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足摺岬田村家のルーツ
足摺岬田村家のルーツ(9) - 北総文学 - Yahoo! というブログを見つけました。
それによりますと、土佐の足摺岬の田村家のルーツは、田村麻呂であったのでする。
という。田村麻呂については、多くの文献、そして伝説が残されています。しかもそれは、全国各地に伝えられているのですが、その例のひとつが、土佐の田村氏であるというのです。『田村氏はなぜ足摺岬に来たのか。』というセンセーショナルな表題が、私を惹きつけました。
このブログによりますと、『鎌倉の初期、源頼朝の東北征伐の功で、大友能直(よしなお)が陸奥田村庄(福島県田村市・三春町)を領した。能直(よしなお)はその後、いまの福岡県と大分県にかけての豊前、豊後二国の守護となって領地が増えたので、建久五年(1194)、能直(よしなお)と同じく鎌倉幕府の官僚である中原親能(ちかよし)の養子であり、大江広元の妹婿でもあった藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け、初代の田村姓を名乗った』とありました。平安時代初期、すでに久満荘 ( くまのしょう・高知市 ) や田村荘(南国市)などが、荘園化されていました。ところで wiki によりますと、藤原(田村)仲教は、田村仲能の父とされていますが、これは田村荘司刑部大輔仲能であるかと推測できます。とすると、仲教は、『足摺岬田村家のルーツ』のブログにあるように、福島県の田村郡と関係のある人ということになります。ではどうして、そうなったのでしょうか。
これに関連した記録が、吾妻鏡に残されています。吾妻鏡は、鎌倉時代に成立したもので、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第六代将軍の宗尊(むねたか)親王までの六代の将軍記という構成で、治承四年(1180)から文永三年(1266)までの幕府の事績を年を追って記したものです。頼朝はこの中で、大友能直(まさなお)について、『並ぶ者のないお気に入り。』と記しています。文治五年(1189)、能直(まさなお)は 奥州合戦 に従軍、頼朝の近習を務めました。 建久 四年(1193)の 曾我兄弟の仇討ち では、兄の曽我時致(ときむね)の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守りました。
私は『足摺岬田村家のルーツ』の文章の中で、『藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け、初代の田村姓を名乗った。』という部分に疑問を感じました。三春町史のどこにも、それに関する記述がないのです。そこで私は、三春歴史民俗資料館に問い合わせてみました。早速、返事がきました。
『ご無沙汰をしております。さて、土佐田村氏に関係する記載についてのお問合せですが、ウィキペディアの記事かと思いますので、同ページで参考文献とされている『姓氏家系大辞典』を確認してみました。同辞典は、各種系図を引用・編纂したものです。「田村」の項に「藤姓大友氏族」の田村氏について等記載がありますが、「大友能直が陸奥田村庄を領し」という記載が確認できませんでした。ご質問の記載は、おそらく、各種田村氏の系図を混交して書いたものではないかと思います。精査の上でのお返事ではありませんので、その点ご了解ください。』
さてこうなると、土佐の田村氏が三春と関係があったかどうかはわかりませんが、土佐に田村氏がいたことは、事実のようです。 Wiki に、土佐田村氏の項がありました。この記述を引用してみます。
『鎌倉初期、源頼朝の東北征伐の功で大友能直が陸奥田村庄(福島県田村市・三春町)を領し、能直はその後九州の豊前、豊後2国の守護となり領地が増えたので、建久五年(1194)、能直と同じく中原親能の養子となっており、大江広元の妹婿でもあった藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け初代の田村姓を名乗った(『姓氏家系大辞典』 [ 要文献特定詳細情報 ] )。その子である田村 ( 藤原 ) 仲能は鎌倉幕府評定衆になり、陸奥守、伊賀守、能登守を務め、建長四年(1252)、宗孝親王が十一歳の若さで鎌倉に下って征夷大将軍になると、その後見役を務めた。神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある海蔵寺は仲能の建立によるものと、寺のパンフレットに書かれています。仲能の墓は、鎌倉の源氏山にあり、葛原岡神社の前に墓碑が立っている。田村氏は鎌倉幕府とともに一度は滅んだが、その後同じ一族の室町幕府評定衆の摂津氏を頼って再興したようだ [ 要出典 ] 。室町時代は幕府の奉公衆、御番衆を務め、近江野路村(草津市)の地頭となった。摂津氏領であった土佐田村庄は天授六年/康歴二年(1380)ころに守護の細川氏に占領されたが、永正四年(1507)に細川政元が暗殺されると土佐の細川氏は京都に引き上げてしまった。摂津氏は、いつも行動を共にしていた田村氏を土佐田村庄に派遣して旧領の回復を図ったようだ。土佐に入った田村氏は時を経て長宗我部氏の家臣となり、田村忠重など一族の活躍が多くの郷土史料に記されている [ 要出典 ] 。江戸時代には山内氏に仕官し、下茅村(土佐清水市下ノ加江)の大庄屋となったり、宿毛領(高知県宿毛市)にて武士になったりした。現在、土佐清水市などの幡多地方には多くの田村姓の人たちが暮らしている [ 要出典 ] 。土佐清水市下ノ加江に田村氏の祖先を祀った『田村神社』がある。(『田村氏はなぜ足摺岬に来たのか』 [ 要文献特定詳細情報 ] エリート情報社を参照)』
海蔵寺 は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、建長五年( 1253 )に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが元弘三年 (1333)5 月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。 藤原仲能は、第6代将軍宗尊親王の命を受けて、鎌倉扇ガ谷の海蔵寺を創建したと海蔵寺略縁起にある人物ですが、建長八年(1256)に亡くなった。
どうも私の推測では、福島県の田村荘の領主は、藤原仲能系と考えられている田村庄司家であったことから、どこかの時点からか土佐の田村庄と結びつけられたとも思える。しかも実際に残されているとされる藤原仲能の墓跡の石碑と位牌がある場所が、土佐からは遠い。仲能の墓が、いまの 鎌倉市扇ガ谷の 海蔵寺にあるということと、 Wiki にある『藤原仲教が田村庄の領地を譲り受け、初代の田村姓を名乗った。』という部分に、疑問を感じさせられる。
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