東方見雲録

東方見雲録

2025.05.30
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カテゴリ: ものづくり
「反射炉跡」
 この神社の境内に、大砲を作る為の 鉄精練用 反射炉があったとされている。

『時代背景』
時代は、幕末に近づいている頃で 外国からの艦隊等が出没するようになると国防・海坊の必要性から、外国船に対抗する 精度が高く 飛距離の高い様式砲が必要視された。

ところが、日本の鋳造技術だけでは、大型の様式砲を作る事は困難で外国式の溶解炉が求められ 外国の技術者を招く事もできない時代であり、オランダ技術書などの書物等を参考に作り始めたとされる。

技術の差はあれど 砲身を鋳造するために反射炉が 藩中心で各地に造られた。
反射炉とは、 熱を発生させる燃焼室と精錬を行う 炉床が別室になっているのが特徴で燃焼室で発生した熱を天井や壁で反射、側方の炉床に熱を集中させ 金属の精錬を行う炉である。


この佐田地区には、"民間で大砲を作った" とされる偉人がいた。
国東半島 以外と知らない偉人 ≪賀来惟熊・賀来飛霞≫ 


今でいえば、公益事業家、砲術家というべきであろうか。
1796年、宇佐郡佐田村(さだむら)  現在の宇佐市 安心院町 左田で生まれる。
    ※当時は、島原藩の飛び地領であった

農業や ろう絞り、酒造を行い 所有する山林の、植林事業などに従事。
植林事業の重要性を説き、井堰(いせき)の復旧、貯水池の築造や宇佐神宮の改築にも尽力を尽くす。

この人の偉大な所は、江戸時代に 民間で唯一の反射炉を作り 鉄鋳造にて大砲を作ってしまった事。

日出(ひじ)藩に 帆足万里(ほあしばんり)という蘭学先生のもとで西洋学問を学んだ事が賀来惟熊氏が 偉大な事業を成し遂げ、成功させられた一因であったと思われる。
思うに、知識を得るだけでなく 常に研究熱心であったに違いない。合わせて財力もあったのだろう。

1853年(嘉永6年)に、反射炉の建設に着手  
(歴史上有名な ペリー来航の年)その2年後の1855年(安政2年)に 左田村の"宮の台"に 鉄鋳造の反射炉を築き、鋳造を始める。
(江戸では、安政の大地震があった年)

初めは、6ポンド砲 4門、 12ポンド砲 2門、 18ポンド砲 2門の合わせて 8門を造るのに 2年を要す。
最終的には、100門を超す数を造ったとも言われている。

賀来飛霞氏(かく ひか)
江戸時代後期~明治時代前期の植物学者であり、医者であった。   
国東郡高田  現在の昭和の町で有名な豊後高田市生まれ


その後、現在の杵築市に移り住み、同じく 帆足万里(ほあしばんり)より 本草学などの学問を学び、本草学については江戸まで出向き 学んでいる。医学は、シーボルトより学んだとされる。
1844年(弘化元年)には、左田村で医者として生活。
1876年(明治9年)には、小倉県 第八大区医務取締役となり、宇佐郡立 四日市病院長兼医学校長となる。
1878年(明治11年)には、東京大学小石川植物園の取調掛となり、植物の調査に専念。
日光や東北方面まで 調査に足を延ばしているとの記述もある。
退職後、晩年は 佐田で過ごす。 近代植物学の基礎を築いた人物とされる。
『高千穂採薬記』 『杵築採薬記』 など、著書を数多く残している。

引用サイト: こちら

関連サイト:佐田神社の反射炉跡   こちら




ちょっと道草:溶鉱炉  こちら


ちょっと道草:電気炉



ちょっと道草:たたら本床操業 




引用日記:2024.10.16の日記   こちら

ちょっと道草:登り窯


ちょっと道草:ピザ窯



関連日記:2025.05.26の日記  国内初反射炉   こちら
関連日記:2025.05.28の日記  鳥取藩反射炉   こちら
関連日記:2025.05.29の日記  鬼伝説と鉄製造   こちら





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Last updated  2025.05.30 22:48:16
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