草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2020年04月05日
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コロナとの人類の戦争状態が熾烈を極めつつある。戦争であるから、犠牲者は日々に増えているし、日本

でも非常事態宣言が何時出てもおかしくない。私の周りでは幸いというか、まだ感染者を出していないし

、私は常日頃から自宅に閉じこもる蟄居生活を送っているので、比較的安全度は高い方の部類に属する。

 そうは言うものの、完全に安全であるわけはないので、何か自分に相応しい防御策はないものかなどと

、一応は思案を廻らしてはみるのであるが、もとよりそんな手立ては見つからない。

 では、どうするのか? どうする事も出来ないまま、テレビのコメンテイターや医療専門家の繰り返し

発している警告に耳を傾けるだけなのだ。

 我々現代人が好きな言葉に「権利」というのがある。二言目には権利、権利とうるさいくらいに自分の

権利を主張して止まない。権利、結構でしょう。しかし、権利の裏側と言うか、反面には「義務」という



 所で、人間の義務とは一体何なのであろうか? 普通には権利と同様に無数に考えられるであろうが、

義務などという厄介な代物は、出来るだけ少ない方がよい。そう考えるのが人情というものだろうが、御

心配御無用。

 私に言わせれば、ただ一つに集約できる。簡単に言ってしまえば、与えられた人生をより良く生きる

義務だけと。そして、権利の方も、義務同様にたった一つに集約すべきでしょうが、それは一体何だとお

考えでしょうか? 私の答えを聞く前に、どうかちょっとだけ、御自分で考えて見てくださいませ。

 お分かりでしょうか、そうです、幸せになる権利でした。

 幸せになる権利を精一杯主張するには、隣人を幸せにする義務はより良く果たさなければなりません

ね。ですから、要するに、一度人間と生まれたからには、徹頭徹尾幸せを目指さなければならない。

 つまり、幸せこそは私たちが目標として生きなければならないものでありますが、誰もがその資質と能

力とを神からあらかじめ与えられている。



のですね、つまり。

 こうして考えてみると、何の事はないのだ。権利の、義務のと、何か大変な事柄を口にしているように

思えるが、要は、自分は正真正銘の人間なのだ、と力んで叫んでいるようなもの。そう、単純に喝破し

て、その為の工夫なり、他者への手助けの方法なりを、鋭意勤めれば、人間の役割は能事終われり、と、

まあ、そういう次第に相成っている。



る。それは今に始まった事ではなく、大昔からそうだった。

 ゴータマ・シッダルータ、仏陀が世に出て人々の苦しみを救済しようと出家したのも、誰もが知悉する

事実である。しかし、偉人の偉大な教えにも拘らず、この世での苦しみは一向に減る兆しを見せない。そ

れどころか、逆に苦しみや不幸は数を益々増して行っている。

 これは、どうしたことだろうか? 私はこんな風に考える。不幸や苦しみや、悩ましさが無数にある中

でも、人は無限の幸福感を味わえる、ものなのだと。

 どうしてそうなのかは、私如きに分かる筈もないが、そうした事実だけは疑問を差し挟む余地のないほ

どに確かな事だ。私の体験上からもそうだったし、周囲の人々の生き方を見ていても、そうだと知れる。

 ただ、私たちに欠けているのは、その認識する努力なり、それを見極めようと冷静になること。

 一言で言えば、欲が深すぎる事だけが原因だと知れる。

 私が何度もくどいくらいに強調しているように、足ることを忘れているから。

 欲があるから生きられる。しかし、欲望というものは元来が欲の深いもので、ある一定の欲望が満たさ

れた時点で、更なる強い欲望が、どこからともなく姿を現し、私達を急き立ててそのゴールに突進させ

る。すると、今度はそのプロセスで更なる強烈な欲望に捉えられる。こうして加速度の加わった欲望とい

うエネルギーは飽くことを知らずに、まっしぐらに勢力を増し、とどまるところを知らない。

 こうして、足ることを知るの簡単な一事が、永久に果たされずに、私達を悩まし、苦しめ続ける。

 だから、私たちは欲望のゆえに遂に救われる時を持たない。死の瞬間まで…。

 では、絶望があるだけなのでしょうか。いいえ、そうした強烈な欲望の飢え、渇きの最中でさえ私たち

は幸福感を持つことが出来る。いや、欲望という渇きがあるからこそ、幸福は保証されると言ったら、レ

トリックに走り過ぎとの、非難を浴びるであろうか。

 私たちはどのような状況、環境の中に置かれても、幸福を、換言すれば、生の充実感を享受出来るよう

に仕組まれている。

 楽あれば苦あり、苦は楽の種、と言うではありませんか。つまりは乱暴に要約すれば、苦 イコール 

楽なので、つまりはこの世には楽しかないのでありますね。この単純極まりない真理さえ認めてしまえ

ば、私達には生きる上で、幸福しか存在しないのだという、嘘のようなパラドックス的真実がはっきりと

見えて来る。如何です? ペテンだ、詐欺だ、インチキだ、などと叫ばないでいただきたい。

 人類史上の偉人たちが本当に人々に訴えたかった事柄は、生きる は幸福 の同義であるという単純な

事実だった。

 こういう人もいるかも知れない。つまり、私・草加の爺はどういうわけか分からないが、何だか無理や

り人生は幸福だとか、生きるとは楽しいの意味だとか、滅多矢鱈と幸福や、楽しさを前面に押し出した

人生論を構築することに、腐心しているらしい。

 しかし、それは少なからず無理というものだろう。何故なら、周囲の何処を見回してもそんなバラ色風

景など、視界に入ってこないから。それどころか、真逆のエビデンス、論より証拠の暗い現実が目に飛び

込んで来るばかりではないか、と。

 仰せご尤も。貴方の仰る通りです。でも、やはりそうではありませんと、首を横に振るより仕方ありま

せんよ。

 つまり、真相はこうです。現象には常に両面があるということなのですが、分かろうとしない方には見

えて来ない現実が存在する。様々な要因の為に、或る偏った見方に捻じ曲がってしまった目には、見えて

いても見えないという、不思議が現れてしまう。そういう事です、要するに。

 眼から鱗が取れる、という表現の意味することが、この場合にもぴったりと当て嵌りますよ。ですから

海上に浮かぶ氷山の姿だけから、それを全体だと捉えるのが、大きな間違いであるように、私たちは目に

している物だけから、全体像を推測する癖のようなものが、抜き難くついてしまっていることに、思い至

るのが至難の技になってしまっている。

 真実、実想、有りの侭の実態、それを知ることは想像以上に難しく、熟練の目の使い方が要求される。

だから、普通に目を使ったり、想像力を発揮するだけでは、真理には到達出来ない。他者の手助けを得

て、最後にはいとも容易く、自力を殆ど使うこともなく、成し遂げたのでありますから、このブレイク

スルーただ素直な心を保持してさえいれば、誰にでも起こりうること請け合いなのです。

 くどくどと説明に時間を要していますが、これは便利な言葉が不可避的にもっている、非常に不便な性

質のなせる業なのでありまして、分かるときは理屈など吹っ飛ばして、翻然として自覚するものなのです

ね。お分かりいただけたでしょうか、不器用な私の、荒っぽい説明で。

 今回は、このくらいにしておきましょうか。





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最終更新日  2020年04月06日 08時43分36秒
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