草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年03月27日
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名越 叔父甥 賽の目を爭って 闘い死す

 是より後はいよいよ、合戦を止めたる間、諸国の軍勢は徒に城を守り上げていたるだけで、爲る

わざはひとつも無かった。

 ここに、どのような者が読んだのであろうか、一首の古歌を翻案して、大将の陣の前に立ったの

だ。

     他所にのみ 見てや止みなん 葛城の たかまの山の 峰の楠

 軍も無くてそぞろに向い居たる徒然に、諸大将の陣々に、江口・神崎の傾城どもを呼び寄せて、

様々な遊びをぞせられたり。

 名越遠江入道と同じく、兵庫助とは伯父と甥にておわしけるが、共に一方の大将であり、責め口



 或時に、遊君の前で双六を打っていたが、賽の目を論じていささか詞の違いが生じたのか、伯父

と甥が二人が突き違えて死なれける。両人の郎従者どもは何の意趣もないのに、刺し違え、刺し違

えて、片時の間に死する者が二百余人に及んだ。

 城の中からこれを見て、十善の君(天子)に敵をし奉る天罰により、自滅する人々の有様を見よ。

とぞ笑ったのだ。誠にこれはただ事ではない。

 天魔(常に正法を害し、智恵・善根を喪失させるもの欲界の頂上、第六天の主、また一に波旬と

も言う)波旬の所業かと覚えて浅ましかりし珍事である。

      寄せ手 梯子を作って 城中に入らんとして 焼死す

 同じく元弘三年(1333年)三月四日、関東から飛脚が到来して、軍を止めて徒に日を送ること

はしかるべからず。と、下知したので、宗との大将達で評所があり、味方の向かい陣と敵の城の間

に高く切り立てた堀に橋を渡し、城へ打って入らんとぞ巧んだのだ。



八九寸の材木を集めて、広さが一丈五尺、長さ二十丈余りに架け橋を作らせたのだ。

 梯を既に作り出したので、大縄を二三千筋付けて車木をもって巻き立て、城の切り崖の上に倒し

懸けたのだ。

 魯般(ろはん、魯の国の公輪般の事で、楚王が宋を攻める時に、楚の為に雲梯(雲に届く程高くな

る仕掛けの梯を作ったという)が雲の梯(かけはし)もこの様であったかと巧みである。



 あわや、この城はただ今打ち落とされるだろうと見えた際に、楠は兼ねて用意をしていたのであ

ろう、投げ松明の先に火を付けて、橋の上に薪を積んだように投げ集めて、水弾き(ポンプ)で油を

瀧が流れるように懸けた。火は橋桁に焼き付いて渓風が炎を吹き敷いたのだ。

 なまじに渡りかけていた兵共は、前に進もうとすれば、猛火が盛んに燃えて身を焦がす。帰ろう

とすれば後陣の大勢が前の難儀をも知らずに支えている。

 側に飛び降りようとすれば、谷は深く巌が聳え立っている。肝を冷やしてどうしようかと身を揉

んで押し合っている間に、橋桁が中から燃え折れて谷底へどうと落ちたので、数千(すせん)の兵共

は同時に猛火の中に落ち重なって、一人も残らずに焼け死んでしまった。

 その有様はひとえに八大地獄の罪人が刀山剱樹に貫かれ、猛火鉄湯に身を焦がすのもこのようで

あろうと思い知らされたのだ。

         寄せ手は 次第に 遁走する

 さるほどに、吉野・十津河・宇田・内部の野伏共、大塔の宮の命を含んで、相集まること七千余

人、この峯が彼処の谷に立ち隠れて、千劒破(千早)の寄せ手共の往来の路を差し塞ぐ。

 これに依って、諸国の兵の兵糧は忽ちに尽き、人馬共に疲れてしまったので、轉漕(てんそう、

兵粮を水陸から運送する事、陸から人馬で運ぶのを転、海から舟筏で運ぶのを漕と言う)に耐えか

ねて百騎・二百騎が引いて帰るところを案内者の野伏共が所々の要所要所に待ち受けて打ちとどめ

たので日々夜々に討たれる者は数を知らず。

 稀有にして命ばかりは助かる者は、馬・物の具を棄て、衣装をはぎとられて裸であるから、或い

は破れたる蓑を身に纏い、膚(はだえ)だけを隠し、或いは草の葉を腰に巻いて恥をあらわした落人

共、毎日に引きも切らずに十方に逃げ散る。

 前代未聞の恥辱である。

 されば日本国の武士共の重代したる物具・太刀・刀は皆この時に至りて失ったのだ。

 名越遠江入道、同(おなじき)兵庫助の二人は詮無く口論して、共に詞に賜いぬ。その外の軍勢共

親が討たれれば、子は髻(もとどり)を切って僧の姿になって失せ、主が傷を蒙れば、郎従が助けて

引き帰えしたので始めは八十萬騎と聞こえたのが、今は僅かに十万余騎になってしまったのだ。

       新田義貞(にったよしさだ)賜綸旨(りんし、蔵人が勅命を奉じて書い手出す公文 
        書)事
           新田義貞が心中を執事の船田入道に語る

 上野の国の住人新田の小太郎義貞と申すのは、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家であ

る。しかれども平氏(へいじ)が世を執って四海が皆その威に服する時節であったから、仕方なく関

東の催促に随って金剛山の搦手に向われたのだ。

 ここに如何なる所存が出てきたのであろうか、或る時に執事(主家の事務を執行する者)新田入道

義昌(よしまさ)を近づけて宣いけるは、古(いにしえ)より源平の両家が朝家に仕え、平氏が世を乱

す時は源氏がこれを鎮め、源氏が上を侵す日は平氏がこれを治めた。

 義貞は不肖なりと言えども、当家の門木偏の眉(もんび、首領、棟梁)として譜代弓矢の名を汚し

てしまった。

 しかるに今相模入道の行迹を見るに、滅亡は遠くにはない。吾、本国に帰って義兵を挙げ、先朝

(後醍醐天皇)の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らなくては叶うまい。

 どうにかして大塔宮の令旨(りょうじ、皇太子・三宮・女院・親王などが出される書)を給わっ

てこの素懐を達すべし、と問い給いければ、舟田入道は畏まって、大塔宮はこの辺の林の中に忍ん

で御座候なれば、義昌、方便を廻らして、急いで令旨を申し出候べしと、事安げに了承申して己の

役所に帰ったのだ。





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最終更新日  2026年03月27日 09時55分12秒
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