東方見雲録

東方見雲録

2025.10.03
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カテゴリ: 郷土



 演説は斎藤が1940年に帝国議会で約1時間半にわたって行った。直後に発言が不適切だとして約3分の2が議事録から削除された。衆院によると、不適切発言などを理由に削除された部分を復活した前例はない。可否は衆院議長の諮問機関である議会制度協議会で判断する方向だ。協議会開催は、衆院議院運営委員会からの求めに応じて議長が判断する。与野党の合意が前提となる。

 首相は講演などで「反軍演説」の意義に触れ、2018年には兵庫県の斎藤氏の記念館を訪問していた。
引用サイト:読売新聞 こちら

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斎藤隆夫の「反軍演説」は先の演説と同様、国民の深部に渦巻く戦争下での生活の困難と不安、全面的な統制への憤激、反戦的な気分・感情と響き合うものであった。しかし、傍聴席でこの演説を聞いていた陸軍省軍務局長の武藤章や軍務課の将校たちが「斎藤の演説は支那事変の聖戦目的への侮辱であり、10万英霊への冒涜である」と罵り顔で国会内の記者に語り、斎藤を懲罰委員会にかける行動を起こした。

 それは、政党と議会の解体を雪崩をうって促進させることを目的としていた。小山衆院議長は斎藤の発言には「不穏当部分がある」として、速記録から後半のすべてを削除する措置をとった。民政党は斎藤に「離党と謹慎」を迫り、斎藤はみずから離党した。懲罰委員会では除名処分を確認したが、斎藤の弁明が説得力をもって懲罰側を圧倒し、新聞が「(斎藤は)凱旋将軍の態度をもって引き上げた」と報じるほどであった。
引用サイト: こちら

演説全文 こちら

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参考サイト:戦前政治に見る二大政党制 こちら
 戦前の政治体制というと「藩閥政治家や軍部が独裁した暗黒時代」の印象が強いが、1924年から1932年の9年間にわたって政党のトップが首相に就いていた。しかも、加藤高明・若槻礼次郎(憲政会)→田中義一(立憲政友会)→浜口雄幸・若槻(立憲民政党)→犬養毅(政友会)と、2大政党による政権交代が着実に行われていた。

 当時は、首相経験者らで構成する「元老」が次の首相候補を天皇に推薦、これを基に天皇が首相候補に内閣を組織するよう命じる仕組み。衆院で多数を占めた政党のトップが首相に任命されるとは限らなかった。

 さらに、現代のように選挙を通じて多数党と政権が代わるのではなく、「政友会内閣が行き詰まったら民政党」「民政党政権が失敗したら政友会」といった形で首相と内閣が最初に交代し、その後に解散総選挙が実施されて衆院の多数党が代わる展開が多かった。

 その意味では、純粋な意味での「政党政治」「二大政党制」とは言えないし、現代の我々がイメージする「政権交代」とは少し様相が異なる。

 ただ、「大正デモクラシー」の追い風に乗り、国民の期待を集めた政党が藩閥や軍部の影響力を上回り、多数党が政権を組織する「憲政の常道」を実現していたのだ。

参考サイト:井上寿一著『政友会と民政党 戦前の二大政党制に何を学ぶか』書評 こちら
政友会=利益誘導型、民政党=政策重視型という特徴
本書の最も興味深い分析の一つは、両党の性格を明確に対比している点です。政友会は「積極政策」を掲げ、公共事業の拡大や地方への利益配分を重視しました。これは現代でいう「バラマキ政治」的な側面もありましたが、一方で地域経済の活性化や雇用創出という実利的効果を生み出していました。

対する民政党は「消極政策」すなわち財政緊縮を基本方針とし、官僚主導の効率的な行政運営を目指しました。彼らは長期的視野に立った政策立案を得意とし、国際協調路線を堅持する姿勢を見せていました。



政権交代がもたらした政治的活力
戦前の政権交代は、単なる権力の移行以上の意味を持っていました。政権が変わるたびに政策の方向性が変化し、それまで日の当たらなかった分野や地域に光が当てられました。また、野党経験を通じて政党は政策能力を向上させ、より現実的で実行可能な政策を立案する能力を身につけていきました。

特に注目すべきは、政権交代が官僚機構に与えた影響です。政党政治が機能している時期には、官僚は政治家との協力関係を重視し、民主的統制のもとで専門性を発揮していました。これは現代の官僚と政治家の関係を考える上でも示唆に富んでいます。

外交・軍事問題が政党政治を揺るがした要因
本書が明らかにする重要な論点は、政党政治の崩壊が内政の失敗だけでなく、外交・軍事問題への対応の困難さに起因していたことです。満州事変以降、国際情勢の急激な変化と国民感情の高揚が、冷静な政策判断を困難にしました。



現代への教訓:民主主義の脆弱性と条件
井上氏は、戦前の経験から現代日本の民主主義が学ぶべき点を整理しています。最も重要な教訓は、民主主義は放置すれば自然に機能し続けるものではなく、絶えざる改善と国民の支持が必要だということです。

政党政治が機能するためには、政党自身の自己改革能力、有権者の政治的成熟、そして危機的状況においても民主的手続きを重視する政治文化が不可欠です。戦前の政党はこれらの条件を十分に満たすことができず、結果的に民主主義の破綻を招いてしまったのです。

参考サイト:保守本流(石橋湛山系)を排除した自民党本流(岸信介系)に未来はあるか
岸は経済官僚出身、満洲国経営の中心人物であり、また開戦時の東條英機内閣の閣僚でした。戦後も一貫して大日本主義(大アジア主義)を唱導しました。自民党の党是となっている戦後憲法の否定、自主憲法制定は岸の主張でした。また、統制経済を核とした国家経営を至上命題としていました。奇妙に思えるのは戦前日本への思いを強く持ち、戦後憲法否定でありながら、戦後体制を作ったアメリカとの日米一体化論(いまでは一体化ではなく対米従属)を主導したことです。

これほど考えの異なる2人でしたが、反吉田茂という点で一致し、日本民主党を結成し、岸の豪腕をもって自由党と合同し、自由民主党を誕生させます。本当はここにはねじれがありました。けれど冷戦という時代背景はそのねじれを押し隠したのです。このねじれは日本政治のわかりにくさの遠因にもなっています。

ところで、自由民主党結党後、ある時まで、首相になったのは「自民党本流」という岸の流れではなく、「保守本流」という石橋の流れにいる人のほうが多かったのです。首相経験者のうち「自民党本流」と呼べるのは岸、福田などであり、「保守本流」からは池田、田中、大平、竹下、宮澤、橋本、小渕等を輩出しました。かつての派閥名でいえば、田中派(のちに竹下派)と池田が作り上げた宏池会が「保守本流」です。ただし小渕以降は「自民党本流」もしくは「自民党本流」が支持した人が首相となっています。
引用サイト: こちら ​​ ​​





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Last updated  2025.10.03 12:17:56
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