草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年01月21日
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足助はこれを聞いて、この者の言い様は如何様、鎧の下に腹巻か金偏に巢(くさり。鎖帷子。小さ

い鎖を重ね合わせて襦袢のようにして鎧や衣服の下に着込んだもの)かを重ねて着ているので、前

の矢を見ながらここを射よと叩くのであろう。

 もしも鎧の上を射たなら、どうして砕いて通さない事が有ろうか。箆が砕けて鏃が折れて通らな

い事があったとしても、兜の真向を射たならば、どうして砕いて通らない事が有ろうか。と、思案

して胡籙(箙・えびら、矢を盛って背負う物)から金磁頭(かなじんどう、磁頭は神頭とも書き、鏃

の一種。多く木で造る、箆口・のぐちが小さく、次第に膨らみ、まら、次第に細く、更に先に至っ

て太くなるもの。それが鉄製であるのを金磁頭と言う)を一つ抜き出して、鼻油を引いて、さらば

一矢仕らん、受けてご覧じ候えと言うままに、しばらく鎧の高紐を外して十三束三伏を前よりもな



 思う矢坪を外さずに、荒尾弥五郎の兜の真向を金物(兜の真向に打ってある金具)の上二寸ばか

りを射砕いて、眉間の真ん中をくつまき(矢の柄の本の巻いた所。矢竹の鏃をつけた所に糸を巻き

付けた部分。くつまきまで強く射込んだので)責めて、ぐさりと射籠めたので二言とも言わずに兄

弟は同じ枕に逆様に倒れ重なり死んでしまった。

 これを軍の始めとして、追手・搦手の城の内は喚(おめ)き叫びして責め戦った。

 箭叫び(世を射当てた時に射手が上げる叫び声、又矢を射合う時の敵味方の叫び声)の音が休む時

がなかったので、大山も崩れて海に入り、坤軸(こんじく、地軸、大地は三千六百の軸で支えられ

ていると言う)も折れて、忽ちに地に沈むかとぞ覚えた。

 晩景(ばんけい、有景色、夕方)になったので、寄せ手は益々重なって、持ち楯を突き寄せ突き寄

せして木戸口の所まで攻めて来た所に、ここに南都の般若寺から巻数(経巻の目録)を持参した使・

本性房(本庄坊)と言う大力の律僧(りっそう、律宗の僧侶)がいたが、褊衫(へんさん、袈裟にるい



ここは単に僧侶の衣の意)の袖を結んで引き違え(袖口は縫わずに広いので、その袖を背中の辺り

で結び合わせた)、尋常の人が百人でも動かし難い大盤石を軽々と脇に挟んで、鞠(まり)の勢で

引き缺き引き缺きして二三十続け打ちに投げたのだ。

 数万の寄せ手は楯の板を微塵に打ち砕かれただけではなくて、少しでもこの石に触れた者は尻居

に打ち据えられたので、東西の坂に人雪崩を築いて、人馬諸共に打ち重なった。あれ程に深かった



 されば、軍は散じて、後までも木津河の流れが血になって、紅葉の陰を行く水の紅に深いに異な

らず。

 是より後は寄せ手が雲霞の如くであると言えども、城を攻めようと言う者は一人もいない。ただ

城を囲んで遠見にだけしているのだった。

       楠正成 及び 桜山四郎入道 の挙兵 
            高塒が二十万の大軍を遣わして笠置城に向わしむ

 かくて日数を経ている所に、同じ月の十一日に河内の国から早馬を立てて、楠兵衛正成と言う者

が御所方(ごしょがた、天皇方)になって旗を揚げる間、近辺の者共の志しある者が同心して、志な

き者は逃げ隠れた。

 則ち、国中の民屋(民家)を追捕(没収)して、兵糧の為に運び取り、おのれの舘の上にある赤坂山

に城郭を構えて、その勢は五百騎で立てこもり候。御退治が延引するならば、事は御難儀に候ら

ん。急ぎ御勢を向かわせられ候え、とぞ告げ申したのだ。

 これをこそ珍事であると騒ぐ所に、又同じ十三日の晩景に、備後の国から早馬が到来して、櫻山

四郎入道、同じ一族等が御所方に参りて機を挙げ、當国の一宮(いちのみや、広島県蘆品・あしな

郡新市町宮内にある吉備津宮)を城郭として立てこもる間、近国の逆徒(謀反人)等が少々馳せ加

わってその勢は早くも七百余騎、国中に打ち靡き(うち従え)、あまつさえ他国に打ち越さんと企

て候。夜を日についで討っ手を下されず候えば御大事が出で来ることは必定と覚え候。御油断ある

べからずとぞ告げたのだ。

 前には笠置の城が強く、国々の軍勢が日夜に責めるが未だ落ちず、後ろにはまた楠・櫻山の逆徒

が大いに起こって、使者は日々に急を告げている。南蛮(楠氏)西戎(櫻山氏)は既に乱れてしまって

いる。東夷北狄もまたいかがあらんずらんと、六波羅の北方(きたのかた)駿河の守、安い心も無い

ので日々に早馬を討たせて、東国勢を乞いなされたのだ。

 相模入道は大いに驚いてさらばやがて討っ手をさしのぼせよ、とて一門の他家宗徒(むねと)の

人々六十三人までぞ催されける。

 大将軍には大佛陸奥の守貞直(さだなお)・同遠江守・普恩寺相模守・塩田越前守・櫻田参河守・

赤橋尾張守・江馬越前守・糸田佐馬頭・印具兵庫助・佐介上総介・名越右馬助・金澤右馬助・遠江

左近大夫将監治時・足利治部大輔高氏、侍大将には、長崎四郎左衛門尉、相随う侍には三浦介入

道、武田甲斐次郎左衛門入道・小山出羽入道・氏家美作守・佐竹上総入道・長沼四郎左衛門入道・

土屋安芸権守・那須加賀権守・梶原上野太郎左衛門尉・岩城次郎入道・佐野安房彌太郎・木村次郎

左衛門尉・相馬右衛門次郎・南部三郎二郎・毛利丹後善亊司、那波左近太夫将監・一宮善(いぐせ)

民部太夫・土肥佐渡前司・宇都宮安芸前司・宇都宮安芸前司・同肥後権前司・葛西三郎兵衛尉・寒

河弥四郎・上野七郎三郎・大内(おほち)山城前司・長井治部少輔(じぶのしょう)・同備前太郎・同

因幡民部大輔入道・筑後前司・下総入道・山城左衛門大夫・宇都宮美濃入道・岩崎弾正左衛門尉・

高久同孫三郎・同彦三郎・伊達入道・田村形部大輔(刑部省の次官。刑部省は刑罰・訴訟に関する

ことを掌る)入道・入江蒲原の一族・横山猪俣の両党、この他に武蔵・相模・伊豆・駿河・上野

(こうずけ)五か国の軍勢、都合二十万七千六百余騎が九月ニ十日に鎌倉を発って、同じ晦日に前陣

既に美濃・尾張両国に到着したが、後陣はまだ高志(たかし)・二村(ふたむら)(共に愛知県)の峠で

支えている。





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最終更新日  2026年01月21日 08時40分28秒
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