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2012年12月06日
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  8 生命について、特に「遊び」の意義について

            ・その二


 ところでこの「本能」と呼ばれるものですが、辞書によれば


動物が教えられたのではなく、生まれつき持っている性質・能力


のことです。そしてこの本能については、今日の人間社会では、不当に


と少なくとも私の目には見えるほどに軽視、または、蔑視されているように


感じられる。「本能の赴くままに」とか「本能をむき出しにして」


とかの表現は、決して死後などではありませんよ。





のように扱われ、捉えられる局面が多いように思われますね、なんだか。


 ところが、その本能だけで生きている筈の、ペットたちが


人々の心を癒す。癒している現実を、一体どう受け止めたらよいのでしょう。


 私の考えはこうです。動物における本能とは本来、とても清潔なものです。


それは生物が生物として生きていく上で、必要にして欠くべからざる


ものであるが故に、純粋であり、さらには美しいとすら形容してよい。


 この様に考えてきますと、悪いのは本能ではないと、私たち人間の


所謂「文化」なるものに、疑いの目を向けたくなります。文化とは


そもそも何物なのか……?学問的なレベルでの議論はとても私の


手に負える代物ではありません。ごくごく分かり易く、「国民や


民族の 生き癖 のようなもの。その結果として顕著な学問・芸術など」と、





人間と言う一種の生き物の「生き癖」なのだ。と、乱暴に一回


言い切ってしまえば、隠されていた真実の在り処が、一気に


見えてきたりしないでしょうか。如何でしょう。


 ここで、本能を自然とか、野生という言葉に置き換えてみてもよいかも


しれません。母なる地球を含む全宇宙という大自然や、限りなく偉大な





立って、自然や野生を思い出させる貴重な便(よすが)となっている存在。


それこそがペットたちなのだ、と。さすれば、咎(とが)があるのは


本能や野生の方ではなくて、人間のあり方や生き方のほうなのだ。


一寸見には、詭弁を弄しているように見える、本来の、正真正銘の


正論がご納得頂けたでしょうか――。







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最終更新日  2012年12月12日 10時26分44秒
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