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https://www.shimantogawa-joryu.com/
https://hmmmhmmm.com/5585.html
四万十川の上流の天然鰻はお腹が金色で小ぶりである。
子供の錯覚か土佐の不可思議か❓
小生は今でも窪川(高岡郡四万十町)から
四万十川は
下流の中村(幡多郡四万十市中村)に
流れないと
勘違いしている。
下流から上流に流れることがあるのか~
不可思議であった。
しかし、家地川(いえち”かわ)付近には
高さ8m
ダム(というより正確には魚道付き堤防のようなもの)
が並行して走り、全く違う新水系として
太平洋の土佐佐賀駅付近へと落ちている。
窪川(高岡郡四万十町)の下水が汚くて四万十川を
汚さないのもこの堰堤のお陰であると聞いた。
四万十川の下流には沈下橋が多く、また、ダムがない
から、淀んだ水はない~と人は言う。
小生の住んだ上流の仁井田(高岡郡四万十町仁井田)
(長宗我部氏の時代には一帯が仁井田郷という開墾地)
付近には
田んぼや堰やあるが、
並行して流れる松葉川には
上流に小規模ダムがあり、
中土佐町久礼
ここからも 直接・太平洋
に
久礼付近で流れ落ちている。
稲田へ引き込む
小生の嘗て住んだ仁井田川には用水用の堰があるので、
泥鰌、鰻
や鯉、鮒、鯰、鮠、虎魚、鈍甲など沢山
いるが、
清流を好む 鮎
は 松葉川
まで行かないと見られない。
坂本龍馬が辿ったという高岡郡梼原村には、
下記の最短ルートでなく、佐川→梼原→韮ヶ崎→内子と、
横へ横へと行っているが・・・
https://gcy.jp/kkd/matsutosa.html
https://tabi-mag.jp/ko0137/
梼原村 維新の門
********
坂本龍馬は、文久2年(1862年)3月24日に高知を出奔し、
翌3月25日に檮原に到着。
その夜、檮原村の勤王の志士で
ある那須俊平(土佐一の槍の達人)・信吾父子の家に宿泊。
3月26日に那須俊平・信吾の道案内で宮野々番所を抜け、
四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて、予土国境(愛媛・
高知県境)の韮ヶ峠に至り、盟友・沢村惣之丞とともに
土佐藩を脱藩。
檮原からも文久2年〜3年に吉村虎太郎、
中平龍之助、前田繋馬が国境を越え、維新動乱の渦中に
身を投じています。
案内役の那須信吾は、韮ヶ峠より引き
返しましたが、那須俊平は脱藩後も同行し、小屋村(現・
西予市)、水ヶ峠(大洲市)を経て26日は泉ヶ峠(内子町)
に宿泊。
3月27日、宿間村(内子町)に到着。
那須俊平は
ここで見送り、坂本龍馬、沢村惣之丞は船便にて長浜
(大洲市長浜)に至っています。
3月27日夜は長浜の冨屋
金兵衛宅に宿泊。
翌3月28日に長浜から船で2日を要して
三田尻(現・山口県防府市)へと瀬戸内海を渡っています。
**********
梼原川という 水量の多い川
があり、高岡郡
梼原村
には
高さ45.5m
都賀ダムがあり、これも四万十川に流れ込んでいる。
この梼原川が四万十川に流れ込むのは家地川より
下流の四万十町田野々であり、ここは水流が多い。
仁井田川や松葉川などの水量の約半分は
家地川の堰堤で別れ、発電に使用されるべく、
近くの土佐佐賀(別水系の伊与木川)に
落ちる。
小生の誤った流れの方向感覚は~もしかして、窪川側の
水量が落ちた時に、水量の多い梼原川から逆流している
時期があるかもしれないと~思う次第。
(逆流性胃腸炎のような現象か~)
四万十川にダムや堰はないというのは誤りであり、
また同川は日本三大清流のトップに挙げられるが、
土佐には
もっともっと青々とした清流・ 仁淀川
がある。
地方の名家~名家というが、これも寄付金で決まる
話であり、
名家にはお金がいるものである。
何を言いたいかであるが、四万十川は四国一の
本当の清流ではないのである。
仁淀川は水が溜まらず大雨でもサッと下流まで
流してしまう(ただし、民は 伏流水
を利用する)。
土佐の酒蔵・司牡丹があるのはこの中流・
佐川
である(土佐の酒の石高は土佐鶴、司牡丹)。
**********
古い2010年の資料だがNHKの龍馬伝(福山雅治)
の放送があった
影響かもしれない
酒造石高で次の記録がある。
1位 白鶴 59,710kl
2位 月桂冠 50,329
3位 松竹梅 45,819
4位 大関 35,176
<高知県>
25位 土佐鶴 3,240
55位 司牡丹 1,013
78位 酔鯨 493
https://ameblo.jp/sake-hiroshi/entry-
10834934119.html
**********
佐川町
は神奈川の酒匂川と同じく「酒蔵」に由来する。
牧野富太郎博士の朝ドラですっかり有名になった。
本人は植物観察・研究に没頭し続け、酒の経営には無頓着
牧野富太郎博士の酒蔵・岸屋は司牡丹に吸収された。
興味のある方は、当ブログ「Apr3,2023」などを参照。
伏流水を使用する土佐和紙の里・伊野町もその
下流にある。
この文章は、小生の学友からの質問~
「 四万十川の流れがどうなっているか
」と
聞かされた時、
ふっと頭をよぎった空想である。
1.四万十川にダムが全くないというのは誤り。
2.四万十川が奇麗なのは 下流にダムがなく
、
橋が沈下橋であるお陰は正しいのだが、
その場合は上流~中流では、都賀ダム以外の
ダムで堰き止めた汚い水は電源:別水系として
高南台地から直接に太平洋に落下し流れる。
3.この2つのダムは上流の水を直接に、落差を
利用するために別水系で 太平洋
に落下させて
いる(松葉川ダム →
中土佐町久礼:太平洋沿岸、
高岡郡
家地川堰堤
→幡多郡黒潮町
佐賀
:
太平洋沿岸
)。
四万十川の流れ
・ 仁井田川 ~
・松葉川 ダム(→土佐久礼→太平洋)
~松葉川~
ダム
→窪川盆地(四万十町)~ 家地川
堰堤
1.土佐佐賀~発電~太平洋へ別水系
2.四万十川~
(水量の半分以上を取水)
四万十川は家地川を経て、
流量の多い梼原川の流入(逆流の可能性❓)~
下流の四万十市中村で太平洋に流れる
四万十川の語源>
四万十川は多くの川が合流しているためとか、
上流の十川や四万川の連称号であるとか、
アイヌ語の「シ・マムト」(=非常に美しい)、
「シマト」(=砂礫の多いところ)に語源がある。
渡川は4万石の材木を10回流し送るほど豊かな森が
上流にあるといわれ、また、
「三途の川」とも言われ、土佐では中州にある
中村より西の具同
や中筋方面に流刑する「渡川限り」の
罪名が明治初頭
まで続いた~などという。
注)梼原川と四万十川の合流点について:
(旧)大正町田野々はバス停名である。
現在の大正町は
十和村、窪川町と合併し、
四万十町となる。土佐大正駅が駅名。
土佐大正町は上山郷と呼ばれる地域でした。
この地域には熊野別当田辺の湛増父子が移住し、
その子孫である田那辺氏が開発を行いました。
町の中心集落である田野々には、田那辺氏に
よって勧請された熊野神社や菩提寺である
五松寺があります。
注)土佐大正駅の次の駅名は「土佐昭和」
つぎは「十川(とおかわ)」である。
土佐大正と土佐昭和の間に「リバーパーク轟」
という
激流が流れている区間がある。
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