老師の言葉 0
全709件 (709件中 1-50件目)
バタバタと日が過ぎていく。引っ越しまであと10日ほど。こんな68歳とは思わなかった。どんな想像をしていたのだろうか。あまり先のことは考えてなかったな。その場しのぎの人生。行き当たりばったり。23歳のときに、ジョージ秋山さんの『浮浪雲』というマンガを読んで衝撃を受けた。こんな生き方がしたいと思った。流れる雲のごとく生きる。風まかせ。あの主人公のようにはいかないけれども、けっこう流れてきたと思う。よくぞここまできたものだ。60代が終わって70代になって、はてさて、どんな日々が待っているのだろうか。何も考えてないようで、上手に立ち回っているのではないかと、このごろ思っている。流れていると、いいタイミングでチャンスが訪れる。「こんなことしたい」ぱっとひらめくことがある。それまでの考えを捨てて、ひらめきの方向に進む。これがポイントだ。たぶん、このあたりにかけてはなかなかの才能だ。いわゆる成功する人というのは、ぼくのひらめき行動にプラスして、この世的な計算も働く人だ。ぼくは、お金持ちになろうとか、有名になろうとか、もう考えなくなった。困らない程度のお金があって、好きなことをやって、10人くらいの人に喜ばれたらいいと思っている。それくらいのことなら、ひらめきに従って生きていればいい。引っ越しは大変だけど、このあとは、これまで以上に気楽に生きようと思っている。気楽と言っても、隠居生活をする気はない。現役で働き続ける。適度にお金も稼ぐ。働き方、稼ぎ方は変わるけれども。いい70代に向かっていると思う。
2024年09月20日
コメント(0)
今夜は仲秋の名月。子どものころ、団子やススキを前に、月を愛でた記憶はないが、仲秋の名月は意識していて、きちんと夜空を見上げたような気がする。田舎だったから、月もきれいだったと思う。宇宙の神秘へのあこがれもあった。大人になってからは、満月だろうが、三日月だろうが、別にどうでも良くなった。目の前のことに夢中で、遠いかぐや姫の世界とは無縁だった。年を取って、月へのリスペクトが戻ってきた。ぼくは月は遠くから見ているだけで満足だ。でも、行ってみたい、月面に立ってみたいという人もいる。面白いものだ。富士山も、山梨へ越してからは毎日のように見ている。朝起きて、玄関を出ると正面に富士山が見える。思わず「ありがとうございます」という言葉が出る。この富士山とも、半月もすればお別れだ。ぼくは見ているだけで満足。だけど、登ってみたいという人がたくさんいて、夏の富士山は大混雑のようだ。今夜はお月様に手を合わせて、感謝をしよう。
2024年09月17日
コメント(0)
大相撲。この間は、大関琴桜と平幕の王鵬との対戦があった。琴桜は祖父が横綱琴桜、父親が関脇の琴ノ若。王鵬は、祖父が横綱大鵬、父が関脇貴闘力。力士としては超一流のDNA。大関の豊昇龍も叔父が横綱朝青龍だ。ほかにも、若元春、若隆景の祖父、父も力士だった。幕下には、黒姫山という懐かしいしこ名もある(元関脇黒姫山の孫)。プロ野球では、長島茂雄さんの息子の一茂さん。最近では、清原和博さんの息子がプロ志願届を出したということでニュースになっている。しかし、相撲にしろ野球にしろ、スポーツの場合は、いくら親がすごくても、自分に実力がなければ大成できない。親の七光りが通用しない世界なのだ。そう言えば、政治の世界も世襲議員がたくさんいるが、彼らの実力はどう計ればいいのか。昔の政治家がすばらしかったのかどうかは疑問だが、何だか、総理大臣になる人が小粒になった。新しい総理大臣になる自民党総裁候補も、世襲議員を含めて、数だけは多いが、さてさてどこまでやれるのか。天災が頻発し、戦争、紛争も絶えない。感染症の恐怖も消えない。経済もガタガタきている。もうあとがない。日本のため、世界のためにがんばれる人が出てこないと。政治家のDNAというのは、本来、国民を幸せにするためというもののはず。全開にしてほしいものだ。琴桜や王鵬が横綱になる前に、政治家の本当の実力を見せておくれ。
2024年09月16日
コメント(0)
ある人に言われてハッとした。どんな人でも、自分の人生においては主役であるべきだと言うのだ。その通りだ。しかし、自分の人生であるにもかかわらず、脇役でいようとする人がけっこういる。自分がどう生きるかは自分で決めればいい。なのに、大人になっても親のいいなりだったり、やりたいことを我慢する。できないことを人のせいにする。みんながやっているからという理由で行動を決める。それでは気持ちがどんどん窮屈になってしまう。いい人生が送れるはずがない。ただ、今の自分の考え方や生き方は、親の影響を大いに受けている。社会の影響もあるということを念頭に置かないといけない。人間が社会的な生物である限り、仕方のないこと。まわりの影響はどうしようもない。よく「本当の自分」という言い方をするが、本当の自分がなにかはわからなくて当たり前。「これが本当の自分だ」と自信をもって生きている人がいてもいいが、そういう人とは、ぼくは話が合わないと思う。ぼくが大切にしているのは、自分の思考のパターンとか、行動の決め方とか、ひょっとしたら何かの影響でこうなったのではと考えてみること。たとえば、ぼくはこれから生まれ故郷である鈴鹿で暮らそうとしている。この判断には、ひとつには流れがそうなっているという自分の判断があり、もうひとつには小原田家の長男として、両親から言われ続けたことも影響している。もっと言うなら、ご先祖様の思いも関係しているだろうと思う。舞台は同じ小さな村であっても、ご先祖様、両親と同じことがぼくにできるわけではない。しかし、ぼくにしかできないこともあるはずだ。それを最後の仕事にしたいと思っている。ぼくにとっての、自分が主役の人生となるはずだ。
2024年09月14日
コメント(0)
面白い夢を見た。お米の夢。ある人と特殊なお米のお店へ行った。お米を加工しているお店。何が特殊かというと、あるものをお米に混ぜるのだ。何を混ぜるのか。これがすごい。生れて間もない赤ちゃんのウンチ。赤ちゃんの腸内細菌は、とてもバランスが良くて、いいウンチが作られている。それを混ぜることで、食べた人の腸内環境も良くなるのかも。お米の味はどうなのか。娘たちが赤ん坊のときに思ったことがある。こいつらのウンチを牛乳に入れればいいヨーグルトができるのでは。実際にはやらなかったが、いいアイデア? だったかもしれない。ただ、今の妊婦さんは、羊水が汚れているという話もある。胎児は、汚れた羊水を飲んでいるので、腸内細菌も乱れているかもしれない。ウンチは汚いと嫌われているが、見えないから平気でいられるけれども、ずっとお腹の中にあるわけで、出なかったら大変なことになる。本当はウンチに愛しさを感じないといけないんじゃないか。ウンチだけでなく、体をいたわらないといけない。しばらく前まで、胃が痛かった。食事時間が不規則だったり、空腹でもないのにお腹に詰め込んだり、間食したりと、胃に負担をかけたと思う。ここ1ヵ月、注意していたら痛みは消えた。体は、24時間365日、黙々と働いてくれている。ありがたいことではないか。それも大病することもなく、68歳の後半までがんばってくれた。起きたとき寝るときくらい、「ありがとう」を言わないと。食べるお米と出すウンチ。「体をいたわりなさい」というメッセージかな。
2024年09月12日
コメント(0)
「お前の言うてること、だれが聞いても大笑いするわ。夢みたいなことばっかや。近所の人には言わんといてな。私が住めんようになるから」実家へ帰るたびに、晩年の母によく言われた。自分としては、たいそうなことを言っている自覚はなかった。たとえば、「農薬や肥料を使わなくても米や野菜はできる」「お金第一の世の中はそのうち終わる」「食べるものや電気は自分で作らないと生きていけなくなる」「若者たちが田舎志向になる」「薬で治らない病気がどんどん増える」「大病をして人生が変わり、病気に感謝している人がいる」「氣のような目に見えない世界がますます大切になってくる」「100歳まで生きたいという気持ちはあってもいいけれども、いつ死んでもいいという覚悟を決めて生きる方がもっと大切や」「平穏無事ばかりを願うのは心配や不安を生み出す。とにかく、平穏無事なんて人生はどこにもないのだから」80数年、狭い世界で生きてきた母親にしてみれば、ぼくの言っていることは、危険思想に思えたのかもしれない。母に限らず、ぼくがあれこれ言うと、「そうは言うけど・・・」「理屈はそうかもしれんけど・・・」そんな反応が多い。ぼくは思っている。あと何年生きるかわからないが、残された人生、口先だけで生きるのはむなしいではないか。はったりなど時間の無駄だ。お金のためだけというのも寂しい。人を疑うのももういい。ていねいに、誠実に生きたいと思う。そして、自分の心に、魂に、これでいいのかと問いかけながら、理想を忘れず、現実に流されず、まっすぐに進んで行きたいものだ。
2024年09月09日
コメント(0)
田舎生活も丸4年になろうとしている。今、山梨県甲州市から三重県鈴鹿市に拠点を移そうと準備している。鈴鹿はぼくの故郷。高校3年まで住んでいた場所だ。実家があるのは、20軒ほどの小さな村。高齢者ばかりの、いわゆる限界集落だ。両親もいなくなり、兄弟も先に亡くなった。実家には、次女が動物たちに囲まれて住んでいる。ヤギが6頭、犬が4匹、ネコ1匹、烏骨鶏3羽、ちゃぼ1羽。車で数分のところに借家を借りた。ぼくと妻と長女が住む。どんな生活になるのか。午前中はヤギの世話と畑仕事。竹やぶもきれいにしないといけない。肉体労働で汗だくになってからランチだ。できたら午後は原稿を書く時間に当てたいのだが、山梨の経験からすると、午前中でクタクタになってしまうだろう。昼寝をして、ダラダラとパソコンに向かう。しばらくはそんな日が続くのではないか。70歳を前にして、また暮らしが変わる。「これをやった」と自慢できるもののない68年だった。これからも同じように、こんなことしたいと思ったことをやって、うまくいけば万々歳で、また違うことにチャレンジして、ダメなら仕方ないと次を探すといった生き方だろうと思う。鈴鹿に越したら、まずは裏の畑を借りて、そこをヤギの放牧場にすることから始めたい。日陰もあるし、良質の草がたくさん生えるし、ヤギたちにとっては快適な場所になるはずだ。
2024年09月07日
コメント(0)
世の中、どんどん暗い方向に行くけれども、文句を言っても、愚痴っても、嘆いてみても仕方ない。ぼくはとりあえずは、自分が面白い、楽しいと思うことをやるつもりだ。たとえばヤギを飼うこと。1頭目がやってきて3年になるか。今は6頭のヤギがいる。彼らの世話には、なかなか労力は必要だ。いくら大事にしても、彼らがお金をくわえてきてくれることはない。でも、あいつらはとてもかわいくて、今ではぼくの生活になくてはならない相棒たちだ。あいつらがいかに快適な暮らしができるか、を考えるのは楽しい。裏の畑を借りて、そこに柵を作って放し飼いをしてあげようと、頭の中でイメージする。とても面白いし楽しい。ぼくには大した技術はないのだけれども、見よう見まねでチャレンジするのも、やりがいがある。イメージ通りに出来上がったら、それはうれしいし、ヤギたちが、その中で喜んで走り回ったり、草を食べてくれれば、最高の楽しみだ。果樹栽培は3年やった。スモモはうまくいったが、桃は失敗ばかり。4年目は、新しい木を植えようと思う。そう言えば、亡父も4本くらい植えたことがあった。貧弱な桃だったけれども、実ったときはうれしそうだった。ぼくは、父を超える桃を作る自信がある。これも楽しみだ。もう一つの夢が家を建てること。住いというよりも、ヒーリングハウス。カフェもドッグランもヤギ牧場も併設されていて、特殊な素材を使って、昔ながらの建築法で作る。そこに入るだけ、近くにいるだけで癒される場を作るのが夢。お金もかかるし、簡単なことではないが、夢を見るのは自由だから、思う存分イメージしようと思う。明日、人類が滅亡しようとも、ぼくは面白おかしい、楽しいことをやっていきたい。世界が暗闇に閉ざされようが、心の中の小さな灯りは消えないようにしないと。
2024年09月03日
コメント(0)
今は亡き師の言葉を思い出した。「一歩は進み過ぎ。半歩前がちょうどいい」しかし、ぼくから見れば、師は世の中の10歩も20歩も先を行っていた。半歩とはどういう意味だろう?ときどき気になっていた。あるとき、「ああ、そうか」と合点がいった。世の中の一歩、半歩先ということではなく、自分の身の丈の半歩先ということではないかと気づいたのだ。ちょっとだけ歩幅を広める。それだけで、思ってもみなかったことが起こってくる。大事なのは、自分の身の丈を知ること。本を読んだり、講演会を聞いたり、ネットで見たものは、参考にはなるが、自分の身の丈を知らないままやろうすると、転んでしまう。ただ、ぼくも何度も転んだけれども、転ぶことで身の丈を知ることができるわけで、転ぶことも大切だ。転んで、「ああ、自分はダメだ」と落ち込むのではなく、自分がどれだけのことができるかを知る、いいチャンスととらえた方がいい。本に書いてあること、講演ので聞くことは、普通の人にとっては、数歩先の話だし、本当に著者や講演者がやっているとは限らない(だいたい、盛って書いたり話してる人が多い)。もうちょっとハードルを下げて、自分にとっての半歩を探すことだ。そのことに気づいて、ぼくは気持ちが楽になったし、やれることも増えてきた。
2024年08月31日
コメント(0)
台風10号、九州で大きな被害があって、このあと、どこへ進んでいくのか。雨もすごい。ぼくが住んでいる山梨県は、今のところときおり強い雨が降るくらいで、大したことはない。それにしても、新幹線や飛行機が止まり、日常ではない日が続く。大地震もそうだし、台風、大雨、それに火山噴火や原発事故、テロ、感染症、食糧不足など、いろいろな「災害」がこれから頻発するので、その予行演習をさせられているような気もする。これを機に、対策をとっておくこと。心の準備をしておくこと。生活そのものを変えることも大切だ。台風が過ぎて良かったで終わるのではなく、この大きなマイナスを、プラスにつなげていく。そう心がけたい。
2024年08月30日
コメント(0)
縁というのは不思議なもの。昨日、真氣光の中川会長の対談企画で、八木澤高明さんというノンフィクション作家にお会いした。八木澤さんにつながったのも縁から縁へという感じだ。10年近く前になるが、帯津良一先生の本の関係で文藝春秋の編集者と打ち合わせをした。ずいぶんと気が合って、「飲みに行きましょう」ということになった。彼の行きつけの銀座のスナックへ行った。そこに、偶然、彼が担当する作家がいた。それが早坂隆さんというノンフィクション作家だったのだ。ぼくよりのひと回り以上年下だったが、ベストセラーをたくさん出している優秀な作家だ。人見知りのぼくでもすぐに親しくなれるタイプの人だった。その上、ママさんがイルカ好きという偶然も重なった。早坂さんも見えない世界のことに興味があって、小さなお店は大いに盛り上がった。数年後、中川会長が早坂さんの本を読んで、対談してみたいと言い出した。ぼくが早坂さんと飲んだことがあるなんて、中川会長は知らない。すぐに早坂さんに連絡をして、対談が実現した。そこから7年がたった。早坂さんがFacebookに『忘れられた日本史の現場を歩く』という八木澤さんの新刊を紹介していた。大学の同級生だったとのこと。ぼくは、このタイトルを見て、「中川会長と対談したら盛り上がる」と直観で思った。真氣光の大事なテーマのひとつにご先祖様がある。ご先祖様がいてこそ、今の自分はいるわけで、それも大変な時代を、厳しい状況の中をがんばって生きてきた人がたくさんいたはずだ。今の自分があるのは、そうした苦難の歴史があってのことだ。そして、そのほとんどの人は、まさに「忘れ去られて」いるのだ。苦労を重ねたご先祖様に感謝すること。それが自分が幸せになる根底にあるのではないか。対談は楽しかった。対談がひと通り終わって、3人で雑談していたときのこと。ぼくの故郷の話題になった。「三重県の鈴鹿市なんですけど」「えっ」「・・・」「実は、うちの祖母が鈴鹿市の生まれで」「鈴鹿市のどちらですか?」「住所はわからないのですが、最寄り駅は近鉄の白子です。鈴鹿サーキットの近くで、いつもバイクの音がしていたと言っていました」「ぼくの実家もサーキットの近くです」「名字は金丸と言いました」「金丸だと、ぼくの中学時代の同級生にもいました。三宅という集落に多かったんじゃないかな」「そうそう思い出した。三宅ですよ」そんな思ってもみない展開になったのだ。ぼくは、こういう偶然が大好きで、ご先祖様が引き合わせてくれているのではと思ったりもする。あのときの出会いが、ここにつながってくるのかと、縁の不思議さに頭が下がる思いだ。まだまだぼくの人生は面白いぞ。ワクワクがまた始まった。
2024年08月28日
コメント(0)
東京の雨がすごかったらしい。Xで見てびっくりしたのだが、ぼくも昨日は15時ごろから19時30分ごろまで東京にいた。仕事を終えて、池袋から新宿へ行こうとしたら、山手線が止まっているではないか。人身事故かなと思って、埼京線に乗ったわけだが、車内放送で「大雨のため」だということを知った。それに、山手線が止まれば、埼京線の電車は超満員のはずなのだが、ガラガラだった。駅までたどり着けない人がたくさんいたのだろうか。新宿から特急で山梨に帰る車内で、大雨のことは知った。それもとんでもない大雨。ぼくが新宿駅にいたころ、構内の雨漏りが大変だったらしい。ぼくは、ずっと屋内での仕事だったし、新宿駅でも埼京線のホームから階段を上って、南口のコンコース経由で中央線のホームに移動したので、まるで気がつかなかった。不思議なものだと思う。あんな豪雨だったのに、人と楽しく話をし、おいしいものを食べて、お酒を飲んでいたわけだ。雨のことは、ほとんど知らずに帰ってきたのだ。こういうとき、「守ってくださっている」と感じる。何か見えない力が、臆病者のぼくが怖がらないようにと、安全な場所に導いてくれているのではないか。ありがたいことだ。ていねいに日常を観察していると、いろいろな場面で、「守られている」という状況があるはずだ。たくさんの「守られてる」を見つけ、小さなことであっても、大袈裟なくらいに感謝する。そうすることで、運が集まってくるものだと、ぼくは信じている。
2024年08月22日
コメント(0)
どういうわけか、閉塞感が抜けない。不満とか不安があるわけではない。とても平凡で穏やかな日々なのに。平凡で穏やかだから心が詰まるのか。孤独なんだろうか。そんなことはない気もするが。東京を離れて4年になる。何となく生活がマンネリ化している。だいたい、妻以外の人と会話をすることがほとんどない。家にこもっているのではなく、どこかへ出かけて行けばいいのに、それもおっくうだ。ヤギたちがいたころは、午前中は草取りが日課だったが、「あいつらのため」という動機づけがあった。今は、借りていた畑を返すために、ひたすら草刈りに励んでいる。草刈り機の音と振動。刺激はこれだけ。だれかの、何かのためになるというものがないと、なかなかエネルギーが湧いてこないものだ。そういう意味では孤独かもしれない。田舎暮らしでの刺激は、待っていてもなかなかやってこない。都会だと、欲しくもない刺激がずかずかと押し寄せてきたりする。これも疲れる。刺激は、自分で上手に作り出すことで、身になっていく。変化する時期かもしれない。
2024年08月21日
コメント(0)
Xに流れている動画を見ていると、動物に関するものがたくさんなって、ほんわかした気持ちにさせられることが多い。親ネコが子ネコを助けたり、犬とネコが仲良くしていたり、動物が人間と同じ行動をして笑わせてくれたり、こいつら、人間と同じ感性をもっているやんと感心させられたり。人間がなくしてしまったやさしさや思いやりを感じさせてくれる。ぼくは思った。人間のエゴによってエネルギーが低下した地球。その影響で、さまざまな天災が起こっている。意識や行動を改めないと、地球は破滅へと向かっていく。この流れを止めるためにはどうしたらいいか。人間の意識のエネルギーを高めていかないといけない。しかし、さまざまな警告が出されているにもかかわらず、自分たちの利益のために平気で戦争をする人間。人間を変えるのは難しい。そこで、この世を作った何者かは、人間に近い動物たちの意識にアクセスしているのではないか。彼らはとても素直で、何が大切かを、行動で示してくれる。人間の子どもも純粋で素直なのだが、すぐに大人に毒されてしまう。動物たちの意識を高めることで、人間が大事なことに気づいていく。まどろっこしい方法だが、そうせざるを得ないところまで追い込まれてきている。13年前、東日本大震災という大変な出来事があり、福島第一原発の大事故は、日本が破滅する寸前まで、ぼくたちを追い込んだ。しかし今では、当事者の人たちは違うだろうが、多くの人たちは、あのときの衝撃を忘れたかのように、自分さえ良ければいいという、一時的な快楽に埋没してしまっている。大地震は嫌だ。津波も嫌だ。戦争も原発事故も勘弁してほしい。病原菌、食糧難も怖い。それなら、どうすればいいの?考えて行動しないと。ぼんやり生きているうちに、世の中はどんどんおかしくなっていく。
2024年08月19日
コメント(0)
一週間ほど前に未来から来た人が8月14日に南海トラフ地震があると予言しているとの話を聞いた。ネットを見たら、その話に関する情報がいっぱい出ていた。 びくびくしながら14日を過ごした。結局、大きな地震はなかった。 ホッとしている。 あれは、とんでもないデマだったのか。 ぼくは、時空を超えて未来の人が現代に来るという話は否定しない。 そんなこともあるかもしれない。 ただ、不確かなことをあまり声高に言ってしまうと、すべてが当たればいいけれども、今回みたいに外れてしまうと、本当に未来から来た人であってもウソつきにされてしまう。 よく量子力学では、量子は観察された途端に動きが変わってしまうと言われる。量子という極小物質は、まわりのわずかなエネルギーの影響を受けて変化するものなのだろう。 現実というのが、量子の動きによって作られているとして、8月14日に大地震があると予言されたら、多くの人の意識が変わるわけで、そのエネルギー変化が量子を介して現実の現象に影響を与えるなら、予言された途端に未来が変わってしまうということになる。 アメリカインディアンのホピ族の預言では、人々の意識が変化すれば未来は変わるとされている。 人間が物質を神様とする生き方をしてきた結果、歪んでしまった世の中を浄化する現象が起こってくるとされている。浄化というのは、人間が腐った物を食べたときにはおう吐したり下痢をするのと同じように、決して心地いいものではない。地震かもしれないし、戦争かもしれない。 でも、今、人間も物質よりも大切なものがあることに気づき、行動を変えることで、浄化の形は変わってくると言うのだ。 「予言」は絶対的なものとして語られるけれども、「預言」はそのときのエネルギーによって変わるもの。特に、人間の意識のあり方は大きいのだろう。 絶対的な未来はない。 あくまでも今が未来を決める。 こういう考え方は好きだな。 つまり、予言は予言された途端に変わってしまう。 タイムトラベラーは、未来を変えてはいけないと言うけれども、タイムスリップしたことによって、未来は変わってしまうものなのではないか。 パラレルワールドという考え方もある。 空間や時間というのは、ぼくたちが考えているほど単純なものではない気がする。
2024年08月17日
コメント(0)
九州で大きな地震があり、気象庁から南海トラフ大地震の危険性が高まっているという臨時情報が出された。テレビでも盛んに注意を促している。地震の場合、台風情報とは違って、不確定な部分が多く、いつ何が起こるのか、どうしていいのか、戸惑うことが多い。家具を固定する。水や食料を用意する。ハザードマップをチェックする。避難所の場所や家族との連絡方法を確認しておく。今まで言われていたきたことを、もっと徹底してやるしかない。大事なことだから、これを機にチェックしたいと思う。しかし、いくら準備をしても、地震への不安は募るばかりだ。特に、一人暮らしの人は心配や恐怖に押しつぶされそうになっているのではないか。こういう不安の時代には、地域の人間関係がとても大切になってくる。一人よりも二人、二人よりも三人。人が集まって、励まし合い、慰め合う。食べ物を持ち寄ったり、これからどうするかを話し合う。そういうつながりが、心を落ち着かせ、適切な判断を呼び込むことになる。都会は人間関係が希薄だと言う。しかし、今では田舎でもだんだん、人と人との距離が離れている。それぞれ考え方が違うので仕方がないことだけれども、違いを超えて、協力し合って生きるのが、人間の知恵というものだ。災害はないに越したことはないが、災害によって、きずなが強まることもある。マイナスをプラスに転化できるのも人間の知恵だ。2011年の東北地方はじめ、今年の能登や九州。さらには水害もたくさんある。被災された方は大変だったと思う。心からお見舞いしたいし、明日は我が身と、気持ちを引き締めて暮らしたい。
2024年08月09日
コメント(0)
経済状態が激震だ。株価が大暴落したと思ったら、また大幅に値上がりした。損した得したという話だけでなく、資本主義が大きな転機にきているのではないか。資本主義がなくなるわけではないだろう。お金が絶対神とされてきた資本主義から、もっと価値観が多岐にわたる資本主義。お金を絶対として、必死になってお金を稼ぐ人たちもいるだろう。それはそれでいい。同時に、適度にお金を稼ぎながら、気の合う仲間が助け合って生きるようなコミュニティが作られる。それもいいじゃん。すごい教祖のもとで、狂信的に生きる人たち。それも仕方ない。お金なんかいらないと、世捨て人的な生き方をする人もいてもいい。不平不満、愚痴だけを言って一生を過ごす人もいるだろう。口先だけの人たち。大抵の人はここだな。多様な考え、生き方のもとで、自分なりの道を選んでいけばいい。確実に世の中は変わっている。変化を敏感に感じ取って、上手に波に乗っていかないと。
2024年08月06日
コメント(0)
「お前の言うてることは夢物語ばっかや」亡くなった母によく言われた。「現実を見なあかん」亡父の口癖だった。両親にとってみれば、ぼくの生き方は、根無し草、地に足がついてないように見えたのだろう。そういう部分は間違いなくあったと思う。だけど、70歳近くなった今まで夢物語を生きてこられたのは、とても良かったと思っている。40年以上前、会社勤めも2年、3年しか続かず、いきなり文章を書く仕事をすると言って東京へ出て行った息子。当時28歳。同年代のほとんどは、家庭をもって安定した生活をしている。わが息子だけが、夢みたいなことを言って、30近くになって東京へ出て行った。心配だったことだろう。大丈夫やろかと思いながら亡くなっていった両親。そんな両親の不安をよそに、ぼくは今でも「夢物語」を生きている。新しい夢物語の始まりは、自然栽培で野菜や米を作って、電気も自給すること。野菜はまだ畑を整備している途中。米は、半反だけ進めている。電気はソーラーシェアリングで電気代ベースでいけば、自給できていると思う。と言っても、ぼくがやっているわけではない。野菜や米は、次女ががんばってくれている。近頃、キッチンカーの出店も増えてきて、もうこれ以上は頼れないだろう。まだ体は動くから、ぼくがやらないといけない。心していることがある。今の段階では、なるべく人を巻き込まないようにしようということ。ある程度の道筋ができるまでは静かに進める。そうしないと、まわりを振り回すだけで、何もできずに終わってしまう。あれこれやってきて、痛感していることだ。今回は、あくまでも主役は自分ということで、せっせと汗を流そうと思っている。これまでの夢物語は、自分にとってはなかなかのものだったが、もう一段、レベルアップした夢にチャレンジするつもりだ。夢はチャレンジするためのもので、実現するしないは気にしない。夢を見られただけ幸せな人生だったということで、ぼくは満足だ。ただ、やれることはやらないと。今日も汗を流して草刈りをした。とてもいい気分だ。
2024年08月01日
コメント(0)
この間テレビを見ていたら、ある老夫婦がカルガモの赤ちゃんを拾って育てたという話を紹介していた。海外での話。夫は膀胱がんで何度も手術をし、妻も難病で体が思うように動かない。夢も希望もない中で、惰性で暮らしている夫婦。見かねた息子が父親を釣りに連れ出した。仕方なくついていった父親。釣り場で親からはぐれたカルガモの赤ちゃんを見つけた。家へ持ち帰り、妻と一緒に育て始めた。かわいくて仕方ない。まるで子どもか孫のようにかわいがった。大きくなって自然に放してあげることにした。かなしい別れだ。「さみしいけど仕方ないね」また、夫婦2人の生活になった。ところが、あるとき、庭にあのカルガモが帰ってきたのを見つけた。それも子連れではないか。以来、毎年、小さな子を連れて、カルガモは帰ってくる。そして、しばらく夫婦の庭(池まで作った)で過ごすのだ。2人の生きがいになった。すると、夫のがんが消えてしまっていることにわかった。妻も体調が良く、まったく苦痛がなくなった。カルガモの存在が影響したのは間違いない。人体に秘められている自然治癒力の正体に近づく、いい例だと思う。芸人の司会者が、「動物には癒しの力があるんですね」と締めていたが、そんなレベルではなく、なぜがんが消えたのかを、研究する医学者が出てきてもいいのではないか。物資的、肉体的な治療ばかりではなく、心のあり方が、治癒に深くかかわっているはず。そこを追求してもらいたいものだ。
2024年07月28日
コメント(0)
7月29日は2年前に亡くなった母の命日。段ボール箱に両親の日記が残っている。日々の生活を簡単に綴ったものだが、その中に、鉛筆で書きなぐったような母のメモがあった。自分が亡くなったあとのこと。ぼくにやってほしいことをまとめていたようだ。80歳を過ぎて、夫を亡くし、まさかの娘、息子の死(ぼくの妹と弟)。長男のぼくは、東京暮らし、山梨暮らし。母は、一人ぼっちになって不安だったのだろうと思う。メモには、自分を無縁仏にしないでほしいと何度も書いてあった。弟が亡くなったときに、立派なお墓を作った。弟の供養と死んだあとの自分の居場所と考えてのことだっただろう。しかし、だれもいなくなったら、花も供えられず、草に覆われてしまう。そんな未来はつらかったのだと思う。2年前の朝、布団の上で意識不明になっているところを発見された。病院へ運ばれた。脳出血だった。しばらくして意識は戻ったが、ぼんやりしている状態。山梨まで介護タクシーで移動して、我が家の近くの病院に入院。しばらくして介護施設に入り、そこで亡くなった。正気に返った瞬間が3度あった。亡くなる2日前、一方通行であったが、ゆっくり話ができた。ぼくの言うことはわかっていたと思う。ベッドに横たわる母の目から涙がこぼれた。その後の実家だが、次女の氣恵が住んでくれるようになり、仏壇にもお墓にも、きれいな花が供えられている。ありがたいことだ。ぼくはいま、鈴鹿に来ている。ヤギが6頭、こちらへ移ったので、世話をするのがぼくの仕事。汗だくになって、あいつらのご飯(草や葉っぱ)をとっている。本当はもっと早くに山梨に帰るつもりだったが、いろいろ用が重なって、まだこちらにいるわけだ。そのおかげで、母の命日には、お墓参りができる。朝、お墓に行って、お線香をあげて手を合わせてから、山梨に帰ろうと思っている。次女のおかげで、たぶん、母が望んだ以上のことが、今はできているだろうと思う。心配症の母だったから、満足しているかどうかわからないが、こんな展開になるとは、母としてもうれしい誤算だっただろう。次女は、自分で決断したこととは言え、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さんのためという気持ちもあったと思う。もっと自由に生きてもいいのだが、無意識のうちに、ぼくがプレッシャーをかけてきたのかもしれない。ご先祖様を大切にしたいという次女の気持ちは、本当にありがたい。ご先祖様にも伝わったやずだ。応援してくれると思う。あとは、やりたいことをやって生きるということにフォーカスして、思う存分、自分の才能を生かしてもらいたいものだ。この村のことは、お父さんに任せればいい。ぼくは、外の世界で思いっ切りやりたいことをやってきた。今度は、実家をベースに好きなことをする。お父さんが死んだら、そこで、この村の物語はジエンドにすればいい。3人の娘たちは、それぞれが自分たちの物語を編んでいっておくれ。それで、ぼくの父母たちも喜んでくれるに違いない。だれもが、こう生きたいという思いをもって生まれてきた。その思いを実現することが、ご先祖孝行であり、親孝行だ。
2024年07月27日
コメント(0)
ぼくはスポーツを観るのが好きで、この間はボクシングを楽しんだし、ラグビーのテレビ観戦では悔しさとため息だった。もうすぐオリンピック。ぼくの中ではもうひとつ盛り上がらないが、テレビをつけると、たまたまバスケットボールやバレーボールの特集をやっていて、普段はあまり見ない球技だけれども、劇的なドラマがいっぱいあって、オリンピックでは日本代表を応援したくなった。スポーツというと、ぼくは10年くらいラグビーをやっていた。だけど、生まれつき、運動神経が鈍いため、ずっとへたくそなまま。まじめに走るので試合には出してもらえたが、ボールをもっても、ひたすらパスをすることに専念し、たまに自分で仕掛けても、ただまっすぐに走るしか能がないので、すぐに倒される。タックルに行っても、簡単に外されてしまい、地面に寝転がって、相手の背中を目で追う。下手の横好きで、草ラグビーチームを作って、試合をやったり、合宿もした。30歳を過ぎて試合でひざを骨折。それ以来、もっぱら観戦ばかり。スポーツを観るのが好きなのは、運動ができる人間へのあこがれがあるから。そもそも、何事に対してもストイックになれない。スポーツで一流になるには、生来の運動神経に加えて、寝食を忘れて練習をするストイックさが必要だ。スポーツに限らず、ストイックに何かに打ち込むのは、ぼくにはない能力だ。自分にないものをもっている人は魅力的だ。70年近く、そういう強烈なエネルギーもなければ、ストイックに物事に取り組む、興味、執着もなく生きてきた。それでいいのかと思うこともあるが、ずっといい感じで生きてきたのだから、ぼくの持ち味と言えば持ち味なのだろう。ストイックに何かに打ち込める人は、そうすればいいと思う。でも、ぼくみたいに、意思が弱くて、何でも途中で投げ出してしまう人の方が多いだろう。できない人がやろうとすると、ネガティブなことに巻き込まれることが多い。ぼくは、ストイックでなくても何とかなるよ。満足できる何十年かが送れるよという、お手本になりたいと思う。10年か20年か、何をやっているのか、何がしたいのか、まわりも本人もわからないのに、あれっ、こんなことできたじゃないかというお手本。そう、これでも本を30冊近く出している。簡単にできることではない。別に、文才があるわけでもなく、努力したわけでもなく、何となくできちゃった。人に恵まれ、機を見るに敏な感覚と、ここぞというときに動ける行動力があった。それだけのこと。こんな人生もありだと思う。これからも、ストイックさは求めず、今までみたいに生きていくか。パリオリンピックも、涼しいところで観戦しながら、ああだ、こうだと、好き勝手を言っていたいと思う。
2024年07月23日
コメント(1)
これはイメージだけど、ドジャースの大谷。彼は、使いきれないほどのお金をもっているけれども、あるとき突然、野球がなくなり、お金が消滅したとして、それでもあの涼しい笑顔でいられるのではないかと思う。体の大きな美男美女が、畑を耕して、大根やニンジンを作って、自給自足を嬉しそうにしていたら面白いだろうな。お金があってもおごることなく、それでも、何十億を、まるで100均で買い物をするように使い、なくなったら、土にまみれて、米や野菜を作って、おいしい、おいしいと食べる。そんな男だったらすてきだな。俳優の工藤阿須加もすてきだよ。親はお金持ちだし、いくらでもぜいたくな暮らしができるのに、山梨で農業をやっている。ひょっとしたら、ぜいたくな暮らしをしているかもしれないが、お金があるのだからすればいい。でも、もし、お金が消滅したとして。それでも彼は生きていけるタイプだと思う。お金というものを、あれば使うし、なければ使わないというくらいに、軽く考えられるといい。あっても困らないし、なくても困らない。そんな心境に達することができれば、きっと幸せだな。
2024年07月17日
コメント(0)
唐突だが、お金はなくならないと思う。地球は人間が成長するための修行の場と考えた場合、成長するために足かせとなる道具が必要だ。重いバーベルを持ち上げることで筋力がつくようなもの。その重要な道具のひとつがお金ではないか。地球上で起こっている大きな問題の大多数にお金が絡んでいる。お金で人生を狂わせる人はいっぱいいる。人類のほとんどが、お金に振り回されてしまっている。そんな強烈な負のエネルギーをもつお金だからこそ、魂の成長には効果が高い。魂のレベルが高くなると、お金に振り回されなくなる(振り回されてないふりをしている人、勘違いしている人も多いが)。お金という荒波に飲まれているようなもの。多くの人は溺れかけている。しかし、中には、上手に波に乗れる人もいる。経済的に大成功している人は優秀なサーファーなのかもしれない。ただ、すごいサーファーでも、ちょっと油断すると、転倒してしまう。そういう意味では、お金に振り回されているグループに入るだろう。まれに、荒波の向こうの静かな海で優雅に過ごしている人もいる。お金に振り回されてない人たち。お金よりもはるかに大きな価値観に気づいたか、もともともっていたか、お金があろうとなかろうと、生き方も心の状態も変化がない。お金がなければなくてすむ生活をするし、あれば、世の中のために上手に使う。そういう人は増えていると思う。でも、限りなく少ない。お金の役割は、お金にこだわらない、振り回されない人間を作ること。今は、多くの人がお金への執着ばかり。振り回されてアップアップ言っている。だから、お金の役割は終わっていない。だから、お金はなくならない。ぼくはまだまだ修行が足りない身。お金はありがたい修行の道具と思って、執着を減らし、少しでも振り回されないようにしないと。そんなぼくなりの理屈でした。
2024年07月16日
コメント(0)
40代50代だと、先がいくらでもあるように錯覚してしまう。あれもできる、これもしたいという、欲張りな気持ちになって、いろいろ手を出しては、放り投げてしまう繰り返しになってしまう。少なくとも、ぼくの場合はそうだった。今、68歳になると、体力的な衰えも感じるし、あと10年かな、20年がんばれるかな。そういう気持ちになる。夢とか目標が、現実的、具体的になってくる。雲をつかむような話はしなくなるのだ。大病をせず、無難に生きようとする人もいるだろう。それもひとつの道だが、ぼくは、自分がやりたかったことを、形にして人生を終えたいと思っている。近未来的な生活をすること。それは、食とエネルギーの自給自足。食は、畑や田んぼで食べ物を作ること。エネルギーは、今の時点ではソーラーシェアリングというシステムを作ったので、それで少しはできている。炭も焼きたい。さらに進めたいのは、医療、教育、福祉の自給自足。これは次世代に期待するとして、とっかかりだけは作りたいと思っている。とりあえず、自分で少しずつ動く。それを見て、何か感じてくれる人がいるかもしれない。いないかもしれない。いればありがたいし、いなければ一人でやるだけで、ぼくは困らない。今日は、その動きに役立ちそうな、ひとつの情報を仕入れにいく。ぼくの「老いらくの夢」は、3歩進んで2歩下がる感じで、ちょっとずつ前進している気がする。
2024年07月15日
コメント(0)
戦前は都市生活者の7割は借家に住んでいたそうだ。敗戦で、都会は焼け野原になって、目先のきく人間が、土地を買いあさった。ただのような値段だった。1950年に朝鮮戦争が始まり、1955年ごろから日本の経済が一気に成長し始める。1958年から61年、未曽有の岩戸景気。都会に人が集まってくる。そこで商売上手な人が出てくる。鉄道を敷き、その周辺の山林を安く買って、住宅を建てる。銀行と組んで、住宅ローンというシステムが作られる。田舎は持ち家が当たり前だから、買える状況を作れば、大量に都会に出てきた地方の人たちは、こぞって家を買おうとするだろう。その仕掛け人が、小林一三さん(阪急阪神東宝グループ創始者)。山梨出身の大実業家だ。テレビや新聞であおる。「夢のマイホーム」「一国一城の主」家をもつことが庶民の夢となるわけだ。家や土地は、上がり続ける資産だと思わされてきた。海外から「ウサギ小屋」と揶揄されても、何千万円という借金をして家を買う。それが現在にもつながっている。ぼくはずっと賃貸で暮らしている。現実問題として家を買えるような収入がなかったし、フリーという立場ではローンも組めないが、もし、お金があったとしても、家やマンションを買おうなどとは思わなかっただろう。妻も持ち家が欲しいとはひと言も言わなかった。「家をもって一人前」とか、「賃貸なんてお金をどぶに捨てるようなものだ」と、さんざん言われた。しかし、ぼくのように、仕事も住むところも、一ヵ所でじっとしていられない人間にとっては、家をもつのは足かせとなる。サラリーマンなら、35年ものローンを組めば、会社を辞めたくても辞められなくなってしまう。ぼくには無理だ。都会で家を買って、ローンを抱えてしまえば、今のように、山梨でヤギを飼う生活などできなかっただろうと思う。いい流れの中にいるなと思っている。
2024年07月11日
コメント(0)
とある農法のことを話していたら、聞いてくれていた人が、「小原田さん、取材して原稿にすればいいじゃないですか」と言ってくれた。十分に本にする価値のある農法だと思う。もっと前なら、すぐに動いたかもしれない。でも、そういう舞台から降りてしまったのか、気持ちが動かない。どうしてだろう?考えてみた。ふっと答えが浮かんだ。今のぼくがやりたいのは、いい農法があったとしたら、自分で試してみること。それを、文章にして紹介すること。その農法に関する情報は、いくらでもYouTubeで見られるし、考案した方のセミナーも受けられる。農地もあるし、自分で試すことができる。こんなのがありますよという話ではなく、すごいと思ったのでやってみたら、こんなふうにできたし、いろいろ言われていることと違う難しいこともあった。あくまでも、農業の素人であるぼくが自分なりにやってみたら・・・という視点で、書くことができるなら、気持ちは動く。となると、やれることも限られてくるから、あれもこれもと欲張ることもなくなる。電子書籍を使って、コツコツと、自分にできること、ある出来事や人を通して、自分が強く感じたことを発信していく。それがぼくのスタイルだなと思った次第だ。↓ヤギ飼いになった話、果樹栽培を始めた話です。購入はこちらから
2024年07月10日
コメント(0)
山梨生活4年目も後半に入った。 いろいろやった。 ライター稼業を40年も続けた。これは、自分でも立派だとほめてあげたい。 とりあえずは売り物になる文章は書けた。しかし、人の話を聞いて、それを文章にするというのは、飽きてしまった。 そんなときの山梨移住だった。 ぼくは、何もできない。農家の長男に生まれた。でも、農業はやったことがない。父は、「農業なんか未来はない」と、ぼくに学歴をつけることをすすめた。まあ、成績は良かったから、大学を出て、大きな会社に就職したが、仕事ができない。つまらない。2年で辞めてしまった。 アルバイト生活をして、小さな会社に再就職したが、やっぱり、仕事ができない、つまらない。 縁があって東京へ出て、フリーライターになった。これだけは、どうにか続いたし、それなりに面白かった。たくさんの人に助けてもらったおかげで、長くやってこれたわけだ。 すごい人たちに話を聞いた。「自分は何もできないな」という思いが募った。虚の世界をうろついているだけ。本を何冊出そうが、コンプレックスだったな。 そして山梨。ヤギを飼って、果樹を育てて。これまで取材した人たちからの話を参考にして、見よう見まねであれこれやった。 まわりの人が教えてくれた。 いろいろできるようになった。60代も後半になって。草を刈って、畑を耕して、果樹の枝を切って、おいしい果物を実らせて、ヤギを飼う柵を作って、知恵と技術が広がっていった。 これまで虚の世界で生きてきたぼくが、実の世界でも少しは通用することがわかったわけだ。 ぼくの父親は、実の世界の天才だった。農業はもちろんだけど、家の修理から子どもたちの散髪まで、当時、男の仕事とされていたことは、人に頼まずとも、ほとんど自分でやってしまった。 学歴はなかったけれども、ぼくは父を見ていて、「自分は大人になれるのだろうか?」と不安だった。 何しろ、何もできない。母から「お前はどん臭いから何もせんでええ。勉強だけしとれ」と言われるくらいの子どもだったのだから。 だからと言って、勉強をしたわけでもないし、成績も、田舎の小さな学校で上位にいる程度で、大したことではない。 この年になって、山梨で動かない体に鞭打ってがんばって、農機具も大工道具も使えるようになって、やっと父の足もとくらいには届いたかなと思っている。 若いころ、本が売れたこともあった。あちこちで講演を頼まれ、セミナーをやり、「先生」と呼ばれた時期もあった。 それはそれでうれしかったけれども、スモモや桃が実ったり、ヤギたちの面倒を見ている今の方が、充実度、満足度が高い気がする。 山梨の4年間で、ぼくという人間はどうやって生きていけばいいのか、少しは気づけたようだ。 それをベースに、壮大で華麗なとは言わないが、「生まれてきて良かった」「生きてて良かった」と思える、すてきなラストシーンを演じたいと思っている。 おかげさまで、そのシナリオは、ぼんやりだけど頭に浮かんでいる。アマゾンで購入できます。
2024年07月07日
コメント(0)
日本にあるさまざまな問題。貧困、環境、経済、政治などなど。山積みだ。単純に「政治家が平気でうそをつく社会でいいのか」と疑問に思うのが当たり前のような気がするが、どうもそうではないようだ。普通に暮していると、社会問題には意識が向かないのかもしれない。たとえばテレビをつければ、どのチャンネルもバラエティ番組。目玉は、あれがおいしい、これが食べたいという内容。ときどき何気なく見るけれども、あれを見ていると、ずっとぼくたちは、飢えることもなく、食べたいものを腹いっぱい食べられると錯覚させられてしまう。会社や学校のことにブーブーと文句を言っても、とりあえず、今のままが良くて、だから、選挙にも行く気にもならないし、今度は何を食べよう、どのお店へ行こう、とことで頭がいっぱいで、それが幸せだと思ってしまう。大衆には社会のことを考えさせたくないんだろうな。それを「家畜化」というのかな。原発の再稼働って大丈夫なの?コロナのワクチン、安全なの?自分の頭で考えるようにならないとな。ぼくも、まだまだ日和見菌だから、偉そうなことは言えないけれども、やっぱり変だよ。もうすぐ東京都知事選。ぼくはもう東京都民ではないから選挙権はないが、投票するなら、原発を止めようという人を優先する。とにかく、どんなにいい世の中になっても、原発が再度大爆発を起こしたら、闇の世界だからね。もっとも考えないといけないことだと思うな。それと、食糧問題をきちんと考えてくれる人。東京の最大の問題のひとつ。東日本大震災のとき、ぼくは東京にいたけれども、近くのスーパーの棚から食料品が消えた。怖かった。食べ物がなくなるのは都会からだから。そんなことを考えながら、ぼくは、まずは自分と家族の身を守るため、食べ物とエネルギーを自給できるように、あれこれ知恵を絞っているところ。
2024年06月30日
コメント(0)
電子書籍「ライター ヤギ飼いになる!」を出した。お金を出して買っていただくものだから、書くときにも緊張感がある。今は、第二作として、「教えて裁判長~どうして原発はすぐに止めないといけないの?」を制作中。原発を止めた裁判長の樋口英明氏にも原稿をいただき、少しずつ進めているところだ。これまで、ぼくは30冊近い本を出してきたけれども、自分で企画をすることはなかった。編集者との雑談の中で、「それ面白いね」と決まったものばかりだ。もちろん、ぼくの体験や考えの中から編集者が拾ってくれた企画だから、ぼくの書きたいことではあったが、自分で企画を考えて進めるのとは、ちょっと違う。純粋にぼくの興味から作れるのがいい。ぼくのまわりにはすてきな人がいっぱいいる。すてきな人に、いいお話を聞いて、ぼくの視点で、その人柄や考え方、体験、活動のすばらしさを伝えていくのもいいなと、今は考えている。ぼくが文章を書くのは、一人でも二人でも、生き方の選択肢はいくらでもあるということを知ってもらいたいから。ぼくのように、大した才能がなくても、40年も文章を書いて生きてきた人間もいる。60代後半になってヤギを飼って、果樹を育てて、電子書籍をやり、まだまだいろんなことに挑戦しようとしている。ぼく自身もひとつの題材だ。妻も、10年も大手の銀行に勤めて、たくさん給料をもらって、安定した生活が送れたのに、自分のむち打ちが瞬時に治ったことから、気功に興味をもち、自らもヒーラー、占い師になった。都会で生まれ育って、小さな虫でもキャーと大騒ぎしていたのに、今では、田舎で暮らし、平気で草むらに入っていける。娘たちも、まったく勉強はできない子たちだが、多くの女の子たちが進む道を選ばず、それぞれが右往左往しながらも、自分がしたいことを模索している。わが家族だけでも、「いくらでも選択肢はあるよ」というモデルになれる。外を見回せば、ぼくたちの経験など、本当にささいなものだと思えるような、壮絶な人生を生きて、自分の道を見つけた人がいる。そうした人たちを紹介するのも、ぼくの役割だな。電子書籍だからこそできることをやっていこう。
2024年06月29日
コメント(0)
集中力がない。言い訳になるが、理由がある。妻はインド占星術をやっているが、彼女の占いによると、ぼくは、それほどエネルギーが高くない。高くない中で、文章を書くことが少しだけ高めに設定されている。つまり、今生のぼくは、高くないエネルギーを、文章という技術に注ぎ込んでいるのだ。「とにかく書くこと。ベストセラーになるとか何か賞をとるとか、考えずにチャンスがあれば、どんどん書く。そこからいろいろなことが生まれてくる」そんなことらしい。ただし、全体のエネルギーが低いのだから、あまり集中し過ぎると、オーバーヒートしてしまうのだ。だから、ある程度のところでストップがかかってしまう。だから、自分を守るための防衛の手段として、ぼくには集中力がないのだ。集中力がないからこそ、40年間、細々とだけれども、ライターという仕事を続けることができて、30冊近い著書も出せた。10万部を超えるベストセラーもあったわけだから、ぼくのもって生まれたエネルギーからすれば、出来すぎなのだ。そのことを踏まえた上で、次に進んでいかないと。上手にエネルギーを充電しながら、効率よくエネルギーを使っていく。初めての電子書籍「ライター ヤギ飼いになる!」、好評発売中です。
2024年06月23日
コメント(0)
いくつになっても行動してないと、人は信頼してくれない。若い人たちに、少しでも農業に興味をもってもらわないといけないと、ぼくは思っている。だったら、まずやるべきことは、自分で農業をやってみる。農家の長男に生れながら、60過ぎまで農業などやったことがなかった。自然栽培をやっている人を取材して、口先だけは自然栽培家だった。それでは、単なる自己満足で終わってしまう。家庭菜園ではちょっと説得力に欠けるが、とにかく、知識を実践してみることだ。スモモや桃を無農薬で栽培して3年目。うまくいっているとは言えないが、自分で食べたり、知り合いに分ける程度には実ってくれる。それだけのことでも、日に焼けた真っ黒な顔をした話せば、まわりの人は耳を傾けてくれる。この間も、知り合いの息子さんと初めて会った。まだ20歳そこそこの学生さん。ちょっとあいさつをして、「農業、興味ない?」と軽く話を向けると、「面白そうですね」という返事が返ってきた。話を合わせてくれているだけかなと思ったけれども、とにかく、せっかくのご縁だから話をしてみようと、ぼくが山梨でやっていることをいろいろしゃべってみた。そしたら、翌日、連絡があって、もっと農業のことお聞きしたいというではないか。ちょうど、スモモの収穫に時期だから、遊びにおいでというところまで進んだ。うれしかったね。もうひとつ、ぼくの実家のそばに、小さな大学がある。次女が文化祭にキッチンカーを出店したのがきっかけで、職員の人が、ぼくが生まれ育った年寄りばかりの村に興味をもってくれて、たとえば、田舎料理を食べる会とか、ヤギの写真を撮る会をやってみたいという話になってきた。特に留学生。日本の文化に興味があるから、村の人たちと交流したいというのだ。ぼくが、実際にあれこれ動いているからこそ、そういう縁が広がっていく。アイデアと行動。年を取れば体力も落ちるけれども、それなりに動いていると、必ず助けてくれる人が出てくる。楽隠居では、なかなか物事は展開していかない。そんなこともあって、ぼくは、電子書籍の事業も始めた。自分がどう動いているのか、何がやりたいのか、あるいは、世の中にはたくさんのすてきな大人がいるよということを、若者に知らせていきたい。口先だけでお金儲けをしている人もいるけれども、そうじゃなくても、馬鹿を見ながらも、使命感や志をもって正直に生きている人。ぼくのまわりにはたくさんいる。それが、若者の生きる希望につながるはずだ。ちっちゃくても発信していかないといけない。その第一弾が、ぼくの山梨移住とヤギ飼いになった話。「ライター ヤギ飼いになる!」。今日22日まで99円。読んでいただきたい。
2024年06月22日
コメント(0)
人は、この世で何をするのかを決めて生まれてくるとのことだ。だけど、生れて数年すると、それを忘れてしまう。世間の価値観に振り回されて、何をしにきたかわからなくなるのだ。それでも、やっていて楽しいこととか、得意なこと、出会って影響を受けた人、やってみたいと思うことなど、生活の中にヒントが散りばめられている。日々の出来事が、自分がやろうと決めてきたことを思い出すヒントだと考えれば、次第に方向性が決まってくるはずだ。ぼくの場合、子どものころから学校の成績はそこそこだったけれども、ほかにできることはないし、すごく興味のあることもなかった。非常に乏しいヒントの中で生きてきた。特に20歳くらいまでは、ただぼんやりしているだけだった。大学を出て、当たり前に就職したが、そこで「ちょっと違うぞ」と思い始めた。やっと自我が芽生えてきたって感じだ。そして、28歳のときに、縁があって東京へ出て、フリーライターになった。これも何となく始めたことだったが、文章を書くのが好きとか得意ではなかったのに、とても居心地が良くて、ついに40年を超えた。40年間、これで生活してきたのだから、ぼくにとって文章を書くのは、「これをやろう」と決めてきたことだと思う。ただ、文章を書くことが目的ではなさそうだと思う部分もある。表現手段のひとつとして、ぼくは文章を選んだ。大事なのは、何を表現するかだ。電子書籍という手段を得て、目的に向かって動き出すのではないかと思っている。60代も半ばになってから、ぼくは山梨に移住し、ヤギを飼い、果樹を栽培し、これから野菜作りもしようと思っている。エネルギーの自給も進めている。これからの時代に必要とされるライフスタイルに、ぼくは向かっていると、自分では確信している。気功、代替療法、イルカの癒し、自然栽培・・・。ぼくは、大きな流れになるちょっと前に、こうしたものに興味をもってきた。本にもした。世の中の流れをキャッチするセンスがある。「これからはこういうことが大事だよ」と伝えるのが、ぼくのやりたいことで、自分で実践しながら、その手段として文章を使うということではないか。電子書籍「ライター ヤギ飼いになる!」を出版した。山梨へ移住した経緯、山梨でのヤギとの生活、果樹栽培などをまとめた。これから、どんどん文章を書いて、電子書籍を出そうと思っている。ぼくが、今生でやろうと考えてきたことが、果たして、この方向にあるのか。試してみよう。
2024年06月21日
コメント(0)
今年は東京都知事選があって、衆議院議員選挙もあるようだ。どうなるのか?トップにいる政治家が、裏金問題だとか、学歴詐称とか、おそまつすぎる。「嘘つきは泥棒の始まり」とか、「お天道様が見ているぞ」というのは死語になってしまった。上手に嘘をついて、ごまかして、その場をしのいでいく能力のある人が出世するわけだ。そういうしたたかさや、技術を身につけるのが、「帝王学」というやつかもしれない。正直者はバカを見る。そうかもしれないが、不条理がまかり通る時代だからこそ、できるだけ正直に、誠意をもって生きる努力をしたい。これまで、人に迷惑をかけたことは多々あるけれども、心を入れ替えて、「いい人」になろうと思う。
2024年06月19日
コメント(0)
ジャガイモ掘りをした。ちょっと遅めだった分、けっこう大きなのが掘れた。「ここ掘れわんわん」と庭で犬が鳴くので、そこを掘り起こしたら、大判小判がザクザク出てくるという話がある。ジャガイモが大判小判に思えてきた。ただし、大判小判は、いくらたくさん出てきても食べられない。その点、ジャガイモなら保存もきくし、我が家の畑で採れただけで、半年はいろいろな料理を楽しむことができる。採りたてを茹でて、バターや塩、メンタイマヨネーズで食べたり、肉じゃがもおいしいし、カレーもいい。小さいのは素揚げにして塩で食べる。ジャガイモだけでなく、大地は、人間の命を育むためのさまざまなものを産み出してくれる。お金も大事だけれども、食べ物を自分で作る生活の尊さが感じられる、ジャガイモ掘りだった。もうすぐ、スモモや桃も実る。畑こそ、宝箱かもしれないな。
2024年06月18日
コメント(0)
「もう70歳近くなっているんだから、楽しいことやって生きればいいのに」近所の80代のおばあちゃんが声をかけてくれた。ぼくが、ヤギのエサにする木の枝を、高枝切りバサミで切っていたときのことだ。この木の葉っぱがあいつらは大好き。しばらく話をしていてわかったのは、「そんなしんどいことをやらなくても、旅行に行ったり、おいしいものを食べたり、ゴルフでもやって遊んでたらいいのに」と言いたかったらしいということ。おばあちゃんの常識は、60歳で会社を辞めて、退職金をもらって、年金もあるから、悠々自適に暮らせるというもの。自分の息子たちもそうしている。わざわざ老体にむちを打って、ヤギを飼ったり、果樹栽培をする理由がわからないのだ。幸せは働くことではなくて、遊んで暮らすこと。うちの父親も言っていた。「いい大学を出て、大きな会社へ入るか、公務員として働けば、老後は安定だから」農家の長男だったぼくに、農業は一切やらせなかった。大学を出て大企業に就職して2年間。父親の引いたレールを、ぼくは進んだ。しかし、2年が限界だった。サラリーマンはぼくには向いていなかった。ぼくたちの年代では、大企業を勤め上げて、たくさんの退職金をもらって、ゴルフ三昧で暮らしている人もいる。ぼくはサラリーマンを辞めたことで、退職金もなければ、年金もわずか。遊んで暮らせる身分ではない。だから働かざるを得ないのだけれども、それが理由で、毎日、汗を流しているのではない。ぼくには、おばあちゃんが言うような、旅行にもグルメにもゴルフにも興味がない。だいたい、趣味と言えるものがない。楽しみというのは、この年になっても、できないと思い込んでいたことができるようになること。たとえば、この間、実家のある村で草刈りがあった。ぼくも、草刈り機をもって参加した。山梨でも畑の草刈りをしているから、慣れたものなのだが、村の人たちは、高校を出てからずっと都会で暮らしてきたぼくと農作業がつながらない。だから、「あいつ草刈り機が使えるんだ」とびっくりした顔で見る。クタクタになったけれども、数年前のぼくなら、草刈り機なんて使ったこともなかった。山梨に越したことで、できないことができるようになった。そんなことがうれしい。体が動く限り、いろいろ挑戦していこうと思っている。
2024年06月10日
コメント(0)
何となく気持ちがすかっと晴れない。4月末から激動だった。生活を変える決断をしなければならない状況に追い込まれている気がする。よく「ゆでガエル」という言い方をするが、ぬくぬくした環境の中にいると、思い切った行動ができなくなり、本当に自分がやるべきことが見えないまま、徐々に環境が悪化して、人生が不十分なまま終わってしまう場合がある。「どうしても動け!」というときには、けっこうきついことが起こってきて、尻を叩かれる。それがぼくにとっては「今」かもしれない。変化の流れは見えてきた。徐々に動き始めている。これからどんなことが起こってくるのか。人生は思ったようには進まないが、思った以上の出来事に遭遇することも多々ある。へっぴり腰のぼくに、果たしてどんな明日が待っているのか。まずは、今日できることをがんばってやる。そして、あとはなるようになる。ならないようにならない。ということかな。
2024年06月08日
コメント(0)
大学時代、外国へのあこがれがあって、世界各国に営業所のある大きな企業に入った。たぶん、刺激的な仕事がしたかったのだろうと思う。しかし、配属されたのは、海外に行く機会がもっとも少ない(ほとんどない)部署だった。がっかりしたけれども、「海外勤務はかっこいいから」という薄っぺらな動機だったから、「まあ、いいか」というくらいのことで流していた。世界を回ってみたいというのは、夢というほどのものではなかったけれども、サラリーマンを辞めて、東京でフリーライターを始めて数年後、実現することになった。ヨーロッパ、中国への一人旅を決行。中国の旅で、真氣光の中川先生と出会い、先生の随行取材をすることになり、30ヵ国くらいを回った。間違いなく、サラリーマンとして海外に赴任するよりも、刺激的な体験だった。中国の旅では人生が大きく変わり、オーストラリアやバハマでイルカと泳ぐ旅をし、イルカがきっかけで結婚し、たくさんの本を出し、チェルノブイリ原発事故の被ばく者の気功治療を取材し、ネイティブアメリカンのホピ族の村も訪問した。人生観が一変するような旅だった。世界を回りたいという漠然とした思いは、ベストのタイミングで、最高の体験として実現したのだ。思いは実現するというのは事実だろう。しかし、その人にとって必要なことに限っての実現だ。夢や思いが実現しているという人は、自分の人生シナリオを知っているからこそ、そこに意識が向く。だから実現する。ぼくは、なかなかいい線をいっていると、自分では思っている。
2024年06月07日
コメント(0)
電子書籍のデビューが近づいてきた。6月20日に発売予定。タイトルは、「ライター ヤギ飼いになる!~やればできる! 六〇代からのチャレンジ」。ぼくはライターという仕事を40年やっている。主戦場は東京だった。60代になって、山梨へ移住してヤギを飼い、果樹栽培を始めた。田舎生活や農業にあこがれていたわけではない。でも、漠然とだが、都会生活への不安を感じていたのは間違いない。コロナ騒ぎがきっかけで、思い切った一歩を踏み出すことができた。そのいきさつを簡単にまとめた本だ。今まで本を出すというのは、けっこうハードルが高かった。特殊な体験をした人、大成功した人、発想力の豊かな人、文才のある人にしか門戸は開かれていないものだった。ぼくは、幸いにも人に恵まれ、少し時代の先を行くテーマをもっていたので、20数冊の本を出すことができた。これは貴重な体験と実績になったけれども、もっと簡単に本が出せるツールとして、これからは電子書籍が大事になると思っている。本来、人それぞれ、ドラマの中を生きているわけで、記録として残しておいてもいいではないか。小説が書きたければ、電子書籍で発表すればいい。小説家にはなれなくても(名乗ってもいいけれども)、小説を書いて出版するという夢はかなうわけだ。ぼくがなぜ電子書籍を出そうと思ったか。さっき言ったように、これまで20数冊の本を出してきたが、ぼくが企画を出したのは一冊もない。知り合いの編集者との雑談の中で、「それ面白いじゃないですか?」という展開があって、出版が決まってしまったのだ。本来、ぼくはプレゼンは苦手だし嫌いだ。自分自身や自分の企画を売り込むようなことができないタイプ。常に受け身の姿勢で生きてきた。ただ、お酒を飲みながらなら、あれこれ自分の体験や考えをしゃべることはできる。売り込むつもりなど毛頭ない。ただの酔っぱらいのおしゃべりだ。そんな席で、編集者が興味をもってくれたことが本になっている。山梨へ越して、編集者と話す機会がなくなった。編集者どころか、家族以外の人と話すことがあまりない。ぼくの話を面白がって聞いてくれる人がいないのだ。ブログは書いているが、ネットの発信も、ほとんどしない。60代70代と、これから何をするかと考えたとき、自分にできるのは文章を書くことだけと気づいた。それなら、死ぬまで書き続けるか。しかし、それなりに読んでもらえるものにしないと。ぼくの場合、ブログではなかなか「読んでもらおう」という気持ちになれない。それなら本にするしかない。と言っても、ぼくに興味をもってくれる出版社もない。出版社からの依頼は、この10年くらい、便利屋ライター程度の仕事だ。山梨へ来てから、便利屋はやめた。自分が発信したいことだけにすると決めた。となると、電子書籍はありがたい。プレゼンはしなくていいし、編集者の顔色をうかがうこともない。自分の意思を一番に書けばいいわけだ。そして、少しは収入にもなる。そんなわけで始めた電子書籍。すてきなアドバイザーにも恵まれ、長女がやり方を覚えてくれることになり、ぼくが原稿をまとめれば本になる、という仕組みが着々とできつつある。原稿を書くのが楽しみになってきた。
2024年05月31日
コメント(0)
若いころ、けっこうがんばったのは草ラグビーのチームを作って、10年ほどリーダーとして試合を組んだり、メンバーを集めたり、今振り返っても大したものだと思う。始まりは酔った勢いだった。ぼくは30歳くらい。20代の編集者3人と飲んだ。3人とも競馬とラグビーが好きで、酒がどんどん進む。だれが言い出したか、「ラグビーチームを作りませんか」「やろう! やろう!」どんどん盛り上がっていく。「チーム名はどうしようか」うーんとみんなが頭をひねる。一人が言った。「グリーングラスでどうですか?」「思い出のグリーングラス」という歌があるが、ぼくたちがイメージしたのは、1976年の菊花賞を勝った名馬だ。トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスの3強がしのぎを削っていた時代だ。一番遅れて登場したのがグリーングラス。長距離が得意な玄人好みの馬だった。ぼくが初めて馬券を買ったのは、1979年の暮れの有馬記念。グリーングラスの引退レース。彼は見事に有終の美を飾った。ぼくは馬券を外した。そんな思い出の名馬をチーム名に決めた。大学時代の先輩後輩に声をかけ、さらには、その知り合いへとつながり、練習用のグランドを探し、人が集まったら、試合相手を見つけ、あのころは獅子奮迅の活躍だった。あの飲み会から数ヶ月で試合をしたのだから大したものだ。週に1度は多摩川の河川敷で練習をし、ちょっとしたコネを頼って試合を組んだ。東大の検見川にある施設を借りて合宿もやった。ぼくが出版社で働いていたこともあって、講談社や小学館、ラグビーマガジンといったチームと一緒に、出版社リーグを立ち上げ、最初は下位の方だったが、優勝争いをするまでいったこともあった。キャプテン、監督を10年やった。新日鉄釜石のV7の選手も何人かチームにスカウトして、試合に出てもらったこともある。ぼくは試合中に膝の骨折をして2ヶ月の入院生活。それを機に引退した。よくやったと思う。ゼロから何かを立ち上げていくのは好きだった。ラグビーの場合は10年も続いたが、大抵のことは、立ち上げて軌道に乗ったら身を引くのが、ぼくの常だった。組織を管理し継続させるのは、ぼくは苦手だった。この才能を生かして、イベントを開催したり、小笠原のドルフィンスイムツアーをやったりして、そこそこやれたと思う。ひょっとしたら、使い方によっては、もっとでかいことができるだけの能力だったのかなと、思ったりもする。今はもう、何か組織を立ち上げようとか、大きな運動をしようとは思わない。小さなことを、慎ましくやっていく。そこで、ちょっとした才能を使えたり、培ってきた体験を生かすことができるかもしれない。ぼくの数少ない能力のひとつが、草ラグビーのチーム作りということで、形になったわけだ。よくがんばったと思う。
2024年05月29日
コメント(0)
子どものときを振り返って、ぼくは何に興味があったのか考えてみた。スポーツかな。やるのは苦手だったが、見るのが好きだった。野球が一番だった。巨人のV9の時代。長島さん、王さんが大活躍していた。高校を卒業してすぐに大活躍した堀内さん。テレビで巨人の試合を見るのが楽しみだった。同時に、12チーム、チーム名は同じだったが、長島さんも王さんもいない、架空のチームがぼくの頭の中とノートの上で、妄想ペナントレースを繰り広げた。選手名簿を作り(架空の選手)、ドラフト会議やトレードもあった。もうひとつ、我が家はなぜか毎日新聞をとっていたので、夏になると都市対抗野球の話題がスポーツ欄をにぎわした。それをヒントに、ぼくは、プロとアマの間に、地域別のセミプロチームを作り、全国大会を開いたりしていた。考えてみると、今の独立リーグの原型を、ぼくは小学校のときに考えていたことになる。相撲も好きで、想像上の力士を並べて番付表にし、毎日、取り組みを決めて、星取表も作った。そんなことを部屋にこもってやっていた。親は、勉強していると思っただろう。安心していた。そう振り返ると、ぼくは、現実よりも妄想の中で生きるのが好きなタイプなのだろう。今で言うオタクの資質をもっていたのだと思う。そこに活路を見出していたら、もっと面白い存在になっていたかもしれない。高校、大学、社会人と、現実路線を選んで、けっこうしんどい思いをして、20代後半でやっと自分の道へと足を踏み入れた。それが文章を書くことだったが、それでも、思いっきり妄想の世界に飛べない。せっかく、スピリチュアルという、思いっきり妄想力を広げられる世界をテーマにしているのに、現実に足を引っ張られている自分が、68歳になってももがいているわけだ。今年のドラフトの目玉は〇〇高校の△△選手。どこの球団に指名されるか。くじ引きなんかも作って、ワクワクしていた。自分の頭の中だけの出来事なのに、あんなにも楽しめたのだ。現実は現実として置いといて、もっと妄想の世界で遊ぼうと思っている。
2024年05月28日
コメント(0)
長年、ひとつの道を歩み続けてきた人は、本当にすばらしいと思った。昨日、石井光(あきら)先生の内観海外普及45周年、中野節子先生の信州内観研修所開設25周年のパーティに参加した。100名近い方がお越しになっていた。石井先生は、青山学院大学法学部の教授として教鞭をとりながら、自分自身が大きく変化した内観法という、自分を見つめる修養法を指導し、広める活動をしてこられた。日本で生まれた内観法だが、今ではヨーロッパ各国、中国、台湾、韓国など、世界に広まっている。その原動力となったのが石井先生の精力的な活動だ。中野先生も内観に出あい、自らが大きく変わるとともに、人が幸せになるツールとして可能性を感じ取り、内観研修所を設立して、内観法を指導してきた。「この道を行く!」お二人ともぶれることはない。そして、その根底には、一人でも多くの人が幸せになってほしいという願いがある。損得ばかりを考えて、得をする方に動こうとする人間は、お金を儲けることはできても、薄っぺらな人にしかなれない。損得関係なく、自らが信じた道を淡々、粛々と歩んでいく人は、人間としての深みを得ることができる。人が集まってくる。やさしいお顔の裏には、たくさんのご苦労が隠れていることだろう。悩みや葛藤に心が折れそうになったこともあったはずだ。しかし、自分の進む道はこれしかないという、強い信念が、折れそうな心を支える。そうやって、何十年もひとつの道を歩み続けてきたのだ。石井先生も中野先生も、ぼくよりも年上だ。まだまだ隠居する気はないとは思ってがんばっているつもりだが、あの方たちのアグレッシブな生き方と比べると、何だか、芯がぶれているし、ふにゃふにゃしているなと思ってしまう。ぼくのまわりはすごい人ばかりだ。ぼくにもやることはいっぱいある。気合を入れて、前へ進んで行こう!いい刺激をいただいた。
2024年05月27日
コメント(0)
ぼくは、どちらかと言うと、「アンチ」の立場で生きてきた。始まりは医療。主流である西洋医学よりも代替療法を応援してきた。今は、適材適所で、西洋医学と代替療法が融合した医学が実現すればいいと思っている。農業もぼくの好きな分野。それも、いわゆる農薬や化学肥料を使う慣行農法ではなく、自然農、自然栽培を支持している。そしてエネルギー。原子力ではなく自然エネルギーが広がってほしいというのが、ぼくの願いだ。でも、ぼくの願う形にはなかなかならない。その原因のひとつが、アンチの人たちのセクショナリズム。方法論の違いで仲良くなれない。代替療法なら、〇〇式と××式とがいがみ合っていたりする。違いを強調して、手を組めないのだ。自然農でも同じ。自分の考案した〇〇式が一番で、ほかのやり方は受け容れないという人がけっこういる。エネルギー問題でもそうだ。「原子力をやめようよ」というが共通の思いなのだが、それで手をつなげばいいのに、「太陽光はパネルのリサイクルの技術が確立されていないから嫌いだ」「地球温暖化の原因は二酸化炭素ではない」といった、枝葉の部分で足並みがそろわなくなってしまっている。何が目的なのか。西洋医学がすべてではないよね。農薬や化学肥料は減らそうよ。原発は危険だからやめよう。どの分野にも、社会を変えようとがんばっている人はたくさんいるが、根幹部分に目を向けていかないと、代替療法も自然農も自然エネルギーも、マニアックなもので終わってしまう危険性もある。べったりとつながる必要はない。でも、世の中をより良くするためには、自己主張ばかりしないで、手を組むところは手を組まないと。ぼくがこんなことを言っても、遠吠えにもならないのだが。ぼくには大きなことはできないから、小さなところで、静かに物事を進めていこうと思っている。
2024年05月25日
コメント(0)
台風1号が発生したらしい。小笠原へ行っていたころは、台風情報にはピリピリしていた。小笠原丸が欠航になれば、予定が大きく狂う。20人くらいの大人数だったので、主催者としては、ハラハラどきどきだった。出航しても船が揺れるのは嫌だ。初めて小笠原へ行ったとき、沖縄方面に大きな台風があって、そのうねりで、船がひどく揺れた。船酔いはしなかったが、一晩中、船がふわっと浮かんでは、ばーんと叩きつけられるような中で過ごした。やっと着いたと思っても、高波で海の状態は最悪。イルカとあうことはできたが、海に入っても、波に上下にもてあそばれて、怖くてたまらなかった。何回目だったか、八丈島付近(半分くらいのところ)で急病人が出て、大島まで引返すというハプニングもあった。予定変更でバタバタだった。イルカと泳ぎに行った帰りの船の中で、仲間が急に倒れ、亡くなってしまったということもあった。最後の小笠原となった2019年は、台風が小笠原諸島に居座って、一度も海に出られなかった。しかし、快適な宿だったこともあって、みんなんで自炊したり、島の人を呼んで講義やワークショップをやってもらったりして、けっこう楽しめた。予定通りに進まない、何が起こるかわからないのが人生だということを教えてくれる、小笠原の旅だった。いい経験だった。でも、落ち着いたらまた行ってみたいと思っている。台風発生と聞くと、10回ほど行った、小笠原の旅を思い出す。
2024年05月25日
コメント(0)
このゴールデンウイークは、けっこう大きなストレスがあって、気持ちが重い状態が続いていた。そんな中、「あれっ」と思ったことがある。この数年、非常に寝つきが悪かった。横になればすぐに眠れたのに、寝る時間になると目が冴えて、2時間も3時間も、布団の中で寝返りを打ちながら、時間を過ごしてきた。最初のうちは苦痛だった。「今日も眠れない」と思うと恐怖と不安が膨らむこともあった。しかし、途中から眠れないことを受け入れることにした。寝付くまで、布団の中でいろいろなことを考えることにしたのだ。これまでのことを振り返り、今後のことを考える。あるいは、自分がやりたいことをイメージする。こんな本が書きたいなと構想を練る。これは功を奏した。不安が少なくなった。寝付きが悪くても、朝まで眠れないわけではない。いつの間にか眠っているのだから、それでいいではないか、と考えられるようになった。睡眠時間は少なかったが、昼間、眠くてたまらないわけではない。昼寝もできる。そんな状態がずっと続いていたのだが、不思議なことに、ゴールデンウイーク中のストレスの間、昔のように、すっと眠りにつけたのだ。ストレスがあると眠れなくなるはずが、逆に、いい眠りになった。どういうことだろう?東日本大震災で津波に飲み込まれそうになったがんの患者さんの、全身に広がったがんが消えてしまったという話を思い出した。火事場の馬鹿力ではないが、窮地に追い込まれたとき、思わぬ力が出るのかもしれない。人体というのは、ピンチになると自然治癒力が最大限に働き始めて、体調が正常に戻るのではないか。大きなストレスから逃れさせるために、強制的に眠らせようとする力が働いたのかもしれない。あれ以来、数年前までの快適な眠りを取り戻している。まだ、心の中にはもやもやしたものが残っているが、峠は越えた。生命には、ぼくたちの考えの及ばない神秘がある。生命力を信じることだ。生きる上で悩みや苦しみは付き物だが、結果的には、すべてはうまくいくようにできているのだから。
2024年05月23日
コメント(0)
ご先祖様を大切にしろと、ずっと父親から言われてきた。 父親の言う大切にしろは、ご先祖様が残してくれた土地や家を大切にし、お墓を守っていくということだった。 あくまでも「守り」の姿勢だ。 ぼくは反発した。ご先祖様が一番喜ぶのは、子孫が思う存分生きていることだ。子孫が楽しく、生き生きしているのが先祖孝行だ。家を守るために縛られるというのは間違っている。よく父と議論したものだ。 ぼくは「攻め」の姿勢だったわけだ。 実は両方とも大事なのだと、今になってわかる。 ぼくは長男でありながら家を出た。やりたいことをやらせてもらって、これまでの人生にあまり悔いはない。 実家にときどき帰る。一時は空き家になるのを覚悟したが、次女が結婚して住み始めてからは、犬に猫にヤギににわとり。おかげさまでにぎやかな家になった。「ご先祖様喜んでいるな」と感じる。ほんとうにありがたいことだ。 縁のある人たちが集まる家になるといい。我が実家を拠点に、村が活性化すればいい。そうなれば、「守り」「攻め」の両方面からのご先祖様孝行が実現するわけだ。 ご先祖様は、ぼくに何を期待しているのかわからないが、いろいろ仕掛けてきている気がする。変化には痛みが伴う。痛みが消えたとき、大きな光に包まれることがある。どんなことが起こってくるのか、楽しみにしていたいと思う。↓実家を守ってくれているワンコたち
2024年05月20日
コメント(0)
5月18日。父親の7回忌、母親の3回忌。実家に親戚が10人ほど集まってくれて、小さな法要を執り行った。お勤めのあとも、故人との思い出話をしたりして、いい供養になったと思う。父はお人良しだったが、自分がこうしたいということは曲げなかった。昔の職人らしく口も悪かった。母は、極度の心配性。物事を悪い方、悪い方へと考える性格だった。しかし、職人だった父が独立を考え始めたころ、父はあれこれ迷っていたのに、母が父の背中を押した。父の方が臆病で、母の方が大胆だった部分もあったのだ。2人とも働き者だった。農業では生活できないので、父は手先の器用さを生かしてブロックの塀を作ったり、家の基礎工事をしたり、トイレやお風呂を作る仕事を始めた。見よう見まねで覚えて、人に負けない仕事ができるようになって、あちこちから依頼がきたのだから大したものだ。母は、いつも父の仕事の手伝いについていっていた。父は口が悪い。母の手際が悪いと、ぼろくそに言う。あんなにもひどく言われて、よくぞがまんしたものだと思う。とにかく、家族が食べるため、子どもを育てるために、必死になってがんばってきたのだと思う。決して裕福ではなかったのに、ぼくは、不自由や不足を感じたことはなかった。ぼくは長男だったから、父も母も、ぼくに夢をもっていたのだろう。大学を出して、いい会社へ就職させて、出世してほしい。両親の希望通りにはならなかったが、紆余曲折はあったけれども、68歳までいい人生を歩むことができたのだから、ありがたい親だった。そんなことを考えた一日だった。両親には感謝しかない。
2024年05月19日
コメント(0)
50年というと半世紀。長い年月だが、考えてみれば、50年前、ぼくはすでに18歳だった。1974年、昭和49年だ。この年の3月に高校を卒業して、大学に入学し、名古屋での生活が始まって間もないころだ。4畳半の古いアパート暮らし。田舎者が都会へ出て、刺激は大きかったが、戸惑うことも多かった。50年後なんてじっくりと考えたこともなかったが、大学を出て、大きな会社に就職して、そこそこ出世して、定年まで勤めて、あとは悠々自適に暮らすものだと思っていた。当時は、終身雇用、年功序列が当たり前で、「安泰」のレールが敷かれていたものだ。しかし、たった2年で、そのレールから外れてしまった。あのままだったらどういう人生だったかわからないが、ぼくは、レールを外れたおかげで、20代、30代、40代、50代、60代と、とてもダイナミックな50年を過ごせたと思っている。会社を辞めるときは悩んだし、親とも激論を交わしたし、将来が不安だった。でも、どうしてもこのまま5年が過ぎ、10年が過ぎていくことには耐えられなかった。両親は言った。「石の上にも3年や! もうちょっとがまんせえ」「違う。3年もすれば、石の上でもあきらめるということや。俺はあきらめたない」屁理屈を並べて、親の話に耳を貸さなかった。50年、いろいろなことがあった。本が売れて、調子に乗っていたことがあった。そしたら、ぱたっと売れなくなった。経済的にピンチだった時期もある。18歳までは親の庇護のもとでぬくぬく暮らすひよこで、巣立ったあとの半世紀は、つらいことはいくらでもあったけれども、いいことはもっとたくさんあった。これからも、何があるかわからない。油断はできないし、楽しみでもある。もう少し、人間として成長したいと思っている。
2024年05月16日
コメント(0)
ストレスフルな出来事があったとき、瞬間瞬間に振り回されると、いい判断ができなくなる。 流れをていねいに見る。つらい出来事があっても、それがあったことによって見つかる「いいこと」がある。 この間のボクシングの井上尚弥チャンピオンの試合。第一ラウンドでダウンを奪われた。人生初のダウンだそうだ。 見てる方もびっくりする衝撃的シーンだった。 無敵の王者がダウンした部分だけを見ると、「大変だ!」ということになるのだが、あのダウンがあって、チャンピオンの力みが消え、ネリ選手の動きを読み切り、あとは一方的な展開となって、6ラウンドのKO勝ちにつなげた。 なんて強いんだ。 あの偉大なチャンピオンと同じ強靭なメンタルは、ぼくのような凡人には手の届かないものだ。それでも、日々のささやかなプレッシャー、ストレスを乗り越える上で、参考にはしたい。 不都合なことが起こると、そのマイナス面にばかり目がいく。「ダメだ、ダメだ」とどんどん落ち込んでしまう。腹も立つ。イライラもする。 しかし、大きなダメージを受けたとしても、まずは落ち着いて状況を分析する。冷静になって、今、何が起こっていて、自分には何ができるのかを考える。そして、マイナス面ばかりにとらわれるのではなく、「この出来事にも必ず意味がある」と、自分に言い聞かせていると、ぱっとひらめくことがあったりする。だれかのいいアドバイスが心に響くこともある。そこに、自分の考え、判断を加えて、次の行動を決める。 渦中にいるときにはわからなくても、何日かたつと、あふれるマイナスの中の、小さなプラスに気がつくことがある。 たぶん、人が成長する上で、この小さなプラスに気づいて、感謝して喜ぶことが、もっとも大切なことかもしれない。 だからこそ、神様は人間をマイナスに引っ張られるように作ったのではないか。 順調なときには、自然に「ありがとう」が出てくる。逆境のときはどうだろう?「何がありがとうだ!」と言いたくなるものだ。 重苦しい思いをしっかりと受け止め、不安や恐怖も拒否しないで、その上で、マイナスだらけの隙間の中にある、小さなプラスを探す。 そういう癖をつけた人は、必ず幸運を呼び込める。 ピンチはチャンス!つらいときこそ、光を見つける絶好の機会だ。 暗闇の中に上がる花火。明るさばかりを望んでいると、まばゆいばかり光の芸術は体験できない。夜でも光があふれる都会では、無数の星々の輝きを見ることができない。 人はかなしみの大地に種をまいているのだそうだ。かなしみという土壌にどんな花が芽吹くのか。かなしみからはかなしみしか生まれないのか。それとも、かなしみが深ければ深いほど、大きな喜びの花が咲くのか。 氣と出会ってから、こんなことも考えられるようになった。ぼくにとっては、大きな進歩だと思う。 毎週木曜日19時半から。真氣光の中川雅仁会長と、小原田泰久・弘美が、ライブ動画を配信中。 ぼくたちが体験した氣の体験をお話ししています。参考になることもあると思うので、ぜひお聴きください。 視聴はこちらから。
2024年05月14日
コメント(0)
ぼくの師である真氣光の創始者・中川雅仁先生は、「一歩は進み過ぎ。半歩だけ進んだことをやれ」とおっしゃっていた。そう言う先生自身は、1986年には氣を中継する機械を完成させていた。夢で教えられた通りに作ったら、その機械を当てるだけで体調が良くなる人が続出。さらに、1988年には手から氣を出して、さまざまな難病を治癒させていた。「これって半歩?」ぼくには、半歩どころかはるか前を歩いているように思えた。今、先生のおっしゃった意味がわかった気がする。先生のおっしゃる「半歩」は、「世の中よりも半歩前を進む」ということではなく、「自分のキャパシティの半歩先」ということではなかったのか。人には才能、能力というものがある。もちろん、生れたときに決まっているものもあれば、経験を積むことで変化するものもある。老境に達したときにぱっと目覚める才能もあるだろう。まずは、今の自分のキャパシティ、身の丈をしっかりと把握すべきだ。高くも低くも見ない。正当に評価する。その上で、半歩先を歩く。そうすると、余裕もあるし、次の半歩も見えてきて、これまでできなかったこともができるようになったり、新しい才能に気づけたりするのだ。ぼくは、これまで一歩二歩先を見て動いてきた。いいこともあったけれども、足もとがおぼつかず、転んでしまって痛い目を見たりもした。まわりの人を巻き込んでしまって、いろいろ迷惑をかけた。かなしい結果になったこともある。五月末から、世の中の運気が大きく変わるのだそうだ。それを機に、「半歩」を意識して生きようと思う。身の丈を知り、少し背伸びしたり、落ちても大丈夫なくらいの脚立を使えば手が届くくらいの、高さを目指そうと思う。
2024年05月10日
コメント(0)
「寂寥感(せきりょうかん)」という言葉がある。もの悲しくてわびしいという意味だ。重みがあって、深みがあって、潤いがある。ぼくにはそう感じられる。この言葉、どうやって、できたのだろう。やっぱり、喜怒哀楽、さまざまな感情を味わった人間が、このやるせない気持ちをどう表現すればいいかと考え、「寂」とか「寥」という、心に染みる漢字が生まれたのかもしれない。楽しいだけでは重みのある人間にはなれない。さみしさやわびしさといった、やるせない感情をしっかり味わってこそ、心や魂は育っていくのだ。だいたい、楽しいだけで生きている人はだれもいない。だれもが、苦悩の海で、孤独感の嵐の中で、迷路をさまよいながら、一歩ずつ進んでいく。努力などしなくても、かなしみを背負うことができるように、人間はできている。大事なのは、その気持ちを、しんどい部分はあるけれども、ごまかさないで、しっかりと味わうこと。努力などしなくても、楽しい日々を取り返せるよう、また人間はできているから。どんなかなしみであっても、こわがらないで、しっかりと見つめながら歩いていくことが大事だ。ただ、自分がもう少し強い人間であったらと、ときどき思うこともある。まずは今日をすてきな日にして、明日は明日の風が吹く。
2024年05月03日
コメント(0)
全709件 (709件中 1-50件目)