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2026年03月30日
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船田入道は 謀を以て 大塔宮の令旨を
        拝戴する 義貞は本国に 下る

 その翌日、舟田は己の若党を三十余人程、野伏の姿に身支度をさせて、、夜中に葛城(かつらぎ)

峰に上らせて、わが身を落ちて行く勢の真似をして、朝まだきの霞隠れに、追いつ返しつ半時ほど

味方同士の軍をしたのだった。

 宇多・内の郡の野伏共がこれを見て、、味方の野伏であると心得て、力を合わせる為に他所の峰

から降り合って、近づいた所を舟田の勢の中に取り籠めて、十一人まで生捕ったのだ。

 舟田はこの生捕り達を解き放って、密かに申したのは、今、汝等をたばかって搦め取りたる事全

く誅せん為ではない。新田殿が本国に帰り、御旗を揚げようと致して居るが、令旨がなくては叶う



 命が惜しいのであれば案内して、こなたの使いを連れて宮の御座ある所に参れ、と申しければ、

野伏共は大いに悦んで、その御意にて候わばいと安かりける事にて候。この中に一人暫く暇を給わ

り候え、令旨を申し出でて参らせ候わん。と、申して残りの十人をば留め置いて一人が宮の御方へ

と参ったのだ。

 今や、今やと相待つ所に、一日経って令旨を捧げて来たのだ。

 開いてこれを見ると、令旨ではなくて、綸旨(りんじ、天皇が下にたいして言われる言葉)の文

章で書かれていた。

 その詞に曰く、綸言を蒙りていわく、化を敷き、万国に理するは明君の徳である。亂を治めて四

海を鎮めるは武臣の節(みさお)である。項年(年来)の際(あいだ)高塒法師の一類は朝権をな

いがしろにして恣(ほしいっま)に逆威を振い、積悪の至り、天誅は既に顕れている。ここに累年

の宸襟を休めん為に、まさに一挙の義兵を起こさんとする。叡感は最も深くして抽賞(他に勝れた



し。よって執達は件(件)の如し。元弘三年二月十一日、左少将、新田小太郎殿。

 綸旨の文章、家の眉目(びもく、面目)に備えるに値する有難い綸言であるから、義貞は斜めなら

ずに悦び、その翌日から虚病(きょびょう、病気と偽り)して急ぎ本国へと下られける。

      紀清の両党 千剣破城の寄せ手に 加わる
       山を掘り崩さん事を 企てる



 兵糧運送の道は絶えて、千剣破(ちはや)の寄せ手、意外に気を失っている由が聞こえたので、ま

た六波羅から宇都宮公綱をぞ下された。

 紀清(下野宇都宮神社に奉仕した紀氏、清原氏の子孫で宇都宮氏に従属する。伝説によれば、頼

朝の時に、清原氏が絶えて、紀高俊が両党の旗頭となり、芳賀氏と芳賀氏と称した。宇都宮の系図

に依れば、清原氏である芳賀氏、及び、紀氏である益子・ましこ氏と婚姻を結んでいる)の両党、

千余騎、寄せ手に加わって、いまだ屈していない新手であるから、やがて堀の際迄攻め上って、夜

昼共に少しも引退しなかったので、十余日までぞ攻めたのだ。

 この時にぞ、堀の際の鹿垣・逆茂木が皆引き破られて、城も少し防ぎ兼ねたる體にぞ見えたりけ

る。


 されども、紀清の者とても班足王(インド神話に出て来る摩且掲陀・まかだ国の王。その父が雌

獅子と交わって生んだと伝える。足に斑紋があったので、班足と言われた。性獰猛で飛行自在、王

位に就いて後も好んで人肉を喰い、遂には羅刹・らせつの国に入って鬼王となったと言う)の身を

借りていないから天を翔ける事も出来ない。

 龍伯公(竜伯国の大人は身長が三十六丈、一万八千歳もいきて初めて死ぬと言うが、釣りをして

は亀を六匹合わせて、これを背負って飛行すると言う)の力を得てはいないので、山をも劈(つん

ざ)き難し。あまりに仕方がなかったのだろう、面に居る兵には軍をさせて後ろなる者は手に手に

鋤・鍬を以て、山を掘り崩さんとぞ企てたのだ。

 げにも大手の櫓をば夜昼三日の間に念なく(楽に)掘り崩してしまった。

 諸人がこれを見て、唯始めから軍を止めて、掘った方がよかったのに、と後悔して我も我もと掘

ったのだが、周りが一里に余る大山であるから、左右なく堀ずせるとは見えなかった。

          赤松 蜂起の事 
             赤松円心 山陽、山陰 を塞ぐ

 さるほどに、楠が城が強くして、京都は無勢なりと聞こえたので、赤松次郎入道圓心は播磨の国

苔縄の城から打って出て、山陽・山陰の両道を差し塞ぎ、山里(やまのさと)・梨原の間に陣を取っ

た。

         伊東大和次郎、赤松に加担する

 ここに備前・備中・備後・安藝・周防の勢共、六波羅の催促に依って上洛した。

 三石(みついし)の宿に打ち集まって、山里の勢を打ち払って通ろうとしたのだが、赤松筑前守

(円心の次男)が舟坂山で支えて、宗との敵二十四人を生け捕ったのだった。

 しかれども赤松はこれを討たせないで、情深く相交わったのだ。それで伊東次郎入道はこれを恩

に感じて、忽ちに武家与力の志しを変じて、官軍に合体の思いをなしたので、先ずは己の舘の上に

ある三石山に城郭を構えて、やがては熊山に取り上りて義兵を挙げたので、備前の守護加冶源二郎

左衛門は一戦に利を失って、兒嶋(こじま)を指して落ちて行く。

 これからは西国の路が愈々塞がって、中国での動乱は斜めならず。

          赤松は軍を勧め、摩耶山に城郭を構える

 西国から上洛する勢をば、伊東(大和二郎惟群)に支えさせて、後ろは思い(心配)がないので、赤

松はやがて高田兵庫助の城を責め落して、片時も足を休めず、山陰道を目指して責め上った。

 路地の軍勢が馳せ加わって、程なく七千余騎になったのだ。

 この勢で六波羅を攻め落とす事は案の内(おもった通りになる事)ではあるが、もしも戦いで理を

失う事があれば、引き退いて暫く人馬をも休めん為に、兵庫の北に当たって、摩耶と言う山寺があ

る所に先ず城郭を構えて、敵を二十里の間に縮めたのだ。





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最終更新日  2026年03月30日 10時36分08秒
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