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めいてい君 @ 日本の純資産~過去最大の純資産で円建てでは世界最大 [東京 28日 ロイター] - 財務省は2…

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Sep 16, 2016
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Třešť "  -   Josef Alois Schumpeterの生まれ故郷   

シュンペーター (Třešť)会議での資料

      作者  Frantisek Bukvaj
      翻訳  宇治見氏


1、Josef Alois Schumpeterは1883年2月8日  Třešť (*)に生まれた。

 この町は、昔銀鉱山で有名な Jihlava ( Iglau )と、

   ルネッサンス時代の町で世界遺産に登録された歴史的な町 Telc

   との間に位置する。

(*注:チェコの地名の読みは難解で、

    Třešť は「チェスチュ」や「トジェシュチ」 [発音記号ˈtr̝̊ɛʃc]、

    Jihlavaは「イフラバ」、

    Telcは「テルチ」  と読む。)


<チェコ広域図:イフラバとテルチを探す>




<Třešťの位置:イフラバとテルチの中間点>




Třešť :ザーメッキーホテルが祝賀会場、最寄り駅は左上>


     < 地図が 見辛い時は右クリックして新しい別のタブを開いてご覧下さい




 最初 Třešť の土地はチェコの貴族に所有されていたが、

 その後オーストリア帝国の貴族の領地となった。

2、Schumpeterが生まれた頃、Třešť の工業生産は成長していた。

 この成長を引き出した立役者は、伝統的なギルド制度、

 即ち、同一の業種の親方および徒弟を統率する組織制度であった。

 Třešť で最も重要なギルドは布地のギルドで、

 1842年には95人親方が所属していた。

 最初の布地織物機は J.A. Schumpeter により1832-1833年に導入された。

 1840年頃、Třešť では,ユダヤ人実業家によりマッチの製造が始まった。

 さらに1868年にはユダヤ人実業家により、時計・家具の製造も始まった。

 Třešť の諸工場では、数百人の労働者を雇っていた。



 工場における悪い労働環境、低賃金はやがて社会的な不安を作り上げていった。

 そのため、いろいろな組合が組成された。

 1921年には Třešť に共産党の支部が開設された。

 第2次大戦中、Třešť の多くの市民が犠牲になった。

 ホロコストの犠牲になったユダヤ人は115人に達した。



3、昔から、Třešť はチェコとドイツをつなぐ交差点の役割を担ってきた。

 19世紀に入り、2つの国民の間に緊張が高まった。

 これは町の指導者層の権力闘争にもつながった。

 宗教で言えば、キリスト教とユダヤ教がお互いに対立した。

 Třešť のドイツ人は主に Iglau のドイツ語使用中心地域から移住してきた人が多い。

 1900年、4,517人のチェコ人と245人のドイツ人が Třešť には住んでいた。

 しかし、ドイツ人の数は徐々に減少し、1929年には38人になった。

 1945年5月の粛清でドイツ人はすべて町を去った。

4、町のユダヤ人社会は15世紀(1425年ごろまでに)に出来上がった。

 ユダヤ人は1424-1426年頃 Jihlava の近くの町から放逐された。

 何人かは、Třešť に定住した。

 その後250年間彼らは、町の各地に散らばって住んだが、

 1686年、町の一角にまとまって住むよう強制された

 (当時の広大な Třešť 土地支配者、Herberstein 伯爵の命令による)。

 その後ユダヤ人社会は人数でも、資産の面でも急膨張した。

 1794年には Třešť 人口2837人中630人、1830年には750人になった。

 しかし1848年ユダヤ人が市民権を認められ、

 大都市への移動が認められるようになると、人口は減り始めた。

 1869年には281人だったが、1910年には133人となった。

 1930年は64人、現在は Třešť および近郷にユダヤ教を信ずる住人はいない。

 ユダヤ教のシナゴーグは、1693年の文献にはじめて登場する。

 現在のものは、1824年の火災で焼失した後の再建である。

 町の南の境界付近には、15世紀に作られたユダヤ人墓地がある。

 町の歴史遺産としては、14世紀の St.Martin’s Church 、

 17世紀の Church of St. Chatherine of Siena、そして城である。

 もともとは要塞であったが、17世紀にChateauとして再建された。

 現在は Academy of Science が所有者で、中はホテルとして使われている。

 町の中心部にはユダヤ人教会がある。

 1693年に初めて文書の中に登場するが、火災で焼失し、

 現在の建物は1824年に再建されたものである。

 現在は、チェコの Hussite Church の所有である。

5、1873年、モラビアの最初の小学校が Třešť に設立された。

 現在の建物は1890年および1901年のものである。

 他に重要な建物として、Dr.Siegfried Loevy(1897-1944)の建物があり

(Schumpeter生家の斜め前)、この人はユダヤ人医師で、

 Franz Kafka(1883-1924)の伯父にあたる。

 家の正面には、この有名な作家の胸像がある。

 Kafkaは1900-1907年期間、毎年夏休みをここで過ごした。

6、世界的に著名な経済学者Josef Alois Schumpeter(1883-1950)の

 生家は Roosevelt 通りにあり、18世紀後半に作られた宮殿様式の建物である

 (内部は郷土博物館になっている)。


<シュンペーター生家内の展示:
   真ん中の写真は彼が日本の一橋大学を訪れたとき>






 町の南のはずれには、15世紀に作られたユダヤ人墓地がある。

 15世紀、16世紀の有名なユダヤ教聖職者が大勢ここに眠っている。

 18世紀のバロック様式の墓石もあり、これは歴史的価値を有する。


<シュンペーター会議の開かれた「領主の館」
   zámecký hotel、Třešť >





<開催当時の Třešť (人口約6千人) のMayor:来賓>






<開催当時の来賓達:ザーメッキーホテル会場にて:
 シュンペーターの著作を共同翻訳した塩野谷祐一・
 一橋大学名誉教授(故人)も出席、
 向かって左は国際シュンペーター学会会長のDr.Horst Hanusch>














<最寄りの Třešť 駅>





< Třešť 駅から延びる鉄路>






                       以上


追記1

シュンペーターの主な著作 [WIKIPEDIAから]

1.Wesen und Hauptinhalt der theoretischen Nationalökonomie , 1908

  『理論経済学の本質と主要内容』

   大野忠男・安井琢磨・木村健康訳

2.Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung , 1912

  『経済発展の理論(ドイツ語版) : 企業者利潤・資本・信用・利子

   および景気の回転に関する一研究』

    塩野谷祐一・中山伊知郎・東畑精一訳

3."Epochen der Dogmen-und Methodengeschichte",
   Wirtschaft und Wirtschaftwissenschaft
, p19-124, 1914

  『経済学史 : 学説ならびに方法の諸段階』

    中山伊知郎・東畑精一訳

4.Die Krise des Steuerstaats , 1918

  『租税国家の危機』

    木村元一・小谷義次訳

5.Business Cycles , 1939

  『景気循環論 : 資本主義過程の理論的・歴史的・統計的分析』

    金融経済研究所訳

6.Capitalism, Socialism, and Democracy , 1942

  『資本主義・社会主義・民主主義』

    中山伊知郎・東畑精一訳

7.History of Economic Analysis , 1954

  『経済分析の歴史』

    東畑精一訳



追記2

WEB参考資料:一橋大学附属図書館企画展示

 「マーシャルとシュンペーターの遺産」

・講演「シュンペーターの野心:その人生と学問」

 講師:塩野谷祐一(一橋大学名誉教授、元学長)


 http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/
            amijas/kouen.html

  をクリックして、そのなかの「画像付き」を再度クリックして下さい。   

   →「WEB講演記録」をお読み下さい。

           /////////////////////

 講演記録を上記のURLからは見ることのできない方は、

「マーシャルとシュンペーターの遺産-一橋大学附属図書館」

  の「検索」がWebに残っており、

 「URL」でなく「タイトル」をクリックすることでjumpします。

  同じようなタイトルが並んでいますが、

「2007/03/30-塩野谷です。どうぞよろしく。・・・」

   とある場所です。

////////////////////////////////////////////////////////



一橋大学附属図書館展示の写真を借りて表示します。





















///////////////////////////////////////////////////////////


是非とも、WEB講演録を熟読してください。



追記3.
シュンペーター年譜

(一橋大学附属図書館より、 URLは後記
ヨーゼフ・アロイス・シュンペーター


1883年 2月8日  オーストリア=ハンガリー帝国、モラヴィア地方(チェコ東部)の
  トリーシュ Triesch (現・チェコのチェスチュ Třešť ) に、
  織物工場主ヨーゼフ・シュンペーター Josef Schumpeter (1855-1887)と、
  医者の娘ヨハンナ・グリューナー・シュンペーター Johanna Grüner Schumpeter
  (1861-1926) (1881年結婚)の最初の子として生まれる
  (同年の3月14日にはマルクスが亡くなり、6月5日にはケインズが生まれている)。
1887年 (4歳)  父親が死去、母親の郷里イーグラウ Iglau
  (現・チェコのイフラヴァ Jihlava)に転居。
1888-1892年  母親に連れられて転居したグラーツ Graz で学校に通う。
1893年  母親が陸軍中将(Feldmarschalleutnant) ジグムント・フォン・ケラー
  Sigmund von Kéler と結婚。
1893-1901年   ウィーンで貴族階級の子弟の教育機関テレジアヌム Theresianum に学ぶ。
1901年  ウィーン大学法学部に進学。
1906年 2月  ウィーン大学を卒業、ローマ法と教会法に関する研究で博士号(法学)を取得。
1906年 7月3日  母親がケラーと離婚。
1906年    秋、イギリスへ渡る。
1907年 11月、(24歳)   グレイディス・リカード・シーヴァー Gladys Ricarde Seaver
   (36歳、イングランド教会の大僧正の娘) と結婚。その後、夫人グレイディスを伴って
   エジプトのカイロに赴き、弁護士として働く。
1908年 『理論経済学の本質と主要内容』 Das Wesen und der Hauptinhalt
   der theoretischen Nationalökonomie 刊行。
1909年  チェルノヴィッツ大学准教授に就任。チェルノヴィッツ Czernowitz は、
   現在のウクライナのチェルニフツィ Чернiвцi、 当時はオーストリア=ハンガリー帝国
   の東の果てに位置していた。
1911年 11月  グラーツ大学法学部教授に就任。
1912年 『経済発展の理論』 Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung 刊行。
1913年  コロンビア大学から客員教授として招聘され名誉博士号を受ける。
1914年 『経済学史』 Epochen der Dogmen- und Methodengeschichte 刊行。
1919年 3月15日(36歳)  オーストリア共和国の大蔵大臣に就任したが、10月17日辞職。
1920年  グレイディスと離婚。
1921年  ビーダーマン銀行の頭取に就任。
1924年  ビーダーマン銀行が経営危機に陥ったため、9月、頭取を辞任、巨額の借金を負う。
1925年11月5日 (42歳)
         アンナ・ヨゼフィン・ライジンガー Anna Josefinn Reisinger
    (1903.3.22-1926.8.3) (22歳、シュンペーターの母が1920年まで住んでいた
    アパートの管理人の娘) と結婚。
1925年   ボン大学の教授に就任。
1926年 6月22日  母ヨハンナ死去。8月3日、妻アンナが出産の際に死亡、
    生まれた息子も間もなく死亡。
1927-1928年, 1930年  ハーヴァード大学に客員教授として出講。
1931年 (47-48歳)  初めて来日し東京商科大学、東京帝国大学、神戸商業大学ほかで講演。
1932年 9月   ボン大学の教授を辞任して渡米、ハーヴァード大学の教授に就任。
1937年 8月16日(54歳)  エリザベス・ブーディ・フィルスキ Elizabeth Boody Firuski
    (39歳、経済学者)と結婚。
1939年 『景気循環論』 Business cycles 刊行。
1940-1941年  計量経済学会 Econometric Society 会長。
1942年 『資本主義・社会主義・民主主義』Capitalism, socialism, and democracy 刊行。
1948年   アメリカ経済学会 American Economic Association 会長。
1949年 翌年発足予定の国際経済学会 (国際経済学連合) International Economic Association
    会長に選出される。
1950年 1月8日   早朝、睡眠中に脳溢血で死亡(享年66歳)。
1951年 『十大経済学者』 Ten great economists : from Marx to Keynes 刊行。 
         『帝国主義と社会階級』 Imperialism and Social classes 刊行。
1953年 7月17日  妻エリザベス死去。
1954年 『経済分析の歴史』 History of economic analysis 刊行。
1955年 2月28日   「シュムペーター文庫」が一橋大学に寄贈される。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  シュンペーターの出身地チェスチュ Třešť (ドイツ語名トリーシュ Triesch) には、
  カフカ(シュンペーターと同じ1883年生まれ)の叔父の家があった。 
  フランツ・カフカ Franz Kafka (1883.7.3-1924.6.3) の叔父(フランツの母
  ユーリエの異母弟)ジークフリート・レーヴィ Siegfried Levi はチェスチュで
  医者を開業していた。短編小説「田舎医者」Ein Landarzt(1917)にはその反映が見られる。
  「カフカの叔父は一族の中で最も学のあるヒューマニストで、この町で医院を開業していた。
  作家カフカはこの叔父を大変慕い、一九〇〇年から一九〇七年の間、たびたびここを訪れた。
  医院はシュンペーター生家の斜め前に現存し、窓にカフカのレリーフがかかっている。」 
  (石原健「シュンペーターの生地を訪問」『如水会会報』921, p.3-4
  (2007年2月号)【ZA:17】 より p.4)
  「ジークフリートは医者を開業。フランツ・カフカは父方よりも母方の叔父たちに親しんだ。
  幼いころジークフリート叔父の住む田舎町へ毎年のように出かけた。
  短篇「田舎医者」のモデルにしたと思われる。」 
 (池内紀「カフカの家族」(「カフカの好奇心」(9))
 『三省堂ぶっくれっと』No.153 (2002.3) →  
  [再録]: 『カフカ事典』池内紀, 若林恵著. 東京 : 三省堂, 2003.6, p.75【9400:288】)
 「母の義母の子。トリーシュで開業していた「田舎医者」。
  カフカはその人柄を敬愛し、学生時代の休暇の折によく訪問した。
  カフカの最晩年のころには、なにかと医者としての助言を怠らなかった。
  ナチによって強制収容所に送られる直前、自殺したと伝えられる。」 
 (『カフカ全集』マックス・ブロート [ほか] 編集. 決定版. 9:
  吉田仙太郎訳「手紙 1902-1924」新潮社, 1981.9, p.579 【9480:7:9】)

http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/amjas/jasnenpu.html



追記4.

” Třešť ” について「町の風景」と「紋章旗」 :WIKIPEDIAから















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Last updated  Apr 29, 2020 03:48:06 PM
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