Tsunami氏寄稿、SCRAP記事、写経・感想など 326
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★PC画像★友人の逝去について思うことこのところ~迷惑電話や迷惑メールに騙されまいとして1.電話は固定電話では迷惑電話対策として~原則的に留守電にして置き~登録電話しか出ないことにしている2.メール対策では迷惑メールを消去するときにしか見ない などとしている。 これで~余計な勧誘電話は避けられるが~緊急の電話には対応ができない。 先頃、友人が逝去したが~その友人の逝去を知ったのは~約1ヶ月経ってからであった。 奥様とも~と言うよりも~奥様が秘書のように代行して電話して~繋いでくれたような感じであった。 多分であろうが~奥様からは電話があったのかもしれないが~小生は登録された電話でないと電話にはでないのである。 けれども彼女からメールもないから~電話していないかもしれない。 兎に角、メールアドレスは生きていたから~お悔やみをこちらでは~一方的にお伝え出来た。 このことから~自分の逝去の場合に~急がないにしても~会社の友人(OB会)、ゼミの友人への伝達方法だけでも家内に知らせて置くことを~思いついた。★ 友人たちのなかで僅かに大学に残った者や勉学者には~自分の死が真近なのに気付き、自分が学んだ図書を整理して残そうとしたものが二人ほどいた。 一人は世界的な大学者で大学に「○○文庫」として寄贈した。 もう一人は~自分の趣味で分類したようだが~これも1万冊近くはあるようだ。 呆け頭の小生はというと~妻に「もう絶対に読まないから、本棚を整理して頂戴」と言われるような為体である。 大学時代の原書もすっかり姿を消している。★ 小生の呆け頭では、連絡する友人も、せいぜいが~学生時代のクラスの代表者、会社時代の仲間の代表者の電話番号くらいの記録であろう。 いや~静かにしておいた方が~友人達にはいいかもしれないのである。 ゼミの友人達からは年賀状は昨年からお互いに交換は止めようということになっている。 年賀状が来なくなった時が~最後の時である。 ゼミの友人達がそれが~便りの無いのは良い便り~あの世でバイバイである。★
Nov 21, 2022
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☆ 過去のゼミの遺産を整理していたら書いた本人も思い出せない「経済成長の理論の数式化した比較読本」が見つかりました。 小生の属したゼミ主幹の「5大学インターゼミの印象」です。 余りにも多くの成長論をEconomic Journalなどからも勉強したので印象は薄い様だが小生には一番インパクトがあった。 だらだらと、呆けブログで思い出してみたい。 「5大学インターゼミ」とはテキストの「経済成長と発展の理論」1961(原書)であった。Theories of Economic Growth and Developmentby Irma Adelman 当時は、レポートが輪番であり、早稲田大学→中央大学→東京大学→慶応大学→一橋大学が一年間持ち回るもので学生達は担当ゼミの教室まで討論のために出向く訳である。 学生の議論の後には、ゼミ担当教官の詳しい解説を聞くことができる・・・アダム・スミス→リカード→マルクス→シュンペーター→ネオ・ケインジアンに至ろうとするイルマ・エーデルマンの雄図(経済学の先人たちが最も注目した生産要素を抉る)に虜にされたような気がする。 呆けの小生は、自分の中では数学が好きであったので、先人たちが過ごした社会では最も強力な経済の推進力が何であったかの「抽出作業」を細かく見るよりも、その主たる推進力が如何にして経済成長モデルを高めていくのか、ある時代には主たる変数であったり、ある時代にはパラメーターとして突如シフトしたりするなど多彩に変動する変数、パラメーターを意識できた。 小生が後に社会人になっても、分業体制という現代社会でそれぞれの企業が独自の技術や生産過程をもって生き生きと活動している姿には触発されたものであった。 経済学を教えられたままに理解するのではなく、その社会背景にある最もドミナントな主因に注目して全体の方向性を見てみることが大切なことに気が付いた。 各大学生は、いろいろな見方を学んだことだろうが単純な頭の小生にはイルマ・エーデルマン女史はもっとも理解がしやすい先生であった。 読本はよく覚えているが、各大学の風景は朧である。☆「5大学インターゼミ」とは、昭和23年(1943年)に中山伊知郎(一橋大学)、木村健康(東大)、千種義人(慶應義塾大学)、沖中恒幸(中大)の4教授によって始められ、29年に早大の政治経済攻究会が加わって五大学となった。 24年に中大で騒動がおこり沖中、川口弘等が転出し、三宅武雄(23年東商大卒、中山ゼミ)のゼミが引き継いだ。☆
Aug 6, 2019
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昨日に、「マホメット&シャルルマーニュ」の英訳本が飾り棚に並んでいるのを見て、面白く思い買ったら、後で本屋の主人に睨まれたと書いた。実は、その本屋には、当時、店に似つかわしくないほどの妙齢の美人店員がいて、本よりもその人の姿を、学生ながらも見たいと思って、ちょいちょい覗いたものだった。女店員は知らなかったが、店の主人(かなりの上品なおばあちゃんであった)の方は「まさかこのような本を買う人はいまいし、依頼した大先生に見えるように飾り棚に置いてあげよう。」と、タカをくくっていたらしい。お金がなさそうな学生が、かなり高い本をさっさと買っていったものだから、後で慌てて女店員を怒り、大先生には、「その本は直ぐに再注文したから」と、謝ったようなのだ。当時でも日本橋の「丸善」まで行ったところで直ぐに買える代物ではないようだった。学生の私がそのような高価な本を次々と買えたのは、親父が、「自分は、師範(学校)の時に本を買うのに苦労したから、お前には手紙さえ寄越せば本代くらい送金してやろう。」と、言ってくれており、「本代」としてかなりの無駄遣いをしていたからに外ならない。件の女主人から、本の前で「立ちんぼ」をしていると、「はたき」で足元を良くハタかれたことを覚えている。たしか、大学通りの「銀杏書房」という本屋であったと思うが、いまは見あたらない。また、「本屋」から「世界遺産で紹介されている修道院の図書館(スイス、オーストリアなど)」を想起するが、ゲルマン民族の大移動で人々が本を読めない、文字を書けない(文盲の)混乱状態がヨーロッパでしばらく続いたようである。言語や宗教、生活様式がまるで違う民族が共生せざるを得ない「カオス・暗黒時代」がながく続いたものの、立派に文化的芸術的に再生(ルネッサンス)できたのは、「隔離された大修道院の大図書館」が混乱期にも生き残り、庶民への布教活動の中で、「文化・芸術再生のエネルギー」を育んだのではあるまいか。小生でも、本を読んでいるときは「大学の図書館」が一番理解し易い雰囲気を与えてくれた。学生の頃にたくさんの洋書を買ったものだが、中身を読んでいないものもたくさんあった。勤めだして、結婚して、所帯をもつようになると、社宅住まいで部屋が狭くなり、「蔵書」は、「紙の虫」以外に、「空間占有」で問題化した。家内からは、「一年も読まない本は、二度と読まないでしょう」と、「断・捨・離」を説諭される。「この使えない数坪はもしお金に換えたらいくらすると思うの?」と言われれば、返す言葉に詰まってしまう。たしかに、狭くなった自宅では、ご主人様のスペースは家族のためのスペースに譲らないといけないし、図書館に行けば本はあるのだから。このような経過から、いまでは、和書、洋書はほとんど無くなったので、図書館か、手っ取り早くはWEBに依存せざるを得ない。10年前は、WEBにはなにもなかったが、いまは、良識のある人々が懸命にWEBの充実に加わっており、参考となる情報、まったく利用価値のないものも、ふんだんにある。ただ、玄人(史実を知る人)、素人(史実を知りたい人);性格の正しい人(史実に基づく情報を伝えることの好きな人)、性格の正しくない人(わざと誤った情報を流して楽しむ人);いろいろだから、取捨選択する本人の才量・感度を高める意外に方法はない。「大修道院の大図書館」のような役割をWEBが果たすにはまだまだ時間がかかるだろう。おっと、著作権も関係する。ここにも経済的で複雑な問題がありそうである。WEBを参考にしたと言えば、COPY PAPER と教授達には言われるだろうが、見当をつけられるくらいのDATAはWEBには備わりつつあるので、今後もWEBの厄介になるつもりである。とくに小生の呆け頭には、WEBは「有効!」よりも「技あり!」の判定だ。著作権問題があるので「一本!」とはいかない。
Sep 4, 2011
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半世紀前の学生時代には、歴史のゼミに入らずに、「たまたま本屋で学者先生が依頼していた「マホメット と シャルルマーニュ」なる英訳本(原書はフランス語)が飾り本棚にならんでいたのを面白く思って、買って下宿や図書館で読み始めた。本屋の主人にはあとで睨まれたが、件の大先生は笑って許してくれたようだ。外大出の有名な英語教師から、「英語の発音・イントネーションが悪い(小生は山の中の高校出)、翻訳に風情がなく、不正確」とレッテルを貼られた小生であり、この歴史本を読む素養は自分にも期待できなかったが、分厚い英和辞書、英英辞書などを参考に首っ引きで1年間追っかけ、案の定、消化不良に終わった。その後に、「ヨーロッパ世界の誕生」という立派な翻訳本があるのを知り、楽しく読んだことだった。いま、歴史についてWEBではいろいろな紹介や解説・解釈が自由に見られて面白い。しかし、専門の歴史書自体が史実に基づいて正しいといえるか、征服者側にねじ曲げられているのか、怪しい部分もあるように、WEBの短い文章では「判断」もできない。自分の知らない部分であるからなおそうである。いろいろのWEB文を比較して、自分の「記憶も朧で、怪しい感性」に訴えるしかない。市立図書館などに行って調べるのに、時間はいくらでもあるが、根気がなくなった。ここに、記載するのはあくまでも自分が脳幹梗塞のリハビリのために挑戦していることであり、そのことをお詫びしてWEBの隙間で「自分への挑戦」をしばらく続けさせて欲しいと思う次第。あまり考えたり、パソコンを長く眺めていると、呆け頭には良くないとは思いながらではあるが。
Sep 3, 2011
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日本銀行の出身者数人に恩義を感じている。学生時代はのんびりとして就職などを考えもしなかった。良いゼミに入れて学校の図書館と下宿の往復で楽しく過ごしていたものだから、ゼミの先生は大学院に進学すると理解したらしい。しかし、自分には他人の考えは多少は理解できるが、自分独自の理論を打ち立てるような才能はないので大学院は無理である。先生は紹介状を書いてくれて、叔父が役員を務めている地元の地銀の採用試験を叔父に告げずに受けた。ゼミは理論経済学であり、英文での授業には慣れていたので、試験は楽であったと記憶している。叔父の言うには、「試験官によると、英語以外はトップの成績だが、英語の翻訳で本人は判っているのに直さなかったところがあるようであり、残念ながら1番ではなかった。当行は成績トップか、資産がある家の子しか要らない。」と。たしか、大学で外大出の英語教師にも嫌われた覚えがある。その先生は、翻訳するときも英国紳士然として、翻訳も詩的な風情を醸し出す「立派な方」であったが。脱線したが、叔父は小生の役割はUターンして地銀に勤務するよりも、中央の機関に行って、より広い視野で仕事をしなさいというもの。後で考えると、「山内家側」とは反対の「長曽我部家側」である小生の家柄では、二重構造が残っている土佐には「向かない」という温かい思いやりがあって言ってくれたのだろう。よりによって、試験を受けた地銀の頭取の紹介状を持って「機関」を受験する羽目になった。その紹介状のお墨付きではないと思うが入社できた。そのあとで、機関の元日銀役員のお宅を学生の頃から、よくたずねたものだ。奥様が上品で、美しいお嬢さんがいたことを覚えている。くだんの方が亡くなってからもう随分経った。会社でも調査畑に日銀出身者が居て、なぜか親しく薫陶を受けたものだ。いま強烈な円高で日銀のあり方が新聞で取りざたされている。現政府は日銀の役員人事にちょっかいを出して、政策委員会がうまく機能しなかった時期がある。また、現政府は東北大震災直後の原発の制御指示に時間を費やし、大爆発(広島原爆の放射能のはるかな威力を拡散)を余儀なくした責任もあり、脱原発宣言は決して「免罪符」にならぬ。この二つの大罪を教訓にして、今回の「円高対策」をとるべきである。日銀に通貨発行、金融操作、日銀特融、為替介入などの業務の他に新たな臨時特別業務を認めるべきではないか。それは重点産業への追加投資(政策銀行などからの間接でも良い)、レアメタル・石油などの備蓄資金供給、東北復興基金貸付、その他のこの緊急時に必要な特別金融であり、そのための通貨発行を認めるのである。現政府は以前述べた世界的厚生経済学者・鈴村興太郎教授などを日銀政策委員(長)に迎えて抜本的な円高対策を行うべきと考える。ぼけの世迷い言である。
Aug 21, 2011
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昔のこと、不況であったので、別に入る気もなかったが、国鉄を受験した。幹部候補生を求めていたので、見るからに立派な青年がたくさんいたように思う。作文を書きなさいとのこと。小生は、子供時代からの「夢」を思い出した。以下は、思い出し文なので、当時よりも勝手な作文かも知れない。1.代替用・更新用の東海道新幹線として、もう一本を別途の直線ルートで造る、2.その新幹線はリニアモーターカーであり、ほとんど地中を通過する(余り速いので大阪と東京間は原則ノンストップ、停止のためには地中で圧縮空気などを使う、停止専用の引き込み線を設ける。地震大国なので隧道壁にぶつからないような防災面の備えを万全にする)3.駅ビルは乗降客の便宜のために、行政施設や商業施設などを併設する。ワンストップであらゆるサービスを受けられるようにする。線路は出来るだけこれらの併設の建造物を収用するために地下部分を多くとる、4.移動時間の短縮を考えるときに、駅への停車時間が最大のロスを生んでおり、「停車」自体が問題であると考える。例えば、複数の路線が並行して走っている場合は、その区間内は一方を特急並み、他方を各駅停車並みとするなど時短を配慮する、などというもの。相互乗り入れや、他社電鉄との待ち時間を少なくするなどは、利用者本位の考えに立っている。まるで「国鉄側の利益保護」はない作文だったので、「国鉄を紹介してくれた親切な先輩」は、とんでもない幼稚な文を書いてくれたものと、大変憤慨されたので恐縮したものだ。 しかし、ほぼ半世紀経った今となっては、第二新幹線も検討され、東京駅は多目的な商業施設をもつに至り、都内の駅では相互乗り入れが行われ、並行運転の山手・京浜東北線では停車駅のダブリ縮小など、乗降客の便宜優先の方向付けがはじまっており、「あながちデタラメ作文ではなかった」とホットしている。 まあ当時の国鉄は、小生のような「夢」だけを「稚拙に」描く人よりも、労使交渉・地域対策などのもっと重要な課題を抱えていて、それらを任せられる、精神的にもタフで、行政面にも優れた「大物人材」を求めていたのである。 旧国鉄は、線路という横に長いが膨大な面積の土地を資産として保有している。これを地中化して、地上に有効な施設を構築することにより、新たな資源を生み出すことはできないものかとも思う。鉄道フアンには地中化すると見る楽しみが減り、保線員には暗くなって復旧工事などに支障がでる、付け替え工事に膨大な費用がかかる、水害対策はどうするか、などのデメリットも多いが、区間によりメリットもでるかも知れない。ただ、経験がない、馬鹿げているとしか考えられないなどと、何でも切り捨てるのでは、「日本を洗濯してみたい」という気概の坂本龍馬に対して恥ずかしくないか。 蓮舫さんの言うように、「一番でなければいけないでしょうか?」は正しい。なぜなら、国民は「一番」の一人ではなく、2番から「1億余・番」の構成だからだ。オリンピックは1番の人ではなく、世界の国民がスポーツに参加することに意義がある。クーベルタン男爵とサマランチ元会長の違いは、理想家と興行主の違いである。一応は、なんでも「洗濯」することで本質を見抜き、真に必要なものから順に予算を配分する姿勢で良いのではないかと思う。 理想だけを考えると、超高速巨大ベルトが日本列島を走り、高速ベルト、中速ベルト、低速ベルトが全国に並行・縦横に走っており、行き先をタッグに電子記録しておくと、自動的に一人一人が目的のポイントに高速配送される時代が来るかも知れない。超未来には、旅行が、自動倉庫内の荷物移動のように、味気のないものとなるかも知れない。富士山を2度見たり、お酒を飲んで他のお客と談笑したり、時間待ちで駅弁を楽しんだり、全国すべての路線・駅踏破記録などを狙う楽しみは、その時、すべて消えるかも知れない。待ち時間を極度に最適化すると、人間の楽しみや幸福は、そのとき、最少となるのだ。そんなときでも人間は他の楽しみを探し出す、と信ずる。
Jul 17, 2010
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学者の意見はその依るところを見抜けないと怪我をする。大学では、前期には、経済よりも「イスラム教とキリスト教」の攻防を研究した本を原書で読んでいたので歴史が好きな学生と思われていた。後期になると、みんなが敬遠していた、超難しいといわれるゼミに入ることが出来た。いまでも、ゼミの先生が凄い先生だったからか、頭が良いと誤解されるときがある。 凄い美人を連れた男性を見ると、いい男が多いが、なかには、ちょっと違うような組合せを見ることがある。それは、あまりに美人だと、男性が近寄りがたく、おたがいが牽制し合うためであり、漁夫の利を得るような事態が発生するのと良く似ている。 ゼミの幹事長は学年トップで卒業しており、将来はノーベル経済学賞をとるであろうS君である。 高名な教授は、「君はわたしとよく似ているね」と可愛がってくれたが、先生はものすごい秀才なので、現小樽商大から招かれるようにして来られたのだ。先生の初期の論文(一般均衡理論など)は、集合論や高等数学の記号がいっぱいである。小生は、地方出身には違いないが、志望を工学部から変えたのは、英語と数学が多少好きなだけで、発想力に自分の限界を感じたため(積分記号が3つ並んだ数学で「電気」を学んだりするのは苦手である)に過ぎない。 われわれがゼミに入ってからは、先生は高等数学を使わず、もっぱら、恒等式のようなものを利用しだした。文字を上にしたり、下にしたりして、分数のような経済変数の概念を創り出し、その積をいくつか組み合わせるのである。素人の学生から見ると、どうみても恒等式なのだが、よくみると、その中には、変数であると思われるものと、短期的には、統計学的にみて定数と考えても差し支えないようなもの(それが万一動くときは「シフト」するものとして扱う)が混ざっている。先生は、頭の悪い小生がいるので、多分、理解を速めるために、そのような簡単な表現方法を取り始めたような気がした。多次元の表現を、2次元(それにパラメーターのシフトがあるので3次元)で説明するやり方は、小生の頭の悪さに対応してくれたものと感謝している。 また、ゼミでは、有名な女性経済学者(ノーベル賞)のテキストを原書で読み合わせたが、マルクス、ケインズ、等々について、どの変数の組合せを重要視したから独自の理論(剣道の何流に近い)ができたか、というもの。従って、その学者の焦点(選んだ変数の組合せ、選んだパラメーターなどとまるで数学である)がどこにあり、どこの部分をよく説明できるが(経済政策に応用できるほど国民に理解させやすい)、どこの部分はよく表せない(理論上の限界があり、他の学者派閥との紛争を抱えている)などが、短期間でマスターできるものであった。 そんなとき、大学院の聴講ができる機会があった。著名な教授が、友人の世界的な経済学者を招いて記念講演を設けた。その人の名はラーナー博士である。講演が終わって、質問の時間となった。先輩達は素晴らしい講演を生で聴けて感激している。だれも質問しようとはしない。ついつい「学生の身分」で、手を挙げてしまった。司会者の教授は、「学生さんだね、日本語で良いから言ってご覧。私が同時通訳するから。」小生が、母国語の日本語でもたどたどしく、「ラーナー教授は利子論の大家であられます。昨今、利子や利潤が大幅に低下しています。技術進歩を引き出すような、インパクトのある利潤が生まれてこない時代には、有効需要を喚起するには、どうしたらいいでしょうか?」などといった素朴な内容を聞いたような気がする。自分の乏しい知識では、博士がなにか「利子論」について書いた論文を読んだような気がしたので、折角だから、なにか質問しなくては、と思ったのだ。 とたんに、「つるの一声」が聞こえた。「ラーナー博士はお忙しいのに、私との研究のために、本学にお見えになったのである。つまらない質問に答えるために来たのではない。学生は外に出なさい。」間髪を入れず、同時通訳を聞いていた、ラーナー博士の優しい声がマイクに乗った。「まあまあ、都留さん。そういえば、私が若いころは、金利を研究していました。たしかに、いま学生さんが言ったようなテーマで論文を書いたことがありました。幸い、特に質問がないようですので、すこしそこに重点をおいて、最近のお話しをしましょう。・・・・・」 ラーナー博士のそこのお話は、「つるの一声」で衝撃が走り、あまり覚えていない。あとで、ゼミの先生からは「君が大学院生の質問がないなかで、突然に質問したのには全く驚いたよ」、と優しく言われホットしたものだ。 いまでも、酒を飲むとき、同席していたゼミテンが「つるの一声」とからかうのである。つるはつるでも、都留重人教授のことではあるが。
Jul 14, 2010
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