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「ひとつになろう、日本」どこかで見かけたこのコピーに、「うぬぬ。。。」と思ってしまいました。「がんばろう、日本」はいいけど、「ひとつになろう、日本」は、う~ん。怒られるかもしれないけど、なんか違うな~と僕は考えます。ひとつになったら、いけない気がする。「ひとつになる」ことは、「少数の人が多数に合わせる」ようなことを要求します。逆はあまりに非効率なので、普通はしない。今の日本で「多数」の人とは、どんな人たちでしょう。「震災の被害で心を痛めている」「原発の恐怖におびえている」「計画停電に怒りと戸惑いを感じている」「自分も何かしなくてはと使命感を覚えている」こんな感じでしょうか。こんな感じにみんながなることが「ひとつになろう、日本」だとしたら、「それはやめとこうぜ、日本」と、僕は言います。それはなんとなく、「暑苦しい」感じがするからです。もっと言うと、「胡散臭い」というか、「きな臭い」というか、ね。全然わからないですが、なんとなく、「戦争のときって、こんな感じなのかなー」と思っています。今、なんとなくみんなが、「自分より大きなもの」に自分を委ねようとしている、そんな気がします。実際に自然の猛威を見せつけられたからだと思うのですが、外野の勝手な意見ですみませんが、「ひとりの力」をあきらめないでほしい、僕はそう思います。本当の意味での復興は、そこにしかないと思うんです。「政府のリーダーシップ」とか、「社長のカリスマ」とかに期待するんじゃなく、「俺は俺の場所でがんばるぜ」という人がたくさん出てくること、今必要なのはそういうことだと思うし、僕もそれをやります。「ひとつ」じゃなくて、「いろいろ」です。「それじゃあバラバラだ」という人もいそうですが、みんなの「いろいろ」を整理する人も自然に出てくると思っていて、そういう役割も色んな「いろいろ」の中のひとつなんだと、思うんですね。だから、声を大にはしませんが、西の方からひっそりと、つぶやいていきます。「いろいろでいよう、日本」「ひとつにならなくていいよ。認め合うことができるなら」~Mr.children “掌”~
2011年03月28日
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「仕事に夢を持つかどうか」について考えました。青臭い!なんて言わず、たまには考えてみるんです。とても大事なことのように、思います。僕の考えは、「気をつけながら持つのがいい」です。「気をつけながら」というのは、見せびらかしたり、大切にし過ぎたり、しないようにってことです。控えめに、どこか奥ゆかしく、持つのがいいと思います。「仕事」と「夢」は反対の性質といえます。「夢」はじぶんがしたいこと。「仕事」は誰かがじぶんにしてほしいと思っていること。ですもんね。「じぶんがしたいこと」と「じぶんが周りから望まれていること」が一致しているひとなんて、多分いません。みんな、矛盾とか、やるせなさとか、「こんなはずじゃなかった」とか、多かれ少なかれ、抱えてるでしょう。「仕事」が誰かがじぶんに望んでいることである限り、「夢」を全面に押し出しちゃいけないと思います。夢があろうとなかろうと、まじめに仕事をやる人がいちばんえらい、そう思います。「仕事をちゃんとやるひと」は、それだけで尊いというか、偉大というか。それは、「約束をちゃんと守るひと」に似ています。「夢を全面に押し出すこと」は、どんな崇高な夢でも、しちゃいけないと思います。例えそれが「私の夢は誰かによろこんでもらうことです」なんてもんであったとしても。なぜかはうまく言えないけれど、「夢だからがんばる」というのは仕事をする動機付けとしてなにか違う気がするのです。「自分はよくわかんないけど、みんな喜んでくれるから、なんとなくやる」くらいの方が実はちょうど良かったり、するんじゃないでしょうか。「仕事の質はそれにかける想いと比例しない」僕はそう思います。少なくとも、僕の場合はそうです。反比例するとは言わない、でも比例関係が常に成り立つわけでは、決してない。でも、僕は「夢」は必要だと思います。(だいぶ堂々巡りです)なぜなら、夢はひとを「途上」にするからです。「夢」は、絶対に「今よりもいいなにか」になります。夢なんだから、当然ですね。「今よりいいなにか」を思い描くことは、「今」を相対化してくれます。「今」がスタート地点になったり、通過地点になったりします。これは、とても大事なことのように思います。「今」に安心し切らないことが、「今」を越えていく力になる。「向上していく」ために、「夢」は要るんだと思います。でも、気をつけていないと、「夢」はついつい出たがりなので。「気をつけてお持ちください」ってことに、なるわけですねー。たまにはこういった空中論みたいなことを考えます。関西は、平和です。
2011年03月26日
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昨日家に帰ってからテレビをつけると、うれしいことがありました。民放局が、バラエティ番組を、やってる!おとといまではずっと、どのテレビも金太郎飴のように地震の特番をやってさ、原発の見取り図を深刻な顔した専門家とにらめっこしたり、してたわけです。そんな様子だからさ、テレビをつければ即地震モードでしょ。かといって、テレビをつけないでいるのも、なんとなく気が引ける。妙な義務感を感じながら、画面の中の人たちに合わせて、僕も神妙な顔してたものです。でも、それってあんまりよくないなあって、思ってたんです。知らん顔して、あっけらかんとしてるのがいいってわけじゃ、もちろんないけど、「一億総傷心」になることは、そろそろやめた方がいいと思う。これはなんとなく、病気になったときなんかに感じることなんですけど、必要なケアを受けているって前提で、「周りのひとが丈夫にしている」ってことが、ずいぶん助けになるんです。なんというか、それは、「いつか戻る場所」っていうんですかね。「元気になったら、みんなと一緒に遊べるんだ」って気持ちっていうか。そういう場所があるってことが、「大丈夫じゃないひと」が、「大丈夫になること」を思い描く助けになると思います。だから、「なんとか大丈夫なひと」は、思いっきり「大丈夫」であってほしい。気にしないわけでも、心を痛めないわけでもなく、そういう気持ちを真ん中に持ちつつも、「大丈夫」でいましょう。そうそう、地震が起きてから実家から届いたメールで、僕のもうすぐ80歳くらいのおばあちゃんの話を聞いたんですけど、おばあちゃん、「地震のせいでテレビがつまらない」って文句言って、ためていた韓国ドラマのDVDを見漁ってるそうです。やるなあ、おばあちゃん。。。
2011年03月17日
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みんな、大丈夫ですか?これ、「はい」「いいえ」で答えられない質問だって、知ってます。「全然大丈夫じゃない!」ひとも、「大丈夫だけど大丈夫じゃない」ひとも、いますよね。大阪に住んでる僕は、「もちろん大丈夫だけど、つらい」です。どうしてだかわからないのですが、この震災のニュースを見たり聞いたりする自分が、これまでのどの震災について考えていた自分よりも、心を痛めています。ニュージーランドや、新潟や、トルコを見ていたときと、明らかに違う気持ちがある。それは、不遜な言い方かもしれませんが、ニュース映像の中に「彼ら」ではなく「僕ら」を見ているっていう、確かな気持ちがあるんです。故郷の東京も被害を受けたからかもしれない、同じ会社の仲間が仙台にもいるからかもしれない、鹿島アントラーズのスタジアムも、被害を受けたらしい。理由はともあれ、安全な場所にいる人間の平和ボケしたことばだって思われてもいい、「被災したのは、僕らだ」っていうことを、僕は痛いほど感じています。だから、ニュースを見て聞いて、きっとたくさんの人がそうしたように、「なにができるのか」を考えました。具体的なことは、まだよくわかりません。「必要なもの」を挙げれば、きっときりがないと思います。お金も、食料も、毛布も、衣服も、住宅も、人手も、ライフラインも、足りてないはず。僕も、力の限りお手伝いしたいです。お米を運んだり、お年寄りを手伝ったり、力仕事要員になったり、したい。でも、それよりも先に、今すぐできることも、きっとあると思うんです。大阪に暮らして、毎日電車に乗って通勤して、終電で帰宅する僕のままでも、できること。それは、「よろこびを生み出すこと」なんじゃないか。地震によって、「僕ら」はあまりも多くを失っています。建物、町並み、命。そして、それらのかたちをした、たくさんの想い。失われたものの埋め合わせは、絶対にできないんだと思います。できることは、「かなしみ」と「よろこび」のバランスを取り戻すこと。今、「僕ら」のなかにあまりもたくさんの「かなしみ」が生まれてしまっています。それらの「かなしみ」を消すことは、きっとできません。でも、その「かなしみ」のとなりに、別の「よろこび」を置いてあげることはできる。「かなしみ」も「よろこび」もどっちもあるのが、生きることだと思うから。「かなしみだけじゃないよ」って言いたい。「よろこびも、きっといるよ」って言いたいです。だから、「よろこび」を生み出したい。それは同僚と仲良く仕事をすることであり、スーパーのレジで「どうも」って言ってみることだったり、友人に「+5%の笑顔」で接することだったり、します。それが、「震災を免れた“僕ら”」がまずできることだと思います。今のところ、僕はそれをやります。
2011年03月13日
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具体的なことは何にも書けないことも、ホントはこんな時間に日記を書いたりするべきじゃないのも、そもそもすっごい久しぶりの日記だったりすることも、ぜんぶぜんぶ承知で断って、書きます。いや、書かせてください、かな。今日、僕の働き場でとてもとても悲しい出来事がありました。それは電話で知らされ、その場にいた誰ものからだを駆け巡り、答えのないずっと続く問いかけを残して、去りました。だれかが、僕らの生きてる世界の一員ではなくなってしまったのです。それは、とてもとても突然で、理不尽で、絶対的な出来事でした。それを聞いた誰もが受け止められず、やり過ごせず、立ち尽くしました。そうするしかなかった、とも言えます。僕の働き場は、大学受験の予備校です。そこにいるのは、みんな「途上のひと」たちです。何者でもない自分を何者かにするために、「今より先」を目指すひとたちの集まる場です。今日のその瞬間まで、僕はそう思っていました。彼にその「先」はありません。少なくとも僕らが思うような「先」は、ですが。ともかく、僕の考えは、間違っていた。彼は、いや、みんな「途上のひと」でありながら、たどり着いているのです。「どこかを目指す道の上の、スタート地点より進んだどこか」に。瞬間瞬間、通過しながら、到達しているのです。「昨日のじぶん」にとっての「進んだ先」から、「今日のじぶん」が出発して、ちょっとだけ進んだその場所にたどり着いて、そこからは「明日のじぶん」にバトンを渡す。「明日のじぶん」はひょっとしたら気まぐれで、戻ったり、曲がったり、するかもしれない。でも、「昨日のじぶん」にも「今日のじぶん」にも、それを怒ったり、とがめたり、直したりする権利は、ない。「それはなぜだ」と問うならば、雲を眺めたり、川を見つめたりすれば、きっとわかる。「それはおかしい」と思うならば、永遠に潜水しようとしてみれば、きっとわかる。抗うとか、従うっていう価値観が通用しない、世界の「へそ」みたいな場所が、きっとある。そこに神様がいても仏様がいても、誰もいなくてもいい。聖書があってもコーランがあっても、何にもなくたっていい。ただそういう場所があるってことをわかることが、生きるってことだと思うんです。その場所は暖かくも寒くもちょうど良くもなく、優しくも冷酷でもない。手は届くけど触れない、目には映るけど見えない、そういう場所が、ある。ただ、ある。何も指図せず、すべてを支配する。何もせず、すべてをする。そういう場所に出会ったとき、僕らにできることはきっと、立ち尽くすことなんだと思う。僕らが「途中だ」と思ってなめてたり、バカにしていることが、「最後のこと」になる。「これから」があると思って油断していたことで、「これまで」になる。それは、しみじみとした教訓でもなんでもなく、「今夜のごはんはカレーライス」ということと同じ、ただの可能性なのです。僕は今日、その可能性ってやつに出会って、立ち尽くしました。まだ、立ち尽くしています。きっと、これからも。
2011年03月09日
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