『福島の歴史物語」

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2024.07.20
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カテゴリ: いろいろのこと


     三春駒

 三春駒は、現在、郷土玩具の『子育て木馬』として、西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られています。その発祥の伝説は、京都東山の音羽山清水寺に庵をむすんでいた僧の延鎮が、坂上田村麻呂の出兵にあたって、仏像を刻んだ残りの木切れで100体の小さな木馬を作って贈ったというのです。延暦14年(795年)、田村麻呂はこの木馬をお守りとして、奥羽の『まつろわぬ民』を討つため京を出発しました。そしてその途中となる、田村の郷の大滝根山の洞窟に、大多鬼丸という悪人どもの巣窟のあるのを知り、これを攻めたのです。ところが意外に強敵であった大多鬼丸を相手にして、田村麻呂率いる兵士が苦戦を強いられていたのです。そのようなとき、どこからか馬が100頭、田村麻呂の陣営に走り込んできたのです。 兵士たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、大多鬼丸を滅ぼしました。 ところが戦いが終わってみると、いつのまにか、あの馬100頭の行方はわからなくなっていたのです。 翌日、村の杵阿弥(きねあみ)という人が、汗びっしょりの木彫りの小さな駒を一体見つけて家に持ち帰り、それと同じに99体を作って100体としたのですが、高柴村が三春藩の領内であったので『三春駒』と名付け、100体の三春駒を子孫に残したのです。後に、杵阿弥の子孫が、この木馬を里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ったので、誰ともなしのにこの三春駒を『子育木馬』と呼ぶようになったというのです。

 三春藩の奥地には、もともと野生の馬が多く生息していました。それらを飼い慣らして農耕馬とし、軍馬として使われるなかで『三春駒』と言うようになったのです。江戸時代になると、藩を豊かにするための産業として馬を改良し、多くの良馬を生み出して全国へ広がっていったのです。 それもあって人々は、飼馬の安らかな成長を祈って、神社や馬頭観音に絵馬や高柴村で作られた木の三春駒を刻んで奉納するようになり、また子供の玩具に用いたりするようになったのです。木製の三春駒は、現在郷土玩具として、西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られるようになりました。いまの三春駒の原型は大正期に出来たとされ、直線と面を活かした巧みな馬体と洗練された描彩は、日本三大駒の随一との定評があります。馬産地として日々の生活の中で出来た人と馬との絆が、この木馬を生み出したのかもしれません。『三春黒駒』は子宝・安産・子育てのお守りとして、また『三春白駒』は老後の安泰、そして長寿のお守りとして作られています。『三春駒』は、青森県八戸の八幡馬、仙台の木下駒と並んで日本三駒とも呼ばれています。大小さまざまあるが,シュロのたてがみと尾をつけ,直線を生かした逞しい馬体につくられ,馬産地にふさわしいできばえを示していると言われます。

 生きた三春駒は絶滅してしまったので、どのような特徴のある馬であったかは分かりませんが、現在の日本経済新聞の前身となる中外商業新報の大正4年5月1日の記事に、『三春藩時代に於ては日暮、花月等の名馬を産し、明治時代に在ては夫の御料乗馬たりし友鶴、旭日等のごとき・・・』とあります。三春駒の友鶴、旭日の二頭が明治天皇の、また繰糸号が明治天皇の后の昭憲皇太后の、さらに第二関本号が大正天皇の御料馬であったということに驚かされます。これは田村郡から献上された三春駒の在来馬であったといわれていますが、いずれにせよこれらの馬の調教師は、いまの本宮市白沢の佐藤庄助さんであったそうです。

 ところでデコ屋敷の『デコ』は、『木偶(でく)』で木彫りの人形を表し、人形屋敷という意味になります。現在、高柴地区は郡山市に属しますが、江戸時代は三春藩領の高柴村であったため、その名残で三春駒や三春人形と呼ばれるようになったのです。大小のダルマや各種のお面、恵比寿・大黒や干支の動物などの縁起物をはじめ、雛人形や歌舞伎・浮世絵に題材をとる人形まで多くの種類を手掛けています。デコ屋敷周辺の狭い範囲には神社が点在し、約100基の朱の鳥居の立ち並ぶ『高屋敷稲荷神社』や、パワースポットの大岩のある日枝神社などがあり、ここには代々ご長寿の方が多いことなどから、そのご利益であるとの信仰を深めています。日本の三大駒として、青森県の八幡馬、宮城県の木ノ下駒と並んで三春駒が挙げられていますが、三春駒は、木ノ下駒の影響を受けていると考えられています。デコ屋敷にある郷土人形館では、江戸時代に制作された三春駒を見ることができ、福島県の重要有形民俗文化財に指定されている各工房の木型や、江戸時代の人形が展示されています。

 私は子どもの頃から、三春大神宮の境内に等身大の白馬の像のあることを知っていましたので、これは明治天皇に献納した三春駒の記念の像かと思っていました。しかし調べてみると、三春藩駒奉行徳田研山の指導で、石森村の仏師伊東光運が制作したものと分かり、時代も古く、明治の天皇家に献納した馬とは無関係なようでした。

 第二次大戦後は軍馬の需要は無くなり、また農業の機械化によって馬そのものの需要が激減しました。しかしその後も、田村郡では競走馬の生産が続けられ、小野町今泉牧場のトウコウエルザや、桑折町で生まれて北海道新冠の早田牧場新冠支場で調教を受けた天皇賞・宝塚記念・菊花賞を制したビワハヤヒデがいます。現在、東京電力福島第一原発よる放射能事故に追われ、全村避難となっていた旧三春藩領の双葉郡葛尾村でも、多くの馬が育てられていましたが、古代以来の馬作りの伝統が、福島産の馬の活躍にもつながったと思われます。なお、トウコウエルザは、昭和49年度優駿賞の最優秀4歳牝馬を受賞しています。またビワハヤヒデは平成4年、中央競馬でデビューし、翌年のクラシック三冠路線では、ナリタタイシン、ウイニングチケットの、それぞれの頭文字から『BNW』と呼ばれたのですが、それらライバルを制して三冠のうち最終戦の菊花賞を取得しています。

 令和元年5月3日のTBSで、大正天皇と貞明皇后のお二人の最側近として仕えた、元高等女官『椿の局』こと坂東登女子さんが、世にも稀な経験の数々を雅やかな御所言葉で語る、貴重な記録が放映されました。およそ100年前に宮中で仕えた女官の肉声を収めたカセットテープの内容でした。そして大正天皇と貞明皇后の人となりの話の中に、馬の話がちょっとだけ出ました。
 「陛下のお毒見しますでしょ。魚ならこんなひと切れとか」
 「趣味は御乗馬ですね。お馬さんですね」
 私はひょっとして、このお馬さんは三春駒ではなかったかという思いと、大正の時代までツボネという敬称が使われていたことに驚かされました。

 三春駒は、日本で最初の年賀切手に採用された民芸品です。工芸品とだけなって、生きた馬の姿は見ることができなくなってしまいましたが、新幹線郡山駅のコンコースに、その姿が描かれています。





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最終更新日  2024.07.20 08:00:12
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