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あきても @ Re:帰国日(11/29) New! 飛行機たくさん飛んでます monmoegyさんの…
moto,jc @ Re:帰国日(11/29) New! こんばんは 道中お気をつけください
ララキャット @ Re:帰国日(11/29) New! お疲れ様です! 帰国したら、ゆっくり湯舟…
空夢zone @ Re:帰国日(11/29) New! 無事台湾から帰国ができたらいいですね。 …
Oct 21, 2024
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カテゴリ: カテゴリ未分類
日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、台湾の台南にある「烏山頭(うさんとう)ダム」の放水口に投身自殺した女性がいます。

なぜ終戦後になっても彼女は台湾に居つづけたのか?
なぜ日本が降伏した8月14日から日にちを隔てて自殺したのか?
自宅の机上に残された遺書には「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」と書かれてただけです。


外代樹の夫、八田與一は東京帝国大学(現在の東大)工学部土木科を卒業した水利技術者です。
大学卒業後、台湾総督府内務局土木課に就職して、初代民政長官であった後藤新平以来、重点施策であったマラリアなどの伝染病予防のため嘉義、台南、高雄など各都市の上下水道の整備を担当しました。
その後、発電・灌漑事業の部門に移るのですが、この部署での活動が今でも台湾の人たちに敬愛される存在となるのですね。
台湾南西部にある嘉南平原は、台湾の中では広い面積を誇ってましたが、夏は多雨、冬は乾燥と云う気候に加えて日照時間が短く、稲の生産力は台北や台中の半分に過ぎませんでした。





烏山頭ダムは1930年(昭和5年)に完成しました。
このダムを造るにあたって、八田與一は当時としては画期的な新しい3つの方法を取り入れたのです。

1.コンクリートの土台を中心部にだけ用い、大量の土砂をその上に盛って、水の力を利用して粘土や細かな土砂を下に落ち着かせて土の堰堤を造る「セミハイドロリックフィル工法(湿式土堰堤工法)」を取り入れました。
この工法は、地震の多い台湾で当時最善の方法だったのです。

2.工事を早く進めるため、当時ではほとんど使われていなかったスチームショベルやエアダンプカーなど大型土木機械を多数取り入れました。

3.「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」の思想から、工事で働くひとだけでなく、その家族も一緒に住める町を烏山頭に作り、宿舎のまわりに学校や病院の他、テニスコートやプールまで作ったのです。

この事業によって八田與一は「嘉南大圳の父」として、現在でも台湾の中学教科書「認識台湾 歴史編」に詳しく記述されてます。


八田與一の妻 外代樹は石川県金沢の開業医で、県議も務めた米村吉太郎の娘で結婚したとき16歳でした。
学生時代から非常に聡明な女性だったそうな。
このとき八田與一は31歳。
外代樹は台湾に嫁いでなんと8人の子供を授かり、ダムの完成を目指す八田與一を支え続けたのですね。



ところが船団が五島列島沖を航行中、アメリカ潜水艦「グレナディアー」の攻撃を受けて大洋丸は撃沈されてしまうのです。
それから1ヶ月ほど経ったころ、漁をしていた山口県の漁師の網に遺体がかかりました。
対馬海流に乗ってここまで漂流したのです。
腐乱がひどく顔形は判別できませんでしたが、衣服の名詞から八田與一の遺体であることが分かったのです。

しかし、外代樹は八田與一の死を知ってすぐさま後を追ったのではありません。

息子が学徒動員で戦地に赴いていたのです。
1945年終戦を迎え日本人の引き上げが始まりましたが、外代樹は台湾にとどまりました。
同年8月には長男が戦地から戻りました。
長男が戻ってきたのが8月31日。
久しぶりに家族で食卓を囲みました。
その翌日、9月1日の未明、子供たちが寝ている間に、喪服に白足袋という正装で外代樹は烏山頭ダムの放水口に身を投げたのです。
身を投げた場所には草履がをきちんと揃えられてました。
享年45歳。

そして...身を投げた9月1日は、烏山頭ダムが完成した日だったのです。
夫婦は烏山頭ダムのほとりに一緒に埋葬され、その後二人は離れることはなかった。
残された子どもたちは後に国民党政府により日本に強制送還されました。
台湾南部・台南市を拠点とする成功獅子会(ライオンズクラブ)は、日本の北國新聞社が復刻出版した「水明り 故八田與一追偲録」52冊を購入し、台南市に寄贈してます。
市を通して市内の高校に配布するためです。
「水明り」は外代樹が、夫の一周忌にあたる1943年に八田與一が東京から家族に宛てた手紙や絵はがき、親族による追憶集などを集めて少量印刷されたものです。
1946年、地元の農民たちがわざわざ日本の黒御影石を探し出して八田夫妻のために日本式の墓をたてました。
烏山頭ダム傍にある八田の銅像は、ダム完成後の1931年(昭和6年)に作られたものですが、像設置を固辞していた八田本人の意向を汲み、一般的な立像を諦め、工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、碑文や台座は無く地面に直接設置されてます。
2007年に李登輝元総統は、八田與一に対して褒章令を出してます。









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Last updated  Oct 21, 2024 05:06:56 AM
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