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この前カラオケに行ったとき、私は十八番の(爆)、「ボーイハント」という曲を歌いました。60年代のオールディーズですが、最近竹内まりやがカバーしていて、それを今ボイスレッスンで練習していることから早速歌ったのです。私の大好きな優しい面影、夢見る瞳よ今頃あの人は街から街へとさまよい歩くのか恋は知らず知らず心に咲く恋は紅く紅く楽しく咲く待ちましょう 巡り会えるその日を静かに待ちましょう・・・といった内容ですが、それを歌ったとき、同年代の友人が思わず「待てないわよ、時間がない!」と反応しました。う・・・確かにそうだ・・・次にめぐり会えるまで待っていたら、と想像するだけで、焦ってしまう・・確かにそんな年代なのです。私はそうでなくてもせっかちです。推理小説は面倒くさくなると、巻末をチラッと見てどんどんすっ飛ばすし、結果のわからない試合を見ていると心臓に悪いし、かったるいので、結果を知ってからダイジェストのところだけ何回も見るし、そんな人間が、待ちましょう♪などと歌うのはミスマッチかもしれません(笑)。しかし・・です。物事には温めるのに必要な時間というものがあります。時間がない、と焦るのは、結果を焦る目的意識が先行すると焦りだけに終わってしまうような気がします。しかも時間というのは物理的な時間だけでは推し量れません。私は明日死ぬかもしれないし、意外と120歳くらいまで生きてしまうのかもしれません。あと私にどれだけの時間が残されているのか、といった物理的な問題はとても小さなことだと思います。結果がわかることだけに邁進していたのでは、何かほかの可能性を狭めてしまうような気がします。今その結果がわからなくても、精一杯生きることは可能です。精一杯生きるということが、時間がない、というフレーズから今の私に問われているように感じています。
September 18, 2006
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久しぶりというか、ちょうど2ヶ月ぶりの更新になりました。開いたはいいけれど、あまりにもブランクが長くて、ログインするのに一瞬戸惑いました。あれっ、どうやるんだったっけ・・(爆)。ここ2ヶ月のブランクは忙しいというより、いろいろな意味で余裕が本当になかったことにあります。本来ならば、そういう思いを書いて吐き出しながらいけばすっきりしたのでしょうが、それはそれとして、現実に時間が取れませんでした。正直毎日更新することはこれからも難しいとは思いますが、気楽に思い立ったときに書いていこうと思います。まずは少し近況報告です。別に何がどうなった、というわけではありませんが、森田健(もりけん)さんのホームページには相変わらず必死で書き込みをしています。私は誰、自由とは何、という問いを高校生のときから問い続けているもりけんさんが、毎日とても深いテーマで書き込みをしているサイトですが、それにレスする方も必死です。下手にレスをすれば、「こんなレスを欲しいわけではありません」とばっさり斬られ、鋭い突っ込みが時々入ります。なかには応戦してあえなく撤退していく人もいるのです。毎日11時にアップがあって、そのほかに「独り言」というコーナーにほぼ1時間にわたってリアルタイムのアップもあります。それを見ながらレスをしていくと大体決まって1時過ぎというパターンになります。それが今は日常化しているのですが、その影響がもろにこのブログに出ているというわけです(笑)。何故こんなにもしてまでも食らいついていこうとしているのか、それは運命というものをもっと知りたい、世の中の仕組みを知りたい、そして人生に起こる不思議、人間の生の仕組み、あの世のことを知りたい、という探究心と、そもそも「下位」の問いとはなんなのか、を知りたい、それに尽きると思います。このブログをスタートさせたとき、私は飯田史彦さんの本の内容を参照して、その生き方に真髄したと書いています。しかし、その考えはあっさりと変りました(爆)。そして変ることは恥じる事でもなんでもない、と思います。むしろ固定化している価値観、考えの方が今の私には、がんじがらめに見えてしまいます。人生は別に成長するため、とか人のために役立つ、とか社会に役立つ人間として生きるためにあるのではないと思います。この世にあるすべてのものの価値は、善悪の区別無く対等です。ですからそこには「こうあるべき」という絶対的な目標,倫理観はありません。社会的に成功する、しない、人のために役立つ、役立たない、学問を身に着ける、身に着けない、そんなことに価値をおくのではなく、そもそも自分がここにいる意味を考えたとき、自分という存在はどういう存在なのか、それを問わないでただ生活していくことは、とても勿体無いと、最近思うようになりました。そんなわけで、本当に時々になるかとは思いますが、細々とアップしていきますので今後ともよろしくお願いします。
September 13, 2006
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6月の18日からなんと1ヶ月近くもアップしていなかったのか・・とあらためてびっくりしました。多忙とか、言い訳をするのはいやですが、いろいろと新しいことをやり始めたこともあって時間がとれずにいました。わずか数行でもアップできれば、と思いながら、なかなか考えもまとまりませんでした。ここ1ヶ月のスパンをとると、私の周りの流れが何か変わっているように思います。それは一体どういうきっかけか、と考えていますが、少なくともここしばらくは、次の2つが私のキーワードでした。* 受身の人生* 勝負の人生この二つです。一見すると矛盾しているように思えますが、実はこの根本にある大きな前提があります。それは運命はあらかじめ決まっている、ということなのです。あらかじめ決まっている人生だから、夢や願望を貫くために、理想を掲げて努力することはしない、むしろ自分の先はまったくお任せ状態(=受身)にしてしまうのです。しかし一方で何もせず、ひきこもっているのではありません。むしろ、2006年7月12日に日本の東京に生きる私だから感じられること、できること、を精一杯生き抜こう、自分が自分として生きる、という感覚に忠実にしたい、と思います。精神世界でよく言われることは、自分に起こるすべてのことに偶然はなく、すべて意味のある現象だから、その意味をよく考えて成長することが大事だという教えです。私は自分に起こるすべてのことは偶然ではない、というところまでは納得します。それはあらかじめ決まっていたことだからと。しかし、その先、その現象をどう捉えるか、というところでかなり違ってくるようです。それは、それを受けてたつ、場合によってはこちらから勝負をかけに行く、というところです。受身というのは起こる出来事に対して受けてたつ、という意味に近いかもしれません。そしてその中で果敢に攻めるところは攻める、そして結果はお任せ。私が私として生きるというのは、私らしくでもなく、まして人のためにではなく、自分が生まれたことを執拗に私を生んだ宇宙、あるいは神に問い返す、そんなことかもしれないと思います。そしてそう思い始めた瞬間から、大きな流れが向かってきたようにも思います。
July 11, 2006
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前々回は、リスクを敢えてとる生き方を選択しなければならないときがあるのではないか、ということを書きました。今森田健(もりけん)さんのブログでは、このリスクという言葉さえぶっ飛んでしまうような「賭博」的生き方が宮本武蔵の話しに沿って展開されています。彼は自分のHPで「人類はすべからず賭博師だ」と言っています。いきなり賭博師と聞いて驚く方も多いと思いますが、賭博的生き方というのは、ギャンブル漬けの無謀な人生という意味では勿論ありません。彼が賭博と言う言葉を使っている背景には、彼の著書や、彼のHPを追いかけていかないと説明できない部分があるので割愛しますが、人類はすべからず賭博師という意味は、人の人生というものはどう転ぶかわからない、つまり先がまったく読めないで、得体の知れない何かに自分を委ねていかなければいけない、という意味で、人生は賭博(賭け)と言っているのです。ただし、人類はすべて賭博師だ、だから人はすべて賭博師として生きている、ということではありません。もともとは賭博的な生き方を選ばされている私たちではありますが、その賭博に乗るか乗らないかは、その人次第でもあります。先はまったくわからない、だから今までの自分の体験や人からの教えで安全とされるところだけを選択していく、という生き方を取る人もいます。何だかわからないけれど、何か面白そうなことがある、と感じたらそれに乗っていく、という人もいます。また、自分なりに信条を持って、その信条に沿った生き方だけを選択する人もいます。要するに、本質は賭博的とはいえ、その舵取りによっては、安全な生き方もできるわけで、実際ほとんどの人がそういった生き方をしています。しかし、そうやって社会が良しと認めてきた生き方、あるいは自分が納得してきたはずの生き方が、突然そうではなくなるという可能性もあります。自分が拠り所としてきたものが突然崩れてしまったり、人に裏切られたり・・という予想外の出来事に翻弄されるときもあります。そんなとき、本当に自分にとってこれだ、といえる生き方は何なのでしょうか。自分の人生の中で賭博師が要求されるというのは、多分そういった局面かもしれません。
June 18, 2006
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生きる・・ときには突き上げる感情や思いに忠実に、リスクもいとわないで進む、そんなイメージを持って前回は「生きる」ことを表現しました。そこには、人のためでもない、社会や世の中を良くするためでもない、でも何かが突き上げてくるそれにしたがう、という構図があります。その突き上げてくるものとは何なのでしょうか。私にとってそれは熱き思い、とか熱情という種類のものとは違います。まして、理想とか夢といったものでもありません。それは・・何というか、「知りたい」という気持ちです。この先自分の行く手に何があるのか、ただひたすらそれを知りたいのです。私はスポーツ観戦とか推理小説はあまり好きではありません。どうしてか、というと、答えがわからないものをひたすら見るとか、読み進むのが辛いのです。さっさと結論を知りたい、という気持ちが強すぎるので、スポーツでいえば、好きなチームが勝ったあとの総集編を見るほうがいいのです(爆)。推理小説も、面倒くさくなると最後を読んでしまいます。あのダビンチコードは友人に借りて約一晩で3冊を読破してしまいました。先を知りたい一心で(爆)。とにかく先を知りたい、そして知ったらどうするって、そのときはそのときで、またその先が知りたくなります。これはまるで子供のようではありますが、私にとって何かを始めるということは、先を知りたくて始めるのです。知りたくて先へ先へ・・でもそれは空を飛ぶというか、浮遊していることが大事なような気がします。どこかでどしっと落ち着いてしまったり、ここだ、と定位置を決め込んでしまうと、今度はそこに居心地のよさを追求しようとしていろいろな欲が出てしまい、現実とのギャップに悩まされることになります。知ろうと積極的になることは大事です。しかし、知ろうとして突然視界が開けたとき、まるで夢のような世界が開けたとき、そこに長居するのは危険です。浦島太郎は龍宮城に長居をしすぎて戻れなくなりました。きりのいいところで戻ることも大事です。
June 13, 2006
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リスクという言葉は最近よく使われています。リスク・マネジメントと言う言葉も経営の分野では定着しています。リスクは勿論少ないに越したことはありません。しかし、ある程度のリスクが伴うところには、ビジネスチャンスや利益が一定のレベルを超えて存在することも事実です。このリスクということを、自分の人生で考えてみたいと思います。まったくリスクのない人生を送ること、これは言ってみれば安全第一、冒険のない人生です。人生のリスクとは、自分の健康や財政状態が何らかの形で損害を受けること、自分の周りの環境が今よりも悪い状態になってしまう事になると思います。誰だって、今の生活のレベルが落ちたり、自分自身の健康や精神状態が危機に瀕してしまうような状態を望みません。しかし、そういったことをあえて無視して、やってみたい、と思うことが、訪れるときがもしあったら・・・それは素敵な事だと思います。リスクをとる、といっても必ずしも自分の生活すべてが崩壊したり、立ち直れないほどの打撃を受けるというところまでは通常は無いと思います。ただ、少しだけ周りの人が、「あの人ってこんな人だったのね・・」という、世間体とか常識を超えてしまった結果になったりする程度のことはあると思います。人によっては、人から見た自分の評価をとても気にする人がいます。そういう人にとっては、常識や倫理に外れたことを行うことは、大変なリスクになるでしょう。しかし・・しょせん人は一人で生まれて一人で死んでいきます。周りの人たちは勿論大事ですが、周りの人ばかりを気にして、自分が自分らしく生きていけるのでしょうか。時には、突き上げてくる感情や思い、やりたいこと、そういったことにぶつかっていくことも大事なのではないか、と思います。リスクを取ることを真剣に選択するような状況にきたら、それを避けて一体なんぼの人生なんだろう・・とふと考えました。
June 6, 2006
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しつこく続いた旅行のテーマはさすがに今日はしませんが(笑)、なぜ人はこうも旅行を楽しみたいのか、と考えたとき、そこに日常とは違う空間に自分を置く、といういわゆる「非日常の世界」の存在が人を魅了するのだと思います。以前会社の健保組合が出している小冊子に、ストレスをためない方法、というのがありました。その中に年に数回は、非日常的な空間に自分を置きましょう、というのがありました。ついでに、常に恋をしてましょう、なんていうのもありましたが(爆)。でもこの記述、確かに反論する気はありませんが、一つ気になる点があります。非日常の反対、すなわち日常に365日関わっていて、何か問題があるのでしょうか?旅行ということが手軽にできるようになったのは、つい近代に入ってからです。しかも海外旅行についていえば、ここ20年くらいだと思います。私が学生の頃は、まだまだ観光目的で行ける国はそう多くは無かったと思います。それまででは、みんなどうしていたのでしょうか。はるか昔とまでいかなくても、明治、大正の頃の日本人はどうしていたのでしょうか。この時代の主婦や子供の生活の空間は、自宅とせいぜいご近所くらいだったはずです。でも彼らは今の私たちより不幸で、ストレスを一杯抱えていたでしょうか?生きる、という生き方には、非日常という空間はむしろ邪魔になるときがあるような気がします。毎日判で押したような規則的な暮らしぶりも、私は決して悪くないと思っています。むしろ、こういった淡々とした流れをきちんと生きることが、生きることの根本ではないでしょうか。
May 30, 2006
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旅行の話しって盛り上がりますよね。特にイタリアあたりは、「イタリアへ行った」という話題だけで旅行当事者は1時間以上盛り上がるそうです。 勿論、内輪で盛り上がっていただくことはぜんぜんかまいませんし、旅行談義は楽しいです。でも、それが延々と続けられる場にいたら・・・実は先週私はそれを体験してしまいました。数人の人たちと席を囲んで話していたときのことでした。それはお互いあまり良く知らない、というか私にとっては初対面の人たちばかりの席で、しかもほとんど高齢の方たちでした。結局共通の話題がなく、かといって初対面でしかも年下の私が積極的に話しを盛り上げるわけにもいかないような雰囲気の中、旅行の話題がちょっとでました。 たまたまその場にいた人たちの中で、世界各国(何と30カ国以上)も旅行している人たちがいました。今まで行った中でどの国が印象深かったか、という質問から、それぞれが、あそこのあれが良かった、という話になってとどまるところ無く続いて行きました。私にとって、南米の世界遺産が良かった、とどんなに説明されてもぴんと来ません。そしてその話しをだんだん聞いているうちに、この人たちは、旅行を楽しむ、というよりもどこの国の何を見に行く、ということだけを目的としていて、結局その成果を自慢しているだけではないか、と気がつきました。旅って何なんだろう、と改めて思いました。観光って、要するに自分をある特定のところに持っていって、何かすごい体験をしたように感じるけど、それだけじゃん、って思ってしまいました。体験って、しかもただ見るだけの何が面白いの?いろんな人に出会う・・といったって、たかだかお店やホテルで言葉を交わ素だけで、何がわかるんだろう。そんな上っ面の体験で、一体何が楽しいんだろう・・と本気に思ってしまいました。最近特にですが、旅行という事に関してかなり消極的になっています。観光を目的とした旅行に行きたいとも思わなくなりました。そんな時間、というよりお金があったら、今したいことが山ほどあります。そして、いろいろな方向にアンテナをたてたいです。それに・・・長距離の移動はやはり体力を消耗します。先週、親戚の葬儀で関西まで行きました。少し風邪気味の状態で新幹線に乗ったのが災いしたようで、帰京してから1日半寝込んでしまいました。皆様、長距離の移動にはくれぐれも気をつけて・・・
May 28, 2006
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昨日は旅行を少しテーマにしました。かくいう私も、パートナーと良く「仕事が一段落したら世界旅行に行こうね」などと話していました。きっと彼が生きていたら今頃ヨーロッパに行っているやも知れません(爆)今あなたが一番したいことは何ですか?と聞かれたら、昨年あたりは、外国旅行、と躊躇無く答えていました。今でも勿論旅行はキライではないですが、以前ほどどうしても、という気はなくなっています。人間の想像力、思考力はひょっとして体験をそれほど必要としないかもしれないと思うときがあるからです。言い換えると、体験や経験というのは、人間の感受性や創造性、想像力にとって必須なものとは限らないのではないか、と思います。付き合う人の数にしてもそうです。上場企業の経営者たちはおそらく1ヶ月で百名単位の人たちと会っているでしょう。いろいろな場にも顔を出します。出張なんてしょっちゅうです。舌は肥え、美しいものを見る眼も肥えて、それこそ「一流」、「本物」を知っているでしょう。しかし、彼らは本当にしあわせでしょうか。毎日朝起きて、さあ今日はどんなことがあるだろう、とコドモのように飛び起きる事ができるでしょうか。先入観、思い込みはとった方が豊かな心になりそうです。旅行・・にしてもそう。旅行だけが自分を非日常の世界に連れて行くわけではないのです。もっと意外なところにそれはあるのかも。
May 18, 2006
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人生は一度しかない、だからいろいろなことを経験したい、いろいろな人と出会いたい・・と期待に胸を膨らましたこと、ほとんどの皆さんは経験されていると思います。経験した、という過去形ではなく、現在そのように考えていらっしゃる方も多いと思います。こういう前向きの明るい気持ちを常に持っていましょう、そうすれば年をとらずに生き生きと過ごす事が出来ます・・とシニア向けの番組でも解説しそうな内容です。しかし・・天邪鬼な私は最近こういう「体験至上主義」というか、経験は何事にもまさる、という考え方に若干疑問を持っています。話しが少しそれますが、今団塊の世代が退職の時期にかかっています。まとまった退職金を手にした彼らが何に消費するか、さまざまな産業が着目していますが、一つ統計があります。それは退職をしたシニアたちが、まず何にお金をかけるかを調査した結果、「旅行」と出たということです。シニア向けの旅行企画は金額もかなり高額ですが、至れり尽くせりの感があります。海外初心者には安全なのでしょうが。で、私が言いたいのは、この「旅行」というのは、個人にとって「非日常」を体験する絶好の場だということです。今のシニアといわれる世代の人たちは、青春時代は戦争が盛んな頃で、国民が一丸となって・・という一律的な考えを押し付けられた世代です。そして働き盛りの頃は日本の経済は右肩上がりで、働け働けと鼓舞されていました。家庭はしっかりと守って、堅実にかつつつましく生きてきた世代でもあると思います。そんな人たちが唯一、異次元(大袈裟かもしれませんが)を体験できる機会が旅行かもしれません。で、今の私はどうかというと、正直あまり行く気がしません(笑)。確かに魅力は魅力ですが、一つにはそれほど体験が重要ではなさそうだ、と最近気がついたこと、そして旅行に行かなくても結構面白いことが日常に起きているというのもあります。体験、経験があまり重要でないかも・・というのは最近の私の中では結構ヒットしている気づきなのですが。。
May 16, 2006
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前回の「私は誰よ?」という質問を受けての、第2弾「私」質問シリーズです(笑)。ふと思ったことがあります。以前女性監禁事件がありました。小学生のときに誘拐されて民家の一室で成人するまでの十数年間、監禁されていた女性がいました。この女性は少女から思春期そして成人という、世間で言う成長期を監禁された一室で過ごしました。以前報道で、その部屋から見える空というのが出ていましたが、この女性にとってそのわずかの青い空だけが、自分と外をつなぐ唯一の世界でした。そして接する人は、犯人だけです。自分と犯人、とそしてほんの少しの空、私たちにとっては想像も及ばないほどの世界です。私がこの事件を思い出したきっかけは、自分が自分でいる、ということと、自分の生き方というのは一緒ではないのではないか、と考えていたときです。つまり、よりよく人生を生きることが人間の生き方である、という視点から見れば、この女性の監禁時代はまさに人間としてのまっとうな生き方ではないことになります。しかし、本当にそうなのだろうか、と思ったのです。自分が自分である、ということと、自分がどう生きるか、というのは何か別物のように思えています。もっと言えば、自分を成長させるため、とか、人に役立つため、あるいは社会に何かを残すため、という自分の人間性を高めるためだけに向いている視点だけでは、「今」を生きている事にならないように思えます。人間は成長するために生まれてきたならば、明日の自分は今日の自分より一歩成長した自分です。しかしこれを言い換えれば、今の自分は明日の自分より劣ることになります。一体明日もっと成長した自分って何でしょうか。監禁されていた女性の話しに戻りますが、彼女にとってもし監禁時代を失われた期間というような表現をしたら、一体彼女はどう感じるでしょうか。人はいつも誰かと出会って、体験をして成長していかなければ人間ではないのでしょうか。そして人はいつも何か目的を持っていなければならないのでしょうか。誰とも会わず、何もしない(出来る状況に無い人を含めて)ひとたちは、成長する機会を奪われているのでしょうか?私という存在は、私という意識がある限り、そこに存在します。そして意識(思考とか感覚)が有る限り、私は身体的な状況や周りの状況にかかわらず、その人は人としていつも完全であると思います。
May 14, 2006
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以前このブログでも何回も紹介していますが、森田健(もりけん)さんの中国の生まれ変わりの村の話しは、私にとって「超」衝撃的な情報でした。何が衝撃的かといえば1. この世で一生懸命修行をして善や徳を積んだ人も、悪行の限りを尽くした人も、あの世にいって特に善徳でいいことがあったわけではなさそうだし、悪い行いで地獄に行ったわけでもない2. あの世に行ってから次の世に行くのに、自分が選ぶ選択権はないらしい。ということです。1に関してもっと言えば、努力しようが、遊んで暮らそうが、そして悪いことをしようが、徳を積む修行をしようが、その行いは次の世にはまったく反映されないということです。これは大衝撃ではありませんか?私たちは世の中や人のために善いことを行うことで、自分自身のレベルを上げて成長しようとしませんでしたか?そして成長した暁には、人間性のレベルが上がってあの世に行って生まれ変わるときには、今の自分より数段成長した自分からスタートして、さらにステージを上げていくことが出来ると思っていませんでしたか(もっとも、これは輪廻転生を信じる方向けですが・・)この生まれ変わりの村の話しは、私には「ガーン」でした。だって善い事も悪い事も同じレベル、人に迷惑をかけようが、危害を加えようが、お咎めなしなんて、そんなのあり?という感じでした。もりけんさんは、1については、価値に差はない、すなわち善いことも悪い事も同じ、そして2については、運命は決まっている、と述べています。この話しを聞いたとき、私が一番先に感じた事は、「じゃあ、私って一体何なのよ?」という問いでした。私は誰?この問いは、パートナーをなくしてから、人生の意味は何なの、生きることってどういうこと、と問い始めた私にさらに突っ込んできた問いでした。あなたは「誰」ですか?
May 13, 2006
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「私を生きる」この言葉にとてもこだわっています。「私らしく」でもなく、「私を生かす」でもなく、ひたすら「自分を生きる」のです。これは使命感のように聞えるかもしれませんが、本質はまったく違います。使命感を持っているときは、自分の中身がどれほど詰まっているかで勝負しようとします。そしてその使命感が世のため、人のためにベクトルが向かうほど、自分が成長したような気になります。しかし、自分を生きるというのは、実は中身がからっぽです。ただそこにいるのは「生(き)」の自分だけです。社会での自分の立場とか、家族の中の自分の役割といった外側の自分をすべて捨て去ったコドモの時の自分の意識が一番近いかもしれません。自分を生きる、ということは、人のためでもなく、まして自分がどうしたい、という目的のためでもなく、毎日新たな気持ちで「生きる」事に向かうこと、自分の感性やアンテナをいっぱいにして、あらゆることに疑問を持って行くことのような気がします。「それでいいの?」「それがどうした?」なにかをどうにかしたい、と思うときは特にこの問いが必要だと思います。そうすると、不思議に自分がスタートラインに引き戻された感じになるからです。これから何をしようか、を必死に模索するよりも、毎日このスタートラインに戻って、「さあ、行ってみよう」と生きる方が断然楽です。
May 10, 2006
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一匹狼って好きでした。何というか、群れない、というかその他大勢ではない、というか・・ちょっと気づいたことがあったのです。今までの私の短くも無い人生の中で、私は自分の中身がこんなにあるのよ、見て見て、そして私のことをわかって・・と人にもっぱら理解を求めていた、ということに。先日書いた「何かが違う」と言う感覚も、実はこの人に理解を求めるというところからもきていたのです。自分の何かが起きるごとに、その現象の意味を問い、自分にとって何をもたらすかを考えていくと、自分の精神が高揚してきて、その高揚感を誰かに伝えたくなります。高揚の逆にどんどん落ち込んでいく場合があります。そんなときは、同じ体験をする人たちと語り合うことで気が楽になるように思います。しかし、それは自分が何かに気づいた、あるいは何かに落ち込んでいる、自分が目いっぱいの状態です。そこにあるのは、単純な悲しさとか、達成感、充実感という感情なのでしょうが、それをどうしても人と共有したいと思うのです。そして共有していく過程の中で、いろいろな人と出会うわけですが、その出会いの中で、自分をよりよく理解できる人を無意識に選別しています。あの人とはちょっとね・・・感覚が違う感じ、結局彼らは私を理解してはいない・・お互い分かり合えるはずがないんだし・・と、思い始めて・・理解を求めて、それが叶わないときはその求めた相手は自分にとってふさわしくない人今まで一緒にわかりあってきたのに、意見が違ってきたのは、多分自分が成長したからだからふさわしくない人たちから卒業しよう、そしてあらたなステージに向かおう・・・と思ってました。しかし・・私は結局、人に理解を求めてきただけだったようです。だって、そういう私自身がこんなに変化しているのだし、人もまた変化して当然です。一匹狼は実はとっても恐がりかもしれません。友達を欲しいのかもしれません。それでも一匹狼が魅力です、今の私には。
May 8, 2006
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標題は、森田健さんのHPで知りました。原典がわからないので、紹介しているもりけん語録集を載せます。その精神健康基準とは・・●分裂する能力。精神を無理に統一しない能力●いい加減で仕事や追求をやめる能力●未解決のままで保持できる能力●いやなことができる能力、いやなことは自然に後回しにする能力。できたらやめておきたいと思う能力。●一人でいられる能力。また二人でいられる能力も必要である。●嘘をつく能力。●いい加減で手をうつ能力。意地にならない能力。●しなければならないという気持ちに対抗できる能力。●現実処理能力を使いきらない能力●上手に妄想する能力。だそうです。これって、今まで私たち、とくに社会人としてやってはいけない、と思っていたものではないでしょうか。いい加減に仕事を終える、嘘をつく、処理能力を使い切らない中途半端な処理、これらは仕事の現場ではご法度に近いかもしれません。ですが、どこまでも完璧を目指して行けば行くほど、現実には、体の健康はむしばまれ、精神も不安定になります。身体に来る人は脳や心臓の疾患に、精神に来る人はうつ病を発症します。いい加減でいいよ、と言うにはあんまりだ、と思ったら、「ここで手を打とう」と思えばいいと思います。勇気ある撤退、と言う言葉でもいいと思います。嘘をつくのがどうも、と思えば、「嘘も方便」ということわざを思い出せばいいと思います。分裂する能力ってなに?と思うなら、多角的に物を見る能力と置き換えればいいと思います。物事はすべて二面性から成り立っています。陰と陽、光と影・・それらが対となって私たちの周りを取り囲んでいます。一生懸命になってしまうのは、一面に向かってひたすら走る状態です。この中井久夫氏の精神健康基準は、それに対して「それでいいの?」という問いかけだと思います。
May 7, 2006
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自分が今まで進めていたこと、取り掛かっていたこと、あるいは人との関係で、「何かが違う」と感じたことはありませんか。私の場合は、物事を一生懸命にやりだしたときになぜかそれが来てしまいます(爆)。それは自分の中で起こってくるというよりも、大体は物事の進み具合が極端に落ちてしまったり、あるいは、何か実現しそうで実現しなかったり、という自分の外側に問題が出てくる場合が多いです。やってもやっても空振りになる状態というのでしょうか。そういうときはじたばたすればするほど、余計に疲れるだけなので、じっとしているのに限ります。「何かが違う」と感じるもう一つの場合は、自分の直感から来る場合です。直感というのは人によっては潜在意識という自分の内面からくるふかーい感覚だ、ということですが、私はどちらかというと、外から降ってくるメッセージに近いものではないかと思っています。ま、いずれにせよ、これが来ると、異常に居心地が悪くなります。もっと身近な例でいえば、付き合っていた恋人のちょっとした仕草でとたんに冷めちゃったという感じでしょうかね。(私ちなみに、この経験はないんです。好きになってしまうと嫌いと言う感覚がなくなってしまうタイプ(爆)なので、ですが逆はあったかもしれません。つまり私が嫌われた(大泣))いずれにしても、「何かが違う」と感じたときは撤退するのみです。道でいえば、袋小路に迷っている状態ですから、とにかく方向を変えていかないと、自分の今いる場所すらわからなくなります。一度引き返すのもよし、違う道を行ってみるのもよし、いろいろな道を歩いて、いろいろな人と出会っていくのは、結構楽しい事だと思います。
May 3, 2006
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今日からブログのタイトルを変えました。心の再生CafeからBerryCafeへ・・・4年前にパートナーを亡くしてから、「なんでこんな事が起きるのだろうか」と言う疑問が最初にわいてきました。職場にかかってきたパートナーの訃報を知らせる電話を受けて、自宅に変える途中、考えていたのはこのことでした。そしてその問いは、次第に、人生って何なのだろう、人は何のために生きているんだろう、そしてさらに、私がこの世にいる意味って何だろう、と変わっていきました。パートナーの葬儀が終わってすぐ、「ほほえみネットワーク」というサイト(配偶者をなくした人たちのためのサイト)を見て涙したり、本をたくさん買い込んでみました。友人の勧める本やスピリチャル系の本も読みました。講演会にも行きました。そしてその軌跡はこのブログに書いています。昨年の秋に森田健さん(もりけんさん)の著書を読み始めてから、船井オープンワールドでの講演会を聴いて、「私は結果」の考えに触れました。そしてそれ以来、自分の考えや活動について大きく変わっていくことになりました。過労死遺族として過労死の無い社会をつくろう、遺族の心のケアを考えよう、という人のため、世の中のために役立つ活動をしよう、と昨年は「心の再生プロジェクト」という活動をしてきました。本も書きました。しかし・・・今後、この活動を続ける事は多分ないだろうと思います。今はそれよりも、自分が4年前に体験した喪失体験から沸いてきた問いを追求していきたいと思うからです。BerryCafeをこれからよろしくお願いします。
May 2, 2006
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先日私はコドモのように生きたい、と書きました。コドモというイメージには、天真爛漫、好奇心のかたまり、無邪気さがあります。そしてさらに、自由というイメージもあります。私たちがオトナになるにつれ、あれもしなければ、これも身に付けなければ・・という「・・しなければ」という感覚でいつのまにか縛られています。何か物事が起こったときの対応(言動)を「あの人は大人気ない」という言葉でよく表現しますが、後先を考えずに、思慮が足りない、気配りが足りない、思いやりが欠如・・・とあまりいい感じではありません。それに比較してコドモはどうでしょうか。これを言ったら周りがどう反応するだろう、とかこの一言で自分の人生が決まるのか・・という類のことは一切考えないと思います(笑)。そのとき感じたことを、感じたままに素直に表現するでしょう。そして次の瞬間にはもうほかのことに興味がいっています(爆)。いつまでも過去にこだわってはいません。あの時、△ちゃんはこういったもんねぇ、とグダグダいう子もいません。さて、自由ということを考えています。自由に生きる、自由に思うままに生きる、これは私たちオトナの世界では、計算されつくした上である一定の範囲の中での自由度を持って生きることを意味します。でもそれでは、制限付の自由になってしまいます。自由とは、その一瞬に感じたこと、考え、思いを大事にする事ではないかと思います。そしてそれをいつまでも自分の中におかずにあえて放出する(表現する、行動すると言う広い意味です)ということではないかと思います。
May 1, 2006
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コドモ、というと皆さんは何を想像するでしょうか。自分のお子さんを観察して、自分がコドモだったときを思い出してみたとき、オトナの私たちと決定的に違うところは何でしょうか。圧倒的に違うのは勿論この世に生まれてきた年数です。それに付随して、当然のことですが、コドモは社会とか組織といった枠組み(政治、経済、法律その他の諸々)に関する知識はありません。数学の定理も知りません。化学式も、物理の方程式も知りません。でも私たちと一緒に生きていけます。そして時には私たちより楽しそうです(笑)。よく、生活や人生に疲れきったオトナが天真爛漫に遊ぶ子供たちを見て、「ああ、私もあの頃に戻りたい・・」と嘆きますが(テレビだけかな・・)(笑)、コドモの無邪気さがとてもうらやましく感じるときがあります。天真爛漫、無邪気、愛くるしい存在、それがコドモですが、一方で案外残虐なところもあります。昆虫を捕まえてさっさと殺してみたり、花や木を折るのは当たり前です。自分の興味が最優先するからです。でもコドモってとても魅力的だと思いませんか。中国に道教という宗教がありますが、その道教では子供の頃の自分の写真を飾って、その頃に戻る事を勧めているそうです。感性が豊かで一番人間として輝いているのがコドモの頃からかもしれません。一度自分の子供時代を振り返ってみませんか。そのときの楽しかった思い出というより、その頃の気分を・・です。自分は誰?とはわからないけれど、いつも何かしらに関心があって、何も無い一日でもとても楽しくて、黙っていても好奇心があふれ出ていませんでしたか。コドモの頃を思い出すのは懐古趣味ではないと思います。それは一種のリフレッシュになるはずです。だって、子供に有って今の私たちに欠けている「好奇心」を呼び覚ましてくれるからです。
April 27, 2006
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今の現状に100%満足している人はともかくとして、今自分の置かれている状況を何とかしたいと思っている方は多いと思います。自分の仕事、生活、家族を含めて不満はないけれどと思う人も、この先果たして今の状態が続いてくれるのだろうか、とふと思うこともあるかと思います。自分は今まで一生懸命に生きてきた、自分にも人にも誠実に生きてきた、でも何かが違うんだよなぁ、と思っている人もいると思います。そういった人たちに共通の要素は、未来に対する不安、心配、懸念です。「一体この先どうなるのか」という。そのつぶやく程度が、思い切り悲嘆にくれるか、ふと脳裏によぎる程度かの違いで。これを解決するのは、自分の将来を知ってしまうか、何も考えずにお任せ状態になるしかないようです。自分の将来を知る、と言う事に関しては占いがあります。タロット、四柱推命、姓名判断などなど。これは結構面白いです。ただ、男性の方は占いと聞くだけで、眉をしかめる方も多いでしょう。しかし、お隣の中国では占いは相当盛んなようです。さすが本場です。これがどうも、と言う方は、お任せ状態、つまりもう運命に任せてしまえ、と目をつぶってしまうしかありません。でもそうすると、意外と物事が動く事があります。よく言いますよね、追いかけていると相手は逃げてしまう、でも自分が逃げると逆に相手が追いかけてくると。先のことを心配することは多分自分の幸せとか、物事を成就させたいという気持ちをひたすら追いかけている状態です。追いかけると、目標とする彼女(彼)や、お金はさっさと逃げてしまいます(爆)。不安や心配でいっぱいになってしまったとき、「それがどうした?」と自分に言い聞かせると、追いかける気持ちが瞬間に引きます。その引いた気持ちを持続させると、逃げていたものたちが追いかけてくるのではないでしょうか。
April 25, 2006
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私たちが子供だったときの一日はどうだったでしょうか。朝起きて、家を飛び出して近くの原っぱに行って友達と遊び、時折寝転がっては空を走っていく雲を見つめたり、赤とんぼを掴まえて指をかませて見たり、オンコの実を食べたり・・もう少し大きくなると、庭にあった小さな池のまわりで、ぼーっと1時間以上座って過ごしたり、近くの公園にいって池の側で日が暮れるまで腰掛けて、水面を彩る光に見とれたりしてました。明日のことなんて考えてもいませんでした。今を楽しくとか、充実させようとも思っていませんでした。ただただ、自分をその場においてやりたいことだけを、自分の気持ちに忠実にしていただけでした。学校になって学年が進むにつれ、勉強には予習も必要といわれました。明日に備えて予習、今日の復習、そして受験になれば目標に向かってひたすら走るようになりました。気がついてみたら、明日のために備えることが当然で、それをしないことは罪なようにさえ感じるようになっていました。明日のために、今の時間を費やすことがどれほど必要なのだろうか、今ふとそう思います。具体的な行動もそうですが、考えを巡らすことも含まれます。例えば、何かをしたい、と思ったときに、まだこれでは不十分だから、あれもしておこう、これも必要だ、と次から次へと準備作業に追われて、気がついたら準備段階で、もうはじめの目標がいやになっていた、なんてことはないでしょうか。今何かをするのに、今は準備不足だ、と言いながらちっとも腰を上げなかったり・・準備をするな、ということではありません。明日に備える、というオトナの条件って、本当に必要でしょうか。備えるために何かを我慢したり、耐え忍ぶのを少しやめてみたら、そしてもう少しコドモのようにわがままになってみたら、意外にすっきりした一日が過ごせますよ。
April 23, 2006
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今日はボイスレッスンの日でした♪場所は渋谷の宮益坂交差点のすぐ側にあるところです。行く途中に東急デパートがあって、今日はちょっと時間があったので、久しぶりに口紅を買おうと化粧品コーナーに行って、シュー○○○ラに何となく行きました。そこでぼーっと見ていると、すかさず店員さんが「いかがですか」とオレンジ色の口紅を見せてくれ、つけてみましょうかと。誘われると断れない私は(爆)、そのまま案内されるままに、口紅をつけてもらいました。さて問題はその後です(笑)。何気なくパール入りのパウダーをさっと塗ってくれ、チークも口紅に合わせたほんのりオレンジを。そしてこういう製品があるのです・・と言って、あっという間にブラウンのアイラインを目元、しかも目の下にまでいれてくれました。そして鏡を見たら、な、なんと目はくっきり、パウダーのせいで透明感は出ているわ・・す、すごい。さすがプロだ。ここで私の思ったこと、よく人は内面が勝負だといいます。でも違うのではないかと(爆)。リンカーンも言いました。男は40過ぎたら顔に責任を持て、と。これって、内面が顔に出るよ、だから人間のレベルを上げましょう、ってことだ、と私は思っていました。しかし・・最近私は思います。私は素で勝負する、というのは傲慢以外何者でもないのではないかと。私は頭もいいし、人より経験豊富だし、仕事もばっちりできるから、外見はどうでもいいわ、というのはいかがなものかと。だって、背広の後ろにフケがある男性をどう思います?ワイシャツよれよれ、ズボンにしみがついた人がセールスで飛び込んできたら、買いますか?女性だってそうです。確かに姿形は人それぞれでも、見た目が勝負です。いろいろなところにきちんと気を使うのは、最低のエチケットだと思います。でも最低では勝負できません(爆)。なので、私は今日化粧品を買いました(笑)。
April 21, 2006
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以前に参加したセミナーの講師が「私には夢も希望もありません」と言う話しをしました。そのときの私は、「夢も希望も無い状態」というのが信じられませんでした。今、私はかなりその状態に近いです(爆)。あなたの夢は何ですか、と聞かれて即答できませんし、「な、ないです」といいそうです。昔はそんな答えをすることは世も末だと思っていました。そうなったら人生終わってる、と思っていました。今私は夢、希望はありません、とかなりはっきり言えますが、夢や希望を持って生き生きとしよう、としていた頃と特に変わらないと思います。むしろ、今の私は夢を持たなきゃ、とか使命感を持って生きよう、としていた頃より、とても自由を感じています。夢とか希望を信じない代わりに、何というか自分はなんにでもなれる、と感じるからです。それはいわば色を持たない、特定の嗜好にこだわらない、自分の好き、得意だけに特化しない、ということです。人の魂自体は永遠かもしれません。輪廻転生を繰り返すのだろうと思います。しかし、この2006年4月19日という日は今この一瞬だけです。私が住んでいる町、職場、友人、家族すべてこの世限りと思ったほうがいいと思います。だったら、あらゆる可能性を捨てないで、360度を見ていたいと思います。今私は、「夢も希望もない」自分にちょっぴり誇りを感じています。バックには久しぶりにケニーG のロマンチックな音楽が流れて、最高にロマンチックです。夢、希望を持ってそれに向かうことよりも、今、この一瞬を感じることが大事なのではないでしょうか。
April 19, 2006
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あなたは何のために生きているのですか、という質問は、生きている事の意味を問う質問です。社会に貢献する、幸せになる、人に役立つ人になる・・・これらは生きる目的を示しています。そしてよく言われるのが、目的を設定することの重要性です。目的はなるべく具体的なものを決めましょう、できれば自分の今のレベルより少し上のくらいを設定しましょう、そしてそれを大目標としたら、中目標、小目標を決めて、段階的に目指していきましょう・・と言う具合です。これは、大学受験、資格試験などの勉強にもよく使われるアプローチです。または、仕事の段取りを決めるとき、何かのプロジェクトを立ち上げるとき、起業したときにも有効です。人生にも目的は必要でしょうか。目指したい学校へ入学する、就きたい仕事を得る、就職したい会社に入る、結婚をする、考えると、人生の目的ほどではありませんが、ひとつの目標です。私たちは、この社会に生まれて、学校に入り、こういった目的を持つことを当たり前のようにして生きてきました。しかし、こういった目標って本当に必要でしょうか。別に目標としなくても、年齢とか時期がくればどうしても決めなければならない状況になるのではないでしょうか。それを多分前倒しに考えて、少しでも早く目標を設定し、早めにスタートすれば人より差がつくかもしれない、という意識がどこかにないでしょうか。人より差をつけることってそんなに大事でしょうか。人は皆一人一人違います。あえて差をつけたり、人間のレベルがどうの、といわずとも、世の中に「私」という存在は私だけ、完全な存在ではないでしょうか。自分の目的・・それは生きることとどう関係していますか。どうしてもなければならないものでしょうか。
April 17, 2006
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生きる目的は?と聞かれたとき、「幸せになるため」という答えがあると思います。「幸せ」と言う響きも何となくロマンチックです。ちょっと訳ありそうな美しい女性が、「私幸せになりたいの・・・」などと、美しい瞳をうるうるさせたら、それだけでくらくらしそうです(爆)。「ぼ、僕で良かったら」と思わず言いそうになったりして。幸せって何でしょうか?素敵な人とめぐり合って結ばれる事?自分の好きな仕事をしてお金をたくさん稼ぐ事?狭いアパート暮らしから卒業して、豪邸をかまえること?幸せの反対は不幸と言われます。これらはその人の心の持ちようです。お金に不自由しない人でも、健康がすぐれない人、友人や家族に恵まれない人もいます。健康でも、家族がいてもお金の無い人もいます。幸せ感、不幸感、それを決めるものは何でしょうか。何となく「幸せになりたい」と漠然と思っている人は、永久に幸せにはなれないと思います。自分の今の状態がまるでわかっていないからです。一方で、今自分が不幸のドン底にいると思っている人もまた、幸せにはなれないと思います。もっというと、永久に幸せ感は得られないと思います。その人は不幸と言う状態に酔っているからです。今の私はどちら?ときかれれば、私は別に幸せになるために生きているわけではない、とだけ答えます。ただ、時々浮遊する感じを体験することがあります。朝のコーヒーの香り、春の空気、風を感じたとき、何か懐かしい思いがよみがえったとき、その一瞬、この時代、この世界にいてよかったと思います。私にとってはそれが幸せかもしれません。幸せとは、感じる一瞬の場で、求めるものではなさそうな気がします。
April 12, 2006
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突然ですが、あなたの生きる目的は何ですか?何のために生きていると思いますか?幸せになるため、自分の夢を実現するため、社会に役立つため、家族のため、いろいろなことが思い浮かぶと思います。でもよく考えてみてください。今あなたが生きる目的としたことは、自分がいつ決めたことですか?どんな状況で決めたのでしょうか?そしてそれはあなたがこれからすっと人生の最後まで変わらない目的でしょうか?・・と偉そうに書きましたが(爆)、別にこれから生きることについて延々と書く気はありません。生きる、と一口に言っても、その生きる場は、家庭、学校、職場などなど様々ですし、年齢、体験もさまざまです。抱える問題もそれぞれいろいろあります。私の場合、生きるって何?という問いは4年前に突然降りかかりました。海外出張先で夫が突然倒れて帰らぬ人となってからです。訃報を聞いたとき、最初に思ったことは、「何故こんなことが起きたのだろう」でした。そして次第に、その問いは、「何故こんなことに?」から「生きるってどういう意味があるのだろう?」「自分にとって生きることは何?」という問いに変わりました。貴方にとって、私のように何かのきっかけで問いが降ってきていなくても、時折ふっと考えることはあるはずです。「自分は誰だろう?」とか「死んだら自分はどうなるのだろう?」とか。生きるって何?私はずーっと考えています。
April 11, 2006
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1週間ブログをお休みしていました。意識的に休んだ、というより、行き詰っていました(爆)心の再生ということをテーマにして、私が自分なりに考えたことを書いてきましたが、自分の思いとか、感情を書いていく、という私小説的な展開も終わりにしたいと思うようになりました。これは最近森田健(もりけん)さんのHPの書き込みにある、インサイダーとアウトサイダー、時代というテーマのアップに対して、レスをしているときに感じ始めました。誰だって愛する家族や大事な物を失えば、当然喪失感から様々な感情があふれ出し心を痛めます。これはインサイダー(私は体験者という意味でインサイダーという言葉を使います)としての感情です。ところが、私はこうつらい、と自叙伝的に書いていっても、しょせんそんなこと私に関係ない、と思ってしまえばそれまでです。世間の半分はそういった人たちだと思います。事実、私も自分の身にふりかかるまで過労死などという言葉に実感はありませんでした。これがアウトサイダー(傍観者、観察者という意味で私は使います)的な感覚です。今までインサイダーとしてこのブログを書いてきましたが、私も自分の体験をアウトサイダー的見方からとらえたらどうなるか、を書いてみたくなりました。まずは、新装開店のお知らせでした(笑)
April 9, 2006
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今日は少し休憩です(笑)。最近ちょっと気になる曲があります。一つは「紫陽花」(紫陽花)と言う曲、それに「微笑みにして」と言う曲です。紫陽花という曲は松田晴世という詩人の方の詩なのですが、それに中村ヨシミツさんというギタリストが曲をつけました。実はこの前そのご本人がギターを演奏して三原ミユキさんが歌ったリサイタルを聞く機会があって、そこで知った曲です。「微笑みにして」というのは夏川りみさんの唄です。曲がとっても素敵なのと、前半の詩がとってもいいのでブログに書いちゃいます。紫陽花 (詩 松田 晴世)やさしかったのはいつまでだったかしらとあなたとのことひとこま ひとこまたどってみる雨に なおさら しずかな 夜です自惚れきって 気づいたらうしろにあなたがいなかった無くしてしまうまで わからないものねあなたとのこといちいち 痛むの馬鹿なわたし紫陽花が ひとり渇いていきますあなたが いたからいつだって いい気な夢 みてた微笑みにして (詩 辛島美登里)眠れ、眠れ、嬉しいことも哀しいことも 微笑にして・・・きれいなものに出逢ううと 誰か隣に欲しくなるのは一人で生まれ一人で死んでゆくこと 知っているから青い空 青い海に 素足に広がる星の砂だれのため? なんのため?静かに瞳を閉じて眠れ、眠れ、嬉しいことも哀しいことも 微笑にして人は、人は、出会いと別れ、繰り返しながら 幸せになれるね・・・・続きは省略来週の15日にはパートナーが旅立って丸四年になります。時間の経過と共に喪失と言う感じは薄れてきても、紫陽花のような詩を聞くと、思わず目頭が熱くなります。「自惚れきった」というところがあまりにリアルで・・・そして微笑みにして、は「だれのため? なんのため?」というフレーズが気に入っています。まさにWHYの問いだ(爆)。今日はこの二つの詩で私の今の気持ちをお伝えします。先週末は、この2曲を聴きながらワイン1本あけてしまいました(爆)。
April 3, 2006
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前回は、好きなもの、得意なものにこだわることの落とし穴について書きました。考えてみると、人と差をつける、ということは決して簡単なことではありません。まして自分が得意な分野(それは大体において嫌いではないのでやっかいなのですが)だとなおさらです。プライドが許しません。才能があると見込まれたり、自分がやってみたい、と思って入った世界で、あっという間に表彰台に立ったり、新記録を出してみたスポーツ選手や運がよく有名になってしまった芸能人は必ずといっていいほど、壁にぶつかります。そこで「くそっ」と根性を出した選手(芸能人)が必ず言う言葉に、「自分はやっぱりこの競技(歌、演技)が好きでしょうがない。だから続けようと思った」というのがあります。そしてその根性で再び結果を出した人たちを見て、私たちは感動します。そこにはドラマがあるとかいって(爆)。しかし・・です。その結果を出すまで一体どれだけの時間と労力を彼らは使うのか。何かそのことで失うものはないのか・・と私は最近思うようになりました。これは自分のことでも言えます。確かに人より高いレベルに達成したものが一つでもあれば、それに勝負をかけて仕事をしたりするほうが、有利に決まっています。でも、人が一生のうちに持つ時間は限られています。その極めて限られた時間で、好きなことだけ、あるいは得意なことだけに集中するという生き方は、結果として名声、地位、お金を得ることにつながりますが、一方で、対極にある得意でないこと、嫌いな事に全く目を向けないという取捨選択をしています。一種の食わず嫌いです。食わず嫌いの人には、思いがけない発見とか、予想外や期待しなかった嬉しい結果、という体験がおそらくあまり無いと思います。むしろ彼らは、期待はずれ、とか想定範囲外という言葉を使うはずです。食でいえば、得意にこだわる人たちや食わず嫌いの人は、レストランでいえば三ツ星以外のお店に行かない人たちです。しかもそれぞれのお店には、そこのお気に入りの料理(そのお店のオリジナルとか有名なレシピ)があって、それを食べながら、やっぱりここのお店のこのお料理はこれよね・・などと言うと思います。こだわらない人たちは、ここのこのお料理、とかジャンルにこだわらず、あるいはお店の雰囲気にもこだわらず、とりあえず何でも体験します。美味しかったらそれでよし、まずくてもま、いいか(笑)。どちらがより豊かで自由な感じがするでしょうか。物事にはいい面もあればいい面もありますが、いい面だけを追及するよりも、ついでだったら両方体験するのも悪くはないのではないでしょうか。
April 2, 2006
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自分らしく生きよう、とか私らしく生き生きと、と言うキャッチコピーはよく見かけます。偏差値一辺倒の学力重視の時代から教育現場も少しずつ変わってきて、一芸を持った人なら受け入れる、という大学も出てきました。自分の個性をしっかり見つけて、それを伸ばしていく、という方向に世間はシフトしています。最近小学生でバレー留学とかサッカー留学を斡旋する業者がいるそうです。何か世の中、みんな好きなことをやろうよ、ムードです。でもこの好きなこと、得意なことって実は落とし穴があるのです。それは・・好きなことをやっていると時間を忘れます。集中もします。ですのでそれに「得意」が加わると鬼に金棒です。はっと気がつくと人よりも自分が秀でている事に気づきます。そしてますます自分の技を磨きたくなります。そのうち自分よりも上手な人がいなくなると、さらに自分の実力に近い人(人たち)を求めていくようになります。実力試験を受けに行ったり、「頼もう」といってほかの道場に行ったり(爆)、とにかく自分の実力を試したくなります。しかもそのレベルはどんどん高くなって、しまいには金メダルを目指したり、世界の頂点を見るようになります。集中している当の本人は自分の好きなこと、得意なこと、すなわち一芸(あるいは専門分野)に邁進しているつもりでも、実は本質は、他人との競い合いです。他人と比較のしようがないと思われる分野でも、何かに没頭するということは、ほかの視点や可能性をすべて排除していくという作業です。好き、得意を追求していくことの最大の落とし穴は、本人の可能性、視点を狭めてしまうこと、そして自分に妥協が出来なくなる分、どんどん自分を変えることで解決しよう、という究極のエゴが出てきてしまうことだと思います。宮本武蔵は剣豪として過ごしましたが、彼の残した五輪書は野球の松井選手が愛読するほど、内容が濃いものです。そこには剣豪という特殊な世界(原題だったらありえませんから・・)に生きたとはいえ、何か普遍的な生き様を残していると私たちは感じ、同感します。でも、よく考えたら、宮本武蔵は確かに剣の道を作り、極めていたけれど、周りは敵だらけでした。スポーツ選手もそうです。ひとたび頂点に上り詰めると、必ず後から追う挑戦者が敵となって自分を脅かします。芸能人だって、周りは敵です。スターのオーラがある、とか言われても、ちょっと何かの弾みで運気が弱まると散々バッシングされます。人気も落ちていきます。これが私たちが目指す生き方なのでしょうか?私は昨日のブログにアリーナを満席にして歌うロッカーになりたかった、と書きました。音楽のビデオなどで見るあの格好いいロッカーたちは、あの一瞬の場では輝いています。しかし、人気が出れば一年の半分はバスに乗ってツアーに出なければなりません。ツアーのバスと講演会場とパーティ会場だけがローッカーの場所になりかねません。それって本当に楽しいのでしょうか。もっとリッチな芸能人がいて、毎日好きなことをして過ごしても、何だか私には片手落ちに思えます。これは、セレブでない私の僻みではなく(爆)。何故片手落ちか?好きなこと、得意なことだけで、何故視点をせばめるか?次回はもう少し具体的に書いていこうかな・・私は私を生きる・・・この言葉いま自分の座右の銘なのです。これと好き、得意に特化した生き方と次回は比べてみることにします。
March 31, 2006
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今日はなにやら意味深のタイトルのようですが(笑)、森田健(もりけん)さんのHPの<「得意」や「好き」は排除したほうがいいと思います>という書き込みが、私をうならせてしまいました。この一文にはそれにまつわるもりけんさんの中学、高校時代の話しがバックにあってそれを説明すると大変なことになるので割愛します。どうしても見たい方は不思議研究所ドットコムをどうぞ。もりけんさんについては、ここでも機会あるごとに触れていますが、自分の周りにあることのすべてを自分に原因がある、と考えて、その理由や改善を探ったり、努力して自分を変えようとする生き方を「自分は原因派」として、ばっさり斬っています。あるがまま、今の自分でいい、今の自分は一切変えることは必要ない、という考え方なのです。私流に解釈すれば、「何々をしなければならない」とか、「自分はこうあるべきだ」という「○○しなければ」とか、「今の自分にはこれが足りない」だから、「ここを何とか頑張って努力しよう」と自分に厳しくする、という固定化された考えをやめよう、そしてもっと自由に軽くなろう、と言うことだと思っています。さて、その流れから、何ゆえに「得意」と「好き」にこだわってはいけないのか?世間では「好きなこと」を見つけて、それを仕事にすることが大事だ、と言われます。また自分の「得意」なことに磨きをかけて、自分の足場を固めることが必要だともいいます。私もつい最近まではそう思っていました。自分の好きなことを職業としてそれでお金を生み出せたら最高だと思っていました。もう一度生まれ変わったら、ロック歌手になって、アリーナを満席にして観客を総立ちにさせ、ギャラもたくさんもらい(爆)、人生を格好よく決めたい、などと思っていました。しかし、それではだめだともりけんさんは書いています。何故だめなのか・・今日は眠いので明日にします(スミマセン)
March 30, 2006
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このブログも始まってもう1年と数ヶ月経ちました。心の再生をテーマにして、喪失を体験した方たちに、何らかの言葉かけをしたかったのが始まりでした。同じ過労死遺族と言う立場で知り合った人たちには、様々な人たちがいました。まだ過労死と言う言葉が社会に知られていない頃、過労死と言う問題を提起した遺族の人たちは、長い裁判を闘ってきたり、支援の会などを通して地道に世論に訴えたり、それぞれのやり方で、過労死を社会問題として認知させるために努力をしてきました。そして過労死が新聞やテレビで報道されるのを私は「普通の人」として外から見ていました。ところがある日突然、私はその普通の人から過労死の遺族の側に入ってしまいました。これは自分の意思では当然ありません。自分の身には絶対に起きないだろう、と思っていたことが起こったのです。そして遺族と言う立場にたった私は、当然のように共通項を持つ人たちの場に入っていきました。そこには、前述したとおり、社会問題として過労死を認知させるために努力してきた先輩遺族がいました。そしてまた、私のように予期せぬ出来事として訳もわからず体験したことに、まだ戸惑いを隠せない新しい遺族もいました。そして勿論一人一人、同じ過労死遺族といってもひとくくりにはできません。考え方も違うし、年齢も違うし、被災された家族の方の状況もそれぞれに違います。共通項は、唯一つ、自分たちをわかってほしい、と言う点だったように思います。来月の15日でパートナーと別れてから4年が経過します。ようやくですが、自分のポジションが少し見えるようになってきました。HOW的生き方を斬る、というタイトルにもあるとおり、少しだけですが物事の根本を見ることの大事さを確認できるようになりました。そしてまだまだではありますが、一時の感情とか、一時的な動静にこだわらずに生きるということは、決して自分にこだわることではなく、むしろ自分を思い切り軽くすることではないか、という風に思えるようになってきました。ただ、まだ自分の好きとか得意な分野にこだわったり、自分へのこだわりとかプライドが捨てきれないところがあって、すべてを軽くするところまでは至っていません。これからが勝負です。このブログも心の再生のHPも近い将来には、心の再生とはまた違ったアプローチにすることを考えています。今の自分には、人を元気にしてあげよう、という視点とは違ったものが芽生えてきているからです。近い将来とはいっても、数ヶ月先あるいは1年かかるかもしれません。ちょっと予告編でした(笑)。
March 28, 2006
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HOW的生き方を斬る、というシリーズ、順調に進みたいところですが、私自身ちょっと休憩を(爆)。FOXテレビで「アメリカン・アイドル」という番組があるのを最近知って今日初めてテレビで視聴しました。アイドルを発掘する番組ですが、日本の「スター誕生」とか最近の番組に比べても、さすがアメリカというか、レベルが高いことに驚きました。日本の場合アイドルというと、歌唱力よりもルックスとかスター性なども同等に評価します。ちょっと昔のアイドルなんて、歌は超へたくそでした(爆)。ところが、アメリカの場合は、アイドルとはいえ、下手な歌ではだめなようで、まず歌唱力ありきのようです。今回はその歌唱力をとりあえず認められてステージで歌うことが許された挑戦者が、スティービーワンダーの歌に挑戦していました。どうやら挑戦者は、スティービーとかいろいろなジャンルのスーパースターの歌に挑戦をして、その実力を評価されていくらしいです。こういうところもアメリカ的(徹底的に評価をシビアにする)だと思います。で、私が何故この番組のことを書いたかと言うと、今回挑戦者が共通してチャレンジしたスティービーワンダーが最後にゲストとして登場したのですが、その彼の歌った1曲に感動したからです。挑戦者はいずれもそのパフォーマンスは申し分なく声がちゃんと出ていて、しかも素晴らしい声でした。容姿もスター並みの人もいるし、歌いっぷりも堂々としていて、とても素人とは思えないのですが、その彼らのパワーあふれるステージの後にスティービーワンダーは出てきました。彼の歌った曲は、題名を忘れてしまいましたが(汗)、とにかく渋い曲で、歌いだしは彼の低めの抑えた声ではじまったので、派手さもなく音量も決して十分ではありませんでした。ところがだんだんさびのところに来たとき、彼のあの独特のこもった、しかし中で響く特有の声がはっきりとコントラストで聞えてきました。そこで、私はなぜか涙が出てきました。私の場合、音楽を聴くときに出る涙は別に何か思い出にリンクした、というのではなくて、感動すると自動的に出てくるサインみたいなものです(爆)。前の挑戦者は「うーん、うまい」という思いで聴いていましたが、スティービーの場合はうまいというより、それを超えた感動を運んできました。これが本物の音楽だ、と言ってしまうと納得するでしょうが、本物とは何でしょうか。感動って何でしょうか。私が感動したのは、彼が本物だから感動したのではなくて、ただ純粋に彼の歌声が私の感動スイッチを押したからでした。正直言って今のスティービーの声のボリューム、音質、全体のエネルギーだけを取れば、アイドルの挑戦者たちのほうが実は上回っているのです。ところがそういった声の質、トーン、歌の技巧がすべて最高になれば、最高のパフォーマンスか、というとそうともいえないと思います。努力して最高のパフォーマンスをして人を感動させよう、とギンギンになっている挑戦者たちと、スティービーと一つだけ違うところ、でもとても大きな違いは、彼が自然体だと言う事だと思います。自分を知り尽くしているけれど、それを持って人を感動させようと無理をしない、その姿勢が、歌と言うものを通して私たちに何かを伝えたのだと思いました。私はボイスレッスンから始めてそろそろ6ヶ月レッスンをしています。今シャンソンの「サントワマミー」に挑戦しています(笑)。ですので、歌うものの端くれとして(爆)、今日の番組はなかなか教えられることが多い内容でした。
March 26, 2006
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今日は小児科医中原利郎さんの過労死認定を支援する会の懇親会にお邪魔してきました。今日は中原利郎さんの民事裁判の証人尋問の3回目でした。あいにく私は証人尋問には傍聴できませんでしたが、懇親会にちゃっかりお邪魔して盛り上がった雰囲気に一緒に酔わせていただきました。私は過労死遺族のケアの会を運営しています。そしてこの会のメンバーでもある中原さん(利郎さんの奥様)の支援の会にも入っています。しかし・・・前にも書いていると思いますが、私は自分の活動が社会を変える、あるいは国の政策を変える、というところを目標にはしていません。確かに以前は、過労死遺族という体験を持った私たちが声を上げて、はじめて世間の人たちは過労死と言う問題に気づいてくれる、だから私たちはこのことを少しでも多くの人に知ってもらわなければならない、そしてそのためにも、自分たちの活動(労災申請、裁判)を続けていかなければならない、と思っていました。これらはいずれも正論です。そして過労死の問題に関わる人のほとんどが、これらを当然として受けとめています。ただ私には、体験者である私たちが社会に訴える、と言う事の内容が、ただ自分たちの労災申請が認定されるよう助けてください、と言う単純なものである限り、それはその申請者のエゴで終わるような気がします。多くの人に知ってもらうことは大事ですが、私はこんなに不幸です、ですから過労死と認めてもらうように助けてください、では、病気で亡くなった家族はどうでしょうか、犯罪被害者の家族はどうなのでしょうか。彼らは助けてください、と訴える場もなければ、救済する行政措置も過労死のように整っていないのです。一体私たちは社会に訴えるといっても、社会のどの部分の人に共感を持ってもらい、そしてどんな社会にしていくかということをちゃんと議論しているのでしょうか。過労死の無い社会、とよく言われますが、人が働くところには、必ず一定の組織があってストレスがまったくないということはありえません。労働つまり、働くということは、現代社会では生活の糧を得る手段でもあります。そこで働く人たちにとって、会社とは労働を提供し、交換に給料を提供してくれる存在です。そこでたまたま過労死で倒れた人がいて、その人に同情こそすれ、その家族が裁判でも起こそうものなら、「やっぱりお金が目当てなのか」、という見方をする人も多いのです。こういったことをきちんと片付けた後ではないと、少なくとも私は自分のケースを支援してくれ、とはいえないのです。ただ、中原さんの場合は、そういったことを抜きにして、彼女を応援したい、と言う気持ちで参加しています。彼女が訴える小児科医療の問題もあります。様々な問題が彼女のケースには含まれています。このケースが解決するということは、いろいろな面での波及効果は絶大ですが、それはそれとして、私は個人的に彼女を応援しています。そして彼女の支援の会の人たちは皆さんとても素敵な方たちです。一見矛盾しているように見えるかもしれませんが、今の私はHOW的生き方ではなく、WHYを追求しようとしていますから、過労死問題ということも、どうしたらなくなるか、というHOWではなく、そもそもなぜこういったことが問題になるのか、といったところから議論すべきだと思っています。ですので、それがあまり見えない研究会とか交流会には参加していません。それよりも、今はまだ自分の生き方に忙しい、というのが本音なのです。とにかく今日は頑張った彼女に乾杯!
March 23, 2006
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今日はWBCの決勝戦でした。普段はリアルタイムで野球を観戦するということはほとんどないのですが、今日ばかりはさすがに気になりました。というのも、私が今回このシリーズを通して気になっていたのが、イチローのコメントでした。そもそもこのWBCが自分の関心をひいたのは、あのクールなイチローが、最初の練習で、フェンスにドスンドスンと体当たりをして、ボールをとりに行く感触をつかんでいる、というニュースでした。そのときは、天才と言われるイチローでさえ、王監督が驚くような念の入れた練習をするのだ、と思いました。そのとき、私の頭に浮かんだのは、用意周到という言葉でした。しかし、用意周到というのは、およそ天才とかスター性のあるスポーツマンには、似合わない言葉のようでもあります。メジャーリーグでは毎年素晴らしい実績を残し、今やアメリカでもその真価が認知されているイチローですが、その裏には彼なりの野球と言うものに対するこだわりがあって、それは技術を基軸とした、彼なりの独自の美学があると私は感じていました。修験者のように何かを極めることを求めている近寄りがたい雰囲気があったからです。そこには、何か自分の可能性を究極まで試してやろう、という内面からほとばしる自分への挑戦、あるいはこだわりを感じていました。しかしフェンスに体当たりという、徹底した現場主義は、自分の技とか読み、集中力という自分に焦点をあてて自分に絶対の自信を持っている場合、「そこまでやるか」という何か泥臭いものを感じます。現場主義・・良く刑事もののドラマで、刑事コロンボとか腕利きだけれどなかなか昇進できない刑事が、泥臭く現場に通って事件の手がかりを得ながら、事件解決に至るというシーンを思い出します。今回のイチローは何か最初から泥臭い一面がありました。そして、韓国に2度敗れたとき、悔しさのあまり痛飲した様子が報じられて、何か今までの私の抱いていたイチローのイメージがだんだん違ってきました。準決勝のときの彼の言葉、「同じ相手に3度負けることは許されない、チーム一丸となって闘う」と言う言葉には、今までの淡々としたイチローとは違った、韓国全体を敵に回してまで挑発する違った面を見るようでした。そして今日見事世界一に輝いた彼は、「今日はコドモのような気持ちになれた。素晴らしいチームだった」と言っていました。そこには、野球を始めたころの野球少年だった頃のイチローがいました。恒例のシャンパンがけのとき、インタビューを受けているときに後ろからシャンパンをかけたのがたぶん上原だと思いますが、そのとき、イチローは「こら、お前ら、先輩を敬え」と食ってかかります。何かそのときの彼はとても楽しそうで、後ろではしゃいでいる上原とか若手の選手もとても嬉しそうで、まるで小学生のように見えました。ふっと思いました。今回日本がここまでこれたのは、半ばあきらめていたときの準決勝進出のときから、勝利の運の流れに乗れたのだろうということ、それに選手、監督がすべてを尽くして勝ちに行く、という高校野球のような感覚を持てたからなのではないかと。そこには、自分流とか、自分の技に対するこだわり(エゴとかプライド)というものを捨てきって、チーム全体が「勝ちに行く」という一つの目標を通してネットワークでつながったからではないか、そしてその中心にいたのが、イチローだったような気がします。私は今回のWBCでイチローが大好きになりました(笑)。
March 21, 2006
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HOW的生き方を斬る、と題したテーマも3回目になりました。今日もりけんドットコム(森田健さんのHP)からメルマガが久しぶりの届きました。その中で、私がドキッとした言葉がありました。それが「人の出した問の答えを聞く」という言葉でした。HOW的生き方の定義として、いかに生きるかということに特化した生き方だ、と前に書きましたが、それでは何となく優等生的な書き方です。むしろ、HOW的生き方の根本は、と問われれば、他人が出した問いに対する答えを聞く事、かも知れないと気づきました。たとえばカーネギーの「道は開ける」であれば、それはカーネギーが自分に出した問い、「如何にしてお金をもうけながら社会に貢献できるか」に対するカーネギー自身の答えが、彼の生き方そのものになっていたのだと思います。そしてその生き方を「道は開ける」という本の中で私たちが知ることになるのです。それはナポレオンヒル、マーフィにしてもそうです。あるいはこのブログで私が書いていることもそうかもしれません。それは書き手の持っている問いに対する書き手自身の答えなのです。他人の問いに対する他人の答えとはいえ、それがある程度の普遍性を持っているものならば、万国共通に時代を超えて受け入れられていきます。宗教などはその最たるものかもしれません。しかし、他人の問いがどんなに普遍性を持った考えであっても、ひとたびそれが答えになってしまうと、なぜか私は物足りなくなってしまいます。推理小説を読んでいるときなどは、早く結末を知りたくてうずうずするのですが、ひとたび結末を知ってしまうと、なーんだ、と一気に興ざめしてしまいます。人間って本当に強欲だと思います(爆)。たぶん私たちはもともと、好奇心が強いのだと思います。問いを持って、それに対して探求していくことに面白さや充実感、わくわく感を持っているのですが、そこは人間、少しでもその先を知りたいと思うからでしょうか、結論を急ぎたくなってしまいます。他人の問いが、たまたま自分の関心を惹いた場合、その問いに対して他人が試行錯誤の末に出した答えは、知りたいと思います(笑)。特にそれが時間と労力をかけたものほど、その答えの価値は高くなります。しかし、それはしょせん他人の問いに対する他人が出した答えです。自分の問いに対して自分自身が考えて出した答えではありません。例えは悪いかもしれませんが、このお店のこの料理は絶品だ、と書かれた料理についてその味は食感を想像することはできても、実際に味わうことができないように、あるいは、人の恋愛体験をいくら聞かされても、自分が実際に恋愛を体験しなければわからないように、体験という事を抜きにしては、理解は難しいような気がしています。他人の出した問いの答えをもっともらしく、読んでそのときは納得しても、真の理解は難しいと思います。まずは、自分がオリジナルの問いを発してみる、そして、自分自身で問いの答えを見つける、その姿勢がまずは必要なのかと思いました。
March 20, 2006
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「思いは実現する」そのために自分は生きている・・・この考えはつい数年前まで続いていました。学生時代、社会人として過ごした時代(OL時代)、そして結婚、子育てを経験し、税理士の資格取得を目指して働きながらの勉強・・・勿論すべてが順風満帆ではありませんでしたが、大きな病気や災害に遭うこともなく、それなりに人生は進んでいきました。4月15日が来る前は・・・あの日、平成14年の4月15日、忘れもしません。午後1時半すぎに一本の電話が職場に鳴り、パートナーの死が告げられたことをきっかけにすべてが大きく変わりました。それに関しては『ありがとう、もう大丈夫』に書きました(ちゃっかり宣伝)。その中でも一番大きく変わったのが、「私は何で生きているのか」という問いが目覚めたことだったのです。人の死を目のあたりにするのは、人生半ばになると結構経験します。葬儀に参加する機会も多くなり、自身の祖父母や親などを送り出す場合も出てきます。私は20代の頃に母親を亡くしています。私にとっては母親というとても身近でかけがえのない存在でした。大切な人との別れとは、その人が自分にとってかけがえがないほど、取り残されたという気持ちが強くなるものです。パートナーの場合は、母の場合ともまた感じが違いました。パートナーとはまさしく私にとっては人生のパートナーでした。空気のような存在にもなっていました。長年一緒に二人三脚でに人生を築いてきた自分の大切な片割れが突然いなくなったのです。私にとってみれば、メンター的な存在でもあった彼を失ったことは、自分の人生の羅針盤が突如消失してしまったような状況でした。船の舵を一緒にとっていたはずの舵取り人、そして羅針盤ごと突然消えてしまった船に一人取り残された私は、そこで初めて孤独感を味わいました。そこでです。「私にとって生きることはどういう意味なのか」という「どのようにして生きるか」という問い以外の全く違った問いが出てきたのです。世帯主が亡くなるということは、経済面、生活面色々なところで問題が生じます。ただ、「生きるとはいったいどういうことか」という問いが自分の存在意義に関する根本的なものだとすれば、経済面とか色々な問題は実務上というか、生きていく上で必要な実用的な問題で、適切な手段を選び、しかるべきところに相談していけば、いずれ時間とともに解決していくものです。しかし、生きるとは、とか私は何故一人なのか、という種類の疑問は、時間が経過しても解決できません。まして人に相談することなどできません。舵取り人と羅針盤が一挙に消えた船の甲板で、私は思わず、何で私はここにいるの?と叫びたい思いでした。何でひとりぼっちなの?何故私はよりによってこの船なの?あちらの船は豪華客船で、人もたくさんいるのに、何故私は一人でこの船に取り残されたの?この「何で」という問いが今までのどうしたらというHOW的なものと全く違う、「WHY」的な問いでした。 パートナーを亡くしたとき出てきた、何故、という問い、それは自分が今までの中で一番強く感じた孤独感から出発したものでした。
March 17, 2006
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HOW的な生き方を斬る、ということは、HOW的アプローチを否定することではありません。日常の仕事や長期的な計画の中で、あらかじめ段取りを決めてどのようにしたら最も効率よく行えるか、それに必要な時間や労力はいかほどか、などを予測していくことも、またHOW的なアプローチですから、これを頭から斬る、と言っているわけではありません。私が今回HOW的な生き方と、WHY的な生き方を区別して考えてみよう、と思ったのは、最近自分の中で湧き上がってくる「自分とは何か」という問いから始まりました。オギャーと生まれたときから、私は北海道の両親の愛情に恵まれ育ちました。3歳の頃から母が自分でやりたかった、というバイオリンを習い、勉強も母がしっかり見てくれたせいもあり、小学生のときは成績優秀でした。中学は道内でもかなり有名な中高一貫のミッションスクールに入学して、高校のときにはアメリカに1年間留学しました。実家は決して裕福ではありませんでしたが、お金に困っているわけでもなく、私は自分の進路に関してほとんど金銭的な面での制約はありませんでした。ただし、私が東京の大学に在学していたときは実家が経済的に行き詰ってしまい、学資しか仕送りしてくれなかったので、私はアパート代と生活費を稼ぐためにアルバイトをしましたが、それはそんなに苦労ではありませんでした。結構アルバイトも楽しかったのです。(若さゆえですね)そんな私にとって、自分とは何か、という問いはいつの間にか素通りしてしまった感があります。高校のときに習った哲学でも、自分という存在はこの世界で唯一無二のもので、かけがえのない存在だ、という意識しかありませんでした。それは裏返せば、孤独感というものをあまり強烈に感じなかったせいかもしれません。それに自分が何かしたい、と思ってそれに向かって努力したことが、比較的スムーズに実現していった、ということもありました。バイオリンは確かに練習はとてもきつくて、楽しいとはいえませんでしたが、私の弾くバイオリンの音色はかなり良かったらしく、バイオリン教室でも結構優秀な生徒でした。もともと耳がよく、音感があったようです。発表会などで人前で演奏することも楽しかったし、中学になって入ったオーケストラ部でオーケストラの一員として演奏することもそれなりに好きでした。ただ、音楽を一生の職業として選択するには、実家の資力は十分ではなく、私自身も音楽家になる、という道は頭にありませんでした。なんだか自分の話しになっていますが(笑)、こうやって振り返ると、私はかなり恵まれた少女時代を過ごしています。生きるということも、いかにして自分がこの社会で自分の実力を試して、いろいろな経験をしたい、という希望と期待に満ちた感覚で受け止めていました。そしてそれは大学に入ってからもそうでした。大学に入り確か2年目の夏に、私はカーネギーの「道は開ける」という本を手にします。それが私にとって、HOW的な生き方に目覚めるきっかけになったのです。このブログでもこの本に関しては数回書いています。簡単に言えば、この本はカーネギーという一代で財をなし成功した、実業家が、その軌跡を紹介しながら、自分の能力を最大限に生かして社会で成功し、世の中に貢献していくための、具体的な指針を教えたものです。この本はハウツーものの分野では、かなり著名な本で今でも多くの人が読んでいます。ちょっと御幣があるかもしれませんが、私の中での区分で言えばこの流れを組んでいるのが、ナポレオンヒルとかマーフィーといった人たちなのです。彼らに共通しているのは、願い、思いというのは自分の潜在意識から生じるものであって、それは必ず実現する、というものです。ただ、人によっては、この願い、思いに気がつかない場合もあり、これを使命感(ミッション)とリンクさせると、それは生きがい論にも発展していきます。今生きがい、とか人生の価値を豊かにしよう、というテーマで出されている本も、その根本は、「思いは実現する」ということなのです。私はこの「思いは実現する」ということを指針にして、人生の半ば以上を過ごしてきました。ですから、この「思い」の主体である自分自身について、我とは何ぞや、とか、私の意識って何だろう、と思うことは少なかったのです。ですが、たまに自分が死んだらどうなる、ということを考えるときもありました。そのとき私が思っていたことは、物理で習った「エネルギー不変の法則」を勝手に解釈して(爆)、自分はきっと何かのエネルギーが具体化した存在で、自分は死ぬことでそのエネルギーに戻っていく、つまり自分の意識は無と化すのだろう、だからこそ、この世で生きている間に自分の思いを実現させていくこと、自分の人生を充実させていくこと、簡単に言えば、精一杯生きることが大切なのだ、と思っていたのでした。ある意味唯物論的な考え方に近かったのでしょう。でもこの世ではうまくいかないことも多いのです。そういうときは、やはりどこかに偉大な存在(神とか宇宙)があって、この自然の世界の法則がなりたっているのだろう、とテキトーに考えていました。ああ、なんとアバウトだったんだろう(滝汗)。
March 15, 2006
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HOW的生き方ということについて、もう少し詳しく書くことにします。HOW的生き方というのは、如何にして生きるかを追求する生き方と前回書きました。これを見るには本屋さんに行けばすぐわかります。「誰でもわかる」シリーズとか、「猿にもわかる」シリーズは、PCとか税金関係という限定されたトピックが多いのですが、最近は、質問力とか、人間力をつける、人をいかにしてひきつけるか、いかにして人を感動させるか、といった書籍が多く出ています。国内の本は比較的精神論的なものが多いのですが、アメリカの本は、非常に具体的で、イラストつき、あるいはその図の描き方まで指導する本が出ています。例えば、何か願望や理想を持っている人向けに、そのイメージを膨らませるために図を描いて具体的にいろいろなことを考えさせたり、あるいはそれを音楽やナレーションにしたCDを付けて、これを聞けば貴方の潜在意識に入って、願望が叶います、といった種類のもの(これは若い女性向けの恋愛勝ち組のための本が多いです)もあります。こうやって見ると、今の日本はHOW的な志向が花盛りといった感じです。これは今に限ったものではありません。私は学生の頃(かなり前です・・汗)、カーネギーが書いた本を買いましたが、これはまさにHOWの原点を凝縮した本でした。自分の願望や理想、あるいは欲求をいかに実現させるか、ということだけに焦点を置いた本だからです。私はこのカーネギーの本を一読して、感動で興奮したことを覚えています。このように考えていけば人生はまさに開けるのだ、と思ったのです。今思うと実に単純でした(爆)。自分で言うのも何ですが、私の唯一のとりえは素直だ、と言うことで(笑)、これはとりえでもあり、大きな欠点でもあります。当時私は、素直にカーネギーの考えを受け入れてしまい、それから何十年もの間、願望実現の仕組みを信じ続けてきたのです。詳しいことは忘れましたが、カーネギーにしてもナポレオンヒルにしても、この流れの本は、潜在意識が持っている無限の可能性を強調するところから始まります。人間にはもともと神と通じる意識が備わっていて、それは究極の良心であり、自分の心の声(=直感)をまず信じることがスタートです。そして、その潜在意識に向かって、自分の願望や理想、信条を意識的に落とし込んでいくことで、潜在意識が自動的に自分を勝手にリードしてくれるようになる、というのが根本の考え方なのです。この意識的に落とし込んでいくやり方が、人さまざまで、紙に書いて天井に張っておく、ノートに書いて寝る前に読んでみる、あるいは朝起きたらすぐそれを読む、もっとすごくなると、書いたら意図的に忘れてしまうというのもあります(爆)。これらのいろいろなやり方は、それぞれの著者の成功の実体験とセットされているので、その本を読んでいる限り、これに従えば、必ず自分の望むどおりになる、と強い啓示を受けるというのが特色でもあります。私は、何十回とこの啓示を受けました(爆)。しかし、啓示は啓示で終わってしまいました。その本を読んだ後は確かに感動して、良し、私も、と思うのですが、なかなか継続できないのです。そのうち、それ自体も忘れてしまい、また一つ挫折したときに、違う種類のHOW読本を買って、読んで、また感激しては・・という繰り返しが今までの私だったのです。お恥ずかしい話しですが、これらの本を買って、是非実現させたい、と思った事柄は、自分の記憶にすらないのです(滝汗)。10年間もトライし続けた税理士試験にいたっては、何の役にもたちませんでした(爆)。何故約に立たなかったのか、それは・・物事の根本を問うという視野がなかったからだと思います。明日に続きます。
March 13, 2006
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HOW的な生き方を斬る、などとすごいタイトルになりましたが、私は文字通り、今までの生き方を斬るつもりでこれから少し書いていきたいと思います。まず、HOW的な生き方についての定義です。これは、もうずばり、HOW=いかにして、という方法論に終始した生き方をいいます。これは私の今までの人生がまさしくそうだったのですが、たぶん多くの人はこのHOW的生き方を、特に疑問にも思わず過ごしていると思います。人は何故生きるのか、とか、自分が自分だと感じる意識はどこから来ているのだろうか、と考えたことは全く無い、という人はたぶんいないと思います。中学、高校、あるいは大学といった学生時代に、多かれ少なかれ、こういうことを疑問に思った経験はあると思います。たとえ覚えていないにしても、ある日突然、自我意識に芽生えたときとか、何かしらそういった疑問は感じているはずです。ところが、中学、高校と進むにつれて、先生は将来どんなオトナになるかを考えなさい、と盛んに私たちにアドバイスし始めます。目標が具体的であればあるほど、将来の自分がイメージしやすいこともあって、早いうちから、社会で自分がどうやってひとり立ちするかを考えるように指導します。ここからすでに「如何に生きるか」HOW(どうやって)生きるか、という問いが私たちに突きつけられます。どうやって生きるかということは、確かに重要な命題です。それにいち早く気づくのがオトナへの近道だといっても過言ではありません。どうやって生きるかという問いは、具体的には、どんな職業につくか、将来自分は何になりたいのか、社会に対して何が貢献できるか、何を信条として生きていくのか、自分に最も適した生き方はなにか、という問いがすべて含まれます。医者になりたい、弁護士になりたい、あるいは政治家になりたい、という学生たちは先生は大歓迎です(爆)。こういう子達は大体が成績優秀で、物覚えも早いし、先生の言ったことはすべてきちんとこなします。しかし、将来何なるかを考えることもなく、進路相談のときに、「先生、先生は何故この世に生まれてきたかを考えた事がありますか」などと質問しようなら、「余計な事を考えないで、いい加減将来のことを考えろ」と言われてしまいます。私たちの社会では、このHOW的生き方を追求することこそが生きることであり、何故生まれたか、あるいは自分は何者か、という問いは非生産的で無駄な作業、たわごとに過ぎない、と斬り捨てられます。私はこれからこのHOW的な生き方を斬ろうとしていますが、それにはそれなりの理由があります。その生き方の限界を見たこと、そしてHOW的な生き方は実はちっとも楽しくない、ということを感じているからです。次回はそこを書いてみようと思っています。
March 12, 2006
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自分の意識ということについて考えていました。「ミクロ決死圏」という映画が昔ありました。人間を極小化して、ある患者の体内に送り込み、そこで病原菌と闘う、というストーリーです。この映画を見ながら、人間の体内はまるで宇宙のようだ、と思ったものです。何年か前ですが、ビッグバンとかブラックホールという言葉がブームになったとき、NHKなどが宇宙の始まりは何だろう、という特集を組んでいました。そのとき、宇宙というのはとてつもない大きな存在なようだけれど、その広がりの果ては一人の人間の体内に収まっているのかもしれない、などと感じたときがありました。それについては、パートナーも同じ事を言っていました。ひょっとしたら私たちの意識というのは、実は何か大きな宇宙のような存在に、根本ではつながっているのではないか、と思うようになっています。こんなことを考えたきっかけは、カリフォルニア工科大学で脳科学を研究している下條さんと言う方の研究の内容でした。彼は「感情は自分のものではない」という主観をテーマにしているというのです。彼の研究そのものについては概要が下條さん講演会というHPに載っています。自分が今まで自分特有のものだと思っていた感情が、もし何らかの外的な要因で発生するものだとすれば、その外的と呼ばれる外側とは何か、それが発生してくるというのはどういうことか、それを考えるだけで混乱しそうですが、例えば自分がどうしようもなく落ち込んでいるとき、あるいは悲しいとき、この感情の出所は何だろうとふと目線を変えると、視点が変わるのではないかと思います。落ち込んでいるとき、悲しいときは自分だけが世の中で一番辛くて、嫌な人間だ、と思いがちです。しかし、そう思う感情はひょっとして自分以外のところから生じているのだとしたら、そしてそれが何か大きなものとつながっているとしたら、今の感情は自分だけが辛い、嫌だと思っている感情ではなく、とても普遍的なものだともいえると思います。であれば、自分は自分であるけれど、何かの一部かもしれません。それが繋がると言うことなのかもしれない、とふと思いました。前回つながるということをテーマに書きましたが、自分の意識が何か全体的なものにつながっている、と言う可能性もあるのではないか、と今思っています。
March 10, 2006
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繋がるということについて考えてみました。繋がる、とは、連帯、共有、意思の伝達が可能になる状態がイメージできます。もともとの言葉の意味は、放れないようにする、とか結ぶということですから、自分と誰かあるいは何かの対象と放れないように、もしくは結ばれると言う意味です。物と物をつなぐ、例えば端末にケーブルをつなぐ、と言う意味ではしっくりきますが、それが精神的な意味になったときに、意味不明になりそうです(笑)。自分の感情のある部分(例えば、嬉しさ、悲しさ)が他人のその部分に結びついたときは、繋がった状態になると思います。今思い浮かんだのは、ロックコンサートでのあの一体感(爆)です。コンサートの場合には、演奏するロッカーが「のってるかーい?」と叫んで、聴衆が「イエー!」と叫び返す、そしてゴワーンと凄い音で演奏が始まり、追っかけの人たちはもうそこでしびれてしまいます。観客席で片腕をあげたり、踊っている人たちもまた、恍惚感でいっぱいになります。それをテレビとかビデオで見る私たちもまた酔いしれて・・・いわゆる感動の連鎖です。多分これが繋がった状態です。上記の例ではちょっとした興奮状態ですが、静かな感動もありだと思います。ただ繋がる、と言う状態は、こちらが一方的に受身になっている場合には難しいと思います。映画の場合は、観客はスクリーンに投じられる作品を通して感動しますが、感きわまってすすり泣く場面になっても、隣の人とつながっているとは言いがたい状況です。そこには何か繋がるためのワンクッション、あるいはちょっとした起爆剤(ロックコンサートであれば、ロッカーの叫び声とか問いかけ)が必要です。これは多くの人たちとつながる例ですが、一人対一人の場合には、コミュニケーションが必要です。自分が思うことをそのまま相手に感じてもらうには、ちょっとした霊的な直観力(=テレパシー)を持っているとか(笑)、かなり親密な関係であることが前提となります。しかも、自分が繋がりたい、と思うのであれば、自分から問いかけ、あるいは意思表示といったアクションが必要です。と、ここまではかなり常識的な内容でした。少し抽象的な領域に入ります。例えば、道端に咲いていた一輪の花を愛でるという行為があります。このとき、花と自分の関係はどうでしょうか。ペットと遊ぶときや撫でているときの、ペットと自分の関係はどうでしょうか。満天の星を見上げたとき、ふと「何か」を感じたようなとき、そのときの星と自分の関係は?外を歩きながら風の中に春の気配を感じたとき、その空気と自分は?これらもまた繋がっている状態とはいえないでしょうか。いや、そんなもの、たまたま自分の周りの環境に自分が気がついただけだ、といってしまえばおしまいですが、ただ気がつくだけではなく、花を愛でると癒される、ペットの可愛さに微笑む、春の気配にわくわくする、星を見たときになぜか懐かしい感じがする、という感情がわいてくるのは、やはり自分の周りにある花、ペット、星これらが自分にとって特別な存在であることを意味すると思います。何か行動を通して繋がるときには、自分が主体となるか、媒体要因が必要でした。しかし静かなつながり、上記のような場合には、主体となる自分はむしろ邪魔かもしれません。自分がある感情を持つ、ということは、何かしらそこにその感情を誘発する要因があるということです。自分を1回空にしてみたと想定して、その空の自分の感情を誘発してくれるものがあったら、その感情を通して、空の自分とその誘発してくれたものは繋がったと言えると思います。素直になって初めて感動とか、気づきは訪れるような気がします。道を歩きながら、今日は感動する花を探そう、とか、何かわくわくすることを見つけよう、と構えてしまうと意外にその対象は見つかりづらいものです。肩の力を抜いて、自分の殻を脱ぎ捨てて、感じるままに一日を過ごしてみると、いろいろなつながりを感じることができそうです。
March 8, 2006
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物事には絶対確実ということはあり得ません。今の自分の仕事、生活、人間関係すべてがこのまま継続していくという保証もありません。私は4年前にパートナーを亡くしましたが、突然このような形で別れがくるなどとは夢にも思っていませんでした。むしろこれからずっと夫婦続いて死ぬまで一緒のような感覚すらありました。そして数日前の空き巣事件です(しつこいって・・爆)。平穏無事という生活のイメージが奇しくも崩れました。更に仕事もそうです。定年まで無事に勤め上げることすら今の私には保証はありません。そう考えると、なにやら急に目の前が暗くなってきました。そんな気分でなんとなく、もりけんさんのHPの「もりけん語録」を見ていたら、「幸福論」と題した書き込みがありました。そこには「それがどうした?」というフレーズが出ていました。私の場合は、ちょっとしたことでも落ち込みやすいタイプなので(苦笑)、無駄とわかっていても先を考えてしまいます。ある意味心配性かもしれません。ここしばらくは、その心配性はどこかに行っていましたが、きゃつは空き巣事件で私のところに戻ってきてしまいました(笑)。仕事、生活、すべての面で先の保障なんてまるでないではないか、ときゃつは強く訴えます。そんな時ふと引っかかったのが「それはどうした?」でした。確かに先のことをきちんと準備するのは大事です。この社会で少なくとも食いっぱぐれないためにも、仕事は大事です。生活の安全面も大事です。こういうことをきちんと準備していくことは重要ですが、やっぱり「それがどうした?」です。言い換えれば、それがすべてではないはずなのです。感覚的な話しをします。仕事の継続性、生活の保障などつらつら考えているときの私は、とてもシニカルで、暗くて、疑心暗鬼が全面に出ています。ところが、一言、その私が「それがどうした?」とつぶやいた時点で、何かこういう問題はとてもつまらないことに思えるようになりました。何に比較して、ということではなく、一体今の自分は何を問うているのか、というスタートラインに引き戻されてしまうからです。そもそも自分が何で自分であるのか、自分が生まれてくる前、その先もわからない、この状態こそが一番不安定なはずなのに、そこを外して、自分の立つ所だけを確保しようとして、それがどうした?なのです。昨日私は強烈な孤独感に襲われました。すべてから見放され、途方にくれる自分、先が全く読めない自分、そんな自分がいました。その感覚が襲ってきたのは、現実面での不足、欠乏感のなせる業です。きっとまだまだ何かに固執しているのだと思います。それを一つ一つはがしていくキーワードが「それがどうした?」だと思います。「・・で、何が問題なの?」、「そう・・で、それがどうした?」。すべてのことはこの瞬間の感情に素直になることから始まると思います。今孤独の最中にあっても、その感情に浸りきる前に、このキーワードをつぶやくと、何か気持ちがリセットする気がします。それは私と「何か」がつながったということではないか、とふと感じています。
March 7, 2006
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昨日はイチローの面白い話をご紹介しました。イチローにはなにか修行僧のような厳しさを感じるときがあります。鋭い目、研ぎ澄まされた精神、並外れた集中力、彼は平成の宮元武蔵ではないかとさえ思うときがあります。彼っていったいリラックスするときはあるのだろうか、遊ぶときってどんな風にしているのだろう、などと私はついつまらない事を考えてしまいますが、少なくとも家族から天然ぼけと言われている私とは全くタイプが違うことは確かです(爆)。しかし、天然ぼけと家族には言われていますが、本人としては宮元武蔵とかイチローのあの近寄りがたい雰囲気を自分は持っていたいと思っています。少なくとも、「生きる」ということに関して、武蔵流、イチロースタイルを貫きたいと思うときがあります。武蔵もイチローも非常に内面を追求しているかに見えますが、実は大事な場面では自分を空にしているのではないか、と最近思います。真剣勝負の場合は負けは死を意味します。生きることに執着していると、冷静な判断が出来なくなる場合があるような気がするのです。勝負もそうです。何が何でも勝つ、という勝ちに対するこだわりは確かに大切です。しかしあまりに勝ち負けにこだわることで、感受性が鈍くなってしまうこともあるかもしれません。私は野球も剣もやりませんが(当たり前だ・・爆)、何となく理解できるのは、本番まではひたすら練習とあらゆる場面を想定しての実地訓練を繰り返すけれど、いざ本番になったら自分の意識そのものを取り去り、無の境地、あるいは空の境地に入り、無意識に近い状態で臨むのではないかと思うのです。そしてその真剣勝負の瞬間に今までのすべてを賭けるのです。これで勝負がどう転ぼうと、後悔しない、そこまで自分は修行を積んできた、つまり用意周到に準備をした、だからこそ心静かに決戦を迎え、その先はこだわらない、そんな気がします。つまりそれまでの日常はこの一番勝負にかけるための助走だったともいえます。しかもその助走は淡々と、日々の修行(メニュー)としてこなしているのです。イチロー的生き方、武蔵流の生き方、少し試してみようかしら・・少なくとも今この瞬間を精一杯生きるというスタンスを学んで。
March 6, 2006
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先日ネットの記事で、イチローがWBCの試合に備えて何とドームのフェンスにどすんどすんと体当たりをして、場外ボールのダイビングキャッチを練習している風景が紹介されていました。普通、練習といえば、基本の練習と思いきや、イチローは確率でいうとほんのわずかな場面を想定して、それに対応する練習をしていたのです。これには驚きました。彼ほどの実力と実績を持てば、余裕で笑いながらフォームの確認とか、調整をするくらいか、と思っていたら、一試合であるかないかの確率を想定してしかも何度も現場で確認しているのです。何と用意周到なこと。イチローは並外れた力と技、そして判断力を持っています。しかし、それにおごることなくはたから見たら求道者のようにどこまでも完成形を求めていくような気がしていました。完璧なバッティング、自分の限界にあくまでも挑むチャレンジャー、そこには人を寄せ付けない厳しさを感じていました。しかし、この万が一の場面の想定練習という記事を見て、彼はある意味とても用意周到な人なのだ、と思ったのです。私たちは良く、「人事を尽くして天命を待つ」という状態を努力の最大値、あるいは目標ととらえます。しかし彼にとって、人事を尽くすというのは目標ではなく、当たり前のことなのかもしれないのです。用意周到にすべての場面を想定して着実にこなしていく、というのは実は世の中で一番大変なことかもしれません。それを難なくこなすから、彼はすごいのかもしれませんが、直感だけにおぼれない、というところが彼の一番すごいところかもしれません。私は今まで直観力とかインスピレーションを大事にしようと思っていました。確かにそれは左脳系だけの考え方よりも、物事の根本に迫る確率は高いのです。しかし、それだけに頼っていると、何でも直感で乗り切ろう、というおごりが出てくるような気がします。直感は自分の無意識から出てくる魔法の力と勘違いすると、自分の中に密かな自信が芽生えます。しかし、その自信が実は曲者です。自信にこだわると、自己を肯定する状態から自画自賛状態になるからです。自分を肯定するということは「ありのままの自分、今の自分」を認めるということです。今自分がどれほどの実力があって、何が足りないかも知ることです。しかし、それを認識することと、自分を過小評価すること、あるいは自分はこんな程度の人間だと気落ちする事は別問題です。今の自分の力を認める、足りないところも認める、そしてそれをOKとする。しかしその足りないところは素直に認めて補おうとする・・それがイチロー選手の「どすん」という練習に相当します。この姿勢は、簡単に努力という言葉では置き換えたくない気がします。あるがままを認める、足りないところは淡々と補う、そこにはもっと自然の流れを感じます。努力、自信、という言葉には、なにか高い目標に向かって揚々と向かう自分へのこだわりを感じます。自分にこだわらないから、どこまでも用意周到にできるのではないか、と思います。
March 5, 2006
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会社の同僚とランチをしながら、空き巣談義で盛り上がりました。彼女の家も一度入られたそうですが、なんと北側の手洗いの格子のついた窓からの侵入だったそうです。格子がついているから安心とは言っていられません。彼女が言うには、人間は頭さえ潜り抜けられれば身体全体は通ってしまうものなのだそうです。さらに彼女の話では、綺麗にしている家ほど、泥棒は勘が働くそうです(笑)。よーし、挑戦してやろう、と意欲がわくのでしょうか。確かに彼らは犯罪者ではありますが、一応プロですから、それなりに身体も鍛え、獲物に対する嗅覚も優れ、そして意外と人間の心理分析にたけているのかもしれません。闇の世界に身をおいているとはいえ、あなどれません。事実今回もわずかな現金と商品券はちゃんと探し当てて持っていきました。あと、これも冗談で話していたのですが、もし入り込んで、たいした収穫がなかったら、これはこれで問題です。せっかくリスクを侵して侵入したのに、成果がゼロでは洒落になりません。逆切れされて放火されたり、床に醤油をこぼしていったり、という例もあります。ということは、少しは収穫物の足しになるようなものを置いておくのがいいのかもしれない、と思ってしまいます。私が子供の頃よく読んだ漫画「さざえさん」には、結構泥棒にまつわる漫画がありました。その中で傑作だったのは、サザエさんの家にしのびこんだ泥棒が、さて、家捜しをしようと思っていたところに、こんちはー、と酒屋さんの御用聞きが集金にきます。あわてて泥棒は、はいよ、といって応対してお金を払わされます。そしてなぜか、次々とその日は集金のとりたてが相次いで、結局全部その泥棒が支払うことになり、「何で泥棒の俺が立て替えるのか」といってしょんぼりする漫画でした。なんともほのぼのとした漫画でした。あの当時は強盗でも滅多に人を傷つけなかったようですし、義理人情というものがまだ伝わる時代でした。今は義理人情どころか、普通の人だと思っていた人間がいきなり「きれて」人を殺してしまったり、しかもその「きれる」原因が、ちょっと無視された程度のことであったり、何か独りよがりの被害妄想的な感じがあります。単に時代が違うと言い切れない要素があるとは思いますが、それだけ人とのコミュニケーションが不足している時代なのでしょう。犯罪の凶悪化を憂いて、これは偏差値教育の大きな弊害だと指摘する人もあり、家庭のしつけのあり方、しいては子供を育てる親の姿勢を問題にする人もいます。しかし、偏差値教育の弊害を受けていないと思われる70代以降の高齢者にも、最近新聞報道では、かなり凶悪な犯罪の加害者になっている例もあります。一つ一つを丁寧に検証していけば、共通の問題点が見つかるか、というとそうでもないかもしれません。ひところ少年犯罪が続いた頃、少年法を改正しようとか、何故小学生に殺人が起きるか、といったことがしきりに論ぜられました。これについて、アセンションを唱えている精神世界の人たちは、犯罪が凶悪化し、地球環境もどんどん破壊されていくのは、地球そのものの地軸、あるいは磁場が急激に変化をしているからだといいます。そしてそれは何でも2012年にピークになるとかで、そのとき人類に浄化が始まるというのです。このアセンションと言う言葉は昨年私は初めて知りましたが、精神世界では常識なようで(笑)、アセンション(これは上昇と言う意味です)に備えるためには、人間は精神的に高いレベルに達して一緒に上昇しなければならず、そのために人格を磨き上げ、徳を積まなければいけないとされています。でもこれって、よく考えたら、宗教でいう世紀末の教えに似ています。つまりある一定の範囲で、選ばれた人たちとそうでない人たちに別れ、選ばれた人たちには特権(地球からほかの星に上昇する機会、キリスト教でいえば天国に入る権利)が与えられる一方で、選ばれなかった人たちは魂あるいは意識ごと消滅してしまうという図式です。今日は空き巣の話からなぜかアセンションに話題が飛びましたが(爆)、世の中いろいろな考えがあるものです。
March 3, 2006
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昨夜我が家にちょっとした事件がありました。空き巣に入られたのです(@@;)。空き巣の被害にあうなんて、今まで考えたこともありませんでした。帰ってみると、ベリイが何だか震えていて様子がおかしく、ふと和室を見るとなにやら押入れが開いて座布団が落ちています。あれっ、今日は地震でもあったっけ、と思いましたが、なにか胸騒ぎがして二階に行ってすべてが把握できました。たんすの引き出しが開けられ、重要なものが入っていると思われる箱類はひっくり返され、大変なことになっていました。そこで、初めて「やられた・・」と思ったのです。一生のうちでまず自分が経験することはないだろう、と思っていたことを実際に経験してしまった気持ち・・ああ、これはパートナーの突然の別れと一緒じゃん、と思ったのですが、しかし冷静に考えると、やはりパートナーのときの方が大変でした。今回は幸い、誰も命に別状もなく終わりました。それが何よりでした。しかし・・です。これが突然空き巣ではなくて強盗かなにかで、家族やペットに危害が加えられていたら、想像もできません。それは恐怖と不安との闘いでしょうし、万が一のことがあったらそれに喪失感が加わるのです。犯罪被害者の方の気持ちというのはおそらく私たちにはわからない、さまざまな気持ちが交錯しているのだろう、とふと感じました。さて今回の事件で、私は物事に対する意味づけが何の役にも立たないのではないか、と感じています。以前であれば、空き巣の被害を被ったのは、よほど何か意味があるに違いない、私はどんな学びをこの体験からすべきなのだろうか、と考えていたに違いありません。あるいは、空き巣に入られて家財は持って行かれたが、この家財は結局は人の手にわたる運命だった、自分がそれを提供する事に意味があった(人に自分のものを提供するという意味で)、これは自分をもっと身軽にせよ、というメッセージだ、とかなんとか、意味付けしていたに違いないのです。今回被害にあったのは、実はパートナーが海外出張のたびに買い求めてくれたアクセサリー類でした。値段の問題ではなく、私にとっては、パートナーの思い出の品です。それを根こそぎ持っていかれたのですから、意味づけを・・といわれれば、それは「もう、パートナーのことは忘れなさい」と言っているのか、はたまた、心機一転何かを始めろというメッセージなのか、と考えるところでしょう。個のカルマを言う精神世界の人から見たら、私の前世は泥棒です(爆)。直接の泥棒でないにせよ、人の財産をとった、あるいは人の愛人をとった(爆)という個のカルマのゆえに、今私は空き巣にあったということになります。ですが、そうでしょうか。空き巣に遭う、ということに一体どれほどの意味があるのでしょう。そこから学ぶとしたら、何を学ぶのでしょうか。突然の出来事、それに喪失感が加わったらどうなる、と想像力を膨らませて、犯罪被害者の会と遺族の会と連携でもとりあって、社会に訴えるのでしょうか。冗談ではありません。大体遺族とか、犯罪被害者とひとたばにくくる事も意味ありません。そんな薄っぺらい気持ちはかえって相手の心に土足で踏み込むだけです。個のカルマについても同様です。いちいち自分の為した行為、しかも現在の自分が全くあずかり知らぬ行為の反作用が、なぜ今ここであらたに清算の対象、あるいは相殺の対象となって忽然と出来事になって具現化してくるのでしょうか。実はこの意味づけには、大きな前提があります。それは「自分がすべて原因で、物事が動いている」ということです。自分の努力、苦労、費やすエネルギーに比例して物事は成就していく、と言う考えです。この考えに基づくと、自分の何かが足りないからその結果としての現象が現れた、とうことになります。確かに私の防犯に対する甘さが今回の事件を引き起こしたのかもしれません。でもそれで私は自分を責めるべきなのでしょうか。猛烈に反省すべきなのでしょうか。そんなことをしたら被害者の私はただ落ち込むだけです。物事に必要以上に意味づけは無用です。今回はただ、せいぜいもっと用心せよ、というくらいです。家に現金とか宝石を置くなといっても、日常使うものに関しては泥棒が探しにくいところに毎日置いておくわけにもいきません。お巡りさんの話では、貴重品(宝石類)でも、泥棒により様々で、価値の高いものだけを物色して持っていく泥棒もいれば、とにかく全部持っていく泥棒もあるそうです。手口というのも様々だそうです。パートナーが亡くなってから、それなりにいろいろな考えを求めて本を読んだり、セミナーに行ったりした話しは何回となくブログに書いていますが、結局、今回の空き巣事件をこれらにあわせて考えると、上記のようになったわけです。意味づけは無用です。しかし物事をしっかり見ることは重要です。そこには反省だとか、悔しさだとか、憎しみといった感情も不要です。それにしても・・ベリイが無事でほんとに良かった・・
March 2, 2006
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特定の人の話ではありません(爆)。前回の自分の好きなこと、やりたいことに囚われる事に関する続きです。そもそも好き、嫌いという感情はどこから出てくるのだろうとふと思うときがあります。人間の視覚、触覚、味覚、嗅覚、聴覚という五感に関して、私たちは好き、嫌いという反応をします。ただ、この反応も、私の年齢になってくるとだんだん変化する場合があるのです。以前あまり好きではなかったり、まるで関心がなかったものが急に気になりだしたりする事が良くあります。味覚という点では、食べ物の嗜好もそれなりに変わりました。変わらないのはコーヒーがダントツで好きというくらいでしょうか。少なくとも五感に関する好き嫌いは、生まれ育った環境(時代を含めて)によるところが大きいと思います。そしてその五感に対する反応の延長として、たとえば好きな学科、好きな本、好きな価値観といった抽象的なものに対する感情の振り分けが出てきます。しかし、これも時と共に、またいろいろな経験を経るごとに変わっていくのが常です。好きな本ということで言えば、ここ1年くらいの間にいわゆる精神世界の本をいろいろ読みましたが、昨年の今頃と今年の今頃では読む本も違っていますし、考え方そのものも随分変わりました。人に関しては、苦手な人というのは確かに存在しますが、その苦手意識自体も微妙に変化しています。以前は、この人のこの行為がいけない、とピンポイントで意識していましたが、今はどうでもいいです(爆)。私が気に食わない方はどうぞ、という風に居直ってきています。(だから、余計に可愛くなくて嫌われるのかも・・笑)。だって私はちっとも悪くないし、同じように相手も別に悪いわけではない、相手が自分に嫌なことを為している、と思うのは自分であって、相手はちっともそう思っていないに違いない、だったら同罪、という何がなんだかわからない理論で、イーブンにしています。なぜこんな事を書いているかというと、好きとか嫌いという感情もまた、囚われることで自分の内面や自意識に過剰に向いてしまうからです。そんなことより、もう少し自分の周りを見ていくと、面白そうな話題、いろいろな出来事にあふれている事がわかります。そういえば、何かの本で読みましたが、胃を健康に保つためには胃に優しい食べ物を食べ続けるよりも、いろいろな食べ物をまんべんなく食べたほうが胃の機能のためにはいいそうです。好き嫌いなく食するということが人間の体にとっても良いそうです。同じ価値観、趣味、嗜好にこだわるのを少しだけやめてみる、というのもいいかもしれません。
February 28, 2006
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仕事運を上げる、お金持ちになる、あるいは起業することをテーマに色々な本が刊行されています。私が以前大好きだった(笑)成功へのハウツーものはいまや書店に行くと目に付きやすいところに山積みにされています。タイトルはさまざまではありますが、仕事、財運、そしてついでに人生の運そのものを良くしようという趣旨は一緒です。それらの本にほぼ共通した前提があります。 それは、好きなこと、やりたいことをやるということです。精神世界といわれる分野でも、好きなこと、やりたいことをやりましょう、と言われます。好きなこと、やりたいことの対極にあるのは、嫌いなこと、やりたくないことです(当然ですね)。嫌いな仕事、嫌いな人、嫌な場所、これらからイメージされる感情は、いわゆる不快な感情です。よく言われるのは不快の感情は、まず本人にストレスを与え、そこから焦燥感、士気喪失、徒労感、ひいては疲労を生じさせ、身体的、肉体的にもダメージを与えるということです。 嫌い、いや(不快感)→いらいら、ストレス(精神的な面に表出)→怒りとして爆発、暴力行為(身体的行動に具現)→不快感といった感じです一方好きなことの場合は、やりたいこと、好きなこと(快)→楽しい、幸せ(精神的にプラス、やる気がでる)→やりがい、生きがい、一体感を感じる、物事が進む(行動がスムーズに運ぶ)→達成感、充実感、幸せ感の喜びのサークルとなります。しかし、今の私にはどうもこのやりたいこと、好きなことだけを追求する方式も物足りなくなってきています。不快の負のサークルにしても、快の喜びのサークルにしても、サークル(循環)ということは、そこで閉鎖された世界を意味します。私が感じたのはまずその1点、それからもう1点は、好きなこととかやりたいこと、というのは自分が今まで経験したこと、あるいは何かで間接的に知っていることだけに限るのではないかという点です。反論として、それならば、できるだけいろいろな人と交流して知識を広げればいいではないか、現在はインターネットで情報を検索するのは容易だ、といいます。しかし、いくら情報量はたくさんあっても、実際私たち一人ひとりがアクセスできる情報は数が知れています。検索するにもキーワードを知らなければできません。仕事一つとっても、自分が思い浮かべるのは、過去に自分が知っている職業です。起業する人は、自分の好きなことからアイデアを発展させるのが原則らしいです。そして起業の成功は、着眼点のユニークさとも言われます。人が今まで思いつかなかった分野、ニッチな分野を探り当てる能力は、自分が好きなこと、やりたいことをやっている人がアンテナを張り巡らすことで身に着くといわれます。しかし、そうはいっても、過去の自分の体験にこだわっている限り、新しい発見は望めないように思います。判り易い例えでいえば、外国に行った先で今までに食べたことのなかった料理が出てきたとしたらどうでしょう。好きか嫌いか、それすらも多分わからないのではないでしょうか。まず食してみて、そこから始まります。好き、きらい、あるいは自分がやりたいことにあまりこだわりすぎると、いつの間にか自分の嗜好、体験だけに裏づけされた過去情報の世界にどっぷり遣ってしまいます。ではやりたくないこと、あるいは嫌いなことまであえて手をつける必要があるのでしょうか。 私が思うに、それでストレスを感じるくらいなら、やらない方が無難です。しかし、このやりたいこと、やりたくないこと、の狭間を埋める言葉があります。 それが、「好奇心」と言う言葉です。好奇心というのは、自分が体験していない未知の分野に対して抱く感情です。 子供から大人まで、年齢や性差、そして個人の体験、環境すべてを超越した感情ともいえます。愛だとか、優しさを人に与える、とか徳を積む、いいことをする、という言葉には、何か自分や他人に対してのこだわりが見え隠れしますが、好奇心に関してはそれがありません。これは多分直感というところに結びついて、自分を手放したところでも引っかかる言葉のような気がします。
February 27, 2006
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今日は「嫉妬」がテーマです。私は今まで人に嫉妬をあまり感じるタイプではありませんでした。ところが最近私はこの嫉妬と言う感情を抱くようになりました。困るのは、この感情は自分で「そんなことはない」と否定しても、何かの折に、ふっと感じてしまうやっかいな感情なのです。嫉妬と言う言葉に近いのが羨望と言う言葉だと思いますが、羨望というのは、自分にないものをもっている相手に対する感情です。私の場合の羨望の相手は、女子高時代n運動ができて格好いいクラスメートでした。彼女は実際下級生のファンが一杯いました。お昼休みになると、教室の外には必ず数名の下級生が彼女を一目見ようと集まってきました(笑)が、それはまるで宝塚の男装スターを見に来るファンのようでした(爆)。彼女は私が全く苦手としていた運動能力、それも並外れた能力を持ち、かつ勉強もできたので私にとっては羨望の的でした。しかも容姿も良く、通学の電車では男子からもてまくったそうです。(彼女は後に北大に現役で入りました)。私の記憶にあるのはそれくらいです。嫉妬というのは、羨望に悪意が入った感情のようにも思えますが、私は違うと思います。嫉妬は自分にかなり伯仲した力や、非常に似た物理的環境を持つ人に対して、その人が自分が望むような立場とか結果を獲得することに対して抱く感情です。ライバル意識に近いものですが、ライバル意識ほど相手を客観的には見ていません。ライバルとは自分と同じ土俵にたつ人です。行ってみればスタートラインが一緒で、一緒にかけっこしている相手に対して、あと何メートル行ったら、抜かそう、とかあと半周したら一気にスパートしよう、という自分の勝負の同伴者です。ところが嫉妬の相手というのは、そうとも限りません。何か突然降ってくる感情のような気がします。今自分が時折体験するこの感情は、一体その正体は何だろうと昨日から考えていました。そして今朝オリンピックで荒川選手の金メダルの演技を見てふと思いました。「私は荒川選手には嫉妬しない・・」(爆)。そうなんです。嫉妬は、やっぱり自分と相手がかなりのところで類似点があって、しかも同じくらいのレベルで、でも相手に運が回って自分のところに来ない、そんな図式の上に成り立つものでした。「私に起こってほしいことが起きないで何であの人ばかりに運(良い結果、成功、機会)がいってしまうの?」という気持ちが今の私の嫉妬の正体でした。と、ここまで分析してみて、私の場合、実は嫉妬というのは相手に対して向かっているのではなくて、自分のふがいなさに対する無意識下での非難かもしれないと思います。「ちゃんと努力しているの?運をつかむようにちゃんと周りを見てるの?」という非難です。それが努力と無縁の、例えば恋愛だったら、「何故自分は彼(彼女)を惹きつけることができなかったのか」という答えのない辛い質問が待っています(笑)。私の場合は、自分の内側に向かっていきましたが、それが自分に対してではなく、相手に対する非難になる場合もあります。悪口を言ったり、相手に直接意地悪をする場合がそうです。で、次に考えたのが、この感情は一体なんで私に降ってくるのだろうか、という点でした。その答えは明快でした。自分がまさに過去にやりたかったことを相手が実践しつつあるからです。それは非常に広義でいえば、人の目にとまる、ということかもしれません。何だかんだ、といいながら、私は結構目立ちたがり屋なのかもしれません(爆)。事実こんなブログを書いたり、遺族の会を立ち上げたり(笑)。思えばこの人前に立つ快感をいうのは、やはりアメリカ留学時代で、学校演劇でミュージカルの舞台に立った頃からでした。正確に言えば、その前から下地はあったのです。私はバイオリンを3歳から始めましたが、そういえば・・毎年発表会の舞台で、小さいながら音楽の世界に浸りきってソロで弾いていた、生意気に目をつぶって弾いていた・・これだったのか、私のルーツは(爆)。さて、こういった嫉妬の感情は、自分の意と反することへの不快感のあらわれです。感情の矛先が相手であれ、相手の成功そのものであれ、あるいは出来なかった自分に対してであれ、そこには、やっぱり「為してやる」という気持ちがあります。もりけんさん流にいえば、自分が原因(=主体)となって物事を為してやる、という気持ちです。つまり、自分というものにこだわるから、言い換えれば自分の能力、環境、運というものにこだわるから、この感情があるのでしょう。過去に何度もこのブログに書いているとおり、私は為すことへの自分、つまり自分を主体とすることの反対側、すなわち、為すことを辞めて流れにしたがう、他力に生きる、ということを目指そうとしてきました。ところが実際の私の感情はまだまだそこに至っていなかったのです。まだバリバリの原因派、しかも社会と言うものを取り込んだ「上位」の世界に対してまだまだ手放せない自分がいました。2月14日のブログで告白して離れていくはずだったのに・・(爆)。しかし、こうやって考えると、こういう無意識の感情は大事です。自分が気がつかない意識で、今の自分の状態を教えてくれます。今回もまた、私はしてやられました、何にって、さあ、何でしょう、しかし、「してやられた」、と言う感情は残ります(爆)。ほらみたことか、お前はまだこだわっているぞ・・と。こだわりはそう急には抜けないものらしいですが、こうやって徐々にならしていくしかないようです。360度の視野を持つ、ということは、自分が獲得した視野を一旦忘れる、という作業も入るのだと何となく感じました。そして嫉妬の対極にあるのが、好奇心だと思います。次回から、好きなこと、やりたい事、好奇心といったことを書いていこうかと思っています。
February 24, 2006
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