上が中古レコード店に入ろうとしてると、通りかかった若い男から「今、何時?」と聞かれました。「4時10分前だよ(イッツ・テン・トゥ・フォア=Its ten to four)」だと教えて、レコード屋に入り、最初に目についたレコードが、実にペパー・アダムズの「Ten to four at 5 spot」のピカピカのオリジナル版!もちろん脇目もふらずに10$払って買ってしまったらしい。後でよく考えたら、日本にもちゃんとこのレコードは持っていたそうです(笑)
Mar 25, 2026
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みなさんよくご存知の通りスタジオジブリの作品には、ヒット作が目白押しです。「となりのトトロ」を始め「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「もののけ姫」「ハウルの動く城」「崖の上のポニョ」など、どの作品も驚異的な興行収入を残しましたね。そのジブリ作品の中で、とりわけ「千と千尋の神隠し」は2001年に公開されると、興行収入が316億8,000万円と、当時「タイタニック」を抜いて日本歴代興行収入第1位を記録しました。それは国内のみならず、2003年のアカデミー賞で、日本映画としては史上初のアカデミー長編アニメ映画賞を受賞してますし、ベルリン国際映画祭では金熊賞を受賞してます。アメリカの映画評論家で、論評の手厳しさから映画関係者には非常に恐れられているシカゴ・サンタイムズのロジャー・イーバートは満点の4つ星をつけ、作品と宮崎の演出を称賛しているのですね。ロサンゼルス・タイムズのトップ映画批評家ケネス・タランも「荒々しく大胆不敵な想像力の産物であり、こうした創作物はいままでに見たどのような作品にも似ない」評しています。イギリスの国際的な雑誌「タイムアウト」で「史上最も偉大な50本のアニメーション映画」で第6位に選ばれ、イギリス最大の発行部数を誇る映画雑誌「エンパイア」誌が発表した「史上最高の外国語映画100本」で第10位、同じイギリスの著名な月刊映画雑誌「トータル・フィルム」誌が発表した「史上最高のアニメーション映画50本」で第2位に選ばれてます。イギリスのBBC主催の投票では「21世紀の偉大な映画ベスト100」で第4位。またアメリカの映画情報サイト「ザ・プレイリスト」が発表した「21世紀のアニメーション映画ベスト50」では第1位に選ばれ、ニューヨーク・タイムズが発表した「21世紀最高の映画25本」で第2位、中国の映画情報サイト「時光網」が発表した「日本アニメ映画のトップ100」でも第1位に選ばれてます。「千と千尋」は北米だけの興行収入で約1,000万$(約16億円)記録してます。なんなんでしょうね、この作品に対する異常なまでの熱の入れようは?他のジブリ作品と違って、「千と千尋」は現実の世界ではなく現実と幽界のはざま。登場する「ハク」の正体はかつて千尋が溺れた川の神様「邇芸速日命(ニギハヤミコハクヌシ)」日本神話に登場する神です。そもそも舞台となる湯婆婆が経営する「油屋」は八百万(やおよろず)の神が体を休める場所です。八百万の神ですよ~世界中で山や川、雷、風などの自然現象から、日用品に至るまで「森羅万象に神が宿る」という多神教的な考え方をするのは日本人だけでしょう。キリスト教では天地万物を言葉(ロゴス)によって創り出した、唯一の神(ヤハウェ)が人間を罪から救うためにイエスを遣わしたとしてるし、イスラム教では「アッラー」と呼ばれる宇宙のすべてを創造した唯一絶対の全知全能の存在が唯一の神。ユダヤ教でも神は宇宙と万物を創造した唯一絶対の存在「ヤハウェ」のみです。唯一、日本人と同じ考え方に似通ってるのはヒンズー教くらいです。ヒンズー教の神は、宇宙の創造・維持・破壊を司る三大神(ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ)を筆頭に、数千~数万とも云われる多面的な神々が存在する多神教です。絶対的な唯一神を信仰する海外の人たちにとって、この「八百万の神」って発想はあり得ないと思うんですよね。作品に登場する河の神「オクサレさま」なんて、流動性の高い泥が集まって巨大な塊になったような姿をしていて、這うように移動します。その泥は人間が河に捨てたゴミと汚れをたっぷり含んだヘドロで、それゆえにすさまじい悪臭を放つのですよ。そんな異様な神さまなんて世界中探しても他に見つからないでしょう。そもそも日本人は日常で「八百万の神」なんて意識してる人は居ないし、結婚式ではチャペルで式をあげるのに、葬式は仏式でたまに神道式があるくらい。大晦日にはお寺で除夜の鐘を聞き、初詣は神社にいそいそと。ほとんどの人が無信仰に近いのに、宗教そのものは受け入れてる。まぁ、こんな民族は日本人以外いないと思うのですね。奈良時代には神社の境内に寺院が建てられ、神前で読経が行われるようになりました。これが神仏習合の最初なんですね。江戸幕府の「禁教令」で最大化したキリスト教の迫害は、天皇・将軍への絶対服従と神への忠誠を強いる教えがぶつかったからです。つまり西洋的な宗教観と相容れなかったからなんですね。逆に云うと、西洋思想の頂点には「神」、それも唯一神がいるのですから、「八百万の神」なんて理解できるワケないのです。にも関わらず「千と千尋」は公開されるやいなや世界中で絶賛されました。その理由を評論家は、圧倒的な映像美と想像力豊かな異世界描写、そして少女の成長を描いた普遍的なストーリーが、子供から大人まで魅了したためと述べてます。そして神さまや妖怪、湯屋という日本古来のモチーフが、西洋とは異なるエキゾチックで想像力豊かな世界として受け入れられたと云いますが、はたしてそうなのでしょうか?ど~も理解できませんが、世界中に受け入れられたのは事実ですから何か海外の人の琴線に触れるものがあったのでしょうね。
Mar 24, 2026
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大学生のとき、大坂の天神橋筋商店街を歩いてて、JRの「天満駅」にさしかかったら、駅高架下の居酒屋を大勢の人が取り囲んでる。いったい何かと訪ねたら、その居酒屋の店内で、今、高倉健が撮影を行ってるとか。そりゃあ、高倉健を一目見たいですよね。そのときは大学生だったので、知る由もなかったですが、後年、高倉健が来阪したとき、私が担当になるとは思ってもみなかった。担当と云っても、顔をつきあわせたことは一度も無いんです。お互いに電話のやりとりだけ。高倉健は何か頼みごとあるとき、担当者がコロコロ変わるのを嫌がるんですね。それでイチバン最初に電話を受けたのが、たまたま私だったので担当みたいに名指しされたんです。その高倉健が撮影してた居酒屋の隣に小薄汚い町中華のお店がありました。現在は件の居酒屋も町中華も有りませんが、とにかく安いので中国人が経営するその町中華をときどき利用してましたね。かなり広い店内ですが、カウンターだけのお店。どの地方料理か忘れましたが、いわゆる一般的な支那料理です。そのお店の棚に目をやると幾本かの中国酒が並べられてました。当時、私はビールかウィスキーしか飲まなくて、焼酎も未経験だったので、その中国酒を味わうことはなかったけど、値段がとても安かったのは記憶してるので、中国酒でもかなり低レベルのお酒だったのでしょう。今でもよく飲まれる紹興酒なんて置いて無くて、陶器製のボトルは無く、すべてガラス瓶に入った透明な焼酎か泡盛みたいなお酒ばっかでした。透明な中国酒は「白酒」と呼ばれる蒸留酒らしい。この白酒と云うのは度数が50度前後もあるらしいので、一般的な泡盛が30度前後ですからこりゃあ私は飲めないですな。なにしろ泡盛でさえ、飲むといつも意識を失ってましたから。白酒で最高級の部類に入るのが「茅台酒(マオタイ)」と云う中国本土のお酒。原材料はコーリャン(高梁)で、田中角栄訪中時の宴席でも出されたらしい。アルコール度数は53度ですが、かつては65度だったらしい。えげつないですね。値段はとびきり高くって日本国内では4万円~6万円ですが、年代や希少性によっては10万円~30万円以上らしいから、間違っても町中華のお店に置いてることは無いでしょう。紹興酒でさえボトル650円~1,500円くらいですからね。茅台酒は「醤香型」と云う「醤(ひしお)」のような独特の香ばしさが特徴らしいですが、同じように高級酒として名高い四川省の「五粮液(ごりょうえき)」は「濃香型」と呼ばれ、土に巨大な穴を掘り、そこに原料と大曲(麹)を入れて上から土をかぶせ、土中で原料を個体のまま発酵させる製法らしい。逆に大衆的な白酒としてコーリャンを原料にした北京発祥の「二鍋頭酒(アルゴウトウ)」があります。名前の由来は、蒸留酒ですから製造過程で3回に分けて冷却水を入れるのですが、最初の水で蒸留され液化した酒を「酒頭」と呼び、3回目に冷却水で液化した酒を「酒尾」と呼びます。酒頭には刺激的な匂いがあり、酒尾は不純物の匂いがするのですね。2回目の水で液化した酒が最も口当たりが良いため、最初と最後を取り除き、真ん中を使うことから「二鍋頭」と呼ばれるようになったのです。同じくコーリャンを原料にして、梨やリンゴ、パイナップルを思わせるフルーティーで爽やかな香りの「清香型(せいこうがた)」白酒に「汾酒(フェンジュウ)」があります。麹は大麦とエンドウ豆です。これも地中の「大缸(ダーガン)」と呼ばれる甕で発酵させる手法がとられてます。他には米を主原料にした「米香型(べいこうがた)」と呼ばれる「桂林三花酒」とか、濃香型や醤香型など、2つ以上の香りの特徴を併せ持つ「一酒多香」が特徴の130種類以上の薬草を麹に用いた「董酒(どんじゅう)」とか、原料や麹を何からどう造るかなど産地によって種類が違うようです。白酒の他に甘い果実酒もあって、例えばライチの甘い果実「ライチ酒(茘枝酒)」などありますね。町中華の定番果実酒と云えば完熟したあんずをまるごと漬け込んだ「杏露酒(シンルチュウ)」ですが、実はこのお酒、中国原産ではなく日本生まれのお酒なんですね。キリングループの永昌源と云う日本の会社が造ってます。ふと思い出しましたが、JR天満駅の町中華に「楊貴妃」ってお酒も置いてたような。しかし楊貴妃ってのは「桂花陳酒」を好んだことで有名だけど、単に「楊貴妃」と云えばカクテルの名前で、アレは何だったのだろう?町中華でビールは昔から中国ビール=青島と云うことで、「青島ビール」にとどめをさしますね。白酒を蒸留した後の粕は豚の飼料になるそうな。その豚の糞尿は原料の穀物を育てる肥料となりまさに循環してるのですね。ただ中国産の白酒には中国ならではの"品質問題"があります。中国の国家品質監督検査検疫総局がサンプリング検査をした結果、中小工場の品は71.2%しか合格しなかったそうです。不合格の理由は、アルコール度数の不足、独特の香りのもとでもあるカプロン酸エチルや総酸の過多、ラベルの不備などが多かったとか。2012年には湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州吉首市の銘酒「酒鬼酒」は基準値を上回る生殖能や胎児への悪影響から使用制限されてるフタル酸ジブチルが混入していると報道されてます。どっちにしても日本人が経営する町中華や、中国人が経営する町中華を模倣した「台湾料理」の屋号を掲げた中華料理店で扱っている酒は、たとえ中国酒であっても黄酒の紹興酒や青島ビールくらいで、ほとんどの中国産白酒は置いてないらしい。
Mar 23, 2026
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みなさんは室内の空気循環をどのようにされてますか。夏の暑い時期だけでなく、冬の暖房がかかった部屋でも、空気を循環させて部屋全体の温度ムラを解消すると冷暖房費も節約できますね。我が家は夏はエアコンと扇風機を併用してるし、冬はガスファンヒーターとサーキュレーターを組み合わせて使ってますが、サーキュレーターは本来 天井が低いとか狭い部屋に効果があるもので、部屋全体の空気循環と送風するなら広範囲の空気をゆっくり混ぜてくれる「シーリングファン」がベストです。バブルのころのトレンディドラマでは決まって登場してたシーリングファン。あの天井からぶら下がった大型の羽をゆったり回転させる扇風機です。なんか東南アジアとか中南米チックで、おしゃれなカフェなんかを連想させますね。シーリングファンの直径は1m 前後と大きなものですが、冷房やエアコンが普及するまで官公庁や病院、デパートなどでよく使われてました。普通の扇風機と違うのが、軸は天井固定で、モーター本体に羽根がついて回転する形式になってること。照明と一体になったデザインのものもありますね。人は風が当たると同じ温度でも涼しく感じるので、夏場は下向き、冬場は上向きに風を送るようにするらしい。17世紀初頭のインドでは、椰子の葉や布で覆われたフレームを作り、使用人がコードを引っ張ったり緩めたりして天井からぶら下た装置からそよ風を起こすような設備を使ってました。19世紀、日本の江戸末期には複数のうちわを軸に固定して手回しのハンドルで回転させる扇風機のような物が作られています。ではシーリングファンはどのようにして発明されたのでしょうか。1880年代半ばにアメリカはテネシー州メンフィスでショットガン製造事業を営んでいたジョン・ハンターと息子のジェームズは、ショットガン製造で得た技術を応用し「ハンターファンカンパニー」と云うシーリングファンメーカーに転換しました。技術革命とも言われる第2次産業革命の最中、ハンター社はチュールク水道メーターカンパニーの買収によって勢いを増し、水流を動力源にベルト駆動で風を送るシーリングファンを設計することに成功したのです。水力で天井に扇風機をつけてしまうと云う、古き良き時代のアメリカ開拓精神が成せるワザだったんですね。蒸気でシーリングファンブレードを動かす動力エネルギーを創り出すこの技術はまさに革新的でした。こうして名をあげた「ハンターファンカンパニー」はいまでもアメリカの代表的なシーリングファンメーカーです。電気モーターで駆動する天井電動扇風機を発明したのは、ミシンの「シンガー」社で電気ミシンの試作品を考案したドイツ系アメリカ人の機械技術者フィリップ・ディールと云う人物です。1880年代後半になってミシンに適用した小型電気モーターがプロペラブレードを回転させることもできることに気づき、電気モーターを利用してブレードを直接駆動する最初の電気天井ファンを発明したのです。電気駆動のシーリングファンが本格的に市場に出たのは1890年代でしたが、実は当時、電力はまだ貴重なものであったため家庭用電力は照明用として予約制と云う制限がありました。そんな状況なのでシーリングファンの使用は主に工場やホテル、レストランなどに限定されてました。1900年代初頭のシーリングファンは、彫刻が施されたブレードを備えた装飾的なファンやハウジング、さらには内蔵の天井照明まで完備していて高級シャンデリアと同様に、所有者のステータスシンボルでした。それが現在では照明スイッチやリモコン、ホーム・アシスタントに接続されることが多く、制御がより便利になっています。
Mar 22, 2026
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ビンって漢字にすると「瓶」と「壜」のふたつがありますね。「瓶」ってのは本来は陶器の壺と云うか陶器全般を指してた名前らしい。一方、「壜」は土器の壺を意味し、ガラス製の容器という意味は日本独自の用法なんだとか。これがガラスビンだと、「壜」は高温の窯に入っている溶けたガラスを吹き竿に巻きつけ、息を吹きこんで成形する人工吹きのもの、「瓶」は全自動の機械(ガラス製瓶機)によって製造されるものを指すらしいです。人工吹きには「種巻き」「切り込み」「瓶出し」と呼ばれる3人の職人がチームになって製造します。古代からワインは大きな樽や陶器の甕(かめ)、皮袋に貯蔵して必要な分を直接杯や水差し容器に汲んで飲まれてて、16世紀頃には陶器や金属、木材、皮などの飲料容器が用いられました。それが1500年頃のイギリスの文献に、容器の栓の材料としてコルクの記述があって、その頃にガラス製造技術の進展によってワイン用ボトルが作られるようになったそうです。ひと口にワインボトルと云っても、ボルドーワインのボトルは肩の部分で澱をためるため「いかり肩」をしており、これが世界のワインボトルの原型になってますね。それに対してブルゴーニュ地方では「なで肩」タイプのワインボトルが主流です。これは、ブルゴーニュで生産されるワインはタンニンが少なく、澱も比較的少量であったため、ボトルを交互に並べて運搬できる利点からこんな形が使われてきました。他にも、ドイツワインのように肩が無くスリムな形状のライン型やモーゼル型、高いガス圧に耐えるよう下部が少し膨らんだ形で厚手のガラスを使ったシャンパーニュ型などさまざまな形があります。こうした様々な形状のワインボトルがありますが、どのボトルも押並べてサイズが750ml なんですな。1本750ml は世界標準サイズで、そのルーツはイギリスとフランスにあります。ワインボトル1本が750ml だと、1ダース(12本)をボルドーなどから輸出すると「9ℓ(9,000ml )=2ガロン」となり計算がしやすかったためです。さらにボルドー地方で使用される樽は、225ℓ(225,000ml )が主流。これを本数に換算すると、1樽あたり750ml ボトルで300本という容量になります。このよう750ml と云う数字は、ワインを生産するフランスと、それを消費するイギリスともに共通の便宜さから国際標準になったのですね。ところが、このワインボトル国際標準に準じてない国がひとつ有るのです。それは...日本。国際標準750ml に対して、日本産のワインは少し小さめの720ml になってます。この720ml と云うサイズ、日本酒好きの人ならなるほどねと理解できます。日本酒の単位が1合180ml なので、4合サイズだと720ml 。ボトルを作るのに、日本酒ボトルの製造ラインがそのまま使えるからです。ところが日本製ワインの評価が高まるにつれ、輸出に支障をきたすようになりました。輸出時に使用するコンテナのサイズは国際基準の750ml に合わせて作られているものがほとんど。それで輸出するとなると720ml 用のコンテナを新たに作らねばならず、それで最近は750ml サイズのボトルが使われ始めました。それでは「地球瓶」と云うのを耳にされたことお有りでしょうか?今はプラ製が多いですが、古くから駄菓子屋や煎餅屋でよく見かけた上部にブリキの蓋のついた大型のガラスビンのことです。日本に海外から本格的なガラス製造技術が導入されたのは、16世紀後半の安土桃山時代に遡ります。1549年にフランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教布教に伴い、ポルトガルなどからビードロ(吹きガラス)の技術が長崎にもたらされたのが出発点なんですね。1570年に長崎でポルトガル人がガラス工場を建設し、その後オランダからも技術が伝承されました。しかし、日本のガラス製造技術は、江戸時代まで普及することはありませんでした。その理由は、漆器や陶器などガラス以外の製品の製造技術が高かったからだと云われてます。日本人が本格的にガラス製品を作り出したのは、明治時代の文明開化によって本格的な近代工業としての技術が確立してからで、約150年前に遡ります。そんな近代ガラス製造が大きく開花したのが大正時代です。この時期に作られたガラス製品のひとつが地球瓶だったのですね。今では個装の菓子が大半を占めてますが、大正時代のお菓子に個装は無く剥き出し。そこで衛生的にお菓子を管理できる当時の素材として、また透明で有ることでディスプレイとしての役割も担ってガラスビンが重宝されたのです。ところが、この地球瓶を作るのが一筋縄でいかない。なにしろ吹いて作るガラス製品で最大のサイズ。1度に巻き取る素地は2kg にも及ぶらしい。ガラス職人がひとつひとつ手作りしてるので、仕上がりも完全な球体ではない。蓋の部分も1枚のアルミ板を「ヘラ絞り」という技術を用いて職人によって作製されてます。今では職人が減っているため、直径が30cm でも1万円以上もするそうです。地球瓶と同じように、駄菓子屋なんかに置いてるガラスビンで、蓋が斜めについたタイプもありますね。これは猫が座った形に見えることから「猫瓶」と呼びます。
Mar 21, 2026
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1967年に「殺しの烙印」と云う日活映画が公開されました。主演は「エースのジョー」こと宍戸錠です。このころの日活と云うと、宍戸錠や小林旭、高橋英樹を主役にアクション映画花盛りの時代です。この作品の監督は鈴木清順。ところが日活社長 堀久作が鈴木清順の実験的とも言える作風を評して「わからない映画ばかり作られては困る」と発言。鈴木清順を解雇してしまったのですね。これに抗議したファンや映画関係者は「鈴木清順問題共闘会議」を結成、デモを行うなど一時は社会問題に発展しました。解雇後、妻や彼を慕う人々に生活や仕事を支えられ、梶原一騎プロデュースの「悲愁物語」で鈴木清順は映画界に復活します。そして騒動となった「殺しの烙印」は、観客や批評家に受け、カルト映画としての評価を得るに至ったのです。2020年には英国映画協会が選定した日本映画ベストワンにこの「殺しの烙印」が選出されてます。活動再開後に鈴木清順が撮った「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」「夢二」は「大正浪漫3部作」と呼ばれ、幽遠な映像美に度肝をぬかれた方も多いでしょう。1980年に公開された映画「ツィゴイネルワイゼン」は原田芳雄と大谷直子主演の作品で、共演陣には大楠道代や藤田敏八、松田優作、加賀まりこ、中村嘉葎雄、沢田研二、坂東玉三郎そして樹木希林と非常に豪華な布陣。キネマ旬報ベストテン第1位、ベルリン映画祭特別表彰、ブルーリボン賞最優秀監督賞、日本アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀助演女優賞を受賞しました。「生きてる者は本当は死んでいて、死んでいる者が生きている」と云うなんともややこしい設定の映画です。Zigeunerweisen 「ツィゴイネルワイゼン」Trailer予告編「ツィゴイネルワイゼン」の翌年に公開された「陽炎座」。鈴木清順の代表作のひとつで、「フィルム歌舞伎」と呼ばれた傑作。新派の劇作家である松田優作が、ひとりの女に翻弄される物語。ドイツ女性の楠田枝里子と病院前の階段で出合い会話する松田優作。しかしその時間に、楠田枝里子は病室で息を引き取っているはずだった。芝居小屋「陽炎座」で妖怪の芝居を観ていると、いつしか楠田枝里子の物語になっていたのです。やがて陽炎座は崩れ落ち、池で心中死体が上がったと騒ぐ村人たち。祭ばやしが鳴り響く中、不思議な部屋でかつて一夜をともにした大楠道代を見つけた松田優作は、現実世界の自分に一礼すると、大楠道代と背中合わせに着席すると云うお話。この映画、ストーリーが幾度観てもはっきりつかめない。ところが、どのシーンも美しく、また気味悪い。他に類を見ない見事なアート作品なんですな。原作は1913に発表された泉鏡花の小説で、大正浪漫の幻想的な世界を描いた名作です。Kagero-za 「陽炎座」Trailer予告編1991年公開の「夢二」は大正時代の画家"竹久夢二"を題材に、女性たちとの華やかで幻想的なつながりを描いた作品です。これも独特な映像美と難解な物語の進行で、観客を幻惑する作品なんですね。主演の竹久夢二役は沢田研二が演じ、相手役に宝塚出身の女優 毬谷友子が演じてます。とにかく鈴木清順の作品はストーリーを追いかけるのが難しい。なのにどれも美しい映像美で、圧倒されるのですね。なんなんでしょうね、観るものを引き込んでいく圧倒的な美しさ。こう云う作風は外国の映画では先ず見当たらない。私的には鈴木清順の美学がもっとも発揮されたのは「陽炎座」ぢゃないかなぁ。鈴木清順が晩年メガホンを取った「オペレッタ狸御殿」はミュージカル調の映画です。主演は「HERO」や「LOVERS」のチャン・ツィイーとオダギリジョー。「オペレッタ狸御殿」は美空ひばり主演映画「狸御殿」のリメイク作品で、亡き美空ひばりがデジタル再現されて出演しています。これも鈴木清順の映像美がいかんなく発揮された作品で、私はDVDを持ってます。この作品のアバンギャルドな作風は、世界中の監督達に強い影響を与えたらしいです。
Mar 20, 2026
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ちょっと不謹慎な話ですが、暖かくなって女性のはくスカート丈が短くなり、エスカレーターで登ってる前に女性がいたら何処に視線を向ける?だいたい長いエスカレーターだったら、スマホの画面見てるし、短くても目の前の女性をジロジロ見る人はまぁ居ないでしょう。そんなんしたら、ヘンなヤツと間違われる。だけど何の気なしに眼の前見たら、よほど前後でくっついてない限り、足が見えるハズです。と、云っても膝ぢゃなくて、後ろからですから脚の裏側、ご本人もあまり見る機会のない領域。膝の裏側、窪んだ部分を見ると、くぼみ方や肉の付き方が十人十色。このくぼみは「ひかがみ」と云い、漢字でかくと「膕」と云うムツカシイ字。脚の関節部で、腿(もも)と脛(すね)を繋ぐ部分、表側は「膝」ですが、背面が「ひかがみ」になります。ひかがみは、まっすぐ立った状態で両側がくぼんでます。中央のふくらみを形成してるのは、ひざの関節の後部でXの形に交差して、大腿骨と脛骨をつないでいる「前十字靭帯」と「後十字靭帯」です。足の裏の「土踏まず」は、かかとから指の付け根にかけての縦アーチ構造で、衝撃を吸収するクッションの役割を果たしますね。この土踏まずがちゃんと無いといわゆる「扁平足」。疲れやすかったり足が痛くなるばかりでなく、腰や股関節まで痛めてしまうし、外反母趾を併発することも多い。これと同じように「ひかがみ」も両側がきっちり窪んでいるのが理想の形なんですな。もともと「ひかがみ」と云う言葉は「引屈(ひきかがみ)」と云う言葉が転訛したもので、奈良時代には「ひかがみ」「よほろ」は21歳~60歳までの男子と云う意味も有りました。律令制度の夫役(ぶやく)の対象である男子は脚力を要したことから、本来のひざの裏と云う意味が転じて、このようになったのですね。この「ひかがみ」を重要視しているのが剣道や弓道、柔道と云った日本古来の武道です。剣道における「ひかがみ」の役目は、特に中段の構えで左足の膝裏を適度に張り(緊張させ)、緩まないように保つことが、安定した下半身と速い打突の「溜め」を生む基本動作です。緩むと腰が沈み、動作が遅れる原因となります左膝裏を張ることで、相手との攻防における「合気」を保ち、素直な技を出すための「溜め」が生まれるのですね。剣道で中段の場合「左のひかがみ」が折れることを嫌います。稽古不足であったり、普段からおちつきのない剣道をしてると、ひかがみが折れ、足幅も広くなり、打たれてはいけないところを打たれてしまいます。「ひかがみ」は、まさにその人の稽古の質と心のバロメーターでもあるのです。剣道における「ひかがみ」について弓道では「射法八節」と呼ばれる、射の動作を八つに分けた指導法に「ひかがみ」の名がみれます。足を踏み開き、腰を据えてしっかりと「ひかがみ」を伸ばし、丹田に息を下ろして下半身を安定させます。能楽など古典芸能の所作でも、武道と同じように「ひかがみ」が重要視されるのですね。
Mar 19, 2026
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最近のカレー専門店で出てくるカレーライスはご飯の上にカレーが既にかけられてサービスされるのが多いですね。昔ながらの喫茶店やちょっと高級なレストランでは、ご飯とカレーが別々に提供される。このカレーを入れる器を「カレーソースポット」と呼びますが、この器ってカレーだけぢゃなくドレッシングやクリームを入れる器としても使用されるので一般的には「ソースポット」と呼ばれてます。あの取っ手のついた銀色に輝くアレです。この「ソースポット」を英訳すると「ソースを作るための鍋」。なんかヘン...英語圏ではソースポットのことを「グレイビーボート(Gravy boat)」と呼んでます。グレイビーボートの「グレイビー」は肉を煮焼きするときに出る汁や、それをもとに作られる濃厚なソース「グレイビーソース」のことです。このグレイビーボートについてる注ぎ口が船の舳先のように見えるため、「ボート」って名前が着けられたのですね。この注ぎ口からしたたり落ちるソースを受け止めるために、ボートを置くための皿が付属してるのも有りますが、町場の喫茶店のカレーなんかはそのままカレーソースポットをテーブルに置きますね。このソースポットの歴史は古くて、17世紀末頃のフランス宮廷で流行した形状が由来とされてます。注ぎ口とハンドルを備えた銀製のソースボートは、1690年初頭には使われてたことが確認されてます。70年代のフランスで始まった従来の重厚なソースや濃厚な味付けを否定し、素材の味を活かした軽やかなソースや芸術的な盛り付けを特徴とした「ヌーベルキュイジーヌ」に応じてソースボートも独創的に進化していったのですね。このフランスでの流行が18世紀の英国に大きな影響を与え、英国では初期はイングランド産の銀製や、1740年代からはイングランドの磁器によって模倣されるようになりました。この時代、西洋の陶磁器製品シェアを占めてたのは中国製だったのですが、ことグレイビーボートになると中国製に魅力的なモノが見当たらなかったのです。そのため中国製に覇権を握られてた英国の陶磁器工場にとって、グレイビーボートは重要な製品になったのですね。18世紀後期になると、初期の磁器製ソースボートの凝ったデザインは、中流階級の市場が拡大されるにつれ簡素なデザインになっていきました。多種多様なデザインが生まれ、銀製の製造が縮小していきました。そして英国のウェッジウッドが進化させた新たなアイボリー色(淡いクリーム色)の釉薬をかけた陶器「クリームウェア」が、それまでの磁器製では製造が常に困難であった大皿の生産に適していたため、ソースボートは単品ではなく、ディナー用の食器類一式の一部となっていったのですね。と云うワケでカレーソースポットと云っても、インド発祥ではありません。単に西洋料理用だった器をカレーに使ってみたところ、上品で素敵だったことから使用されるようになったのですね。
Mar 18, 2026
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訪日外国人観光客が日本に着いて先ず驚くのが自販機の多さとよく云いますね。ジュースやビール、タバコの他、パンやハンバーガー、冷凍餃子、ラーメンから うどん・そば、カレーライスの自販機まで設置してるとこがあります。しかし自販機設置台数そのものは、2000年の約560万台をピークに減少傾向が続いており、2023年末時点では約393万台まで減少しているそうな。原因は物価高による商品の割高感に加え、人手不足や設置・運営コストの上昇で大手メーカーの設置台数縮小が続いてるかららしい。なんせ自販機のコカ・コーラが500ml で200円の時代ですからね。それに加えてコンビニの普及もあるし、キャッシュレス化が浸透してるので、コカ・コーラやサントリーの自販機に一部導入しているとは云え、まだまだ小銭を用意しなくちゃならないのが時代に即して無いのでしょう。で、こうした自販機のコイン投入口なんですが、全部横型になってます。セブンイレブンなどで売ってるカップ式のコーヒー販売機などもやはりコインの投入口は横向きですね。これは自販機の構造がそうなってるためなんですね。自販機は売切商品を出さないために、いかに商品のストックスペースを確保するかが重要です。そこで自販機本体ではなく、「扉」にコインの識別装置を組み込んで小型化と薄型を実現してるのですね。それで多くの飲料自販機は、コイン収納スペース確保のため5円と1円は使用できなくなっているのです。こうして内部スペースを確保し、少しでも商品のストックを多くしてるのですね。ただこうした自販機の横型コイン投入口はコインがゆっくり落ちるためちょっと識別に時間かかるのですが、飲料や食べ物の自販機に人が並ぶことは稀なので、スピードは気にしてないのです。しかし駅の券売機ともなると、そうはいきません。ゆっくりでは、たちまち人の列ができて混雑することになります。そこで券売機のコイン投入口は縦型になってるのです。短時間で多くの硬貨を処理する必要がある券売機では、硬貨を高速で転がし、識別装置へ素早く送り込むため、縦向きの投入口が適しているからです。そのため券売機の内部には大量の硬貨を瞬時に判別できる高機能な装置が使われています。また利用者にとっても、手に持った硬貨をそのままの向きで入れやすいのですね。では、食道の券売機は縦型?それとも横型?牛丼やカレーの「松屋」券売機を見ると縦型ですね。やはりスピード重視のようです。他店の券売機もほとんど縦型です、。そもそも券そのものがスペースとるものでないし、それより券売機に人が並んで、料理オーダーが遅くなるのを嫌うからでしょうね。とは云え、コイン投入口が横型のものも存在してて玉石混交状態かな?ちなみに古い自販機では2021年以降の新500円硬貨が使えないこと多いです。自販機内の識別機が、硬貨の素材、重さ、厚さなどを検知して真偽を判断しているのですが、新500円玉は、新技術により素材などが旧硬貨と異なるため、対応していない古い機械では偽造硬貨と判断され戻ってきてしまうためです。同じように「ミャクミャク」などの記念500円硬貨も使えません。逆に1999年まで製造された旧500円硬貨も自販機で使用できません。日本の500円硬貨と酷似した韓国の変造500ウォン硬貨を使った大量の変造硬貨事件が90年代に続出したからなんです。重さを調整したウォン硬貨を自販機に入れ、安価な飲み物等を購入することで差額の利益を得る犯罪なんですが、同様の被害が全国各地に広がったことを受けて使えなくなったのですね。
Mar 17, 2026
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私はリタイヤしてて、公の場に出ることもないので、式服とジャケット1枚残して、スーツ類は全部処分してます。普段着も旅行にでかけるときも、アディダスのトレーナーとかスウェットパーカーだけ。冬だったらこれにダウン着るくらいです。考えてみたらなんか1年中同じ格好してるような。トレーナーとは別に「スウェット」ってのも有りますね。ご存知のように同じものです。スウェットはコットン(綿)を平編みにした生地の総称を指すのに対し、トレーナーはスウェット生地を使ったトップスの「和製英語」なんですね。なのでスウェットは上着だけでなく、パーカーやパンツもそう呼びます。トレーナーはスウェット生地を使ったフードのない長袖トップスのことですが、日本独自の呼び方なので、海外のお店に行って「トレーナーください」と云っても、スポーツのトレーニングを指導するコーチかワンちゃんや馬の調教師のことですから「???」となるワケです。正しい呼び方のスウェットは本来「汗(sweat=スウェット)」から来ていて、プルオーバーのシャツは「スウェットシャツ」、パンツは「スウェットパンツ」と呼ばれるワケですね。しかしスウェットシャツを直訳すると「汗シャツ」ですよね。そこでスウェットと云う名前から「トレーナー」に変更したのがファッションデザイナーでヴァン(VAN)ヂャケットの創業者だった石津謙介です。石津は大のボクシングファンで、選手を指導するトレーナーの人たちがスウェットの上下を着ていたのを見て「日本ではトレーナーと呼んだ方が通りが良い」と自社商品に「トレーナー」という名前で発売したのが始まりです。石津謙介は戦前、欧米の文化に対する憧れが強かったので中国の租界都市に行けばそんな人々の文化に触れられると考え、妻子とともに天津租界に移住し服飾関連の仕事をしてました。ところが終戦になって、アメリカ東海岸の名門大学(アイビーリーグ)出身者の米兵通訳を担当し、ここで伝統を活かしたアイビーファッションの魅力を学ぶのです。帰国するとレナウンに就職しますが、1951年に独立して、大坂の西心斎橋に石津商店を設立します。その石津商店の名称を「VAN」に変えたのが1954年。VANはブレザーとボタンダウンシャツをベースにした学生ファッションスタイルを「アイビールック」として紹介して、たちまち若者ファッション文化に改革をもたらすのですね。もう私の青春のファッションはこのアイビールックを始めとする「アメトラ(アメリカン・トラッド)」一辺倒でしたね。トラッドよりもシンプルな「コンサバ」もよく身に着けてたなぁ。とは云っても学生の身で「ブルックス」や「J.プレス」なんて買えるのは極めて稀で、ほとんど国産のVANやJUNばかりでした。1964年(昭和39年)の夏、東京銀座のみゆき通りにこのアメトラスタイルの若者が集まりました。「みゆき族」と呼ばれた若者たちで、男はボタンダウンシャツにマドラスチェックの細身パンツ、ローファーと云ったコンチネンタルスタイル。女性はロングスカートにベルトを垂らし、ハンカチを頭に巻いてローヒールってのが定番。そして着替えなどを入れた大きなVANの袋を抱えるのが決めスタイル。ところが東京オリンピック開催を控えた警察のいっせい補導で、秋には完全に姿を消してしまったのです。このころの若者は従順やったんやなぁ。今は不定期刊行になってしまった男性ファッション雑誌「メンクラ(MEN'S CLUB=メンズクラブ)」、私ら青春のバイブルでした。創刊(1963年)当時から「アイビールック」について大きく取り上げ、一貫しトラディッショナルなスタイルを掲載し続けてきた雑誌です。メンクラに名前を変える前「男の服飾」と云う雑誌でしたが、このとき1956年にアイビー・ルックの特集を組んで、これで「アイビー」が流行語になったのです。とにかく石津謙介は、高度経済成長の時期に「メンズファッションの神様」として大活躍した人物です。もともと野球選手が寒い日の試合で肩を冷やさないようにユニフォームの上に着ていたウォームアップ用ウェアで、厚手のメルトン生地を使ったボディにレザーの袖を取り付けた保温性の高いアウター「スタジャン」も石津が作った言葉です。これはスタジアムジャンパーが略化された名前ですが、英語だと「アワードジャケット」とか「バーシティ(代表チーム)ジャケット」と云われるものです。「スタジャン」に対して「スカジャン」は?ご存知ですよね。こっちはアイビーとは関係なくて、「ヨコスカジャンパー」の略語で和製英語。英語だとスーベニアジャケットですかね。朝鮮戦争当時、米軍の横須賀基地に配属されたある米兵が支給されたナイロン軍服に刺繍を入れたら、人気となり彼らの間に広まりました。多くの刺繍柄が日本と東洋をイメージしているのはその理由なんですね。石津謙介が作った言葉は他にもあります。「時と場所と場合を考慮して」という意味で用いられる「TPO(Time、Place、Occasion)」もそうですし、「カジュアル」も「Tシャツ」「ステンカラーコート」「ヘビー・デュティー」などの和製ファッション用語を定着させたのが彼なんですね。石津は2005年、肺炎のため青梅市の病院で死去しますが、ファッションに最期までこだわり続け、寝たきりになってもパジャマを着ることを拒絶。三宅一生デザインのシャツを着たまま息を引き取りました。享年93歳。
Mar 16, 2026
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私は小学校高学年から中学卒業までアマチュア無線(HAM)にのめり込んでました。今ではメーカー製の通信機器が揃ってますが、当時は手作りが基本。他に米軍のお下がり軍用無線機やキットも売ってましたが、子供の身分では買うことがかなわず、全て手作りです。その時代の通信機器と云うのは、ICはおろかトランジスターでもない、真空管だけの構成で、大坂の日本橋と云う東京の秋葉原と同じ電子部品のお店に足繁く通ったものです。アマチュア無線を始めるには国家試験を受けてアマチュア無線技士の資格をとらなければなりません。私も大坂の門真と云う、現在のパナソニック、当時はナショナルの本社があった駅近で3級の国家試験を受けました。3級程度だと、小学生ではルート計算を学校で習ってないのでそれだけは自分で学ばなきゃなりませんが、他は自然に身に着けた知識で克服できました。アマチュア無線技士の資格、今は第1級~第4級までの4区分に分かれ、級ごとに操作可能な無線設備の出力や周波数帯が異なります。第1級がイチバン難しくて、最大出力1kW までの送信機が使えます。級が下がるにつれ、出せる出力が小さくなります。現在は4級までありますが、当時は3級がイチバン下で、私はそのイチバン下のアマチュア無線技士でした。今は4級でも20Wまでの電波が出せますが、私がやってた当時は3級で10Wまででした。昨年実施された大阪・関西万博では、アマチュア無線の特別記念局の運用がおこなわれました。とは云え、スマホによるインターネット通信がアタリマエになった現在、いくら海外の局と会話できると云っても、アマチュア無線は衰退の一途を辿ってます。日本は1995年に約136万局もあった世界最大の無線大国でしたが、昨年末で免許取得者数は33万3000人まで落ち込みました。しかもアマチュア無線技士の資格は一度取得すると更新の必要が無いので、免許は持ってるけど実際は運用してない人が大多数です。この世界でも実際に運用してる人は高齢者が多く、若者でアマチュア無線に興味示す人はどんどん減少してます。しかし災害時など、通信インフラが崩壊したときは、緊急時の連絡手段として再評価する動きもあります。アマチュア無線は絶滅危惧種に等しい存在ですね。何も高価な通信機器を買わなくても、スマホひとつで世界中と通信できるのですから。ところが目を世界に向けると、世界中にはいまだに推定300万人のアマチュア無線家が存在し、その1/4はアメリカ人らしい。さらに世界のアマチュア無線の局はわずかですが、年間1%ずつ成長を続けてるのです。アメリカでアマチュア無線人口が増えてる一因は、モールス信号のライセンス要件が免除されたことです。日本でも3級以上はモールス通信もできますが、4級は通信が禁止(つまり勉強しなくていい)されてます。そして現在の日本のアマチュア無線人口のほとんどは、モールス通信のできない4級なんです。モールス信号と云うのは短点を「トン」、長点を「ツー」と表現するアレです。この短点と長点を組み合わせて1字を表現します。欧文のモールス符号だと「A」は「トン、ツー(・-)」です「A」のモールス符号音。モールス信号の歴史は非常に古いです。モールス信号を作ったのはサミュエル・モールスと云うアメリカ人で、1837年のことでした。モールス通信は音声通話が不可能な電波の弱い状態や雑音だらけでも聞き取れるメリットがあります。つまり遠隔通信に強いのですね。そのため20世紀前半まで電報などの文字通信で多く使われました。無線通信だけでなく、船どうしの通信では「信号灯」を使ってモールス符号を送受信してます。しかし1920年代ごろからテレタイプ端末による電信、1930年代からテレックス、1980年代からファクス、1990年代後半から電子メールなどデジタル通信の発達により次第に使われなくなっていったのですね。遠洋航海の船舶間や船舶と陸上との通信では、通常の通信から万一の際の遭難信号(SOS)まで、長い間モールス通信が行われました。これも通信衛星の登場によってモールス通信は縮小し、非常用の通信手段としても国際海事機関の決定で基本的に使われなくなりました。日本でモールス通信が残ってるのは遠洋漁業など一部の漁業無線と自衛隊による一部の通信、そしてアマチュア無線だけになりました。今でも陸上自衛隊通信学校や海上自衛隊第1術科学校、水産高等学校で電気通信術訓練の一環としてモールス符号による通信は教えられてます。プロの無線通信士には総合無線通信士や海上無線通信士、航空無線通信士などの資格があります。船との連絡がモールス符号だった時代、船舶通信士は1971年が全盛期で2,000トン以上の外航船が1,531隻、船舶電信局数は1,899隻、船舶通信士は4,006名、また海岸局には数百名、遠洋漁船にも多数の無線通信士が乗船してました。しかし1999年に衛星通信などを利用した自動・デジタル化された無線通信システム(GMDSS)に完全移行して、専任の無線通信士は乗船しなくなり、海上無線通信士の職場は無くなったのです。現在、モールス通信のできる免許のある漁業無線局(地上)は釜石や千葉など10局があります。これだけの漁業無線局があるので通信士は約100名程度になります。それ以外に海外まき網、遠洋マグロ漁の漁船にもモールス通信の免許があります。こっちの通信士は約50名程度です。しかしモールス通信が廃止された船無線で、乗船してる通信士は何をしているのか?所属する漁業無線局と定時連絡をして安全を確認してるのですね。昨今の船はWiFi 環境があるので、スマホのLINE連絡もできます。つまり船は通信インフラの多重化を確保して、万一を防いでいるのですね。ただほとんどの船に無線通信士は乗船しないので、航海士が通信業務を兼務しています。海事無線には複数の国家資格が必要なので、ほとんどの遠洋航海船は無線実習をおこなってます。モールス通信は主役からは身を引きましたが、人命を守る最後の通信手段として捨てられないのですね。現在もモールス通信のできる資格を持った人材を募集し続けてるらしいです。相変わらずアマチュア無線の世界では遠距離通信に強いモールス通信は数こそ少ないものの健在だし、この通信方式は0(ゼロ)にはならないのかも。
Mar 15, 2026
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