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金海の編(504年)
★
秦の始皇帝が(今の山東省)琅邪に夷族討伐の拠点を置くに
至り、莢夷(らいい・・・九つの夷族のうち強豪)は、
山東半島から黄海を渡り朝鮮半島に渡り、洛東江の河口を
東莢(とんらい)と呼んで、湿原地帯を開墾し、水稲栽培
を再現させた。後に、北からの伽那人が征服者として金官伽那国
を造り、その住民の多くが倭人であるという。
(古代の琅邪の位置:山東半島の根元にある)
///////////
つまり、著者は、
倭人が、莢夷と越人の混血であろうとの見解を取っているようだ。
倭人が、水稲栽培を得意とする地域からやってきたこと、 「越」(*)
と言う
中国の西南方面(浙江省辺りより西南)の民族を起源とすることを指している。
伝播ルートは「対馬海流」、「黒潮」、「遼東半島→朝鮮半島経由」、
「山東半島→朝鮮半島経由」などが有力。
この方面では、日本人にそっくりな容貌をした小柄な少数民族が
今でも住んでいるのである。やってきた場所は決まっているのではなく
彼らはあちこちと移動をしてきたので起源を決めつけることはできない。
倭人との交易を掌握しているのも、越人と言うから
倭人は大陸を移動している内に混血していたと推定される。
・・・・・
文化人類学の鳥越憲一郎氏「古代中国と倭族」では、江南に原住した稲作民
を「倭族」と捉え、その中で漢民族の圧迫により雲南、アッサムに移住した一派が
倭族の一派であるとしている。その意味で、東に水稲を伝播させたのも同じ倭族で
あると言えるだろう。
また、歴史を1万2千年前に遡ると東シナ海は平原であった、つまり、渤海湾、
東シナ海はなくて、黄河は中国大陸・朝鮮半島が陸地としてくっついている
なかを流れている時代に、東シナ海平原に住んでいた東夷が稲作を始めたという
説も現れている。本文の 倭人の起源が、夷と越の混血 と述べているのはこの辺を
捉えているのかも知れない。 <欄外参照>
この説は、ヴュルム氷河期で北米、北欧州が巨大な氷に覆われて、そのために
海面が大幅に低下して東シナ海平原ができたとしている。呆け頭の小生などは
くっついていた中国大陸・朝鮮半島が地殻変動で引き裂かれて黄海、渤海湾が
できたように地形から「想像」したい。日本列島が形成されたのも地殻変動である。
地殻変動(地震を含む)を想定して、原発再開を決めた頭の良い方は、
放射能の生命(最長万年~億年単位)と地殻変動を
政治数学 でカウントしたに違いない。
あくまで呆け頭の想像であるが・・・
しかし、沖縄海底遺跡の謎(木村政昭氏)を読んでみれば
地殻変動が起こっているのは証明済みであろう。
・・・・・
この世に純粋な民族は存在せず、ブレンドされてこそ健全な人間であろう。
同族間の血縁が強すぎると(血が濃すぎると)、遺伝的に問題が起こるのは
明白な事実なのである。家系図を重視する日本でも、血縁での結婚は
近すぎれば憚られる。民族間対立も、政治的な思惑に左右されているのかも
知れない。難しい問題だ。脱線した。
/////
(*)更に南になると「越南」(=ベトナム)といって、越の南であり、
略号は「越」で紛らわしい。この本では、日本の「越前・中・後」の越は「古志」
というから混乱しないで欲しい 。
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★
さて、淀江湊を船出した、真手王、男大迹王を乗せた三国船団は隠岐の島で
東風を待ち、一気に半島への航路を取った。到着した洛東江の沿岸は、岩肌の
露出した枯れ山が目立つが、網を打つ様や水稲栽培などの姿は、琵琶湖の淡海と
よく似ていた。ただ、濁っていること、干満の差が激しく、
特に不思議に思ったことは、満潮時に逆流する真水部分を足踏み水車で汲み上げて
堰の上の方の田圃に引き込んでいることであった。舵取りの龍次は、九州の筑紫川で
「アオ」(*)
という同様の方式があると、見聞の広さを披露した。目的地の金海は
漢人が拓いた街だけあって、四周を城壁で囲まれた堅牢な県城造りで、海岸線には
桟橋があり、百済、新羅、高句麗、魏、梁、南海の船が並び、倭船もいて、
度肝をぬくような殷賑さである。
男大迹王が母と暮らした金海には、10才年上の従兄弟がいて、男大迹王を可愛がり、
大陸文化、素養を身に付けさせてくれたのだ。
・
・・・・・・
(*) 筑後川下流域のシオ(アオ) についての参考
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/17117/p119-143.pdf
真水と塩水が交差する汽水域では、塩水の比重が重いので、塩水が下層を造り
真水は上層に浮いている。満潮で川を遡上してきた上澄み部分の真水を容易に
汲み上げることができる装置である。
・・・・・
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::: 男大迹王による各地探索の朝鮮半島の情報分析サマリー:: :
百済 ・・・武寧王の治世は安定、高句麗対策万全、倭国との対峙は緊迫なく
倭国が多少の侵食を甘受。
新羅 ・・・智証王は軍事態勢に改変、屯田兵を北の砦に置き対高句麗防衛力を強化。
高句麗 ・・・王・雲は宮廷内部の不安定化を抱えて動けない。
大伽那 ・・・新羅に倣い急速な軍制強化で、星山伽那、古寧伽那など北伽那を
併呑しつつある。
南伽那国・・・ (加羅、多羅、安羅、帯沙、卓淳など小国)は、内部分裂で
大伽那、百済、新羅のどちらに付くか動向は未定。
金海 ・・・これが不思議で、倭国に娘を献上するのが王の取り巻きの意向。
だが、倭人の支配者というプライドを持つ者達がこれに反対して、
新羅派、大伽那派に分かれて争っている。新羅はもともと伽那人であり、
金海王の弟や、鉄山を支配するものが新羅派に取り込まれた。
挺鉄が金海に回らず新羅に送られているので、通貨の役割の挺鉄が減り交易が
鈍ることになる。百済派は遠いのと人種が違うのでいないようだ。
また、金海王の娘は、ここ二年になるが倭国に嫁いでいないようで、
金海王は国内を纏められないようである。
以上。
・・・・・
★
男大迹王はこの国の調べは済んだので、倭国に立ち寄り帰りたいという。
交易船の格好をするために金海で壺、茶器の類を急遽買い集めて
半島から潮流の早い海峡を乗り切って、倭の役人の検問船の乗り込み
を受けた。そして「名(=「奴」を当てる)の津」に向かった。
実に煌びやかな30数隻の軍船らしきものが目にとまった。
それは、倭王磐井が金海王との約束で、王の娘を妃に迎えるために、
水軍を金官伽那に送る一行であった。
★
真手王、男大迹王達が「名の津」を放蕩気分で散策している頃、
香椎の宮に戦勝祈願 する倭王磐井一行が通りかかり、
皆平伏して見送った。
倭王磐井は、目聡く、男大迹王を垣間見て、「只者とは思えない。調査せよ」と
・
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参考資料
< 現在の香椎の宮のパンフレット : 同HPより>
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(呆けの写経は続く)
・・
<欄外参照>
下記のWEBを参照してください。
http://homepage2.nifty.com/whoseng/ancient/komes-origin-and-etymology.html
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