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風呂敷で古いものは正倉院に宝物を包むためのそれらしきものがあるそうです。古くは衣包(ころもつつみ)とか平包(ひらつつみ)と呼ばれてました。風呂敷って日本が生んだ和文化の代表的グッズで、その便利さから若者でも愛用してる人もいますね。なにより風呂敷の利便性の良さは、包むものが無いとき小さく畳んで持ち運べる。これがバッグなんかだとそうはいかない。しかし風呂敷に複数のものを包んで、途中で立ったまま一部を取り出して、また包み直すってのはムズいので、風呂敷ってのは点から点への移動に便利な包装と思います。で、この「風呂敷」と云うネーミング、考えてみたらなんで「お風呂」?諸説あるのですが、ひとつは奈良・平安時代のお風呂は今の「湯船に浸かる」スタイルではなく、蒸気を浴びる「蒸し風呂(風呂殿)」や、お湯を体にかける「湯浴み」が一般的でした。で、蒸し風呂に入るとき、床やスノコの下に薬草を入れて燃やしたのですね。ところが直接床に座ると、熱気で熱いので布を敷いてました。この布が風呂に敷くから「風呂敷」の始まりで、そのまま名前になったと云うもの。別の説では、室町時代の3代将軍 足利義満が京都の室町に「室町殿」と云う邸宅をつくりました。この邸宅は、その美しさから「花の御所」と呼ばれたのですね。そして花の御所には湯殿も併せてつくられました。。このころから日本人は風呂に入るのがことのほか好きで、将軍は、各地の大名を招いて入浴と宴会でもてなしたのです。このとき招かれた大名たちは、入浴するとき自分が脱いだ衣をほかの大名のと間違えないよう、家紋をつけた布を敷いて、その上で脱いだり着たり、脱いだ衣をこの布で包んでたのです。この布も風呂に敷くから「風呂敷」と呼ばれるようになったとのこと。このような入浴の習慣は江戸時代にも継承されていき、江戸時代初頭に銭湯が誕生しましたが、ここでも庶民が衣類や入浴用具を「平裹(平包)」に包み持って銭湯に出かけていったのですね。風呂に敷く布で包むことから「平裹(平包)」に代わって「風呂敷包み」や「風呂敷」と広く呼ばれるようになりました。このようにして広まっていった包むための布としての風呂敷の名前は、やがて「風呂で敷く布」から「包む布」として行商人たちによって全国に広められていったのです。江戸時代の庶民がどれほど風呂敷を用いたかは、寛保3年(1743年)江戸に店舗をかまえた呉服商「大丸」の風呂敷仕入高で知ることが出来ます。寛延3年(1750年)には14,500枚だったのが、78年後の文政11年(1828年)には60,670枚と飛躍的に増加してます。いたる処で風呂敷による人力運搬が見られ、かもじ売り、小間物売り、針売り、呉服屋、古着屋から古本屋や絵草紙屋、貸本屋、さらに猿廻し、角兵獅子など実に多くの行商人に風呂敷が利用されました。江戸の町は火事の町でもありました。関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回の大火が発生しました。同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回ですから、江戸の火事の多さが突出していると云えます。そこで商家に上がっている奉公人や、夜鷹(非公認の遊女)などは、火災に備えて五幅風呂敷(約170cm)の上に夜具を敷いて眠り、イザ火事が起こった際には布団に衣類や所持品を投げ込んで、布団ごと風呂敷で包んで避難していたそうです。明治時代になって洋式カバンや瓶類が出廻り始め、明治末年には「三越」呉服店の包装紙が登場しました。それでもなを殆どの日常運搬には風呂敷が用いられてました。実用品、贈答品として幅広く使われる風呂敷の需要は、繊維工業が発達するにしたがい、短期間で大量に生産可能な工業的なものへと変化していったのですね。ところで泥棒のイメージ、昔は唐草模様の風呂敷に盗品を包んで背負ってる姿でしたが、唐草模様ってのは元来吉祥文様であって、めでたいもののひとつなんですね。唐草模様は、生命力が強くどこまでも伸びていく蔓草(つるくさ)を図案化したもので、「子孫繁栄」「長寿」などを意味する非常に縁起の良い吉祥文様です。そのため、昭和後期まで一般家庭で広く普及しており、どこの家にもあった定番の風呂敷の柄でした。それがTVや漫画などで、視聴者が一目で「泥棒」と認識できるよう、あえて最も普及していた唐草模様の風呂敷を小道具として使用した結果が「泥棒=唐草模様の風呂敷」ってイメージになったのですね。風呂敷の柄って時代の変遷もあったでしょうが、今はいろんな美しい風呂敷が売られてますね。京都には古くから風呂敷屋さんが数多くありますが、有名どころは「永楽屋」「京都掛札」「さんび堂」なんかでしょうかねぇ。その中でも風呂敷と云って真っ先に思い浮かぶのは、なんと云っても「永楽屋」です。屋号を織田信長から拝領したという創業400年の老舗です。メインは手拭いですが、オリジナルのモダン柄風呂敷も揃ってます。
Feb 16, 2026
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自民圧勝を受けて、いよいよ特別国会が18日に開催される見通しですね。召集日に首相指名選挙が行われ、再び首相に指名される高市首相は、同日中に第2次内閣を発足させるワケです。今回は首相は現在の閣僚を再任するとき、連立を組む日本維新の会議員が新たに入閣する可能性があるとのこと。首相ともなれば、毎日のようにTVや新聞のニュースに登場するワケですが、そのとき使われてる呼称は「高市首相」と「高市総理大臣」とふたつの表現がありますね。「首相」と「総理大臣」って同一人物にふたつの呼び方あるって?実は、「総理大臣」と云う名前は日本独特のものなんです。日本国憲法では「内閣総理大臣」が正式名称なんですが、「大臣」と云う役職名はかつて朝廷から授かってた称号で、「右大臣」とか「左大臣」などにも使われてました。国際的には「prime minister(プライム・ミニスター)」で、「首相」と云う呼称が充てられてます。そのため、国会答弁や内閣改造などの記事では「総理大臣」と云う呼称が充てられ、それ以外のニュースでは「首相」と呼ばれてるんですね。閑話休題。航空業界にはいろんな専門用語がありますね。例えば一般業界でもよく使われる「OJT(On-the-Job Training)」。「ロミンガーの法則」とも呼ばれてる、「70:20:10」の法則。アメリカのリーダーシップ研究機関であるロミンガー社が、さまざまな経営者を対象に、何がリーダーとしての成長に役に立ったかを調査したところ、「経験」が70%、他者からの「薫陶(感化し教育すること)」が20%、そして「研修」は10%だったそうです。で、このロミンガーの法則でもっとも大きいパーセンテージを占める「経験」に着目して、実務を通じて上司や先輩社員が新人、未経験者に対して必要な知識やスキルを計画的に指導・育成する手法がOJTですね。これがエアラインで云うとCA(キャビンアテンダント=客室乗務員、昔のスチュワーデス)の場合、新人訓練期間はおおむね2~3ヶ月です。これにはサービス方法などを覚えるサービストレーニングや、火災、緊急着陸や着水、けが人や病人発生時の対処法などを学ぶ緊急時のトレーニングなんかがあって、最後の仕上げがOJTになるワケです。インストラクターと一緒に機上で実際の業務を行い、これをクリアして初めて一人前のCAになれるワケですね。CAにとって最重要な訓練が「エマ訓」です。OJTのところで述べた緊急時のトレーニングのことです。外資系のエアラインでは「Recurrent Training(リカレント・トレーニング)」と呼んでます。リカレントは「循環する」「繰り返す」ってイミですね。日本語の「エマ訓」は「Emergency(エマージェンシー)訓練」を略したものです。このエマ訓は、どんなに経験を積んだCAでも年に1回、実習を中心とした訓練を受けなければなりません。この訓練にパスしないと次の1年間乗務はできなくなります。CAはエマ訓の前は目にクマができるくらい猛勉強します。なにしろエマ訓では、機内の火災から救命救急処置までの対応を、実機を模した模擬施設(モックアップ)やプールで訓練して、身体が自然に動くレベルまで繰り返し行うのですね。CAにとって安全業務の最重要訓練となります。エマ訓はパイロットとCAが合同で行うのですが、メインはCAです。パイロットはコックピットでパイロット役をする人もいますが、ほとんど客席でお客さま役をしています。緊急事態発生時の対処訓練ですが、例えば着水だったり、エンジン火災だったり、オーバーランだったり、胴体着陸だったり色々なパターンがあります。毎年想定されるシナリオは違いますが、最後は緊急脱出になるようなシナリオになってます。ドアが開かなかったり、外を見たら火災が発生していてそのドアは使えなかったり、車椅子のお客さまが搭乗されていたり、さまざまなシナリオの中でCAは臨機応変に対応します。中には意地悪いキャプテンがいて、緊急脱出のときにあえて大きな手荷物をもって脱出しようとしたり、パニックになってCAの云うことを無視する人を演じたりする人もいます。パイロットもCAがキャビンで何をしているのか知っておかなければならないので、それでパイロットと合同で訓練をやっているワケです。パイロットはパイロットで別に定期訓練がありますし、年に1度審査があります。すべてのエアラインの乗務員は、ほとんどの人が一生経験しないであろうことを1年に1度必ず訓練しているのですね。客室乗務員トレーニング:不時着と水難救助 - BAAトレーニングCabin Crew Training shorts: Ditching and water survival - BAA Training近年、特に問題になってるのがモバイルバッテリー火災ですね。リチウムイオン電池の発火事故防止のため、どのエアラインでも預け入れ禁止で、必ず機内持ち込みするとか、座席上の収納棚に納めず膝上や座席ポケットで保管することとか、バッテリー端子にテープを貼ったり袋への個別収納など絶縁処理をしないといけないとか厳格化してます。それでも不届き者や政府で定めた規格外の粗悪品を持ち込む人はいるんですよね。昨年も那覇空港を離陸して羽田空港へ向かっている飛行中の全日空994便機内で、座席の下に置かれた乗客の手荷物からモバイルバッテリーが発火して、機内で消し止められた事故がありました。もうひとつ、近年とくに問題が多発している事案の訓練があります。いわゆる乗客によるパワハラや暴力沙汰です。アメリカのCNNによると、アメリカの航空会社ではこうした事案が年間4,000件以上報告されてるのです。なかには、乗客がコックピットのドアを開けようとしたり、CAの顔を殴ったり床に押し倒したりするなどの暴行も発生してます。そこでアメリカの航空会社では運輸保安局が主催する護身術の訓練にCAを参加させてます。この訓練では教官がゴム製のナイフを手に持ち、それをCAたちが殴り、踏みつけ、鎮圧する方法が含まれます。参加したCAは、このようなシナリオには決して遭遇したくないと思ってますが実際に発生してる事案なので訓練せざるを得ないのですね。30,000フィート(9144 m)上空に、バックアップは無いのです。一見、華やかに見えるCAだすが、裏では乗客の安全と快適な飛行のためにこんな訓練を積み重ねてるのですね。こんなにタイヘンなのに、JALのCAで年収は約400万~500万円程度です。新卒入社時で約350万円程度、チーフパーサーなどの役職に就くと700万円以上になるケースもあります。
Feb 15, 2026
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以前このブログで取り上げましたが、昭和を席巻した高級オーディオ装置を完備したジャズ喫茶が、今 海外で静かなブームになって欧米で日本のジャズ喫茶を真似て、ジャズカフェが急増してるとか。日本にはもうひとつジャズをベースにした飲料商売がありますね。「ジャズバー」です。こっちはお酒を楽しみながら、立派なオーディオ装置でジャズを聞く。ライブ演奏中心の"ジャズクラブ"はどうしても奏者に目がいきがちですが、オーディオでジャズを聞きながら、ジャズと相性バツグンのお酒を楽しめるジャズバーの方が私は好みです。ジャズクラブは、1920年代にラウドな音楽を流す他のクラブに対抗する形でアメリカで生まれました。それが日本でも昭和初期から独自の文化として浸透したのです。私のジャズクラブ、イチバンの思い出は先ごろ亡くなられた前タイ王妃をお忍びで大阪のブルーノートにご案内したことです。対する日本のジャズバーはレコード演奏が主で、夜間にライブ演奏も交えてやってるとこも有りますね。ジャズバーもジャズクラブに負けず劣らず料理も秀逸なとこが多いですね。上の画像の「BAR JAZZ」でも「牛すじ肉の赤ワイン煮込み」や「アボカドの糠漬け」など本格的なお料理が楽しめます。しかしジャズバーってのは歴史のあるお店が多いので、昭和独特の雑然とした内装のお店も多い。しかし最近のジャズバーはオーディオ装置もさることながら、一見客でも入りやすい(古いお店は常連客の巣で、敷居が高いとこが多い)雰囲気づくりに腐心してるとこが多いです。内装がスツキリしてて、照明も明るめ。東京・渋谷の「THE MUSIC BAR -CAVE SHIBUYA-」は、2020年に閉館した"代々木ビレッジ"で約9年間愛されたレコードバーが移転・リニューアルする形で、2021年にオープンしたジャズバーですが、ここの内装や音響設備を見ると、旧来のジャズバーと一線を画しています。大阪駅からひと駅の福島にある「KAFFE & BAR NELLIE」も2014年(平成26年)創業の比較的新しいジャズバーです。ここのコンセプトは20世紀最高のジャズ・ピアニスト「"セロニアス・モンク"の頭の中」となんとも啓示的。店舗のデザイン、内外装の施工を行う東西新風堂が手がけるお店なので、古風に見えてて、とてもオシャレな感じに仕上がってるのですね。CDはなく、すべてレコード演奏のみで、オーディオは「マランツ」や「マッキントッシュ」の真空管アンプと「アルテック」のスピーカーでかためてます。対する古くからあるジャズバー、例えばJR蒲田駅近くで1975年(昭和50年)創業の老舗ジャズバー「直立猿人(ちょくりつえんじん)」なんて雑然そのもの。これがいいと云うお客さんも多くて、長年営業続けてるのですね。内装見ると、いかにも"蒲田"です(笑)新宿ピカデリーの横にあるレジェンド的ジャズバー「新宿DUG」の創業は1961年(昭和36年)と歳相応にレトロ感いっぱいです。こちらは典型的な昭和のジャズバーですね。まぁモダンなのがいいのか、レトロ感あふれる方がいいのか、どちらも好み次第ですが、どっちにしてもジャズバー存在そのものが訪れてて楽しい。これは将来に渡って消滅しないでしょうね。
Feb 14, 2026
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先般の衆議院議員選挙で落選した中道(元 立憲民主)の岡田克也は、落選の原因を「高市人気」と「SNSなどで誹謗中傷の集中砲火をあびた」ことをあげましたね。枝野のように「自分の力不足」と潔く自身の責任を認めないで、他者のせいだけにするのはいかにも岡田らしい。このSNSの誹謗中傷発言こそ、今の時代を理解してない証拠です。古色蒼然とした頭では理解できないのでしょうが、今や若者だけでなく高齢者までSNSの情報を重視している。新聞やTVなどオールドメディアが必ずしも公平な報道してないことを知ってるからです。若者のTV離れと云われて久しいですが、それは好きなコンテンツを、好きな時間に、スマホで観るスタイルが定着してるのと、リアルタイム視聴よりも、見逃し配信や短縮動画(倍速視聴)を好む傾向があるからです。しかしZ世代の約6割が毎日テレビを見ると云う調査もあり、完全に離れているわけではなく、「見たい番組だけを見る」「高頻度だが短時間」という形へ変化している傾向もみられます。実際、TV局のコンテンツ・サービスに何らかの形で接触している人は92%を占めます。逆に全く接触しないは8%ということになります。この全く接触しないは、30代でも12%の数値がでています。しかし「TV局のコンテンツ・サービスに何らかの形で接触している」と云う数字は、裏があります。とりわけ19歳までの比率が高いのは、親と同居していて食事の時などに親が点けたTVをなにげなく観てたと云う人が多いと云うことです。自分から意識して視聴したのではないと云うこと。その証拠に親元を離れてひとり暮らしを始めた20代はそのようなこともなく「いずれにも接触なし」の生活になる人が増えるのですね。リアルタイムの放送はもちろん、録画再生、ネットでの番組配信、TV番組表、TV局のSNS公式アカウントに至るまで、これだけ多彩にあるTV局のコンテンツに、1週間を通して1度も接触がないということは、少なくない数の若者が、TV局のコンテンツに「そっぽを向いている」ということです。別の云い方をすれば、TVは彼らに「相手にされてない」のです。さらに親と同居してないZ世代を調べると、そもそも家にTVそのものを置いてないと云う人が1/4以上となり、「テレビを見る・見ない」以前にTVの必要性自体を感じていない人も居るのですね。このことから、次のような図式が見えてきます。「ひとり暮らしの人がテレビを持たなくなっている」+「ひとり暮らしの人の割合が増え続けている」=「今後もTVを持たない人は増え続ける」一昔前はTVがほぼ全世帯に普及し、電源を入れればいつでも自社製品(番組)を消費してもらえるという点がTV局の強みでした。消費者が自宅に居ながらにして、毎日、自社製品(番組)を消費してくれ、その媒体となるTVは消費者の方から進んで買い求めてくれたのです。これは、非常に有利なビジネス形態でした。それが、消費者がTVを持たなくなりつつあるのですから、このビジネスモデルは崩れつつあることを意味します。最近では、TV放送が映らない、チューナーレスのTVをネット動画視聴用などに購入する人も増えています。TV「受像機」そのものが、家庭から消え始めているのです。なぜこんな傾向が急激に起こったのでしょうか?コンテンツ別にとらえると、先ず報道番組が実は公平でないと云うことを視聴者が知ってしまったからです。これはTV局独自の責任ではなく、親会社(厳密には別会社)の新聞社の意向が影響してます。朝日新聞や毎日新聞がリベラル(左派)寄りとされる主な理由は、現行の日本国憲法の遵守を重視し、防衛力強化や憲法改正に慎重な論調を展開する傾向があるためです。それは太平洋戦争終了直後に遡り、これら新聞社の右派記者がマッカーサー元帥によって公職追放され、それに代わって社会党的なイデオロギーや政策を支持する記者が増えたこと。それが引き続き、過激な学生運動の背景を持つ人材がメデイア関係者に輩出され、それが独自のイデオロギーや採用に影響してるのですね。憲法改正に積極的な読売新聞や産経新聞など右派メディアに対し、このふたつの新聞社は平和・リベラルなスタンスをとることが多いのです。それがTV局にも影響し、自社の主張に有利なようにコンテンツの切り取りがおこなわれ、公平な報道が損なわれてるワケです。朝日新聞と毎日新聞の信頼度は必ずしも高いわけではなく、産経新聞と同水準の支持率なんですね。こうした傾向は日本のTV局の親会社が新聞社であることが原因してます。アメリカの主要テレビ局の多くは新聞社が親会社ではなく、ディズニーやコムキャストなどの巨大メディア・コングロマリット(総合メディア企業)が所有しています。そして、それぞのTV局は自社の政党支持を共和党か民主党かはっきり表明して報道してるのですね。その他の国々も概ね同じ傾向で、新聞社が親会社の日本の方が却って珍しいのです。バラエティ番組で云うと、とにかくどの番組も同じタレントばかりで、しかも芸のないのやおバカタレントが多くてつまらなくなってるのですね。これはTV局の広告収入が年ごとに減少していることと関係してます。代わって、インターネット広告費が右肩上がりで上昇してるのです。収入の減少は、即、制作費に響いてきます。すると「数字を持っている」本物のスターの出演を控えて、出演料の安い多くのタレントを出演させようとするのですね。しかし、視聴者にしてみれば「面白くない人や、一言も喋れない人ならいらない」となる。さらにタレントたちが芸能界やテレビ業界の内輪ネタで盛り上がるシーンが非常に多くなって視聴者は辟易してることです。そんなことはTV局自体がよく認識しているのですが、費用面でど~しようもない。すると視聴率かせぎの裏ワザに走るワケです。ひとつはユーザビリティ無視の番組開始時間です。昔は20時ちょうどに、いかりや長介が「8時だョ!」と声をかけて、ドリフターズのメンバーと観客が「全員集合!」と返す「8時だョ!全員集合」と呼応するように、各局とも8時から番組スタートときっちり決まってました。ところが近年は、どの局も◯時5分とか、◯時25分という風に5分刻みの分かりにくいスタート時間になっていて録画がしづらい。なぜこれほど細かいスタート時間を設定するのかと云うと、他局より先に放送してチャンネルを合わせてもらおうと云う魂胆で、夜の番組で、◯時56分、57分スタートが多いのは、他局の番組が終わってCMに入ったタイミングを狙っているからなのです。ひとつは間延びした特番が非常に多いことです。高視聴率の番組が2~3本連続するなんてことはめったにないから、高視聴率番組1本を長時間放送するほうがいいと云う考え方が蔓延している。また、長時間化することで経費が抑えられるため、制作費を抑えつつ、特別感を出そうと云う一石二鳥を狙っているのですが、観せられてる方は趣味やツールが増えて時間の概念が細切れになり、短尺ネット動画が普及した影響もあって、長尺のテレビ番組が苦痛になってくるのですね。クイズ番組とかトーク番組を2時間延々と流されたら、そりゃあ観たくなくなります。最後はみなさん必ずお目にしたことある手法です。TVのバラエティ番組なんかを観ていて、続きが気になると思った矢先にCMになってしまう。しかもCMに入る前に「このあと衝撃の結末!」なんて視聴者を煽るようなテロップを入れて盛り上げておき、CMが終了して番組に戻るとCM前の場面を再び繰り返して放映し時間を稼ぐやり方。しかも、それだけ待たされた挙げ句、CM明けの結末は衝撃的でもなければ、とりたてて面白くもないと云うパターン。このように番組の山場に挿入されるCMを「山場CM」とか「CMまたぎ」と云います。この言葉を作った慶応義塾大学の榊教授がおこなった調査では、山場CMを不愉快と感じる人は86%になると云う結果がでてます。つまり、ほんどの人が山場CMに嫌気がさしているのですが、それでも山場CMはなくならない。その理由は、CM放送中におこる視聴率ダウンを避けるためです。TVリモコンが普及し、チャンネルザッピングが日常化すると、民放ではCMによる視聴率急落を、なんとかする必要に迫られます。視聴率は番組制作サイドの命綱です。視聴率さえ高ければスポンサーも離れず、その番組を担当してる制作者の評価も上がる。そのため、視聴者がどんなにうんざりしてようが、山場CMを多用してCM中も視聴者を引き留めようとするのですね。しかし山場CMを不愉快と感じる人が86%だけにとどまらず、山場CMの商品について42%が「好感が持てない」、34%が「買いたくない」との調査結果も。話の流れが落ち着いたところで出る「一段落CM」と比較すると、山場CMが「商品を買いたくない」で3.8倍、「商品を覚えていない」も2倍と本来の効果をうち消している事実があるのですね。今では番組を録画してCMを飛ばして観る人が多く、やたら山場CMを乱用してもますますTV離れが加速するだけなのに、分かっていてもTV関係者は他に打つ手がないのです。そこにきて、TV局のコンテンツ・サービス以外でもっと気軽に楽しめるYouTube やTikTok など時代に即したコンテンツが溢れてきたから、TVの衰退は日を追うごとに加速するのですね。
Feb 13, 2026
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2019年に俳人で歌人の照屋眞理子が亡くなった。68歳と70を前にしての逝去だったらしい。照屋眞理子は東京生まれで、俳誌「季刊芙蓉」代表を務めた人です。しかし照屋って苗字は沖縄に多いので、そっちの血を受け継いでるのかも。この方の句に「猫に猫の時間流るる春の雲」ってのがあります。この句では「流るる」が、「猫の時間」と「春の雲」の両方に懸かってます。寝てばっかしの家猫の時間はゆったり流れてるように感じますが、ここでは窓猫さんが、お外をぼんやり眺めてる。空では春の雲がゆっくり流れています。どこか不思議そうに、その雲の流れを眺めてる猫の情景が目に浮かぶんですよね。同じ照屋の句で「名付けられ子猫この世を生き初むる」ってのもあります。もう解説の必要がないほどストレートな句です。彼女の句はどれも情景が目に浮かぶとこがいいですね。お話し変わって、ここからは日本の色の話。「浅葱色(あさぎいろ)」や「萌黄(もえぎ)」「藤色」と云った古来から伝わる日本独特の伝統色がありますね。日本人は四季の移ろいの中に美の心を生み出しました。私には伝統色と云うと落ち着いた色味が特徴の孔雀石や藍銅鉱など、鉱石を砕いた「岩絵具」や、岩絵具よりも粒子が細かく、伸びが良い土ベースの「水干絵具」、そして岩絵具や水干絵具に膠(にかわ)とグリセリンなどを混ぜて固めた「顔彩」など日本画独特の絵の具の色をイメージします。昔、美大に行ってる女子学生に習作で日本画の七面鳥絵画を見せてもらいましたが、息を呑むほどの見事な色彩でした。日本画でない絵画で使う水彩絵の具はプロ用では100色以上の展開があります。しかし有名なホルベインの透明水彩で色の混合で作り出せない色は白、黒、金、銀だけで、後は100色も持たなくても出したい色は作れます。私が使ってる透明水彩も48色で、これで充分すぎる色数です。対して、日本画材の絵の具は色の種類が少ないように思いがちですが、実は約1,000~1,100色以上の非常に豊富な色彩が存在します。しかも全てが天然由来なんですね。ただ日本画の絵の具はお高くってなかなか使えません。例えば「茄子紺(なすこん)」と云う、ごく暗い紫色。藍染の染料は、濃く染めると染め上がりの表面が赤みを帯びて、藍の青色と干渉して紫色に見える性質があります。染料由来の「紫根(しこん)」と呼ばれていましたが、ナスの実に色がよく似ていることから、この風情ある色名が大正時代から流行しました。現代でも着物や焼き物に広く使われてます。青系統では渋みの強い鈍くて濃い「熨斗目色(のしめいろ)」が好きです。熨斗目とは、経(たて)に生糸、韓(よこ)に半練(はんねり)糸を使った平織りの絹織物のこと。無地の他に縞や格子を織りだしたものがあり、仕立てた小袖の多くは、腰のあたりにほかの部分と違う模様が入っていて、熨斗目模様と云われました。後に、この小袖そのものを熨斗目と呼ぶようになります。江戸時代には、士分以上のものが礼服として麻裃(あさかみしも)や素襖(すおう)の下に必ず着用しました。今だと、お宮参りや七五三の男の子の祝い着ですね。歌舞伎の幕には黒と柿、そして「萌黄(もえぎ)」の3色が使われてます。萌黄は新緑の萌えいづる草木の冴えた緑色ですね。早春を感じさせる清爽な色名は平安時代からのもので、平安時代の貴族の女性は衣を何枚も着たため、さまざまな色が重なりとてもカラフルな装束をまとっていました。その色の重なりのことを「襲(かさね)」と云いますが、この襲の色目にも多くの配色がみれます。同じ緑系でも萌葱色の薄色に用いる色名で「苗色」があります。平安時代から夏の色として使われてきました。稲の苗のような薄い色で、別名「薄萌黄」とも呼ばれてます。同じ夏の色に、よく似た「若苗色」がありますが、こっちはもう少し薄く、淡萌黄よりも青みに寄ってます。と、まぁ日本人の色彩感覚は、四季の移ろいや自然との調和を背景に生まれた、非常に繊細で「やわらかい」ニュアンスカラー(中間色)を好む傾向がありますね。原色よりも、藤色、薄紅、鶯色などデリケートで微妙な色の違いを捉えるし、季節ごとの自然の色彩や、桜(淡いピンク)のように、同じ「赤」でも「朱色」「紅」「茜」など、豊富な色名と呼び名を持っています。また茶・鼠・藍と云った地味な限られた色数の中での微細な違いでおしゃれを表現する「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」のような美意識が根底にあります。さらに水墨画のように、彩度を落とした世界に美を見出す傾向が強いですね。外国人の認識できる色の数は基本色とその派生を含んでせいぜい20~30色です。それが日本人になると伝統的な日本の色が加味されるので100色以上の色が認識できるとされてます。さらに外国人はライトブルー(Light Blue)とかダークグリーン(Dark Green)など、色の分類が大まかですが、日本人は述べてきたように藍、浅葱、青磁、藤色、鶯色など自然界に由来する色を多く区別します。そして日本語には数多くの色名があり、色のバリエーションが豊富なんですね。
Feb 12, 2026
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ジョニー・デップがかなり以前に来日したとき日本の映画を鑑賞し、出演してた女優の真行寺君枝の美しさを絶賛してアメリカのTV番組で「コンタクトを取って直接会いたい」と語ったことがあります。真行寺君枝は、三船プロに所属して数々のTVドラマには出演してたけど、映画は数少ないからジョニー・デップが観た映画ってのは村上春樹原作で発大森一樹が監督した1981年の作品「風の歌を聴け」かなぁ?この作品で真行寺君枝はヒロイン務めたし、本人も「私の代表作」と云ってますから。真行寺君枝って今の世代はご存知ないでしょうが、1970~80年代に資生堂の広告「ゆれる、まなざし」で活躍した女優でモデルです。初めて真行寺君枝が資生堂の広告に登場したのは1976年、このとき彼女は16歳の女子高生。当時、資生堂とカネボウのキャンペーン競争の加熱は社会現象に発展するほど激しく、資生堂はこの広告の制作費に、当時としては破格の3億円を投入したと云われてます。フランスのルーブル美術館で1979年に資生堂の写真史が展示されたときにも、この真行寺の「ゆれる、まなざし」が含まれてました。真行寺はこのときが初めてのCM出演ではありません。なんと中学時代にはポーラ化粧品のCMで森の妖精に扮して踊るシーンを撮ってます。衣装担当だったワダエミがダンサーを探してて、真行寺の通うバレエ教室を訪れたのがきっかけなんです。1975年の高校1年で矢沢永吉や市川猿之助などさまざまな著名人の写真撮影をした稲越功一の撮影で西武百貨店CMに登場してます。そして1980年、アサヒビールの「ミニ樽」のCMに登場。共演は風間杜夫、柄本明、そして今は亡きボクサーにしてコメディアンの たこ八郎、翌年からは平田満も参加してました。アサヒ生ビール ミニ樽 CM (1981) 最初に背中から映し出されてるのが真行寺君枝。歌は1966年にリリースされた"ザ・サベージ"のデビューシングル「いつまでもいつまでも」です。1986年には「ビリィ ザ キッドの新しい夜明け」で高崎映画祭主演女優賞を受賞してます。山川直人が監督したこの作品は、内藤剛志の宮本武蔵が登場したり、原田芳雄がクリント・イーストウッドが演じたヤバイ刑事ハリイ・キャラハンを演じたり、室井滋演ずる中島みゆきからイエス・キリスト、ポパイとオリーブまで登場するハチャメチャな映画なんですが、真行寺はOLギャングとして三上博史演ずるビリィ・ザ・キッドと共演してるのですね。と、云うワケでTVだと「必殺仕事人」など数々のドラマ作品もあるのですが、女優としての印象は薄いですね。何と云っても、資生堂の「ゆれる、まなざし」のインパクトが強すぎたのでしょう。そんな真行寺君枝も現在67歳。しかし美貌は落ちてませんね。
Feb 11, 2026
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大阪の南と云っても道頓堀のあるナンバ(難波)から地下鉄でひとつ手前の駅"心斎橋"はナンバと違って落ち着いたお店も多いです。デパートは大丸があり、周囲にはシャネル、カルティエ、ルイ・ヴィトン、クリスチャン・ディオールなど世界の高級ブランドショップの直営店が立ち並んでるところです。そんな心斎橋でもっとも有名な"洋食"のお店と云ったら、大阪人は誰でも先ず創業昭和元年の「明治軒」を指すでしょう。古びたちっちゃなお店です。ここのウリは牛肉と玉ねぎを炒めてペースト状にした「具が見えない」オムライスと「銀串」と呼ばれてる串カツですね。もちろん洋食屋定番のハヤシライスやポークチャップなど極めてオーソドックスな品揃えです。私が通ってたころは、テーブルにチェックのビニール製テーブルクロスが掛けられてたけど、久しく行ってないので今は分かりません。地下鉄心斎橋駅からチョット ナンバ方向に歩くと若者向けのファッションなどのショップが集まる有名な「アメリカ村(通称アメ村)」が見えてきます。このアメ村を開拓したのは大阪では有名な空間プロデューサー日限萬里子(ひぎり まりこ)さんです。私もよく存じ上げてました。彼女が1969年に今のアメ村の中心「三角公園」前に喫茶店「Loop(ループ)」を開き、若いクリエーターが集まるようになったのですね。それがキッカケで改造した倉庫を利用して、若いサーファーなどがアメリカ西海岸やハワイから輸入したアメリカンカジュアルな衣服類が販売されるようになったのが今日のアメリカ村に発展したのです。日限さんは1978年にディスコ「PALMS」も開業し、大阪のディスコブームの火付け役にもなった人物です。アメリカ村は心斎橋商店街や御堂筋の西側、厳密に云うと西心斎橋にあります。では心斎橋商店街の「東側」は?こっちはアメ村に対抗して「ヨーロッパ通り」と呼ばれてます。厳密には東心斎橋が正しい呼び名。アメ村は若者が集まる場所ですが、ヨーロッパ通りは高級ブティックなんかが建ち並ぶ大人の雰囲気の街として知られています。とは云っても昼間は閑散としてて、夜になってから賑やかになる街なんですね。このヨーロッパ通りに昭和28年創業の洋食屋「グリルばらの木」があります。冒頭でご紹介した「明治軒」と比べると若いですが、それでも創業から73年も経ってる老舗中の老舗。このお店はタカラジェンヌご用達としてつとに有名です。店内はカウンター席のみで、いかにも昭和の洋食屋と云った風情。営業は昼11:30~15:00、夜17:00~21:40で、お昼は近隣のサラリーマン利用も多いです。メニューは洋食屋おなじみの「オムライス」から「ビーフステーキ」のセットまでさまざま。普通に"洋食屋"でイメージする料理は先ず揃えてますね。私はこのお店の味の方が「明治軒」より好きです。明治軒は特に串カツなんか、なんか油っぽさが口に残るのですよね。「グリルばらの木」の方が特にソースに力いれてる感じがします。どっちにしても大阪の洋食屋と云うのは、どこで食べても当たり外れ少ないのですが、特にこのお店は味が安定してる。しばらく行ってなく、調べたら結構値上がりしてました。お料理は季節限定もあるので、もし行かれる方は事前に電話で確かめた方がいいでしょう。TEL:06-6271-7417
Feb 10, 2026
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1974年にアメリカン・カルテットで初来日以来、180回以上の公演を日本で行っていて世界で最も多く来日演奏を行ったジャズ・ピアニストがいます。1978年にはジャズ・ピアニストとして異例な日本武道館単独公演までやりました。「即興演奏の魔術師」と評され、不動の地位を確立しているアメリカ人の天才ピアニスト、それは"キース・ジャレット"ですね。彼は日本を非常に愛し、ソロやトリオなど様々な形態で来日してます。そんなキース・ジャレットは気難しいことでも有名で、2005年の東京公演では来客の高度なマナーを要求してコンサートを一時中断、聴衆に説教する場面がありました。2014年の大阪公演でも演奏を一時中断してます。キース・ジャレットは1970年に「モダン・ジャズの帝王」と呼ばれたジャズトランペットの"マイルス・デイヴィス"のバンドに参加します。マイルスグループ在籍中の1971年、ヨーロッパ・ツアー中に当時ドイツ・ミュンヘンの新興レーベルだったECMのオーナー"マンフレート・アイヒャー"と出会うのですね。ジャレットは、1972年ごろからプログラムの一切無い完全即興によるピアノ・ソロコンサートを行うようになるのですが、ECMも積極的にレコーディングし、1973年にはブレーメン・ローザンヌで実際に行われたコンサートをそのまま収録したLPレコード3枚組の大作「ソロ・コンサート」をリリースし音楽界に衝撃を与えました。このスタイルの実況録音盤第2作で2枚組のアルバム「ザ・ケルン・コンサート」はジャズのレコード、CDとして最も高い売上を記録したヒット作のひとつになり、ジャレットの名を広く知らしめた代表作になったのですね。このケルン・コンサートを企画したのは当時アルバイトでECMのプロモーターをしていた"ヴェラ・バランデス(Vera Brandes)"と云う18歳の学生でした。開催日は1975年1月24日。会場はケルンのオペラハウス。バランデスはジャレットのリクエストに応えて「ベーゼンドルファー」の「モデル290インペリアル・コンサート・グランド・ピアノ」を用意する手はずを整えました。ところが会場スタッフが持ってきたのは、ベーゼンドルファーの異なるモデルのベビーグランドピアノだったのです。さらにそのピアノはオペラのリハーサルに使われたあとで調律さえされていなかったのですね。それでもなんとか調律できたものの、耳障りな高音と響きの悪い低音が残り、ペダルもうまく動かないという状態だったのです。こんな悲惨なピアノでジャレットは演奏してくれるか?しかしチケットは完売で後戻りできない...運の悪いことに、ジャレットは公演に先立っておこなわれたスイスのチューリッヒ公演地から約563km 、5時間のドライブを終えたばかりでした。数日間不眠が続いたために背中の痛みに悩まされてもいました。彼は背骨を支えるために腰にサポーターを着け、深夜23時半にステージに上がったのです。そして...彼はこの劣悪な環境と体調不良を押して演奏を始めたのです。それは、これまで行ってきたソロ・コンサートと同様、事前の準備なしの完全即興。曲名らしい曲名もついてない。音楽的には、クラシック音楽のカデンツァに、ジャズの音階とテクニックを持ち込んだ内容とも云えます。この完全即興演奏によるソロコンサートは録音され、キースのソロ・コンサートシリーズ中、最も人気の高い作品となったのです。その革新性と美しさは、世界中で高く評価されました。日本でもジャズ喫茶で本作のリクエストが殺到したそうです。そんな話を映画にした「1975年のケルン・コンサート」が今年4月に公開されますね。主人公はジャレットではなく、当時18歳だったプロモーター"バランデス"です。このコンサート開催までの舞台裏を実話に即して描いた作品なんですね。バランデス役を演じるのはドイツのフランクフルト・アム・マイン出身の女優"マラ・エムデ(Mala Emde)"。日本では知名度ありませんが、2015年に「My Daughter Anne Frank」で主役のアンネ・フランク役を演じ、ドイツの新世代俳優として注目を浴びてる存在で、ドイツのTVドラマや映画を中心に活躍する女優です。キース・ジャレット役は2007年に公開されたジョディ・フォスター主演「ブレイブ ワン」で映画初出演した舞台俳優"ジョン・マガロ"。彼はベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品された2020年公開のケリー・ライカート監督「ファースト・カウ」で初めて主役を務めました。2023年にはアカデミー賞にノミネートされたセリーヌ・ソン監督の「パスト ライブス 再会」で主人公の恋人役を演じてます。物語は事実に基づいて構成されてます。ドイツ・ケルンに住む音楽好きの高校生バランデスは、厳格な父親への反抗心もあり、来独ミュージシャンのツアーをブッキングするアルバイトを始めます。持ち前のバイタリティを発揮して仕事が軌道に乗り始めた頃、ベルリンのジャズ・フェスティバルに出向いた彼女は、アメリカの天才ピアニスト、キース・ジャレットの演奏に衝撃を受けるのですね。キースのケルン公演を実現させようと決意した彼女は、幾多の困難を乗り越えてコンサート開催に漕ぎつけるのですが...コンサート当日、キースの希望していたピアノと異なる種類のピアノが用意されると云うトラブルが発生してしまいます。開演時間が迫る中、キースは演奏を拒否し、コンサート開催が危ぶまれるがと云うストーリーです。開催中止寸前のトラブルに見舞われるも、弱冠18歳の女性プロモーターの機転と行動力で実現したと云うことに着目した作品なんですね。主演を務めたマラ・エムデの演技についてエンタメ業界誌「ハリウッド・リポーター」は、「ジャズ史に決定的な足跡を残したヴェラ・ブランデスを演じ『スター誕生』と呼ぶにふさわしい存在感を放っている」と絶賛し、昨年のドイツ映画賞で主演女優賞にノミネートされました。ジャレットは1996年、イタリアでのコンサート中に慢性疲労症候群と診断され一旦は回復したものの、2017年にニューヨークのカーネギー・ホールで行われたソロコンサートを最後に活動を休止して療養生活に入りました。2018年に脳卒中を2回発症して麻痺状態となり、左半身が部分的に麻痺。そのためピアノ演奏に復帰できる可能性が低いことを本人が明かしてます。映画「1975年のケルン・コンサート」本予告
Feb 9, 2026
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高級オーディオでスピーカーと云うと、現在ではイギリスのB&W(バウワース アンド ウィルキンス)の801 D4 Signature やイタリアのソナス・ファベールのシュプレーマ(Suprema)と云ったヨーロッパ製品が、定番のJBLや航空宇宙技術を応用した強固なアルミキャビネットが特徴のマジコなどアメリカ製スピーカーに混ざって存在感だしてます。ソナス・ファベールのシュプレーマなんてステレオ1セットが1億7,050万円と常軌を逸した価格設定なんですね。私がオーディオにのめり込んだころは、エレクトロボイスやアルテック、JBLなどアメリカ製スピーカーの全盛時代で、貧乏な私はこうした高級スピーカーはただただ指をくわえて眺めるばかり。結局、最初に入手したのはナショナル(パナソニック)の「ゲンコツ」と呼ばれてたスピーカーをベニヤ板で作った平らなバッフルに取り付けて鳴らしてました。このスピーカーは、20cm の低音用スピーカーに球形の高音スピーカーが重なってて、それが"ゲンコツ"みたいだったので、正式名称20PW09よりもこっちのニックネームが有名になったのですね。1954年から30年間も製造され続けたロングラン商品です。もうひとつ高嶺の花のアメリカ製スピーカーメーカーがありました。「クリプシュ(Klipsch)」と云う、現在もスピーカーの生産を続けてるアメリカ、インディアナポリスに本社のあるメーカーです。今ではJBLなどに比べて、チョット安価な製品を多く出しますが、ここの特徴は中高域にホーンスピーカーを採用してることです。ホーンスピーカーと云うのは、振動板の前方にラッパ状(ホーン)の管を取り付け、音を狭い範囲に集中させて効率よく遠くまで飛ばす構造のスピーカーです。エネルギー変換効率が高く、小さな電力で大音量が出るため最も古くからある技術ですが、帯域が狭い傾向があるため、高音、中音と別々にホーンを設置しなければならない場合が多いです。また低音再生には巨大なホーンが必要になるため、一般家庭では導入が難しいのですね。ホーンスピーカーの代表例はみなさんお目にしたことある、あの学校の屋外放送用スピーカーです。このホーンスピーカーを使うと、中・高音域の音質に優れ、声がハッキリと聞こえやすいのですね。それで大型のオーディオ・スピーカーにも使われてきたのですが、サスガに低音域のホーンはサイズが現実的でないので、ここだけは普通の円形の紙コーンを使ったスピーカーを代用して、中・高音だけホーンにしてるスピーカーが多いです。今は事業内容を転換してる大阪の「オンキヨー(Onkyo)」は1984年に、低域までホーンスピーカーを使った、オールホーンスピーカーシステム「Grand Scepter GS-1」を発売しましたが、1984年の価格がスピーカー1台で100万円もし、1990年代になると120万円に引き上げられました。ではクリプシュのスピーカーはと云うと、低額なシステムは低音用に普通のコーンスピーカーを使ってて、高音のみホーンスピーカーを採用してるケースが多いです。ところが最上級のスピーカーになると低域から高音部まですべてホーンスピーカーで構成されたオールホーン方式を採用してるのですね。なのにコンパクト(と云っても巨大です)。クリプシュは折り曲げホーンと云って、低域のスピーカーの出口を複雑に折り曲げて断面積が次第に大きくなる設計で結果的にサイズをかせいでいるのです。低域は音の方向性が少ないので、出口まで折り曲げても支障が少ないのですね。これがクリプシュ・スピーカーの大きな特徴になってます。こうしたクリプシュのオールホーンスピーカーは、高い音の明瞭度と高能率(高感度)でパワフルな音圧、そしてスピード感のあるサウンドが特徴です。高能率と云うのは小さなアンプでも大きな音量が得られ、歪みが少ないため、コンサートのようなダイナミックな音圧を楽しめるのが特徴で、小型の真空管アンプでも充分音が鳴らせるのですね。そんなクリプシュのオールホーンスピーカーは、今でも生産が続けられてます。先程載せたクリプシュの「KLIPSCHORN」は「AK6」までバージョンアップして、価格も1台165万円となりましたが、今は生産終了してて市場在庫のみの販売のようです。新たなクリプシュのフラグシップは「Jubilee」と云う名です。もちろんこれもオールホーン。形状は「KLIPSCHORN」の中高音部分の開口部を大きく広げて、中高音の音質がさらに改善された形になってます。その分、図体が大きくなってスピーカー1台で幅127cm 、高さ176cm 、奥行き77cm 、重さ186kg と一般家庭向きとは云えない大きさです。日本での価格は1台495万円。サイズだけでなく、価格もビックですね。クリプシュ「Jubilee」日本販売元ティアックの視聴室でジャズを聞いた動画(音は加工なしで録音してます)動画の前半1/3は会話ばかりで、途中くらいから後に音出しがあります。アンプ類はティアックの系列エソテリックの最高峰機器を使ってます。ものすごく温かみのある再生音とともに何か懐かしさを感じる動画です。特にボーカルがいいですね。Klipsch最高峰「Jubilee」で "JAZZ" を聞いてみた
Feb 8, 2026
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映画史において偉大な"ヘプバーン"はふたりいます。ひとりは1959年の映画「去年の夏 突然に」から始まって、1962年の「夜への長い旅路」、1968年の「冬のライオン」そして1981年の「黄昏」でアカデミー主演女優賞を受賞した"キャサリン・ヘプバーン"です。キャサリン・ヘプバーンは、オスカーを4回受賞したただひとりの女優で、かつノミネート数も、俳優としてはオスカー史上第2位の12回に上ります。アメリカン・フィルム・インスティチュート(アメリカ映画協会)が発表した「映画スターベスト50」で女優部門1位に選ばれたキャサリン・ヘプバーンは、その圧倒的な演技力と個性で知られる大女優中の大女優です。もうひとりの"ヘプバーン"はみなさんご存知ですね。優雅なファッション、大きな瞳、スレンダーなスタイルで「永遠のファッションアイコン」として世界中で愛されてる"オードリー・ヘプバーン"です。彼女は数多くの「史上最高の美女」ランキングで1位を獲得してますが、自身は、自分の顔を「小さな目と四角い顔」と評し美人と思っていないと発言してますね。むしろオードリー・ヘップバーンの魅力は清潔感があり、エレガントな印象が相乗効果になって、グラマラスな女優たちとは一線を画すファッションアイコンとしての要素が大きいでしょうね。オードリー・ヘップバーンは、キャサリン・ヘプバーンが1位を獲得したアメリカ映画協会の「映画スターベスト50」で女優部門3位に輝いており、充分すぎるほど世界中の映画とファッション界で名を馳せる存在ですが、特に日本での人気が63歳で死去してから32年も経つと云うのに未だに色褪せないのですね。それはヘップバーンの初主演作にして最大のヒットとなった1954年(昭和29年)公開の「ローマの休日」に遡ります。この作品が絶大な評価を得て、「タイム」誌や「LIFE」誌などアメリカ・メジャー誌の表紙を飾るとともに、アカデミー主演女優賞や英国アカデミー最優秀主演女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞まで獲得してしまいました。そんな1954年、日本でも空前のヘップバーン人気に火がついて、劇中ヘップバーンが長い髪を切って前髪を垂らすショート・カットが「ヘップバーンカット」と名付けられて大流行しました。1954年と云うと、ナショナル(パナソニック)から本体に手回しローラーの洗濯物絞り機がついた角形噴流式洗濯機第1号が発売された年です。映画「ローマの休日」のヘアーカットシーンAudrey Hepburn gets a short haircut in Roman Holiday同じ年には日本で1等賞金1万円(現在の約4.6万円)のミス・ヘップバーンカット・コンテストまで開催されました。また映画の中でヘップバーンがソフトクリームを食べるシーンがあって、ソフトクリームまでが大流行になったのですね。このソフトクリーム、実際はローマ発祥のジェラートブランド「ジョリッティ(Giolitti)」ですね。日本では最初、新宿に店を構えてましたが、この店は移転するようで、有楽町店の利用を勧めてます。「ローマの休日」以降のヘップバーンの活躍は「麗しのサブリナ」「戦争と平和」「パリの恋人」「昼下りの情事」「尼僧物語」「ティファニーで朝食を」「シャレード」「マイ・フェア・レディ」「おしゃれ泥棒」「暗くなるまで待って」「ロビンとマリアン」など枚挙にいとまがありません。特に日本では妖精のような現実離れした美しさから「永遠の妖精」として別格の人気を誇ります。その魅力は、上品で清潔感のある容姿、おしゃれなファッション、そして飾らない人柄にあり、世代を超えて「なりたい顔」やファッションアイコンとして愛され続けてるのですね。ヘプバーンが気に入って、余命わずかな1992年のクリスマスに、息子たちに読み聞かせたアメリカのサム・レヴェンソンが書いた詩があります。彼女は翌年の1月20日に亡くなってるので、ホントウに最後のクリスマスのときです。これがヘプバーンの名言と誤解されてインターネットで拡散されるようになったのですね。「魅力的な唇になるために、優しい言葉を話しなさい。愛らしい瞳を持つためには、人の良いところを探しなさい。スリムな体型のためには、お腹を空かした人に食べ物を分けてあげなさい」「大人になればきっと自分にも二つの手があることに気づくだろう。一つは自分を支えるため、もう一つは誰かを助けるため」私はヘップバーンの最後の映画出演になった1989年にスピルバーグが監督した映画「オールウェイズ」が忘れられません。物語は1990年の恋愛映画「ゴースト/ニューヨークの幻」によく似たお話で、コロラド州の空中消火隊員リチャード・ドレイファスは、非番の日に起きた山火事の消火活動に出動したとき、飛行機にトラブルが起こった同僚のジョン・グッドマンを助けようとして爆死します。天国に行ったドレイファスは、天国でヘプバーン演じる天使に命じられて現世へ舞い戻り、空中消火機のパイロット養成校の生徒ブラッド・ジョンソンに守護霊として助言を与えることになるのですね。ところが助けたドレイファスは、かつての恋人だった航空管制官のホリー・ハンターにジョンソンが恋していることを知り苦悩すると云うストーリー。このときのヘップバーン、60歳なのに齢を感じさせない可憐で清楚な姿を見せ、あぁ、これがヘップバーンがいつまでも愛される理由だと感じました。監督のスピルバーグはティーン・エージャーのころ、両親に無理矢理連れて行かれてヘップバーンの「パリの恋人」をドライブインで観ました。ど~でもいいと思ってた映画でヘプバーンを見た途端、スピルバーグはすっかり魅了されてしまったのですね。スピルバーグは「オールウェイズ」撮影後、人生最大の喜びのひとつはオードリーと一緒に仕事ができたことだと語っています。この作品の元になった「ジョーと呼ばれた男」の脚本は「ローマの休日」の脚本を手掛けたダルトン・トランボです。つまり彼はヘプバーンのアメリカにおけるキャリアの最初と最後の脚本を手掛けたことになります。映画「オールウェイズ」ヘップバーン(天使)とリチャード・ドレイファスとの出会いAudrey Hepburn 1989 Always 1080p Scene 2 English
Feb 7, 2026
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このくそ寒い時期に、なんでサマーの話するねん!と叱られそうですが、まぁそう云わんとお付き合いください(笑)アメリカなんかで取り入れられてる「サマータイム」と云うのは、日の出が早まる春から秋にかけて、時計を1時間進める制度ですね。日中の時間を有効活用し、照明や冷暖房の省エネ、経済活性化を目的にアメリカを始めヨーロッパ諸国や南半球の国なんかで導入されてます。サマータイムの開始日は時計の針を1時間進めるため、1日が23時間になります。サマータイムの終了日は時計の針を1時間戻すため、1日が25時間になります。サマータイムはトランプの領有問題で話題のグリーンランドも、停戦ができるか駆け引きしてるウクライナも実施してます。バチカン市国も。イスラエルからパレスチナまで、なんと世界で約60ヶ国が実施してるのですね。台湾は1945年~1962年、1974年~1975、1979年と断続的に実施してましたが、現在はサマータイムをやってません。中国も1991年までは取り入れてましたが、現在は廃止されてます。韓国も実施してないですね。日本はもちろんサマータイムなんて取り入れてません。そもそもサマータイムを取り入れると、体内時間とズレが生じますから、開始直後と終了直後は云ってみれば海外旅行における「時差ボケ」と同じことがおこります。ところがですね、そんな日本でもサマータイムをやってた時期があったのです。その時期と云うのは太平洋戦争後、占領軍が仕切ってた1948年(昭和23年)~1951年(昭和26年)です。太平洋戦争敗北後の連合国軍占領期に、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)指導下で導入されました。GHQの親分はアメリカのマッカーサー元帥ですから、まぁ云ってみれば今のトランプと同じで、自分の尺度で物事を決めるアメリカ流の典型ですな。この当時、日本のマスメディアは「サンマータイム」と呼んでました。サンフランシスコ講和条約が締結されて占領終了と日本の主権回復に先立つ1951年(昭和26年)4月、日本はサマータイムを廃止して、年間通じて同じ時刻を使うことに戻してしまいました。なぜ、日本のサマータイムは廃止されたか?それは...残業が増えたことや、労働条件の悪化のためです。いかにも日本的な事情だったのですね。そもそもサマータイムの考え方はコンピュータ的に相容れないシステムなんですな。オマケチャッピくんとミミちゃんのAI画像です。
Feb 6, 2026
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1953年と云うと昭和28年。終戦が昭和20年ですから、終戦からまだ8年しか経ってない。この年、2022年に崩御されたイギリス女王エリザベス2世が戴冠し、早川電機(現シャープ)が、国産初の(白黒)TVを発売。同時にNHKが日本で初のTV本放送を東京で開始した年です。こんな大昔にジャズの歴史が塗り替えられるような出来事っていったい何?それは横浜のクラブ「モカンボ」で、ジャズギタリストとして活動していたクレージーキャッツの植木等と共に演奏していた時期もある世界的ジャズピアニスト"龝吉敏子(秋吉敏子)"と日本を代表するジャズサックス奏者"渡辺貞夫"が出会った年です。なぜこの出会いが日本のジャズ史を塗り替えた年と呼ぶのでしょうか?それは、それまでの日本のジャズは古式ゆかしい"スイング"を中心にしてたのが、ふたりの出逢いによって40年代にチャーリー・パーカーによって始められた、高速テンポ、複雑なコード進行、奏者の即興演奏を重視した"ビバップ"スタイルが取り入れられ、ダンス音楽から鑑賞用の芸術音楽へとジャズを変容させたからです。この年の夏ごろ、20歳になってた渡辺貞夫は"ジャフロ"と云うバンドを組んで、横浜の進駐軍クラブ「ハーレム」で演奏してました。この当時、渡辺はすでにビバップに傾倒していたのですが、ハーレムはアフリカ系の兵士が多かったので、彼らが好むリズム・アンド・ブルースを中心に演奏してたのですね。このハーレムにはピアニストのハンプトン・ホーズやサックスのハル・スタインらアメリカのジャズ・ミュージッシャンが米軍に招集されて出演してました。「いつか僕もあの域に達したい」渡辺にとっては夢のような世界です。渡辺がサックスと出会ったのは15歳のときです。出生地の宇都宮に映画のアトラクションのためのバンドが来て、そこで見た金色で、管がグッと曲がった楽器が非常にカッコいい。それがサックスとの出合いでした。当時、一回り年上の従兄が東京 新橋の「フロリダ」というダンスホールで働いてて、そこで「ブルーコーツオーケストラ」というビッグバンドが演奏してました。よみうりホールで開催されるジャズコンサートのあと「フロリダ」に行って生演奏を見たら、もうサックスが欲しくて欲しくてたまらなくなって...モーターやトランスの修理業をやっていた父親には、クズ電線が朝鮮戦争の特需でとても高く売れて、2階の押し入れにたくさんの現金がカバンに入れられて放置されてる。そのお金を失敬してたら、父親に見つかったのですね。こうなると正直に白状するしかありません。「サックスが欲しい」そしたら父親は渡辺を東京に連れてって、サックスを買ってくれたのです。しかも高校卒業時に「音楽が好きでたまらないから2年だけ東京で好きなことをやらせてくれ」と云ったところ、父親は許してくれたのです。そこから渡辺のミュージシャン人生が始まったワケです。話は1953年に戻ります。渡辺がクラブ「ハーレム」で見ていると、進駐軍のジャズ・ミュージッシャンに交じって、奔放にピアノを弾く若い女性がいます。23歳の龝吉敏子です。渡辺より年上と云っても、たいして年の違わない龝吉は、この時点で日本のモダンジャズを代表する若手ミュージッシャンで渡辺にとって憧れの存在でした。そんな龝吉がある日、渡辺に声をかけてきたのです。「新しいバンドを作るんだけど、一緒にやらない?」渡辺にとって青天の霹靂です。龝吉は与田輝雄率いる"シックス・レモンズ"に在籍して高給を得てましたが、レギュラーで出演してた銀座のクラブ「銀馬車」ではダンス音楽の演奏ばかり要求されて鬱憤がたまってたのですね。龝吉はビバップスタイルをもっとやりたかったのです。そんなときに、ハーレムで渡辺の演奏を聞いた龝吉は逆に驚嘆します。当時の日本のアルトサックス奏者はお行儀のいい演奏家ばかりだったのですが、渡辺の演奏は当時の日本にないアグレッシブな音の追求でした。龝吉が目指す音楽には、ぜひとも欲しい奏者が渡辺貞夫だったのです。かくして龝吉と渡辺が並び立つ夢のバンド「コージー・カルテット」が作られたのです。当時のジャズバンドは仕事のあるときだけ集まって、その分の手当だけ受け取り、ないときにはメンバーそれぞれの仕事をこなすのが通例でした。しかし龝吉は、仕事の有無にかかわらず月給制を敷いたのです。それがためにコージー・カルテットの仕事がないときに龝吉がアルバイトで稼いだ金はすべてメンバーの給料に消えていきました。龝吉は当時を振り返って「やりくりはタイヘンでした。メンバーの給料を払うため、自分の着物を質に入れてしのぐこともしました」と。それでも自分の選んだ曲や、自分の作曲を誰に気兼ねすることなく演奏できる道を選んだのです。渡辺にとって龝吉は優しくも厳しいリーダーだったようです。コージー・カルテットに加入して間もないある晩のステージで、龝吉は突然チャーリー・パーカーの「ムース・ザ・ムーチェ」の楽譜を配りました。テンポの早い難しい曲で、初見で吹く渡辺は2小節目でつっかえてしまったのです。そしたら龝吉が「あなたプロでしょう。譜面も読めなくてどうするの」と叱りつけたのです。このとき渡辺はひどく落ち込んだと云います。しかし逆にいい演奏すると必ず褒めてくれるし、大森の龝吉の自宅で練習が終わると、よく手料理をふるまってくれたりしたんですね。こうしてジャズ・ピアニストのオスカー・ピーターソンに見出され、日本人としては初めてボストンの名門バークリー音楽院で奨学生として学んだ龝吉敏子と、同じようにバークリー音楽院に留学して、日本ジャズ界で活躍する一方、ボサノヴァをジャズの世界に紹介した渡辺貞夫の夢のバンドが誕生し、日本のジャズ史に新たな1頁を書き加えたのです。龝吉敏子、現在96歳で今もソロ活動をやってます。渡辺貞夫は現在92歳、生涯現役と活躍を続けてます。
Feb 5, 2026
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大阪の梅田(大阪駅)から地下鉄 御堂筋線でひとつ目の駅"淀屋橋"。大阪市庁舎、日本銀行 大阪支店と云った官庁関係から、中之島公園や緒方洪庵の適塾、赤レンガ壁が美しい大正レトロ建築の"中央公会堂"、国の重要文化財である府立中之島図書館など歴史遺産も豊富な場所です。その淀屋橋の地下鉄駅を上がったところ、ちょうど大阪市庁舎に続く土佐堀川にかかった"淀屋橋"のたもとから川を見下ろすと一双のやかた船が係留されてるのが見えます。船を係留してる川に建ってるプレハブの建物には「かき広」の看板が。このお船の存在は大阪人だったらほとんどの人が知ってます。知ってるのですが、訪れた人はまぁ見当たらないですね。少なくとも私も含めて、私の知人で行ったことある人は皆無です。「かき広」は大正9年(1920年)創業の老舗「牡蠣船」なんです。最盛期には土佐堀川に何十隻も浮かんでいた牡蠣船ですが、次第に数を減らし現在大阪で営業しているのは「かき広」のみ。全国でも現存する牡蠣船は数隻となってます。なぜ大阪人は行くのに二の足を踏むのかと云うと、さしたる明確な理由はありません。気になってるけど、行きにくい。理由のひとつは、店の入口が入り込んでて「入りにくい」と云うことと、なにより「いつ営業してるのか分からない」と云うことです。SNSでも「閉店してる」と云う投稿をいくつか見ますが、それは牡蠣の旬である冬(10月~4月頃)のみの営業だからで、投稿した人の多くは冬以外の季節に行ったのですね。ここはお昼もやってるみたい。昼は11:00~14:00だけど簡単な昼食だから、本番は17:00~開店する夕食。夕食(コース料理)の予算は7,000円~8,000円くらいが例年の相場ですが、今年は広島産の牡蠣がほぼ全滅状態なのでお値段はもっと上がってるかも。牡蠣船の起源は江戸時代まで遡ります。広島で牡蠣の養殖技術が発達し、販路を開拓するため大阪まで牡蠣を船で運んだことが始まりなんですね。当初は牡蠣を売るだけでしたが、次第に船上に座敷を設けて牡蠣料理を提供するように。現代の「かき広」店長は3代目の吉見三千夫さん。この人、3代目になったのは60歳を超えてから。さぞかし2代目が厳しく、なかなか跡を継がせなかったのかと思いきや、吉見さんは3代目になるまで料理とは無縁の建築関係の仕事をしていたのです。義父にあたる2代目からの依頼で「かき広」を引き継ぎました。もし「かき広」に行ってみたいと思われる方は電話で営業有無の確認と予約してください。TEL:06-6231-1891地下鉄御堂筋線/京阪本線淀屋橋駅1番出口すぐ「かき広」の料理ショート動画です この文字列をクリックすると動画が観れます
Feb 4, 2026
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むかしニューヨークに行ったときのこと、泊まってるホテルがセントラルパークの真ん前だったので、そこから伸びるフィフス・アヴェニュー(五番街)を何の気なしに歩いてました。セントラルパーク・イーストとも呼ばれるこの通りには、ティファニーを始め、カルティエやグッチ、ルイヴィトン、シャネル、プラダ、エルメスなど名だたる世界のハイブランドが集中してます。そしたら五番街57丁目にあるティファニー本店の前に大型バスが停まったのですね。あの映画「ティファニーで朝食を」で黒のイブニングドレスに身を包んだオードリー・ヘプバーンが片手にコーヒーの入った紙コップ、もう一方の手に紙袋に入ったデニッシュを持ってショーウィンドウを眺めながら食べている有名なシーンのティファニーです。さて、バスから降りてきたのは大勢の日本人女性の団体(胸にさげてるワッペンで分かりました)。彼女らは脇目も振らず、ティファニーの中へとなだれ込んでいったのですね。それを目のあたりにした私は恥ずかしくって、そそくさと五番街を離れたのです。現在、ハイブランドの宝庫フランスでハイブランドを最も多く購入しているのは地元フランス人ではなく中国人観光客です。彼女らは昔、日本でやったようにフランスでハイブランドの「爆買い」する存在としてつとに有名です。逆に普通のフランス人女性にとってシャネルやルイ・ヴィトンは高嶺の花と同時に、普段着にそのようなブランドを着るのは一般的ではないと考えてます。彼女らはハイブランド特有の大きなロゴをあしらった衣服やバッグを身につけることに「ブランド会社の広告塔になりたくない」と云う意識が強く働いてむしろ避ける傾向にあるのですね。むしろZara(ザラ)やH&M、ユニクロなど、日本の女の子がよく買う服の方が、フランス人女性も数多く購入してます。だからと云って、フランス人女性はハイブランドを着ないとは云い難くって、ホームパーティでさりげなくハンガーにかけられたロゴが主張してないシンプルなコートが、実は高級ブランドのものだったということはよくあるそうです。つまり彼女らは人とかぶらない、シンプルなものを身につけることがオシャレなんですね。では日本のZ世代はハイブランドをどのように捉えてるのでしょう。ネットやSNSでは「ハイブランドを着るのはダサい」とか「ハイブランドを買うなんてあほらしい」と云う言葉をよく耳にしますね。これは若者が分不相応なハイブランド品を身に着けてると「無理して買ったのでは?」とか「背伸び感がある」と感じられることが多く、単にファッションセンスだけの問題ではなさそうです。とは云えセンスの問題は、今の若者の方が昔より敏感ですね。バブルのころは猫も杓子も肩パッド入りのスーツやボディコンワンピで、太い眉にイブサンローランやシャネル、ディオールなど、ハイブランドの真っ赤なリップと、みんな同じ恰好でした。ところが今の若者がハイブランドにもつイメージは、ハイブランド品自体が強い個性や存在感を持っていて、「ブランドに着られてしまう」と云う意識。そりゃあ全身ロゴが主張するグッチやフィンディのセットアップや、大きなルイヴィトンのモノグラムが目立つバッグなんて身につけたら「服に負けている」「持たされている感」が出てしまうんですね。それとともにハイブランド品の価格内訳には広告費や店舗運営費、ブランドイメージの構築に使われてる部分がほとんどで、それがZ世代から見ると「ブランドの名前」と「広告費」にお金を払ってると映るのですね。実際、ハイブランドのバッグより、ポーターの吉田カバンの方がずっと使い勝手がいい。どうもハイブランドに固守する人たちっての意識は、云ってみれば急激に経済だけ発展した途上国の人間みたいな。今の日本の若者は、値段よりも自分の個性をどう引き出すかに腐心してて、もっと洗練されてるのですね。私は...どこ行くのもスポーツウェア一辺倒なので、そもそもこんな議論に参加資格もありません(笑)
Feb 3, 2026
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2020年に綾野剛が主演して、大友啓史が監督した映画「影裏(えいり)」と云う作品があります。共演は松田龍平や筒井真理子など。この作品の舞台は岩手県の盛岡。物語は震災前後の盛岡に転勤でやってきた綾野剛が、同い年の同僚 松田龍平と知り合います。ルールに縛られず飄々と生きてる松田龍平に惹かれた綾野剛は、ふたりで酒を酌み交わし、釣りに興じるなど距離を縮めていくのですね。いつしか綾野剛にとって松田龍平は、慣れない地でただひとり心を許せる存在になっていきます。が、松田龍平はある日、連絡もなく会社を辞め、彼の前から消えてしまうのです。一度は綾野剛の前に戻ってきた松田龍平が再び失踪し、綾野剛が彼の知られざる「裏の顔」を知っていくと云うストーリーです。この映画の原作は沼田真佑のデビー作で同名の小説。沼田真佑はこの作品で文學界新人賞とともに芥川賞も受賞しました。映画でふたりが喫茶店で談笑するシーンがあります。このお店が今回のテーマ。ロケ地になった喫茶店は一関市のジャズ喫茶「ベイシー (BASIE)」と云うお店です。ジャズ喫茶なんて、しょせんレコードを古くさいオーディオ機器で流してる喫茶店ぢゃないか。そう思われるでしょうが、「ベイシー」は一癖あるのですね。学研の「ジャズの教科書」にして「日本一のジャズ喫茶」と紹介され、「日本一音の良い喫茶店」として知られているのです。1970年の開業当初からスピーカーはアメリカのJBL。当初はJBLのスピーカーをカスタムシステムにして使用してました。アンプ類も同じJBLのSG520とSE400S。SG520は1964年に販売開始されたプリアンプ。SE400Sは1960年代後半~1970年頃に販売された、JBL初のシリコントランジスタを使用したステレオパワーアンプです。どちらもビンテージものですね。ターンテーブルは英国リンのLP12、トーンアームはSME3009、カートリッジはシュアーのV15 TypeⅢとオールドオーディオファンにはお馴染みのシステム。震災後、スピーカーはJBLのプロジェクトK2に変わりました。ジャズファンやオーディオマニアの間で「ジャズの聖地」と呼ばれているジャズ喫茶「ベイシー 」。常に大音量でジャズのLPレコードを再生していて、アメリカのJBL本社から、JBLの社長やエンジニアたちがその音を聴くために訪れたほどです。ただ、これらの機器を揃えただけで同じ音が出るワケではアリません。オーナー菅原正二の緻密なチューニングによって作り出された音響空間なんですね。ベイシーではレコード再生だけでなく、ジャズ・ミュージシャンのライブも不定期に開催してます。そのミュージシャンの顔ぶれがスゴイ!店名の由来、カウント・ベイシーに因んでるのはお察しの通りですが、そのベイシー本人がここを何度も訪れているのです。岩手県の一関市ですよ~それをスウィングジャズ、ビッグバンドの世界的バンドリーダー ベイシーが足を運んでたのです。そればかりではありません。私も親しくしていただいたドラムプレーヤーのエルヴィン・ジョーンズもこの店でたびたびライブを開催してたのですね。日本で活躍する韓国人ジャズ歌手ケイコ・リーもライブをたびたび開催しているとともに、2005年に発売されたアルバム「誰よりも」や「ライヴ・アット・ベイシー~ウィズ・ハンク・ジョーンズ」にはベイシーで録音された実況録音盤が使われてます。フィリピン出身のジャズ歌手マリーンもライブの常連。アメリカのジャズ歌手アニタ・オデイは、ベイシーで録音された実況録音盤「恋をしましょう~LIVE AT BASIE~」を出してるし。さらに日本を代表するジャズサックス奏者で"ナベサダ"こと渡辺貞夫も、ほぼ毎年この店でライブを開いています。同じくジャズサックス奏者の坂田明もこの店でライブの常連だし、ジャズピアニストのハンク・ジョーンズは2009年にベイシーで録音された実況録音盤「ジャム・アット・ベイシー フィーチャリング・ハンク・ジョーンズ」を出してます。ジャズファンからしたら背筋があわ立つ面々でしょう?しかもベイシーは永六輔がトークショー会場としてたびたび利用したり、立川談志や春風亭小朝もこの店で落語会を開催してました。なんか文化のよりどころみたいなお店なんですね。この伝説的な音響空間「ベイシー」は、2020年に公開された星野哲也監督の映画「ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)」として大々的に取り上げられました。映画「ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)」予告編
Feb 2, 2026
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日本経済の中心 東京を始めとする関東平野にある神奈川、埼玉、千葉、茨城、栃木、群馬の1都6県を「関東」と私たち関西人は呼んでますが、例えば東京に居住する人から見たら関東とはどこを指すのでしょう?まんま地図通りなのか。まさか群馬や栃木、茨城なんてマイナー(失礼)県は仲間に入れたくないとは考えてないでしょう。もともと関東と云う言葉は、箱根の関所より東の地域を指す言葉から由来して、江戸時代には「関八州」と呼ばれたと云いますが。同じように「関西」と云う言葉も曖昧な表現なんですね。近畿=関西かと云うと、そうではないですね。近畿は古代律令制の「五畿七道」に由来した大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、滋賀、三重の2府5県を云いますが、三重県と云うのは微妙で、県庁所在地のある津市は私ら関西人は仲間に入れるけど...例えば人口が津市よりも多く工業都市でもある「四日市」市なんてのは感覚的に東海地方=名古屋の仲間。実際、四日市市には中日ドラゴンズファンがわんさか居ます。逆に近畿の天気予報では四国の徳島や香川が仲間に入れられ、三重県は津のみになることが多い。関西の「関」は、古代に奈良や京都の政府が設けた関所「逢坂(おうさか)の関」に由来します。逢坂の関ってのは、山城国と近江国、今の京都と滋賀の境界あたりにあって、当時はその西側すべてを関西と云ってたのです。つまり古代の関西は、西日本全体を指してたのですね。律令時代に制定された「畿内」は、今の「首都圏」と同じ考え方で、天皇が住む都の周辺の地域を指す言葉でした。以下の5国が畿内です。・大和国(奈良県全域)・山城国(京都府京都市以南。ただし左京区広河原、右京区京北は山陰道丹波国)・河内国(大阪府東部)・和泉国(大阪府南西部)・摂津国(大阪府北中部および兵庫県神戸市須磨区以東。ただし高槻市樫田と豊能町牧・寺田は丹波国、神戸市須磨区須磨ニュータウン西部と北区淡河町は山陽道播磨国)対する「近畿」は文字通り、都に近いエリアと云うニュアンスです。で、現在の「関西」とはどこからどこまでを指すのか?それが今でも曖昧なんです。私たち大阪人の感覚だと「大阪」「京都」「兵庫」の3府県だけ。そんなん云うたら、他の近畿の県が気ぃ悪すると云うなら、これに加えて「奈良」「滋賀」「和歌山」くらい。三重県はちゃいますなぁ。そもそも関西では「近畿」って言葉そのものがあまり好まれない傾向あるんです。雑誌なんかで「近畿」と表記したものはサッパリ売れないそうです。近畿で売れたのは唯一現在改名して「DOMOTO(ドウモト)」になった光一くんと剛くんの「KinKi Kids(キンキ・キッズ)」くらいです。だから大阪湾に浮かぶ空の玄関口は「近畿国際空港」ではなく、「関西国際空港」と云う名前なんですね。
Feb 1, 2026
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日本一長い大阪の天神橋筋商店街、北の出口近くに「大阪くらしの今昔館」と云うミュージアムがあります。ここは江戸時代後期から第2次大戦後にわたる大阪市の住居資料や模型などを展示している市立博物館です。ここの見ものは江戸時代の天保期(1830年代)の大坂の町家と町並みを実物大で復元してる施設です。来館者は木戸門をくぐって江戸末期の町に足を踏み入れると、大通りの両側に並んだ商家を出入りしながら、路地の奥に設けられた裏長屋まで自由に散策できるのですね。その「大阪くらしの今昔館」と同じコンセプトで昭和に的を絞って創られたミュージアムが岐阜県高山市と大分県由布院にあります。キャッチフレーズは「昭和30年行きにセットされたタイムマシン」。こちらの施設、昭和世代だけでなく、今の若者からSNSで知った外国人観光客までさまざまな人々が訪れてます。高山と由布院の昭和館は、同じ沖縄のヒューネッツと云う会社が運営してて、公営ではないようです。運営理念は物を大切にする昭和時代の精神を後世に遺すことと、過去を学び、その知見を活かして新しい知識を得る温故知新の施設づくりとあります。飛騨高山や温泉で有名な由布院に施設を作るってのはオモロイ発想ですね。高山・湯布院 昭和館の公式ガイド昔の町並みを再現して見せるって発想は考えられるものですが、ここまで本格的に再現されると、特に昭和を知らない世代には新鮮でしょうね。昭和は戦前からでとても長いので、あえて昭和30年(1955年)に的を絞ったのもいいアイディアです。1955年と云うと、 前穂高岳東壁で登攀中にナイロンザイルが岩角で擦れて切れ、登山者が墜死した「ナイロンザイル切断事件」のおこった年で、これをもとに井上靖の小説「氷壁」が書かれました。高山、由布院の両昭和館は昭和30年にターゲットを絞って、庶民文化に的を絞った展示ですが、もう一ヶ所、同じ「昭和館」と云う施設がありますね。東京・千代田区九段南にある国立博物館の「昭和館」です。こっちは戦中・戦後の国民生活を詳しく見れるミュージアムで、もちろん戦中の展示もあります。こちらには資料も多数展示されてて、例えば昭和20年(1945年)太平洋戦争が集結して、わずか5日後には焼け野が原となった新宿に、尾津組のマーケットが誕生し、これが「闇市」の第一号だったのですね。そんな闇市の様子を写した資料なんかも展示されてます。こっちの「昭和館」はかなり重い展示が多いですが、設立目的が戦後の繁栄の礎となった戦没者の遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代に伝えることとなってますので、前述の昭和館とはコンセプトが違うのですね。大阪にも同様の施設で、「ピースおおさか(大阪国際平和センター)」と云うのが大阪城公園内にあります。大阪に落とされた1トン爆弾の模型や満州事変から太平洋戦争終結に至るまでの戦争や原爆、アウシュビッツに関する展示まであります。
Jan 31, 2026
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有名な松平健が歌う「マツケンサンバ」。これ、ど~聴いてもサンバぢゃないですよね。ほとんど歌謡曲で、そこにラテンの音楽ティストを取り込んだだけ。そもそも使ってる楽器そのものがアゴゴやスルドと云ったブラジルのサンバ楽器でなく、キューバ系の楽器が使われ、掛け声の「オレ」はスペインのフラメンコに酷似してる。このように、日本で聞くサンバってのは、実際はキューバ系の音楽をサンバと思って聴いてることが多い。キューバもブラジルもごっちゃ混ぜで、要するに歌謡曲ベースの陽気なラテンのカーニバル音楽ってのが多いのですね。1960年代後半~1970年代にかけて「フォーク世代」と云うアコースティックギターの弾き語りによるフォークソングに青春時代を送った世代があります。この時代にガットギターの弾き語りで一世を風靡した長谷川きよしと云う全盲の歌手がいました。彼が1969年に発表したデビュー曲「別れのサンバ」は、まさにフォーク世代の若者から支持され、大ヒットとなったのです。長谷川きよし - 「別れのサンバ」2012しかし、この曲だって本場ブラジル流サンバではなく、日本のフォークや歌謡曲の情緒とボサノヴァやサンバの要素が融合した、独自の音楽ジャンルです。ギターの弾き語りによるボサノヴァ的なアプローチと、日本的な哀愁を帯びた歌詞、メロディが特徴で、ブラジルのサンバのような速いテンポや大勢のパーカッションはありません。これも「ボサノヴァ風の和製ポップス」なんですね。他にも日本の歌謡曲には森山加代子の「白い蝶のサンバ」や郷ひろみの「お嫁サンバ」、チェリッシュの「てんとう虫のサンバ」など、タイトルにサンバがついてる曲がありますが、曲調やメロディ、リズムなどでブラジルのサンバとは大きく異なります。曲によってはマンボやルンバのリズムや曲調のものもまであるのですね。では、ナゼ日本ではサンバが他のラテン音楽と混同されてるのでしょうか?日本では戦前にタンゴ、戦後にマンボ、ルンバ、チャチャチャなどラテン音楽が紹介されました。特に昭和20年代後半~30年代(1950年代)にかけて、ペレス・プラードの「マンボ・ナンバー・ファイブ」などの影響でマンボやラテン音楽が大ブームになり、美空ひばりの「お祭りマンボ」や奈良光枝の「赤い靴のタンゴ」など"ラテン歌謡"と云う独自のジャンルが発展しました。ところが南米の多くの国々がスペイン語を公用語としているのに対して、ブラジルだけが唯一のポルトガル語圏と云うことで、サンバだけはきちんとした形で紹介されたことがなかったのですね。そこで日本にラテン音楽が紹介された時にそれらがすべて混同されて、そのイメージが現在にも影響しているのです。日本でサンバのイメージが定着し始めたのは、1960年に公開されたマルセル・カミュ監督の映画「黒いオルフェ」以降と云われてます。この映画の音楽はボサノヴァが中心でしたが、リオのカーニバルという世界屈指の舞踏イベントも映画を通じて日本に紹介され、サンバとボサノヴァの境界の曖昧さもあってサンバも一緒に日本に知られるきっかけとなったのです。Manha De Carnaval ルイス・ボンファ作曲「黒いオルフェ」主題歌1960年代前半に世界を席巻したボサノヴァ・ブームの最中、ボサノヴァ興隆の祖であるスタン・ゲッツがアルバム「ジャズ・サンバ」を発表するなどボサノヴァとジャズの親和性に好意的なジャズ・プレーヤーが次々とサンバも日本に伝播させていきます。その影響を受けて渡辺貞夫ら日本のジャズ・ミュージシャンもサンバやボサノヴァを演奏することが増えていったのです。1981年ころから表参道と外苑前の間にある、南青山の集合住宅敷地の端っこのビルの地下に、「プラッサオンゼ(PRAÇA11)」と云うサンバやボサノバと云ったブラジル音楽を毎日聞かせるライブレストランがありました。プラッサオンゼは日本で最初のサンバハウスで、来日したブラジルのミュージシャンが絶対通うと云う有名店でした。しかし再開発に伴うビルの賃貸契約終了に伴って、38年間の営業を打ち切り、2019年に閉店してしまいました。それでは最後に1982年に伊藤愛子が日本語詞で初めて発表した、アロイズィオ・シルバ作曲で歌手のアルシオーネによって1975年に発表されたサンバの名曲「愛のサンバは永遠に(Não deixe o samba morrer)」をお聞きいただきましょうか。私の大好きな一曲です。歌ってるのはマリア・ヒタ(Maria Rita)、ブラジル・サンパウロ出身の歌手です。彼女の母親はブラジル屈指の女性歌手レジーナです。Não Deixe O Samba Morrer (Videoclipe) - Maria Rita
Jan 30, 2026
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ビッグキャットと云っても、全長1m を軽く超える「ジェントルジャイアント(穏やかな巨人)」家猫のメインクーンのことではありません。ここで云うビッグキャット(Big cat)はライオンやトラ、ヒョウなど大型のネコ科動物のことです。これらのビッグキャットの特徴は吠えることができることです。約3,400万年前~約2,300万年前までの漸新世後期から約1万1,700年前~約258万年前の更新世にかけて栄えた"サーベルタイガー"は、肩高約1m ~1.2m 、体長は1.9m ~2.1m 、体重は270kg もある巨大にゃんこでした。発達した上顎犬歯は20cm に及ぶ短刀状の牙で、大型動物専門に狩りをしていたのですね。このサーベルタイガーは、トラなどヒョウ属に近いとする考えと、ネコなどネコ属に近いとする考えから剣歯猫(サーベルタイガー)と呼ばれていますが、実際はヒョウ属にもネコ属にも近くない系統でした。1960年代頃からイギリスで目撃がたびたび報告されている"エイリアン・ビッグ・キャット"と云うのもあります。外見はヒョウかピューマなど大型なネコ科動物に似ていて、家畜を襲うなど獰猛な気性の生物とされています。目撃談によれば、一般的なイエネコと比べて脚が長く、全体的にがっしりした体格だと云いますが、それだとヤマネコ属に共通する特徴なんですな。また、空気に溶け込むように姿を消す、テレポートを行うなど、超能力らしき能力を持つとする説もあります。学者によると、イギリスを始めカナダ、アメリカ、オーストラリア、アイルランド など大型ネコ科動物が自然界に居ない場所でよく出現するもので、イギリスでも近代以降はこんな野生にゃんこの生息は確認されてません。トラはライオン、ヒョウなどと同じネコ科ヒョウ属ですが、ネコ科では最も大きく、単独で強力な狩りを行うのですね。それに比べてライオンは、「百獣の王」と云っても仲間と結託して群れ(プライド)で協力して狩りをします。どっちも食物連鎖の最上位に位置する生態系の頂点にいる生き物ですね。大阪の"ヒョウ柄"ファッションおばちゃんで有名なヒョウ(豹)は、アフリカ大陸からアラビア半島、東南アジア、極東ロシアとネコ科では、最も広域に分布する猛獣です。よく人の態度がだしぬけに変わることを「豹変」と云いますが、これは易経の「君子豹変、小人革面(君子は豹変し、小人は面を革むる)」に由来してます。この言葉は豹の毛が抜け変わり鮮やかな模様が現れる様を「豹変」と呼んでたのを引用した表現ですね。ヒョウは全身柔らかい毛で密に被われてて、背面の毛衣は淡黄褐色や淡褐色。腹の毛衣は白く、頭部や頸、腹には黒い斑点が入り、背面や体側面には黒い斑点が花のように並ぶ斑紋が入ってます。ヒョウのうち"クロヒョウ"は突然変異の産物です。生息地域としてはアジア南部、特にマレーシアやジャワ島でクロヒョウが多いそうです。実はクロヒョウにも肉眼で識別できない斑紋があり、赤外線照射をおこなうと識別できます。北アメリカ南部や南アメリカにいるビッグキャットが同じヒョウ属の"ジャガー"。南アメリカ大陸のほぼ中央部に位置する世界最大級の熱帯性湿地"パンタナル"にいるジャガーのオス体重は136kg を越すものが珍しくないとか。主に地表で狩りを行いますが、泳ぎが得意でカピバラやワニなど水中にいる獲物に襲いかかったり、水に浮かびながら獲物を待ち伏せて水中から襲いかかることもあります。非常に強い顎を持ってて、大型の獲物も含めて後頭部や頸を噛み砕いて殺すのですね。地上最速のスピードを誇るけど、持続力のないチーターは以前、このブログで触れましたね。日本では大分県にある日本最大のサファリパーク式の動物園「九州自然動物公園アフリカンサファリ」で初めて飼育されたチーターの繁殖に成功しています。アラブ首長国連邦やアルジェリアなどサハラ砂漠の国々からアフリカ大陸南部まで生活するビッグキャットで"カラカル"ってのがいますね。あの大きな黒い耳で、先端に4cm 以上の長く黒い毛が生えてるカラカルです。この耳が名前のカラカルに由来してるのですね。トルコ語で「黒い耳」を意味する"karakulak" です。このひと、並外れたジャンプ力と優れた聴覚を持ってます。カタール・ドーハで開催された2010年世界室内陸上競技選手権大会のマスコットキャラクターになりました。
Jan 29, 2026
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カレーやラーメン・ギョーザなど食文化から仏教や茶道と云ったものまで、異文化を取り入れることによって、それをさらに昇華させて独特の文化にしていった日本人。お箸だって7世紀に遣隋使が中国から帰国した際に伝わった文化で、長くて先端が丸く、持ち手が四角い中国箸や、平べったく短めで金属製の韓国箸とも違う日本独自の形状になりました。中国箸が長いのは大皿料理を皆で取り分ける文化だからですが、対する日本は箱膳にみられるように料理がひとりずつ別々に盛られてる。そもそも中国は大皿料理をとるのに自箸を使いますが、日本人はそんな無粋なことしないで取箸を使いますな。さらにスプーンやフォークと違い、箸だけは自分専用を決めて使う文化が根付いてるのは箸文化圏の中でも、日本だけです。それと同じように外国から入ってきたのに、いつの間にか日本独自の文化になったゲームがあります。それは「花札」です。え~っ、花札って一組48枚に12ヶ月折々の花や草木が4枚ずつ描かれ、優美な花鳥風月の詩趣が表現された日本独特のものぢゃないですか!それが外国から渡来したカードゲームが原点だなんて...ですよね~日本にカードゲームが初めて伝播したのは16世紀後半の室町時代末期。南蛮貿易でポルトガル人によって、鉄砲やキリスト教、カステラ、タバコなどと共にもたらされた「カルタ」です。「カルタ」とは、ポルトガル語でカードを意味する外来語で、札を裏貼りする製法やゲームの進行が反時計回りなのも、このころの名残なんですね。ポルトガルからもたらされたカルタは、75枚組みの「ウンスンカルタ」と呼ばれてたもので、面白い遊びとして人々に受け入れられていきました。天正年間(1573~1591年)にカルタの国産化が始まりました。当時の「天正かるた」が1枚だけ現存し、兵庫県芦屋の滴翠美術館に所蔵されています。そうしたカードゲームが流行するにつけ、絵模様が華美になり日本化していったのですね。もともとあったハマグリの貝殻を使った平安時代から伝わる「貝覆い(貝合わせ)」などの影響を受けて、花鳥風月を配した「花カルタ(花札)」、歌合(うたあわせ)からヒントを得た「百人一首」、いろはカルタなどいろんなバリエーションが生まれたのです。百人一首なんて、いかにも日本独特のイメージですが、もとをただせばポルトガルのカルタがルーツだったのですね。初代内閣総理大臣 伊藤博文の妻 梅子の趣味は花かるた(花札)で、西園寺公や井上馨を自宅に呼んでは興じていたと云います。1888年(明治21年)正月に陸軍大臣 大山巌の妻、捨松のアメリカ留学時代の友人津田梅子と瓜生繁子が挨拶に原宿にあった大山巌を訪れると、梅子が洋間の床に座布団を敷いて花かるたに興じていたと云います。財界でも花合せが流行しており、渋沢栄一や三井合名会社理事長の朝吹英二も夢中で、花が引けないと紳商仲間の交際ができないと云われてたのです。花札が社交用具のひとつだったのですね。現存する花札の製造元でもっとも古いのは1800年(寛政12年)創業の「京都大石天狗堂」です。創業が江戸時代にさかのぼれるのは、この大石天狗堂だけなんですね。初代は、能登出身の大石蔵之介と云う人物で、米屋を営む傍ら、公家相手にかるたを売る商売を始めたとされます。かるたが博打の影響で禁制品の時代には、鼻をこする仕草が花札を買う意思表示だったらしい。次に古いのがゲーム機「Nintendo Switch 2」でお馴染み「任天堂」で、1889年(明治22年)創業です。1919年(大正8年)から日本が委任統治した"パラオ"では今でも花札が「Hanakuda(ハナクダ)」と呼ばれて遊ばれてます。ルーツはポルトガルですが、日本人は外国から入ってきたカードに自国の豊かな自然と美しい四季の移り変わりを表現し、花札と云う独特の遊びを作り出したのですね。
Jan 28, 2026
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今は亡き渥美清が主演して、山田洋次が監督したシリーズと云えば、云わずとしれた「男はつらいよ」のフーテンの寅さんこと車 寅次郎の物語。この作品って1995年(平成7年)までに48作も製作されたのですね。特に1972年(昭和47年)~1985年(昭和60年)の14年間は、きっちりお盆と年末年始の年2回公開がなされて、これらの時期を彩る日本の風物詩とまで云われました。その寅さんシリーズ、1988年公開の40作目、マドンナ役は三田佳子。寅さんが訪れた信州は小諸にある病院の女医 真知子役でした。この映画、テキヤの寅さんが早稲田大学で講義を受ける場面があったりと、いままでのシリーズとちょと毛色が違う。公開された1988年の翌年、1989年は昭和64年で平成元年、つまり昭和最後の作品なんですね。映画のタイトルは「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」。もうお分かりですね。タイトルの由来は、俵万智の大ヒット短歌集「サラダ記念日」から。俵万智の「サラダ記念日」は出版されるや280万部のベストセラーとなりました。サラダ記念日の代表歌 「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」。ナゼ7月6日なのか?俵万智によると、別に7月6日でもサラダでもないとのこと。弁当を作ってボーイフレンドと野球を見に行った時に、鶏のから揚げをいつもと違うカレー味にしたら「美味しい」と褒められたのがきっかけで、この短歌が作られたのですね。しかし、鶏の唐揚げでは少し重く感じたため、もう少し軽やかなサイドメニューの"サラダ"に変更して、記念日の月を7月に決めたのは、野菜が元気な初夏とサラダの音の響き合いを考えた結果だそうです。日にちはまず七夕の7日を思い付いたものの、何でもない普通の日こそ記念日と思える歌にしたいと考え、6日を選んだと説明しています。つまり心のままに詠んだように見えて、そこには絶妙なテクニックが存在してたのですね。私も「サラダ記念日」を所蔵してますが、彼女の魅力は何より日常で使う「口語」を基調にしていて親近感が湧くと同時に、日常のささやかな出来事や、ふとした心の揺れなど生活のひとコマを歌にしていて親しみやすいです。何よりどんなタイヘンなことでもポジティブに受け止めて、言葉にしてるのがいいですね。さて寅さん話に戻りますが、小諸で真知子(三田佳子)とすっかり仲良くなった寅次郎は、真知子が未亡人と知ってまたしても恋の虜になります。そこへ、東京から真知子の姪の由紀(三田寛子)が訪ねてくるのですね。この由紀が早稲田大学で短歌を学んでいることから、寅さんが早稲田で講義を受けるハメになるワケです。そうして短歌の話題で盛り上がるが、真知子は亡き最愛の夫の影を寅次郎に感じていたのですね。「ため息をどうするわけでもないけれど少し厚めにハム切ってみる」。 東京に寅さんを訪ねてきた真知子は、柴又駅での別れ際、寅次郎に「寅さんと話してるとね、私が一人の女だということを思い出すの」と告げます。寅次郎はそんな真知子の言葉に、何も返答することができない。「愛ひとつ受けとめかねて帰る道長針短針重なる時刻」。 再び小諸に戻った真知子と寅さん。真知子は寅さんの肩に顔を当てて泣きます。しかし、寅さんは受け止めてやれない。真知子を支えられる男性として「筋道を立てて」一緒に「考えてくれる」人の存在が必要だと感じ、自分にはその役割はできないと感じたのです。寅さんは真知子が病院から帰宅前に小諸から去ることにします。それを知った由紀が「叔母ちゃまを好きなのね」と呟く。すると寅さんは由紀が作ったばかりのサラダを一口食べて、「うん、いい味だ」とだけ答える。「寅さんが『この味いいね』と言ったから師走六日はサラダ記念日」。 もう全編、俵万智の世界。こんな「男はつらいよ」はシリーズでもちょと異色。それでもきっちり寅さんの良い意味でマンネリ化した物語が展開されてます。
Jan 27, 2026
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訪日外国人が絶賛する神戸牛のステーキや焼き肉、神戸牛は日本を代表するブランドですよね。しかしお高い!観光客でごった返す東京 築地のお店なんかで販売してるテイクアウトの神戸牛焼き肉1串は、3,000円~4,500円の価格で販売されてます。串1本ですよ~それもホントウに神戸牛かどうか分からない牛肉ですから、完全にインバウンド価格。これが円安の影響で外国人観光客にはお手頃価格にうつって大人気なんですな。なにしろ神戸牛は牛にビールを飲ませたり、栄養豊富な飼料を与えて大切に飼育されてるので、とれる牛肉がハンパなく美味い!ぢゃあ、奮発してきょうは神戸牛を買ってきて、家でステーキでも焼くか。と思っても...阪急百貨店に入ってる大井肉店で、神戸肉のサーロインが100g で1万円、シャトーブリアンになると100g 2万円もします。こりゃあうかつに手でないですね。ところがですよ~兵庫県内の牧場を探し回っても、神戸市内の牧場を探し回っても"神戸牛"と名の付いた牛は存在しないんです。神戸牛の由来は、大政奉還が行われた1868年(慶応3年)に神戸港が開港して、神戸に外国人の居留地ができると外国人は牛肉を求めます。ところが当時の日本は肉食の習慣がなく、牛の入手に一苦労だし、ましてや屠牛場もなかったため、中国や朝鮮、アメリカから仕入れてました。しかし、これでは需要に追いつかない。そこで兵庫県でもともと農耕用に飼ってた「但馬牛」を試してみたところ、味といい、品質といい、他に比べ物がないほど美味しい。これが「Kobe Beef(神戸ビーフ)」と名付けられて、神戸港から海外に輸出されるようになったのですね。但馬牛は資質、肉質が良いため、松阪牛や伊賀牛、近江牛、飛騨牛などの素牛(もとうし)でもあります。また前沢牛のように、但馬牛の血統を入れることで牛の品種改良が行われてることも多いですね。生産者、食肉流通業界、消費者の協力で設立された「神戸肉流通推進協議会」という団体があります。この神戸肉流通推進協議会で定めた兵庫県産但馬牛であること、きめ細かい霜降り、豊かな風味、人肌で溶ける上質な脂肪(オレイン酸)などの厳しい審査をクリアした牛肉に「神戸之肉証」が交付されてるのです。こうした審査を経た神戸牛には「菊の判」が押されてます。私が若いころ毎日放送に努めてて、会社の神戸 六甲山の保養所を利用したこと有ります。その保養所で神戸牛のスキヤキを食べさせてもらったのですが、そりゃあ一度も味わったことない美味だったの今でもハッキリ覚えてます。そんな豪華な夕食と宿泊費が保養所と云うことで、タダ同然だったのですから、昔の日本の企業は豪胆でしたね。アメリカの五大湖中心に猛烈な寒波が居座って、温暖なマイアミでさえ雪が降ったとか、シカゴのあるイリノイ州では路面凍結でスリップした車100台が追突事故おこしたと報じてました。下のチャッピくん&ミミちゃん画像はAIで作成したものです。
Jan 26, 2026
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「新たな国づくりを進めて良いのかどうか、国民の皆さまに直接問いたい。政権枠組みの変更、そのもとでの重要な政策転換は総選挙によって信任をいただいた上で、ぜひ力強く進めたい」と云って衆議院を解散した高市総理。1月23日の衆議院本会議の冒頭で額賀議長が解散詔書を読み上げて解散しましたね。この高市総理はよく知られてるように奈良出身です。奈良出身の総理は高市総理が初めてなんですな。関西地方出身の首相は過去に7人輩出されてます。主な戦後の関西出身総理は、滋賀出身で75代総理の宇野宗佑、京都出身で43代総理の東久邇宮稔彦と47代総理の芦田均らで、戦前は大阪出身の鈴木貫太郎や幣原喜重郎がいました。高市首相は36年ぶりの関西人首相なんです。現職閣僚で他に西日本出身者と云うと林総務大臣の山口だけど、小泉防衛大臣はご存知の通り神奈川の横須賀出身。平口法務大臣が広島出身で、小野田経済安全保障担当は岡山出身、片山財務大臣は東京出身で、牧野復興大臣と城内経済財政担当は静岡出身。小林党政務調査会長は千葉の市川出身だし、茂木外務大臣は栃木の足利出身と高市総理を除いて関西勢は皆無。いずれ総理の座を狙う面々に関西人がいないんですな。前総理の石破茂は鳥取出身だし、その前の岸田文雄の地盤は広島ですが、出身地は東京です。日本の歴代総理の出身地は、伊藤博文や山縣有朋などを排出した山口が8人で最多。次いで東京の5人、さらに池田勇人や宮澤喜一を排出した広島、原敬や鈴木善幸を排出した岩手、福田赳夫や中曽根康弘、小渕恵三などを排出した群馬がそれぞれ4人とこの辺りが総理排出県の順位トップになってます。それに比べると関西出身の総理と云うのは極端に少ないのですね。しかも関西出身の総理は在職日数がやたら短いのです。最多の在任期間3,188日を誇る山口出身の安倍晋三を始め、総理在職日数の合計は11,385日に比べ関西出身総理の総在職日数は1,500日しかありません。歴代総理で最も短かったのは、京都出身の東久邇総理で、終戦事務の一段落を理由にわずか54日で総辞職しました。滋賀出身の宇野総理も69日しか務めてません。なぜ関西人の総理経験者は少なく、そして総理のイスに長く座れないのか?こう云う説があります。関西人の「権力アレルギー」が大きく影響していると。東京では「センセイ、センセイ」ちやほやされる政治家も、関西では「代議士? それがどないしたん」特別扱いなんてないのです。「政治家がなんや云うねん」と云う具合で、尊敬もされなければ、歓迎もさしてされない。皇族に対する歓迎態度と段違いなんですな。こう云う風土では、総理のイスを目指そうとする人が少なく、大物政治家が育たないのは無理ないと。ホントのとこは...分かりません。
Jan 25, 2026
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激臭の発酵食品と云えば、スウェーデンのニシンの缶詰「シュール・ストレンミング」があまりにも有名。ニシンを塩漬けにして発酵させ、その後に缶詰にしたスウェーデンの保存食で、塩を節約するために塩水に浸けたもの。塩水に浸けると、塩漬けより塩分濃度が低くなるので発酵がどんどん進み、缶の中でも発酵がとめどなく進むため強烈な匂いの食べものになる。私はシュール・ストレンミングを口にしたことありません。シュール・ストレンミングは日本では輸入が禁止されている食品なんです。なぜかと云うと、発酵して缶が膨張し爆発寸前状態にあるからです。開缶にあたっての4つの注意事項が缶詰に書かれてます。・家の中では開缶しない・開缶するときは必ず要らない衣服を身にまとう、要するに服にニオイがついたら取れないってこと・開缶する前に必ず冷凍庫に入れてガス圧を下げておく・風下に人がいないかどうかを確かめてから開缶そりゃあ日本で輸入禁止になるワケだ。シュール・ストレンミングを食べるかなりバッチイ動画です 勇気ある人はここをクリック臭いものでは韓国の「ホンオ・フェ」も。ホンオ・フェってのは直訳すると「エイの刺身」だけど、その実態は「腐ったエイ」。ガンギエイを壺に入れて10日間発酵させたもので、強烈なアンモニア臭を放ちます。これを5mm くらいにスライスして、醤油、コチュジャン、ニンニク、ネギの入ったタレにつけ、ゆでた豚の3枚肉とサンチュに包んで食べる。とても高価で、韓国では主として結婚式の時に出されるそうな。で、食べると...まんまアンモニア臭!ぼろぼろ涙が出てくると云います。口の中に残っていると、ただれてしまうほどの強いアンモニアらしい。チーズ系で臭いチーズってのは、熟成過程で定期的に塩水やワインを吹き付けて作るウォッシュタイプが有名です。水分が補給されるため、さまざまな菌類が繁殖してチーズのタンパク質を分解することにより豊かな味わいが生じるのです。世界一臭いチーズとしてよく挙げられるのは、フランスのエポワス(Époisses de Bourgogne)やベルギーのリンバーガー(Limburger)などです。。これらのチーズの強烈な臭いは、熟成過程で付着させる「リンネス菌」が作り出す硫黄化合物などの成分によるもので、これは人間の体臭の原因菌と同じ菌種です。エポワスは熟成が進むと非常に強い香りを放ち、食べると「神さまの足の匂い」と評される強烈なニオイを放ちます。リンバーガーは、人間や動物の体臭の原因となる「リンネス菌」が使われており、靴下や古漬けのような臭いが特徴です。しかしアラバスターという器械で測った臭さでは、ニュージーランドの缶詰チーズ「エピキュアーチーズ」がダントツ臭いらしい。このチーズは熟成を缶の中で行うため乳酸菌発酵に伴う炭酸ガスや硫化水素などにより缶詰は膨満し破裂しそうな形になります。味は酸味が強くてコクがありますが、ニオイはどんなチーズより強烈ですごみを帯びているとか。次はヤバイです!なんせアザラシやセイウチ、クジラ、トナカイなどの生肉や生内臓を日常食べてるイヌイットの食べ物ですから。名前は「キビヤック」。漬物の一種です。漬物と云っても野菜のとれない地域に居住してますから..."ウミスズメ"と呼ばれる海で生活してる鳥60~70羽くらいを、アザラシのお腹の中に詰め込み、土の中で3年くらい発酵させた食べ物です。ザラシの脂肪とともに発酵した海鳥肉の体液を食べるのですね。ビタミンが豊富で煮たり焼いた肉にこれをつけて食べるそうです。アラバスターという器械で測った臭い食品、第5位は意外にも日本の食べ物でした。"納豆"?あれは欧米人がニオイに慣れてないだけで、臭いと云えばそうですが、そんな強烈なニオイではありませんね。新島や八丈島など伊豆諸島の特産品「くさや」です。くさやのニオイなんて、東南アジア産で果物の王様と云われる「ドリアン」と比べたら大人しい方だと思うのですが...くさやはアオムロアジなどの開きをサメの頭、魚の内臓や血液などを海水に入れて発酵させた「くさや液」に漬け込み、天日で干して乾燥させた私の大好物。「くさや液」は塩分節約の知恵から生まれ、代々受け継がれる貴重なものなんですね。塩分控えめで栄養価も高く、焼いて食べるとなんとも云えぬ美味ですが、自宅で焼くと、その強烈なニオイで近所から苦情くること請け合い。ニオイは銀杏(ぎんなん)を強烈にしたものとイメージしてください。焼いて身をほぐして瓶詰めしたのが売ってます。滋賀県の琵琶湖に生息するニゴロブナを塩漬けにして、炊いたご飯と一緒に漬け込んで乳酸発酵させた日本最古の寿司とも云われる「鮒鮓」も日本産臭いものの筆頭とよく云われますね。私は一度も食べたことありません。独特のニオイは、発酵の過程でフナのたんぱく質が分解され、旨み成分であるアミノ酸に変わることによって生じるニオイらしい。しかし逃げ回るほどのニオイではなく、生臭くなく、チーズのように芳醇な香りがするそうな。そんなん云うたら、台湾や中国で食べられてる「臭豆腐(チートウフウ)」とか「腐乳(臭腐乳)」の方が臭いのちゃうかなぁ。「臭豆腐」のニオイを初めて香港の女人街屋台で嗅いだとき、「くっさぁ~ ウ◯コのニオイや!」と感じたのですが、食べてみるとこれが美味!やみつきになる味です。臭豆腐は植物の汁と石灰等を混合し、納豆菌と酪酸菌によって発酵させた漬け汁に豆腐を一晩程度つけ込んだ物です。だいたい揚げたり、蒸したりして食べるのが一般的ですね。腐乳は台湾や中国で普通に食される豆腐を腐らないように発酵させた食品です。カビを生やした硬めの豆腐を塩水に漬けカビを落とし、瓶にいれて白酒をふり、泥の中に埋めて1~2ヶ月発酵・熟成させたものです。「東洋のチーズ」とも呼ばれ、お粥や炒め物、煮込み料理の調味料として広く使われ、赤(紅腐乳)、白(白腐乳)、青(青腐乳)などの種類があります。チーズに似た猛烈に強い酢酸臭を付加させて、独特のコクと旨味、塩味が特徴です。日本の漬物、とくに沢庵なんてのは、外国人から見たら臭いんでしょうねぇ。沢庵の大根は他の野菜より多くのメチオニン、システインなどの含硫アミノ酸やチオシアネートなどの硫化物が含まれ、糠漬けの発酵過程で微生物の分解を受け揮発性硫黄化合物となって飛散するため、これが臭みになるのです。中国、浙江省の特産品である莧菜という野菜を原料に作られる漬物「臭漬」も名前(くさい漬物)に違わず臭いらしい。搾菜など足元にも及ばず、鼻っ柱にシワがよるほど猛烈に臭うらしい。
Jan 24, 2026
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私はめったに温泉に行くことないですが、行っても若いときと違って共同浴場に入ることは無くなりました。女湯は知りませんが、ど~もマナーを心得ないオッサンに洗ってるボディシャンプーなんかをひっかけられるのがイヤで。それで、いつもお部屋に設備してる内湯ばかり入ってます。しかし長野県の地獄谷野猿公苑で温泉に入浴するお猿さんたちは、まったく気にせずどころか混浴さえ楽しんでますね。そもそも日本人のお風呂好きは世界でも有名で、日本が温泉国であること以外に、清潔好きなこと、また湿気の多い気候などからお風呂は大切な役割をはたしてきました。宇宙にいると基本、入浴することは無くて、洗い流さない石けんとシャンプーを使って体を拭く「スポンジバス」で対応してます。なにしろ宇宙で水は貴重だし、だいいち無重力でシャワーを浴びるのは困難。ところがアメリカが初めて打ち上げた宇宙ステーション「スカイラブ」には、シャワーに似た装置が装備されました。直径90cm の円筒型シャワールームにゴーグルをかけて入り、ホースから直接身体に水を吹きかけ、余分な水をファンで吸引すると云うものです。終わったあと約1時間かけて中の水滴を全部ふき取る手間を考えると、手間ばかりかかって、そのくせ快適とは云えないため、その後シャワーは設置されなくなったのですね。日本人のお風呂に入ると云う行為は、水浴や温浴によって清めると云う考え方が原点です。つまり身体だけでなく、心までも水で洗い流すと云う思想なんですね。ときたまTVで、滝で水を浴びる修験僧なんかを報道しますが、あれが清める行為ですね。ところが毎回毎回、水のあるところに出向くのはタイヘン。そこで手軽に身を清めようと知恵を絞った結果できたのがお風呂と云うことです。風呂ができてからは、神事祭礼の際に、参加する者は事前にお風呂に入って禊(みそぎ)をするようになったのですね。仏寺でも、僧侶たちはお風呂で斎戒沐浴してから仏に仕えるのが常識になったのです。神社の手水舎で手を洗う「手水」も、参拝前に心身を清めるためですね。こうした入浴と宗教が結びついてるのは日本だけでなく、世界各地で見られます。古代ユダヤ人にとって入浴は社会的な義務であり、入浴によって体の清潔を保つことはモーセの律法にも含まれていると考えられてました。紀元前1055年にダビデ王がエルサレムに建設を開始した公共浴場「ミクヴァ」はソロモン王の代になって完成しました。古代のミクヴァは6m 四方の地下室で、体だけでなく精神を浄化する場所でもあったのです。ヒンドゥー教が一日の始まりに、寺院の貯水池や川で沐浴を行うのはよくご存知ですね。また仕事を終えたあとも、1時間ほどかけて全身を洗い浄めます。15世紀にインドのパンジャーブ地方でグル・ナーナクが創始した一神教「シク教」にも沐浴の習慣があり、アムリトサルにあるシク教の総本山「黄金寺院」周辺では沐浴がよく行われています。フィンランド人にとってはサウナは切っても切れない入浴施設ですが、これももともと社会的には禊の場だったのです。古代では死者は葬儀の前にサウナに入れられ、悪魔に取り憑かれたとされた者はサウナで悪魔祓いを受けたのです。とは云え、いまどき禊を意識してお風呂に入る日本人はいないでしょう。世界的に見ても日本人の入浴頻度はかなり高いです。と云うか、毎日お風呂に入るのがアタリマエ。しかし江戸時代は入浴頻度がそれほど高くなく、銭湯などの共同浴場での入浴が一般的だった一方で、地域や生活水準、あるいは季節によってまちまちでした。毎日入浴する習慣が全国的になっていくのは、家庭にガス瞬間湯沸器や水道水の普及が進んだ高度経済成長期以降のことなんです。世界的に日本人は入浴、特に高い温水での入浴を好むと云われ、多くの日本人が好む入浴温度は40~43℃程度です。「徒然草」にも住まいは夏を旨とすべしとあるように、日本の住居は多湿の気候を考慮して、風通しの良い構造が好まれていました。このため冬場に身体が冷えるため、熱い温度の入浴が好まれるようになったそうな。ルネサンス期のヨーロッパ、特にフランスでは「水や湯を浴びると病気になる」と信じられてました。ヴェルサイユ宮殿のバスタブは建設された当初は使われていたものの、その後はマリー・アントワネットが嫁ぐまで使われなかったそうな。王侯貴族は入浴の代わりに頻繁にシャツを着替え、香水で体臭をごまかすようになったのです。これがパリなどフランスの大都市部の公衆衛生の悪化の原因の一つとなりました。それが今の欧米人が入浴でなく、冬でもシャワーですませる人が多い原因か?たまに浴槽を使っても、お湯をためて湯船で身体を洗い、最後にシャワーで流すスタイルが多いですね。それも泡が残っていてもあまり気にしなくて、タオルでふき取ってしまう人が多いのです。彼らにとって入浴はリラックスするためではなく、単に清潔にするための作業なんです。日本と他の国との入浴事情で決定的に違うのは、日本のお風呂は家庭風呂でも浴槽とは別に洗い場が完備してることです。「アメリカ人は体をきれいにするために風呂に入るが、日本人は体をきれいにしてから風呂にはいる」と云われるほど浴槽の衛生管理に気を使っています。日本では、浴槽に入る前に身体を洗うか、汚れを流し落とすことがマナーとされてますね。日本人と同じく入浴に熱心だったローマ人にとって、入浴はその後の活動の準備であり、そのために体をリフレッシュさせる手段であるため専ら日中に入浴しました。一方、日本人は一日の疲れを癒やしぐっすり寝るために夜に入浴する人が多いです。まさにお風呂は、その国の気候から歴史、宗教、経済状況、そして生活様式を映し出す「文化の縮図」と云えます。
Jan 23, 2026
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よく知られてるように「050」から掛かってくる電話は、サギ電話に使用されることが多いです。050から始まる電話番号は、IP回線(インターネット回線を用いた通信回線)を使用していることを意味します。この電話番号は、固定電話の番号のように03や06と云った地域に紐づいた番号ではなく、通信事業者が独自に割り当てる番号です。具体的には「050+通信事業者の識別番号+加入者番号」で構成されています。そのため番号を見ただけでは、どこからかけられているのか特定できません。これまでは、050を取得する際に本人確認が義務付けられていなかったため、迷惑電話や詐欺などに利用することが可能でした。しかし050番号を使った詐欺事件が多発したことを受け、政府は特殊詐欺対策の一環として、一昨年から番号取得時に本人確認を義務付ける規則改正を行いました。これは国内の電話を使った迷惑電話や詐欺行為ですが、実際にこうした事案の約80%に国際電話が使われることの方が多いです。みなさんでも、電話かかってきて番号を確認すると、番号の前に「+」が表示されてること経験された方も多いでしょう。「+」表示が国際電話です。特に「+1」と「+44」から始まる電話番号が現在、日本国内でニセ警官詐欺など特殊詐欺が急増している番号です。+1はアメリカやカナダなど北米地域、+44はイギリスの国番号ですが、これらの国番号以外でも特殊詐欺に使われてるケースがあります。この手の特殊詐欺には...・警官や銀行員、検察官などを名乗り、偽の事件や未払い料金を口実に金銭をだまし取ろうとするもの・同じようにオペレーターや自動音声ガイダンスを通じて「ウイルスに感染している」「パソコンのサポートが必要」などと不安をあおり、偽のサポート料金を請求して騙し取るもの・短時間だけ電話を鳴らし、かけ直させることで法外な国際電話通話料を発生させる国際ワン切り詐欺などがあります。*国際フリーフォンは、電話を受けた側が料金を負担する着信課金式の電話番号のことです。海外の通信事業者と犯罪グループが共謀しているケースが多いです。こうした番号は海外を経由して表示されるため、発信元の特定が困難なんですね。とにかく心当たりのない「+」電話には出ない、すぐ切る、かけ直さないがイチバンです。国際プレミアムダイヤルと云う、云ってみれば「ダイヤルQ2」みたいなもので、1分幾らと云う通話時間に応じた課金なんですが、その金額が1分数千円に及びます。この国際プレミアムダイヤルに誘い込むのに、「NTT」など国内大手通信会社の騙り、「現在ご契約中の通信サービスがまもなく停止されます。オペレーターにお繋ぎする場合は"1"を押してください」とアナウンスするんですね。この1を押してくださいが国際プレミアムダイヤルと契約するサインになってて、みごとに騙されるワケです。これを「国際レヴェニュー詐欺」と云います。海外と通話することが皆無だったら、固定電話やひかり電話で「国際電話の不取扱(発着信の停止)」を申し込むのが安心です。これは国際電話のストップをするもので、無料で設定してくれます。iPone の場合は、「設定」で「不明な発信者を消音」にすることも効果的です。ドコモが提供している「WORLD CALL」の解約手続きを行うと、スマホから国際電話に発信できなくなります。解約手続きの手順・「My docomo」にアクセス・「お手続き」をタップ・「海外」をタップ・「海外へかける(WORLD CALL)」をタップ・「解約」をタップ以上で解約手続き完了です。もひとつ国内も海外からも有効な詐欺防止策があります。「デジポリス(DigiPolice)」と云う警視庁が提供してる詐欺電話をブロックする無料アプリを導入することです。警視庁が手掛ける防犯アプリなので、警察庁と違って東京だけを管轄する警察ですから、東京都民向きに開発されたアプリで「東京都内の不審者情報」とか「犯罪が多発しているエリアに足を踏み入れると通知してくれる」機能とかが網羅されてます。では、都民以外は使えない!?いいえ、このアプリには詐欺電話ブロック機能と云うものが搭載されてます。このアプリを入れると、警察が既に把握している詐欺電話のデータベースから詐欺電話をブロックしてくれます。つまり膨大なデータベースに登録してる番号からの詐欺電話をブロックしてくれるのです。それだけではありません。ただ、ここからの機能はAndroid だけの機能で、IOSには対応してないんですね。Appleユーザーのみなさんすみません。これはAppleがアプリに対して厳格な規定を設けてるためで、致し方ないのです。それは「国際電話ブロック機能」で、あなたがうっかり折り返し電話をかけるのもブロックしてくれるのです。さらに、こうした詐欺電話の履歴も残さない機能もあります。自動で削除してくれるのです。さらにさらに国際電話ブロック対象除外機能もあるので、安全な国際電話の発信元に対してはブロック除外できます。「デジポリス(DigiPolice)」をインストールすると、自動的に国際電話ブロック機能の設定画面に移行するので、誰でも問題なく使えます。Apple の場合は、国際電話の一律ブロックとか、危険番号への発信制限は使えません。何が使えるかと云うと、警察が把握してる詐欺電話をブロックしてくれる機能しかありませんが、「不明な発信者を消音」にするの設定があるので、国際電話詐欺はこれで対応できるでしょう。これはAndroid でも電話アプリの「設定」からできる機能ですね。こうした対策はあなたのスマホだけでなく、知識のない子供や高齢者のスマホ設定をしてあげる必要がありますね。さて、ここまでは電話詐欺対策を述べてきましたが、もし国際電話詐欺の電話にうっかり出てしまったらど~すれば?何より先ず通話を切ることです。個人情報は絶対に教えず、折り返し電話もしてはなりません。身に覚えのない請求や不審なアプリの挙動がないか確認し、金融機関や警察(警察相談専用電話→#9110)、国民生活センター(消費者ホットライン→1888)に相談しましょう。そして契約している通信事業者にすぐに連絡を取ることが重要です。早期の連絡により料金請求の軽減措置を受けられる可能性があります。通信事業者への連絡時は、通話した日時、相手の電話番号、通話時間を正確に伝えてください。さらに料金明細を確認し、身に覚えのない高額請求がないかチェックします。また口座やカード情報を教えてしまった場合は、すぐに銀行やクレジットカード会社に連絡し、利用停止や口座凍結を依頼します。
Jan 22, 2026
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「この木なんの木 気になる木」はお馴染み日立グループのCMに出てくる「日立の樹」。正しくはハワイの「モアナルア・ガーデン」にあるモンキーポッド(Monky pod)ですね。中南米原産の巨大な巨木です。日本にも御神木があるように、土地の人々にとって特別なシンボルツリーとして存在する木は世界各地に存在しますね。バーレーンと云うとペルシア湾に浮かぶ大小33の島からなる、シンガポールとほぼ同じ面積のちっちゃい国です。気候区分で云えば、と~ぜん砂漠気候。中東で最も早く石油採掘を行った国で、GDPの約30%は石油関連によるものでした。その恩恵で国民には所得税が無かったのですが、1970年ごろから石油が枯渇し始め、20年余りで完全に枯渇するという問題が出てきて、給与の1%を税金として徴収されるようになりました。それでも1%ですからねぇ、日本人から見たら無税に等しい。それでバーレーンは、中東のビジネス拠点、金融センターを目指してインフラ整備を進め、多国籍企業を始めとした外国資本が多数進出するようになりました。今やバーレーンは中東でドバイ、カタールに次ぐ第3位の金融センターとして存在してます。そのバーレーンの首都マナーマから約40km の場所、アラビア砂漠の不毛地帯にポツンと1本だけ佇む大きな木があります。年間降水日数が10日くらい、年間降水量は70mm 以下のほぼ雨が降らない砂漠の荒れ地に孤独に立ってるこの木は「生命の木(シャジャラート アル ハヤット)」と呼ばれてます。この木の樹齢は400年以上!周囲1km の範囲に小川や河川、その他の植物がいっさい生えていません。それが今でも ねむの木のような緑の葉で豊かに覆われていて、黄色の樹脂はキャンドル、芳香剤、ガムの製造に使用されます。また実はジャムなどに加工されます。バーレーンの人々はエデンの園があった場所がバーレーンであり、聖書では楽園の中央に「Tree of Life」つまり「生命の木」が立っていたと信じてます。この木は命の木と呼ばれてますが、学名は悪魔の木(メスキュート)の一族なんです。悪魔の木と呼ばれる所以は、その驚異的な生命力と繁殖力によるものです。アメリカ南西部やメキシコなどでは、切り倒しても根が生き残って新たな芽を出し、ヒドラのように再生するため駆除が非常に困難なのと、牧草地を支配し牧草を枯らすため、カウボーイや牧場主から「侵略的植物」として嫌われてる木なんです。ナゼそんなに生命力が強いかと云うと、深すぎる根をもってるからでした。地下約60m に達する主根を持ち、水を探し求めて他の植物を枯らしてしまうのです。それで「生命の木」も砂漠で生活しながら、地下水にアクセスできるのですね。さらに小さな葉は、水分を保持する特殊なワックス層に覆われており、樹皮は砂漠の厳しい気温に耐えられる構造をしてます。もともとバーレーンは地下水が豊富だったらしく、そう深くない位置に地下水があるとの説もあります。バーレーンは常に砂漠からの砂が舞い上がり、それに加えて雨も少ないため、真っ青な空が見られることはめったになく、大きな太陽が薄グレーの空に薄オレンジ色となって消えていくような土地です。「生命の木」は歩道のない道路からやがてパイプラインが張り巡らされる砂漠へと進んでいった先に忽然と現れるのですね。
Jan 21, 2026
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インドの首都デリーに「クトゥブ・ミナールとその建造物群」と云うユネスコ世界遺産があります。ここはインド最古のイスラム建築群で、奴隷王朝のクトゥブ・ウッディーン・アイバクがヒンドゥー教徒制圧の記念にヒンドゥー寺院の資材を再利用したモスクなどを建設しました。中心となる高さ72.5m の五層の尖塔「クトゥブ・ミナール」は、世界一高いミナレット(尖塔)で、5層構造。1層目は赤砂岩、上層は白大理石が使われ、コーランの句やアラベスク模様が彫られてます。クトゥブ・ミナールは地震や落雷などで先端が崩れた後に修復してあり、当初は100m ほどの高さがあったと云います。直径は、基底部が14.3m に対して先端部は27.5m と文字どおりの尖塔なんですね。内部には378段の階段があり、以前は先端部まで上ることができました。ところが1981年に突然 照明が消えてパニックになった修学旅行中の少女たちが階段で折り重なって倒れ、十数名が死傷する惨事となり、この事故以来、内部への立入りは禁止されてしまったのです。そんなクトゥブ・ミナールのある敷地に奇妙な鉄柱が建ってます。「デリーの鉄柱」とも「チャンドラヴァルマンの柱」とも呼ばれるこの鉄柱は、グプタ朝時代、紀元415年に建てられたと云われ、直径約44cm 、高さは約7m 、地下に埋もれている部分は約2m 。重さは約10トンあります。この鉄柱がなんで奇妙かと云うと1,600年経っても、ほとんど錆びてないのです。鉄なんて錆びる筆頭格で、自然界において不安定な鉄は酸素を取り込みます。そして鉄鉱石は酸化鉄の状態で安定するのです。精錬した鉄も同じで、その過程で生じる酸化鉄が錆なんですね。錆びない鉄としてステンレス鋼などありますが、加熱しながら鍛えた鉄が錆びにくいことは古くから経験上知られていました。熱を加えて叩くことにより、不純物が外側に押し出され鉄の純度があがり、内部では再結晶化が促進されるためです。これの見本が日本刀で、鍛造で錆びにくくなった鉄の実例になりますが、それでも手入れを怠ればやはり錆を生じます。では「デリーの鉄柱」はナゼ錆びないのでしょうか?理由として「純度の高い鉄製だから」という説明がよくされます。しかし、これは誤りです。金属工学の専門家インド工科大学のバラスブラマニアム博士によれば、99.72%の純度ならば50年ほどで錆びると云います。また鉄は酸素と水があると容易に酸化するので、比較的乾燥している地域では酸化しにくいと云えます。とは云え1600年の間、風雨に曝されながら錆びなかった理由は、鉄の純度の高さでは説明できないのですね。「デリーの鉄柱」が錆びない理由は、むしろ不純物が存在したからです。インドで産出される鉄鉱石にはリンが比較的多く含まれています。さらにインドでは鉄を精製する際にインドとスリランカの乾燥地帯で群生するミミセンナというリンを含む植物を加えていた記録があります。リンを豊富に含んだ鉄を薄い円盤状にして加熱しながら叩くと、鉄の表面はリン酸化合物で覆われます。その円盤を積み重ねてさらに叩いて一体化させれば、鉄柱の表面がリン酸化合物でコーティングされ、錆に強い鉄柱が完成するのですね。
Jan 20, 2026
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植民地支配を一度も受けたこと無い私たち日本人には理解しがたいことですが、いったい支配する側とされる側にどのような精神的、文化的交流があったのか?また名目上は独立国ですが、実質的に植民地と同等の状態にある地域を指す「半植民地」と云う国もあります。もっとも端的なのが冷戦終結までのポーランドやハンガリー、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア、そして東ドイツなどはソ連の衛星国とも云われました。日本に近い東南アジアでも第2次大戦終了までほとんどの国が欧米の植民地でした。唯一、ずっと独立を保ってたのはタイだけで、タイを境にイギリスとフランスが植民地支配すると云う形にしてたのです。これはイギリスとフランスが条約を結んでタイは両国とも支配しないと云うことを決めたからですが、そこはタイ王朝の敏腕な外交が大きく影響したのですね。このように大国の間やその植民地間にあって、衝突を防ぐ役割をする国を「緩衝国」と云います。1941年12月8日に日本軍によるタイ侵攻が始まりましたが、同年12月中旬にタイと日本帝国の間で休戦および軍事同盟条約が結ばれました。これによって、タイはイギリスとアメリカに宣戦布告し、逆に周辺諸国の地域を併合して北、南、東へと国を拡大していったのです。東南アジアの主な旧植民地宗主国は、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ポルトガルです。イギリスはミャンマー、マレーシア、シンガポール、ブルネイ。フランスはベトナム、カンボジア、ラオス(仏領インドシナ)。オランダはインドネシア(蘭領東インド)。アメリカはフィリピン。ポルトガルは東ティモールを支配していました。これらの国は第2次大戦後、独立して程度の差はあれど今では発展途上国とは云えないほど栄えてる国もあります。しかし、これらの国で唯一発展もしなければ、行くのが東南アジアでもっとも危険として知れ渡ってる国があります。16世紀、ポルトガルによって植民地化された東ティモールです。1975年にポルトガルからの独立が宣言されましたが、その年のうちにこの国は隣国インドネシアに侵略・占領され、翌年インドネシアの27番目の州として編入されました。そして23年後の1999年になって国連の後援による民族自決法に従い、インドネシアは領土の支配を放棄し、2002年にやっと東ティモールは21世紀初の新たな主権国家となったのです。しかし現状は惨憺たるありさまで、貧困や失業を背景に強盗・窃盗などの犯罪やテロも多発。マーシャルアーツグループと云う若者グループ間の抗争が発生するし、無免許運転や交通法規無視による事故が多発。さらに停電は頻繁に発生し、暗闇での犯罪や事故を誘発してます。南方特有のデング熱やマラリアなどの感染症、狂犬病も多発しており、そのくせ医療インフラは劣悪な状態なんですね。イギリスの植民地だったシンガポール、アメリカの植民地だったフィリピン、両国とも宗主国の影響で公用語が英語となっています。両国はこれをいかしてITや国際金融ビジネスを伸ばしているのですね。フィリピンはそれ以前にスペインに、そして先程述べた東ティモールはポルトガルに支配された期間が長かったことからカトリック教徒が非常に多いです。フィリピンのカトリック教徒は8,000万人以上で、世界で3番目に多いカトリック教徒の人口を抱えています。東アジアのカトリック教徒の大多数はフィリピン人です。カトリックは離婚できないので、日本人男性でフィリピンのお姉ちゃんと結婚して「しまった!」と後悔しても離婚できない人が多いのです。マレーシアやインドネシア、フィリピンで行われているプランテーションは、植民地時代に強制栽培制度によって定着したもので、インドネシアのコーヒー、マレーシアの天然ゴムなど地場産業の発展に貢献しました。ベトナムやラオスでは、フランス支配の影響で今もフランスパンが日常的に食べられてる他、ベトナム民族衣装のアオザイもフランス支配の時代に、シャツのウエストを締めて女性の体の曲線に沿って肩を上げ、衣装を長くする改良がなされて現在の形になっているのですね。こうして植民地政策はもちろん悪なんですが、反面、伝統的な文化に西欧の文化が融合して新しい価値観が生まれる温床にもなりました。それも宗主国、それぞれの個性にあわせて。きのう述べましたようにベトナム戦争集結まで、ベトナム人のハイソサエティが海外留学する先はパリであり、学ぶ外国語も英語ではなくフランス語でした。英語はむしろ中産階級以下、庶民の外国語で、これは米軍の影響ですが、恐らく米軍影響化になかったハノイなんかでは英語はやはりマイナーだったと思います。ベトナム戦争の最中、バンコクに赴任してた私はよく隣国ラオスを訪れてました。まだ現政権の共産主義が牛耳る前で、曲がりなりにも自由主義だった時代。まだタイとベトナム国境のメコン川に橋が掛けられる以前の話しです。広い川幅のメコン川を渡船で渡ると、もうそこはラオス領。車がたちまち右ハンドルから左ハンドルに変わります。戦争中なので首都ビエンチャンに続く道路のあちこちにラオス軍の検問があるのですが、装甲車の上に設置された重機関銃の銃口はみんなこっち向いてる。銃手のラオス兵がクシャミでもして、うっかり引き金ひいてしまったら...私の身体はバラバラ。毎回、そんな危ういビエンチャン入りでした。そうして首都ビエンチャンに入ると、普段生活してるバンコクとは大違い。住民は貧しいけど、なんともノンビリで、みんな人当たりがいい。まるで日本の戦後前半のような居心地の良さが実感できるのです。売られてる密輸の服はフランスの「ラコステ」オンリー。煙草ブランドもバンコクで先ずお目にかかれない「ジタン」や「ゴロワーズ」などフランスものが。ベイトナムの「バインミー」と同じく、ラオスでもフランスパンを使ったサンドイッチ「カオチー」が屋台レベルで売ってます。そして、どんなチンケな食堂でも赤ワインがボトルで黙ってても出てくる。それより何より、このノンビリした雰囲気は英語圏ではなく、フランス語圏の国がもってる特性かも知れません。フランスのタヒチやボラボラ島が、アメリカのハワイやプエルトリコなどと全く違うのと同じように。そんな宗主国の影も急速に失われてますね。Instagram やX、FacebookなどのスマホによるSNSとYouTube などソーシャルメディアの発達によって、世界中の垣根がとりはらわれてる。低開発国ほど通信回線インフラが脆弱なので、却って日本よりスマホの普及が急速だったのです。こうしたITによる国境を超えたコミニュケーションの発達によって、旧宗主国がどこだったかなてこと誰も気にしない。考えてみれば日本のポツダム宣言受諾によって、太平洋戦争が1945年に終結したので、昨年が終戦から80年目。人ひとりの人生くらいの時間が経ってるのですから、旧植民地だ宗主国だと云っても知らない世代の方が多いでしょう。それと地球規模のネットワークの影響で国ごとの特性が徐々に失われていってしまってるのですね。
Jan 19, 2026
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本棚を整理してたら、なんとも懐かしい書籍がでてきました。サンケイ新聞の記者でサイゴン支局長として赴任してたときサイゴン陥落を目撃した近藤紘一のノンフィクションで、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した「サイゴンから来た妻と娘」です。海外に赴任してると思わぬ人と親しくなることが往々にしてあります。サイゴン陥落でベトナムに居られなくなった近藤さんが、妻子を連れてタイのバンコク支局長に赴任してきたのが私との出会いでした。記憶が遠のいて定かではないですが、近藤さんが大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのはそれからかなり経った後だと思います。これも記憶に無いのですが、それ以前から私と近藤さんはとても親しくなっていました。と云うより、飲み友達でもあったのですが。近藤さんから贈られた「サイゴンから来た妻と娘」の署名には1981年3月と記されてますが、サイゴン陥落は1975年4月ですから、結構長く近藤さんと親しくしていただいてたことになります。近藤さんのバンコク事務所にもよく訪問しましたが、狭い事務所でアシスタントもいませんでしたね。しかしイスラエルに占領された領土の奪回を目指してエジプト・シリア両軍が、スエズ運河、ゴラン高原正面に展開するイスラエル軍に対して攻撃を開始した第4次中東戦争のとき、近藤さんは取材で中東に飛び、これは1973年のことです。つまりサイゴン陥落より以前なのですが、もうこのとき私は近藤さんを存じ上げてましたから、サイゴン支局長のときもたびたびバンコクに息抜きにこられてたのかも知れません。なぜ第4次中東戦争のとき近藤さんを知ってたのを覚えてるかと云うと、近藤さんが中東に飛ぶ直前、私に近藤さんの奥さんと娘さんの面倒を見てほしいと頼まれたからです。著書「サイゴンから来た妻と娘」のモデルになった奥さんと娘さんです。しかしお二人とも話せるのはベトナム語とフランス語だけ。対する私はタイ語と怪しい英語だけで会話になりません。私は上海語の読み書きができたので、筆談を試みましたがこれもダメでした。結局お世話らしいお世話もできないまま、そのうち近藤さんはバンコクに帰ってこられました。娘さんは近藤さんと血の繋がりはありません。奥さんのブイ・チ・ナウさんは再婚で、ナウさんと前夫との一人娘で11歳のミーユンさんの父親になったのが近藤さんだったのです。奥さんはベトナム社会ではハイソサエテイだったと思います。ベトナム人で上流社会の人は英語ではなく、フランス語を勉強してたからです。奥さんはサイゴンで政府を含む各界の人脈を近藤さんに紹介し、後にベトナム難民の通訳を務めるなど報道の欠かせないパートナーとなったそうです。そんな近藤さんから、ある日相談を受けました。近藤さんは湘南・逗子生まれのお医者さんの長男で、日本には今もお家が残してある。そのお家を改装して、奥さんが主になってベトナム料理のお店を開きたいのだと。お客は親友の司馬遼太郎や開高健など文士仲間を中心に集まるから経営の心配は無い。近藤さんは記者生活にピリオドを打って、文筆活動に勤しむと云うのですね。背景にはベトナムでひどいマラリアにかかってて、体力が保たないと思ってたからだと思います。そこで、私にレストランのマネージャーとして経営をみてもらえないかと云うのですね。しかしレストラン経営の心得が無い私に、とてもお店を束ねるなんてできないので、丁重にお断りしたのです。近藤さんは1983年(昭和58年)に妻子を連れて帰国。帰国後、パリに居を定めて執筆活動に専念しようとして、パリに仕事場も確保できるような広めのアパートに移り住む計画を立てていました。しかし、その計画が進まないうちに、1985年(昭和60年)胃痛を訴えて東京・虎の門病院に入院。翌年、45歳の若さで胃癌のため逝去されたのです。葬儀では、サンケイ新聞の大先輩で親友だった司馬遼太郎が弔辞を読みました。その後、妻のナウさんと娘のミーユンさんはパリで暮らすようになりました。ミーユンさんは近藤さんの著書「パリへ行った妻と娘」に登場するフランス人男性と結婚し、男児をもうけたそうです。ナウさんの住まいの近くは、アジア系の人々が多数暮らしていて、中華とインドシナ諸国料理のレストランが目立つパリ・13区にあったそうですが、その後のナウさんの消息を私は知りません。「サイゴンから来た妻と娘」は1979年にNHKで4週にわたってドラマ化されました。林隆三主演によるこの作品は、主題歌に起用されたベトナム人歌手カイン・リーの「美しい昔」が有名になってます。美しい昔 カーン・リー
Jan 18, 2026
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だいたい敬語ってのは、使ってるうちに「これでは敬意が低いのではないか?」と心配になってくるものです。つまり使い続けてるうちにそれがアタリマエの感覚になり、敬意が不足してるように感じるのですね。まして尊敬語は目上の人を高め、その人を「立てる」ことで敬意を表し、謙譲語は自分がへりくだって表現することで、相手への敬意を表す敬語だなんて日頃意識して会話を交わしてる人なんて多くないでしょう。そうしたことから、より丁寧に云おうとして、あるいはとりあえず、それらしく話しておけばと云う姑息な気持ちが働いて、過剰な敬語表現が生まれてくるのです。敬語は「多く使えば良い」というものではありません。実際には、云い回しがくどい、不自然、大げさと感じられることで、相手に悪印象を与える可能性があります。例えば「ご説明させていただきます」は「説明いたします」で充分だし、「ご覧いただければと存じます」は「ご覧ください」で充分。特にビジネスの場では「へりくだりすぎる人」=「本音を隠す人」と とられがちです。ビジネスでは「簡潔で丁寧」な言葉が好まれるのです。そうした敬語の過剰使用の代表格が、敬語を2つ重ねて使ってしまう「二重敬語」です。「云う」「話す」の尊敬語「おっしゃる」、「見る」の尊敬語「ご覧になる」、「行く」「来る」の尊敬語「おいでになる」。これらに尊敬を表す助動詞「れる」をつけ「おっしゃられる」「ご覧になられる」「おいでになられる」、これが二重敬語ですね。尊敬の気持ちを強く示そうとしてこうした云い方になるのでしょうが、過ぎたるは及ばざるが如し、敬語に敬語を重ねても敬意の度合いが倍加するワケではありませんね。逆に二重敬語で慇懃無礼と感じる方もいます。二重敬語だけでなく、三重敬語になってしまってる言葉もあります。「お召し上がりになられる」→「お~になる」+「召し上がる」+「られる」=三重敬語「お承りさせていただきます」→「お~する」+「承る」+「させていただく」=三重敬語「お見えになられる」→「お~になる」+「見える」+「られる」=三重敬語と云うように。敬語は相手を高めたり、改まった気持ちを示す表現ですが、それだけではありません。相手との距離を取る働きも備えてます。適切な敬語を使って節度ある距離感を保ってる分には問題ありませんが、度が過ぎるとよそよそしく素っ気ない話し方や態度だと思われかねません。なかなか言葉と云うのはムツカシイですね。
Jan 17, 2026
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令和も8年になって、昨今評判のレトロブームは1989年から30年と113日続いた「平成」が対象ですね。62年14日とイチバン長く続いた「昭和」ではないのです。なにしろ平成元年生まれの人は今年36歳か37歳なんですから。考えてみたら30年余りも続いた平成がレトロブームの対象になるのは頷けます。現代版レトロ商品で今大人気なのがウォーターインシールやボンボンドロップシールなどシール帳とシールの組み合わせ。今の通販なんかではひとり当たりの購入制限もうけてるとこも有るくらい人気。それと何と云っても「たまごっち」ですね。"たまごっち"が初めて発売されたのが、1996年(平成8年)。実に30年も売り続けられたログラン商品なんですね。私も初期のころに買ったことありますが、育てるのがメンドウでスグに放棄してしまった記憶が。スマホ、日本で本格的に流行りだしたのは、2008年(平成20年)のiPhone 3G日本発売からで、それ以前は"ガラケー"が幅をきかせてましたね。2008年生まれと云うと今年18歳。これ以降に生まれた若者はスマホしか知らない人が多いんでしょうね。そんなでガラケーに興味津々の若者も多いとか。コンデジと"写ルンです"も見事に復活してるとか。今でこそ写真・動画=スマホの時代と違って、写真と云えばスマホとは比べものにならないほど解像度の低いコンデジがみんなの仲間。コノンデジが今の若者にとっては、フィルムカメラのような写りが新鮮に見えるとか。デジタルカメラの普及で需要が減少して、インスタントカメラの雄ポラロイドが撤退したのが2008年。それ以来、フジの"写ルンです"が孤軍奮闘してきましたが、昨今、独特の風合いが人気になってフジもどんどん新製品とフイルムを開発してます。ファッションで云えば、平成初期の女子高生定番アイテム"ルーズソックス"も今の若者に新鮮に見えてブームが再燃してるとか。サスガに1990年代後半からコギャルの間で流行った"ガングロ"は復活のきざしありませんね。そんな現在のレトロブームですが、私のようなおじんのレトロは云うまでもなく「昭和」レトロ。私は1950年(昭和25年)生まれの75歳ですから、終戦からたった5年目の生まれ。朝鮮戦争が勃発して「特需」が発生し、これが契機になってようやく日本経済が活性化し始めた年です。サンランシスコ平和条約が締結されて連合軍の日本占領が終了し、主権を回復したのが1951年ですから、私が生まれた年はまだ連合軍の占領下にあったのです。そんなで戦前、戦中でないとしても大昔オジンの私と、それ以後の昭和生まれでは一口に「昭和」レトロと云っても物(ブツ)が違う。なにしろ昭和は62年以上も続いたのですから。そんな昭和レトロ、現代の若者からすると1950年代~1980年代にかけての昭和中期に流行した文化やデザインが対象らしい。具体的に云うと「駄菓子屋」や「フィルムカメラ」「レコード」「昔ながらの純喫茶」なんかですね。こう云ったレトロブーム、現代の若者からすると"平成"レトロは懐かしいで、"昭和"レトロは新しいとか面白い部類に属するらしい。つまり私らの世代が感じる"昭和"レトロの懐かしいではなく、若者にとってはまったく知らなかった世界なんですね。"昭和"レトロの象徴は「花柄の家電製品」。電気ポットや炊飯ジャーなどありましたなぁ。これにビニールのテーブルクロスが一般家庭の定番でした。それまで単色だった魔法びんや炊飯ジャーなど家電製品、そこに斬新なデザインの"花柄"を持ち込んだのは1967年(昭和42年)大阪の「エベレスト魔法びん」でした。そのデザインの斬新さに追従するように"象印"や"タイガー"などのメーカーも花柄になっていったのですね。この年の翌年に、もうひとつの機能が魔法びんに追加されます。「回転台」です。魔法びんを持ち上げて、向きを変えてお湯を注ぐ面倒くささを解消するために、魔法びんそのものに回転台をつけてしまったのですね。そうすると今度は、魔法びんを持ち上げてお湯をそそぐのがメンドウと、ボタンを押すだけでお湯が出る"エアーポット"が開発されるのですね。ところが初期のポットはそこそこの背丈。ポットが邪魔になって、食事しながらTV見づらいと云うことで、ポットの背丈を切り詰めて今日の形状になったのです。ところで"象印"や"タイガー""孔雀(ピーコック)印"など、魔法びんメーカーの社名にはナゼ生き物の名前がつけられてるかご存知ですか?それもイノシシや鹿などと違って、日本にいない生き物の名前が。それは戦前の魔法びんはタイヘン高価で、なかなか日本庶民には受け入れがたかった。ところが欧米の植民地だった東南アジアに居住する欧米人は現地の水をそのまま飲むと危険なので沸かしてから飲んでたのですね。そこで日本の魔法びんはもっぱら東南アジアへの輸出向けに生産されてて、外国人に分かりやすい商標として現地の生き物の名前をつけたのです。戦後当初も日本で魔法びんはあまり売れませんでした。その状況を打破したのは1958年(昭和33年)に大阪で開発されたチキンラーメンです。チキンラーメンを作るために、魔法びんの需要が一気に増えたのですね。「純喫茶」と云うのも昭和の下町をイメージさせますね。クリームソーダやスパゲッティナポリタン、プリンアラモード、ミルクセーキなどの純喫茶メニュー。それに加えて100円玉を入れてレバーを引くとルーレットが回って星座おみくじが出てくる「ルーレット式おみくじ器」。このルーレット式おみくじ器は1962年(昭和37年)創業の北多摩製作所が今でも製造しており、現在では国内唯一の製造販売メーカーなんです。1978年(昭和53年)、ゲーム機メーカーのタイトーが家庭用ゲーム機普及前の純喫茶にゲームテーブルを設置して爆発的なヒットとなったのが「スペースインベーダー」。テーブルがそのままゲーム機になっていて、コーヒー飲みながらプレイできて、1プレイ100円でした。こうした昭和レトロが今の若者には"新鮮"に見えるのですね。
Jan 16, 2026
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東京の田園調布にある住宅街に「どりこの坂」と云う坂があります。東急目黒線多摩川駅東口に「どりこの坂」の碑があって、説明書きには「どりこの」は清涼飲料水で、開発した高橋博士の住居がこの坂の上にあったことから名付けられたとあります。"どりこの"? 私は聞いたこと無い名前です。それも清涼飲料水...この"どりこの"ってのは髙橋孝太郎 医学博士が疲労回復の研究をおこなってたところ、ドイツの生理学者アーノルド・ドーリックの「栄養補給にブドウ糖の摂取が最も効率的である」と云う論文にヒントを得て、5年の歳月をかけて「含糖栄養剤」と云う飲料水の開発をしたものらしい。高橋博士が"どりこの"の特許をとったのが1927年と云いますから、和暦で云うと昭和2年。銀行の経営悪化が深刻化し、金融不安が広がった昭和金融恐慌の年です。2年後にはニューヨーク株式市場の大暴落を発端に日本でも金融恐慌や失業問題が深刻化して世界中の経済が冷え込んでいくとともに、日本軍部の力がどんどん増していった時代ですね。1930~1932年(昭和5~7年)ころから"どりこの"の広告が頻繁に登場し始めます。不況下にあって、どの企業も小さな広告掲載スペースに簡素なコピーを用いただけの広告が多い中、"どりこの"の広告だけは、1/2ページないし1ページを使い、無数のコピーと情報をちりばめた贅沢なつくりとなっています。「驚くべき大売行!」「発売早々熱狂的大歓迎!四方より感謝状山のごとし」「刻々激増する大注文!全工場あげての大努力!」「昭和の寵児!どりこの時代来る!」「国を挙げて賞賛、大歓呼!」「大好評!冷たき一杯は正に味覚の王! 夏の飲み物としてこの上なし!」「どこへ行ってもどりこのは大人気です。トテモ偉い評判です。こんな美味しいものを飲んだ事がないと感謝激賞の書状山積のありさまです」ついには当時のマンガで大人気だった"ノラクロ"まで登場させて"どりこの"広告。なぜ"どりこの"だけが、こんな大々的な広告が可能だったのか?それは"どりこの"の販売元が「大日本雄弁会講談社」だったからです。大日本雄弁会講談社とは、現在の「講談社」です。出版会社がドリンク販売?そうなんです。1929年(昭和4年)、当時講談社の社長だった野間清治が髙橋邸を訪れ"どりこの"を初めて試飲しました。甘党でもあった野間は"どりこの"を気に入り、翌1930年に髙橋博士と販売契約を結び、同年、大日本雄弁会講談社商事部から全国の販売が開始されたのです。野間は「広告に幾ら使っても構わない」と部下に指示し、大々的なキャンペーンを企画します。「キング」など当時人気の講談社雑誌のみならず、試飲会やパレード、懸賞などあらゆる手段が用いられました。それだけでなく、当時、講談社のレコードレーベルであったキングレコードから、浅草美ち奴の「どりこの音頭」や丸山和歌子の「どりこの小唄」を発売し、さらに東海林太郎や水の江滝子、飯田蝶子、水谷八重子など著名人が、"どりこの"ファンであると紹介されたのですね。そして人気漫画の主人公で、講談社のマスコットでもあった前述の「のらくろ」や、女優の山路ふみ子を用いた広告も展開されたのです。当時、牛乳が1瓶6銭、コーヒーが1杯10銭程度だった時代に"どりこの"は1瓶450cc 入りで1円20銭と少々高価でしたが、こうしたキャンペーンが功を奏して1931年単年だけでも販売数220万本を超える大ヒット商品となったのです。"どりこの"は単なるジュースでなく、滋養強壮剤と云う位置づけでした。云ってみればオロナミンCやユンケルみたいなものですね。広告にはこう記されてます。「万人向きの理想的滋養ドリンク」「主成分はブドウ糖、果糖、アミノ酸でとても甘い」「色は眩しいほどの黄金色」「原液をお湯や水で5倍程度に薄めて飲む」と。"どりこの"の生産・販売は講談社社員が一手に引き受けて行ってました。まさか出版社に入社したのに、栄養ドリンクを製造したり、販売させられるとは社員も思ってもいなかったでしょうね。"どりこの"人気は衰え知らずで、1931~1936年(昭和6~11年)での年間平均生産数は100万本を軽く超え、中元や歳暮、見舞いや手土産の主役を務め続けたのです。1937年(昭和12年)盧溝橋事件が勃発。全面戦争へと突入した日中戦争は、戦線の拡大と長期化の一途をたどり、食糧や衣料品、日用雑貨などが日を追うごとに国民の手の届かないものとなり、翌年、国家総動員法が公布されると経済統制の強化が急速に進み、重要物資は最優先で軍需にもっていかれるようになります。街頭には「ぜいたくは敵だ」の看板が立ち並び、東京府内にある食堂、料理店では米の使用が禁止、「非常時」「国民精神」という言葉が横行しはじめるのですね。そんな環境でも"どりこの"が生き残ったのは、軍部からの引き合いがあったからです。1937年(昭和12年)には、陸軍糧秣本廠や陸軍衛生材料廠などから、前線の将兵のために大量の注文があり、トラックに山積して搬送しました。野戦病院では牛乳の代わりとして「どりこの」が提供され、海軍でも潜水艦乗組員の疲労回復用に飲用試験が繰り返されたとの記録があります。もはや原料のサイウキビ輸入が困難になっても、軍から重宝がられた"どりこの"は、物資が厳しく統制されるなかにあって原料である貴重な砂糖を、特別支給されるという恵まれた環境にあったようです。そんな"どりこの"も、戦況が厳しくなるとともに資材が入手しにくくなっていきます。とりわけ容器のガラス瓶入手は極めて困難で、ついに無粋な茶色い陶器へと切り替えらます。なにしろ鍋や釜、コンロはもちろん、子ども服の金属ボタンまでが供出を受け、陶器で代用されるような時代なんですから。軍との関係を保ちながら、かろうじて砂糖を入手していた"どりこの"工場も、じりじりと窮地に追いつめられていき、台湾やフィリピンからの輸入路も途絶。さらに国内の精製工場への爆撃も加わり国内の砂糖が枯渇して、"どりこの"の生産量は1941年(昭和16年)に約18万9,000本、1942年には約15万7,000本と、じつに最盛期の1/10以下という減産に追い込まれます。宣伝や販売、発送や工場の手伝いで大車輪の日々を送ってきた講談社も、応召徴用で次々に働き手を奪われていきました。900名を超す社員は、 東京大空襲を始め主要都市への空襲が連日続き、沖縄では激しい地上戦が展開され日本軍が全滅、そして原爆が投下された1945年(昭和20年)の夏にはわずか130名までに激減。内務省の規制と用紙不足、空襲による印刷所の焼失などで雑誌さえまともに出せない日々が続くなか、"どりこの"の梱包・発送、倉庫作業などで欠かせない存在だった少年部員も、1人残らず応召応徴されていったのです。そして終戦。1945年8月14日にポツダム宣言受諾を連合国に通告し、15日正午に「玉音放送」で国民に終戦が告げられました。終戦の前年9月には軍から特別支給される砂糖も途切れ、"どりこの"も生産中止を余儀なくされたのですね。髙橋博士と講談社が手をたずさえて生産した"どりこの"の総本数は、1,061万7,201本でした。講談社で"どりこの"の姿を最後に見たのは終戦のまさにその日。玉音放送が流れた後、講談社では社員全員に対して俸給3ヶ月分を手渡しするとともに、毛布1枚、手ぬぐい3本、ちり紙1包、軍手1組、片栗粉1貫目、そして"どりこの"6本を支給したのです。これは関東大震災の経験から、まさかの時のために用意されてた保存品でした。1970年(昭和45年)髙橋博士が逝去。"どりこの"の原料はブドウ糖、果糖、アミノ酸と云うのは国立工業試験場の分析表で判明してますが、原材料が何かは書いてません。製造は、開発者の高橋博士が一手に担い、製法を門外不出にしていたことに加えて、関係書類をすべて焼却してしまったため、今"どりこの"を再現するのは不可能なんです。
Jan 15, 2026
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チェリーブロッサム(Cherry Blossom)って桜をモチーフにしたカクテルがありますね。松田聖子の同名ヒット曲ぢゃないですよ。チェリー・ブランデーとブランデー、オレンジ・キュラソー、レモン・ジュース、グレナデン・シロップをシェーカーに入れてシェイクしたショートカクテルです。ずいぶん久しぶりに池波正太郎の「むかしの味」と云う本を再読してたら、このチェリーブロッサムにまつわる話がでてきました。戦前、池波は横浜の常磐町にあるバー「パリ」を訪れてたのですが、そのバーは大佛次郎のいきつけのバーで、大佛が亡くなる数日前に病院を抜け出して「パリ」でお酒を楽しんだと逸話のあるお店です。池波が「パリ」を訪れると、注文もしてないのにバーのオーナー田尾多三郎はオールドファッションを出してくる。「若造にはこんなカクテルでよかんべぇ」みたいに。ところがある日、いきなり別のカクテルを出してきた。「これ、何です?」「ギムレット」。その店のオーナー兼バーテンダー田尾が考案したのが「チェリーブロッサム」なんです。彼はこのカクテルで国際コンクールで受賞してます。チェリーブロッサムは有名なカクテルで、海外でもしばしば「日本生まれのカクテル」と紹介されてます。このカクテルを考案した田尾は貿易商社の支店長として南米のブエノスアイレスで絹の輸出を担当してたのですが、関東大震災を機に横浜で店を開きました。それが1923年(大正12年)、まさに関東大震災の起こった年に開業なんて、なんとも歴史を感じさせるバーです。開業当時は「カフェ・ド・パリ」として伊勢佐木町に店舗を構えてたのですが、1945年に空襲で焼失、戦後は野毛山に移転してましたが、1963年に常磐町に移転して「パリ」と名前を変えたのですね。バー「パリ」はスタンドバーで、しかも3杯しか飲ませてもらえませんでした。それ以上頼むと「ご飯でも食べてきたら?」軽くいなされます。オーナー田尾多三郎が亡くなった後、バー「パリ」は奥さまが引き継いでバーテンダーとして立ってました。スタイルは当初のまま。その奥さまも亡くなり、お店は閉店してしまったのですね。息子さんがいますが、会社員をやってたのでお店を継ぐことができなかったのです。ところが息子さんの奥さんが名店の灯を消すのは惜しいと、お店を引き継ぎ営業を再開したのですね。しかし片手間の営業なので火・水・金のみの営業で、しかも10時頃に閉店してしまうらしい。そんなワケで現存する日本最古で池波正太郎が愛したバーは今も健在です。【チェリーブロッサム】濃厚なブランデーカクテルの作り方 by Bar SALVAdOR 鈴木さん
Jan 14, 2026
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擬態(ぎたい)と云うのは、生き物が自分の姿や行動を他の動植物や周囲の環境に似せることで、敵から身を守ったり、獲物をおびき寄せたりする生存戦略ですね。主に背景に溶け込む「隠蔽型擬態(カモフラージュ)」と、毒を持つ生き物に似せて敵を避ける「標識型擬態(警戒色)」の2種類があり、昆虫やカメレオンなど多くの生物に見られます敵に見つからないように、周囲に溶け込む隠蔽型擬態をするのには、枯れ枝に擬態するシャクトリムシやナナフシ、鳥のフンに擬態するアゲハチョウの幼虫、枯れ葉にそっくりな羽を持つタテハチョウもいます。毒を持つ生き物に似た目立つ色や模様で、敵に「危険な生物」と誤認させる標識型擬態には、アブなどが捕食を避けるために毒のあるハチに似るのがあります。そんな擬態は鳥さんでもするのが居ます。もっとも有名なのはオーストラリアにいるオーストラリアガマグチヨタカですね。彼らは危険を感じると、木の枝の色や模様に擬態して、直立姿勢で全く動かず、あたかも木の一部のように見えます。日本を始め東南アジアまで広く分布するヨシゴイは、危険を感じるとヨシ(葦)の草原で上を見上げて頸部を伸ばし、静止したり左右に揺れて、これにより下面の斑紋がヨシの草と見分けづらくなります。日本で見られるキツツキとしては最も小さいコゲラは、木の幹に似た縞模様で木に溶け込みます。ぢゃあ下の画像の生き物は?...ぎゃあああ、ヘビなんか出すなよ!キモチ悪い。ごめん!ですよね~ところがコイツの全体を見ると...アレぇ、なんかヘン...胴体の途中から千切れてる!?いえいえ、コイツの正体はこんなに小さいのです。コイツは中南米の熱帯雨林に生息する通称スネーク・キャタピラーと云う"スズメガ蛾"の幼虫(毛虫)ですね。この幼虫は非常にユニークな防御戦略を持っています。危険を感じると、体を膨らませてヘビのように擬態します。頭部側をヘビの頭のように見せることで、敵を威嚇し身を守るのです。こんな風にヘビに似せる蛾の幼虫は結構多いのですね。インドや東南アジアの森林で見られる、赤いヘレンアゲハの幼虫は、不気味な緑色のヘビのように見えます。さらにコイツには別の防御機能もあります。刺激されるとオスメテリウムと呼ばれる二股の角のような防御器官が生成され、敵を阻止するために悪臭のある液体を放出するのです。スパイスブッシュアゲハの幼虫は、胸部に大きな目のように見えるものが現れます。コイツは蛹になる直前にオレンジ色または黄色に変わります。主にアメリカの東部で見られ、成虫は主に黒色で、羽の端に薄緑または青の斑点が並んでます。グレートオレンジチップキャタピラの幼虫に至ってはヘビと云うかトカゲと云うか...先端がオレンジ色の大きな毛虫が、まるで攻撃しようとしているかのようにヘビのポーズで頭を上げてきます。コイツは南アジアや東南アジア、中国のほか日本にも生息してます。大きなオレンジ色の先端が成虫になると、白になり羽の外側1/3が明るいオレンジ色と黒になります。スリランカやインド、ネパール、ミャンマー、中国南部、台湾、タイ、マレーシア、インドネシアなどにいるヒスイオオスカシバの幼虫はヘビと云うより「モスラ」ですな。羽化すると茶色、オリーブグリーン、赤が混ざり合った模様のある羽を持って、明るい光と甘い香りの花に惹かれたように素早く飛びます。Stick, Snake or caterpillar?(棒、ヘビ、それとも毛虫?)
Jan 13, 2026
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中国にCCTVと云う国営TV局があります。中国語で書くと「中国中央电视台(中国中央電視台)」。このTV局は1954年に、当時の共産党中央委員会主席だった毛沢東が中国独自のTV局設立を提案し、1958月に放送を開始した歴史の長い局です。アメリカ国務省は、この放送局は独立した報道機関でなく、中国共産党の支配下にあるプロパガンダ機関として諜報活動と世論戦、情報戦を仕掛ける宣伝機関である。「人民日報」「中国新聞社」「環球時報」とともに注意すべき「外国使節団」と指定してます。CCTVと中国警察は、中国の反体制派、罪を犯したとされる人物への捜査の一環で肉体的・精神的な拷問を伴う強制自白をさせ、その様子を放送してるとしてイギリスやオーストラリア、またアムネスティ・インターナショナルをはじめとする国際的な人権団体が激しく非難しました。そんなCCTVも独自に自由な報道をやってた時期がありました。鄧小平の後釜、江沢民や、さらに後継の胡錦濤時代にはメディアが世論監視報道することを許されてたからです。つまり地方政府による市政の乱れや、庶民への弾圧などを報道することが許されてたのです。なので当時はそう云う報道が多かったのですが、2006年以降、共産党による報道統制のため徐々に減っていき、2012年に習近平が政権を取ってからは共産党の意図する報道しかできなくなったのです。だからバイデン元大統領が「習近平は独裁者だ!」と云った発言は、中国国内では全く報道されなかったのですね。それが引き金になってCCTVで正しい報道をしたい記者たちはアメリカや日本に脱出して活動を続けるようになりました。そんなCCTVが発生当時から熱心に報道を続けてきたことが、今では口を閉ざすどころか、まるで無かったのように振る舞う事件があります。それどころか現在の中国人すべてがなかったことにしている、もし口にしようものならたちまち拘束される事件です。それは当局発表だけでも犠牲者は300人以上、諸外国の情報では数百人から数千人、場合によっては1万人とも云われた「天安門事件」です。犠牲者の人数がよく分からないのは家族が殺されても当局の弾圧を恐れて届けられなかったからです。これが起こったのは1989年6月4日なので、「六四天安門事件」とか略して「六四」と呼ばれてる多数の死傷者を出した事件です。事の起こりは、当時、台湾では民主化に向けた戒厳令解除や、韓国の光州事件から始まった民主化闘争の末に民主化宣言が立て続けに起こり、諸外国で民主化の波が押し寄せていた時期です。民主化の波が遅れて到達した中国国内でも若者の民主化運動の高まりが広がり、民主化を求めるデモが政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まったことから始まります。この事件が起こったのは鄧小平が政権を握ってた時です。デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたのが、後に上海市を含めた国中の都市に波及していきました。そして共産党による武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したのです。しかし学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥いりました。このころ中国全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していきました。それに加えて当時イギリスの植民地だった香港、日本やアメリカなどの諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化していったのです。そんな中、鄧小平はこのままでは中国共産党がもたないと、戒厳令布告を決定したのです。そうして戒厳令体制の強化が行われることになったものの、戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化しないばかりか益々拡大して行くのです。戒厳令の布告によって厳しい報道管制が敷かれ、日本やイギリス、西ドイツなどの西側諸国のTV局による生中継のための回線は次々と遮断されていきます。それでもアメリカのCNNは、依然として世界各国へ向けた生中継を続けていました。これに業を煮やした共産党の上層部は、CNNが生放送を行っていた最中に現場に係官と警察官を派遣して、放送を中止するよう命令しましたが、TVカメラが回り続けていたために、特派員のバーナード・ショーらCNNのスタッフと係官のやり取りも、そのまま生中継され中国共産党による報道管制の実態が世界中に発信されてしまいました。地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結し、6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結。完全武装した兵士が配置に着きました。そして運命の6月4日、ついに中国人民解放軍は兵士と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始したのです。このときにCNNが流したのが、冒頭画像にあった西側通称「タンクマン」対戦車の対峙ニュースです。この男性の消息は不明です。Man vs. tank in Tiananmen square (1989)装甲車が一斉に天安門広場に進撃を開始。装甲車は道にバリケードを築いていたデモ隊と武力衝突し、デモ隊に多数の死者が出ました。デモ隊も火炎瓶で応戦し、装甲車が次々に炎上。デモ隊は炎上した装甲車から飛び出す人民解放軍を殴りつけ、撲殺した兵士に油を付けて燃やし、歩道橋から兵士の死体をぶら下げるなどしました。解放軍の進行は一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党の命令に忠実に、市街地で民衆に対して無差別に発砲したのです。それは同国人による虐殺そのものです。広場へ続く道路での武力鎮圧は数時間続き、眼鏡をかけた血まみれの学生が市民を前にして「奴らは3歳の赤ん坊を撃ったんだ。同級生の女子学生をいま病院に送ってきたところだ。彼女は死んだ。血だらけになって。同級生のなかには体を吹き飛ばされた者もいる。奴らは鬼だ」と涙ながらに訴えています。負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、中国軍に銃剣で刺されてしまった。6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に人民解放軍の説得に応じて広場から退去しました。最後まで残っていた学生たちは武装警察に棍棒で殴り倒され、ひとりが骨折で立ち上がれなくなりました。学生運動のリーダーの一部は、武力突入前にからくも現場から撤収し、支援者らの手引により中国国外へ亡命しました。約300名の民主活動家がパリに亡命したと云う話です。事件当時、鄧小平は「20万人ぐらいの血の犠牲はかまわない。中国では100万人と云えども小さな数にすぎない」「中国に西欧的民主主義を持ち込めば、国内は混乱し、難民が周辺地域に何億人も流出するだろう」と述べたと伝えられています。天安門広場からデモ隊が完全に放逐された後、人民解放軍のブルドーザーによって死体が集められ、その場で焼却されたようです。そして遺体はホースで排水溝に流されていった。2024年8月、習近平は鄧小平生誕120年を記念する演説で、天安門事件に言及し「動乱に反対し、社会主義国家の政権を断固守り、共産党統治守った」として鄧小平を称賛しました。同年、CNNが天安門事件35周年について語り始めたとき、中国政府の検閲が中国国内CNNのライブフィード(生中継で配信・共有)を遮断しました。中国共産党は、抗議活動参加者に対する残忍な弾圧に関するいかなる話題も禁止しているのです。つまり世界中が知ってる事実を当事国民だけが話題にもできないのです。なぜなら民衆が蜂起するとき、それは中国共産党が瓦解するときと知ってるからです。中国の歴史はこれの繰り返しで政権が変わってきました。香港に対して、あんなに圧力をかけるのもその現れなんですね。ところで冒頭に述べたアメリカ国務省が中国のプロパガンダ機関と認定した中国のCCTVですが、NHKの渋谷放送センターにこのCCTVの事務所が入居しているのご存知ですか?しかもNHKが自衛隊の訓練や基地映像をCCTVに提供していて、自衛隊から止めてくれと再三要請してもNHKは聞く耳もたず。それでなくても2024年にはNHKのラジオ生国際放送(中国語ニュース)で、業務委託契約を結んでいた中国籍のアナウンス担当スタッフがニュース原稿に無い「尖閣諸島は中国の領土」発言をして、さらに英語放送でも不適切な発言をしていたばかりぢゃないですか。しかも当のウソ発言した中国人は行方知れずで、NHKは動機を確認していない。これが国民から半ば強制的に受信料を徴収している日本の公共放送のやってることなんです。
Jan 12, 2026
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笹沢左保原作の小説を1972年からTVシリーズにして大ヒットしたドラマがありました。主演は中村敦夫、監督は市川崑の「木枯し紋次郎」です。この作品で主人公 紋次郎の決め台詞「あっしにはかかわりのないことでござんす」はいちやく流行語として日本中に認知されましたね。この「木枯し紋次郎」で紋次郎の衣装は決まって縞の合羽(カッパ)に三度笠。時代劇でお馴染みの渡世人の衣装です。縞の合羽は道中合羽と呼ばれ、江戸時代に旅人が雨具や防寒具として使った袖のないマントのことで、ポルトガル語の「Capa(カパ)」が語源の南蛮渡来の衣装なんですな。表は縞模様の木綿、裏には防水用の油紙(桐油紙)や渋紙を入れ、寒さや雨を防ぐだけでなく、畳んで懐に入れられたり座布団代わりにもなる旅の必需品でした。それでは、コレは何でしょう?スタジオジブリ制作のアニメーション映画「もののけ姫」で、主人公の蝦夷の国の民アシタカヒコが羽織ってるマント状のものは?これは蓑(みの)ですね。稲わらなど植物を編んで作られた伝統的雨具の一種です。他にイラクサや麻と云った草類の皮、シナノキやフジ、ヤマブドウの樹皮など、地域ごとに材料や形状は異なり、海岸部では海藻も使われました。古来からヨーロッパでは、防水性を重視するため、毛織物や動物の皮でレインコートが作られていました。しかし日本では、この蓑と云う藁を使ったレインコートを使ってたんですね。稲わらのようなある程度撥水性のある繊維に雨粒がかかった場合、繊維に沿って水が流れていき、内部には滲みません。これが蓑の原理で、また藁の断面が中空構造でしかも多重になっているため保温にも優れています。代わりにかさばり、動きにくく、また火に非常に弱い欠点もありますね。この草を使ったレインコートは日本だけでなく、ベトナムや中国江南地方、朝鮮半島と云った稲作の盛んな東アジアで盛んに使われてました。これは気候風土から来るものです。雨が降ると湿度が上昇し、蒸し暑くなる土地では通気性を考えなくてはならない。そう云ったイミで蓑は非常に気候にあったレインコートだったのですね。私の大好きなマンガ作家つげ義春が1968年に漫画雜誌「ガロ」に発表した「ほんやら洞のべんさん」は、新潟の十日町市を舞台にした心像風景を描写した作品ですが、この中に藁で作った蓑を頭から被った少女が登場します。この鳥追い祭の夜の少女が、なんとも雪深い土地の気候風土をよく表してるのですね。太平洋戦争中にアメリカ軍が作成したマニュアルには、蓑を着用した日本軍兵士のイラストが描かれてます。「日本軍兵士の用いる狙撃兵用偽装服(カモフラージュスーツ)」と解説がつけられている。これは、日本兵が雨具として使用していた蓑を、外観から草木に紛れて偽装するための特殊装備であると、捕獲したアメリカ軍が誤解したことによるものなんですね。そう云われてみれば、蓑ってカモフラージュにうってつけですね。いかにも簡素なつくりに見えますが、蓑の効果はバツグン。日本では、太平洋戦争後も、道路作業員に蓑を支給してました。ところが、外国人に蓑をかぶった恰好を笑われて、政府はゴム製レインコートの支給に切り替えてしまったのですね。これが大失敗!蒸し暑くて、集中力が途絶え、仕事が続かない。まったくはかどらない事態の続出となったんです。レインコートを着たまま仕事をするには、蓑の通気性は必要不可欠だったのですね。
Jan 11, 2026
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日本では望まない電話セールスに対して、勧誘を断った場合、事業者は再勧誘してはならないと云う「再勧誘の禁止」ルールが制定されてます。一度明確に断れば、それ以降のセールス電話は法律違反となりますが、どっちにしても電話でセールスってのは誠実さが見られなくて雰囲気悪いし、サギ電話か判別もつきにくい。そもそも一度もコンタクトしたこと無い相手から電話かかってくるのが怪しいし。うちは固定電話はずっと留守電にしているので、セールスらしき電話がかかってきても電話機の応答で向こうから切ってしまいます。もはや固定電話そのものがいらないのですけど。海外では日本の法律よりも、もっと厳格な電話セールスに対する法律を制定してることが多いです。とは云っても電話セールスを全面的に禁止している国は少なく、多くの場合、消費者が電話セールスそのものを拒否したり、企業が事前承諾を消費者に取り付けることを義務付けるものです。多くの国で採用されているのが、消費者が「電話をかけてこないでほしい」という意思を公的リストに登録し、事業者はリストに登録された番号への勧誘を禁止されると云う「オプトアウト方式 (Opt-out)」方式です。これより厳しいのが、消費者の事前の明確な同意がない限り、電話勧誘を行うことを全面禁止する「オプトイン方式 (Opt-in)」です。どちらの方式も日本の特定商取引法による規制より厳しく、日本がこの分野の法整備で遅れているのですね。そもそも日本には電話セールスそのものを規制する単一の法律さえ存在しなくて、特商法のなかで一部取り扱われてる程度ですから。日本で電話セールスに関連する特商法には、冒頭で述べた再勧誘の禁止以外に、事実と違うことを云ったり(不実告知)、事実を隠したり(不告知)、有利な誤解をさせたりする勧誘を禁止する「不実告知・有利誤認の禁止」の法律があります。また、消費者に契約を急がせるために脅したり、困らせたりする行為を禁止する「威迫・困惑の禁止」の法律。午前8時以前や午後9時以降の電話勧誘は、不意打ち的とみなされ、特商法の適用対象になります。そして万一契約した場合でも、契約内容やクーリング・オフに関する事項を記載した書面を交付する「書面交付義務」が事業者に課されています。逆に云うと、これらを無視して電話セールスしてくる事業者は絶対に信用できないと云うことです。そのためにも消費者は電話の日時や業者名、勧誘内容などを記録して、問題があれば消費者ホットラインや国民生活センターに相談することですね。消費者が「電話をかけてこないでほしい」という意思を公的リストに登録し、リストに登録された番号への電話セールスを禁止している国で代表的なのがアメリカです。アメリカでは、連邦取引委員会(FTC)が運営する「National Do Not Call Registry」があり、個人は無料で電話番号を登録できる仕組みになってます。最近では全アメリカ国民を電話セールスや詐欺メッセージから守るためにトランプに全米電話拒否登録の実施を要請する組織まで現れました。カナダの「National Do Not Call List(DNCL)」も、電話セールスの電話がかかってこないよう、個人の電話番号(固定電話、携帯電話、FAX番号)を登録できる無料のサービスがあります。登録することで電話セールスを受けるかどうかを自分で選択でき、登録後も営業を続ける事業者に対して告訴することも可能です。イギリスの「Telephone Preference Service (TPS)」も同様に無料で、ここに登録するとSMSも停止される場合があります。オーストラリアの「Do Not Call Register(DoNotCall.gov.au)」も同様に迷惑な電話セールスやマーケティングFAXを拒否する無料の全国データベースで、登録するとほとんどの迷惑電話が停止されます。アジアでは シンガポールの「Do Not Call (DNC) Registry」があり、登録すると電話、SMS、FAXのマーケティングメッセージを拒否できます。EU諸国もまたプライバシー指令に基づき、多くの加盟国が電話セールスの規制を設けています。特にドイツでは、電話セールスは事前に消費者の同意がない限り、原則として違法になる厳しい「オプトイン方式 (Opt-in)」を採用してます。なので消費者が電話セールスを受ける前に明確な同意を得られない場合、ドイツ不正競争防止法によって最大30万ユーロ(約5,000万円以上)の罰金が科せられます。これが発信者番号や身元を偽って電話をかけると、最大1万ユーロの罰金が科せられる仕組みなんですね。イタリアも「拒否登録簿(Registro Pubblico delle Opposizioni)」方式をとっていて、これに登録するとリストに登録された番号への勧誘は違法になります。それとは別に海外からの迷惑電話や詐欺対策を目的として、海外から発信される偽のイタリア国内番号を使用した通話をブロックするための新しい措置を導入しています。フランスも遅れ馳せながら、本人了承のないセールス電話を禁止する「ブロクテル(Bloctel)」法案が昨年成立しました。あらゆる分野のセールス電話は今年8月以降は事前に本人の許可をとっていなければ禁止になります。どっちにしても、知らない事業者が個人情報を取得してるってのは気持ち悪い。彼らが個人情報を取る手段は、アンケートへの回答や資料請求フォームへの入力など直接とる方法とは別に、リスト業者から買い取ったり、ロボットを使って無作為に電話してくるケースもありますね。本人から情報をとる場合でも、本人の同意が必要です。書面での署名やウェブサイト上のチェックボックスなどで同意を得なければなりません。また利用目的の達成に必要な範囲を超えて個人情報を取り扱うこともできません。もし目的外に利用したい場合は、改めて本人の同意を得る必要があるのです。
Jan 10, 2026
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近年、再びレコード需要が増えてきてますが、日本でレコード屋がイチバン多い都道府県って、意外にも徳島県で人口10万人あたり約17軒、全国平均の3.1倍もあるらしい。2位は富山県で人口あたり約11軒、3位は高知県で人口あたり約10軒、その後に秋田県、熊本県と続きます。いちど廃れたレコードの復活なので、都市部が多いのかと思ったら地方の方がどっこい生き残っていたのですね。都市部の大多数の若者はストリーミングで音楽聞いてる率が高いからでしょうかねぇ。都市部のレコード店と云うと日本法人になった「タワレコ(TOWER VINYL)」とか、中古で云うと「フェイスレコード」や東京 高円寺にある「Uptown Record Store」みたいなとこが有名どこですね。そんな日本のレコード店ですが、近年になって訪日外国人観光客が訪れることが珍しくないらしい。外国人が求めるのはイーグルスやピンク・フロイド、レッド・ツェッペリンなど1960~70年代のロックものに加えて、ビリー・ジョエルやアバ、ワム!と云った80年代のポップアクトが多いらしい。訪れるレコード店は渋谷や新宿、高円寺など観光客が訪れやすいエリアが多いらしい。しかしこんな楽曲、自国でいくらでも手に入るのに? と思ってしまいますが、日本の中古レコードは海外と比べるとケタ違いに保存状態が良くて、希少なレコードが多く見つかるかららしい。ところが、外国人にもっとも人気なのは洋楽ではなく、邦楽なんです。それも山下達郎や杏里、竹内まりやと云った80年代のシティポップを中心に、松田聖子、中森明菜、菊池桃子と云ったこれも80年代のアイドル作品。さらにCASIOPEAや高中正義と云ったフュージョン系、さらにYMOも。まぁ、YMOはもともと海外で評価高いですからね。さらにアジア系の訪日観光客には"安全地帯"も人気が高いらしいです。海外人気ダントツは山下達郎の「FOR YOU」らしい。このレコードは達郎自身が「当時のプレスでしか表現できない」と云って、復刻版が無いからなんです。なぜ訪日外国人が邦楽、それも80年代に関心をもつのか?もっとも大きな理由はYouTube です。竹内まりやの「プラスティック・ラブ」が世界中のYouTube ユーザーにおすすめ表示されたのをきっかけに、世界的な日本のシティポップ・ブームがおこったのです。竹内まりや - Plastic Love (Official Music Video)さらにインドネシアのユーチューバー・レイニッチが松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」を歌い、これのカバー動画が音楽配信サービスSpotifyのグローバルバイラルチャートで18日間連続首位、Apple MusicのJ-POPランキングで92ヶ国トップ10入りし、そこからTikTokで「真夜中のドア」を使ったダンス動画が世界的に拡散したのですね。これがブームをさらに加速させ、シティポップを音楽ファンだけでなくより広い若者層へと浸透させたのです。【Rainych】 Mayonaka no Door / STAY WITH ME - Miki Matsubara | Official Music Videoこうして日本のシティポップは、ファンクやソウル、ディスコなど80年代サウンド自体が世界的にリバイバルする中で、海外で人気のジャンルと共通するグルーヴやコード進行を持ち、質の高い演奏の魅力が世界的に認識されました。しかもシンセサイザーを多用し、洗練された都会的なサウンドは、当時のアメリカ西海岸サウンドにも通じる部分が有るのですね。しかし日本語歌詞の楽曲を海外の人は理解できるのでしょうか?そんなん云うたら、私たち日本人が洋楽を聞いて歌詞をすべて理解できる人、どれくらい居ます?彼らは日本語の響きそのものが異国情緒を醸し出し、メロディの切なさや心地よさ(メロウネス)と相まった独特の魅力を感じてるのですね。そうしてシティポップで火がついた日本の曲は、松田聖子や中森明菜にも波及し、高中正義など日本産フュージョンまで受け継がれていったのです。海外での人気再燃と、円安や過去最高のインバウンドの波が影響して、シティポップの名盤オリジナル・レコード価格は、中古市場で驚くほど高騰しています。特に山下達郎や竹内まりやのレコードは、海外コレクターからの需要が非常に高く、ブーム以前の数倍~数十倍の価格で取引されることも珍しくありません。
Jan 9, 2026
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ブッシュドッグ(Bush Dog)、和名はまんま「ヤブイヌ」です。どこに住んでるワンちゃんかと云うと、アルゼンチンやコロンビア、ガイアナ、スリナム、パナマ、パラグアイ、ブラジル、ギアナ、ベネズエラ、ペルー、ボリビアと中南米オンリー。今いるイヌ科では最も原始的な野生の種と考えられています。同じようにアルゼンチンやパラグアイ、ブラジル、ボリビアなどで生活するタテガミオオカミと同じで、ブッシュドッグ単体だけでイヌ科のなかでヤブイヌ属を構成する珍しい種族なんですね。このブッシュドッグ、見た目はこれがワンちゃん?なんせ胴長で極端な短足。この短足は彼らが根城にしてる川辺林や林縁、湿度の高いサバンナなどを移動するのに適してるのですね。しかもこの子たち、何と指の間に水かきが有るんです。これはブッシュドッグが水辺を好み、泳いだり潜ったりするためなんですね。体長が57~75cm ですから、ジャーマン・シェパードとほぼ同じ体格ですかね。その割にシッポが11~15cm しかありません。そしてコヨーテかと思うほど前足と顔との距離が長い。ぶっさいくやなぁ(笑)でも赤ちゃんは他の生き物と同じでカワイイですよ。ブッシュドッグは頻繁に鳴き声を交わしあいます。見通しの悪い下生えの中でも連絡を取り合うことで仲間を維持してるのですね。そして逆立ちで木に向かって放尿し、マーキングを行うのです。これって飼い犬でもする子いますよね。それはできるだけ高いところに匂いを残すためらしい。ブッシュドッグの尿のニオイは酢のニオイ例えられ、「酢犬」と云うあだ名もあるそうです。ブッシュドッグが逆立ちで放尿する動画高知県立のいち動物公園によれば飼育下での繁殖は難しく、国内のブッシュドッグは2012年に29頭だったのが2020年には15頭に減少したそうです。生息地の中南米でも、農地開発や牧草地への転換などによる生息地の破壊、密猟による獲物の減少、イヌからの感染症の伝播などで生息数は減少しているそうな。ブラジルやペルーでは、法律で保護対象にしてるのです。Puppy love! Biggest ever bush dog litter born at Chester Zoo
Jan 8, 2026
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大阪の地下鉄とJR天王寺駅から歩いて10分ほどのとこに「四天王寺」と云うところがあります。名前の通り四天王寺は同名のお寺の所在地で、建立したのは聖徳太子。日本最古の建築様式「四天王寺式伽藍配置」が特徴で、南から北へと中門、五重塔、金堂、講堂が直線に並び、その周りに回廊が建てられている壮大なお寺なんですね。。その四天王寺界隈には世界最古の企業としてギネス世界記録に認定されてる宮大工企業「金剛組」があります。金剛組が創始されたのは578年、聖徳太子が建立した四天王寺の造営に携わるため、百済から渡来した金剛重光が作った会社です。そんな歴史ある四天王寺の境内では、毎月21日と22日に関西最大の骨董市「四天王寺骨董市」が開催されてます。この日は300~500店舗が境内に出店。骨董品だけでなく、リサイクル着物や中古のレコードなどさまざまなお店が。そんな中に生姜をシロップに漬けて砂糖をまぶした"生姜漬"や砂糖を溶かして甘納豆にコーティングした"岩納豆"なんてのも売られてて縁日ならでは。そして「七味の昭和堂」。もう昔っからある七味唐辛子のお店です。昭和堂は大正3年創業で、四天王寺以外でも、今宮戎や奈良の三輪大社などでも販売してます。ここのお店は枡による量り売りなんですね。そもそも七味唐辛子誕生当時は漢方薬として寺社の門前で売られることが多かったことから、大きなお寺の敷地には七味唐辛子屋が多いのですね。四天王寺でも昭和堂みたいな屋台から、周辺には「四天王寺 ごまや」なんて有名店もあります。四天王寺以外でも、東大阪市の石切神社にある参道商店街に「七味唐がらし珍味堂」と云う関西ではとても有名な七味唐辛子のお店があります。しかし何ですな、世界には辛さ世界一の「キャロライナ・リーパー」を筆頭に、「ハバネロ」、「ブート・ジョロキア」などさまざまなトウガラシが作られてますが、みんなトウガラシそのものを売ってるだけで、トウガラシに胡麻や山椒、青のり、麻の実などさまざまな材料をブレンドさせて独自の味を演出してるのは日本だけでしょう。タイの激辛トウガラシ「プリッキーヌ」だってそのままか、ナンプラー(魚醤)に漬け込んだものしかありません。関西で七味唐辛子が有名なのは京都。そりゃあお寺だらけですからね。京都の清水寺参道にお店がある「七味家」の創業は江戸時代の明暦年間と云いますから西暦で云うと1655年~1658年。370年近くも前の創業。まぁ、こんな古いお店は京都では珍しくないです。七味家では「山椒之粉」とか出汁パックの「おばんざいのもと」なんてのも売られてます。京都でしか買えない七味唐辛子が北野白梅町の「長文屋」ですね。ここも山椒の粉を扱ってることで有名です。なんせ京都人は山椒大好き人間ですから。七味唐辛子は山椒、麻の実、唐辛子、青のり、黒ゴマ、白ゴマ、紫蘇、芥子(けし)の8種類を好みに応じて辛さと風味に調合してくれます。とにかく京都の七味唐辛子は香り重視のものが多い。長野県の善光寺周辺も七味唐辛子のお店が数多くあります。なかでも善光寺表参道の「八幡屋矶五郎(やわたやいそごろう)」は斬新なデザインの"七味缶"で有名。この缶は六代目栄助が1924年(大正13年)に考案したそうで、創業は江戸中期の元文元年(1736年)。善光寺の門前(堂庭)で創業しました。ここの七味唐辛子は生姜が入っているのが特徴ですね。群馬の世界遺産「富岡製糸場」のある富岡市の「吉田七味店」も創業明治29年(1896年)の老舗店。この地の七味唐辛子は、薪で焙煎したゴマの香りが特徴なんですね。七味唐辛子は1625年(寛永2年)、江戸の両国橋近くに薬研(漢方薬を粉末にする器具)の形に似た堀があったことから、薬研堀と呼ばれた町でからし屋徳右衛門が漢方薬を基に誕生させたものです。今は浅草新仲見世に本店を構える「やげん堀」がそのお店です。やげん堀の七味唐辛子は、出張販売と称して屋台でも売られてますね。「家伝で合わす七色は 世の皆様のお好みに 叶う元祖の匙加減...」と威勢のいい掛け声とともに配合していく。そもそも七味唐辛子の「七」と云う数字、古来より日本では縁起の良い数字とされてきたため、この数の材料を混ぜ合わせることにこだわってるのですね。と云うワケで、日本三大七味唐辛子は、東京 浅草の「やげん堀」、信州 善光寺の「八幡屋礒五郎」そして京都 清水の「七味家本舗」を云いますが、その他の地域でも地域特性を生かした七味唐辛子が販売されてること多いです。
Jan 7, 2026
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今では鯨の本場 太地町のある和歌山県など一部地域の学校でしか出てこない、給食の鯨メニュー。私ら子供のころは、この鯨を使った給食が頻繁に出されました。昭和20年代~40年代(1970年前後)は食糧難で、給食に栄養のあるものがなかなか出せない。そこで、栄養価が高く安価な食材として鯨がチョイスされたのです。鯨が高価になったのは1987年の商業捕鯨モラトリアム(一時停止)以降の話で、昔は牛肉を買えない人の食べる安価なお肉でした。そして商業捕鯨が停止になって給食から鯨が消えていったのですね。最も有名な鯨料理で、給食の定番メニューと云えば「鯨の竜田揚げ」。和歌山や山口の郷土料理でもあります。私の世代は学校給食と云えば、この鯨の竜田揚げと脱脂粉乳がセットで思い出されます。もうひとつの定番料理は「鯨の大和煮」ですね。鯨を甘辛く煮込んだ料理で、鯨の缶詰でもよく見かけるスタイルです。ところが鯨には独特の臭みがあって、これをニガテにする子も多かった。そこで考えられたのが「鯨のノルウェー風」。なんでノルウェーかと云うと、ノルウェーで鯨が豊富に捕れることからつけられた名前で、まったくノルウェーとは関係ありません。鯨のノルウェー風は、揚げた鯨肉をケチャップベースの甘辛いソースで和えた料理です。神戸新聞にこんな記事が載ってました。1977年(昭和52年)の「給食通信」に記された「きらいな料理」の2位に「揚げ大豆と鯨肉のトマト煮」が入っている。大豆は子供にあまり人気がない食材。その影響かもしれませんねと担当者。そこで鯨のノルウェー風が取り入れられたと。1980年(昭和55年)の「給食通信」では「好んだ料理」の5位に「鯨肉のノルウェー風」が登場する。説明には「鯨料理は、ノルウェー風が、他の甘辛煮や甘露煮をぐんとひきはなしてトップです」と人気ぶりがうかがえる。数ある調理法の中でも、揚げた肉にケチャップやウスターソースをからめたノルウェー風の味が子供たちに歓迎されたと。これが大阪になると「鯨のオーロラ煮」。ただ大阪の教育委員会によると1975年(昭和50年)~2001年(平成13年)まで鯨肉の使用を止めており、この間は後継メニュー「まぐろのオーロラ煮」でした。ケチャップや赤みそ、ショウガ汁で味付けした肉を揚げ、ソースをからませる調理法です。私は一度も経験してませんが「鯨ベーコン」も給食に取り入れられてたのですね。鯨ベーコンと云うと、噛むほどに味が広がる不思議な食材でした。この鯨ベーコンをカリカリに炒めて野菜と和えたシーザーサラダや、野菜と一緒に煮込んだ「鯨ベーコンのミネストローネ」を出してた学校があったらしい。この辺になると、かなり食欲がわきそうですね。北海道の釧路沖で捕獲されたミンククジラの赤肉を、ミートボールにして釧路市の小学校で提供してるらしい。その名も「味噌ちゃんこ汁」。こりゃあ暖まりそうですね。調査捕鯨の基地となってる釧路市の学校では、他にミンククジラの肉で「鯨くしカツ」も出してるみたい。これが大好評。これは私らの年代でなくて、調査捕鯨が再開した現在の小学校給食メニューです。
Jan 6, 2026
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AI動画を作る方法は2通りありますね。テキスト文字を打ち込んで、それを動画化するようAIに指示する方法と、もうひとつは先に画像を作ってから、その画像を使ってそこから動画化する方法。例えば「クリング(KlingAI)」と云うAIツールでサンプル画像を指定し、同時に作ってほしい画像の特徴を文字で指示します。そうすると指示した画像が生成されます。その画像でOKなら、ビデオボタンを押して、再び作ってほしい動画の動きを文字で指示します。それだけで動画が自動的に作成されるのですね。そんなAIツールを使ったであろう にゃんこ関連の動画が多数YouTube にアップされてます。そんなYouTube 動画で面白いと思ったのを2点ご紹介。ひとつは「ボス猫おとこめし(男飯)」シリーズで、人情味ならぬ にゃん情味あるボス猫の日々の食事風景。どこが にゃん情味かと云うと、自分ひとりで食べないで、どんどん仲間に分け与えていく。そしてボスなのに決していばらない。このボス猫、自分で調理もします。もうひとつは「単発バイト猫のハル」シリーズで、ハルと云うにゃこが単発のバイトを繰り広げる動画ですが、そもそも単発バイトのスキマ時間を有効活用と云うメリット、年中ヒマなにゃんこにスキマ時間も何もあったモンぢゃないと思うのですが(笑)先ずはお好み焼き屋でアルバイト。次はドーナッツ屋でアルバイト。さらにスーパーのレジ打ちにもトライ!最後は銭湯のアルバイト。ありゃりゃお客さんが入る前に自分が一番風呂決めてるよ(笑)このように動画はAIが自動生成してくれるけど、どう云うストーリーで展開するか、そこが作者の腕の見せどこですね。願わくば、もうちょっと にゃんこに表情があればねぇ。このふたつの動画、YouTube で「ボス猫おとこめし」「単発バイト猫のハル」で検索すればショート動画も含めてたくさん出てきますので興味ある方はど~ぞご随に。グーグルの「ナノバナナPro 」だと最新のAI画像生成ができて、しかも1日の回数制限がありますが無料です。下の画像はうちのミミちゃん画像をナノバナナProでAIを使ってヘン顔に変更したものと、同じくナノバナナProで作ったチャッピくんの旅姿です。
Jan 5, 2026
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ヤギを飼っていることで有名な政治家は国民民主党の榛葉幹事長ですね。静岡県菊川市の自宅で「ケビンファミリー」というヤギを飼育しており、SNSでその様子を発信していて国会でも話題になるほど人気です。榛葉幹事長はヤギの世話を朝早くから行ってますが、しょっちゅうお尻を頭突きしてくるヤギに参ってます。ヤギが頭突きするのは、「遊んでほしい」「撫でてほしい」というサインだったり挨拶など理由がさまざまですが、喧嘩や自分の力を誇示したい時、そして発情期に、他のヤギや人に対して行うこともあります。だいたい突進してくるような場合は「遊び」か「威嚇」のどっちかです。大阪の天王寺動物園にも柵越しですが、ヤギと触れ合えるゾーンがあります。こういったとこでは、子供さんにケガを追わせてはいけないので、頭突きしてくるヤギは除外してるとか。ヤギってのはその驚くべきジャンプ能力でも有名ですね。野生のヤギにとって、ジャンプはエサ場にアクセスしたりするとともに、敵から逃れるため岩から岩へ飛び移ったり険しい地形を登ったり。飼われてるヤギのジャンプで特筆すべきは子ヤギがよく飛び跳ねること子ヤギが飛び跳ねるのは、第一にエネルギーの発散と遊びです。子ヤギは非常にエネルギーに満ちみちており、その余分なエネルギーを発散させるためによく飛び跳ねます。これを「バッキング(Bucking)」や「キディング(Kidding)」と呼ばれ、健全な成長の証です。それとともに単純に「楽しい!」「嬉しい!」という感情を表現する行動でもあります。広い場所で自由に動き回れるときや、飼い主と遊ぶときに見られます。また新しいものを見たり、初めての環境に触れたりしたときの興奮や好奇心から、飛び跳ねて反応することもあります。Happy Goats on a Trampoline || ViralHog(子ヤギのトランポリン遊び)なかには驚くと一時的に筋肉が硬直して倒れるユニークな性質を持つヤギもいます。驚いたり、大きな音を聞いたりすると、遺伝的な病気(先天性ミオトニー)により筋肉が一時的に硬直し、バタンと倒れてしまうのです。これは病気ですが、ケガにはなりにくく、しばらくするとケロッと起き上がります。
Jan 4, 2026
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別段、何と云うこともなく過ぎていくお正月。こうして毎年、1月はあれよあれよ。そして大阪の今宮戎では9日の宵戎から始まる十日戎が開催されます。昔は足運んでましたが、人混みがニガテなので、もう行くこともありません。同じ10日に開催されるニュースなどで有名な境内走りの「開門神事福男選び」は兵庫県西宮の西宮神社。こっちの方が敷地も広大です。とりたててネタも有りませんので生き物のお話しでも。フクロウの仲間でオスは全長75cm 、翼を開くと188cm に達する世界最大のフクロウが"ワシミミズク"。ワシミミズクは鳥類の中で最も強い握力を持つ鳥で、爪は非常に大きく、昼活動する猛禽類でこれを超える大きさのものは少ないのですね。この爪で獲物を締め付けて仕留めるなかなかの猛者です。なんですが、足を覆ってる羽を持ち上げると...ありゃりゃ、なんとスレンダーな足か(笑)お次は世界最小のマングース"ドワーフマングース"のご紹介。エチオピアから東部、南部にかけてのアフリカのサバンナ地帯や、樹木がまばらに生えているような地域で生活してます。この子の仲間は上野動物園にいるそうですよ。ドワーフマングースは15匹くらいで集団生活してますが、繁殖できるのはイチバン強いオスだけ。あとのオスたちはひたすら子育てに励むらしい。どの種族もやっぱ力あるものが全てを奪うのですかねぇ。こうして今年の正月もつつがなく過ぎていきますが、明日からは普段どおりのブログに戻します。正月でひっぱるのは私にはムリが有り過ぎなので。
Jan 3, 2026
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きょうは車で15分くらいのとこに住んでる息子一家が来ます。息子の長男はもはや大学生でバイトもしてるし、お年玉はいいかと思ってたのに、下の女の子に年玉あげるのに「きづつない(心苦しい)」とヨメが長男の分まで用意してました。これだと女の子が大学生になって卒業まで続けなきゃならないのか?大学生にあげるのですから、額もハンパないんですけどねぇ。と、云うワケで正月料理の準備が忙しいです。どっか食べに行った方が手軽なんですが、正月からやってるお店って限られてるので、ハンパない混み方でしょうしね。駐車できる場所確保さえままならないでしょう。丸亀うどんでさえ元旦と2日は休むらしい。まぁ、正月から丸亀うどん利用するのは休みのない限られた人でしょうしね。警察や消防、救急車、自衛隊のみなさんたち、年中無休でお疲れさまです。
Jan 2, 2026
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みなさま、新年明けましてお目出度うございます。今年1年もどうぞ宜しくお願いいたします。2026年ってのは、和暦で何年だ?ど~も普段、和暦を使う場面なんて役所に出す書類くらいしか無いから、とんと疎い。そうでした、令和8年でしたね。PCなんかの内部処理は全部西暦だから、役所の人はその都度 和暦→西暦変換してるのかしら?もっとも西暦ってのもキリストの生誕年を西暦1年にしてるのですから、日本人としては微妙ですが、まぁ世界共通ってことで致し方ないってことですね。(今年も)初日の出も拝まず、のんべんだらりとした新年です。まったく何もしません。幸い、マンションの外壁塗装なんかが旧年中に終わったので、気持ちよく新年を迎えることができました。このマンション、耐用年数迎えた時には建て替えか、修繕を継続するかで住民は揉めるでしょうが、そのころ私は成仏してるので知ったことぢゃないし(笑)
Jan 1, 2026
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今年も残すところ、今日1日になりましたね。こんなチンケなブログに飽きもせずご訪問いただいたみなさま、今年1年有難うございました。来年も引き続きこんなブログでよければ訪問していただいたら励みになります。なんとか生き延びた今年でしたが、日に日に体力が衰えてるの痛感する毎日でした。もっと筋力強化に励まないと、そのうち歩けなくなるかもですね。今日の夜は世間並に年越しそばをいただきます。ヨメは天麩羅がオイリーだと避けてるのですが、きょうはムリヤリ海老天そばで(笑)例年はニシンそばが定番の私。ニシンそばって、例の身欠きニシンの甘露煮が乗ったそばですが、ど~云うワケか北海道とともに京都の郷土料理でもあります。年越しにおそばを頂くってのは、長くのびる蕎麦から延命長寿や身代(財産)が長く伸びますようにと云う願いを込めて食べると思ってましたが、それだけでは無いのですね。蕎麦はうどんやそうめんより切れやすいということで、1年の災厄を断ち切ると云う願いも込められていたそうです。また畑の蕎麦は風雨に当たって弱ったように見えても、ふたたび日の光を浴びるとですぐに起き直すことから、「捲土重来を期す」イミもあるとか。捲土重来とは「失敗した者が猛烈な意気込みでふたたびやり直すこと」です。お餅はねぇ、私はお腹に溜まるのがキツくて、元旦の雑煮で2個くらい頂いて、後はヨメがひたすら消費する方です。自衛隊の訓練で、昼間は菓子パンしか出てこないのでお腹がもたないとの話を聞いて、小泉防衛大臣がカロリーメイトなど訓練食の改革に乗り出しましたが、お餅をなんとか携行できるようにできないのかしら?日本の技術力でも火を使わず食べれるようにするのは難しいかなぁ...NHKの紅白歌合戦なんて、もう何十年も観てませんが、今年バッシングにあった韓国の4人組女性グループ"エスパ"の中国人メンバー、ニンニンが体調不良を理由に出場辞退して、3人で歌うことになったらしいですね。ニンニンはSNSに(原爆の)きのこ雲の形をしたランプの写真を投稿し「かわいいライトを買ったよ。どう?」と投稿して、被爆国の公共放送がどうして出場させるのか?と国会でNHK会長が糾弾されてたけど、結局、こんな結末でたぶんNHKが世間体を重んじてエスパに忖度迫ったのでしょうね。そもそも、こうなること分かってるのにNHKって、どうして国民感情を理解ないのでしょうかねぇ。
Dec 31, 2025
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アメリカのテイストアトラス(TasteAtlas)と云う世界中の伝統料理、食材、レストランなどを紹介するウェブサイトがあります。読者投票やレビューに基づいて「世界の美味しい料理トップ100」などのランキングを毎年発表していて、日本のカレーが1位になったりしてたこともありました。料理カテゴリでは豚肉料理がいつも1位で、次がピザ、3位が牛肉料理です。このテイストアトラスで毎年発表される「テイスト・アトラス賞」、今年のランキングでは「世界で最も料理がおいしい国」部門で、日本が95ヶ国中2022年では4位だったのが、2023年と昨年は2位でした。日本2位の内訳には寿司、ラーメン、和牛などの評価とともに「繊細な味付け」が評価に大きく貢献しました。そんなテイストアトラスの評価料理で「カツ丼」は世界で8番目に評価の高い豚肉料理として紹介されています。実際、訪日外国人にも好評のカツ丼。あの豚のロースやヒレのスライス肉を揚げたものをご飯に載せて、それに玉ねぎなどの具を加え、甘辛い汁(割下)で煮込み、卵でとじてって調理法の発想は外国人には目からウロコなんでしょうね。カツ丼の起源は、1995年の地方紙「山梨日日新聞」が関係者への聞き取りをしたうえで、明治30年代後半には甲府のそばの老舗「奥村本店」でカツ丼が提供されていたと云う記事が掲載されてます。それとは別に、福井で本店を構える洋食店「ヨーロッパ軒」のオーナーだった高畠増太郎が、料理研究留学先のドイツから帰国後、東京市牛込区(新宿区)早稲田鶴巻町の早稲田大学前に店を構え、1913年(大正2年)に東京で開かれた料理発表会でカツ丼を初披露したとしてますが、こっちのカツ丼はウスターソースをかけたソースカツ丼で、ヨーロッパ軒は「元祖ソースカツ丼」の店を自称してます。どっちにしても、カツ丼で使われるカツはアメリカで食べられている厚切り骨付き豚肉のポークチョップに似ているものの、カチカチ食感になりがちなアメリカ風ゴツイ豚肉料理と違って、日本のカツ丼で出てくる柔らかい豚肉に欧米人はこぞって衝撃を受けるそうです。カツ丼に限らず、うな丼、、天丼、鉄火丼、親子丼など多種多様な丼物が溢れてる日本料理。こうした丼物の元祖は「うな丼(鰻丼)」です。もともと日本人は、主食であるご飯とおかずが別々に配膳され、それを一箸ごとに口に運ぶという食べ方を基本にしてました。ところが江戸時代になると、早食いの町人の間では手軽な「ぶっかけ飯」が流行します。そして大久保今助と云う鰻好きの男が、鰻が冷めるのを嫌って、大きな丼の温かいご飯とご飯の間に鰻を入れ、それにフタをして持ち歩き、まだ温かいうちに食べたのが鰻丼の始まりとされてます。これが美味しそうで、しかも手軽と気付いた人々が鰻だけでなく、さまざまな具材を載せて丼物が浸透したのですね。最近は訪日外国人も舌でとろけるような鰻の味に気づいて、うな丼を楽しむ人も激増してるとか。アメリカでは揚げ物は手でつまんで食べるもの(フィンガーフード)と云う文化が浸透しているので、最初は天丼に戸惑ったようです。これも、丼に飯を盛り、それに少量の天麩羅を載せたのではお粗末と云うことで、いろんな具材たっぷりの天麩羅を載せて天丼にすると云う贅沢な発想。こうすることで料理として様になるし、お客さんに出しても喜ばれると云う図式になるのですね。さらに丼の器の大きさも、日本人の手にぴったり収まるサイズになってます。大きすぎると重くて食べづらいし、かと云って、これより小ぶりのサイズではお粗末。ほどよい重量感とともに、手に温かさの伝わる丼は、手の平からも美味しさを伝える日本独自のアイディアなんですね。
Dec 30, 2025
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訪日外国人観光客に大人気の日本のラーメン。日本を訪れた外国人で、ラーメンを食べたこと無い人なんて先ず居ないでしょう。なんせ日本のラーメンのダシは、他の国の同様な麺類と違って、手間のかかる複雑なとりかたしてて、一線を画してますからね。海外の汁ソバのスープなんて、せいぜいガラだけでとって、とてつもない量の"味の素"投入してるだけですから。そんな日本の麺類で、もうひとつ外国人に人気の料理があります。"お蕎麦"です。とうとう見つかってしまった!なんと云ってもお蕎麦のダシは、昆布や鰹節、たまり醤油なんか使ってて、これまた手間の権化。日本人だったら、蕎麦を食べた後のお汁は少し残したりしますが、欧米人は残らず飲み干してるみたいです。中には「蕎麦湯」まで楽しむ外国人も。これぞ出汁文化の日本って理解してるのですね。汁蕎麦だけぢゃなくて、ざる蕎麦も外国人に浸透してるみたいです。しかも麺をすするのがタブーな海外から来た人たちも、日本では普通に麺をすすっている。「郷に入っては郷に従え」そのまま。こうして日本の文化をちゃんと理解してくれてる観光客ばかりだったらウェルカムなんですが。なかにはホテルなんかで企画されてる"蕎麦打ち"体験に参加する外国人も。私だって蕎麦打ちなんて、やったこと無いのに。単なる観光だけぢゃなくて、行った国のカルチャーに触れることを重視する欧米人独特の考え方ですね。考えてみれば、海外にも蕎麦を使った料理はたくさん有ります。ロシアの「カーシャ」みたいにスープで煮込んでリゾット状になったものとか、イタリアの「ピッツォッケリ」みたいに蕎麦粉のパスタだったり。フランスのブルターニュ地方には「蕎麦粉のガレット」があります。ちなみにロシアは蕎麦の生産量、消費量とも世界1位なんです。なので欧米人にも蕎麦料理はけっこう身近なんですね。しかし大半の外国人観光客が行く蕎麦のお店は、パパゴリラ!さんが行くとこみたいに本格的なお蕎麦屋さんではなく、立食い蕎麦とか街場の安いお蕎麦屋さんが多いみたい。手軽に食べられて、出てくるスピードも早くしかも安いのがポイントとか。と、云うと、まさか立食い蕎麦!?そうなんです「富士そば」が訪日外国人に人気らしい。外国人観光客でごったがえす秋葉原 電気街の入り口にある「名代 富士そば 秋葉原電気街店」なんて、1日に300人もの外国人観光客が訪れると云うのです。ここでは、25席全テーブルにイスを用意して、外国人のお客さんに対応してるらしい。外国人からしたら、サンプルが展示されてて、食券制なのが利用しやすいポイントなんでしょうか。新宿「思い出横丁」でカウンター8席の「かめや」も外国人に人気の蕎麦屋さん。こっちは1日500人くらい外国人が押し寄せるらしい。明治神宮前にある蕎麦店「玉笑(タマワライ)」はミシュランのフランス語版や英語版に何度も掲載されてる海外の方が有名なお店。「豆腐蕎麦」なんて珍しいのまで外国人が食べるらしい。ここは予約しないでいくとかなり待たされ、予約必須のお店だそうで、店内にはいつも英語が飛び交っているそうです。本格的なお蕎麦屋さんにも外国人観光客が押し寄せてます。東京 調布市の深大寺、ここは深大寺蕎麦で有名ですね。その深大寺蕎麦店「湧水」には欧米人からアジア人まで幅広い外国人が訪れてます。と、まぁ立食いから本格的なのまで、今やお蕎麦も外国人観光客のターゲットになってしまったワケですが、蕎麦のタンパク質が原因でアレルギー症状をおこす人もまま有りますね。蕎麦アレルギーは、皮膚のかゆみや じんましんから始まって、呼吸困難、腹痛、嘔吐などの症状、ひどいときにはアナフィラキシーショックに至る可能性があります。これは日本人にかぎったことでなく、外国人にもいます。反応がはげしい人は、茹で汁の蒸気を吸うだけで症状が出る人もいます。ところが蕎麦を普段口にすることないほとんどの外国人は、蕎麦アレルギーがあることを知らず、食べて不調を訴えるなどのトラブルも増えているそうです。そこで登場したのが札幌市南区の国道230号線沿いに集まる蕎麦店の団体「230そば街道推委員会」が開発した「ジャパニーズタトゥー風そばアレルギー・チェッカー」。「そばアレルギー・チェッカー」は、歌舞伎役者や錦鯉、のれん、浮世絵など日本風のデザインがほどこされたタトゥーシール。アレルギー反応があった場合、歌舞伎役者のくまどりが赤くなったり、錦鯉に模様が浮き出たり、富士山が赤く染まったりする仕掛けです。アレルギー反応確認のとき、アレルギーがある場合は皮膚が赤くなるプリックテストを応用してるのですね。訪日外国人観光客のうち約1万3,000人に、深刻な「蕎麦アレルギー」の疑いが有ると云われてます。 そこで「そばアレルギー・チェッカー」イベントとして「富士そば」なんかが開催して広めていってるのですね。イベントには毎回、多数の外国人が参加するらしい。
Dec 29, 2025
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