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そういえば4月なので、「新しいひと」の季節です。新入生・新社会人・新生活、いろいろですね。僕の働き場にも、「新しいひと」がいます。僕は、「新しいひと」を見ると、いつも「いいなあ」と思います。「新しいひと」は「新しいひと」でいるだけで、その場所になにかをちゃんと与えてると思うんです。その「なにか」をちゃんとわかる人で、僕はいたいです。「新しいひと」はたいてい、「できることが少ない」または「ほとんどない」ことが多いです。「できることが少ない」または「ほとんどない」ひとは、「もどかしさ」を覚えることが多いでしょう。その「もどかしさ」!それこそ宝物だよ、と僕は思うのです。「もどかしさ」の正体は、「実現されない想い」です。「こういうことをしたい。でも、やりかたがわからない」という状態。こういう状態の中で生まれる、はみ出した気持ちみたいなものを、大事にしてほしいなあ。なぜなら、それは「自分のできること」という枠組みに縛られないで存在している、ピュアな気持ちだと思うからです。それは、夢とか憧れとか、そういうものに言いかえることもできます。仕事を毎日して、それなりに経験なんかを積んでしまうと、「できること」はそれだけ増えていきます。それは、「成長」というよりももっと怠惰な、「変化」に過ぎないです。「できること」が増えることを「成長」と読み違えるひとは、「できること」にだんだん縛られていきます。「なにをしたいか」ではなく、「なにができるか」という方向から考える癖が、ついちゃうんですね。「なにができるか」から考えることは、それ自体楽しかったり心地よかったりします。「オレってこんなにできるんだ」って気持ちに、簡単になれます。「できること」から考えてるんだから、当たり前なのにね。そうやって、ほんとうの「成長」からは、実は遠ざかるんです。「成長」はいつだって、古い自分の殻を破ることだから。他ならぬ僕が、その勘違いに沈もうとしている気がするんですねー。「新しいひと」が隠し切れない「もどかしさ」は、大切なことを教えてくれます。「できること」の枠からはみ出した「やりたいこと」。「できること」は常に、「やりたいこと」の後追いであるべきなんですね。まず、気持ちがあって、次に技術がある。当たり前の説教のように聞こえますが、胸の奥に刺さってくる感じがするんです。「お前、今なにが『もどかしい』?」答えの数だけ、未来が広がっている気がします。もっともっと、心のままでいい、そんな気がします。「新しいひと」よ、もどかしいままであれ。「新しくないひと」も、一緒にもどかしくなっちゃえ。「『できない』と思っているということは、 『できたらいいな』と思ってるということ」 ~糸井重里/「羊どろぼう」~
2011年04月20日
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サッカーを見ていて、「いいチームだなあ」と思うチームには、「ボールを前に運ぶひと」が一人は必ずいます。ときに強引に、ときにでたらめに、ボールを前に運ぶのです。そういう選手がいるチームは、見ていて楽しいなあと思います。アジアカップの日本代表で言えば、本田圭佑だったり、長谷部誠だったり。バルセロナで言えば、イニエスタだったり、チャビだったり。当たり前ですが、ボールは前に運べば運ぶほど、失うリスクが高まります。相手の選手がいっぱい待ち構えてますからね。もちろん前に運ばなければゴールを奪えないので前に運びますが、できればそれは「誰か」がやってほしい。だって、ボールを失えば、たちまちゴールを奪われるかもしれないですからね。そう思うと、「敵の少ないところから攻めよう」っていう考えで、「横へ」の動きが生まれます。「横へ」はつまり「誰かへ」です。「オレのところじゃ無理だから、キミがやって」です。でも、100%安全なルートを選んでいるといつまでも相手ゴールに近づけないので、「誰か」がリスクを冒します。僕は、そんな「誰か」がいつも大好きです。「ボールを前に運ぶこと」はそれだけでドキドキするし、見てる方はワクワクします。応援している人はハラハラするかもしれませんね。相手に奪われるかもしれない、失敗してプレーが途切れるかもしれない、もしかしたら味方から文句を言われるかもしれない。それでも、前に運ぶのです。「前に運ばれたボール」は必ず何かを起こします。それは失敗だったり、成功だったり、どちらでもなかったりしますが、必ず“何か”が起こります。そうした“何か”が、試合をたまらなく面白くします。どんなに困った“何か”であっても、それに対処することそのものに、面白さがありますからね。「ボールを前に運ぶひと」は、それだけで何かを確実に生み出しています。それは言うならば可能性であり、希望であり、責任を伴った自由です。僕は、「ボールを前に運ぶひと」は、とにかくそれだけでえらいと思います。それは、「何かを起こす人」と言い換えることもできます。今、「なんだかつまんないなあ」と感じているならば、とにかくボールを前に運びましょう。そして、起こったことを全部楽しんでしまいましょう。文句を言うひとには、耳を貸さないでいいと思います。とにかく、でたらめなロングボールでも放り込みましょう。何かを、起こしてしまえ!妙に大胆な気分の、日曜日です。
2011年04月10日
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よく、「わたし、私が許せないの」とか、「今の自分が一番好き」とか言われてるときの許されてない「私」とか、好かれてる「自分」って、いったい誰のことなんでしょうね。誕生日を迎えた今日は、そんなことを思いました。いろんな方に「おめでとう」って言ってもらってる自分とは、「果たして、オレなのか?」という突然の疑問を持ったわけです。それは、25年前(まだ若いんですよ)に「おぎゃあ」と生まれた「オレ」を、みんなが祝福してくれているという絵を描くのは、ちょっと無理があるよなあと思ったからです。それを祝ってくれるのは家族くらいなもので、じゃあそうじゃない人が祝ってくれてるのは誰のことかといえば、それはきっと、「会社の中の自分」であったり、「ともだちの中の自分」であったり、「恋人との間の自分」であったり、するんだと思います。つまりは、「みんなの中の“オレ”」です。これは、とても大事なことのように思えます。「自分」っていうのは多面体なんです。「会社の中の自分」は「ともだちの中の自分」とは違うし、「恋人と間の自分」とはもっと違うでしょう。「自分」っていうのは、惑星としての地球がそうであるように(大きな例えだ)、「真ん中には何もないけど、表面はいろいろ」な存在だと思います。そして、この「いろいろ」な表面をつくるのが、「みんな」なんです。「会社の中の自分」は「会社のみんな」がいてはじめて存在し、「ともだちの中の自分」は「ともだちのみんな」がいてはじめて存在し、「恋人との間の自分:は「恋人」がいてはじめて存在します。この「存在」って部分を、「誕生」と置き換えてもいいくらいです。自分っていうのは、関係性の中にしかありえないんですね。そうなると、「自分が好き」っていうのはそのまま「みんなが好き」と言い換えられることに気付きます。そして、誰かに「おめでとう」と言うことは、そのまま自分たちにも「おめでとう」を言っていることになります。「わたしが好きです」を含まない「あなたが好きです」はないし、その逆もないってな具合です。いわば、「自分」と「みんな」を一続きにした、分けるのではなく一体として考える、そんな見方です。これは割りといいなあ、と一人ほくそ笑む25歳のはじまりはじまり。
2011年04月07日
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もう先週のことですが、職場の先輩の送別会がありました。その方は僕の社会人1年目の上司で、それはそれはお世話になった方なので、当時の思い出など語りながら感謝の気持ちを伝えてきたのであります。すごく厳しい基準を持った人でしたね。「当たり前」のレベルが高い。「まあいいや」という妥協に対する堤防も高い。その基準を下を含めた周りに押し付けることはせず、ひたすらご自身の中でそのレベルをクリアしようとされていた。クリアしたら、当たり前のようにもう一段ハードルを上げていた。その姿を見て周りは感化されていた。そんな方です。僕は感化されていた「周り」のひとりです。社会人1年目というのは、幼稚園に入りたての子どものようだと思います。「他者」との接し方を、まず学ぶ時期なんですね。子どもがいたずらをするのは、「大人相手にどこまで許されるのか」の基準を推し量っているように思えます。なりたての社会人もそれと同じで、「実社会では何が許され、許されないか」をまず学ぶんだと思います。その学びの先生は、それこそ出会う人すべて先生にすることができますが、子どもにとっての親がそうであるように、いちばん身近なひとからいちばん学びます。だから、社会人1年目を誰の下で過ごすかということは、どんな仕事をするかということよりも、大事な、重要なことであるように思います。その点において、僕は圧倒的に恵まれていた。必死になって身につけた先輩の基準が、今の僕を支えてくれています。よく言われるように、仕事とは終わりなく続く正解のない問題集のようなものですが、良い答えを出す人というのは、「参照先」をたくさん持っているように思います。自分だけの知識や価値観には、誰だって多分限界があります。そのとき他の「参照先」をどれくらい思いついて、そこにアクセスできるか。知性とは、おそらくそういう力のことを言うのだと思います。その点において、僕は今すごく心強い気持ちでいます。僕の考えは相変わらず狭くて拙い。でも、僕はもっと大きい考えを持つ人を知っている。その人のところにアクセス(物理的にしろ、抽象的にしろ)する方法も、知っている。そういう存在のことを、きっと「師」と呼ぶのでしょう。僕には幸せなことに、「師」が数多くいらっしゃいます。それが、僕のなによりの強みです。「教師が教壇から伝えなければいけないことは、ただ一つです。『私には師がいます。私がここでみなさんに伝えることは、 私が師から伝えていただいたことの一部分に過ぎません。』」~内田樹/「街場の教育論」~
2011年04月04日
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