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三春戊辰戦争 7:恭順の代償 慶応4年7月26日の新政府軍の三春到着に際し、藩主は菩提寺に入って謹慎をし、嘆願書を提出しました。三春町史には読み下し文で、次のように記載されています。『今般奥羽御征討のため、官軍御指向、既に当藩にも御参着に相成候処、当家に於いては素より朝命遵奉の儀聊か動き御座なく候処、兼て小邑微力にて大国の間罷り在り、其指揮行き届かず止むを得ざる次第、私はじめ家中一統幾重にも恐れ入り存じ奉り候。依て居城並に領地人民共に指上げ、菩提所へ相退き家来一同謹慎罷り在り申し候。右等の事情御憐察なし下され、何れにも寛大の御沙汰を蒙り奉り度く此段宜く御取成下され候様仕り度く、嘆願奉り候。以上。慶応四辰年七月 秋田万之助』同 日、町家に止宿していた同盟兵の詮索がはじめられ、中町井筒屋前で仙 台兵が一人斬られた他に、7〜8人が捕らえられました。一方、薩 摩と土佐藩兵は、三春領に接している二本松諸番所を、百姓の案内 で急襲しています。 翌27日、参謀局より秋田主税と重臣荒木国之助・小野寺舎人らが呼び出され、 嘆願が認められた上、「追って御沙汰まで城地・兵器・人民を預り 置く。また出兵を申しつけるので功を立てよ」との口達がありまし た。(三春町史766ページ)またこの日、錦旗印章を授けられた 三春藩兵一小隊は、新政府軍の案内役として二本松領の糠沢村や高 木村に進出しています。 28日、総督府参謀より、次の達しを受けました。 『諸藩進撃ニ付教導之者指出候様 参謀方より御達ニ付相勤候事』。 これは三春藩が、新政府軍に完全に組み込まれたことを意味しているのではないでしょうか。 29日、新政府軍は大壇口の二本松少年隊を含む防御線を破り、二本松城を落 としました。この日の戦いでも三春兵に死傷者はなかったのですが、 これは最前線に立たなかったということなのかも知れません。 8月4日:相馬藩、新政府軍に内通.相馬藩もまた仙台藩に、『裏切り』と責め られることになります。 8月6日:相馬藩、新政府軍に降伏。 三春が戦渦から逃れ得た8月16日、白河口総督より城地はこれまで通りとされ、藩主の謹慎が解かれ、本領も安堵されました。沙汰は次のようなものであり、同時に京都の秋田廣記も禁足が解かれたのです。『右不得止情実より而、一旦賊徒一味の形跡を成し候得共、賊を掃攘し、官軍を迎、降伏候段、被聞食届、格別の思食、謹慎被免、城地是迄通、被下置候條、爾後闔の方向確定し、王事勤労可相励旨 御沙汰候事 八月 秋田万之助』 二本松市史741Pに『此後二本松領取締りの義ハ当分三春藩へ仰付られ翌年二月迄三春より諸役人参り支配仕居候事八月中旬先殿様十万石召し上げられ大隣寺へ御入寺御謹慎仰蒙られ候ニ付急ニ米沢より若殿様頼丸御養子御縁組ニ相成更ニ下しをかれ候事ニ仰付られ候へ共当時三春の御取あつかいニ而半年貢御取立ニ御座候御前様御奥様共米沢より龍泉寺へ御引取仮ニ御住居御座候 諸士の家内四千人程米沢より引取在々へ割付ニ相成乳のみ子迄ニ七合扶持被下三春より日々御渡しニ御座候』とあり、三春藩は、二本松藩領安達郡内阿武隈川右岸一帯(旧二本松領東安達)の地の支配を命じられています。またこの頃、守山藩が郡山の支配を命じられていますから、二本松領は2つに分断されることになりました、そして二本松藩取締を命ぜられた三春藩は、三春藩使者の斬殺に関して、直ちに使者殺害の町人を探ねた」そうです(二本松市史936P・続ふるさとの伝え語り93P)が、その詳細は分かっていません。 8月20日、新政府総督府が、前線の北進に伴って白河より三春に移って来まし た。総督代行の鷲尾隆聚と阿波の徳島藩兵の行列は、赤沼まで迎え に出た三春藩重臣らに案内をさせ、白地に『奥羽追討師』という旗 を掲げて藩主の御殿(いまの三春小学校)に入りました。鷲尾隆聚 はさっそく郡山・本宮・二本松・福島に兵を展開し、会津攻撃の準 備をはじめました。三春の龍穏院には野戦病院が開設され、医者は 佐倉藩より二名、薩摩藩より一名で、荒町の大阪屋に宿泊しました。 ここには手負や怪我人が収容され、看護には若い女性二十人ほどであ たりました。 8月24日、三春藩は旧二本松領の本宮警備を命じられ、赤松則雅の小隊を派遣 しました。 8月25日、白河より正親町(おおぎまち)総督が三春に入り、御殿の門前には、 『正親町殿本陣』の看板が掲げられました。 8月26日、大山巌は鶴ケ城の戦いで右股に貫通銃創を受け、三春の龍穏院の野 戦病院に入院、のち白河に移されています。大山巌は後に陸軍元帥 となり、陸軍大臣、陸軍参謀総長、文部大臣、内大臣、元老、貴族 院議員を歴任していますが、西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟にあたり ます。なお巌の次男の大山柏は公爵、貴族院議員、考古学者、文学 博士、戊辰戦争研究家の顔を持ちながら、陸軍少佐となっています。 『戊辰役戦史』の著者でもありました。 間もなく三春藩は、磐城平民政局より、次のように命じられています。 『達 三春藩陸奥国安達郡本宮組、玉井組、杉田組、渋川組、信夫郡八丁目組、当今之内民政筋取締被仰付候事 磐城平民政局 御判』(二本松市史749P) これにより三春藩は、旧二本松領の半分をその支配下に置くことになったのです。 9月 3日:米沢藩、新政府軍に降伏。 9月12日:仙台藩降伏。 9月15日:福島藩降伏。 9月16日、会津進撃のため、中山口へ一小隊50名と三挺の大砲隊が派遣され た。 9月17日:山形、および上山藩降伏。 9月22日:会津藩降伏。三春兵は若松に着陣したが、すでに会津藩は降伏して おり、戦うことはなかった。 9月24日:盛岡藩降伏。 9月27日:庄内藩降伏。 この戦争の目標とされた会津藩の降伏が9月21日でしたが、奥羽越列藩同盟のリーダーの一つの米沢藩が18日前、仙台藩が9日前に降伏しています。この両藩が会津藩より先に降伏したということは、会庄同盟と奥羽越列藩同盟とが一体ではなかったということになるのではないでしょうか。そして会津藩降伏3日後に盛岡藩が降伏しています。そのような中で、会津藩降伏の6日後になって庄内藩が降伏していますが、これは庄内藩が会庄同盟に殉じたということになるのでしょうか。庄内藩は結果的には恭順したものの、最後まで自領に新政府軍の侵入を許しませんでした。なお戊辰戦争直前には、会津藩とともに、当時のプロイセンとの提携を模索していことが分かっています。(ウィキペディア・庄内藩より) 二本松市史742ページには、『一巳(明治2)二月九日、殿様御謹慎御免 三春より御引渡ニ相成』とありますが、これは二本松藩主の身柄が三春藩の監視下にあったということを示唆しているのでしょうか。 また明治二年、二本松丹羽氏は、半知五万石で家名存続が許されました。(二本松市史912ページ) 二本松藩は10万石でした。しかも二本松藩は、白河10万石も預かっていましたから、実質20万石であったということになります。幕政時代の命令系統は、10万石以上は幕府から直接、それ以下は10万石大名を通じてなされていました。ですから三春藩は、二本松藩を通じて連絡を受け取っていたと思われます。しかしこのことから、二本松(十万石)→三春(五万石)への命令もしくは連絡網について一つの疑問が発生します。それは『2:徳川慶喜追討援護令』で述べた列藩主招集の命令のことですが、これを三春藩が知って使者を上洛させているということは、二本松藩も知っていたはずです。しかし二本松市史にそのことの記載がないようなのです。二本松藩がなぜ列藩主招集の命令に応じなかったのか、その理由は不明です。 三春藩や守山藩より上の立場にあったと自負していた二本松藩。その二本松藩が藩主の身柄監視はもとより藩内の警備まで三春藩と守山藩に分割統治されるという、ある意味占領されたという恨みが、水戸藩と関係の深い守山藩を避け、『三春狐』に凝縮したのではないでしょうか。新政府軍が歌っていた歌は、次のようなものでした。 会津・桑名の腰抜け侍 二羽(丹羽)の兎はぴょんと跳ね 三春狐に騙された。 馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ 三春狐に騙された。 三春は長年にわたってこのように謗られ、高価な代償を払わされる結果となったのです。ブログランキングです。←ここにクリックを
2015.01.26
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三つの古関 江戸時代、奥羽三古関と言われたものに、勿来(菊多)関、白河関、鼠ヶ関(ねずがせき・山形県鶴岡市)がありました。鼠ヶ関が作られた年代は分かりませんが、大化3(647)年には渟足柵(ぬたりのき・新潟市中央区沼垂・ぬったれ?)が、翌、大化4年には磐舟柵(現在の新潟県村上市岩船の辺りと推測)が造られています。これらは、北東辺境における城柵として、日本書紀に見ることが出来ます。 この渟足柵は、養老年間(717〜723)に沼垂城として拡充され、史上最初の城柵とされています。しかし、渟足柵・沼垂城共に遺構は発見されていず、信濃川と阿賀野川の河口が沼地であったため、度重なる洪水により流されたものと考えられています。 白河関は、白雉元(650)年に作られたと言われ、その後の神亀5(728)年には白河軍団がつくられています。さらに神護景雲3(769)年には陸奥国大国造道嶋宿祢嶋足(みちしまのすくねしまたり)の申請によって何らかの功績を果たしたらしい者への賜姓付与が行われ、白河郡では丈部某と大伴部某がそれぞれ安倍陸奥臣および安倍会津臣を授かっています。また宝亀11(780)年12月27日 (旧暦)には陸奥鎮守府副将軍の百済王俊哲(しゅんてつ)が賊に囲まれ危機に瀕したのですが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとされています。 勿来関も白河関と同じ時期に作られたといわれていますが、いまのところ、和歌など文学作品以外の古代の史料に勿来関が見つかっていないことから、『奥羽三古関』は、勿来・白河・鼠ヶ関の三関を指していたのかどうかは不明とされています。勿来関が、奈良時代に蝦夷の南下を防ぐ目的で設置されたとする説については、『な来そ(勿来)』が『来るな』という意味であると考えられることからの付会、あるいは、他の関が軍事的に活用された事例の援用あるいは敷衍だと察せられています。しかしそれを、直截的に示す根拠は見つかっていません。 いずれにしても、3ヶ所しかないとされる3つ古関のうち、2つが福島県というのは興味深いことです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.10.06
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比止禰命(ひとねのみこと) 犬、猿、雉をお伴に鬼退治をした??桃太郎のおとぎ話があります。しかし歴史作家藤川桂介氏は、七代孝霊天皇第三皇子の吉備津彦命(きびつひこのみこと・桃太郎)が、十代崇神天皇の命により、戦いに敗れて吉備地方に逃れてきていた朝鮮の人々(鬼)を討たせた事実によると言われます。桃太郎は鬼ヶ島(香川県高松市女木(めぎ)島・瀬戸内海)から宝を奪って凱旋するのですが、宝とは朝鮮の人々が持っていた製鉄の技術であったとも考えられています。 日本書紀や古事記には、十二代景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)の九州での熊襲(くまそ)や東北での蝦夷(えみし)征圧が記述されています。この桃太郎の鬼も大和朝廷に『まつろわぬ鬼神(外国人=鬼)』とされたものと考えられています。日本神話は、日本武尊が竹水門(たかみかど・南相馬市)で投降した蝦夷を阿岐国(あきのくに・広島県安芸郡)に流したと伝えています。 この安芸と安積にはどのような関係があったのでしょうか? 国造(くにのみやつこ)は、天湯津彦命(あまのゆづひこのみこと)の5世孫である飽速玉命(あきはやたまのみこと)を阿岐国造(あきくにのみやつこ)に定めたことにはじまるとされています。また阿尺(あさかの・安積・郡山)国造(くにのみやつこ)の比止禰命は、この天湯津彦命の十世孫とされています。先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)や国造本紀(こくぞうほんぎ)によりますと、比止禰命が阿尺国造に任ぜられたのは十三代成務天皇(在位・131~190)の時代とされていますから、日本武尊の神話を含め、安積と安芸との古くからの関係が想像できます。しかも国造は兵馬の権限も有したそうですから、比止禰命が単身で阿尺に赴任したとは考え難く、鉄製の武器を持った兵士や馬、さらには、鉄製農具を持った農民家族の一団を引き連れて赴任して来たとも考えられます。 現在、西暦645年の『大化の改新』後に作られた陸奥国の国府の郡山遺跡が、いまの仙台市太白区に残されていますが神亀元(724)年、大和朝廷北進の拠点としてこの郡山から多賀城(宮城県多賀城市)に移されます。しかし安積の郡山は、仙台の郡山に国府が作られるまでの間、蝦夷と対峙する地域であったようです。さらに多賀城築城後も、郡山はその守備兵団の一隊となる『安積軍団』の本拠地になり、その兵站基地になっていったと推測されています。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.02.01
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虎丸長者 私たちの住んでいる郡山に、隠された埋蔵金があるというのですが、次のような話、皆さんもお聞きになったことがあると思います。そうです。虎丸長者の埋蔵金伝説です。いま郡山に虎丸町や長者がありますが、実際に、ここに虎丸長者が住んでいたかどうかは分かりません。しかし虎丸長者は、郡山に住んでいたと伝えられています。では虎丸長者とは、どのような人であったのでしょうか。その言い伝えから、探ってみました。 如宝寺の寺伝によりますと、郡山の有力者であった虎丸長者が都に上り、第51代・平城天皇より馬頭観音像を賜って帰郷した。大同二年(807年)、虎丸長者は、いまの郡山市中町に庵を結び、徳望が高かった笹久根上人を招いた。笹久根上人は馬頭観音像を守り本尊として観音堂を建立して壮大な伽藍を建て、楼閣には金銀を散りばめて壮観を極め、荘厳な開眼供養を行ったのが如宝寺のはじまり、と伝えられています。虎丸長者はこの如宝寺に、大きな金蔵や米蔵を置き、さらに郡山のあちこちに屋敷を構え、力持という所には米蔵を造り、現在の郡山商工会館周辺にあった皿沼では、下女が皿を洗っていたと伝えられています。ちなみに大同年間は天変地異の多い、不思議な年であったようです。仙台地方にも、『秋風や大同二年の跡を見ん』という句が残されているそうですが、何かこれと関係があるのでしょうか。意味は分かりません。 永保三年(1083年)、後三年の役の際、源義家、つまり八幡太郎義家が兵を率いて長者宮というところにさしかかりました。ところが夕方、ものすごい大雨になったので、八幡太郎は虎丸長者の大きな屋敷に一晩の宿を頼んだのですが、長者はこの申し出を断わってしまったのです。八幡太郎は、虎丸長者が何故断ったのかを密偵を入れて調べさせました。そして分かったことは、虎丸長者は、八幡太郎の敵である奥州の安倍氏に加担していたということでした。怒った八幡太郎は、虎丸長者の屋敷に火のついた矢を放ったのです。屋敷はたちまち火に包まれ、焼野の原と変わってしまいました。ところが八幡太郎に攻められると予測していた虎丸長者は、如宝寺の蔵から金などを運び出し、ある場所に埋めて隠して逃げてしまったのですが、後で隠し場所が分かるようにと書付を残しました。それが『黄金千杯米千杯、朝日さす夕日かがやく三つ葉うつ木の下にあり』というものでした。そののち焼け跡には、誰が書いたのか、この言葉が書かれた木の板が掲げられたと伝えられています。ところがこの虎丸長者伝説の噂を聞いた、二本松藩主の丹羽長国によって、如宝寺の敷地内で、埋蔵金の発掘調査が行われたのです。しかし、出てきたのは埋蔵金ではなく、大量の焼米だけだったそうです。このような言い伝えは、日本における他の埋蔵金伝説の類型と、まったく同じ内容となっています。なお郡山市内には、虎丸、長者などの町の名が残っていますが、市役所のある朝日は、市役所がここに移転した頃に付けられたものですから、虎丸長者の伝説とは関係がないことになります。 この虎丸長者の伝説と同じような話が、今の二本松市に残されています。二本松市字長者宮に居を構えていた米長者は、八幡太郎への供応を拒んだために滅ぼされたというものです。このあたりは、郡山の虎丸長者伝説とまったく同じです。なお、福島民報・昭和五十二年一月二十六日の地名の由来によりますと、『郡山を追われた虎丸長者は、二本松市杉田に移ったのではないか、とも言われている』とあります。財宝は、いまの二本松市字郡山台に埋めたとされており、こちらも実際に、二本松藩主丹羽長国が、幕末に探索したとの記録が残されているそうです。丹羽長国は『黄金千杯 漆千杯 朝日さし 夕日輝く木の下にあり』という話を信じ、杉田村の農民多数を使って長者宮の土地を掘ったのですが、厚さ十センチ程の焼き米が多量に出土しただけで、何もなかったとのことです。それにしても焼き米が出土したということは、実際に火事があったという証拠になります。それにしても、郡山の虎丸長者も二本松の米長者も、大規模な火災に遭っているようなのです。この共通した事実から、似たような伝説になったと思われます。 日本における長者伝説は、別名『朝日夕日伝説』とも言われます。長者、豪族の屋敷跡に黄金を埋めたという伝説で、多くはその財宝のありかを『朝日さし 夕日輝くそのもとに 黄金千杯朱瓦万杯』などの口伝えの歌をもって示唆する類型のものがほとんどです。また長者が田植の際に時間が足りずに扇で日を招き返したために、罰があたって没落した、または死んだというような話を伴っているのも特徴的です。これは稲作における太陽信仰の存在を考えさせられます
2022.11.20
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第四章 束 の 間 の 平 和 青 い 目 の 人 形 奈知江常は、日本に一時帰国をした。そして身辺整理を終えると、老齢にもかかわらず再びハワイに戻ってきた。彼女はその身を末日聖徒イエス・キリスト教会に捧げ、この地に骨を埋める覚悟であった。彼女もまた、日米の架け橋たらんとしていた。 これらの努力にもかかわらず、高まる日米関係の悪化を憂慮したアメリカ人宣教師のシドニー・ギューリックは、「日本文化や日本人を理解してもらおう」との主旨でアメリカの人形を日本に贈ることを思い立ち、市民カンパをはじめた。主旨に賛同した多くの市民のカンパにより約一万三〇〇〇体の人形が出来上がり、それに洋服を着せて名を付け、パスポートを付して日本に送った。日本側は外務省の依頼により、渋沢栄一が窓口となって翌年三月、全国の小学校に贈呈した。 昭和二(一九二七)年、日本は金融恐慌の中にあった。この不況の中で、ハワイでも左派の刊行物が一斉に登場した。沖縄県出身のギンジロウ・アラシロ、山口県出身のジャック・キモト、そして福島県出身者の経営する本屋が、その販売の舞台となった。これら定期刊行物の寿命は短かったが、いずれも対象を知識人に限らず、分かり易い文体で労働者階級の国際的連帯を強調していた。 日本では大正天皇の御大葬もあって暗いムードに覆われていたが、このギューリックによる青い目の人形の贈呈運動は一服の清涼剤となった。 野口雨情が作詞し、本居長世が作曲した青い目の人形の歌は、この運動に関連して爆発的に流行した。 青い目の人形 青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセールロイド 日本の港に着いたとき いっぱい涙を浮かべてた 私は言葉が分からない 迷子になったらなんとしょう 優しい日本の嬢ちゃんや 仲よく遊んでやーとくれ 仲よく遊んでやーとくれ このシドニー・ギューリックの好意に対して日本側も市民カンパを行い、六大都市名、一道三府四十三県名、樺太、台湾、朝鮮それに皇室の名にミスを冠し、約五十体の日本人形をアメリカに贈った。市民レベルでの友好関係が一挙に高まった。 この日本人形はまだ準州であったハワイには贈られなかったが、アメリカという国に贈られたということで、日系人小学生たちが歓迎のためこの歌を歌う会が開かれた。そのとき、この歌の流れる会場から、すすり泣きの声が漏れた。ハワイに住んでいる自分たちの身に重ね合わせ、郷愁の情が溢れ出たのである。富造は歌う会の主催者の一人として舞台の上に居たが、自分が子供のときに通った三春小学校にも一体、贈られたことを知っていた。感情の高ぶりを押さえようもなかった。富造は大きな声で、おいおいと泣きだしたのである。もはや誰もが、自分の感情を押さえることができなかった。会場は感激の嗚咽で満たされていた。「日本とアメリカは仲よくなった。われわれもここの社会にとけ込める。日本はアメリカに受け入れられた。これは素晴らしいことだ」 その思いが会場を包んでいた。(福島県立博物館企画展にて。左 バーニス・マスカーチン[郡山市立守山小学校所蔵]右 福島絹子[アメリカを代表する日本人形研究家 アラン・ペイト氏所蔵]) 一九二二年三月二十六日、ホノルル市ワイキキ塩湯の勇公方において草分け同胞の親睦会を催したことがあったが、結局その後、この会合は開かれないでいた。しかし青い目の人形の親善ムードがきっかけとなって、元年者の偉業をたたえる「明治元年渡航者之碑」が五年後のこの年に、ホノルル市マキキ墓地内の小高い地に建立されることになった。相賀安太郎によると、この碑が建立されるに至ったいきさつには、次のような事情があった。ハワイ日本人移民史より転載する。 元年者及びそれに続く第一回船同胞のハワイに渡来して以来、 各島耕地及びホノルルの墓地には、年月を経ると共に、いつとな く誰訪う人もなき無縁塚が多くなってきた。せめて元年渡航者の 記念碑を建立し、二世以下の子孫のため、後世に伝えたいとの希 望が有志の間に起こっていた。 元年者の一人である吉田勝三郎翁が一九二五年十二月に死去し、 その一周忌の前後から、右の記念碑の建立が実現のはこびとなり、 そのための委員会が発足することになった。委員には、喜多鶴松、 喜多捨松、本庄大二、三樹七之輔、黒田重三郎、勝沼富造、古川 茂生、相賀安太郎の各氏が選ばれた。これらの諸氏は、一九二七 年二月に日布時事社に集まって碑の建立についての打ち合せ会を 開きその設立にとりかかった。こうした有志の働きは各方面から 多大の賛同を寄せられ、ついに元年者の遣業をたたえる「明治元 年渡航者之碑」の完成をみたのである。 一九二七年(昭和二年)五月八日午前十時、およそ六十名の参 加者を得て、記念碑の除幕式を厳粛のうちにも盛大に行なわれた。 式の模様を相賀安太郎氏は、初めに司会者たる筆者(注、相賀安 太郎)の挨拶と報告に続き、当日特に列席せる元年者中の生存者 九十四歳の石井仙太郎翁(注、明治元年以前の渡航著で本当の元 年者ではない)と、八十九歳の棚川半造翁両人の手にて除幕式を 行い、出雲大社宮司宮王、三上両氏の祭式、一同の玉くし捧呈を 終り、勝沼ドクトル、桑島総額事、原田博士の所感談後、石井、 棚川両翁へ各コァ製ステッキを贈呈し、石井翁より感慨無量なる 謝辞があり、式終って参列者一同碑前にて記念の撮影を為した。 この記念碑は約一トンもある自然石で、オアフ島ハレイワ大正学校内より掘り出されたものを譲り受けたという。碑面の文字「明治元年渡航者之碑」は総領事桑島主計の筆によるものであった。また碑の台石には日本語の碑文が銅版に刻まれており、碑銘のすぐ下には英語による碑文が同じく銅板に彫刻されてはめ込まれた。碑文は相賀安太郎の手になるもので、その英訳は日布時事英文編集長であった丸山信治が任に当たった。相賀氏の起草による碑文は次のとおりである。 明治元年渡航者之碑 今より約六十年の前明治元年即ち西暦一八六八年に、日本人百 五十余名が母国より布哇へ渡航して来た。それより以前にも時々 日本からの漂流民があったが、一団となって渡航したのは、此の 時が最初であった。此の一団は「元年者」と称せられ、その内一 部の者が帰国したのみで、多くは既に布哇の土と化し、最近数年 間にも其の生存者の中吉田勝三郎翁(七十九歳)は一九二五年十 二月ホノルルにて死亡し、佐久間米吉翁(八十八歳)は、本年三 月加哇島リフユにて永眠し、現存者は石井仙太郎翁(九十四歳)、 棚田半造翁(八十九歳)の二名に遇ぎない。此等元年者の渡航以 来、布哇と日本の関係は極めて密接となり、今日に於て日本人の 人口約十三万に達せんとしている。亦以て共の一班を察するに足 る。我等在留民有志が茲に此の碑を建設する所以のもの、全く是 れ布哇同胞の草分けである元年者諸氏を永久に記念すると共に、 長く此の地の日系市民の為、其の父祖及び先進の努力の跡を偲ば しめ、同時に亦布哇の国土に対する報恩の念を忘れしめぬ為であ る。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.06.14
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天 皇 家 と 三 春 駒 昔から日本にいた馬のことを、在来馬と言います。日本の在来馬は、古墳時代にモンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された小形の馬とされています。現在「道産子」「木曽馬」「野間馬」「対州馬」「トカラ馬」「御崎馬」「宮古馬」「与那国馬」の八種類がいますがその数は減少しています。しかしこれ以外にも、三春駒や南部馬、三河馬、甲斐駒など絶滅してしまった在来馬も少なくありません。これら在来馬の特徴は体高が低く馬体重も軽いのですが、辛抱強く雑食性であるという特徴がありました。 日本の在来馬は、古墳時代にモンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された小形の馬とされます。純血種が絶滅してしまった在来馬には三春駒、南部馬など9種ありますが、純血種に近い野間馬(愛媛県)など8種の馬が日本在来馬として保護されています。西洋の馬が輸入されるまで三春駒は南部駒とともに有名な馬でした。 古来三春は馬の産地でしたが、産業にまで育ったのは、三代藩主秋田輝季(1649〜1720年)の時代です。輝季が領内で産した七歳馬を四代将軍家綱へ献上して以来、参勤交代の度に三春駒を献上して全国に知られるようになりました。その後、三春藩では仙台や南部藩から良馬を買い付けてかけ合わせて馬の名産地となったのです。江戸時代の後期から近代にかけて、田村地方産の馬は名馬も多く三春駒と呼ばれました。 天保9(1838)年に書かれた臼杵藩(大分県)江戸藩邸日記に、『秋田様御国ニて出来候由三春木馬、此度左衛門尉様御手ニ被為入候由、右ハ左衛門尉様より御奥様ヘ被進候』とあります。ここに出てくる左衛門尉は、中津藩(大分県)前藩主奥平昌高のことで、臼杵藩主稲葉幾通正室の父親になります。この記事から、父親が娘に三春木馬(三春駒)を贈ったことが分かり、三春駒が江戸で販売されるなどしていたことがうかがえ、同時にそれが贈答品として意識されていたことが知られます。 明治初期に日本を訪れた欧米人たちは、日本の在来馬が世界で最も進化していない馬であるということで本国に持ち帰ったという逸話もあります。しかし明治政府が、「富国強兵政策」の一環として軍馬や農耕馬を強くするために外来種を輸入し、品種の改良を行ったことも在来馬の数を激減させた理由の一つでした。それでもかろうじて残った在来馬は、離島や岬の先端など交通が不便な所に前述した八種類だけが残ったのです。 三春駒は絶滅してしまったので、どのような特徴のある馬であったかは分かりませんが、大正4年5月1日の中外商業新報によりますと、『三春藩時代に於ては日暮、花月等の名馬を産し明治時代に在ては夫の御料乗馬たりし友鶴、旭日等のごとき・・・』とあります。三春駒の友鶴、旭日の二頭が明治天皇の、また繰糸号が明治天皇皇后の、さらに第二関本号が大正天皇の御料馬であったということに驚かされます。これは田村郡から献上された三春駒の在来馬であったといわれていますが、いずれにせよこれらの馬の調教師は、白沢村(本宮市)の佐藤庄助氏であったそうです。 私は子どもの頃から、三春大神宮の境内に等身大の白馬の像のあることを知っていましたので、これは明治天皇に献納した三春駒の記念の像かと思っていました。しかし調べてみると、三春藩駒奉行徳田研山の指導で、石森村の仏師伊東光運が制作したものと分かり、時代も古く、天皇家に献納した馬とは無関係なようでした。 第二次大戦後、軍馬の需要は無くなり、また農業の機械化によって馬のそのものの需要が激減しました。しかしその後も、田村郡では競走馬の生産が続けられ、小野町のトウコウエルザや桑折町の天皇賞・宝塚記念・菊花賞を制したビワハヤヒデが誕生しました。現在、福島原発よる事故の放射能に追われ、全村避難となっている双葉郡葛尾村(旧三春藩領)でも、多くの競走馬が飼われていましたが、近世以来の馬作りの伝統が、福島産の馬の活躍にもつながったと思われます。 三春駒は、現在郷土玩具として、郡山市西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られています。その発祥の伝説は、田村麻呂が奥州征伐の時、京都清水寺の僧・延鎮が小さい駒の木像を100体作って贈ったところ、戦場で苦戦を強いられていたとき、どこからともなく100人の騎馬隊が現れて敵を倒し、去っていきました。その後、村人がそこで汗びっしょりの木彫の駒を1ヶ見つけて家に持ち帰り、それと同じく作ったのが三春駒で、それで遊ぶと子は健やかに成長し、子供のない人は子宝に恵まれると伝えられているものです。大正期に現在の形ができ、直線と面を活かした巧みな馬体と洗練された描彩は、日本三大駒の随一として定評があります。馬産地として日々の生活から人と馬との絆が、この木馬を生み出したのかも知れません。 三春駒は、日本で最初の年賀切手に採用された民芸品です。工芸品だけで生きた馬の姿は見ることができなくなってしまいましたが、田村地域が馬の産地であったことは記憶に残しておきたいものです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.06.01
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木地師 つい最近、郡山市湖南町三代字中ノ入の集落に、小椋(おぐら)姓の人々の住む集落のあることを知りました。教えてくれた知人によると、ここは元『岩代木地山(いわしろきんじやま)』とも呼ばれていて、天明六年(1786)に移住してきた木地師の集落であったという。これを聞いた当初、私はこの姓を『おぐら』とは読めませんでした。現在ここで、木地挽きは行われておりませんが、昭和7〜8年頃までは二人挽きの轆轤(ろくろ)を使って、食器や菓子器などを作っていたといわれます。木地師とは木材を削って鉢や盆などの木製品を作る人たちで、中世には、山中に原材を求めて山から山へと渡り歩いた漂泊の山人でした。今はタバコや椎茸、米作等を主な生業としているそうです。戸数160戸のほとんどが小椋姓ですが、平井、藤田姓の方も若干居られるとのことです。(小椋四郎氏・80歳談) 知人が持参した文書には、その由来が書いてありました。地図で調べてみると、その集落に大皇(おおきみ)神社があったのです。しかしその由来書が、その神社のものであったかどうかは分からないそうです。『大皇』という神社名が気になって聞いてみると、「その昔、天皇になるべくしてなれなかった惟尊親王(これたかしんのう)が祀られている」と教えられたのです。その神社入口の鳥居には大皇神社の扁額がかけられており、社殿の中には、惟尊親王夫妻の像が安置されているそうです。惟尊親王は木地師の祖とも言われ、木地師が用いる手挽轆轤を発明したと言われています。なお惟尊の『尊』の字は、『喬』や『高』が使われることもあります。ここでは、『喬』の字を統一して記述します。 惟喬親王(承和十一・844年〜寛平九・897年)は、55代文徳天皇の第一皇子で、母は紀名虎(きのなとら)の娘の紀静子でした。文徳天皇は聡明で人望の厚い惟喬親王に皇位を継がそうとしたのですが、実現できませんでした。太政大臣藤原良房の娘の藤原明子との間に、第四皇子惟仁親王(これひとしんのう)が生まれたからです。藤原氏の絶大な勢力を背景にして惟仁親王が皇太子となり、後に56代清和天皇として即位します。すでに弱小化していた紀氏の血を引く惟喬親王は、排斥されてしまったのです。惟喬親王は太宰師、弾正尹、常陸守、上野守などを歴任しましたが28歳の時出家し、藤原氏から差し向けられた刺客を逃れて、近江の愛知川(えちがわ)上流に沿う小椋谷(滋賀県東近江市)に幽居したのです。ここで惟喬親王は巻物の紐から轆轤の技法を思いつき、周辺に住む杣人(そまびと・(林業従事者)に伝授したというのです。この轆轤の技法を知ることで、椀などの製作が正確にしかも早く出来るようになったと言われます。 その後小椋谷を出られた惟喬親王は、洛北の大原、雲ヶ畑、二ノ瀬、小野郷などに隠棲されたので、人々は『小野の宮』と呼びました。寛平九年、惟喬親王は53歳で薨去されました。この悲運の惟喬親王の足跡を辿り、今も各地の木地師の末裔たちにより、惟喬親王伝説が語り継がれています。 惟喬親王は、伊勢物語にまつわる親王としても知られています。伊勢物語の第八十二段には、在原業平が惟喬親王と共に水無瀬の離宮から交野原に遊び、『渚の院』に至って桜を愛で、「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」という歌を詠む話が記されており、八十三段には、雪の中、比叡山麓の小野の郷に親王を訪ねる話が載せられています。物語の主人公とされる在原業平は惟喬親王とは義理の従兄弟であり、父は五十一代平城天皇の第一皇子の阿保親王(あぼしんのう)でした。 いまも小椋谷では、君ヶ畑、蛭谷、箕川、政所、九居瀬、黄和田の6集落が残されて小椋谷六ヶ畑と呼ばれており、そのほかにも高松御所、公文所、筒井千軒などの地名が残されています。この筒井千軒は今でこそ廃村同様となっていますが、かって多くの木地師たちが住んでいた集落の跡と言われ、君ヶ畑の『君』は、惟喬親王を指すと言われています。また小椋谷は、時の随臣 小椋大臣に由来する地名とも考えられています。そしてこの近くには、渡来人の泰氏を表す『泰(はた)』という地名もあることから、恐らく泰氏が持っていた轆轤の技術を知り、単なる杣人から木地師へ変えたと思われます。木地師たちは惟喬親王から直接技術を伝授されたことに誇りを感じたことから、『惟喬親王轆轤発明説』になったのではないでしょうか。 小椋谷の金龍寺は、高松御所が惟喬親王の御所であったとして親王の木像とされるものを伝え、全国の木地師たちの総名簿である氏子狩帳を蔵しています。そして君ヶ畑の皇太器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)には、惟喬親王が祀られています。各地の木地師たちは惟喬親王の随身従者の末裔と称し、木地屋文書といわれる由緒書や惟喬親王より与えられたとする渚役御免の論旨を所有し、墓には皇室の紋である菊に水紋を加えた紋を使っていたという。そして小椋谷の木地師の本家は、皇太器地祖神社に設けられた公文所を核にして、各地に散って行った木地師たちを統括していました。そのために全国の木地師たちの戸口調査を行い、登録させることで免許を与えて上納金を徴収し、巧みに彼らを支配してきたのです。しかしその一方で本家は彼らの面倒を見たり相談に乗っており、お互いに持ちつ持たれつの関係にあったのです。 石川県加賀市山中温泉真砂(まさご)地区は、惟喬親王を奉じる平家の落人の集落と伝わっています。ここは惟喬親王の御綸旨で森林の伐採を許された木地師たちの集落となり、山中漆器の源となったとされています。天正元年(1573)の一乗寺の戦い以後朝倉氏の庇護もなくなり、一部の木地師たちは新天地を求めて飛騨(岐阜県北部)や近江に散って行ったとされます。木地師はプライドの高い職人ですから、彼らが惟喬親王を奉じ平家を出自とする伝承は、職能民独特の機貴種流離譚の一つと言われています。彼らは小椋の姓を名乗って全国の産地に進出し、千年以上も続く歴史を連綿と語って今に続いているのです。 木地師や塗部たち技術者の出身地を探していくと、小椋谷に辿り着きます。木地師は日本の中で、唯一その出自が明確な人たちです。木を扱う由に山に篭り、そのほとんどに他の血が交わらなかったことがあると思われます。しかし全国に散らばった理由は、材木と漆の枯渇によるものでした。そしてその散った経路は、少なくとも6つあると言われます。なぜそれが分かるかと言うと、どこからどう移動したかということを明確にするように、一子相伝してきたからです。木地師たちは差別されて山に入ったのではなく、使用する木材や漆が深い山中にしかなかったから山に入ったのです。すべての木地師たちは、故郷を小椋谷としていました。 1:小椋谷 → 大和 → 紀州・熊野(紀州塗 根来塗) → 四国 → 邪馬渓・久住山 → 祖母山・竹田 → 高千穂町→椎葉村 → 人吉(雉車) 2:小椋谷 → 伊勢 → 三河 → 上野・下野 3:小椋谷 → 美濃 → 飛騨高山 → 木曽(春慶塗) 4:小椋谷 → 若狭(若狭塗) → 越前 → 加賀 → 輪島(輪島塗) 5:小椋谷 → 丹波 → 但馬 → 因幡 → 伯耆 6:小椋谷→ 大和 → 備中 → 備後 → 出雲 → 石見 → 安芸 → 周防 → 長門 山城国(京都府)に、小野という地が三ヶ所あります。一つは葛野郡(くずのぐん)小野、二つ目は愛宕郡(おたぎぐん)小野、ここに惟喬親王が隠棲しています。三つ目は宇治郡の小野です。宇治郡の小野は『山科の小野』とも言われ、小野小町の伝説を伝える随心院のある所です。ちなみに小野小町伝説のある小野町には、これに類する伝説はありませんでした。惟喬親王が住んでいたのは山城国でしたが、惟喬親王を近江小野氏と結びつける思考が生まれたのです。小椋谷の木地師たちの間にも、自らの始祖を小野氏より高貴な皇族である惟喬親王に求めるようになったのです。 惟喬親王に仕えていた木地師の一人が、『君ヶ畑』から良材に恵まれた春日(岐阜県揖斐川町・えびがわちょう)の地へやってきました。そこで彼は珍しい石を見つけて、歌を詠んだのです。『さざれ石』です。彼はそれを見たまま感じたまま歌に託したのだそうです。『さざれ石』とは実際に春日にある天然記念物の石なのです。君が代の歌詞をみていくと、『さざれ石の巌となりて』となっていますが、小さな石が大きくなることが本当にあるのかと思われるかも知れません。しかし春日にある『さざれ石』の成分は炭酸カルシウムや水酸化鉄によるもので、これら小さな石と石の間にこの成分が溶けて固化することにより石同士がつながり、やがて大きなものになっていくというのです。 この木地師は位が低かったために「詠み人知らず」として扱われるのですが、この歌が京の都で評判を呼び、朝廷に認められて勅撰和歌集の『古今集』に採録されたことから、『さざれ石』にちなみ、藤原朝臣石位左衛門(ふじわらのあそんいしいざえもん)の名を賜ったのです。記録によれば、石位左衛門が没したのは天徳元年(1004)ですが、春日には藤原姓は百戸以上あり、現在も子孫の方は健在だそうです。 わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔の生すまで 後に、最初の『わが君は』の部分が『君が代は』に変わるのですが、『わが君』とは惟喬親王を賛(たた)えたものと思われます。 天正十八(1590)年、蒲生氏郷は会津に封じられましたが、このとき小椋谷から、木地師たちを呼び寄せました。この木地を使ったものが、会津塗のはじめとなったのです。湖南町の小椋姓の人々の伝承では、天明六(1786)年に移住したと伝えています。明治初期までは、木地師たちは全国各地で朝廷・幕府の許可を受けた良質な材木を求めて、20〜30年単位で山中を移住していたといわれます。 明治になって、全国に散っている木地師たちも定住を余儀なくされ、原材料の木材産出地が国有化されるに及んで転廃業する人たちが続出し、木地師社会も激変しました。また会津美里町土倉に入山した木地師たちはブナを伐り尽くし、北海道に移住したそうです。(東瀬絃一氏)それでも『おぐら』を名乗る木地師の末裔たちは、近江の小椋谷が、今も誇り高い心の故郷だと言います。現在、『小椋』を姓とする全ての人が、木地師の末裔だというわけではないでしょうが、『おぐら』という姓自体には、こうした深い意味があったのです。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.12.01
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蝦夷とアイヌとマタギ 中世以降、日本人は北海道を蝦夷地と称してきました。そのため北海道に住むアイヌ人を蝦夷人の直系と考える人も多いのですが、現在では蝦夷人は絶滅し、アイヌ人とは別の人種であったとされています。この頃から狩猟で生活をしていた人たちの中に、マタギといわれる人たちがいました。マタギには又鬼(またぎ)、狐、秋、級剥、猫人などの漢字をあてていました。 ところで、蝦夷とアイヌとマタギの間に、熊祭りなど文化や風俗習慣に似たところがあり、またマタギが使う山言葉(山に入ったときだけに使う言葉)にはアイヌ語と共通するところがあったと言われます。 マタギにはその地名を冠して○○マタギなどと言われましたが、主なものに次のような集団がありました。 青森県 西目屋 岩坂 岩手県 沢内 宮城県 仙台 秋田県 阿仁 根子 笑内 打当 戸沢 山形県 大鳥 五味沢 長者原 小国。 福島県 檜枝岐 只見 新潟県 三面 長野 秋山郷 しかしこうしてみると、不思議に東北地方や新潟県に限定? されるのですが、これは陸奥、つまりは蝦夷と関連するのでしょうか。これらのマタギは、昭和10年の頃からライフルなどの武器を使うようになり、団体の狩猟から個人に変化してマタギという集団自体が消滅していきました。 さて豊臣秀吉の奥州仕置で領地を没収された三春・田村宗顕(伊達政宗の 正室 愛姫の従弟)の次男は仙台で愛姫に育てられ、男猿(おさる)と名付けられました。命名式には政宗夫妻と片倉小十郎などの重臣が出席しているのですが、彼は、仙台マタギ(青葉流)の元祖とされています。 通常マタギは里に住んで農作業などを行い数名が一組で狩りをするのに対し、男猿は勢子2500名を引き連れ、実働三日間で獲物3100余頭といいますから、軍隊と言ってもよく、その流派とともに、異質なマタギであったといえるでしょう。 男猿が統率していたマタギの集団がその鉄砲の技量を生かし、時に応じて伊達軍の鉄砲隊としても活躍したそうです。特に天正17年の(猪苗代)摺上原の戦いでは、会津の蘆名義広を破った伊達軍の急先鋒を努めたと言われています。参考文献1997 仙台マタギ鹿狩りの話 毛利総七郎・只野淳 慶友社ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.10.16
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小野猿丸大夫(おののさるまるたいふ) 小野猿丸大夫は、元明天皇の時代(661〜721)、または元慶年間頃(877〜885)に実在していたと考えられている伝説的な歌人である。しかし生没年が不明なこともあって、その実在は疑問視されている。ところがその出自については諸説があり、山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、天武天皇の子の弓削皇子とする説や道鏡説など華麗なものがある。 小倉百人一首の中に、『おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき』という歌がある。この歌は、三十六歌仙の一人で『古今和歌集』の『真名序(漢文の序)』の中にその名のある猿丸の作と伝えられているが、彼の実作と信じられるものは一首もないという。これもまた、彼の非実在説を補強するものとも思われるが、この真名序には、六歌仙の一人である大友黒主について、「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(つぎて)なり」と述べられていることから、少なくとも『古今和歌集』が撰ばれた頃には、それ以前の時代の人物として知られていたものと思われている。それにしてもその名とともに、不思議な有名人である。 ところでこの猿丸という名であるが、どうやら命名の理由はその容貌にあったらしく、まるで猿のような顔で大変見苦しいものであったからだという。しかし猿丸という名が公的史料にまったく登場しないことから、これは本名ではないとする考え方もあるようである。いずれにせよ猿丸は、伝説上の人物という説が濃厚なのである。それにはこの人物、おとぎ話とでも言えるような話にも出てくるからであろう。 『二荒山神伝』によると、下野国(栃木県)二荒山の男体権現と女体権現が合祀された日光権現と、上野国(群馬県)の赤城大明神が互いに接する神域に接する中禅寺湖をどちらのものにするかについて度々争った。しかしなかなか決着がつかなかったので、日光権現は鹿嶋大明神を呼んで、この事について相談した。すると鹿嶋大明神は、「あなたの孫に陸奥国小野郷に住んでいる猿丸という弓の名人がいるから、彼を頼みにしてはどうか」と言った。そこで女体権現が姿を鹿に変え、陸奥の熱借山(阿津賀志山)へ行って猿丸を見つけたが、猿丸は鹿の姿の女体権現を見てよい獲物がいたと、そのあとを追っていった。女体権現は猿丸を日光山まで誘い入れると姿を消し、代わって日光権現が現れ、猿丸に次のように言った。「自分は満願権現(日光権現の別号)である。上野国の赤城大明神が、わが国の下野の湖や山を奪おうとしているので、汝は弓においては天下無双の聞えあれば、我らに力を貸してはくれないか」と。猿丸はこれを了承した。 いよいよ決戦の日、日光権現は大蛇の姿となり、その従える神兵は雲霞のごとく飛び出す中で、猿丸は櫓を立て、その上から敵が来るのを待ち構えていた。すると湖に、大きな百足に姿を変えた赤城大明神が現れる。猿丸はその百足めがけて矢を射ると、矢は百足の左目に命中した。百足はそのまま退散し、戦いは日光権現が勝利した。 日光権現は猿丸の働きを喜び、「汝の働きでこの国を守ることが出来た。汝はそもそもわが孫に当たるから、今からこの国を汝に譲る。わが子太郎大明神(馬頭御前)とともにこの山の麓の人々を助け守るがよい。そして汝をこの山の神主としよう」と言ったので、猿丸は喜びのあまりに舞い踊り歌を唄った。それで湖の南の岸をうたの浜(歌ヶ浜)と言うのである。 これにより猿と鹿は日光での居住権を得、猿丸は宇都宮明神となったという。また民間伝承によると、猿丸を二荒山神社の神職・小野氏の祖であるとする説などもあるという。この鹿島明神の使い番の鹿がモデルとなって、冒頭の歌が作られたのかも知れない。また『日光山縁起』にも、同様の伝承が記されているという。 さて、ここに出てくる陸奥国小野郷とは、どこなのであろうか。猿丸が本拠としたのは、現在の伊達郡の熱借山(阿津賀志山か?)であったとされるが、この以外にも、田村郡小野町や南会津郡下郷町の小野岳、さらには秋田県雄勝町大字小野などが挙げられている。しかしここに伊達郡の阿津賀志山という名が出てくることから、その地理的関係から考えてみても田村郡小野町が距離としても一番近く、小野町が妥当と思えるのだがどうであろうか。いずれにせよ、猿丸が伝説上の人物であるかも知れないとしても、これほどの英雄である猿丸についての言い伝えなどの類が、現在の小野町には一切残されていないようである。なお哲学者の梅原猛氏は、著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で、柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物であるとの仮説を示しているが、これにも有力な根拠は無いという。 これらの例のように猿丸に関する伝説は各地にあるが、そのうちの一つが小野町かも知れないというのが、興味を引く。なお、猿丸大夫の大夫とは、五位以上の官位を得ている者の称である。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.07.16
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支倉六右衛門常長 慶長六年(1601)、仙台藩主伊達政宗は米沢から岩出山(宮城県大崎市)を経て仙台に本拠地を移して城下町を整備し、新田開発に力を入れるなど、仙台藩62万石の基礎を築きました。そして慶長十八年(1613)、政宗の命により、サン・ファン・バウティスタ号が、現在の宮城県石巻市雄勝町水浜で建造されました。サン・ファン・バウティスタ号の建造日数45日、造船工のべ800人、鍛冶のべ700人、大工のべ3000人で、排水量は500トン、全長55メートル、最大幅は11メートルでした。進水後、『サン・ファン・バウティスタ号』は月浦(つきのうら、現・宮城県石巻市月浦)へ回航され、最終的な艤装が施されました。この船は、スペイン風ガレオン船(南蛮船)の様式を取っていました 政宗が遣欧使節を送った目的は、仙台領内でのキリスト教の布教容認と引き換えに、スペイン領であったメキシコとの直接貿易の他に、スペインとの軍事同盟があり、さらにはそれを利用しての倒幕の意思があったとの説もあるのです。しかし政宗は、メキシコとの貿易を望む幕府側とも連絡をとり合っていたことから、幕府も認めた正式な外交使節団であったことになります。『伊達貞山治家(じけ)記録』によれば、この船の建造に関して将軍秀忠付きの船手頭向井忠勝から公儀大工が派遣されており、『政宗君記録引証記』では向井忠勝から日本商品が二、三百個が託され、航海安全を祈る書状及び祈祷札が届けられています。さらに秀忠から政宗に種々の土産が送られ、船頭が添えられていました。 使節に支倉常長が選ばれたのは、文禄の役の際の外洋渡航や異国滞在の経験が尊重され、鉄砲組、足軽組頭としての経験から一行を統率する能力があると評価されたためと言われていますが、失敗したときの影響を考えて上級の家臣ではない常長が選ばれたとの説もあります。 慶長十八年(1613)十月二十八日、支倉常長の一行は、スペイン領メキシコのアカプルコを目指して、月浦から出航しました。乗員180名、侍十二名、日本人商人、水夫、家来あわせて120名、スペイン人、ポルトガル人が40名。ルイス・ソテロとセバスティアン・ビスカイノが便乗しています。航海は北太平洋海流に乗って東に進み、3ヶ月でアカプルコに到着しました。そこから支倉とソテロは、スペインへ向かいました。 支倉の一行は、世界最大の植民地帝国であり、ポルトガル王を兼任していたスペイン国王フェリペ3世にマドリードの王宮で謁見、さらにローマに入り教皇パウロ5世に拝謁しました。しかし、支倉が遣欧後に決定された幕府のキリスト教弾圧などがフェリペ3世などに知られたことから目的を達することが出来ず、支倉一行は窮地に立たされたのです。そこで支倉は、その劣勢を挽回するために、教皇パウロ5世と再び謁見することを計画しました。支倉一行は、すでにローマで、名誉ある「ローマ入市式」を行うなどの大歓迎を受け、支倉常長はローマ市民権を与えられ、さらに貴族に叙されていたのです。支倉らはパウロ5世と謁見し、スペインとの外交交渉の助力を頼みました。教皇パウロ5世の支持を得た支倉一行は再びスペインのマドリードを訪れ、フェリペ3世と外交交渉を行いました。しかし結果的に、この外交交渉は失敗に終わったのです。 一年三ヶ月の停泊後の慶長二十年(1615)四月二十八日、スペイン国王の使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父や仙台地域の鉱山産業の発展の為に約50人の鉱山業の専門家を乗せてアカプルコを出航しました。船はフィリピンの東方に達し、ここから黒潮に乗って北上、この年の閏六月二十一日、三ヶ月半の航海で浦賀に到着しました。 元和二年六月二十日、サン・ファン・バウティスタ号はルイス・ソテロの要求で、再びアカプルコを目指して浦賀を出航しました。しかしその航海中に、悪天候などで約100名の水夫が亡くなりましたが、元和三年(1617)一月十八日、カリフォルニアのロス・モリネスに到着し、その後、アカプルコへ向けて航行しました。 元和四年(1618)三月三日、支倉はソテロと日本へ帰るためメキシコで再会し、四月二日にアカプルコを出航、この年の八月十日、フィリピンのマニラに戻って来ました。ところがそこで、オランダとの戦いのため防衛を固めていたスペイン軍へ、サン・ファン・バウティスタ号の売却を余儀なくされ、スペイン戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったとされるのですが、その後の消息は不明です。 支倉以下の使節団は、約二年間マニラに滞在した後、別の船で、元和六年(1620)8月下旬、長崎へ到着、丸7年振りに仙台へ帰国したのです。しかし支倉が帰還した日本では、大々的なキリシタン弾圧が始まっていました。これらの迫害により、仙台藩が進めていたスペイン、メキシコ、フィリピン、そして欧州諸国との貿易協定は、調印されることがありませんでした。支倉常長は、帰国の2年後に、失意のうちに病死しました。彼の墓は、仙台市の光明寺にあります。ところが常長の息子の家来がキリシタンであったため、それが原因となって支倉家は、一時お家断絶の憂き目を見ています。この事実から、常長はキリスト教の信仰を生涯守り続けた、と言われています。洗礼名は、ドン・フィリッポ・フランシスコでした この支倉常長の祖とみられる陸奥の小野氏の発祥地と考えられているのが、柴田郡小野郷(宮城県)です。この地域は、名取川の上流・碁石川及び支倉川の流域の川崎町からその南の村田町足立にかけての地、と比定されています。この地域には小野城の小野氏、仙台藩の重臣であった本砂金(ほんいさご)城の砂金(いさご)氏、上楯館(宮城県柴田郡川崎町支倉字宿)の支倉氏などの土豪が割拠していたのですが、戦国期後半にはいずれも伊達氏の勢力下に入っています。支倉氏は長谷倉とも書きますが、文治元年(1185)に伊達氏の祖の朝宗に仕え、奥州の藤原泰衡を討つため源頼朝の討伐軍に参陣し、信夫郡に攻め入って藤原氏の忠臣・佐藤基治を討ったとき、常久は先陣を務め、大いに戦功をあげたといわれます。この奥州攻めに軍功があって、支倉氏は宮城県柴田郡支倉村・福島県信夫郡山口村・そして伊達郡梁川村が与えられました。支倉常長は山口常成の子でしたが、伯父の支倉時正(常成の兄)の嗣子となりました。山口は信夫郡山口村(福島市東部の山口)に因む苗字です。いずれ、この輝かしくも哀しい経歴を持つ支倉常長が、福島県と縁があったということで、遠いところの人という感じが急に身近かな人になったという感じです。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.10.01
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陸奥国鞭指(むさし)莊の怪 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、伊豆国伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた工藤祐経は、長門国三隅(山口県)、安芸国奴田(広島県)、日向国富田(宮崎県)など28ヶ所余の領地を得ていた。その子の工藤祐長は、(福島県)郡山最初の領主となるのであるが、その前後に姓を伊東に改めた。これは恐らく、父・祐経の本貫地の名にあやかったものと思われる。ところでこの28ヶ所余の領地のほとんどが西日本や九州などであるのに対し、ただ一つ、鞭指(むさし)莊のみが陸奥国にあり、しかも未だその場所が確定されていない。しかし陸奥国、つまり郡山と伊東祐長との関係から、鞭指莊は郡山にあったのではあるまいか。そう考えてみたが、鞭指は郡山とは読めないし、郡山に鞭指という地名なども残されていない。では陸奥国鞭指莊が郡山でないとすれば、何処にあったのであろうか。鞭指莊が陸奥国とされていることから、現在の東北地方のどこかにあったということは、間違いないと思われる。なお、この時代、陸奥国とは、今の東北地方のほとんどを指していたのであるが、この鞭指(むさし)の読みから武藏国(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)が想像される。しかし武藏国は陸奥国ではないので、今回はこれを除外する。 巌鷺(がんじゅ)山縁記(盛岡市の岩手山神社)によると、巌鷲山大権現大宮司として伊豆国出身の栗谷川家が代々祭事を務めることとされていたが、後に祭祀権をめぐり攻防があった。そのため源頼朝は、伊豆国の御家人の工藤氏を派遣して岩手郡(現在の青森県上北郡東北町)の支配にあたらせた。その後工藤氏は、ここに『厨川(くりやがわ)(栗谷川)城』を築き、後に『厨川(栗谷川)氏』を名乗ったという。この工藤氏が、伊東祐長とどういう関係にあったのかは不明であるが、工藤氏の名が出てくることから、鞭指莊と言われる一つが、ここであったと考えられる。 ところが『荘園分布図』(上巻)によると、陸奥国に鞭指荘はないという。しかし『講座日本荘園史』によれば、特定はできないが鞭指荘は宮城県内であるとしている。文治五年(1189)の阿津賀志山の戦いで、藤原泰衡の庶兄の藤原国衡が源頼朝に敗れているが、彼が本陣を設営した所として鞭楯という地名がある。このことから、鞭指とは、国分原鞭楯(仙台市宮城野区榴(つつじ)ヶ岡)の付近であろうと比定されている。しかし未だ、その遺構は発見されていない。この奥州合戦において、源頼朝が工藤祐経に陸奥国鞭指荘を榴の枝で指差して与えたという言い伝えがあることから、鞭楯あるいは鞭館を鞭指之莊に名を変えたのではないかという説もある。ここが二つ目の説である。なお榴ヶ岡は、歌枕の地としても著名である。 工藤祐経が曾我兄弟の仇打ちによって討たれた後、工藤祐経の子らが陸奥国外ヶ浜へ流罪となったという。しかし彼らは外ヶ浜へは行かず、父・工藤祐経が頼朝から拝領していた陸奥国糠部(岩手県北部から青森県東部)の鞭指荘に逃亡した。その後、祐時と祐長は許されて鎌倉へ帰ったが、兄弟の祐広だけが鞭指荘に残って実質的な支配者となり、その後、祐広の二人の息子が鞭指荘を分割して支配したと伝えられている。ここにも、鞭指荘とされる場所があることになる。 宝治元年(1246)、宝治合戦のあおりを受けたのか、五戸(ごのへ)郷(青森県)の三浦氏が滅亡した。傍流である佐原盛時により三浦氏が再興されることになったが、この時の調停役人として安積前司祐長らが派遣されたという。恐らくこの安積前司祐長は、郡山最初の領主であった伊東祐長を指していると思われる。ここに鞭指荘の名はないが、伊東祐長の名が出てくることが興味を引く。 ここでは、『標葉工房電脳帳・鞭指之莊探索』を参考にさせて頂いた。彼は、「案外(鞭指之莊は)、福島県郡山市の付近かもなどと妄想するなか、逍遙すること10日間、思い至ったのは仙台市の鞭楯の地であった」と推理したと書いておられる。私も鞭指莊は郡山であった、と思いたかった。しかし郡山には、鞭指という文字に関連するようなものは、全くない。すると伊東祐長は、五戸郷での調停役人としてそれ相応の役目を果たして鞭指莊を得たが、源頼朝の許可を得た上で、これらどこかの鞭指荘と郡山とを国替えのような形で交換し、郡山に入植したとは考えられないだろうか。それでも工藤祐経は、何故、陸奥国鞭指庄との交換を望み、源頼朝は、何故、それを許したのであろうか、という疑問が残る。歴史の襞である。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.03.06
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猪苗代湖の伝説 福島県で知られる一番古い話が、貞元年間(976年〜978年)の銭森長者の埋蔵金伝説と思われます。平泉の藤原一族で銭森長者と言われた藤原保祐が、会津三島町の西の方に黄金を埋めたという伝説です。会津正統記にも『西方邑藤原保祐は大福にして、俗に銭森長者と云』とあるそうです。銭森長者は、寺沢という地に松竹という庵を作り、その後は寺に改められましたが、その財産は森を埋めるほどであったと言われます。話だけですから、場所は分かりませんが、ここに金銀の類を隠した、と伝えられているのです。 ところで猪苗代湖にも、埋蔵金伝説が残されています。磐梯山麓の『摺上原』で、会津の蘆名義広が伊達政宗に敗れました。常陸の佐竹氏からの養子となっていた義広は、若松城を脱出して常陸へ帰ろうとしたのです。その一行は、20人とも120人とも言われます。このとき義広は、金の延べ棒を18頭の馬に積んで持ち出したというのですから、その多さが想像できます。脱出行は、夜陰に乗じて決行されました。その逃亡の経路は、会津若松から東山温泉、飯盛山を通って猪苗代湖西岸をそのまま湖に沿って今の湖南町赤津を経由し、須賀川から常陸の国を目指したといわれます。しかし一行は、途中で何者かがつけて来ているのに気が付きました。『落ち武者狩りか、それとも伊達の刺客か?』 窮した義広は、猪苗代湖の中田浜、いまの会津若松市湊町大字静潟字浜にさしかかった時に、持ち出した金の延べ棒を、猪苗代湖に沈めたというのです。猪苗代湖は最大水深90メートルで平均水深50メートルです。しかし岸辺に沈めたのでは、浅瀬ですぐに見つかってしまいます。沈める以上、ある程度沖に出て沈めたのではないかと思われます。事実、葦名氏筆頭家老の手記などの文献にそのことが記されており、その隠したという信憑性は、高いとされているのです。 そして昭和の初期。郡山の古物商が、この財宝を沈めたという古文書を手に入れました。自分で引き上げる気はなかったので、市内の有力者にその由来を説明して売ったというのです。買った有力者は早速、中田浜に行き、二艘の船で潜水夫を雇って湖底を探させたのです。ところがこのことを知った郡山と仙台に住んでいた蘆名氏の子孫という二つの家族が、この財宝の引き上げ権を巡って裁判を起こしたのです。裁判所の判決は、「引き揚げた場合、延べ棒は引き上げた人、地元湖畔の民、そして蘆名氏の子孫であるという二家族と、四等分に配分せよ」というものだったそうです。ところが引き上げを始めたところが資金に欠乏した有力者は、引き上げの債券を募集したり、二艘の遊覧船で引き揚げ作業を見物する野次馬遊覧客から、一人5銭ずつの見物料を徴収して探索資金にしたといわれます。しかしこの騒動が新聞で報道されて、警察が出動するほどの騒ぎとなってしまったのです。そのため警察当局から引き揚げ中止が勧告されたそうです。ところがその後、湖底から金銀などの財宝が引き揚げられた、という話は聞かれません。今も沈んでいるのでしょうか。 また湖南町小倉沢に伝わる埋蔵金伝説は、江戸時代の初期、赤津に埋めたとされる伝説です。湖南町赤津字小倉沢一帯には、会津蒲生氏の時代に盛んに掘られた金鉱があったそうです。これらの金鉱や金山で掘られた金の少しずつを鉱夫たちが密かに持ち出し、湖南町小倉神社の境内に埋めたという言い伝えが残っているのです。これも一時騒ぎになりましたが、それ以上のことには、ならなかったようです。 戊辰戦争において、長岡藩の軍資金を長岡藩士が会津に回送中、新政府軍の急追を察知して南会津郡只見町の浅草岳山麓に軍資金を埋めたと伝えられる伝説です。ただし急を受けて途中の池に投じた、という説もありますので、埋蔵金として残るのなら、こちらの説の方ではないかと考えられています。 四本松にも埋蔵金伝説があります。四本松は、現在の二本松市岩代町長折字四本松です。かってここには四本松城があり、この四本松に住む名家の系図の裏に、『朝日さす、夕日輝くたんぽぽの、北の稲荷に、金を埋める』との書き付けがあったと言われています。しかしここでも具体的な場所が示されていないので、発見されるには至っていません。 この他にも、南会津町舘岩には、なぜか徳川埋蔵金伝説が多いのだそうです。ここは、『南山お蔵入り』と言われた幕府の直轄地であり、桧枝岐村より日光、江戸への道筋でもありました。日光の北には、今の南会津町と栃木県日光市にまたがる田代山がありました。この田代山に、徳川幕府が金を隠したというのです。長岡藩のことが関係した伝説なのかも知れません。
2022.12.10
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南北朝の戦い 5天皇家の丘 郡山市(旧田村郡)から田村郡三春町にかけて、不思議と南北朝時代の天皇家にかかわる神社が多く残されている。その最たるものが、宇津峰山の山頂の三つの小さな祠である。その中央の祠には、後村上天皇、右手には後亀山天皇、そして左手には後醍醐天皇の曾孫とされる宇津峰宮が祀られていると伝えられている。その他にもある各々の神社に祀られている天皇及び天皇家関係者については次に述べるが、勿論これらは天皇方の墳墓ではない。当然いつかの時点でそれぞれに勧請されたもの、と思われる。 私はエジプトの『王家の谷』にあやかり、勝手に、『天皇家の丘』と呼んでいる。なお、ここに出てくる郡山市のすべては旧田村郡であった。しかし唯一、鹿島神社だけは安積郡に所在するが、往時は三春領であった。なお宇津峰山頂を祭祀する二社の菅舩神社は岩瀬郡(現須賀川市)に属しているが、これは明治になって山頂に境界線を引いたためこうなったと言われるが、当時は宇津峰山全体が田村郡であったという。 宇津峰山頂=後村上天皇 後亀山天皇 宇津峰宮。 雀之宮神社=宇津峰山を本宮とした拝殿。 郡山市田村町御代田字雀宮。 菅舩神社= 北畠顕信 北畠守親。宇津峰山頂を祭祀する。 須賀川市塩田字神清水 菅舩神社= 北畠顕信 北畠守親。宇津峰山頂を祭祀する。 須賀川市塩田字外ノ内 生田神社= 後醍醐天皇。 田村郡三春町大字富沢字石田212〜2 宮代神社= 後醍醐天皇 後村上天皇 陸奥宮(宇津峰宮か?)。 田村郡三春町大字富沢字宮ノ下125 現人神(あらひとがみ)神社= 後醍醐天皇 後村上天皇 護良親王。 田村郡三春町大字実沢字地神前91-2。 若一王子大権現=宇津峰宮が霊山から宇津峰山へ逃げる途中、 ここで一泊、もしくは休んでから宇津峰山に出か けられた、と伝えられている。 田村市船引町字戸屋118。 見渡神社= 雲水峯皇子(宇津峰宮か?)。 田村市大越町大字牧野字堀之内120-121 霊山神社 南朝方の北畠親房 顕家 顕信 守親の四卿。 この神社は別格官幣社であった。何故かこの四卿 は天皇の臣下にもかかわらずこのような立派な社 に祀られ、宇津峰山頂の天皇方は小さな祠なので ある。 伊達市霊山町。 雲水峯神社=北畠顕家。郡山市田村町大字谷田川字樋ノ口136 鹿島神社山麓=田村輝定。南朝側として北畠顕家の下で戦った 田村郷守山の領主。 郡山市日和田町八丁目戸ノ内52 高野神社および橋本正茂(まさもち)の墓=橋本正茂は北畠顕家 らの下で戦い、南朝の忠臣とされた人。この二つ は、郡山市西田町鬼生田字内出の近くにある。 田村大元神社=橋本正茂の事跡を記した碑がある。 田村市船引町。 橋本神社= 橋本正茂。三春町の三春大神宮の一角に、橋本 正茂を祀った神社が祀られていたが、いまは 宮司の斧田氏もどこにあったか分からないと言 う。ただし、その御神体とされたらしい文書が 残されている。 『故 橋本正茂 贈正五位、 大正七年十一月十八日 宮内大臣従二位勲一等子爵波多野敬直宣』 この文書について宮内庁に電話で問い合わせたところ、内閣賞勲局に回されたがまた宮内庁に電話を戻された。宮内庁の女性係員によると「明治になってから、南朝関係者など、天皇家に忠義を尽くした人たちに『位』を贈ったので、その内の一人でしょう」ということであった。「この地方に、この文書が複数枚ありますが、どのような基準で贈られたのか、また誰に贈られたのか」との問いに対しては、「今になれば、それらの一切が不明です」との返答であった。 追記=南北朝とは無関係であるが、この地域において、神武天皇、日本武尊、応神天皇、そして聖徳太子を祀った神社がある。田村神社 = 神武天皇 郡山市大字阿久津字続195田村神社 = 神武天皇・坂上田村麻呂 郡山市田村町山中字本郷135見渡神社 = 神武天皇 郡山市田村町大字下行合 字朝日舞469日本武神社= 日本武尊命 郡山市西田町大字三町目 字関根179愛宕神社 = 日本武尊命 田村郡三春町大字富沢字胸毛156-ロ大元地神社= 日本武尊命 田村郡大越町大字下大越字川向688-2白鳥神社 = 日本武尊命 田村郡大越町大字上大越字山口156-1八幡神社 = 応神天皇 郡山市大字阿久津字八幡下194八幡神社 = 応神天皇 郡山市田村町守山字三ノ丸52八幡神社 = 応神天皇 郡山市田村町大字下道渡字南作168八幡神社 = 応神天皇 田村郡三春町字雁木田194八幡神社 = 応神天皇 田村郡三春町大字実沢字屋戸137八幡神社 = 応神天皇 田村郡滝根町大字神俣字町278峰霊神社 = 応神天皇 田村郡滝根町大字神俣字和貢220宇佐神社 = 応神天皇 田村郡滝根町大字廣瀬字小山崎113川向八幡神社=応神天皇 田村郡大越町大字下大越字川向676八幡神社 = 応神天皇 田村郡大越町大字下大越 字戸ノ内715乙八幡神社 = 応神天皇 田村郡大越町大字上大越 字再勝内84-2八幡神社 = 応神天皇 田村郡船引町大字船引 字四城内前193八幡神社 = 応神天皇 田村郡船引町大字上移字町247八幡神社 = 応神天皇 田村郡船引町大字新舘字曲山1557八幡神社 = 応神天皇 田村郡小野町大字小戸神字葭作184音路太子堂= 聖徳太子 郡山市富田町音路32番地石島神社 = 聖徳太子 郡山市西田町土棚字石田838 なおこれ以外にも次のような16弁の菊花文様が残されている社寺がある。長岩寺 = 田村市都路町岩井沢字中ノ作106番地 同寺本堂正面には16弁の菊花文様が画かれてい るが、いつの時代にかこれを塗りつぶした形跡が ある。この寺の墓地には16弁の菊花文様のつい ている石井七五三家の墓があり、また台石に菊花 の紋が刻まれている松本家の墓がある。大槻観音堂= 田村市都路町岩井沢大槻 この堂の仏像の台座の中に、菊花文様のある観音 像が一体ある。この旧墓地付近の小高い丘に瓦小 祠が三基あり、菊花紋章の他に葉菊、左三ツ巴の 紋章がある。吉田文雄家の裏山にも菊花紋章のあ る瓦小祠があり、そのそばに地域に異変が起こる 時唸り声を出すという『うなり地蔵』がある。善導寺 = 二本松市東和町針道字佐勢ノ宮1番地 佐藤家の墓に、五瓜に十六葉菊の文様がある。最勝寺 = 二本松市東和町戸沢字月夜畑90番地 菊池家の墓に、陰五瓜に16葉菊の文様がある。 またここの広い森西側の山裾に南朝の伝説が残さ れている。愛蔵寺 = 二本松市東和町戸沢 菊紋の九條袈裟が、醍醐 報恩院より下賜されている。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.06.06
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日本人最後の軍司令官 戦前、日本は中国大陸東北部(いわゆる満州)に進出していましたが、この満州の防衛を担当する陸上軍が、関東軍でした。もともとは、遼東半島先端の山海関の東側のごく一部を日本が支配していたので、関東軍という呼び名がつき、その後も、関東軍という名前だけは残りました。また、駐 内モンゴル軍独立混成第二旅団 響兵団が、旧満州の東ほぼ三分の一と中国の内モンゴル自治区に進駐していました。そして一方の満州国軍は、満洲歴の大同元年(1932)に創設されましたが、軍隊というよりは関東軍の後方支援部隊、或いは警察軍や国境警備隊としての性格が強かったのです。 昭和二十年八月十五日、日本はポツダム宣言を受託し、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々に展開していた日本軍約700万人は、直ちに武装解除して降伏するように、本国から指令が出ました。満州国軍もまた、解体されました。ところが、日本が連合軍に降伏した八月十五日の後においてもソ連軍の満州侵攻は止まらず、この地域の日本人住民4万人の命が危機にさらされたのです。その際、岩瀬郡仁井田村、現在の須賀川市仁井田の出身の根本博 駐 内モンゴル軍の陸軍中将は、「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官の自分が負う」との命令を下したのです。その間、幾度となくソ連との停戦交渉を試みたのですが不調に終わり、八月十九日から始まったソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソ連軍が戦意を喪失、更に中国人民解放軍の前身である八路軍からの攻撃にも必死に耐え、ようやく戦闘が止まったのです。その間の八月二十日、内モンゴルを脱出した4万人の日本人は天津へ脱出し、それを見届けた駐 内モンゴル軍は、八月二十一日になって撤退を開始したのです。最後の隊が万里の長城へ帰着したのは、二十七日であったといわれます。昭和二十一年八月、戦後の根本は、現地での責任者として在留日本人の内地帰還と、北支那方面の35万将兵の復員を終わらせたのち、最後の復員船で帰国したのです。 この第二次大戦の後、「国共内戦」により中国本土で中国共産党軍に敗れた蒋介石は国民党軍、いわゆる国府軍を率えて台湾に入り「大陸反攻」を目指していました。しかし一方の人民解放軍も、台湾への侵攻、国民党の壊滅を計っていたのです。その際、日本人救済を手助けしてくれた蒋介石と国民党軍に恩義を感じていた根本は、国共内戦で敗走を続ける蒋介石と国民党軍に報いようと密航を決意、昭和二十四年六月二十六日、通訳の吉村是二とともに宮崎県延岡市の沿岸から秘密裏に台湾入りを敢行しました。敗戦後の日本では、まだ海外渡航が認められていなかったのです。 同年七月十日、根本は台湾北部の基隆(キールン)に到着したのですが、密航者として約2週間投獄されています。しかし、根本投獄の報告がかつて交流のあった国府軍上層部に伝わったため待遇が一変、八月一日台北へ移動しました。そして八月五日にアメリカが国民党政府への軍事支援打ち切りを表明していたことから、蒋介石は根本の協力を受け入れ、八月の中旬になって、蒋介石と面会したのです。 根本は中国名「林保源」として国府軍第5軍管区司令官・湯恩伯の顧問となり、国府軍の中将に任命されました。根本は日本軍でではなく、国府軍の将官となった訳ですが、これが日本人最後の軍司令官と呼ばれる由縁です、国府軍第5軍司令官の湯恩伯は、根本を「顧問閣下」と呼び、礼を尽くしたのです。根本はその湯恩伯に対し、厦門を放棄し、金門島を拠点とすることを提案し、これを基に金門・馬祖の防衛計画が立案されました。根本は直接指導に当たったのです。厦門は、台湾海峡を隔てて台湾に臨む、中国南東部の海岸に位置する港町で、中国大陸における国府軍最後の要地でした。 ほどなく、国府軍は根本の進言に従って厦門を放棄し、そのため大陸での足掛かりを失うことになったのです。国府軍は中国大陸沿岸にある金門島や馬祖島に撤退、ここを台湾防衛の最前線と位置付けました。これは厦門からわずか数キロという位置にある島々でした。この中国本土に近い金門島での決戦が迫ると、根本は塹壕戦の指導を行ったのです。しかしこれに先立つ1949年1月21日、蒋介石は厦門撤退の責任を取って総統の座を辞任したのです。しかしこの年の8月中旬、根本は国府軍最高司令官である蒋介石と面会し、今後の戦況などについて、意見を交換しています。 1949年10月1日、共産党による中華人民共和国が成立しました。そして独立間もない10月24日、中国人民解放軍は大金門島の北側の古寧頭(こねいとう)、湖尾、壟口に上陸し、国府軍の防衛線を突破、内陸へと侵攻しました。しかし中国人民解放軍は、国府軍の火炎放射器や手榴弾、燃料による攻撃・放火、さらには古寧頭の北西沿岸を哨戒していた国府軍海軍の艦艇2隻の艦砲射撃により敗退したのです。このとき根本は、金門島における古寧頭での戦いで国府軍を指揮、上陸してきた中国人民解放軍を破り、同島を死守したのです。 その後も、この島を巡って中国と台湾の間で砲撃戦が展開されたのですが、台湾側は人民解放軍の攻撃を防ぎ切ったのです。これにより、中共政府は台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなり、今日に至る台湾の存立が決定的となったのです。蒋介石は根本の帰国に先立ち、感謝の品として英国王室と日本の皇室に贈ったものと同じ花瓶を贈っています。しかし、敗戦後であった日本ではもちろん、台湾でも根本の存在とその功績は、一般人の間で認められることはなかったようです。昭和二十七年(1952)六月、根本は日本へ帰国しました。 蒋介石と根本とはその後も交流が続きました。最近アメリカで公開された「蒋介石日記」にも、根本に関する記述があり、蒋介石が心から信頼していた様子が読み取れるという。しかし、台湾でも根本の存在はもちろん、功績が認められることはありませんでした。金門戦争勝利への日本人の関与が明らかになることは、大陸から渡ってきた蒋介石ら「外省人」が、「本省人」を支配するうえで邪魔だったためとみられています。 昭和二十七年(1952)六月二十五日、根本は民航空運公司機、いわゆるCATにより、日本へ帰国しました。根本の3年前の密出国については不起訴処分となり、晩年は鶴川の自宅で過ごしていたのですが、昭和四十一年(1966)五月五日、孫の初節句の後に体調を崩して入院し、同月21日に一度退院したのですが、二十四日に急死しました。享年七十四歳でした。 一方の蒋介石は、1972年には病状が悪化して昏睡状態に陥り、半年間は目を覚まさなかったといわれます。そして1975年4月5日の夜に心臓発作で倒れ、救命措置を行ったのですが、23時50分に亡くなりました。4月16日には国父紀念館で盛大な葬儀が行われ、各国の政治家が葬儀に参列しています。 平成二十一年(2009)に台湾で行われた古寧頭戦役戦没者慰霊祭において、当時の中華民国国防部常務次長の黄奕炳中将は報道陣の前で、「国防部を代表して、当時の古寧頭戦役における日本人関係者の協力に感謝しており、これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。」とした感謝の言葉を述べています。須賀川市の出身でありながら、福島県人にも忘れられた、歴史の一コマです。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.09.01
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皇居前広場にあった江戸屋敷 東京観光のスポットの一つ、二重橋を正面に見る皇居前広場には大名屋敷が建ち並んでいました。外桜田門、馬場先御門、和田倉門、内桜田門に囲まれていたこの広大な土地にあったのは、たった8藩の大名屋敷でした。、それぞれの屋敷の大きさが想像できると思います。 江戸に住む大名たちは駕籠や馬に乗って登城するのですが、この大名屋敷街に入るとすべての乗り物から下りて徒歩で入城することになっていたようです。そのためこの一角には、馬などを預かる場所がありました。今で言う駐車場でしょうか。とにかく江戸城の眼前である『徳川将軍様のお膝元』とも言える直近のこの場所に上屋敷を構えていた8藩は、その禄高の多寡にかかわらず、徳川家の藩屏たるべき藩と認められたものと思われます。徳川家との並々ならぬ関係とその信頼の大きさが想像できます。 ここにあった8藩の江戸屋敷は、会津藩、泉藩(いわき市)、長岡藩、越後村上藩、福井藩、下総佐倉藩、武蔵忍藩(埼玉県)、美濃高富藩(岐阜県)1万石でした。しかもそれらの藩のうち、親藩の会津藩を除き、そのすべてが譜代でした、親藩とは徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指すのですが、このことが、戊辰戦争において会津藩を苦しめた理由の一つであったのかも知れません。また譜代とは、数代にわたって主家に仕え、家政にも関わってきた家臣のことを指します。 ちなみにこれらの江戸屋敷の規模は、次の通りでした。 二十三万石 会津藩上屋敷 11、878坪 二万石 泉藩上屋敷 4,425坪 七万四千石 長岡藩上屋敷 8,353坪 五万石 越後村上藩上屋敷 7,675坪 一万石 福井藩上屋敷 3.861坪 十一万石 下総佐倉藩上屋敷 8,104坪 十万石 武蔵忍藩上屋敷 6,231坪 一万石 美濃高富藩上屋敷 4,259坪 これら面積には多寡があるにしても、広大であるには違いない。戊辰戦争の際、この8藩のうち新政府側に立ったのは、福井藩と美濃高富藩である。福井藩の場合は、本藩の小浜藩とともに新政府側に与し、北陸道鎮撫使の先鋒役を務め北陸道鎮撫使先鋒となっている。福井藩が福井県、高富藩が岐阜県にあったことから、地域的に新政府側につくのはやむを得なかったと思えるが、忍藩の場合は少し事情が違った。鳥羽伏見の戦いでは幕府側として戦ったが、のち新政府に帰順し、新政府側として会津にまで出兵している。必ずしも8藩すべてが、徳川方として戦った訳ではなかった。 明治五年三月二十六日、和田倉御門の近くにあった無人の旧会津藩上屋敷から出火し、現在の皇居前広場にあった江戸屋敷のすべて、それに現在の丸の内、有楽町、中央区の八重洲にあった江戸屋敷の街、さらには日本橋、京橋、銀座、築地、明石町、新富町、入船町の商人町を焼く大火となった。江戸屋敷と同時に、大名火消しがいなくなったことも理由の一つだったといわれる。ともあれ家屋が燃えてしまったために、江戸屋敷跡地はさらに寂しい場所となってしまったのである。 江戸は東京と名を変えたが、この広大な空き地に音を上げ、陸軍の練兵場や海軍で使用、さらに役所などに転用した。市ヶ谷自衛隊は、そのときの一部である。それでも空いた土地は、安くして一般に売り出し、桑畑や牧場に使用された。例えば青山墓地は、岐阜県にあった郡上青山藩の江戸屋敷の跡地であった。まったく今では、考えられませんね。 泉藩の第6代藩主本多忠紀は、幕末期の幕政に寺社奉行・奏者番として参与している。2万石とはいえ、譜代の面目躍如というところであろう。しかし戊辰戦争では隣の平藩に従って幕府軍に与し、新政府軍と戦って、戦死者3名を出している。このため2千石の厳封となり、忠紀は官位剥奪の上強制隠居を余儀なくされている。 越後長岡藩は、小林虎三郎の恭順論もあったが、家老・河合継之助が軍事総督に就任、藩の生殺与奪の権を掌握して主導権を握った。徳川家の政権回復を前提に公武合体論を唱えながらも、ミニール銃、ファーブル・ブランド砲を備えた。いわば衣の下に鎧をちらつかせる武装中立路線であった。小千谷(おぢや)での新政府との会談が決裂すると戦端が開かれ、長岡城は陥落するが、河井はこれを奪還。ふたたび新政府によって落城すると、敗残の兵士は会津に走ってなおも抗戦を続けたが254人が戦死。9月25日に降伏している。 越後村上藩の第6代藩主・内藤信敦(のぶあつ)は、寺社奉行・京都所司代を務め、その子で第7代藩主・内藤信思(のぶもと)は大坂城代・京都所司代・老中などを歴任している。しかし信思の養嗣子で第8代藩主となった内藤信民は藩内における方針対立に苦しみながら、慶応4(1868)年7月16日に早世した。このため村上藩は藩主不在となり、家老で佐幕派の鳥居三十郎が主導権を掌握する。村上藩は新発田、村松、黒川、三根山、長岡の諸藩と共に、奥羽越列藩同盟に加盟し、三十郎は庄内藩と共に旧幕府軍に与して新政府軍と交戦したが、敗れて同年9月27日に降伏した。 下総佐倉藩は、幕末に老中を努め、ペリー来航以降、外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走するが、井伊直弼の大老就任で老中を罷免され、蟄居した。勤王、佐幕と藩内が紛糾するなかで、平野縫殿重久の主導によって勤王に決し、1153名が出兵し、3名の戦死者を出した。 武蔵忍藩は鳥羽・伏見の戦いにおいて幕府軍の一員として出兵したが、のち新政府に帰順し、会津攻撃に加わった。大政奉還後、第4代藩主・忠誠は幕府と新政府のどちらに与するかを迷い、藩論もそれによって分裂する。翌年、戊辰戦争が起こると前藩主・忠国の主張もあって藩論は新政府側に与することで決し、忍藩は会津に出陣した。 美濃高富藩は、本庄道美(みちよし)の時代になると藩財政は完全に破綻し、慶応四年には藩内で打ちこわし、百姓一揆が起こった。この頃、高富藩は二十万七千四百両もの借財を抱えていた。藩内の庄屋をはじめとする豪農にも多額の借財があったが、その大半は後の版籍奉還で証文のまま終わっている。藩政では先代道貫からの藩政改革を引き継いだが財政は好転せず、慶応二年には藩札を乱発、さらに農民からの収奪を厳しくしたために慶応四年には一揆が起きた。同年からの戊辰戦争では新政府軍側に立ち、新政府軍の中山道通行にあたっては苗木藩とともに協力し、さらに御所番を勤めた。 また理由は不明ですが、小藩ながら磐城泉藩もここに構えていました。同じ戊辰戦争において、平潟港(北茨城市)に上陸して北上した新政府軍に、磐城泉藩は磐城湯長谷藩と宗家筋にあたる磐城平藩ともども壮烈な戦いを挑み、敗れています。この上屋敷があった位置と、何らかの関連があったのかも知れません。この会津藩と磐城泉藩の江戸屋敷は、次のようなものでした。 ●会津藩 二八万石(松平氏)・中屋敷 港区東新橋三丁目 汐留貨物駅 29495坪・中屋敷 港区芝一丁目 JR線路敷 16438坪・ 下屋敷 港区三田二丁目慶応大学付属中高 33222坪・ 抱屋敷 江東区扇橋二丁目 東京製粉 3293坪 抱屋敷とは土地の権利者から借りて作ったものですが、ここが小名木川に面していることから大阪への回米基地として利用していたとも思われます。 ●磐城泉藩 二万石(本多氏)・中屋敷 港区赤坂二丁目 赤坂パレス 2900坪 ただしこれらの屋敷の面積は、現在の建物とは必ずしも一致しません。ランドマークとしてご覧頂きたいと思います。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2019.01.15
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ある神風特攻隊員の遺書 『僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。お母さん、良く顔を見せて下さい。しかし、僕は何もカタミを残したくないんです。十年も二十年も過ぎてからカタミを見てお母さんを泣かせるからです。お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。それが、僕の別れの挨拶です。』 この遺書を書いた茂木三郎一飛曹は、その内容からみて郡山出身と思われます。 戦中、郡山の海軍金屋飛行場から特攻隊が出撃したという話を聞いたことがありました。しかし郡山から直接出撃したという記録はありませんから、恐らく郡山で、または原町飛行場(南相馬市原町区)で飛行訓練を終え、特攻基地へ送られる前に書いたものと想像できます。 昭和20年5月4日、茂木一飛曹は神風特攻隊第五神剣隊の一員として、鹿児島県鹿屋(かのや)基地より250キロの爆装零戦として出撃、沖縄周辺の艦船攻撃で戦死をしました。享年わずか、19歳でした。 このような消耗戦法は、当然ながら戦闘機の払底を招きました。そこで使用されたのは、海軍が偵察搭乗員を教育するため九〇式機上作業練習機の後継機として開発した練習機でした。その練習機に積載する爆弾の重量の見返りに外せるものは全部外し軽くする必要がありました。無線機、機銃、あげくには飛び上がると車輪まで落とさせられたそうです。飛び上がれば隣の飛行機とも連絡がとれず、故障などで引き返しても着陸も出来ず、その多くは空中戦の準備も無いまま丸腰で待ち構えている敵の戦闘機群に飛び込んでいったのです。いま残されている米軍側の映像の記録に、機銃を撃ちながら敵の艦船に体当たりしていく特攻機の姿は、まったく見当たらないようです。 このように青少年の命を無視しながらも敗れた対米戦争。70年後の今に至るも「現在の平和日本の礎は、国の為に散華した英霊のお陰によるものである」と主張するエライ人。彼らはこの主張の中に英霊を貶めている、つまり矛盾した論理であることに気付かないのであろうか。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.07.01
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足摺岬田村家のルーツ 足摺岬田村家のルーツ(9)- 北総文学 - Yahoo!というブログを見つけました。それによりますと、土佐の足摺岬の田村家のルーツは、田村麻呂であったのでする。という。田村麻呂については、多くの文献、そして伝説が残されています。しかもそれは、全国各地に伝えられているのですが、その例のひとつが、土佐の田村氏であるというのです。『田村氏はなぜ足摺岬に来たのか。』というセンセーショナルな表題が、私を惹きつけました。 このブログによりますと、『鎌倉の初期、源頼朝の東北征伐の功で、大友能直(よしなお)が陸奥田村庄(福島県田村市・三春町)を領した。能直(よしなお)はその後、いまの福岡県と大分県にかけての豊前、豊後二国の守護となって領地が増えたので、建久五年(1194)、能直(よしなお)と同じく鎌倉幕府の官僚である中原親能(ちかよし)の養子であり、大江広元の妹婿でもあった藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け、初代の田村姓を名乗った』とありました。平安時代初期、すでに久満荘(くまのしょう・高知市)や田村荘(南国市)などが、荘園化されていました。ところでwikiによりますと、藤原(田村)仲教は、田村仲能の父とされていますが、これは田村荘司刑部大輔仲能であるかと推測できます。とすると、仲教は、『足摺岬田村家のルーツ』のブログにあるように、福島県の田村郡と関係のある人ということになります。ではどうして、そうなったのでしょうか。 これに関連した記録が、吾妻鏡に残されています。吾妻鏡は、鎌倉時代に成立したもので、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第六代将軍の宗尊(むねたか)親王までの六代の将軍記という構成で、治承四年(1180)から文永三年(1266)までの幕府の事績を年を追って記したものです。頼朝はこの中で、大友能直(まさなお)について、『並ぶ者のないお気に入り。』と記しています。文治五年(1189)、能直(まさなお)は奥州合戦に従軍、頼朝の近習を務めました。建久四年(1193)の曾我兄弟の仇討ちでは、兄の曽我時致(ときむね)の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守りました。 私は『足摺岬田村家のルーツ』の文章の中で、『藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け、初代の田村姓を名乗った。』という部分に疑問を感じました。三春町史のどこにも、それに関する記述がないのです。そこで私は、三春歴史民俗資料館に問い合わせてみました。早速、返事がきました。 『ご無沙汰をしております。さて、土佐田村氏に関係する記載についてのお問合せですが、ウィキペディアの記事かと思いますので、同ページで参考文献とされている『姓氏家系大辞典』を確認してみました。同辞典は、各種系図を引用・編纂したものです。「田村」の項に「藤姓大友氏族」の田村氏について等記載がありますが、「大友能直が陸奥田村庄を領し」という記載が確認できませんでした。ご質問の記載は、おそらく、各種田村氏の系図を混交して書いたものではないかと思います。精査の上でのお返事ではありませんので、その点ご了解ください。』 さてこうなると、土佐の田村氏が三春と関係があったかどうかはわかりませんが、土佐に田村氏がいたことは、事実のようです。Wikiに、土佐田村氏の項がありました。この記述を引用してみます。 『鎌倉初期、源頼朝の東北征伐の功で大友能直が陸奥田村庄(福島県田村市・三春町)を領し、能直はその後九州の豊前、豊後2国の守護となり領地が増えたので、建久五年(1194)、能直と同じく中原親能の養子となっており、大江広元の妹婿でもあった藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け初代の田村姓を名乗った(『姓氏家系大辞典』[要文献特定詳細情報])。その子である田村(藤原)仲能は鎌倉幕府評定衆になり、陸奥守、伊賀守、能登守を務め、建長四年(1252)、宗孝親王が十一歳の若さで鎌倉に下って征夷大将軍になると、その後見役を務めた。神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある海蔵寺は仲能の建立によるものと、寺のパンフレットに書かれています。仲能の墓は、鎌倉の源氏山にあり、葛原岡神社の前に墓碑が立っている。田村氏は鎌倉幕府とともに一度は滅んだが、その後同じ一族の室町幕府評定衆の摂津氏を頼って再興したようだ[要出典]。室町時代は幕府の奉公衆、御番衆を務め、近江野路村(草津市)の地頭となった。摂津氏領であった土佐田村庄は天授六年/康歴二年(1380)ころに守護の細川氏に占領されたが、永正四年(1507)に細川政元が暗殺されると土佐の細川氏は京都に引き上げてしまった。摂津氏は、いつも行動を共にしていた田村氏を土佐田村庄に派遣して旧領の回復を図ったようだ。土佐に入った田村氏は時を経て長宗我部氏の家臣となり、田村忠重など一族の活躍が多くの郷土史料に記されている[要出典]。江戸時代には山内氏に仕官し、下茅村(土佐清水市下ノ加江)の大庄屋となったり、宿毛領(高知県宿毛市)にて武士になったりした。現在、土佐清水市などの幡多地方には多くの田村姓の人たちが暮らしている[要出典]。土佐清水市下ノ加江に田村氏の祖先を祀った『田村神社』がある。(『田村氏はなぜ足摺岬に来たのか』[要文献特定詳細情報]エリート情報社を参照)』 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、建長五年(1253)に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが元弘三年(1333)5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。藤原仲能は、第6代将軍宗尊親王の命を受けて、鎌倉扇ガ谷の海蔵寺を創建したと海蔵寺略縁起にある人物ですが、建長八年(1256)に亡くなった。 どうも私の推測では、福島県の田村荘の領主は、藤原仲能系と考えられている田村庄司家であったことから、どこかの時点からか土佐の田村庄と結びつけられたとも思える。しかも実際に残されているとされる藤原仲能の墓跡の石碑と位牌がある場所が、土佐からは遠い。仲能の墓が、いまの鎌倉市扇ガ谷の海蔵寺にあるということと、Wikiにある『藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け、初代の田村姓を名乗った。』という部分に、疑問を感じさせられる。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.09.20
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三春駒 三春駒は、現在、郷土玩具の『子育て木馬』として、西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られています。その発祥の伝説は、京都東山の音羽山清水寺に庵をむすんでいた僧の延鎮が、坂上田村麻呂の出兵にあたって、仏像を刻んだ残りの木切れで100体の小さな木馬を作って贈ったというのです。延暦14年(795年)、田村麻呂はこの木馬をお守りとして、奥羽の『まつろわぬ民』を討つため京を出発しました。そしてその途中となる、田村の郷の大滝根山の洞窟に、大多鬼丸という悪人どもの巣窟のあるのを知り、これを攻めたのです。ところが意外に強敵であった大多鬼丸を相手にして、田村麻呂率いる兵士が苦戦を強いられていたのです。そのようなとき、どこからか馬が100頭、田村麻呂の陣営に走り込んできたのです。 兵士たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、大多鬼丸を滅ぼしました。 ところが戦いが終わってみると、いつのまにか、あの馬100頭の行方はわからなくなっていたのです。 翌日、村の杵阿弥(きねあみ)という人が、汗びっしょりの木彫りの小さな駒を一体見つけて家に持ち帰り、それと同じに99体を作って100体としたのですが、高柴村が三春藩の領内であったので『三春駒』と名付け、100体の三春駒を子孫に残したのです。後に、杵阿弥の子孫が、この木馬を里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ったので、誰ともなしのにこの三春駒を『子育木馬』と呼ぶようになったというのです。 三春藩の奥地には、もともと野生の馬が多く生息していました。それらを飼い慣らして農耕馬とし、軍馬として使われるなかで『三春駒』と言うようになったのです。江戸時代になると、藩を豊かにするための産業として馬を改良し、多くの良馬を生み出して全国へ広がっていったのです。 それもあって人々は、飼馬の安らかな成長を祈って、神社や馬頭観音に絵馬や高柴村で作られた木の三春駒を刻んで奉納するようになり、また子供の玩具に用いたりするようになったのです。木製の三春駒は、現在郷土玩具として、西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られるようになりました。いまの三春駒の原型は大正期に出来たとされ、直線と面を活かした巧みな馬体と洗練された描彩は、日本三大駒の随一との定評があります。馬産地として日々の生活の中で出来た人と馬との絆が、この木馬を生み出したのかもしれません。『三春黒駒』は子宝・安産・子育てのお守りとして、また『三春白駒』は老後の安泰、そして長寿のお守りとして作られています。『三春駒』は、青森県八戸の八幡馬、仙台の木下駒と並んで日本三駒とも呼ばれています。大小さまざまあるが,シュロのたてがみと尾をつけ,直線を生かした逞しい馬体につくられ,馬産地にふさわしいできばえを示していると言われます。 生きた三春駒は絶滅してしまったので、どのような特徴のある馬であったかは分かりませんが、現在の日本経済新聞の前身となる中外商業新報の大正4年5月1日の記事に、『三春藩時代に於ては日暮、花月等の名馬を産し、明治時代に在ては夫の御料乗馬たりし友鶴、旭日等のごとき・・・』とあります。三春駒の友鶴、旭日の二頭が明治天皇の、また繰糸号が明治天皇の后の昭憲皇太后の、さらに第二関本号が大正天皇の御料馬であったということに驚かされます。これは田村郡から献上された三春駒の在来馬であったといわれていますが、いずれにせよこれらの馬の調教師は、いまの本宮市白沢の佐藤庄助さんであったそうです。 ところでデコ屋敷の『デコ』は、『木偶(でく)』で木彫りの人形を表し、人形屋敷という意味になります。現在、高柴地区は郡山市に属しますが、江戸時代は三春藩領の高柴村であったため、その名残で三春駒や三春人形と呼ばれるようになったのです。大小のダルマや各種のお面、恵比寿・大黒や干支の動物などの縁起物をはじめ、雛人形や歌舞伎・浮世絵に題材をとる人形まで多くの種類を手掛けています。デコ屋敷周辺の狭い範囲には神社が点在し、約100基の朱の鳥居の立ち並ぶ『高屋敷稲荷神社』や、パワースポットの大岩のある日枝神社などがあり、ここには代々ご長寿の方が多いことなどから、そのご利益であるとの信仰を深めています。日本の三大駒として、青森県の八幡馬、宮城県の木ノ下駒と並んで三春駒が挙げられていますが、三春駒は、木ノ下駒の影響を受けていると考えられています。デコ屋敷にある郷土人形館では、江戸時代に制作された三春駒を見ることができ、福島県の重要有形民俗文化財に指定されている各工房の木型や、江戸時代の人形が展示されています。 私は子どもの頃から、三春大神宮の境内に等身大の白馬の像のあることを知っていましたので、これは明治天皇に献納した三春駒の記念の像かと思っていました。しかし調べてみると、三春藩駒奉行徳田研山の指導で、石森村の仏師伊東光運が制作したものと分かり、時代も古く、明治の天皇家に献納した馬とは無関係なようでした。 第二次大戦後は軍馬の需要は無くなり、また農業の機械化によって馬そのものの需要が激減しました。しかしその後も、田村郡では競走馬の生産が続けられ、小野町今泉牧場のトウコウエルザや、桑折町で生まれて北海道新冠の早田牧場新冠支場で調教を受けた天皇賞・宝塚記念・菊花賞を制したビワハヤヒデがいます。現在、東京電力福島第一原発よる放射能事故に追われ、全村避難となっていた旧三春藩領の双葉郡葛尾村でも、多くの馬が育てられていましたが、古代以来の馬作りの伝統が、福島産の馬の活躍にもつながったと思われます。なお、トウコウエルザは、昭和49年度優駿賞の最優秀4歳牝馬を受賞しています。またビワハヤヒデは平成4年、中央競馬でデビューし、翌年のクラシック三冠路線では、ナリタタイシン、ウイニングチケットの、それぞれの頭文字から『BNW』と呼ばれたのですが、それらライバルを制して三冠のうち最終戦の菊花賞を取得しています。 令和元年5月3日のTBSで、大正天皇と貞明皇后のお二人の最側近として仕えた、元高等女官『椿の局』こと坂東登女子さんが、世にも稀な経験の数々を雅やかな御所言葉で語る、貴重な記録が放映されました。およそ100年前に宮中で仕えた女官の肉声を収めたカセットテープの内容でした。そして大正天皇と貞明皇后の人となりの話の中に、馬の話がちょっとだけ出ました。 「陛下のお毒見しますでしょ。魚ならこんなひと切れとか」 「趣味は御乗馬ですね。お馬さんですね」 私はひょっとして、このお馬さんは三春駒ではなかったかという思いと、大正の時代までツボネという敬称が使われていたことに驚かされました。 三春駒は、日本で最初の年賀切手に採用された民芸品です。工芸品とだけなって、生きた馬の姿は見ることができなくなってしまいましたが、新幹線郡山駅のコンコースに、その姿が描かれています。
2024.07.20
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手長足長 和漢三才図会に長脚(あしなが)国・長臂(てなが)国の記述があり、そこには「長脚国は赤水の東にあり、其の国人長臂国と近く、其の人常に長臂人を負ひて、海に入つて魚を捕ふ。長臂国は『にんべん+焦』僥国の東にあり、其の国人海東にありて、人手を垂るれば地に至る」とあるそうです。県内に、足長の神の例は少ないのですが、手長の神は各地に多いようです。中でも有名なのは新地町の手長明神で、その伝説が新地町に残ります。『昔、山に長い手を持った仙人が住んでいました。動物が好きで老いた鹿と白狼をかわいがり、この山に腰をかけいつも四方を眺めていたそうです。ある日腹が空いたので東の海に貝があるのを見つけ、食べてみるとおいしかったので毎日食べるようになりました。捨てた貝殻が積もって丘のようになったのが貝塚です。この巨人を手長明神として祀り、山を鹿狼山と呼ぶようになりました。この貝塚は小川貝塚遺跡です』 新地町には明治20年代まで手長明神を祀る神社がありましたが、現在は近くの二羽渡神社へ合祀されています。また相馬市山上にも手長明神があって附近には貝塚があり、参詣者は貝殻を納めるのが例とされています。 手長・足長については日本書紀の中に、神武天皇が葛城(奈良県)の土蜘蛛を誅し給う条があり、『土蜘蛛の人と為りや身短く手足長く、侏儒(しゅじゅ・背丈が並み外れて低い人)と相類す』とあるそうです。本来土蜘蛛とは、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちのことであり、日本各地で記録されているのですが、単一の勢力の名ではなく、勿論、蜘蛛とも無関係です。 もともと土蜘蛛の名は、先住民族の或る者に対してつけられた貶称で、恐らく彼らが穴居していたための名であろうと推定されています。大和の人々は『遠き国の人ども』と言い、土着勢力を人間以下の存在、つまり土中に棲む蜘蛛のたぐい、妖怪のたぐいとして分類していたのです。そして天皇の支配下に入った土蜘蛛のみが『土蜘蛛』のレッテルを外され、『人間』として扱われることになったのです。土蜘蛛は足が長いという意味で、八握脛(やつかはぎ)とも呼ばれていました。 日本武尊が八槻郷(棚倉町)の八人の土蜘蛛に八本の槻弓・槻矢を放ち、これを討ったという話が残されており、それためここを矢着、八槻と呼ぶようになったそうです。この話にでてくる棚倉町の八槻都々古別神社の祭神は、日本武尊です。そして近くの八溝山からは金が産出していました。当時、大量に武器を必要としていた大和が、金・銀・銅・鉄などの鉱物資源を求めて日本武尊を全国に派遣して探していたとも考えられます。ただし日本武尊は個人ではなく、大和人の集団を意味したとも説明されています。 日本武尊は八槻郷に入る前、房総半島の北で八握脛という悪者と戦っています。つまり土蜘蛛です。この悪者たちが日本武尊に抵抗するため巣穴から出て留守にしている間に馬に乗った兵士たちが茨を穴の中に入れ、そこへ八握脛たちを追い込んだところ、穴に逃げた彼らは皆その茨によって死んでしまったといわれます。この神話から、現在の茨城県の名が出来たとされています。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.11.06
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朝鮮通信使史 朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、永和元(1375)年、足利義満により派遣された使者と国書に対する朝鮮王朝からの返礼として、朝鮮から信を通わす使者、つまり通信使として来日したのがはじまりです。しかしその慣行となる第1回目の朝鮮通信使の派遣は、53年後の正長元(1428)年になるまで待たなければなりませんでした。その後も11年後となる永享十一(1439)年、さらにはそれから、15年後の嘉吉三(1443)年に訪れていますが、時期の間隔が大分空いていました。ともあれ室町時代の朝鮮通信使には、日本の国情視察の目的も密かに含まれていました。例えば正長元(1428)年に来日した使節に同行した書記官の申叔舟が著した『海東諸国紀』によると、倭寇禁圧要請と併せて倭寇の根拠地の特定、倭寇と守護大名、有力国人、土豪との関係、都市部の発展状況や通貨政策など日本の国力状況の観察、さらには仏教の展開状況をはじめ15項目の調査内容があったといわれます。 この朝鮮通信使を、広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すのですが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は、狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多いのです。その江戸時代の天正十八(1590)年から文化八(1811)年にかけて、朝鮮通信使は12回訪れています。この「朝鮮通信使」という表現は研究者によって造作された学術用語で、史料上では「信使」・「朝鮮信使」として現れます。また徳川幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節と同じように「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「朝鮮聘礼使」などと称し、一般でもそのように呼ばれていました。 正長元(1428)年、日本に来た朴端生が、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作らせたり、銀メッキ、造紙、朱紅、軽粉などの製造法を本国に報告しています。また調査は、日本の貨幣経済の実態にも及び、それが各種の技術にまで言及していたのは、渡航前に朝鮮王から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからだとされています。水車はこの時点から百年以上も前の「徒然草(第 五十一段)」にも記されていることから、すでに農民達の手で取り付けられていたと考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられています。また朝鮮では物々交換の時代であったため貨幣や商業を知らなかったので、「日本の乞食は銭を乞う」と驚きをもって記録しているそうです。しかし室町時代の末期になると、日朝・日明貿易が盛んに行われるようになり、その実権が各地の大名に移ることになりました。そのために大名たちに力を蓄えさせることになり、足利幕府の支配力が薄れる結果となったのです。 朝鮮通信使は、室町時代に3度来日した他に、長禄三(1459)年や文明十一(1479)年にもその計画があったのですが、実現はしませんでした。また正使が任じられたものの計画自体が中止とされたことが応永二十(1413)年と文明七(1475)年の2度ありました。これは朝鮮側からの使者の予定者が死亡したことや、嵐による渡航の危険が理由とされたのですが、日朝貿易の不振によって必要性が減少したため、と説明されることもあります。その後豊臣政権まで約150年間にわたって、相互の交流は中断されました。 このように、しばらく途絶えていた朝鮮通信使ですが、天正十八(1590)年になって、日本に派遣されてきた朝鮮通信使は、名目上は豊臣秀吉の日本統一を祝賀が目的でしたが、実際は、秀吉による朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣された通信使でした。このとき正使と副使は対立関係にあり、そのような中で朝鮮王に、正使は「侵攻の意思あり」と報告したのですが、副使は「侵攻の意思なし」と報告し、結果として朝鮮王に近い副使側の意見が採られました。ところが文禄元(1592)年、日本の各大名は、豊臣秀吉の命令により朝鮮に出兵しました。この文禄の役の際、日本軍が一気に平壌まで侵攻したのは、この副使の報告に従って、なんら戦いの準備をしていなかったからとされています。さらにこのとき、朝鮮の民衆は腐敗していた朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出したのです。このため日本軍は容易に北上を重ね、特に加藤清正の率いた二番隊は、朝鮮北部から満州にかけて住んでいて朝鮮民族と敵対していた満州族を攻撃したので、解放軍と期待されたのです。 三代将軍徳川家光は、日光東照宮の社殿のすべてを建て替えました。この大事業は『寛永の大造替え』と言われ、漆や金箔をふんだんに使い、極彩色の彫刻で飾られた社殿にはオランダ商館から贈られたシャンデリアが飾られ、その境内には外国や諸大名からの献灯が立ち並んでいました。寛永二十(1645)年には第5回の朝鮮通信使が徳川家綱誕生祝いと、日光東照宮落成祝賀を兼ねて訪れています。 文化八(1811)年の朝鮮通信使が、対馬までで差し止められたのを不服とし、その交流は断絶してしまいました。そのために、徳川幕府からの返礼使として対馬藩が代行したのですが、軍事上の理由により、ソウルまで上る事を拒否され、釜山に貿易目的で設立されていた対馬藩の倭館で返礼の儀式が行われていました。唯一の例外は寛永六(1629)年にソウルに送られた僧を中心とした対馬藩の使節ですが、これは後金(17世紀前半に満洲に興った満洲人の国家で『清国』の前身)の度重なる侵入に苦しむ朝鮮側が日本の後ろ盾があるように見せかけたかったためであるとされています。倭館には貿易のための対馬藩士が、常駐していたのです。 その後、朝鮮通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際しての祝賀使節として、計12回も派遣されていました。その人数は毎回三百人から五百人という大使節団でした。その中心には朝鮮国が選び抜いた優秀な官僚たちが並び、それに美しく着飾った小童、楽隊、絵師、武官、医者、通訳などで編成されていたのです。一方、受け入れ側の日本では、幕府老中、寺社奉行を中心に『來聘御用掛』を組織し、『人馬の手配、街道、宿泊の準備とそれら一切の警備』などをしたのです。 これら朝鮮通信使は、釜山から海路にて対馬に寄港し、下関を経て瀬戸内海を航行、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川をさかのぼり、淀よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)とで行列を連ね、陸路京都を経て江戸に向かうルートを取りました。近江国では、関ヶ原合戦で勝利した後に徳川家康が通った道の通行が認められていました。この野洲市より彦根市への道は、現在でも朝鮮人街道と呼ばれている道であり、大名行列の往来は許されなかったという街道です。このルートを選定したことは、朝鮮通信使一行に対する敬意を示しているという見方とともに、徳川家の天下統一の軌跡をたどることでその武威を示す意図があったのではないかとする見方もあります。 例として適切かどうかはわかりませんが、将軍・徳川吉宗の時代にも象が日本に来ています。通常、天皇は、外国人や外交使節、そして無位無官の者とは会わないのが例なのですが、この時は中御門上皇と霊元天皇は象を見ております。象は政治とは距離が離れていたから見ることができたのでしょうが、その時の象には、なんと「従四位広南白象」という位が与えられたのです。これはその辺の大名よりも格が上で、昇殿が許される殿上人と同じ位にしたということです。その時の天皇の、御製も伝わっています。 ときしあれは他の国なるけだものを けふここのへに見るぞうれしき 室町期朝鮮通信使履歴第 1回 正 長 元(1428)年 通信使正使 朴瑞生 副使 李芸 書状官 金克柔 将軍就任祝賀,前将軍致祭 足利義教の引見 第 2回 永享十一(1439)年 通信使正使 高得宗 副使 尹仁甫 書状官 金礼蒙旧交 足利義教の引見第 3回 嘉吉三 (1443)年 通信使正使 卞孝文 副使 尹仁甫 書状官 申淑舟 将軍就任祝賀 前将軍致祭 足利義教の引見 豊臣秀吉朝鮮通信使履歴第 1回 天正十八(1590)年 通信使。第 2回 慶長元 (1596)年 通信使。 江戸時代の朝鮮通信使履歴第 1回 慶長十二(1607)年 回答兼刷還使 徳川秀忠 日朝国交回復 捕虜返還。第 2回 元和三 (1617)年 回答兼刷還使 徳川秀忠 大坂の役による 国内平定祝賀 捕虜返還。第 3回 寛永元 (1624)年 回答兼刷還使 徳川家光襲封祝賀、捕虜返還。第 4回 寛永十三(1636)年 朝鮮通信使 徳川家光。第 5回 寛永二十(1645)年 朝鮮通信使 徳川家光 家綱誕生祝賀。 日光東照宮落成祝賀。第 6回 明暦元 (1655)年 朝鮮通信使 徳川家綱襲封祝賀。第 7回 天和二 (1682)年 朝鮮通信使 徳川綱吉襲封祝賀。第 8回 正徳元 (1711)年 朝鮮通信使 徳川家宣襲封祝賀。第 9回 享保四 (1719)年 朝鮮通信使 徳川吉宗襲封祝賀。第10回 寛延元 (1748)年 朝鮮通信使 徳川家重襲封祝賀。第11回 宝暦十四(1764)年 朝鮮通信使 徳川家治襲封祝賀。第12回 文化八 (1811)年 朝鮮通信使 徳川家斉襲封祝賀 (対馬に差し止め)ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.06.01
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符 丁 と 隠 語 土蔵を片付けていて、明治十六年に芝区新卸町の小西松之助が届け出た(どこへ届けたかは不明)という『諸商人通用符帳』なる1枚の古い紙を見つけた。 符丁(符帳・符牒)とは、同業者間や店内でのみ通用する数字を表す言葉で、顧客が近くにいる時など客に知られずに必要な金額を知らせ合うために使われたのが一般的であった。しかし品数の少なかった初期の商いでは、自己の全ての扱い商品の価格が頭に入っていたので、このようなものを必要としなかったと思われる。ところが商業の発展とともに、その扱い商品が覚え切れないほど増えていったことから、符丁のような便法が考えられたのであろう。 この符丁が、いつの頃から使われはじめたのかは分からないが、商品の種類が増え、商店でも使用人を使いはじめた頃からと想像することができる。当時、大抵は商店と客の間で価格交渉が行われたことから、仕入れ値などを客に知られるのは商店にとって不利であった。そのため、価格や等級などを同業者間で、また店内で客の応対をする番頭・丁稚に対して、客に知られないよう秘密裏に伝える方法が符丁であった。また符丁は、商店が値段を示す印であったが、その店の印(シンボル)ともなっていた。 卸問屋の商家に育った私は、小さい頃から店の符丁を教えられた。原価符丁は『アサヱビスヨロコブトク』であり、卸符丁は『シアワセノメデタキカオ』であって、それぞれに1から0、最後の文字は並び数字に当てられていた。具体例として、『アスク』や『シノオ』と言えば、155を表した。但し原価符丁を割って売るのは厳禁であり、小売店には卸符丁で、一般消費者には卸符丁を超えて売るのが鉄則であった。しかしこの符丁も、番頭が暖簾分けで独立するなどで次第に拡散する。恐らく我が家の符丁も、明治になってから新しく作られたものと思われる。 符丁には紙片に暗号で記入する文字符丁、口頭で隠語を伝える口唱符丁、手ぶりで伝える手ぶり符丁がある。しかし今日の各業界ではコンピューターの発展もあって文字符丁は廃れ、口唱符丁は業界内隠語へと変わった。例えば、あるデパートの「ひまわり会からのお知らせです」と言う館内放送は、ある非常事態が発生した際、店員に知らせて館内の客を安全に誘導して避難させるための緊急放送だという。もちろん、それぞれのデパートや大型店によってその暗号の文章は違うが、それらの暗号の大半は、売り場でのミスや客の忘れ物、さらには店員への連絡などに使われているという。その他に現在でも手振り符丁は、取引所(市場、競売所)などの『手セリ』などで使われている。 明治十六年に印刷されたこの『諸商人通用符帳』の一部を紹介すると次のようなものがあるが、この他のものは記号や漢字交じりのため、ここへ文字としての掲載ができない。しかし、なかなか意味深のものもある。写真を掲載したので参考までご覧になっていただきたい。 数字 1234567890— 本 屋 チョットノオモヨロウ 木綿屋 イセマツサカチラシフネ 芸者屋 ヨノナカワフタリヅレ 茶 屋 ヲチサンワイマニクルヨ ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.06
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ようやく神社の建物が見えてきた。しかしその神社にたどりつくには、さらに十段くらいの石段を登らなければならなかった。 ──下の方の木の段ならともかく、これだけ高い山に石段を作るとなれば、材料を運び上げるのだけでも大変だったろうな。 自分一人の身体を持ち上げるのにさえ容易ではなかった私は、昔の人々の信仰心の強さに驚きを感じていた。 ここが目標の飯豊和気神社であった。 私はようやくの思いで最後の石段を登ると、境内に足を踏み入れた。そして周囲を見回した。手水鉢らしきものが左側にあった。しかし聞いて来た『熊田文儀の顕彰碑』と思われるものは、なかった。 山の頂上にある境内の裏から下を覗くと、木々の梢が波打って見えていた。その大して広い訳でもない境内なのに、そこに私は『熊田文儀の顕彰碑』を見つけだすことができないでうろうろしていた。 ──あるはずだが・・・。 そう思って探してみたが、神社の左手奥に小さな祠が二つあるだけであった。手水鉢まで戻ってよくよく見てみると、気のせいか手水鉢にしては掘りが浅く、荒く思えた。 ──これは手水鉢ではなく顕彰碑を取り外した痕ではないのかな。『熊田文儀の顕彰碑』は、ここにあったということかな? 釈然としないままでそれだけを確認すると私は車に戻って山を下り、田中先生に聞いていた麓の飯豊和気神社の遙拝所になっている八雲神社に行ってみた。宮司が丁寧に対応してくれた。その話によると、『熊田文儀の顕彰碑』は、あの石段の登り口の左側にあること、それから郡山市堂前の如宝寺にある『熊田文儀の墓』が参考になる、と教えてくれた。 私は早速、如宝寺に行ってみた。もう一度あの妙見山に登る気力が失われていたからでもあった。 ──如宝寺なら車で行くことが出来るし、妙見山には必要があったらまた登ればいい。 私は、そう思っていた。 寺に着いて住職に訊いた通りに行ってみると、熊田家の墓地はすぐに分かった。 ──それにしてもこれは・・・。 それを見た私は、度肝を抜かれた。その墓石というのが、高さが一間以上、縦横四尺四方ほどある巨大なものであり、しかもそれには熊田文儀の事績が事細かな文字列となって印刻されていたのである。私は言葉もなく、しばらくその墓碑銘を眺めていた。 ──この巨大な墓碑の建立には、遺族のプライドと後世に伝えようする強い意志が凝縮したものであったのかも知れない。しかし累々と続く他家の墓所の上をどうやって運んだのであろうか? その技術力もさることながら、運び込んでもいいという周辺墓地所有者の了解が得られたことは、熊田文儀がよほど立派な人であったからであったのであろうか? そう想像しながらも気を取り直した私はポケットから手帳を取り出して写しはじめたが、古い字体の上余りにも多い文字数、そして漢文調の文体に音を上げた。 ──これは、大変なことだ。 私は尻尾を巻いて、早々に引き上げた。そして日を改めると妻や娘を連れ出し、その協力を得て再び写しに出掛けた。「それにしても凄いお墓だわね」 それが他家の墓地で墓碑銘の写しに付き合っていた家族たちの驚きの感想であり、逆に私がのめり込んでいく原因となった。その上、妻にしてみれば実家の菩提寺であったのに「こんな大きな、立派なお墓のあるのを知らなかった」と言うのである。 その墓地には目印でもあるかのような欅の大樹が一本、傲然と立っていた。 (熊田文儀の墓碑) 家に帰ると、私は皆なで写してきた文章を整理し、そして読んでみた。しかしそれは、漢文の素養のない私にはなかなか困難なことであった。そのときは特に深く調べる気もなかった私は、書き写してきたままの文字群のコピーを取って三鷹市の親戚・安芸家にそれを送ってみた。特に、深い意味はなかった。間もなく礼状が来たが、それはそれだけのことであった。そしてまた、いつの間にか忘れてしまっていた。 忙しさに紛れていたある日、三鷹市のバペちゃんの娘の安芸幸子さんと熊田家の当主である熊田修氏夫妻が青森県恐山への旅行の帰りに、磐梯熱海温泉に泊まった。知らせを受けてホテルへ行き夕食を共にしたとき、熊田氏があの墓碑銘の現代文に訳したものを持参してくれたのである。しかし私は、それについてまだ興味の湧くところまで行っていなかった。墓碑銘の文字を写しただけで、内容をよく知らなかったこともあった。 ところが幸子さんの興味は、大分刺激したようであった。「先祖の業績の証を見たい」 後日、そう言ってわが家を一人で訪ねて来られたのである。 翌日私は、老齢に近い彼女の足を庇いながら妙見山に登った。しかしそのときも、伝えられる顕彰碑を見つけることができなかった。「残念だった、申し訳ない」 そう言って謝る私に、「先祖に関係のある神社にお参りが出来ただけで、十分よ」と言って逆に慰めてくれた。 それからまた何年後であったであろうか、小沢征爾氏の指揮するコンサートが須賀川市で開かれた。そのときバイオリニストでコンサートマスターとして須賀川に同道していた晶子安芸アールさん(アメリカ人と結婚)が、母の幸子さんと須賀川まで来たついでに妙見山の顕彰碑を見たいと言って郡山に来られた。私は早速車を出して案内をしたが、生憎の悪天候で麓から雨に煙る山頂を望み見るだけで帰ってきたことがあった。「あなたの祖母方の先祖は、素晴らしい人だったのですよ」 そう言う私には、アメリカ人の妻となりアメリカに住んでいる彼女にも、何か大きな感激が走っているように見えた。 それなのに私は、いつのまにかこのことを忘れてしまったのである。
2008.03.02
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翌朝、今までの楠木正成の戦法に懲りていた幕府軍は、慎重に物見を送ると両赤阪城の状況を確認した。「上赤阪城は一兵も無く、全員逃亡の模様」「下赤阪城内には戦死者のみにて、生存者なし」 それら物見の報告を得ると、田村軍は先遣隊の命令を受けて城に登った。しかし彼らがそこで目にしたものは、灰塵に帰した城内と、おびただしい数の焼死体が転がっている凄惨な光景であった。「敵将らしき遺体発見!」との声に、輝定が駆けつけると、それらの遺体の真ん中あたりに、楠木正成と思われる立派な鎧兜をつけた遺体が発見された。「結城様に、報告せい」そう言って後方に伝達しさらに検分していると、正成の遺品と思われる高価な品々が発見された。やがて幕府軍の陣中において、「楠木正成は自ら城に火を放ち、焚死したもの」との結論が下された。戦いは、ようやく終わった。 輝定の軍は、戦場から離れた。 ところが赤阪城で幕府軍の戦死者を多数運び上げ、味方の兵を脱出させて火をかけて焚死したとみせかけていた楠木正成は、今度は幕府軍の手に落ちていたこの赤阪城を五百騎からなる一隊に襲わせた。 この時も正成は奇計を用いた。まず赤坂城の幕府側の守將・湯浅宗藤が城内に食料を運ぶため雇った人夫を襲って、楠木方の橋本正員勢の半数が米俵の中に武器を忍ばせて偽の人夫になりすまし、武装した残りの半数の橋本勢に追われる形で赤坂城内に逃げ込ませたのである。それを知らぬ湯浅宗藤が敵の人数が少なく好機到来とばかりに主力を率いて城外に出撃したところを、城内の橋本勢が城を乗っ取ってしまったのである。城外に出ていた湯浅勢は周囲に隠れていた楠木軍に囲まれ、城という逃げ場を失って驚き慌てている内に討ち果たされてしまったのである。「またか! こんな戦い方が許されるのか!」 後方で戦況を聞いた輝定は、そう言って驚いた。「正成という奴、武士の風上にも置けぬ。悪党の最たるものぞ!」 ——これは、余程しっかり自分の位置を見極めておかぬと、大軍勢の動きに飲み込まれてしまって訳が分からなくなってしまう。宗季や浅比によく教えねばならぬな。 輝定は、そう思った。 先に内山永久寺で捕えられていた後醍醐天皇は、隠岐島へ流された。彼に従う者は一条行房と六条忠顕、世話する女房として阿野廉子らの三人だけであった。都の人々はこれを見て、「正当の天子を臣下が流し奉るとは、飛んでもないことだ。こんなことをしていると、幕府も今に駄目になるぞ」と噂しあった。 輝定は他の幕府軍の将兵と共に、楠木正成の戦い方に憤慨していた。大体当時の合戦には手法と手順があったにも拘らず、正成は、全くそれを無視したからである。 例えば衣川関の合戦で源義家が安倍貞任に勝利を収めた時、逃げる貞任を追って馬を走らせていた義家は貞任の背に和歌の下の句を詠じかけた。「衣のたてはほころびにけり」 これに対し貞任も、馬の上から振り返りつつ咄嗟に上の句を詠じ返した。「年を経し糸のみだれのくるしさに」 その反歌の見事さに感心した義家はその場で追撃を止めると貞任を逃した、というのが当時の戦い方であったからである。だからこの他にも、[互いに名乗りをあげて一騎打ちする][敵將の乗馬は射てはならない][一本一本の矢に自分の名を刻む]という戦い方であり、お互いの顔が見える戦いであった。[名を惜しみ、命を惜しまぬ]という気風が、まだ色濃く残されていたのである。 それから間もなく、京畿での勝ち戦を土産に田村軍が意気揚々と守山に凱旋してきた。これを一目見ようと、領内から多くの人が集まって来た。「うぉーっ」という海鳴りのような歓声とどよめきの中で、凱旋軍の行進は思うにまかせぬような有様であった。夕暮れ時になってようやく城内に入った凱旋軍は、全軍が揃うと田村庄総鎮守・大元帥明王に戦勝の報告をした。軍勢の持つきらきらと輝く槍の穂先が、この遠い遠征戦の終わりを告げていた。 輝定は守山城に戻ると我が子・宗季と久盛を呼び出し、留守中の報告を受けた。「大儀であった」 礼を言うと京都での戦いや様子を知らせた。「幕府についた方が良いようじゃのう」 それが輝定による今回の戦いの結論であった。それを聞く宗季の目が輝いていた。 この時の輝定は宗家の意志や周辺の各庄郡の動きと同様、立場は幕府側であった。あの京畿の戦いでの結論「幕府強し」の思いは、痛烈に脳裏に叩き込まれていた。 ところがその思いにも拘わらず、幕府は急速に力を失い始めていた。その結果幕府の家来たちが勝手なことをするようになり、奥州の武士に対しての締め付けが厳しくなってきた。多くの武将たちが幕府に不信感を持ちはじめた。 ——考えてみれば今回幕府側について戦ったのは、重教様とのつながりというだけであったし、それ以上に深い理由は特にない。それはともかく今回の戦勝での恩賞が全くない。これでは元寇の時と同じではないか! 輝定もまた、不満に思っていた。このような不信感の増幅が、輝定を反幕府へと押しやりはじめていた。 ところで戦国時代以前の武士団とは、単なる利益獲得のための集団であった。それであるから武士団は、自分の利益に資するとなれば敵にでも味方にでも、はたまた何度でも勝手に転んでもおかしくない時代であった。それは別に不思議なことでも、また悪いことでもなんでもなかったのである。 ところが『朱子学』を学んでいた後醍醐天皇は、別だった。朱子学では、「天はいつまでも天で絶対に落ちてこない。地面は地面で絶対上に上がらない。現在も将来も主人はあくまでも主人で家来はあくまでも家来である」と教えていた。であるから後醍醐天皇は、「今のように天皇の即位について幕府に口出しをさせることは、『一天万乗の君』たる自分がまるで鎌倉幕府に従う家来と同じようではないか? これはおかしい」と考えた。そこから出た結論は、「鎌倉幕府は単に武士の集団である。武士は天皇の家来である。家来は本来の家来の立場に戻って貰おう」ということであった。 つまり天皇と武士たちは全く別の基準でものを考え、行動をしていたのである。話の合う筈がなかった。
2007.09.04
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橋本姓の皆さん もう大分前のことになります。土蔵の片付けをしていたのですが、その時、何やら表彰状のようなものが出てきたのです。薄暗い土蔵の窓の下に持って行って見ると、そこには「宮内省」の文字が見えたのです。明るい部屋に持って行って見直すと、 故 橋本正茂 特旨ヲ以テ位記ヲ贈ラル 大正七年十一月十八日 宮内省 そしてその横には、 故 橋本正茂 贈正五位 大正七年十一月十八日 宮内大臣従二位勲一等 子爵波多野敬直宣 (宮内省印)とあったのです。 額縁の裏を開いてみると、橋本神社建立記念という裏書きのある小さな社の前での集合写真が出てきました。今は亡き父の妹に見せると、私の祖父やその従兄弟たちの写真であることが分かりました。聞き当たってみると、それは三春大神宮の一隅にあったのですが、その後それがどうなったかを宮司にも聞いてみたのですが、世代が代わった所為もあってか、「知らない」と言われてしまったのです。 この贈位書の下段にある「史蹟」には、次のように載っていました。ただし省略文です。『大和国橋本城主ノ橋本正員ハ後醍醐天皇ヲ奉ジ、楠木正成トトモニ湊川ニテ忠死、ソノ子正家ハ楠正秀トトモニ千剣破城(ちはやじょう)ニ敗レ、其子贈正五位故橋本正茂(はしもと まさもち)ハ奥州ニ下ッタ。ソノ後正茂ハ北畠顕家ニ従ッテ上京奮戦シタガ顕家戦死ノ後、田村輝定ノ軍ニ属シテ賊軍ニ抗戦スルコト十有余年。正茂ハ朝廷ニ勤王シテ終始忠節ヲ尽クシタ。其ノ功績ニ因り今般贈位ヲ賜フ。祖先ノ徳ヲ尊奉シ茲ニ後裔一族ニ此表ヲ賜ルモノ也。 大正拾年十一月十八日 贈位故橋本正茂公奉告祭事務所 この「史蹟」によりますと、田村輝定は田村郡守山(いまの郡山市田村町守山)の領主でしたから、子どものころ、私の住んでいた田村郡三春町とも関係があったのかも知れません。 私は早速、この『橋本正茂公奉告祭事務所』のHPを開いてみました。しかし古すぎるのか、ヒットしませんでした。それでもこの経緯を知りたくて、宮内庁に問い合わせてみようと思いましたが、流石にそれは畏れおおく、思い留まったのです。 そして現在、郡山市西田町土棚字内出152の1の高野神社に、橋本正茂が祀られています。この橋本正茂および高野神社の橋本廟について、ここでのお名前は控えさせて頂きますが、深く研究をなされている方が宇都宮におられます。やはり『橋本さん』、という方です。 橋本姓の皆さん。 ひょっとしてこの南北朝時代に生きた橋本正茂が、私たちの先祖かも知れません。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.09.16
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7伊東祐長・郡山を経営する 7 伊東祐長・郡山を経営する 郡山へやって来た伊東祐長は、たった一人での旅であったとは思えません。伊豆から送り出す兄の佑時としても、これから弟の行く郡山の地には、行ったこともなく見たこともない土地なのです。ともあれ行った先での生活のためには食料が必要です。農作業のため、鋤鍬を持った多くの百姓たちも連れてきたと考えられます。しかしそれだけでは不安です。なにか、悪い獣がいるかも知れないのです。ところで、清水正健(まさたけ)氏の編まれた『荘園志料(下)』によれば、記録が少ないとしながらも、田村荘や石川荘の存在を挙げておられるのですが、安積荘もすでに荘園化していたであろう、とされているのです。とすると、元々の統治者と変わった祐長に対して、受け入れ側の住民の反抗があるかも知れないのです。その場合の治安維持のための武力も必要です。 ところで私は、日和田の聖坊の福聚寺に宿泊した伊東祐長の一行は、そこから片平方面へ向かったと考えています。もちろん先遣隊が来ていて、祐長らを案内したと思われます。このことについて、郡山市史には、『笹原川、逢瀬川、藤田川などの合流点近くの郡山、安積町、富久山町、日和田町の阿武隈川流域に求め、伊東氏の開発進展によって、水利権や用水確保の必要から次第に上流へと上り片平などに嫡流の居城がおかれた』とあります。しかし私は逆に、伊東祐長らは先に奥羽山系の山裾である片平に入り、流れ出る水を利用して棚田を開拓、その後下流の郡山、安積町、富久山町、日和田町方面へ開拓を進めていったと考えています。今でもこの地区では、棚田が耕作されているのです。その他の理由としても、熱海町、大槻町、片平町の山裾には、伊豆から勧請された神社が多いこと、片平町には大きな舘跡がある上に館に関する地名が多いこと、それに今でもある常居寺、岩蔵寺、広修寺などが集中している寺町を形成していたこと、などに思っています。なお常居寺には、伊東氏累代の墓があります。 ところで片平町の南となる大槻町には、今現在、多くの相楽さんが住んでおられます。しかも、この相楽さんについては、いまでも大槻町に住む高齢の方は『相楽さん』とは呼ばずに、『相楽様』と呼ぶ土地柄なのです。私は、この2つの町の位置関係と『相楽さん』の多さから、相楽氏は伊東祐長の治安維持の一翼を担ったのではないかと想像しました。そこで現在、大槻に住む相楽モトさんに尋ねてみたところ、「戦国時代に、茨城県の結城から移り住んだと伝えられている」とのことでした。ここでちょっと説明しておきますと、最初の相良はアイリョウと書きましたが、後にアイラクと変化しています。伊東氏とアイリョウの相良氏は、深い親族関係にあったのです。相良城は、いまの静岡県牧之原市にありましたが、恐らく大槻町に来たのは、ここの相良氏の庶流であったと思われます。 その後、相楽モトさんより、天保十三年(1842年)に記述された『萬書覚扣帳』のコピーを頂きました。それには『鎌足胤、これは藤原鎌足の血筋という意味です。鎌足胤、伊豆伊東ヨリ十四代之末葉、城主・伊東祐頭。永正年中、大槻・駒屋・八幡・山口・大谷、右五ヶ村領ス』とあり、さらに、『相楽ト改号云々』とありました。この文面により、アイリョウからアイラクと変えたことが明確になります。そこで大槻町の長泉寺にある相楽モトさんのお墓を見せて頂いたところ、鎌倉時代のものと思われる墓碑が数基祀られていました。ですから間違いなく、その頃すでに、大槻に相良氏のいたことが証明できます。また相楽モトさんより頂いた『相楽半右衛門伝』に、『相楽荘を名字の地とした武士に相楽氏がいる。この相楽氏は、源頼朝に仕えて関東御家人となり、元久二年(1205年)に相良長瀬が肥後国人吉の地頭職を得て、鎌倉時代後期には惣領家が九州へ移住した』とあったのです。この佐良氏が、伊東祐長の下で治安維持に関わった一人と想像できます。 実は私の義弟の妻が、熱海町の狩野家の出身でした。このような私の話から、彼女がうっすらと、『先祖が伊豆から来た』と思い出してくれたのです。私は彼女の実家を訪ねたのですが、「詳しくは分からないので、狩野の本家に聞いてくれ」とのことだったのです。そこで本家の方と、狩野家の菩提寺に行ってみたのですが、それ以上のことは分かりませんでした。しかし私には、それで充分でした。片平の北が熱海でしたから。『太平記巻一』に、南北朝時代の人物として『狩野下野前司』、巻六に『狩野七郎左衛門尉』、巻十に『狩野五郎重光』、巻十四に『狩野新介』、巻三十七に『ひとかたの大将にもとたのみし狩野介も、降参しぬ』というように、狩野の姓が見られたのです。さらに文治五年(1189年)、狩野行光が奥州合戦に於いて戦功があり、源頼朝から恩賞として一迫川(いちはさまかわ)の流域、今の宮城県栗原市周辺を給わっています。狩野氏は、宮城県地方にも勢力を持っていた氏族だったのです。この一族を、伊東祐長は自己の本拠である片平の北の守りを、熱海の狩野氏に委ねたのではないかと考えられます。ちなみに家族数は少ないのですが、狩野さんは、いまも熱海町を主にして住んでおられます。トータルとして考えれば。片平の伊東祐長を中にし、北の熱海に狩野氏、南の大槻に相良氏を配置することで、戦いの場合を想定していたのかも知れません。
2023.04.01
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