全11件 (11件中 1-11件目)
1

気まぐれに、こんな写真を撮ってみて「セミだったらこんな風に見えるんだろうな~」なんてこと思って「セミの視点を獲得したぜ」なんて気分になって、得意気な日曜日「しょうがねえなあ」と思っておいてくださいだって、日曜日ですもん
2009年01月25日
コメント(2)
昨日は私立高校の推薦入試の合格発表がありまして。うちの塾からも何人かが受験し、無事合格をもらっていました。いやあ、ほんと、めでたいです。入試って、自分より大きな得体の知れない何かに選ばれるという、体験です。人生の中で何度もあるわけじゃないこういう体験、大事にしてほしいなあ、と思います。甘えが通らない世界で、色んな角度から自分を見られて、選ばれる。より広い世界と交流を持つ、チャンスなんですよね。生徒たちの嬉しい声を聞きながら、「合格」ってどんなもんなんだろうって、考えていました。学校側は、一生懸命準備してきた「これまでの彼ら」を見ているように見せかけて、入学した後にどうなるかという「これからの彼ら」を見ているような気がします。それは、「彼らの未来への信頼」とも言い換えられるわけで、その「未来」を信頼してもらうための証明として、受験があるんじゃないですかね。「これだけ頑張れたんだから、これからも頑張ってくれるだろう」そんな信頼が、合格っていう言葉の本質のような気がします。だから、あらゆる「合格」はゴールではなくて、むしろスタートなんですよね。イチローが新人選手だった時代「どうしてそんなに練習するんですか」と質問した記者に、こう答えたそうです。「期待に応えないと、僕をスカウトしてくださった方に失礼になりますから」合格をもらったみんな、おめでとう!合格を勝ち取った「これまでの自分」に自信をもって、「これからの自分」をもっと輝かせていってくださいね。
2009年01月24日
コメント(0)

いつかの散歩中に見つけた変わった名前の橋です。 なんて、ハッピーなネーミングなんでしょう。そして なんて、ピースフルなネーミングなんでしょう。この二つの橋を名づけた人、いいセンスしてるなあって思います。「ほのぼのばし」の上で、ケンカはできないですよね。とっても、あったかくなるなあっと、思います。一般的に、「センスがいいね」というと、「カッコいいね」と思われます。「カッコいい」というのは、英語にすれば「クール」であります。「クール」って、なんか冷たい響きがしませんか。「あなたってクールね」と言われたら、あんまり良い気持ちしなくないですか。すいません、言われたことは、ないですけどね。思うに、「冷たいもの」は、もうたくさんだと思います。世間の風、冷たいです。人の視線、冷たいです。ずっと冷たいままだと、生き物は死んでしまいます。僕らが求めてるのは、「あったかいもの」じゃないですか。「さいわいばし」も「ほのぼのばし」も、カッコよくはありません。「さいわいばし」の上でファッション写真、撮りません。でも、「さいわいばし」と「ほのぼのばし」って、人を笑顔にするパワーを持ってると思います。「何この橋、『ほのぼのばし』だって~。」このあとの会話は、そりゃあったかくなりますよ。「さいわいばし」も「ほのぼのばし」も、「クール」の反対です。人をほわ~っと、あったかくするチカラ、持ってます。鳥の卵は、あっためられることで、かえります。あったかくするものは、生命にとって、欠かせないものであるはずです。「さいわいばし」も「ほのぼのばし」も、きっと目立ちません。雑誌で特集されることも、テレビでドキュメンタリーが作られることも、ないでしょう。でも、そこにいるだけで、だれかの心を、救っているんだと思います。僕は、「さいわいばし」や「ほのぼのばし」のように、なりたいです。目立たなくても、そんなに人気が出なくても、静かに、だれかをあったかくしている。そんな存在を、目指していきたいのです。
2009年01月18日
コメント(2)

何かが終わるということは、何かが始まることです。終わりを考えることで、新しい何かが生まれます。「終わりを考えている自分」が生まれるのです。太陽は「朝日」として一日に登場し、「夕日」としてそのお勤めを終えます。僕らはその夕日の美しさに、つい見とれてしまいます。それは、「終わりゆく何か」の美しさなのかもしれません。「人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」チャールズ・チャップリンの言葉です。パッとしない「いま」も、いつか美しい「あのとき」になります。そのことを分かっていれば、いくらかか「いま」を好きになれそうなのに、僕は「明るい未来」ばっかり求めてしまいます。ほんとに大事なのは、「いま」なんですよね。いま、当たり前にある暮らしが、もうすぐ終わることになりました。いま、当たり前に側にいる人と、もうすぐであんまり会えなくなります。いま、当たり前にしていることを、もうすぐしたくてもできなくなります。当たり前に過ごしている「いま」が、当たり前じゃない「あのとき」になります。そのとき、どんな気持ちになるのか、今はわかりません。でも、きっと、懐かしくて、寂しい気持ちに、なるんだと思います。「そのとき」が来るのが、正直嫌です。でも、「そのとき」には、ありがとうって言いたいです。「いま」を「あのとき」として思い出すだろう「そのとき」のおかげで、「いま」を大事にしようって気持ち、持てました。大切なことが何なのか、思い出させてくれて。すんごい抽象的な内容で、ごめんなさい。書いてしまえば、何でもないことなのです。でも今は、「何でもあること」なので、ちゃんと書けません。今日も読んでくれて、ありがとうございます。
2009年01月17日
コメント(2)

今日は、実は大学生活最後の「授業」だったんです。大学は1月になるとほとんどテスト(2月から3月は丸々休み!)なので、4年生の僕にとって「授業」を受けるのは、今日が最後でした。そのことに、その最後の授業を受けながら、気付いたんです。最後の授業は、「理論社会学」でした。僕、「社会学」大好きなんです。小学校でサッカーに出会ったことと同じくらい、高校で出会った社会学は、かなり大きな影響を、人生に与えてくれた気がします。今の大学に入ろうと思ったキッカケも「社会学」。だから、「社会学」で僕の大学生活が終わるのって、必然的な気がします。「社会学ってなんじゃい」という皆さん、これが結構面白いんですよ。僕らの社会(=人間の集まり)がどういう原理で動き、どんな価値観に支配されているのか、僕らが普段何気なく接している色んな決まりはなぜできていて、誰が得をするようになっているのか、そんなことを勉強する学問です。例えば、僕が感動した理論は「予言の自己成就」。これは、ある予言が発せられることにより、人々がその予言を実現させるように行動し、あたかもその予言が自ら実現したかのような結果を引き起こす現象のことを言います。具体的な例を挙げると、「黒人のスト破り」という話。以前、アメリカには黒人は労働組合に入れるべきではないという主張がありました。これは、黒人はスト破りをするからという根拠のない理由からでした。スト破りとは、ストライキ中の労働者に代わって、より安価な労働力が雇用されることです。黒人は経営者にだまされてスト破りに利用されるというのが、白人労働者の論調でした。しかし、組合に入らなければ雇用がされなかった以前の雇用体制の中で、組合に入れない黒人労働者は職を得られないでいたそうです。そんな中、実際にストライキが起こってみると、経営者は職を得られないでいる黒人労働者を安価に雇用することで、ストライキ中の労働者の補填をしたのです。これはまさに、黒人労働者がスト破りをしたことになります。しかし、ことの始まりをよくよく見ると、全ては「黒人はスト破りをする」という根拠のない予言が出発点となっていることが分かります。 「黒人はスト破りをする」という予言が出される ↓ 黒人を労働組合に入れないという行動が起こる ↓ 黒人が職に就けないという現象が起こる ↓ 実際のスト中に黒人が雇用される(スト破りが起こる)この理論は、僕らが普段何気なく発するネガティブな予言が、いかに危険なものであるかを語っていると思います。予言は自己成就する力を持っている。ポジティブな予言をしていこうと、誓ったのでありました。こんな風に僕をワクワクさせてくれた社会学の授業で、僕の大学生活は終わりました。先生にお礼を言って、教室を出た後、なんだか寂しい気分になったものです。生まれて22年、学校に通い始めて16年、ずっと「勉強」をしていますが、分かったことなんて、なんにもないんじゃないかと思います。ある問題の答えにたどり着いても、なんでその答えになるのか疑問が生まれる。その疑問の答えを探すうち、疑問は10にも100にもなっている。何かを知ることはとてつもなく奥が深くて、何かが分かるようになることは、分からない別の何かを見つけることでもあって。勉強って、そういうものだと思っています。そうやって無限に続く勉強は、途方に暮れてしまうけれど、楽しいものだったりします。どこまで続くか分からない深海に潜って行くような、冒険心に似た探究心が、くすぐられるんです。「大学」というフィールドでの勉強は終わっても、次は「社会」が待ってるぞ。学びのフィールドはどんどん広がっていく。「今まで」にありがとうを言って、「これから」と仲良くしていこう。何かが終わることは、何かが始まることです。終わっていく何かよ、ありがとう。始まりつつある何かよ、どうぞよろしく。
2009年01月14日
コメント(2)

年末年始、一度は行かなきゃならない気がしている高校サッカーに、行ってきました。 お目当てのカードは「鹿児島城西vs前橋育英」来期から鹿島でプレーするFW「大迫勇也」が、やっぱり気になっていたのです。前半早々コーナーキックから鹿児島城西が先制。その後すぐに前橋育英が同点。早々と追いつかれたことで混乱した鹿児島城西を前橋育英が攻め立て、一気に1-3までリード。落ち着きを取り戻した鹿児島城西が1点差に追いすがるゴール。これで逆に取り乱した前橋育英の隙を突いて鹿児島城西が同点。終了間際に相手キーパーのミスで鹿児島城西が逆転。前半のスコアは4-3で終了しました。書いてるだけですごい試合です。「点の取り合い」というより、「失点合戦」のような感じ。スコアが動くたびにお互いの心理が動いていって、それがプレーに反映されて、それが勢いにつながって、という興味深い展開。前橋育英が1-3とリードした場面、明らかに浮き足立っている守備陣を鼓舞するように、キャプテンのMFが中盤で相手に激しいチェック。結果的にファールをとられてしまいましたが、これがキッカケでチームの気が変わったように感じました。もう一度前を向いた鹿児島城西は、その後一気に逆転。 後半はお互い守備を修正して、膠着した展開。そんなときは守備陣の予想を超える工夫や、スパープレーが飛び出すものと期待していると、鹿児島城西MFがコーナーキックのクリアボールをダイレクトボレーという、プロでもなかなか決まらないシュートを決め、勝負あり。前橋育英は、リードしていたときに見せたパスサッカーが後半になって影を潜めてしまったことが残念でした。90分を通してあのサッカーができれば、恐らく彼らが勝っていたでしょう。しかし、これがサッカー。実力を持つことより、それを発揮することの方が難しいのです。 試合終了後、応援団に挨拶に行く両チーム。鹿児島城西は、前橋育英側の応援団にも一礼。「ガンバレ、ガンバレ、城西!」前橋育英応援団が最後に出した声には、色んな想いがこもっていたんでしょう。鹿児島城西は、その色んな想いを受けて決勝のピッチに立つのでしょう。敗者から勝者へ。最後の勝者は、いったいどれだけの想いを受けることになるんだろう。「勝つ方」がいて、「負ける方」がいます。「選ばれる人」がいて、「選ばれない人」がいます。僕らはそれぞれ、なにかしら「選ばれる」ことを通じて、それぞれの場所にいるんだと思います。生まれる前の精子からして、ものすごい倍率から選ばれていますもんね。僕らが普段なにげなく過ごしているこの場所は、他の誰かが望んでも得られなかった憧れの場所なのかもしれません。頭の片隅でそんなことを思いながら、毎日に感謝して生きたいものです。今日も寒くて、お風呂が嬉しいです。ありがとうございます。
2009年01月10日
コメント(0)

塾の冬期講習が終わった今日は、一日お休みでした。昼は新宿で友達とロシアンランチ。大学で出会った刺激的過ぎる彼とは、色んな各国料理を食べてきましたが、ロシア料理は初めてのトライでした。温かいスープ、トロトロのクリーム、ちょっぴりお酒味のパン。とっても美味しかったです。ロシアンティーも、飲めたしね。食後はお互い気になってた「コクーンタワー」へ初潜入。残念ながら上の方には行けませんでしたが、おっきな本屋さんあり、お洒落なカフェあり、楽しませてもらいました。コーヒー飲んで、他愛も無い話して、たまに真面目な話もして、またふざけて、そんな風に遊ぶ時間って、やっぱいいものです。 地元に帰ってからは、塾の後輩が頑張っている受験お守り作りをお手伝い。なんと、小6・中3・高3総勢24人分のお守りを一人製作中なのです。袋も、中身も、全部手作り。本人も大学のテストで忙しいのに、頭が下がります。 ちょこっと手伝わせてもらったのですが、これが大変で大変で。紐を通す穴を開けるだけでも、一苦労二苦労。これを24人分作って、それぞれのイニシャルまで縫うんだから、半端なもんじゃありません。手作りの温かさあふれるそれぞれのお守りたち。手伝いながら、気持ちもほわ~っと温かくなったものです。優しさがつまったお守りたち。みんな、どんな顔して受け取るんだろうな~。 マザーテレサが言ってましたっけ「行動してこそ愛なのです」どんな言葉をかけるより、このお守り一つをあげることで、どれだけたくさんのことを伝えられることでしょう。どんな気の利いた言葉だって、心のこもった行動にはきっと及ばない。こんな細やかな愛情を、注げる人に、なっていきたいな。手伝わせてくれて、本当にありがとう。
2009年01月08日
コメント(2)
僕は、海が大好きです。でも、津波は怖いです。僕は、川が大好きです。でも、洪水は怖いです。僕は、山が大好きです。でも、雪崩は怖いです。生き物である僕らは、自然のおかげで生きています。だから、生き物である僕らは、基本的に自然が好きです。でも、生き物である僕らは、自然によって傷つくこともあります。そんな風に、僕らを支えてくれている何か、僕らが愛している何か、信じて疑わない何かが、実は大きな牙を持っているということが、あるわけです。しかし今では、津波は警報が鳴ったら逃げればいいし、洪水は起こらないように堤防固めになっているし、雪崩が起こりそうなところは立ち入り禁止になっています。自然が持っている牙が、僕らに向かってこないように、しているのです。そんな世界で生きていると、つい、牙の存在自体を、忘れてしまいます。でも、隠されているだけで、それは存在しているのです。この世界は、色んなものが持っている牙を、隠して成り立っている気がします。「優しさ・思いやり・理性」が良しとされ、怒りや憎しみは存在してはいけないことになっている。でも、津波を止めることができないように、そこにある牙をなくしてしまうことは、できないはずなんです。近年になって、洪水が発生する数は減ったけれど、洪水自体の被害は小さくなってないんですって。ダムやなんかでせき止められた水が溢れ出すからでしょうね。それに、僕らも危険との付き合い方を知らないですし。牙は隠されただけで、変わらず存在している。隠すことで、むしろ危険は増えていくのかもしれない。生命を生んだ海がときに生命を奪う。それを「二面性」なんて言葉で片付けるんじゃなくて、むしろそれこそが自然というもので、それこそが僕らなんだっていうことを胸に刻んで、生きていたいのです。どうしようもなく悲しい気持ちになった今日でした。明日はまた、違う日です。
2009年01月07日
コメント(0)

上手く撮れないのが悔しいのですが、夜空に雲が浮かんでいるの、わかります?夜空に雲が浮かんでいます。これ、絶対22年間見続けているはずなのに、22年目にして初めて意識したんです。「あ、雲見えるじゃん」絶対生まれたときから一緒のはずなのに、なぜか22歳で初めて気付いたんです。そして、えらく感動してしまったのです。夜空にも雲が浮かんでいる、そのことに。どうして気付かなかったんでしょう。「夜空=星空」っていう固定観念でしょうか。「雲=青空に浮かぶ白いやつ」という決め付けのせいでしょうか。とにかく、22年間気付かなかったのです。そして、22年目にしてやっと気付いたのです。とても、嬉しい気分です。太陽がお勤めを終えても、月がお休みしても、雲はだいたいそこにいます。僕らが空を見上げるとき、一番顔を合わせているのは実は雲なんじゃないか。青空も、快晴も、月夜も、半日限りの営業です。雲は、ほとんどの日で、24時間浮かんでますもんね。素晴らしいです、雲さん、お疲れ様です。太陽がいなくなっても、月がほとんど出なくても、毎日出勤して、空のアイデンティティーを守っている雲さん。あんまり注目されなくて、あんまりでしゃばると嫌がられて、それでも浮かんでる雲さん。僕らの周りにいるたくさんのそんな存在に、たまにはしっかり感謝することを、したっていいですよね。今日は、そんな気分です。ありがとうございます。
2009年01月05日
コメント(0)

新年ということで、ちょっとデザインを変えてみました。かな~り自分好みに仕上がっております。今日はスノボに行ってまいりました。大晦日に思い付き、元旦に申し込み、2日に出発できるなんて、便利な世の中です。「バス往復+リフト1日券+ボードセットレンタル」で¥4,300。なんともまあ、至れり尽くせりです。スノボは毎年何回か行っているのですが、毎年そのシーズンの初すべりは緊張します。なにせ、約1年ぶりですからね。そして、案外身体が覚えてるな~とホッとするのです。だんだん調子が出てくると、難しいコースにトライしたくなるもの。「えいや」っと上級者コースに飛び出して、後悔して降りてきます、はい。それでも技術的には滑れるはずなんだから、なんだか悔しくて、懲りずにトライして、また雪だるまになるのです。 技術的にはいけるはずなのに、なんで転ぶんだろう。普通のコースでできている何かができていないことは明らか。あるいは、普段やっていない何かをしてしまっているのかも。そう考えてみると、急で凸凹の斜面を降りる時って、怖さから「下」ばっかりを見ている気がします。「下」を見るから姿勢が前のめりになって、バランスを崩すんじゃないか。そう思って意識的に「前」を見るようにすると、いけるんですよ、これが。視線を上げることで上体が安定して、多少足元がグラついても持ちこたえられるんです。転ぶことの怖さから「下」を見て進むと、かえって転びやすくなる。その怖さを横において「前」に目を向けると、実は安定して進める。それはスノボに限ったことじゃなく、「どこかへ向かう」っていう行為にならなんだって当てはまるんじゃないかと思います。目指してる場所をしっかり見据えること。そのためには、足元にある恐怖に打ち勝つこと。スポーツがくれる気付きって、色んな応用が効く幅がありますよね。身体を動かして分かったことって、生き物である僕らの根っこに通じやすいからなんでしょう。普段頭ばっかり使っているだけに、今日はナイスでした。頭も身体も同じくらい動かしてあげて、心もやわらかにいきたいものです。筋肉痛さん、どうか来ませんように…。
2009年01月02日
コメント(2)

あけましておめでとうございます!新年は「ガキ使スペシャル」を見ているうちに明けておりました。今日は明治神宮隣接のフットサル場で元旦フットサルです。元旦にボールを蹴るとは、サッカー少年の夢ですね。しかも、本家国立競技場は目と鼻の先です。それはもう、盛り上がる盛り上がる。今年は4年間お世話になった塾を卒業したり、新社会人としてデビューが待っていたり、いろいろありそうな予感がしております。 さて、いろいろあった2008年の最後の日は、たまった本を読んだり、部屋を片付けたりして過ごしました。しかし、僕の周りにはモノが多い。本、服、CD…服なんかきっと2人分ありますよ。色んなモノに囲まれて過ごしています。なんだか孤独な現在人を象徴するような感じがしますが、モノはそれ自体が自動発生するわけではなく、どこかしらに人がいて、生み出されています。そういう意味では、色んなモノに囲まれていることって、どこかの誰かと間接的に関係を持つことなんじゃないかと、思うわけです。そして、その誰かはたいていの場合分からない。例えば電車で肩がぶつかった人が、お気に入りの服を仕立ててる人かもしれないし、今使っているパソコンを作った人かもしれないし、修理に出した時計を直してくれた人かもしれない。ちょっとイライラさせたその人がいなかったら、僕の日常が少しだけ味気ないものになっていたかもしれなくて、ちょっとムカッとさせたその人のおかげで、僕の日常が少しだけおいしくなっているのかもしれない。そうやって、物凄くたくさんの誰かにちょっとずつお世話になりながら、僕らは暮らしているんだと思うのです。今やその誰かは世界中にいます。中国製の服を着て、アラブの国々から買った石油で車を走らせて、オージービーフを食べる。日本が嫌いだって言っている人がソニー製の家電を使っていたり、アメリカなんて傲慢だって言ってる人がマクドナルドには目が無かったり。そうやって、色んな人と色んなつながり方をして、僕らは暮らしているんだと思うのです。だから、どこかで誰かと出会ったら、「あ、いつもどうも」くらいの気持ちで接するくらいが、いいんだと思います。ともかく僕らは繋がっていて、その繋がりの中で生きている。そのことに、感謝しながら暮らしていこう。今年も、よろしくお願いします!
2009年01月01日
コメント(0)
全11件 (11件中 1-11件目)
1