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土曜日は、ナンドの母親が一番下のエットを連れて、私の部屋を掃除しに来るので、私はナンドの働いて居る店に行き、ナンド達と話をしていた。スペイン語にも慣れてきて、会話もある程度まで通じる様になっていた。 ナンドの店には、若いドミニカの女の子達も時々来ていた、ホセが女好きでもあるので若い子に声を掛けていたし、ナンドも彼女は居たが、ドミニカ人の独特の若い子を見ると声を掛けていた。ホセも同棲している女性との仲に子供も居ても、他の女性と浮気をしていた。ある日、ホセと十八歳くらいの女の子が、話をしている事を聞いてしまった。その子が実の父親から暴行を受け、幾度となく性的行為を強いられ、家に帰りたくないが行く所もないので、ホセに金を貸してくれと言っているのである。私はそれを聞いて驚いた、そんな事が起こる事が信じられなかった。私は何度も聞き返した、本当に実の父なのかと、継父なら、あり得る事であろうが、実の父が、そんな事をするとは思えなかったのである。ホセに言わせると、そんな事は幾らでもあると言うのである。私は話を聞いた、その日は一日中、暗い気持ちになってしまった。私の考えられない事が、この国では起こるのだと。これまでに私は売春をしている女の子を、幾人も見てきたが、その子達は家を助ける為に働いていた。その中には、そのような事があって、逃げ出すために働いている子もいたのかもしれないと思った。この国は人道的にも途上国なのだと思った。これも教育がなされていない事も原因であろう、悲しい事である。日本がODAで援助している金額は大きいが末端の人達の苦しみを助ける事には成っていない現状と、政府間での建前だけで、一部の人が潤う援助で良いのか疑問を感じた。私の仕事もODAの一部で来ているが、この国の現状を見ていく内に、自分の力のなさと自分の不甲斐なさを感じ、また、底辺の人達には日本が援助している事も解らず、日本がどの様な国で、どの様にしてあげたいと思っているかも説明しようとしていない、もどかしさを感じた。この事に関しては、後ほど書く事にしょう。 そんなある日、ホセから田舎に帰るので、私も行かないかと誘いがあった。ホセの同棲相手と子供も一緒に行くとの事である。ホセの考えは、運転手代わりと交通費を浮かす為に誘ったのであろうと思ったが、私は色々見てみたいので、行く事にした。ホセの田舎はサント・ドミンゴから60KM離れた、サンチャゴと言う田舎町である。サンチャゴはのんびりとした田舎町で、一歩横道へ入ると、そこは畑や田んぼであり、田舎に来たと感じる事が出来た、ホセが食事を持って川に泳ぎに行こうと言ったので、私も行く事にした。川に着いて、川を見るとゴミは浮いているし水は濁っていて、こんな所で泳げるのかと思える状態であった。だが、ホセ達は水着に着替えて泳ぎ出すのである、私はこんな所で泳いだら病気になってしまうと思ったが、ホセの家族達は、かまわず泳ぎを楽しんでいるのである。私も心を決めて、病気になったらなった、その時はその時だと思い泳ぐ事にした。なるべく水を飲まない様に注意して泳いだが、水を飲む事となった。私は水の汚さを忘れ、泳いだり子供達と騒いだりして、楽しい一日を過ごした。そこでホセの彼女が「竜の肌の色は私達より白い」と言った。私は北海道生まれなので、確かに肌の色は白いが私はそれが日本に居た時は嫌であった、それは男なら多少黒い方が男らしいと思っていたからなのである。
2013.01.28
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日本で健康診断を受けて無事にドミニカ共和国に戻った。日本で健康診断を受けて、その結果が出るまで日本に滞在しなければならないので、結果が出るまで生まれ故郷の北海道に1週間滞在したが、五月と言うのに雪が降っていたのには驚いた。沖縄は私の教え子が居るのと、ドミニカから日本に研修で派遣先のコンピュータ部門から2名来ていたのでその状況を見に行ったのである。健康診断も問題なく、ドミニカに戻る事となった。沖縄から羽田に戻り、成田からニューヨークからマイアミ経由でサント・ドミンゴに28時間かけて到着したが、この強行軍は二度としたいと思わない程疲れた。 サント・ドミンゴの飛行場に着陸した時、ドミニカ人達が一斉に拍手するのである。これはサント・ドミンゴからニューヨークに着陸した時も同じ、必ず拍手をする。無事に着いたという安堵感から、着陸したら拍手するのであろうか。私が飛行機に乗った限りでは、必ずといってよい位、拍手が飛び交った。また、中には十字を切る人もいた、無事に着いた事を神に感謝しているのであろう。私から見ると、楽天家のドミニカ人が、飛行機の着陸で一喜一憂するのが、変に可笑しいのである。それだけ気が小さいのかもしれないと、私は、そんなドミニカ人を冷たく見ている事が多かった。だが今回も、私のトランクが1個到着してないのである。またもかと思い、到着したら自分に電話を貰う事にして翌日電話が来たので空港に取りに行った。帰国して、仕事先に出て行き、お土産等を周りに配ったりして、幾日か過ぎた、ある日、日本事務所から呼び出しが来て、事務所に行くと、私の提案が採用されたとの事であった。 さてそれからは、詳細な提案書の作成と、日本からの調査などの為の資料作りに時間を取られる事と成った。資料作成には派遣先の人達に、ある程度任せて、自分たちの為にやるのだと言う気持ちを持たす事にした。派遣先とのコミュケーションも取れ、この案件はスムーズに進めることが出来た。案件の為のオリエンテーションをコンピュータで作成して行く為の会議を月平均二~三回行っなたり、各大学を回って内容の説明をして大学に対しての理解と協力を取り付けたりしているうちに、それである程度、彼達と私との距離感が縮まったと思う部分が出てきた。 二年目の仕事としては、私としては満足できる部分となったが、この為に滞在期間が伸びる事に成るとは思わなかった。私自身としては二年で、この国から出て行く事が目標であったし、あまりこの国に対して良い印象を持っていなかったのである。それだけこの国の一年目の印象が悪かったのであり、私自身が日本人としてのプライドが高かったのであろう。仕事に関しては、順調に進んで行った、私生活も何となく日々を過ごし、I氏とは相変わらず、週末は夜遊びを繰り返していた。I氏がいない時は、私一人で夜のディスコへと繰り出していた。私の踊りも様に成って来て、ドミニカ人も振り向く様になった。自分も仕事と私生活のストレスを解消する為に、夜遊びと仕事に忙しい日々を過ごしていた。
2013.01.21
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クリスマス期間も終わり、仕事が始まった時に日本事務所から無償資金援助の案件を出してくれとの要請があった。ドミニカ共和国には十二部門近くのプロジェクト援助があった、その中から一~二件通るかも知れないとの事であり、私は案件作りに時間を費やした。私の案件は、派遣先とドミニカの国内大学をオンライン化して、情報の集約化とデータの相互交信の統一化である。私の行っている派遣先は、ドミニカの文部省の外部機関で、大学生の奨学金の審査と貸付、大学卒業者による起業資金の貸付など、学業のための資金援助活動を行う事を、目的としていた。私は審査方法や相互間の情報を統一化して、スピーディに行うためのオンライン化を目的とするため、サーバー機4000万円、データーベース・ソフト2000万円の計6000万円で提出した。この案件を作成して、私は日本で健康診断を受けるため、四十日の休暇を取った。この休暇で私は一週間のスペイン旅行を計画していたので、大使館に渡航追加申請を出した、それが認められて、旅券の手配を行った。計画は、サント・ドミンゴ~ニューヨーク~マドリッド~バルセロナ~ニューヨーク~成田、羽田~札幌~沖縄~成田~ニューヨーク~マイアミ~サント・ドミンゴの経路で決めた。旅費はサント・ドミンゴ~ニューヨーク間の往復はエコノミー、ニューヨーク~成田間の往復はビジネスクラスの料金で、日本事務所が払ってくれる。バルセロナからニューヨークに戻ったのは、日本事務所ではサント・ドミンゴからニューヨーク、成田が既定の空路で必ず、その経路を使う事が義務づけられていたからである。スペインと日本国内の料金は自腹である。、私が追加料金として支払ったのは千ドル(1ドル、104円)であった。こちらで航空券を手配すると、安いと聞いていたが、これほど安いと思わなかった。私はマドリッドに四日間、バルセロナに三日間旅行して、スペインに到着した時に、私のトランクが1個出てこないでので空港で文句を言ったが、結果的にホテルを決めて空港に電話をした。次の日にはホテルにトランクは無事到着した。スペインではトレドなど観光したり、一人で街中を散策してパエリヤを食べたり、好き気ままに歩いたが、幾度も来たい所であった。トレド観光はバスで行った、フランス人と友達に成ったりして古代の建物を見たが、素晴らしいの一言であった。ただ驚いたのはバルセロナで地下鉄に乗った時に土下座して物乞いをする人を見た時は驚いた。男性で「自分の親が重病で、私も体が悪く働けないので皆さんご慈悲を」と言っていたが、乗客は無視していた。これは日本では考えられないし、ドミニカでは道路で物乞いをする人を見たが、日本人の私には異様に見えた。
2013.01.14
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