東方見雲録

東方見雲録

2026.01.31
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カテゴリ: 土木


意匠図案説明    妙亀塚、白髭橋を描く
郵便局名      台東清川郵便局
開設場所      〒111-0022 東京都台東区清川1-28-4
引用サイト: こちら


妙亀塚 こちら

妙亀塚は、台東区橋場にあり、都史跡に指定されています。妙亀塚は、人買いにさらわれた吉田少将惟房の子梅若が当地付近で死去、梅若を探して当地付近にきた母が、梅若の死を知り剃髪して妙亀尼と称して庵を結んだと伝えられ、この梅若伝説に因んで妙亀塚と呼ばれています。梅若に因む梅若塚は、隅田川対岸の木母寺にあります。

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台東区教育委員会掲示による妙亀塚についてこの妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。

塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。
なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられている。(台東区教育委員会掲示より)

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木母寺の縁起 こちら
木母寺は山号を梅柳山といい、天台宗に属する墨東第一の名刹といえます。開山は忠円阿闍梨で、平安中期の貞元元年(976)であったと伝えられています。古くは梅若寺といい、隅田院とも称しました。
天正18年(1590)家康によって、梅柳山の命名を得、慶長12年(1607)には、前関白近衛信尹が参詣の折、柳の枝を折って「梅」の字を分け「木母寺」として以来、寺号としたといいます。
その後、明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、梅若神社となっていましたが、明治21年、光円僧正の特段の努力により、仏寺として再興されました。
その時の当代の有力者が、再興に賛同した旨の「旧蹟再興賛成簿」が残されています。かつては堤通りに面して、鐘渕中学校と隣り合っていましたが、東京都の防災拠点建設事業により、昭和51年、梅若塚・碑林ともども、隅田川寄りに160mほど移転して、現況に至りました。
跡地には「榎本武揚像」のみを残し、区立梅若公園として防災拠点の一景観ともなっています。(すみだの史跡文化財めぐりより)


木母寺へび観音弁天は、古代インドにおいては、水神・・・つまり川の神であった。

 やがて、川の流れのイメージと、インド古来の蛇や龍の信仰が合わさり、神使は、蛇や龍とされた。

 弁天は、川の神であるから、 「川の流れの音が、音楽や口から出る豊かな言葉を連想させる」として、中世以降、芸術・学問の神として信仰を集めた。
 芸能人は、それゆえ熱心に信仰したという事だ。
引用サイト: こちら

白髭橋

引用サイト: こちら

東京都荒川区、台東区・墨田区の間を流れる隅田川に架る歴史ある橋が白鬚橋(しらひげばし)。明治通りと通称される東京都道306号(王子千住夢の島線)の橋で、橋名は東岸の白鬚大明神(現・白鬚神社/墨田区東向島)に由来します。つまり、「ひげ」は、髭(くちひげ)ではなく、髭(あごひげ)。



こちら





橋場の渡し現在の白鬚橋付近にあった。「白鬚の渡し」とも呼ばれた。
歴史的に位置や名称に変遷があったが、記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い。

律令時代の承和2年(835年)の太政官符に「住田の渡し」と書かれたものが残っている。奥州、総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。

また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。

橋場は歴史の古い土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並び、有名な料亭も多かった。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあった。
歌川広重が錦絵「墨田河橋場の渡かわら竈」に描いた。
白鬚橋の完成に伴い、大正期に廃止されたといわれる。
引用サイト: こちら





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Last updated  2026.01.31 00:00:09
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