東方見雲録

東方見雲録

2026.01.11
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カテゴリ: ランドスケープ



 高知のシンボルといえば高知城。国内外から多くの観光客が訪れる名所となっている。高知城は1600(慶長5)年の関ケ原の戦いによって土佐一国を与えられた戦国武将・山内一豊が築城した近世城郭。全国「現存12天守」の一つで、追手門や黒鉄(くろがね)門など貴重な建造物が残されている。特に、現存12天守の中でも天守に接続した本丸御殿が現存しているのは高知城だけ。明治維新の廃城令や戦禍などこれまで幾多の危機を乗り越え、今の姿がある
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高知城が建っている大高坂(おおたかさか)山はかつて、南北朝時代に南朝方の武将・大高坂松王丸(まつおうまる)が拠点とし、北朝方と戦ったことが伝えられている。時代が進んで1588(天正16)年、戦国武将・長宗我部(ちょうそかべ)元親が先祖伝来の岡豊(おこう)城(高知県南国市)から大高坂山に移って城を構え、城下町を築こうとした。しかし、周辺が低湿地で、度重なる水害にも悩まされて町造りをあきらめて浦戸(高知市)に城を築き、わずか3年で移ってしまった。

 その後の関ケ原の戦いの功績により1601(慶長6)年、長宗我部家に代わって、山内一豊が遠江国(静岡県)・掛川6万石から土佐20万石(通称24万石)に移封されてきた。長宗我部家の遺臣による激しい抵抗を受けながらも、人心の一新と新しい町造りを目指して、大高坂山に築城することを計画。治安状態が不安定な中での築城工事が始まり、人海戦術による突貫工事で、2年後の03(同8)年に本丸と二の丸の石垣が完成し、同年に一豊が浦戸城から移ってきた。

 一豊の死後、築城は2代藩主・忠義に引き継がれ、着工から10年の歳月を経た11(同16)年に高知城は完成した。同時に治水工事も進められたため城下町は繁栄し、以降、明治維新までの260余年、高知城を中心に山内家が16代にわたって土佐藩を治めた。

 11年に完成した高知城も、8代藩主・豊敷(とよのぶ)の代の1727(享保12)年、城下からの出火が飛び火し、追手門など一部の建物を残して焼失してしまった。すぐに幕府の許可を得て再建を図るが、飢饉(ききん)や災害が続いて再建工事は進まず、天守の完成まで焼失後20年を要した。49(寛延2)年に天守再建後、1846(弘化3)年の天守修理や、太平洋戦争後まもなく行われた「昭和の大修理」を経て、美しい高知城は保たれている。
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高知城は、天守と城内の正面玄関に当たる追手門が共に現存しており、一緒に写真に収められるのが魅力。その美しさは国宝級に匹敵する。実際、訪れた多くの人たちは高知城を「国宝」と思っているそうだ。理由は、追手門の手前に「国宝高知城」と刻まれた石柱が建っているからだ。


引用サイト: こちら

高知城ホームページ こちら







高知城の天守は、独立式の「望楼型」(ぼうろうがた)天守。

この望楼型とは、屋根に物見のための建物である望楼を載せた様式で、外観は豪華、構造は頑丈です。また、独立式とは、まわりに附属建物がなく天守のみが独立して建つ形式。

独立式かつ望楼型の天守は、江戸時代以前に造られた天守を維持している現存12天守の城のなかでは、高知城と「丸岡城」(福井県坂井市)のみです。

高知城の天守は外観が4重、内部は3層6階建てになっており、天守の最上階には山内一豊が、かつての居城だった掛川城を模して造ったと言われる廻縁(まわりえん)と高欄が付けられています。廻縁とはいわゆる縁側のことで、高欄は手すりや欄干のこと。現存12天守の中でこの廻縁と高欄が天守にあるのは高知城と「犬山城」(愛知県犬山市)だけです。

天守4階にある窓から青銅製の鯱(しゃちほこ)を間近に見られます。また、最上階の6階からは高知市街が一望でき、廻縁と高欄があるため東西南北の景色を見ることが可能です。
引用サイト:重要文化財7城 高知城   こちら





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Last updated  2026.01.11 08:00:05
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