全77件 (77件中 1-50件目)
ドミニカでの私は、三年目から四年目には、郷に入れば郷に従えの考えで行動していました。 ナンパ(ドミニカでは挨拶かな)もしましたね。ただ、挨拶と言えば、女性に対して頬擦りしますよね(映画などでも、親しい女性に対して)私は、それが出来ませんでした。馬鹿じゃないかと思われるのですが、日本的考えだと、女性に接触するのは、恋人同士なら判りますが、他人の奥さんにたいしてとか、他人の恋人に対して、そんな事をするのは、ちょっと変態かな、思われそうだと思っていました でも、外国は当たり前なのですよね、だから、私が嫌がると、相手の女性を、嫌っていると思われるのですと、私は、ドミニカ人の親しい女性に言われました。 私は意外と日本男児の心を持っていると自負していましたので(私の小さい頃、受けた教育がそうさせたのかな?)女性に対する考え方が、古いのかもしれませんね。 まず、あれ(女性との挨拶)が苦手でした。最後まで、慣れませんでしたね、テレが先に出て、腰が引けていました。 でも、ドミニカ人の挨拶は好きでした。必ず「おはよう、元気かい、何々さん」と言って来ます。 挨拶には、最後に、名前を必ずつけてきます。私は、相手の名前を覚えるのが、苦手でしたので、最後に名前をつけなかったのですが、それも、失礼な事だと注意されました。 国が変われば、挨拶の仕方もかわるのですね。挨拶に関しては、どこの国も基本は同じなのでしょう。 また、ドミニカ人は声が大きいので、挨拶しても5m先くらいまで聞こえてきます。 ただ、私が嫌いだった行為があります。人を呼ぶ時に、ドミニカ人は「スー、スー」と唇を窄めて、息を吐くようにして呼ぶのです。 これは、嫌でしたね、何か犬や猫を呼ぶようで、私は返事をしない事がありました。 人を呼ぶ時は、名前で呼べと思っていましたから。人を犬、猫扱いで呼ぶなと思っていました。 ある時は、他人が物を売る時にも、このような呼び方をします。これは、名前が判らないからだと思うのですが、気分が悪いものですよねぇどうして、そのように呼ぶのか、聞いた事があるのですが、昔からそのようにしているようです。私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.31
コメント(0)
同化と言えば、私もどちらかと言えば、その環境に同化が早いほうでしょうね。性格的に物事に、あまり拘らないタイプなのです。拘らないと言うか、飽き性とも言えますね。 飽き性といえば、ドミニカ人もそうですね。根気よく物事をやるという事は、向かない人達かもしれません。 彼達は、仕事に関しては根気が無いのですが、遊びと女性に関しては、根気がありますね。 特に女性に関しては、何度でも口説く事をします。落ちるまで口説く、相手が負けるまで口説きますよね。最後は女性が負けてしまうのでしょう、それだけ仕事に、その精力を向けてくれればいいのですが、仕事に関しては、その三分に一位しか向けません。 私は仮にドミニカ人と、同じようにしたら、一度断れると諦めてしまいますが、彼らは違います。 また、女性も男性を意識しているのか、本当に身体の線が判る様な服装をします。 そうすると、必ず、男性が声をかけて来ます。彼氏が一緒でも、構わずに声をかけます。 彼氏によっては、喧嘩になる事もありますが、男性からするとそれだけ、目を引く女性を連れて歩いていると、自慢げな人もいます。 また、女性は男性に声をかけられるだけ、自分は魅力的なのだという気持ちがあるのでしょう。 本当に女性に声をかけるのは、私たち日本人には考えられないくらい頻繁に声をかけます。 それだけ、男性として素直なのでしょう。私も、綺麗だと思う女性を見ると声をかけてみたいと思います。だが、それは、日本で教育を受けた、自分は出来ませんでした。 日本の女性も、ラテン系の男性には気をつけてください。必ず話しかけてきますが、話していながらも、次のアタックする女性を物色しています。 気があるような素振りを見せて、獲物を確保しようとする動物状態なのが、ラテン男の特徴でしょう。 それに、ある程度の地位に居て、結婚している男性も、当たり前のように声をかけます。 落ちたら儲け物の感があります。私の行っていた派遣先の幹部も、綺麗な若い子を見ると、車を寄せて声をかけるのです。 車に乗っていても、女性にだけは目を向けているのでしょう。最初の頃は、私は思いましたが、ドミニカ人の頭の中には女性しかないのかと、それほど女性に対して目を向けています。 私がドミニカ人と同じ事を、日本でやったら、シュンシュクを買うでしょう、そして女性に殴られるのでないでしょうか「この、気違い」と言われて。 私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.31
コメント(0)
日本語に飢えているのは、私の派遣先は、日本人は私一人でだけだったのです。 周りはドミニカ人ばかりで、話す言葉はスペイン語なのです。最初の頃は、意味不明の言葉が多く、戸惑いだけが先行していました。また、周りはスペイン語を教えてくれるのですが、卑猥な言葉を教えるのです。 これは、日本人も同じかな?また、家に帰ってテレビを見ても、スペイン語か英語なので部屋で日本の古い雑誌を読む事が多かったですね。 それも、隅から隅まで読んでいました。ある時は何回か読み直した本もありましたね。 最初に一年は言葉のストレスが溜り、その為に部屋に篭っている事が多かったですね。 言葉を発することが出来ない、苦しみを味わった一年でしたが急に言葉を奪われた人の、気持ちが判りましたね。 でも、生活していかなければならないので、なるべく外に出てスペイン語に慣れるようにしましたが、最初は周りの人から幾度と無く、発音を直されました。 私は性格的に楽天家なのか、あきらめが早いのか判りませんがなる様にしかならないという、気持ちが強く、欝にはなりませんでしたが、言葉の障害は大変です。 言葉(母国語)と言えば、日本人は応用性があると、前に書きましたが、応用性があると言う事は逆に母国語を伝達する事が下手だという事のように思います。 日本人の2世、3世は、日本語を喋れる人が少ないのです。その点、中国人は2世、3世はスペイン語も中国語も話す事が出来るのです。 中国人はドミニカ人と話す時は、スペイン語、同国人同士だと中国語を子供でも話しているのです。それだけ、自分の国の文化や言葉を大切にして、教育しているのでしょう。 日本人は、母国語に対して、それ程、強い意識がないのか家庭でも日本語を使わないのか、2世、3世は日本語を話す事が出来ないですね。 これは、結婚でもそうですね、日本人はドミニカ人や、その他の国の人と結婚する人は多いのですが、中国人は同国人同士で結婚するのが多いのです。(殆どが同国人同士ですね) 私がドミニカに居た範囲では、2組くらいしか、中国人と他の国の人が結婚したと聞いた事がありません。 それも、相手が東洋人(日本人と韓国人)でしたね。中国人に関しては、どこの国を見ても中華街や中華レストランを多く見受けますね。 それだけ、集団意識が高いのでしょうが、日本人は、その反対でその国に同化して生活しているように思います。 私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.31
コメント(0)
ドミニカの話になりましたので、今回もドミニカの話の続きを。四年間仕事で住んでいましたが、最初の頃は日本に帰りたくて、しょうがなかったですね。 それは、まず言葉の問題です。ドミニカはスペイン語なのですが、私は、スペイン語は日本で三週間毎日、朝から夕方まで習ったのですが(最後の一週間はサボりました) それで、現地に行ったんですが、日本みたく、ゆっくりと判るように話してなんてくれませんので、殆ど何を喋っているか判らない状態でした。 それでもドミニカに来た以上は、逃げ帰ることも出来ませんので誰、彼かまわずに話しかけて、言葉に慣れようとしたのですが、簡単には慣れる訳がないのですよね。 そんな、私を見て、悪のドミニカ人は、良い餌が歩いていると思い幾度か騙されました。 私は、それにメゲズに靴磨きの少年や、道路で物を売るおじさんや花屋のおばさん等を捕まえては、話しかけ友達になってしまいましたが私のスペイン語は、下品な言葉遣いになって行きました。 確かに、話す相手が、そのような人達ですから、文法などはめちゃくちゃですからね。 年月が経ち会議などで、私が話すと、時々変なスペイン語になっていたでしょう。 日本見たく「文法、文法」と言うのも、考え物です。確かに文法は大切だとは思いますが、実際は話す事が言葉を覚えるのに一番良い様に思うのです。話して聞いて覚えてからでも、文法を覚えても、いいと思いましたね。 皆さんも外国語を覚えるときは、単語から覚えますよね。最初の頃は、単語を羅列するだけで文法など考えてないですよね。ドミニカで半年位たった時に、派遣先で「書類を1週間で出してください」と言ってあったのですが、3週間たっても書類が出て来ないので、私が怒った事があるのですが、 この外人、何を怒っているのかという顔をしていました。 確かに私のスペイン語の範囲で怒ったのでは、詳細な部分を表現出来るだけの言葉を、覚えていないのですから。 興奮して日本語も混じって、尚、理解出来なかったでしょう。 そんな、こんなで最初の頃は、自分はオシになったみたいで、日本語が懐かしかったですね。 それに住んでいた所が、大きなマンションで、部屋が3つ、バスルームが2つ、リビングとダイニングで40畳、その他にメイドの部屋があり、そこに一人で住んでいるのですから、相手はいないから壁に向かって日本語で話したい、衝動にかられましたね。 私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.30
コメント(0)
お国柄と言えば、本当に日本の移住者の人達は大変だったと思います皆さんは、日本の移住者の人達と言えば、南米を思い出すでしょう。ドミニカ共和国にも、移住していたと、知っている人は少ないでしょう。 ただ、ドミニカの場合は、問題が多かったみたいです。私がドミニカに居た頃は、移住者の人達が日本の政府を相手に裁判を起こしていました。 それは、戦後に日本政府とドミニカ政府が、移住者の受け入れ協定を結び、受け入れたのですが、ドミニカ政府は、移住者をハイチとの国境近くに土地を与えたのです。 ドミニカはハイチに侵略された、経験があり、言うなれば国境の盾として、日本人を移住させたみたいなものです。 その頃のドミニカは、独裁者の大統領が政治を牛耳っていて、徹底した強権政治を行っていたので、誰も逆らうような事はなかったようです。 ドミニカ人が言っていましたが、盗みをすると、腕を切られたそうですだから、治安がよかったとも言っていました。 日本からの移住者は、岩や石の多い土地で苦労したみたいです。それでも我慢して、土地を耕し作物を収穫していたのですが、独裁者の大統領が暗殺されて、政権が変わり、移住者の持っていた土地が反古にされたのです。 それと、日本政府は移住の募集をする時に、「南国のパラダイス」とか、何とか良い事を並べて募集をかけたみたいですが、現実は全然違う所だったみたいで、多くの移住者がドミニカを離れて行ったそうです。 色んな問題が重なり、移住者が怒り出し、長い間日本政府とやりあったのですが、埒が明かず裁判になったみたいです。 色んな苦労を重ねながらも、今でも移住者の人達は住んでいます。ドミニカには韓国人、中国人、日本人と東洋系の人達が居ますがお国柄が出ていますね。 中国人はお金儲けがうまいが、ドミニカ人に嫌われています日本人は、ある程度の所まではいっていると思いますが、それ程、金儲けがうまいとは言えませんね、だが、ドミニカ人には好かれているほうでしょ。 韓国人は、中国人と日本人の中間といったところかな。ところがドミニカ人は、東洋人を見ると、必ず「中国人」と言って来るのです。 どうも東洋人は中国人しか居ないと思うくらい、中国人と最初に聞いてきます。 次に韓国人かと、その次くらいに日本人と言うのです。何故か判らないが、日本人の印象は薄いのでしょうね。私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.30
コメント(0)
プログラムを作成するためには、沢山の言語があります。C言語、COBOL、アッセンブラ、フォートラン、BASIC、PL/1、パスカル、Aid等の言語があります。それぞれの用途によって、使い分けを行ってプログラムを作成しています。 ここで、聞きなれない言語名があると思います。Aidですが、これは、アメリカの国防省が、開発した言語でもっぱら戦闘機などの制御のプログラム開発用言語なのです。 言語の開発はアメリカが最も多く、日本でも開発しようとした事があります、NTTで日本語COBOLを手がけていたのですが、何時の間にかに、消えてしまいましたね。 どうも、私がコンピュータをやった頃から、ソフトはアメリカより20年以上遅れているといわれ、ハードは10年と言われていました。 ハードに関しては、日本の政府が力を入れ、企業に援助金を出して研究させたりしたので、追いついたのですが、ソフトは今でも遅れていますね 皆さんが使っているPCのOSも、開発したのもアメリカです。 最近日本でもOSを作る動きはありますが、それもどうなるか?日本は、まだまだソフトは遅れていますよね、私から見てですが3年~5年かな、日本政府もハードに力を入れた分をソフトに入れれば変わるかもしれませんが、日本の商いと同じで、見えないものには、お金を出さないようですね。 話はかわりますが、プログラム開発においては、お国柄によって、向き不向きがあるように思います。 日本人は向いていると思いますが、ラテン系は向いていませんね。彼達は英語を、そのまま受入れません、必ずスペイン語に直して言い換えます。 日本人は英語を、そのまま受入、自然に会話の中に入れますが、彼達は母国語に誇りを持っているのでしょう。 私の行っていた、ドミニカもそうでした。彼達はスペイン語に、一々直すのです、私は素直に英語で受入れれば良いのにと思うのですが。 プログラム言語は殆どが英語ですから、それを使ってプログラムを作る以上は、受入れるべきなのですが、彼達はそうしません。 その点、日本人は受入が早い、でも言い換えれば優柔不断な人種だと思います、確かに日本は英語や日本語などの広告塔が氾濫していますよね。 それだけ、柔軟性があるのでしょうが、筋が通ってないのかもしれません。ドミニカでも日本の移住者の、2世、3世は日本語を殆ど喋れませんが中国人の2世、3世は中国語を流暢に話すのです。国民性も出るのかも。私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.30
コメント(0)
コンピュータの話が続きますが、システム屋はプログラマーを経てなるのがほとんどです。システム屋は料理で言えば、レシピを書く人です。プログラマーは料理人です。 レシピを書く人が料理を作った事が、なければ書けませんよね。だから、幾多のプログラムを作成して、苦労して、はじめてレシピを書くのですが、自分の苦労した分、それぞれの癖が出るのです 私はプログラマー泣かせの、会社泣かせのシステム屋でした。それは、システム分析する場合に、使う側に立つからなのです。使う側に立つと、多くの機能を網羅してしまう。すなわち、使い勝手が、いいということなのですがこれがプログラマー泣かせなのです。使い勝手がいいことは、プログラム自体が複雑になり処理が難しくなるそれは、色んな論理ミス(バグ)が出てくるのです。 そうすると時間がかかる、時間がかかると、お金がかかり、会社は利益が出ないと言う事になるのです。 それと、日本の商は、人とのつながりを大切にするところがあります。これは、信頼の中で商をする為には大切ですが、これが厄介なのです。 それは、前にも書きましたが、システムは動いてから問題が出る事が多いのです。 ところが、その問題は最初に決めた開発金額に含まれていないのです。システムは仕様書で、「これでいいですね」と確認して開発を始めるのですが、その確認を取った時には、決めた金額が終了なのです。だが、追加項目が出てくると、相手は金額の中に含めて考えているので追加分は払ってくれない事が多いです。(全部とは言いませんが) もし、その分を、全部金額を請求すると、相手は融通が利かないとか今後は使わないとかになり、泣く泣く請求はしないで仕事をします。 確かに相手からすると、紙と鉛筆と人だけにと思いますから(最近は、そのように見るのは少なくなりましたが)払う側は融通を利かせろと思うのもわかります。 でも、外国の、本社の企業は違いますね。あちらは、システム仕様書は最終確認書であり、合意書だから仕様書以外の事が発生したら、最初に金額を決め、新たに追加仕様書を作成するのです。 私がやった会社は、合意以外の事を、好意で追加したらクレームがきました、勝手に合意した仕様書を変えるなと。 また、期日も厳しいです、期日まで納品出来なかったら、契約金額の倍のペナルティを取ると言われました。お国柄によって、大きな違いがあります。私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.30
コメント(0)
昨日は、管理職の話で終わりました。 私達の業界の10年前に、35歳定年(業務から)という時代があったのです。 あまりにも過酷なので、体力が持たないということで、35歳になったら、システム設計やプログラム開発から引退して管理職になるという事が、暗黙の了解のもとで行われたのです。 確かに年齢とともに体力が衰えますし、若いじぶんからの過酷さで衰えてくる事は、間違いありません。そうですよね、月平均150~200時間の残業をやっているのですから、だから基本給より残業代のほうが多かったです。 そのために会社は、残業代を減らすために管理職に登用するのです。会社からすれば、その方が金額的に楽ですからね。 それで私は出世が早かったのだ(笑)出世が早いときは、会社に入って3ヶ月で、一つの課を任されていましたし、その為に、一人の部長が辞める羽目になった事があります。 私の責任ではなかったが、その人が辞めるときに「君が育ったから私は要らないと言われた」と私の前で言われたときはショックでしたね。 私が決める事ではないですから、上層部が決めた事ですからね。でも、やりすぎたかなとは、思いました。 それと、私は、出世は早いのですが、出世が止まるのも早いのです。それは、上とぶつかるからなのです。 よく、上とぶつかっていました。部長室で、大声をあげて「出来ません」と豪語していましたから。 ただ、下には、上からの文句は下げませんでした。その為に、上から嫌われ、出世は止まるのです。 私は基本的には、管理職は嫌いでした、実務が好きで、よく、システムの相手先に行たり、皆と徹夜をやっていましたね。 現場サイドが判るので、上層部の無理難題には、反発するのです。そうですから、睨まれますよね。 だから、自分の課が安定すると、人材を育てて去る。それが、自分のやり方でした、そんな時は、上層部は、うるさいのが居なくなるので喜んだでしょうね。 私は前にも話しましたが、実業務が好きなのです。何時までも、第一線に居たいのですが、それでは次の人材が育たないですよね。 そんなジレンマがありますが、今でも第一線で仕事をしています。管理職より、私にはそちらが向いていると思っています。それと、貧乏性なので動いてないと気がすまないのです。貧乏性が身に着いているから、貧乏なのですね、今でも(笑)私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.29
コメント(0)
私達がプログラムを作り始めた頃は、プログラムに対してお金を払ってもらえませんでした。 日本人は、見えない物に、お金は払えないと言う気持ちが強く「海の物とも、山の物とつかない物に、お金は払えない」と言う商の感覚でしたから、払ってもらえませんでした。 また、コンピュータがプログラムで動く事すら判らない人が多かったし、コンピュータは、何でも出来るもので、万能機械に思われていましたから、今、考えると、お笑いですよね。 だから、ハードの価格に、ソフト分を上乗せして売るのです。だから、コンピュータは高価なものでした。 販売価格の何%が、ソフト開発部門に開発費として渡されるのです。だから、営業は強いですけれど、ソフト部門は冷や飯を食べさせられていました。 だが、IBMがソフトとハードの分離を宣言して、始めてソフトも認められるようになったのです。 でも、それから、3,4年は、正当な価格を貰えませんでしたね。確かに、紙と鉛筆と人だけで、作るのがプログラムですから、日本の商習慣の中では、認められませんでした。 また、コンピュータが世の中に出回るとともに、ソフトは認められて来ましたが、技術者が少なく、忙しい日々続きましたね。 だから、毎月残業が200時間くらいで、休みなど有りませんでした。それに、男社会でしたから、何か殺伐とした雰囲気の中で仕事をしていましたね。 そうでしょう、残業200時間くらいだと、女性は働かせられませんでしたから、自然に男ばかりの世界になってしまい、事務所は何とも味気の無い所でしたね。 職業的には世の中の最先端を行っているなんて、思われていましたが、現状は男臭い殺伐とした職業でした。 それに、納期が近づくと徹夜が続き、事務所の机の上で寝たりもしていました。 あまりにもハードなので、身体が言う事を聞かないのです。年齢とともに、管理職になるか、別な所に配置転換が常識でした。確かに、ある程度の年齢になると、連夜の徹夜は辛いですよね。 それと、論理的バグが出ると、一日中悩みますからね。バグは意外と簡単な所に、隠れているのですが、自分の思考回路が難しい所ばかりに集中しているので、判らない事が多いのです。 私は、そんな時は、別の事を、考えたり、別の事をしていました。その方が新たに考え直せるので、バグも見つかりやすかったのです。 また私も、その年齢制限に引っかかって、管理職をやりました。私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.29
コメント(0)
学生達にプログラムを、料理に例えて教えていました。基本的にプログラムは、データを如何に加工して利用するかのものだと思っています。データは「材料」、「作る工程」はプログラムの各ルーチンに例えていました。 仮にカレーを作るのに例えると、肉や芋等の野菜類はデータとして例え、そのデータの切り方と、次は材料の加工です、人数分によって鍋を選択して、肉を炒め、次に玉ねぎを等の工程を経て、煮込み、一般家庭では市販ルーを使って出来上がりです。市販のルーは、別プログラムを使用してとのようにしていました。 例えがカレーですが、プロはカレー粉から炒り、本格的に作りますがそれぞれの工程によって、味も変わってくる。その工程が、細かいほど難しいのですが、好みも十人十色で、それぞれですよね、これが、プログラム(システム)を作る上で厄介なのです。 企業の中でも1部門のシステムを作るのと、数箇所の部門が絡んでくるのでは、大きな違いがあります。 1部門なら、その部門内での問題点を解消するのは楽なのですが他部門となると、そこには、各部門の思惑が出てきますし、楽をしたいと思うので、多種多様な事を言ってきます。 それを全部取り込む事は、出来ません。取込んだら、システムが大きくなり、時間がかかります。それでも、完全なシステムは作れません、何故かと言うと、人は、また次の要望を言い出すからです、すなわち、それが出来るなら、これも、出来るだろうとなるのです。 だから、100%のシステムはないと言ってよいでしょう。人が80%のシステムだと思ったら、私は最高のほうだと思うのです。 仮に料理でも数人が食べる場合、人によっては好き嫌いがある人もいます、また、肉より魚介類のほうが良いという人もいます。だが、自分一人なら、好みの材料を使えば、いいのですから楽ですよね。この様にシステムを作り上げて行くのは、大変な作業なのです。 だが、大変なほど完成した時の喜びは、ひとしおですけれどね。私も幾度となく、泣かされて完成した時は、大喜びだったんです。それこそ、天井に付くくらい、飛び跳ねたんですが、周りは冷たく見ているだけで、また次の要望を言い出すのですよね。 単なる自己満足にか過ぎないのです。でも、私はそれが悔しくて、コンピュータを駆使したシステムを作りたいと思った事もありますが、ハードの変わる速度が速いので、考えている事が古くなってしまうのです。私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.29
コメント(0)
私はPCの初期の頃に、ある生産性本部のPC研究会に会社から、行かされていたのです。そこには大学の教授やメーカーの技術者、私達のようなソフト開発関係の会社などが集まり色々な観点から意見や情報を出し合って居たのです。 約一年間の間でしたが、それぞれが違う立場なので、意見が対立し遭う場面が多かったのです。私達は現実の機械に対して、ソフト開発をしている立場なので、大学の教授連中とは意見が対立する事が多かったですね。 それは、しょうがない事なのです、相手は先の先を見た考え方だし、こちらは現実の中で仕事をしているので、先など見て居たのでは仕事になりませんから「そんな非現実的な事を言われても、私達には、もっと現実的な事を言ってほしい」と噛み付いていたのです。 そんな状況の中でしたが、教授たちは、すでに二階層メモリーを考えていたのですから今から思えば、凄い事ですよね。まだ、PCの初期の頃ですから、各メーカーがPCに対して、手探り状態であったが、NEC、富士通、シャープ、カシオ、日立などの多数の会社がPCを作っていたが、現在は撤退してしまった会社が多い。 私もNECのPC8000を会社から、貸し出しされて、家に持っていっていました。 まだ、PC自体が高い頃でしたから、会社でも5台位しかない時ですOSもCP/Mの時代ですから、PCの電源を入れるとBASIC画面が立ち上がりBASICでソフトを作れるようになっていましたが、私たちはBASIC何てと思って馬鹿にしていました。OS自体もアッセンブラ言語で組まれていて、私達からすると電卓のプログラムが組める程度の物と思っていました。 中型や大型コンピュータでシステムを、構築していた人間にはおもちゃみたいなものに感じたのです。当時はおもちゃみたいな物でしたから、私はそんな研究会に行かされてと最初のうちは思っていたのです。 だが、教授達の話を聞いていると、これから伸びると感じました。社長は先見の目が合ったのですね、今考えると。 それが今ではPCを知らない人はいないし、皆さんが使っているのですから、あの大学教授達の考え方が反映されているのですね。 あの人達みたいな人が、いなければならないし、それを現実の中で使う人や、使えるようにする人等でバランスが取れているのですね。私のHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.28
コメント(0)
でも、コンピューターて、不思議ですよね。皆さんは1、2、4、8で16の数字を表せることを知っていますか?知っている人は多いと思いますが、コンピュータは、それを利用して、その数字をON、OFFで、文字や数字などを作っているのですよね。 だから、機械語は16進数で出来ています。先ほどの4つの数字を組み合わせると、0から15までになるのですが、10以上は2桁なのでA~Fで表現しているのです。0は4つの数字をOFFに、1は1をON、他をOFFにすると、10は2と8をONにしたらできます。 また、最近はバイト、何て言いませんが、GB単位で言いますが、バイトの下の位はビットと言うのは判らない人が多いと思います。 1バイトは8ビットで出来ていて、最初の4ビットが先ほどの数字でありその上の4ビットが、数字や文字を表す為のものなのです。このように意外と単純なものなのですが、私はハード屋でないので、後の構造的なものはわかりませんが、簡単に言えば4つの数字とON、OFFだけで成立するものなのです。 ちょっと極論になりましたが、これがコンピュータなのですから、考え出した人は凄いですよね。 でも、意外と簡単な考えが、大きなものを生み出すものなのですよね。私がコンピュータをやった頃は、ビット単位のスイッチが本体に付いていて、そこからプログラムを直す事も、データを修正する事も出来たのです。 何て時代だと思うでしょうね。それが出来たのは、プログラムリストにアドレスと機械語、それとプログラム言語が表示されて出てきていたからです。 だから、よく間違う飛び先の命令は、自然に16進で覚えてしまいます。また、紙テープのデータを直すのも手でやっていましたね。パンチされた穴を、細い紙で塞ぎ、そこにホチキス見たいな、穴あけ機で穴をあけて修正するのです。 今から考えると馬鹿みたいですね、また、私はプリンターをシリアルとラインプリンターを同時に動かし、2つの仕事をやらせるプログラムを作ったのですが、これが、笑いもの。 ハード系に弱い私は、メモリーが、今、みたくマルチで動かないのです。単独処理なので、遅いほうの動きにあわせるので、シリアル側に合わされて、ラインプリンターの役目をしなかったのです。 結果的に単体ごとに、やっても同じ時間でした。HPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.28
コメント(0)
私はコンピュータをやって30年以上です。皆さんは知らないでしょうが、紙テープやカードの時代でした。 それと、メモリーが24Kで、中型クラスのコンピュータだった頃ですそんな時代からやっていますが、私はコンピュータを信じていません。それは、機械的には、すばらしいと思います、私みたいな怠け者には計算など、もろもろの事が出来るので便利だとは思います。 だが、ソフトは人間が作るのですから、最高はないのです。それと、あくまでもコンピュータは機械なのです。それが色々な事に使われてきて、今では私たちの生活の中に無くてはならないものになってきました。 また、インターネットと言う情報化社会に入り込み、遊びや情報の大きな泉になってきています。 だが、そこには落とし穴がある事を忘れては、いけないと思うのです。それは、コンピュータには感情がありませんし、使いようによっては犯罪にも使えるのです。 また、ゲーム等で仮想の戦いや、殺人も出来ます。それが、若い人達に与える影響はコンピュータが発達すれば、するほど大きくなると思うのです。 私は、昔コンピュータで、塾をやろうと思った事がありますだが、止めました。それは、教育は教えるだけでないからです、そこには、人間としての感情が必要だからなのです。 確かにコンピュータは沢山の情報を蓄えたり、計算させたら人間など及ばないくらいでしょう、でも、感情が無い。温かみが無い、思いやりが無い、それは人間としての一番大切な事なのです。 また、私が気に入らなければ、電源を切り、再稼動すれば最初からやり直す事が出来るのです。 仮にゲームをやっていて、気に食わなければ電源を切り、最初からやればいいのですから。 そのように自由が利き、間違ったら間違いだとは出てきます。これを、学校教育に取り入れ、家庭でもパソコンを買い与え、子供たちは、それに、熱中して遊び、友達付き合いが少なくなって人間の繋がりがなくなってきてしまう。人間は人間との結びつきで、色々な事を学ぶのが一番だと思うのです。 だが、その状況が少なくなることにより、労わりや優しさが失われて行ってしまうのではないかと思えるのです。 特に学校教育で、コンピュータに力を入れている、国の、お偉いさんあなた達は、考え違いをした、教育をしていまいせんかと言いたい。親御さんも、買い与えるのではなく、人との交わりを大切にさせてほしいですね。 HPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.28
コメント(0)
私は、お年寄りの女性に持てましたね。こんな事書いたら、笑われそうですが、持てたというか可愛がられました。 変な意味で持てたのでなく、何かあると呼ばれたり、食べ物を貰ったりしていました。 それに、お年寄りなので、女性として見なくてもいいし、人生の先輩として見ていたから、意識しなくてもすむから、私も気楽に甘えていたのかもしれません。「ある少年の物語」に書いたように、ボタ山で石炭拾いをやっていた頃から、周りは大人の女性ばかりでしたから、その人たちにも色々可愛がられました。 それが、自然に大人の女性に接し方が身に着いていたのかもしれません。 それと、母お早く亡くしたので、自然に母親に対する接し方をしていたのかもしれませんね。 学生時代にアルバイトで、大きなキャバレーでボーイをやっていた事があるのですが、そこは夕飯が出て、帰りに、また夜食が出るので、食べたい盛りの私には魅力的でした。 そこでも、働いている女性がお客さんに、「この子にチップを上げて」と言って貰っていました。 何かしら、可愛がってくれましたね、でも、その人にはちゃんと恋人は居たのですよ。 どうも、私は恋の対象にはならないタイプ見たいです。「我が流れ」で書いた、大手ゼネコンの時も、彼女とは良い友達で相手の、彼氏の話をされたりしていましたし、学生からも彼氏の相談を受けたりしていました。 そんな時は、何でこいつら、そんな話をするのかと思った事が何回もありました。 みんな、私に対して男として見てないのか、安全パイと思っているのかと悲しくなる時もありました。 だだ、私が気になる女性は、そういう子が多かった。気にならない子には、好かれる事はありましたが、そんな子とは、今でも、友達として付き合っている人はいます。 どうも、私の接し方も、相手を男性と同じように接してします。でも、良いなと思う子は、彼氏の話をしたりとしていますが、それも、私自身が、その様に話を逸らしている部分もありますが。 何か話が脱線してしまいましたが、私は小さな頃からの経験により、年寄りとの接し方はうまかったのかもしれません。 私は、前にも書きましたが、母のイメージと死んだ彼女の思いが深いのでしょうね。 でも、母親と名のつく女性は偉いと思います。私の現在があるのも、母のおかげだと感謝していますHPにも来てください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.28
コメント(0)
私の恋愛感情の中に、母が生きている事は否定出来ません。対、女性に関しては、母のイメージをダブらせているし、どうも母性本能の強い人に憧れる傾向があります。 簡単に言えば、マザコンなのかもしれません。えー、マザコンと言われそうですが、男性は、そのようか傾向を持っていると思います。 それが表面に出るか、出ないかだけであると思うのです。平均して、男性は子供ですよね。結婚して、子供が出来ると、良く奥さんは子供が二人居るみたいとこぼしていますが、それは旦那が子供と同じという事なのだと思うのです。 特に私は小さい時に、母を亡くしたので、それが強いのではないかと思うのです。ましてや、母を好きでしたから、なお更強いと思うのです。 ただ、男としてのプライドと、父に対する反発で、それを素直に出し切れないから、表面には出てないだけなのだと思うのです。 父に対する反発は「ある少年の物語」を読んでいただいた方には判るでしょうが、女を泣かせる男性に成りたくなかったのです。 それは、反面女性に対して、守らなければと言う気持ちが強いのですそのように思う男が、女性に甘えていたら馬鹿みたいじゃないですか。それが、プライドなのでしょう。 だからといって、若い頃は(20代)年上に憧れたこともありますが殆ど年下の女性と付き合っていましたね。 ひどい時は20歳位離れた女性と付き合っていました(日本人)。括弧の意味は、外国で付き合った子は、それ以上離れていましたから。 だが、憧れとは別で、甘えられる女性とは付き合っていませんね。憧れとプライドが交差して、プライドが先に出てしまうのです。悲しい事に、それが現実でした。 ただ、最初の奥さんは、私のプライドを、うまく運転しながら彼女の掌で遊ばせてくれました。 その奥さんを見て、周りの人は「良く出来た奥さん」だと褒めてましたが、私から見ても、私の我ままを、よくコントロールしていたなと思います。 それなら、なぜ離婚したのと言われそうですが、それが判った時は相手を女性として見なくなってしまうのです。母に近い存在になってしまい、女性としての対象ではないのです。 しかし、相手は女性として見て貰いたいと思うから、そこにはギャップが生まれ、自然に噛み合わなくなってしまい、別れてしまったのだと思うのです。
2010.10.27
コメント(0)
私は母に対する思い入れは深いのです。「ある少年の物語」にも書きましたが、母は私が小学6年のはじめに亡くなりました。 ちょうど五月でした、私は母を尊敬していました。母との想い出は、小さい頃の思い出しかありません。 母は函館生まれで、カトリックの女学校を出ていましたので、カトリックの信者でした、その関係で私も幼児洗礼を受けていたのです。母は日曜日毎に教会に行っていたので、私も連れて行かれていたのです。前にも書きましたが、函館に居たのは私が2、3歳の時までと思います 函館での母に対する記憶は、教会に一緒に行っていた事があります。それと、私が雷を怖がって、母に抱きついていったのが、私の記憶の中に鮮明に残っているのです。 雷の時は、母がふざけて「ヘソを取り来る」と言って、私を怖がらせた事を覚えています。 後は、母はお嬢さんだったのか、お人好しで、すぐ近所の人達に物をあげていた事と、体格がよかった事は覚えています。 そんな母でしたが、私達、子供には、やさしい人でした。ただ、料理は下手でしたね、母の得意料理は五目寿司で、家で良い事があれば、必ず五目寿司だったのです。 味の方は、今一でしたが、母にとっては、それが唯一の料理だったのでしょう、だから、お祭りや入学式などの時は五目寿司でした。 私達、兄弟もパターンが決まっているので、今日は五目寿司だなと思っていました。 食べ物に関しての、母の想い出は、それしかないのです。後は、飴を作ってくれたり、ドーナツを作ってくれたくらいです。食事では「五目寿司」だったですね。 どうも、お嬢さんだったのと、母方の家は旅館をやっていたので料理を作る事をしなかったのでしょう。 だから、料理は出来なかったのかもしれません。料理に関しては、父は上手でしたから。 だが、母は心が広いと言うのか、おっとりしているというのかやさしい人でしたね。 だから、人には好かれました。ただ、経済観念はあまり無かったかもしれません。 そんな母を私は好きでしたし、私が母に似ていると言われるとうれしかったですね。 世の中の母という人は、私は偉大だと思っています。 また、女性は母になると強いですよね。そんな人を私は沢山見てきましたが、子供を生み育てた女性は私は、偉大だと思うのです、それと偉大だと言われる偉人の人達も女性が、この世に送り出したのですから、凄い事ですよね。私のHPにも来てください。ジオログに、こことは別の事を書いています。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.27
コメント(0)
男と女の話になりましたが、私は平和な世の中になれば、なるほど女性が強くなると思います。 男は本来、力で押す人種ですから、戦争や波乱の時代では力にものを言わせて、強引に押し切り、強さを保持出来たのだと思います。 それは、力と力のぶつかり合いで、相手を認めさせなければならない時期だったからなのだと思うのです。 ところが、その時期が過ぎて平成で安らぎを求める時期に来ると男としての力の発揮する場所が無くなり、男同士の戦う事もなくなり互いに強調し合う時代になると、戦う男の優雅な姿を見せる事が出来なく、そんな事が長く続くと、自然に男の本能である戦いと言うものが消えてきたのであろう。 男としての本能が無くなって来ると、元来男としての怠け癖が出てきて、女性に頼る傾向が強くなる。 経済的本能を持っている女性は、男の強さに引かれ、その強さの中で経済的能力を引き出す為に、強い男を求めていたが、その強さの無くなった男には、魅力を感じなくなり、自立を考えるように、なって来たのだろうと思うと。 これは、極論ではあるが、私はそのように感じている。私達の若い頃は、貧しさから這い上がろうとするハングリー精神があったと思うし、出世したいという気持ちも強かったと思う。 それは、経済的に日本が成長し、安定もしていなかったから働きという戦場に身を投げ出していたのだと思う。 だが、現代は日本も経済的に安定し、今まで戦ってきた男達はあのハングリーを忘れ、子育てという安定・平和の中に入ってきたために、闘争心を失ってきたのである。 そんな人達に育てられた、子供たちは男の闘争心など分からずに、経済的にも恵まれて、安定が当たり前と考えるようになってきたのであろう。 私は、貧しさは悪くだけではないと思うのである。貧しさは、人間の闘争本能をかきたてるものを育てるように思うし、人間としての、いろんな面を見せるものであると思うのである だからと言って、貧しくなれとは言わないが、学ぶべきものはあるし、闘争心も養うことが出来ると思う。 だから、今の親は自分達の貧しき頃の事を、伝えるべきであったと思うが、もう遅かりしであろう。 最近の若者達の考え方の安定は、「怠けの安定」であり、戦う事を履き違えた闘争心であり(戦争や殺し合いのゲーム的に)、それを実行して、殺人等の犯罪を起こしている様に思える。 これに関しては、反論も多いであろう。 私のHPのジオログも読んでください。http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.26
コメント(0)
でも、女性に臆病なわりに、二度結婚もしました。「なんだそれ」って言われそうですが、本来、私は寂しがり屋なのです 早くに母を亡くし、青春の始めに彼女を亡くしていましたので、母性に憧れと「何か」を求める気持ちがあったのです。確かに甘えん坊の所がありましたが、亭主関白な所もありました。 家では威張っていたように思います。だが、最初の奥さんは利口な人でした、今考えると私は彼女手のひらで、弄ばれていたように思います。 彼女は非常に私をコントロールするのが、うまかったですね。私は単純なので、コントロールしやすかったのかもしれません。 私は「我が流れ」にも書きましたが、働くしか能がなかったですから家の事は彼女にまかせっきりでした、それと、私は父親のように女性を働かすのは、男に甲斐性がないからだと思っていました。 私は母親の働く姿を見ていたので、そのように思ったのでしょう。男は妻や子供を食べさせられなければ、男でないと言う気持ちが強かったのです。 今そんな事を言える時代ではないですが、私の若い頃は言えましたね「女は家を守るもの」と真剣に思っていました。こんなこと書いたら、古いって言われて、「化石」なんて言われるでしょうが。 だが時代は流れているように、その流れによって女性も強くなりました。私は本来、男性より女性の方が強いと思っています。力では男性は勝でしょうが、精神力では女性の方が強く生活力もあるのではないかと思います。 私はドミニカでも感じましたが、ラテンは男性天国であるが年齢とともに女性が強くなって行くのを、沢山見てきました。男性は年齢とともに、衰え、見放されて行くのです。 男性天国と言われているのは、基本的には女性が利口なのです。男性を立てながら、自分の手の中に入れて行き、身動きできないようにして行き、男が気がついた時は、遅かりして感じです。 だが、現代は女性と男性の立場が逆転しかかってきているし男性が弱くなった感じがしますね、時代の流れかもしれないが もう少し男である事を、出してもいいのではないかと思います。それと、優しさを履き違えていないかと、思う部分もありますね。 「世の男性よ、男になれ」と言いたいですね。
2010.10.26
コメント(0)
私は女性が苦手だと、書きました。それは、どうも女性の気持ちが、理解出来ないのでしょう。だから、二回も離婚するのでしょうね。 中学生頃から、女性を意識するようになりました。マセていたほうなのでしょうかね、片思いの女性も居ましたし女の子から手紙も貰って付き合った事もありますね。現代みたく性的に走る時代ではなかったですが、興味は大いにありました。 だから、片思いの子に無記名の年賀状を出して、胸ときめかし返事が来ないかと期待していた部分があったりもしました。来る訳ないですよね、名前書いてないのだから。 それに私は女性が数人で話し込んでいると、そこを避けて通るようにしていました。悪の男連中がたむろしていると、無理にでも割り込んで通るくせ女性がたむろしていると、回り道をしていたのですから、笑えますよね。 どうも、純なのかと言えば、そうではなく、自意識過剰なのだと思います。 女性を意識し過ぎて、嫌われたくないから、何も言えなくなっていたんでしょう。 また、その頃は特に女性に対して意識する時期であったと思います変に、マセてきているので、相手を意識していたのかもしれません。 だが、だからと言って同級生たちとは、普通に話をするのです。また、手紙を貰った子とも付合ったし、別な子からも手紙貰って一時的に二股をかけたこともありました。まだ、中学生くらいなら初心でしたから、駆け引きなんて事出来ませんからね。 あの頃は何とも言えない、心のトキメキがあり、それが切なく感じるのですよね。 だが、大人に成るにつれて、それが無くなり、別な部分が出てくる。わかりませんよね。 それと私は晩生なのか、マセていたのか、分からない時期がありました。「我が流れ」で書いた、友達の好きな子を、何とか友達と付合わそうとして、毎晩説得していた時の、その彼女が調子悪そうだったので「どこか悪いのか」と聞いたのです。すると、彼女は「あれなの」と言うのです。私は「あれって、何だ」と問い返したのです。その時は大学でしたが、あれの意味が分からなかったのです。すなわち、女性の生理が分からなかったのです。女性に生理があることすら、分からなかったのですから恥ずかしい話ですよね。 そんな男も、それを過ぎてから、幾多の女性とも付合いましたが今でも女性の心理がわかりません。 単純男には難しいものです私のHPにも来てください。 http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.26
コメント(0)
色んな事を書きました。人は生きていると、それぞれの悩みや喜びがあるのでしょう。 私も安定という人生ではありませんでした。だが、それも、自ら選択した部分もありますし、そうでない部分もあります。 自ら選んだ事は、自分で責任を取らなければなりませんが、そうでない部分は、何か運命というものがあるように思います。「ある少年の物語」で、父を憎んでいましたが、最後を看取ったのは私でした。 それは、自分が大人になった部分があったからでしょう。それて、父には父の歩んで来た道に、いばらがあり、理解出来た部分あったからだとも思います。 だが、少年の頃の憎しみは消えてはいなかった事も確かです。その憎しみが、私に糧であったのも確かです。 人は、何かに対し喜びを持った時や、憎しみを持った時に力を出すのではないかと思います。 それが、よい事であるか、悪い事であるかによって変化するがありますが。でも、学ぶ事は出来ますよね、色んな事を。私も、人間として成長したのは、幾多のいばらの中からだと思っています、あの棘がなかったら、今の私は居なかったでしょう。 昔の人は、よく言いました「成長の糧は成功より、失敗にあり」とこれは、私の昔の人の言い伝えを勝手に変えていますが・・・。確かにそうだと思います、私は失敗の繰り返しで成長してきた部分が多かったと思います。その多さが、ほかの人より、多すぎた部分もあるかもしれませんが。 別な部分では、その多さを楽しませてもらったのかもしれません。私は教えていた頃も、仕事をしていた頃も言っていた事があります。「失敗すれ、その方が、よく覚える、うまく行った時は、うれしいが失敗した時の方が自分の為になると」と言っていました。 それは、自分の経験上から来たものなのですが、誰しも失敗は嫌ですよね、それを「失敗しろ」とは、いい加減なことを言う奴と思ったでしょう。 確かに失敗の、度合いによって這い上がれない事がありますから。だが、大きな失敗は、人は二度と繰り返さない様にするでしょう。 でも、小さな失敗は繰り返す事が多いですけど。私はどうも、小さな失敗ばかりしているようです、今も。今回は、私の途切れ、途切れの思いを書こうと思っています。また、読んでくださいね。(たまには笑える事も書きますから)
2010.10.26
コメント(0)
私は人間関係の、煩わしさから逃げだしたかったのです。ところが、また、来たのです、迎えが・・・・。これには、私もあきれ果てました。ガキの遊びじゃないのだから、出たり入ったりを繰り返してどうするのかなと思ってしまいました。 確かに仕事としては大きなものだし、それを完成させたらゼネコン大手としては良いかも知れませんが、それなら、そうした対応があるのではないかと思ってしまいました。 私は仕事だけやらしてくれればいいと、何度か言っていたしあんな、くだらない事で自分の仕事を潰したくもなかったのです。だが、私から言わせると「女の腐ったような奴」(女性が見たら怒るかな)見たいに、ネチッコクする奴とは仕事は出来ないと思ったのです。 幾度も迎えに来たのは、提案の内容は私の頭の中にしかなかったからでしょう。 この時は私は、もうやる気が失せていましたし、人間関係にも嫌気がさしていました。 本音を言うと、あの仕事はやりたかったです、私の仕事人生の中で最高のものだったからです。 私は戻る気もなく、断りました。自分としては、ショックは大きかったです。(だから、愚痴みたいに長々と書いたのかもしれません、もし、あのシステムが終わっていたら、自分の、あの後の行動は変わっていたでしょう) でも、あれがなかったら海外には行ってなかったかもしれません。私は、そのショックから立ち直れなかった部分があり、日本から脱出したのです。 日本での仕事上の、人間関係が嫌になり、しばらくボーとしていました。そんな時に、海外行きの募集があり、応募したのです。一次、二次通り、語学試験、面接で合格して、海外に行きました。 それが、「海外珍滞在記」です。行くまでは、期間がありましたのでアルバイトもしました。 日雇いの引越しや、移転等をやっていました。私は、元来は身体を動かすことが好きでしたし、システムをやっている時から、ウエイト・リフティングをやっていました。システムを組む時も、現場に入り、一緒に汗を流して分析していましたので苦にはなりませんでした。むしろ、楽しかったです、煩わしい人間関係もなく。 そうして、旅立ったのです、外国に四年間。 私の人生の中では、色んな転機がありました。でも、それは一人では動いてないのですが、自分の行動は自分で責任を取らなければならないのです。 その責任の取り方によって、他人を泣かす事もあり、自分が泣く事あるのだと思います。 私の仕事のやり方で、幾多の人を泣かせたし、喜ばせもしたでしょう。特に若い頃は出世を考えていましたから、多くの人を蹴落としたりもしました。 その代わり、自分が無理をすることもあったのです。それは、背伸びをしていたのですが、背伸びとしているとは、気が付かないで仕事が出来ると思っていた部分がありました。 私はそれで、いいと思っています、それが自分を支えていましたし、色んな経験を積めたのだと思っています。 だから、今の若い人も思い切って、自分を出して経験してほしいと思います。 完私のHPにも来てください。
2010.10.25
コメント(0)
上司は部内でも権力はあったし、それに従う人達も多かった。また、人事異動で彼も上になり、私も副部長と言う肩書きが付いた。私は、肩書きは、どうでもよかった。どうせ、ここに居るだけの一時的なものでしかないから。同時に私のプロジェクトの担当部長も変わったが、相変わらず彼とは同じフロアであるが、私の直属の上司ではなくなったので私は喜んでいた。 今度の上司とは馬が会った、彼も建築上がりだが、物事のけじめは付ける人であったし、自分の分からない部分は口を出さないで任せてくれた。 新しい上司は、私と同じで酒は弱い人であった。スポーツが好きな人であったのだ、特に空手をやっていた。社内に同好会があり、週二回練習をするのである。私も誘われて、一緒にやっていたのである。 私も、少年の頃、父が空手の段持ちだったので、無理にやらされていて、多少は経験があったのである。 そのように仕事も私生活も変わりつつあったが、総合的には前の上司が全体を見ていたので、私と新しい上司が仲良くやる事が面白くなかったのであろう。 ある日新しい上司から「彼と何かあったのか」との質問されたのである。 私は「なぜですか」と問い返したら、「彼が君の事を変に言っていたので」と答えた。 私は話していいものか、迷ったのである。あまりにも、くだらな過ぎるから、だが、プロジェクトの連中からもすでに話が伝わっていたのである。 私は経緯を話した、新しい上司は「分かった、あの人は前から、そうなのだよな」と言われたのである。 このように、私と新しい上司が、うまくやっている事に、面白くなかった、前の上司は私を会議室に呼び出したのである。そこで、彼が言い出した「私は君が嫌いだ」と私も「あなたが嫌いです」と答えたのである。私は、続けて「嫌いなら一緒に仕事は出来ませんね」と言ったのである彼は「そうだな」と答えたので、私は「私が辞めればいいでしょ、私も貴方とは仕事が出来ません」と言って、新しい上司に断って会社を出て来たのです。 何か、その時は自分のモヤモヤが消えたみたいでしたね。私は、その足で札幌に帰りました。これで、嫌味な人間と付合わなくて良いなと思ったのです。その時は、仕事の事など考えませんでしたね。 だが、これで済まなかったのです。 続く
2010.10.25
コメント(0)
私の性格上、一度仲直りをしたら、前の事は忘れてやり直すのですが彼は違いました、建築関係の仕事をしていたから、男らしいのかと思ったのですが、全然違っていました。 会う毎に何か嫌味を言う人でしたね。私は仕事中でしたが、怒り心頭で帰ってきました。その時は二度と会社には行かないつもりでした。次の日に、又も迎えが来たのです。私は、どうにも納まらず、会社には行かないと断ったのです。 私の仕事の中で最高のものを作りたいと言う気持ちはありましたが仕事以外の事で、揉める事が腹立たしかったのです。仕事で揉めるなら、それは幾らでも受けて立てますが、あんなくだらない事を言っている上司には愛想を尽かしていたのです。 私は札幌に帰って来ました、札幌に自分の部屋があったからです。東京と札幌に部屋を借りていたのです。 東京は借りてもらっていたのですが、札幌は自分で毎月払っていました。ところが札幌まで迎えが来ました。怒り心頭の私は、戻る気もないので、無理難題を言えばあきらめると思い、「月100万くれるなら、戻る」と言ったのです。いつもの倍額を請求したのです。そうすれば相手もあきらめると思ったので、ところが「OK]したのですから、私は自分で言った事を撤回できませんし、それをしたら相手に負けたことになるので戻ることにしたのです。 戻った私の待っていたのが、上司の腹心がプロジェクトに入るのが相手の条件でした。私はその時は、自分の提案が成功するだけを考えていましたのでやるだけ、やってやろうと思っていました。プロジェクトも立ち上がったばかりで、案件は私の頭の中にしかないので、詳細部分が出てきたら、私はお払い箱になるのは目に見えていたし、相手もそのつもりだったのでしょう。私は、それで良いと思っていましたし、これだけの案件は、これからも出来ないだろうと思っていましたから。 私は毎日画像処理のメーカーとか、コンピュータメーカーとツールや、その他の事で打ち合わせをしたりしていました。でも、同じフロアに居るのですから、上司とは毎日顔をあわせますでも、互いに知らん顔でしたね。 私は、それで良いと思っていました、仕事さえ出来れば満足でしたから彼の腹心が居ようが、そんな事はお構いなしで仕事をしていたのです。 だが、一度崩れると・・・・ 続く
2010.10.25
コメント(0)
私は、どうにも我慢が出来なかったのです。私一人なら、侮辱されても、我慢したかもしれませんが、彼女を泣かせたことが・・・・。 何回も書きましたが、私は単純なのです。そんな時は、仕事や生活やお金の事など考えずに行動に移してしますのです、基本的にプライドが高いのかもしれません。 私は、出社しませんでしたが、二日目に迎えが来ました。そうでしょうね、提案の件があるからでしょう。提案は、私一人で作成したのもで、概略的しか出来上がっていなかったのです。これだけ大きいと、これからのシステム設計は時間が掛かりますから。 私は仕事の事があったし、上司が誤りたいと言っているので出社しました。 会社に出て、上司と話をしたのです。上司は謝りました、私は「仕事で揉めるならわかるが、あんな事で揉めたくないから、それに彼女とは、いい友達ですから」と答えたのです、上司は「わかった、今日飲んで水に流そう」で話は終わったのです。 その日は、銀座の高級クラブで飲んだのです、二人だけではなく何人かで、飲んだのです。二人で飲むのは、嫌ですからね、お通夜見たくなりそうで。私は、銀座なんて殆ど行きません、若い頃に友達と1、2回行ったくらいです。 上司といった所は高級で、彼達はお得意さんみたいでした。大手ゼネコンですから、接待に使っているのでしょう。 それで、私は一件落着したと思って、仕事をやりだしたのです。でも、上司は私と顔を合わすと「彼女と、付き合ってないのか?」と言うのですが、私は「彼女には、結婚しようとしている彼氏がいるんですよ、それに、私は仕事がしたいだけですから」と答えていたのです。 上司は、私が独り者(離婚2回の)であるから、そう言ったのかも。 さて、それで落ち着いたかに見えたのですが、給料日に銀行に行き、お金をおろそうとした時、十万足りないのです。 私は契約社員でしたから、月の金額は決まっていました。その金額が足りないので、不審に思った私は、上司に聞いたのです。すると、「ペナルティで、少なくした」と答えが返ってきました。 私は「ペナルティとは、何ですか」と問うと、「彼女の事だよ」と言うのです。 私は再度、激怒しました、終わった事、ぶり返したことに。互いに水に流した事なのに、蒸返して来たのです。確かに、上司は、私と顔を合わせると、あの事を言う事は何回かありましたが。 ところが、今回の出来事です。私のHPにも来てください http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.25
コメント(0)
男は仕事の中で、自分を賭ける時があると思う。私は、この仕事が人生の中での最後の大きな仕事にしたいと思っていた。 それと、自分の名前が残る仕事にと、年間1億以上で3年かかる仕事であったし、自分が作成したシステムが残るという事男のロマンだとも思っていたのである。 何か愚痴みたいになったが。 さて、上司との亀裂であるが、前に書いたように、お酒が好きで女性が好きな彼との亀裂は、協力会社との飲み会から始まった。新宿の高層ビルの、自社の最上階のルームで飲み、前日、私はプロジェクトの連中と飲んでいたので、二次会は行かないでおこうと思い、先に帰るためエレベーターに乗ったのである。そこには前のプロジェクトで一緒にやった女性が乗ってきたのである。その女性とは、よく話をしていたので、話しながらエレベーターを降り、エスカレーターに乗り換えたところ、上司が上の階から怒鳴っていたので、私達は呆気に取られていると、尚も怒鳴るのである。私達は如何して怒鳴るのか理解できなく、上司が来るまで待った。 上司が来て「なぜ帰るのだ」と言うのである。私は「昨日も飲んだので、今日はやめようと思って」と答えた。彼女も昨日、その上司と一緒に飲んでいたので「今日は帰ります」と答えていたのである。 上司は、どうも、その彼女がお気に入りで、飲みに行く時はよく誘っていたのである。私は彼女とは良く話をしていたので、彼女の彼氏の話など聞かされていたし、色んな事を話してもくれていた。本当に友達としての相手であったし、本来、私は、好きな女性とは意識して、話が出来ないタイプなのである。 私達はしょうがないから、二次会に付き合った。なぜ怒ったのかも解りたかったから。 酒が進み、私は上司に「なぜ怒ったのですか」と問いかけたのである。すると、上司は「お前ら、二人でホテルに行こうとしたろう」と言うのである、それも協力会社の人達も居る所である。私は、呆気に取られた。元々そんな気も無いし、昨日の飲み疲れで帰って寝ようと思っていただけであったから。それに彼女とは男友達のようであったし。 それを聞いていた彼女は泣き出していた、それを見た私は上司に向かって「失礼だ、あなたは何を考えているのだ」と怒鳴って席を立ったのでした。 私は次の日は出社しませんでした、怒り心頭でしたから。これが、馬鹿みたいな事に・・・・。 続く 私のHPにも来てください http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.25
コメント(0)
人間の人生は運命いうものが決められているのでしょうか。どうも、安定とは程遠い人生を進んできたように思います。 さて、新たに契約して入社したのですが、ゼネコン大手の情報関係会社でした。 まだ、建設省と言われていて、談合などが問題になっていた頃です。そのゼネコンの情報会社は、全国をオンラインで結び、公共事業に参加する場合のランク付けを行い、参加資格があるか、ないかを審査するシステムを構築していた。 また、今のカーナビの走りや、東京都の橋架耐震判断システム等を手がけていて、私もプロジェクトリーダーとして参加していたのです。特に画像処理関係を主体としていたので、楽しくシステムつくりに参加できたのです。 それと、通産省からの提案案件を私が手がけたのでした。これは通産省が案件を認めた場合、年間開発費用を出してくれるのです。案件作成を任されたのですが、その提案が通るとは思わなかったのであるが通ったのである。 年間1億以上で三年間のシステムであるが、内容は土地開発と環境をシュミレーションし、同時に積算等及び緑地を画像で表現する、全国ネットシステムである。 このような膨大なシステムを手がけた事がないのと、自分の提案システムが採用されるとは思ってもいなかった。 ただ、このシステムは私の人生の中で、最後の大きなシステムとなると思っていたし、自分の名前が残るもの喜んでいた。 通産省が正式に認可がおり、手がける事になったのである。プロジェクトも出来、リーダーとして仕事をしていたが、どうも上司とは馬が合わない状態であった。 上司はゼネコンの建築関係から来た人で、情報関係は疎かったのである。だた、酒が好きで良く飲んで歩いていたが、私は酒が弱く、殆ど一軒でダウン状態であり、梯子なんて事は、しなかったのある。 また、酒も好き、女性も好きな人で、建築関係上がりの人であった。私はプロジェクトを任されていたのであるが、部内でNo2の立場であったが、上司は、厄介な人であった。 仕事の内容が分らないが、権力だけはあり、社内的にも建築上がりの豪腕であり、話し方も非常に男?を感じる所もあった。 それと飲みに行く時は、女性社員を必ず連れて行っていた。私も、また、仕事も自分の提案であったので、成功させようと思っていたし、一人では出来ないので、周りとの調和を取る事に専念していた。 だが、そこには上司との亀裂が出来た。 続く
2010.10.24
コメント(0)
でも、人間は体調が万全でないと、いい仕事は出来ませんよね。前にも書きましたが、貧乏性なのでしょうね、私は。それとも頼みやすいのでしょうか、あまり「嫌」とは言わないので。 湘南は前からの取引している所があり、採算は成り立っていましたが 札幌は古参社員が2人位で、後は新入社員が5人の所帯でしたので中々採算ラインには届きませんでしたね。 ただ、この業界は向き、不向きがはっきりと出るのです。人は経験によって仕事を覚えますが、その中でも、飲み込みの早い遅いがありますし、器用、不器用もありますから人材の配置はにより生かして行かなければならないのですが、新人が多いと、それも難しい部分があります。新たにやる事はリスクが多いし、早くやらなければ利益が上がらない。逆比例現表がでてくるのです、これは何年が過ぎると正比例になるのですがそこまでに成るまでが厄介なのです。ましてや、新入社員が多いのでは歩が悪いですよね。 でも、何とかやっていましたが、バブルがはじけて何年かたった頃ですから無理がありました。この業界は「紙」と「鉛筆」で会社を作れるのですが、資本力が弱いのです。 コンピュータはリースで済みますし、事務所は借りれば済む、後は紙と鉛筆と人間だけいれば、成り立つのですから。資本力が無いという事は、不況になると吹き飛ばされてしまうのです。 それと、この業界は何回かの不況の時も延びていた時期なので、風当たりが弱かったのです。また、そんな状況でしたからトップクラスが資本を蓄積しないでいたためにこの業界に風当たりが強くなった時に、体質強化してなかった会社は倒れたのです。 私の居た会社も縮小して風を防ごうとしました。第一に札幌の閉鎖であり、利益の上がらない部門の切捨てを敢行したのです。 これは、会社の宿命でしょう、ただ札幌の社員は東京にと口は掛かったのであるが、皆は行かないと言って辞めてしまいました。 私も閉鎖した以上は、そこに居る必要がないのでやめる事にしのです。その時、開放感があったのは、今だから言えるのですが。 それと本来の自分が望んでいない、経営という分野が主な仕事であったから、そこから開放された感が強かったのです。 でも、本体も半年持たないで崩壊しましたから、社員は辞めてよかったのかもしれませんね。 私は、半年位遊びましたか、またもや波乱の会社に勤める事になったのです。 続く 私のHPにも来てください http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.23
コメント(0)
二足の草鞋は大変でした。最初の頃は、何とかこなしていたのですが。会議で東京に出張なんかあるときは、会社の誰かを、学校に行かせていましたし、私の会社に優秀な子達が4人入社して来ていたのもありましたが、教えに行くのはある程度年齢がいった社員でした、彼たちは喜んで行っていました。 そうでしょ、若い女の子達いるのですから。私は、月を追う毎にハードになって行き、一週置きに東京、札幌の毎日でした。東京では1週間はホテル暮らし、札幌では自分の家なのですが、どうもホテル暮らしは遭いません。それは、枕が替わると、寝付きが悪いのです。 なぜ東京が一週間かと言えば、会議の後は湘南営業所も私は任されていたので、そちらも見なければ成らなかったからです。 酷い時は札幌の日帰りを何度も繰り返したことがあります。どうも、私は動かされるのか、貧乏性なのか、仕事に関してはいつもハードでしたね、自分が、そのように受けてしまう部分もあるが悲しいかな、そういう宿命なのでしょうね。 だが、この時は血圧が上がり、倒れそうになりました。もともと下は高いのです、酷い時は下が130くらいのときがありますから、一度道路の交差点で気を失いかけたこともありました。 でも、何とか、こなしてはいましたが、若かったからでしょうね。どうしても、企業に入ると利益を追求することになり、本当の仕事が出来なくなります。これは企業の宿命なのか、会議でも、それを追求されます管理者の宿命なのでしょうが、それを下の者には言えませんから自分で悩む部分もありました、ましてや二箇所も見ていたらどうしようもありませんし、企業内部でも新参者には利益の上がる所は渡してくれませんから、それに負けず嫌いの私でしたから、弱音を吐くことはしない。 やってやろうと言う気持ちが強かったので、ハードになってしまうのです。これは、私の欠点でもあり、良い所でもあるのでしょうが。自分で背おってしまうのです、どうも少年時代の父の姿が嫌であのようにだけは成りたくないという気持ちがあるからなのでしょう。(反面教師なのでしょう) でも、この頃が私にとっては体力的に一番大変でした。今だから言えますが、血圧の上がり病院に通って薬を貰いながらの生活でしたから、あの交差点では一時的に記憶がなくなりましたし目の前が、真っ暗になり、スーと身体が地面に吸い込まれていきそうでした。 続く
2010.10.23
コメント(0)
合格するのは、当たり前ですよね。優秀な子達のクラスですから、一人は2年連続で合格しましたね。2種、1種と、確かに、その子はコンピュータに向いていました。 生徒達は、世間で持て囃される職業に付こうとするのですが向き、不向きがありますから、どう考えても向いてない子がいますね。高い授業料を払って、入学したはいいけど、向いてない子はいくら、やっても駄目なのですが、先生としては、そんな事は言えませんからね。 もう1校は短大でした、これは商工会議所の学校から頼まれて仕方なく行っていました。 仕方なくとは、私は女性が苦手なのです。女性は嫌いではありませんが、女性の団体は大の苦手です。どうしても行ってくれと言われて、行っていましたが。女性を教えるのは、男女共学なら気には成らないのですが短大のように、女性だけはね。 それに、女性は必ずと言ってよいくらい、グループを作りそのグループが、幾つかあり、1つの、グループとばかり話していると、えこひいきしていると言われるのです。だから、平均に見てやらないと、何を言われるか分かりません。 こんなこと書いたら、女性に反発されそうですが事実ですから、私の経験では、最初の学校も女性が多かったので色々見て感じた事です。 私は平均に話していたから、良かったのですが、一定の子達とばかり話しをする先生は、別なグループから批判されていました。 私は女性に教えるときは、男性だと思って教えていました。そうしないと自分自身が萎縮しそうでしたから。私は短大に関しては、喜んで行けませんでした。 でも、生徒達とは会話していました。ある生徒なんて、「先生、今日アルバイト行きたくないから、お父さんになって、電話して」と言うのです。 私は「父ですが、娘が、体調が悪いので休ましてください」と電話などしていました。 確かに娘にしては、少々年齢的に大きいのですが、それに近いですからね。 そんな事をやりながら、二つの学校を行き来していたのです。だが、私は教えているだけで、物足りなく生徒に教えるという事は、初心者に教えることなので、自分の技術力があがりません、やはり社会の最前線で仕事をしなければ技術は向上しませんからね。 それと同時に、優秀な子達を社会の中で教えていかなければと思っていた時に、東京のシステム会社から声がかかって来たのです。札幌に支店を出すので、支店長にと。 私は二足の草鞋を履くことにしたのです私のHPにも来てください。 http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.23
コメント(0)
それは、札幌の新しい学校から、来てくれないかとの誘いがあったのと資金的にも問題が出て来たためです。 私は、新たに生徒を教える事になったのです。生活にも余裕がなくなってきた事もあり、札幌に行く事にしたのである。 札幌では、今までのように教えて、私は相変わらず生徒とは、授業と放課後の差の激しさを見せていた。 だが、その学校の校長が、いささか問題があり、女性職員から相談を受けて、単純男の私は直接校長に、いいに言ったのである。問題とは、女性に対する身体を触たり、唇をとかで・・・・・あり。 男気なのか、単純なのか分らないが、そのような事をやめるようにと忠告したのであるが、女性職員は学校を辞めたが、校長は、また、新しく入ってきた職員に、同じ事をしたり、女性の先生にも同じ事繰り返していたのである。 そんな、雰囲気が嫌だったのと、幾つかの学校から声が掛かっていたので私は学校を辞め、幾つかの学校を非常勤講師で回って歩いたのだが1日四校回るという、ハードスケジュールをこなしていた。 だが、それも大変なので、学校を絞りこんで二校だけにしたが、1校は商工会議所が経営する学校で、そこでは情報処理試験(通産省)の合格を目指す、特別教室を担当させられた。授業は90分で、各クラスから優秀な生徒を10人ずつで、40人くらいのクラスであるが、クラスの中でも席が前ほど、成績が悪いという順序になっているのである。 私は、このようなクラスを教える事は好きでなかった。情報処理試験を取る事には賛成であるが、これほど成績が良い順とかで隔離して競争させる事には反対であり、それでは生徒たちがかわいそうであると思っていた。 私はそのクラスで授業する時は、最初に今日やる範囲を言って、その間だけは、一切私語は禁止して、範囲が終了したら、いくらでも話していいと生徒達に言っていた。 だから、90分授業であったが60分位であったろう。生徒達も利口であるから、私語はしない、終わった途端の騒がしい事は大変であった。 私も90分生徒が集中出来るとは思わなかったので、だらだらやるより一定の時間だけ集中させるほうが、効果的と思っていた。 また、そのクラスから特別に選抜された生徒の、別クラスも私が任された。このクラスは10人位であり、私のやりたいように遣らせて貰えたので毎年合格者を出していた2~3人の。 続く 私のHPにも来てください、http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.23
コメント(0)
私は生まれが函館なのです、函館山の麓の教会は、私の幼少の頃の遊び場でした。遊び場といっても、母がカトリックの女学校を出ていました。 母は三姉妹で、全員がカトリックでした。私も幼児洗礼を受けて、クリスチャンネームを持っています。本人は無神論者ですが、小さい頃は、よく教会で遊んでいた記憶があります。 また、一つだけ不思議なのは、幼児洗礼を受けた時なのか、神父さんからパンと水を口に持って来られた時に、吐いた記憶があるのです。それが、1歳かそのくらいの時なはずなのですが、記憶にあるのが不思議なのです。 それ以外にも色々ありますが、函館を離れた時は2~3歳ですからそんな時の記憶が鮮明に覚えているのも、変だなと思うのですが。 私は母の生まれ故郷であり、私の生まれた函館で車椅子の人たちに教える事にしたのですが、新聞に掲載してもらい、市から教える場所を無料で貸してもらい、私のPCを使って週3回教える事にしたのです。 だが、その時に、ある人に言われました「売名行為」だと、私はその時に、自分を売り込みたいとも思っていませんでしたし、ただ、単純に自分が少年時代に世の中から受けた、ほんの一部を返せたら思っただけなのです。 それと、車椅子の人たちには、コンピュータを使う仕事があっていると思ったし、それで皆さんが職につけたら、いいと思っただけなのです。なぜに、「売名行為」と言われたのかは分りませんが、ボランティアでやる事が、そう思ったのかもしれません。 でも、集まってくれました15人も、有り難かったのですが、PCは、私の1台しかありませんでしたから、触れる範囲が限られたのは悔しかった。 でも、皆さん熱心でした、ただ一つだけ悲しかった事があります。非常に熱心に参加してくれ、皆さんを取りまとめてくれた方が亡くなったのです、病名は忘れましたが、その方は本当に熱心でした。 また、私にも色々アドバイスしてくれ、経費面でも出してくれたりしていました。 その方が言われていたのは、車椅子の人達は、もう少し自立心を持って健常者と同等に付き合う気力がほしい、その為には可能性を追求しければ成らないと、私もその方の意見に賛成でした。 人は可能性を求めて進む動物だと、私は考えていましたので。でも、良い方は早くに亡くなってしまいました。 ただ、車椅子の方に教えるのは、1年で終わってしまいました。 続く
2010.10.22
コメント(0)
友達付合いの先生でしたから、休みの時には団体で学校から4時間くらいの生徒の実家へ遊びに行って、雑魚寝して、その後海に行ったりもしましたね。生徒達も、けじめを付けて付合うと理解してくれました。けじめは授業と私生活を、はっきりするということです。 私は離婚してから1年位たって、再婚しましたが相変わらず生徒達と遊んでいました。 どうも、私はのめり込むタイプなので、結婚しても生徒を家に泊めたりしていました、泊める生徒は落ちこぼれでしたが、何とかその生徒の悩みを聞きだそうとしてですが。 そんな気持ちが通じたのか、何とか卒業はしましたが、ただ泊める時は、親に必ず電話させていました。 学校は女生徒が多かったので、八割は女性とでしたから。ただ、私は女性が苦手なのです、前にも書きましたが・・・・。 どうも苦手なものに当たるようで、この後も女性の多い職場に行ったり、短大の授業を頼まれたりしていましたが、今でも、その苦手は克服できませんね。 ただ、男生徒と話したりしていると、自然に女子が集まって来るもので、それが自然なのでしょうね。 生徒達との毎月の交例会で、みんなで雑魚寝をしたりしていましたからまた、私の教えていない生徒達とも交流を、持ったりもして騒いでいましたね。 ただ、またもや離婚という難問にぶつかりました。生徒達にのめり込む事と、相手の親が、娘可愛さで毎週土日は来いという事で、実家に行く羽目になり、私は堅苦しさ逃げたいのですが子供が出来ていたので、許してもらえないのです。(良い所のお嬢さんで、一人娘でしたから)私は逃げたいから、何とかしようとするのですが、そうすると電話来て、最終的に行く羽目になっていたのです。 ちょうど、その頃私が独自のプログラムを開発していたのが、メーカーに1000×1万で売れたのです。それの十分の六を慰謝料にして、離婚となりました。それと同時に私も、新たに故郷に帰って、車椅子の人にコンピュータを教えたいと思ったのです。 これは前に書いた「ある少年の物語」を読んでくれた方にはわかるでしょうが、少しでも恩返しがしたかったのです。 また、私自身も、新たに変わりたかったと言うこともありました。私が辞める時に、生徒達が自分の一番好きな写真を貼って、寄せ書きしてくれたアルバムを私にくれました。それは私の宝です、苦しいときなど、それを見ると勇気が出るのです。 続く 私のHPにも来てください http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.22
コメント(0)
私は基本的には、先生という柄では、なかつのでしょう。友達付き合い的でしたし、単なる社会の先輩のようなものでした。だから、生徒の私生活の中にも入っていけたと思います。 私は性格的には単純ですから、世間を知らない若い生徒と騒いだり出来たのかも知れません。 また、生徒達の方が、私より利口だったのかもしれません。私は離婚して身軽になったので、なお更、生徒たちとは、放課後も何かと話したりしていましたが、そんな中でも私自身の作りたいシステムもやっていました。 そのシステムは自動仕訳会計システムで、私の得意分野だったのです。放課後や授業のない時は、コンピュータ室に籠りっきりでやっていましたそんな時は、生徒は寄ってきませんでしたね。どうも仕事をやっているときは、私の形相が変わるみたいで、会社に勤めている時も、よく言われました「仕事をやっている時は怖い」と。どうも、何か真剣にやりだすと、人を寄せ付けない形相になるみたいで、ジギルとハイドみたいだと言われていました。 それと、アルバイトで、頼まれたシステムもやったりして別れた子供の養育費も払ったりもしました。子供からも、電話が掛かってきたりもしていました。私も自分の子供に対しては、自分のやりたいこととは、やらせましたが「勉強しろ」とか「塾へ行け」とかは、一切言いませんでした。別れた妻は言っていたかもしれませんが。 ある時、娘は私が仕事から帰ったときに、「お父さん、話があるの」と言ってきたのです、小学4年の子が、「今日クラスで嫌な事があって、先生と揉めたの、でも、私は悪くない」と言ったので私が「自分が悪くないと思うなら、先生と喧嘩してもいい、ただ、少しでも悪いと思うなら、謝りなさい、自分に自信があるなら謝らなくてもいいよ、それで先生が何か文句を言ったら、私に言いなさい、お父さんはお前を信じるから」と言ったことがあり娘は私に対して信頼していたみたいです。その娘は工業高校から技術系の大学へと行きました。 子供は親を見ているのだと感じましたね。何か脱線してしまいましたが、教育も相手に対して信頼してやらねば相手も着いて来ないと思うのです。互いの信頼関係の中で育てていくのが、教育ではないかと。 続く
2010.10.22
コメント(0)
基本的には、私は悪の要素を持っていましたので、悪戯好きなのです。毎月の恒例の食事会は、ラーメンを作ったり(本格的に鶏ガラ、豚の骨からスープを取って)、それぞれの得意料理を作ったりしましたが、大体は私が作らされました、今の若い子は料理を、あまりしませんので。 また、ある時はジュースの自販機が車に、ぶつけられて破壊状態になっていた所から、ジュースを、盗すだり、授業を終わると生徒と同等の立場になっていました。 でも、授業は厳しかったです、課題のプログラムを出来ないと、何時までも残しました。ある、新聞奨学生は夕刊を配達してから、学校に戻って来て、プログラムを作っていて、夜の九時過ぎまでになって、出前を取って食事をしたりしていました。 私は世田谷から、茨城まで通っていたのです。電車を4回乗り付いで通勤に2時間近くかかりました。ただ、電車は空いていましたから、座っていけましたが。 こんな悪な先生でしたが、生徒には評判がよかったですが、家族には評判が悪く、妻と子供たちは北海道に帰ってしまい、最初の離婚でしたが、その別れた妻とは、友達状態で付き合っています。 妻には言い分があったでしょう、仕事にのめり込み、家庭を顧みないで、好き勝手にやっていたのですから、でも、彼女は言っていました。もし、生まれ変わったら一緒になりたいと(お惚気)。 私は、人を教える事は難しいと思いました。人には得て、不得手があり、それをどのように見分けて、教えるかまた、どこを基準にして教えていくか、上を基準にしたら、下の子は着いてこないし、下を基準にしたら、上の子が遊んでしまうのです私は基準を真中にしました、出来る子を、なるべく出来ない子に教えるようにさせ、私の掛けている部分を補ってもらったのです。 それでも、落ちこぼれる子はでましたから、平均に教える事は不可能に近いですね。 そんな、こんなで悪戦苦闘しましたが、楽しく先生を出来た部分もありました。 それと地方からの子達が多いので、親御さんには毎月手紙を書いていましたね、近況を知らせてあげたりしていました。子供達は一人暮らしで、羽を伸ばしているので、あまり連絡をしないので。 これは、親にゴマをすっているみたいで、途中で止めましたが。試行錯誤の状態で走り出したのです。私のHPにも来てください http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.22
コメント(0)
私は基本的には、先生という柄でありません。技術屋の悪い癖で、舌足らずなのです、端的に物事を言うので相手は理解できない部分が多いのです。平均して技術屋は、そんな人が多いです。 さて、私は先生をやって、人をどの様に教えればいいのかを、学ぶことにしたのですが、これが最初は悪戦苦闘でした。会社では専門用語を使って「あれやって、これやってで」済んでいたのですが、これが、相手は初心者ばかりなのですからそんな事をやっていたら、誰も着いて来ません。 私は料理に例えたり、朝起きてからの行動に例えたりして学生が理解できるように考えましたが、いかんせん仕事でやってきた人間ですから、それを考えるのが一苦労でした。 でも、何とか学生たちに理解して貰えるようになって来たのです。それと、私の授業は学生達には大変な部分があったようです。それは課題のプログラムが出来ない限り、残してでもやらせたのです。だだし、早くできたら帰ってもいい、授業時間内でもと決めていましたまた、早くできた生徒は、分からない生徒に教えるのも勝手でしたし。むしろ、私が教えるより、分からない生徒は理解できたかもしれません でも、早く帰る生徒は、殆どいませんでした。分からない生徒に教えるのが多かったです。 また、ある先生は、専門用語を羅列していて、生徒が理解できないと苦情を言っているのを聞きましたし、また、生徒がベランダで授業時間にタバコを吸っていても、何も言わない先生もいましたが、 私は、厳しくそんな事をやったら、「出て行け」と怒鳴りましたのでそんな生徒は居なかったのです。 また、私の行っていた専門学校は、地方からの子が多く、みんな一人暮らしをしていたのです。 私は、そんな生徒から授業時間に、嫌いな食べ物を書かせて、金曜日に一人の生徒のアパートに集まり、食事会をやることにしたのです。 生徒たちからは300円ずつ集め、足りない分は私が出して、みんなが書いた「嫌いなもの」を買ってこさせ、それを私が料理してみんなで車座になり、電気を消して、料理をお椀によそって、電気を付けて、食べるのですが、嫌いなものが入っていて、食べられなかったら罰金を払い、それがジュース代(ビールと書けませんので)になるという、闇鍋をやったりして一ヶ月に1回生徒のアパートを回って歩きました。 それが、私のクラスの恒例とたりました。 続く
2010.10.22
コメント(0)
私は一匹狼で仕事をすることにしたのです。引き抜きに来た会社には、コンサルタントとして入り、勤めていた会社には、私が書いたシステム仕様書でプログラムを作成して貰う事にした。 稼げました、両方の会社から片手十万ずつでしたから、30年前でそれだけ稼げました、それに、資本は私の身体と紙と鉛筆だけですから、この時代は、コンピュータ業界は、女性はキーパンチャだけでしたから、男の世界で、私はよく会社の机の上で寝ていました、システム屋やプログラマーは男ばかりなのでむさ苦しく、世間で思うような最先端を行ってる職業ではなく土木作業員の人達より悪い仕事でした、こんな事言ったら失礼かもしれませんが、土木作業員の人は、雨が降れば休めますが、私たちは雨が降ろうが、台風が来ようが、室内でできる仕事なので、休むことも出来なかったし、納期に追っかけられてる毎日でした。 納期近くになると、殆ど徹夜が何日も続く事が当たり前の状態です。 ただ、私はプログラマー泣かせのシステム屋でした。それは、私は現場の人に業務を教えてもらってから、システム設計を行っていたので、私が業務を理解し、そこの問題点を把握して設計を始めるので、非常に複雑な内容になるので、プログラムを作る側はルーチンが多く、複雑なのでバグが多く発生するのです。 私は、コンピュータは道具でしかないと思っていますし、道具を最大限に利用するようにするのが、システム屋の仕事だと思っていましたこれが、私の悪い癖なのです、のめり込むと金額のことなど考えずに如何に、いい仕事をするかしか考えてないのですから。 この考えではプログラム開発は、利益が上がりません。会社としては、如何に楽にプログラムを作り、早く納品するかが利益を生むのですから、私みたいな考えでは、利益が上がりませんよね。 私は一匹狼を3年以上やって、私の欠点の人材を育てられないことに挑戦することにしたのです。 どちらかと言えば、職人堅気の私でしたから、人を育てることの難しさによって、私は会社も失敗したし、それをどのようにすれば勉強できるか考えたのです。 丁度、その頃に専門学校で教えないかと、口がかかってきたので私は自分の為にも、また、企業からの依頼で作成するシステムでなく自分で作ってみたいものもあったので、私は先生をやることにしたのです。 続く
2010.10.21
コメント(0)
確かに高い授業料であった。でも、学校の勉強どころのじゃないほど学んだ。 仕事の厳しさ、時代との流れに対応する事の難しさ、人を育てる事の難しさなど、多くの事を学んだし、自分の能力も分った。 技術的には。奥が深いものを感じたし、これからの時代のものであるから色々学ぶ事が多いとも思ったのである。 確かに会社を続けていく事は出来たであろう、だが、私が若すぎたのと、時代が若者を受け入れないのと、会社を設立した地域が、封建的なところであった。 今の時代なら成功していたかもしれないが?この疑問譜は、私自体が商売人でないから、無理であろうと思う。どうも、自分はNo2向きであり、No1には向いていないと分ったのである。もし、やるなら一人でやろうと思っていた。 また、家庭を顧みる時間もなかったし、家族の不満など聞く余裕もなかった。ただ、私は休みの時は、家庭で料理を作った、これは、評判は良かったのである。私は料理も、システムやプログラムと同じだと思っている。それは、手順や、材料の使い方によって、色々な味ができる。レシピが仕様書で、料理がプログラムなのである。 私は若い頃から料理を作る事は好きであった、これが子供達や家族(奥さんの母も同居していた)に評判が良かったし、子供は私の料理は好んで食べた。 男の料理は材料を、贅沢に使うから、喜んだのかもしれないが? 私は物を作る工程は、みな同じであると思うのである。他人が喜んで貰えるものを、如何に作り上げられるかが課題であり、評価されるものだと思っている。 私は先生を、やっていた時にシステムやプログラムを料理に例え教えていた。 さて、私は技術の進んでいる東京に出て、借金を返すことした。私は基本的に働く事は好きだったので、会社に入っても出世が早かったが上司とも、よくぶつかった、下には文句は言わなかった。 文句を言う前に自分でやってしまう事が多かった。これが、また、人材を育てる事の出来ない、自分の悲しさであった。ただ、残業時間は200時間を越す事が毎月であった。それで、借金も返す事が出来たのである。でも、充実した仕事は出来たし、色々な会社の業務をやる事によって自分の技術の向上にもなり、面白かった。 そんな時、他の所からの引き抜きがあり、私は独立してやる事にしたのである。会社組織を作るより、自分でやって自分の事は「自分で責任を取る」方が気楽だからである。 続く
2010.10.21
コメント(0)
私は基本的には、トップにはなれなという事がわかった。性格的にも、トップになる柄ではないのである。人も増え、事務所も移転して、次のステップはコンピュータを容量の大きいものに変えなければ、ならない時期に来ても居たのである。 また、商社もコンピュータの計算センターと提携した動きがあり、私の会社も、日本で10社の指に入る所から、話があったのである。だが、資本を出している会社が反対したのである、それは乗っ取られる事を懸念したのであろう。また、私も若造であるから、それは懸念した。資本を出してもらったら、商社に引っ張り回されて、自分たちの思う事が出来ないと思っていた。 そのような事などがあり、移転、機種の変換などで経費もかかり最大の危機になったのである。 確かに変換期は、お金がかかる、どうしても、出費と収入のバランスが崩れる時期なのである。 それと同時に人材の育成も考えなければならない時期であるが、そちらに時間を取られると、新規の需要に対応出来ないのである。 そのジレンマの中で東京などに出張で、目が回る状態であった。だが、思うようにいかない、コンピュータの幕開け時期では、人材は少ないし、即戦力の人材もいないのである。 私が一番つらかったのは、この頃であろう、また、資金調達も大変であった、伸びる事はそれだけ資金が必要なのであるがまだ、三年目の会社では銀行も、中々貸し渋たりで、うまくいかないのである。 毎日銀行周りをしていた、その時、私は社長なんて「小使いさん」より酷いと思ったのである。たしかに、苦しむだけ苦しみ、その見返りは社長と言う名前だけなのである。 会社は伸びながら、資金がないという状態で、1回目の不渡りを出したのである。 私は、その時は疲れきっていたのであるのと、技術をやりたいと思っていたのである。 資金を出していた会社の人たちは、これからだから頑張れと言ってくれたが、私は自分が社長に向いていないと判断していたのと技術をもっと向上させたい気持ちがあったので、会社を引き継いでくれる中堅クラスの会社に委譲する事にしたのである。 その頃は社員も10人以上居たので、倒産させたのでは、その人たちの生活を破壊する事になるので、私は決めたのである。 その代わり、現在までの負債に関しては、自分が被る事を約束して私は引退したのである。 高い授業料であった。 続く
2010.10.21
コメント(0)
私は、ただ、したすら、仕事をした。だが、若さも出して、失敗もした。仕事としては、まだ計算センターの走りであったのと、まだ、世間では大手くらいしか、コンピュータを導入していなかったので、小さいところや、中規模の会社などにアタックして行ったのである。ある程度の顧客も取れ、私は安定の部分に入ってきた時に一般の商店や小さな会社の経理を、請け負うことを考え広告を出したのである、それが税理士の反感を買い税務署が調査に来たのである。 私も、税理士を目指していた事があったので、税理士の職務を犯す事はしていなかったが、ぎりぎりの線上を走っていたのである。調査の結果、税理士の職務を犯していない事で収まった。 仕事に関しては、運輸、魚網、スーパー、病院、金融と色々な業種をこなして行ったが、如何せん、システム設計からプログラムまで、私一人でやらなければならなかったので大変であった。 その頃コンピュータ業務が出来る人間が少なかったし走りの頃であったから、人材は少なく、応募してきても教えることが出来なかった、教える暇があったら、自分でやったほうが、早かったのである。 そんな状態が続いたが、如何せん私は商売気がないのである。どうも、金儲けに関しては、下手も下手、才能はゼロに近い。これは、どうも、母親に似たのであろう。「ある少年の物語」にも書いたが、大風呂敷の母であったし、お人好しの母であった、それに似て、私も金のことを考えないで仕事を請けてしまい、それをこなしていたのである。 だから、相変わらず、昼は銀行周りで資金繰りをして、夜はプログラム、システム設計などを行っていた。 それでも、1年が立ち、2年が立った時には、社員も増え私も、社長らしくは成って来ていたが、それでも、若造に見られた、私は中学、高校までは、老けて見られたが20代中頃から、年齢より若く、見られていた、童顔でもあったからなおさらである、30歳でも24歳位に見られたので、どう見ても社長という柄ではなかった。 私も、社長と言われるのは、嫌いであった。 それと、どちらかといえばプログラムを作っているときが自分を取り戻すことが出来たのである。 しかし、限度を超えていたので、人材を育成しなければ、ならない時期に来ていたし、会社も伸びていたので、そうしなければ、ならないときであったのだが。 続く
2010.10.20
コメント(0)
仕事に熱中していた時に、私の勤めていた会社が経営危機に陥ったのである。衣料でチェーン店を30店以上持っていたが、世の中の景気に陰りが出来て、会社もその影響を受けたのである。 会社は経費削減で、金の掛かるコンピュータを辞めようとした。だが、その頃は経理や営業関係の帳票は、すでにコンピュータ化され,それがなくては、成り立たない状態であった。確かに、その頃のコンピュータは経費が掛かった。今のように発達していない状態あったし、コンピュータ自体が高嶺の花であったのだ。 そこで、コンピュータを分離する案が出てきたのである。まだ、世の中でコンピュータが何でも出来る万能な機械だと思われていた時代である。 メーカー側もリース等の事もあり、分離案に乗ってきた。責任者である、私に分離の話が来たのである。私は28歳であったが、生意気にも「俺が社長なら、会社にしても好い」と言ったのである。 これが高い授業料を払うことになった。考えてみれば、今のITの初期も初期の始まりの頃である。その頃の私は、何としても出世したいと思っていたからその様な言葉が出たのであるが、資金など持っていなかったのである。それで、社長に、させろは、ないですよね。(笑い)だが、母方の叔母(母の妹、学校の先生)が、私に資金を出してくれたのである。 叔母は、母が死んでから私を可愛がってくれて、何かにつけ援助してくれていたのである。その叔母が、私の分の資本金を出してくれたので、勤めていた会社とメーカーと私で、新しい会社を作ったのである。 最初は5人で始めて、私がプログラムの開発から経営全般を見て他の人たちは、入力処理、出力処理など、業務一般で行った。 だが、これは私にとっては、大変なことであった。殆ど会社に寝泊り状態が、半年以上続いたし、昼は銀行回りや、お客さん回り、夜はシステム分析とプログラムの作成という状態であった。 家は帰って、少しの時間寝るだけの場所であった。世間は、若さからと経験のなさが、私を社長と認めない傾向があったのと、それに、負けまいとして、自分を背伸びさせていた状態であった。 だが、恐ろしさが分からない自分は、ただ、突き進むだけであったのである。それは、若さから来るものだし、若さの特権であろう。 ただ、がむしゃらに進んで行った。だが、そのがむしゃらも、限度があるのである
2010.10.20
コメント(0)
私はコンピュータに没頭した。ちょうど、前に書いた『ある愛』(完)の傷を癒す為に、のめり込んだ。それは、自分でプログラムを作り出す事が、快感になっていった。これは、0と1の世界が、なぜにあのように自在に動くのか不思議であったし、コンピュータと会話しながら作るのも好きであった。 人より正直であったし、文句を言わないし、間違いは間違いとして私に対して言ってくるのである。今の人は分からないであろうが、その頃のコンピュータは機械語でプログラムを修正できたのである。 また、苦労して作り上げたプログラムには、なんとも言えない愛情を感じていた、これは女性が子供を産んだ時のようなものと私は勝手に解釈しているが、本当に出来上がったときの喜びはひとしおであった。 それと、私は人と話をする事が苦手であったから、なおさらのことコンピュータ相手なら、わずらわしい会話や気を使わなくて済むのであったから、喜んで仕事をしていた。 どうも、私は母の死と彼女の死から、人との接触を避けるようになっていた。 だから、コンピュータと相対している時が、落ち着いていたし彼女の死も忘れる事出来たのである。 悲しいかな、それは逃避でしかない事は分かっているが人は逃げ出したいものを、持っているものである。だからといって、人と付き合うことが無いわけでなかったが酒も飲めなかったから、私は仕事に逃げたのかもしれない。 彼女の死後、彼女の友達と結婚して子供も出来ていたがこれは、あの頃の社会では、独身者と妻帯者の信用の度合いが違っていた。私は、ただ、がむしゃらに仕事をして、出世したいと思っていた。出世が、貧しさからの出口だと思っていたのである。 だから、その頃の私は先の尖った刃みたいで、仕事、仕事の人間であったろう。確かに出世も早かったが、何人もの人を泣かした。特に女性は、泣かせた、仕事では男女の区別はしなかったのである。 仕事上では女として考えていなかった、同じ人間であり、同じ仕事をしていると考えていたので、女性を出すのを嫌った。その代わり、社長に直談判して男性と一緒の給与にしてくれと昇給時には、そのようにして貰った。だから、時々罵声も浴びせた、そんな時は女性は泣いたりもした。 でも、私は仕事として責任を持って貰いたかっただけである。でも、今考えると嫌なやつだったでしょうね。 続く
2010.10.19
コメント(0)
「我が流れ4」で書いたように、若さは行動を起こせる時である。時には無鉄砲なこともやる、私も大いにやった。前にも書いたが、チンピラやくざとの喧嘩であったりもしたし無銭旅行や、その他色々であった。 その中で一つとして学ばなかった事はなかった。いろんな失敗を繰り返し、私は成長したと思う。私は貧しさから抜け出すことが、少年時代からの目的であった。だが、そこには時代という、大きな流れがあった。それは学歴というのが、社会でのパスポートであったからである。私が反発しようが、それを持っていないと社会は認めず、相手にしてくれないのである。 だが、貧しくて勉強できない人達も大勢いた。勉強したいと思っても、貧しさのために食べる事が先になり自分の望みを、捨てるしか、ないのである。 私は、そんな社会に反発しながら、学んで行ったが、多くの友が挫折して去っていく姿も見た、それは時代という大きなウネリの中での、小さなものである。 私は安定を望むために、私たちに与えられた国家試験を取って、安定生活をするしかないと思ったのである。 だが、その中にも野望はあった、外国へ行きたいという。そのための勉強もしたし、税理士を目指していたが、前に書いた『ある愛』で、一時私は挫折したのである。 だが、その挫折から、逃げるように、私は働き勉強して税理士3科目を取得して、後2科目まで来た時に、コンピュータと出会ったのである。 私はソロバンなど弾いている時代でないと思い、そちらにのめり込んでいったのであるが、まだ「電算機」と言う時代であるから、聞くと「えー」と思うであろう。 確かにメモリーが24Kで、中型クラスで、ICとトランジスターの時代であるから、今からでは考えられない。私は、のめり込み、それを必死で取得した。でも、楽しかった、何か自分で見つけて、それに没頭できることは人間として満足感が得られるのである。 私は、税理士になる事を、その時には捨てていたのである。若さなのであろう、初期の目的は忘れて、次に向かっていたのである。若さとは、そんなものではないだろうか。それでいいのだと思うし、行動するのが若さの特権であり、そこから、多くのことを学ぶ事が出来るのである。それは、行動があるから生まれることでもある。 行動しない理論では、生きた理論は生まれないのである。だから、私は、行動は人を生かすものだと思っている。 続く
2010.10.19
コメント(0)
私は、学生時代は、何かに反抗していたのでしょう。あの頃は、働きながら学びました、私は貧しかったし、その中から抜け出したい気持ちで一杯でした。だから、どうしたら抜け出せるかを、真剣に考えていました。私は、貧しい学生たちとサークルを作って、毎月会報を出し勉強会などをしていましたが、それが会社にばれて、サークルを辞めるか、会社を辞めるかと問い詰められたことがあります。 確かに私は左よりでしたから、会報に書いた「自由主義と社会主義の矛盾」というのが、会社の幹部の目に留まり、私は危険人物と見なされたのでしょう。中小の会社で、そんな人間がいて、組合でも作られたら堪ったものではありませんからね。 私は職を失うのが怖くて、サークルを辞めました。確かに三畳一間の万年床で生活して、インスタントラーメンを鍋で作って、それを、ススル生活をしていたのですから、職をなくしたら、学ぶことも生活も出来なくなると思ったのです。 私はその時悔しいと思いました、貧しいから、大きな力に負けるのだと、負けたくないという気持ちが芽生えたのですが、それは若さから来る考え方でした。どう、あがいても一人の力では勝てないのです。私は幾度となく、立ち向かい、打ちのめされました。だが、そこには私を理解してくれる人も多少はいました。 そんな人たちに助けられ、挫折しながら這い上がって、生活が出来ていたのです。でも、それは貧しさとの戦いでもあったように思います。そんな時は、あがけば、あがくほど、人は泥濘にはまり尚あがく事になることもわかって来たのです。 それと同時に私は自分の事は、最終的に自己責任であり他人が決めた線路を走るものではないのだと、後は自分との戦いであるのだと思うようになって来たのです。 それは、自分に厳しく生きなくてはならないということでした。そこには、父のように理論で鎧をかぶることだけはしたくなかったのです。それは、反面教師だったと思うし、それが、反発として自分の中に生き、社会に対しての自分の行動の指針になったのだと思えたのでした。 人は、何かしら必ず指針になるものは、持っているのだと思うのですそれが、周りと協調しあった時に、伸びるし、周りと反発したときに沈む事もあるし、静かに周りを協調させることもあるのだと。 だから、若い時は行動して、自分を出すことは必要なのではないだろうか。 続く
2010.10.18
コメント(0)
さて、男性から誘われた話ですが、最初は中学生の時でした。知らない、おじさんが「坊や、お小遣いあげるから、付き合わないか」と誘われたのです。 その時は、ホモなんて分かりませんでしたから、ただの、変なオヤジだなと思って、その場から逃げました。二回目は、学生時代の夏休みに無銭旅行をしていたのです。短期間で、旅先でアルバイトをしながら、宛てもなく、思いついた所に行き、またアルバイトをして、次の町と繰り返していました。東京から静岡、名古屋、京都、大阪と行って、ちょうど大阪でお金がなくなり、アルバイトを探そうと思って町をウロウロしていたのですが、中々アルバイトがなく、駅で寝るしかないなと思って、駅のトイレに入ったのです。私が小便をしていると、隣の親父が覗くのです。私は「何だ、こいつは」と思って、トイレを出てきて、さて、これからどうしようかなと考えているところにさっきの親父が来て、「家に来ないか」と誘うのです。その時は、すでにホモという事は分かっていましたから断りました。 どうも、私はその気のある男性に好かれるみたいなのです。前に、チャットで知り合った人にも言われました。私の写真を見て「あなたは、あっち系の男性の好みだよ」と。私は、女性の方が好きなのですが、人から見ても、あっち系にも好かれるそうです。それだけは、勘弁してほしいです。 私は、男性は嫌いではありません、友達としてなら。ただ、性の対象でありません、確かに男性の友達は多いです。また、短大や専門学校の先生をやっていた時は、男性の生徒に好かれましたが、それは男同士の付き合いであり、性の対象としてではなかったのです。 男子生徒と授業以外のときは、騒いでいましたし、遊びもしました。生徒たちも良く話しかけてきたのです。男子生徒が集まると、自然に女子生徒も集まるものなのです。そうすると、自然に飲んだり、遊んだりして、男女混合になり、そこで、恋が芽生えたりしますし、私はよく仕掛けたりもしました。誰かと誰かを、けしかけて、その気にさせたりもした。 でも、私の周りに集まる男子生徒は、真面目なのは少なかったです。私もガキの頃、悪かったから、悪の気持ちも分かるので心が通じるところがあったのでしょう。 ただ、私の授業は厳しかったです。その代わり、終わると生徒たちと、同類になっていました。 続きは この次書きます。私のHPにも来てください。 http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.18
コメント(0)
「我が流れ1」を読んだ人は、相当な悪だったと思うでしょうね。私は施設で育った時に、変な正義感が強くなっていたのです。弱いものに対して、脅しや暴力を振るうやつらが嫌いになっていたのです。私も施設に入った頃は、やられました。だが、それが自分の中で許されなくなってきたのです。考えてみると、変な硬派でしたね。 私は働きながら学びました、若い頃でしたから恋もしたいし女の子とも遊びたかったが、私は女性の前に出ると口が利けなくなってしまうのです、特に好きな子の前だと何を話していいか、分からなくなってしまいました。男に対しては、変に突っ張っているのですが、女性に対してはカラッキシ駄目で、告白をしたことがないですね。 ある時、友達が好きな子が出来て、私が仲を持ってやると言って、その子を呼び出して毎夜、口説いたことがありました。「友達と付き合ってくれ」と毎晩でした。ところが、その子は「貴方となら付き合ってもいいよ」と言ったのです。私は、それから、その子と話すときは、意識してしまって今までのように話が出来なくなった事あったのです。 人の事で話をすることは、平気なのですが、いざ、自分の事になると、駄目でした。お節介はやけるんですが、そんな事があって、男友達は恋に破れて故郷に帰ってしまい、私はその子と付き合ったのですがその子の女友達が、私に横恋慕して別れてしまったのです。 どうも、好きな子には、好かれないで、意識しない子には好かれていました。二月に書いた「愛」の彼女も、最初は彼女からの告白でした。最初は断ったのですが、彼女が泣いたので「友達としてなら」と答えたのがきっかけで、付き合うようになったのです。確かに、私達の若い頃は、女性が告白することは勇気がいることだったから、それを言って断られたら、侮辱でしょうね。 私は硬派を自負していたのであろう、女性に対しては臆病なのでした。それでいて、女性を意識していたのだから、偽善者ですよ。女性に関しては「ある少年の物語」での、母親がダブってくるのです。その為に、好きな子に対して母のイメージを持ってしまい嫌われたくないから、何も言えなくなってしまうのです。 今でも、それは残っていますね。けして、女性が嫌いなわけではないのですが。 女性が嫌いなわけではないと言えば、若かりし頃男性に誘われたことが幾度かありました。全部断りましたが、それは、この次に書きます。
2010.10.18
コメント(0)
人って、何かに流されているように思う。回りの環境や、その時の状況に付いて行こうとして、何かに凪がされてしまうのだと思う。「ある少年の物語」でも、環境に流され「ある愛」では状況に流されていってしまった。 だが、流されながら、色んなことを学んだが、世間で言う悪もした。私は、青年時代は、意外と喧嘩早かった。自分も悪ガキだったころがあり、喧嘩もしたりしていたが、私はチンピラ(半ヤクザ)が嫌いであった。学生時代は、そのような人と喧嘩した。だから、手を何針か縫たり、目の中も縫ったことがある。それも1、2回ではない、それも若さであろう。大体喧嘩をする相手は、チンピラか三下ヤクザであったが、負けず嫌いな自分は、やられてもやり返していた。ある時は、呼び出されて日本刀で脅されたこともある。だが、怖いと思った事はなかった。だから、ドミニカで2度ピストルを突きつけられた時も、怖くなかったのである。そんな時は、変に度胸が据わるのである。ただ、私は警察が嫌いであった、それはヤクザと喧嘩して警察に行ったときは、彼たち(ヤクザ)から仕掛けてきたのに、私が怒られたのである。警察はヤクザの連中と顔見知りなので、互いに話を合わせてなぜか私が悪者になってしまったのである。 その時思った、警察は弱いものの味方でなく、悪いものの味方なのだと、それと私はヤクザに喧嘩の仕方を自然に学んだ。幾度かヤクザ連中と喧嘩をして、警察に行くと、彼たちヤクザは先に手を出した事を強調するのである。彼たちは、(ある程度上のクラスのヤクザは)、口でののしり挑発するが、絶対に先に手を出さないのである。チンピラは、すぐ手を出すが、彼達は相手を怒らして相手に手を出させるのである。私はその挑発に幾度か乗り、警察で何度も叱られたのである。彼達はどのように言えば、頭にきて手を出すかを知っているのである。 それを知った私は口で対抗するようになったが、それは口喧嘩で終わってしまうことが多くなった。それと、幹部クラスは話せば分かる人が多かった。血の気の多い、若い頃の話である。私の写真を見た方は、そんなイメージを感じないであろう。 また、次を書きます
2010.10.18
コメント(0)
少年は施設にいた事によって、自分が成人してからの基礎を作ったように思う。それは、「施設の子」という、世間の冷たい目の中で、それに反発して、負けたくないという気持ちを持ち、挑戦していくことが出来た。 その挑戦によって、やれば出来るという結果も残せたこと。そして、施設の中で対立して喧嘩もしたが、相手の気持ちも分かるようになり、また、弱いものに対しての労わりの気持ちも育てることが出来た。 それは、人間として大切なことであり、彼たちが慕ってくれると自分も彼らたちを守らなきゃという気持ちになった。 それと、少年の1年後の後輩から、高校も行けるようになった。勉強すれば、高校も行けるという希望の道が出来たのである。ただ、少年は自分の力で勉強するしかなかったが。 だが、少年は施設から、大きなものを勉強した。また。生きることに対して、積極的に進むことが出来たのである。少年は施設を旅立って、自分の力で勉強して行った。 皆さん、面白くもなかったでしょう。二月に書いた「愛(ある流れ1-完)」は、そんな少年が愛した人だったのです。少年の育った環境は、時代の変わり目であり、貧しさの中から這い上がろうとした気持ちが強く、それが少年の成人からの人生を作り上げたのです。 だが、逆に言えば、その環境が少年を育てたのかもしれません。生きていく、厳しさを時代が教えてくれたのかもしれません。厳しいからこそ、そこには学ぶことが沢山ありました。 少年は成人になって、よく考えたことは「人間らしく」と言うことです。これは、難しいことでした、状況や時代の流れで、その価値観が変わるから。 あまり、難しいことは、さておき、11月からは、成人の頃の事を書こうと思っています。 社長や先生、外国で仕事など、波乱万丈の青年時代を。あまり、期待しないでください。 でも、ホームページに来て下さいね。皆さんが来てくれるから、がんばれるので。 少年より。(完)私のHPにも来てください。 http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.18
コメント(0)
少年は、自分の考え方を打ち出すようになっていた。小学生の頃は、父の暴力に脅えて、自分を出すことが出来なかったが施設に来てからは、自分を出すことが出来た。また、自然に周りから、押し出されもしていった。また、喧嘩もした、それは施設の中でも対立する事になる。 少年は反悪グループであったし、悪グループは学校でも番長グループに入る連中が多かった。そこには、自然な対立が生じるのである。悪グループから見ると、学校では勉強がある程度出来、町内会の子供会の会長などをやったりする嫌なやつだったのであろう。また、施設の中でも、それなりに認められる事が、悪グループの反感を買った。 少年は、そんなことなど意に介していなかった。また、それが、気に食わなかったのかもしれない。少年は、どちらかといえば一本気な所があったので、敵も多かったのかもしれない。だが、少年は弱い者だけには手を出さなかった。少年が喧嘩の相手をしたのは、年上か同級生だけであった。年下とは喧嘩はしなかった、これは成人になってからも、そうであった。 そういう少年ではあったが、施設から逃げ出した事あった。自由がほしいのと、世間の冷たい目に反発してであった。少年は逃げ出すときは、一人であった。仲間と逃げることはしなかった、それは自分の行動は自分で責任を取るしかない事が分かっていたからである。少年が施設から逃げ出した時は、クラスの生徒が匿ってくれた。何故だか、少年を匿ってくれたのか分からないが? そんな事をやりながら、少年は成長して行ったのである。少年は二回目の新聞に自分が載る事があった。一回目は少年Aで、列車から飛び降りて載ったが、二回目は少年の名前が載せられた、それは、この町の別な町内の子供会が道庁から表彰されたのである、そこで祝辞を述べる事になったのである。幾つかの町内会の子供会があるが、何故かその中から、少年が選ばれたのである。 また、忌まわしい弁論大会の時のよう事がないようにと、少年は幾度も練習をして望んだ、失敗はなかった。それが、新聞に写真入りで載ったのである。 施設の先生方も喜んでくれた。それが、少年としてうれしかった、施設の先生方が喜んでくれるのが。少年は、施設始まって以来の事を、何度か行った。それが、少年自身を伸ばしてくれた。 続く私のHPに来てください。 http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.17
コメント(0)
少年の生活は、子供としての心を取り戻していた。あの、忌まわしい弁論大会も終わり、少年も中学3年生となっていた。春の体育会では、少年はリレーで5人抜きをやってのけた、これも警察や誰かから、逃げるために足が速くなったのであろう。また、施設では町内会のソフトボール大会では、連続して優勝していた。確かに団体競技では、施設の子達はまとまりがあった。少年も、その大会に出てホームランを打った。また、少年は施設の子供会の会長になったりしていた。少年は自然に前に押し出される存在になってきていた。 また、町内の子供会にも出席して、全体の会長にもなった。だが、そのことに関しては、「施設の子」がと言う、声も聞かれた。「施設の子」が会長ではという言葉は、少年にとっては嫌な言葉であった。だが、同じクラスの子供が、色々言ってくれて会長となった。 これも、施設始まって依頼であった。少年は、施設の中でも自然にボス的存在になっていった。施設で配られる「おやつ」を分捕っては、小さい子に与えたりしていた。これは、団体生活での子供の自然な姿なのかもしれない。少年は、自分の今までの子供としての姿を、さらけ出す事ができたのかもしれない。 また、子供としての自分の存在を、受け止めてくれる場所があり、学校や施設での存在感が、少年を変えていっていた。子供は、自分の存在を大人や周りの子供たちに、認めてほしいものなのである。認められ、信頼される事が子供の、次のステップになるのである。ただ、大人たちが怒るだけでは、子供は萎縮してしまい、自分を素直に出すことが出来ない。大人たちは、怒ることも必要であるが、子供の善い所を伸ばしてやる様にすべきだと思う。基本的に子供は、お調子者なのである。褒めれば、天井まで上り、けなせば落ち込み、叩けば泣くのである。子供としての立場で考えてやることも必要なのではないかと思う。 少年は施設の中でも、先輩となり学校では、相変わらず委員をやったりしていた。少年の学校はテスト毎に、総合点何点以上の子供達が、全校で張り出されるのである。だから、自然に学年で自分が何番目なのかわかった。少年は負けん気が強かったが、1番にはなれなかった。それは、少年が成人になっても同じであった。私のHPに来てください。 http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.17
コメント(0)
少年は「施設の子」としてのレッテルを受け止めるしかない事は、判かっていたが、それがどう言う意味かも判っていた。悲しいかな、普通の人からの、さげすみがある事も。確かに、貧しい家庭や、問題のある家庭の子供たちの集まりであるが、子供達には罪はない部分があると思う、だが世間はそのようには取らない、悪い子供達と取るのである。 もし、少年が反対の立場なら、そのように思ったかもしれないが施設の子供達は、そんな子ばかりではなかった。確かに問題を起こして施設に入った子もいるが、それも、家庭環境のなすことであり、生きていく上で、しょうがない部分もあるのである。 少年は問題児であったが、母の死によって、自分を変えることが出来ずに、自分で施設を選んだのである。 そんな少年であったが、学校では真面目と悪の両方を出していた。勉強が出来たが、少年は友達と一緒に廊下に座らされたり、校長室に座らせられたりしていた。 少年のクラスには、施設の子は少年だけであったが、勉強が出来るというだけでなく、悪の部分もあったので、クラスの生徒達に信頼されて委員には連続して選ばれていた。 また、あるときは弁論大会に出る生徒をクラスで選ぶために、5人の生徒がクラス予選をして選ぶことになった。その一人として、クラス予選に出て、少年はクラス代表に選ばれたのであるが、これが、少年が全校生徒の前で恥をかく事になった。悲しいかな、少年は成人になるまで、このショックを引きずった。それは、全校の弁論大会に「施設の生活」をテーマとして発表すことにしたのである。(クラスでも同じものであったが)このテーマは、少年が施設の保母さんと考えたものであった。施設では、弁論大会やクラス委員を施設の子がやることはなかったので喜んでくれていた。 さて、弁論大会の当日、少年は体育館に1000人近くの生徒の前で、発表することに緊張している状態であった。少年の順番が来た、少年は壇上に上がり、原稿を開いたときに、施設の先輩が「いいぞ、XXX」と少年の名前を大きな声で叫んだのである。その声で、全校生徒に笑いが走った。その笑いを聞いたとたんに、少年の頭の中は「真っ白」状態となり、自分がどのように話しているかも、わからない状態になって、5分間で話すのが2,3分で終わってしまったのである。その恥ずかしさは、ずいぶんと、後まで続いた私のHPにも来てください。 http://www.geocities.jp/ryuutarou1946/
2010.10.17
コメント(0)
全77件 (77件中 1-50件目)

